『小さいおうち』 原作を離れて「失敗作」を撮る理由
山田洋次監督の『小さいおうち』を鑑賞して、こんなことがあるのかと驚いた。
本作は中島京子氏の小説に基づいて山田洋次監督と平松恵美子氏が脚本を書き、山田洋次監督みずからメガホンを取った作品だ。決して山田洋次監督のオリジナル企画ではない。
にもかかわらず、山田洋次監督と原作のシンクロぶりはどうだろう。私はこれが山田洋次監督のオリジナル作品と云われたら信じたに違いない。
それほど、本作は山田洋次監督が撮るべくして撮った映画であり、『東京家族』の次はこれしかないと思わせる映画だった。
それどころか、『東京家族』は本作を撮るための習作だったのではないかと思えるほど、本作は『東京家族』の延長上に(しかも『東京家族』を超えた高みに)ある。
山田洋次監督が原作に惚れ込んで映画化を熱望したのもとうぜんだ。この原作に接したときの山田監督の喜びと興奮はいかばかりか。まさに山田監督のために書かれたかのような原作!
いや、正確に云えば、小津安二郎監督のために書かれたような小説なのだ。
『東京家族』は小津監督の『東京物語』をモチーフにした映画だった。かつて小津映画に批判的だった山田洋次監督は、時とともに小津監督への尊敬の念を強めた。そして「真似して恥じるところはない」と宣言して、『東京物語』を再現した『東京家族』を撮り上げた。その山田監督にとって、小津安二郎の世界を思わせる小説『小さいおうち』は、次なる取り組みに恰好の題材だったろう。
いったいこの小説の何が小津安二郎を思わせるのか。
登場人物の多くが中流以上の家庭に属することや、日本人の上品な所作を写し取っているところ、物語が家族の範囲から逸脱しないこと等、戦後の小津映画に通じるところはいろいろあるが、なんといってもコレだ。小さいおうちを訪れて一家に波風を立てる男の存在だ。こう書くと、『東京物語』にそんな男はいなかったじゃないかとそしられそうだが、ここは男の名に注目していただきたい。
この男、名前が正治(ショウジ)なのである。
■さらに徹底した真似
『小さいおうち』は、山形から出てきた女中タキの回想録の形で進む。
原作では東京へ向かう列車内で交わされる言葉を、映画では雪深い山道を歩きながらの会話にすることで、東京とは違う山形の特徴を視覚的に示すあたり、映画らしい置き換えで心地好い。
同時に、『東京家族』に続いて徹底的に小津監督を真似した作りにはニヤニヤさせられる。
小津監督お得意の赤いヤカンが『東京家族』ではベンチの上の赤い空き缶に化けていたが、本作ではそのものズバリ赤いヤカンが家庭内に登場する。ヒロインが差す傘まで赤い。原作でも舞台となる家は「赤い屋根の洋館」と描写されているから、山田監督にしてみれば赤いものを出す大義名分を得たようなものだ。
そして家族が日本間でやりとりする際の落ち着いた色調や、「子供の視点」と云われるロー・ポジションからのアングルや、話してる人物を正面から捉えて話者が変わるたびにショットを切り返すテクニック等、またもや小津安二郎を真似している。
家の中で物語のほとんどが進行する本作は、まるで室内劇のような後期小津映画を彷彿とさせて、山田監督としても真似のしがいがあっただろう。
しかし、『男はつらいよ』シリーズに見られるように、庶民の元気の良さや温かさを活写してきた山田洋次監督にとって、裕福な家の人々が乙に澄ました小津映画は対極にあると云っていい。
演技指導も対照的だ。渥美清さんのような芸達者に思う存分はじけてもらうのが山田流なら、役者をロボットのように思いどおりに動かし、アドリブを許さないのが小津流だ。山田洋次監督の代表作の一つ、『幸福の黄色いハンカチ』で武田鉄矢さんが思いっきりコケる場面は、勢い余って本当に転んだものだそうだが、それをそのまま採用してしまうのが山田洋次監督らしい。
そんな山田監督がいくら小津安二郎を真似しようと、なかなか小津映画っぽくはならない。『東京家族』ではまだそう感じるところがあった。
だが、小津のようなショットと小津らしくないショットの混在にいささかの居心地悪さを覚えた『東京家族』に比べると、本作は小津らしいショットの度合いが増したように思う。小津の真似も板についてきたということか。
それでも山田監督は庶民の味方だ。その演出は判りやすいことこの上ない。
登場人物の気持ちが高まる場面では、ピーッと警笛が響き、列車の進む音がゴゴゴゴゴゴと大きくなる。
ショックを受ける場面では、稲光と雷鳴で登場人物の心情を表現する。
小津安二郎監督はカメラアングルを固定して偶発的な動きを許さないのに、山田監督はタキが動揺する場面でカメラを手持ちにして揺らしてしまう。
これらを見ると、山田監督は小津安二郎の真似*だけ*に終始したのではなく、小津安二郎のような演出と自分なりの演出の融合を試みたと思われる。『東京家族』以上に。
これほど小津安二郎を意識している山田洋次監督が、本作を映画化したのはなぜだろう。
再び小津安二郎の作品をモチーフにしても良いのではないか。
それを考えるときに欠かせないのが、吉岡秀隆さん演じる板倉正治(イタクラ ショウジ)だ。
以前も書いたように、小津安二郎作品においてショウジは特別な存在だ。詳しくは『東京家族』の記事に譲るが、ショウジは戦争を語るキーなのである。『戸田家の兄妹』のヤスジロウならぬショウジロウは大陸へ進出する男、『麦秋』や『東京物語』のショウジは戦死しており、『早春』のショウジは戦友会で羽目を外す。いずれのショウジもその名を口にするときに戦争を思い出さずにいられない。
それはなんと『小さいおうち』でも同じだ。
当初は戦争の話題が苦手な芸術家肌の男として登場する正治は、物語が進むにつれて戦争の激化を感じさせる存在になる。兵役検査で丙種合格(現役には不適)だった彼は、健康な甲種や乙種の男たちが戦場に赴いても一人内地に残り続ける。けれども、一方で戦局は着実に悪化し、正治も戦争に駆り出されるのはいつかという緊張が映画を覆う。そして正治への召集令状をもって本作はクライマックスを迎える。
戦争なんてどこか他人事だったタキや奥様にとって、正治の召集こそが生活を破壊する戦争の象徴なのだ。
小津映画と同じくショウジが戦争の影を落とす本作は、まさに小津映画に傾倒した山田洋次監督が撮るべくして撮った作品だ。
■原作とはまったく違う映画
とはいえ、実のところ映画と原作はかなり違う。
原作小説において、板倉正治は映画ほど大きな存在ではない。原作が描くのはタキが奥様に忠実に仕えた12年以上の歳月であり、その中で板倉正治はいっとき波風を立てるにすぎない。
明らかな相違点は、原作で水木しげる氏を彷彿とさせる漫画家だった板倉正治が、映画では画家に変えられたことだろう。
これは映画と小説の違いを考えれば判らないでもない。
小説では板倉正治が描いた漫画や紙芝居の内容を紹介することで彼の心情を読者に伝えているのだが、映像でパッと見せねばならない映画において漫画や紙芝居の内容をいちいち説明してはいられない。画家であれば、絵を映したワンショットで作品を紹介できる。かくして、原作では紙芝居だった作中作『小さいおうち』は、本作では一枚の絵になってしまった。
もちろん、16枚の紙芝居で描かれる内容を、一枚の絵だけで表現できるはずはない。そのため、紙芝居で明かされるべき板倉正治の心情は、映画の各シーンに散りばめられることになる。
奥様に横恋慕していた板倉正治が、一人奥様のみならず、息子さんやタキも含めた洋館の住人を大切に思っていたことは、原作では紙芝居を通して明らかになる。
けれども映画は、出征を控えた正治が「僕が死ぬとしたら、タキちゃんと奥さんを守るためだからね」とストレートなセリフを口にしてタキを抱きしめるシーンを挿入する。
さらに山田洋次監督と平松恵美子氏は暴走し(?)、タキと正治が奥様抜きで会っていたらしいことを示唆する。倍賞千恵子さんが演じる老後のタキの部屋には、赤い屋根の洋館を描いた絵が飾られている。おそらく正治が美大生だった頃に描いたものを、タキが譲り受けたのだろう。タキが年老いても大事にし続けたこの絵は、劇中何度も大写しになり、正治の存在を常に観客に意識させる。
だが、原作小説にこのような絵は登場しない。原作のタキは奥様だけを一途に崇拝しており、原作の正治はそんなタキを含めて洋館の人々を大切に思っているだけだ。
なのに、映画ではタキと正治のあいだに、タキと奥様、奥様と正治とは別の関係があるように匂わせる。
映画化に当たって正治がクローズアップされる一方、描写が薄められたのが旦那様とぼっちゃん、そして奥様の学友睦子だ。
原作小説の特徴は、戦前の楽しく温かい暮らしが徐々に軍国主義に染まっていく様を丁寧に描写したことにある。
日米開戦に否定的な立場だった旦那様がすっかり翼賛体制の走狗になってしまい、愛くるしかったぼっちゃんは好戦的な愛国少年と化す。彼らの変化は享楽的な奥様との対比で一層強調され、奥様と彼らは激しく衝突する。
だが、その奥様ですら、やがて「日本人の魂」だの「火の玉の心」だのと精神論をぶつようになる。
出版社に勤める睦子は、大衆受けを狙って戦意を高揚させる記事ばかり書き散らす。
ここには、一般庶民が戦争を歓迎し、戦争を推進したことへの痛烈な批判がある。
タキと奥様は政治にも経済にも外交にも興味がなく、翼賛的なことはほとんど何もしないけれど、そのイノセンスすらも消極的な戦争推進として批判の対象になることを、作者は板倉正治の漫画を通して訴える。
にもかかわらず、映画ではこれらの描写がばっさりカットされている。
庶民の味方の山田洋次監督は、庶民すらも(庶民こそが)戦争への片棒を担いだ事実は取り上げず、大切な人を戦争に取られる被害者としてのみ描いている。わずかに、映画オリジナルのキャラクターである酒屋のおやじが日米開戦に万歳するぐらいだ。
山田監督は産経新聞のインタビューに応えて、『小さいおうち』で描きたいのは「戦前の昭和のサラリーマンの家庭の穏やかな暮らし方を思い返したい、見つめてみたいということ。これは僕の少年時代の思い出でもあるわけだ」と述べており、1964年生まれの原作者が取材の蓄積から『小さいおうち』を著したのに対し、1931年生まれの山田監督はノスタルジーを込めて過去を振り返っていることが判る。
そのため、ラストの平井のセリフの矛先も、原作と映画ではまったく異なる。
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あの時代は誰もが、なにかしら不本意な選択を強いられたと、平井氏は言った。
「強いられてする人もいれば、自ら望んだ人もいて、それが不本意だったことすら、長い時間を経なければわからない。そういうことがあるものです。」
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これはタキの行動を説明しようと平井が口にする言葉だが、原作ではこの後、平井自身の行動が語られて、自分の行動への弁解にもなっている。
その上、タキの行動に対して平井とは異なる健史の解釈がかぶさることで、この言葉のインパクトはずいぶんと弱められている。
ところが映画では平井の弁解の部分が削られ、健史の解釈も削られているので、誰もが「不本意な選択を強いられた」被害者である印象を残して本作は幕を閉じる。
山田洋次監督にとって、市井の人々はあくまで善良で、あくまで被害者なのだろう。
これを山田洋次監督らしさと見るか、山田洋次監督の限界と見るかは人それぞれだろうけれど。
そんな善良な人々の物語でありながら、本作が扱うのは人妻の不倫だ。
旦那様やぼっちゃんの描写が薄い分だけ、本作は原作以上に正治を巡る不倫劇の比重が高まった。
「監督生活50年で初となるラブストーリー」と宣伝される本作だが、『男はつらいよ』シリーズはすべて寅次郎もしくは満男の恋物語なのだから、もちろんそんなことはない。ただ、女性の視点から不倫を描くのは、山田洋次監督には珍しい。
原作からの取捨選択により、映画『小さいおうち』はすっかり不倫劇と化しているが、山田洋次監督はなぜそうまでして不倫劇を撮ったのだろうか。
■「失敗作」への挑戦
與那覇潤氏による小津安二郎監督の研究書『帝国の残影 兵士・小津安二郎の昭和史』に、面白い表が載っている。
戦中・戦後における小津安二郎監督作品の公開年月日とキネマ旬報ベスト・テンの順位だ。キネマ旬報ベスト・テンの評価が必ずしも映画の良し悪しを表すわけではないが、そこには奇妙な規則性が見て取れる。
1948年 7位 『風の中の牝鷄』
1949年 1位 『晩春』
1950年 7位 『宗方姉妹』
1951年 1位 『麦秋』
1952年 12位 『お茶漬の味』
1953年 2位 『東京物語』
1956年 6位 『早春』
1957年 19位 『東京暮色』
この評価は今も変わることがない。小津の代表作として誰もが思い浮かべるのは、『晩春』『麦秋』『東京物語』のいわゆる紀子三部作であり、『風の中の牝鷄』や『宗方姉妹』や『お茶漬の味』や『早春』『東京暮色』を挙げる人は少ないだろう。
ということは、小津監督はベスト・テンで1位、2位を取り、時代を超えて愛される傑作と、当時も今もあまり評価されない「失敗作」とを、ほぼ交互に発表していたことになる。
なぜ小津ほどの監督が傑作を連打せず、定期的に「失敗作」を撮ったのか?
その謎の答えは『帝国の残影』をお読みいただくとして、その「答え」を知ってもなお、私は世間同様に紀子三部作が好きであり、『風の中の牝鷄』や『宗方姉妹』や『お茶漬の味』『早春』『東京暮色』はあまり好きではない。それは前者の作品群が、家族といえどもいずれバラバラになってしまうことを知りつつ、調和のある生活を送ろうとする大人の処し方を描くのに対し、後者の作品群が取り上げるのが、*不倫や夫婦の危機*だからだ。それらの辛気臭い話は、ただただ観るのが辛いのである。
だが、小津監督ですら傑作を連打できずに「失敗作」を撮ってしまうのではなく、與那覇潤氏が指摘するように後者の作品群こそ小津安二郎の本音であり、あいまに発表された「傑作」は小津が人々の求めに応じて作った「嘘」だとしたらどうだろう。
小津を目標とする映画人は、どちらの作品群に切り込むべきだろうか。
山田洋次監督が『東京物語』を世界一と称えつつ、その哲学に共鳴していないらしいことは、以前の記事に書いたとおりだ。
こうしてみると、『麦秋』を舞台化し、小津同様に歌舞伎の映像化を手がけ、『東京物語』を徹底的に真似して『東京家族』を撮った山田洋次監督の次なるターゲットが、小津の「失敗作」と云われる作品群、それも『東京物語』の次に発表された『早春』になるであろうことは想像に難くない。
そして小津映画でも異色作といわれる『早春』は、戦争の影を引きずるショウジの不倫により、家庭に危機が訪れる映画なのだ。
ただし、名作の誉れ高い『東京物語』とは違って、『早春』は知名度も評価も『東京物語』に数段劣る。いかに山田洋次監督といえども、『早春』のリメイクなんて企画を通せるはずもない。
そんなときに、戦争と不倫とショウジが揃い、直木賞受賞のベストセラーとして話題性も満点の小説に出くわしたら――。
『小さいおうち』は山田洋次監督が撮るべくして撮った映画だ。
遂に山田洋次監督はここまで来たのである。
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監督・脚本/山田洋次
脚本/平松恵美子
出演/松たか子 黒木華 片岡孝太郎 吉岡秀隆 妻夫木聡 倍賞千恵子 橋爪功 吉行和子 室井滋 中嶋朋子 林家正蔵 ラサール石井 米倉斉加年 木村文乃 夏川結衣 小林稔侍 笹野高史 螢雪次朗 松金よね子
日本公開/2014年1月25日
ジャンル/[ドラマ] [ミステリー]

【投稿】 ヤマト2199のデスラーはアレクサンドロスか?
しかし、字数制限のために投稿された文のすべてはコメント欄に収まらなかったので、改めて以下に全文を掲載する。
デスラーが一体化を熱望した星イスカンダル――そのイスカンダルという名の語源がアレクサンドロスであることを考えれば、この論考には大いに頷けよう。
T.Nさんからは、ガミラスの政治社会やデスラーの人物像に関するみなさんの忌憚のない意見と感想を知りたいので遠慮なくコメントしてください、との伝言をいただいている。
なお、T.Nさんに送付していただいた原稿はWordで書かれたきれいなものだったが、掲載に当たってはブログの特性を考慮して、改行位置の変更やタグの設定等、少々体裁を調整している。
元原稿の意図を損なわないように注意を払ったが、もしも体裁の問題があればその責は当ブログ管理人にある。
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ヤマト2199のデスラーはアレクサンドロスか?
【はじめに:アレクサンドロスのようなデスラー総統】
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ヤマト2199は今までの旧作ヤマトを集大成したリメイクで、非常に多くの作品世界の情報が物語の伏線と共に劇中にちりばめられている。それらの情報と劇場パンフレットの記述を併せて読むとデスラーの生涯(25話で死んでいればだが)とアレクサンドロスの生涯は意外にも多くの共通点があるのに気付く。例えば第3章のパンフレットにはデスラーについてこのような記述がある。
――32歳相当(地球における年齢換算)の若さでありながら、絶大なるカリスマ性を以って国民から絶大なる支持を受け、独裁者としてこの巨大帝国に君臨する。サレザー恒星暦で103年前、かつてガミラス大公国と呼ばれていたこの国家は、複数の王侯貴族による統治が行われていた。それを統一したのが、デスラーの叔父エーリク・ヴァム・デスラー大公であった。そしてエーリク死去後、再び内戦状態となった国家を再統一したのが、デスラーその人である。ガミラス大公国は解体され<大ガミラス帝星>となり、デスラーは永世総統の地位に収まった。彼は「宇宙恒久の平和を達成させる為にはイスカンダル主義の拡大浸透が必要であり、その為には他星へ進攻し武力をもって併合するのが神の意思でありガミラス民族の使命である」と説く、<デスラー・ドクトリン>を宣言。周辺惑星国家への進攻を開始したのである。
このデスラーの半生は
「分裂状態だったギリシアを統一したフィリッポスの死後、内乱状態になったギリシアとマケドニアを再統一し、『ギリシアの大儀』を唱えて東方への進攻を開始した」
アレクサンドロスの事績とよく一致する(しかもいかなる偶然なのか、デスラーの年齢がアレクサンドロスの享年と同じ32歳になっている)。また、アレクサンドロスのギリシアの大儀は主に
・ペルシア戦争でのペルシア人の国土蹂躙と神々への冒涜に対する報復
・小アジアのギリシア人をペルシア支配から解放する。
の2つからなるが、これの元になった当時のギリシア知識人の東方遠征論を見ると基本的な考え方がデスラー・ドクトリンに類似しているのに気付く。東方遠征論ではこのように説かれている。
――そもそもギリシアの土地は貧しいのに、大陸には豊かで広大な土地が耕されないまま放置されている。ペルシア人はギリシア人の不倶戴天の敵であるばかりか、柔弱で劣等な民族だ。すでにペルシア帝国の各地では反乱が起きており、戦争に打って出るには今こそ絶好の機会である。ギリシア人が一致団結して自分達の間の戦争を大陸に移し、アジアの繁栄をこの地にもたらすこと、これこそが焦眉の課題なのだ。
(森谷公俊 「アレクサンドロスの征服と神話」 講談社 P.104)
東方遠征論に出てくる他民族の劣等種族視や征服地に平和と繁栄をもたらすという考え方はまさにガミラス人やガミラス帝国の考え方そのものだ。このように、ヤマト2199のデスラー総統とアレクサンドロスには意外な共通点が多く、2人をとりまく政治状況も類似点が多い。アレクサンドロスを念頭に置くと、劇中では明確に語られなかったガミラス帝国やデスラーの行動の謎をわりとうまく説明する事ができる。以降の文章では次のようなトピックについてそれぞれ章を分けて考察していこうと思う。
1. オルタリアのガミラス人移民殺戮の謎――ガミラス帝国の基本的構造――
2. ガル・ディッツ拘束の謎――ガミラス軍の社会構造について――
3. 名誉ガミラス臣民の謎――デスラーの構想していた国家モデル――
4. デスラー砲の謎――デスラーは本当に狂っていたのか?――
5. デスラーのいないガミラスはどうなる?――続編の可能性も含めて――
【1. オルタリアのガミラス人移民殺戮の謎――ガミラス帝国の基本的構造】
![宇宙戦艦ヤマト2199 2 [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/51M8NBxxhKL._SL160_.jpg)
普通の視聴者なら「ギムレーは人格破綻者なのだ」と考えて片づけてしまう所だが、彼の行動に合理的理由付けはできないだろうか?つまり、彼は気が狂ったのではなく確かな理由があってあんな行動をとったのだ、と考えることはできないだろうか?
一見滅茶苦茶な設問だが、不可能な事ではない。「彼らガミラス人移民団は元来、助けてバレラスに連れ帰るよりもそのまま反乱にかこつけて始末した方がいいような(政権にとって)危険な人たちだった」と考えれば、ギムレーの取った行動が無理なく理解できるのではないだろうか(現にギムレーは総督に対し、「総統への忠誠に欠けたあなたもですよ、総督」と言っている)。
つまり、ガミラスの移民政策とは、「政権に不満を持つ人達を移民の形で体よく帝都バレラスから追い出し、彼らに征服地の土地と財産を与えることで懐柔する」というものだったと考えられる。ギムレーに射殺されたオルタリア総督はこうした不平分子達の頭目的存在だったのではないか。歴史に類例を求めると、実はアレクサンドロスが同じようなことを大々的に行っている。アレクサンドロスの移民政策について、史書では次のように解説している。
――都市アレクサンドリアの建設は、しばしば大王の東西融合政策の一環として語られるが、実態を見ればそれはまったくの的外れである。そこに入植したのはギリシア人傭兵、退役したマケドニア人、地元住民の三種類で、住民にはその土地の戦争捕虜も含まれていた。このうち最も大きな割合を占めたのがギリシア人傭兵である。(中略)元をただせば彼らはギリシアの祖国を失った者達であり、フィリッポスやアレクサンドロス自身によって追放された者も含まれていた。彼らはマケドニア人と大王に強い憎しみを抱いており、帝国にとって政治的にも社会的にも危険な存在だった。
それゆえ彼らの入植には、不穏分子を僻遠の地に隔離するという狙いがあったのである。ついでに隔離という点では、マケドニア人兵士も例外ではない。前330年、アレクサンドロスは自分に批判的な発言をしたり、王の利害に反することを手紙に書いた者を集め、「無規律部隊」と名づけて見せしめにした。バクトリア・ソグディアナ地方では、反抗的と見なしたマケドニア人の不平分子を12もの軍事植民地に配分している。
(森谷公俊 「アレクサンドロスの征服と神話」 講談社 P.140)
アレクサンドリアに移民したのはマケドニアに祖国を征服されたギリシア人傭兵――。マケドニアとギリシアが決して一枚岩でなかったことがこれで分かるが、アレクサンドロスの移民とガミラスの移民が同じ性格であるとすれば、ガミラス人達がマケドニアとギリシアのように決して一枚岩ではなかったのではないか、との推測が成り立つだろう。もう少しアレクサンドロスの事情について見てみよう。
現在の私達はマケドニアとギリシアが一致団結して東方遠征を行ったとイメージしがちだが、一致団結どころか史書にはそのイメージを打ち砕くような記述が出てくる。
――ギリシア人はマケドニア人に征服された民族でありながら、アレクサンドロス帝国では支配者側の一員であった。では両民族の間の壁は越えられたであろうか。答えは否である。(中略)結局ギリシア人はアジアにおける征服者の一員でありながら、真の支配者たるマケドニア人に対して従属的地位に置かれた、目下の同盟者にすぎなかった。
(森谷公俊 「アレクサンドロスの征服と神話」 講談社 P.141~142)
アレクサンドロスの東方遠征中、ギリシアでは絶えず反マケドニア運動がくすぶり続け、ついにはスパルタで大規模な反乱が勃発した(アギスの蜂起)。実のところガミラス帝国のガミラス帝星も、これとよく似た状況だったのではないだろうか?
ヤマト2199のガミラスでは、当局が反乱分子の摘発に血眼になっている描写がたくさん出てくる(15話・17話その他多数)が、この描写自体、デスラー政権には最初からガミラス人の敵が大勢いることを示唆している。ガミラス人の政治犯は一体何故当局に睨まれたのだろうか?政権に批判的な言説を行ったからだろうか?軍役を拒否したからだろうか?もちろんそれもあるだろうが、最も数が多かったのは
「デスラーの叔父エーリク・ヴァム・デスラー大公やデスラー本人に征服されたガミラス人が反乱を企てた」
ケースだったと思われる。あらためて第3章のパンフレットの記述を思い返してみよう。このような記述だったはずだ。
――サレザー恒星暦で103年前、かつてガミラス大公国と呼ばれていたこの国家は、複数の王侯貴族による統治が行われていた。それを統一したのが、デスラーの叔父エーリク・ヴァム・デスラー大公であった。そしてエーリク死去後、再び内戦状態となった国家を再統一したのが、デスラーその人である。
パンフレットの記述からは次のような事を見て取る事ができる。
・ガミラス大公国は王侯貴族が統治する複数の公国で構成されていた。
・これらの公国の内、デスラー大公の「デスラー公国」が他の公国を征服し、ガミラス大公国を統一した。
・デスラー大公の死後、彼に征服された公国が反乱を起こしたが後を継いだデスラーによって鎮圧された。
・デスラーが20歳で即位したと仮定すると反乱が鎮圧されて(サレザー恒星暦で)十数年しか経っておらず、アレクサンドロスの故事を見てもデスラー公国から独立を企てる者が未だに大勢いる可能性が高い。
こういった事情があったからこそ、親衛隊は反乱者の摘発に血眼になり、厄介払いのような移民が行われ何かあった時には移民が始末される事態になっているのではないだろうか。
・・以上、この章をまとめると、国家としてのガミラス帝国は以下のような基本構造になっていると考えられる。
・純血ガミラス人は帝国の支配者側の一員であるが、ガミラス大公国を統一したデスラー公国の民と彼らに征服され従属的同盟者となっている他の公国の民の2種類で構成されている。
・他の公国はまだ征服されて日が浅く、絶えず反乱の芽がくすぶり続け、親衛隊は反乱の摘発に躍起になっている。
・ガミラスの移民政策は、「政権に不満を持ち反乱を企てかねない危険な人達を移民の形で体よく帝都バレラスから追い出し、彼らに征服地の土地と財産を与えることで懐柔する」という性格を持っている。
こうして、ガミラス帝国の国情の一端が明らかになった(※あくまで私の主観では)が、ではデスラーを支えるべきガミラス軍は果たして一枚岩の頼れる存在だったのだろうか?次の章ではそれについて考えてみたい。
【2. ガル・ディッツ拘束の謎――ガミラス軍の社会構造について】
![宇宙戦艦ヤマト2199 3 [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/51p97s0BHpL._SL160_.jpg)
ヤマト2199視聴者の間で取り沙汰される謎の一つである。国軍に取って代わる事を狙う親衛隊が航宙艦隊総司令のディッツを特に目障りに思っていたからではないか、という意見も見られるが、ドメルがデスラーによりすぐ釈放されたのに対しディッツは収監されたままだったところを見ると、少なくともデスラーはディッツを必要な人物と思っていなかったと最低限言うことはできるだろう。何故だろうか?劇中のセリフやパンフレット等の情報を仔細に見ると、それに対する答えだけではなく、ガミラス軍が抱えている構造的な問題を見て取る事ができる。
そもそもガル・ディッツとはどういった素性の人物だろうか?14話で娘のメルダ・ディッツが山本に「わが家は代々軍の重責を担ってきた家系」と語っていることから、彼は名門の軍人貴族であることが分かる。また、航宙艦隊総司令として「艦隊運用の責任者」を自負し、国軍の実質的な最高司令官として振舞っている人物でもある。例えば12話で、彼は本来動かすのに総統の認可が必要な総統直属の次元潜航艦を勝手に動かしているが、そこには
「国軍の(実質的な)最高司令官は自分なのだから指揮下の部隊をどう動かそうと私の勝手だ。国軍を直接指揮して動かしているわけではない総統の認可などいちいち必要ない」
という意識が垣間見える。このエピソードや「国家元帥」の肩書きを持ち、12話でディッツがセリフで語るように「版図の拡大を推し進め」、17話や18話で実際に艦隊を指揮して動かしていたヘルム・ゼーリックの姿を見る限り、ガミラス帝国においてデスラーは軍の指揮権を一手に握っているわけではないと考えられる。つまり、ゼーリックやディッツのような名門貴族が自らの管轄下の、あるいは息のかかった国軍の部隊を自らの好きなように動かしていて、デスラーといえども国軍の全ての部隊を思いのままに動かせない状況であるということだ。この事は劇中におけるゼーリックとディッツの関係に注目するとよりハッキリする。二人の姿をもう少しよく見てみよう。
ディッツは公式設定資料集の記述によれば航宙艦隊総司令として親衛隊と内惑星防衛艦隊をのぞくガミラス外洋艦隊を指揮・統括しているが、彼の指揮する航宙艦隊は国軍中に比肩できる存在がない事から(陸軍や空軍は存在したとしても規模や重要性において航宙艦隊に遠く及ばないと考えられる)”国軍そのもの”と言って良い存在であり、その航宙艦隊を指揮する彼は事実上「国軍の実質的最高司令官」となっている。
8話のガミラス建国記念式典の最中、ディッツがデスラーに「ドメル中将を(小マゼランに)派遣しました」と事後報告する場面が出てくるが、これを見るとディッツは指揮下の部隊の運用をデスラーに説明もせず承諾を得ることもなく好きなように動かし、国制上の最高司令官であるデスラーはディッツの決定を追認するだけの状態になっている事が伺える。明らかにデスラーは国軍を最高司令官として直接指揮できていない。
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(ちなみに大統領が最高司令官として実際に指揮できているアメリカの場合なら、次のような流れになると思われる。)
1.最高司令部に相当する国家安全保障会議で参謀総長が「○○方面が現在このような状況になっています」と大統領に説明し、「○○を方面軍司令として派遣しようと考えております」と大統領に許可を求める。
2.説明を聞いた大統領が「よろしい、許可しよう」と承認する。
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一方、ゼーリックはパンフレットの記述によれば軍政面を担当する中央軍総監の役職に就いているが、この役職はそもそも軍の装備や編成の決定といった軍政の分野でのみ権限を行使できるのであって、実戦部隊を指揮して動かすことは本来できない役職だ。従って、17話のように艦隊を自ら指揮してバラン星に向かう描写は組織の原則論で考えれば本来ならありえないし、まして18話でバラン星に進入したヤマトに対して攻撃命令を出すこともできないはずだ。ところがその両方ともゼーリックが劇中で行っているということは、彼には実戦部隊を指揮する権限(特権というべきか?)もあるし実際に指揮して動かしている、まるで手勢のような部隊もあると考えざるを得ない。
こうしたゼーリックの行動を航宙艦隊総司令のディッツは制止する権限はないし、逆にゼーリックもディッツの行動を制止する権限がない様子が劇中ではいくつか描写されている。例えば以下のようなものだ。
・ゼーリック自らが銀河方面軍司令に取り立てて子分のように扱っているゲールの事例。ゼーリックは国軍の人事にもしばしば介入していて航宙艦隊総司令のディッツには阻止する権限がないと考えられる。
・8話でのゼーリックとディッツの以下のような会話。
「(デスラーにお追従を述べるゼーリックに対し)慢心はなりませんぞ。小マゼラン外縁部では、外宇宙からの蛮族の侵入も予断を許さない」
「ディッツ君、君は我輩が大ぼら吹きだとでも?」
「艦隊運用の責任者として、油断はできないと申している!」
(ドメル中将を小マゼランに派遣した、とディッツ。彼なら期待に答えてくれるだろうとのデスラーの言にゼーリックは忌々しそうに舌打ちする)
会話から明らかなように、ゼーリックとディッツには軍の指揮と運用に関して直接の上下関係はない。そのためドメルを派遣するというディッツの決定をゼーリックは阻止できない。
これらの事例を見ると、ゼーリックとディッツは二人とも自らの管轄下の、あるいは息のかかった部隊を自らの好きなように動かしていて、デスラー以外の誰にも邪魔できない状態になっている事が分かる。しかも次元潜行艦の事例に典型的に見られるように、デスラーの承認を経ることなく自らの判断で勝手に部隊を動かすことすらあったと考えられる。こういった
「国家元首たるデスラーが国軍の指揮権を独占できておらず、ゼーリックやディッツのような名門貴族が軍の要職に就き、権勢を振るう」
という状況は、当然のことながらデスラーにとって好ましい物ではない。本来ならば国家元首たるデスラーは最高司令官として国軍の指揮権を独占し、航宙艦隊総司令の座を兼ねていないといけないし、中央軍総監は軍政のみに権限を制限しないといけない。(近代軍では、最高司令官ではあっても軍人としては素人の国家元首を参謀本部が”補佐”し、経験不足を補うことになっている。あくまでも国家元首が最高司令官として指揮する制度になっているため、実質的な最高司令官である「航宙艦隊総司令」は存在そのものが不要であると考えられる)つまり、望ましい国家運営をしようと思えば、ゼーリックやディッツは必ず粛清しなければならない存在となってしまうのだ。
こうして、この章冒頭の問いかけである、
「劇中でデスラー暗殺容疑をかけられ拘束されたドメルとガル・ディッツのうち、ドメルはすぐ釈放されたにもかかわらずディッツは釈放されなかった。それは何故か――。」
への解答が導き出された。解答は次のようなものになるだろう。
「――国家元首たるデスラーが国軍の指揮権を独占する上でディッツは邪魔な存在だったから。」
ディッツは劇中では良識的な人物として好意的に描かれているため観客は何故ディッツが反乱容疑で収監されたままなのか分かりづらいが、あくまでデスラーの立場に立ってみるとディッツは機会を捉えて粛清しなければならない人物に十分なりうる。為政者としてデスラーはゼーリックやディッツのように軍の要職に就いて権勢を振るう名門貴族を粛清し、軍の指揮権を一手に握ろうとしていたのではないだろうか(逆に言えば、粛清される危険性を十分に自覚していたからこそ、ゼーリックはお追従を述べてデスラーに媚びへつらい、ディッツは黙々と軍務をこなしていたといえる)。
ガミラス国軍がこのような状態になっているのは、おそらくデスラー政権が誕生した時の歴史的経緯によるものだろう。前章「オルタリアのガミラス移民殺戮の謎」において、ガミラス帝国はガミラス大公国を構成する複数の公国の内、デスラー叔父の治める「デスラー公国」が他の公国を征服・併合することで形成されたと考察したが、ガミラス大公国統一の過程においてデスラー公国は敵対する公国を滅ぼす一方、帰順した敵(や自国)の大貴族には帰順と引き換えに相応の役職と権限と特権を与えていったものと想像される。その結果、
・軍政のみに権限が限定されるはずの中央軍総監が実戦部隊を指揮して戦い、本来なら不必要と思われる『航宙艦隊総司令』という役職が存在する。
・国家元首が最高司令官として直接指揮するべき(経験不足な部分は参謀本部が補佐して補う)国軍が元首以外の複数の人物によって指揮され動かされている。
・名門貴族が国軍の要職に就き、(デスラーに睨まれない範囲で)誰にも邪魔されることなく好きなようにふるまっている。
という状況が劇中で出現するに至ったと考えられる。デスラーとしては何らかの形で対処しなければ自らの身が危うい、という状況であっただろう(現に名門貴族の一人であるゼーリックが反乱を起こそうとした)。
では、デスラーはどのような手段でガミラス国軍のこういった状況に対処しようとしていたのだろうか?劇中の描写やパンフレットの記述から、デスラーは主に
・権謀術数を用い名門貴族を粛清する。
・国軍の反乱に備えて自身の親衛軍を創設する。
・国軍を一般将兵のレベルで掌握するため人材登用を行う。
という3つの手段を用いていたと考えられる。それぞれ詳述してみよう。
(その1)名門貴族の粛清
デスラーが国軍の指揮権を一元化し独占するためには名門貴族の粛清は必須であったが、ゼーリックやディッツのような名門貴族はデスラーにとって扱いに慎重を要する危険な存在だったと思われる。性急に粛清しようとすれば、最悪の場合ゼーリックとディッツが二人そろって国軍を率い反乱を起こす可能性すら考えられるからだ。実際、劇中の描写を見ると、ディッツやゼーリックは非常に慎重かつ周到なやり方で粛清されている。ディッツは15話で「総統のデウスーラが何者かの手によって爆破される」という事件が起き、総統暗殺の容疑がかけられる状態になってから処分されているし、ゼーリックは18話で衆人環視のもと反乱を扇動するという誰にも言い逃れできない状態になってはじめて粛清されている。名門貴族の粛清はそれほどまでに慎重を要する作業だったのだ。
19話冒頭で「ゼーリックに同調した反乱分子は秘密警察が内定済みです」とのギムレーの発言の後、ヒス副総統が「これで総統の治世はより安泰に」と述べているが、このセリフには単なる総統へのお追従以上の意味が含まれているだろう。危険なディッツやゼーリックは2人ともいなくなり、残る貴族達も粛清する大義名分ができたからだ。
(その2)親衛軍の創設
元ネタがヒトラーの親衛隊であると思われるデスラーの親衛隊は、劇中では一貫して否定的に描写されているが、ガミラス国軍の実情を考えるとおそらく創設は必須であっただろう。デスラーが国軍の指揮権を独占し直接指揮できていない以上、国軍の誰かが部隊を率いてクーデターを起こす可能性が常に存在したからだ。パンフレットの記述によれば、親衛隊長官のギムレーは帝国の治安維持を目的とする親衛隊を国軍に比肩するほどの軍事力を持つ組織に育て上げたとの事だが、親衛隊の武力拡充をデスラーは意図的に容認ないし黙認していた可能性が高い。親衛隊の武力と秘密警察で国軍幹部を脅すことで、デスラーは国軍幹部の度を越した専横を防ぎ、彼らによるクーデターの可能性を牽制し続けていたと考えられる。
(その3)国軍での人材登用
危険人物を粛清したりしていた軍上層部の場合とは別に、一般将兵に関してデスラーは人材登用を行い国軍を一般将兵のレベルから掌握しようとしていたと考えられる。これについてガミラス人をはじめとする多くの種族から忌み嫌われるジレル人のセレステラを登用した事例から考えると、即位したデスラーは身分や出自に関係なく自分に忠誠を誓う人物をどんどん軍中に登用していったと想像される。例えばドメルは38歳という年齢そのものや、38歳という異常な若さで将官になっている事実から
「青年将校だったガミラス内戦時代にデスラーに見出され、頭角を現した軍人の一人」
だったと思われる。彼のデスラーに対する忠誠ぶりはこういった事情に由来するのではないだろうか?また、作中ではいいところのないゲールも貴族とは大違いの洗練されていない物腰や言動、名門貴族のゼーリックに媚びへつらう姿から想像すると、
「これといった身分もないにもかかわらず将官に出世できたその他大勢の軍人の一人」
なのかもしれない。だからこそあれだけデスラーに心酔し、一般将兵も18話でデスラーが死んだと聞かされて大きく動揺していたのではないだろうか?必ずしも自分の思い通りにならない軍中枢とは裏腹に、一般将兵からは絶大な支持を受けている自信がデスラーにはあったと思われる。18話でバラン星の基幹艦隊将兵に自身の生存を見せつけるだけでゼーリックが反乱の失敗を悟った事からもそれは明らかだ。
・・以上、この章をまとめると、ガミラス軍は基本的に以下のような構造になっていると考えられる。
・国家元首であるデスラーは役職的に国家元帥や航宙艦隊総司令の上に立ち、彼らの生殺与奪を握る存在であるが、国軍の指揮に関してデスラーは指揮権を独占できていない。
・本来なら国家元首が最高司令官として国軍を直接指揮するべき(経験不足な部分は参謀本部が補佐して補う)だが、現状のガミラス国軍は元首以外の複数の人物によって指揮され動かされている。
・おそらくはガミラス帝国形成時の歴史的な理由から、ガミラス軍は軍政のみに権限が限定されるはずの中央軍総監が実戦部隊を指揮して戦い、本来なら不必要と思われる『航宙艦隊総司令』という役職が存在する(なぜなら航宙艦隊総司令は国家元首が兼ねるべきであるため独立した役職としては必要ない)という不合理な状況になっている。
・ガミラス国軍はゼーリックやディッツのような名門貴族が国軍の要職に就き、自らの管轄下の、あるいは息のかかった国軍の部隊を(デスラーに睨まれない範囲で)自らの好きなように動かしていて、デスラーといえども国軍の全ての部隊を思いのままに動かせるというわけではない。
・為政者としてデスラーはこういった名門貴族達を機会を捉えて粛清し、軍の指揮権を一手に握ろうとしている。
・劇中では一貫して否定的に描写されている親衛隊は、実のところ国軍、特に幹部クラスの度を越した専横やクーデターを防ぐ重要な役割を果たしている。
・即位以来、デスラーは自分の思い通りにならない軍中枢の危険人物を粛清する一方、身分や出自に関係なく自分に忠誠を誓う人物をどんどん軍中に登用しており(その代表格がドメルであると考えられる)、それが故に(軍中枢から縁遠い)一般将兵のデスラー支持は絶大になっている。
こうして、前章と今章においてガミラスの国家と国軍の内情を考察してみたが、デスラーの権力は非常に危うく不安定な基盤の上に成り立っていると考えられる。ほんの少し前まで内戦を行っていた分裂した国民(純血ガミラス人)に必ずしも思い通りにならない国軍(特に幹部連中)。この条件下でデスラーはどのように帝国を治めていくつもりだったのだろうか?次の章では特にその点について考察してみよう。
【3. 名誉ガミラス臣民の謎――デスラーの構想していた国家モデル】
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このエピソードはガミラスの国家システムを考える上で非常に多大な材料を与えてくれる。この「名誉ガミラス臣民」とは、いかなる地位・身分なのだろうか? この命題は以下のような疑問に分けられる。
・名誉ガミラス臣民と一等ガミラス臣民は異なる身分なのだろうか?
・両者が異なるとすれば、名誉ガミラス臣民はどのような身分であり、どのような待遇を受けるのだろうか?
・そもそもガミラス帝国で二等ガミラス臣民、一等ガミラス臣民といった身分制度が作られた理由は何なのか?そして名誉ガミラス臣民が1つの独立した身分であるならば、その存在理由は何なのだろうか?
これらの疑問について考察していくことで、国軍や純血ガミラス人の問題を数多く抱えたデスラーがどのような国家システムを構築し、ガミラス帝国をどのように治めていくつもりだったのか明らかにすることができるだろう。この章ではそれぞれ次の様に項目を分けて、順を追って考えてみよう。
(その1)名誉ガミラス臣民と一等ガミラス臣民は違う身分か?
(その2)名誉ガミラス臣民とはどのような身分なのか?
(その3)ガミラスの身分制度と名誉ガミラス臣民の存在理由とは何か?
(その4)デスラーの構想していた国家モデルについて
(その1)名誉ガミラス臣民と一等ガミラス臣民は違う身分か?
劇中で明らかになっているガミラスの身分制度の特徴は以下のようなものだ。
・純血ガミラス人は一等臣民であり、被征服民は二等臣民とされる。
・4話のシュルツとゲールの会話から判断すると、二等臣民から一等臣民への昇格は一等臣民の推薦が必要である。
・ただし、23話のノラン・オシェットの「(デスラー砲破壊の阻止を)総統が知れば自分は一等ガミラスになれる」とのセリフから、デスラーが認めれば一等臣民の推薦がなくても一等臣民に昇格できる。
23話のノランのセリフや、8話のデスラーがヒスにザルツ人遺族の身分昇格を指示する場面で一等臣民ではなく「名誉ガミラス臣民」と口にしている事実から、一等ガミラス臣民と名誉ガミラス臣民は異なる身分ではないかとの推測が成り立つ。これに関して、公式設定資料集[GARMILLAS]にはヴァルケ・シュルツとヒルデ・シュルツに関して次のような記述が出てくる。
――(ヴァルケ・シュルツの人物説明)冥王星をガミラスフォーミングし、そこに前線基地を築き駐留する二等ガミラス人(被征服民族)で構成された空間機甲旅団の旅団長。二等ガミラスながら、帝国への忠誠心は一等ガミラス人に負けないと自負する。
(『公式設定資料集[GARMILLAS]』 P.186)
――(ヒルデ・シュルツの人物説明の補足文)父親の名誉の戦死によって名誉ガミラス臣民となったあと、セレステラのはからいで宣伝情報相の給仕係となった。
(『公式設定資料集[GARMILLAS]』 P.190)

(その2)名誉ガミラス臣民とはどのような身分なのか?
名誉ガミラス臣民となったヒルデ・シュルツは22話でセレステラのようなガミラス政府の要人やユリーシャ姫(と間違われた森雪)の給仕をしたり、総統府内部でユリーシャ姫に付き添う付き人のような事をしたりと、ガミラス社会の中でもかなり名誉とされると思われる仕事をしている。その様子はさながら武家の近習のように見えるが、ことによると名誉ガミラス臣民とは、アレクサンドロスの”朋友(ヘタイロイ)”に相当する地位なのかもしれない。
史書では”朋友(ヘタイロイ)”について次のように解説している。
――”朋友(ヘタイロイ)”とは仲間を意味するギリシア語で、マケドニアでは王の側近集団を表す言葉である。”朋友(ヘタイロイ)”には王の側近だけではなく部隊長クラスや比較的下位の者まで含まれ、彼らは王への忠誠と引き換えに土地や馬などの財産を与えられた。彼らの登用や解任は王の一存で決められ、マケドニア貴族だけではなく幅広い出自や階層の人々から集められた。例えばギリシア人でアレクサンドロスの書記官となったエウメネスは、フィリッポスが遠征中に滞在したギリシア都市カルデアで見出した人物である。
(森谷公俊 「アレクサンドロスの征服と神話」 講談社 P.184~185を要約)
つまり、二等臣民だったヒルデ・シュルツ(とその他大勢のザルツ人)はデスラーの命により一等ガミラス臣民よりも上の立場の「デスラーの朋友」に取り立てられ、朋友に相応しい役職を与えられていると想像することができるのではないだろうか。もし名誉ガミラス臣民がアレクサンドロスの”朋友(ヘタイロイ)”に相当する「デスラーの朋友」であると仮定するなら、ガミラスの身分制度の性格や存在理由について多少なりと面白い想像をすることができる。次はその事について述べてみよう。
(その3)ガミラスの身分制度と名誉ガミラス臣民の存在理由とは何か?
ガミラスの身分制度は、地球に存在した有名な帝国の身分制度と比較して、どのような特徴があるのだろうか?
ヤマト2199について評論する人の間では、ガミラスの一等・二等ガミラス臣民についてローマ帝国を想起させると指摘する意見が多い。旧作ヤマトを制作した故西崎プロデューサーが「デスラーのモデルはローマ皇帝」と述べている事からなおさらガミラスの身分制度についてローマ帝国に似ていると感じる人が多いのだろう。しかし、劇中の描写を見る限りでは、両者には一つ大きな違いが存在する。それは
「ローマ帝国では人種や民族に関係なくローマ市民権が授与されていたのに対し、ガミラス帝国では純血ガミラス人以外が一等臣民になるのは深刻な人種差別のために困難だったと思われる事」
だ。この違いのためにローマとガミラスの身分制度は、外見上似ているように感じられても実質は非常に異なるものだったと考えられる。
ローマ帝国では一般的に、ローマ市民権を与える上で人種や民族による差別は存在しなかったと考えられている(ローマ市民の墓地を発掘すると様々な人種や民族の骨が発掘される)。ローマ帝国における差別は、「ローマ市民であるか、そうでないか」という階級的な要素が民族・人種的な要素よりもはるかに大きかったとされている。
これに対し、劇中の描写を見る限りガミラス帝国では、純血ガミラス人の他種族に対する蔑視や差別が非常に一般的であると考えられる。例えばメルダ・ディッツは10話の古代や山本との会話で二等臣民を劣等種族と言い放っている。21話の強制収容所所長はザルツ人を「帝国に寄生する劣等種族」と呼んでいたし、デスラーの女性衛士達も25話でジレル人のセレステラを「魔女」と侮蔑していた。作中で「他種族への差別をしない」とされていたドメル軍団でさえ、フォムト・バーガーは20話でザルツ人に対し面と向かって「信用できない」と言い放っているし、当のドメルまでもがセレステラを「あの女は魔女だからな」と侮蔑している(19話前半のハイデルンとの会話より)。
こういった純血ガミラス人の他種族への蔑視や差別は、二等臣民が一等臣民に昇格するのに非常に悪い影響を及ぼしていたと考えられる。例えばヴァルケ・シュルツは純血ガミラス人以外をあからさまに侮蔑するグレムト・ゲールの下では決して一等ガミラス臣民に推薦してもらえなかっただろう。また、19話と20話で活躍したザルツ人の第442特務小隊はパンフレットの説明によれば「常に激戦地に送られ戦い続け、いつしか精鋭と認識されるようになった」にもかかわらず、結局誰一人として一等ガミラス臣民に取り立てられる事はなかった。ローマ帝国の場合、これ程の戦いぶりを示した外人部隊には隊員全員にローマ市民権が授与され、市民権を得た隊員全員が退役した後も部隊には”ローマ市民の”という称号を名乗ることを許される事例が多かったのとは対照的だ。
身分制度に関するヴェルテ・タランの発言を見ると、二等臣民に対するデスラー以外のガミラス政府首脳部の態度を伺うことができる。8話のガミラス建国記念式典の場において、「同化政策は順調に進んでおります」と述べたヴェルテ・タランはこう続ける。
「帰順を示した者には滅亡ではなく二等臣民としての権利を。それが帝国繁栄の礎となっております」
この発言からは被征服民の円滑な統治のために被征服民にも一定の権利を認める必要があるという考えを見て取ることはできても、更に一歩進んで帝国に有用な者を一等臣民に取り立てるという考えは全く伺うことはできない。式典に参列した高官達の顔ぶれを見ても、セレステラ以外は全て純血ガミラス人だ。ガミラス政府首脳部にとって、被征服民である二等臣民はただの統治の対象でしかなく、彼らの内から帝国に有用な者を登用するという考えはないのではないかと思われる。ただ一人、デスラーを除いては・・。
劇中においてデスラーは二等臣民を名誉ガミラス臣民に取り立てたり、多くの種族から忌み嫌われているジレル人を登用して閣僚にすらしているが、こういった行為は二等臣民達の忠誠心をかろうじてガミラス帝国に繋ぎ止める重要な役割を果たしていると考えられる。二等臣民(特にザルツ人)の間には純血ガミラス人を憎悪し、帝国そのものにも何の魅力も感じないがデスラー総統にだけは忠誠を尽くす、という人間が相当いるのではないだろうか。
ここでもし、名誉ガミラス臣民が次のような身分であるとすれば、ガミラスの一等・二等臣民の身分制度の欠陥を補い、二等臣民のデスラーへの忠誠を確保することができるだろう。
「名誉ガミラス臣民は一等ガミラス臣民より上の”デスラーの朋友”と称すべき身分で、帝国の支配エリートはこの名誉ガミラス臣民と一等ガミラス臣民の高官・将軍・首長といった上層部とで構成される。名誉ガミラス臣民は種族を問わずデスラー個人に認められた者のみがなることができ、1代限りの身分である。名誉ガミラス臣民の子供は一等ガミラス臣民となる。」
名誉ガミラス臣民がこのような身分制度であれば、常日頃一等臣民の純血ガミラス人から屈辱的な扱いを受け、彼らの差別のため身分昇格もままならない二等ガミラス臣民達も、デスラーのためだけには働こうとするだろう。デスラーに認められさえすれば一等臣民にも、更に上の名誉ガミラス臣民になって帝国の支配エリートに仲間入りするのも夢ではないからだ(デスラーによりジレル人でありながら閣僚に登用されたセレステラはその実例となる)。
ここで述べた名誉ガミラス臣民の制度はあくまでも個人的な想像によるものだが、劇中におけるガミラスの一等・二等臣民の描写や、ヒルデ・シュルツの名誉ガミラス臣民となった経緯やその後の待遇を見る限り、ガミラスの身分制度の特徴や存在理由について、最低限次のことは言えるだろう。
・一等・二等ガミラス臣民は人種主義が非常に強いガミラスで言わば自然発生的に制定された制度で、二等臣民にも一定の権利を認め、一等臣民の推薦があれば二等臣民も一等臣民に昇格できるという具合に制度としての形は整えられているものの、純血ガミラス人の人種差別により制度が機能しなくなる危険性を孕んでいる(ヴェルテ・タランをはじめとするガミラス政府首脳部に被征服民を登用するという考えはないと思われる事がこの問題に拍車をかけている)。
・名誉ガミラス臣民は明らかに政治的な意図によって制定された制度で、劇中の描写を見る限り、一等・二等ガミラス臣民の制度の欠陥を補う役割を果たしている。
これらの事柄を踏まえたうえで名誉ガミラス臣民が上に述べたような制度であると考えれば、ガミラスの身分制度は非常にうまく機能するのではないだろうか?
しかしここで1つの疑問が生じる。一等ガミラス臣民以外の支配エリートとして名誉ガミラス臣民という身分が別個に用意された理由は何なのだろうか?単に一等・二等ガミラス臣民の制度の欠陥を補うだけなら、デスラーが二等臣民をどんどん一等臣民に昇格させればそれで済むはずだ。なのにあえて名誉ガミラス臣民が制定されたのは何故か?そこにはやはり、国軍や純血ガミラス人の問題を数多く抱えたガミラス帝国の国情と、それに対処しようとするデスラーの意図が深く関係していたと思われる。次はその事について考えてみよう。
(その4)デスラーの構想していた国家モデルについて
デスラーが名誉ガミラス臣民という身分を一等ガミラス臣民とは別個に制定したのは何故だろうか?その答えは次のような設問を考えれば簡単に出てくるのではないだろうか。
「一等臣民の殆どを占める純血ガミラス人はデスラーにとって信用できて頼りになる存在だろうか?」
1章と2章での考察を踏まえれば、とてもではないがそのような存在でないのは明らかだ。1章で考察したように純血ガミラス人にはデスラーの叔父やデスラー本人にガミラス統一戦争で祖国の公国を滅ぼされ、反感を抱く者が数多く存在している。そして2章で考察したように純血ガミラス人主体の国軍はクーデターを起こしかねない危険な名門貴族達が跋扈している。デスラーを支持する者が大勢いても、それと同じくらい多くの敵が存在するのが純血ガミラス人の実情なのだ。
こういった状況でデスラーは、自らの政権を確固としたものにするために種族や出自を問わず自分に忠実な人間を選抜し、政権を支える集団を作る必要に否応なく迫られただろう。名誉ガミラス臣民が制定されたのはそのためと考えられる。自らが選抜し役職につけた一等臣民の高官・将軍・首長と、やはり同じように自ら選抜した”デスラーの朋友”たる名誉ガミラス臣民が政権を支える帝国の支配エリートとなる、というのがデスラーの思い描いた国家モデルだったのではないだろうか。
名誉ガミラス臣民以外にも、デスラーは自分に忠実な人間を集めた団体をいくつも創設しているが、そのそれぞれにガミラスの国内事情が反映されているのは興味深い。例えば悪名高き親衛隊の場合、兵士と下級将校にクローン人間が使用されているのは極度の純血主義の表れであるとパンフレットでは解説されているが、それ以外の理由としてクローン兵はデスラーに滅ぼされたガミラスのどの公国とも繋がりがないため、出自的にデスラーに反感を抱きようがないという事も挙げられるだろう。また、パンフレットに記述されている〔デスラー少年団〕や〔ガミラス少女同盟〕は地球の国民国家のような(国家に対し絶対の忠誠を誓う)「国民」をゼロから作っていかねばならないガミラスの状況を実によく体現していると言える。デスラーは団体の子供達を、自分だけに忠誠を誓い、自分の意のままに活用できるエリート部隊に育てるつもりだったと思われる。
結局のところ、デスラーの治めるガミラス帝国はどのような帝国になろうとしていたのだろうか?これを考える上で重要なのは「デスラーとの個人的関係とデスラーへの忠誠」という要素だ。ジレル人のセレステラはデスラーに登用され閣僚にまで登りつめた。ザルツ人のヴァルケ・シュルツはその忠誠ぶりをデスラーに認められ、家族を名誉ガミラス臣民に取り立てられた。純血ガミラス人のドメルは日頃の忠節のおかげで死刑にされるところをデスラーに救われたのに対し同じ純血ガミラス人でも反抗したり、忠誠を疑われた者は容赦なく粛清された。そしてデスラーに反旗を翻した者は純血ガミラス人やその他の種族を問わず全て平等に抹殺された。デスラーの帝国の本質は以下の一文に集約できるだろう。
「――デスラーが頂点に君臨し、彼にのみ忠誠を尽くす人間が種族を問わず支配エリートとして帝国の統治にあたる。出身種族ではなくデスラーへの忠誠がガミラスの支配体制の根幹となり、それのみが空前の大帝国を支える礎となる。」
この意味で、ガミラス帝国はデスラーただ一人の帝国となろうとしていたのである。
・・以上、この章をまとめると、ガミラス帝国の国家システムの実情とデスラーの構想していた国家モデルは以下のようなものと考えられる。
・ガミラスに存在する一等・二等ガミラス臣民の制度は人種主義が非常に強いガミラスで言わば自然発生的に制定された制度で、ガミラスが領土を拡大し、帝国としての体裁を整えていく過程で二等臣民にも一定の権利を認め、一等臣民の推薦があれば二等臣民も一等臣民に昇格できるという具合に制度としての形を整えていったと考えられる。
・しかしながら、純血ガミラス人の人種差別により一等・二等ガミラス臣民の制度は制度が機能しなくなる危険性を孕んでいる(ヴェルテ・タランをはじめとするガミラス政府首脳部に被征服民を登用するという考えはないと思われる事がこの問題に拍車をかけている)。
・一等臣民の大半を占める純血ガミラス人はほんの少し前まで内戦を行っていた分裂した集団であり、デスラーに反感を抱くものも多く、デスラーにとって帝国の支配エリートとして依存するには危険な存在だった。
・こういった状況でデスラーは、自らの政権を確固としたものにするために種族や出自を問わず自分に忠実な人間を選抜し、政権を支える集団を作っていった。名誉ガミラス臣民や(悪名高き)親衛隊はそういった集団の一つである。
・自らが選抜し役職につけた一等臣民の高官・将軍・首長と、やはり同じように自ら選抜した”デスラーの朋友”たる名誉ガミラス臣民が政権を支える帝国の支配エリートとなる、というのがデスラーの思い描いた国家モデルだったと思われる。
・デスラーにとって出身種族ではなく彼への忠誠のみが帝国の支配エリートとして重要な資質であり、その意味でデスラーのガミラス帝国は純血ガミラス人の帝国ではなくデスラーただ一人の帝国になろうとしていた。
こうして、ガミラス帝国の内情や国家システムまで一通り俯瞰できるところまで来た。デスラーは純血ガミラス人や国軍の問題を数多く抱えながら、ガミラスを純血ガミラス人のみの帝国から真の意味での世界帝国に発展できるかもしれない段階にまで持っていったと評価できるだろう。その意味で彼はガミラスの希代の英傑と呼ぶに値す
る。しかし、彼の事業はヤマトによって一大蹉跌を余儀なくされ、デスラー自身の一見不可解な行動によって幕を閉じててしまう。どうしてそのようなことになってしまったのだろうか?次章ではそのことについて考察してみよう。
【4. デスラー砲の謎――デスラーは本当に狂っていたのか?】
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ヤマト2199の視聴者の間で最も評価の別れ、かつデスラーの人物像を理解し難いものにしているエピソードである。あれだけ冷静沈着で権謀術数に長けた大帝国の建国者が何故臣民達の命運も家臣達もどうでもいいと言わんばかりの事をやったのか。彼は発狂でもしてしまったのだろうか?
劇中の描写から言えるのは、デスラーのとった行動はヤマトがバレラスに来る以前から予め計画されていた事で、デスラーは狂気に陥ったわけでは決してないという事だ。根拠としては2つ挙げられる。1つは23話の総統府脱出直後、デスラーがコアシップの艦長に「予定通り」と発言している事。もう1つは第二バレラスにデスラー砲が装備されているという事実そのものだ。何故本来イスカンダルへの遷都に使用する軌道都市に過ぎない第二バレラスに、惑星を破壊できる物騒な兵器が装備されているのか。しかもこのデスラー砲は、ご丁寧にも砲口を帝都バレラスに向け発射できるようになっている。仮にヤマトが来なくてもデスラーはデスラー砲を帝都バレラスに向けて使用するつもりだったと思われる。
デスラーが狂気に陥ったのではないとすれば、彼のとった行動にはどのような理由と意味があったのだろうか?この事を考える上で参考になる人物がいる。アレクサンドロスだ。序章で言及したように、ヤマト2199のデスラー総統とアレクサンドロスには意外な共通点が多く、2人をとりまく政治状況も類似点が多い。アレクサンドロスの生涯をデスラーと対比していけば、23話でデスラーがとった行動も無理なく理解できるようになるだろう。この章ではアレクサンドロスとデスラーをそれぞれ比較するという形で上記の疑問について考察してみたい。
(アレクサンドロスとデスラー:その1)
紀元前4世紀、アレクサンドロスは極めて精強なマケドニア軍とギリシア同盟軍を率いてペルシア帝国を征服した。しかし、彼らマケドニア人とギリシア人には征服したアジア領を円滑に統治していくには一つ大きな問題があった。自分達以外の民族に対する強烈な差別意識である。例えばアリストテレスはアレクサンドロスに次のような助言をしたと史書では解説している。
――アリストテレスがアレクサンドロスのために書いたもう一遍の論説に、『植民地の建設について』がある。ここでアリストテレスは、ギリシア人達には友人や同族の人々として配慮し、彼らの指導者として振舞う事、異民族に対しては彼らの専制君主として臨み、動物や植物のように取り扱えと勧めている。異民族を動植物同然と見なすアリストテレスの言説は、当時のギリシア人が外国人=バルバロイに抱いていた感情を集約したものだ。
(森谷公俊 「アレクサンドロスの征服と神話」 講談社 P.87)
今日の私達の視点から見れば、アリストテレス(とギリシア人)のような認識でアジア領を支配したら、たちまち統治が立ち行かなくなるのは火を見るよりも明らかだろう。アジアの占領地の円滑な統治には地元の有力者の協力が不可欠であり、彼らの協力を得るためには彼らを侮蔑するのではなく逆に信頼を得るような措置をとらなければならない。そこでアレクサンドロスは東方の風習や風俗を取り入れ、ペルシア人貴族を高官や側近に採用していった。
ここまでの経緯をガミラスと比較すると、デスラーの事績がアレクサンドロスによく似ているのが分かる。デスラーは純血ガミラス人の軍団を率い、その進んだ科学技術と(おそらくは移民が送り込める程の人口の優越による)膨大な兵力で大小マゼランを征服していった。しかし征服した種族を円滑に統治するためにはやはり彼らの一部を「仲間」に取り込んで行く必要がある。そのため、二等臣民が一等臣民に昇格できる制度を設け、数は少ないものの純血ガミラス人以外の種族の者を閣僚に登用したり、名誉ガミラス臣民のような帝国の支配エリートに採用していった。
ところが、アレクサンドロスとデスラーの他種族の宥和政策は自らが率いてきた者達から猛反発を受けることになる。
(アレクサンドロスとデスラー:その2)
アレクサンドロスの東方協調路線に対して多くの側近や家臣が異を唱え、やがて粛清されてしまうが、それだけに留まらずアレクサンドロスは自らの帝国作りに邁進していく。彼はアジア人にマケドニア風の訓練を施して旧来のマケドニア人部隊に匹敵する規模のアジア人部隊を創設した。そして本国に帰還する古参兵とアジア人女性との間にできた子供を引き取り、自分だけに忠誠を誓い、自分の意のままに活用できるエリート部隊養成の手筈を整えていく。それぞれ史書では次のように解説している。
――前327年にバクトリアを発つ時、アレクサンドロスは東方の属州総督たちに、若者を選抜して軍事教練を施すようにと命じておいた。訓練を担当したのは、各地の都市に残されたマケドニア人古参兵だったろう。前324年、3年間の訓練を終えたこれらの若き歩兵3万人がスーサに到着した。彼らはマケドニア風の衣服を身に着け、マケドニア式の装備と訓練を与えられていた。大王は彼らのパレードを満足して眺め、彼らを「後継者」と呼んだ。この呼称は、マケドニア人歩兵の後を継ぐのがこれら東方の若者たちであることを示している。(中略)翌年には、ペルシス総督ペウケスタスが徴募したペルシア人歩兵2万がバビロンに到着。こうして新しい兵士が大量に登場したことで、マケドニア人歩兵は数の上でも士気においても圧倒された。(中略)このような軍隊構成の変化は、アレクサンドロスがマケドニアの王からアジアの王に移行したことの反映に他ならない。
(森谷公俊 「アレクサンドロスの征服と神話」 講談社 P.226~227)
――オピスから1万人の古参兵が本国へ帰る時、アレクサンドロスは彼らがアジア人女性たちとの間にもうけた子供達の扱いに言及し、彼らをマケドニア風の兵士として育てる事を約束した。もしこれが実現していたら、子供達はヨーロッパに根を持たず、アジアにも特定の故郷を持たない兵士として成長したであろう。大王は彼らを、自分だけに忠誠を誓い、自分の意のままに活用できるエリート部隊に育てるつもりだったと思われる。
(森谷公俊 「アレクサンドロスの征服と神話」 講談社 P.228)

もしアレクサンドロスが32歳で病死しなかったら、どこかの時点で本国のマケドニア人達の怒りが爆発して大規模な反乱が起きたかもしれない。しかしその場合、マケドニア第一主義だった東方遠征以前からの宿老や朋友(パルメニオンやフィロタス、クレイトス等その他大勢)の末路を考えると、アレクサンドロスは容赦なく反乱を起こしたマケドニア人達を抹殺するか、(まるで収容所惑星のような)辺境都市へと追放したに違いない(※反乱者の辺境都市追放については第1章を参照の事)。
デスラーのデスラー砲によるバレラス砲撃は、上記のアレクサンドロスの「帝国建設のためのマケドニア人切り捨て」に相当する行為だったと思われる。1章から3章まで考察してきたように、被征服民ばかりか純血ガミラス人の中にも数多く敵を抱えるデスラーが創ろうとした帝国は、種族を問わず彼に忠誠を尽くす者のみが支配エリートになる国だった。しかし彼の帝国の未来像は、彼を支持し仕えてきた一般の純血ガミラス人や閣僚達が思い描いていた帝国像とは大きくかけ離れていただろう。彼らにとってのガミラス帝国とは、わずかな例外を除き純血ガミラス人のみが支配エリートとして君臨する世界だったと考えられるからだ。
ガミラスの閣僚達の内、ゼーリックはデスラーの同化政策を憂い、貴族社会の復権を目指して反乱を起こした(※パンフレットの解説による)。デスラー政権崩壊後のジレル人のセレステラ失脚からも明らかなように、それ以外の者もデスラーが純血ガミラス人以外の種族を登用する事に否定的だった。軍中や征服地では純血ガミラス人達の差別が横行し、きっかけさえあれば二等臣民の反乱が起きかねない状況になっていた。帝国の永続的な発展を考えれば、ガミラスは多種族が支配エリートに加わるローマ帝国のような本当の意味での世界帝国に脱皮する必要があったが、もはやバレラスの純血ガミラス人と閣僚達はその最大の障害となっていたのだった。デスラーのデスラー砲によるバレラス砲撃は、彼の帝国建設を邪魔する者達を一気に粛清しようとする行為だったのである。
(アレクサンドロスとデスラー:総括)
アレクサンドロスもデスラーも、自らが理想とする帝国を建設するために、それまで自分についてきた人々を無情にも切り捨てた(あるいは切り捨てようとした)。そしてそれを可能にするための準備も怠らなかった。アレクサンドロスの場合はマケドニア人がたとえいなくなったとしてもアジア人の軍団が後に控えていた。デスラーの場合は帝都の純血ガミラス人と閣僚がいなくなっても代わりに親衛隊と自分を支持する国軍の一般将兵がいた(バレラスが消滅したのはヤマトのせいという事にすれば、帝都に着いた基幹艦隊の将兵も納得しただろう)。二人共恐ろしく周到で、間違っても頭がおかしくなったと考える事はできない。
歴史の大局的な視点で見れば、二人の行い(支持者の切り捨てと粛清)は「唯一絶対の指導者の下、多種族が共に支配エリートとして帝国を治め、民は種族を問わず平和を享受する」ために必要な事であっただろう。(アレクサンドロスの場合は後にローマの平和として実現する。)と同時に、2人が目指した理想の帝国はマケドニアや純血ガミラスの枠内に留まる限り決して考える事の出来ないものであった。問題はその理想のために敵味方問わず夥しい数の人間を死に追いやる事ができるのかどうかだったが、まともな人間ならとてもできないその恐ろしいことを2人は行った(あるいは行おうとした)。デスラーは確かにアレクサンドロスに比肩する英雄であった。
・・こうして、ヤマト2199のデスラー最大の謎を説明づける事ができた。ヤマト2199を視聴した多くの人が「デスラーの行動が理解できない」と述べている。一体何をどうすれば今まで自分を支持し支えてきた民や家臣達を大量殺戮するマネができるのか。ある人はスターシャの愛が得られず自暴自棄になったデスラーが、彼女の呼び寄せたヤマトを撃破するのに固執したためだろうと述べ、ある人は帝国の成功で必然的に生じたバレラスの腐敗と退廃を文字通り吹き飛ばそうとでもしたのだろうかと述べている。ヤマト2199のデスラーを非難する人は、旧作のデスラーがガミラス人の未来を考える大物だったのに対し、今作のデスラーは逆にガミラス人を殺し尽くそうとするとんでもない小物だと非難する。だがしかし、3章並びにこの4章の考察を踏まえれば、事はそんな次元の話ではないとハッキリ断言できる。
第23話の劇中においてデスラーはこのような言葉を口にした。
「ガミラスはその尊い犠牲を以て、古き衣を脱ぎ捨てる」
「偉大なるガミラスの未来のため」
これらの言葉は、ガミラス帝国が純血ガミラス人のみの帝国から多種族が統治に参加する、真の意味での世界帝国に生まれ変わるという宣言である。純血ガミラス人の枠組を超え、銀河を超えた共栄圏を築くために自らの利害しか考えないバレラスの民と家臣を犠牲にするという事なのだ。ヤマトなど事を為すための丁度いいきっかけに過ぎない。「バレラス消滅はヤマトのせい」とでも言っておけば、帝都に着いた基幹艦隊の将兵も納得するだろう。
これは最早、後世の人間でしか理解も評価もし切れない次元の話だろう。アレクサンドロスのマケドニア人粛清のように…。
ものすごく大きな毀誉褒貶はあるが、アレクサンドロスとデスラーは自らの夢と理想のために帝国建設に邁進していった。しかしアレクサンドロスは帝国の建設半ばで病死し、デスラーはヤマトのために生死不明となってガミラスから姿を消した。アレクサンドロスの帝国は彼の死後崩壊してしまうが、デスラーの帝国の場合はどうなるのだろうか?次章ではその事について想像と考察を行ってみよう。
【5. デスラーのいないガミラスはどうなる?――続編の可能性も含めて】
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(その1)社会面での危機
まず確実にこうなるだろうと思われるのは、
「今までデスラーと親衛隊によって抑え付けられていた帝国の諸矛盾が、彼らがいなくなった事で一気に噴出する」
という事だ。ヤマト出現以来続いていた二等臣民の蜂起が、好機到来とばかりに一気に激化するだろう。なお深刻な事に、ザルツのような今まで忠実だった種族までもが反旗を翻すかもしれない。何故なら、デスラーがいなくなった事で二等臣民が自らの境遇を改善していける見込みはほぼ完全にゼロになったからだ。
「もはやいくら帝国に尽くしてもそれを認めてくれる人物はいない。いるのは自分達を侮蔑する純血ガミラス人達とその大臣だけだ。ジレル人のセレステラも、デスラーがいなくなるとあっという間に失脚してしまった。つまりは純血ガミラス人以外は出世の見込みは一切ないという事だ。こんな国に留まる理由がどこにある?戦うべき時が来たのだ――。」
ヒスとディッツが何もしなければこういう事になってしまいかねない。特にセレステラがいなくなった事はこれ以上ないくらい悪いメッセージを二等臣民達に与えたと思われる。
帝都バレラスも平穏ではいられないだろう。デスラーとその叔父に征服された公国の人間が独立を求めてテロ、ひどい場合は武装蜂起を起こすかもしれない。もう彼らに目を光らせていた恐ろしい親衛隊はいない。パンフレットに書かれていたようなガミラス人同士の内戦が三たび勃発する可能性が少なくないと思われる。
こういった純血ガミラス人や二等臣民の独立運動に、ヒスとディッツはどう対処するのだろうか?おそらくギムレーがやっていたのと大差ない事をするだろう。間違いなく死を覚悟しているであろう彼ら決起者達を懐柔して独立を諦めさせるのは、現実問題として無理だからだ。帝国を崩壊させたくなければ、再び恐怖政治で彼らを取り締まる一方で有用な者を一等臣民にするという、デスラーと同じ政策を採らざるを得ない。
だが、そうなったらそうなったで新たな問題が生じるだろう。二等臣民を支配エリートの一員に登用するような事をすれば、純血ガミラス人達の憤激を買うに違いないからだ。デスラーの場合は大小マゼラン統一の英雄という権威があったため皆内心はともかく彼の宥和政策に従い、あからさまに従わない者は親衛隊に粛清された。しかしデスラーのような権威も暴力装置も持ち合わせないヒスとディッツがこれを行えば純血ガミラス人達は黙っていないだろう。ゼーリックが行ったような暗殺事件や反乱が起こるに違いない。
(※ちなみに、日頃皆から「お飾り」とバカにされているヒスはともかく、ディッツも皆を従わせるだけの権威がないと書いたのは劇中の描写からの判断による。第22話でディッツが収容所惑星レプタポーダから別の収容所惑星へ向かった事を思い返してみよう。デスラーに反旗を翻した彼は何故そうしたのだろうか?それは兵を集めようにも軍司令官でも何でもなくなった彼の命令を聞いてくれそうなのが、決起したごく一部の者と同じ収容所の囚人くらいしかいなかったからに他ならない。もし彼に国軍将兵の広い信望があれば、彼は他の収容所惑星ではなくおそらくは小マゼランに向かい、小マゼラン方面軍を率いて帝都バレラスに進撃しただろう。そしてそれ以前の話として、親衛隊も国軍の反乱を恐れてディッツを拘束などできないはずだ。したがって、彼には純血ガミラス人の、特に一般将兵の反感を抑え付けるだけの人望はないと考えられる。)
結局、ヒスとディッツの新政権がこういった難局を打開するには自分達がデスラーに取って代わる存在である事を実力で示すしかないと思われる。つまり、いかなる形であれ政権に反旗を翻した者は問答無用の武力で鎮圧し、対外戦争で大きな勝利を収めて帝国内にその力を誇示する事だ。まるで戦国大名のような所業だが、それ以外の方法を筆者は思いつかない。だがこういった解決策を考える事自体空しいものかもしれない。肝心の新政権の軍事力がヤマトのせいで危機的状況に陥ってしまっているからだ。
(その2)軍事面での危機
旧作のようにヤマトによって滅ぼされなかったものの、ガミラスがヤマトから蒙った被害はきわめて甚大で、新政権は軍事力によって危機を乗り越えるどころか逆に滅亡の危機に直面すると考えられる。以下に詳述してみよう。
ヤマト2199におけるガミラスの軍事力、特に戦闘艦艇の総数については作中では明確に示されていないが、次のように想像することができる。
・18話で「基幹艦隊」と称する1万隻余の艦隊がバラン星に集結していたが、この艦隊は「基幹」という呼称から考えて、通常大マゼランに置かれ戦況に応じて小マゼランや銀河系に分派される戦略予備だと思われる。
・この戦略予備がガミラス全軍の1/3~1/4の数に相当すると仮定すると、作中で「帝国防衛の要」と称される小マゼランには1~2万隻、領土を拡大中の銀河系には1万隻の艦艇が配備されていると想像される。
これらの戦力のうち、基幹艦隊はヤマトによって壊滅した。残された3000隻も二等臣民達の反乱の鎮圧に忙殺され、小マゼランや銀河系に増援として派遣されることは最早できなくなるだろう。反乱の鎮圧は本来、親衛隊の艦隊の役割だが、親衛隊の艦隊がヤマトのバレラス襲来によって全滅してしまったため基幹艦隊がその代わりを勤めざるをえないからだ。つまり、ガミラスは戦争をする上での戦力の中心を事実上喪失してしまうことになる。
これに加え、ヤマトのバラン鎮守府破壊によってワープゲートネットワークが使用不能になり、帝国内の戦力の迅速な移動ができなくなってしまった。基幹艦隊がバラン星からガミラス帝星まで通常のワープ航法で3ヶ月を費やしていた作中の描写から考えても、仮に小マゼランへ援軍を送る必要がある場合、大マゼランからは3ヶ月、銀河系からは6ヶ月以上かかる。これでは戦いに到底間に合わない。この状態でガトランティスの大侵攻を受けたら小マゼラン方面軍は一体どうなってしまうのか。援軍が全く来ない以上、ディッツが小マゼランからの撤退を許可しない限り必ず小マゼラン方面軍は全滅してしまうだろう。
このように、ガミラスの軍事力は(ヤマトのせいで)もはやガタガタで、危機を乗り越えられるとは想像しがたい。デスラーのようなカリスマ性も才覚も持たないヒスとディッツの新政権は内乱と戦争によって遠からず滅亡すると考えられる。彼らに最後の引導を渡すのは、小マゼランに進入しようとしていたガトランティスということになるだろうが、ではガトランティスの大侵攻は実際にあり得るだろうか?次はそのことについて考えてみよう。
(その3)ガトランティスの台頭とガミラス滅亡?
ヤマト2199の世界においてガトランティスが登場するとしたら、その姿はどのようなものになりそうだろうか?もし旧作のヤマト2のように「利用価値があると認めた星は植民地化し、住民を奴隷にする」(※ヤマト2各話冒頭ナレーションより)のであれば、侵入を受けた大小マゼランの人間は揃って地獄を見るだろうが、彼らはヤマト2199の世界においても旧作のような恐るべき種族になり得るだろうか?筆者個人はその可能性は十分にあると思う。何故なら、彼らには奴隷の略奪を必要とする社会状況があると思われるからだ。
ガトランティスは8話のディッツのセリフによれば、「外宇宙から飛来し小マゼランに進入しようとしている蛮族」ということになっている。ガトランティス人はそのほとんど全員が船上か都市要塞で暮らしている事になるが、この生活スタイルには一つ大きな問題がある。それは
「船や都市要塞は有人惑星と比べて余剰の人間を養う空間と資源が非常に乏しい」
ということだ。兵士も労働者もやっていない、無駄に余っている人間が元々非常に乏しいため、何かの拍子に兵士が必要だ、働き手が必要だ、という状況になった場合にたちまち深刻な人手不足になってしまう。そのため、ガトランティスの社会は慢性的な潜在的労働人口の不足とその結果としての生産物の供給不足に悩まされていると考えられる。
こうした問題を解決する一番手っ取り早い方法は、
「戦争を仕掛けて物資と奴隷を略奪する」
事だ。特に奴隷は、働き手が必要になった時だけ調達し、いらなくなったら処分できる、ガトランティス人にとって非常に使い勝手の良い存在になるだろう。こうしたやり方は人道上問題があるが、歴史的には非常に盛んに行われていた事でもある。例えば匈奴やモンゴルを初めとする北方騎馬遊牧民はしばしば南方へ大規模な人間と物資の略奪を行ってきたが、それは彼らの住む高原が元々多くの人口を養えないため、慢性的な働き手の不足とそこから生じる日用品の生産不足に悩まされてきたからだ。
もしヤマト2199の続編でガトランティスが登場するとしたらその姿は匈奴、突厥、モンゴルといった遊牧帝国のようになるかもしれない。機動力と火力に長けた強大無比な軍隊を用い、国家ぐるみで奴隷と物資を得るために征服と略奪を繰り返す、という国家だ。長期間宇宙を放浪しているガトランティスにとって、ガミラスは自分達を潤してくれる豊かで魅力的な獲物であるに違いない。さらに言えば、小競り合いとはいえ小マゼランにおける戦いでドメル将軍によって少なくない人員を失っていると思われるので、なおさら大小マゼランを征服・劫略しようとする欲求は強くなっているかもしれない。ガトランティスからすれば、戦闘によって生じた人員不足を補うため、何としても大小マゼランへの侵入を成功させ、大量の奴隷を獲得したい所だろう。
ガミラスの征服と奴隷及び資源の獲得を可能にする戦力はガトランティスに存在するだろうか?ヤマト2199に出ていたガトランティス軍は巡航艦、駆逐艦、中型空母といった小さな船ばかりで構成され、大戦艦も大型空母もなかった上に兵力自体も小規模だった。ガトランティスにとってもガミラスとの戦争はまだ本腰でなかったのは明らかで、ガミラスに進攻しようと決意すれば大型艦を多数揃えた巨大な軍団が大小マゼランになだれ込んでくるのではないだろうか。
・・結局の所、ガトランティスの大侵攻は実際にあり得るだろうか?筆者個人の考えでは、ガミラスへのガトランティスの大侵攻は確実に起きると思われる。これまで書いてきた通り、デスラーがいなくなったガミラスは内乱に見舞われると考えられるが、この機会を果たしてズォーダー大帝が見逃すだろうか?ズォーダー大帝は旧作ヤマトではひとかどの大人物として描写されていたのを考えると、彼は確実にガミラスの窮状を見抜いてガミラスへの大侵攻を開始するのではないだろうか。小マゼラン方面軍は全滅し、大小マゼランはガトランティスの侵入を受け、住民達は劫略と奴隷狩りで文字通りの地獄を見ることになるだろう。純血ガミラス人も二等臣民も、独立派も純血ガミラス第一主義者も、立場に関係なく皆平等に地獄に突き落とされる結末を迎えてしまうだろう。
(その4)デスラー復権の可能性
これまでこの第5章では、ヤマト2199の25話でデスラーが生死不明となりガミラスから姿を消した後、ガミラス帝国がどうなるかについて想像してきた。その結果は次のような惨憺たる未来だった。
「二等臣民の反乱が激化し、ガミラス人同士の内戦が再び始まり、ついにはガトランティスの大侵攻を受けてガミラスは滅亡の危機に直面する。」
続編においてガミラスが滅亡をまぬがれ生きながらえるとしたら、どのようなシナリオが考えられるだろうか?
旧作ヤマトシリーズの「新たなる旅立ち」では、ガミラス星のあるサレザー恒星系で危機に陥ったデスラーとスターシャをヤマトが救おうとしていたが、ヤマト2199の世界では、ヤマトがガミラスを救援すると言う展開は考えにくい(というより非常に無理がある)。ガミラスと地球は講和条約を結んでいないためヤマトが救援する義理はない上に、救援に行ったところで無力だからだ。万単位の戦闘艦艇を有するガミラスを滅ぼそうとしているガトランティスは、当然数万の戦闘艦艇を擁する大軍団で侵攻しているだろう。ヤマトにできることは何もない。撃沈されるだけだ(ヤマトも数百隻の艦隊を相手にすれば撃沈されてしまうのはヤマト2199の15話で明確に描写されている)。
一番ありそうで無理のないシナリオは次のようなものではないだろうか。
「滅亡の危機に直面したガミラスに、死んだと思われていたデスラーが国軍や基幹艦隊の一般将兵の支持を手中にして復権し、ガトランティスを撃破して銀河系に追い払い、ガミラス第二帝国を築く」
つまりはデスラーが救国の英雄となるというものだが、23話でバレラスを破壊しようとしてバレラスの民の支持を失ってしまった彼が復権する事などできるだろうか?一見不可能なように思われるが、実のところその可能性は十分あると思われる。何故なら、基幹艦隊やガミラス帝星以外に駐屯する国軍の一般将兵のデスラーへの支持は失われていないと考えられるからだ。
この事について、例えば基幹艦隊の一兵士になったつもりで考えてみよう。バラン鎮守府を破壊し基幹艦隊に壊滅的損害を与えてガミラス帝星(実はイスカンダル)に向かっているテロン艦(ヤマト)を追って航行中、デスラー総統暗殺容疑で収監中のはずのディッツ提督より召還命令が来た。曰く、
「デスラー総統は死んだ。新政府の統治の下、ガミラス全軍はこれより私の指揮下に入る。バレラスに向け航行中の基幹艦隊は速やかにバレラスに帰投せよ」
兵士達は皆顔を見合わせることだろう。ゼーリックがバラン星で「総統が死んだ」と大嘘を言ったばかりだというのに、これは一体どういうことか?しかも、ディッツ提督は収監されているはずではないか。クーデターが起きたのか?とにかく、帝都に戻って確かめよう・・。
こうして、帝都に戻った将兵が見たのは破壊された第二バレラスに大穴の開いた総統府、撃墜された戦艦群に倒壊したビル群という惨状だった。聞けば、親衛隊艦隊の防御を突破したテロン艦が総統府に突入し、総統府と第二バレラスを破壊してデスラー総統は亡くなったという。ここで新政権が不用意に「デスラーはバレラスの民を裏切った。彼は第二バレラスの一部を落下させてヤマトをバレラスごと葬ろうとする暴挙を行ったが、ヤマトに阻止された」と言おうものなら兵士達はこのように言うのではないだろうか?
「それは結果的にそうなっただけで、テロン艦によって総統府と第二バレラスが破壊された事実に変わりはないでしょうが!! 大体、テロン艦が総統府に突入した時あんた達は一体何をしてた?戦うどころか総統を裏切り者呼ばわりとは何事か。怖気づいてテロン人と取引でもしたのか!?」
おそらく、一般将兵達は新政権がデスラーの裏切りを発表しても納得しないだろう。それどころか逆にそのような発表をした新政権の方を裏切り者と見なすかもしれない。ヤマトにより緊急脱出を余儀なくされたデスラーを裏切ったということだ。
このように、ヤマトのバレラス突入後も(バレラス以外の)一般将兵のデスラーへの支持は失われないと思われる。もしデスラーが生きて将兵達の前に現れれば、彼らは新政権ではなくデスラーの側につくだろう。さらに言えば、ガトランティスの大侵攻でヒスとディッツの新政権が大敗北を喫し、帝国が今まさに滅亡しようという状況を迎えた時にデスラーが現れれば、将兵は皆新政権を見限り、大小マゼランを統一した建国の英雄に全てを賭けようとするだろう。国軍の将兵の支持を得たデスラーは容易に帝国の玉座に戻ることができる。そしてガトランティスを撃退することができれば、彼は(バレラスを除く)帝国全土から救国の英雄として大きな支持を受けるようになるだろう。結果的にデスラーはヤマトのバレラス襲来以前よりも確固とした支持基盤を得る事になるかもしれない。
・・こうして、二等臣民の反乱激化とガミラス人同士の内戦、そしてガトランティスの大侵攻を迎えたガミラスがどういうシナリオでなら存続しうるかについて考えてきた。結論を言えば、デスラーが国軍将兵の支持を手中にして復権し、ガトランティスを撃退して銀河系に追い払い、ガミラス第二帝国を築くというシナリオが一番自然で無理がないように思われる。たとえ帝都バレラスの民の支持が失われていても、帝国滅亡の危機を迎えた将兵達が建国の英雄であるデスラーに全てを賭けて支持すれば彼は再び帝国の主として復権する事ができる。シナリオとして不自然なものには全くならないのではないだろうか。
もしこのシナリオで続編を映像化する場合、その姿は以下のような形になるだろう。
――まず、かつて旧作ヤマトシリーズの時代に企画され、結局日の目を見なかった「デスラーズ・ウォー」が続編映画としてリメイクされ、続いて銀河系を舞台にしたガミラス第二帝国とガトランティスの抗争劇に地球が翻弄される、旧作ヤマト2と3を合わせたような続編テレビシリーズが製作される――。
このシナリオは筆者個人が想像したものに過ぎないが、これなら旧作の「さらば」のように率いる艦隊も兵もない状態でズォーダーに拾われて使い走りになり、ヤマトに敗れて自殺するという情けない姿にデスラーがならずに済むし、ゲール艦隊の生き残り数十隻だけで旧作ヤマト2や3のようにガルマン部族を解放してガルマン・ガミラスを建国するという無理のある展開を考えずに済むように思うのだが、どうだろうか?
次はこの章の最後の締めくくりとして、デスラーがいなくなりガトランティスの大侵攻を受けるまでのガミラスの様子と、生存していたデスラーがとると思われる行動をシミュレーション(もどき)の形で記述してみることにしよう。
(その5)〈シミュレーション〉デスラーズ・ウォー:ガトランティス大侵攻まで~
――ヤマトのバレラス襲撃から3ヵ月後――
ヒスを首班とする新政権が発足してから3ヶ月が経過した。新政権は反デスラーの兵を集めるため大マゼランを放浪中だったディッツ提督をバレラスに呼び戻し、国軍の最高司令官に据えた。ガミラスはヒスとディッツの共同統治となり、統合の象徴としてイスカンダルのユリーシャ姫が迎えられた。新政権はデスラー総統の死を発表し、デスラーの拡大政策と「恐怖政治」を変えるべく以下のような施策を行っていった。
・帝都バレラスを破壊しようとした「デスラーの愚行」を発表し、新政権こそが帝都バレラスと純血ガミラス人の利益を守る存在である事を宣言する。
・拡大政策の休止。ヤマトによって大損害を被った基幹艦隊の再編が必要だったこと、ディッツ提督が元々拡大政策に乗り気でなかった事から、ガミラスは現在戦闘中である場所以外の征服活動を休止した。
・親衛隊の解体。帝都バレラスの民の怨嗟の的になっていた親衛隊と秘密警察を解体し、囚人を釈放する。
・情報部の解体。セレステラが逃亡して管轄するものがいなくなった情報宣伝省を廃止する。元々情報宣伝省はデスラー政権とその政策の正当性を宣伝する組織であったことから、新政権にとっては存続させるわけにはいかなかった。
・名誉ガミラス臣民の廃止。デスラーによって取り立てられた名誉ガミラス臣民達は精査の上一等臣民もしくは二等臣民に降格する。
帝都バレラスで新政権が政権の地固めを行うべく奮闘していた頃、デスラーはヤマトとの戦いで九死に一生を得て銀河系に向かい航行を続けていた。ヤマトに砲撃されて乗艦のデウスーラの艦体が爆散した際、爆発の圧力でコアシップ部分がちぎれて上方に吹き飛んだために艦橋にいたデスラー達は爆発に巻き込まれずに済んだのだった。半壊状態で亜空間内を漂流していたコアシップは、デウスーラと連絡をとるためにワープゲートに潜ったゲール艦隊の生き残り数隻によって救助された。救助したガミラス艦の医務室で、デスラー達(デスラーとヴェルテ・タラン、レクター艦長に女性衛士と親衛隊員)はゲール艦隊の艦長達から、ゲール少将が次元潜行艦によって殺された事を告げられた。そして、このように勧められた。
「裏切者の新政権は総統が死んだと発表しています。このまま帝都に帰っても偽者と決め付けられ殺される可能性が高い。ここは辺境の銀河系方面に向かい、捲土重来の機会を窺いましょう」
ゲール少将の乗艦を撃破した次元潜行艦がバレラスに帰投した後、残された艦隊の艦長達は相談の上、数隻がワープゲートに潜ってデスラーと連絡を取り、ワープゲートを稼動させた残りの艦艇は銀河系に移動して銀河系のガミラス基地で合流する事にしたのだった。デスラーは艦長達の勧めを受け入れた。デスラーは僅か30隻弱の艦艇を率い、ほとんどゼロからの再出発を始めた。
――ヤマトのバレラス襲撃から6ヵ月後――
新政権が平穏な時を過ごせたのは最初の半年だけだった。その後次から次へと帝国各地で反乱が勃発し、、ヒスとディッツ達はその対応に追われる事になった。反乱の中でもとりわけ政権にとって衝撃的だったのが、ガミラス帝星で大規模な武装蜂起が起きたことだった。親衛隊と秘密警察を解体したため、新政権はかつてガミラス帝星に存在したいくつもの公国の復興運動を察知する事ができなかった。しかも皮肉な事に、これらの蜂起には親衛隊により収監されていた市民や国軍将校の多くが関与している事が後に明らかとなる。親衛隊が病的なまでに不平分子の取締りを行ったのは、決してただの狂気ゆえのことではなかったのだ。
ガミラス帝星以外の領土の騒乱は、時間が経過するにつれて激しくなっていった。移民団が送り込まれた星では、移民達が船を強奪してバレラスに帰ろうとする動きが見られた他、原住民と戦争状態になる事例が多発した。移民達の多くが元々デスラーにより追放同然の形で移住させられた不平分子達だったため、デスラーがいなくなった今、彼らは武器を作り帝星政府に反旗を翻したのだった。
移民団の反乱と軌を一つにして、二等臣民の蜂起も激化していった。ザルツのような今まで帝国に忠実だった星でさえも反乱が起き、国軍の二等臣民の部隊でも暴動が起きるに及んでヒスも政策の失敗を直視せざるを得なくなった。ヒスは熟考を重ね、名誉ガミラス臣民の身分降格がいかに二等臣民達の怒りを買ったかについて考えを巡らせた。一等臣民より上の身分であった名誉ガミラス臣民を復活する事はできないが、二等臣民を一等臣民に登用する事はできる。騒乱を起こしている二等臣民達を懐柔するためには、やはりデスラーの行っていた二等臣民の登用を今一度行うべきではないか・・。
しかし、ヒスの提案は閣僚達の猛烈な反対にあった。
「いつ反乱を起こすか分からないどころか今現実に反乱を起こしている二等臣民達を登用するのは、囚人に武器を持たせるに等しい愚行ではないか!」
ディッツ提督もヒスに賛意を示さなかった。
「二等臣民には既に一定の権利を保障している。これ以上の優遇は無用」
結局、新政権は武力で持って国内の騒乱を一掃し、帝国の支配のタガを締めなおす方策を採用した。帝都バレラスに戒厳令を敷き、反乱を基幹艦隊に鎮圧させる。しかし、そのやり方は親衛隊のギムレー長官がやったような皆殺しを伴う徹底的なものではなかった。非情になりきれない、さりとて懐柔策も採らない彼らの中途半端な対応は反乱がいつまでも発生し続ける泥沼の状態を生じさせたのだった。
大小マゼランが内乱状態に陥りつつある頃、デスラーは銀河系のガミラス軍基地を巡回する日々を送っていた。基地の司令官達は皆デスラーが生きているのに驚き、そして口々に問いただした。
「総統、教えて下さい、バレラスで一体何があったのですか!? バラン鎮守府が破壊されて司令部と連絡が取れない状態が続いた後、帝星司令部から突然『総統が亡くなり、ヒス副総統首班の新政権が発足した』と通達が来ました。『ガミラス軍の全部隊はディッツ提督の指揮に従え』という命令もです。ディッツ提督は総統の暗殺容疑で収監されていたのではないのですか?しかも新政権は『総統はバレラスの民を裏切った』という声明を発表しました。司令部に説明を求めましたが、『総統はバレラスを破壊しようとした』の一点張りです。一体何が起きたのですか!?」
口々に説明を請う司令官達にデスラーはバレラスにバラン鎮守府を破壊したテロン艦が襲来して緊急脱出を余儀なくされた事、テロン艦によって総統府と第二バレラスが破壊され、その直後に新政権が発足し自分が死んだと発表した事を淡々と話して聞かせた。「では裏切ったのは新政権の方なのですね」と確認する彼らにデスラーは畳み掛けるように言った。
「私はテロン艦を撃破しようとした。バレラスを破壊しようとしたというのは結果的にそうなったという事に過ぎない。しかし私はテロン艦を撃破できなかった。その事が残念でならない」
デスラーの話を聞いた司令官達は皆一様に怒りの声を上げた。テロン艦と戦うどころか総統を裏切り者呼ばわりするとは何事か。新政権の者達は何と卑劣なのか!彼らは改めてデスラーに忠誠を誓い、その指揮下に入っていった。こうした一連のやり取りをタラン達は呆れると同時に驚きの目で見ていた。デスラーは事実と嘘を織り交ぜた巧みな会話で基地司令官と将兵の心を掴み、新政権の正当性をあっさりと否定してみせたのだ。新政権はバレラスを破壊しようとした「デスラーの愚行」を発表したが、それにはデスラーを悪として宣伝し、自らの正統性を訴えようとする意図があった。しかしデスラーはその政略をいとも簡単に覆したのだった。テロン艦による帝都の被害が伝えられると、将兵達の間で新政権こそが裏切り者なのだという認識が確固としたものになっていった。破壊された総統府や第二バレラスを見れば、テロン艦が総統を狙って襲撃したのは誰でも理解できる。そして総統がそのテロン艦と最後まで戦おうとしたのはコアシップの無残にも半壊した姿を見れば明らかだった。そこでヒス達新政権が「テロン人へのこだわりは、もうない」と言ってテロン人への軍事活動を休止したのを見れば皆どう思うだろうか?テロン艦に恐れをなしたヒス達が総統を裏切り、テロン人と取引したと疑うのが自然だろう。こうして、デスラーは銀河方面軍の指揮官や将兵を巧みに味方につけていった。
政略を駆使して味方を増やす一方、デスラーは各基地の将兵達を自ら閲兵して廻った。整列する将兵を一人一人自らの目で点検し、一人の点検を終え次に移る時、彼は必ずその兵士に微かな微笑を投げかけるのだった。その微笑は彼が重臣達に見せる冷たい笑顔とは全く違う、ドメル将軍のような忠臣にのみ見せた事のある穏やかで温かい微笑であるようにタランの目には見えた。そしてデスラーは兵士の立場に応じて正に適切な言葉を投げかける。一等臣民の兵には「君が私のために勇敢に戦ったなら、私は必ずそれに報いよう」と功名心をくすぐり、二等臣民の兵には「君は私が誇りに思うような立派なガミラス人だ」と語りかけ、驚く兵に畳み掛けるように「たとえ周りがそれを認めなくても私が認める。私は最後まで君達の味方だ」と語ってプライドをくすぐる。将官ばかりか兵士達一人一人の心をも確実に掴んでいくデスラーの姿に、タラン達は今更ながらに彼がガミラス帝国建国の英雄である事を思い出すのだった。
――ヤマトのバレラス襲撃から1年後――
デスラーが銀河系方面軍を掌握していった結果、一時はデスラー死去の報によって崩れかけた方面軍の規律は改善され、やがて精鋭部隊としての様相を呈するようになっていった。大小マゼランの状況は銀河系に転任してきた将兵の口から逐一デスラーにもたらされていた。いつ大マゼランに戻るか。混乱の度を深めていく大小マゼランをどう立て直すか。デスラーは一人熟考を重ねていた。
一方、帝政司令部は銀河系の状況に不審の目を向けるようになっていた。大小マゼランと違い銀河系方面では大きな反乱の報はもたらされていない。情勢が安定している銀河系から兵力を転用しようとすると、指揮官達はこぞって反乱が起きかねない不穏な情勢を訴え、再考を求める通信を送ってくる。状況報告を命じると決まって要領を得ない回答をのらりくらりと送ってくるのだった。こうした中、ある告発が帝政司令部の元にもたらされた。「兵士達の間で、実はデスラーが生きているという噂が広まっている」というものだった。銀河系方面軍は将兵にデスラーの生存を秘密にするよう緘口令を敷いていたのだが、大マゼランに帰郷した兵士の口から徐々に噂が広まっていたのだ。新政権は驚愕し、もとより疑いの目を向けていた銀河系方面軍に通達を出した。
「デスラーを僭称するものを探し出し、処刑せよ」
しかし、新政権はこの命令の結果を見届ける事はできなかった。程なくもう一つの驚愕すべき知らせがもたらされたからだ。
「小マゼランに未曾有の規模の蛮族軍が侵入、当方面軍は現在これと交戦中!」
同じ頃、銀河系方面軍に2つの命令が通達された。一つは偽デスラーの捕縛・処刑命令、もう一つは銀河系方面軍の大マゼランへの移動命令である。特に2つ目は第一級の優先命令であり、非常事態であることが文面からも読み取れた。
2つの報に接し、しばらくの間熟考した後、デスラーは命じた。
「時は来た。これより銀河系方面軍の全軍を以って大マゼランに出立する」
「銀河系には通信隊を残置する。帝星司令部に伝えよ、『銀河系方面にてデスラーを僭称するものによる大規模な反乱が発生した』とな」
---〈シミュレーション〉デスラーズ・ウォー:了 ---
・・この第5章では、デスラーがいなくなった後のガミラス帝国のその後を想像し、その想像を踏まえた上であり得るかもしれないヤマト2199の続編の姿を中途まで提示してみた。「デスラーズ・ウォー」においてこの後大小マゼランがガトランティスによってどうなってしまうのか、そしてデスラーがどのようにガトランティスと戦い自らの帝国を再び築き上げていくのかについてこうなるのではないか、という想像を筆者はする事があるが、それはまた別の機会に語るべきように思われる。次の最後の章では、ヤマト2199によって極めて複雑な顔を持つようになったデスラーの人物像について、筆者個人の感想を書いてこの文章を締めくくりたいと思う。
【終わりに:これから大きく変貌しうるデスラーの人物像について】
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アレクサンドロスやアウグストゥス、秦の始皇帝などはいずれも人によって極端に評価が異なり、伝記や物語を見ても例外なく矛盾だらけの人物像が出てくる。彼らが善良な人間であったと書かれることは絶対にないが、その割には理想を語って人を魅了したり、孤独に苦しんだりと悪人らしからぬ人間として親しみが持てる描写が出てくる。こういった矛盾だらけで同時代の常人には全く理解し難かったであろう人物像が、ヤマト2199のデスラーと重なり合って筆者には見えた。
仮に続編があるとしたらデスラーはどのような人物になっていくのだろうか?可哀想な用心棒として生を終えてしまうのかもしれないし、大帝国を築いていく大河ドラマのような帝王になるのかもしれない。一つ言えるのは、もし彼が帝王になっていくとしたら彼は日本のアニメ史においても非常に珍しい存在になると言う事だ。何故なら、大河ドラマのような帝王の物語が描かれるのは日本のアニメでは殆どないと思われるからだ。異種族同士の理解と和解というテーマが提示されたヤマト2199の世界において、デスラーは描きようによっては世界帝国を完成させたアウグストゥスのようになり得る。ズォーダーに雇われる悲しい用心棒からそれこそ日本のアニメ史上最大の英雄までデスラーの人物像は変わる可能性を持っている。
ひょっとしたら続編が作られるかもしれない2014年の時点において、デスラーは最も大きな可能性を秘めたキャラクターであると言えるのではないだろうか?
(補論「イスカンダルの王権とデスラーの人物像について」につづく)
『宇宙戦艦ヤマト2199』 [あ行][テレビ]
総監督・シリーズ構成/出渕裕 原作/西崎義展
チーフディレクター/榎本明広 キャラクターデザイン/結城信輝
音楽/宮川彬良、宮川泰
出演/菅生隆之 小野大輔 鈴村健一 桑島法子 大塚芳忠 山寺宏一 麦人 千葉繁 田中理恵 久川綾
日本公開/2012年4月7日
ジャンル/[SF] [アドベンチャー] [戦争]

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【theme : 宇宙戦艦ヤマト2199】
【genre : アニメ・コミック】
『バイロケーション』 裏より先に表を観よう!

『バイロケーション』の宣伝の上手さには感心した。
ほぼ同時期に公開された『大脱出』の宣伝に眉をひそめていただけに、『バイロケーション』の宣伝は対照的に思われた。
『大脱出』は往年のアクション映画の巨星シルヴェスター・スタローンとアーノルド・シュワルツェネッガーがガッチリ組んだ共演作だから、二人を見たくて劇場に足を運ぶ観客が多いはずだ。というよりも、そういう観客を当て込んだ映画のはずだから、二人の活躍が見られるアクション映画であることが宣伝すべきすべてだろう。他に訴求点はないし、観客はスタローンとシュワルツェネッガーのアクションを見られれば満足なのだ。
にもかかわらず、『大脱出』の日本公開に際して配給会社は設定の妙を訴えてきた。それも、劇中で謎に包まれていた設定を宣伝でバラすという暴挙に出たのだ。
あまりのことに、『大脱出』の惹句を紹介するのもためらわれる。なにしろスタローンとシュワルツェネッガーが突き止めようとする謎の答えが、惹句に堂々と書かれているのだ。だから『大脱出』に関しては、ポスターもチラシも見てはいけない。予告編だって見てはいけない。
もちろん『大脱出』の観客の多くは、ポスターやチラシや予告編で期待を高めていただろう。鑑賞前には映画の情報に触れないように気を付けている人でも、何も見ないのは難しい。そして映画がはじまると、謎の答えが宣伝されていたことを知って愕然とする。
これはあんまりな例だけれど、(洋画を中心に)感心しない宣伝は多い。
それだけに『バイロケーション』の宣伝の秀逸さが目を引いた。
『バイロケーション』のポスターや公式サイトには、こんな惹句が書かれている。
バイロケは、
もう一人の自分。
必ず、本物を、殺す。
この言葉は映画の内容を過不足なく表しているし、なによりホラー映画らしい。
予告編もバイロケーションの恐怖を強調している。不気味なバイロケーションの出現シーンや、凶暴なバイロケーションの襲撃シーンを繋ぎ合わせた予告編は、本物を殺しに来るバイロケーションの恐ろしさを伝えている。
バイロケーションまたはマルチロケーションとは、同一人物が同時に複数箇所に存在する現象、またはその現象を引き起こす能力のことだ。
本作では、自分の近くに発生するもう一人の自分のことを指し、次のような性質を特徴とする。
・バイロケーションは、人間が相反する感情で精神的に引き裂かれたときに発生する。
・オリジナルの新しい記憶は、随時バイロケーションにも反映される。
・オリジナルが負ったケガは、バイロケーションにも反映される。
・オリジナルは鏡に映るが、バイロケーションは鏡に映らない。
(以上、公式サイトの「バイロケーションの特性」から一部を紹介)
これらの特徴は本作における「ルール」であり、映画ではこの特徴を踏まえてバイロケーションとの戦いが描かれる。――かのごとく、思わせる。
ここにはミスリードがある。
そのミスリードを楽しむのが、本作の醍醐味だ。
本作をジャンル分けすればホラー映画になるだろうが、本作はhorror(恐怖、戦慄)というほど怖いわけではない。怖いシーンはあるものの、そればかりを期待してると肩透かしを食う。
でも、それでいいのだ。本作はホラーであると同時に、叙述トリックを駆使したミステリーでもあるのだから。
予告編で流れていたバイロケーションの襲撃シーンは、もちろん本編にもある。バイロケーションは不気味だし、本物との殺し合いは凄惨だ。
けれども鑑賞後に振り返ってみれば、それらがトリックを覆い隠すための仕掛けだったことに気付くだろう。バイロケーションが突如出現して襲ってくるのは、襲撃シーンで観客をハラハラさせるだけではなく、核心に触れそうな会話を打ち切ってしまうためだ。観客がバイロケーションの不気味さや凶暴さに目を奪われている裏では、別の物語が進行している。それが明らかになったとき、観客は驚きを禁じ得ないだろう。
私は本作を二回観てやっと判ったことがたくさんあった。二回目にしてようやく安里麻里監督の巧妙な計算に気が付いて舌を巻いた。
シーンごとの色調の違いや、登場人物の服の色や髪型がきめ細かに演出されており、それらによって観客には物語のすべてが包み隠さずきちんと説明されていた。にもかかわらず、私は一度目の鑑賞ではそれらをみんな見落として、まんまと監督の術中にはまってしまった。
本作を観終わって混乱したり説明不足と感じるようなら、もう一度観ればいいだろう。
中には監督の計算を見抜いてしまう観客もいるに違いない。
しかし、結末を察したところで本作の魅力は損なわれない。
本作にはミステリーとしての展開の裏にさらに奥深いものがあり、ミステリーの面白さですら核心ではないからだ。
本当に観客の胸に迫るのは、バイロケーションに関する次の設定だ。
・バイロケーションは、人間が相反する感情で精神的に引き裂かれたときに発生する。
精神的に引き裂かれるほどの葛藤。そこまで追いつめられるほどの苦悩。それが本作の根幹にある。
本作の主人公は定職に就かず絵に打ち込んでおり、なんとか作品を認められたいと渇望している。今度のコンクールに落ちるわけにはいかない、そう追いつめられている。それは原作者である法条遥氏が、いくら小説を書いても認められず、もう小説家になるのは諦めようかという瀬戸際で『バイロケーション』を書いたことに重なるかもしれない。
バイロケーションが不気味なモンスターではなく、葛藤の具現化したものとして自分の前に現れるとき、人はみずからの人生を振り返らざるを得ない。かつて行った選択の良し悪しや、今に至る心の持ちようを顧みて、自分自身と対峙しなくてはならない。
それこそ本作が観客に突きつけるものだ。
そして本作が人の心の薄皮を剥ぎ取ってさらけ出した心の奥底にあるものが、溢れんばかりの愛だと知ったとき、感動せずにはいられない。
映画を鑑賞した後、本作のポスターを改めて眺めてみた。
本作はホラー映画らしさを前面に出した宣伝で、ポスターもチラシも予告編も恐怖を煽るものだった。
作品ばかりではなく、宣伝も一丸となって観客をミスリードし、騙していたのだ。
ところが、ポスターにはこんな文字が躍っていた。
バイロケは、
もう一人の自分。
必ず、本物を、殺す。
バイロケーションが自分の葛藤の末に生まれたものであることを考えたとき、この惹句はもはや恐怖を煽る言葉ではなかった。
人生には多くの偶然と数えきれない選択がある。その中で、選べるのはたった一つ。相反する選択に身を引き裂かれる思いをしても、もう一度やり直すことはできない。それなのに別の生き方を思い描き、別の自分を想像すれば、それは本当の自分を否定することになってしまう。
必ず、本物を、殺す。
それはあまりにも哀しい、あまりにも切ない言葉だった。
私はしばし立ち止まり、深い感慨に包まれた。

さて、バイロケーションという現象さながらに、映画『バイロケーション』にも二つのバージョンが存在する。2014年1月18日に公開された「表」と、2014年2月1日公開の「裏」だ。
物語はまったく同じ。映像もそっくりそのままだ。
ただ、「表」の結末の後にエピローグのようなシーンを加えて、後味を反転させたのが「裏」である。「表」だけで物語はきちんと終わっているから、わざわざその後を描くのは、本作が気に入った人へのご褒美といったところだろうか。
「表」を観た人なら誰もが夢想するだろう別の終わり方、別の結末。「表」あっての「裏」。「表」のバイロケーションとしての「裏」だ。「裏」を観る前には、是非「表」を観ておきたい。

監督・脚本/安里麻里
出演/水川あさみ 滝藤賢一 千賀健永 高田翔 浅利陽介 酒井若菜 豊原功補
日本公開/表:2014年1月18日 裏:2014年2月1日
ジャンル/[ホラー] [サスペンス] [ミステリー]
