『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [新編]叛逆の物語』で祝福されるのは誰か?
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「アニメーション映画は子どものためにつくるもの。」
宮崎駿監督はそう考えて作品をつくってきた。
その枷をはじめて破って『風立ちぬ』を発表し、宮崎監督は長編アニメの制作から引退した。
私が『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [前編]始まりの物語』及び『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ[後編]永遠の物語』に続く新作『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [新編]叛逆の物語』を観て思い出したのは、宮崎監督の言葉だった。
同じ時間を繰り返す「ループもの」と呼ばれる作品は多々あるが、日本のアニメで嚆矢となるのは押井守監督が1984年に発表した『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』だ。
この作品では友引町という閉鎖空間の中、学園祭の前日だけが延々と繰り返される。それは、友人たちとの楽しい時間がいつまでも続いて欲しいと願う少女ラムの夢の世界だった。
『――ビューティフル・ドリーマー』は同年の宮崎駿監督作品『風の谷のナウシカ』とともに映画界に衝撃を与え、アニメに無関心だった映画評論家らの目をアニメに向けさせるきっかけになった。
テレビシリーズと劇場版前後編の『魔法少女まどか☆マギカ』もまた「ループもの」の系譜に連なる作品だ。しかし、ループの意味合いは『――ビューティフル・ドリーマー』と大きく異なる。
暁美(あけみ)ほむらが時間を遡行して同じ一ヶ月を繰り返すのは、友人まどかを守るために過去をやり直し、より満足のいく未来を手にするためだ。繰り返しても繰り返しても望みどおりの未来を手に入れられない彼女は、楽しい時間を過ごすラムとは対照的に、地獄の囚われ人にも等しい。そんなほむらの哀しさと健気さに多くの視聴者・観客は引き込まれ、涙したことだろう。
『[新編]叛逆の物語』は時間こそループしないものの、閉ざされた町の中で延々と楽しい毎日を過ごす点や、それを望んだ少女の想いが世界を作り出す点で、前作以上に『――ビューティフル・ドリーマー』を思わせる。
もちろん、本作が『――ビューティフル・ドリーマー』の真似だと云うわけではない。
これほど有名な先行作品がありながら、あえて似たような設定をもってくるからには、よほど突き抜けた展開が必要だ。そこに作り手の自信のほどがうかがえる。
本作をご覧になった方は、それを実感したはずだ。
みずからのソウルジェムの中に仮想の町を構築し、友人たちとの幸せな日々を擬似的に作り出した暁美ほむらは、遂には現実世界を超越し、宇宙を書き換えることで本当に望みどおりの世界を生み出してしまう。
前作のまどかが神となって宇宙を再構築したように、ほむらもまた超自然的観察者に変化した。
前作の結末――まどかが過去と未来のあらゆる時空を見渡して少女たちを見守ってくれる宇宙を否定し、まどかも含めた少女たちを物語のはじめの状態へ、平和な学園に転校生がやってくる状態へ引き戻し、まどかを魔法少女ですらなくしてしまう展開には、驚きを禁じえない。
この時ほむらはみずからを悪魔と称したが、それはまどかに相対する別な存在であることを表現するためのレトリックに過ぎない。そこにあるのは善悪の区別ではなく、前作とのコントラストだ。
ほむらが、そして本作が否定したのは、前作の結末だけではない。作り手の意図のあるなしにかかわらず前作が有していた哲学・人生観をも否定している。
まどかが神になってしまい、人間としてのまどかがいなくなった前作のラスト、誰もまどかを知らない世界で、ただ一人まどかの思い出を胸に戦い続けるほむらは孤独だった。愛するまどかと再会する望みもなく、ほむらの思いを理解する人が現れることもない。それでもくじけず戦う姿は、すなわち力強さの表現だった。守ったり守られたりする関係がなくても今日を懸命に生きようとするほむらは、能動的ニヒリズムの体現者だった。
そもそも同じ時間を繰り返して戦い続ける彼女は、永劫回帰の中の存在といえる。彼女の戦いは常に「ワルプルギスの夜」に負けて終わり、いくら努力してもできないものはできないという残酷な事実を突きつけられた。
そんな彼女が最後に到達したのは、まどかと仲良く過ごすハッピーな結末は決して訪れないことを受け止めて、それでも生き続ける強さだった。
ハッピーエンドを期待せずに生きていくほむらの覚悟は、ほろ苦さとともに感動を呼んだ。

ほむらが悪魔と化し、まどかの作り上げた宇宙の秩序を乱したとしても、これはハッピーエンドだろう。
なにしろほむらが再構築した宇宙では、まどかが一少女として元気に暮らしており、前作で命を落としたマミもさやかも杏子も仲良く学園生活を送っている。ほむらは、独りぼっちで神になる辛さからまどかを救った。そしてほむらは、みんなと一緒に過ごすことができる。
彼女は夢を叶えたのだ。
その世界は、ほむらがみずからの力で勝ち取ったものだ。
努力すれば世界さえも変えられる。本作からは、そんな明朗なメッセージが伝わってくる。
ここには永劫回帰に耐える強さも、明るい結末を期待せずに生きる覚悟も必要ない。
いくら努力してもできないものはできないと思い知らされた前作に比べ、なんと明るい物語だろう。
その味わいの違いから、前後編の方を好む人もいれば、新編を歓迎する人もいるだろう。両方好きな人もいるはずだ。
ここで思い出したのが、「アニメーション映画は子どものためにつくるもの。」という言葉だった。
人生の折り返し点を過ぎた知人が、「ルーキーものには興味がない」と漏らしたことがある。
「ルーキーもの」とは、訓練生が卒業を目指したり、新米が一人前になるまでを描いた物語だ。そこには明確なゴールがあり、失敗を通して成長する主人公をドラマチックに描ける。だから、マンガでも映画でもテレビドラマでも多くの「ルーキーもの」が作られ、人気を博している。
だが知人によれば、若い時分は「ルーキーもの」を楽しんだけれど、年齢を重ねるに従って感情移入できなくなったという。
それはそうだろう。訓練生だったり新米だったりする時間はほんの数年だ。人生のごく短い期間でしかない。一人前になった後に続く数十年に比べれば一瞬とも云える。
若い人は進学とか卒業とか就活が目の前にあるから、ゴールを目指す「ルーキーもの」が身近だろうが、ルーキー時代が過去となった年齢層には、日々繰り返される出来事に取り組むドラマの方が身近なのだ。知人が好んで見るのは、『CSI:』シリーズや『相棒』のようにベテラン刑事が毎回事件を解決するドラマである。
恋愛ものでも、恋する二人が結ばれるまでを描く作品と、結ばれた後の生活を描く作品では、受け手の年齢層が違うだろう。
努力して、世界を変えて、ハッピーエンドを掴む本作には、多くの若者が共感するに違いない。
これは魔法少女を卒業して悪魔デビューするまでの、ほむらの成長物語なのだから。
未来の可能性を信じて努力している若者に、いくら努力してもできないものはできないという事実を突きつけるのは早計なのかもしれない。
だから今は、ハッピーエンドを手にしたほむらを祝福しよう。
たとえそれがスタートラインに過ぎず、この先、思うようにならない永劫が待ちうけていようとも、彼女はそれに耐える強さを持っているはずだから。
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総監督/新房昭之 監督/宮本幸裕
脚本/虚淵玄
出演/悠木碧 斎藤千和 水橋かおり 喜多村英梨 野中藍 加藤英美里 阿澄佳奈 新谷良子 後藤邑子 岩永哲哉 岩男潤子
日本公開/2012年10月13日
ジャンル/[SF] [ファンタジー] [ミステリー] [アドベンチャー]

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【theme : 魔法少女まどか☆マギカ】
【genre : アニメ・コミック】
『凶悪』 本当に怖いのは……
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男気いっぱいでせっせと人を殺すピエール瀧さんも頼もしい。
『凶悪』は、この二人が演じる極悪人の非道ぶりをこれでもかと描いた作品だ。
もとよりピエール瀧さんは外見が怖そうだ。
電気グルーヴの他のメンバーが小さいわけではなかろうが、ピエール瀧さんはひときわ巨大に見えた。電気グルーヴのアルバムでも豪快な名曲『Fuji-san』や『Oshogatsu』を作詞・作曲したピエール瀧さんは、外見も豪快なのだ。
それなのに『ALWAYS 三丁目の夕日』の氷屋さんとか『僕達急行 A列車で行こう』の鉄道ファン等、温厚な役が少なくない。
それはそれでいいのだが、ピエール瀧さんには巨体を活かした豪快な役をやって欲しい。そう思っていたところに登場したのが本作の暴力団組長・須藤純次だ。
面倒見が良くて、殺人や死体の始末を頼まれたら嫌とは云わない誠実な男で、自分を裏切る者は決して許さない。こんなヤツのそばにいたら、いつか必ず殺されるに違いない。ピエール瀧さんはそう思わせる恐ろしさを漲らせていた。
物語は、ピエール瀧さん演じる須藤純次が暴力団員らとともに次々に人を殺していくところからはじまる。
モデルとなった死刑囚の後藤良次を取材してきた原作者宮本太一氏も、ピエール瀧さんの演技に「実物の死刑囚よりはるかに凶暴で、迫力があったことを保証させていただきます。」とメッセージを寄せている。
本作のモデルとなった事件はあまりにも異常だ。
死刑囚がまだ警察も知らない三件もの殺人を雑誌記者に告白したことから明るみになった事件――茨城上申書殺人事件がそれであり、その顛末をまとめた「新潮45」編集部編『凶悪 ある死刑囚の告発』が本作の原作である。
殺人、強盗致死、逮捕監禁、放火未遂、覚醒剤所持・使用、窃盗等による死刑判決に対して上告中の犯人が、わざわざ余罪を告白し、その罪の大きさを世間に訴えようとするなんて普通では考えられない。しかも告白したのは残忍極まりない殺しばかりときたもんだ。
映画が描く事件はあまりの凶悪さに気分が悪くなるほどで、何組ものカップルが途中で席を立っていた。
だが、面白さを感じるのもその凶悪さだ。
多くの人は殺人が行われる場に居合わせることはない。だから人を殺す人間がどんな表情で、どんな言葉を口にしながら犯行に及ぶかは想像するしかない。
これまで多くの映画やテレビドラマが殺害シーンを映像にしてきたけれど、脚本家も監督も俳優も人を殺した経験はないから、いかに迫真の演技とはいえ、いずれも作り物に過ぎない。
本作が凶悪だと感じるのは、その殺しのひどさが腑に落ちるからだ。尋常ではない凶行が、説得力をもって迫るのである。人を殺すっていうのはきっとこんな風なんだろうな、そう観客を納得させるところが凶悪なのだ。
須藤純次はある意味で正直な男だ。
「てめえ、ぶっ殺してやる。」
怒りにまかせてそんな言葉を口にすることはあっても、実際に人を殺すとは限らない。
ところが須藤純次は、口にしたことはちゃんとやる。嘘や脅しではない。その「ちゃんとやる」ということが本当に恐ろしい。
そして須藤純次以上に恐ろしいのが、リリー・フランキーさん演じる不動産ブローカーの木村孝雄だ。
モデルとなるのは実在の不動産ブローカー・三上静男。後藤良次は自分が死刑判決を受けているのに、三件もの殺人を首謀した三上がシャバでのうのうと暮らしているのが赦せず告発に及んだようだが、映画が取り上げるのはもっぱら二人が協力して殺人・死体遺棄を行う過程だ。
リリー・フランキーさんは、「先生」と呼ばれてみんなから慕われる木村孝雄を清々しく演じている。
心の底から殺人を楽しむその姿には、誰しも慄然とするだろう。
凶行に走る異常者を扱った映画は過去にもあるが、木村や須藤は異常者には見えない。それどころか人殺しや死体の始末に精を出す彼らは、部活動を楽しむ中学生のようである。
本作でとりわけ印象的なのが、木村、須藤両家族でパーティーをするシーンだ。子供たちのいる前で、世間話のように自分たちの殺しっぷりや被害者の無様な死に方を歓談する光景は、話題さえ除けば和やかなパーティーでしかない。そこに異常な殺人鬼像は微塵もない。
それはそうだ。人間は誰しも平気で殺しを行えるはずだ。
魚や動物を殺せなかったら、私たちは飢えてしまう。これまで人類は他の集団を襲って食料を奪ったり、襲ってきた敵をやっつけることで生き延びてきたはずだ。多くの動物は闘争本能を備えており、それは人間とて変わらない。
現代社会で闘争本能を解放する例がスポーツの試合だろう。つぶてを投げたり、棍棒を振り回したり、獲物を追いかけ回したり、そんな"模擬戦闘"に人々は熱狂し、見るだけで興奮する。
しかも多くのスポーツ大会は地域や国ごとに争う形になっており、集団間の戦争を再現している。
それを思えば、木村や須藤が野球の試合を振り返るように殺人の成果を語らうのも不思議ではないだろう。
とはいえ、私たちは日常的に人を殺したりはしない。
他の集団との戦いに勝ち残り、生き延びるためには、仲間同士で団結する協調性も必要だから、私たちは闘争本能だけでなく、身近な人と共感・協調する性質も持っている。多くの人は攻撃性と協調性のバランスの上に日々の生活を営んでいる。
そのバランスが少しだけ崩れている違和感が、この映画の怖さだ。
それは、名前も顔も知らない他国の兵士を砲撃するのとは異なる。目の前にいて、協調しようと思えば協調できる相手を攻撃してしまう、それほどの凶暴さが人間の中に潜んでいること、そしてその凶暴な行為をスポーツのように楽しんでしまうことに納得するから恐ろしいのだ。
現実の凶悪な連続殺人を題材にした映画には、たとえば『冷たい熱帯魚』がある。
だが、『冷たい熱帯魚』の殺人犯が伝統的な道徳性を克服し、善悪の彼岸を目指すような力強さを示すのに対し、本作の木村や須藤はせいぜい三塁打を打てて喜ぶ中学生並みであり、その常人ぶりがかえって観客の胸に刺さる。彼らは目を逸らしたくなるほどに卑近なのだ。
さて、このように恐ろしい事件を扱った本作だが、本当の怖さは別のところにある。
死刑囚の上申を受けて動き出した警察が事件化したのは、カーテン販売会社(映画では電機設備会社)社長の保険金殺人だけだった。
死刑囚は他にも生き埋め事件と死体焼却事件を告発していたのだが、読売新聞によれば、生き埋め事件の被害者は20年以上前から消息不明であり、事件当時に生存していたと云えるかどうか警察には判らなかった。死体焼却事件に至っては、「大塚」という被害者の実在すら確かめられなかった。
そのため警察は二つの事件を取り上げず、保険金殺人に的を絞ったのだ。
死刑囚が告白しなければ、いずれの事件も明るみに出なかった。そのうえ三つも事件があるのに、警察は一つしか取り上げなかった。それこそがこれら事件のもっとも恐るべき点だろう。
劇中、雑誌記者に告白する死刑囚が、「先生」とはかかわりのない第四の事件を喋ってしまうシーンがある。「先生」を告発するのが目的なのに、うっかり目的外のことを喋る迂闊さに、記者と死刑囚は笑ってしまう。これは後藤良次が首吊り自殺に見せかけて知人を絞殺した事件を指すのだろうが、いったいどれだけ余罪があるのかとゾッとする場面だ。
映画は「先生」に関係のないこの事件までは収めきれず、笑い話で済ませてしまうのだが、そんな軽い扱いがますます怖い。
後藤と三上の犯罪をすべて取り上げたら切りがないからだろう。映画は事実を刈り込んでいる。
そもそも後藤良次が死刑判決を受けたのは、宇都宮市のマンションに男女を監禁して死傷させたからだが、被害者の男女四人を映画では二人だけにしている。しかも四人に対する仕打ちは映画以上に残酷だった。
事実を誇張してフィクションにする例はしばしば目にするが、映画化に当たって事実が矮小化され、にもかかわらずこれほど凶悪な事件が描かれたことに驚くばかりだ。
『凶悪』のタイトルは伊達じゃない。
この映画を最後まで観られずに席を立ったカップルの気持ちがよく判る。
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監督・脚本/白石和彌 脚本/高橋泉
原作/「新潮45」編集部
出演/山田孝之 ピエール瀧 リリー・フランキー 池脇千鶴 ジジ・ぶぅ 白川和子 吉村実子 小林且弥 斉藤悠 米村亮太朗 松岡依都美 村岡希美 九十九一
日本公開/2013年9月21日
ジャンル/[サスペンス] [犯罪] [ドラマ]

『エリジウム』 本当はどちらの味方?
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これはマット・デイモンが取り組むべき映画だ。
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プロデューサーに会い、この映画の話を聞いた瞬間に「やりたい!」って思ったんだ。「この映画に関わるにはどうすればいい?」って感じだ。
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映画『エリジウム』の主演をオファーされたときのことを、マット・デイモンはこう語る。
観客もまた、マット・デイモンこそが本作の主演に相応しいと思うだろう。いま現在、マット・デイモン以上にこの役を演じるべき俳優がいるだろうか。彼の普段の言動が、そう観客に思わせる。
エリジウム(Elysium)とはエリシオン、エリュシオンとも表記される、ギリシア・ローマ神話に登場する楽園のことである。神々に愛された人々は死後エリジウムで暮らすという。現在、フランス共和国大統領官邸として使われているエリゼ宮の名は、この楽園にちなんでいる。
本作のエリジウムは地球を見下ろすスペースコロニーだ。人々は美しい緑に囲まれて暮らしており、すべての家庭に設置された医療機器でどんな病気も怪我も治すことができる。まさに楽園だ。
しかし、この楽園は一部の富裕層のものだった。外部の者は決して受け入れない。エリジウムの医療を受けたくて侵入する者は力ずくで排除される。
一方、地球はスラムと化し、誰もが貧困に喘いでいた。病気を患ってもろくな治療を受けられず、たとえ病院で診察してもらっても地球の医療設備ではたいしたことができない。
そんな状況で工場労働者マックスは事故に遭い、余命五日と宣告される。マックスの幼馴染の看護士フレイは、回復の見込みのない重病の娘を抱えている。
マックスもフレイの娘もエリジウムに行けば病気を治せるのに。富裕層と同じ医療を受けられれば死なずに済むのに。
本作は、マックスがエリジウムに向かい、その医療をすべての人に解放しようと決意する物語だ。
満足な医療を受けられるのは一部の裕福な者だけ。他の多くの者は病気を治したくても治せない。――これはまるで医療保険制度改革に揺れる米国のようである。
2013年10月1日、米国の象徴ともいえる自由の女神像を訪れることができなくなった。国立公園や博物館、動物園等、連邦政府が運営する多くの施設は閉鎖された。280万人の連邦職員のうち80万人以上が自宅待機となり、130万人は無給での勤務を求められた。
米政府機関の一部閉鎖を招いたのは、国民皆保険(こくみんかいほけん)を巡る与野党の対立だ。
米国には全国民をカバーする医療保険がなく、約5,000万人(6人に1人)が保険に未加入といわれる。これらの人々はいざ病気になっても手元に金がなければ治療を受けられない。
国民皆保険の実現を公約に掲げたバラク・オバマは、2009年に大統領に就任すると医療保険制度改革を推進し、2013年10月1日、通称オバマケアと呼ばれる新たな保険制度をスタートさせた。過去にも国民皆保険の実現を試みて挫折してきた民主党にとって、これは大きな前進だった。
だが共和党はこの政策に強く反対し、2014年度の予算の成立を阻んだ。米政府の会計年度は10月1日にはじまるが、この日を過ぎても予算が成立しないため、政府は機能停止に陥った。
ここまで事態をこじらせたのは一部の共和党議員の強硬姿勢によるものだが、米国民のあいだでもオバマケアには反対意見が多いという。開拓精神と自助努力を重視する米国では、保険といえども政府が強制することを嫌う者がいる。
オバマケアに反対する国民が2013年6月時点の56%から8月の『エリジウム』全米公開を挟んで9月末に50%へ低下したのは映画の影響ではあるまいが、本作が実にタイムリーな作品だったとはいえよう。
長年にわたり民主党とバラク・オバマを支持してきたマット・デイモンも、すべての人に医療を提供するための戦いを描いた本作には共感するところが大きかったはずだ。
とはいえ『エリジウム』の全米公開を翌日に控えた8月8日、マット・デイモンはオバマ大統領との決別を宣言した。NSA(米国家安全保障局)による個人情報収集工作や、無人機による米人殺害事件、富裕層への優遇税の継続措置等が、オバマ大統領への失望をもたらしたのだ。
同年7月にオバマケアの罰金施行の先送りを発表したことにも厳しい批判が出たという。マット・デイモンをはじめとするリベラル派からすれば、オバマ大統領の政治手腕は期待外れだったようだ。
劇中ではマックスの活躍により、エリジウムの医療システムがすべての人に解放される。
観客はみんなマックスを応援し、エリジウムの既得権を守ろうとするデラコート長官を憎むだろう。ジョディ・フォスターは冷酷なデラコート長官を実に憎々しく演じている。
けれど現実は、映画のようにはいかない。
だからこそマット・デイモンは、映画を観た人に考えて欲しいと思っている。
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ぼくが演じたマックスが、映画のラストでエリジウムを地球のみんなのために解放するというのは、実は大していい決断じゃないんだよね(笑)。なぜって、そうしたところで絶対にうまくいかないから。「いやあ、いい映画だったよ。最後に主人公がコロニーを解放してさ……いや、待てよ……そしたら結局エリジウムも地球みたいになっちゃうんじゃね?」って(笑)。観た人がそう思うのが大事なことなんだ(笑)。
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国民皆保険を巡って紛糾する米国を尻目に、とうの昔にこれを実現させた国もある。
その一つが日本だ。日本では治療費の大半が保険で賄われるので、手持ちの現金が少なくても病院で診察してもらえる。日本の医療制度の効率性は、香港、シンガポールに次いで世界第3位といわれるほどだ。
国民皆保険がない国からすれば、日本はエリジウムかもしれない。外部の者を受け入れない点もまた、エリジウムにそっくりだ。日本は世界でもまれに見る厳しい移民制限の国として知られている。
日本の観客もまた、映画を観ているあいだはマックスを応援し、医療システムを独占するエリジウムの民を憎々しく感じるに違いない。外部の者を受け入れないエリジウムの閉鎖性を、許すまじと思うだろう。
では振り返って、日本の移民制限を緩めて閉鎖性を少しでも解消しようと思うだろうか。社会保障をより多くの人が享受できるように、敷居を下げようと思うだろうか。
あなたは本当はどちらの味方だろうか?
![エリジウム プレミアム・エディション(初回生産限定) [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/415MAInWE9L._SL160_.jpg)
監督・脚本・制作/ニール・ブロムカンプ
出演/マット・デイモン ジョディ・フォスター シャールト・コプリー アリシー・ブラガ ディエゴ・ルナ ワグネル・モウラ ウィリアム・フィクトナー ファラン・タヒール
日本公開/2013年9月20日
ジャンル/[SF] [アクション]

【theme : 特撮・SF・ファンタジー映画】
【genre : 映画】
tag : ニール・ブロムカンプマット・デイモンジョディ・フォスターシャールト・コプリーアリシー・ブラガディエゴ・ルナワグネル・モウラウィリアム・フィクトナーファラン・タヒール
『ウルヴァリン:SAMURAI』 牛丼の看板との共通点は?
2013年公開の『ウルヴァリン:SAMURAI』は2009年の『ウルヴァリン: X-MEN ZERO』の続編だと思っていたが、意外や『X-MEN』三部作の後日談だった。
映画を作中の時系列で並べれば次のようになる。
『X-MEN:ファースト・ジェネレーション』 2011年公開
『ウルヴァリン: X-MEN ZERO』 2009年公開
『X-メン』 2000年公開
『X-MEN2』 2003年公開
『X-MEN: ファイナル ディシジョン』 2006年公開
『ウルヴァリン:SAMURAI』(本作) 2013年公開
(2014年に『X-MEN:フューチャー&パスト』が公開予定)
『X-MEN: ファイナル ディシジョン』のカタストロフィと、ウルヴァリンが背負った悲しみの大きさを知らないと、本作でウルヴァリンに告げられる「不老不死からの解放」という救いの意味がよく判らないかもしれない。
ともあれ、ミュータントがわらわら出てくる物語は『X-MEN: ファイナル ディシジョン』で一区切りついているから、本作はX-MENシリーズでありながらミュータントがあまり出ない。
代わりに映画を彩るのが、ニンジャ、サムライ、ヤクザだ。
これまでも当ブログで述べてきたように、ニンジャ、サムライ、ヤクザは日本発の三大コンテンツだ。黒澤明、深作欣二らの先達が築いてきたこれらコンテンツの力を今後も大いに活用すべきだと思うが、残念ながら本邦の大手映画会社はあまり積極的ではない。逆に外資系のワーナー・ブラザース映画が、『忍たま乱太郎』等のニンジャ物、『許されざる者』等のサムライ物、『アウトレイジ ビヨンド』等のヤクザ物に取り組んでいる状況だ。
たしかに現代の日本にニンジャ、サムライはいないし、ヤクザも社会の表立ったところにはいないから、日本国内ではあまり訴求力のないコンテンツと判断されるのかもしれない。
でも、せっかくのコンテンツを活かさないとは、なんとももったいないことだ。
そんな日本を尻目に、ニンジャ、サムライ、ヤクザを全部盛り込んだのが『ウルヴァリン:SAMURAI』だ。その上、不死身のミュータントの苦悩とアクション、日米の歴史的経緯への振り返りまで詰め込んで、豪華なフルコースになっている。
もちろん買い被りもいいところではある。真田広之さん演じるサムライは、X-MENチーム最強のミュータントであるウルヴァリンをぐいぐい追いつめるし、一介のヤクザですらウルヴァリンを手こずらせる。
日本の庶民は身の回りを見て、そんなサムライもヤクザもいないよ、と思うかもしれないが、そう卑下してはいけない。ここでイメージされているのは、たとえば三船敏郎演じる剣豪や菅原文太演じる極道なのだ。そう考えれば、ウルヴァリンにとって彼らがいかに強敵かが判るだろう。
ジェームズ・マンゴールド監督は本作が影響を受けた映画として、時代劇の『十三人の刺客』とアカデミー賞を受賞した稲垣浩監督の『宮本武蔵』三部作、西部劇の『シェーン』と『アウトロー』、犯罪映画の『フレンチ・コネクション』と『チャイナタウン』、ドラマの『黒水仙』と『浮草』『恋する惑星』『ブエノスアイレス』を挙げている。
なるほど、三船敏郎さんの宮本武蔵が念頭にあったとすると、アダマンチウムの刀は櫂を削った木刀に相当するのかもしれない。
また、日本を取り上げた外国映画には、日本人の気付かない日本を発見できるが楽しさがある。日本人にとっては当たり前なものが、実は外国人に強くアピールする面白さ。
たとえばヴィム・ヴェンダース監督のドキュメンタリー『東京画』では、飲食店の店頭にある模型の食品サンプルを延々と映していた。ヴィム・ヴェンダース監督には興味深いものだったらしい。普段見慣れている私たちはたいして気にしないけれど、注文の前に料理の完成形を見られるのはたしかにありがたいことだ。
中国には店頭に食材を並べるレストランがある。だが、中国語のメニューが読めず、そもそも料理名も知らない外国人には生の野菜を見てもどんな料理かサッパリ判らない。完成形のミニチュアを見て選べればいいのに。そんなことを考えて、日本の飲食店の良さに気付く。
日本を訪れた外国人観光客は吉野家の看板を写真に撮りたがるという。橙色と黒の鮮やかなコントラスト、漢字をでかでかとあしらったデザインに、日本独特の雰囲気を感じるらしい。
私たちは吉野家の看板を目にしても牛丼のことしか考えないが、云われてみれば歌舞伎座の垂れ幕に通じるユニークなデザインだ。
日本を扱った外国映画は、そんな日本人が見落としがちなものや、日本人が気にも留めないものに脚光を当てるから面白い。
本作で目を引くのは、ウルヴァリンが泊まるラブホテルだろう。
日本人はSFアクションの世界とラブホテルの世界をなんとなく別物のように思っているが、考えてみればあれこれ詮索されずに泊まるには、一般の旅館やホテルよりラブホテルの方が都合が良い。なのに、「ラブホテルの円形ベッドにたたずむスーパーヒーロー」という構図を物凄く奇異に感じてしまう。
私たちが無意識のうちに抱いている「スーパーヒーローはラブホテルにしけこんだりしない」という思い込みを、本作は木っ端微塵にぶち壊す。その爽快さを楽しめるか、鼻白むかで、本作の好き嫌いが分かれるかもしれない。
ウルヴァリンがニンジャ軍団と戦う場所が、まるで白川郷か大内宿のような古い家並みなのもいかしてる。
今も日本にはこんな町があるのだが、多くは重要伝統的建造物群保存地区に選定されたり観光地化しており、日本人には戦闘の舞台として思い浮かべにくい。
これも意表を突いたシチュエーションだ。
買い被りが多いのはこそばゆい。
劇中に登場する新幹線にはパンタグラフがなく、時速500kmと話しているからリニア新幹線かもしれないが、日本にリニア新幹線が開通するのはまだ先の話だ。
日本企業の強大さはバブル時代を髣髴とさせる。原作マンガが1982年に描かれたからではないだろうが、この企業イメージは、皇居の地価がカリフォルニア州と同じで、東京の不動産を担保にすればアメリカ全土が買えるといわれたあの時代の残影かもしれない。
劇中の地理にはいささかデタラメがある。一般人が港区の増上寺から台東区の上野駅まで一気に駆け抜けるのは無理だろう。長崎行きのバスに乗ったら『崖の上のポニョ』の舞台に着いてしまうのもおかしい。
とはいえ、こんなデタラメは邦画でも日常茶飯事だ。邦画を観てると、都心を歩く人が一瞬後には郊外にいたり、直進しているクルマが実は同じ道を行ったり来たりしていることがある。
地元民も観るんだからもう少し辻褄を合せて欲しいと思うが、邦画の中の人物は瞬間移動を繰り返している。
それを考えれば、本作のような外国映画での多少のフィクションは許されるだろう。
それどころか地理的な整合を犠牲にしてでもその場所、その景色をカメラに収めたいという作り手の貪欲さに、感心するばかりだ。
剣道場を畳敷きにしようとするスタッフを止めて、剣道場の床は板張りであることを教えた真田広之さんら日本人関係者の貢献もあろう。
それにしても、米国人の目に映る日本人像は変わったものだ。
米国映画に登場する日本人キャラクターとして有名なのは、『ティファニーで朝食を』のユニオシだろう。洋画家の国吉康雄氏がモデルといわれるこのキャラクターは、出っ歯で釣り目でメガネをかけた社交性ゼロのチビであり、かつての日本人のイメージを象徴していた。つまり、外見的にも人間的にも良いところが全然なかった。
『ティファニーで朝食を』の公開は1961年。第二次世界大戦の終結から16年しか経っていない。
第二次世界大戦当時は、米国人は日本人をひどく見下していた。人間扱いしていなかったとすらいえる。
開戦前夜、「アメリカ人もイギリス人も日本人のことをチビで出っ歯で眼鏡をかけた黄色んぼで、世界中で見たものは何でもメモを取ったり写真を撮ったりして、国へ帰って二流の類似品を作ろうとする連中と見下していた」という。
米国の軍事専門家によれば、日本海軍の軍艦はイギリスの軍艦を真似た劣悪なコピーに過ぎず、艦砲射撃をすると転覆するおそれがあった。日本人は片目をとじることができないので、正確な射撃はできないと云われていた。
ルーズベルト大統領は、日本のパイロットはすべて近眼で、常に敵に先に発見されてしまうので撃墜は容易だと信じていた。ルーズベルト大統領もマーシャル参謀総長も、米国人一人は日本人五人に相当し、たとえ日本が奇襲攻撃を仕掛けてもたいした損害を受けることなしに撃退できる、といつも語っていたという。
米国世論も同様だった。米国の空母二隻もあれば日本国内の交通を数ヶ月途絶させることができると云われていた。フィリピンやシベリアの基地から空襲すれば、日本軍は数週間で壊滅するとも。
米国は一ヶ月に1,500機の飛行機を生産できるが、日本は一年に250機足らず。しかも高オクタンのガソリンが欠乏しているし、飛行学校は一年に100名を卒業させているにすぎない。日本との戦争が起こっても、アメリカは容易に勝てる。戦闘は六ヶ月で終わり、そのあと全軍をヨーロッパの戦場に回すことが可能である、と考えられていた。
実際のところ、1941年12月の段階で日本の戦闘機の生産は月に400機を上回っていたが、米軍当局ですらこれを200機がやっとと見積もっていた。
米国は日本を見下し、舐めきっていた。
もっとも、相手を見下し、舐めていた点では大日本帝国もお互い様だ。
日米開戦の前、第25軍作戦主任参謀の辻政信中佐と作戦参謀の朝枝繁春少佐は小冊子『これだけ読めば戦は勝てる』を作って各分隊に配布した。これには「今度の敵は支那軍に比べると、将校は西洋人で下士官は大部分土人であるから、軍隊の上下の精神的団結は全く零だ。」「戦は勝ちだ。対手は支那兵以下の弱虫で、戦車も飛行機もがたがたの寄せ集めである。勝つにきまっているが、唯如何にしてじょうずに勝つかの問題だけだ。」などと温いことが書いてあった。
帝国のトップである大本営もいい加減だった。
すでに米英との戦争に突入していた1942年3月、大本営政府連絡会議でまとめられた『世界情勢判断』では、「米英の戦争遂行能力の総合的観察」として「米英国民は生活程度高く、これが低下はそのすこぶる苦痛とするところにして、戦勝の希望なき戦争継続は社会不安を醸成す。一般に士気の衰退を招来すべし」と述べ、米英両国は国内をまとめきれず、戦争継続が困難だろうと予想していた。
日米ともに相手を舐めて、いい加減な情勢判断を重ねた挙句、四年に及ぶ戦争に陥ったのである。
このような過去を考えれば、本作の日本人像の変わりようは感慨深い。
まず本作は、米国による長崎への原爆投下をしっかり描く。強烈な熱線と爆風、衝撃波で、街が一瞬にして灰燼と化す恐ろしさをまざまざと映し出す。
戦争中、長崎市幸町には捕虜収容所があった。原爆投下により連合軍兵士八名が犠牲になり、数十名が負傷、被爆した。映画の原爆投下地点と捕虜収容所の位置関係は現実と異なるものの、本作はこの史実を取り上げたのかもしれない。はたして、原爆のために連合軍兵士にも犠牲が出たことを、こんにちどれだけの日本人が知っているだろうか。
映画は青年将校の矢志田(ヤシダ)が原爆投下を前にして捕虜たちを逃がすところからはじまる。
収容所にはローガンことウルヴァリンも捕らわれており、爆発の瞬間矢志田とともに深い井戸の底に身を隠す。連合軍兵士と日本兵が助け合うことで命を取り留めるのである。
物語は戦争中の二人の交流から一転して現代に移り、ウルヴァリンは矢志田の孫・真理子と愛し合う。真理子は長崎の捕虜収容所の跡に立ち、ウルヴァリンと祖父が助け合ったことに触れて「井戸の中の出来事は世界平和の証明よ」と口にする。
本作は日本が舞台だから敵キャラクターもほとんど日本人だが、ここには出っ歯も釣り目もメガネもチビもいない。ウルヴァリンの好敵手たる者ばかりだ。
ウルヴァリンが風呂に入れられ、オバサンたちにゴシゴシこすられるのも意外性があって面白い。
日本の風呂の特徴といえば混浴であり、昭和30年代くらいまで混浴は珍しくなかった。1958年公開の駅前シリーズ第一作『駅前旅館』では、上野駅前の旅館の主(森繁久彌)が湯船に浸かっているところへ、ためらいもなく女性が入ってくるシーンがある。
黒船で来航したペリーは男女が平気で混浴する日本に驚いたそうだが、西洋人は混浴がよほど気になるのか、1980年の米国ドラマ『将軍 SHOGUN』ではリチャード・チェンバレン演じる主人公と島田陽子さん演じるヒロインまり子が一緒に風呂に入るのがちょっと見どころだったりした。
庶民の銭湯ならともかく、外国人が入浴中の内風呂にのこのこ入っていく武家の子女はいないと思うが、オリエンタリズムと興味本位でいっぱいの米国ドラマでは、日本といえば混浴シーンが欠かせなかったのだろう。
だから本作でのウルヴァリンの入浴にもてっきり美女がお付き合いするかと思ったら、オバサンたちが着衣のままデッキブラシでウルヴァリンをこするので笑ってしまった。
現在の日本では混浴を期待できないことがよく理解されている。
かつて日本人は片目をとじることができないと思われていた。
時を経れば、理解は進む。
これからも。
お互いに。
参考文献
半藤一利 (2001) 『[真珠湾]の日』 文藝春秋
ジェイムズ・ラスブリッジャー、エリック・ネイヴ (1991) 『真珠湾の裏切り チャーチルはいかにしてルーズヴェルトを第二次世界大戦に誘い込んだか』 文藝春秋
『ウルヴァリン:SAMURAI』 [あ行]
監督/ジェームズ・マンゴールド
出演/ヒュー・ジャックマン 真田広之 TAO 福島リラ ハル・ヤマノウチ ファムケ・ヤンセン スヴェトラーナ・コドチェンコワ ウィル・ユン・リー ブライアン・ティー
日本公開/2013年9月13日
ジャンル/[SF] [アクション]
http://bookmarks.yahoo.co.jp/bookmarklet/showpopup?t='+encodeURIComponent(document.title)+'&u='+encodeURIComponent(location.href)+'&ei=UTF-8','_blank','width=550,height=480,left=100,top=50,scrollbars=1,resizable=1',0);">
映画を作中の時系列で並べれば次のようになる。
『X-MEN:ファースト・ジェネレーション』 2011年公開
『ウルヴァリン: X-MEN ZERO』 2009年公開
『X-メン』 2000年公開
『X-MEN2』 2003年公開
『X-MEN: ファイナル ディシジョン』 2006年公開
『ウルヴァリン:SAMURAI』(本作) 2013年公開
(2014年に『X-MEN:フューチャー&パスト』が公開予定)
『X-MEN: ファイナル ディシジョン』のカタストロフィと、ウルヴァリンが背負った悲しみの大きさを知らないと、本作でウルヴァリンに告げられる「不老不死からの解放」という救いの意味がよく判らないかもしれない。
ともあれ、ミュータントがわらわら出てくる物語は『X-MEN: ファイナル ディシジョン』で一区切りついているから、本作はX-MENシリーズでありながらミュータントがあまり出ない。
代わりに映画を彩るのが、ニンジャ、サムライ、ヤクザだ。
これまでも当ブログで述べてきたように、ニンジャ、サムライ、ヤクザは日本発の三大コンテンツだ。黒澤明、深作欣二らの先達が築いてきたこれらコンテンツの力を今後も大いに活用すべきだと思うが、残念ながら本邦の大手映画会社はあまり積極的ではない。逆に外資系のワーナー・ブラザース映画が、『忍たま乱太郎』等のニンジャ物、『許されざる者』等のサムライ物、『アウトレイジ ビヨンド』等のヤクザ物に取り組んでいる状況だ。
たしかに現代の日本にニンジャ、サムライはいないし、ヤクザも社会の表立ったところにはいないから、日本国内ではあまり訴求力のないコンテンツと判断されるのかもしれない。
でも、せっかくのコンテンツを活かさないとは、なんとももったいないことだ。
そんな日本を尻目に、ニンジャ、サムライ、ヤクザを全部盛り込んだのが『ウルヴァリン:SAMURAI』だ。その上、不死身のミュータントの苦悩とアクション、日米の歴史的経緯への振り返りまで詰め込んで、豪華なフルコースになっている。
もちろん買い被りもいいところではある。真田広之さん演じるサムライは、X-MENチーム最強のミュータントであるウルヴァリンをぐいぐい追いつめるし、一介のヤクザですらウルヴァリンを手こずらせる。
日本の庶民は身の回りを見て、そんなサムライもヤクザもいないよ、と思うかもしれないが、そう卑下してはいけない。ここでイメージされているのは、たとえば三船敏郎演じる剣豪や菅原文太演じる極道なのだ。そう考えれば、ウルヴァリンにとって彼らがいかに強敵かが判るだろう。
ジェームズ・マンゴールド監督は本作が影響を受けた映画として、時代劇の『十三人の刺客』とアカデミー賞を受賞した稲垣浩監督の『宮本武蔵』三部作、西部劇の『シェーン』と『アウトロー』、犯罪映画の『フレンチ・コネクション』と『チャイナタウン』、ドラマの『黒水仙』と『浮草』『恋する惑星』『ブエノスアイレス』を挙げている。
なるほど、三船敏郎さんの宮本武蔵が念頭にあったとすると、アダマンチウムの刀は櫂を削った木刀に相当するのかもしれない。
また、日本を取り上げた外国映画には、日本人の気付かない日本を発見できるが楽しさがある。日本人にとっては当たり前なものが、実は外国人に強くアピールする面白さ。
たとえばヴィム・ヴェンダース監督のドキュメンタリー『東京画』では、飲食店の店頭にある模型の食品サンプルを延々と映していた。ヴィム・ヴェンダース監督には興味深いものだったらしい。普段見慣れている私たちはたいして気にしないけれど、注文の前に料理の完成形を見られるのはたしかにありがたいことだ。
中国には店頭に食材を並べるレストランがある。だが、中国語のメニューが読めず、そもそも料理名も知らない外国人には生の野菜を見てもどんな料理かサッパリ判らない。完成形のミニチュアを見て選べればいいのに。そんなことを考えて、日本の飲食店の良さに気付く。
日本を訪れた外国人観光客は吉野家の看板を写真に撮りたがるという。橙色と黒の鮮やかなコントラスト、漢字をでかでかとあしらったデザインに、日本独特の雰囲気を感じるらしい。
私たちは吉野家の看板を目にしても牛丼のことしか考えないが、云われてみれば歌舞伎座の垂れ幕に通じるユニークなデザインだ。
日本を扱った外国映画は、そんな日本人が見落としがちなものや、日本人が気にも留めないものに脚光を当てるから面白い。
本作で目を引くのは、ウルヴァリンが泊まるラブホテルだろう。
日本人はSFアクションの世界とラブホテルの世界をなんとなく別物のように思っているが、考えてみればあれこれ詮索されずに泊まるには、一般の旅館やホテルよりラブホテルの方が都合が良い。なのに、「ラブホテルの円形ベッドにたたずむスーパーヒーロー」という構図を物凄く奇異に感じてしまう。
私たちが無意識のうちに抱いている「スーパーヒーローはラブホテルにしけこんだりしない」という思い込みを、本作は木っ端微塵にぶち壊す。その爽快さを楽しめるか、鼻白むかで、本作の好き嫌いが分かれるかもしれない。
ウルヴァリンがニンジャ軍団と戦う場所が、まるで白川郷か大内宿のような古い家並みなのもいかしてる。
今も日本にはこんな町があるのだが、多くは重要伝統的建造物群保存地区に選定されたり観光地化しており、日本人には戦闘の舞台として思い浮かべにくい。
これも意表を突いたシチュエーションだ。
買い被りが多いのはこそばゆい。
劇中に登場する新幹線にはパンタグラフがなく、時速500kmと話しているからリニア新幹線かもしれないが、日本にリニア新幹線が開通するのはまだ先の話だ。
日本企業の強大さはバブル時代を髣髴とさせる。原作マンガが1982年に描かれたからではないだろうが、この企業イメージは、皇居の地価がカリフォルニア州と同じで、東京の不動産を担保にすればアメリカ全土が買えるといわれたあの時代の残影かもしれない。
劇中の地理にはいささかデタラメがある。一般人が港区の増上寺から台東区の上野駅まで一気に駆け抜けるのは無理だろう。長崎行きのバスに乗ったら『崖の上のポニョ』の舞台に着いてしまうのもおかしい。
とはいえ、こんなデタラメは邦画でも日常茶飯事だ。邦画を観てると、都心を歩く人が一瞬後には郊外にいたり、直進しているクルマが実は同じ道を行ったり来たりしていることがある。
地元民も観るんだからもう少し辻褄を合せて欲しいと思うが、邦画の中の人物は瞬間移動を繰り返している。
それを考えれば、本作のような外国映画での多少のフィクションは許されるだろう。
それどころか地理的な整合を犠牲にしてでもその場所、その景色をカメラに収めたいという作り手の貪欲さに、感心するばかりだ。
剣道場を畳敷きにしようとするスタッフを止めて、剣道場の床は板張りであることを教えた真田広之さんら日本人関係者の貢献もあろう。
それにしても、米国人の目に映る日本人像は変わったものだ。
米国映画に登場する日本人キャラクターとして有名なのは、『ティファニーで朝食を』のユニオシだろう。洋画家の国吉康雄氏がモデルといわれるこのキャラクターは、出っ歯で釣り目でメガネをかけた社交性ゼロのチビであり、かつての日本人のイメージを象徴していた。つまり、外見的にも人間的にも良いところが全然なかった。
『ティファニーで朝食を』の公開は1961年。第二次世界大戦の終結から16年しか経っていない。
第二次世界大戦当時は、米国人は日本人をひどく見下していた。人間扱いしていなかったとすらいえる。
開戦前夜、「アメリカ人もイギリス人も日本人のことをチビで出っ歯で眼鏡をかけた黄色んぼで、世界中で見たものは何でもメモを取ったり写真を撮ったりして、国へ帰って二流の類似品を作ろうとする連中と見下していた」という。
米国の軍事専門家によれば、日本海軍の軍艦はイギリスの軍艦を真似た劣悪なコピーに過ぎず、艦砲射撃をすると転覆するおそれがあった。日本人は片目をとじることができないので、正確な射撃はできないと云われていた。
ルーズベルト大統領は、日本のパイロットはすべて近眼で、常に敵に先に発見されてしまうので撃墜は容易だと信じていた。ルーズベルト大統領もマーシャル参謀総長も、米国人一人は日本人五人に相当し、たとえ日本が奇襲攻撃を仕掛けてもたいした損害を受けることなしに撃退できる、といつも語っていたという。
米国世論も同様だった。米国の空母二隻もあれば日本国内の交通を数ヶ月途絶させることができると云われていた。フィリピンやシベリアの基地から空襲すれば、日本軍は数週間で壊滅するとも。
米国は一ヶ月に1,500機の飛行機を生産できるが、日本は一年に250機足らず。しかも高オクタンのガソリンが欠乏しているし、飛行学校は一年に100名を卒業させているにすぎない。日本との戦争が起こっても、アメリカは容易に勝てる。戦闘は六ヶ月で終わり、そのあと全軍をヨーロッパの戦場に回すことが可能である、と考えられていた。
実際のところ、1941年12月の段階で日本の戦闘機の生産は月に400機を上回っていたが、米軍当局ですらこれを200機がやっとと見積もっていた。
米国は日本を見下し、舐めきっていた。
もっとも、相手を見下し、舐めていた点では大日本帝国もお互い様だ。
日米開戦の前、第25軍作戦主任参謀の辻政信中佐と作戦参謀の朝枝繁春少佐は小冊子『これだけ読めば戦は勝てる』を作って各分隊に配布した。これには「今度の敵は支那軍に比べると、将校は西洋人で下士官は大部分土人であるから、軍隊の上下の精神的団結は全く零だ。」「戦は勝ちだ。対手は支那兵以下の弱虫で、戦車も飛行機もがたがたの寄せ集めである。勝つにきまっているが、唯如何にしてじょうずに勝つかの問題だけだ。」などと温いことが書いてあった。
帝国のトップである大本営もいい加減だった。
すでに米英との戦争に突入していた1942年3月、大本営政府連絡会議でまとめられた『世界情勢判断』では、「米英の戦争遂行能力の総合的観察」として「米英国民は生活程度高く、これが低下はそのすこぶる苦痛とするところにして、戦勝の希望なき戦争継続は社会不安を醸成す。一般に士気の衰退を招来すべし」と述べ、米英両国は国内をまとめきれず、戦争継続が困難だろうと予想していた。
日米ともに相手を舐めて、いい加減な情勢判断を重ねた挙句、四年に及ぶ戦争に陥ったのである。
このような過去を考えれば、本作の日本人像の変わりようは感慨深い。
まず本作は、米国による長崎への原爆投下をしっかり描く。強烈な熱線と爆風、衝撃波で、街が一瞬にして灰燼と化す恐ろしさをまざまざと映し出す。
戦争中、長崎市幸町には捕虜収容所があった。原爆投下により連合軍兵士八名が犠牲になり、数十名が負傷、被爆した。映画の原爆投下地点と捕虜収容所の位置関係は現実と異なるものの、本作はこの史実を取り上げたのかもしれない。はたして、原爆のために連合軍兵士にも犠牲が出たことを、こんにちどれだけの日本人が知っているだろうか。
映画は青年将校の矢志田(ヤシダ)が原爆投下を前にして捕虜たちを逃がすところからはじまる。
収容所にはローガンことウルヴァリンも捕らわれており、爆発の瞬間矢志田とともに深い井戸の底に身を隠す。連合軍兵士と日本兵が助け合うことで命を取り留めるのである。
物語は戦争中の二人の交流から一転して現代に移り、ウルヴァリンは矢志田の孫・真理子と愛し合う。真理子は長崎の捕虜収容所の跡に立ち、ウルヴァリンと祖父が助け合ったことに触れて「井戸の中の出来事は世界平和の証明よ」と口にする。
本作は日本が舞台だから敵キャラクターもほとんど日本人だが、ここには出っ歯も釣り目もメガネもチビもいない。ウルヴァリンの好敵手たる者ばかりだ。
ウルヴァリンが風呂に入れられ、オバサンたちにゴシゴシこすられるのも意外性があって面白い。
日本の風呂の特徴といえば混浴であり、昭和30年代くらいまで混浴は珍しくなかった。1958年公開の駅前シリーズ第一作『駅前旅館』では、上野駅前の旅館の主(森繁久彌)が湯船に浸かっているところへ、ためらいもなく女性が入ってくるシーンがある。
黒船で来航したペリーは男女が平気で混浴する日本に驚いたそうだが、西洋人は混浴がよほど気になるのか、1980年の米国ドラマ『将軍 SHOGUN』ではリチャード・チェンバレン演じる主人公と島田陽子さん演じるヒロインまり子が一緒に風呂に入るのがちょっと見どころだったりした。
庶民の銭湯ならともかく、外国人が入浴中の内風呂にのこのこ入っていく武家の子女はいないと思うが、オリエンタリズムと興味本位でいっぱいの米国ドラマでは、日本といえば混浴シーンが欠かせなかったのだろう。
だから本作でのウルヴァリンの入浴にもてっきり美女がお付き合いするかと思ったら、オバサンたちが着衣のままデッキブラシでウルヴァリンをこするので笑ってしまった。
現在の日本では混浴を期待できないことがよく理解されている。
かつて日本人は片目をとじることができないと思われていた。
時を経れば、理解は進む。
これからも。
お互いに。
参考文献
半藤一利 (2001) 『[真珠湾]の日』 文藝春秋
ジェイムズ・ラスブリッジャー、エリック・ネイヴ (1991) 『真珠湾の裏切り チャーチルはいかにしてルーズヴェルトを第二次世界大戦に誘い込んだか』 文藝春秋
![ウルヴァリン:SAMURAI 4枚組コレクターズ・エディション (初回生産限定) [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/51rAULzI6sL._SL160_.jpg)
監督/ジェームズ・マンゴールド
出演/ヒュー・ジャックマン 真田広之 TAO 福島リラ ハル・ヤマノウチ ファムケ・ヤンセン スヴェトラーナ・コドチェンコワ ウィル・ユン・リー ブライアン・ティー
日本公開/2013年9月13日
ジャンル/[SF] [アクション]


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【theme : 特撮・SF・ファンタジー映画】
【genre : 映画】
tag : ジェームズ・マンゴールドヒュー・ジャックマン真田広之TAO福島リラハル・ヤマノウチファムケ・ヤンセンスヴェトラーナ・コドチェンコワウィル・ユン・リーブライアン・ティー
『謝罪の王様』 ごめんなさい!
【ネタバレ注意】
映画がはじまってすぐに、私は拍手したい気持ちになった。
常々、映画を作るからには是非やって欲しいことがあった。
今はどこの映画館でも映画の前にマナー広告を上映する。曰く、上映中はお静かに、前の席を蹴らない、携帯電話の電源はオフ、マナーモードでも振動や点滅が迷惑になります等々、観客の一人ひとりがとうぜん守るべきマナーについて注意を喚起する。
ところが、マナー違反をする人は往々にしてマナー広告を見ていない。本編開始ギリギリにポップコーンを抱えてきて、ボリボリくちゃくちゃ物音を立てはじめる。
だから、注意喚起は映画本編の中でやった方が良い。私はそう考えていた。本編にいかに無理なくマナー広告を織り込むか、それも作り手の腕の見せ所だと。
『謝罪の王様』がこれをやってくれたのを観て、私は大いに感心した。
本作は映画館で上映される東京謝罪センターの広告からはじまる。劇中のスクリーンには東京謝罪センター所長の黒島譲が映し出され、劇中の観客が座る椅子の背もたれには、「お喋り禁止」等のマークがあしらわれている。次々に登場するマークを観ていると、場内にケータイの着信音が鳴り響き、客の一人がポップコーンを床にぶちまけてしまう。こんなみっともない状況で周囲の怒りをなだめるためにするべきこと、それが謝罪だ。
見事なオープニングである。
映画のスタイルと、上映中のマナーについて一瞬にして観客に理解させるオープニング。私は本作が素晴らしい映画であると確信した。
しかも題材がいかしている。
「そもそも謝罪会見にリハーサルは必要なのかとか、誰が何秒頭を下げたとか。日々感じる違和感を笑いに仕立てる視線は、さすが宮藤さんだと思います」
そう語るのは、主人公黒島譲を演じる阿部サダヲさんだ。[*]
しばしばテレビや新聞紙上をにぎわす謝罪会見。その奇妙な「儀式」に目を付けるとはまことに上手い。
本作は宮藤官九郎氏の脚本にしては珍しい風刺物だ。公式サイトによれば、『なくもんか』の次なる題材を検討する中で、水田伸生監督が宮藤官九郎氏に風刺喜劇を提案したという。
社会にはさまざまな対立軸があるけれど、人間関係を謝罪する側とされる側として切り取った本作は、謝罪の場だからこそ表れる人となりを浮き彫りにしている。
物語の構成も気持ちが良い。
本作はオムニバス形式であり、六つのエピソードからなっている。
CASE1 倉持典子
CASE2 沼田卓也
CASE3 南部哲郎/壇乃はる香
CASE4 箕輪正臣
CASE5 和田耕作
CASE6 黒島譲
ところが単純なオムニバスではなく、それぞれのエピソードが絶妙に絡み合い、後々への伏線になっており、意外性に富んだ精緻な職人芸を見せてくれる。
はじめのうちこそ謝罪師・黒島譲の面白おかしい謝罪テクニックに笑ってしまうが、そのうちテクニックなんて関係なく誠心誠意謝る話や、表立った謝罪がない話が挟まって、徐々に物語のスケールが大きくなっていく。
そして気付くのは、本作の主眼が謝罪ではなく、赦しにあるということだ。
黒島は云う。謝罪を求めている人は、引っ込みがつかなくなっているだけで、赦すタイミングが欲しいのだと。もしかしたら謝罪の相手の方が、自分に非があったと気に病んでいるかもしれない。
テレビを点ければ、「世間をお騒がせして申し訳ございません」と頭を垂れる有名人を目にすることがあるけれど、テレビカメラに謝っても視聴者が溜飲を下げるだけだ。本当に詫びるべき相手は別にいる。
本作は大失態を演じて謝罪する破目に陥った人に突っ込みを入れつつ、タイミングを逸して赦せなくなっている人や、当事者でもないのに尻馬に乗って非難している無責任な外野たちをもひっくるめて風刺する。
ここから浮かび上がってくるのは、人間同士のコミュニケーションの何たるかだ。
結局のところ謝罪とはテクニックを駆使するものではなく、相手の事情を汲みとって、言葉を尽くす気持ちなのだ。
その大きなテーマを、本作は二重三重の笑いのオブラートにくるんで難なく観客に飲み込ませる。
映画を観終えた後、観客誰もが清々しい気持ちで劇場を後にするだろう。
この愉快で楽しい映画に大挙して出演している豪華キャストも見どころだ。
出番の少ない役ですら個性的な俳優がテンションを目いっぱい上げて演じており、映画全編目が離せない。
加えて、最後はインド映画のように歌って踊る抜群に楽しい群舞も付いている。
インド映画以上にポップで、お洒落で、かわいいエンディングは、実に日本らしい締めくくりといえるだろう。
土下座を日本の伝統的謝罪法と説明することからはじまる本作は、自己主張よりも謝罪を好むのが日本人であることを紹介し、『攻殻機動隊』に狂喜して「押井守、神!」と叫ぶ外国人を登場させることで現代日本を象徴するキーワード「オタク」を取り上げ、やはり日本発のキーワード「カワイイ」まで網羅する。
本作は緩い笑いを散りばめたコメディであると同時に、挨拶代わりに「すみません」と謝る日本の文化を総括する作品なのだ。
海外の映画祭からオファーが殺到しているのもさもありなん。こんな映画は他の国じゃ作れない。
でも、日本を誤解させたらごめんなさい!
[*] 読売新聞 2013年9月27日 夕刊
『謝罪の王様』 [さ行]
監督/水田伸生 脚本/宮藤官九郎
出演/阿部サダヲ 井上真央 竹野内豊 岡田将生 高橋克実 松雪泰子 尾野真千子 濱田岳 荒川良々 松本利夫 川口春奈 鈴木伸之 美波
日本公開/2013年9月28日
ジャンル/[コメディ]
http://bookmarks.yahoo.co.jp/bookmarklet/showpopup?t='+encodeURIComponent(document.title)+'&u='+encodeURIComponent(location.href)+'&ei=UTF-8','_blank','width=550,height=480,left=100,top=50,scrollbars=1,resizable=1',0);">
映画がはじまってすぐに、私は拍手したい気持ちになった。
常々、映画を作るからには是非やって欲しいことがあった。
今はどこの映画館でも映画の前にマナー広告を上映する。曰く、上映中はお静かに、前の席を蹴らない、携帯電話の電源はオフ、マナーモードでも振動や点滅が迷惑になります等々、観客の一人ひとりがとうぜん守るべきマナーについて注意を喚起する。
ところが、マナー違反をする人は往々にしてマナー広告を見ていない。本編開始ギリギリにポップコーンを抱えてきて、ボリボリくちゃくちゃ物音を立てはじめる。
だから、注意喚起は映画本編の中でやった方が良い。私はそう考えていた。本編にいかに無理なくマナー広告を織り込むか、それも作り手の腕の見せ所だと。
『謝罪の王様』がこれをやってくれたのを観て、私は大いに感心した。
本作は映画館で上映される東京謝罪センターの広告からはじまる。劇中のスクリーンには東京謝罪センター所長の黒島譲が映し出され、劇中の観客が座る椅子の背もたれには、「お喋り禁止」等のマークがあしらわれている。次々に登場するマークを観ていると、場内にケータイの着信音が鳴り響き、客の一人がポップコーンを床にぶちまけてしまう。こんなみっともない状況で周囲の怒りをなだめるためにするべきこと、それが謝罪だ。
見事なオープニングである。
映画のスタイルと、上映中のマナーについて一瞬にして観客に理解させるオープニング。私は本作が素晴らしい映画であると確信した。
しかも題材がいかしている。
「そもそも謝罪会見にリハーサルは必要なのかとか、誰が何秒頭を下げたとか。日々感じる違和感を笑いに仕立てる視線は、さすが宮藤さんだと思います」
そう語るのは、主人公黒島譲を演じる阿部サダヲさんだ。[*]
しばしばテレビや新聞紙上をにぎわす謝罪会見。その奇妙な「儀式」に目を付けるとはまことに上手い。
本作は宮藤官九郎氏の脚本にしては珍しい風刺物だ。公式サイトによれば、『なくもんか』の次なる題材を検討する中で、水田伸生監督が宮藤官九郎氏に風刺喜劇を提案したという。
社会にはさまざまな対立軸があるけれど、人間関係を謝罪する側とされる側として切り取った本作は、謝罪の場だからこそ表れる人となりを浮き彫りにしている。
物語の構成も気持ちが良い。
本作はオムニバス形式であり、六つのエピソードからなっている。
CASE1 倉持典子
CASE2 沼田卓也
CASE3 南部哲郎/壇乃はる香
CASE4 箕輪正臣
CASE5 和田耕作
CASE6 黒島譲
ところが単純なオムニバスではなく、それぞれのエピソードが絶妙に絡み合い、後々への伏線になっており、意外性に富んだ精緻な職人芸を見せてくれる。
はじめのうちこそ謝罪師・黒島譲の面白おかしい謝罪テクニックに笑ってしまうが、そのうちテクニックなんて関係なく誠心誠意謝る話や、表立った謝罪がない話が挟まって、徐々に物語のスケールが大きくなっていく。
そして気付くのは、本作の主眼が謝罪ではなく、赦しにあるということだ。
黒島は云う。謝罪を求めている人は、引っ込みがつかなくなっているだけで、赦すタイミングが欲しいのだと。もしかしたら謝罪の相手の方が、自分に非があったと気に病んでいるかもしれない。
テレビを点ければ、「世間をお騒がせして申し訳ございません」と頭を垂れる有名人を目にすることがあるけれど、テレビカメラに謝っても視聴者が溜飲を下げるだけだ。本当に詫びるべき相手は別にいる。
本作は大失態を演じて謝罪する破目に陥った人に突っ込みを入れつつ、タイミングを逸して赦せなくなっている人や、当事者でもないのに尻馬に乗って非難している無責任な外野たちをもひっくるめて風刺する。
ここから浮かび上がってくるのは、人間同士のコミュニケーションの何たるかだ。
結局のところ謝罪とはテクニックを駆使するものではなく、相手の事情を汲みとって、言葉を尽くす気持ちなのだ。
その大きなテーマを、本作は二重三重の笑いのオブラートにくるんで難なく観客に飲み込ませる。
映画を観終えた後、観客誰もが清々しい気持ちで劇場を後にするだろう。
この愉快で楽しい映画に大挙して出演している豪華キャストも見どころだ。
出番の少ない役ですら個性的な俳優がテンションを目いっぱい上げて演じており、映画全編目が離せない。
加えて、最後はインド映画のように歌って踊る抜群に楽しい群舞も付いている。
インド映画以上にポップで、お洒落で、かわいいエンディングは、実に日本らしい締めくくりといえるだろう。
土下座を日本の伝統的謝罪法と説明することからはじまる本作は、自己主張よりも謝罪を好むのが日本人であることを紹介し、『攻殻機動隊』に狂喜して「押井守、神!」と叫ぶ外国人を登場させることで現代日本を象徴するキーワード「オタク」を取り上げ、やはり日本発のキーワード「カワイイ」まで網羅する。
本作は緩い笑いを散りばめたコメディであると同時に、挨拶代わりに「すみません」と謝る日本の文化を総括する作品なのだ。
海外の映画祭からオファーが殺到しているのもさもありなん。こんな映画は他の国じゃ作れない。
でも、日本を誤解させたらごめんなさい!
[*] 読売新聞 2013年9月27日 夕刊
![謝罪の王様 [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/51znRrGW4tL._SL160_.jpg)
監督/水田伸生 脚本/宮藤官九郎
出演/阿部サダヲ 井上真央 竹野内豊 岡田将生 高橋克実 松雪泰子 尾野真千子 濱田岳 荒川良々 松本利夫 川口春奈 鈴木伸之 美波
日本公開/2013年9月28日
ジャンル/[コメディ]

