『そこのみにて光輝く』 底のみにて見える光

映画の数だけ違う魅力があると思うが、これだけは欠かせないというものは何だろうか。
ストーリーの面白さじゃないことは確かだ。
ストーリーが面白い映画も良いけれど、先の展開が読めてしまう映画でも一向に構わない。小津安二郎監督の映画や『男はつらいよ』シリーズに足を運ぶ観客は、波乱万丈の物語や意表を突いたオチなんて望んでいない。ルイス・ブニュエル監督の『アンダルシアの犬』のように、ストーリーがない映画もある。
音楽も必ずしも重要ではない。優れたミュージカル映画がある一方で、『白いリボン』のように音楽が一切なくても傑作たり得る。
映像はとても大事だが、ターセム・シン・ダンドワール監督の人工的で豪勢な映像やら、タルコフスキー監督の野原を歩くだけの映像やら、映像にも様々なものがあり、これが魅力とは特定しにくい。
映画は総合芸術だから、一つの要素を取り出して検討してもあまり意味はないが、私が特に重視しているのは映画の持つリズムである。
映像の切り替わりや役者の動作、背景に流れる音楽、それらが統合して心地好いリズムを伝えるとき、いい映画だと感じる。次のショットに変わる際の微妙な間合いや、役者が口にするセリフのテンポ。あらゆる要素がリズムを生み出し、観客を陶酔させる。そんな映画に出会えると、最高に嬉しい。
呉美保(お みぽ)監督の『そこのみにて光輝く』も、そんな嬉しい作品だ。
題材の暗さにも関わらず、物語の救いのなさにも関わらず、ここには清々しいほどの気持ち良さがある。いつまでも余韻に浸っていたい心地好さだ。
呉監督の奏でるリズムに、観客は共鳴し共感する。
細部まで神経の行き届いたその心遣いは、まるで老舗の旅館のようだ。豪華ではないし、食べ放題のような目玉企画もないけれど、快適で忘れられない旅館だ。
良い旅館は押しつけがましいところがない。じんわりと感じる居心地の良さを提供する。
本作には説明的なところがない。説明せずに、じんわりと感じさせる。
たとえば、シーンが変わるとカレーライスの大盛りが映る。ルーがこぼれそうなほどのカレーライスは、観客の気分を引き立てる。そのあとに本作にしては明るい会話が続くのも、カレーの後では不自然じゃない。フライパンの少しばかりのチャーハンを分け合って、フライパンから直接食べていた境遇から、カレーライスの大盛りへ。そこに説明臭いセリフはないけれど、登場人物たちの「ちょっと良くなった感じ」が言外に伝わってくる。
あるいは、緊迫したシーンでの効果音の使い方。
緊迫したシーンには、どんな音楽や効果音が適するのだろうか。情報医療を研究する本田学氏は、無音こそ危険が迫っていることを示すだろうと推察する。
「この部屋の環境音をなくしたら、急に圧迫感みたいなものを感じましたよね。昔、熱帯雨林にいた生物にとっては、何かの危険が迫ってたりすると、ぱっと音がやんで、警告反応みたいなものを起こしちゃうんじゃないかと。高周波音があるのがベースだとしたら、音がなくなることのほうがむしろシグナルとしては強く作用して、それが慢性的に続くと、ストレス反応みたいなものに近づいたりとかしていかないかと……」
本作でもっとも緊迫したシーンでは、すべての音が消えてしまう。音楽も効果音もない。
呉美保監督が脳の研究を踏まえたのかどうか知らないが、全編緊張を強いる『ゼロ・グラビティ』が音楽を多用し過ぎて逆効果だと感じていた私は、本作の音の使い方に舌を巻いた。
その呉監督の演出に応えた出演陣がまた素晴らしい。
特に惚れ惚れするのが池脇千鶴さんだ。どの映画でも彼女が登場すれば引き締るが、本作は出ずっぱりなので最後まで締りっぱなしだ。
呉監督は「今回はラブストーリーということもあり、観客の男性には千夏という女に惚れてもらいたい、同時に一人の人間として、千夏を肯定したいと考えました」と語る。
監督の狙いどおり、池脇千鶴さん演じる千夏という女には、魅了されずにいられない存在感がある。
本作でたった一つ説明的なのはタイトルだ。本作の二時間は、『そこのみにて光輝く』という短い言葉を説明的に感じさせないための、観客の腑に落とすための時間でもある。
本作は社会の底辺に生きる人々の救いのない人生を追いながら、やがて『そこのみにて光輝く』という言葉に集約していく。
暗い闇に閉ざされた人生でも、そこでは、そのときだけは光輝く。一瞬かもしれないけれど、他の人は気付かないかもしれないけれど、確かに光輝いている。
その瞬間を示す映像。それを見られたことが、何よりも幸せだ。

監督/呉美保 脚本/高田亮
出演/綾野剛 池脇千鶴 菅田将暉 高橋和也 火野正平 伊佐山ひろ子 田村泰二郎
日本公開/2014年4月19日
ジャンル/[ドラマ] [ロマンス]

『闇金ウシジマくん Part2』 正義とは悪だった!

前作の映画『闇金ウシジマくん』では、劇場版らしい華が必要だと判断されたのか、大掛かりなイベントやウシジマくんのアクションが盛り込まれて少々派手過ぎな気がしたけれど、『闇金ウシジマくん Part2』はテレビシリーズのSeason1やSeason2のノリに近く、ウシジマくんらしさに満ちている。
闇金融は犯罪だ。このことは劇場版でもテレビシリーズでも幾度となくテロップで強調され、観客及び視聴者がウシジマくんをヒーロー視しないように配慮されている。
だが本シリーズでは、凶悪な闇金業者ウシジマくんの無慈悲な取り立てが、ダメな債務者を地獄へ叩き落とす正義の鉄槌に見えるところがミソである。
それはウシジマくんの行動が、一般的なビジネスの約束事と共通しているからだ。
金の流れを見れば判りやすい。
ウシジマくんが債務者に金を渡し、債務者は10日で5割の利息を持ってくる。利息の支払いが遅れれば、ウシジマくんに延滞料を取り立てられる。
これは、顧客が事業者に金を前払いし、事業者が納期までに商品を納める(あるいはサービスを提供する)のと同じようなものだ。期日に遅れれば顧客に怒られるし、違約金を取られても文句は云えない。
契約で定めた納期に間に合わせるのは、いかなるビジネスでも当然のことだ。
そこに納得できるから、そしてしばしば期日に商品が届かずに不快な思いをすることがあるから、観客はウシジマくんの無茶な取り立てを痛快に感じてしまう。
10日で5割なんて利息を課すのは現行法に違反するので、ウシジマくんは犯罪者だが、そもそも約束を守らない債務者が腐っているのだ。
しかし、ウシジマくんは怖い。
なぜなら、彼には情けがないからだ。
人間誰しも自分が可愛い。身内も可愛いし、好きな人と嫌いな人では接し方が異なりもする。
しかも、人間には本能として利他心が備わっている。困っている人を見れば助けずにはいられないし、親切な人には自分も親切にしたくなる。そういう情の通った人間関係を心地好く感じるのだ。
ウシジマくんにはそれがない。人間なら備わっている感情がない。やり遂げたい目標もなければ、ドロドロした欲望もない。彼がやっているのは、10日で5割というルールを他人に守らせることだけだ。
マンガ家のとり・みき氏が「あまり契約がしっかりしてくると、僕とかは真っ先に〆切の件で契約不履行と言われる怖れがある」と云うように、誰でも人付き合いの中で多少の融通は利かせて欲しいものだ。立場が逆であれば、できることなら少しぐらいは待ってあげたいと思う。そうやって少しずつ融通し合い、許し合うことで、人間関係は円滑になると思う。
少しの融通も利かせずに無理矢理取り立てるのは、薄情な気がする。
だが、融通を利かせたことで円滑になるのは、目の前の人との、その場での関係だけだ。
マンガ家が〆切に遅れても雑誌の発行日は変えられないから、遅れのしわ寄せは誰かに行く。本来しなくて良いはずの残業で吸収するとか、そのために前から予定していたデートをキャンセルするとか、余計な残業代がかかるといった形で、誰かが迷惑を被る。その誰かからすれば、必ず期日までに取り立ててくれる者がいればありがたいはずだ。その人にとってはヒーローだろう。
ウシジマくんの無慈悲な取り立てが正義の鉄槌に見えるのは、ウシジマくんが約束を守らせることに徹しているからだ。約束を守らない腐った債務者を野放しにしないことは、ある種の正義ではないだろうか。
現実にはウシジマくんのような人間はなかなかいるまい。身内でも他人でも分け隔てなく冷徹に接するなんてことは、サイコパスでもなければできない。
山口雅俊監督がウシジマくんのことを「絶対にブレない壁」と表現するように、ウシジマくんは人間のいい加減さや甘えが通用しない状況が人の形になったものだ。だから山口監督は、本作を「怪獣映画」と呼ぶ。
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作品の構造としては、ウシジマ君は今の時代の金融モノ最前線という感じで、例えるなら「怪獣映画」。
ウシジマが演じているのは絶対的な“状況(怪獣)”で、あくまでドラマがあるのは“金に踊らされる債務者(人間)”という作品かな。
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たしかにこれは怪獣映画だ。
人間は感情的な生き物で、意見を簡単に翻す。
それに対して、感情でブレることなく、ルールを守らせるだけのウシジマくんは、人間を超越している。
ウシジマくんの位置付けがより明確になるのが、映画のオリジナルキャラクター、柳楽優弥さん演じるストーカーのエピソードだ。彼は窪田正孝さん演じるホストを襲撃するが、ウシジマくんに邪魔される。危うく殺されるところだったホストは、ウシジマくんのおかげで命拾いする。
山口監督がストーカーを登場させたのは、ウシジマの意図しないところで結果的に命を救う人を描きたかったからだという。
このシーンだけを取り上げれば、ウシジマくんが善いことをしたようにも見える。だが、ウシジマくんはホストを救おうとしたわけではない。そこにいる人間から利息を取り立てるのに、ストーカーが邪魔だから単に排除しただけだ。
このエピソードは、ウシジマくんが人間を超越し、善悪の彼岸に立っていることを象徴している。怪獣がたまたま悪人を踏み潰しても、怪獣に悪人を懲らしめる意思があったと考えるのは早計だ。通り過ぎる台風に向かって、恵みの雨をありがとうと感謝するか、被害がひどいと嘆くかは、人間側の事情にすぎない。
山口監督がウシジマ役の山田孝之さんに「ウシジマは本当に悪なので、状況をきちんと演じてください」と話したのも、思いやりとか情け心といった、一般的に善とされる人間らしさを排除するためだろう。人間を超越したウシジマを演じるには、人間性をにじませてはいけないのだ。それを一言で表せば、「悪」という言葉になるのだろう。
感情豊かで思いやりや情け心に富んだ人は、周囲から好感を持たれるに違いない。そんな人と一緒にいるのは楽しい。そうした価値観からすれば、情け容赦ないウシジマくんは悪の権化だ。
けれども、その場しのぎの云い訳や逃げ口上を許さず、ルールの厳守を求めるウシジマくんは、別の面から見れば正義の使者かもしれない。
はたして、ウシジマくんは正義か悪か。あなたの目にはどう映るだろうか。
[追記]
Part2で描かれるカウカウファイナンスの危機管理態勢も見どころだ。
ウシジマくんは、状況がはっきりしない中で行動するリスクと、はっきりするまで待ち続けて手遅れになるリスクを評価し、即座に対応する。その迅速な決断と、カウカウファイナンスのメンバーへの行動計画の徹底ぶりは、ビジネスパーソンのお手本となろう。

監督・企画・プロデュース・脚本/山口雅俊 脚本/福間正浩
出演/山田孝之 綾野剛 菅田将暉 中尾明慶 窪田正孝 門脇麦 柳楽優弥 崎本大海 やべきょうすけ 木南晴夏 高橋メアリージュン 希崎ジェシカ バカリズム 大久保佳代子 キムラ緑子 マキタスポーツ 本仮屋ユイカ 光石研
日本公開/2014年5月16日
ジャンル/[ドラマ]

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『WOOD JOB!~神去なあなあ日常~』 くじけない秘訣がある

『おおかみこどもの雨と雪』を観た地方出身の友人は息巻いていた。
『おおかみこどもの雨と雪』は、都会に住む若い女性が幼い子供を連れて山奥に移り住む話だ。とても面白い映画だし、彼女には都会で暮らしにくい事情があるのだけれど、それでも友人は「よそ者が田舎に行って、あんなに簡単に溶け込んで暮らせるわけがない」と否定的な感想だった。
それは『WOOD JOB!(ウッジョブ)~神去(かむさり)なあなあ日常~』を撮るに当たって、矢口史靖(やぐち しのぶ)監督が気をつけたことでもある。本作には、都会から神去村へ林業研修にやって来た平野勇気を温かく迎える住民が登場する一方で、あくまでよそ者扱いする住民もまた登場する。
パンフレットに掲載されたインタビューに、矢口監督のこんな言葉が載っている。
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勇気という"異物"をそうそう簡単に村が受け入れちゃダメだという考えが僕の中にあったんですね。
(略)
だから里山での暮らしを楽園のように勘違いして、「ああいう生活もいいな~」なんて軽い気持ちで仕事を辞めて田舎に行っちゃうような人にはこの映画を観て欲しくて。現地の人もいろんな感情を持っているし、相当な覚悟と努力もしないと簡単にはその場所に住めないということを、かなり強めに描きました。「里山は楽しそうだ」「林業、最高!」という啓蒙にならないようにも気をつけました。住んだらいろいろ大変そうだけど、本当にあったら行ってみたいよねと思える神去村にしたかったんです。
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その思いは、人物造形にも表れている。
伊藤英明さん演じるヨキは、「主人公の勇気が拒否反応を示すぐらい強烈な人物」にしたという。村人たちはいずれも軽々しくお近づきになれないような濃い人物ばかりだ。
併せて、痛烈に皮肉られるのがスローライフ研究会の学生たちだ。
スローライフとは、時間に追われながらファストフードで食事を済ませるような都会の暮らしに背を向けた生き方のことである。
自然に囲まれた生活に興味がある彼らは、勇気を訪ねて神去村にやって来る。
しかし、完全に物見遊山で、村人たちへの接し方も失礼極まりない。
コンビニエンスストアもなければ携帯電話の電波も届かない。そんなド田舎に腰を据える覚悟のない彼らを、本作はけちょんけちょんにこき下ろす。
里山に住むのは、単なるライフスタイルではないのだ。
映画はそれを強調するため、山の神を登場させる。
里山に住む人々には土地に根差した信仰があり、山に入ってはいけない日を設けたり、48年に一度盛大に神を祭るといった宗教的約束事の上に彼らの共同体が成り立っている。自然に囲まれて暮らしたいだの、林業が面白いだのの以前に、信仰心が生き方を規定している。都会から来た研修生が逃げ出してしまうのは、仕事のきつさもさることながら、同じ宗教を信仰できないからだろう。
先進国には珍しく自然崇拝が色濃く残る日本らしい描写だが、スローライフ研究会の学生が追い出されるエピソードは、里山に住むことを一種のライフスタイルと勘違いした都会人の浅はかさを浮き彫りにしている。
トドメはクライマックスの神事、大山祇祭(オオヤマヅミサイ)だ。
CGではなく、限りなく実写で撮影することにこだわったという祭りのシーンは、巨大セットの迫力も相まって、実に見応えがある。
伊藤英明さん、染谷将太さんをはじめとする男優陣やテレビ各局の男性アナウンサーのふんどし姿に魅了される人もいるだろう(長澤まさみさんがふんどし一丁だったら、私も鼻血が出るほど喜ぶところだ)。

矢口監督が「世界一巨大で危険な奇祭」を目指したと語るように、本作が描くオオヤマヅミサイは里山ならではの特殊な祭りだ。祭りを行うには、巨木を切り倒したり組み上げる高度な技術が要求され、林業に精通した者でなければ実施できない。
しかも、格好は多くの人が抵抗を感じるふんどし一丁。公式サイトによれば、ふんどし姿が嫌がられて、エキストラを集めるのに難航したそうだ。
かっこいいからやってみようとか、気軽に参加してみようと思える祭りではない。
クライマックスに伝統的な祭りや儀式を持ってくる映画は少なくない。
祭りや儀式はしばしば人間本来のエネルギーに満ちたものとして肯定され、現代社会、特に都会に対するアンチテーゼとして描かれる。そこには伝統的共同体への憧憬と、現代社会への批判がある。
だがそれらの映画は自己矛盾を抱えている。他ならぬ、映画であるという点で。
映画は現代社会ならではのメディアだ。撮影も録音も映写も音響も、科学技術の進歩のおかげでここまで来た。映画館を維持するには、人口の集積が必要だ。ご多分に洩れず電気を食うこのメディアは、インフラの整った現代の都会でなければ真価を発揮できないのだ。
いくらスクリーンの中で伝統的共同体への憧憬を謳っても、映画というメディアを利用する限り作品は説得力を持ちえない。
本作がそのような作品と違うのは、祭りのエネルギーの大きさを強調しながらも、現代社会へのアンチテーゼにしていないからだ。本作の里山は都会へのアンチテーゼではない。どちらが良いとか悪いとか、白とか黒とか正とか反とか主張するものではない。
伝統的共同体への安易な憧憬を戒める本作が教えるのは、多様性なのだ。
都会の生活に満足している人は都会で暮らせば良い。ただ、世界はそれだけではない。里山には里山の魅力があり、それは都会では味わえないものだ。世界は多様で、人生の選択肢は幅広い。
本作がちょっと珍しい職業の紹介や、社会に出たての若者の成長物語にとどまらないのは、そこに視野の大きな世界観があるからだ。
とはいえ、へなちょこな若者である勇気は、慣れない林業の世界を前にしてアッサリくじけそうになる。
そんな勇気が思い直し、モチベーションを持続できた理由はただ一つ、下心だ。
下心――それはどんな過酷な状況でも男を奮い立たせる最大のエネルギー源である。
原作の勇気が神去村を訪れたのは、高校の担任教師に就職先を決められたためだが、映画の勇気は募集チラシの美女――長澤まさみさん演じる直紀(なおき)に惹かれてみずから神去村に行くことにする。この改変は、女性の原作者と男性監督の違いに起因するのかもしれない。勇気が研修から脱走するのを思いとどまるのも直紀に出会えたからだし、配属先に中村林業株式会社を選ぶのも直紀の服に中村林業のネームが入っていたからだ。
様々な試練に見舞われても、その根底に下心があるからくじけない。それは本作を貫く生命力というテーマの表れでもある。
いつでも下心を失わずに頑張る勇気に、男性諸氏は大いに共感するだろう。
さて、本作は笑いと涙に溢れた抜群に面白い映画だが、技術面もまた興味深い。
「いいたいことやテーマや感性は最終的には技術に集約される」と云ったのは、マンガ家のとり・みき氏だ。
公式サイトによれば、本作では山間部の自然の美しさと都会の窮屈さを描き分けるため、山間部はフィルムで撮影し、都会編のみデジタルカメラで撮影したという。コマ撮りを用いて雪解けと春の訪れを瞬く間に表現するのも、アニメーションならいざ知らず、実写映画ではなかなかお目にかからない。
ややもすれば地味なイメージになりかねない田舎の林業ばなしでありながら、映像の新鮮さでぐいぐい引っ張るのは見事である。
とりわけ本作で印象的なのが、巨木の上から林業家が見る光景だ。
その雄大な景色は、山奥の木のてっぺんに登った者だけが見てきたものだ。
巨木は林業家の祖父や曾祖父が植えたものであり、現代の林業家が植えた木はいつか孫や曾孫が登る。
林業家が収穫するとき、その木を植えてくれた祖父や曾祖父はすでに亡く、自分が植えた木の収穫を生きて見ることもない。
林業家が生きる時間と空間の大きな広がり。それを伝える映像が、本作最大の見どころだ。

監督・脚本/矢口史靖 脚本協力/矢口純子
原作/三浦しをん
出演/染谷将太 長澤まさみ 伊藤英明 優香 西田尚美 柄本明 光石研 近藤芳正 マキタスポーツ 有福正志
日本公開/2014年5月10日
ジャンル/[青春] [コメディ] [ドラマ]

『レイルウェイ 運命の旅路』 日本人にできること
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映画を完成させ、世界に発信していくことの意義――その崇高さに圧倒される作品がある。
『レイルウェイ 運命の旅路』がまさにそれだ。
「愛を持って作られた作品なので、愛を持って受け止めていただけたらうれしいです。」
劇中でニコール・キッドマンが演じたヒロイン、パトリシア・ローマクスさんご本人が来日し、ティーチインイベントで日本の観客に伝えた言葉のなんと重いことだろう。
この映画を観た今、本作の後日談を作っていくのは私たち自身であることを痛感する。
あの戦争で、日本兵を襲ったのは飢えだった。
映画の見せ場としては敵軍との戦いや特攻の方が絵になるから、それらのシーンを盛り込んだ「戦争映画」が横行するけれど、実際の戦争では餓死者が戦死者を上回っていた。アジア・太平洋戦争で戦没した日本兵230万人のうち、60パーセントの140万人が戦病死者(ほとんどが餓死者)である。特攻死したのは4,000人と云われ、1~2パーセントだ。[*1]
物資の補給もなく送り込まれた日本兵たちは、生き延びるために畑を耕したり、人間を食べたりしていた。
自国の兵ですらそんな扱いだった大日本帝国軍は、捕虜の扱いもひどかった。
大日本帝国は、捕虜の扱いを定めたジュネーヴ条約のうち「俘虜の待遇に関する条約」を批准していなかった。それは、帝国軍人たるものは捕虜になったりしないのだから外国軍に捕虜の待遇を考慮してもらうには及ばず、したがって大日本帝国も外国軍人の待遇については考えない、という呆れた理由からだった。[*2]
それでも、太平洋戦争の開戦直後は同条約を準用すべく法制度を整備する動きもあったのだが、大量に獲得してしまった捕虜たちを前にして、それはまったく追いつかなかった。[*3]
「死の鉄道」と呼ばれる泰緬鉄道(たいめんてつどう)の建設も、このような中で行われた。
大日本帝国陸軍は、タイとビルマを繋ぐこの鉄道の建設に、連合国軍の捕虜やタイ、ビルマ、マレーシア、インドネシアの人々を動員した。あまりにも過酷な労働環境は従事者の精神と肉体を破壊し、8万人とも10万人とも云われる死者を出した。
戦後、この鉄道建設を有名にしたのがデヴィッド・リーン監督の映画『戦場にかける橋』だ。1957年公開のこの映画は泰緬鉄道の建設を描いてアカデミー賞7部門を受賞した傑作だが、英軍捕虜として鉄道建設に従事したエリック・ローマクス氏はこの作品に対して「あんなにたらふく食べる戦争捕虜を見たことがない」とコメントしている。
捕虜として劣悪な環境に置かれ、死ぬまで働かされた人々の恨みと憎しみはいかばかりであったろう。
そんな元捕虜から「握手したいたった一人の日本人」と云われた男、永瀬隆氏を描いたのが『レイルウェイ 運命の旅路』である。
本作は、エリック・ローマクス氏の自叙伝に基づいている。生きて帰れはしたもののPTSD(心的外傷後ストレス障害)に悩まされて、まともな生活が送れない現代のエリックと、大日本帝国の捕虜だった地獄の日々とが交互に映し出される。
過酷すぎて、最愛の妻パトリシアにすら打ち明けられなかった戦争の記憶。甦る怒りと悪夢の前に壊れていく結婚生活。映画は何も語ろうとしない/語れないエリックの苦しみを延々と描写する。
映画のクライマックスは、戦争中エリックに拷問する側だった永瀬との再会だ。
パトリシアさんは日本でのティーチインイベントで次のように語った。
「主人は永瀬さんと会う瞬間まで復讐心を持ち続けていた。しかし実際に対峙してみると、そこには自分と同じく年を重ねた男がいて、彼は主人に心から謝罪した。主人はそれを機にすべてから解放され、永瀬さんと戦争について語り始めた。」
二人が親友になれたのは、永瀬隆氏が和解のために尽力してきたからだろう。
一年半に及ぶ文通を重ねた上での再会を、映画では不意に訪れたように描く等、本作には劇的に見せるためのアレンジが施されている。しかし、そのアレンジで本作の描くところが歪むわけではない。
エリックが自叙伝を書けたこと、それを映画として私たちが観られることが、彼が孤独な苦しみから解放された証である。
本作が描く和解というテーマは胸を打つ。
その上、さらに私を感嘆させたことがあった。
本作は、なんとオーストラリアとイギリスの合作なのだ。元イギリス兵と元日本兵がタイで再会して和解する物語、そのどこにもオーストラリアは関係しないのに。
英語圏で制作コストの安いオーストラリアは、多くの国と合作している。『LEGO ムービー』だって『マトリックス』シリーズだって米国とオーストラリアの合作だ。
本作もそもそもはイギリスではじまった企画である。
だが、米国の監督がスタジオとしてオーストラリアを利用するのとは違い、本作はオーストラリア人監督の手で作られている。オーストラリア映画としてオーストラリア映画批評家協会賞の6部門に選出され、見事ニコール・キッドマンが主演女優賞を受賞している。
オーストラリアの映画人にとって、本作をつくるモチベーションはどこにあったのだろうか。
戦争はオーストラリアにも傷痕を残した。
戦争当時、シンガポールには連合国軍の合同司令部が置かれていた。そのため、1942年2月15日のシンガポール陥落においてオーストラリア兵18,000人も捕虜になっており、泰緬鉄道の建設では2,710人のオーストラリア人が命を落とした。彼らの大多数は栄養失調、病気、日本人と朝鮮人監視人による虐待で死亡したという。
大日本帝国軍はオーストラリア本土も攻撃した。たび重なる空襲や潜水艦の魚雷攻撃に、民間人を含む多くのオーストラリア人が犠牲になった。
今では日本人と親友になったオーストラリア人でも、酒が入れば日本軍に親戚・友人が殺されたことを苦々しく語ることがあるという。
ここで思い出すのが、ティーチインイベントでのパトリシア・ローマクスさんの言葉である。
「戦争は、勝ち負けじゃない。この映画も勝者を決めつけていません。自分の国の歴史を知り、そこから学べば、この先戦争を止めることができると思います。」
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彼らの優雅な生活は、ナチス・ドイツの敗北を機に一変する。ナチスの身内に世間は冷たく、幼い子供までが、むごたらしく痛ましい目に遭う。父母の影響でユダヤ人を蔑んでいた子供は、父がいかに残虐なことをしていたかを知り、価値観の崩壊に直面する。
この映画のメッセージは明らかだ。どんなにナチスを憎む人でも、「子供世代は悪くない」と庇ってあげたくなる映画だ。戦争を憎む、罪を憎む、それはとうぜんのことだけど、当事者でない子供たちやそれ以降の世代にまで罪を着せるのは間違っている。そんな主張がひしひしと伝わる映画である。
この映画をドイツ映画界が発信したなら、他国の反発を招いたかもしれない。他国から見たら、単なる言い訳だ。
しかし、ドイツ人キャストで構成され、ドイツで撮影された『さよなら、アドルフ』もまた、オーストラリア映画である。
オーストラリアのケイト・ショートランド監督はこの物語に今日性を感じて映画化し、第85回アカデミー賞外国語映画賞のオーストラリア代表の座を勝ち取った。
『レイルウェイ 運命の旅路』も『さよなら、アドルフ』も、戦争中の残虐行為をきちんと取り上げ、かつてのイギリス人やユダヤ人の苦難に理解を示した上で、今を生きる日本人やドイツ人との関係に言及した映画である。
日本映画やドイツ映画としては言い訳がましくなってしまう内容を、当事国ではない立場から発信することで世界に広めている。
当事国ではないからこそ発信できることがある。平和に貢献できることがある。そんな心意気がこれらの映画からは感じられる。
一つ残念な点を挙げるとすれば、『レイルウェイ 運命の旅路』の制作に日本が資金を提供していないことだ。
ドイツはイギリスとともに『さよなら、アドルフ』に出資している。『ハンナ・アーレント』や『ソハの地下水道』の記事でも書いたように、ドイツは映画を通じた国際世論への働きかけが巧いと思う。
日本も『レイルウェイ 運命の旅路』の制作を資金面から応援できれば良かった。
それでも、本作のために日本人にできることがある。
それは本作の上映館を観客でいっぱいにすることだ。
第26回東京国際映画祭での本作の上映に際して、永瀬隆役の真田広之さんはこのようなメッセージを寄せている。
「この実話に基いた物語は、これから映画という形をとって、観客の皆様の手に委ねられ、あらたな旅路に着きます。世代や立場によって、様々なご感想がお有りかと想われます。それらも全て含めて、感じたままに語り合い、また、後々まで語り継いで頂ければ幸いです。」
追記
ハリウッド等がオーストラリアで映画を制作するのは、優遇税制や補助金があるからだそうだ。
[*1] 東島誠・與那覇潤 (2013) 『日本の起源』 太田出版
[*2] 海軍次官発外務次官宛「『俘虜ノ待遇ニ關スル千九百二十七年七月二十七日ノ條約』御批准方奏請ニ關スル件囘答」官房機密第1984号ノ3(1934年11月15日)
[*3] 立川京一 (2007) 「日本の捕虜取扱いの背景と方針」『平成19年度戦争史研究国際フォーラム報告書』
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監督/ジョナサン・テプリツキー
出演/コリン・ファース ニコール・キッドマン ジェレミー・アーヴァイン ステラン・スカルスガルド サム・リード 真田広之 石田淡朗
日本公開/2014年4月19日
ジャンル/[ドラマ] [戦争]

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『プリズナーズ』の真のメッセージとは?
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『プリズナーズ』は米国らしい映画である。
監督のドゥニ・ヴィルヌーヴはカナダ出身だから、北米らしい映画と云ってもいい。
本作の公式サイトには、「世界の魂を揺さぶった問題作」「ヒューマン・サスペンスの金字塔」と書かれている。たしかにそのとおりではあろう。
しかし、日本と北米では魂の揺さぶられ方が違うのではないか。
本作は少女の失踪事件を描いたサスペンスだ。
少女の父親ケラー・ドーヴァー役をヒュー・ジャックマン、事件担当のロキ刑事役をジェイク・ギレンホールが演じるほか、達者な俳優陣が結集して、緊迫したドラマを展開している。
中でも、主人公ケラー・ドーヴァーの行動には賛否両論あるだろう。もしかしたら批判的意見の方が強いだろうか。
なにしろ、ケラーは少女誘拐犯人と目した若者アレックスを監禁し、拷問するのだから。
本作は『プリズナーズ(原題:Prisoners)』という題名どおり、囚われ人が複数登場する。もちろん第一には誘拐されたとおぼしき少女たちだが、犯人扱いされて監禁されるアレックスもプリズナーだ。その他、たくさんの人が囚われの身になっている。
とりわけむごいのがアレックスの扱いだ。娘を取り戻したい、犯人の口を割らせたいというケラーの気持ちは判らないでもないが、だからといって証拠もないのに痛めつけることが許されるだろうか。
公式サイトが"「もし自分に同じことが起こったらどうする?」という極限のテーマ"と謳っているのも、父親のこの行動を指しているのだろう。
だが、『プリズナーズ』の作り手は、「どうする?」なんて疑問形で映画を撮ってはいない。おそらく、どうすべきか信じるところがあって作品をつくっている。
観客が喜怒哀楽に流れないように抑えた映像を積み重ねながら、一つのメッセージに作品を集約させている。
以下では、本作のストーリーを追いながら、私にはこの作品がどう見えたかを紹介しよう。あくまで私の解釈に過ぎないが、本作はミステリーの要素もたっぷりだから、未見の方は読まない方がいい。

映画は、キリスト教の祈祷文を唱えるところからはじまる。「主の祈り」と呼ばれるこの祈祷文は、キリスト教徒でなくても耳にしたことがあろう。ここではプロテスタント系で用いられる1880年訳を掲載しよう。本作のテーマはすでにここに語られている。
天にまします我らの父よ、
ねがわくはみ名をあがめさせたまえ。
み国を来らせたまえ。
みこころの天になるごとく
地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。
我らに罪をおかす者を 我らがゆるすごとく、
我らの罪をもゆるしたまえ。
我らをこころみにあわせず、
悪より救い出したまえ。
国とちからと栄えとは
限りなくなんじのものなればなり。
アーメン。
アーメンまで唱え終えたところで、ケラーと息子ラルフは鹿を撃つ(「日用の糧を、今日も与えたまえ」)。
その鹿の肉を手土産に、ドーヴァー家は近所のバーチ家を訪ねる。感謝祭の夕食会を開くのだ。
ところが、家族や友人が集まって作物の収穫を神に感謝するその日に、両家の娘たちが行方不明になってしまう。
ケラーは十字架を肌身離さず身に着けている敬虔なキリスト教徒だ。スクリーンには、ときにイエスの肖像が映し出され、この世のすべては神の思し召しであることが示される(「みこころの天になるごとく 地にもなさせたまえ」)。
なぜこの子たちを行方不明にしたのか、と問うことに意味はない。神のなさることは、人間には計り知れないからだ。
警察が娘たちを捜索する一方で、ケラーは独自の行動をとる。
彼は普段から万一に備えて準備を怠らない人間だった。天災人災、何が起きても対処できるように、地下室に非常物資を蓄えていた。それはあたかも、箱舟を作って洪水に備えるノアのごとしである。
ノアの他には誰も洪水に備えなかったように、ケラーだけが現場近くにいた若者アレックスを誘拐犯と睨む。
ロキ刑事の働きで、警察は別の容疑者にたどり着くから、ケラーの行動は常軌を逸しているように見える。それでもケラーは神に許しを請いつつ(「我らの罪をもゆるしたまえ」)、アレックスを拷問で締め上げる。
このあたりで、観客の多くはケラーに感情移入できなくなっているだろう。それほどケラーの仕打ちはひどい。
しかし、ジェイク・ギレンホール演じるロキ刑事は、そのカッコよさにもかかわらず、その頭脳明晰さと行動力にもかかわらず、真犯人にたどり着けない。
真犯人にたどり着くのは、なんと常軌を逸したように見えたケラーなのだ。
もとより、ロキ刑事が真犯人にたどり着けるはずはなかった。
なにしろ彼の名はロキ。ゲルマン神話の神である。ロキは知恵者だし、巨人スクリューミルから子供を守りもするが、しょせんは異教の神だ。
ロキ刑事はフリーメーソンの指輪をはめており、また初登場のシーンでは干支について会話している。彼は「キリスト教ではないもの」を一身に負っているのだ。
そんな彼の推理と行動では、真実にたどり着けない。ロキ刑事が犯人に迫るように見えるのも、ケラーの後追いでしかない。
彼のフルネームをデイビッド・ウェイン・ロキとして、ダビデ(David)を含ませたのは、さすがに敵対者ではないことを示すためだろう。
映画のクライマックス、ケラーと真犯人との対決において、観客はこれが神と悪魔の戦いであったことを知る。
実子を癌で亡くした真犯人は、この世を支配し、実子を奪った神に反抗するために、神に代わって他人の子を奪っていたのだ。
それ以前に、容疑者の持ち物から大量の蛇が出現したことで、事件の裏にサタンがいるのは明らかだった。蛇はサタンの化身である。真犯人の口からも、かつて蛇を飼っていたことが語られる。
これは、子を失った悲しみから信仰心まで失ってしまった犯人と、子を失っても信仰心は揺るがなかったケラーとの戦いであり、神と悪魔の代理戦争なのだ。
中盤で、飲んだくれの聖職者が連続殺人犯を殺したことが明らかになるが、彼が飲んだくれてる設定は観客をミスリードするためであり、真犯人が判明すれば、これも神と悪魔の戦いの一部であったことが判る。
そして驚くべきことに、これほど悲惨な物語でありながら、振り返ってみれば本作は神の圧勝で終わっている。
死んだのは信仰心を捨てた者、蛇(サタン)に魅入られた者だけであり、他の登場人物はみんな無事に家に戻れる(「悪より救い出したまえ」)。
世に悲劇は多く、政府も警察も頼りなく見えるけれど、一番大切なのは神を信じることだ。
なんとなれば、国と力と栄えとは、限りなく神のものであるのだから。

キリスト教徒が多数を占める北米では、この映画のメッセージは極めて穏当なものだろう。
聖書を持った白人をぶち殺す映画を撮るクエンティン・タランティーノのような監督もいるが、それとても偽善者の成敗であって、神や信仰の否定ではない。
日本の公式サイトには「もし自分に同じことが起こったらどうする?」と書かれているが、本作が問いかけるのは、それでも信仰心を保てるか、ということなのだ。
それは同時に、大きな悲劇に見舞われても信仰が支えになるということでもある。
体系だった信仰を持たない多くの日本人には、何が支えになるのだろうか。
付記
映画公開時の記事ではさすがに結末を詳述するのがためらわれたが、時間も経ったことなので結末の詳しい解釈を書き足した。2016年2月16日のコメントも併せてお読みいただきたい。
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監督/ドゥニ・ヴィルヌーヴ 脚本/アーロン・グジコウスキ
出演/ヒュー・ジャックマン ジェイク・ギレンホール ヴィオラ・デイヴィス マリア・ベロ テレンス・ハワード メリッサ・レオ ポール・ダノ
日本公開/2014年5月3日
ジャンル/[サスペンス] [ドラマ] [犯罪]

【theme : サスペンス映画】
【genre : 映画】
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