『ハンナ・アーレント』が発信するのは何か?
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『ハンナ・アーレント』を観て、そう感じた。
この映画から、ドイツ国民の思慮深さと立ち回りの巧さを改めて思い知らされた。
それはもちろん、一観客である私が勝手に感じたことであり、作り手の意図は違うところにあるのかもしれない。もしも私が感じたことと作り手の狙いが一致したとしても、作り手がそれを認めることはないだろう。
だから、ここに書くのは単なる妄言でしかない。まぁ、いつものことだ。
映画『ハンナ・アーレント』で目を引くのは、ドイツ、ルクセンブルク、フランスの合作でありながら、英語のクレジットが添えられていることだ。
合作といっても、ドイツ人監督がドイツ人キャストとともに撮った本作は、実質的なドイツ映画である。
にもかかわらずクレジットに英語を使い、劇中の会話も頻繁に英語に切り替わる。主人公ハンナ・アーレントの米国時代を描いているから、セリフが英語になるのはおかしくはないが、ドイツ系ユダヤ人が集まるシチュエーションでも米国人キャラクターを立ち会わせることでわざわざ英語の会話にしている。
近頃は映画発祥の地フランスですら、セリフの多くを英語にしている。
これは、言語別の人口で英語を使う人が世界でもっとも多いからだろう。セリフを英語にするかどうかで、リーチできる人口がまったく異なる。
ただ、フランスのアクション映画やサスペンス映画で英語を使うのが商圏を拡大させるためだと思われるのに対し、『ハンナ・アーレント』はいくら英語にしても世界で大ヒットするような映画ではない。ドイツ系ユダヤ人の哲学者ハンナ・アーレントが「悪」や「全体主義」について語る本作が動員できる観客には限界がある。
それでもこの映画が英語にこだわるのは、本作の目的が作り手の創作意欲を満足させたり、ドイツの観客を喜ばせることではなく、国を問わず一人でも多くの人にメッセージを届けることにあるからだろう。とりわけ、世界の動向に一番影響の大きい米国に届けるには、英語での提供が欠かせない。
先日、ポーランド人監督による『ソハの地下水道』やフランス人監督による『黄色い星の子供たち』を例にとり、ナチス・ドイツの戦争犯罪を非難する映画にドイツが資金提供していること、それが現在のドイツにもたらすメリットについて説明した(こちらの記事を参照)。外国人にこれらの映画を作らせるところに、ドイツの深謀遠慮があるだろう。
『ハンナ・アーレント』は、さらに遠い先のことを考えて制作された映画である。
本作が描くのは、ナチス・ドイツの迫害を逃れて米国に移住していたハンナ・アーレントが、1961年に行われた元ナチス親衛隊将校アドルフ・アイヒマンの裁判を傍聴し、その記録[*1]を発表した顛末だ。
第二次世界大戦当時の戦犯を、ナチス・ドイツの"被害者"であるユダヤ人が裁く。判決はとうぜん死刑。1962年、このドイツ人は異国イスラエルの地で絞首刑になった。
たとえ映画とはいえ、ホロコーストの残酷さを思い起こさせるアイヒマン裁判は、ドイツ人にとって扱いづらい題材に違いない。
だが、本作をユダヤ人ハンナ・アーレントの目を通して描くことで、ドイツ人には困難なアプローチが可能になった。
本作でハンナ・アーレントが主張するのは二つのことだ。
(1) アイヒマンは悪魔的な人物ではなく、単に職務に忠実な平凡な人間であったこと。[*2]
(2) ユダヤ人自治組織の指導者がナチス・ドイツのホロコーストに協力していたこと。
一点目は、アイヒマンのみならず他のドイツ人――これからを生きるドイツ人にかかわる問題だ。1,000万人以上と云われるホロコーストの犠牲者は、アイヒマン一人に殺されたわけではない。官民多くのドイツ人の行動が、これほどの犠牲を出したのだ。
アイヒマンは悪魔か異常者か変質者か。その評価は他のドイツ人に敷衍されないとも限らない。
世界の人々がアイヒマンを悪魔のような人物だと考えていた当時、彼を単に職務に忠実な凡人であるとしたハンナ・アーレントの主張は、この世界でのドイツ人全般の立場に関わり、今も関わるのではないだろうか。
二点目も重要だ。ユダヤ人指導者がナチス・ドイツに協力していたことは、加害者のドイツ人と被害者のユダヤ人という単純な構図を崩すものだ。それによってホロコーストの事実が消えるものではないものの、ドイツ人を一方的に加害者として非難する見方を和らげる材料になるのではないか。
いずれも、現在及び未来のドイツ人にかかわることであり、ドイツ人にとって重大だ。
けれども、それをドイツ人の主張として展開しても、誰の賛同も得られないだろう。それどころか、こんなことを主張したら、ユダヤ人をはじめ世界中から袋叩きにされるに違いない。人間は感情で動く生き物だから、事実がどうかは問題じゃないのだ。
そこでハンナ・アーレントの登場だ。ユダヤ人ハンナ・アーレントの主張として展開するからこそ、世界は耳を傾ける。本作を観てもらえる。
映画『ハンナ・アーレント』が、アーレントの人生を描くものでも、アーレントの主張のすべてを紹介するものでもないことは、アーレントが著作で述べた他のこと、すなわちイスラエル諜報特務庁がアルゼンチンからアイヒマンを連行したことの是非や、イスラエルに裁判する権利があるのかといったことを取り上げない点からも明らかだろう。
裁判そのものの是非を蒸し返すのは、アイヒマンの擁護にしか見えない。それでは現在及び未来のドイツ人の立場を良くすることには寄与しない。
もちろん、映画が取り上げた二つの主張に反発する人は存在する。特にユダヤ人の反発は大きいだろう。
そんな反発を防ぐため、映画は先回りしてハンナ・アーレントに徹底的に反論する。映画は、抗議の電話や手紙が殺到し、ユダヤ人の友人も失ってしまうアーレントを丁寧に描写する。映画に反発しかねない人々も、劇中に自分たちの代弁者を見つけ、非難の嵐に見舞われるアーレントを見れば、溜飲が下がるだろう。
対立意見をきちんと取り上げることは、本作がアーレントを(通してドイツ人を)擁護する映画ではなく、中立の立場から作られたものであることを演出する。
加えて、抗議が出版社に及んだり、アーレントが大学教授の職を解かれそうになるエピソードは、観客にホロコーストとは別の問題意識を植え付ける。
表現の自由である。
表現の自由を守ろう、という主張に反対する人はいない。特に、米国は人権や自由に敏感な国だ。表現の自由が侵されそうなときは、米国民は必ずや表現者に味方する。ハリウッドのみならず米国社会に少なくないユダヤ系の人々も、表現の自由を守ることには反対できない。
見事な論理のすり替えだ。ナチス・ドイツの戦争犯罪を取り上げた映画は、一転して表現の自由を守る戦いに変わり、観る者すべてをアーレントの側に付けてしまう。どんなに認めがたい不愉快な意見でも、感情的に反発するのではなく、冷静に受け止めて考えなければならない。そういう思いが観客の胸に残る。
本作はホロコーストを肯定するものでも、ナチス・ドイツを擁護するものでもない。間違っても過去に郷愁を滲ませたり、戦争犯罪人を人間臭く描いたりはしない。
他国を不快にする要素は一切排除した上で、現在及び未来のドイツ人が一方的に非難されることを緩和する狙いが、本作にはあると思う。
どのように立ち回れば子孫の立場を良くしてやれるか、慎重に計算しているのだと思う。
ドイツと並ぶ戦犯国日本では、残念ながらこのような配慮が希薄だ。
2013年、日本人も英語中心の戦争映画『終戦のエンペラー』を制作した。英国人を監督に迎え、ハリウッドスターをキャスティングしたこの映画は、空襲で焼け野原になった日本を米国311館のスクリーンに映し出し――334万ドルの興行収入しか上げられなかった。米国人に相手にされなかった。
とうぜんだろう。
この映画には米国人が共感する要素がまるでないのだから。日本を焼け野原にしてしまった米国人、石を投げられ嫌われる米国人。その姿を見て、米国人が共感するはずがない。
ましてや、この映画では大日本帝国と戦後の日本国の区別も、戦犯とそれ以外の者の区別も曖昧だ。
ドイツ資本で作られる映画が、ナチスを徹底的に悪く描くことで現在のドイツへの矛先をかわす役割を果たしているのに比べ、日本映画はややもすると大日本帝国と現在の日本国が地続きであるかのように描いてしまう。
実際には地続きだったとしても、それは云わない約束で、すべての罪を大日本帝国と一部の戦犯に帰すことで、他の国民一般を罪から解放する。それが東京裁判と日本国憲法の機能だと思うのだが、その連合国の配慮が肝心の日本人に理解されていないのではあるまいか。
日本には過去を水に流す習慣がある。日本人は時間が経てばすべてを水に流してしまうが、以前の記事で述べたように他国ではそんなことはしない。当時の人間が死に絶えようが、どれほどの時間が経とうが、非難は残り続ける。
だからこそ、過去の行為をどのように位置付けるのか、現在の人間が問われるのだ。
その点、『ハンナ・アーレント』は実に巧みにアーレント(を通してドイツ人)への共感を喚起する。
作り手の思慮深さと立ち回りの巧さを、この映画から思い知らされる。
[*1] ハンナ・アーレントによるアイヒマン裁判の記録はザ・ニューヨーカー誌に連載され、後に『イェルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告』として出版された。
[*2] 悪魔のような心の持ち主ではなく、職務に忠実な平凡な人間であっても残虐な行為を行うことは、後年アイヒマン実験(ミルグラム実験)やスタンフォード監獄実験で示される
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監督・脚本/マルガレーテ・フォン・トロッタ 脚本/パム・カッツ
出演/バルバラ・スコヴァ アクセル・ミルベルク ジャネット・マクティア ユリア・イェンチ ウルリッヒ・ヌーテン ミヒャエル・デーゲン
日本公開/2013年10月26日
ジャンル/[ドラマ] [伝記] [戦争]

【theme : ヨーロッパ映画】
【genre : 映画】
tag : マルガレーテ・フォン・トロッタバルバラ・スコヴァアクセル・ミルベルクジャネット・マクティアユリア・イェンチウルリッヒ・ヌーテンミヒャエル・デーゲン
『プレーンズ』は友情、努力、勝利を超えた
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友情、努力、勝利。
少年ジャンプの作品ならこれらがキーワードになるところだが、『プレーンズ』はちょっと違う。出発点は似ているのに、到達点が異なるのだ。
主人公ダスティは冴えない農薬散布用飛行機。畑に農薬を撒いて毎日を過ごしながら、いつか世界一周レースで活躍することを夢見ている。
けれども、農薬散布用飛行機がレース用の飛行機と競うなんて無理。ましてやダスティは飛行機のくせに高所恐怖症だった。高高度を飛行し、ヒマラヤ山脈も飛び越えねばならない世界一周レースに出ようだなんて、誰もが呆れ、反対した。
だが、ダスティは諦めない。友人たちの協力を得てトレーニングに精を出し、いよいよ予選の日を迎える……。
こんな調子で紹介すると、ますます少年ジャンプ風だ。
友情もある。努力もある。もちろん勝利するはずだ。きっとそう思われることだろう。
たしかに、本作には友情と努力と勝利の三拍子が揃っている。
けれども、それだけではない。本作は実によく考えられており、奥が深い。
長年の夢だったレースに参加したダスティは、イギリス代表ブルドッグを危機から救ったり、メキシコ代表エル・チュパカブラの恋路に協力したり、インド代表の美女イシャーニとお近づきになったりしながら、着々と順位を上げていく。
しかし、高所恐怖症のダスティは嵐が来ても雲上に出られなくて、遂に遭難。機体のあちこちが損傷してしまう。
もはやレースは続行不可能。リタイアするしかないと思われた。
そんなときにダスティを支えてくれたのが、彼に恩義を感じていたエル・チュパカブラやブルドッグだった。彼らだけではない。ダスティの行動を観ていた多くの飛行機たちが、彼のために部品を持って集まってくれる。エル・チュパカブラからは翼を、イシャーニからはプロペラを、その他ダスティが装着したこともないような素晴らしい部品の数々が寄せられ、ダスティはレースに復帰する。
私はこの展開に感心した。
みんながダスティのために来てくれたのは、彼との友情からではない。
しばしば行動をともにしたエル・チュパカブラとのあいだには友情があるかもしれないが、他の飛行機とは友だちと云えるほどの関係ではない。ブルドッグやイシャーニを除けば知り合いですらなく、多くの者はダスティの行動を遠くから見て、彼を助ける気になったのだ。
ここにあるのは「友情」ではなく「評価」だった。ダスティは周囲の評価が高いから、親切にされたのだ。
きっかけは、ダスティがトラブルに見舞われたブルドッグを助けたことだ。
それまでブルドッグは農薬散布用飛行機のダスティなんか相手にせず、レーサーは助け合ったりしないもんだと主張して、ダスティに冷たく当たっていた。
ところがダスティはそんなブルドッグを助けてあげる。友だちだから助けたのではない。相手がまったく交流のない赤の他人でも、ためらわずに助けるのが彼にとっては自然なことなのだ。
ヒトには強い利他性がある。
ヒトは日常生活で困っている他人を見ると、たとえそれが自分の知らない人であっても助けてあげたい衝動にかられ、多くの場合何らかの親切を行う性質を持つという。[*1]
他人に親切にすると脳内でオキシトシンが分泌され、他人に対する信頼感や誠実さ、寛大さが高まり、ストレスが緩和される。同時に副交感神経が刺激され、血圧が下がって脳卒中や脳血管性の認知症のリスクが減るし、免疫力が高まってガンになる率も低くなる。[*2]
だから、人に親切にすると気分がいいし、健康にもいい。道端で困っている人に声もかけずに通り過ぎてしまうのは、せっかくの気持ち良くなるチャンスをみすみす失うことだ。
行動経済学やポジティブ心理学の研究でも、他人に親切にすると幸福感が増すことが明らかになっている。
他人への親切は、自分の気持ちや健康に良いだけではない。
親切な人には親切にしたくなるのも人間の特徴だ。親切にしてくれた人に対して、された人がお返しするという意味ではない。他人に親切にした人を目にすると、自分が親切を受けたわけでもないのにその人には親切にしたくなるのだ。
大阪大学の研究グループが5~6歳の幼児を観察したところ、他人に親切にした幼児は、それを見ていた別の幼児から親和行動(仲良くしたいときや、好意を抱いているときに起こる行動)や利他行動(他者に親切にする行動)を受けることが判った。幼児は第三者間のやり取りを観察し、他者の親切さを評価している。その結果、親切を行う幼児は周りの児から親切を受けやすく、自分が親切にした分を周りの児から返してもらえるのだ。[*1]
ことわざに「情けは人の為ならず」とあるように、他人に情けをかけると巡り巡って自分の利益になる仕組みが人間には本能的に備わっているのだ(これを社会間接互恵性という)。
人間が進化する過程でこのメカニズムを身につけたのは、それが生存競争に役立ったからだろう。
他者に親切にしない人は、孤立して、誰の助けも得られないために、生き延びる率が低いはずだ。過酷な環境でも生き残ってこられたのは、親切を広く交換できる人々だけに違いない。
こうしてヒトの利他的な行動は促進されてきた。
「親切なヤツ」と評価されたダスティが、みんなから部品を融通してもらえたのは、自然な流れだったのだ。
本作のさらなる特徴は、勝利が「努力」の結果ではないことだ。
とうぜん努力はする。努力もなしに勝利できるはずがない。
けれどもそれだけじゃないのだ。
頑張ってもできないものはできないことを示した『モンスターズ・ユニバーシティ』のように、ダスティは猛練習にもかかわらず戦績が芳しくない。
そこでダスティは、重くてかさ張る農薬タンクを外すことにした。遭難後には、みんなが持ってきてくれた部品に換装し、見違えるようにパワフルになった。レース用飛行機たちと伍して戦えるほどのアップグレードだ。
でも、これではもはや農薬散布用飛行機ではない。
観客はダスティの変貌ぶりに驚くだろう。物語が進むにつれて、ダスティからはのんびりした田舎の農薬散布用飛行機の面影が消えていき、すっかりレース用飛行機と化してしまう。
農薬散布用飛行機だって、努力すれば報われる。――これはそんな物語ではない。
勝つためだったらこれまでの自分だろうがなんだろうがドブに捨てる覚悟がなかったら勝てるわけがない。本作はそういう話なのだ。
しかも本人だけじゃなく、チームが連携しながらライバルに関するデータを収集し、分析し、強みと弱みを把握して、知略の限りを尽くすことで、ようやく勝利を手に入れる。
まかり間違っても、机上の計算で勝てる見込が立たないのに頑張れば意外にも勝利する、なんてことにはならない。
本作は、勝利をもたらす要因を冷静に考えた上で組み立てられているのだ。
もちろん、努力や気の持ちようの重要性をアピールすることも怠らない。
本作のクライマックスは、ダスティがレースに勝つことではない。彼の弱点である高所恐怖症を克服するのが最大の山場だ。
そこに、飛べない飛行機スキッパーが再び空を舞うようになることを重ね合わせて、より強調している。
加えて本作は、これまた『モンスターズ・ユニバーシティ』と同様に、頑張ってもできない人は別のことに適性があるかもしれないと説く。
農薬散布を心の底から楽しんでいる同僚レッドボトムに比べて、農薬散布に興味が湧かないダスティはこの仕事に向いてないのかもしれない。
そして、決められた仕事以外のこともできるんだと証明したいダスティの許に、志を同じくするクルマや飛行機たちが集まってくる。彼らはダスティを応援するために来てくれたのだ。
そこには、決められた仕事だけで評価しないでくれという悲痛な叫びが込められている。
今の仕事は楽しくないかもしれず、たいして成果を出せないかもしれない。
そんな人でも、別のことには適性があるのではないか。
だったら挑戦してみよう、別のことに。探ってみよう、可能性を。
私を一つの評価軸だけで測らないでくれ。ダスティを取り巻く者たちは、そう訴えている。
[*1] 大阪大学大学院人間科学研究科 行動生態学講座 比較発達心理学研究分野 2013年8月8日リリース
「情けは人の為ならず」を科学的に実証 ―親切が広く交換される仕組みを幼児の日常生活で初めて確認―
[*2] セロトニンとオキシトシンで毎日が変わる 鎌田實氏が語る「今、日本に必要な新・脳内革命」
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監督・原案/クレイ・ホール 製作総指揮・原案/ジョン・ラセター
脚本・原案/ジェフリー・M・ハワード
出演/デイン・クック ステイシー・キーチ ブラッド・ギャレット ヴァル・キルマー テリー・ハッチャー ダニー・マン アンソニー・エドワーズ
日本語吹替版の出演/瑛太 石田太郎 井上芳雄 仲里依紗
日本公開/2013年12月2日
ジャンル/[アドベンチャー] [コメディ] [ファンタジー]

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【theme : ディズニー映画】
【genre : 映画】
tag : クレイ・ホールジョン・ラセターデイン・クックステイシー・キーチブラッド・ギャレットヴァル・キルマー瑛太石田太郎井上芳雄仲里依紗
『カノジョは嘘を愛しすぎてる』 大原櫻子さんを知ったきっかけ
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店頭でケーキを選んでいたとき、三人の男女の写真が気になった。
「当店がテレビで紹介されました」と書き添えて、テレビの画像を貼り出す店はしばしばみかける。
だが、これはそういうことではないらしい。芸能人らしい三人の写真がただ飾られているだけで、宣伝らしき文句はない。
写真について店員さんに尋ねると、「ウチで撮影があったんです。」との答えが返ってきた。「今度の秋か冬に公開される映画があって、そのスピンオフのドラマがここで撮影されたんですよ。」
ドラマの収録後、店が出演者にケーキをプレゼントしたときにこの写真を撮ったのだという。
今にして思えば、仮面ライダーメテオを演じた吉沢亮さんと『プリンセス トヨトミ』に出演した森永悠希さんには気付いても良かったはずだ。
けれどもそのときは、にこやかに写る二人が誰か判らなかったし、もう一人の可愛らしい女の子にも見覚えがなかった。それがプロアマ問わずのオーディションで5,000人の中から選ばれた大原櫻子さんとは知らなかったのだ。
店員さんから、その映画が佐藤健さんの主演作であることを教えられた私は、映画とドラマを楽しみに待った。
季節が移って、映画館に予告編が流れるようになり、私ははじめて映画の題名を知った。
『カノジョは嘘を愛しすぎてる』
いささかハードルは高かった。
原作は少女マンガだし、予告編も女の子向けの恋愛物っぽさがいっぱいで、明らかに若い女性がターゲットだと思われた。事実、観客の男女比は7対93で、10~20代が78.4%を占めるというから、観客は若い女性ばかりなのだ。
そんな映画を観て楽しめるのだろうかとためらったが、それは完全に杞憂だった。
劇中の「嘘」の行方にハラハラしたり、音楽の素晴らしさに圧倒されたり、主人公・小笠原秋(あき)と小枝理子(りこ)の愛に感動したりで、劇場を出たときはとても充実した気持ちだった。
なにしろストーリーが面白い。
秋の吐いた嘘と、理子が云い出せなかった隠し事。互いに秘密を抱える二人が、思わぬところでニアミスするわ、嘘の上塗りをしてしまうわで、先の展開が気になって仕方がない。
ストーリーが見事なのは、人気マンガが原作なだけに当然かもしれないが、原作の面白さを損なわずに映画化するのは難しい。117分の映画にまとめるのはたいへんだったに違いない。
ロックのインパクトも大きい。
売れっ子のイケメンバンドCRUDE PLAY(クリュードプレイ)、女性ボーカル中心の三人組MUSH&Co.、そして女性ソロの茉莉たちの音楽が交錯する本作は、多くのミュージシャンの楽曲で構成されているのかと思った。
だから、映画の鑑賞後に音楽プロデューサー亀田誠治氏がこれらの曲を作詞・作曲したことを知って驚いた。なるほど、それぞれ曲は登場人物とシチュエーションに合わせて個性的でありながら、映画全体では不思議な統一感がある。
音楽業界を舞台にした本作の中心となるのは、もちろん音楽だ。
公式サイトに掲載されたインタビューによれば、亀田氏は本作にかかわる前から原作を読んでおり、「音楽業界を、良きにつけ、悪しきにつけ、とてもリアルに描写していた点に感心して」いたという。
そんな原作を映画化する意義について、小泉徳宏監督は次のように語っている。
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最近、マンガ原作の映画が多いのは、絵もセリフも原作に書かれているので、比較的映画に置き換えやすいからだと思うんです。だからこそ、僕がマンガを映画化するなら、それ以上の"意義"が欲しいなと思ってました。そんな中で「カノ嘘」を映画にする意義があると思った一番のポイントは、やはり音楽です。マンガからは彼らの音楽を想像することしか出来ませんが、映画では何か具体的な音が聞こえないといけない。同時にこれは、原作ファンの想像力に挑むという意味で、大きなチャレンジでもありました。
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原作にタイトルがあったCRUDE PLAYの『サヨナラの準備は、もうできていた』、MUSH&Co.のデビュー曲となる『明日も』をはじめ、いずれも劇中でヒット曲として語られるに相応しい。
理子が秋の作る曲の大ファンで、特に詞に惚れ込んでいるという設定のとおり、いずれの曲も詞がストーリーにマッチして印象的だ。映画のラストを締めくくる『ちっぽけな愛のうた』には、涙を禁じ得ない。
登場人物が会話を共にするように、音楽を共有するのも面白い。
秋と理子が一緒に歌うシーンや、心也(しんや)と一緒に歌う理子を目にして秋が苦悩するシーン等、その心情が音楽を通して伝わってくる。
そんな秋を演じる佐藤健さんが、終始不機嫌そうな役にピタリとはまるのはさすがだが、その彼を向こうに回して理子を演じる大原櫻子さんがまた素晴らしい。いかにも「演技してます」という演技ではなく、自然な表情、自然な感情が溢れ出るようで、17歳の彼女は本当に学校でもこんな風に過ごしてるんじゃないかと思わせる存在感だ。
彼女からこの表情を引き出した小泉監督の手腕には舌を巻く。

しかし、小泉徳宏監督はそれだけじゃ済まさない。インタビューに答えて、こう述べている。
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少女マンガの映画化というだけで、どうしても色眼鏡で見られてしまうところもあると思うのですが、僕としては10代や20代が楽しめる事はもちろん、大人の鑑賞にも十分堪えうる"作品"にしたいと最初から考えていました。そのために、この映画には恋愛以外にも様々な裏テーマを盛り込んでいます。若者向け、大人向けという区切り方ではなく、どの世代が観ても胸に残るモノがある、そういうゾーンがあるんじゃないかと。それが本当のメジャー映画だと思っています。
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たしかに本作には「裏テーマ」が盛りだくさんだ。映画に登場する人物たちは、それぞれに悩みを抱えている。
ビジネスライクなことはしたくない、でも売れなきゃ(聴いてもらえなきゃ)はじまらないという葛藤。
やるべき仕事を貫徹したい思いと、それが周りの人に負担をかけてしまうこととの葛藤。
愛する者のために、ときには身を引くことができるのかという葛藤。
そんなテーマの数々は、年齢に関係なく多くの人の胸に突き刺さるのではないだろうか。
とりわけ私が注目したのは、秋が書こうとしていた『世界平和』という曲だ。
「世界がひとつになれば――」、そんな歌詞ではじまる曲を、秋はどうしても完成させられない。理子と出会い、多くの体験を通して続々と新曲を生み出した秋だが、映画冒頭で書きかけていた『世界平和』だけは完成させずに終わってしまう。
感心した。
秋の書きかけの詞を見たとき、てっきり「世界がひとつになれば――」なんて歌が劇中でうたわれるのかと危惧したからだ。でも秋は、そんなものは放り出した。
世界がひとつになれば、世界は平和になるだろうか。
なるかもしれない。世界をひとつにしたい人には気持ちのいい世の中になるかもしれない。
でも、ひとつにするということは、自分の思想や文化や価値観で他者を染めることだ。
相手にとっては堪らないだろう。ひとつにさせられる方からすれば、せっかく育んできた思想や文化や価値観を捨てろと云われるようなものだから。
過去にも、世界をひとつにしようとする試みはいくつもあった。
大航海時代、ヨーロッパ諸国は宣教師を乗せた船を送り出し、自分たちの宗教を世界に広めようとした。それは悲惨な植民地時代の幕開けでもあった。
その欧米列強の植民地支配から東アジアを解放し、アジア人が共存共栄する世界を築くと称して、大日本帝国はアジア各国に攻め込んだ。各国にしてみれば、解放してやるからと攻められたのでは堪るまい。
ジャイアンが「俺の歌を聞かせてやろう」と云ってのび太たちを呼びつけるようなものだ。
東日本大震災の後、マスコミは「ひとつになろう日本」というキャンペーンを張った。あれもこれも自粛すべきという空気が醸し出され、その年は花火を見ることもできなかった。
花火を見ないことが復興のどんな役に立ったのか、私は知らない。みんなで花火を見ない社会は「平和」なのかもしれないが、その「平和」でどれだけの人が笑顔になったのか、私には判らない。
アジア太平洋こども会議・イン福岡の25周年を記念して作られた映画『空飛ぶ金魚と世界のひみつ』のメッセージはシンプルだった。
「違くていいな」
世界にはいろいろな人がいて、いろいろな国があり、いろいろな民族がいる。みんな多かれ少なかれ違っている。その違いを受け入れることが、ともに生きるための第一歩。ひとつになることじゃない。
そんな単純ながら実践が難しいことをテーマにした映画だった。
秋が音楽に向かう姿勢も同じだ。
「世界がひとつになれば」ではじまる『世界平和』を完成させなかった。
ライバルとも云える心也が書いた曲を、秋は「いい曲だ」と認めた。何が何でも自分の曲を歌わせようとはしなかった。
秋の行動を目にして、私はこの映画の懐の深さに感じ入った。

映画の公開に合わせて、洋菓子店で撮影したというドラマも放映されている。
『カノジョは嘘を愛しすぎてる サイドストーリー ~ボクとカノジョが出会う前の物語~』がそれだ。
ここでは登場人物一人ひとりにスポットを当て、15分のドラマを全10話分放映する。
この店のケーキは、他のドラマの撮影にも使われたという。
とても美味しいケーキである。
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監督・脚本/小泉徳宏 脚本/吉田智子
音楽プロデューサー/亀田誠治 音楽/岩崎太整
出演/佐藤健 大原櫻子 反町隆史 相武紗季 三浦翔平 窪田正孝 水田航生 浅香航大 谷村美月 吉沢亮 森永悠希 勝村政信
日本公開/2013年12月14日
ジャンル/[ロマンス] [音楽] [ドラマ]

『ゼロ・グラビティ』の3つの魅力
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しかし、同年公開の『バーバレラ』だって捨てがたい。
無重力状態でフワフワ浮いてる人物が、ごつい宇宙服のパーツを外すと、スラリとした脚がニョッキリ飛び出す。パーツを外していくにつれ、手や脚が露わになり、やがて美しいジェーン・フォンダが姿を現す。この意表を突いたオープニングに、どれだけの人がノックアウトされたことだろう。
『ゼロ・グラビティ』のワンシーン、もっさりした宇宙服を脱いでサンドラ・ブロックの体が出てくる様は、懐かしい『バーバレラ』を連想させた。
『バーバレラ』のオープニングは魅力的だが、今どきの映画に慣れた目には、無重力状態のジェーン・フォンダが実は床の上を転がりながら演技して、それをカメラが上から見下ろしていることが判る。
それから45年、『ゼロ・グラビティ』は驚くほど自然に無重力状態を表現していた。ついに映画はここまで来たかと、その現実感に舌を巻いた。
『ゼロ・グラビティ』の第一の魅力はリアリティ溢れる映像だろう。
地上から600km上空の世界がスクリーンいっぱいに広がり、観客は、地球を背に作業する科学者と一緒に本当に宇宙にいるように感じられる。
そして猛スピードで飛来するスペースデブリ(宇宙ゴミ)の恐怖。秒速10kmで飛んでくる人工衛星のカケラの破壊力は凄まじい。現実にいくつもの人工衛星がデブリに破壊されていることを思えば、決して絵空事ではない。
3Dで映画を観れば、その迫力は倍増だ。スクリーンから飛び出すデブリに私は思わず目をつぶってしまった。上映中に何かがスクリーンを遮るので邪魔だなぁと思ったら、スペースシャトルの中を浮遊する入れ歯の映像だった。
そして第二の魅力は作品のテーマだ。
無重力の宇宙と重力のある地球。空気のない宇宙とカエルや植物が住む地球。その対比から、地球のかけがえのなさを読み取る人もいるだろう。
「自分の人生を歩け」というセリフと、重力に抗って立つ人の姿から、前向きに生きることへのエールを感じる人もいるに違いない。
アルフォンソ・キュアロン監督は、宇宙ステーションで胎児のように丸くなっていた主人公が羊水や原始の海のごとき水中を出て、四つん這いになり、やがて直立歩行をはじめる本作を、「生物の進化を早回しで見せている」とも「地球は母の象徴だ」とも語っている。
このように物語に様々なメタファーを込めながら、原題のGRAVITY(重力)もまた、私たちを縛り付ける枷なのか、乗り越えるべき試練なのか、地球に留めてくれる錨なのか、深い意味を持って秀逸だ。
だが、本作の最大の魅力は二人芝居であることだろう。
全編を通じて登場するのは、サンドラ・ブロック演じるライアン・ストーン博士とジョージ・クルーニー演じる宇宙飛行士マット・コワルスキーだけだ。舞台劇や短編映画ならともかく、制作費1億ドルのハリウッド映画に俳優が二人しか出演しないのは珍しい。
それどころか、映画のほとんどはサンドラ・ブロックの一人芝居である。わずかにエド・ハリス演じるヒューストンの管制官やイヌイットの漁師らが声を聞かせるにすぎない。
にもかかわらず、物語はだれることなく、山場に次ぐ山場の連続だ。牧歌的な冒頭部分のユーモアから、緊迫した脱出行のスリルまで、観客を決して飽きさせない。キュアロン親子の脚本の巧さと、二人の俳優の存在感が91分の長編映画を支えている。
宇宙からの脱出劇を描くなら、本来はヒューストン側の描写があってもいいはずだ。1969年公開の映画、その名も『宇宙からの脱出』では、ヒューストン側の責任者にグレゴリー・ペックを配し、宇宙と地上双方のドラマが展開された。
ひるがえって本作は、サンドラ・ブロックの主観を通してのみ進行する。ここには群衆シーンやカットバックでのごまかしが一切ない。露わになってしまうのは、サンドラ・ブロックの脚ばかりでなく、脚本の良し悪しと俳優の演技力だ。
先に映像が魅力だと書いたけれど、魅力が映像だけであればものの5分で退屈するに違いない。リアルな映像を背景に、リアルな人物描写があり、リアルな役者が演じるからこそ面白さが持続する。
二人芝居の面白さは、まさしくシンプルな構造にある。
たとえば、演劇ファンにはお馴染みの『LOVE LETTERS』。世界各国で上演され、日本でも20年以上にわたり公演を重ねているこの芝居は、男優と女優が交互に手紙を読むだけだ。
そこから紡がれる主人公たちの人生に、観客は感動し、共感し、ときに深く考えさせられる。
これまで『LOVE LETTERS』を演じた俳優は数百組。同じ脚本に基づいても、演者が変われば主人公の人物像も変わり、観客が受ける印象も変わってくる。それが、脚本の良し悪しと俳優の演技力が露わになることの魅力であり怖ろしさだ。
サンドラ・ブロックとジョージ・クルーニーは、その怖ろしさに見事に耐えうるキャストである。
とりわけライアン・ストーン博士のキャスティングが功を奏している。
ストーン博士には、当初アンジェリーナ・ジョリーが予定されていたという。彼女がプロジェクトを去った後、ナタリー・ポートマンやスカーレット・ヨハンソン、ブレイク・ライヴリーらが検討された。
最終的にサンドラ・ブロックに決まったわけだが、このキャスティングは大正解だ。エロティシズムを狙った『バーバレラ』なら宇宙服から魅惑的な脚が露わになるのも良いだろうが、本作のヒロインは生命力や健康美を感じさせつつ、エロティシズムはほどほどに抑えなければならない。官能的に見えると、観客の興味が映画のテーマとは別の方に向かってしまうからだ。
その点、サンドラ・ブロックはちっとも色気を感じさせない。『あなたは私の婿になる』でも、オールヌードを披露しながらお色気路線にはならなかった。彼女の個性が、『ゼロ・グラビティ』を一層特別な映画にしている。
だから、本作は臨場感たっぷりな映像にもかかわらず、舞台劇やラジオドラマに翻案しても通用すると思う。
映像の魅力をはぎ取っても、二人芝居の面白さと、骨太なテーマの普遍性は変わらないから。
キャストを変えれば、また違った『ゼロ・グラビティ』が楽しめるかもしれない。
『ゼロ・グラビティ』の映像の迫力は抜群だ。これほどの映像体験はなかなか味わえない。
だが技術が進歩すれば、いずれこの映像も陳腐化し、より高品質な映像に圧倒されるだろう。
しかし、本作の二人芝居の魅力は何年たっても色褪ることはない。この緊迫したドラマは、いつ見ても大きな感慨をもたらすだろう。
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監督・制作・脚本・編集/アルフォンソ・キュアロン
脚本/ホナス・キュアロン
出演/サンドラ・ブロック ジョージ・クルーニー
声の出演/エド・ハリス
日本公開/2013年12月13日
ジャンル/[ドラマ] [サスペンス] [SF]

『47RONIN』 真の主人公は誰だ!?
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北条氏が豊臣軍と戦うために籠った小田原城は首都圏から気軽に足を延ばせる距離にあり、復元事業のおかげもあって往時の姿を楽しむことができる。近隣の学校や店舗も小田原城にならってデザインされている上、鎧兜の貸し出しサービスを利用する観光客が侍姿で歩き回るので、城の周辺は別世界のようだった。
けれども、観光としては小田原城を大いに楽しみながら、『47RONIN』のワクワクした感じはさほど覚えなかった。
なぜだろう、と考えて、ハタと気付いた。
日本の城には色がない。小田原城をはじめ、どの城もモノトーンなのだ。鶴ヶ城の赤瓦でさえ、間近で見てようやく赤みがかっていることが判る程度にすぎない。
それはそれで風格があるけれど、『47RONIN』の赤穂城や長門の城には豊かな色彩があって面白い。細部のデザインをよくよく見れば、日本の城や神社仏閣を参考にしていることが判る。だが、赤穂城に朱塗りの柱が立っていたり、ダークな長門の城から炎のような光が漏れていたりと、面白いアレンジが施されている。
日本の城に色彩を取り入れるとこんなにも印象が変わるとは、新鮮な驚きだった。
『47RONIN』は、私たちの住む世界とは別の地球、別の日本を舞台にしたファンタジーだ。
ハイファンタジー(異世界で展開されるファンタジー作品)といえども、世界観を構築する上では何かをモチーフにせざるを得ない。作品の作り手は無から創造することはできないし、受け手もまったく未経験の世界には親しみを感じられないからだ。
そこでこれまでハリウッド映画が主にモチーフにしてきたのが、中世ヨーロッパだった。
それに対して本作は18世紀の日本を題材に、侍や姫君が登場するユニークな世界を構築した。
いや、ハリウッド映画としてはユニークだと思うが、日本ではこのような超現実的な時代劇も珍しくない。
日本には伝奇小説の伝統があり、石川賢氏らのマンガ家も好んで伝奇物を描いてきた。映画界においても『魔界転生』、『里見八犬伝』、『タオの月』等々、魑魅魍魎や異星人が跋扈する時代劇を作っている。
それでも日本人の場合はどうしても歴史的な"常識"が邪魔をして、実在するものを踏襲しがちだ。特にビジュアル面ではリアリティとの兼ね合いを気にせざるを得ない。
この"常識"に挑んできたのが小峰リリー氏である。
デザイナーの小峰氏は劇団☆新感線の芝居『蛮幽鬼』や『シレンとラギ』に、侍風でありながら朝廷風でもあり、さらには中国風、ときには西洋風にも見える独特の衣装を提供してきた。
日本の歴史上のいつかどこかを舞台にしたそれまでの新感線の芝居から、日本が舞台では語れないことを扱う芝居への変化を、衣装面から支えていた。
そんな小峰氏の仕事に感服していた私にとって、『47RONIN』の衣装や美術は大いに刺激的だった。
『終戦のエンペラー』を観れば、外国人の美術スタッフでも過去の日本を緻密にリアルに再現できることが判る。一方で、リアリティのたがを外せば本作のようにユニークな世界が作れるのだ。
そこに広がるのは、ロドニー・マシューズのファンタジーアートのような幻想性と18世紀の日本が融合した摩訶不思議な世界だった。
物語のモチーフは、人形浄瑠璃や歌舞伎の人気演目『仮名手本忠臣蔵』で知られる元禄赤穂事件だ。
47人の赤穂浪士が吉良邸を襲撃したこの事件は、映画に小説にテレビドラマにと繰り返し取り上げられている。豊田有恒氏に至っては、47隻の宇宙戦艦が敵異星人を討ちに行く『地球の汚名』なんてSF小説を書いたほどだ。
西洋でも、稲垣浩が監督し、三船敏郎が出演した1962年の映画『47 Samurai (原題:忠臣蔵 花の巻・雪の巻)』で知られているという。名作『Seven Samurai (原題:七人の侍)』より40人も多いのだから、米国の映画ファンはタイトルを聞いただけで胸が躍ったかもしれない。
本作は純然たるファンタジーだから史実とは大きく乖離しているが、独自に盛り込まれた要素には意外なほど日本へのリスペクトと日本文化への造詣の深さが感じられる。
キアヌ・リーヴスが演じるオリジナルのキャラクター、混血児・魁(カイ)が天狗に武芸を学んだ設定は、牛若丸(後の源義経)の伝説を思わせる。
菊地凛子さん演じる妖婦ミヅキに、『南総里見八犬伝』の玉梓を見る人も多いはずだ。
もっとも大きな特徴は、日本人や日系人俳優が大挙して出演していることだろう。
日本が舞台の忠臣蔵なんだから当たり前――ではない。映画では日本人に見えさえすれば良いのだから、本物の日本人をキャスティングする必要はない。アメリカ映画では、しばしば日本人の役を英語が流暢な韓国系、中国系の俳優が演じている。にもかかわらず本作は、キアヌ・リーヴスを除く主要なキャラクターが日本人ばかりな上に、本当に日本人・日系人をキャスティングしている。
しかも、主人公を演じる大スター、キアヌ・リーヴスの出番が極めて少ない。物語は真田広之さん演じる大石内蔵助が進行させてしまい、キアヌ・リーヴスの見せ場はほとんどない。
なんと当初の構想では、公開された映画よりもっと出番が少なかった。
『ワールド・ウォーZ』に負けず劣らず、本作の制作も混乱していた。撮影開始時に1.7億ドルだった予算は2.25億ドルに膨れ上がり、公開時期は二度にわたって延期された。その原因の一つには追加撮影がある。クライマックスのためにキアヌ・リーヴスのアップを撮ったり、龍と戦うシーンを追加していたのだ。
キアヌ・リーヴス最大の見せ場である龍との戦いが、当初の撮影予定になかったとは驚きだ。
それどころか、追加撮影するまで彼は最後の戦闘シーンに存在さえしなかった。
たしかに、映画のクライマックスは大石内蔵助たちの戦いが中心で、キアヌ・リーヴス演じるカイは別行動を取っている。カイのシーンが丸々なくてもストーリーに支障はない。
これではキアヌ・リーヴスが主演とはいえまい。
追加撮影がなければ、映画は真田広之さんの活躍を描いて幕を閉じるところだったのだ。本来の忠臣蔵のとおり、大石内蔵助が主人公になるところだった。
映画会社は、追加撮影をさせた上でカール・リンシュ監督から映画を取り上げ、本作を仕上げたという。
公開されたバージョンも、これはこれでなかなか楽しい。麒麟や龍と戦うところなど、若き日の真田広之さんが主演した 『里見八犬伝』(1983年)のノリである。
だが、追加撮影する前の、カール・リンシュ監督が当初構想していた映画も観てみたい気がする。
クライマックスにキアヌ・リーヴスを登場させるつもりのなかったカール・リンシュ監督とは何者なのか。
カール・リンシュ監督は「以前から四十七士の史実やエピソードについては知っていたよ。」と語る。リンシュ監督は11歳のときに交換留学で1ヶ月ほどを東京で過ごし、日本文化とアートに触れたという。北斎の世界観に魅了された彼の目には、日本がファンタジーの世界に映ったそうだ。
リンシュ監督は忠臣蔵の映画化に際して、次のような姿勢で臨んだという。
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日本には“忠臣蔵”のマスターピースと呼べる素晴らしい作品がちゃんと存在しているんだ。僕たちがそれらと競い合うことなんて絶対不可能だ。だったら、僕たちにしか出来ない“忠臣蔵”、つまり“ハリウッド・ファンタジー・エピック忠臣蔵”を作ろうというということになる。ただし、物語の核である忠義・名誉・復讐・正義はしっかり語る。シンプルで普遍的なこのテーマは時代はもちろん、国境や言葉を越える力をもっているからだ
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本作の登場人物は、しばしば「武士道」を口にする。
リンシュ監督が大切にした「忠義」や「名誉」を象徴する言葉が武士道である。
しかし、忠臣蔵をファンタジーとして撮りつつ、武士道の精神は変えまいとしたリンシュ監督だが、彼が大切にした物語の核もまたファンタジーだったかもしれない。
なぜなら、米国人の知る武士道とは、新渡戸稲造が米国人向けに書いた本の中のことだからだ。
1900年、米国在住の農学者新渡戸稲造は、欧米人に向けて英書『Bushido: The Soul of Japan』を刊行した。新渡戸稲造は武士でも何でもないし、そもそもその時代、すでに武士が消滅して久しい。
彼はただ、欧米人に日本人のことを説明するに当たって、西洋の騎士道を引き合いに出しただけだった。
日本人なら知っているように、かつて武士は忠義を重んじたりしなかった。もしも忠義を重んじていたら、秀吉はいつまでも織田家に仕えただろうし、小早川秀秋が寝返ることもなかったはずだ。
忠義が重要視されるようになったのは、中国由来の朱子学が江戸幕府の正学とされ、朱子学者林羅山が身分制度を正当化する「上下定分の理」を打ち出してからだろう。この外国由来の歴史の浅い精神を新渡戸稲造が「The Soul of Japan」として紹介したことから、欧米人の中に「武士道に生きる日本人」像が形作られていく。
本作に登場する侍に、日本人が違和感を覚えるのもとうぜんだ。中国由来の思想と西欧のオリエンタリズムが生み出した「武士」像は、市井の人には関係ないのだから。
カール・リンシュ監督は日本の文化をいつも考えており、撮影現場でも「本当にこれで正しい礼儀なのか? 作法なのか?」と心配していたという。
大丈夫。日本人だって多くの人は正しい礼儀作法なんか知らないから。
[*] 「武士」像の成立と普及については、次の文献を参照されたい。
橘玲 (2012) 『(日本人)』 幻冬舎
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監督/カール・リンシュ
出演/キアヌ・リーヴス 真田広之 浅野忠信 菊地凛子 柴咲コウ 赤西仁 田中泯 ケイリー=ヒロユキ・タガワ
日本公開/2013年12月6日
ジャンル/[アクション] [ファンタジー] [時代劇]

【theme : 特撮・SF・ファンタジー映画】
【genre : 映画】