『かぐや姫の物語』 高畑勲の「罪と罰」とは?
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2013年、高畑勲監督は実に14年ぶりとなる新作映画を発表した。
『かぐや姫の物語』は、まさに高畑アニメの集大成ともいうべき大傑作だ。これまで世界中を泣かせ、喜ばせ、感動させてきた高畑勲作品のあらゆる要素がここに結実している。
72歳で長編アニメからの引退を宣言した宮崎駿監督よりも、さらに年上で78歳になる高畑監督が発表したこの長編は、心して観たい作品である。
何年か前のこと、私は都内にしては閑静なところにある弥生美術館を訪れた。武部本一郎画伯の回顧展が行われたからだ。
武部画伯は多くの児童書やSF小説の挿絵を手掛けた人なので、本を好きな方にもファンが多いだろう。『火星のプリンセス』のヒロインを描いた絵は、米国のSFファンも魅了したという。『ガラスのうさぎ』のか弱い少女の絵も印象的だ。
ところが回顧展で伺った話では、武部画伯の絵はあまり児童書に使われなくなったという。武部画伯のみならず、今や多くの画家の絵が使われなくなったそうなのだ。
代わって児童書に採用されているのは、アニメのような絵だ。
くっきりした輪郭線でキャラクターを描き、顔も服も濃淡なく彩色するセル画のための技法が、児童書にそのまま持ち込まれて表紙を飾っている。出版社の人間がこのようなアニメ絵を好きなわけではない。こういう絵でないと子供が読んでくれないそうなのだ。テレビ絵本やフィルムコミックの普及と併せて、なんとか子供に本を手に取ってもらおうとする工夫の結果が、アニメ絵を表紙にした児童書なのだろう。
私は武部画伯をはじめ多くの画家の個性的な挿絵が好きだったし、同時にアニメも好きだったので、複雑な心境だった。
当代一のアニメーション演出家・高畑勲監督はドキュメンタリー映画『いわさきちひろ ~27歳の旅立ち~』に出演して、淡い水彩画で知られるいわさきちひろさんの魅力について語っている。
高畑監督は「68年、長女が保育園から持ち帰った絵本にあった輪郭線のないタッチに「この絵で成立するのか」と驚いた一方、子供の不安な気持ちや想像力が内包されていると感心し、ファンになった」という。
アニメをセル画で作るために確立されたアニメ絵は、アニメーションの技法の一つでしかない。ましてや絵というものは、画材にしろ表現の仕方にしろ、描き手ごとに、作品ごとに千差万別でいいはずだ。
そんな当たり前のことすら忘れてしまうほど、日本の商業アニメは「アニメ絵」一色に覆われている。
かくいう私も、高畑監督が1999年に『ホーホケキョ となりの山田くん』を発表したときは、その意義がよく判らなかった。
水彩画のような淡い描き方は原作に沿っているわけでもなし、『おじゃまんが山田くん』のようなセル画調で良いのではないかと思った。
けれども、高畑監督が『ホーホケキョ となりの山田くん』以来14年ぶりに発表した『かぐや姫の物語』では、絵柄と内容が密接に結びついていた。
日本最古の物語『竹取物語』を原作とするこの映画は、美しい絵巻物を紐解くようにはじまる。
墨と筆で描いたような人物、動物、風景と、淡い彩色が織りなす映像は、あたかも鳥獣人物戯画が動き出したかのようだ。
物語の背景となる平安時代、その時代性と絵巻物らしいリアリティを打ちだすのに、この絵柄が貢献していることは論をまたない。現代のコンピューター技術があればこそ実現できた映像は、今どきのはやりや風潮に流されることなく、千年以上経っても色褪せない物語を再現している。
その堂々とした風格に圧倒されるばかりだ。
![太陽の王子 ホルスの大冒険 [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/81eRpF63%2BuL._SL160_.jpg)
『太陽の王子 ホルスの大冒険』では絵を描くより先に声を収録するプレスコ方式を採用した。
日本製アニメの多くが採用しているアテレコでは、絵コンテマンがキャラクターに演技をさせて、役者は絵を見ながらそれに合わせている。
しかし、プレスコならば絵を気にせずに役者が全身全霊をあげて演技できる。絵コンテを描く人やアニメーターは役者のセリフ回しや息遣いを汲み取って、キャラクターの動作を描き込んでいける。そのような方式だからこそ、『ホルス』では平幹二朗さん、市原悦子さん、東野英治郎さんら名優たちが演技をリードした。
このやり方は他の高畑アニメでも採用されており、本作も同様だ。
地井武男さん、宮本信子さん、田畑智子さんをはじめ、そのまま舞台化、実写化してもおかしくない実力あるキャストを揃えたのも、高畑監督の演技重視の姿勢の現れだろう。
そして本作は、内容もこれまでの高畑アニメの流れにある。
日常の描写を積み重ねながら少女のたくましさを浮き彫りにしていくところは、『パンダコパンダ』(1972年)のミミ子や『じゃりン子チエ』(1981年)を思い出させるし、そんな少女が空飛ぶ妖精を目にするファンタジックな描写は『赤毛のアン』(1979年)を彷彿とさせる。
自然豊かな地方でのびのび育った少女が、都会の息苦しさと上流階級の厳しいしつけにさいなまれる本作に、『アルプスの少女ハイジ』(1974年)との類似を見る人も多いに違いない。
かぐや姫は時に無邪気に、時に横柄に振る舞い、感情の振幅がとても大きい。本当の自分を取り戻そうと雪原をさまよう彼女はまた、人間の心と悪魔の心のあいだで葛藤する『太陽の王子 ホルスの大冒険』のヒロイン・ヒルダの再現に他なるまい。[*1]
『アルプスの少女ハイジ』に見られるように、「都会」と「反都会的な理想の共同体」の対比は高畑アニメの重要なモチーフだが、後年の『おもひでぽろぽろ』(1991年)や『平成狸合戦ぽんぽこ』(1994年)では「理想の共同体」のはかなさも描かれた。[*2]
かつてアルムの山や東の村に「理想の共同体」を託した高畑勲監督も、「戦後民主主義の希望と挫折の総括」[*2]と云われる『平成狸合戦ぽんぽこ』では「理想の共同体」を目指す闘争の苦い顛末を描き、『ホーホケキョ となりの山田くん』ではもう家族という共同体しか残されていない現代人を描いた。
そして「理想の共同体」を信じられた頃を振り返るように、労働運動に燃えていた60年代を代表する『ひょっこりひょうたん島』や、東映動画(現東映アニメーション)に入社してアニメーション人生のスタートを切った1959年当時に大人気だった『月光仮面』を劇中に登場させた。
とはいえ、昔を懐かしんでも仕方がない。
本作のかぐや姫は何度も「理想の共同体」に帰ろうとするが、そこはすでに無人だったり、彼女の居場所となる位置を別の女性が占めていたりして、単純に昔に帰れるわけではないことが示される。
『ハイジ』よりも『ホルス』よりもずっと前、高畑監督が演出志望の新人のときに出したプロットが本作の元になっていることを考えれば、本作は過去の高畑アニメの集大成であると同時に、もっと早く作られるべきだった高畑アニメの原点とも云えよう。
千年以上前の作品を原作にしたこともあって、高畑監督は表面的な今日性は排除している。
はやりすたりから解放された本作に込められたのは、百年経っても千年経っても変わることのない人の心であり、百年経っても千年経っても変わらない面白さだ。
もっとも高畑監督は、かぐや姫の現代人らしさを強調している。
「僕はわがまま娘を描いているんです。わがままなのが、現代の娘の最大の特徴でしょ。僕はなにも昔の物語をそのまま描こうと思ったんじゃない。現代の娘があの時代にタイムスリップして、その時代の中で何をしたか。それを観ることが大きなテーマになるんじゃないかと思ったんだ」
もちろん、少女を主人公にした作品をつくり続けた高畑監督にとって、「わがまま娘」は悪口ではない。因習に縛られず、自由闊達なヒロインを世に送り出してきた高畑監督は、千年前の物語にも同様の主人公を据えたのだ。
その人物造形が原作の展開にピタリとはまるのだから、これはもう原作者も同じように考えていたとしか思えない。
本作も高畑監督の作品らしく、原作には極めて忠実だ。
高畑監督は原作をないがしろにすることはない。普遍性を持たせるため、あるいはボリュームを増すために脚色することはあっても、原作ファンが反発するようなアレンジを施すことはない。その脚色は原作を深く掘り下げた結果であり、脚色することで原作の行間を埋めているのだ。
ときには、原作者よりも原作をよく理解しているのではないかと思うほどの掘り下げぶりだ。
本作も、日本人なら誰もが知っているかぐや姫の物語をほぼ忠実になぞり、原作から外れたことは起こらない。
にもかかわらず、原作が語らないかぐや姫の心情をきめ細かに描写し、私たちが知らなかった本当のかぐや姫の物語を作り上げている。ストーリーを知っているからこそ、千年ものあいだ日本人が誰も気づいてやれなかったかぐや姫の秘められた気持ちや背景に驚かされる。その確かな心理描写にうならされるのだ。

説話が源流と云われるように奇想天外な物語だが、とりわけ不可解なのは姫が犯したという罪だ。かぐや姫は罪を犯したために月の世界から地上に降ろされたという。月から迎えがやってくるのは、罰の期限が過ぎたからだ。
姫が犯した罪がこの物語の根幹でありながら、原作は最後までそれが何かを明かさない。
『かぐや姫』の映画化を検討した際、鈴木敏夫プロデューサーは高畑監督に訊かれたという。
「かぐや姫は、月の人でしょう。数ある星の中で、なぜ地球へやってきたんですか」
「なんで一定期間いて、月に戻ったんですか?」
「地球へ来て、彼女はどんな気持ちで、毎日をどう生きてたんですか?」
「なんで、また元に戻らなければならなかったのか」
答えに窮した鈴木プロデューサーは、誰もが知っていると思っていたかぐや姫の物語に未知なる広がりがあることに気づかされた。
本作に驚くとともに感動するのは、「姫の犯した罪と罰」という惹句のとおり、その罪と罰が明らかにされて、それがストンと腑に落ちるからだ。
半村良氏の代表的な伝奇SFに『妖星伝』がある。松本零士氏のマンガ化によってご存知の方もいるだろう。
江戸時代を舞台に、特殊な能力を持つ鬼道衆と異星文明を描いた娯楽小説だが、巻を追うにつれて仏教用語が頻出し、生命や宇宙に思いを馳せた哲学的な内容になっていく。
特に印象的な言葉が「奈落」である。「奈落の底」「奈落に落ちる」という表現もあるように、暗くて深い下の方を指す言葉であり、劇場では舞台や花道の下の空間を奈落と呼ぶ。これはもともとサンスクリット語の「ナラカ」から来ており、地獄を意味する言葉だ。
『妖星伝』では、この言葉のルーツが宇宙にあると語られる。高度な文明を発達させた異星人は、宇宙の片隅に異様な星を発見する。そこでは生命体が他の生命体の血肉を貪っており、みずからが生きるために他者を殺さねばならなかった。そのおぞましさを嫌悪した異星人は、この星を奈落と呼んだ。奈落(地獄)とは宇宙一の妖星――私たちの住む地球だったのだ。
『竹取物語』でも、かぐや姫を迎えに来た天人は地球を「穢れた所」と呼ぶ。
清らかで美しく不老不死の天人からすれば、地球は穢れた土地であり、短い一生をただただ争いごとに費やして死んでいく人間たちは賤しい存在でしかない。
だとすれば、かぐや姫が地上に降ろされた理由も判る。彼女は流刑者なのだ。穢れた地上にいること自体が罰なのだ。
たしかに『竹取物語』を改めて読んでみれば、そうとしか思えない。姫と一緒に授かった金で贅沢な暮らしをする翁、姫の心を射止めんと虚言を弄する貴族たち。いずれも天人から見れば賤しい行いでしかなく、地上の醜さを表している。
そんな場所にたった一人で何年も住まわせるとは、なんてひどい罰なのだろう。あまりにもむごい仕打ちである。
文庫本にしたらごく薄い『竹取物語』に、大長編『妖星伝』に匹敵する風刺と哲学が込められていたことに、本作を観て私ははじめて思い至った。
では、そんなひどい罰を受けるほどの罪とは何だろうか。かぐや姫は何をしてしまったのか。
本作では、それを姫自身が説明している。彼女の罪は、地球に憧れたことだと。穢れた地球、賤しい生物たち、そんなものに興味を持ったことが天人にとっては罪なのだ。
だから彼女は地上に降ろされた。あそこは危険だと諭しても聞き分けのない子が、だったら一人で行ってみなさいと懲らしめられるように。もう帰りたいと音を上げたなら、連れ戻してあげようという約束で。そのときには地球の嫌な思い出なんかきれいに消してあげようという配慮までしてもらって。
千年も語り継がれた『竹取物語』から、こんなストーリーを紡ぎだした高畑勲監督には脱帽だ。
この罪と約束を中心にかぐや姫の物語を語り直すことで、誰もが慣れ親しんだ『竹取物語』はまったく新たな相貌を見せはじめる。
本作のクライマックスは、虚飾に満ちた都の暮らしに嫌気が差したかぐや姫が、それでも地球には素晴らしいものがたくさんあることを思い起こして、苦悩するところである。
せっかく地球に来たというのに、自分は何をしていたのか。地球には様々な生き方、様々な暮らし方があり、けっして穢れているだの賤しいだのと決めつけるべきではない。そこに思いを馳せず、一瞬でも地上にはいたくないと思ってしまった自分の愚かなことよ。
かぐや姫は叫ぶ。「私は生きるために生まれてきたというのに!」
かつてヒューマニズムを前面に打ち出していた黒澤明監督は、歳とともに作風が変化した。70代で撮った『影武者』や『乱』では、天から人間界を批判するような目線になり、厭世的な気分が漂っていた。
かつて「理想の共同体」を夢見た高畑アニメも、現実の苦さを前にして徐々にそのトーンを変えてきた。
それでも高畑監督は、地球の生き物を見下ろす天人の目線に同化せず、人間と一緒になって野山を駆け回る天人の少女を主人公に据えることで、人間の、生命の、地球の素晴らしさを謳い上げた。天人から見れば人間は無知で愚かな存在かもしれないが、少女は彼らを肯定した。地球を丸ごと肯定した。
高畑監督が到達したこの境地の、なんと感動的なことか。
天の羽衣をまとったかぐや姫は、天人の一人となって月へ還ってしまう。
だが、本作でかぐや姫は、月に向かいながらそっと地球を振り返る。
原作にはない高畑勲の演出である。
[*1] 人間の心と悪魔の心の二面性を併せ持ち、市原悦子さんをして「こんな複雑な主人公ははじめて」と驚かせた少女ヒルダの源流は、レフ・アタマーノフ監督の『雪の女王』(1957年)に登場した「素直な顔」と「すさんだ顔」を持つ少年カイであろうことが、おかだえみこ著「日本のアニメを変えた人―高畑勲の軌跡 作家論・高畑勲」にて示唆されている。
[*2] 高畑・宮崎アニメの描く「理想の共同体」とその変質については、佐藤健志著「共同体への夢と幻滅~ジブリ作品はどこに行くか」に詳しい。
[*1]、[*2]ともに、『キネマ旬報臨時増刊1995年7月16日号 宮崎駿、高畑勲とスタジオジブリのアニメーションたち』所収
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監督・原案・脚本/高畑勲 脚本/坂口理子
出演/朝倉あき 高良健吾 地井武男 宮本信子 高畑淳子 田畑智子 立川志の輔 橋爪功 上川隆也 伊集院光 宇崎竜童 古城環 中村七之助 朝丘雪路 仲代達矢
日本公開/2013年11月23日
ジャンル/[ドラマ] [ファンタジー]

『もうひとりの息子』 映画のマジカルな力

子供の取り違えが発覚したことで、無風で暮らしてきた二家族が波乱に巻き込まれる。
カンヌ国際映画祭で審査員特別賞を受賞し、大ヒットした『そして父になる』と同じタイミングに、良く似たシチュエーションの家族を描いて東京国際映画祭の東京サクラグランプリと最優秀監督賞を受賞した『もうひとりの息子』を公開するとは考えたものだ。
派手な娯楽作ではなく、日本で知名度のあるスター俳優もいない『もうひとりの息子』だが、『そして父になる』に引っぱられて少しでも客足が伸びれば良いと思う。
もちろん、子供の取り違えは物語をスタートさせるきっかけに過ぎない。
『そして父になる』の主眼が取り違え事件ではなかったように、本作も取り違え事件そのものを掘り下げる映画ではない。
二人の子供と二つの家族。否応なく交流せざるを得なくなった彼らを描くことで、『そして父になる』の是枝裕和監督は家族、親子、父親とは何かに迫った。一方、本作のロレーヌ・レヴィ監督は、同様のスタートラインから民族や人類のあり方を考察する。
イスラエル軍大佐の息子ヨセフが兵役検査を受けるところから物語ははじまる。
両親の血液型と合わないヨセフ。病院の調べにより、湾岸戦争の混乱の中、赤ん坊が取り違えられていたことが発覚する。
事実、戦争当時は赤ん坊の取り違えも起こっていたらしい。
本作ではそれが――よりによって――ユダヤ人とパレスチナ人とのあいだで起こる。
自分をユダヤ人と信じ、国防の任に就くはずだったヨセフは、壁を隔てた居住地に住むパレスチナ人の子供だった。
それはすなわち、分離壁の中に封じ込められたパレスチナ人の子ヤシンが、封じ込める側のユダヤ人の子供だったことを意味する。
モンタギュー家とキャピュレット家、シャーク団とジェット団。数々の物語が描くように、二つの集団のあいだでは争いが生じがちだ。
現代におけるもっとも深刻な例の一つが、パレスチナ問題だろう。同じ土地を故郷とするユダヤ人とパレスチナ人。長年にわたり戦争とテロが繰り返された挙句、今や『ワールド・ウォーZ』で皮肉られたようにパレスチナ人の居住地とユダヤ人の住む地域とは高い壁で隔てられている。
その壁の向こう側とこちら側、普通なら口も利くはずのない人々が、子供の取り違えを機に話し合わねばならなくなる。なんと映画的なシチュエーションだろう。
パレスチナ人の父親は、自分たちを封じ込めたユダヤ人を憎んでいる。彼にとって、ユダヤ人とはすなわち憎しみの対象だ。それなのに、愛するヤシンはユダヤ人だった。ユダヤ人と判ったからには、息子でも憎むのか。
しかも壁の外でユダヤ人として育ってきたヨセフが、血の繋がった息子だった。ユダヤ教を信奉し、ユダヤ人として振る舞ってきたヨセフでも、訪ねてきたらまさか追い返すわけにはいかない。
自分が憎んできたユダヤ人とは、いったい何だったのか。
ヨセフの悩みも深刻だ。
みずからをユダヤ人と信じて生きてきたのに、ユダヤ教のラビからお前は違うと云われてしまう。
一瞬にして崩壊するヨセフのアイデンティティー。
このようにロレーヌ・レヴィ監督は、人間だれしも持っている国や民族や宗教への帰属意識を混乱させることで、人と人とを隔てていた壁の正体に迫る。
愛する者と憎むべき者が一瞬で入れ替わっても、これまで注いだ子供への愛情が消えるはずもない。壁の向こうの相手でも、血の繋がった我が子と知って憎めるはずがない。
そこに、弟が他民族と知った途端に憎悪をむき出しにする兄や、なんのわだかまりもなく親しくなる妹たちを交え、ロレーヌ・レヴィ監督は人間というもののおかしさと不条理を浮かび上がらせる。
悲劇ともいえる題材を扱った本作が、どこか爽やかで心地好いのは、二人の息子の描き方のおかげだろう。
性格も将来の夢もまったく違うヨセフとヤシンは、奇妙な境遇を共有することで親しくなっていく。ユダヤ人なのにパレスチナ人、パレスチナ人なのにユダヤ人、いやそのどちらとも思えず、周囲から認められない二人は、アイデンティティのくびきから解放されたからこそ親しくなる。壁のあちらとこちらを自由に行き来する二人を見るうちに、本来はそこに壁なんかないことが観客にも伝わってくる。
これぞ映画の素晴らしさだ。
あり得ないシチュエーション、あり得ない展開、けれどもそこからあり得るかもしれない未来の物語が紡がれる。
ロレーヌ・レヴィ監督は次のように語る。
「この映画は、『ちょっと他者の立場になってみてください。そうすれば、自然に他者の思いが理解できるのではありませんか』という誘いかけです」
注目すべきは、これがフランス人監督の手によるフランス映画だということだ。
イスラエルを舞台に、フランス人がまったく出てこない本作は、教えられなければフランス映画とは判らない。
それでもリアルに描かれる人間模様を観ると、作品の題材に国境はないことを痛感する。
それどころか、他国の人間だから描けることもあるはずだ。フランス、イスラエル、パレスチナのスタッフをまとめ上げ、ユダヤ人とパレスチナ人の交流を描くことができたのも、ロレーヌ・レヴィ監督がユダヤ系フランス人だからだろう。
ユダヤ人とパレスチナ人の物語をフランス人が映画にして、日本人が涙する。
感動には壁がないことも本作は示している。
レヴィ監督は「日本という国に、人生最大の喜びを与えていただきました」と語っている。一つは東京国際映画祭での受賞、もう一つは東京で行われた国際平和デー記念の特別上映会に来賓として出席したパレスチナ大使とイスラエル大使が固い握手を交わしたことだ。
「両大使が握手を交わした時は、まさに感動の極みでした。私がこの映画のために大変な労力と時間を費やしたことに対する、素晴らしいご褒美だと感じましたし、私がこの映画に込めた「希望」というメッセージに対して返答をもらえたような気がしました。映画にはマジカルな力があるのだということを、あらためて実感した瞬間でもありました。」
イスラエルが壁を建設しはじめたのは2002年。すでに11年が過ぎた。
ベルリンの壁は建設から28年で崩壊している。

監督・脚本/ロレーヌ・レヴィ 脚本/ナタリー・ソージェン、ノアン・フィトゥッシ
出演/エマニュエル・ドゥヴォス パスカル・エルベ ジュール・シトリュク マハディ・ザハビ アリーン・オマリ ハリファ・ナトゥール
日本公開/2013年10月19日
ジャンル/[ドラマ]

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『42 ~世界を変えた男~』で注目すべきは人種差別問題ではない

本作が描くのは、実在の野球選手ジャッキー・ロビンソンだ。
白人だけで構成されていた大リーグに、初の黒人選手として飛び込んだジャッキーは、野球ファンからも対戦チームからもチームメイトさえからも中傷され憎まれ、嫌がらせを受ける。
とうぜん予想された苦難に敢然と立ち向かうジャッキー・ロビンソンを、日本で公開される出演作はこれがはじめてとなるチャドウィック・ボーズマンが好演し、彼を大リーグに引きずり込むブルックリン・ドジャースのゼネラルマネージャー(GM)、ブランチ・リッキーをハリソン・フォードが貫禄たっぷりに演じている。
この映画は、ジャッキーが黒人ゆえに味わう苦しみと戦いを描いており、涙なくして観られない。その上、物語は野球の試合を中心に据えて、リーグ優勝をかけたチーム間のせめぎ合いや、ジャッキーと他の選手の対決等の見どころも多く、スポーツものとしても充分に面白い。
だが本作の舞台となる1940年代の米国は、日本人に馴染みのある世界ではない。ましてや本作を黒人差別を題材にした作品だと思ってしまうと、日本人には遠い国の過去の出来事としか感じられない。
しかし、もしも本作がかつて黒人差別があったことを振り返るだけの映画なら、米国人にとっても古くさくて説教じみてしまい、わざわざ1940年代の風物を再現してまで現代に作る意義はないに違いない。
『42 ~世界を変えた男~』が現代の米国にも日本にも、いや日本にこそ強く響く映画なのは、ジャッキーをドジャースに入れようとしてリッキーが監督に電話するシーンだけでもよく判る。
黒人選手のジャッキーをどう思うかとリッキーに尋ねられたレオ・ドローチャー監督は、迷いなくキッパリ云いきる。自分が目指しているのは優勝だけだと。優秀な選手なら黒人だろうが何だろうが関係ない。もしも役に立たなければ、実の弟でも追い出すだけだと。
60年にわたって白人だけで営まれてきた大リーグには、強固な慣習や白人だけの連帯感があったはずだ。そこに黒人選手を投入すれば、「チームの和」が乱れてしまう。
にもかかわらず、ドローチャー監督は黒人選手の参加をまったく厭わなかった。
それどころか、優秀な選手を「黒人だから」という理由で排除するような「チームの和」なんかいらないと考えた。
これまで当ブログをお読みになった方なら、このやりとりを聞いて押井守監督の勝敗論を思い出したことだろう。
やはり大リーグを舞台にした映画『マネーボール』を俎上に載せて、押井守監督は次のように語っている。
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現状維持を望むというのは勝たなくてもいいから言い訳が欲しいだけなんだ。要するに、直感や経験を重視する人は「勝つこと」を絶対条件にしてないことがほとんどなわけ。勝つためだったら自分の経験だろうがなんだろうがドブに捨てる覚悟がなかったら勝てるわけないじゃん
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黒人の参加を嫌う選手たちは、仲良く気持ちよくプレーをしたいのかもしれない。それには、今までどおり白人だけで固まっていたかったのかもしれない。
しかしチームを優勝に導く責任を負っている監督にとって、大事なのは優勝に貢献できる選手かどうかだ。肌の色は関係ない。
本作が2時間8分の上映時間を通じて描くのは、「人種差別はいけません」というお説教ではない。そこにあるのは、徹頭徹尾、能力主義の公平さである。
『マネーボール』もそうだった。『マネーボール』は統計的手法を駆使することで、旧来の評価軸では埋もれてしまう人に脚光を当て、個人を公平に扱うことを訴える映画だった。
とはいえ、データを分析して数字で人間を判断することには反発する人もいるだろう。『マネーボール』に反論するかのように野球映画『人生の特等席』が公開された。そこではドライなデータ分析が否定され、昔ながらの仲間意識や職人ならではの経験が尊重された。
その『人生の特等席』に改めて反論するのが本作だ。本作は『マネーボール』のアプローチとは趣向を変えて、データ分析や数字による判断といった理性への働きかけではなく、差別への怒りや異人種が和解する喜び等の感情に訴えかけて、公平な世の中はどうあるべきかを観客に感じ取らせる。
『42 ~世界を変えた男~』はジャッキー・ロビンソンというヒーローを描いた痛快作であり、『マネーボール』が題材にした統計オタクとGMの悩みからはかけ離れた映画に見える。
だが本作のナレーションは、両作に同じ精神が流れてることを示している。
本作の冒頭、語り部たる記者は云う。
「野球は民主主義が本当にある証拠だ。野球のボックス・スコアには、体格も宗派も支持政党も肌の色も記録されない。そこにはただ試合での成績が記録されるだけだ。」
数字だけに徹すること。それが民主主義だと主張する本作は、リベラル派のブラッド・ピットが制作した『マネーボール』と同じことを訴えている。
だからこそ『42 ~世界を変えた男~』は、日本人に痛烈な一作だ。
過去の人間関係も、どんな集団に属するのかもおかまいなしに、能力だけを物差しにして個人を評価する。――これは、日本人のもっとも苦手で嫌いなことだ。
日本社会は今なお同質性が高く、異分子に寛容ではない。日本人は伝統的によそ者を簡単には受け入れず、集団の文化から逸脱した者を村八分にすることで安心社会を保ってきたからだ。
脚本も手掛けたブライアン・ヘルゲランド監督が上手いのは、黒人選手をバックアップするGMブランチ・リッキーがメソジスト派であると強調し、数字を重視する能力主義と伝統的な信仰共同体とが矛盾しないことをアピールした点だ。こうして本作は『人生の特等席』を支持しそうな客層にも親近感を抱かせる。
日本の伝統的コミュニティを重視する人々も、本作の正論には抵抗しにくいだろう。
血縁、出身地、所属集団等にかかわらず公平に個人を評価すること。それと同じくらい嫌がられるのが、カネの多寡で良し悪しを判断することだ。
金儲けするヤツは強欲で、いい人は金に執着しない。そんな内容の映画は多い。
しかし、それではダメだと押井守監督は云う。
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ビジネスを描いた映画の大半がダメなのはさ、結局みんな前提が間違ってるんだもん。要するに冷酷さと人間性の世界の対立というさ、そういう命題を立てた瞬間もう間違っちゃう。
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野球もビジネスだから金が動く。本作のGMブランチ・リッキーも、人類愛だけでジャッキーを取り立てるわけではない。
ジャッキーの入団に猛反対するスタッフを相手に、リッキーは黒人選手を入団させれば黒人客の増加が見込めると説明する。
「カネに黒も白もない。カネは緑なんだ。1ドル札は緑色だ。」
多様な価値観や思想信条が対立するとき、カネは共通の尺度足りうる。破滅志向の人間はともかくとして、まともに収支を考慮する冷静さがある人間には、儲かるということが一定の説得力を持ち得るのだ。
カネがすべてではないけれど、人類文明が誕生してからというもの、カネ以上に価値を定量的に表現する方法を私たちはまだ発明していない。各人が自分なりの価値観や思想をぶつけ合っても落としどころが見つからないとき、ものごとを金額に換算して議論するのは一つの知恵と云えるだろう。
"いい人"からは嫌われがちなカネこそが、人種も偏見も関係ない唯一公平な価値判断であると示す点でも、本作は注目に値する。
また、数々の嫌がらせにジャッキーが対抗する手段も見ものである。
白人ばかりのチームに入れば、ジャッキーが攻撃の的になるのは目に見えていた。リッキーはこれから起こるであろう辛い日々を予言しながら、ジャッキーに問題を起こすなと釘を刺す。
ジャッキーは反論した。「あなたは、やり返す勇気もない選手が欲しいのか?」
リッキー「違う。やり返さない勇気を持った選手が欲しいのだ。」
ジャッキー「もし僕にユニフォームをくれるなら……。もし僕に背番号をくれるなら……。勇気で応えます。」
この会話は、鋭いセリフが飛び交う本作の中にあってとりわけ印象深い。
ジャッキーはブランチ・リッキーとの約束を守り、どんなに嫌がらせを受けても手を上げない。
私は久しぶりにアメリカ映画の真髄を見た思いだった。
やられたらやり返す。これは紀元前18世紀に成立したハンムラビ法典に通じる考え方で、現代の映画でも、侮辱を受けた主人公が相手を殴るシーンが頻繁に見られる。
ところが、ハンムラビ法典は「目には目で、歯には歯で」とあるように被った害を超える報復を禁じており、あくまで同等の罰にとどめるよう定めている。なのに映画の主人公はしばしばやりすぎる。言葉で侮辱してきた相手に腕力を振るって殴り倒すのは、明らかに「目には目で、歯には歯で」に反している。
2013年公開の『マン・オブ・スティール』では、さすがにスーパーマンが一般人を殴ったりしないが(スーパーマンに殴られたら死んでしまう)、スーパーマンは口汚いトラック運転手に怒って、そのトラックを滅茶苦茶に壊してしまう。
こんなシーンを見るたびに、私は残念に思った。
1958年の映画『大いなる西部』は傑作だった。その素晴らしさはとても説明しきれないほどだが、何より感動したのはグレゴリー・ペック演じる主人公が決してやり返さないことだった。バカにされても、腰抜け扱いされても、彼は平気な顔をしていた。
このような強さを備えてこそヒーローだと思っていたのに、今では『大いなる西部』の人物像を受け継ぐ作品がめっきり見られなくなってしまった。
だから本作のジャッキーが観客からブーイングを浴びても、対戦チームから罵倒されても、審判にすら嫌がらせされても怒りをこらえる姿を目にして、これぞアメリカン・ヒーローだと感激した。
ジャッキーはやられっ放しなわけではない。ちゃんと相手をへこませる。だがその方法は暴力ではないし、近視眼的な復讐でもない。
彼は野球選手なのだから、ルールを守ってゲームの上でやっつける。意地悪な投手にはホームランでお返しし、口汚い相手チームの監督からは勝利をもぎ取る。
侮辱されたジャッキーが安易に殴り返したりせず、耐え続ける姿を観ていた観客には、その「仕返し」が爽快だ。
ここで描かれるのは、やられたらやり返すシステム1レベルの原始的な衝動ではなく、野球のルールにのっとって相手を打ち取ろうとするシステム2レベルの理性である。
どのような不快なことがあろうとも、ルールを踏み外さずに公正な勝利を目指す精神は、すなわち「法の支配」の暗喩に他ならない。
私は1年以上前に「アメリカは壊れているか?」と題した記事を書いた。同時多発テロ事件に報復するためアフガニスタンやイラクへ攻め込んだアメリカの映画からは、もはや『大いなる西部』や『大脱走』のような感慨を得ることがなかったからだ。
けれど、その後アメリカ映画から、復讐心と公正なルールとのあいだの苦悩を描いた傑作『声をかくす人』や『スター・トレック イントゥ・ダークネス』が登場し、正義を振りかざしたくなる感情よりも法の支配を守る方が重要であることが強調された。
1940年代を舞台にした本作もその流れにある。ルールを守ってこそ成立するスポーツと、理不尽な排他性。そのはざまで苦悩するジャッキーは、過去10年を振り返るとともに、これからのあるべき姿を模索するアメリカの象徴だ。
今この映画をつくる意義はここにある。
劇中、試合前にアメリカ国歌をわざわざ最後まで歌うのも、この国の理念を再確認するためだ。
しかも、本作は法と慣習の違いにも踏み込んでいる。英米の法体系(コモンロー)は慣習から発展したが、法の定めと慣習の要請が一致するとは限らない。
法は黒人選手の入団を禁じていないが、慣習として黒人の大リーガーはあり得ない。そんなときに個人は、社会はどうすべきなのか。本作はそこまで考察して「法の支配」の何たるかに思いを馳せる。
「裁判官ですら空気を読んでしまうので、法の支配が成立しない」と云われる日本では、なおのこと本作から学ぶことが多いだろう。

監督・脚本/ブライアン・ヘルゲランド
出演/チャドウィック・ボーズマン ハリソン・フォード ニコール・ベハーリー クリストファー・メローニ アンドレ・ホランド ルーカス・ブラック ハミッシュ・リンクレイター ライアン・メリマン ブラッド・バイアー ジェシー・ルケン アラン・テュディック
日本公開/2013年11月1日
ジャンル/[ドラマ] [伝記] [スポーツ]

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