『白ゆき姫殺人事件』 雪がひらがなの理由

美人OLの死の謎を追う『白ゆき姫殺人事件』 の特徴は、スクリーンに現れるツイートの数々だ。
原作小説ではマンマローという架空のサービスが登場するが、映画ではツイッター社の協力を得て現実のTwitterを模した画面がスクリーンに映し出される。
そこには不特定多数の者たちの憶測や誹謗中傷や戯言が溢れている。中には事件関係者に繋がる者もいるけれど、圧倒的多数はただ噂話に興じているだけだ。
このようなネット上の群集を扱った作品は珍しくない。
2008年公開の『相棒-劇場版- 絶体絶命!42.195km 東京ビッグシティマラソン』や2009年の『誰も守ってくれない』の頃はネットの掲示板が誹謗中傷の場だったが、時流を捉えてそれがTwitterに変わっただけだ。
ただ、テレビ局が制作したこれらの映画では、ネット上の掲示板を否定的に描くあまり、既存のマスメディアが新興のインターネットを攻撃しているように見えなくもなかった。
当時、インターネットを利用する側にも既存のマスメディアと戦う雰囲気があったようだ。
マスメディアは大衆の喜ぶものを提供するのが第一だから、題材を単純化、娯楽化する傾向にある。
これに対してインターネットという情報発信の手段を手にした人々は、マスメディアの取り上げないこと/取り上げにくいことを発信しようとした。インターネットを使えば資本力や組織力がなくても主張を届けられるからだ。
ブロガーとして知られる藤沢数希氏は、2010年10月4日にこんなことを書いている。
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インターネット・メディアに関わる人たちの多くが、金儲け以上の社会的意義を確かに共有しているし、それをとても大切なものだと思っている。
(略)
良くも悪くも日本ではテレビ局が世論を形成し、国家権力がそれを追随するという傾向がある。そういった危うい日本の構造をなんとか正常に戻したい、もっとバランスを取りたいという願いが、我々のようなインターネット・メディアに関わる人たちの中にある。そうやって社会を少しでもよくしたいという思いがある。
(略)
元々ネット・メディアは、日本の統治機構にがっしりと寄生した既存の巨大メディアに対抗するために起ち上がった一部の精鋭によるゲリラ部隊みたいなものだった。そして各地のゲリラ部隊がお互いを認め合いゆるやかに連携していた。それは政治と強固に結びついた既得権益層に牛耳られている日本経済を開放するための連合軍みたいなものだ。テレビ局がその統治機構の中に組み込まれてしまっているので、テレビからジャーナリズムの本来の役割を期待することはもはやできない。だからこそインターネット・メディアが発達しなければいけないのだ。
(略)
インターネットというのは多数の欠陥を抱えながら、既存の巨大メディアに対向するべく日々進化している僕たちの民主主義の救世主みたいなものだと思っていた
(略)
インターネット・メディアも既存の巨大メディアと全面戦争をはじめる時がやがてくるだろう。
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しかし、2014年1月15日、藤沢数希氏はこの記事を思い起こして呟いた。
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3年前に書いたこの記事。その後の福島原発事故で分かったことは、残念ながらネット発のジャーナリズムはテレビや新聞より劣るということだった。これからネットとテレビはどう融和するのだろうか。
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組織力がなくても情報を発信できるインターネットは、思い込みやいい加減なことでも容易に伝えられた。
テレビ番組や新聞記事にも浅はかなものはあるけれど、ネットではもっとひどい情報が氾濫していることを痛感させたのが東日本大震災後の世の中だった。
『白ゆき姫殺人事件』も前述の映画と同じようにネットでの誹謗中傷を描くが、主要な登場人物である映像ディレクターをTwitter利用者に設定することで、ネットでの噂の拡散とテレビのいい加減な放送を重ね合わせているのが興味深い。
本作の製作委員会に地上波のテレビ局が加わってないことも一因かもしれないが、ここにはすでに既存のマスメディア対インターネットという対立の構図はない。
代わって感じられるのは、マスメディアもインターネットも一緒になって人間を押しつぶす、ズッシリとした重さである。
掲示板の書き込みは、もっぱらそこに巣食う人たちに共有されるに過ぎなかった。とどのつまり、それは陰口だった。
だが、昨今のTwitterやSNSは日常的なコミュニケーションツールとして利用されており、より一般に浸透している。噂を広く拡散させる力があり、被るダメージも大きい。
インターネット上で一方的な意見が急激に多数を占め、歯止めが効かなくなることをサイバーカスケードという。ひとたびカスケード(段々となだれ落ちる滝)が生じると、源流にある情報の信憑性や他の意見は顧みられない。
本作は、一人の女性がサイバーカスケードの奔流に飲み込まれ、犯人として追いつめられる恐怖を描いている。
事件の被害者は三木典子。白ゆき石鹸を売る化粧品会社の若手社員だ。
殺害されたのが「白ゆき」で有名な企業の美人OLだったことから、人々は「白ゆき姫殺人事件」と名付けて話題にする。
疑われたのは同期入社の城野美姫。名前は「お城の美しい姫」と立派だが、実際は名前との落差に呆れられるほど地味な女性だ。
本作は、映像ディレクターの赤星の取材に応じた同僚や、かつての同級生や、故郷の人々の噂から、城野美姫像を浮かび上がらせる。
事件そのものを描くのではなく、人々の証言から出来事をあぶり出すのは、『羅生門』や『北のカナリアたち』にも見られる構成だが、本作には人々の噂がネットやテレビを介して増幅され、それが次の証言者に影響してしまう恐ろしさがある。
もちろん、これはミステリーだから、噂のとおり城野美姫が犯人でした、では終わらない。
噂が濡れ衣であることを、作り手は最初から明かしている。なにしろ彼女の名は、シロのミキなのだから。
では彼女がシロのミキだとすれば、シロじゃないミキはどこにいるのか。
それが三木典子だ。三木典子は被害者であるものの、物語が進むにつれて明らかになるのは彼女のどす黒い意地の悪さだ。
社内一の美貌を誇る三木典子は、羨望のまなざしを一身に集めなければ気が済まなかった。他人が持っているものは、なんでも手に入れたがった。それはまるで、「世界で一番美しいのは誰か」との問いに「それはあなたです」と答えられなければ満足しない、『白雪姫』の鏡の女王のようだった。
本作が描くのは、鏡の女王のような女がいるために、学校で、会社で、居場所がなくなってしまう娘である。
それでも、きっといいことがあると自分や周囲に云い聞かせる城野美姫がいじらしい。
本作の題名は「白雪姫」ではなく「白ゆき姫」。本作は雪のように白い肌の、見た目が美しい姫の話ではなく、清廉潔白で心優しい娘の物語なのだ。

監督/中村義洋
出演/井上真央 綾野剛 菜々緒 蓮佛美沙子 貫地谷しほり 金子ノブアキ 小野恵令奈 谷村美月 染谷将太 秋野暢子 ダンカン 生瀬勝久 朝倉あき 宮地真緒 大東駿介 TSUKEMEN(as 芹沢ブラザーズ)
日本公開/2014年3月29日
ジャンル/[ミステリー] [サスペンス]

【theme : サスペンス・ミステリー】
【genre : 映画】
『銀の匙 Silver Spoon』 映画ならではのもの
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3.11のあと、そういう声があった。
たしかに行方不明者の捜索は重要だ。そこに異存はないけれど、だからといって犬や猫を保護するのがおかしいわけではない。
人間は助けるべきだが、犬や猫は後回しで良い、と主張する人にとって、人間と犬や猫のあいだには境界線があるのだろう。
一方、被災した犬や猫を助ける人たちの境界線は、必ずしもそこではない。
『銀の匙 Silver Spoon』の主人公・八軒勇吾(はちけん ゆうご)が、大蝦夷農業高等学校に入学して最初に面食らうのはその点だ。
酪農家に生まれた級友たちが、学校で飼育される動物たちとの距離感をすでに掴んでいるのに対し、札幌のサラリーマン家庭で育った八軒にはそれがない。生きたニワトリを食料として見ることができないし、食用に出荷される豚に名前をつけて可愛がったりする。
なんの予備知識もなく酪農の世界に飛び込む点で、おそらく映画館の多くの観客も八軒と同じだろう。本作に接して感じること、学ぶことは、とても多いはずだ。
本作で印象的なのが、「経済動物」という言葉である。劇中、農業高校の生徒たちは、飼育する牛や豚をこう呼ぶ。
酪農等に疎い私は、この言葉を本作ではじめて知った。
経済動物とは、ペット(愛玩動物)の対義語だ。農業高校の豚やニワトリは、可愛がったり愛情を注ぐ対象としているのではない。彼らは解体され、調理され、食べられるのだ。
経済動物とペットとの違いは何だろう。
豚やニワトリなら経済動物、犬や猫や小鳥ならペットだろうか。
そんなはずはない。豚だってニワトリだって愛情を注いで育てれば可愛いだろうし、犬も小鳥も食べれば美味いに違いない。
経済動物とペットの違いが判らない八軒は、動物と接する際の距離の取り方が不安定で、そんなこととっくの昔に体感している級友とケンカになってしまう。
本作は、八軒の高校生活をおもしろおかしく描きながら、経済動物とペットの違いや、生物について、生命について、そして生きるということについて考えさせて秀逸だ。
橘玲氏によれば、人間を取り巻く世界は同心円状の三つの空間に分類される。
人間の周囲に存在するのが「愛情空間」だ。これは家族や愛する人で構成され、せいぜい半径10メートルくらいである。『崖の上のポニョ』公開時に宣伝された「半径3m以内に 大切なものは ぜんぶある。 -宮崎駿-」という言葉は、愛情空間のことを述べたのだろう。
愛情空間の周りには親しい友だちからなる半径100メートルほどの友情空間があり、さらにその周囲に年賀状をやりとりするような「知り合い」の空間があるという。ここまでをひっくるめて政治空間と呼ぶ。
その外側に茫漠と広がるのが「他人」の世界だ。そこにいるのは普段は気にかけることのない人々であり、かろうじて貨幣を介して繋がっている。これが「貨幣空間」である。
たまたま立ち寄った買い物先の店員に、格別の愛情や友情を感じることはないだろう。彼/彼女との関係は、カネを払えばおしまいだ。私たちが手にする商品には、それを作った人が必ずどこかにいて、私たちが払うカネが巡り巡ってその人にも届くはずだが、商品を利用するときにそれらの人のことを考えたりはしない。
世界のほとんどは貨幣空間だが、私たちにとって価値があるのは政治空間、とりわけ愛情空間である。
3.11のあと、境界線の引き方が掛け違っていると感じたのはここだった。
愛情空間の中にいるかどうかと、人間か否かは別問題なのだ。
「犬の心配してる場合じゃない」と主張する人にとって、愛情空間や政治空間の中にいるのが人間であることは自明なのだろう。
他方、犬や猫を保護する人にとっては、犬や猫も愛情空間に属するのだ。自分の家では、犬や猫も家族の一員に迎えているのだろう。そんな人には、たとえ自分が直接の飼い主でなくても、被災した犬や猫を見過ごせなかったに違いない。
犬や猫を保護する人も、「犬の心配してる場合じゃない」と主張する人も、被災者やその愛情空間に属する者を助けなければと考えている点で同じなのだが、愛情空間に属する者を人間に限定するか否かで言動に違いが出るのだろう。
愛情空間は人間しか入れないものではない。
愛という感情は強力だから、ひとたび発動したら対象を人間に限定しない。貨幣空間の見ず知らずの人間よりも、目の前の犬や猫を大切に思う人もいるだろう。
ヴェルナー・ヘルツォーク監督の『アギーレ/神の怒り』には、いかだで漂流する主人公たちを見つけた原住民が「肉だ、肉だ」と大喜びする場面がある。人間というだけで愛情空間や政治空間に入れるものではない。
『銀の匙 Silver Spoon』の八軒が迂闊なのはここなのだ。
都会育ちの彼は、ペットくらいしか動物を知らない。彼は豚に名前を付けたり愛情を注いだりして、動物を軽々しく愛情空間に入れてしまう。級友たちが豚を経済動物と呼び、その存在を貨幣空間に留めておこうとしているのに比べて、八軒の愛情空間は敷居が低すぎるのだ。
そのため、豚が育って出荷時期が近付くと、彼は苦しむことになる。食用に出荷する予定の豚を、愛情空間に入れてしまった彼の迂闊さが招いた苦悩だ。
牛や豚は経済動物と割り切っているはずの級友が、口ではドライなことを云いながら、実際には割り切れずに動物を大切にしているエピソードも考えさせる。
本作が優れているのは、酪農や農業を題材にして、愛するとはどういうことなのかを抉っているからだろう。肉食恐竜が餌にすべき草食恐竜の子を愛してしまう傑作アニメ『おまえうまそうだな』に通じるテーマである。
同時に、本作が繰り返し取り上げるのが「競争」だ。
進学校の競争についていけない八軒が、受験戦争から逃げるようにして農業高校に来たことから、本作の序盤では競争に対して否定的な印象がある。
しかし、母豚の乳房を奪い合う豚の赤ん坊たちをはじめ、北海道独特のばん馬レースや成績の悪い馬の処分、そして乳の出が悪い牛を切り捨てないがために経営が立ちいかなくなる酪農家等のエピソードを積み重ねて、世の中には競争が当たり前のようにあり、生き物を相手にする農業はその渦中にあることが描かれる。
とうぜんだろう。
生物はみな生存競争を潜り抜けて進化してきた。自然とは生き残りをかけた競争の場であり、精子間の競争に勝ち抜いて誕生した人間も例外ではない。
人間は集団間では競争しても、集団内では平等を重視するから、人間集団の中ばかり見ていると本作序盤の八軒のように競争社会に否定的な思いを抱くかもしれない。
しかし、動植物を相手にする農業の現場では、平等観だけではやっていけない。
競争に脱落した過去を持ち、弱者に感情移入する八軒が、どのように競争と平等のバランスを取っていくのかも本作の見どころの一つだ。
以上で述べたことは、農家に生まれ育ち、みずからも酪農に従事した荒川弘(あらかわ ひろむ)氏の原作マンガには、余すところなく描かれているのだろう。
それでも映画化することで、私のように原作を読んでおらず、アニメ版も見ていない者に作品が届く意義は大きいと思う。
ましてや本作には、実写映画ならではのものがある。
それは豚の屠殺だ。
本作は、豚が電気ショックで気絶させられて、首を切り落とされて血を抜かれ、解体される過程を実写映像で見せている。
出演する役者たちは、屠殺に慣れているわけではない。公式サイトによれば、この場面の撮影では役者たちから「やばい」「こわい」という声が漏れたという。
だが、この場面はなくてはならなかった。牛や豚を育てることと、私たちが肉を食べることとのあいだに何があるかを示す上でも、マンガやアニメにはできないことを表現する上でも、屠殺の撮影を避けるわけにはいかなかった。
血なまぐさくならないように配慮しつつも、屠殺のことをセリフだけで済ませたりせず、きちんと見せたのは本作の本気度を示している。
本作は、判りやすい答えを教えてくれる映画ではない。
それどころか、都会人がなんとなく目を逸らしていることを引きずり出して、直視させる。
愉快なギャグと、起伏に富んだ物語と、あたたかな感動にくるみながら、本作が繰り出す刃は鋭い。
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監督・脚本/吉田恵輔 脚本/高田亮
出演/中島健人 広瀬アリス 市川知宏 黒木華 矢本悠馬 安田カナ 岸井ゆきの 吹石一恵 中村獅童 上島竜兵 西田尚美 吹越満 哀川翔 竹内力 石橋蓮司
日本公開/2014年3月7日
ジャンル/[ドラマ] [青春]

『LIFE!』 赤か青なら、赤を選ぼう!
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いったい、どうしろと云うのだ!?
映画が進行するにつれ、私は居心地の悪さを覚えはじめた。
『LIFE!』は1947年のダニー・ケイ主演作『虹を掴む男』のリメイクだが、2007年に70年の歴史に幕を下ろしたグラフ誌『LIFE』を絡めることで、現代的になっている。
雑誌そのものを手に取ったことはなくても、『LIFE』の名を知る人は多いだろう。マンガ家石ノ森章太郎が、『LIFE』に掲載されたサイボーグの記事に触発されて『サイボーグ009』を構想したと語っていることはあまりにも有名だ。『LIFE』がなければ、石ノ森章太郎のライフワークと云われる『サイボーグ009』は誕生しなかったかもしれないし、そうなればサイボーグという言葉が日本でこれほど普及することもなかったかもしれない。
紙媒体としての『LIFE』は2007年をもって姿を消したが、『LIFE』は今もWeb上のサービスとして存在する。
しかし、紙の『LIFE』の休刊とともに職を失った人は多いはずだ。紙からデジタルへの移行は、今まさに多くの人を直撃している課題である。
本作の主人公ウォルター・ミティは、『LIFE』に掲載される厖大な写真のネガを管理している。主な作業場所は倉庫の中で、この上なく地味な仕事だ。リストラ担当の新しい上司にはバカにされ、職場の女性には片思いを募らせるばかりで誘いの言葉もかけられない。
ウォルターらは『LIFE』の最終号発行に向けて準備を進めることになるが、最終号の表紙にするべき写真――フォトジャーナリストのショーンをして、自身の最高傑作であり、『LIFE』の真髄と云わしめた写真の行方が判らなくなってしまう。窮地に立たされたのは、ネガを管理するウォルターだ。
いくら探しても写真を見つけられないウォルターは、本当にネガを送ったのか確かめるため、ショーン本人に連絡を取ろうとするのだが……。
うだつの上がらないウォルターの唯一の逃げ場は、空想の中だ。
駅で、職場で、公園で、ウォルターはすぐ白昼夢にふけってしまう。空想の中のウォルターは冒険心に溢れており、大災害の現場で雄々しく活躍し、女性にも堂々と話しかけることができる。
けれども、すぐに空想に逃げ込むウォルターは、現実の世界ではボンヤリした男と呆れられている。
そんな映画を目にしながら、私は居心地が悪かった。
空想の中のウォルターは、超人的な力を発揮したり、ユーモア溢れる会話で女性を魅了したりする。これらのシーンは多分にコミカルだから、観客は笑えば良いのだろう。
しかし、私には笑えなかった。
これはしょせん空想の中の出来事だ。我に返れば雲散霧消する。空想のシーンがユニークであればあるほど、そして迫力があればあるほど、私は白けてしまった。これらはどうせ、ウォルターが逃避した心の中でしかないのだ。
あなたもこんな風に現実から逃げ出したいことがあるでしょう――そう見透かされているようで、居心地が悪かった。
それから映画は、フォトジャーナリストのショーンを探して世界を旅するウォルターを映し出した。
『マトリックス』の主人公ネオが、これまでどおりの安穏とした生活に戻れる青い薬ではなく、真実を探求する赤い薬を選んだように、ウォルターは赤いレンタカーを選んで旅に出る。
北の果てグリーンランドへ向かうウォルター、海に飛び込みサメと戦うウォルター、アイスランドの火山を訪れるウォルター。さらにはアフガニスタンやヒマラヤへとウォルターの旅は続く。
作品の舞台を『LIFE』の出版社にしたことが、ここで効いてくる。『LIFE』のフォトジャーナリストを追うのであれば、世界中を旅する理由になる。大がかりなロケを生かしたストーリーも展開できる。
アイスランドで撮影したそれらの映像は、CGIで作った空想の世界とは違い、雄大で美しかった。
火山のふもとの長い坂をスケートボードで滑走するのは爽快だったし、アフガニスタンの軍閥の長たちが手作りのケーキに喜ぶ姿は愉快だった。
見知らぬ土地、見知らぬ人々との出会いを通して、ウォルターは逞しくなっていった。白昼夢にふけることもなくなった。
客席の私もウォルターとともに世界を旅しながら、驚きと興奮を感じていた。
だが、相変わらず居心地は悪かった。
素晴らしい映像に打たれながらも、居心地の悪さは増すばかりだった。
いったい、どうしろと云うのだ!?
映画を観ながら私は思った。
都会の片隅に埋もれて空想の中に逃げ込んでいるよりも、広い世界に飛び出そう――というメッセージは判る。違う国、違う大陸の人々との出会いは刺激に満ちていて、大自然はこれまで抱えていた悩みなんか吹き飛ばすほど素晴らしい。それは映画から感じられる。
でも私には、無くし物を探して今すぐグリーンランドへ飛ぶことはできないし、人を訪ねて一人でヒマラヤを探索することもできない。
「生きてる間に、生まれ変わろう。」
『LIFE!』のポスターにはそんな文字が躍るけど、これほどの旅をすれば生まれ変われるというのなら、これほどの旅をしなければ生まれ変われないというのなら、私には共感できない。
この映画を通して、見たこともない映像を目にすることができた。それだけのことでしかない。
私はそう思った。
ところが、映画が最後に提示したのは、ウォルターの地味な仕事の肯定だった。都会の片隅で人知れずこつこつ生きてきたウォルターの、すべてを肯定することだった。
世界に飛び出さなくても、これまでウォルターのやってきたことが大切だったのだ。
ウォルターは気が付いていないだけだった。
彼が歩み出すべき土地も、話しかけるべき人々も、彼の目の前に存在したのだ。
映画を最後まで観た私は、涙が溢れた。
「この映画のメッセージは、現実を受け止め、毎日の生活を大事にすれば、本や夢で見るよりも充実した人生を手にできるということ。」
本作の監督・制作・主演を務めたベン・スティラーは公式サイトのインタビューに応えて述べている。
「夢は大切だけど、自分の責任は果たさなければならない。想像力は物事が何も上手く行かなかったときに、諦めの気持ちを軽減してくれるものなんだ。」
100冊の本を読むよりも、100本の映画を観るよりも、大切なのはいま目の前の仕事をきっちり行うことだ。家族や、自分が責任を持つ人々との関係を大切にすることだ。
誰かが見ているかもしれないし、誰も見ていないかもしれない。だが、そんなことは関係ない。自分のするべきことをきちんと行うのが、自分にとって価値があるのだ。
ベン・スティラーはこうも語る。
「若い時はとにかく仕事で認められたい、人に評価されたいと、一生懸命に頑張る。でも、ある年齢に達すると、そうじゃなくなり、同じ仕事でも自分のためにやるようになるんだ。自分のためにこつこつ仕事をするのが大事なんだと、目的意識が変わっていく。それが大人になるということなんだ。」
私は最高の後味を噛みしめながら、映画館を後にした。
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監督・制作/ベン・スティラー
出演/ベン・スティラー クリステン・ウィグ アダム・スコット シャーリー・マクレーン ショーン・ペン キャスリン・ハーン
日本公開/2014年3月19日
ジャンル/[ファンタジー] [ドラマ] [アドベンチャー]

【theme : ヒューマン・人間ドラマ】
【genre : 映画】
『LEGO ムービー』 すべてはサイコー!!
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しかもグリーン・ランタンとワンダーウーマンも出演させて、ハリー・ポッターシリーズからはダンブルドア校長まで連れてくるなんて、ワーナー・ブラザーズの力の入れようはたいしたものだ。
さらにミュータント・タートルズや『ロード・オブ・ザ・リング』のガンダルフも登場して、あれ、ワーナーじゃない!?
スター・ウォーズシリーズからはハン・ソロやチューバッカやC-3POやランド・カルリシアンがぞろぞろと……これは20世紀フォックスでしょう!?
こんな夢の競演ができるのも、『LEGO ムービー』がレゴの世界を舞台にしているからだ。
おもちゃ売り場に行けば、様々なレゴのセットが売られている。DCコミックスのスーパーヒーローの世界、マーベルコミックスの世界、スター・ウォーズ・シリーズもハリー・ポッターシリーズも、レゴだから提携できたあらゆる世界が揃っている。
その楽しさをそっくりそのまま映画に持ち込むとは恐れ入った。
バットマンとスーパーマンが競演する映画は、何年試みても頓挫しているのに、本作はレゴの世界の自由度の高さを利用して易々と実現してしまった。
しかも、何でもありのレゴの世界を逆手にとって、本作は実にスケールの大きな宇宙を創造している。
近代的な大都市と、西部劇の世界と、中つ国が並存する楽しさは『シュガー・ラッシュ』を彷彿とさせる。まるで多元宇宙のような豊かな世界だ。
主人公の頭の中を探索する場面は『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』に連なる電脳空間を思わせるし、無から物体を生み出せるマスター・ビルダーが集う「雲の上の楽園」はマトリックスシリーズに通じよう。
マトリックスシリーズでは仮想空間ならではの特徴として描かれた物体創造を、本作はレゴであることによって何の説明もなく納得させてしまうから豪快だ。
世界のすべてがレゴのブロックで構成されることによる、現実感と非現実感の同居する映像も見事だ。
CGIで作られながら、あたかもストップモーション・アニメーションのように演出された本作は、たしかにブロックでできたように見える点で現実感があり、すべてがブロックでしかない点で非現実感がある。その両方の要素を、ときに実写映像を交えながら作り込んだ『LEGO ムービー』は、他に類を見ない映画といえよう。
加えて、ある世界から別の世界へ移動する場面は、裂けた空で仰天させた『アイ・シティ』に匹敵するビジュアルだ。
思い起こさせるのは、それら昨今のSF映画だけではない。
本作が冒頭のシークエンスから8 1/2年後を舞台にすることで示唆したように、本作は『8 1/2』(はっか にぶんのいち)のようなメタ構造を秘めている。『8 1/2』が映画についての映画であったように、本作はレゴをレゴたちが演じる映画なのだ。
主人公の頭の中や天上界「雲の上の楽園」を描くことで作中世界の多重構造を示しながら、本作はその世界をも突き抜けた世界観を提示する。メタ映画としても面白いし、名作『フェッセンデンの宇宙』に代表されるメタ宇宙SFとしても読み込める壮大な作品だ。
といっても、決して難解な作品ではない。物語はいたってシンプルだ。
『アナと雪の女王』の主人公エルサ王女がみんなとの違いに悩み、それを隠そうとするあまり誰とも打ち解けないのとは対照的に、本作の主人公エメットはどこにでもいる平凡な建設作業員だ。王子でも王女でもスーパーヒーローでもない。
彼の特徴は個性がないこと。彼は他人と違った何かをまったく持ち合わせていない。そのため誰からも気にかけてもらえないし、いなくなっても気づいてもらえない。マニュアル通りに行動したことしかなくて、マニュアルがなければ何もできない。悲しくなるほど情けない、どうでもいいヤツなのだ。
そんな建設作業員がアクションに次ぐアクション、冒険に次ぐ冒険を重ねて、世界を引っくり返すような大活躍をするのだから、建設作業員が世界を救う『トータル・リコール』(1990年)にも負けない痛快さだ。
しかもエメットは、眠っていた力を呼び覚ますのでも、パワーアップするのでもない。あくまで平凡な建設作業員として、マニュアルにも頼りつつ、苦難を乗り越えていく。
そう、彼はまさしく私たちそのものだ。選ばれし者だったらいいな、なんて思うことがあったとしても、間違っても選ばれし者なんかになれやしない。私たちは特別じゃない。そんな人間が、それでも何かをしようとしたら、マニュアルを読んだり、つまらない思い付きを実行しながらジタバタするしかないのだ。
そんなエメットがたどり着く結末は、意外や感動に溢れている。
少数の凄いマスター・ビルダーが頑張っても、世界は変わらない。世界を変えるのは、個性のないエメットやその他大勢の人々なのだ。彼らが頑張って危機を乗り越えるからこそ、感動がある。
全編を彩る主題歌『Everything Is Awesome』で歌われるように、すべては最高なのだ!
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監督・原案・脚本/フィル・ロード、クリストファー・ミラー
出演/クリス・プラット ウィル・フェレル エリザベス・バンクス モーガン・フリーマン リーアム・ニーソン ウィル・アーネット
日本語吹替版の出演/森川智之 沢城みゆき 山寺宏一 羽佐間道夫 玄田哲章
日本公開/2014年3月21日
ジャンル/[コメディ] [アドベンチャー]

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【theme : 特撮・SF・ファンタジー映画】
【genre : 映画】
tag : フィル・ロードクリストファー・ミラークリス・プラットウィル・フェレルエリザベス・バンクスモーガン・フリーマンリーアム・ニーソンウィル・アーネット森川智之沢城みゆき
『それでも夜は明ける』 不自由の中にあるものは?
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そのいずれでもない。
『仮面ライダー』のオープニングで、ナレーションの中江真司氏はこう述べている。
「仮面ライダー本郷猛は改造人間である。彼を改造したショッカーは世界制覇を企む悪の秘密結社である。仮面ライダーは人間の自由のためにショッカーと戦うのだ!」
そう、仮面ライダーは自由のために戦っているのだ。
前回の記事では、差別問題を「人権」の面から取り上げた。
『大統領の執事の涙』と同じように『それでも夜は明ける』も差別を題材にしているが、本作が切り口とするのは「自由」である。
主人公ソロモン・ノーサップは米国北部に暮らす自由黒人だ。音楽の才能に恵まれ、幸せな家庭を築いていた彼は、ある日突然拉致されて、南部に売られてしまう。
本作は、奴隷として精神的にも肉体的にも徹底的に隷属を強いられたソロモンの、悲惨極まりない生活を描いている。愛する家族に会えない。手紙も出せない。出かけることもできない。奴隷の分際で文字を読み書きできるなんて、恐ろしくて口外できない。主人の不興を買えば、肉がむき出しになるまで鞭で打たれる。
あまりにもひどい境遇だが、これは1841年、南北戦争勃発より20年前の実話がベースになっている。
本作のテーマは、制作者でもあるブラッド・ピットが映画の後半に登場して判りやすく説明してくれる。
ピット演じるサミュエル・バスは、カナダから流れて来た大工だ。自分の腕を頼りに、旅をしながら生計を立てている。彼は自由を愛し、自由の素晴らしさを口にする。
それこそは、奴隷の身のソロモンが持っていないものだ。
本人の意に反して何かを強制されることがあってはならない。その単純な主張が、スクリーンからひしひしと伝わってくる。
奴隷として虐げられるのは、一人ソロモンに限らない。
本作は、こんな地獄のような状況が生まれる理由も明らかにしている。
象徴的なのが、ソロモンが首を吊られるシーンだろう。白人の手で木の枝から吊るされた彼は、かろうじてつま先が地面に届いて窒息を免れる。けれど今にも息がつまりそうだ。早く誰かに助けて欲しい。首のロープを解いて欲しい。
人々は、ソロモンが白人に押さえつけられて騒いだときは隠れていたが、白人がいなくなり、あたりが静まり返ると徐々に家から出てきた。野良仕事に行く者、家事に勤しむ者、各々自分の仕事に忙しそうに振る舞う。子供たちは、ソロモンが吊られた木のそばで遊び戯れる。
屋敷はいつもどおりの日常を取り戻す。けれど、ソロモンは吊られたままだ。誰も助けに来ない。ソロモンが声も出せないほど苦しんでいるのは、みんなにも見えるはずだ。でも、何もしない。
本作はこんなシーンでいっぱいだ。
ソロモンが拉致されたとき、一緒に南部に送られる黒人がいた。けれども彼は助けがくると、後ろを振り返りもせずに駆け去った。他の黒人たちを残して。
ソロモンが森を歩いていると、木に吊るされようとしている黒人たちに出くわした。今まさに白人たちが黒人の首にロープをかけるところだった。ロープが引かれれば、黒人たちは死ぬ。それが判っていてもソロモンは通り過ぎた。その背後で黒人たちが苦しみ悶えて死んでいく。
やがてソロモンに救いの手が差し伸べられると、彼もまた他の黒人たちを残して去っていった。後ろを振り返りもせずに。
こうして全編にわたって描かれるのは、人々の無関心だ。
自由を奪われた人々は、他者にかまう余裕がない。その無関心が、ますます周囲の人々の自由を奪っていく。
自分だって同じ境遇なのだから、その苦しみは判るはずだ。それでも、自分がその場から立ち去ること、立ち去って目を背けることを優先させてしまう。
他者に関心を示せるのは、自由であればこそなのかもしれない。
12年に及ぶソロモンの奴隷生活に終止符が打たれるのは、自由人であるカナダの大工バスが無関心ではなかったからだ。
無関心が自由を奪い、他者への関心が自由をもたらすのだ。
江戸時代の身分制度の理不尽を目の当たりにしてきた福沢諭吉は、身分制度のない社会を歓迎するとともに、「自由は不自由の中にあり」と述べた。自由を獲得するためには、勝手気ままに振る舞ってはならない。ときには不自由に感じるほど他者に配慮し、助け合わなければ、自由な人生を送れない。
それは、こんにちも変わることのない私たちの課題である。
このような問題意識に満ちた本作に、米国はアカデミー賞の作品賞を贈ることで応えた。
もちろん本作が優れた映画だったからだが、同時に本作には賞を取りやすい面もあったと思う。
アカデミー賞では相手にされなかった『大統領の執事の涙』には、オバマ大統領を称賛するような描写がある。オバマ政権の施策を支持するわけではなく、主人公のモデルになった人物がアフリカ系アメリカ人の大統領就任を喜んだことを表現したものだが、支持率の下がった現職大統領を応援するような場面には鼻白んだ観客もいたに違いない。
そのことを抜きにしても、1950年代から現代にかけて人種差別と闘い続けた家族を描く『大統領の執事の涙』には、居心地の悪さを覚えた人がいるかもしれない。
なぜなら、それは米国の人種差別が現代まで連綿と続いていることを示すからだ。
リンカーンがヒーローとして支持されるのは、奴隷制度を終わらせた大統領だからだという。南北戦争で甚大な犠牲を払うことで、米国は奴隷制という悪しき行いを克服した。リンカーン大統領と米国民が終わらせた。それが米国の物語だ。
だから、南北戦争以前の奴隷制度のむごさが強調されればされるほど、それを克服した米国の偉大さが引き立つのではないか。奴隷制度のない現代の米国を称えることになるのではないか。南北戦争以前の話なら、どんなにひどい差別の描写があっても、観客は居心地の悪さを覚えたりせずに映画を楽しめるだろう。気分よく映画を称賛できることだろう。
本作が賞に値する作品であることは重々承知しつつも、その描写が南北戦争以前の出来事に終始するのは気になるところだ。
サミュエル・L・ジャクソンが「2009年にアフリカ系アメリカ人が殺された事件を扱った『フルートベール駅で』の方が、もっと率直に勇敢に差別問題に取り組んでいるよ」と指摘したのも、そんな思いがあったからだろう。
とはいえ、本作が現代に通じる強いメッセージを持っているのは間違いない。
映画の終盤に、主人公がカメラをじっと見据えるショットがある。奴隷の辛さ、みじめさがピークに達した場面の後だ。
スクリーンには彼の顔が大写しになる。あたかも、スクリーンの中から客席の私たちを見つめるように。
安全な場所から映画を見物している私たちと、正面から向き合うように。
あたかも、自分がここにいるのはあなたたちの無関心のためなのだと訴えるように。
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監督/スティーヴ・マックィーン
出演/キウェテル・イジョフォー マイケル・ファスベンダー ベネディクト・カンバーバッチ ポール・ダノ ポール・ジアマッティ ルピタ・ニョンゴ サラ・ポールソン ブラッド・ピット アルフレ・ウッダード
日本公開/2014年3月7日
ジャンル/[ドラマ] [伝記]

【theme : ヒューマン・人間ドラマ】
【genre : 映画】
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