『太秦ライムライト』 斬られ役が生き残る方法
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この言葉は映画『太秦ライムライト』の惹句としてポスターに書かれている。劇中のセリフにもある。主演した福本清三さんの著書の題名でもある。
どこかで誰かが見ていてくれる。本作はその思いに貫かれているが、本当にそうなのだろうか。
『太秦ライムライト』は、55年の長きにわたり時代劇の斬られ役を務め、「5万回斬られた男」の異名を持つ福本清三さんを主演に迎え、福本さん自身を彷彿とさせる名もない斬られ役の生き様を描いた作品だ。
本作がモチーフにするのは、チャールズ・チャップリンが老いた道化師を演じた『ライムライト』。本作冒頭には『ライムライト』と同じように、「ライムライトの魔力 若者の登場に老人は消える」の文字が浮かぶ。ライムライト(石灰灯)とは昔の舞台照明のこと。転じて名声を意味する。
文言が静かに消えた後、映画はいきなり侍同士の対決シーンに変わる。閃く刃、キーンと響く鋼の音。映画はもうクライマックスだ。やがて一方の侍がバッサリ斬られ、我らが福本清三が倒れ伏す。
うーん、痺れる。カッコいい!
だが、カッコよくなるのはこれからだ。
映画は主人公――福本清三さん演じる香美山(かみやま)清一の日常を淡々と描写する。
朝、撮影所の貼紙でその日の出演作を確かめる香美山。自分でメイクし、カツラを付ける香美山。今日も今日とて斬り殺される香美山。木刀を手に、一人で殺陣の稽古をする香美山。普段着に戻り、撮影所を後にする香美山。畳敷きの部屋にポツンと独り、質素な食事をとる香美山……。
50年以上斬られ役を演じてきた香美山のキャリアは、福本さん本人の歩みと大いに重なる。
福本さんにはご家族がいるし、落合賢監督が「香美山と福本さんは、共通点の方が少ないくらい全く違う」と云うように、テレビやラジオで気さくに話すところなど無口無表情の香美山とは違うけれど、孤高の武士のような香美山の人物像は、福本さんが演じてきた浪人者が現代に実在したらこんな生き方をしたのではないかと思わせて、福本清三さんしか演じられない役になっている。
主演俳優を引き立たせる斬られ役。カメラは主演俳優を正面から撮るため、斬られ役は背中しか映らない。一瞬のちには斬られて、フレームの外へ消えていく。その一瞬のために毎日コツコツ殺陣の練習を繰り返す。
斬られ役にスポットライトが当たったりはしないけれど、芸を極めるとはこういうことを指すのだろう。名人達人と呼ばれる人は、きっとこんな努力を積み重ねてきたに違いない。本作を観ると、そんな気がしてくる。
とはいえ時代劇は斜陽である。42年続いたテレビドラマ『水戸黄門』ですら、2011年に終了した。かつて100人以上が在籍した殺陣技術集団・東映剣会(つるぎかい)も今や十数人を残すのみ。
そんな現実を踏まえ、映画はたった十数人の斬られ役さえもが、一人欠け、二人欠け、減っていく模様を映し出す。ある者はチャンスを期待して東京に行き、ある者は廃業してラーメン屋になる。
それが正解なのかもしれない。斜陽産業にしがみついても、どうにもならないのかもしれない。
劇中、長く続いた時代劇ドラマを潰して、新感覚のアクション時代劇をはじめるプロデューサーや監督がまるで悪者のように描かれるが、現実には彼らのやり方こそ正しいはずだ。ジリ貧の番組を続けるより、アイドルの起用や新鮮なアクションで新しい客層を開拓する。そうやって時代劇の息を吹き返そうとする方が、先細りのまま同じことを繰り返すより健全なはずだ。
なのに、本作を観る私たちは昔ながらの斬られ役に肩入れし、番組を潰すプロデューサーに反感を覚える。
香美山の一徹な姿に、私たちはなぜこうまで惹かれるのか。
イラン人のエッテハディー・サイードレザ氏は、特定の分野を頑張るのが日本人の特徴だと指摘する。
幅広い分野に少しずつ関心を持つイラン人には、特定の趣味というものがない。そんな彼らには、日本人が一つの趣味やスポーツに熱心に取り組み、「将来、それを仕事にできるのでは」と思えるほど必死になるのが興味深いようだ。
私はこの日本人の特徴が、強固な身分制の下、職業選択の限られた江戸時代に培われたのではないかと考えている。
代々加賀藩の経理を務めた猪山家を描く『武士の家計簿』や、代々加賀藩の御料理人を務めた舟木家を描く『武士の献立』に見られるように、江戸時代は家ごとに職業が固定され、生まれたときからその職業をまっとうするように育てられた。幼い頃から脇目も振らず家職にいそしみ、立派に継いでまた次の代に渡していく。才能ある者に平等にチャンスを与える試験制度がなかった時代だ。
そのような家では、家職以外のことに入れ込んだり、新しいことをはじめるなんてとんでもなかったろう。ただひたすらに一つのことに打ち込み、その仕事を勤め上げるのが良しとされたに違いない。
これを美徳とする感覚が、今の日本にも脈々と受け継がれてるのではないだろうか。それが変化の激しい時代に通用するかは判らないが。ややもすれば、変化する世界の方を悪いと考えてしまうおそれもあるが。
ともあれ、多くの観客には昔気質の香美山がカッコよく見えるに違いない。
その彼が新人女優の伊賀さつきに語るのが、「どこかで誰かが見ていてくれる」というセリフだ。
他の仕事に就こうなどと考えず、脇目も振らずやっていくには、「どこかで誰かが見ていてくれる」と自分に云い聞かせるしかないかもしれない。そう信じて打ち込まなければ、何ごとも上達しないのかもしれない。
劇中、さつきは香美山に師事して殺陣を身につけることで、女優としてのチャンスを掴んでいく。香美山の言葉どおり、さつきが立ち回りもできることを見ていてくれる人がいたからだ。
一方で香美山は、映画やテレビに出ることができず、仕事がなくなっていく。このあたりの展開は『ライムライト』や『アーティスト』と同様だ。
本作が巧いのは、「どこかで誰かが見ていてくれる」という言葉に二重の意味を持たせた点だ。
香美山がさつきにこの言葉を語ったとき、それは仕事上の意味だった。さつきの地道な努力はきっと報われる、そういう意味で語られた言葉だった。
ところがその後の展開は、この言葉が香美山にも当てはまることを示す。寡黙な香美山を慕い続けるさつきこそ、香美山を見ていてくれる人だった。
男性諸氏にはこの上ないファンタジーだ。昔ながらの美徳に従い、頑固一徹に仕事に打ち込んでいれば、たいへんな美女が慕ってくれるのだから。
けれども、これが浮ついた展開に感じられないのは、福本清三さんが演じるからだろう。実際に斬られ役を続け、一瞬の登場ながら印象的な立ち回りでファンを獲得してきた福本さんの存在感が、撮影所のファンタジーに説得力を与えている。香美山とさつきの間を、恋愛関係ではなく師弟関係として描いたのもミソである。
『太秦ライムライト』のクライマックスは、香美山とさつきが共演する大立ち回りだ。
久しぶりの大型時代劇に撮影所は活気づく。
劇中で詳しい経緯は語られないが、大型時代劇の企画が持ち上がったのは伊賀さつきの人気に乗じたからだろう。スターになったさつきの主演映画として、立ち回りができることを活かした時代劇が企画されるのは自然な流れだ。
そして映画は大立ち回りで盛り上がりながら、斜陽産業にしがみついてきた斬られ役たちに花を持たせる。それはオマージュとかノスタルジーではなく、現実的な一つの解だ。
経営用語に「残存者利益」というものがある。
「先行者利益」という言葉はよく耳にするだろう。他社に先駆けて市場に参入することで、手にする利益である。まだ競合他社がないうちにブランドを確立し、ノウハウを蓄積して後発企業に差をつける。先行者利益を得るために、各社は新製品・新サービスの開発に余念がない。
対する残存者利益とは、最後まで残った者が手にする利益のことだ。
先発企業が儲けるのを目にしたライバルたちは乗り遅れまいと続々と市場に参入し、市場はあっという間に過当競争になる。新規参入企業を吸収できるほど市場が拡大しているうちはいいが、いずれ市場は飽和状態になる。それどころか市場が縮小に転じることすらある。そうなるとますます競争は激しくなり、体力がない企業は脱落してしまう。体力があっても、将来性のない市場に残って深手を負うより、早々に撤退することを選ぶ場合もある。ビデオデッキ市場やフィルム写真市場のように、最盛期の盛り上がりが嘘のように縮小してしまい、企業が撤退した例は多い。
それでも歯を食いしばって市場に残り続けるとどうなるか。
意外や、いつまでも生き残れたりするのである。
残存者利益を得た企業の代表例が、レコード針のナガオカだ。
かつて音楽メディアといえばレコードが主流だったが、コンパクトディスク(CD)の登場によりレコードはさっぱり売れなくなった。レコードプレーヤーもレコード針も不要になってしまった。
ところが、レコード市場は縮小しても、ゼロにはならなかった。
CDの規格が検討された頃、20キロヘルツ以上の高周波音は人間に聞こえないと思われていたため、CDでは22.05キロヘルツ以上の高音がカットされてしまった。そのため、高音まで含んだ豊かな音楽を味わいたい愛好家は、CDが普及した後もレコードを聴き続けた。
必然的にレコードプレーヤーもレコード針も完全にはなくならなかった。特にレコード針は使えば使うほど劣化する消耗品だから、需要が途切れることはない。ナガオカは愛好家たちにレコード針を売り続けた。
もはや競合する他社はほとんどおらず、市場が小さいために今さら新規参入する企業もない。ナガオカは市場に踏みとどまったおかげで、確固たる地位を手に入れたのだ。
時代劇も同じだ。
時代劇の数は減ったけれど、ゼロにはならない。100人以上の斬られ役は必要なくても、十数人には需要がある。
ナガオカがCDに満足できない愛好家に選ばれるだけの技術を持っていたように、殺陣の研鑽を積んできた彼らには他者が取って代われないものがある。
本作でも、主演の大物俳優が斬られ役を指名する場面がある。義理や人情ではない。斬る演技と斬られる演技がきちんと噛み合って芝居は成立する。主演俳優の斬る演技に付いてこられる斬られ役がいなければ、困るのは主演俳優だ。プロだから相手を選ぶのだ。
「どこかで誰かが見ていてくれる…」どころの話ではない。斬られ役が十数人にまで減ってしまったこんにち、確かな技術と経験を有する彼らは時代劇になくてはならない存在なのだ。仕事が先細りする中で腐ることなく、研鑽を怠ることなく、踏みとどまった彼らだからこそ手に入れられた利益がここにある。
「どこかで誰かが見ていてくれる…」という言葉には、どことなく受け身の印象がある。自分を発見し、注目する役割を他人に期待している感じがある。
しかし、本作を観れば、この言葉が謙遜だと判るだろう。それは、たゆみなく努力し、替えのきかない技術を身につけて、誰にも無視できないほどの実力を備えた者だけに許されるセリフなのだ。
そんな孤高の剣士だから、たまらなくカッコいいのだ。
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監督/落合賢 脚本/大野裕之
出演/福本清三 山本千尋 合田雅吏 本田博太郎 萬田久子 松方弘樹 峰蘭太郎 木下通博 柴田善行 小林稔侍 中島貞夫
日本公開/2014年7月12日
ジャンル/[ドラマ]

『アクト・オブ・キリング』 こんな映画観たことない!

虐殺者の所業を面白がってると勘違いされてはいけないから、興味深いと表現する方がよいかもしれない。ともかく166分ものオリジナル全長版がまったく苦にならない、刺激に満ちた映画だった。
山形国際ドキュメンタリー映画祭2013で『殺人という行為』の題で公開された『アクト・オブ・キリング』は、1965年9月30日の軍事クーデター未遂事件(9・30事件)に端を発する大虐殺を追った作品だ。
公式サイトによれば、米国のジョシュア・オッペンハイマー監督は人権団体の依頼で虐殺の被害者を取材していたが、当局から被害者への接触を禁止されたため、対象を加害者に変更したという。
悲惨な事件のドキュメンタリーといえば、被害者側の証言から事件の深刻さを浮き彫りにするのが定番だと思っていたので、加害者の一方的な云い分だけで構成される本作はとても新鮮だった。
9・30事件の政治的、歴史的背景や、本作のジャーナリズムとしての特徴については、福島香織氏の記事『インドネシアの華人虐殺930事件 「アクト・オブ・キリング」が語るもの』に詳しい。
後に大統領となるスハルト少将の下で虐殺に走ったのは、プレマンと呼ばれるヤクザ者だ。
犠牲者300万人ともいわれる大虐殺を行った彼らは、国民的英雄である。今は裕福に暮らしている彼らの一人アンワル・コンゴは、可愛い孫に囲まれながらアヒルの世話をする気のいい爺さんだ。
フリーマン(自由人)を語源とするプレマンは、殺しも焼き討ちもためらわず、非合法な賭博を運営したり、商店からみかじめ料を取り立てたりしながら、街の治安を守っている。少なくとも彼らは、自分たちは治安を守っていると主張している。
この点、日本のヤクザにそっくりだから、日本人にも判りやすいだろう。
日本でも、ヤクザが司法・警察の及ばない地域のもめごとを解決して、治安維持に貢献していた時代がある。ヤクザの清水次郎長や国定忠治や座頭市は、庶民にとってヒーローだった。
司法・警察制度が整い、ヤクザに頼らなくてももめごとを解決できる現在では時代遅れの存在だが、憎まれ者を裁判もなしに殺害して金を取る『必殺仕事人』が人気を集める様子をみると、今だに司法・警察によらない私刑のニーズはあるのかもしれない。警察こそ「日本最大の暴力団」と呼ばれているのはともかくとして。
プレマンたちを大虐殺の加害者と見るのも、私たちが外国の観客だからだ。
当人たちは悪を倒した英雄のつもりでいる。彼らが殺したのは共産党関係者とされた人々だった。当時、共産主義者は国家を転覆させる悪党とみなされた。
作中、久しぶりに集まったプレマンたちが昔の殺しっぷりを語り合う光景は、まるで歴代の仮面ライダーが集結して悪との戦いを回想するような感じだ。
プレマンのリーダーだったアンワル・コンゴは、「はじめは殴り殺してたんだけど、血がたくさん出て掃除がたいへんなんだよ。そこで針金を首に巻いて絞め殺すことにしたのさ。これだと汚れないからいいんだ。」と殺し方の工夫を自慢する。それは仮面ライダーが「耐熱怪人ゴースターはライダーキックが効かない強敵だったけれど、1号と2号が協力したライダーダブルキックなら粉微塵だったな。」と談笑するようなものである。
余談だが、仮面ライダーの敵ショッカーは、首領の下で世界を統一するため、各地にアジトを作ってテロを行う結社である。世界革命を標榜する共産主義組織のカリカチュアライズとしか思えない。
対する仮面ライダーは、 平和のためでもなく正義のためでもなく、人間の自由のために戦っている。結果的に国民国家を護持する彼らは、西側自由主義陣営の先鋒に見える。
『仮面ライダー』の作り手の意図はともかくとして、このような構図を当てはめてみれば、プレマンが共産主義者退治を悪びれるどころか自慢するのは判らないでもない。
人間が集団として認識できるのはせいぜい200~300人程度だという。1965年当時、1億人以上が住んでいたインドネシアで、全国民を同胞として愛せるはずもない。
ましてやロバーズ・ケイブ実験等が示すように、人間はささいな違いから世界を「俺たち」と「奴ら」に色分けして争ってしまうものだ。
国が違う、地域が違う、学校が違う、クラスが違う、信じるものが違う。少しでも違っていれば、「奴ら」は「俺たち」じゃない。打ち負かすべき相手である。打ち負かす行為は「俺たち」の中では善いことだ。打ち負かされた「奴ら」にとっては悪いことかもしれないが。
本作を観れば、善とか悪とか、正とか邪なんて区別に意味がないことが判る。「奴ら」を打ち負かして「俺たち」が生き残る――それは地球上の多くの生き物がやっている普通の生の営みだから。その言動に善だの悪だのラベルを貼れるものではない。
ジョシュア・オッペンハイマー監督は何とかプレマンから後悔や謝罪や反省の言葉を引き出そうと試みるが、とうぜん彼らはそんなことを口にしない。

アクト・オブ・キリング(殺人の演技)の題名どおり、オッペンハイマー監督はプレマンたちに大虐殺の様子の再現を依頼する。プレマンたちは大喜びで再現ドラマを演じはじめる。ドキュメンタリーなのに「やらせ」を仕向けた監督には脱帽だ。
プレマンたちはメイクしたりリハーサルを繰り返し、自分たちの「偉業」を伝える映画作りにのめり込んでいく。
こうして本作は壮大な「やらせ」現場のメイキングと化していくのだ。
もともとアンワル・コンゴは映画のチケットを売るダフ屋だったそうだが、プレマンたちが映画好きで映画作りに熱心なのも日本のヤクザと符合して面白い。
ヤクザ出身の映画人といえば千本組の組員だった大映社長永田雅一が有名だが、その千本組の組長笹井末三郎はマキノトーキー製作所(後の松竹京都撮影所)の理事でもあった。
町山智浩氏は日本の映画・ヤクザ事情について次のように述べている。
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Vシネとかそういうの撮ってる人たちっていうのは、実は暴力団関係の人が多いんですよ。
(略)
昔からヤクザの人は映画界にいるんですけど。ただ、彼ら金儲けしようとして来てるんじゃないんですよ。本っ当に映画が好きなんですよ!すっごい詳しいんですよ。映画関係に入ってるヤクザの人と話をすると。お前、何にもしらねーな!って言われるんですよ。
(略)
ヤクザになる人たちって、ロマンチストが多いから、映画とか好きなんですよ。だからお金儲けると、『じゃあなにかやろう。映画撮ろうじゃねーか!』って言って映画撮るんですよ。本当に。具体的に名前は出せませんが!
(略)
三池崇史監督も、そういった映画を撮ったことがあるんですけども。みんな、やってるわけですけど(笑)。そういうものなんです。
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そして町山氏はヤクザが映画を作る物語『地獄でなぜ悪い』を絶賛するのだが、たしかに『地獄でなぜ悪い』は面白いのだが、それを云ったら『アクト・オブ・キリング』の面白さは尋常ではない。
なにしろ本当のヤクザ者が登場して、実際の武勇伝をみずから演じるのだから。「鉈で首を切るとだな、ゴボゴボとか云ってくずおれて、首だけになりながら目がこっちを見てるんだ。」なんて切った当人が話すのだから、フィクションの映画は形無しだ。
しかもみんなキャラが立っている。
シドニー・ポワチエが好きだというアンワル・コンゴはもとより、劇団員の経験もある太っちょのヘルマン・コトは女装までして大熱演だ。
アンワルの隣に住むスルヨノは、大虐殺の実録映画を撮ると聞いて黙っていられなくなった人だ。彼は当時継父を殺された遺族なのだ。みずからプレマンに殺される役を買って出るものの、ボロ泣きして何も喋れなくなってしまう。
本作は、国民に共産主義の恐怖を植え付けるために作られたプロパガンダ映画も紹介する。
すべての小中高生はこの映画を観させられ、共産主義者の残酷さと、共産主義者を打ち負かさなければならないことを刷り込まれたという。
プレマンたちは映画が好きなだけではなく、洗脳の道具として映画が有用なことを知っているから、プレマンを賛美する映画を作りたがるのだ。映画というメディアの恐ろしさをうかがわせるエピソードである(このエピソードはオリジナル全長版のみに収録)。
こうして繰り返し拷問と殺人を再現していたアンワル・コンゴに、ある変化が訪れる。
ヘルマン・コトと交代して被害者を演じていた彼が、もうできないと云い出すのだ。あれほど楽しげに殺人を語っていた彼が、ひどく辛そうになっている。
この変化を捉えたのが、本作の最大の成果だろう。
私は岡本茂樹著『反省させると犯罪者になります』を思い出していた。
累犯者の更生支援をする岡本氏は、犯罪者に「反省しろ」「相手の気持ちになって考えろ」と云っても無駄だという。自分が悪いと思っていないのに、すぐに反省したり、相手の気持ちになれたりするはずがない。せいぜい反省文の書き方が巧くなるだけだ。
必要なのは、自分の云い分を語らせること。被害者に対する気持ちや自分の思いを語り尽くして、はじめて相手のことを考えられるようになるという。
本作が追い続けたアンワル・コンゴと、岡本氏が接する受刑者とではいささか状況が異なるけれど、過去の殺人について思う存分語らせて、再現ドラマまで演じさせ、被害者の言葉や表情や細かい仕草まで思い出させたことが、40年間反省することのなかったアンワル・コンゴに変化をもたらしたのかもしれない。
そのとき彼は悟ったのだろう。
「俺たち」が殺した「奴ら」は、「俺たち」と変わらぬ人間ではないかと。
殺された「奴ら」は「俺たち」とは違う者のはずだったから、「奴ら」を始末した「俺たち」は英雄であり、勝利が誇らしかった。
しかし「奴ら」と「俺たち」に境界がなかったら、「奴ら」も「俺たち」も同じ人間なんだとしたら、自分がやったことは何なのか。
忌むべき行為に対して「吐き気を覚える」という表現があるけれど、これが文学上のレトリックではなく、あるとき人間は本当に吐かずにいられなくなってしまうことを私たちは目にする。
こんな映画は観たことない。
もっとも、インドネシアの事情は複雑だ。
本作が描くようにプレマンを組織化したパンチャシラ青年団は権勢を誇っているし、2014年7月の大統領選では民主化路線の候補と軍事独裁的な流れを汲む候補が接戦となって、民主化を望まない国民が多いことを印象付けた。これからもプレマンは英雄であり続けるのだろう。
予告編には「密かに行われた100万人規模の大虐殺」の文字が躍るけれど、プレマンは虐殺を隠さなかった。
にもかかわらず、この虐殺が大きく取り上げられてこなかったことについて、福島香織氏は次のように述べている。
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「アクト・オブ・キリング」という映画のすごさは、「インドネシアの大虐殺を告発し、虐殺者とインドネシア政府を糾弾する」といった薄っぺらな人道主義がテーマになっていないことだ。
(略)
930事件最大の受益者で勝利者が米国はじめ西側自由主義陣営であるから、この大虐殺事件が国際社会で糾弾されるともなく容認されてきた。ポルポトの虐殺が国際社会で語り継がれるのは共産主義が敗者だからである。虐殺者が英雄になることは、インドネシアだけの現象でも、中国だけの理でもない。虐殺が肯定され、虐殺者が英雄になる仕組み、国際政治が容認すれば虐殺も正義の戦争となる、そこが真に恐ろしいのだと気付かせる構成になっている。
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西側自由主義陣営には日本も含まれている。
スハルトのためにインドネシアを追われたデヴィ夫人は、日本がスハルトを支援し、虐殺者たちに資金を提供していたことに憤る。
最後の最後に観客が驚くのは、エンドクレジットだ。
多くの映画と同様にスタッフの名前がだらだら続くかと思いきや、ほとんどのスタッフや協力者がANONYMOUS(匿名)になっている。彼らに危険が及ぶのを避けるための措置なのだ。
匿名にしたことについて、監督が公式サイトに言葉を寄せている。
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この栄誉ある"匿名"という名は、インドネシアの物語に世間の注目を集めようと絶えず働いた素晴らしい人々を指し示している。彼らの勇気なしでは、この映画はただのアイディアや希望のままで終わっていたはずである。
(略)
プロジェクトを実現させるための多大な献身に、深い感謝の意を表したい。
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いつか、この人たちが名前を明かせる日は来るだろうか。
映画の衝撃に言葉もないまま、私は映画館を後にした。

監督/ジョシュア・オッペンハイマー
共同監督/クリスティーヌ・シン、匿名
劇場公開版(121分)日本公開/2014年4月12日
オリジナル全長版(166分)日本公開/2014年8月9日
ジャンル/[ドキュメンタリー]

【theme : ドキュメンタリー映画】
【genre : 映画】
tag : ジョシュア・オッペンハイマークリスティーヌ・シン
『リアリティのダンス』はホドロフスキーの捏造だ
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本人が云ってるのだから間違いない。
1970年公開の『エル・トポ』のワンシーン、ウサギの死骸が大地を埋め尽くす光景について、後年ホドロフスキーは「あの頃の私は頭がおかしかったんだ」と述懐している。1973年公開の『ホーリー・マウンテン』ではカエルたちを爆死させている。
しかし、頭がおかしいのは「あの頃」だけではなかった。
新作『リアリティのダンス』で、浜辺に打ち上げられた大量のイワシが足許を埋め尽くし、ピクピクのたうつシーンを見ると、撮影のためにどれだけのイワシが死に、踏み潰されたのだろうと思ってしまう。
ホドロフスキーは芸術のためならウサギが死のうがイワシが死のうが意に介さない。40年経っても彼は変わっていなかった。
もっとも、大量の魚が打ち上げられるシーンは、みずからの自伝を映画化した『リアリティのダンス』に欠かせなかったに違いない。
ホドロフスキーによれば、少年時代を過ごしたチリのトコピージャの海は、電力会社による汚染のために死んだ魚が打ち上げられ、それを鳥と貧しい人が奪い合っていたという。[*]
これほど印象的な光景を再現せずして、ホドロフスキーの自伝映画は成立しない。
同時に、『リアリティのダンス』を観ると、突拍子もないと思われた『エル・トポ』や『ホーリー・マウンテン』や『サンタ・サングレ/聖なる血』の情景が、ホドロフスキーにとって不変のモチーフであったことが判る。『リアリティのダンス』はお馴染みのモチーフでいっぱいなのだ。
『ホーリー・マウンテン』や『サンタ・サングレ/聖なる血』のサーカス団、『エル・トポ』や『ホーリー・マウンテン』の意識不明の「聖人」を世話する小人、『ホーリー・マウンテン』の「愛」を運ぶ風船等々。『リアリティのダンス』には見覚えのあるシーンが頻出し、懐かしさに嬉しくなる。
そしてどうやら少なからぬモチーフが、ホドロフスキーの実体験に基づくらしい。
ホドロフスキーが本作で胸の大きなオペラ歌手パメラ・フローレスを母親サラ役に抜擢したのは、彼の母親が実際に大きな胸で、オペラ歌手を志望していたからだという。歌うように話すサラを見ていると、『エル・トポ』の甲高い声でさえずる母親が思い浮かぶ。あれもホドロフスキーの母親をイメージしていたのかもしれない。
本作や『エル・トポ』に手足のない者が大勢登場するのも、トコピージャが鉱山の街で、採掘のダイナマイトに巻き込まれて手足をなくした人がたくさんいたという事情を知れば納得だ。少年時代に目にした強烈な光景を、彼は作品に焼き付けずにいられなかったのだろう。
ホドロフスキーが原作を書いたマンガ『Les Aventures d'Alef-Thau(アレフ・トーの冒険)』に至っては、手塚治虫著『どろろ』の百鬼丸のように体のあちこちが欠損した男がヒーローだ。しかも百鬼丸が義手や義足を付けて一見すると健常者に見えるのに対し、アレフ・トーには何もない。いまだに邦訳が出ないのは、強烈すぎるためだろうか。
かようにホドロフスキー作品を紐解く上で重要な『リアリティのダンス』だが、これはあくまでホドロフスキーの少年時代を描いた自伝的作品だ。
もちろん、チリでの生活をリアルに綴ったものではない。なにしろリアリティがダンスしてしまうのだから、これまでの作品同様、奔放なイマジネーションと奇想天外な物語を楽しめる映画である。
たとえば、ロシア系ユダヤ人のホドロフスキーは、「みんなと違う」と学校でいじめられたそうだが、この出自を表現するのに主人公の少年は金髪のカツラを被って登場し、周囲の黒髪の子供たちから浮きまくる。金髪を刈ってしまったとき、ホドロフスキーの母はたいへんなショックを受けて彼を憎んだといい、この取り返しのつかない行為を映画では金髪が空中に消え失せることで表現している。
表現だけに留まらない。
抑圧的だったという父親は、本作では人々を救おうとする英雄的な人物だ。映画の大半は、暴力的な父親が独裁政権に抵抗し、記憶をなくし、真面目に働いて金を稼ぐようになる『エル・トポ』さながらの物語に割かれている。
打ちひしがれていたという母親は、映画の中ではペストで死にかけの父に尿を浴びせて全快させる奇蹟の女性だ。ホドロフスキーによれば、放尿は彼女のすべてが川のようになって夫の方に流れることを示し、大きな愛を表しているという。ホドロフスキーは「たくさんの宗教の中で、尿は人を癒すものだとされています。インドのアーユルベーダなどもそうです。」と語る。
本作で父母の性格や事績を作り変えたホドロフスキーは、「両親を再構築した」と述べている。
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私は過去は変えられると思っています。過去というのは主観的な見方だからです。この映画では主観的過去がどういうものか掘り出して、それを変えようと思ったのです。
(略)
そして、バラバラだった家族を団結させ、子供の頃に欲しかったものを実現させました。
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過去を変えてしまうなんて捏造じゃないか、と思われるかもしれないが、そう、捏造が大事なのだ。
「アンタほど自分のことも含めて捏造する人間は珍しいよ」とよく云われるという押井守氏は、過去を捏造すべきだと説く。
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過去は捏造すべきものであって、自分がこうありたいと思ったものが自分の過去になるだけなんです。
(略)
自分は偉人の生まれ変わりだと思うことも自由だし、自分は母親を愛してた、と思い込むことだって自由でしょ。大事なのは、どうすればいまの自分を豊かにすることができるか、そこが大事なんです。
(略)
今というのは過去の上にしかないんだから。今を充実させたいというか、「今」にある種の自由を獲得したいからこそ、自分の過去を捏造するんだよ。
(略)
過去というのは「今生きられている『過去』」でしかないんだから。純然たる過去とか客観的な過去なんてどこにもないんです。
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押井守氏はこう述べて、寺山修司の「過去を変えるのは人間だからこそできるんだし、むしろそれが人間にとっての自由なんだ」という言葉を紹介している。
ホドロフスキーも本作を通して両親を再構築し、子供の頃に欲しかった「団結した家族」を実現した。この映画はホドロフスキーにとって心の治療なんだという。
「今回の映画を通して、私は生まれ変わった、というよりは、今の人生を別の角度から見るようになりました。」
そんな映画を家族総出で作ったことも、ホドロフスキーには大きな意味があるだろう。
長男ブロンティスが父親役、次男クリストバルが行者役、四男アダンがアナキスト役と音楽を担当し、妻パスカルが衣装デザインを務めてくれた(三男テオは事故で亡くなっている。長女ユージニアは創作・芸能活動をしていない)。
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『リアリティのダンス』で、私は父親を許し、息子たちとの関係をもういちど見直し、そして、妻と働きました。とても個人的なアートになりました。
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少年時代に離れて以来、一度も戻らなかった故郷トコピージャで撮影したことも、ホドロフスキーにとっては特別な体験だったに違いない。
家族を故郷に連れていき、家族ぐるみでホドロフスキーの過去を捏造すれば、もうこれがホドロフスキー家の歴史となろう。
特筆すべきは、ホドロフスキーが自身の過去を捏造した個人的な作品なのに、他人が見ても面白く、実に愉快なことだ。
あり得ない父親、あり得ない少年時代を語り、これが自分の人生だと主張するホドロフスキーの作品に接すると、過去に縛られ、「今」の自由を失った私たちはなんてつまらないことに囚われているのだろうと思う。
所詮、私たちがどんなに過去から目を逸らしたり、過去を偽ったところで、ホドロフスキーの捏造ぶりには敵わない。過去を捏造しても堂々としているホドロフスキーこそ、私たちが見習うべき人物ではないだろうか。
ホドロフスキーは、自分の人生をベースに物語る意義をこう語る。
---
自分の人生以上に物語ることがあるでしょうか。もし、わたしの人生が本物だと証明されれば、全ての人たちの人生も本物なはずです。子供の頃の傷は誰にでもあるものです。この物語は多くの人に共感してもらえると思います。
---
彼の主観的な人生が本物なのであれば、たしかに誰のどんな人生も本物だ。
いかように過去を語ろうと、いかように過去を改変しようと、私たちはそれを本物として生きていける。
本作はすべての事象が人間の主観的な見方の産物であることを強調すべく、「その他大勢」の人々が仮面をつけて無個性になったり、写真を等身大に引き延ばした薄っぺらな人間になったりと、少年の記憶に相応する存在感しか示さない。
まるで20世紀の前衛劇のような演出だが、その手法と描かれる内容が「本物」だから少しも陳腐ではない。それどころか、今ではかえって新鮮に感じられるかもしれない。
この懐かしくも新鮮な映画を楽しみながら、観客は真に楽しいのは人生そのものであると気付くだろう。
世界中の何もかも、すべての現実(reality)が私たちの周りで楽しげにダンスしているのだから。
[*] 以下、ホドロフスキーの言葉はパンフレット収録のインタビューから。
本作について詳しく解題しているこのインタビューは必読だ。
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監督・脚本・原作/アレハンドロ・ホドロフスキー
出演/アレハンドロ・ホドロフスキー ブロンティス・ホドロフスキー パメラ・フローレス イェレミアス・ハースコヴィッツ クリストバル・ホドロフスキー アダン・ホドロフスキー
日本公開/2014年7月12日
ジャンル/[ドラマ] [アート]

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『STAND BY ME ドラえもん』は、あの続き!?
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映画『STAND BY ME ドラえもん』では、近所の空地に土管が置かれている。
原作でも子供たちが遊ぶのは空地であり、そこには土管があった。
石ノ森章太郎氏の『サイボーグ009』でも、土管や材木が置かれた空地で009がパンを食べる描写がある。
かつて空地と土管は珍しくなかった。子供は土管に登ったり、くぐって遊んだりした。
けれども、今では土管を見かけない。子供が遊ぶ空地すらも市街地では珍しいだろう。
にもかかわらず、本作には空地があり土管がある。そのことは本作が誰に向けられた映画であるかを物語っている。
かつて空地に土管があったのは、あちこちで下水道工事をしていたからだ。
マンガ『ドラえもん』が連載された60~70年代の日本は、ちょうど下水道の整備に着手した頃だった。まだ汲み取り式トイレの家庭も多く、バキュームカーがやってきて家庭の屎尿を回収していた。
『サイボーグ009』では、のんびりした地方都市から東京にやってきたら空地が土管だらけだった。東京で工事が盛んだったことをうかがわせる描写だ。
この頃から下水道工事が急ピッチで進められ、空地の土管たちは地下に埋設された。おかげで屎尿や生活排水を流せるようになり、水洗トイレが普及した。
今や下水道普及率は東京都で99.4%、大阪府で94.3%に達しており、『ドラえもん』の舞台となる都内で土管を見かけることはなくなった。
その変化は、山崎貴、八木竜一両監督も目にしてきたはずだ。
1964年生まれの両監督は、ちょうど『ドラえもん』が小学館の学年誌に連載され出した頃に小学生になった。初期ののび太と同じ時代を生きてきたのだ。
山崎監督が「今回はマンガに忠実に“原作原理主義”で作りました」と云うように、本作はのび太の暮らした70年代を忠実に再現している。家には野暮ったい黒電話があり、町を歩けば黄色い電話ボックスが建っている。子供たちは謎の生物ツチノコの話題で持ち切りだった。
「70年代は博物館に資料があるほど古くないですし、当時のことを調べるのは難しかったです」と八木監督は語る。「当時の小学生は、のび太みたいな人がたくさんいたんです。だから、のび太に親近感を持って下さる方も多いのではと思います。僕ものび太みたいな髪型で、半ズボンに運動靴を履いていたので、デザインする上で自分の小学生の頃の写真を参考にしたりもしています」
原作が描かれた時代を再現するのは、まさに両監督の小学生時代の記憶をたどる作業でもあった。
その時代を考えるとき、連綿と続く流れを感じないではいられない。
山崎貴監督の出世作にして代表作ALWAYSシリーズは、一作目の舞台が1958年、二作目の舞台が1959年であり、1964年を舞台にした『ALWAYS 三丁目の夕日'64』で完結した。三作目は主人公夫婦に赤ん坊が誕生して終わる。
1964年に生まれた赤ん坊、それは山崎監督自身でもある。
昭和30年代を再現したALWAYSシリーズが山崎監督の親たちを描いた映画とするなら、『STAND BY ME ドラえもん』は『ALWAYS 三丁目の夕日'64』で生まれた赤ん坊の少年時代を描く作品だ。あの赤ん坊がどんな風に成長したのか、三丁目の夫婦がどんな親になったのか、それをうかがえる映画なのだ。
傑作『friends もののけ島のナキ』に続く作品として『ドラえもん』を3DCGで映画化することを提案したのは『ナキ』のプロデューサー、現シンエイ動画社長の梅澤道彦氏だが、これこそ両監督にうってつけの企画と云えよう。
とはいえ、本作はノスタルジーには浸らない。
『ALWAYS 三丁目の夕日'64』が過去を舞台にしつつも新しい社会への模索を描いたように、本作は『ドラえもん』が70年代のマンガであることをこんなにも強調しながら少しも懐古的ではないのだ。
それどころか本作は驚くほどの飛躍を見せる。

本作は名編揃いの原作から次のエピソードを取り出して繋ぎ合わせている。
「未来の国からはるばると」
「たまごの中のしずちゃん」
「しずちゃんさようなら」
「雪山のロマンス」
「のび太の結婚前夜」
「さようならドラえもん」
「帰ってきたドラえもん」
すでにアニメ化されたことのあるエピソードばかりだから、オチを察する観客も多いだろう。
だが、原作第1話の「未来の国からはるばると」ではじまり、のび太としずかのロマンスが盛り上がるエピソードを差し挟みながら、原作最終話の「さようならドラえもん」と連載再開時の「帰ってきたドラえもん」までを含めることで、本作は極めてドラマチックな感動作に仕上がっている。
あまりの原作の素晴らしさから、かつて山崎監督が「これはもう映画ではできない。漫画表現に対して羨ましいと思ったことはほとんどないんですが、羨ましいと思った希有な例です。」とまで語っていた「さようならドラえもん」を含めたのは、大きな挑戦だったに違いない。
そして山崎監督みずから「ドラえもんの道具をもし自分が手に入れたら、どんなことができるのか、3DCGだからこそ体感することができます」と云うように、本作はマンガやセルアニメの平面的な絵とは違う、質感のある3DCGならではの世界を堪能させてくれる。
しかし私がもっとも驚いたのは「未来」のシーンだ。
未来からやってきたタイムトラベラーを主人公とする『ドラえもん』は、全編が時間テーマのSFと云える。
本作も時間旅行の面白さを存分に活かしており、とりわけ少年のび太が青年のび太の結婚前夜を訪ねるエピソードは秀逸だ。
小学4年生ののび太は14年後の自分を観察に行き、未来都市の壮大さに圧倒される。燦然と輝く摩天楼が立ち並び、おびただしいエアカーが飛び交う大都会。ホログラフの標識や自動化された物流に、のび太は目を丸くする。のび太の家が建っていたあたりは緑豊かな公園に変わり、人々の憩いの場となっている。そこは夢のような未来世界だった。
もちろん、こんなはずはない。たった14年で世界はこんなに変わらない。
のび太の「現在」は両監督が小学4年生だった1974年頃だから、その14年後といえばまだ80年代。たとえ私たちが生きる2014年になったところで、街並みはさして変わらない。
持ち家が並ぶ住宅地が、14年でビル街のド真ん中の公園になることもあり得ない。のび太のパパはまだ住宅ローンを返し終わってもいないだろう。
それでも本作の作り手は、のび太が大人になった時代を科学技術の発達した素晴らしい世界として描いた。70年代の描写ではあれほど考証にこだわって緻密にリアルに描いたのに、14年後の「未来」のシーンですべてを放り投げた。
この未来のシーンはショックだった。
忘れていたことを突き付けられたから。
すっかり忘れていたのだ。どんな未来が訪れるかを。どんな未来にするのかを。
子供の頃、未来はこうなるはずだった。
大人になったらこんな世界に暮らすはずだった。
小学生向けの雑誌、たとえば『科学』や『学習』には、開発中の技術やそれが実現した未来の想像図がいつも掲載されていた。それは心躍る未来だった。
土地不足は海上都市で解消され、人々の足になるのは静かな電気自動車で、どんな遠くでもリニアモーターカーに乗ればすぐに行けるはずだった。70年代の子供が大人になる頃には、そういう世界になるはずだった。
ましてやノストラダムスの予言によれば世界は1999年に滅亡することになっていたから、その先の21世紀は何でもありの夢の世界だった。
本作の未来世界はおかしくもなんともない。おかしいのはこうなっていない現実の方ではないか、こんな世界にできなかった私たちの方ではないか。
本来迎えるはずだった「未来」を目にして、私は打ちのめされた。
山崎貴監督がドラえもんを映画化するのは、これがはじめてではない。
山崎監督のデビュー作『ジュブナイル』は、個人のWebサイトに「ドラえもんの最終回」として公開された二次創作が元になっている。[*]
2000年公開の『ジュブナイル』に「for Mr.Fujiko・F・Fujio」というクレジットを入れた経緯について、山崎監督は次のように説明している。
---
『ジュブナイル』は一番最初に、『ドラえもん』の最終回の話を、人から聞いたことがきっかけなんです。そこから話を転がし始めているので、影響を受けてるんじゃなくて、原作と言ってもいいんです。インスパイアド・フロムみたいな感じなんです。あの話を聞いて、それは映画にできると思って作者の方に連絡をとって。
だから、最初はシナリオにもインターネットの最終回が原作ですと書いてあったんですが、他人のキャラクターであるドラえもんを使った作品を原作にしたと明示しちゃうといろいろ著作権的に問題があるらしくて。作者の方も『ドラえもん』があっての話だから、あんまり原案みたいな形で出してもらうのもちょっと違うと言ってくださって。
結局インターネットのドラえもん最終回が原作ですというのは出せなくて、スペシャルサンクスに作者の方の名前を入れさせてもらいました。
もちろんその話も『ドラえもん』あってのことなので、プロデューサーと相談して「藤子先生に捧ぐ」と入れさせてくださいと藤子プロにお願いしたら、それは是非と言ってくださったので、あのクレジットを入れることができたという次第です。
---
『ジュブナイル』は未来からやってきたロボットが少年たちと冒険する物語だ。それはドラえもんをなぞったものだった。
当時のインタビューで『ドラえもん』について語る監督が、『ドラえもん』を実写化したら「タケコプターの視点というのは、きっと面白い」と述べているのは興味深い。
『STAND BY ME ドラえもん』を観た人は、のび太がはじめてタケコプターで飛ぶシーンの躍動感に目をみはったことだろう。山崎監督の念頭には、2000年時点からすでにそのワクワクする映像があったのかもしれない。
二次創作の「ドラえもんの最終回」や『ジュブナイル』を貫くのは、今はまだできないことを実現するために、自分が頑張って未来で実現するというコンセプトだ。誰かに助けてもらうのではなく、何とかなるのを待つのでもなく、自分の力で未来を変える。未来の自分が実現する。
その想いは『STAND BY ME ドラえもん』にも共通している。
原作の中から珍しくのび太が頑張るエピソードを取り上げたこの映画は、特に自分を信じて未来を変える「雪山のロマンス」のパートにおいて一つのクライマックスを迎える。原作の「雪山のロマンス」は、タイムふろしきで体だけ大人になっても中身は子供のままののび太の失敗談だが、映画では「ドラえもんの最終回」の要素を取り入れて、タイムパラドックスを上手く活かした優れたSFになっている。
そして土管が置かれた70年代の風景を懐かしみ、のび太にかつての自分を重ねていた大人の観客は、感動に涙するとともに悟るのだ。
驚くほど文明の発達した輝かしい未来世界は、自分が実現しなくちゃならなかったのだと。
雑誌の想像図に描かれた未来は誰かが作ってくれるものではなく、待っていれば勝手にできるものでもなく、自分が作らなくちゃいけなかった。
本作の未来の描写は刺激的だ。21世紀にもなって、まだ70年代に夢見たことすら実現できていない私たちを挑発している。
未来を変えようと思ったら、これくらいのことはできたはずだ。できるはずだ。
ドラえもんに頼るまいとするのび太の姿が、そのことを教えてくれる。
のび太の想いは本作を通して「STAND BY ME(僕を支えて)、ドラえもん」から「STAND BY ME(そばにいてね)、ドラえもん」に変わっていくのだから。
[*] この経緯についてMasami KATO氏にご教示いただいた。お礼申し上げる。
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監督・脚本/山崎貴 監督/八木竜一
出演/水田わさび 大原めぐみ かかずゆみ 木村昴 関智一 妻夫木聡
日本公開/2014年8月8日
ジャンル/[ファンタジー] [SF] [ドラマ] [ファミリー]

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『るろうに剣心 京都大火編』 明治時代にパンクロッカー!?
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何のことかと思われるかもしれないが、要は「○○反対」と叫ぶ人にはあまり共感を覚えないのだ。
何かに反対する人が、代わりに別のものを推進したい情熱を持っているとは限らない。
○○反対などと云わなくても、別のものを推進し、それが人々に喜ばれて○○を凌駕すれば、おのずと○○はなくなるだろう。だから何かに反対する情熱があるのなら別のものを推進する方が有意義だと思うし、そういう人なら応援したいと思うのだが、反対することに熱心な人は意外に多い。
そして反対している人の話を聞いても、往々にして反対の先に何をしたいのかボンヤリしていてよく判らない。
そんな光景は昔も今もこれからも見られるだろう。
だから『るろうに剣心 京都大火編』は新鮮であるとともに普遍的だ。
本作は明治政府転覆を企む志々雄真実(ししお まこと)一派に主人公緋村剣心(ひむら けんしん)が立ち向かう物語だ。10年前の鳥羽・伏見の戦いでは志々雄も剣心も新政府側だった。幕府の支配に反対し、その治世を改めようとしていた。
だから幕府を倒して樹立した明治政府はかつての仲間たちなのだが、志々雄は明治政府をも倒そうとする。
一応劇中では、危険すぎる志々雄が新政府に捨てられ、殺されそうになった過去が語られる。そのため志々雄個人としても明治政府を恨む理由があることになっている。
だが、政府のやり方に反発し、不平士族を糾合し、政府転覆を謀る志々雄の行動は、明らかに明治初期に頻発した士族反乱のカリカチュアライズだ。
江藤新平が起こした佐賀の乱を皮切りに、西郷隆盛が大将になった西南戦争まで、維新の十傑とまで称された英雄たちが次々に反乱を起こして死んでいった。西郷隆盛に至っては、木戸孝允、大久保利通と並び、維新の三傑とまで呼ばれた人物だ。志々雄のような冷酷無比なキャラクターとは大違いのはずだ。それでも彼らは反乱を起こした。その行動を志々雄のように誇張されたキャラクターで皮肉るところに、作り手の歴史を見る目が感じられる。
なぜ、維新の英傑たちはせっかく樹立した政府に対して反乱を起こしたのだろうか。なぜ数万人もの士族たちが同調して戦ったのか。
それは本稿の手に余る命題なので深くは立ち入らないが、本作の冒頭で内務卿大久保利通が漏らす「古いものを壊すより、新しいものを作る方が苦労する」という言葉に象徴されているだろう。
古いもの――江戸幕府の世を壊す倒幕運動に参加した人々は、二種類に分けられるのかもしれない。古いものを壊したい人と、新しいものを作ろうとする人だ。古いものが厳然と立ち塞がり、人々の不平不満が溜まっているときは、まずそれを壊さなければならないから両者の行動は一致する。與那覇潤氏は著書『中国化する日本』の中で、倒幕に向けて盛り上がった人々の心情を「パンクロック系の「Deーstroーy!!!」みたいな話」と説明している。
しかし古いものが壊れた後は、冷静になって新しいものを作る努力が必要だ。
ところが既存のものをブッ壊すのに盛り上がっていた人に、新しいものを作れるとは限らない。反対運動と推進運動では求められるものが違うのだ。
與那覇潤氏は明治初期の政府の動きを次のように説明する。
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いつまでもパンクロッカーに政権運営を委ねていたら国家破綻してしまうので、しだいに岩倉具視や大久保利通や伊藤博文や山縣有朋のような合理主義的マキャベリストが中心になって、成算の立たない跳ね上がり政策の主唱者たちを政府から追放ないし粛清していくわけです
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志々雄真実が政府内に残ったとしても、間違いなくこの追放ないし粛清の対象になっただろう。
もしも政府内に残っていたら何をしたか。
それは実際に追放された人たちがしようとしていたことから推察できよう。
明治における追放ないし粛清の代表的なものが明治六年政変だ。
政策の対立から西郷隆盛、板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣、桐野利秋ら多くの人が政府を去った。彼らを追い出したのは岩倉具視や大久保利通らであり、彼らが去ったおかげで山縣有朋や井上馨が復帰できた。
多くの人が政府を去るほど深刻な対立になったのが征韓論である。倒幕を果たし、開国を実現した明治政府は、鎖国を続ける隣国・李氏朝鮮に国交を申し入れた。けれどもこれを拒絶されたことから、武力行使してでも朝鮮を開国させようとする主張が湧き起った。
国内で倒す相手を失ったパンクロッカーの「Deーstroーy!!!」という雄叫びは、近隣国に向けられたのである。
征韓論を主張した人々は政府から追放されたが、西郷隆盛の弟・従道は政府に残り、翌年台湾への出兵を強行する。
このような背景を考えれば、本作で緋村剣心と切り結ぶ志々雄一派の十本刀の一人、沢下条張(さわげじょう ちょう)が金色に染めた髪を逆立てたパンクロッカーのような風貌なのは、当時の不平士族の心情を視覚化したものとしてまことに正しい。
本作において剣心は、このような政府内の、いや日本の二つの潮流と無関係ではいられない。
剣心が志々雄一派と戦うのは、大久保利通と面会し、その意を汲んだからだ。
すなわち、本作はものごとに反対し、ブッ壊す人々と、破壊の衝動を抑えて、新しいものを築こうとする人々との戦いなのだ。
ブッ壊した後に志々雄が作ろうとしている世界が、独裁と恐怖政治のスターリニズムもどきなのも皮肉が効いている。
もちろんそれを正義と悪の戦いなどと単純化してはいない。剣心の仲間に政府を憎む相楽左之助(さがら さのすけ)を配しているように、本作は歴史を一面的に描写しないようバランスを取っている。
興味深いのは、前作同様、不殺(ころさず)の信念を貫く剣心が非暴力ではないことだ。
それどころか本作の見どころは剣心のアクションであり、暴力シーンで満載だ。
このことについて剣心――というよりも作り手が考えを述べる箇所がある。剣心は、捕虜になった志々雄一派に復讐しようとする少年を押さえてこう告げる。志々雄一派のように力を振るって人を従わせるような者になるな、怯えるばかりで何もしない村人のようになるなと。
剣心のセリフを聞いて、私は宮崎駿氏の主張を思い出した。
氏は「戦争の放棄」「戦力の不保持」「交戦権の否認」を定めた日本国憲法第9条を維持することの大切さを説く。
さりとて、軍オタであり戦車や戦闘機が大好きで、戦史戦記に詳しい宮崎氏は、戦力もなしに平和を保てるとは思っていない。
だから、憲法第9条を保持して対外的には平和国家をアピールしつつ、戦車等の軍備をおろそかにするなと説く。[*]
剣心の不服従も、必ずしも非暴力によるものではない。
ただし、手にするのはあくまで逆刃刀(さかばとう)。暴力がエスカレーションしないように、みずから制限を課している。
不殺の信念にこだわりつつ、いざとなれば力を行使する剣心の姿は、私たちに暴力の是非ではなく、暴力のコントロールについて考えさせる。
[*] 『熱風』2013年7月号 スタジオジブリ
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監督・脚本/大友啓史 脚本/藤井清美
出演/佐藤健 武井咲 藤原竜也 神木隆之介 伊勢谷友介 青木崇高 蒼井優 江口洋介 田中泯 三浦涼介 土屋太鳳 宮沢和史 高橋メアリージュン
日本公開/2014年8月1日
ジャンル/[アクション] [時代劇]

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