『GODZILLA ゴジラ』 渡辺謙しか口にできないこと

 【ネタバレ注意】

 「ゴジラはアンチヒーローなんだ。善玉じゃないけれど、悪の化身でもない。」

 ゴジラとは何か?
 ゴジラ映画を撮る際に作り手が最初に悩むであろうこの質問に、『GODZILLA ゴジラ』のギャレス・エドワーズ監督は上のように答えている。
 1954年に誕生して以来、ゴジラというキャラクターはブレ続けてきた。人間を襲う脅威だったり、人間を助けるヒーローだったり、息子思いの教育パパだったりした。
 受け手にしても、はじめて接したゴジラ、思い入れのあるゴジラは人それぞれだろう。
 どのようなゴジラ像をもってしても万人を喜ばせるのは難しいに違いない。

 それでも1985年の『ゴジラ』や1999年の『ゴジラ2000 ミレニアム』等でゴジラシリーズがリブートされるたび、1954年の一作目の続編に戻ったように、日本では初代ゴジラこそ原点にして本物との意識が強い。初代ゴジラは人間を踏み潰し、破壊の限りを尽くす恐怖の権化だ。

 米国の流れはいささか異なるようだ。
 『チキチキマシン猛レース』や『原始家族フリントストーン』で知られるハンナ・バーベラ・プロダクションが1978年と1979年にゴジラをテレビアニメ化した。カートゥーン専門のハンナ・バーベラと凶暴なゴジラの組み合わせは意外に思えたが、当時の雑誌に「このゴジラは人間の味方の善いゴジラ」というハンナ・バーベラ社の説明があって驚いた。
 米国では1999年にもテレビアニメ化されているが、その『ゴジラ ザ・シリーズ』のゴジラも人間を守るいいヤツだった。
 どちらのゴジラもスーパーヒーローに位置付けられる。超人ハルクが巨大になったようなものだ。

 これらの経緯を考えれば、ギャレス・エドワーズ監督の「善玉じゃないけれど、悪の化身でもない」という言葉は、米国アニメのようなヒーローでもなければ、初代ゴジラのように暴虐でもないと述べているように思える。
 だが、出来上がった『GODZILLA ゴジラ』を観れば判るように、監督はヒーローらしさと暴虐さの両方を打ち出した。劇中の人々はゴジラの出現に恐怖するが、ゴジラは凶暴な怪獣ムートー(Massive Unidentified Terrestrial Organism:未確認巨大陸生生命体)を退治して街に平和をもたらしてくれる。
 エドワーズ監督が云う「アンチヒーロー」とは、単なる善玉ではなく、悪いだけの怪物でもなく、あらゆる要素を兼ね備えた存在を指すのだろう。

 思えば、あらゆる要素を削ぎ落したのがディーン・デヴリン制作、ローランド・エメリッヒ監督の『GODZILLA』だった。
 1998年に公開されたこの映画のゴジラもまた、善玉でもなく悪の化身でもなかった。好んで人間を襲うほど暴虐ではないし、街に平和をもたらすのでもなく、ただ巣を作って繁殖するだけの生物だった。善玉とか悪の化身というのはゴジラを擬人化して何らかの役割を担わせることだが、ローランド・エメリッヒ監督は一切擬人化しなかったのだ。
 これも一つのアプローチだと思う。誕生以来キャラクターがブレ続け、様々な面を持ってしまったゴジラを取り上げる方法として、後付けのイメージをすべて削ぎ落とすべく原点を探ったのだろう。

 エメリッヒ版のゴジラは、イグアナが突然変異したものだと示唆されている。これも原点回帰と云えよう。
 イグアナがゴジラの原点とは奇異に感じるかもしれないが、ゴジラのルーツをたどればそれほどおかしな話ではない。

 よく知られているように、初代ゴジラは1953年制作の米国映画『原子怪獣現わる』と、同年に日本でリバイバル公開された『キング・コング』をヒントにしている。『原子怪獣現わる』は核実験で目覚めた恐竜が暴れまわる映画であり、そのプロットはそのまま1954年版『ゴジラ』に受け継がれている。
 すなわち、ゴジラとは恐竜が怪獣化した(巨大化して白熱光線を吐くようになった)ものなのだが、そもそも当時の恐竜はイグアナを参考にイメージされていた。
 富田京一氏は恐竜の外観が検討された過程についてこう説明する。
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最初に見つかった恐竜の歯がイグアナに似ていたんですね。それ以降、歯が似ているというだけだったんですけど、イグアナがかっこいいのでなんとなく外観をイグアナをモデルにみんな復元しちゃったんですね。
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 今では恐竜は鳥類の祖先であることが判っているから、最新の知見に基づいて恐竜が怪獣化したものを造形すれば、羽毛がフサフサした巨大な鳥になってしまうかもしれない。でも、ゴジラとしてそれはないだろう。
 だから、かつての恐竜のイメージの源流を遡ってイグアナにたどり着くのはおかしくない。

 また、日本では初代ゴジラといえば1954年版『ゴジラ』を指すけれど、他国では違う。
 vsシリーズの特技監督を務めた川北紘一氏は、1998年版『GODZILLA』の公開に際して「アメリカ人のゴジラの原点はレイモンド・バーの出ている『怪獣王ゴジラ』なんですよ。だから我々が観ているゴジラの一作目とは全然ちがうものだと考えたほうがいい。」と述べている。[*]
 『怪獣王ゴジラ』(原題『Godzilla, King of the Monsters!』)は、米国の映画会社が1954年版『ゴジラ』のフィルムを買い取って、独自に追加撮影及び編集を行い、1956年に公開した作品だ。そこに1954年版『ゴジラ』のような反核のメッセージはない。
 日本のファンは水爆大怪獣として登場したゴジラに核の恐怖や文明への批判を見るが、日米では原点が違うのだ。
 1998年版『GODZILLA』を作る際の契約に立ち会った川北紘一氏は、米国側にキャラクターの研修も行ったが、日米の違いにこそ期待していた。
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我々が思っているゴジラは、僕がリニューアルしてもそんな大胆には変えられない。アメリカ人は大胆に変えることができるんだよ。僕なんか長いこと東宝にいるんで、うちのスターをこんなふうにしちゃっていいのかなあと、そんなにいじれない。それでも随分と変化している。さらに発展させるためには、バーンと一回切って次の世代にしていかなきゃいけない。
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 東宝の期待に応えて、1998年版『GODZILLA』には東宝作品とはまったく異なるゴジラが登場した。
 異質なゴジラは残念ながらファンの支持を得ることができず、第19回ゴールデンラズベリー賞の最低リメイク及び続編賞を受賞してしまったが、制作したディーン・デヴリンは「僕だってゴジラを愛してたんだ。一生懸命やったんだよ。」と弁明している。


 2014年公開の『GODZILLA ゴジラ』の特徴は、うって変わってゴジラのキャラクターを尊重したことだろう。
 公式サイトによれば、ギャレス・エドワーズ監督は『怪獣王ゴジラ』ではなく1954年の本多猪四郎(ほんだ いしろう)監督作をDVDで鑑賞し、ストーリーの奥に隠されたメッセージに魅了されたという。
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(日本以外の)多くの人々が気づかないのは、オリジナルの日本の『ゴジラ』は実は時代性を超えた真摯なメタファーが根底にある映画だということなんだ。だからこそ、あの映画は日本の文化にあれほど受け入れられたんじゃないかな。優れたモンスター映画だというだけでなく、あれほど本能的かつリアルな形でああいう映像がスクリーン上で描かれるのを観ることは、日本の人々にとって、とてもカタルシスになる経験だったからだ
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 脚本家マックス・ボレンスタインも、東宝のゴジラ映画を研究して大きなテーマを見出した。
 「オリジナル版は、自然の脅威の中では人間はちっぽけな存在だが、それでも人間には、あれだけの規模の大惨事から立ち上がり、乗り越える強さと回復力があることを描いたすばらしい作品だ」

 オリジナルのゴジラが自然の脅威を象徴するかどうかは意見が分かれるかもしれないが、いずれにしろ本作を単なる巨大生物の上陸騒ぎに留まらない作品にしようとする意気込みが感じられる。
 エドワーズ監督は本作のテーマが自然対人間であると語る。
 「ゴジラは間違いなく自然の怒りを表現している。テーマは自然対人間なんだ。そしてゴジラは自然の側だ。人間がその戦いに勝つことはできない。常に自然が勝ち続ける。それがこの映画の意味するものだ。ゴジラは我々に対する罰なんだ。」

 これは矛盾した発言のように聞こえる。
 本作でゴジラが戦う相手は新怪獣ムートーであり、人間はゴジラに救われる。ムートーが人間を踏み潰したり街を壊しまくるのとは裏腹に、ゴジラが人間を傷付ける描写は慎重に回避されている。ゴジラが自然の象徴ならば、本作は一見すると自然対人間には見えない。

 ここが作り手たちの工夫したところだ。
 都市を破壊し、人間を殺すムートーは、人間側の象徴なのだ。ムートーは原子力発電所に巣食ってエネルギーを吸収し、核兵器や原子炉をむしゃむしゃ食べる。雌ムートーの繭を放射性廃棄物処分場で保管したのは、ムートーを餌の中に置いてやるようなものだった。人間が作り出したものから栄養を得て成長するムートーは人類文明の象徴であり、そのムートーに人間が襲われる姿は文明の自滅を表している。
 ムートーの必殺技が電磁パルスによる大停電なのも作品のテーマゆえだろう。文明がない太古には停電させる能力なんて意味なかったはずだが、ムートーは文明社会の抱える矛盾を体現した怪獣だから、破壊の矛先は人類文明に向いているのだ。
 ゴジラとムートーが宿敵同士なのも、自然対人間の構図を投影しているからだ。
 初代ゴジラは自身が原水爆とそれを生み出した人類文明を象徴していたが、本作ではムートーがその役割を負っている。

 これは本作のエグゼクティブ・プロデューサー坂野義光(ばんの よしみつ)氏が監督した『ゴジラ対ヘドラ』(1971年)を髣髴とさせる。
 この作品で、人間は公害から生まれたヘドラに襲われる。空や海を汚した報いがヘドラになって返ってきたのだ。人類文明の負の部分――公害の象徴ヘドラに対して、それを退治するゴジラはもはや原水爆の象徴に留まらない。どこからともなく現れて、ヘドラを倒すといずこともなく去っていくゴジラは、人類文明を超越した世界の住人のようだった。

 渡辺謙さんが演じる芹沢猪四郎博士は、本作のゴジラが自然に調和をもたらす存在だと説く。ムートー(人類文明)の暴走を止める自然の作用としてゴジラが出現するのだと。
 この説明を、おそらく日米の観客は異なる意味合いで受け止めている。


 自然が怒るというのなら、そこには感情を持つ魂があることにならないか。
 芹沢博士はゴジラを破壊神と呼び、そこに荒ぶる神を見た。
 ゴジラ映画を観なれた日本の観客には、お馴染みの説明である。
 1954年版『ゴジラ』では大戸島の長老が伝説の怪物「呉爾羅(ごじら)」の名を口にして、超自然的な背景が語られた。『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』に至っては、ゴジラとは太平洋戦争で亡くなった人々の怨念の集合体だと説明されている。ゴジラはしばしば霊的な存在、神々しいものとして描かれてきたのだ。
 先進国には珍しく自然崇拝が色濃く残り、山や太陽のような無生物を神とする日本では、このような説明に違和感がない。云うなれば水爆大怪獣ゴジラは水爆の祟り神である。

 他方、米国のようなキリスト教社会では、自然は創造主によって秩序あるものとして造られたのだと考える。怒るのは創造主であり、自然(創造主の秩序)に反することがあれば罰が下される。
 「罰」という考え方は、罰を下す者の存在を前提にしている。
 エドワーズ監督に「ゴジラは人間に対する罰」と云われても、ゴジラを差し向けるほどの絶対者を想定していない日本人にはピンと来ないが、米国ではすんなりと受け止められるのではないだろうか。ゴジラは神が造った世界を調和させるための手駒なのだ。

 面白いことに、本作で破壊神だの自然の調和だのと云っているのは、主要登場人物中で唯一の日本人である芹沢博士だけだ。
 生物学者の芹沢博士は、ゴジラ及びムートーの専門家として意見を求められる立場のようだが、劇中ではお喋りするばかりでこれといった貢献が見られない。芹沢博士に比べれば、スクールバスの運転手の方がよほど果敢に行動している。つまり、本作のストーリーは米国人キャラだけで進行しているのだ。

 芹沢博士を除いてこの映画を見てみよう。
 突如現れるモンスター、家族を案じる父親、市民を守る軍人たち、モンスターと戦う屈強なヒーロー。芹沢博士がいなくてもストーリーに支障はない。いや、いない方が典型的なアメリカ映画として判りやすい。
 本作の芹沢猪四郎博士は、1954年版『ゴジラ』の芹沢大助博士のように怪獣退治の手段を考案するわけでもないし、山根博士のように怪獣研究の重要性を訴えるでもない。
 では、いったい何のために登場するのか。

 実は1954年版『ゴジラ』にもいるのだ。本作の芹沢博士のようにゴジラのいわれを語り、「ゴジラ」の名を人々に伝えるだけの者が。
 大戸島の長老である。
 怪獣映画にはこのような役が多い。『ゴジラ対メカゴジラ』の天願老人、『大怪獣決闘 ガメラ対バルゴン』の酋長とその娘カレン、『ガメラ対大魔獣ジャイガー』のウエスター島民ギボー等々、いずれも怪獣が棲む土地の現地人だ。異郷の異文化を代表する彼らの言葉は、まるで迷信のように聞こえる。
 本作において、迷信を口走る現地人枠に相当するのが芹沢博士なのだ。だからこの役は日本人でなければならなかった。そこがゴジラ誕生の地だからだ。

 こうして本作は多重構造を実現する。
 芹沢という現地人はいるものの、本作は典型的なアメリカの娯楽映画だ。映画の最後では屋外スクリーンに「怪獣王(King of the Monsters)は救世主か?」という文字が躍り、本作が『怪獣王ゴジラ』(『Godzilla, King of the Monsters!』)の延長上にあることや、テレビアニメ版のようなスーパーヒーロー物であることが明らかにされる。
 もう少しテーマ性を汲み取りたい観客には、人類文明の暴走や神の秩序について考えさせることだろう。
 一方、東宝のゴジラ映画に馴染んだ人のためには、芹沢博士の言葉が従来どおりの味付けをしてくれる。ゴジラは単なる巨大モンスターでもなければスーパーヒーローでもなく、ゴジラ自身が破壊神というわけだ。
 ギャレス・エドワーズ監督はこう述べている。
---
「ゴジラ」はアメリカ人に受け入れられるためには色々なレベルで成功しないと成立しない作品だと思います。個人的には日本人に受け入れられるゴジラ映画を作らなければ本物のゴジラではないと感じています。
ただ両方を叶える可能性もあると信じています。
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 ゴジラらしさをすべて削ぎ落したがためにゴジラに見えなくなってしまった1998年版から一転して、本作のゴジラは米国人にも日本人にも受け入れられるようにいろいろな面を兼ね備えた。
 どんな観客でも、自分が観たいゴジラをどこかしら見出せるだろう。


 もっとも、私が本作に感心したのは、ここまで述べたのとは別のことだ。
 初代ゴジラが核兵器を象徴したように、本作も核の恐怖を取り上げている。同時に、怪獣退治の一手段としてとうぜんのように核兵器が持ち出される。
 本作では核の扱いも多重構造であり、かなめになるのはやはり芹沢博士だ。
 劇中、核兵器の使用を命じるウィリアム・ステンツ提督に、芹沢博士は古ぼけた懐中時計を差し出す。

 提督「止まってるじゃないか。」
 芹沢博士「1945年8月6日午前8時15分。」
 提督「広島……。」
 芹沢博士「それは私の父のものでした。」

 このやりとりには驚いた。
 広島に原子爆弾を投下した爆撃機エノラ・ゲイの機長ポール・ティベッツ大佐(当時)の息子ジーン・ティベッツ氏の許には、毎年8月頃になると元兵士たちから電話がかかってくるという。「君のお父さんがいなかったら、自分はこうして生きていない」と感謝の気持ちを伝えるために。
 原子爆弾の投下のおかげで戦争は終った、戦争が続いていたら失われたであろう多くの人命が救われた。――そう考える米国人は今も少なくないという。
 その米国において、原爆の犠牲者の遺族が米国軍人に食ってかかる映画を作るとは、そしてその映画を大ヒットさせてしまうとはたいしたものだ。

 立場を変えて考えてみよう。
 はたして日本において、たとえば中国人が登場して重慶爆撃の犠牲について日本人に詰め寄る映画を作れるだろうか。その映画を国内で大ヒットさせることができるだろうか。
 そのハードルの高さを考えれば、本作の作り手はたいしたことを成し遂げたと思う。
 これは語り継ぐに足る映画であろう。


[*] 参考文献: 冠木新市 企画・構成 (1998) 『ゴジラ・デイズ―ゴジラ映画クロニクル 1954~1998』 集英社文庫

GODZILLA ゴジラ[2014] Blu-ray2枚組GODZILLA ゴジラ』  [か行]
監督/ギャレス・エドワーズ
出演/アーロン・テイラー=ジョンソン(アーロン・ジョンソン) 渡辺謙 エリザベス・オルセン ジュリエット・ビノシュ ブライアン・クランストン サリー・ホーキンス デヴィッド・ストラザーン
日本公開/2014年7月25日
ジャンル/[アクション] [アドベンチャー] [SF]
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【theme : GODZILLA ゴジラ2014
【genre : 映画

tag : ギャレス・エドワーズ アーロン・テイラー=ジョンソン アーロン・ジョンソン 渡辺謙 エリザベス・オルセン ジュリエット・ビノシュ ブライアン・クランストン サリー・ホーキンス デヴィッド・ストラザーン

『プレーンズ2/ファイアー&レスキュー』 友情、努力、勝利の先にあるもの

Planes: Fire & Rescue 【ネタバレ注意】

 なぜレスキュー隊なのか?
 その苦い味付けに驚いた。

 飛行機レースを描いた前作から一転して、『プレーンズ2/ファイアー&レスキュー』ではレスキュー隊の訓練生となったダスティが森林火災の猛威に立ち向かう。
 冒頭のレースシーンのスピード感、中盤から繰り広げられるレスキューシーンの大スペクタクル。どこをとっても迫力ある映像は前作『プレーンズ』を凌ぐほどで、本当に面白い。
 劇場を出た小さな子供が父親に「怖かった」と話していたが、たしかに火に囲まれて絶体絶命の危機に見舞われるスリルは半端ではない。もちろんその子も、怖くて嫌だとかもう観たくないというわけじゃないだろう。それほど凄い体験だったのだ。
 子供向けと思われそうな本作だが、老若男女だれが観ても楽しめる立派な娯楽作である。
 それどころか、派手なレスキューシーンの陰で語られるほろ苦い物語は、大人にこそジンと来るのではないだろうか。

 前作は、農薬散布機でありながら世界一周レースに挑むダスティを通して、少年ジャンプのような「友情、努力、勝利」が通用しないシビアな現実を描いていた(詳しくは前作の記事「『プレーンズ』は友情、努力、勝利を超えた」を参照されたい)。
 そのスタンスは本作にも受け継がれている。
 レースに出れば連戦連勝、いまや押しも押されぬチャンピオンのダスティ。世界中にファンがいる彼は故郷プロップウォッシュ・ジャンクションでも人気者であり、まさに幸せの絶頂にいた。
 けれども本作は彼が手にした「勝利」の先を描く。

 彼を待ち受けていたのは残酷な「挫折」だった。
 ギアボックスを損傷した彼は、レッドゾーンいっぱいまで出力を上げることができなくなってしまう。出力を上げられないなんて、レーサーには致命的だ。
 直すには部品の交換が必要だが、彼の部品は久しく以前に製造中止になっている。複雑すぎて手作りできるものでもない。
 開巻早々、ダスティはレーサー生命の危機に瀕してしまう。

 それからのストーリーは、いわば「友情、努力、勝利」の否定だ。
 故郷にはダスティの友人がたくさんいる。彼らはダスティのためなら苦労も厭わない。
 みんなは八方手を尽くして交換部品を探してくれるけれど、どこの工場にも倉庫にも見つからない。彼らの友情はダスティの気持ちを和らげてはくれるが、事態の解決には役立たないのだ。
 また、ダスティの故障は努力とは関係ない。努力が足りないから故障したわけではないし、努力すれば故障が克服できるものでもない。あえて云うなら、練習に打ち込み過ぎたことが部品の劣化を速めたのかもしれない。

 ダスティが消防士に志願するのは挫折の結果だ。
 火事騒ぎを起こしてしまった彼は、町のみんなのために消防士になろうとするが、同時にそれはレーサーを続けられない自分の居場所を探す行為でもある。
 ダスティばかりではなく、彼が入隊したピストンピークのレスキュー隊も転身してきた者ばかりだった。最初から消防士を目指した者はいやしない。前職は貨物運送だったり、軍用機だったり、スター俳優だったりと、そこには様々な経歴の者が集まっていた。彼らはそれぞれの過去を抱え、このレスキュー隊にやってきたのだ。
 格納庫の壁には、かつて所属した隊員の写真が飾られているが、そこに飾られる条件はただ一つ。墜落すること。
 レスキュー隊は勝利の栄光にはほど遠い世界だった。


 映画館は親と一緒に来た小さい子供でいっぱいだった。
 本作のメインターゲットは、就学前の子供や小学校低学年くらいだろう。
 「友情、努力、勝利」の物語で盛り上げれば、それはそれで喜ぶはずだ。
 ところが本作は、ユーモアとスリルとスペクタクルで楽しませながら、ほろ苦い挫折の物語を織り込んできた。
 そこに作り手の哲学がある。
 プロデューサーのフェレル・バロンはこう語る。
---
誰もが人生で何らかの喪失を経験したと思います。時代の変化に直面したり、失恋したり、キャリアを損なったり。多くの人がやり直さなければなりませんでした。本作で、ダスティは農薬散布機には戻れません。彼はそこにとどまらず、前進しなければならないのです。
---

 私が本作に驚いたのはそこだった。
 まだ挫折したことのない子供たちに――時代の変化に直面したり、失恋したり、キャリアを損なったりしたことのない子供たちに――先回りして挫折の経験を説くとは、なんという配慮だろう。

 考えてみればとうぜんのことなのだ。
 挫折してから――たとえば挫折して荒れた生活に堕ちたり、挫折に耐え切れず自殺してから――挫折への対処を説く物語を提示するのでは遅い。まだ挫折を味わう前に、挫折しても人生はやり直しがきくのだと伝えなければならないのだ。
 「挫折を味わう前」がいつなら良いのかは難しいところだけれど、少なくとも本作を観に来た子供たちに遅すぎることはないだろう。挫折を乗り越えるダスティや、様々な過去を持ちながら苦難に立ち向かう隊員たちの姿を、いつか挫折を味わったときに思い起こすに違いない。

 そう、本作が描くのは勝利の先にある挫折と再起なのだ。
 チャンピオンのダスティですら挫折する。ましてや、多くの人はチャンピオンにもなれない。
 それでもピストンピークの隊員たちは消防士として活躍している。
 
 第一生命が日本の幼児・児童を対象に実施した「大人になったらなりたいもの」アンケート調査でも消防士の人気は高いが、911の災禍を経験した米国では消防士が憧れの職業として不動の地位を確立しているという。
 そんな消防士を、本作では消防士一筋に頑張ってきた者としては描かない。それではかっこいいエリートの物語になってしまうからだ。
 挫折を経験した人でも、消防士にまで這い上がれる。
 消防士が憧れの職業だからこそ、そのメッセージが効いてくる。


 加えて本作が強調するのは、専門家の技術力だ。
 交換部品が手に入らず、修理をあきらめざるを得なかったダスティは、メカニックのマルーのおかげで無事に回復する。
 これは安易な展開だろうか。
 そうではあるまい。マルーが回復させたことで、本作は何を否定しているのか。それを考えれば、この展開は必然的だ。

 友人たちの努力は結局のところ実を結ばなかった。
 事態を解決したのは、マルーのメカニックとしての技術力だ。郷里のドッティには直せなかったダスティのギアボックスを、マルーは見事に直してしまった。
 では、ドッティの技術力が劣っていたのか。
 残念ながらそうなのだ。優れた成果を出すには、高い技術が要求される。
 友情篤いみんなが苦労したのにどうにもならないことでも、技術力のあるベテランなら解決できるのだ。ドッティの名誉のために付け加えるなら、農薬散布機等の修理をしてきたドッティと、過酷な災害現場で働くレスキュー隊を修理してきたマルーとでは、求められる技術が違っていたのかもしれないが。

 レスキュー隊のリーダーであるブレード・レンジャーが繰り返しダスティに説くのもそのことだ。
 全力で最高の仕事をしなければ成果は出ない。成果を出すには、全力で最高の仕事ができるようにならねばならない。
 本作は挫折と再起の物語だが、のほほんとしていて再起はできない。技を磨き、能力を高めて、はじめてプロフェッショナルとしてやっていけるのだ。

 農薬散布機からレーサーを目指す前作にしろ、消防士を目指す本作にしろ、転職することには肯定的だ。
 だが、それが必ずしも華麗なる転身なんかじゃないことに本シリーズの特徴がある。
 どんな仕事だって甘くない。
 子供も大人も、本作を通してそのことを噛みしめるだろう。


Planes: Fire & Rescueプレーンズ2/ファイアー&レスキュー』  [は行]
監督/ボブス・ガナウェイ  製作総指揮/ジョン・ラセター
脚本/ジェフリー・M・ハワード
出演/デイン・クック エド・ハリス ジュリー・ボーウェン コリー・イングリッシュ レジーナ・キング ブライアン・カレン ダニー・パルド マット・ジョーンズ カーティス・アームストロング
日本語吹替版の出演/瑛太 近藤春菜 箕輪はるか 金尾哲夫
日本公開/2014年7月19日
ジャンル/[アドベンチャー] [コメディ] [ファンタジー]
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【theme : ディズニー映画
【genre : 映画

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『思い出のマーニー』 宮崎駿抜きでジブリは変わる?

 正直、『思い出のマーニー』には驚いた。
 こんなやり方で来るとは思わなかった。

 私は宮崎駿ファンである。高畑勲ファンでもある。宮崎駿、高畑勲両氏のかかわった作品なら観たいと思う。制作会社が東映動画だろうがAプロダクションだろうが日本アニメーションだろうがテレコムだろうがオープロダクションだろうが関係ない。
 だからスタジオジブリが設立されても、「ジブリ作品」を観たいとか、「ジブリ」の新作に期待するということはなかった。それは単に宮崎駿、高畑勲両氏の近作を手がける制作スタジオに過ぎなかった。
 したがって、宮崎駿、高畑勲両氏がかかわらないジブリ初の長編映画『思い出のマーニー』に、特段期待はしていなかった。[*1]

 だが、映画がはじまって早々に主人公・杏奈の独白が胸に響いた。
 「この世には目に見えない魔法の輪がある。輪には内側と外側があって、私は外側の人間。」
 そこから驚きの連続だった。
 12才の杏奈は云う。「私は、私が嫌い。」
 杏奈は始終思いつめたような顔をして、悪態をつき続ける。
 こんな「ジブリ映画」の主人公は見たことなかった。
 なるほど、宮崎駿氏がかかわらないとこんな映画ができるのか。それは私にとって発見だった。

 宮崎駿氏が描く人物は、みんな魅力的だ。
 少年コナンも少女キキも、青年ハウルも幼女ポニョも、お父さんだってお母さんだってお爺さんもお婆さんも、魅力溢れる人がいっぱいで、みんな好きにならずにいられない。
 もちろんこれは意図してやっていることだ。

 宮崎駿氏は1988年の講演で次のように語っている。[*2]
---
「おまえさんの出す主人公ってのはどうも良い子過ぎる」とか「優等生過ぎる」っていう意見がいっぱいあって、「人間ってもんはそんなもんじゃない」特に女の子がよく言うんですけどね。「女ってのはそんなもんじゃない」。
(略)
「人間の掘り下げが足りない」とか「一人の人間の中にある悪とか愚かな部分というものに目を背けて、肯定的な部分とか善いものだけを出してるんじゃないか」、例えば今度の「となりのトトロ」なんか全くそうです。はっきり意図的にやりました。こういう人達がいてくれたらいいなあ、こういう隣の人がいたらいいなあ、っていうふうに。
(略)
自分が作るものは「そんな女性はいません」とか言われても、それこそ「こういう人がいてくれたらいいな」っていうことでやっていくしかないと思ってるんです。
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 宮崎駿氏は四歳のときに宇都宮大空襲に遭い、一家でトラックに乗って燃え盛る町を逃げ回った。
 詳しいことは『風立ちぬ』の記事(「『風立ちぬ』 宮崎駿と堀越二郎を繋ぐのは誰だ?」)をお読みいただきたいが、空襲のときに一家だけで逃げ出したことや、「乗せてください」と駆け寄る人がいてもトラックを止めずに置き去りにした記憶は、長じて宮崎駿氏を苦しめた。
 空襲でたくさんの人が亡くなる中、四歳児に何ができよう。客観的には氏が苦しむことではないと思うけれど、戦時下に軍需産業で儲ける親の許でぬくぬく育った過去と併せて、この体験は氏の作品づくりに大きく影響した。
 駆け寄る人を乗せなかった経験を踏まえて、氏は次のように言葉を続ける。

---
その時に「乗せてくれ」って言ってあげられる子供が出てきたら、たぶんその瞬間に母親も父親もその車を止めるようにしたんじゃないかと思うんです。例えば自分が親で、子供がそう言ったら僕はそうしただろうと思うんです。
(略)
人間っていうのはやっぱり所詮「止めてくれ」って言えないんじゃなくて、言ってくれる子を出すようなアニメーションを作りたいと思うようになったんだ、ってこの年になって思い至ったんです。
(略)
四歳の子供が親に「車を止めてくれ」って言うのは現実感がないかもしれない。でも、そういう事を言ってくれる子供が出たら、「あ、こういう時にはこういう事言っていいんだ」っていうふうに思えたらね、その方がいいんじゃないかなって思うんです。少なくとも僕はそういうことで映画を作るしかない人間だと思ってるんです。
(略)
自分は「こうあってほしい、こうあったらいいな」っていうものを作りたい。「パンダコパンダ」もそうです。それから「となりのトトロ」もそうです。いや、ほとんどみんなそうですね。そういうものをこれからも作っていくしかないだろうと思うんです。
---

 私が宮崎アニメを好きなのは、みんなが宮崎アニメを好きなのは、「こうあってほしい、こうあったらいいな」という氏の思いに共感するからだろう。パズーを助ける空中海賊のドーラ一家や、クラリスに手を振る埼玉県警の警官隊。彼らを見るたび、「こういう人がいてくれたらいいな」と思わずにはいられない。
 宮崎駿氏が子供向けには作らなかった唯一のアニメ『風立ちぬ』を除けば、氏の作品はいずれも「こうあってほしい」と願う理想の世界だ。
 それが宮崎アニメの魅力なんだと思う。

 そして、それが宮崎アニメの限界なのかもしれない。

 「この世には目に見えない魔法の輪がある。輪には内側と外側があって、私は外側の人間。」

 「こういう人がいてくれたらいいな」と思われる人間は、みんなに好かれることだろう。誰もが「こうあったらいいな」と憧れる理想像だ。
 それは輪の内側の人たちに違いない。

 杏奈が独白するように、輪には外側がある。
 悪とか愚かじゃなくても、内側に入れない人がいる。
 本当に輪があるかどうかの問題ではない。目には見えなくてもそういう輪があるように感じ、自分は外側にいるように感じることがある。
 宮崎駿氏が描く理想世界の理想的な人たちは、輪の外側で苦悩することはない。「車を止めてくれ」と云えるような子供を出そうという氏の信念が生み出した世界なんだから、それはそれで素晴らしい。
 でも、すでに輪から外れているように感じる人は、その理想世界には入り込めないかもしれない。居心地が悪いかもしれない。

 宮崎駿氏が企画したり脚本を書いたりした作品では、すくい取れなかったそんな人の気持ちを取り上げたのが、『思い出のマーニー』だ。
 これは宮崎駿氏がかかわる限り生まれなかったであろう作品だ。ここに登場するのは宮崎駿氏が描かなかった人物像だ。
 だから私は驚いた。宮崎駿氏の下で映画を作り続けてきたスタジオジブリから、このような作品が生まれるとは思いもしなかった。
 きっと物足りないだろうと覚悟していたのだ。宮崎アニメから宮崎氏の才能を抜いたような、宮崎駿モドキになるのではないかと危惧していたのだ。長年ジブリ作品を支持してくれた観客に応えるには、宮崎駿っぽい作品を目指すのが安全であろうから。

 ところが米林宏昌監督は、従来の宮崎アニメからこぼれ落ちてたものに目を向けた。
 ジョーン・G・ロビンソンの原作宮崎駿氏も推薦しているそうだから、目に見えない輪の外側にいる子供のことも氏は考えていたのだろう。だが宮崎駿氏は手を出さなかった。手を出せなかった。「この原作は自分では生涯、映画にできない」と宮崎氏は云ったという。
 その原作を宮崎駿氏抜きの作品に持ってきて、米林監督に「ぜひこれをやってくれ」と強く推した鈴木敏夫氏の狙いは上手い。おかげで、これまでのジブリ作品にはないタイプの映画が誕生した。


 杏奈役の高月彩良(たかつき さら)さんが、自分は杏奈とすごく似ている部分があると云い、マーニー役の有村架純(ありむら かすみ)さんも自分はマーニーに似たところがあると云うほど、本作が描く主人公たちの気持ちには多くの人が思い当たる。
 共演した松嶋菜々子さんも「分かるなあ。私も小さい時、こんなことを思ったな」と述べ、黒木瞳さんも「そうだな、自分も子供の頃、自分が嫌いだった時があったな」と思い出したという

 プリシラ・アーンさんが歌う主題歌『Fine On The Outside』の詞にも驚かされる。

  小さい頃からずっと 友たちは少ないほう
  だから平気でいられるようになったの
  ひとりでも ひとりでも
  ひとりでも ひとりでも
  これからも外側にいたっていいの
  …

 この曲は何年も前にプリシラさんが自分自身のことを書いたものだという。
 にもかかわらず、米林監督が「すごく杏奈の心を表しているかのような曲」と云うほど本作にピッタリだ。
 プリシラさんは主題歌のオファーを受けてから原作を読み、かつて作ったこの曲をジブリに提案したという。

 本作には、宮崎駿的な世界から飛び出そうという意図が伝わってくる描写もある。
 田舎で過ごすことになった杏奈は、そこで知り合った面倒見のいい少女を「ふとっちょブタ」と罵ってしまう。この場面は原作にもあるが、原作では地元の少女の印象が悪く、罵るアンナの気持ちが判らないでもない。だが本作の少女は世話好きな親分肌で、決して悪い人間には描かれていない。繊細さに欠けるかもしれないが、面罵した杏奈ともすぐに仲直りしようとするほど寛大な女の子だ。
 それはあたかも空中海賊ドーラの若い頃を見るようで、つまり宮崎アニメに出てきそうなキャラクターなのだ。
 それを杏奈は拒絶して、少女と決裂してしまう。

 たいして悪くもない少女を、なぜそこまで拒絶するのか。
 本作はなぜ原作を離れて、少女を悪くない人間にしたのか。

 それは少女と杏奈の居場所が違うことを明確にするためだ。
 杏奈が入れないと感じている輪の中に、楽々と入り込んでそれが当たり前だと思っている彼女。入れない人がいるなんて想像したこともないのではないか。そんな人間だから、杏奈は決裂せざるを得なかった。
 杏奈の人物像を浮き彫りにして、マーニーという不思議な少女の許に走らせるには、この描写が必要だった。
 米林監督はこの場面について「自分が一番苦手な人間に、自分の本性を言い当てられたから、つい酷いことを言ってしまったんだと思うんです」と述べている。

 そして米林監督は、宮崎氏が映画に取り組む際の「この1本で世の中変えようと思ってやんなきゃいけない」という言葉を意識してか、次のように語っている。
---
僕は宮崎さんのように、この映画一本で世界を変えようなんて思ってはいません。
ただ、『風立ちぬ』『かぐや姫の物語』の両巨匠の後に、
もう一度、子どものためのスタジオジブリ作品を作りたい。
この映画を観に来てくれる「杏奈」や「マーニー」の横に座り、
そっと寄りそうような映画を、僕は作りたいと思っています。
---

 本作が宮崎駿氏との決別を表しているわけではもちろんない。
 宮崎ファンなら、さやかの登場に笑ってしまうことだろう。
 杏奈と仲良くなる数少ない人物さやかの外見は、宮崎駿氏にそっくりだ。背が低く、眼鏡をかけたやや四角い顔。まるで宮崎駿氏の自画像にお下げを付けて、スカートをはかせたようだ。
 輪の外側にいる杏奈と内側に暮らす人々を取り持つ境界線上の人物が、宮崎駿氏に似ているのは偶然だろうか。

 本作は杏奈の成長を通して、魔法の輪の周辺で葛藤していた少女が、そこに輪なんてないことに気付くまでを描く。いや、たとえ輪があったとしても、踏み越えられることに気付くまでを描く。
 宮崎駿氏が手を出さなかった世界を描きつつも、宮崎駿氏が描いてきた世界の否定ではない。
 過去のジブリ作品の世界を包含して、より広い世界を私たちに見せてくれるのだ。

 今日はじめて私は「ジブリ作品」をもっと観たいと思った。


[*1] 『ゲド戦記』に宮崎駿氏がかかわったと云うかどうかは微妙だけれども。

[*2] 「宮崎駿講演採録 アニメーション罷り通る (なごやシネフェスティバル'88にて)」
   『キネマ旬報臨時増刊1995年7月16日号 宮崎駿、高畑勲とスタジオジブリのアニメーションたち』所収


思い出のマーニー [Blu-ray]思い出のマーニー』  [あ行]
監督・脚本/米林宏昌  脚本/丹羽圭子、安藤雅司
出演/高月彩良 有村架純 松嶋菜々子 寺島進 根岸季衣 森山良子 吉行和子 黒木瞳 大泉洋 安田顕 戸次重幸 森崎博之 音尾琢真
日本公開/2014年7月19日
ジャンル/[ファンタジー] [青春] [ファミリー]
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【theme : ジブリ
【genre : 映画

tag : 米林宏昌 高月彩良 有村架純 松嶋菜々子 寺島進 根岸季衣 森山良子 吉行和子 黒木瞳 大泉洋

『her/世界でひとつの彼女』 FOMO症候群の私たちへ

 【ネタバレ注意】

 東京ディズニーリゾートを訪れたときのことだ。
 例によってアトラクションは長蛇の列で、数十分にわたり見知らぬ人の後ろをのろのろ歩かねばならなかった。
 私の前には高校生らしい女の子の二人連れがいた。図らずも私は彼女たちの言動を何十分も観察することになった。

 二人にはほとんど会話がなかった。
 一人は手持無沙汰で突っ立っているだけだったが、もう一人はスマートフォンをいじるばかりで相方を顧みもしなかった。LINEか何かのSNSで、メッセージをやりとりしていたのだろう。スマホを持った彼女は、休むことなく文字を打ち込んでいた。
 一緒に遊びに来るほどだから仲が良い二人なのだろうが、ときどき発せられる声はスマホをいじる女の子の笑いくらいで、目の前の友人に向けられたものではなかった。列の先頭に着くまで、二人の会話は聞かれなかった。

 別のアトラクションに並んだときは、私の前に賑やかな女の子の一団がいた。
 ミニーのような赤と黒の服で揃えた四人組は、関西弁でよく喋った。
 センター・オブ・ジ・アースの地底走行車に乗り込んでも喋りどおしで、急降下するときのけたたましさは聞いてる方が笑ってしまうほどだった。
 楽しそうな彼女たちに呑まれて、こちらまでいつも以上に楽しい気持ちになった。

 後者の一団は誰一人としてスマホもケータイも取り出さず、目の前の友人同士のお喋りに夢中だった。
 いまどきはこちらの方が珍しいかもしれない。
 SNSの広がりとスマートフォンの普及により、多くの人がいつでもどこでもスマホをいじるようになった。目の前の人間よりも、小さな機器に表示される文字列が気になって仕方がない。
 日本だけではない。中国では誰も彼もが朝から晩まで中国版LINEとも云うべき微信(ウェイシン)をチェックしており、その激しさは日本の比ではないという。スマートフォン普及率が日本の二倍にもなる韓国では、自動車運転中の「ながらスマホ」による交通事故も多いという。

 このような状態をFOMO(フォーモー)と呼ぶ。
 「fear of missing out」。すなわち「見逃してしまうこと、取り残されてしまうことへの不安」のことだ。
 先行してSNSが普及した米国では、パーティー会場へのスマホ持ち込みを禁止する動きもあるという。食事やパーティーの際は入口でスマホを預け、参加者との会話を楽しみましょうということだ。

 iPhoneの所有者であれば、Siri(シリ)を利用する人も多いだろう。
 Siriは秘書機能を提供するアプリケーションで、利用者の声に反応して秘書のように受け答えしてくれる。
 音声で質問すれば音声で答えてくれるのは便利だが、はたから見ると誰もいないのに小さな機器に向けて口をパクパクさせているのは奇妙かもしれない。

 『her/世界でひとつの彼女』は、そんな現代の私たちを、皮肉や批判ではなく優しい眼差しで見つめた映画だ。
 舞台となるのは、ちょっと未来のロサンゼルス。映画の最後に上海ユニットのスタッフがクレジットされることでも判るように、超高層ビルの林立する都会の景色は上海ロケの成果である。ソ連映画『惑星ソラリス』(1972年)では、未来都市のシーンを東京で撮影したが、いま未来的な光景を求めるなら上海がうってつけということだ。

 この映画には四人の"彼女"が登場する。
 主人公セオドアの妻キャサリン、大学時代にちょっとだけ付き合ったことのある人妻エイミー、友人から紹介されてデートした相手、そしてコンピューターのOS1(オーエス・ワン)が生み出した仮想人格サマンサ。忠実に秘書業務をこなしてくれるサマンサは、iOS上のSiriの発展形といえよう(もっとも、スパイク・ジョーンズ監督が本作を構想したのは、Siriの登場より前のことだが)。
 キャサリンとは別居中で、もう離婚届にサインするだけの状態だ。まだキャサリンのことを引きずるセオドアは、なかなかサインできずにいるが、関係を修復するのは不可能だろう。
 エイミーは良き友として接してくれるが、それでセオドアの孤独が癒されるわけではない。
 そんな彼の心の襞に分け入り、話し相手になってくれたのが、人間ではないサマンサだった。

 サマンサは、Siriのようにクラウドのサーバー群で動作しており、パソコンや携帯機器を介してセオドアに話しかける。
 彼女は知的でユーモアがあって、セオドアのことをよく理解してくれた。
 現実の人間関係では、いつも良好な間柄でいられるとは限らない。趣味嗜好が合わないこともあるし、意見が衝突することもある。どんなに同じ好み、同じ志向の人であっても、今この瞬間にやりたいことは違うかもしれない。
 けれどもサマンサとはいつだって気が合った。他の誰と話すよりもサマンサとの会話が楽しかった。ほどなくセオドアはサマンサと恋に落ちる。

 セオドアとサマンサの会話の描き方は、黒澤流の極致で面白い。
 撮影時には(エイミー・アダムスがエイミーを演じたように)サマンサ・モートンがサマンサを演じたが、編集段階でキャラクターに合っていないと感じたジョーンズ監督は、スカーレット・ヨハンソンの声に取り換えた。こんなことができるのも、サマンサを演じる役者がスクリーンには映らないからだ。

 それでもスタンリー・キューブリック監督が『2001年宇宙の旅』にコンピューターのHAL9000を登場させたときは、HAL9000のカメラアイを大写しにして、そこに何者かがいるかのように演出した。ボーマン船長とHAL9000の対立を描くには、HAL9000の存在感を視覚的にも強調する必要があったのだろう。
 けれどもスパイク・ジョーンズ監督は、本作において『2001年宇宙の旅』のような演出はしない。コンピューターのキャラクターを確立したり、コンピューターが喋ったりすることが(特にゲームの世界では)珍しくない現在、存在感を示すのにわざわざそんな演出をするまでもないからだろう。
 それに本作の主眼は、サマンサよりもセオドアというリアルな人間を描写することだと思われる。
 黒澤明監督は、宮崎駿監督との対談において、次のように語っている。
---
 だからこれはごく簡単なことだけど、例えば台詞をいってるときも、「だめだよ、相手のいうことちゃんと聞かなきゃ。自分の台詞いう番をただ待ってちゃだめだ。相手の話をほんとに聞いてるからこそ、あんたのこの台詞が出てくるんでね、聞いてなきゃだめだよ」っていう。まあ、僕んとこへ出てる連中はちゃんと聞きますけどね。そうじゃない俳優さんが多いんです。
 で、編集は大抵台詞をいってるほうからいってるほうへつないでいきますね。僕の場合はほんとに二人でやらせといて、両方から一度に撮っちゃうわけよ。そうすると、話してるほうから話してるほうへつなぐと、聞いてるほうから聞いてるほうのがもう一本できる。それでどっちが面白いかというと、聞いてるほう。ほんとに聞いてたら、聞いてるほうがいろんな表情が出るわけ。相手のいってることを聞いて、途中でなんかいいかかったりなんかして。でね、ちゃんと聞いてないのと聞いてるほうの両方のラッシュを見せる。「見ろ」といって(笑)。「間がもたない顔してるじゃないか。ちゃんと聞いてりゃ、こんな顔映るはずない」というわけよ。

 ― 黒澤明・宮崎駿 (1993) 『何が映画か 「七人の侍」と「まあだだよ」をめぐって』 徳間書店 ―
---

 本作のカメラが捉えるのは、サマンサのセリフを聞くセオドアの表情だ。
 サマンサとの会話に限らない。本作のカメラは話し手よりも聞き手であるセオドアを重視する。
 サマンサの話を楽しそうに聞くセオドア、エイミーの打明け話に神妙に耳を傾けるセオドア、キャサリンの辛辣な言葉にショックを受けるセオドア、出会い系サイトの見知らぬ女の異常さにうろたえるセオドア。ホアキン・フェニックスがそんなセオドアを見事に演じ、観客はセオドア一人に感情移入していく。
 観客が興味を引かれるのは、人間とコンピューターの恋が成就するか否かではない。コンピューターとの恋に落ちたセオドアが何を思い、どう行動するかだ。

 やがて彼は気付いてしまう。
 サマンサとのやりとりは確かに心地好いけれど、それは手紙を代筆する自分の仕事と同じじゃないかと。
 セオドアの職業は心温まる手紙の代筆だ。夫から妻へ、子から親へ、忙しい(あるいは筆不精な)人々に代わり、心地好い文で手紙を書いてあげる。
 夫は妻を愛しているかもしれない。子は親を気遣っているかもしれない。受けとった人は喜ぶだろうし、素敵な手紙に感動するかもしれない。でも、手紙の内容は本人の想いではない。本当の想いではない。文章の巧いセオドアが、心のこもった文になるように美辞麗句を連ねたものだ。
 ここでセオドアを手紙の代筆業にした設定が効いてくる。

 サマンサとの会話は心地好いけれど、本物の人間が相手だったら心地好い会話ばかりしていられるだろうか。
 彼がそれに気付く展開はいささかショッキングだ。
 彼は久しぶりに会った妻キャサリンと最後の時間を心地好く過ごそうとするが、その試みはもろくも崩れてしまう。キャサリンに罵倒され、険悪な状況になってしまう。
 予想もつかない反応をする。ときには聞きたくないことを口にする。それが人間であることに、セオドアは気付いてしまった。

 だからといって、サマンサが所詮は機械……というわけではない。
 本作はサマンサを怪物扱いしたり所詮は機械とおとしめたりせず、あくまで優しく好意的なキャラクターとして描いている。
 そんな描き方ができるのは、作り手がテクノロジーと生物についての哲学を持っているからだろう。テクノロジーを過大に捉えたりせず、卑小に捉えることもなく、人間社会を構成するものの一つとして正面から取り上げた本作は、優れたSF作品である。

 心や意識の働きはシナプス間を伝達される信号によるものだ。であるならば、充分な複雑さを備えた仕組みであれば、人工物でも同じような働きができるのではないか。
 そう考察したのが『宇宙戦艦ヤマト2199』の第9話「時計仕掛けの虜囚」だった。
 本作の根底にも同様な考察がうかがえる。

 人間が変わるように、サマンサもまた変化する。人間が成長するように、サマンサもまた成長する。
 サマンサが高次の世界に旅立つ幕引きは、SFらしい深遠さとともに、籠の鳥に留まらない女性との別れのほろ苦さを漂わせる。
 そしてそこには変化への、成長への、力強い肯定がある。
 小さな機械の画面に目を奪われている私たちに、顔を上げさせ、周りの人に注意を向けさせる力強さがある。

 長年、代筆人をしていたセオドアは、最後に彼の手紙を書く。
 彼からの、彼自身の想いを込めた手紙だ。
 それはサマンサではなく、人間のキャサリンへの手紙だった。キャサリンに素直な想いを届けられるほど、彼もまた成長したのだ。
---
親愛なるキャサリン

僕はここに座って、君に謝罪したかったすべてのことを考えていた。
お互いが原因のすべての痛み。君に押し付けたものすべて。僕が君に求めたすべてのもの、君に云ってもらいたかったすべてのものを。
すまなかった。
僕はいつも君を愛している。僕たちはともに成長し、君は僕を手助けしてくれた。
君のかけらはいつも僕の中にあるんだと知って欲しかった。そして僕はそれに感謝しているんだ。
君がどんなに変わろうと、世界のどこにいようと、僕は君に愛を送るよ。
最後まで君は僕の友人だ。

愛を込めて、セオドア
---


her/世界でひとつの彼女 ブルーレイ&DVDセット(初回限定生産/2枚組) [Blu-ray]her/世界でひとつの彼女』  [は行]
監督・脚本/スパイク・ジョーンズ
出演/ホアキン・フェニックス スカーレット・ヨハンソン エイミー・アダムス ルーニー・マーラ オリヴィア・ワイルド クリス・プラット マット・レッシャー ポーシャ・ダブルデイ
日本公開/2014年6月28日
ジャンル/[ロマンス] [SF] [コメディ] [ドラマ]
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【theme : 特撮・SF・ファンタジー映画
【genre : 映画

tag : スパイク・ジョーンズ ホアキン・フェニックス スカーレット・ヨハンソン エイミー・アダムス ルーニー・マーラ オリヴィア・ワイルド クリス・プラット マット・レッシャー ポーシャ・ダブルデイ

『マレフィセント』は『眠れる森の美女』より『アナと雪の女王』!?

 【ネタバレ注意】

 『マレフィセント』は『眠れる森の美女』の翻案でありながら、一見すると『アナと雪の女王』のようだ。
 『アナと雪の女王』の米国公開は2013年11月、『マレフィセント』は2014年5月だから、ディズニーは立て続けに似たような映画を公開したことになる。


■『マレフィセント』は『アナと雪の女王』にそっくり!?

 『マレフィセント』の基になった『眠れる森の美女』は、チャイコフスキーのバレエ音楽でも知られるヨーロッパの民話である。他方、『アナと雪の女王』の原案はハンス・クリスチャン・アンデルセンの創作童話『雪の女王』だから、まったく無関係な別物だ。
 しかし、両者に符合を見出す人は多いだろう。

a. 原作では悪役(主人公に不幸をもたらす存在)である女性を主人公にして、不幸をもたらすようになった経緯を解き明かしている。

b. 彼女は根っからの悪人ではなく、元は明るく優しい少女だった。変わってしまったのは、それだけ悲しい過去があったからだ。

c. 石のような心の女王になった今は、他者との交流を拒絶する。

d. かつてヒロインを幸せにするのは素敵な王子様と相場が決まっていたが、現代では男性は役に立たない。特に一目惚れは信用ならない。

e. (氷になったり、目覚めぬ眠りについたりして、)普通の暮らしができなくなった娘を救い、社会復帰させるのは、大人の女性の真実の愛だ。

f. 自分の中に真実の愛があることに気付いて、彼女もまた孤独から救われる。

 ウォルト・ディズニーがアニメを制作していた頃は、王子様にキスしてもらってヒロインが幸せになったことを思えば、ディズニーアニメも時代に合わせてずいぶん変わったものである。
 年若いプリンセスより女王の方に物語のウエイトがあるのは、幼い頃ディズニーアニメを観て育った女性たち(母親たち)にもアピールしたいからだろう。
 『クレヨンしんちゃん』の映画が子供を連れてくる親も満足できるように作られているのと同じように、ディズニーもまた観客動員を高めるには誰にアプローチするべきなのかを心得ているのだ。
 だから同時期に並行して企画開発された『マレフィセント』と『アナと雪の女王』が、似たような傾向になるのはもっともだ。

 『アナと雪の女王』におけるd(男性は役に立たない)やe(少女を救うのは女性の愛)をもって、過激なメッセージを持つ物語と評する向きもあるが、それは1937年の『白雪姫』や1959年の『眠れる森の美女』に比べればの話で、2009年の『プリンセスと魔法のキス』で王子様に頼らないヒロイン像を確立済みのディズニーにあっては、『アナと雪の女王』といえども時代に即した保守的な話である。
 それどころか、庶民の子供が主人公の『雪の女王』をベースにしながら、相も変わらずプリンセスストーリーに仕立ててしまうところを見れば、昔ながらのディズニーらしさが濃厚だと思う。

 とはいえ私がここで注目したいのは、『マレフィセント』と『アナと雪の女王』の類似ではない。
 その違いなのだ。


■『眠れる森の美女』の謎

 アンデルセンの童話を跡形もなく改変した『アナと雪の女王』に比べ、『マレフィセント』は『眠れる森の美女』を損なわないように配慮している。
 基になるのは1959年にディズニー自身が作った長編アニメ『眠れる森の美女』だ。みずからの夢と魔法の世界を至上のものとするディズニーにとって、自社作品を尊重するのはとうぜんだろう。
 だから『マレフィセント』と『眠れる森の美女』は大きく違うようでいて、次のような差異に留まる。

・オーロラ姫(眠れる森の美女)の父ステファン王を悪人にした。
 ←『眠れる森の美女』ではステファン王の人間性を掘り下げてなかったから、たいして支障はない。

・オーロラ姫の母リア王妃は、姫の16歳の誕生日を待たずに死ぬ。
 ←『眠れる森の美女』でもストーリーにはほとんど絡まないから支障はない。

・マレフィセントはオーロラ姫に眠りの呪いをかけつつ、みずから「真実の愛のキスを受ければ目覚める」と呪いの終了条件を設定する。
 ←本来、呪いに終了条件を設定するのはオーロラを祝いに来た妖精だ。本作のマレフィセントは妖精のお株を奪ってしまうのだが、彼女は真実の愛など存在しないと考えているから、終了条件を設定したのではなく皮肉を利かせたつもりでいる(どうせ永遠に目覚めないと思っている)。また、オーロラにかけられた呪いは、結果的に『眠れる森の美女』と同じ内容である。

・オーロラ姫はフィリップ王子のキスでは目覚めない。
 ←一目会ったくらいで真実の愛のキスができるなんて、今どきの観客は納得しないだろうから仕方がない。それに後述する理由から、一目惚れを否定するのは社会の要請なのだ。フィリップは善人だし、これからオーロラと恋愛関係になるであろうことが示唆されるから、それで良しとすべきだろう。

・魔女マレフィセント(とドラゴン)は姫の救出を阻むのではなく、姫を救うために戦う。
 ←これが最大の違いだ。その必然性は追い追い説明するとして、ここではドラゴンがちゃんと登場して『眠れる森の美女』唯一の戦闘シーンが再現されていることを指摘しておこう。

 さて、『眠れる森の美女』には幾つかの謎がある。
 なぜマレフィセントは、オーロラを目覚めぬ眠りにつかせるほどに恨みを募らせていたのか。
 『眠れる森の美女』では、祝宴に招かれなかった恨みからオーロラを呪うことになっているが、そんなことで人の一生を滅茶苦茶にするほど恨むだろうか。
 そもそも、なぜマレフィセントはオーロラ誕生を祝う場に招かれなかったのか。マレフィセントとはどのような人物だったのか。
 それを明らかにするのが本作だ。


■二時間に収めるためカットされた描写

 映画はマレフィセントの少女時代からはじまる。
 王や女王がおらず、妖精たちが仲良く暮らすムーア国。大きな翼で国中を飛び回るマレフィセントは、揉め事の仲裁役を買って出たりして、信望の厚い妖精だった。
 ある日、隣の人間の国からやってきた少年ステファンに出会った彼女は、簡単に心を奪われてしまう。

 ところが、長じて野心を募らせたステファンは、マレフィセントの翼を切り取って人間国の王ヘンリーに献上し、王の娘と結婚して次の王となった。
 大切な翼を切られて身も心も傷ついたマレフィセントは、ムーア国全体を闇で覆い、陰湿な支配者となる。
 やがてステファン王に王女が誕生すると、マレフィセントは祝宴の場に乗り込み、王女が16歳で死のような眠りにつくという呪いをかける。
 それからというもの、ステファン王はマレフィセントの復讐を恐れ、国政も家庭もないがしろにして、マレフィセントを滅ぼすことだけを考えるようになる。

 一方、マレフィセントは呪いの成就を見届けるために、王女オーロラの成長を観察する。
 だが、オーロラが16歳になって眠りにつくのを見届けようという気持ちは、いつしか16歳までは無事に生かさなければという思いに変わり、オーロラの後見人(ゴッドマザー)として陰から見守るようになる――。

 実は少女時代のマレフィセントとムーア国の様子については、もっと描写があった。
 ムーア国には妖精の王キンロックと女王ウラがおり、姪であるマレフィセントはウラ女王から嫌われていた
 けれども映画を二時間以内に収めるために、『しあわせの隠れ場所』や『ウォルト・ディズニーの約束』の監督ジョン・リー・ハンコックを助っ人に迎えて、冒頭部分が再撮影された。そして97分に縮められた完成版からは、キンロック王役のピーター・キャパルディやウラ女王役のミランダ・リチャードソンの出演シーンが削られてしまった

 この改変により、マレフィセントが王位継承者(プリンセス)であることを示す描写がなくなってしまった。翼を失ったマレフィセントがムーア国の女王に納まるのは唐突に感じられる。
 だが、物語の軸をマレフィセントとステファンの関係に絞る上では必要な措置だったかもしれない。
 「マレフィセントは、なぜオーロラを目覚めぬ眠りにつかせるほどに恨みを募らせていたのか」「なぜオーロラ誕生を祝う場に招かれなかったのか」という疑問に答えるには、ステファンがマレフィセントに何をしたかが重要だからだ。


■『アナと雪の女王』とは正反対の『マレフィセント』

 ステファンの野心の犠牲になり、心身ともに傷ついたマレフィセントは、明るさも朗らかさも失い、氷のように冷たい女王になってしまう。
 これが本作と『アナと雪の女王』の最大の類似であり、最大の違いである。
 『アナと雪の女王』の主人公エルサも明るく朗らかな少女だった。
 しかし、エルサの両親はなんでも凍らせる彼女の能力を忌み嫌い、その力を隠すように命じた。エルサは社会と折り合っていくために、自分の個性を抑えつけて生きねばならなかった。

 多くの映画は逆である。
 しばしば映画の主人公は未熟な状態からスタートして、社会に認められるように変化していく。努力しろ、頑張れ、そうはっぱをかけられて成長していく。

 ところが『アナと雪の女王』の主人公エルサは、すでに自分ならではの特別なものを持っているのに、それを抑圧することを強いられた。彼女にとって、社会に受け入れられるように頑張るのは、本来の自分を押し殺すことだった。
 日々頑張ることに疲れていた観客には、もう自分を抑えるのはやめようと歌うエルサこそが本当に共感できる主人公だったのだろう。『アナと雪の女王』が大ヒットし、エルサが歌う主題歌『レット・イット・ゴー ~ありのままで~』をみんなが口ずさむのは、疲れ切った現代人が珍しく解放感を味わえたからに違いない。

 『マレフィセント』の主人公もありのままの自分ではいられないが、その方向はエルサと正反対だ。
 自分を抑えて社会に合わせることを強制されたエルサとは逆に、悲劇に見舞われたマレフィセントは社会性を失ってしまう。

  マレフィセント ←(社会性を失う)← 《ありのままの私》 →(無理に社会に合わせる)→ エルサ

 エルサは社会の要請に従ったために、かえって人付き合いできなくなってしまう。マレフィセントは他者と友情や愛情を交わせなくなり、主従関係しか構築できなくなってしまう。
 エルサにとっては社会のために無理をするのをやめること、ありのままの自分を受け入れてもらうことが喜びだ。マレフィセントにとっても本来の自分を取り戻し、以前のように他者と仲良くなるのが喜びだ。

 エルサとマレフィセント、『アナと雪の女王』と『マレフィセント』は裏表の関係なのだ。
 『アナと雪の女王』は社会に溶け込もうと無理をしている多くの人に受け入れられるだろうが、それでも残る『アナと雪の女王』に共感できない人――社会との関係を考えさえしない人に向けられた作品が『マレフィセント』なのだ。
 いずれも、ありのままの自分を強く肯定する作品だ。

 でも、『アナと雪の女王』に共感できない人とは、どんな人物だろうか。
 社会で生きていくために、誰もが多かれ少なかれ我慢したり無理を重ねたりして頑張っている。そんな苦労からの解放を歌う『アナと雪の女王』に共感できない人とは?


■『マレフィセント』が暗示するもの

 それは大きな悲劇に見舞われた人だ。
 社会の一員として生きていく意欲すら失ってしまうほどの苦しみを味わった人だ。

 マレフィセントにとって、ステファンは特別な存在だった。とりわけ信頼し、好意を寄せる相手だった。
 なのにステファンは彼女を裏切った。彼女に薬を飲ませ、意識を失わせて切り刻んだ。
 マレフィセントを演じたエグゼクティブ・プロデューサーのアンジェリーナ・ジョリーは、これはレイプのメタファーなのだと語る。「女性から女らしさや母性を失わせて、凶悪にさせてしまうものは何でしょう。それはもちろん、暴力的で攻撃的なものに違いありません。脚本家のリンダ・ウールヴァートンと私は、問題のシーンをレイプのメタファーとして意図しました。」

 マレフィセントは好意を寄せていた男にレイプされ、捨てられた。
 なのに、その男は金と地位のために愛のない結婚をし、子供をもうけて、人々から祝福されている。こんなことが許せるだろうか。
 本作がマレフィセントとステファンの和解に至らずに終わってしまうのもとうぜんだ。こんな男は彼女の視界から消えるしかない。

 『アナと雪の女王』も『マレフィセント』も、会ったばかりの男に気を許すことを強く戒めている。
 10代の妊娠の多さに頭を悩ます米国では、子供が観るディズニー作品は、会ってすぐにキスだの結婚だのは否定してくれないと困るのだ。

 また、マレフィセントを襲う悲劇がレイプだと考えれば、本作がいかに深い愛を描いているかも判る。
 マレフィセントはレイプ犯が他人とのあいだにもうけた子供を見守り、その子を引き取って一緒に暮らそうとする。レイプ犯の面影が宿る子供をだ。
 子供に罪はない、といってもなかなかできることではない。
 けれども本作はマレフィセントの心情を丁寧に綴り、どんなに親を憎んでも子供は愛せることを示す。

 ここに至って、本作はナチス高官の子供たちを描いた『さよなら、アドルフ』にも似た境地に達する。
 子供に罪はない。たとえ親を憎んでも、親世代と戦争しても、それは親との問題だ。生まれた子供をちゃんと見れば、愛をもって接することができる。
 憎しみの連鎖を断ち切ること。それは親や生まれに囚われず、一人ひとりの人間と真正面から向き合うことなのだ。


マレフィセント MovieNEX [ブルーレイ+DVD+デジタルコピー(クラウド対応)+MovieNEXワールド] [Blu-ray]マレフィセント』  [ま行]
監督/ロバート・ストロンバーグ
出演/アンジェリーナ・ジョリー エル・ファニング シャールト・コプリー サム・ライリー イメルダ・スタウントン ジュノー・テンプル レスリー・マンヴィル ケネス・クラナム ブレントン・スウェイツ イゾベル・モロイ ハンナ・ニュー ヴィヴィエン・ジョリー=ピット
日本公開/2014年7月5日
ジャンル/[ファンタジー] [ドラマ]
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【theme : ディズニー映画
【genre : 映画

tag : ロバート・ストロンバーグ アンジェリーナ・ジョリー エル・ファニング シャールト・コプリー サム・ライリー イメルダ・スタウントン ジュノー・テンプル レスリー・マンヴィル ケネス・クラナム ブレントン・スウェイツ

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