『そして父になる』 血か情か?
かつて社会問題になるほど頻発した「赤ちゃん取り違え事件」。
『そして父になる』は1977年に発覚した事件を参考にしつつ、赤ちゃんを取り違えられてしまった二家族の苦悩を描く。
現実に取り違えられた二人の女の子がたどった人生は、奥野修司氏が『ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年』に著している。
だが、映画の公開時点で42歳になる彼女たちには、今の生活がありこれからの人生もある。関係者への配慮でもあろう、映画は現実と異なる設定にした上で、センセーショナルな取り上げ方を避けてきわめて慎重に事件を描いている。
また、現実の事件を題材にしながら実際とは異なる内容にしたのは、是枝裕和監督の「現実への異議申し立て」でもあると思う。
巣鴨子供置き去り事件をモチーフにした2004年の映画『誰も知らない』では、現実には警察が踏み込んで幕引きとなった子供だけの生活を、いつまでも続くものとして描いていた。そうすることで親や大人たちの無関心をより一層強調し、子供には子供の考えがあることを浮き彫りにした。
1977年に発覚した赤ちゃん取り違え事件では、二組の両親が苦悩の末に子供の交換を決断する。こうして二人の子供は六歳を境に別の家の子として育てられた。それが彼女たちにとって幸せだったかどうか、そもそも幸せとは何なのか、他人が軽々しく口にできることではない。
ただ、是枝監督は取り違えが発覚したときの親の思い、子供の思いを丁寧に綴ることで、私たち観客を事件の場に立ち会わせる。子供を交換するか否か、その選択を前にして、観客に家族とは何か、親とは何かを問いかける。
『そして父になる』を観て、身につまされる人も多いだろう。
福山雅治さんが演じる主人公野々宮良多(ののみや りょうた)は建設会社のエリート社員。家族と過ごす時間をほとんど取らず、仕事漬けの毎日を送っている。
私は最初、前文を「家族と過ごす時間をほとんど取*れ*ず」と書いたのだが、そうではないだろう。良多は時間を取れないのではなく、時間を取らず、仕事の過酷さに陶酔している。
ある編集者は、その気持ちを次のように述べている。
---
日本の会社員に広く当てはまると思うんですが、みんな「そうはいっても一番働いているのはオレだぞ」と思いたいんですね。それで、作家から、あるいは取引先からどれほどひどい目に遭ったか、そのせいでどれだけ苦労をしたか、という話を、オレ様自慢として人にしてしまう。
---
無理している人のほうが偉い、みたいな思いを抱く人は多いだろう。
けれども、世の中は何ごともトレードオフだから、一つのことに打ち込めば他方は疎かになる。私の知り合いには、長い出張から帰ったら子供に「おじさん」と呼ばれた人がいる。子供との距離を縮められない主人公の姿を、他人事とは思えない人もいるだろう。
是枝監督も本作をして「自分の日常を振り返る部分が、他の作品に比べると多かったと思います。(略)ちょっと主人公に自分を重ねすぎて、エピソードも含め実体験を重ねちゃった」と語っている。
息子のお受験に成功し、みずからの仕事も順風満帆の良多が直面するのは、赤ちゃんの取り違えの相手、斎木夫妻だ。斎木家は野々宮家とは何もかも反対で、特にリリー・フランキーさんが演じる斎木雄大は、良多とはまったく違うタイプの人物だ。
是枝監督は精緻な計算の下、両者の人物像を作り上げた。
「リリーさんが演じた父親の在り方は、野々宮のような人が、自分の血を分けた子供がどんな父に育てられたら嫌だと思うだろうか、と考えて導き出しました。野々宮が両方の子供を引き取るという傲慢な考えに至るので、そういう相手にしようと思ったんです。まずは野々宮からすれば軽蔑の対象であるという人物にしたいと。」
子供の取り違えを知った斎木夫妻は、まず病院から慰謝料をせしめようと考える卑しい人間だ。お受験どころか子供のしつけもちゃんとしておらず、子供は箸もまともに使えない。高級マンションに住み、子供の教育にふんだんに金を使ってきた野々宮家とは大違いだ。
「でも段々、斎木の方が父親としては自分より上だと感じるようになり、嫉妬し、その結果どんどん孤立していく。そんな追いつめられていく男を演じる、福山さんを見てみたいと考えました。」
エリートコースをひた走り、子供と過ごす時間も取れない良多。
裕福ではなくても、子供のオモチャを直したり、子供と遊ぶのを楽しんでいる斎木雄大。
いつしか子供は二人とも斎木雄大になついていく。
それと同時に、良多は自分のやっていることが、距離を置いていた父にそっくりであることも自覚していく。
これまでも是枝監督は家族をテーマにしてきた。
育児放棄を取り上げた『誰も知らない』(2004年)、親子のあいだの距離感を描いた『歩いても 歩いても』(2008年)、バラバラになった家族を追った『奇跡』(2011年)、自分が知らない親や子の一面に触れてうろたえる中年男を描いたテレビドラマ『ゴーイング マイ ホーム』(2012年)。
これらの作品を通して、是枝監督は常に家族とは何か、親とは何かを問い続けてきた。
特に中年男を主人公にした三作、すなわち横山良多が主人公の『歩いても 歩いても』と坪井良多が主人公の『ゴーイング マイ ホーム』と野々宮良多が主人公の本作は、小津安二郎監督の代表作『晩春』『麦秋』『東京物語』が主人公の名を取って「紀子三部作」と呼ばれるように、是枝裕和監督の「良多三部作」と呼ぶべき作品だ。
是枝監督は、「自分の近いところにあるものを描くときは、登場人物の名前を"良多"にしている」という。
2013年で51歳になった是枝監督は、本作を撮ることで人の子である自分と親になった自分とを改めて見つめ直したのだろう。
血が繋がっているから父親だ。
そう考えて血の繋がりの上にあぐらをかいていた野々宮良多は、やがて血の繋がりでしか父であることを示せていなかったことに気付く。
六年間育てた息子は、自分の血を分けた子供じゃなかった。だったら交換するべきなのか。
良多にはもう結論が出ている。
そして、良多は父になる。
『そして父になる』 [さ行]
監督・脚本・編集/是枝裕和
出演/福山雅治 尾野真千子 真木よう子 リリー・フランキー 樹木希林 夏八木勲 國村隼 風吹ジュン 中村ゆり 高橋和也 田中哲司 井浦新 二宮慶多 黄升炫 大河内浩
日本公開/2013年9月28日
ジャンル/[ドラマ]
http://bookmarks.yahoo.co.jp/bookmarklet/showpopup?t='+encodeURIComponent(document.title)+'&u='+encodeURIComponent(location.href)+'&ei=UTF-8','_blank','width=550,height=480,left=100,top=50,scrollbars=1,resizable=1',0);">
『そして父になる』は1977年に発覚した事件を参考にしつつ、赤ちゃんを取り違えられてしまった二家族の苦悩を描く。
現実に取り違えられた二人の女の子がたどった人生は、奥野修司氏が『ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年』に著している。
だが、映画の公開時点で42歳になる彼女たちには、今の生活がありこれからの人生もある。関係者への配慮でもあろう、映画は現実と異なる設定にした上で、センセーショナルな取り上げ方を避けてきわめて慎重に事件を描いている。
また、現実の事件を題材にしながら実際とは異なる内容にしたのは、是枝裕和監督の「現実への異議申し立て」でもあると思う。
巣鴨子供置き去り事件をモチーフにした2004年の映画『誰も知らない』では、現実には警察が踏み込んで幕引きとなった子供だけの生活を、いつまでも続くものとして描いていた。そうすることで親や大人たちの無関心をより一層強調し、子供には子供の考えがあることを浮き彫りにした。
1977年に発覚した赤ちゃん取り違え事件では、二組の両親が苦悩の末に子供の交換を決断する。こうして二人の子供は六歳を境に別の家の子として育てられた。それが彼女たちにとって幸せだったかどうか、そもそも幸せとは何なのか、他人が軽々しく口にできることではない。
ただ、是枝監督は取り違えが発覚したときの親の思い、子供の思いを丁寧に綴ることで、私たち観客を事件の場に立ち会わせる。子供を交換するか否か、その選択を前にして、観客に家族とは何か、親とは何かを問いかける。
『そして父になる』を観て、身につまされる人も多いだろう。
福山雅治さんが演じる主人公野々宮良多(ののみや りょうた)は建設会社のエリート社員。家族と過ごす時間をほとんど取らず、仕事漬けの毎日を送っている。
私は最初、前文を「家族と過ごす時間をほとんど取*れ*ず」と書いたのだが、そうではないだろう。良多は時間を取れないのではなく、時間を取らず、仕事の過酷さに陶酔している。
ある編集者は、その気持ちを次のように述べている。
---
日本の会社員に広く当てはまると思うんですが、みんな「そうはいっても一番働いているのはオレだぞ」と思いたいんですね。それで、作家から、あるいは取引先からどれほどひどい目に遭ったか、そのせいでどれだけ苦労をしたか、という話を、オレ様自慢として人にしてしまう。
---
無理している人のほうが偉い、みたいな思いを抱く人は多いだろう。
けれども、世の中は何ごともトレードオフだから、一つのことに打ち込めば他方は疎かになる。私の知り合いには、長い出張から帰ったら子供に「おじさん」と呼ばれた人がいる。子供との距離を縮められない主人公の姿を、他人事とは思えない人もいるだろう。
是枝監督も本作をして「自分の日常を振り返る部分が、他の作品に比べると多かったと思います。(略)ちょっと主人公に自分を重ねすぎて、エピソードも含め実体験を重ねちゃった」と語っている。
息子のお受験に成功し、みずからの仕事も順風満帆の良多が直面するのは、赤ちゃんの取り違えの相手、斎木夫妻だ。斎木家は野々宮家とは何もかも反対で、特にリリー・フランキーさんが演じる斎木雄大は、良多とはまったく違うタイプの人物だ。
是枝監督は精緻な計算の下、両者の人物像を作り上げた。
「リリーさんが演じた父親の在り方は、野々宮のような人が、自分の血を分けた子供がどんな父に育てられたら嫌だと思うだろうか、と考えて導き出しました。野々宮が両方の子供を引き取るという傲慢な考えに至るので、そういう相手にしようと思ったんです。まずは野々宮からすれば軽蔑の対象であるという人物にしたいと。」
子供の取り違えを知った斎木夫妻は、まず病院から慰謝料をせしめようと考える卑しい人間だ。お受験どころか子供のしつけもちゃんとしておらず、子供は箸もまともに使えない。高級マンションに住み、子供の教育にふんだんに金を使ってきた野々宮家とは大違いだ。
「でも段々、斎木の方が父親としては自分より上だと感じるようになり、嫉妬し、その結果どんどん孤立していく。そんな追いつめられていく男を演じる、福山さんを見てみたいと考えました。」
エリートコースをひた走り、子供と過ごす時間も取れない良多。
裕福ではなくても、子供のオモチャを直したり、子供と遊ぶのを楽しんでいる斎木雄大。
いつしか子供は二人とも斎木雄大になついていく。
それと同時に、良多は自分のやっていることが、距離を置いていた父にそっくりであることも自覚していく。
これまでも是枝監督は家族をテーマにしてきた。
育児放棄を取り上げた『誰も知らない』(2004年)、親子のあいだの距離感を描いた『歩いても 歩いても』(2008年)、バラバラになった家族を追った『奇跡』(2011年)、自分が知らない親や子の一面に触れてうろたえる中年男を描いたテレビドラマ『ゴーイング マイ ホーム』(2012年)。
これらの作品を通して、是枝監督は常に家族とは何か、親とは何かを問い続けてきた。
特に中年男を主人公にした三作、すなわち横山良多が主人公の『歩いても 歩いても』と坪井良多が主人公の『ゴーイング マイ ホーム』と野々宮良多が主人公の本作は、小津安二郎監督の代表作『晩春』『麦秋』『東京物語』が主人公の名を取って「紀子三部作」と呼ばれるように、是枝裕和監督の「良多三部作」と呼ぶべき作品だ。
是枝監督は、「自分の近いところにあるものを描くときは、登場人物の名前を"良多"にしている」という。
2013年で51歳になった是枝監督は、本作を撮ることで人の子である自分と親になった自分とを改めて見つめ直したのだろう。
血が繋がっているから父親だ。
そう考えて血の繋がりの上にあぐらをかいていた野々宮良多は、やがて血の繋がりでしか父であることを示せていなかったことに気付く。
六年間育てた息子は、自分の血を分けた子供じゃなかった。だったら交換するべきなのか。
良多にはもう結論が出ている。
そして、良多は父になる。

監督・脚本・編集/是枝裕和
出演/福山雅治 尾野真千子 真木よう子 リリー・フランキー 樹木希林 夏八木勲 國村隼 風吹ジュン 中村ゆり 高橋和也 田中哲司 井浦新 二宮慶多 黄升炫 大河内浩
日本公開/2013年9月28日
ジャンル/[ドラマ]


『怪盗グルーのミニオン危機一発』 すべてを引っくり返すラスト
【ネタバレ注意】
数ある007映画の中でも、特別に好きなのが『007/カジノ・ロワイヤル』だ。
といっても、2006年に公開されたダニエル・クレイグ主演の映画ではない。大勢の007がバカ騒ぎする1967年版の方だ。007のパロディというよりも『電撃フリント』のバカバカしさに近いこの映画は、そのしっちゃかめっちゃかな混乱ぶりや、本家をしのぐ豪華キャストとサイケデリックな雰囲気で、60年代らしい奔放さに溢れている。
とりわけ、バート・バカラックが作曲し、ハーブ・アルパート&ティファナ・ブラスが参加したサントラは名盤中の名盤だ。
その『007/カジノ・ロワイヤル』の敵役はドクター・ノオならぬドクター・ノア。ウディ・アレン演じるドクター・ノアはメガネをかけたうらなりで、コンプレックスの塊だった。
だから『怪盗グルーの月泥棒 3D』には大いに楽しませてもらった。
60年代のスパイ映画を髣髴とさせる珍発明の数々や、鮮やか過ぎる色彩感覚、そして何よりドクター・ノアを思わせる仇敵ベクターとの戦い。ベクターの外見は若い頃のウディ・アレンにそっくりだ。
『怪盗グルーの月泥棒 3D』は、1967年版『007/カジノ・ロワイヤル』のファンにとって、この上なく楽しい作品だった。
それは続編『怪盗グルーのミニオン危機一発』も同様だ。
本作は、引退したグルーに諜報機関が接触し、現場復帰を促すところからはじまる。『007/カジノ・ロワイヤル』が、引退した伝説のスパイ、ジェームズ・ボンド卿にスパイへの復帰を請うところからはじまるのと同じである。
そしてグルーは前作のような泥棒稼業ではなく、正真正銘、諜報機関のエージェントとして活躍する。
本作は本物のスパイアクションとして、前作以上に往年のスパイ映画を踏まえた作りになっている。
グルーの相棒となるエージェント、ルーシー・ワイルドが繰り出すのは、ダニエル・クレイグの現代的007シリーズではお目にかかれなくなった秘密兵器だ。ルーシーの愛車が海に飛び込んで潜水艇に変形するのは、懐かしい『007/私を愛したスパイ』(1977年)のロータス・エスプリそのものである。さらにクルマが空を飛ぶのは、『ファントマ/電光石火』(1965年)だろうか。
配給の東宝東和もスパイ映画を意識しているのだろう。『怪盗グルーのミニオン危機一発』という邦題がそのことをよく表している。
「危機一発」という言葉は、007シリーズを配給していた日本ユナイト映画の宣伝総支配人であり、映画評論家としても活躍した水野晴郎氏が考案したという。髪の毛一本の際どい状況を表す「危機一髪」と、銃を構えたジェームズ・ボンドの「一発」をかけたもので、007シリーズ二作目の公開時に『007/危機一発』として使われた(リバイバル時に『007/ロシアより愛をこめて』に改題)。
本作の邦題が「危機一髪」ではなく『ミニオン危機一*発*』なのは、初期007シリーズのようなスパイアクションであることの表明だ。
けれども、原題はあくまで『Despicable Me 2』。日本語にすれば「見下げはてた私 2」だ。
前作が子供たちとの楽しいドタバタの裏にあるダメ人間グルーの心情を綴っていたように、本作も中年男グルーのダメっぷりを暴いている。
前作のグルーは親子関係に悩み、悪事を働くことでしか自分をアピールできない哀しい男だった。すったもんだの末、親や孤児たちとの関係を構築できたグルーが、本作で頭を悩ますのは異性関係である。
いい歳こいて独り者のグルーに、女性を紹介しようとする人が現れる。
けれど、これがグルーには大迷惑。グルーには深い深いトラウマがあり、女性と付き合うのが苦手なのだ。
このエピソードが泣かせる。幼稚園時代、グルーがちょっと女の子に触れただけで、「グルー菌だ~!」と大騒ぎしてみんな逃げてしまったのだ。
こういう穢れを嫌うかのような行為は日本にも色濃く存在し、社会を歪めているが、グルーもまたそんな行為の被害者だったのだ。
だから、子供や同僚のように女性を感じさせない相手ならまだしも、女性とデートなんかした日にはグルーらしくない振る舞いをしてしまう。
しかもグルーは、ハゲを気にしているようだ。
前作の記事でグルーの外見は怪盗ファントマを模したのだろうと書いたように、ハゲの怪盗には先達がいるのだし、近頃はハゲがトップスターの証でもある。
ハゲでも堂々としていれば良いものを、グルーはそうもいかないらしい。
敵役である怪盗エル・マッチョに前作のベクターほどの存在感がないのも、グルーにとっての真の「敵」が女性であり、女性と良好な関係を築くことが本作のゴールだからだろう。
この映画は、様々なコンプレックスや苦手意識を克服しようともがくグルーの身につまされる話なのだ。
ところが!
本作はモテないグルーが女性と良好な関係を築いてメデタシメデタシ、では終わらない。
事件が解決し、グルーの恋も実って大団円。グルーとルーシーを祝福し、オール・フォー・ワンのグラミー賞受賞曲『I Swear』をカバーして歌い出すミニオン(手下)たち。
この場面のミニオンの服装は、なんと銀のタキシードだ。あまりにも時代錯誤なコスチュームで、なんだかヴィレッジ・ピープルが出演した1980年のミュージカル映画『ミュージック・ミュージック』みたいである。この映画、ヴィレッジ・ピープルが歌うナンバーの楽しさもあって私は嫌いじゃないのだが、不名誉極まりない第1回ゴールデンラズベリー賞の最低作品賞を受賞してしまった怪作だ。
なんて思っていたら、本作の締めくくりは『ミュージック・ミュージック』の挿入歌であり、全世界で大ヒットした『Y.M.C.A.』の大合唱ときたもんだ。
しかもインディアンに道路工事人にポリスマンと、ヴィレッジ・ピープルそっくりのコスプレまでして。
日本ではこの曲を西城秀樹さんが『YOUNG MAN (Y.M.C.A.)』の題でカバーして健康的に歌い上げたが、原曲を歌ったヴィレッジ・ピープルはゲイっぽさを売りにしたグループだ。彼らの代表曲『Y.M.C.A.』もゲイ賛歌である。
いやはや、グルーとルーシーの結婚を祝う曲がゲイ賛歌とは、あまりにも倒錯してるのではないだろうか。
そこで、ハタと気付くのである。
そもそも本作の冒頭では、グルーが女装姿を披露していた。
怪盗エル・マッチョは、フレディ・マーキュリーのステージ衣装のように胸元全開のコスチュームだ。男性美を強調したエル・マッチョが、秘密兵器に頼るグルーを揶揄するよりも、女性へのアンチテーゼであることは容易に察しがつく。
エル・マッチョには息子がいるから、彼が女性と結婚している可能性はある。とはいえ、彼に似ても似つかないハンサムな息子が、グルーの娘たちのように養子である可能性は否定できない。
多くの国・地域が同性結婚を認めている現在、異性と良好な関係を築くことだけが幸せであるかのような表現は片手落ちだ。
映画の作り手はそう考えたに違いない。
だから同性愛にも目配りしていることをしっかりアピールし、最後は性別に関係なく『Y.M.C.A.』で踊りまくるのだ。
さて、本シリーズの魅力といえば、何といっても気楽なミニオンたちである。
やることなすこと間が抜けてて、さらわれてもノンビリと誘拐ライフを楽しんでしまう愉快なヤツら。彼らを見てると、なんだか魂が癒される。
どこの国でも、ミニオンを前面に出して宣伝するほどの人気者だ。
そこで、とうぜんのことながらシリーズ第三弾はミニオン中心の映画が予定されている。
その名も『ミニオンズ』!
60年代好きの映画制作者は遂に舞台を60年代に設定し、グルーと出会う前のミニオンたちの活躍を描く。
時の流れのはじめから存在し、そのときどきでもっとも野心的な悪者に仕えてきたミニオンたち。愛すべきバカさから、主人を次々に破滅させた彼らは、新たな主人としてサンドラ・ブロック演じる悪玉スカーレット・オーバーキルに仕えようとする。スカーレットは、発明家である夫のハーブ・オーバーキルとともに世界征服を企んでいたのだ!
――という話だそうで、今からとても楽しみだ。
『怪盗グルーのミニオン危機一発』 [か行]
監督/ピエール・コフィン、クリス・ルノー
出演/スティーヴ・カレル クリステン・ウィグ ラッセル・ブランド ベンジャミン・ブラット スティーヴ・クーガン ミランダ・コスグローヴ
日本語吹替/笑福亭鶴瓶 中井貴一 山寺宏一 芦田愛菜 中島美嘉 宮野真守 須藤祐実 矢島晶子 伊井篤史
日本公開/2013年9月21日
ジャンル/[ファミリー] [コメディ] [ファンタジー] [アドベンチャー]
http://bookmarks.yahoo.co.jp/bookmarklet/showpopup?t='+encodeURIComponent(document.title)+'&u='+encodeURIComponent(location.href)+'&ei=UTF-8','_blank','width=550,height=480,left=100,top=50,scrollbars=1,resizable=1',0);">
数ある007映画の中でも、特別に好きなのが『007/カジノ・ロワイヤル』だ。
といっても、2006年に公開されたダニエル・クレイグ主演の映画ではない。大勢の007がバカ騒ぎする1967年版の方だ。007のパロディというよりも『電撃フリント』のバカバカしさに近いこの映画は、そのしっちゃかめっちゃかな混乱ぶりや、本家をしのぐ豪華キャストとサイケデリックな雰囲気で、60年代らしい奔放さに溢れている。
とりわけ、バート・バカラックが作曲し、ハーブ・アルパート&ティファナ・ブラスが参加したサントラは名盤中の名盤だ。
その『007/カジノ・ロワイヤル』の敵役はドクター・ノオならぬドクター・ノア。ウディ・アレン演じるドクター・ノアはメガネをかけたうらなりで、コンプレックスの塊だった。
だから『怪盗グルーの月泥棒 3D』には大いに楽しませてもらった。
60年代のスパイ映画を髣髴とさせる珍発明の数々や、鮮やか過ぎる色彩感覚、そして何よりドクター・ノアを思わせる仇敵ベクターとの戦い。ベクターの外見は若い頃のウディ・アレンにそっくりだ。
『怪盗グルーの月泥棒 3D』は、1967年版『007/カジノ・ロワイヤル』のファンにとって、この上なく楽しい作品だった。
それは続編『怪盗グルーのミニオン危機一発』も同様だ。
本作は、引退したグルーに諜報機関が接触し、現場復帰を促すところからはじまる。『007/カジノ・ロワイヤル』が、引退した伝説のスパイ、ジェームズ・ボンド卿にスパイへの復帰を請うところからはじまるのと同じである。
そしてグルーは前作のような泥棒稼業ではなく、正真正銘、諜報機関のエージェントとして活躍する。
本作は本物のスパイアクションとして、前作以上に往年のスパイ映画を踏まえた作りになっている。
グルーの相棒となるエージェント、ルーシー・ワイルドが繰り出すのは、ダニエル・クレイグの現代的007シリーズではお目にかかれなくなった秘密兵器だ。ルーシーの愛車が海に飛び込んで潜水艇に変形するのは、懐かしい『007/私を愛したスパイ』(1977年)のロータス・エスプリそのものである。さらにクルマが空を飛ぶのは、『ファントマ/電光石火』(1965年)だろうか。
配給の東宝東和もスパイ映画を意識しているのだろう。『怪盗グルーのミニオン危機一発』という邦題がそのことをよく表している。
「危機一発」という言葉は、007シリーズを配給していた日本ユナイト映画の宣伝総支配人であり、映画評論家としても活躍した水野晴郎氏が考案したという。髪の毛一本の際どい状況を表す「危機一髪」と、銃を構えたジェームズ・ボンドの「一発」をかけたもので、007シリーズ二作目の公開時に『007/危機一発』として使われた(リバイバル時に『007/ロシアより愛をこめて』に改題)。
本作の邦題が「危機一髪」ではなく『ミニオン危機一*発*』なのは、初期007シリーズのようなスパイアクションであることの表明だ。
けれども、原題はあくまで『Despicable Me 2』。日本語にすれば「見下げはてた私 2」だ。
前作が子供たちとの楽しいドタバタの裏にあるダメ人間グルーの心情を綴っていたように、本作も中年男グルーのダメっぷりを暴いている。
前作のグルーは親子関係に悩み、悪事を働くことでしか自分をアピールできない哀しい男だった。すったもんだの末、親や孤児たちとの関係を構築できたグルーが、本作で頭を悩ますのは異性関係である。
いい歳こいて独り者のグルーに、女性を紹介しようとする人が現れる。
けれど、これがグルーには大迷惑。グルーには深い深いトラウマがあり、女性と付き合うのが苦手なのだ。
このエピソードが泣かせる。幼稚園時代、グルーがちょっと女の子に触れただけで、「グルー菌だ~!」と大騒ぎしてみんな逃げてしまったのだ。
こういう穢れを嫌うかのような行為は日本にも色濃く存在し、社会を歪めているが、グルーもまたそんな行為の被害者だったのだ。
だから、子供や同僚のように女性を感じさせない相手ならまだしも、女性とデートなんかした日にはグルーらしくない振る舞いをしてしまう。
しかもグルーは、ハゲを気にしているようだ。
前作の記事でグルーの外見は怪盗ファントマを模したのだろうと書いたように、ハゲの怪盗には先達がいるのだし、近頃はハゲがトップスターの証でもある。
ハゲでも堂々としていれば良いものを、グルーはそうもいかないらしい。
敵役である怪盗エル・マッチョに前作のベクターほどの存在感がないのも、グルーにとっての真の「敵」が女性であり、女性と良好な関係を築くことが本作のゴールだからだろう。
この映画は、様々なコンプレックスや苦手意識を克服しようともがくグルーの身につまされる話なのだ。
ところが!
本作はモテないグルーが女性と良好な関係を築いてメデタシメデタシ、では終わらない。
事件が解決し、グルーの恋も実って大団円。グルーとルーシーを祝福し、オール・フォー・ワンのグラミー賞受賞曲『I Swear』をカバーして歌い出すミニオン(手下)たち。
この場面のミニオンの服装は、なんと銀のタキシードだ。あまりにも時代錯誤なコスチュームで、なんだかヴィレッジ・ピープルが出演した1980年のミュージカル映画『ミュージック・ミュージック』みたいである。この映画、ヴィレッジ・ピープルが歌うナンバーの楽しさもあって私は嫌いじゃないのだが、不名誉極まりない第1回ゴールデンラズベリー賞の最低作品賞を受賞してしまった怪作だ。
なんて思っていたら、本作の締めくくりは『ミュージック・ミュージック』の挿入歌であり、全世界で大ヒットした『Y.M.C.A.』の大合唱ときたもんだ。
しかもインディアンに道路工事人にポリスマンと、ヴィレッジ・ピープルそっくりのコスプレまでして。
日本ではこの曲を西城秀樹さんが『YOUNG MAN (Y.M.C.A.)』の題でカバーして健康的に歌い上げたが、原曲を歌ったヴィレッジ・ピープルはゲイっぽさを売りにしたグループだ。彼らの代表曲『Y.M.C.A.』もゲイ賛歌である。
いやはや、グルーとルーシーの結婚を祝う曲がゲイ賛歌とは、あまりにも倒錯してるのではないだろうか。
そこで、ハタと気付くのである。
そもそも本作の冒頭では、グルーが女装姿を披露していた。
怪盗エル・マッチョは、フレディ・マーキュリーのステージ衣装のように胸元全開のコスチュームだ。男性美を強調したエル・マッチョが、秘密兵器に頼るグルーを揶揄するよりも、女性へのアンチテーゼであることは容易に察しがつく。
エル・マッチョには息子がいるから、彼が女性と結婚している可能性はある。とはいえ、彼に似ても似つかないハンサムな息子が、グルーの娘たちのように養子である可能性は否定できない。
多くの国・地域が同性結婚を認めている現在、異性と良好な関係を築くことだけが幸せであるかのような表現は片手落ちだ。
映画の作り手はそう考えたに違いない。
だから同性愛にも目配りしていることをしっかりアピールし、最後は性別に関係なく『Y.M.C.A.』で踊りまくるのだ。
さて、本シリーズの魅力といえば、何といっても気楽なミニオンたちである。
やることなすこと間が抜けてて、さらわれてもノンビリと誘拐ライフを楽しんでしまう愉快なヤツら。彼らを見てると、なんだか魂が癒される。
どこの国でも、ミニオンを前面に出して宣伝するほどの人気者だ。
そこで、とうぜんのことながらシリーズ第三弾はミニオン中心の映画が予定されている。
その名も『ミニオンズ』!
60年代好きの映画制作者は遂に舞台を60年代に設定し、グルーと出会う前のミニオンたちの活躍を描く。
時の流れのはじめから存在し、そのときどきでもっとも野心的な悪者に仕えてきたミニオンたち。愛すべきバカさから、主人を次々に破滅させた彼らは、新たな主人としてサンドラ・ブロック演じる悪玉スカーレット・オーバーキルに仕えようとする。スカーレットは、発明家である夫のハーブ・オーバーキルとともに世界征服を企んでいたのだ!
――という話だそうで、今からとても楽しみだ。
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監督/ピエール・コフィン、クリス・ルノー
出演/スティーヴ・カレル クリステン・ウィグ ラッセル・ブランド ベンジャミン・ブラット スティーヴ・クーガン ミランダ・コスグローヴ
日本語吹替/笑福亭鶴瓶 中井貴一 山寺宏一 芦田愛菜 中島美嘉 宮野真守 須藤祐実 矢島晶子 伊井篤史
日本公開/2013年9月21日
ジャンル/[ファミリー] [コメディ] [ファンタジー] [アドベンチャー]


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『サイド・エフェクト』 シンプル・イズ・ベスト
上手い! 本当に上手いと思う。
まず題名が上手い。
当初予定されていた『The Bitter Pill』も、とても上手い題だ。「The Bitter Pill」は「嫌なこと」を意味するが、「苦い錠剤」という意味もかけている。この題なら、抗うつ薬を巡る医師と患者の物語にピッタリだ。
そんな優れた題を捨てて、最終的に付けたのが『サイド・エフェクト』。「Side Effects」とは「副作用」のことである。
医師が処方する薬。多くの患者はその成分も効能もよく理解しないまま、医師の言葉を信じて口に入れてることだろう。治療のためには医師の云う通りに飲むのが良いはずだ。患者は誰しもそう思う。
そんな患者に不安を感じさせる言葉が「副作用」だ。
「良薬は口に苦し」ということわざもあるから、「苦い錠剤」は必ずしもネガティブな印象ではない。
けれども「副作用」とは、期待する効能ではなく、本来は避けておきたい効果や意図しない影響を意味するから、とても心配なものだ。病で気が弱くなったときなど、医師と薬が頼りなので、なおさら副作用には神経質にならざるを得ない。
そんな私たちの心理を突いて、「副作用」という映画が公開されたら、気になって仕方があるまい。
シンプルにして気になる題名。
それはアルフレッド・ヒッチコック監督が得意としたものだ。
『めまい』、『裏窓』、『ロープ』。これらの題は、シンプルでありながらどこか穏やかならざる気配をはらみ、私たちの不安をかき立てる。それこそ、まさにサスペンス(不安な気持ち)。
『サイド・エフェクト』も狙うところは同じだろう。
しかも『サイド・エフェクト』は、スティーブン・ソダーバーグ監督のフィルモグラフィーにおいて絶妙の位置にある。
ソダーバーグ監督といえば、2011年公開の『コンテイジョン』(感染)が記憶に新しい。医療機関の対策もむなしく、伝染病と流言飛語に感染する恐怖を描いたこの映画は、ソダーバーグ監督のリアルな作風と相まって、とても印象的だった。
そして『コンテイジョン』と同じくスコット・Z・バーンズの脚本を得て、今度は「副作用」だ。
ここではどんな問題が提起されるのか、どんな恐怖が描かれるのか、否応なしに期待は高まる。
本作をご覧になれば、その期待は十二分に叶えられたことがお判りだろう。
ソダーバーグ監督は硬質なタッチを貫き、軽々しく観客の感情を揺さぶったりしない。照明は過度な陰影を避け、カメラも人物から距離を置き、ごく普通の日常を眺めるように、映画は進行する。
ソダーバーグ監督は「物語的に観客を驚かせるには、非常にリアルな出来事を見ている感覚が必要だ。だから、観客のために非常にシンプルな映像スタイルを保とうとした」と語っている。
観客は、薬物に頼ってばかりのヒロインに危うさを感じると同時に、にこやかな医師に胡散臭さを覚える。
登場人物の誰にも感情移入できないため、観客は不安を募らせる。
観客に感情移入させないのは、プロット上の必然からだろう。
主役となるのはジュード・ロウ演じる医師とルーニー・マーラ演じる患者だが、観客は両者の行動を目にしつつも、心情は今一つ判らない。
これは視覚で映像を認識する映画メディア全般の特徴であり、脳内でイメージを形成する文学とは大きく異なる点だ。ソダーバーグ監督はその特徴を存分に活かし、物語の進行に合わせて視点を滑らかに切り替える。観客は特定の人物に感情移入していないから、視点の切り替えを不自然に思わず、作り手の狙いにまんまとはまってしまう。
実に上手い作りである。
注目すべきは医師を演じたジュード・ロウだ。
ジュード・ロウは適度にかっこよく、適度に知的で、適度に優しげで、適度に頼もしく、適度に胡散臭い。
『コンテイジョン』のジャーナリスト役も、人々に真実を伝える使命感とトップ屋の胡散臭さの見分けがつかない人物を演じて見事だったが、本作でも仕事熱心で金勘定にも熱心な医師に存在感を与えている。
こういう人間くさい複雑さを持った人物が出ると、物語がどう転ぶか判らなくて面白い。
日本人にとっては、カタカナの邦題『サイド・エフェクト』がピンと来ないかもしれない。
だが、それも良し。
本作は予備知識がなければないほど楽しめる。それは本作に限ったことではないが、とくに本作は白紙の状態で観るのが良い。
かくいう私も、題名と監督名の他は何も知らずに鑑賞し、大いに楽しませてもらった。
今後はテレビ界に移るスティーブン・ソダーバーグ監督にとって、本作は最後の劇場用映画だとか。
活躍の場をテレビに限ったりせず、これからも是非こんな面白い作品を見せて欲しいものだ。
『サイド・エフェクト』 [さ行]
監督/スティーブン・ソダーバーグ 脚本/スコット・Z・バーンズ
出演/ジュード・ロウ ルーニー・マーラ キャサリン・ゼタ=ジョーンズ チャニング・テイタム
日本公開/2013年9月6日
ジャンル/[サスペンス]
http://bookmarks.yahoo.co.jp/bookmarklet/showpopup?t='+encodeURIComponent(document.title)+'&u='+encodeURIComponent(location.href)+'&ei=UTF-8','_blank','width=550,height=480,left=100,top=50,scrollbars=1,resizable=1',0);">
まず題名が上手い。
当初予定されていた『The Bitter Pill』も、とても上手い題だ。「The Bitter Pill」は「嫌なこと」を意味するが、「苦い錠剤」という意味もかけている。この題なら、抗うつ薬を巡る医師と患者の物語にピッタリだ。
そんな優れた題を捨てて、最終的に付けたのが『サイド・エフェクト』。「Side Effects」とは「副作用」のことである。
医師が処方する薬。多くの患者はその成分も効能もよく理解しないまま、医師の言葉を信じて口に入れてることだろう。治療のためには医師の云う通りに飲むのが良いはずだ。患者は誰しもそう思う。
そんな患者に不安を感じさせる言葉が「副作用」だ。
「良薬は口に苦し」ということわざもあるから、「苦い錠剤」は必ずしもネガティブな印象ではない。
けれども「副作用」とは、期待する効能ではなく、本来は避けておきたい効果や意図しない影響を意味するから、とても心配なものだ。病で気が弱くなったときなど、医師と薬が頼りなので、なおさら副作用には神経質にならざるを得ない。
そんな私たちの心理を突いて、「副作用」という映画が公開されたら、気になって仕方があるまい。
シンプルにして気になる題名。
それはアルフレッド・ヒッチコック監督が得意としたものだ。
『めまい』、『裏窓』、『ロープ』。これらの題は、シンプルでありながらどこか穏やかならざる気配をはらみ、私たちの不安をかき立てる。それこそ、まさにサスペンス(不安な気持ち)。
『サイド・エフェクト』も狙うところは同じだろう。
しかも『サイド・エフェクト』は、スティーブン・ソダーバーグ監督のフィルモグラフィーにおいて絶妙の位置にある。
ソダーバーグ監督といえば、2011年公開の『コンテイジョン』(感染)が記憶に新しい。医療機関の対策もむなしく、伝染病と流言飛語に感染する恐怖を描いたこの映画は、ソダーバーグ監督のリアルな作風と相まって、とても印象的だった。
そして『コンテイジョン』と同じくスコット・Z・バーンズの脚本を得て、今度は「副作用」だ。
ここではどんな問題が提起されるのか、どんな恐怖が描かれるのか、否応なしに期待は高まる。
本作をご覧になれば、その期待は十二分に叶えられたことがお判りだろう。
ソダーバーグ監督は硬質なタッチを貫き、軽々しく観客の感情を揺さぶったりしない。照明は過度な陰影を避け、カメラも人物から距離を置き、ごく普通の日常を眺めるように、映画は進行する。
ソダーバーグ監督は「物語的に観客を驚かせるには、非常にリアルな出来事を見ている感覚が必要だ。だから、観客のために非常にシンプルな映像スタイルを保とうとした」と語っている。
観客は、薬物に頼ってばかりのヒロインに危うさを感じると同時に、にこやかな医師に胡散臭さを覚える。
登場人物の誰にも感情移入できないため、観客は不安を募らせる。
観客に感情移入させないのは、プロット上の必然からだろう。
主役となるのはジュード・ロウ演じる医師とルーニー・マーラ演じる患者だが、観客は両者の行動を目にしつつも、心情は今一つ判らない。
これは視覚で映像を認識する映画メディア全般の特徴であり、脳内でイメージを形成する文学とは大きく異なる点だ。ソダーバーグ監督はその特徴を存分に活かし、物語の進行に合わせて視点を滑らかに切り替える。観客は特定の人物に感情移入していないから、視点の切り替えを不自然に思わず、作り手の狙いにまんまとはまってしまう。
実に上手い作りである。
注目すべきは医師を演じたジュード・ロウだ。
ジュード・ロウは適度にかっこよく、適度に知的で、適度に優しげで、適度に頼もしく、適度に胡散臭い。
『コンテイジョン』のジャーナリスト役も、人々に真実を伝える使命感とトップ屋の胡散臭さの見分けがつかない人物を演じて見事だったが、本作でも仕事熱心で金勘定にも熱心な医師に存在感を与えている。
こういう人間くさい複雑さを持った人物が出ると、物語がどう転ぶか判らなくて面白い。
日本人にとっては、カタカナの邦題『サイド・エフェクト』がピンと来ないかもしれない。
だが、それも良し。
本作は予備知識がなければないほど楽しめる。それは本作に限ったことではないが、とくに本作は白紙の状態で観るのが良い。
かくいう私も、題名と監督名の他は何も知らずに鑑賞し、大いに楽しませてもらった。
今後はテレビ界に移るスティーブン・ソダーバーグ監督にとって、本作は最後の劇場用映画だとか。
活躍の場をテレビに限ったりせず、これからも是非こんな面白い作品を見せて欲しいものだ。
![サイド・エフェクト [DVD]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/513uqHHEF1L._SL160_.jpg)
監督/スティーブン・ソダーバーグ 脚本/スコット・Z・バーンズ
出演/ジュード・ロウ ルーニー・マーラ キャサリン・ゼタ=ジョーンズ チャニング・テイタム
日本公開/2013年9月6日
ジャンル/[サスペンス]


【theme : サスペンス映画】
【genre : 映画】
tag : スティーブン・ソダーバーグスコット・Z・バーンズジュード・ロウルーニー・マーラキャサリン・ゼタ=ジョーンズチャニング・テイタム
『許されざる者』 オリジナルとここが違う!
【ネタバレ注意】
なんと稀有なことだろう。
クリント・イーストウッドが監督・主演した1992年の映画『許されざる者』は、まごうことなき傑作だ。アカデミー賞の作品賞をはじめ、多くの賞を受賞してるが、賞の有無は関係ない。『夕陽のガンマン』等で数々のガンマン役を演じてきたクリント・イーストウッドならではの、ストイックで神々しいほどの世界がここにはある。
そんな傑作をリメイクしようなんて、身の程知らずと云われても仕方がない。他の監督であったなら。
しかし、これが『フラガール』や『悪人』の李相日(リ・サンイル)監督となれば、話は別だ。
そして目にした日本版『許されざる者』は、なんと傑作のリメイクがやはり傑作になるという、まことに稀有な作品だった。
時は1880年。クリント・イーストウッド版も李相日版も同じ年を舞台にしている。
場所をアメリカの西部から北海道に移しながら、李相日版はきわめてオリジナルに忠実であり、オリジナルへの強いリスペクトが感じられる。
国は違えど、同じ年の設定で同じ物語が成立するということに、まずは驚かされる。
とはいえ、両作には違う点も少なくない。
その違いをたどれば、李相日監督がイーストウッド版『許されざる者』のテーマをさらに深化・発展させ、オリジナル以上にくっきりした輪郭を描き出した軌跡が見えてこよう。
(1) 主人公が「悪人」ではない。
イーストウッド版の主人公ウィルは悪人だった。列車強盗や殺人の罪を重ねた無法者だ。それが今では改心し、牧畜に精を出している、と設定することで、イーストウッド版は悪人と善人の境界を曖昧にした。悪人でも善人になれる。善人ぶった人間が本当に善人とは限らない。それがイーストウッド版の人物像だ。
イーストウッド版の記事でも述べたように、これはクリント・イーストウッドが主演してこその設定だ。死体の山を築くことに何のためらいもない賞金稼ぎを演じ続けたイーストウッドだから、銃を封印して人生をやり直そうとする主人公役にグッと来る。
これに対して李相日版の主人公は、はなから悪人ではない。
本作の主人公・人斬り十兵衛は伝説の人殺しではあるものの、それは倒幕・佐幕を巡る抗争、ひいては戊辰戦争でのことであり、私利私欲に駆られた悪事ではない。
前作『悪人』で「悪人とは何か」を問いかけた李相日監督らしく、本作における善悪はイーストウッド版以上に曖昧で、そこで描かれるのは人を殺しても生きていく人間の業の深さだ。
これは李相日監督が、オリジナルの『許されざる者』を観て感じたものを増幅した結果だろう。李監督は、イーストウッド版について次のように語っている。
---
今と比べて、当時のほうが白黒はっきりさせた映画が多かったですよね。悪い奴は悪い、正義は正義。その中でこの作品は、悪人といわれる人と善人といわれる人の境目がきわめて曖昧で、それがすごく新鮮でした。悪人善人の前に、力とか暴力があって、それをどう使うかで結果がまるっきり変わってくる。力があっても使わないという選択肢もあるし、どんな形であれ、使えば自分が思ってもみなかった結果に行き着いてしまう。人間はそういう力や暴力をコントロールできるつもりでいるけれど、いったん使いだしたら制御できないのが、力であり、暴力なのだ、と。それが、あの映画の本当のテーマなんじゃないか
---
(2) 主人公を引き擦り込むのが若い賞金稼ぎではない。
イーストウッド版で主人公ウィルを人殺しに誘うのは、昔の仲間の甥っ子で賞金稼ぎを目指す若造だった。それを受けてウィルは旧友ネッドも仲間に引き込む。
他方、本作で主人公を誘いに来るのは旧友の金吾だ。オリジナルのネッドに相当する。若造の五郎は、後から二人にくっついてくる設定だ。
この改変には二つの目的があろう。
一つは、主人公の行動を自然に見せるため。オリジナルのウィルのように見ず知らずの若造の話に乗ってしまうよりも、主人公の業の深さを見透かした金吾に誘われる方が、背負った過去から逃れられない哀しさを感じさせる。
もう一つは、若い五郎をアイヌに設定するためだろう。
公式サイトによれば、アイヌはもともと李監督が描きたい題材のひとつだったという。
---
アメリカの西部開拓期と同様、日本にも先住民に対する迫害と駆逐の歴史があり、それが、オリジナルの時代設定と同じ1880年、明治新政府下の蝦夷地開拓期と重なった時点で、あらゆる要素がカチリと嵌まった。借り物ではない日本映画としての全体像がはっきりと見えた。
---
イーストウッド版の相棒ネッドは、インディアンを妻にした黒人であり、マイノリティを象徴していた。だが、本作におけるマイノリティは、もっと大きな扱いである。
先日の記事にも書いたように、日本も他国と同じく多民族・多文化国家である。この国にはアイヌ、コリアン、華人華僑等々、様々な出自・ルーツを持つ人々がひしめき合って暮らしている。
にもかかわらず、多民族・多文化であることを打ち出した邦画にはなかなかお目にかからない。これはとても奇妙なことだ。
本作には、理解できないアイヌの文化を「野蛮」の一言で切って捨てる野蛮な「和人」や、文化の多様性を認めない偏狭さが存分に描かれている。
それに加えてアイヌを主要登場人物として登場させようとしたら、出自を大きくいじれる役は若い賞金稼ぎだけだろう。
でも、五郎をアイヌにしつつ、物語をオリジナルのままにすると、アイヌの五郎が「和人」の十兵衛を探し出し、「和人」殺しをそそのかすことになってしまう。劇中に、アイヌによる「和人」殺しは反乱と見なされるとの説明があるように、登場人物をアイヌ出身とするためには相応の改変が必要だ。それが「主人公を引き擦り込むのは誰か」という問題に直結したのだろう。
本作を見ればお判りのように、この改変でオリジナルの魅力が損なわれることはない。
その一方、日本が多民族・多文化国家であることを描かないという奇妙な現象が解消し、ごく自然な日本の姿が描き出されることになった。
(3) 地獄で待つのは誰か。
イーストウッド版『許されざる者』では、ウィルに撃ち殺される保安官ダゲットが死の直前に「地獄で待ってる」と云い残す。
さんざん残虐なことをしてきた自分はどうせ地獄に堕ちるしかないが、それはお前も同じだぞ、ウィル。このセリフはそういう意味だ。
ところが李版『許されざる者』の警察署長大石一蔵は、このセリフを口にすることなく十兵衛に斬り殺される。
「地獄で待ってろ。」――本作では、なんと去り際の十兵衛が、女郎たちにこのセリフを口にする。
ここで私は李監督の容赦のなさに恐れ入った。
女郎たちは虐げられる立場であり、この物語のそもそもは、横暴な男たちに復讐する手段を持たない女郎が賞金稼ぎを雇うところからはじまっている。女郎は主人公を助け、慰める弱者であった。少なくともイーストウッド版では。
けれど李監督は、女郎たちの業をも暴き出す。
男たちに酷い目に遭わされたのはたしかだけれど、女郎たちは殺されたわけではない。男たちがまったく罰せられないわけでもないし、彼らなりの反省も見せている。
にもかかわらず、復讐のために賞金稼ぎに人殺しをさせようとする女郎たちが、単なる被害者として描かれるだけで良いのか。
李監督は、『悪人』で人間の中にある善悪と対峙したことの延長上に本作があると語っている。
「地獄で待ってろ。」
物語の最後にこのセリフを旧友金吾とその亡骸を取り囲む女郎に叩きつけることで、李監督は弱者と強者を引っくり返した。
結局人殺しに戻ってしまった十兵衛は、彼を引き込んだ金吾も、殺人を教唆した女郎も地獄堕ちだと告げるのだ。
この無残な宣告は、イーストウッド版以上に情け容赦がない。
(4) 国旗がはためかない。
イーストウッド版で印象的なのは、主人公ウィルが敵を打ち倒し、街の住民たちに「娼婦を人間らしく扱え」と諭す場面にはためく星条旗だ。
二世紀半ほど前に建国したアメリカ合衆国のこの旗は、赤が勇気、白が真実、青が正義を表すという。
たとえ汚れても、雨に濡れても、この旗が象徴する勇気、真実、正義は不滅であることを強調するように、ウィルの背後に星条旗が映し出される。
だが、李相日版にそんな旗はない。
そもそも日本は、四万年ほど前に人が渡来して住みついた土地であり、意図して建国した国家ではないから、アイヌと和人、勝った官軍と負けた幕府軍、女郎たちや男たち等、さまざまな人間が交差する中で、全員を象徴するものなんてありはしない。
十兵衛の背後には、火のついた女郎宿があたかも地獄の業火のごとく燃えるばかりだ。
(5) 十兵衛の行方
事件の片がついた後、ウィルは子供たちと堅気な暮らしを送ったらしい。
重い十字架を背負いつつも、善なるものを併せ持つウィルは、穏やかな晩年を過ごしたのだろう。
だが、李相日監督は、本作の主人公にそんな安堵を味わわせない。
十兵衛は子供たちの許に帰ることもままならず、大罪人として姿を隠すしかない。
その行く先は、どこまでも凍てつく原野だ。

クリント・イーストウッドの『許されざる者』は、無情な物語とは裏腹に、晩秋の美しい自然をスクリーンいっぱいにたたえて、ウィルの妻への愛がしみじみと感じられる作品だった。
だが李監督の『許されざる者』は、晩秋の大自然を寒々とした雪景色に置き換えて、主人公の過酷な人生を掘り下げた。
本作は、オリジナルとはテイストを異にするけれど、その真摯なつくりにオリジナルを愛する人も感嘆するに違いない。
クリント・イーストウッドは本作に対して、「作品を拝見し、素晴らしい出来で非常に満足しています」と賛辞を寄せた。
[*] コメントのご指摘を受けて、十兵衛のセリフを訂正した。
『許されざる者』 [や行]
監督・アダプテーション脚本/李相日(リ・サンイル)
オリジナル脚本/デヴィッド・ウェッブ・ピープルズ
出演/渡辺謙 佐藤浩市 柄本明 柳楽優弥 忽那汐里 小池栄子 近藤芳正 國村隼 滝藤賢一 小澤征悦 三浦貴大
日本公開/2013年9月13日
ジャンル/[時代劇] [ドラマ]
http://bookmarks.yahoo.co.jp/bookmarklet/showpopup?t='+encodeURIComponent(document.title)+'&u='+encodeURIComponent(location.href)+'&ei=UTF-8','_blank','width=550,height=480,left=100,top=50,scrollbars=1,resizable=1',0);">
なんと稀有なことだろう。
クリント・イーストウッドが監督・主演した1992年の映画『許されざる者』は、まごうことなき傑作だ。アカデミー賞の作品賞をはじめ、多くの賞を受賞してるが、賞の有無は関係ない。『夕陽のガンマン』等で数々のガンマン役を演じてきたクリント・イーストウッドならではの、ストイックで神々しいほどの世界がここにはある。
そんな傑作をリメイクしようなんて、身の程知らずと云われても仕方がない。他の監督であったなら。
しかし、これが『フラガール』や『悪人』の李相日(リ・サンイル)監督となれば、話は別だ。
そして目にした日本版『許されざる者』は、なんと傑作のリメイクがやはり傑作になるという、まことに稀有な作品だった。
時は1880年。クリント・イーストウッド版も李相日版も同じ年を舞台にしている。
場所をアメリカの西部から北海道に移しながら、李相日版はきわめてオリジナルに忠実であり、オリジナルへの強いリスペクトが感じられる。
国は違えど、同じ年の設定で同じ物語が成立するということに、まずは驚かされる。
とはいえ、両作には違う点も少なくない。
その違いをたどれば、李相日監督がイーストウッド版『許されざる者』のテーマをさらに深化・発展させ、オリジナル以上にくっきりした輪郭を描き出した軌跡が見えてこよう。
(1) 主人公が「悪人」ではない。
イーストウッド版の主人公ウィルは悪人だった。列車強盗や殺人の罪を重ねた無法者だ。それが今では改心し、牧畜に精を出している、と設定することで、イーストウッド版は悪人と善人の境界を曖昧にした。悪人でも善人になれる。善人ぶった人間が本当に善人とは限らない。それがイーストウッド版の人物像だ。
イーストウッド版の記事でも述べたように、これはクリント・イーストウッドが主演してこその設定だ。死体の山を築くことに何のためらいもない賞金稼ぎを演じ続けたイーストウッドだから、銃を封印して人生をやり直そうとする主人公役にグッと来る。
これに対して李相日版の主人公は、はなから悪人ではない。
本作の主人公・人斬り十兵衛は伝説の人殺しではあるものの、それは倒幕・佐幕を巡る抗争、ひいては戊辰戦争でのことであり、私利私欲に駆られた悪事ではない。
前作『悪人』で「悪人とは何か」を問いかけた李相日監督らしく、本作における善悪はイーストウッド版以上に曖昧で、そこで描かれるのは人を殺しても生きていく人間の業の深さだ。
これは李相日監督が、オリジナルの『許されざる者』を観て感じたものを増幅した結果だろう。李監督は、イーストウッド版について次のように語っている。
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今と比べて、当時のほうが白黒はっきりさせた映画が多かったですよね。悪い奴は悪い、正義は正義。その中でこの作品は、悪人といわれる人と善人といわれる人の境目がきわめて曖昧で、それがすごく新鮮でした。悪人善人の前に、力とか暴力があって、それをどう使うかで結果がまるっきり変わってくる。力があっても使わないという選択肢もあるし、どんな形であれ、使えば自分が思ってもみなかった結果に行き着いてしまう。人間はそういう力や暴力をコントロールできるつもりでいるけれど、いったん使いだしたら制御できないのが、力であり、暴力なのだ、と。それが、あの映画の本当のテーマなんじゃないか
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(2) 主人公を引き擦り込むのが若い賞金稼ぎではない。
イーストウッド版で主人公ウィルを人殺しに誘うのは、昔の仲間の甥っ子で賞金稼ぎを目指す若造だった。それを受けてウィルは旧友ネッドも仲間に引き込む。
他方、本作で主人公を誘いに来るのは旧友の金吾だ。オリジナルのネッドに相当する。若造の五郎は、後から二人にくっついてくる設定だ。
この改変には二つの目的があろう。
一つは、主人公の行動を自然に見せるため。オリジナルのウィルのように見ず知らずの若造の話に乗ってしまうよりも、主人公の業の深さを見透かした金吾に誘われる方が、背負った過去から逃れられない哀しさを感じさせる。
もう一つは、若い五郎をアイヌに設定するためだろう。
公式サイトによれば、アイヌはもともと李監督が描きたい題材のひとつだったという。
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アメリカの西部開拓期と同様、日本にも先住民に対する迫害と駆逐の歴史があり、それが、オリジナルの時代設定と同じ1880年、明治新政府下の蝦夷地開拓期と重なった時点で、あらゆる要素がカチリと嵌まった。借り物ではない日本映画としての全体像がはっきりと見えた。
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イーストウッド版の相棒ネッドは、インディアンを妻にした黒人であり、マイノリティを象徴していた。だが、本作におけるマイノリティは、もっと大きな扱いである。
先日の記事にも書いたように、日本も他国と同じく多民族・多文化国家である。この国にはアイヌ、コリアン、華人華僑等々、様々な出自・ルーツを持つ人々がひしめき合って暮らしている。
にもかかわらず、多民族・多文化であることを打ち出した邦画にはなかなかお目にかからない。これはとても奇妙なことだ。
本作には、理解できないアイヌの文化を「野蛮」の一言で切って捨てる野蛮な「和人」や、文化の多様性を認めない偏狭さが存分に描かれている。
それに加えてアイヌを主要登場人物として登場させようとしたら、出自を大きくいじれる役は若い賞金稼ぎだけだろう。
でも、五郎をアイヌにしつつ、物語をオリジナルのままにすると、アイヌの五郎が「和人」の十兵衛を探し出し、「和人」殺しをそそのかすことになってしまう。劇中に、アイヌによる「和人」殺しは反乱と見なされるとの説明があるように、登場人物をアイヌ出身とするためには相応の改変が必要だ。それが「主人公を引き擦り込むのは誰か」という問題に直結したのだろう。
本作を見ればお判りのように、この改変でオリジナルの魅力が損なわれることはない。
その一方、日本が多民族・多文化国家であることを描かないという奇妙な現象が解消し、ごく自然な日本の姿が描き出されることになった。
(3) 地獄で待つのは誰か。
イーストウッド版『許されざる者』では、ウィルに撃ち殺される保安官ダゲットが死の直前に「地獄で待ってる」と云い残す。
さんざん残虐なことをしてきた自分はどうせ地獄に堕ちるしかないが、それはお前も同じだぞ、ウィル。このセリフはそういう意味だ。
ところが李版『許されざる者』の警察署長大石一蔵は、このセリフを口にすることなく十兵衛に斬り殺される。
「地獄で待ってろ。」――本作では、なんと去り際の十兵衛が、女郎たちにこのセリフを口にする。
ここで私は李監督の容赦のなさに恐れ入った。
女郎たちは虐げられる立場であり、この物語のそもそもは、横暴な男たちに復讐する手段を持たない女郎が賞金稼ぎを雇うところからはじまっている。女郎は主人公を助け、慰める弱者であった。少なくともイーストウッド版では。
けれど李監督は、女郎たちの業をも暴き出す。
男たちに酷い目に遭わされたのはたしかだけれど、女郎たちは殺されたわけではない。男たちがまったく罰せられないわけでもないし、彼らなりの反省も見せている。
にもかかわらず、復讐のために賞金稼ぎに人殺しをさせようとする女郎たちが、単なる被害者として描かれるだけで良いのか。
李監督は、『悪人』で人間の中にある善悪と対峙したことの延長上に本作があると語っている。
「地獄で待ってろ。」
物語の最後にこのセリフを旧友金吾とその亡骸を取り囲む女郎に叩きつけることで、李監督は弱者と強者を引っくり返した。
結局人殺しに戻ってしまった十兵衛は、彼を引き込んだ金吾も、殺人を教唆した女郎も地獄堕ちだと告げるのだ。
この無残な宣告は、イーストウッド版以上に情け容赦がない。
(4) 国旗がはためかない。
イーストウッド版で印象的なのは、主人公ウィルが敵を打ち倒し、街の住民たちに「娼婦を人間らしく扱え」と諭す場面にはためく星条旗だ。
二世紀半ほど前に建国したアメリカ合衆国のこの旗は、赤が勇気、白が真実、青が正義を表すという。
たとえ汚れても、雨に濡れても、この旗が象徴する勇気、真実、正義は不滅であることを強調するように、ウィルの背後に星条旗が映し出される。
だが、李相日版にそんな旗はない。
そもそも日本は、四万年ほど前に人が渡来して住みついた土地であり、意図して建国した国家ではないから、アイヌと和人、勝った官軍と負けた幕府軍、女郎たちや男たち等、さまざまな人間が交差する中で、全員を象徴するものなんてありはしない。
十兵衛の背後には、火のついた女郎宿があたかも地獄の業火のごとく燃えるばかりだ。
(5) 十兵衛の行方
事件の片がついた後、ウィルは子供たちと堅気な暮らしを送ったらしい。
重い十字架を背負いつつも、善なるものを併せ持つウィルは、穏やかな晩年を過ごしたのだろう。
だが、李相日監督は、本作の主人公にそんな安堵を味わわせない。
十兵衛は子供たちの許に帰ることもままならず、大罪人として姿を隠すしかない。
その行く先は、どこまでも凍てつく原野だ。

クリント・イーストウッドの『許されざる者』は、無情な物語とは裏腹に、晩秋の美しい自然をスクリーンいっぱいにたたえて、ウィルの妻への愛がしみじみと感じられる作品だった。
だが李監督の『許されざる者』は、晩秋の大自然を寒々とした雪景色に置き換えて、主人公の過酷な人生を掘り下げた。
本作は、オリジナルとはテイストを異にするけれど、その真摯なつくりにオリジナルを愛する人も感嘆するに違いない。
クリント・イーストウッドは本作に対して、「作品を拝見し、素晴らしい出来で非常に満足しています」と賛辞を寄せた。
[*] コメントのご指摘を受けて、十兵衛のセリフを訂正した。
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監督・アダプテーション脚本/李相日(リ・サンイル)
オリジナル脚本/デヴィッド・ウェッブ・ピープルズ
出演/渡辺謙 佐藤浩市 柄本明 柳楽優弥 忽那汐里 小池栄子 近藤芳正 國村隼 滝藤賢一 小澤征悦 三浦貴大
日本公開/2013年9月13日
ジャンル/[時代劇] [ドラマ]


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『オール・ザ・キングスメン』 公開されなかった傑作
【ネタバレ注意】
1976年に日本で封切られた『オール・ザ・キングスメン』は、すでにハブリック・ドメイン扱いなのでごく安価にDVDを買うことができる。
なぜ、1976年の封切り作がハブリック・ドメインかといえば、アメリカ本国では1949年に公開された映画だからだ。アカデミー賞の7部門にノミネートされ、作品賞、主演男優賞、助演女優賞を獲得した傑作でありながら、27年ものあいだ日本には入ってこなかった。
この間の事情をKINENOTEでは「政治の裏側を徹底して暴いているため、政治的圧力を受けて日本公開されなかった問題作」と説明している。
「政治的圧力」なんて禍々しく表現すると陰謀論のようだが、1949年といえば日本は独立国ではなく、GHQ (General Headquarters)が統治していた頃だ。アメリカ映画はGHQが設立した Central Motion Picture Exchange (セントラル映画社)を通してしか輸入されず、ようやくGHQによる検閲が映倫(映画倫理規程管理委員会)の審査に切り替わったところだった。
こんな時期に、監督・脚本を務めたロバート・ロッセンが赤狩りの一環で下院非米活動委員会へ召喚され、元共産党員であることが取り沙汰されるような映画を、あえて日本に輸入する者がいるだろうか。当時米国ではマッカーシズムが吹き荒れており、日本でも第3次吉田内閣が下院非米活動委員会をモデルにして共産主義勢力を取り締まろうとしていた。
もしもロバート・ロッセンが召喚されなければ、本作はアカデミー賞の監督賞と脚色賞だって受賞していたかもしれない。
本作はたしかに政治家の汚さ、強欲ぶりを描いており、「政治の裏側を徹底して暴いて」いる。他の映画紹介でも、同様の観点で書かれた記事が多い。
「政界浄化を唱え知事選にうって出た小役人が、二度の落選で理想主義を地にまみれさせ、俗物に堕ちて行く様を描く」(allcinema)
「野心家の地方政治家が権力欲の虜となって自滅していく様を描く硬派のドラマ作品」(ウィキペディア)
だが、一政治家の汚職よりもこの映画が刺激的だったのは、富裕層と貧困層を対比した描き方だろう。
金持ちはみんな傲慢で汚く、貧困層はなけなしの金を税という制度で取り上げられる。政府に不満を持つ民衆が大規模なデモ隊を組み、議事堂を取り囲んでシュプレヒコールを上げる。
21世紀の今では何のこともない描写だが、激しくなる労働運動をGHQが制限しようとしていた当時は強烈だったに違いない。
このように、民衆を描いていることが本作の特徴だ。
政治家の汚さや権力欲を描いた映画は少なくないし、最近でも『スーパー・チューズデー ~正義を売った日~』が選挙戦の裏側を描いていた。
だが、『オール・ザ・キングスメン』が本当に問いかけているのは、政治家の素行などではない。
もっと大きな問題――その政治家を支持したのは誰なのか、選んだのは誰なのかという問題だ。
『スーパー・チューズデー ~正義を売った日~』に足りないのはこれだった。激しい選挙戦が展開されながら、そこには選挙民が描かれていなかった。
だから本作は富裕層と貧困層の格差を憂う映画でも、議事堂を取り囲む民衆を応援する映画でもない。
簡単に煽られてしまう民衆の怖さ、群れを成して騒ぐことで民主主義に貢献したつもりになっている民衆の底の浅さこそがあぶり出されている。
『オール・ザ・キングスメン』は、ピューリッツァー賞を受賞した1947年の小説の映画化だ。
主人公ウィリー・スタークは、元ルイジアナ州知事のヒューイ・ロング上院議員がモデルだという。ヒューイ・ロングは、もしも1935年に医師カール・ワイスに射殺されなければ、フランクリン・ルーズベルトに代わって第二次世界大戦時の大統領職にあったかもしれない人物だ。
原題「All The King's Men(王様の家来みんな)」はハンプティ・ダンプティ(卵)の詩に由来するが、ロングの掲げたスローガン「Every Man a King(みんなが王様)」のもじりでもあるのだろう。
題名のとおり、本作は田舎の出納官ウィリー・スタークが権力の座にのし上がり汚れていく中で、みんな彼に服従するだけになっていく。
本作の魅力は、何といってもロバート・ロッセン監督みずから手掛けた脚本にある。物語にはスキがなく、鋭いセリフが丁丁発止と飛び交う。
とくに印象的なセリフを、以下に紹介しよう。
物語の冒頭、郡の役人から嫌がらせを受けながら、それでもひるまず役所の不正について演説するウィリーを、新聞記者のジャック・バーデンが取材する。
ジャックは、愚直なウィリーの姿に感銘を受けて彼の紹介記事を書き、その最後にこう記した。
「スタークは滅多にいない勇敢で正直な人物だ。」
このとき、ジャックは本気でそう思っていた。
けれどもジャックの義父は、記事を読んでたしなめる。
義父「君の記事を読ませてもらったよ。『ウィリー・スターク』。上手いが、あれは出来すぎだ。」
ジャック「支持者はたくさんいます。」
義父「愚かな連中だ。あんな記事を載せてはいけない。民衆を煽るだけだ。」
大富豪の義父は尊大で失礼な男だ。ジャックは義父に反発する。
この時点では映画の観客も、正義漢のウィリーや一本気なジャックの肩を持っているから、義父の言葉は不愉快に聞こえる。
後になって観客は知ることになる。本作でただ一人、他人の家来にならなかったのが、この義父だけであることを。
やがてウィリーは州知事に立候補する。
だが彼は演説が下手だった。彼は税制上の問題点を数字を示しながら誠心誠意説明するのだが、聴衆の耳には届かない。細かい数字の話なんて、誰も興味を持たないのだ。
ジャックはウィリーに演説の仕方を説教する。
「多くを語りすぎてる。ただ金持ちを一掃すると云えばいい。税金のことは忘れるんだ。聴衆を泣かせて笑わせて怒らせて、感情に訴えれば民衆はもっと聞きたくて集まってくる。」
ジャックは気付いていないが、これでは義父の指摘どおりだ。民衆を愚か者扱いし、煽ることを考えている。
とはいえ、これは現在の選挙戦でも大事なポイントだ。
2005年、小泉純一郎首相は郵政民営化の是非を問うため衆議院を解散した。この総選挙において、テレビCM等で知られるクリエイティブディレクター岡康道氏は民主党の宣伝を担当していた。
岡氏は自民党が圧勝したこの選挙を振り返り、次のように語っている。
---
小泉純一郎は、とってもシンプルに民営化、それだけ、と絞っていたから、論点ははっきりしていた。それで、民主党の党首だった岡田克也さんには、向こうの戦略はこうだから、こちらもシンプルに選挙を戦いましょうと提案した。
ところが岡田さんがいわく、「政治というのは複雑なものです。その複雑なものをシンプルに表現したら、これは詐欺です」と。それで僕も、いや、この人、本気なんだな、と信念を感じて、複雑なまま広告にして、大敗しちゃったわけです。
(略)
確かにマスメディアの発達とか、国民の理解度とかの分析をすると、政治家の発言は、シンプルにして、何度も言うというのが効く、というのはあるんだよ。それは岡田さんだってちゃんと分かっている。だけど彼は、どんな手を打っても勝つ、ということよりは、自分の信念を貫いた方がいい、とした。
---
この大敗を受けて岡田克也氏は党首を辞任、民主党は2009年の総選挙ではシンプルに「政権交代」一色を打ち出し、大勝利を収めることになる。
ウィリー・スタークも、メモを見ながら数字の説明をしていたときは聴衆の心を掴めなかったが、大声で金持ちを批判し、対立候補を罵倒し、自分が聴衆と同じ田舎者でしかないことをアピールすると、にわかに支持が高まった。
それでも、はじめての州知事戦では惜敗してしまったウィリーだが、彼はこの戦いで勝ち方を学んだ。
二度目の州知事戦に臨んだ彼は、もう細かいデータなんか用意しなかった。
「私の選挙方針はこうだ。『私欲に満ちた金持ちを一掃してやる!』」
これはかつてジャックが云わせようとしたことだった。
彼の「選挙方針」は貧困層に受け、彼は遂に州知事となる。
ウィリーに対して懐疑的な者もいた。
エリート医師のアダム・スタントンは、ウィリーに良からぬ取引の噂があることを問い質した。
ウィリーは、取引があることは認めた上で、逆にアダムに聞き返した。
ウィリー「善人のあなたに訊きたい。」
アダム「どうぞ。」
ウィリー「善はどこから来ますか?」
アダム「あなたが答えてください。」
ウィリー「善は悪から生まれるんです。他のものからは生まれません。判りますか。」
アダム「いいえ、まったく。では聞かせてください。あなたははじめに悪があり、善はそこから来るというが、善や悪を決めるのは誰ですか。あなた?」
ウィリー「そうだ。」
アダム「方法は?」
ウィリー「簡単です。その場で作っちゃうんですよ。」
権勢を誇ったウィリーだが、違法行為を問われて議会で弾劾されることになると、民衆を味方にするために演説会を重ねた。
ナレーション「州を駆け回って次々に演説を行ったが、すべて云いたいことは一つだった。『非難されているのは民衆だ』と。相手を責め続け、長く強く大きな声で叫び続けると、民衆は彼を信じた。信じなかったときのために、彼はみずからデモを組織した。」
ウィリー「いいか、田舎者たちを集めろ。農村から全員駆り出してこい。全員だ。田舎者を駆り出せ!」
こうして議事堂は、ウィリーを支持する民衆に取り囲まれた。
ウィリーのやり方に嫌気が差したジャックは、ウィリーの許を去ろうとする。
その頃、ウィリーを恨む医師アダム・スタントンは、史実のヒューイ・ロング殺害事件のようにウィリーを襲撃する。
ウィリーのボディガードによって蜂の巣にされるアダム。
ジャックは、錯乱するアダムの妹アンを押さえつけて叫ぶ。
「アダムの死を無駄にしないようにしなくちゃいけない。アン、僕たちはアダムの死に意味を持たせなくちゃいけないんだ。」そして議事堂を取り巻く群衆を指して「あの人たちを見ろ。見るんだ。ウィリーを信じてる。彼らにアダムの気持ちを理解させなければ彼の死には意味がない。」
私はこのセリフを聴いてハッとした。
私たちは何ごとにも、目的や意味を求めがちだ。「何のために生まれたのか」「何のためにあるのか」と、つい考えてしまう。このような性質は人間が生まれつき備えるもので、求めるような目的や意味はないことがなかなか理解できない。
このセリフが重要なのは、ジャックが「アダムの死に意味がある」とは云ってないことだ。意味のあることだから落ち着け、と云うのではない。残った自分たちが「意味を持たせなくちゃいけない」と主張しているのだ。
なるほど、ものごとに勝手に意味を見出して納得する人は多いかもしれない。
しかし、意味を持たせるべく行動している人がどれだけいるだろうか。
本作は、ヒューイ・ロング殺害事件からたったの14年後、弟のアール・ロングがルイジアナ州知事になり、息子のラッセル・ロングが上院議員になった翌年に公開された。
このような時期に、殺人犯こそ善人だったと訴える映画をつくるとは、それがアカデミー賞の作品賞を制するとは、まったくもって驚きだ。
映画の作り手自身が、民衆にアダムの気持ちを理解させなければ彼の死には意味がないと考えていたのだろう。
アダム――それは最初の人間にして、善悪の知識の木の実を食べた男の名である。
[*] 文中のセリフは、有馬康作氏の訳を参考にした。
『オール・ザ・キングスメン』 [あ行]
監督・制作・脚本/ロバート・ロッセン
出演/ブロデリック・クロフォード ジョン・アイアランド マーセデス・マッケンブリッジ ジョーン・ドルー ジョン・デレク アン・シーモア シェパード・ストラドウィック ポール・フォード
日本公開/1976年9月25日 米国公開/1949年11月8日
ジャンル/[ドラマ]
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1976年に日本で封切られた『オール・ザ・キングスメン』は、すでにハブリック・ドメイン扱いなのでごく安価にDVDを買うことができる。
なぜ、1976年の封切り作がハブリック・ドメインかといえば、アメリカ本国では1949年に公開された映画だからだ。アカデミー賞の7部門にノミネートされ、作品賞、主演男優賞、助演女優賞を獲得した傑作でありながら、27年ものあいだ日本には入ってこなかった。
この間の事情をKINENOTEでは「政治の裏側を徹底して暴いているため、政治的圧力を受けて日本公開されなかった問題作」と説明している。
「政治的圧力」なんて禍々しく表現すると陰謀論のようだが、1949年といえば日本は独立国ではなく、GHQ (General Headquarters)が統治していた頃だ。アメリカ映画はGHQが設立した Central Motion Picture Exchange (セントラル映画社)を通してしか輸入されず、ようやくGHQによる検閲が映倫(映画倫理規程管理委員会)の審査に切り替わったところだった。
こんな時期に、監督・脚本を務めたロバート・ロッセンが赤狩りの一環で下院非米活動委員会へ召喚され、元共産党員であることが取り沙汰されるような映画を、あえて日本に輸入する者がいるだろうか。当時米国ではマッカーシズムが吹き荒れており、日本でも第3次吉田内閣が下院非米活動委員会をモデルにして共産主義勢力を取り締まろうとしていた。
もしもロバート・ロッセンが召喚されなければ、本作はアカデミー賞の監督賞と脚色賞だって受賞していたかもしれない。
本作はたしかに政治家の汚さ、強欲ぶりを描いており、「政治の裏側を徹底して暴いて」いる。他の映画紹介でも、同様の観点で書かれた記事が多い。
「政界浄化を唱え知事選にうって出た小役人が、二度の落選で理想主義を地にまみれさせ、俗物に堕ちて行く様を描く」(allcinema)
「野心家の地方政治家が権力欲の虜となって自滅していく様を描く硬派のドラマ作品」(ウィキペディア)
だが、一政治家の汚職よりもこの映画が刺激的だったのは、富裕層と貧困層を対比した描き方だろう。
金持ちはみんな傲慢で汚く、貧困層はなけなしの金を税という制度で取り上げられる。政府に不満を持つ民衆が大規模なデモ隊を組み、議事堂を取り囲んでシュプレヒコールを上げる。
21世紀の今では何のこともない描写だが、激しくなる労働運動をGHQが制限しようとしていた当時は強烈だったに違いない。
このように、民衆を描いていることが本作の特徴だ。
政治家の汚さや権力欲を描いた映画は少なくないし、最近でも『スーパー・チューズデー ~正義を売った日~』が選挙戦の裏側を描いていた。
だが、『オール・ザ・キングスメン』が本当に問いかけているのは、政治家の素行などではない。
もっと大きな問題――その政治家を支持したのは誰なのか、選んだのは誰なのかという問題だ。
『スーパー・チューズデー ~正義を売った日~』に足りないのはこれだった。激しい選挙戦が展開されながら、そこには選挙民が描かれていなかった。
だから本作は富裕層と貧困層の格差を憂う映画でも、議事堂を取り囲む民衆を応援する映画でもない。
簡単に煽られてしまう民衆の怖さ、群れを成して騒ぐことで民主主義に貢献したつもりになっている民衆の底の浅さこそがあぶり出されている。
『オール・ザ・キングスメン』は、ピューリッツァー賞を受賞した1947年の小説の映画化だ。
主人公ウィリー・スタークは、元ルイジアナ州知事のヒューイ・ロング上院議員がモデルだという。ヒューイ・ロングは、もしも1935年に医師カール・ワイスに射殺されなければ、フランクリン・ルーズベルトに代わって第二次世界大戦時の大統領職にあったかもしれない人物だ。
原題「All The King's Men(王様の家来みんな)」はハンプティ・ダンプティ(卵)の詩に由来するが、ロングの掲げたスローガン「Every Man a King(みんなが王様)」のもじりでもあるのだろう。
題名のとおり、本作は田舎の出納官ウィリー・スタークが権力の座にのし上がり汚れていく中で、みんな彼に服従するだけになっていく。
本作の魅力は、何といってもロバート・ロッセン監督みずから手掛けた脚本にある。物語にはスキがなく、鋭いセリフが丁丁発止と飛び交う。
とくに印象的なセリフを、以下に紹介しよう。
物語の冒頭、郡の役人から嫌がらせを受けながら、それでもひるまず役所の不正について演説するウィリーを、新聞記者のジャック・バーデンが取材する。
ジャックは、愚直なウィリーの姿に感銘を受けて彼の紹介記事を書き、その最後にこう記した。
「スタークは滅多にいない勇敢で正直な人物だ。」
このとき、ジャックは本気でそう思っていた。
けれどもジャックの義父は、記事を読んでたしなめる。
義父「君の記事を読ませてもらったよ。『ウィリー・スターク』。上手いが、あれは出来すぎだ。」
ジャック「支持者はたくさんいます。」
義父「愚かな連中だ。あんな記事を載せてはいけない。民衆を煽るだけだ。」
大富豪の義父は尊大で失礼な男だ。ジャックは義父に反発する。
この時点では映画の観客も、正義漢のウィリーや一本気なジャックの肩を持っているから、義父の言葉は不愉快に聞こえる。
後になって観客は知ることになる。本作でただ一人、他人の家来にならなかったのが、この義父だけであることを。
やがてウィリーは州知事に立候補する。
だが彼は演説が下手だった。彼は税制上の問題点を数字を示しながら誠心誠意説明するのだが、聴衆の耳には届かない。細かい数字の話なんて、誰も興味を持たないのだ。
ジャックはウィリーに演説の仕方を説教する。
「多くを語りすぎてる。ただ金持ちを一掃すると云えばいい。税金のことは忘れるんだ。聴衆を泣かせて笑わせて怒らせて、感情に訴えれば民衆はもっと聞きたくて集まってくる。」
ジャックは気付いていないが、これでは義父の指摘どおりだ。民衆を愚か者扱いし、煽ることを考えている。
とはいえ、これは現在の選挙戦でも大事なポイントだ。
2005年、小泉純一郎首相は郵政民営化の是非を問うため衆議院を解散した。この総選挙において、テレビCM等で知られるクリエイティブディレクター岡康道氏は民主党の宣伝を担当していた。
岡氏は自民党が圧勝したこの選挙を振り返り、次のように語っている。
---
小泉純一郎は、とってもシンプルに民営化、それだけ、と絞っていたから、論点ははっきりしていた。それで、民主党の党首だった岡田克也さんには、向こうの戦略はこうだから、こちらもシンプルに選挙を戦いましょうと提案した。
ところが岡田さんがいわく、「政治というのは複雑なものです。その複雑なものをシンプルに表現したら、これは詐欺です」と。それで僕も、いや、この人、本気なんだな、と信念を感じて、複雑なまま広告にして、大敗しちゃったわけです。
(略)
確かにマスメディアの発達とか、国民の理解度とかの分析をすると、政治家の発言は、シンプルにして、何度も言うというのが効く、というのはあるんだよ。それは岡田さんだってちゃんと分かっている。だけど彼は、どんな手を打っても勝つ、ということよりは、自分の信念を貫いた方がいい、とした。
---
この大敗を受けて岡田克也氏は党首を辞任、民主党は2009年の総選挙ではシンプルに「政権交代」一色を打ち出し、大勝利を収めることになる。
ウィリー・スタークも、メモを見ながら数字の説明をしていたときは聴衆の心を掴めなかったが、大声で金持ちを批判し、対立候補を罵倒し、自分が聴衆と同じ田舎者でしかないことをアピールすると、にわかに支持が高まった。
それでも、はじめての州知事戦では惜敗してしまったウィリーだが、彼はこの戦いで勝ち方を学んだ。
二度目の州知事戦に臨んだ彼は、もう細かいデータなんか用意しなかった。
「私の選挙方針はこうだ。『私欲に満ちた金持ちを一掃してやる!』」
これはかつてジャックが云わせようとしたことだった。
彼の「選挙方針」は貧困層に受け、彼は遂に州知事となる。
ウィリーに対して懐疑的な者もいた。
エリート医師のアダム・スタントンは、ウィリーに良からぬ取引の噂があることを問い質した。
ウィリーは、取引があることは認めた上で、逆にアダムに聞き返した。
ウィリー「善人のあなたに訊きたい。」
アダム「どうぞ。」
ウィリー「善はどこから来ますか?」
アダム「あなたが答えてください。」
ウィリー「善は悪から生まれるんです。他のものからは生まれません。判りますか。」
アダム「いいえ、まったく。では聞かせてください。あなたははじめに悪があり、善はそこから来るというが、善や悪を決めるのは誰ですか。あなた?」
ウィリー「そうだ。」
アダム「方法は?」
ウィリー「簡単です。その場で作っちゃうんですよ。」
権勢を誇ったウィリーだが、違法行為を問われて議会で弾劾されることになると、民衆を味方にするために演説会を重ねた。
ナレーション「州を駆け回って次々に演説を行ったが、すべて云いたいことは一つだった。『非難されているのは民衆だ』と。相手を責め続け、長く強く大きな声で叫び続けると、民衆は彼を信じた。信じなかったときのために、彼はみずからデモを組織した。」
ウィリー「いいか、田舎者たちを集めろ。農村から全員駆り出してこい。全員だ。田舎者を駆り出せ!」
こうして議事堂は、ウィリーを支持する民衆に取り囲まれた。
ウィリーのやり方に嫌気が差したジャックは、ウィリーの許を去ろうとする。
その頃、ウィリーを恨む医師アダム・スタントンは、史実のヒューイ・ロング殺害事件のようにウィリーを襲撃する。
ウィリーのボディガードによって蜂の巣にされるアダム。
ジャックは、錯乱するアダムの妹アンを押さえつけて叫ぶ。
「アダムの死を無駄にしないようにしなくちゃいけない。アン、僕たちはアダムの死に意味を持たせなくちゃいけないんだ。」そして議事堂を取り巻く群衆を指して「あの人たちを見ろ。見るんだ。ウィリーを信じてる。彼らにアダムの気持ちを理解させなければ彼の死には意味がない。」
私はこのセリフを聴いてハッとした。
私たちは何ごとにも、目的や意味を求めがちだ。「何のために生まれたのか」「何のためにあるのか」と、つい考えてしまう。このような性質は人間が生まれつき備えるもので、求めるような目的や意味はないことがなかなか理解できない。
このセリフが重要なのは、ジャックが「アダムの死に意味がある」とは云ってないことだ。意味のあることだから落ち着け、と云うのではない。残った自分たちが「意味を持たせなくちゃいけない」と主張しているのだ。
なるほど、ものごとに勝手に意味を見出して納得する人は多いかもしれない。
しかし、意味を持たせるべく行動している人がどれだけいるだろうか。
本作は、ヒューイ・ロング殺害事件からたったの14年後、弟のアール・ロングがルイジアナ州知事になり、息子のラッセル・ロングが上院議員になった翌年に公開された。
このような時期に、殺人犯こそ善人だったと訴える映画をつくるとは、それがアカデミー賞の作品賞を制するとは、まったくもって驚きだ。
映画の作り手自身が、民衆にアダムの気持ちを理解させなければ彼の死には意味がないと考えていたのだろう。
アダム――それは最初の人間にして、善悪の知識の木の実を食べた男の名である。
[*] 文中のセリフは、有馬康作氏の訳を参考にした。
![オール・ザ・キングスメン [DVD]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/51M6sNF0YxL._SL160_.jpg)
監督・制作・脚本/ロバート・ロッセン
出演/ブロデリック・クロフォード ジョン・アイアランド マーセデス・マッケンブリッジ ジョーン・ドルー ジョン・デレク アン・シーモア シェパード・ストラドウィック ポール・フォード
日本公開/1976年9月25日 米国公開/1949年11月8日
ジャンル/[ドラマ]


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