『ホワイトハウス・ダウン』 愛国者の条件
異星人に制圧された米国とその解放のために立ち上がる大統領を、米国の独立戦争になぞらえて描いた『インデペンデンス・デイ』(1996年)は、さぞかし米国民の愛国心を高揚させたに違いない。
その迫力ある映像と、大統領みずから戦闘機に乗って異星人と戦う熱い物語は世界の観客を魅了し、米国だけで3億ドル以上、全世界では8億ドル以上を稼ぐ大ヒットとなった。その後もヒットを飛ばしたローランド・エメリッヒ監督だが、今もってこの作品が彼のナンバーワンヒットである。
やっぱり観客を熱狂させるのは愛国心だ、とエメリッヒ監督が考えたかどうかはともかく、2013年の監督作『ホワイトハウス・ダウン』も愛国心を鼓舞することでは負けていない。
テロリストに制圧されたホワイトハウス。警備陣が全滅する中、危機的状況を打開するために立ち上がるのは、大統領本人と見学に訪れていた警察官親子。
愛国心を高揚させるのに、これ以上のシチュエーションはないだろう。
米国に愛国心を抱くのは米国人だけだが、愛国心という感情はどの国の人にも多かれ少なかれあるから、愛国心を前面に出した作品づくりは普遍的たり得る。
愛国心の強弱大小にかかわらず、自国の中枢をテロリストに襲われて平気な人はいないはずだ。
人間集団には、他の集団に接触すると打ち負かさずにはいられない本能がある。
しかも自分の属する集団をひいきする内集団バイアスにより、他の集団よりも自分たちの方が優秀だと思いがちだ。
本当に優れているのかどうかは関係ない。まず自分たちは優れているという結論があり、その一員たる自分も優れていると思いたいのだ。
この現象を説明するのが社会的アイデンティティ(SI)理論である。
SI理論は、次の3つの理論的仮定により構成されるという。
1. 人は、自分の所属する集団からアイデンティティの一部を引き出している。それがSIである。
2. 人は、自らのSIを維持、高揚しようとする動機に従って行動する。
3. 人は、現在の所属集団から得るSIに満足できない場合、社会移動(所属集団を替える)、社会的競争(他の集団と競争し、他の集団を差別することなどによって、自集団の優越性を保つこと)、社会的創造(これまでとは違った次元で他の集団との比較をすることによって、自集団が優位になるようにすること)の3つの方略のどれかを用いて、自分のSIを満足なものにしようとする。
たとえば、私たちは高校野球になると(直接の知り合いでもないのに)地元や出身地のチームを応援するし、ワールドカップやオリンピックでは(一生話すこともない)自国選手を応援し、国際映画祭で邦画が賞を受ければ(自分が作ったわけでもないのに)喜ぶ。自分の属する集団が高く評価されたと思うことが、自分の高評価に繋がるように感じるのだ。
そして個人的な恨みはまったくないのに、他県や他国の選手が失敗すると快哉を叫ぶ。
だから複数の人間集団が対等の関係を築くのは難しい。
自分の属する集団(自国)が他集団(他国)を屈服させないと、私たちは満足しない。二つの集団が対等だったら、内集団バイアスによって自分たちを優越だと思う気持ちが満たされず、自己の評価も損なわれたように感じるだろう。
双方ともに、自分たちが優位に立ち、相手を屈服させるまで満足しないなら、集団間の争いが止むはずもない。
現代の主権国家体制においては「自分たちの集団 = 自国」と考える人がいるのは自然であり、その意味で愛国心は誰の心にも存在し得る。
そのため愛国心をくすぐる本作は一見すると米国礼賛のようでありながら、その実、誰にとっても感情移入しやすい。
本作が面白いのは、敵もまた愛国心で一杯なことだ。
劇中、米国大統領はイランの新政権との平和外交を展開しようとする。
ホワイトハウスを占拠するのは米国の愛国者たちであり、現政権の平和外交を軟弱だと思っている。そのため、自分たちが米国の武力を掌握し、中東の「ならず者国家」を抹殺しようと企むのだ。
私は『エンド・オブ・ホワイトハウス』の記事で「優れた創作者には、現実に起きることを見通す力があるのだろうか」と書いた。
本作もまた現実の情勢を見事に捉え、まことに時宜を得た映画である。
2013年8月、イランの新大統領にハサン・ロウハニ氏が就任した。選挙によって、これまでの政権とは距離を置くロウハニ氏が大統領に選ばれたことで、イランは「過激主義の時代が終了し、穏健主義の時代が始まった」と云われる。ロウハニ氏は外国との対話を重視し、国際社会で孤立しがちなイランの地位改善に尽力すると見られている。
まさしく今は、『ホワイトハウス・ダウン』でジェイミー・フォックス演じる米国大統領が行おうとしたとおり、イランとの対話を深める絶好のタイミングなのだ。
とはいえ、強硬姿勢を貫くべきと考える米国人もいるだろう。それを愛国心ゆえと正当化する者もいるはずだ。
一口に愛国心と云っても、そこには自分の郷里に愛着を抱く愛郷心から、排外的なほどの国粋主義まで、様々な心情が混ざっていよう。
本作は観客の愛国心を鼓舞しながらも、過激な国粋主義者や人種差別主義者を敵役に据えることで、他国に攻撃的な態度が愛国と云えるのか、その心のあり様を問うている。
映画を観れば、愛国心に溢れる人ほど、主人公親子に感情移入するに違いない。そして親子を脅かす国粋主義者たちが、いかにも行き過ぎで、国に害をなすだけであると感じるだろう。
国粋主義者たちが粉砕されるクライマックスには、誰もが快哉を叫ぶはずだ。
武力外交をいさめたり、他国との信頼構築に努めるよう諭すよりも、これは平和を説く手段としてよほど効果があるだろう。波乱万丈のストーリーを楽しみながら、他国を敵視するような人間は愛国者と呼ぶに相応しくないことが誰でもすんなり理解できる。
愛国心をもって愛国心を制す。無骨に平和を叫ぶのではなく、この構造を採用したことが本作の肝である。
誰もが多かれ少なかれ愛国心を持つがゆえに、そしてそれが人間の本能とも云うべき内集団バイアスに基づくがゆえに、愛国心を映画の題材として冷静に取り上げるのは難しかったはずだ。映画の作り手さえも、そのバイアスを免れないからだ。
本作がそれを実現できたのは、ドイツ人のローランド・エメリッヒが監督したからだろう。
米国人監督による米国礼賛映画だったら、他国の観客には鼻もちならなくて見るに耐えなかったに違いない。
内集団バイアスの原因は、自己評価を高めようとする動機にあるという。自己評価が脅かされているほど、集団への自己同一視が大きいほど内集団バイアスが現れやすい。
であるならば、集団とは関わりなく個人が評価され、個人として満ち足りていれば、内集団バイアスは低下するはずだ。
本作の主人公が、事件を通して子供からの信頼を取り戻し、元カノに見直される意味はそこにある。
天下国家を憂うのも良いが、まずは自分の家族と良好な関係を築こう。
本作のメッセージが、多くの人に伝わることを切に願う。
『ホワイトハウス・ダウン』 [は行]
監督/ローランド・エメリッヒ 脚本/ジェームズ・ヴァンダービルト
出演/チャニング・テイタム ジェイミー・フォックス マギー・ギレンホール ジェイソン・クラーク リチャード・ジェンキンス ジョーイ・キング ジェームズ・ウッズ
日本公開/2013年8月16日
ジャンル/[アクション] [サスペンス]
http://bookmarks.yahoo.co.jp/bookmarklet/showpopup?t='+encodeURIComponent(document.title)+'&u='+encodeURIComponent(location.href)+'&ei=UTF-8','_blank','width=550,height=480,left=100,top=50,scrollbars=1,resizable=1',0);">
その迫力ある映像と、大統領みずから戦闘機に乗って異星人と戦う熱い物語は世界の観客を魅了し、米国だけで3億ドル以上、全世界では8億ドル以上を稼ぐ大ヒットとなった。その後もヒットを飛ばしたローランド・エメリッヒ監督だが、今もってこの作品が彼のナンバーワンヒットである。
やっぱり観客を熱狂させるのは愛国心だ、とエメリッヒ監督が考えたかどうかはともかく、2013年の監督作『ホワイトハウス・ダウン』も愛国心を鼓舞することでは負けていない。
テロリストに制圧されたホワイトハウス。警備陣が全滅する中、危機的状況を打開するために立ち上がるのは、大統領本人と見学に訪れていた警察官親子。
愛国心を高揚させるのに、これ以上のシチュエーションはないだろう。
米国に愛国心を抱くのは米国人だけだが、愛国心という感情はどの国の人にも多かれ少なかれあるから、愛国心を前面に出した作品づくりは普遍的たり得る。
愛国心の強弱大小にかかわらず、自国の中枢をテロリストに襲われて平気な人はいないはずだ。
人間集団には、他の集団に接触すると打ち負かさずにはいられない本能がある。
しかも自分の属する集団をひいきする内集団バイアスにより、他の集団よりも自分たちの方が優秀だと思いがちだ。
本当に優れているのかどうかは関係ない。まず自分たちは優れているという結論があり、その一員たる自分も優れていると思いたいのだ。
この現象を説明するのが社会的アイデンティティ(SI)理論である。
SI理論は、次の3つの理論的仮定により構成されるという。
1. 人は、自分の所属する集団からアイデンティティの一部を引き出している。それがSIである。
2. 人は、自らのSIを維持、高揚しようとする動機に従って行動する。
3. 人は、現在の所属集団から得るSIに満足できない場合、社会移動(所属集団を替える)、社会的競争(他の集団と競争し、他の集団を差別することなどによって、自集団の優越性を保つこと)、社会的創造(これまでとは違った次元で他の集団との比較をすることによって、自集団が優位になるようにすること)の3つの方略のどれかを用いて、自分のSIを満足なものにしようとする。
たとえば、私たちは高校野球になると(直接の知り合いでもないのに)地元や出身地のチームを応援するし、ワールドカップやオリンピックでは(一生話すこともない)自国選手を応援し、国際映画祭で邦画が賞を受ければ(自分が作ったわけでもないのに)喜ぶ。自分の属する集団が高く評価されたと思うことが、自分の高評価に繋がるように感じるのだ。
そして個人的な恨みはまったくないのに、他県や他国の選手が失敗すると快哉を叫ぶ。
だから複数の人間集団が対等の関係を築くのは難しい。
自分の属する集団(自国)が他集団(他国)を屈服させないと、私たちは満足しない。二つの集団が対等だったら、内集団バイアスによって自分たちを優越だと思う気持ちが満たされず、自己の評価も損なわれたように感じるだろう。
双方ともに、自分たちが優位に立ち、相手を屈服させるまで満足しないなら、集団間の争いが止むはずもない。
現代の主権国家体制においては「自分たちの集団 = 自国」と考える人がいるのは自然であり、その意味で愛国心は誰の心にも存在し得る。
そのため愛国心をくすぐる本作は一見すると米国礼賛のようでありながら、その実、誰にとっても感情移入しやすい。
本作が面白いのは、敵もまた愛国心で一杯なことだ。
劇中、米国大統領はイランの新政権との平和外交を展開しようとする。
ホワイトハウスを占拠するのは米国の愛国者たちであり、現政権の平和外交を軟弱だと思っている。そのため、自分たちが米国の武力を掌握し、中東の「ならず者国家」を抹殺しようと企むのだ。
私は『エンド・オブ・ホワイトハウス』の記事で「優れた創作者には、現実に起きることを見通す力があるのだろうか」と書いた。
本作もまた現実の情勢を見事に捉え、まことに時宜を得た映画である。
2013年8月、イランの新大統領にハサン・ロウハニ氏が就任した。選挙によって、これまでの政権とは距離を置くロウハニ氏が大統領に選ばれたことで、イランは「過激主義の時代が終了し、穏健主義の時代が始まった」と云われる。ロウハニ氏は外国との対話を重視し、国際社会で孤立しがちなイランの地位改善に尽力すると見られている。
まさしく今は、『ホワイトハウス・ダウン』でジェイミー・フォックス演じる米国大統領が行おうとしたとおり、イランとの対話を深める絶好のタイミングなのだ。
とはいえ、強硬姿勢を貫くべきと考える米国人もいるだろう。それを愛国心ゆえと正当化する者もいるはずだ。
一口に愛国心と云っても、そこには自分の郷里に愛着を抱く愛郷心から、排外的なほどの国粋主義まで、様々な心情が混ざっていよう。
本作は観客の愛国心を鼓舞しながらも、過激な国粋主義者や人種差別主義者を敵役に据えることで、他国に攻撃的な態度が愛国と云えるのか、その心のあり様を問うている。
映画を観れば、愛国心に溢れる人ほど、主人公親子に感情移入するに違いない。そして親子を脅かす国粋主義者たちが、いかにも行き過ぎで、国に害をなすだけであると感じるだろう。
国粋主義者たちが粉砕されるクライマックスには、誰もが快哉を叫ぶはずだ。
武力外交をいさめたり、他国との信頼構築に努めるよう諭すよりも、これは平和を説く手段としてよほど効果があるだろう。波乱万丈のストーリーを楽しみながら、他国を敵視するような人間は愛国者と呼ぶに相応しくないことが誰でもすんなり理解できる。
愛国心をもって愛国心を制す。無骨に平和を叫ぶのではなく、この構造を採用したことが本作の肝である。
誰もが多かれ少なかれ愛国心を持つがゆえに、そしてそれが人間の本能とも云うべき内集団バイアスに基づくがゆえに、愛国心を映画の題材として冷静に取り上げるのは難しかったはずだ。映画の作り手さえも、そのバイアスを免れないからだ。
本作がそれを実現できたのは、ドイツ人のローランド・エメリッヒが監督したからだろう。
米国人監督による米国礼賛映画だったら、他国の観客には鼻もちならなくて見るに耐えなかったに違いない。
内集団バイアスの原因は、自己評価を高めようとする動機にあるという。自己評価が脅かされているほど、集団への自己同一視が大きいほど内集団バイアスが現れやすい。
であるならば、集団とは関わりなく個人が評価され、個人として満ち足りていれば、内集団バイアスは低下するはずだ。
本作の主人公が、事件を通して子供からの信頼を取り戻し、元カノに見直される意味はそこにある。
天下国家を憂うのも良いが、まずは自分の家族と良好な関係を築こう。
本作のメッセージが、多くの人に伝わることを切に願う。
![ホワイトハウス・ダウン プレミアム・エディション(初回生産限定) [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/51olia-Ex9L._SL160_.jpg)
監督/ローランド・エメリッヒ 脚本/ジェームズ・ヴァンダービルト
出演/チャニング・テイタム ジェイミー・フォックス マギー・ギレンホール ジェイソン・クラーク リチャード・ジェンキンス ジョーイ・キング ジェームズ・ウッズ
日本公開/2013年8月16日
ジャンル/[アクション] [サスペンス]


【theme : アクション映画】
【genre : 映画】
tag : ローランド・エメリッヒチャニング・テイタムジェイミー・フォックスマギー・ギレンホールジェイソン・クラークリチャード・ジェンキンスジョーイ・キングジェームズ・ウッズ
『宇宙戦艦ヤマト2199 第七章 そして艦は行く』 西崎義展かく語りき
『宇宙戦艦ヤマト』第1テレビシリーズが当初の予定どおり39話まであったなら、古代進の兄・守はキャプテンハーロックとして登場するはずだった。
テレビシリーズは全26話に削られてしまいこの構想は実現しなかったが、松本零士氏の手によるマンガ版では、ヤマトを助けるキャプテンハーロックを見ることができる。
旧作で未使用に終わった構想の数々を実現させた『宇宙戦艦ヤマト2199』でも、さすがにこれはやらないだろうと思っていたら、古代守がキャプテンハーロックの親友トチローとなって出てきたのには驚いた。
『宇宙海賊キャプテンハーロック』のトチローはすでに故人となっており、海賊船アルカディア号の中枢大コンピューターにその意志と記憶を留めている。そのためアルカディア号は、乗組員の操作とは関係なくトチローの意思で動くことがある。
古代守もまた、イスカンダルの技術によりその意志と記憶が保存され、コスモリバースシステムを通してヤマトと一体になった。
最終章となる『宇宙戦艦ヤマト2199 第七章 そして艦は行く』で持ち出されたまさかのハーロックネタには、見事に一本取られてしまった。
第1テレビシリーズの第1話をきわめて忠実に再現した『宇宙戦艦ヤマト2199』は、回を追うごとに旧作から乖離していった。それは嬉しい計らいでもあり、ファンは旧作の素晴らしさを思いつつ、新作の驚くべき展開を楽しんだ。
それでも乖離が大きくなるにつれ、本作がどのように終わるのか、期待とともに不安を募らせる人もいたに違いない。
しかし、最後の第23~26話は、古代守の意表を突いた登場で楽しませながら、再び旧作の世界に収束した。旧作をきわめて忠実に再現した幕切れに、ファン諸氏は『宇宙戦艦ヤマト』第1テレビシリーズを見終えたときのような感慨を抱くだろう。
本作が旧作から離れたように見えたのは、旧作とは違うことをするためではなく、別の味付けをするのでもなく、あくまで旧作と同じ内容を語り直すためであったのだ。
旧第24話で、ガミラスを滅ぼした古代進は「我々がしなければならなかったのは戦うことじゃない。愛し合うことだった。」と口にする。
『宇宙戦艦ヤマト』の中でもとりわけ印象深く重要な言葉だが、旧作ではあまりにもストレートで唐突なセリフだった。
本作で作り手が取り組んだのは、このセリフの意図するものを、物語を通して受け手に感じてもらうことだった。旧作からの乖離に見えたことすらも、すべてはそのためだろう。
本作の鍵となるものに、波動砲の扱いがある。
『スター・キング』のディスラプターをはじめ、SFにはしばしば一撃で敵を壊滅させる最終兵器が登場する。ウルトラマンのスペシウム光線にしろ、眠狂四郎の円月殺法にしろ、ヒーローに必殺技はつきものであり、旧ヤマトの波動砲もその流れの一つだろう。
だが本作では、波動砲が波動エンジンの悪しき使い方であると説明される。
ディスラプターのような最終兵器と異なるのは、波動エンジンが平和利用に貢献している点だ。それは莫大なエネルギーを供給して人々の役に立つ反面、使い方によってはたいへん危険な兵器にもなる。いずれにせよ、人々の叡智を結集し、慎重な手つきで扱わねばならないもの。これはもちろん原子力のメタファーだ。
都市を丸ごと破壊する遊星爆弾や、放射性物質による汚染という旧作の設定が、原子爆弾をイメージしているのは明らかだろう。
ここから一歩踏み込んで、本作は爆弾を*落とされる*とか、*汚染される*といった被害者的なアプローチではなく、みずからが扱い方を問われる当事者として原子力と向き合うことを迫っている。
それを考えさせるのが、第24話「遥かなる約束の地」において波動エネルギーを兵器にしたことを理由にコスモリバースシステムの引渡しを拒まれる驚愕の展開であり、イスカンダルとの条約にしたがい封印されてしまう波動砲だ。
はたして波動エネルギーを兵器に転用したのはやむを得ないことだったのか、その使い方は本当に適切だったのか。
日ごろ必殺技を繰り出すヒーローに快哉を叫ぶ私たちは、ここに至ってその心の奥底にあるものを直視させられる。
こうして「我々がしなければならなかったのは戦うこと」かを問う一方で、本作はまた「愛し合うこと」を描く。
古代進と森雪の愛、古代守とスターシャの愛、デスラーのスターシャへの愛、セレステラのデスラーへの愛……その多重奏は、愛とロマンと冒険心をテーマにした『宇宙戦艦ヤマト』の終章に相応しい。
第七章の劇伴では、『交響組曲 宇宙戦艦ヤマト』に収められた名曲「明日への希望 ~夢・ロマン・冒険心~」が再現され、ヤマトの旅の終わりを飾る。故西崎義展プロデューサーは、この曲にヤマトのテーマが込められているとして、ライナーノートで次のように語っている。
「少年よ、ロマンを持ち冒険心を持て、少女よ、愛を持ち夢を持て、いつまでもそれを忘れることなかれ」
冒険心は旧作以上に強調され、沖田艦長の戦術は積極的なものに変わった。
旧作の沖田艦長は、しばしば敵の前で逃げ出した。それは旧第1話の「明日の為に今日の屈辱に耐えるんだ」というセリフのとおり、単なる勇猛さよりも思慮深さに重きを置いた行動だった。
けれども本作の沖田艦長は、「死中に活を求める」考えで難局に飛び込んだ。もちろんその判断が適切であると納得できる描写はあるが、旧作に比べるとそのスタンスは明らかに違う。
このように冒険心を強調するのは、高度経済成長の勢いが残る旧作の放映時期と、失われた20年とも30年とも云われ、やがて日本が先進国から脱落することも懸念される本作の時期との違いからだろう。
現代は、明日のためにこそ大胆に踏み出すことが求められているのだ。
愛を体現するのは古代進と森雪だが、宇宙を戦禍に巻き込んだデスラーでさえその動機は愛であった。
波動エネルギーの威力により宇宙を武力制圧したイスカンダルが、その過去を恥じてあまねく知的生命体を救済し、全宇宙に平和をもたらそうと願ったとき、スターシャの夢を叶えるべくデスラーが取った方法は、やはり武力による制圧だった。
残念ながらデスラーの考えは正しい。
1954年、オクラホマ大学は11歳の少年たちを集めてある実験をした。過去に面識がない少年たちをロバーズ・ケイブ州立公園に集めてサマーキャンプを開催し、集団が形成される過程を観察したのだ。
実は少年たちの集団は二つあった。
他の集団が存在することに気付いた少年たちは、互いに敵愾心を剥き出しにした。彼らは過去に面識がないのだから、何の恨みも因縁もない。けれども彼らは、集団内の結束を固める一方で、他の集団とは暴力沙汰も辞さないほど激しく対立した。
ロバーズ・ケイブ実験と呼ばれるこの件は、人間が自分たち以外の集団には敵対せずにいられないことを示している。
小さな集団を超越し、争いを抑える仕組みが国家である。
2010年から起こったアラブの春は、リビアをはじめとする独裁政権を崩壊させた。これにより民衆は独裁者の圧制から解放されたかもしれないが、同時に力で抑え込まれてきた過激派集団も「解放」され、テロ活動が激化している。
国家とは、人々から「暴力を振るう自由」を取り上げ、軍隊や警察等に集約させたものである。
国同士の戦争を見て、国家の存在が戦争の原因だと考える人がいるけれど、国家は域内の暴力を独占し、人々が勝手に争うことを抑制しているのだ。
国同士の争いを防ぐには、より大きな帝国が個々の国の軍隊等を押さえつけ、戦争の自由を奪うのが一つの解だ。ローマ帝国が地中海世界を支配して実現したパクス・ロマーナ(ローマの平和)がその例だろう。
本作においても、ガミラスに支配されたザルツ星のシュルツは、地球人の抵抗に接して「素直に降伏すれば我々のように生きる道もあったものを」とつぶやいた。併せて被支配惑星の民がデスラーを熱狂的に支持する様子も描かれている。
けれども、大帝国による支配が必ずしも人々にとって幸せとは限らない。
デスラーの目的は宇宙を平和にすることではなかった。
スターシャのために宇宙の制圧に乗り出していたデスラーは、自分の想いがスターシャには永遠に届かないと悟ったのだろう、彼女への愛の象徴である青い鳥をみずから殺してしまった。彼がスターシャの妊娠を知っていたかどうかは不明だが、スターシャの心が地球人の青年に奪われてしまったことには気付いていたのかもしれない。
スターシャに平和な宇宙をプレゼントする夢を捨てたデスラーは、地球人の船を撃破し、ガミラスとイスカンダルの統合――すなわち両星の支配者が一つになることを無理に推し進めようとする。
もはや彼にとっては、ガミラス臣民の命運でさえどうでも良いのだった。
一方のスターシャも、全宇宙の知的生命体を救済する使命感が揺らいでいた。
星の想いを封じたエレメントを触媒にして、星を再生させるコスモリバースシステム。そのエレメントには、地球を想う古代守の「心」こそが相応しい。
古代守と別れたくないスターシャにとって、ヤマトが波動エネルギーを兵器に転用したことは、コスモリバースシステムの引渡しを拒み、守をそばに留める格好の言い訳だった。
ここにも愛ゆえの苦悩がある。
旧第23話「遂に来た!!マゼラン星雲波高し!!」と旧第24話「死闘!!神よガミラスのために泣け!!」におけるガミラスの本土決戦を、本作では第23話「たった一人の戦争」にまとめ、旧第25話「イスカンダル!!滅びゆくか愛の星よ!!」のイスカンダル滞在記を第24話「遥かなる約束の地」で描いた。
このように旧作の複数話を1話にまとめて、物語のテンポを速めることはこれまでにもあった。
逆に1話のエピソードを複数話に広げることはしなかった本作が、はじめて旧作の1話を分割したのが最終話だ。
旧第26話「地球よ!!ヤマトは帰ってきた!!」を、本作ではデスラーの雪辱戦を描く第25話「終わりなき戦い」と、森雪の復活を描く第26話「青い星の記憶」に分けている。
さらに、旧第26話の肝であった森雪が古代のためにみずからコスモクリーナーDを操作して犠牲となる展開は、第23話で森雪が第二バレラス破壊の犠牲になろうとするシークエンスに発展させている。
最終話から戦闘シーンを取り除き、加藤三郎と原田真琴の結婚式や、古代守の進への愛情を交えた話にすることで、第26話は長い物語の終幕らしい余韻のある回になった。
そして何より、旧作と同じく古代進の森雪への想いを丁寧に描写して、本作が愛の物語であることを強調している。
森雪のなきがらを前にした古代進のモノローグ。地球を目にした沖田艦長が迎える死。
本作は最後に旧作の流れをほぼ忠実になぞり、懐かしい『宇宙戦艦ヤマト』へと還ってきた。
旧来のファンは、昔と同じ感慨を再び覚えることだろう。本作ではじめてヤマトを知った人も、同じ感慨を抱くに違いない。
歳月をこえて、世代をこえて、『宇宙戦艦ヤマト』の感動が私たちの胸に迫る。
必ずここへ帰って来るとの約束は、今こうして果たされた。
ヤマトの前に浮かぶ赤茶けたちっぽけな星は、私たち人類が宇宙の中の小さな集団でしかないことを示している。
ロバーズ・ケイブ実験には続きがある。
激しく対立し、大乱闘になるほど険悪だった少年たちの集団は、協力しなければ解決できない大きな困難を経験することで関係が変わっていった。二つの集団の全員が力を合わせてトラブルを乗り越えるうちに、対立は影を潜め、良好な関係が築かれたという。
ヤマトの乗組員とともに33万6千光年を旅した私たちは、天の川銀河の端っこにある地球が、人間同士で反目しあうほど大きな世界ではないと感じていよう。
地球の青さを保つには、全員の力を合わせる必要があることも。
そんな感慨とともに、この物語を送り届けてくれたすべてのスタッフ・キャストに心からの感謝を捧げたい。
劇場で一緒に拍手した多くの方々、本作について語り合えた方々、新旧ヤマトを愛するすべての方々にも「ありがとう」と伝えたい。
『宇宙戦艦ヤマト2199 第七章 そして艦は行く』 [あ行][テレビ]
第23話『たった一人の戦争』 脚本/森田繁 絵コンテ/樋口真嗣、出渕裕 演出/別所誠人
第24話『遥かなる約束の地』 脚本/大野木寛 絵コンテ/佐藤順一 演出/蛭川幸太郎
第25話『終わりなき戦い』 脚本/村井さだゆき 絵コンテ/大倉雅彦 演出/大倉雅彦、野亦則行
第26話『青い星の記憶』 脚本/出渕裕 絵コンテ/京田知己 演出/榎本明広
総監督・シリーズ構成/出渕裕 原作/西崎義展
チーフディレクター/榎本明広 キャラクターデザイン/結城信輝
音楽/宮川彬良、宮川泰
出演/菅生隆之 小野大輔 鈴村健一 桑島法子 大塚芳忠 山寺宏一 麦人 千葉繁 田中理恵 久川綾
日本公開/2013年8月23日
ジャンル/[SF] [アドベンチャー] [戦争]
http://bookmarks.yahoo.co.jp/bookmarklet/showpopup?t='+encodeURIComponent(document.title)+'&u='+encodeURIComponent(location.href)+'&ei=UTF-8','_blank','width=550,height=480,left=100,top=50,scrollbars=1,resizable=1',0);">
テレビシリーズは全26話に削られてしまいこの構想は実現しなかったが、松本零士氏の手によるマンガ版では、ヤマトを助けるキャプテンハーロックを見ることができる。
旧作で未使用に終わった構想の数々を実現させた『宇宙戦艦ヤマト2199』でも、さすがにこれはやらないだろうと思っていたら、古代守がキャプテンハーロックの親友トチローとなって出てきたのには驚いた。
『宇宙海賊キャプテンハーロック』のトチローはすでに故人となっており、海賊船アルカディア号の中枢大コンピューターにその意志と記憶を留めている。そのためアルカディア号は、乗組員の操作とは関係なくトチローの意思で動くことがある。
古代守もまた、イスカンダルの技術によりその意志と記憶が保存され、コスモリバースシステムを通してヤマトと一体になった。
最終章となる『宇宙戦艦ヤマト2199 第七章 そして艦は行く』で持ち出されたまさかのハーロックネタには、見事に一本取られてしまった。
第1テレビシリーズの第1話をきわめて忠実に再現した『宇宙戦艦ヤマト2199』は、回を追うごとに旧作から乖離していった。それは嬉しい計らいでもあり、ファンは旧作の素晴らしさを思いつつ、新作の驚くべき展開を楽しんだ。
それでも乖離が大きくなるにつれ、本作がどのように終わるのか、期待とともに不安を募らせる人もいたに違いない。
しかし、最後の第23~26話は、古代守の意表を突いた登場で楽しませながら、再び旧作の世界に収束した。旧作をきわめて忠実に再現した幕切れに、ファン諸氏は『宇宙戦艦ヤマト』第1テレビシリーズを見終えたときのような感慨を抱くだろう。
本作が旧作から離れたように見えたのは、旧作とは違うことをするためではなく、別の味付けをするのでもなく、あくまで旧作と同じ内容を語り直すためであったのだ。
旧第24話で、ガミラスを滅ぼした古代進は「我々がしなければならなかったのは戦うことじゃない。愛し合うことだった。」と口にする。
『宇宙戦艦ヤマト』の中でもとりわけ印象深く重要な言葉だが、旧作ではあまりにもストレートで唐突なセリフだった。
本作で作り手が取り組んだのは、このセリフの意図するものを、物語を通して受け手に感じてもらうことだった。旧作からの乖離に見えたことすらも、すべてはそのためだろう。
本作の鍵となるものに、波動砲の扱いがある。
『スター・キング』のディスラプターをはじめ、SFにはしばしば一撃で敵を壊滅させる最終兵器が登場する。ウルトラマンのスペシウム光線にしろ、眠狂四郎の円月殺法にしろ、ヒーローに必殺技はつきものであり、旧ヤマトの波動砲もその流れの一つだろう。
だが本作では、波動砲が波動エンジンの悪しき使い方であると説明される。
ディスラプターのような最終兵器と異なるのは、波動エンジンが平和利用に貢献している点だ。それは莫大なエネルギーを供給して人々の役に立つ反面、使い方によってはたいへん危険な兵器にもなる。いずれにせよ、人々の叡智を結集し、慎重な手つきで扱わねばならないもの。これはもちろん原子力のメタファーだ。
都市を丸ごと破壊する遊星爆弾や、放射性物質による汚染という旧作の設定が、原子爆弾をイメージしているのは明らかだろう。
ここから一歩踏み込んで、本作は爆弾を*落とされる*とか、*汚染される*といった被害者的なアプローチではなく、みずからが扱い方を問われる当事者として原子力と向き合うことを迫っている。
それを考えさせるのが、第24話「遥かなる約束の地」において波動エネルギーを兵器にしたことを理由にコスモリバースシステムの引渡しを拒まれる驚愕の展開であり、イスカンダルとの条約にしたがい封印されてしまう波動砲だ。
はたして波動エネルギーを兵器に転用したのはやむを得ないことだったのか、その使い方は本当に適切だったのか。
日ごろ必殺技を繰り出すヒーローに快哉を叫ぶ私たちは、ここに至ってその心の奥底にあるものを直視させられる。
こうして「我々がしなければならなかったのは戦うこと」かを問う一方で、本作はまた「愛し合うこと」を描く。
古代進と森雪の愛、古代守とスターシャの愛、デスラーのスターシャへの愛、セレステラのデスラーへの愛……その多重奏は、愛とロマンと冒険心をテーマにした『宇宙戦艦ヤマト』の終章に相応しい。
第七章の劇伴では、『交響組曲 宇宙戦艦ヤマト』に収められた名曲「明日への希望 ~夢・ロマン・冒険心~」が再現され、ヤマトの旅の終わりを飾る。故西崎義展プロデューサーは、この曲にヤマトのテーマが込められているとして、ライナーノートで次のように語っている。
「少年よ、ロマンを持ち冒険心を持て、少女よ、愛を持ち夢を持て、いつまでもそれを忘れることなかれ」
冒険心は旧作以上に強調され、沖田艦長の戦術は積極的なものに変わった。
旧作の沖田艦長は、しばしば敵の前で逃げ出した。それは旧第1話の「明日の為に今日の屈辱に耐えるんだ」というセリフのとおり、単なる勇猛さよりも思慮深さに重きを置いた行動だった。
けれども本作の沖田艦長は、「死中に活を求める」考えで難局に飛び込んだ。もちろんその判断が適切であると納得できる描写はあるが、旧作に比べるとそのスタンスは明らかに違う。
このように冒険心を強調するのは、高度経済成長の勢いが残る旧作の放映時期と、失われた20年とも30年とも云われ、やがて日本が先進国から脱落することも懸念される本作の時期との違いからだろう。
現代は、明日のためにこそ大胆に踏み出すことが求められているのだ。
愛を体現するのは古代進と森雪だが、宇宙を戦禍に巻き込んだデスラーでさえその動機は愛であった。
波動エネルギーの威力により宇宙を武力制圧したイスカンダルが、その過去を恥じてあまねく知的生命体を救済し、全宇宙に平和をもたらそうと願ったとき、スターシャの夢を叶えるべくデスラーが取った方法は、やはり武力による制圧だった。
残念ながらデスラーの考えは正しい。
1954年、オクラホマ大学は11歳の少年たちを集めてある実験をした。過去に面識がない少年たちをロバーズ・ケイブ州立公園に集めてサマーキャンプを開催し、集団が形成される過程を観察したのだ。
実は少年たちの集団は二つあった。
他の集団が存在することに気付いた少年たちは、互いに敵愾心を剥き出しにした。彼らは過去に面識がないのだから、何の恨みも因縁もない。けれども彼らは、集団内の結束を固める一方で、他の集団とは暴力沙汰も辞さないほど激しく対立した。
ロバーズ・ケイブ実験と呼ばれるこの件は、人間が自分たち以外の集団には敵対せずにいられないことを示している。
小さな集団を超越し、争いを抑える仕組みが国家である。
2010年から起こったアラブの春は、リビアをはじめとする独裁政権を崩壊させた。これにより民衆は独裁者の圧制から解放されたかもしれないが、同時に力で抑え込まれてきた過激派集団も「解放」され、テロ活動が激化している。
国家とは、人々から「暴力を振るう自由」を取り上げ、軍隊や警察等に集約させたものである。
国同士の戦争を見て、国家の存在が戦争の原因だと考える人がいるけれど、国家は域内の暴力を独占し、人々が勝手に争うことを抑制しているのだ。
国同士の争いを防ぐには、より大きな帝国が個々の国の軍隊等を押さえつけ、戦争の自由を奪うのが一つの解だ。ローマ帝国が地中海世界を支配して実現したパクス・ロマーナ(ローマの平和)がその例だろう。
本作においても、ガミラスに支配されたザルツ星のシュルツは、地球人の抵抗に接して「素直に降伏すれば我々のように生きる道もあったものを」とつぶやいた。併せて被支配惑星の民がデスラーを熱狂的に支持する様子も描かれている。
けれども、大帝国による支配が必ずしも人々にとって幸せとは限らない。
デスラーの目的は宇宙を平和にすることではなかった。
スターシャのために宇宙の制圧に乗り出していたデスラーは、自分の想いがスターシャには永遠に届かないと悟ったのだろう、彼女への愛の象徴である青い鳥をみずから殺してしまった。彼がスターシャの妊娠を知っていたかどうかは不明だが、スターシャの心が地球人の青年に奪われてしまったことには気付いていたのかもしれない。
スターシャに平和な宇宙をプレゼントする夢を捨てたデスラーは、地球人の船を撃破し、ガミラスとイスカンダルの統合――すなわち両星の支配者が一つになることを無理に推し進めようとする。
もはや彼にとっては、ガミラス臣民の命運でさえどうでも良いのだった。
一方のスターシャも、全宇宙の知的生命体を救済する使命感が揺らいでいた。
星の想いを封じたエレメントを触媒にして、星を再生させるコスモリバースシステム。そのエレメントには、地球を想う古代守の「心」こそが相応しい。
古代守と別れたくないスターシャにとって、ヤマトが波動エネルギーを兵器に転用したことは、コスモリバースシステムの引渡しを拒み、守をそばに留める格好の言い訳だった。
ここにも愛ゆえの苦悩がある。
旧第23話「遂に来た!!マゼラン星雲波高し!!」と旧第24話「死闘!!神よガミラスのために泣け!!」におけるガミラスの本土決戦を、本作では第23話「たった一人の戦争」にまとめ、旧第25話「イスカンダル!!滅びゆくか愛の星よ!!」のイスカンダル滞在記を第24話「遥かなる約束の地」で描いた。
このように旧作の複数話を1話にまとめて、物語のテンポを速めることはこれまでにもあった。
逆に1話のエピソードを複数話に広げることはしなかった本作が、はじめて旧作の1話を分割したのが最終話だ。
旧第26話「地球よ!!ヤマトは帰ってきた!!」を、本作ではデスラーの雪辱戦を描く第25話「終わりなき戦い」と、森雪の復活を描く第26話「青い星の記憶」に分けている。
さらに、旧第26話の肝であった森雪が古代のためにみずからコスモクリーナーDを操作して犠牲となる展開は、第23話で森雪が第二バレラス破壊の犠牲になろうとするシークエンスに発展させている。
最終話から戦闘シーンを取り除き、加藤三郎と原田真琴の結婚式や、古代守の進への愛情を交えた話にすることで、第26話は長い物語の終幕らしい余韻のある回になった。
そして何より、旧作と同じく古代進の森雪への想いを丁寧に描写して、本作が愛の物語であることを強調している。
森雪のなきがらを前にした古代進のモノローグ。地球を目にした沖田艦長が迎える死。
本作は最後に旧作の流れをほぼ忠実になぞり、懐かしい『宇宙戦艦ヤマト』へと還ってきた。
旧来のファンは、昔と同じ感慨を再び覚えることだろう。本作ではじめてヤマトを知った人も、同じ感慨を抱くに違いない。
歳月をこえて、世代をこえて、『宇宙戦艦ヤマト』の感動が私たちの胸に迫る。
必ずここへ帰って来るとの約束は、今こうして果たされた。
ヤマトの前に浮かぶ赤茶けたちっぽけな星は、私たち人類が宇宙の中の小さな集団でしかないことを示している。
ロバーズ・ケイブ実験には続きがある。
激しく対立し、大乱闘になるほど険悪だった少年たちの集団は、協力しなければ解決できない大きな困難を経験することで関係が変わっていった。二つの集団の全員が力を合わせてトラブルを乗り越えるうちに、対立は影を潜め、良好な関係が築かれたという。
ヤマトの乗組員とともに33万6千光年を旅した私たちは、天の川銀河の端っこにある地球が、人間同士で反目しあうほど大きな世界ではないと感じていよう。
地球の青さを保つには、全員の力を合わせる必要があることも。
そんな感慨とともに、この物語を送り届けてくれたすべてのスタッフ・キャストに心からの感謝を捧げたい。
劇場で一緒に拍手した多くの方々、本作について語り合えた方々、新旧ヤマトを愛するすべての方々にも「ありがとう」と伝えたい。
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第23話『たった一人の戦争』 脚本/森田繁 絵コンテ/樋口真嗣、出渕裕 演出/別所誠人
第24話『遥かなる約束の地』 脚本/大野木寛 絵コンテ/佐藤順一 演出/蛭川幸太郎
第25話『終わりなき戦い』 脚本/村井さだゆき 絵コンテ/大倉雅彦 演出/大倉雅彦、野亦則行
第26話『青い星の記憶』 脚本/出渕裕 絵コンテ/京田知己 演出/榎本明広
総監督・シリーズ構成/出渕裕 原作/西崎義展
チーフディレクター/榎本明広 キャラクターデザイン/結城信輝
音楽/宮川彬良、宮川泰
出演/菅生隆之 小野大輔 鈴村健一 桑島法子 大塚芳忠 山寺宏一 麦人 千葉繁 田中理恵 久川綾
日本公開/2013年8月23日
ジャンル/[SF] [アドベンチャー] [戦争]


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【theme : 宇宙戦艦ヤマト2199】
【genre : アニメ・コミック】
『スター・トレック イントゥ・ダークネス』 奇跡などない
羽住英一郎監督によれば、『BRAVE HEARTS 海猿』のテーマは「絶対に諦めない勇敢な気持ち」であるという。「そういう思いがあれば、奇跡が起こるんじゃないか」と監督は語る。
海難事故の現場に臨んだ主人公は、絶対に諦めずに無理も無茶も押し通す。その行動に感化された人々も「勇敢な気持ち」を持ち続けたおかげで、絶望的な状況の中で「奇跡」が起こる。
日本中を感動させた『BRAVE HEARTS 海猿』は、73.3億円もの興行収入を上げ、2012年度日本一のヒットとなった。
しかし、『スター・トレック イントゥ・ダークネス』のミスター・スポックは云う。
「奇跡などない。」
理屈で考えることを忘れないスポックは、状況が奇跡的に好転しても、顔色を変えて飛び出していく。奇跡とも思える事態の影には、誰かの相応な犠牲があることを知っているからだ。
『スター・トレック イントゥ・ダークネス』は、全編にわたって犠牲的、英雄的行為の連続だ。
スポックは未開の惑星を救うために命を投げ出し、カーク船長は副長スポックを救うために規則を犯し、スポックはカークを救うために、またカークはエンタープライズ号の乗組員を救うために何度でも危険の中に飛び込んでいく。
だがこれは、無理や無茶を押し通せば奇跡が起こる物語ではない。カークもスポックも悩み苦しみ、お互いに、あるいは他の乗組員たちとしばしば対立する。
それどころか、カークは規則を犯してまでスポックを救ってやったのに、当のスポックから規則違反を上官に報告されてしまう。カークに感謝するどころか「裏切った」スポックのために、カークは地位を追われてしまう。
そんなエンタープライズ内の対立をより鮮明にするのが、本作の悪役ジョン・ハリソンの存在だ。
超人的な能力を持つハリソンは、部下を守るためには惑星連邦に叛旗を翻すことも辞さない男だ。
ジョン・ハリソンは云う。
「部下は私の家族だ。家族のためなら何でもするだろう?」
家族のためなら何でもする――。
これは世界中で大ヒットしたワイルド・スピードシリーズの主人公と同じ行動原理だ。
あの主人公も、自分の仲間をファミリーと呼び、ファミリーのことだけを考えて行動した。その過程で違法行為があろうが他人が犠牲になろうが知ったこっちゃない。
2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件と、後に続くイラク戦争の時代を経て、米国映画には異種族・異民族との対立を強調する作品が目立つようになった。どうせ判り合えない相手なのだから、徹底的に戦うべきだ――そんな風潮が見え隠れする。
同時に出てきたのが、「家族を大切にする」だけに留まらず、「守るのは家族だけ」という映画だ。その特徴は、ゴッドファーザーシリーズのような社会の影を描いた犯罪映画ではなく、堂々たる痛快娯楽作として展開していることにある。
法や倫理に支えられた社会が瓦解しかかっている。
そんな危機感を覚えたのか、キリスト教社会の秩序への回帰を訴えたのがロバート・ゼメキス監督であり、ヒューマニズムの力を強調したのがスティーヴン・スピルバーグ監督だ(「『ジャンゴ 繋がれざる者』 対 『フライト』 文化の衝突」、「『戦火の馬』 アメリカは壊れているか?」参照)。
そして『SUPER 8/スーパーエイト』でスティーヴン・スピルバーグの後継者であることを宣言したのが、本作の監督J・J・エイブラムスである。
『スター・トレック イントゥ・ダークネス』の作り手たちは、慎重に問題を提起した。
この作品では、家族のためなら何でもするジョン・ハリソンを頭から否定はしない。家族を重視するのは真っ当なことであり、ハリソンにはハリソンの言い分がある。
それでも、法や倫理を無視するのが良いことなのかと疑問を呈するのが、エンタープライズの面々だ。
ハリソンの対極に位置付けられるのがスポックだろう。彼にとって、規則を破るのは許されない。
西洋では何世紀もかけて「法治主義」を発達させてきた。これは人情や道徳感情よりも、客観的なルールに基づいて社会を運営すべきという考え方だ。「法治主義」を徹底するのは容易ではないが、それでもそこを目指して先人は苦労を重ねてきた。
法治主義の象徴がスポックである。冒頭の、自分の命を救ってくれたカークに不利な報告をするエピソードは、法治主義がときに人情に反してしまう辛さを示している。
スポック個人の問題であれば、このときカークに感謝すれば良いかもしれない。
けれども映画は、重要な規則――未開惑星に惑星外の文明の存在を知らせてはいけない――をカークが犯したために、未開惑星の文明が大きく変質してしまうことを示唆している。カークの行動がこの惑星の文明を歪ませたとしたら、それはスポックの命の代償としては大きすぎる犠牲かもしれない。
だが、規則を重視するばかりのスポックに、私たちは心から賛同できるだろうか。
スポックとハリソンのあいだに位置して、この問題を掘り下げる役割を担うのが主人公カークである。
カークが投げかけるのは、法治主義には二種類あるじゃないかという疑問だ。
一つは、成文化された法さえ守っていれば良いという考え方だ。本当にそれが善いことなのか、正しいことかを考えるよりも、私たちは法律に反していないかどうかばかりを気にしてはいないだろうか。これを「形式的法治主義」という。
もう一つは、本質的な正しさを備えたものこそ法であるという考え方だ。たとえ成文化された法であっても、正しくなければ真の法ではない。そして本質的に正しいものだけが法であるなら、一般大衆のみならず、権力者もその法には従わなければならない。これを「実質的法治主義」「法の支配」という。
カークは、惑星連邦の諸規則なんて「形式的法治主義」の最たるものだと思っている。カークには、口うるさいスポックが形式にこだわり過ぎに見える。彼は自分がすることは正しいと信じているから、規則なんてどんどん破る。悪党を裁判もせずに殺そうとする復讐心も、彼からすれば正義感ゆえなのだ。
パイク提督はその無軌道ぶりをたしなめるが、法治主義を舐めているカークには馬耳東風だ。
だからカークは、心ならずもジョン・ハリソンに共感してしまう。
自分が大切にしているものを守り、それを邪魔立てするルールなんて気にしないハリソンは、カークの行き着く先なのだ。
本作には「カークとハリソン」、「カークとスポック」の組み合わせで会話する場面が多い。
ハリソンはカークの知らない連邦や艦隊の秘密を告げる。そこであらわになるのは、規則を作った連中の腐敗ぶりだ。みずからの道徳感情のまま復讐に突き進むハリソンの言葉に、カークはつい耳を傾けてしまう。
対するスポックは、まるでピノキオをいさめるコオロギのように、ことあるごとにカークに忠告する。おかげで、悪党を裁判もせずに殺そうとしたカークは危うく踏みとどまり、それが大きな陰謀を暴くことに結びつく。
本作は、カーク、スポック、ハリソンの三人を中心に、船医のマッコイや機関主任のスコットらも加わって、様々な価値観と道徳感情をぶつけ合い、何が正しいのか、社会をどうすべきなのかを繰り返し観客に問いかける。
映画の作り手は、決して安易な結論を提示するようなことはしない。奇跡がみんなを救ってくれることもない。
息もつかせぬアクションに次ぐアクション、山場に次ぐ山場は、映画の娯楽性を高めるとともに、主人公たちがどこまで理性的に振舞えるかを問う試練でもある。
犠牲的、英雄的行為は感情を激しく揺さぶる。熾烈な戦いの中、スポックですら激昂し、暴力を振るってしまう。
その瞬間、本当に暴力を振るっているのはスポックではない。悪党を殴る姿を爽快に感じている私たち観客だ。
原題『Star Trek Into Darkness』をあえて訳せば、「星を抜けて暗黒面に堕ちる旅」となるだろうか。
感情の赴くままに暴力や復讐に走る自分を、法と理性で抑制できるかを問う本作は、あたかもスター・ウォーズシリーズの主人公がシスの暗黒卿の誘惑とジェダイ・ナイトの教えとのあいだで葛藤するように、私たちの心を翻弄する。
スター・ウォーズシリーズが好きなJ・J・エイブラムス監督らしいアジェンダだ。
だが、スター・ウォーズシリーズのダークサイドとライトサイドの対立が、ややもすれば善悪二元論になりかねないのに対し、本作が取り上げる感情と理性の相克は、一方が他方を打ち負かせば解決するものではない。理屈だけで処理しようとするスポックの態度が、時として恋人ウフーラを怒らせてしまうように、感情もまた私たちには大切なのだ。
思えば、情熱家のカークと理論家のスポックの相克こそは、スタートレックシリーズを貫く主軸ではなかったか。
それは、何世紀もかけて本能的な道徳感情を抑制する社会的な機構を作り、思想信条の異なる者との共存を目指してきた西洋社会の葛藤そのものである。
私たちは感情と理性を持つがゆえに、そのバランスを考え続ける必要があるのだ。
本作の脚本家の一人アレックス・カーツマンは、「この映画の敵はある意味で私たち自身です。私たちは自分自身と戦っているのです」と話している。
劇中で、カークもまた乗組員たちに語りかける。
「いつでも私たちに害をなそうとする者はいるだろう。それを止めさせようとして、私たちもまた心の中の悪意を呼び覚ましてしまうのだ。愛する人が奪われるとき、私たちがまず求めるのは復讐だ。しかし、それは私たちのあるべき姿ではない。」
その言葉は、犯罪者やテロリストや他国に反応して、拳を振り上げてしまいがちな私たちすべてに向けられている。
その後、カークはエンタープライズに乗艦したドクター・マーカスを歓迎し、「あなたをファミリーの一員に迎えられて嬉しい」と告げる。
劇中で家族を失った彼女は答える。「家族がいて嬉しいわ。」
感情と理性のはざまで、いかにバランスを取るか。そのことに悩み、考え続けながら旅をする。
それがエンタープライズ号のファミリーなのだ。
[付記]
本作が911後の現実社会を意識していることは上に述べたとおりだが、これに関連して中島理彦氏から興味深い記事を教えていただいた。
"Cult Movie Review: Star Trek: Into Darkness (2013)"
この記事は、本作の構成要素を検討し、ジョン・ハリソンの経歴や行動がウサーマ・ビン・ラーディンをなぞっていることや、クリンゴンがイラクと同じ位置付けにあること、正規軍と民間軍事会社の関係が米軍とブラックウォーター社に該当すること等を明らかにしている。つまり本作は、911以降「テロとの戦い」を遂行してきた米国の(かなり露骨な)カリカチュアになっているのだ。
本作の社会性を理解する上で、この記事は参考になるだろう。
『スター・トレック イントゥ・ダークネス』 [さ行]
監督・制作/J・J・エイブラムス
脚本・制作/ロベルト・オーチー、アレックス・カーツマン、デイモン・リンデロフ
出演/クリス・パイン ザカリー・クイント ゾーイ・サルダナ ベネディクト・カンバーバッチ ジョン・チョー サイモン・ペッグ カール・アーバン ピーター・ウェラー アリス・イヴ レナード・ニモイ ブルース・グリーンウッド アントン・イェルチン クリス・ヘムズワース
日本公開/2013年8月16日
ジャンル/[SF] [アクション] [アドベンチャー]
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海難事故の現場に臨んだ主人公は、絶対に諦めずに無理も無茶も押し通す。その行動に感化された人々も「勇敢な気持ち」を持ち続けたおかげで、絶望的な状況の中で「奇跡」が起こる。
日本中を感動させた『BRAVE HEARTS 海猿』は、73.3億円もの興行収入を上げ、2012年度日本一のヒットとなった。
しかし、『スター・トレック イントゥ・ダークネス』のミスター・スポックは云う。
「奇跡などない。」
理屈で考えることを忘れないスポックは、状況が奇跡的に好転しても、顔色を変えて飛び出していく。奇跡とも思える事態の影には、誰かの相応な犠牲があることを知っているからだ。
『スター・トレック イントゥ・ダークネス』は、全編にわたって犠牲的、英雄的行為の連続だ。
スポックは未開の惑星を救うために命を投げ出し、カーク船長は副長スポックを救うために規則を犯し、スポックはカークを救うために、またカークはエンタープライズ号の乗組員を救うために何度でも危険の中に飛び込んでいく。
だがこれは、無理や無茶を押し通せば奇跡が起こる物語ではない。カークもスポックも悩み苦しみ、お互いに、あるいは他の乗組員たちとしばしば対立する。
それどころか、カークは規則を犯してまでスポックを救ってやったのに、当のスポックから規則違反を上官に報告されてしまう。カークに感謝するどころか「裏切った」スポックのために、カークは地位を追われてしまう。
そんなエンタープライズ内の対立をより鮮明にするのが、本作の悪役ジョン・ハリソンの存在だ。
超人的な能力を持つハリソンは、部下を守るためには惑星連邦に叛旗を翻すことも辞さない男だ。
ジョン・ハリソンは云う。
「部下は私の家族だ。家族のためなら何でもするだろう?」
家族のためなら何でもする――。
これは世界中で大ヒットしたワイルド・スピードシリーズの主人公と同じ行動原理だ。
あの主人公も、自分の仲間をファミリーと呼び、ファミリーのことだけを考えて行動した。その過程で違法行為があろうが他人が犠牲になろうが知ったこっちゃない。
2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件と、後に続くイラク戦争の時代を経て、米国映画には異種族・異民族との対立を強調する作品が目立つようになった。どうせ判り合えない相手なのだから、徹底的に戦うべきだ――そんな風潮が見え隠れする。
同時に出てきたのが、「家族を大切にする」だけに留まらず、「守るのは家族だけ」という映画だ。その特徴は、ゴッドファーザーシリーズのような社会の影を描いた犯罪映画ではなく、堂々たる痛快娯楽作として展開していることにある。
法や倫理に支えられた社会が瓦解しかかっている。
そんな危機感を覚えたのか、キリスト教社会の秩序への回帰を訴えたのがロバート・ゼメキス監督であり、ヒューマニズムの力を強調したのがスティーヴン・スピルバーグ監督だ(「『ジャンゴ 繋がれざる者』 対 『フライト』 文化の衝突」、「『戦火の馬』 アメリカは壊れているか?」参照)。
そして『SUPER 8/スーパーエイト』でスティーヴン・スピルバーグの後継者であることを宣言したのが、本作の監督J・J・エイブラムスである。
『スター・トレック イントゥ・ダークネス』の作り手たちは、慎重に問題を提起した。
この作品では、家族のためなら何でもするジョン・ハリソンを頭から否定はしない。家族を重視するのは真っ当なことであり、ハリソンにはハリソンの言い分がある。
それでも、法や倫理を無視するのが良いことなのかと疑問を呈するのが、エンタープライズの面々だ。
ハリソンの対極に位置付けられるのがスポックだろう。彼にとって、規則を破るのは許されない。
西洋では何世紀もかけて「法治主義」を発達させてきた。これは人情や道徳感情よりも、客観的なルールに基づいて社会を運営すべきという考え方だ。「法治主義」を徹底するのは容易ではないが、それでもそこを目指して先人は苦労を重ねてきた。
法治主義の象徴がスポックである。冒頭の、自分の命を救ってくれたカークに不利な報告をするエピソードは、法治主義がときに人情に反してしまう辛さを示している。
スポック個人の問題であれば、このときカークに感謝すれば良いかもしれない。
けれども映画は、重要な規則――未開惑星に惑星外の文明の存在を知らせてはいけない――をカークが犯したために、未開惑星の文明が大きく変質してしまうことを示唆している。カークの行動がこの惑星の文明を歪ませたとしたら、それはスポックの命の代償としては大きすぎる犠牲かもしれない。
だが、規則を重視するばかりのスポックに、私たちは心から賛同できるだろうか。
スポックとハリソンのあいだに位置して、この問題を掘り下げる役割を担うのが主人公カークである。
カークが投げかけるのは、法治主義には二種類あるじゃないかという疑問だ。
一つは、成文化された法さえ守っていれば良いという考え方だ。本当にそれが善いことなのか、正しいことかを考えるよりも、私たちは法律に反していないかどうかばかりを気にしてはいないだろうか。これを「形式的法治主義」という。
もう一つは、本質的な正しさを備えたものこそ法であるという考え方だ。たとえ成文化された法であっても、正しくなければ真の法ではない。そして本質的に正しいものだけが法であるなら、一般大衆のみならず、権力者もその法には従わなければならない。これを「実質的法治主義」「法の支配」という。
カークは、惑星連邦の諸規則なんて「形式的法治主義」の最たるものだと思っている。カークには、口うるさいスポックが形式にこだわり過ぎに見える。彼は自分がすることは正しいと信じているから、規則なんてどんどん破る。悪党を裁判もせずに殺そうとする復讐心も、彼からすれば正義感ゆえなのだ。
パイク提督はその無軌道ぶりをたしなめるが、法治主義を舐めているカークには馬耳東風だ。
だからカークは、心ならずもジョン・ハリソンに共感してしまう。
自分が大切にしているものを守り、それを邪魔立てするルールなんて気にしないハリソンは、カークの行き着く先なのだ。
本作には「カークとハリソン」、「カークとスポック」の組み合わせで会話する場面が多い。
ハリソンはカークの知らない連邦や艦隊の秘密を告げる。そこであらわになるのは、規則を作った連中の腐敗ぶりだ。みずからの道徳感情のまま復讐に突き進むハリソンの言葉に、カークはつい耳を傾けてしまう。
対するスポックは、まるでピノキオをいさめるコオロギのように、ことあるごとにカークに忠告する。おかげで、悪党を裁判もせずに殺そうとしたカークは危うく踏みとどまり、それが大きな陰謀を暴くことに結びつく。
本作は、カーク、スポック、ハリソンの三人を中心に、船医のマッコイや機関主任のスコットらも加わって、様々な価値観と道徳感情をぶつけ合い、何が正しいのか、社会をどうすべきなのかを繰り返し観客に問いかける。
映画の作り手は、決して安易な結論を提示するようなことはしない。奇跡がみんなを救ってくれることもない。
息もつかせぬアクションに次ぐアクション、山場に次ぐ山場は、映画の娯楽性を高めるとともに、主人公たちがどこまで理性的に振舞えるかを問う試練でもある。
犠牲的、英雄的行為は感情を激しく揺さぶる。熾烈な戦いの中、スポックですら激昂し、暴力を振るってしまう。
その瞬間、本当に暴力を振るっているのはスポックではない。悪党を殴る姿を爽快に感じている私たち観客だ。
原題『Star Trek Into Darkness』をあえて訳せば、「星を抜けて暗黒面に堕ちる旅」となるだろうか。
感情の赴くままに暴力や復讐に走る自分を、法と理性で抑制できるかを問う本作は、あたかもスター・ウォーズシリーズの主人公がシスの暗黒卿の誘惑とジェダイ・ナイトの教えとのあいだで葛藤するように、私たちの心を翻弄する。
スター・ウォーズシリーズが好きなJ・J・エイブラムス監督らしいアジェンダだ。
だが、スター・ウォーズシリーズのダークサイドとライトサイドの対立が、ややもすれば善悪二元論になりかねないのに対し、本作が取り上げる感情と理性の相克は、一方が他方を打ち負かせば解決するものではない。理屈だけで処理しようとするスポックの態度が、時として恋人ウフーラを怒らせてしまうように、感情もまた私たちには大切なのだ。
思えば、情熱家のカークと理論家のスポックの相克こそは、スタートレックシリーズを貫く主軸ではなかったか。
それは、何世紀もかけて本能的な道徳感情を抑制する社会的な機構を作り、思想信条の異なる者との共存を目指してきた西洋社会の葛藤そのものである。
私たちは感情と理性を持つがゆえに、そのバランスを考え続ける必要があるのだ。
本作の脚本家の一人アレックス・カーツマンは、「この映画の敵はある意味で私たち自身です。私たちは自分自身と戦っているのです」と話している。
劇中で、カークもまた乗組員たちに語りかける。
「いつでも私たちに害をなそうとする者はいるだろう。それを止めさせようとして、私たちもまた心の中の悪意を呼び覚ましてしまうのだ。愛する人が奪われるとき、私たちがまず求めるのは復讐だ。しかし、それは私たちのあるべき姿ではない。」
その言葉は、犯罪者やテロリストや他国に反応して、拳を振り上げてしまいがちな私たちすべてに向けられている。
その後、カークはエンタープライズに乗艦したドクター・マーカスを歓迎し、「あなたをファミリーの一員に迎えられて嬉しい」と告げる。
劇中で家族を失った彼女は答える。「家族がいて嬉しいわ。」
感情と理性のはざまで、いかにバランスを取るか。そのことに悩み、考え続けながら旅をする。
それがエンタープライズ号のファミリーなのだ。
[付記]
本作が911後の現実社会を意識していることは上に述べたとおりだが、これに関連して中島理彦氏から興味深い記事を教えていただいた。
"Cult Movie Review: Star Trek: Into Darkness (2013)"
この記事は、本作の構成要素を検討し、ジョン・ハリソンの経歴や行動がウサーマ・ビン・ラーディンをなぞっていることや、クリンゴンがイラクと同じ位置付けにあること、正規軍と民間軍事会社の関係が米軍とブラックウォーター社に該当すること等を明らかにしている。つまり本作は、911以降「テロとの戦い」を遂行してきた米国の(かなり露骨な)カリカチュアになっているのだ。
本作の社会性を理解する上で、この記事は参考になるだろう。

監督・制作/J・J・エイブラムス
脚本・制作/ロベルト・オーチー、アレックス・カーツマン、デイモン・リンデロフ
出演/クリス・パイン ザカリー・クイント ゾーイ・サルダナ ベネディクト・カンバーバッチ ジョン・チョー サイモン・ペッグ カール・アーバン ピーター・ウェラー アリス・イヴ レナード・ニモイ ブルース・グリーンウッド アントン・イェルチン クリス・ヘムズワース
日本公開/2013年8月16日
ジャンル/[SF] [アクション] [アドベンチャー]


【theme : 特撮・SF・ファンタジー映画】
【genre : 映画】
tag : J・J・エイブラムスクリス・パインザカリー・クイントゾーイ・サルダナベネディクト・カンバーバッチジョン・チョーサイモン・ペッグカール・アーバンピーター・ウェラーアリス・イヴ
『ワールド・ウォーZ』 ラストはもう一つあった
【ネタバレ注意】
『ワールド・ウォーZ』を日本で公開するに当たり、配給会社はZとは何かを明かさずに宣伝した。
ポスターでも予告編でもZに触れず、ブラッド・ピットと逃げ惑う人々だけを見せるようにした。
そのため、これをパニック映画、ディザスター映画だと思い込んだ人もいたに違いない。
普段ならZに興味を抱かない人や、Zを避けてしまう人が、もしもZの映画とは思わずに映画館に足を運んだとしたら、配給会社の宣伝は正解だったといえるだろう。後からZと知った観客も、怒ったりはしないはずだ。Zの映画も悪くない、そう思うことだろう。
それくらい『ワールド・ウォーZ』は、Z――ゾンビ(Zombie)映画の愛好家だけに観せておくのがもったいない作品だ。
私は常々不思議だった。
西洋では、なぜこれほどゾンビ映画が盛んなのだろう?
私はホラー映画やゾンビ映画を熱心に追いかけているわけではないが、それでもゾンビ映画が毎年公開されてるような気がしている。
ウィキペディアの「ゾンビ映画の一覧」にはおびただしいタイトルが並んでおり、欧米、特に米国で近年ゾンビ映画が作られない年はない。日本にもゾンビ映画はあるものの、公開規模が限定的だったり、海外展開を狙うものだったりするので、興隆の中心地は米国といえよう。
これはウィキペディアの情報だから網羅性や正確性の点では検討が必要かもしれないが、ゾンビ映画が他のモンスター(吸血鬼や狼男やフランケンシュタインの怪物等)の映画に比べて群を抜いて盛んなのは間違いない。
特定の傾向の映画が盛んになるのは、それを好んで作る制作者と受け入れる観客の双方がいてはじめて成り立つ。
『桐島、部活やめるってよ』や『東京公園』や『キツツキと雨』に劇中劇としてゾンビ映画が登場するのは、日本にもゾンビ映画を好むクリエイターがいることを示すよりも、むしろ正面からゾンビ映画を撮るのが日本では難しいことの例証であるように思う。
私が感じている疑問――なぜこれほど西洋、特に米国でゾンビ映画が盛んなのか、という疑問については、すでにホラーやゾンビの研究者が追求していることだろう。
それでも、『ワールド・ウォーZ』を観て私なりに思うところがあったので、ここに記しておきたい。
■ゾンビ映画が抱える矛盾
ゾンビ映画が米国で盛んな理由の一つは、ゾンビの概念を生み出したブードゥー教の信仰地域を抱えるからだろう。
元来アフリカに起源を持つブードゥー教だが、奴隷貿易による黒人の移送は、アメリカ大陸にアフリカ文化をもたらした。ブードゥー教は今もカリブ海の島国ハイチや、カリブ海に面した米国ルイジアナ州ニューオーリンズ等で信仰されている。ニューオーリンズにあるフットボールチームの名が「ニューオーリンズ・ブードゥー」であることからも、ブードゥー教が親しまれていることが判るだろう。
カリブ海にブードゥーと来れば、『007/死ぬのは奴らだ』を思い浮かべる人も多かろう。この作品は、カリブ海を舞台に、007がCIAのフェリックス・ライターと協力して、ブードゥーの力を振るう黒人犯罪王と対決する話だった。
ゾンビとは、墓から掘り出した死体をブードゥーの術で蘇らせ、奴隷として使役するものである。
これが米国映画に登場するようになった背景を、ウィキペディアでは次のように説明している。
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20世紀初頭にハイチを占領したアメリカは、ハリウッド映画などでゾンビを面白おかしく題材にし、ブードゥーのイメージダウンを行った。
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日本でも、平井和正原作のマンガ『デスハンター』やその小説化『死霊狩り』(ゾンビー・ハンターシリーズ)により、奴隷化された死体としてのゾンビは60~70年代には知られていた。
しかし、こんにち映画で盛んに取り上げられるゾンビは、ブードゥー教の死人奴隷とは異質のものだ。
1968年に米国で公開されたジョージ・A・ロメロ監督の『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド/ゾンビの誕生』が、現在盛んなゾンビ映画の源流だという。「ゾンビ映画の一覧」のこの映画の解説には「カニバリズム、感染、理性の喪失、頭部の破壊以外は不死身など現在のゾンビ映画の基本的なルールをつくった作品」と書かれている。
ブードゥー教の死人奴隷は、人間を食べたり、ゾンビ状態を感染させたりしなかった。
本来のゾンビにはないこれらの特徴は、リチャード・マシスンのSF小説『地球最後の男』(1954年発表、1964年にマシスンも脚本に参加して映画化)の影響であるという。吸血鬼をテーマにしたマシスンの小説には、「人間を食料にする」「襲われた人間も吸血鬼になる」といった吸血鬼ならではの特徴があり、ロメロはこれをゾンビに移植したのだ。
もっとも、『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド/ゾンビの誕生』は、米国以外にはほとんど公開されなかった。
世界にロメロのゾンビを知らしめたのは、1978年の続編『ゾンビ』であろう。
日本での公開は1979年だ。平井和正氏の小説で「ゾンビー」の語に親しんでいたSFファンは、長音符号がない「ゾンビ」に違和感を覚えたが、「ゾンビ」の呼び名はあっという間に浸透した。
以降、群れをなして人間を襲う不死身の怪物ゾンビは、アメリカ映画に欠かせない人気キャラクターになった。
そしてゾンビ映画の多くがジョージ・A・ロメロの、というよりリチャード・マシスンの影響下にある。
otokinoki氏が「ゾンビもののストーリー定形」を手際良くまとめているので、ここに引用させていただこう。
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■ゾンビもののストーリー定形
0)大前提として、終末映画である。直接描かれなくても、人類滅亡が暗示されている。
1)ゾンビに追い立てられた主人公たちは逃げ場の無い場所に閉じ込められて、小さいコミュニティでのサバイバルを行う
2)職業も思想も違う人々は疑心暗鬼と不安に囚われ、最初はなんとかなると思っていたコミュニティは崩壊する。
3)崩壊した隠れ家を主人公は飛び出し、また別の隠れ場所を見出すが、そこにもゾンビが満ちている(終末の暗示)
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この定形からして、ほぼリチャード・マシスンの小説どおりである。
マシスンの『地球最後の男』は、1964年のヴィンセント・プライス主演版のみならず、1971年にはチャールトン・ヘストン主演の『地球最後の男オメガマン』に、2007年にはウィル・スミス主演『アイ・アム・レジェンド』になっているから、小説を読んでいなくても内容をご存知の方は多いだろう。
ただ、この定形だけであれば、1951年にジョン・ウィンダムが書いたSF小説『トリフィドの日』とほぼ変わらない。『トリフィドの日』は1962年に『人類SOS!』として映画化されており、これもまたジョージ・A・ロメロの映画に影響を与えたと云われている。
なるほど、『Night of the Living Dead(ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド/ゾンビの誕生)』とは『The Day of the Triffids(トリフィドの日)』のもじりなのだろう。
ジョン・ウィンダムの『トリフィドの日』に対して、その3年後にリチャード・マシスンが『地球最後の男』で行った工夫は、ウィンダムが別々の恐怖として描いた「怪物」と「疫病」を一つにまとめた点だろう。ウイルスに感染した犠牲者が捕食者に変わり、人間は少数派になってしまう。ここがマシスンの『地球最後の男』の特徴だ。
だから、バイオハザードシリーズはアクション重視で従来のゾンビ映画から離れてるようでいても、ゾンビ化の原因をウイルス感染に求めるところがリチャード・マシスンの小説に忠実といえるかもしれない。
だが、これらのゾンビ映画では、本来は吸血鬼の特徴であるものをゾンビに移植したことによって無理も生じている。
なぜなら「人肉を食べること」と「襲われた人間もゾンビになること」は両立しにくいからだ。
吸血鬼なら血を吸うだけだから、襲われた人が吸血鬼になって他人の血を吸いはじめてもおかしくない。
だがゾンビが人肉を食べる設定では、ゾンビが獰猛であればあるほど、つまり腹をすかしていればいるほど人体を貪り食ってしまい、ゾンビになるべき人体が残らないはずだ。ゾンビとは、他のゾンビに食われたときの食べ残しが歩き出したものだから、活動力のあるゾンビ(手足がまだ残っているゾンビ)は遠慮がちに食べてもらったことになる。
そう考えると、ゾンビが凶暴なんだか慎み深いのか判らなくなり、何だかゾンビが怖くなくなってしまう。
こんなことになるのは、『地球最後の男』からゾンビ物への移植が上手くいってないからだ。
そこでゾンビ映画が抱える矛盾を整理し、これまでゾンビ映画が避けていた領域に踏み出したのが『ワールド・ウォーZ』である。
■ゾンビ映画を観られる人は?
『ワールド・ウォーZ』の特徴の一つは、グロテスクでないことだ。
ゾンビ映画にしばしば見られる、血飛沫、血まみれ、損壊した人体が、本作にはほとんど出てこない。
バイオハザードシリーズのレイティングはPG12(小学生には助言・指導が必要)なのに、そのおかげで本作はG(どなたでもご覧になれます)にとどまっている(米国ではPG-13(Parents strongly cautioned))。
大予算(結果的に1.9億ドルに膨らんだ)を投じるのだから、残酷描写を控えて、できるだけたくさんの人に見てもらえるレイティングにするのは重要だった(それでも制作と主演を兼ねるブラッド・ピットは、表現を過激にすることを望んだそうだが)。
だがそれだけでなく、本作に残酷描写が少ないのは、「人肉を食べること」と「襲われた人間もゾンビになること」の矛盾を解消するために、「襲われた人間もゾンビになること」のみを採用したからだ。
本作のゾンビは人間に噛み付くだけで、肉を食ったりしない。
噛み付けばウイルスに感染するので、人間を食べなくても、より広範囲にウイルスを蔓延させるというウイルスの目的が達せられるからだ。それどころか体を損傷してしまうと、宿主が行動しにくくなり、ウイルスの蔓延が妨げられるおそれがある。
人間が食べられる猟奇的な映像を撮るよりも、ウイルスに感染した犠牲者が捕食者に変わるコンセプトを優先する方が、ウイルスの活動の説明として合理的だし、『地球最後の男』の原点に立ち返っても当然の選択といえる。
「ウイルスの目的」だの「ウイルスの活動」だのと書くと、ウイルスが計算ずくで宿主を操作しているようでバカバカしく感じられるかもしれない。
しかし現実に、昆虫に感染して行動を操るバキュロウイルスや、働きバチを外敵と戦わせる覚悟ウイルスの例もある(覚悟ウイルスに感染しなければ働きバチは戦わずに逃げてしまうので、巣が外敵に荒らされる)。
そもそもヒトゲノム(人間の遺伝情報)の半分近くは、外部から侵入して数千万年かけて潜り込んだウイルスたちであることが判っている。人類が誕生してからまだ200~300万年しか経っていないから、人類になる前から私たちの遺伝子はウイルスたちに侵されているのだ。
それどころか、彼らが持ち込んだ遺伝因子により霊長類が生まれたとも推測されている。私たちは、ウイルスたちの遺伝子操作の結果として誕生したのかもしれない。
人間の母親にとって、父親由来の遺伝形質を持つ胎児は異物である。だから母親は免疫反応を起こし、病原体を攻撃するのと同じようにリンパ球が胎児を攻撃するはずだが、この攻撃から胎児を守っているのもウイルスだ。ウイルスは母体から胎児を守り、人間の繁殖を助けている。
地球上には膨大な種類のウイルスがいるけれど、人類はまだほんの一部を研究しているに過ぎない。地球の環境や生物がどれほどウイルスに依存し、操作されているか、私たちはまだまだ知らないのだ。
話を映画に戻そう。
本作が従来のゾンビ映画と違うのは、残酷描写を控えたことだけではない。
第一次世界大戦(World War I)や第ニ次世界大戦(World War II)をもじった題の『ワールド・ウォーZ(World War Z)』は、まさに「最後の世界大戦」と「世界ゾンビ大戦」を掛けているのだろう。
その名のとおり、本作は全世界規模での対ゾンビ戦を描いており、ゾンビ映画史上屈指のスケールだ。
そのスケールの大きさは、otokinoki氏が指摘した「ゾンビもののストーリー定形」をも覆す。
具体的には次のとおりだ。
0)大前提として、終末映画である。直接描かれなくても、人類滅亡が暗示されている。
→人類が世界中でゾンビに対抗する姿が描かれ、必ずしも人類滅亡が前提ではない。
1)ゾンビに追い立てられた主人公たちは逃げ場の無い場所に閉じ込められて、小さいコミュニティでのサバイバルを行う
→主人公たちはゾンビと戦うため世界を股に掛けて活躍する。
2)職業も思想も違う人々は疑心暗鬼と不安に囚われ、最初はなんとかなると思っていたコミュニティは崩壊する。
→職業も思想も違う人々が、時に自己を犠牲にしながら主人公を支援する。当初は自己中心的に見えた主人公も、戦いの中では自己犠牲を厭わない。
3)崩壊した隠れ家を主人公は飛び出し、また別の隠れ場所を見出すが、そこにもゾンビが満ちている(終末の暗示)
→ゾンビに抵抗し続ける人類の姿が強調され、事態は好転するであろうことが示唆される。
otokinoki氏の記事は、『ワールド・ウォーZ』の原作小説がいかに革新的なゾンビ物かを説明している。
私は原作を読んでいないが、映画が国連調査員を主人公にして各地のエピソードを結びつけるのに対し、原作は国連の調査によるインタビュー集の形を取っており、映画以上に定形から踏み出しているようだ。
ともあれ定形から外れるのは、まず定形をきちんと理解していないとできることではない。
ゾンビ物というジャンルの中にありながら従来の矛盾を解消し、過去の作品が避けていた領域に踏み出した本作は、たとえて云うならロボットアニメにおける『機動戦士ガンダム』や、魔法少女アニメにおける『魔法少女まどか☆マギカ』に匹敵する画期的な位置にあろう。
ここで注目したいのは、革新的な作品でありながらなお踏襲せざるを得ないそのジャンルの特徴だ。
『ワールド・ウォーZ』以前の作品にあり、『ワールド・ウォーZ』でも打ち出しているポイント。それこそが変えることのできないゾンビ物の中核、ジャンルを成り立たせている主要因子のはずだ。
ゾンビ映画がこれほど盛んな秘密を探る鍵は、そこにあるかもしれない。
■人間とゾンビを隔てるのは何?
ウィキペディアで『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド/ゾンビの誕生』に付けられた解説をもう一度見てみよう。
そこには、「カニバリズム、感染、理性の喪失、頭部の破壊以外は不死身など現在のゾンビ映画の基本的なルールをつくった作品」と書かれている。
だが前述したように、本作はカニバリズムを排除した。
すると、ここに挙げられるようなゾンビ映画の基本的なルールでは、「感染」「理性の喪失」「頭部の破壊以外は不死身」の三点が残る。
これは『ワールド・ウォーZ』でも踏襲している。
感染:
本作はゾンビ化の原因をウイルスとしているので、人々は常に感染の恐怖にさらされている。犠牲者はいつでも捕食者に変わり得る。
これは『地球最後の男』から続く重大な要素だ。
理性の喪失:
ゾンビは、人間を見ると凶暴性を発揮して襲いかかる一方で、獲物がなければ立ち尽くして休眠状態に入る。いずれにしろ理性的に行動することはない。ブードゥー教のゾンビが自由意志を持たない奴隷であることを考えても、ゾンビ物を特徴付ける重大な要素だろう。
実は『地球最後の男』の吸血鬼は生前の知性を維持しており、理性を喪失したりしない。理性の有無が、吸血鬼物とゾンビ物の違いかもしれない。
不死身:
ゾンビは強靭な肉体を持っており、主人公を何度も追い詰める。
それはゾンビの特徴でもあるが、モンスターはおおむねそうだろう。か弱くて短命なモンスターではお話にならないから、これを重視しても仕方あるまい。
こうしてみると、ゾンビ物で一番重要なのは「理性の喪失」であり、次が「感染」になるだろうか。
本作が改めて強調していることもある。
序盤に主人公を匿ってくれる優しい男が登場するが、彼は家の中に閉じこもり続けようとする。主人公は、男に行動しなければダメだと説くのだが、男は何もしないことが一番だと思い込んでいる。
説得を諦めた主人公が男と別れて血路を開いているころ、男は自宅でゾンビに襲われ、やっぱりゾンビと化してしまう。
また、各国が崩壊する中、信じがたい報告でもきちんと吟味し、用心深く行動してきたイスラエルは、防護壁を完成させてゾンビを防ぐことに成功していた。
ところが、壁の内側に逃げ込めた人々がはしゃいで大騒ぎしたことから、聞きつけたゾンビが集まって、せっかくの壁は破られてしまう。
これらのエピソードは、人々が一様に犠牲になるわけではないことを示している。
一人ひとりの判断と行動が、ゾンビになるか否かの明暗を分けてしまうのだ。
ここでotokinoki氏の記事から「ゾンビものの登場キャラクター定形」を紹介しよう。
ゾンビ物にはストーリーだけでなく、キャラクターの定形もあるという。
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■ゾンビものの登場キャラクター定形
1)軍人の作戦は失敗し、結果的に崩壊を呼び寄せ、軍人キャラは主人公よりも早く死ぬ。
2)ゾンビを科学的に利用しようとか、儲けようなどの強欲なキャラは惨めな死に方をする。
3)キャラクターの性格は、基本的に変わることはなく、人格的に成長しない
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これを見ると、本作はストーリー定形のみならずキャラクター定形も引っくり返しているのが判る。
1)軍人の作戦は失敗し、結果的に崩壊を呼び寄せ、軍人キャラは主人公よりも早く死ぬ。
→本作では軍人、民間人の区別なく、多くの人がゾンビと戦うために心血を注いでおり、軍人が特に早く死ぬわけではない。軍人はどちらかというと献身的にすら描かれる。
2)ゾンビを科学的に利用しようとか、儲けようなどの強欲なキャラは惨めな死に方をする。
→原作小説とは違い、映画には強欲というほどのキャラは出てこないのだが、強いていえば自分の家族のことしか考えない主人公一家が強欲キャラに当たるだろうか。
だが、群像劇である原作を一人の主人公の物語に集約するため、主人公像は「自分勝手な民間人→有能な国連調査員→自己犠牲を厭わない勇敢な人物」と変遷する。終盤では、自分の家族のことばかり考えていたのを恥じ、家族の安否を心配しながらも、ゾンビへの対抗策を見出すために犠牲的な活躍をする。彼は決して惨めではない。
3)キャラクターの性格は、基本的に変わることはなく、人格的に成長しない
→前述のようにキャラクターの性格は変化し、人格的に成長する。
「ゾンビものの登場キャラクター定形」に照らせば、本作はキャラクター面でも革新的な作品だ。
けれどキャラクター定形の分類の仕方を変えると、そうともいえないかもしれない。
1)状況をきちんと把握した上で先の見通しを立てることができない者は助からない。
2)慎重さを欠いて、その場の感情に身を任せる者は助からない。
3)他者との協調性を欠いたまま、変わろうとしない者は助からない。
このように整理すると、本作も他のゾンビ物も同じような定形にまとまるように思う。
ショッピングモールで主人公に薬をくれた青年が、1シーンだけの端役なのにやけに印象的なのも、物資を略奪する他の者との違いを強調するためだろう。
もちろんこの青年が死ぬ(ゾンビ化する)ことはないのだ。
考えてみれば、ゾンビの犠牲になる者とゾンビとのあいだに、どれほどの違いがあるだろうか。
先に述べたように、ゾンビとは理性をなくした存在だ。そしてゾンビになるのは、理性的に行動しなかった人間だ。
これまでのゾンビ映画では、人間がゾンビにされる際に食人等の残酷描写があった。そのショッキングな映像が挟まるために、人間とゾンビとのあいだには明確な境界があるように感じられた。
しかし、過剰な残酷描写を取り除いた本作によって見えてくるのは、人間とゾンビとの境界の曖昧さだ。理性的に行動しない人間はゾンビになる。一人の理性の欠如は、感染して他人の理性も失わせる。
人間とゾンビを隔てるのは、理性の有無という何とも曖昧なものではないだろうか。
■恐怖の正体
人間とゾンビの境界が曖昧であれば、ゾンビ映画が盛んなのも頷けようというものだ。
映画に出てくる他の怪物には、往々にして特別な出自がある。人間を凌駕する能力もあり、一般人がおいそれとはなれそうもない。凄い能力を持つ彼らはヒーローと紙一重であり(仮面ライダーがショッカーのバッタ怪人であるように)、なろうにもハードルが高そうなのだ。
だが、理性を失うことなら、誰にでも可能性がありそうだ。感情がたかぶったり、酒を飲んで我を忘れたりなんてことは、人間誰しもあるのではないか。
ゾンビは単に死なないだけで、能力面では一般の人間より劣ることが多い。他の怪物よりもハードルが低いゾンビは、だらしない自分を見るようなのだ。
本作のゾンビが俊敏なのももっともだ。
血まみれでもなく、肉が剥き出しにもなっていないゾンビ(すなわち、普通の人間にしか見えない)が、他の映画のように緩慢に歩いていたら、ただの愚か者にしか見えない。
本作で休眠状態にあるゾンビは、まさに単なるでくの坊だ。せめて人間を襲うシーンぐらい全力で走らねば見てられない。
ゾンビ映画が突きつけるのは、愚か者の群れに巻き込まれ、感化されてしまう自分なのだ。
その恐怖は、人間を凌ぐ凄い怪物に対峙する他のモンスター映画とはまったく異なる。
理性という、ややもすれば失いがちなものを問えるからこそ、ゾンビ映画は好んで作られるのだろう。そして観客も、内心では愚か者に転落しかねない危うさを自覚しているから、ゾンビ映画に見入ってしまうのではないだろうか。
とはいえ、それだけではまだ冒頭の疑問に答えていない。
なぜ西洋でゾンビ映画が盛んなのか説明できない。
特に米国が盛んなのは、ブードゥー教の信仰地域を抱えるからだとしても、ブードゥー教は全米に広まっているわけではない。
米国では土葬が一般的なので、墓から死者が蘇ることがイメージしやすいのかもしれないが、近年盛んなゾンビ映画は、もはや墓から掘り出すブードゥーのゾンビとはかけ離れている。
この疑問について考えるには、まず理性とは何かを明らかにする必要があるだろう。
人間に備わっていて、喪失したらゾンビになってしまう「理性」とはいったい何だろう?
ダニエル・カーネマンは人間の認知システムを2段階モデルで説明した。彼によれば、人間には直感を担うシステム1と推論を担うシステム2があるという。
池田信夫・與那覇潤共著『「日本史」の終わり 変わる世界、変われない日本人』にカーネマンの理論の紹介があるので、そこから図を引用しよう。

システム1は直感的に情報を処理する仕組みであり、脳の一番古い層だという。意識を経由せずに素早く働く思考であり、睡眠も呼吸もここで行う。
対するシステム2は進化の中で比較的最近できたもので、意識的に推論を行ったりする時間のかかる思考だ。システム2は高度な思考ができるけれど、エネルギーを大量に消費して効率が悪い。脳の重さは体重の2%程度だが、基礎代謝の20%も消費するため、私たちはなるべくシステム1でエネルギーを使わずに情報を処理し、意識的に働くシステム2の負荷を小さくしている。
たとえばピアノの演奏を最初に習うときはシステム2で意識して鍵盤をたたくが、慣れてくればシステム1で自動的に指が動くようになる。
これを人間とゾンビで考えると、理性を喪失したゾンビとは、システム2が機能せず、いつも直感的なシステム1だけで行動する者といえよう。
脳の一番古い層の、自動的に働く速い思考をゾンビ呼ばわりとは、ひどい云い方だと思われるかもしれないが、もともと人間は集団内では愛情や共感を抱くものの、集団間では激しい戦争を繰り返す生き物だった。所属する集団が違えば人間といえども食料でしかなかったし、ここ数百年を除けば人間の最大の死因は殺人だった。
他の動物に比べて、人間が特別に凶暴なわけではない。他の動物と同様に、人間も縄張り争いや食い合いをしていただけなのだ。聖書にはかつて人間が楽園にいたかのごとく書かれているが、隣町に行っても食い殺されない現代の方がよっぽど平和なのである。
このように、カーネマンの2段階モデルは人間とゾンビに当てはめることができる。
では、西洋でゾンビ映画が盛んなことは、どうかかわるのだろうか。
前掲書に與那覇潤氏の興味深い発言があるので、少々長いが引用しよう。
---
なるほど、システム1のレベルはおそらく全人類に共通であると。それでは、フクヤマの際に議論したような人類の諸社会の違いは、むしろシステム2の部分で出てくることになりますね。実はこれは、ヨーロッパ型の「近代化」と、私の言う「中国化」を区別する上でも鍵になるポイントだと思うのです。
つまり西洋近代のすごかったところは、条件反射的なシステム1の作動を「抑制する機構」をかなりがっちりと作って、それがいわば社会的なシステム2なのではあるまいか。近世ヨーロッパは本来、一大宗教戦争の時代で、カトリックとプロテスタントがシステム1レベルの反発心から「お前らは邪教だ」といってメチャクチャ殺し合って、これ以上続けたらもう社会が持たないところまで来た。
そこで、だからこそ宗教的な本能は合理性で抑制しようと。信じる宗教が違っていたとしても、最低限お互い人間であることは認め合って、人それぞれの信仰を政治には持ち込まないことで、なんとか共存していきましょうという形になった。これがいわゆる政教分離であって、近代ヨーロッパのイノベーションの根源ですね。
逆に中国の場合は、たぶんそれをやっていない。前近代からおおむねずっと国家が統一されてきて、近世のあいだもせいぜい豊臣秀吉がちょっかいを出してきた程度で、隣国とも平和だったから。
そうなると、システム1の本能的な道徳感情を抑制しないといけない、という発想がそもそも生まれないから、ほぼ剥き出しの状態でシステム1をキープしたまま来ているのだろうと思うんですね。だから政教分離は起きないし、道徳感情は持ち込まずに客観的なルールで人を裁こうという法治国家も作られず、むしろ政争と道徳的糾弾とがつねに一体化して展開する「徳治国家」になる。
(略)
西洋のほうは、カトリックとプロテスタントの宗教戦争を経て政教分離が進むとともに、身の安全のために合理的に考えて「社会契約」を結び、いわば利己的で野獣のような人間どうしであっても、お互い生存できる秩序を作るという発想になった。ホッブスの言う「人間は人間に対して狼」、すなわちシステム1に任せていたら大量殺戮になる状態を前提にして、システム2としての社会契約でそれを制御するという考え方です。
しかし岸本先生によれば、東洋は別の道を行ったという。『リヴァイアサン』が刊行された1651年は、中国史で言えば明清交替のころで、儒教のなかでも新興の「陽明学」が猛烈に流行した時期だというのです。
陽明学の人間観とはホッブスとはまさに逆で、「心即理」のスローガンが有名ですが、いわばシステム1への徹底的な信頼です。「親に孝行を尽くせ」などと説教しなくても、赤子がおのずと母を慕って泣く心を持っているように、人間の素直なまごころをそのまま発揮すれば、自動的にすべてが調和して秩序が成り立つはずだと考える。
逆に、システム2的に合理主義をごちゃごちゃこねまわすのは、自分の本心をストレートに発揮できなくさせる悪しき行いだから、われわれは小理屈のうまいインテリ連中よりも、無知蒙昧だが質朴な「愚夫愚婦」の言動こそを尺度にすべきだ、と唱えたのです。
(略)
システム1が人類に普遍的だとすると、「それに身を委ねるだけでいいんだ」というエートスは、狭義の陽明学者でなくても伝染していく。
---
西洋では身の安全のために、システム2の部分をフル稼働させねばならなかった。
システム2によって意識的に政教分離し、社会契約を結び、法治国家を徹底しなければ、システム1が噴出して、恐ろしい殺し合いの世界に逆戻りしてしまう。本来ならシステム2の働きをシステム1に肩代わりさせてシステム2の負荷を小さくしたいのに、システム1を抑制する機構をシステム2に担わせたため、システム2の負荷が小さくならない。そのストレスにさらされ続けているのが西洋だというわけだ。
一方、中国をはじめ東洋の世界は、「抑制する機構」としてのシステム2を発達させなかった。
それどころかシステム1を信頼すればいいという考えもあって、システム1の世界――すなわち無知蒙昧で質朴な愚夫愚婦になるのが怖くない。
ちなみに、陽明学は日本にも伝わり、江戸幕府を倒す思想的背景になっている。
システム1を「抑制する機構」を持たない倒幕運動は、やがて江戸城が無血開城し、倒幕が果たされたにもかかわらず、東北諸藩との戦争を起こしてしまう。
社会の秩序はシステム1を抑制して実現するのか、信頼して実現するのか。
洋の東西で違う答えを出したことが、以降の社会を大きく分けた。
こう考えると、西洋ばかりでゾンビ映画が盛んなのは、むしろ当然のように思えてくる。
理性を喪失し、凶暴さが人々のあいだに蔓延していく――それは西洋の人々が長い歴史を通して懸命に抑え込もうとしてきた悪夢なのだ。
そのストレスを抱える西洋なればこそ、ゾンビ映画が切実に感じられるのだろう。
だから、『ワールド・ウォーZ』の作り直したラストは大正解だと思う。
■却下されたラスト
私はマーク・フォースター監督の『007/慰めの報酬』が大好きだ。世界で5.8億ドル以上を稼いだ成績は立派だと思う。
しかし評論家から厳しく批評されたため、マーク・フォースター監督はもう一度アクション映画を撮って再評価されることを願っていたという。
『ワールド・ウォーZ』の脚本を最初に担当したJ・マイケル・ストラジンスキーは、こう語っている。
「頭が空っぽのランボーとゾンビが戦うアクション映画を撮りたいんなら、何だってこのエレガントで知的な原作を選んだんだ?」
『ワールド・ウォーZ』の制作が遅れに遅れ、費用が膨れ上がったいきさつは、VANITY FAIR誌のレポートに詳しい。そこには、ストラジンスキーが抜けた後、新たに雇ったマシュー・マイケル・カーナハンの脚本に基づいて、フォースター監督がどんな映画を撮ったかが書かれている。
本作は三幕物だ。
第一幕は、ゾンビが発生したフィラデルフィアで、主人公と家族が逃げ惑う話。
第二幕は、国連調査員に復帰した主人公が、イスラエル等でゾンビの調査をする話。
第三幕は、飛行機でモスクワに不時着した主人公が、ロシア軍に加わって赤の広場でゾンビとの大戦争を繰り広げる話だ。
単なる調査員だった主人公は、第三幕でなぜか凄腕のゾンビ・キラーとして活躍し、軍のリーダーになっていく。
主要な撮影が終わってから3ヶ月後の2012年2月2日、マーク・フォースター監督はパラマウントの経営陣にディレクターズ・カット版を公開した。
上映後、室内は静まり返っていたという。
パラマウント・フィルムグループの社長アダム・グッドマンは、前半は気に入ったそうだ。だがディレクターズ・カットには、ホラー映画なら当然備えているべきサスペンスがなかった。
制作の(そして主演の)ブラッド・ピットは、マーク・フォースター監督に「一人だけでもう一度じっくり観させてくれ。その後、話し合おう」と告げた。
それから1ヶ月ちょっとが経ち、映画の公開日を2012年12月から2013年6月21日に変更することが発表された。
2012年4月、ブラッド・ピットに頼まれて、『スター・トレック イントゥ・ダークネス』の脚本家デイモン・リンデロフは編集し直した映画を観た。
リンデロフは、イスラエルを出発した後の展開をすべて変えたらどうかと提案した。それはせっかく撮ったロシアの大戦争を捨ててしまうことを意味したが、なんとパラマウントの経営陣は賛成した。映画の主人公が「世界を救う」症候群に陥ることを防ぐ彼のアイデアは、経営陣に受け入れられたのだ。
リンデロフは、『LOST』で組んだドリュー・ゴダードと一緒に脚本に取り掛かり、10日後には新たな60ページを仕上げた。何年ものあいだ誰もが考えあぐねたエンディングが、こうして形になった。
イスラエルを出発した主人公は、ロシアではなくウェールズに不時着し、広場で大戦争するのではなく、研究所の狭い部屋で試練に立ち向かうことになった。
追加撮影には、約2000万ドルが投じられた。
1.9億ドルもの制作費を投入した超大作なのに、クライマックスの第三幕をたった2000万ドルで撮ってしまうとは、スケールダウンに見えるかもしれない。
でも、私はこの第三幕に納得した。スケールダウンで映画が損なわれたとは思わない。
ロシアのシーンを観ていないから、それがどんな出来だったのか私は知らない。
しかし、たとえロシアの戦闘シーンが手に汗握るほどの大アクションだったとしても、この映画には相応しくないだろう。
本作は、ゾンビ物にもかかわらず残酷描写を排除することで、ゾンビ物の本質が理性の有無にあることをさらけ出してしまった。
そこで問われるのは、理性をどこまで保てるかだ。理性をなくした者たちに取り巻かれ、誰にも助けてもらえない極限まで追い詰められて、それでも人間は理性的に振舞えるのか。独りぼっちで、恐怖や動揺に襲われながらも、それらの感情を抑え込んで冷静に対処できるのか。
その葛藤が、この映画のクライマックスであるべきだ。
だから、暴力的な行動では何も解決しない。
たとえ人間側のためであっても、ヒーローと称賛されようと、大暴れしてゾンビをたくさん殺すことでは、理性の勝利を表現できない。
観客の心に訴えるのは、派手な戦闘シーンではなく、静かな葛藤なのだ。
主人公の最後の葛藤は、マラリア療法を思わせるゾンビ対策に挑むことだ。
マラリア療法とは、病気を治すために別の病気にかからせる危険な治療法である。梅毒患者をマラリアに感染させ、マラリアのために患者が発した高熱で梅毒の病原体が死滅したら、マラリアの治療に取り掛かるのだ。
第二次世界大戦中、マラリアのために10万人以上の日本人が死亡したから、その恐ろしさはよく知られていよう。
毒をもって毒を制すという言葉はあるが、患者を梅毒とマラリアにかからせるとは驚くべき治療法だ。治療をする側にもされる側にも、たいへんな葛藤があったに違いない。
1927年、マラリア療法を発明したユリウス・ワーグナー=ヤウレックに、ノーベル生理学・医学賞が贈られている。
追記
本作公開の3年後、日本でユニークなゾンビ映画が登場した。
本記事に続けてこちらの記事もお読みいただければ幸いだ。
「『アイアムアヒーロー』はゾンビ映画なの?」
参考文献
池田信夫・與那覇潤 (2012) 『「日本史」の終わり 変わる世界、変われない日本人』 株式会社PHP研究所
『ワールド・ウォーZ』 [わ行]
監督/マーク・フォースター 原作/マックス・ブルックス
原案/マシュー・マイケル・カーナハン J・マイケル・ストラジンスキー
脚本/マシュー・マイケル・カーナハン ドリュー・ゴダード デイモン・リンデロフ
出演/ブラッド・ピット ミレイユ・イーノス ジェームズ・バッジ・デール ダニエラ・ケルテス デヴィッド・モース ルディ・ボーケン ファナ・モコエナ アビゲイル・ハーグローヴ マシュー・フォックス
日本公開/2013年8月10日
ジャンル/[アクション] [パニック] [ホラー]
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『ワールド・ウォーZ』を日本で公開するに当たり、配給会社はZとは何かを明かさずに宣伝した。
ポスターでも予告編でもZに触れず、ブラッド・ピットと逃げ惑う人々だけを見せるようにした。
そのため、これをパニック映画、ディザスター映画だと思い込んだ人もいたに違いない。
普段ならZに興味を抱かない人や、Zを避けてしまう人が、もしもZの映画とは思わずに映画館に足を運んだとしたら、配給会社の宣伝は正解だったといえるだろう。後からZと知った観客も、怒ったりはしないはずだ。Zの映画も悪くない、そう思うことだろう。
それくらい『ワールド・ウォーZ』は、Z――ゾンビ(Zombie)映画の愛好家だけに観せておくのがもったいない作品だ。
私は常々不思議だった。
西洋では、なぜこれほどゾンビ映画が盛んなのだろう?
私はホラー映画やゾンビ映画を熱心に追いかけているわけではないが、それでもゾンビ映画が毎年公開されてるような気がしている。
ウィキペディアの「ゾンビ映画の一覧」にはおびただしいタイトルが並んでおり、欧米、特に米国で近年ゾンビ映画が作られない年はない。日本にもゾンビ映画はあるものの、公開規模が限定的だったり、海外展開を狙うものだったりするので、興隆の中心地は米国といえよう。
これはウィキペディアの情報だから網羅性や正確性の点では検討が必要かもしれないが、ゾンビ映画が他のモンスター(吸血鬼や狼男やフランケンシュタインの怪物等)の映画に比べて群を抜いて盛んなのは間違いない。
特定の傾向の映画が盛んになるのは、それを好んで作る制作者と受け入れる観客の双方がいてはじめて成り立つ。
『桐島、部活やめるってよ』や『東京公園』や『キツツキと雨』に劇中劇としてゾンビ映画が登場するのは、日本にもゾンビ映画を好むクリエイターがいることを示すよりも、むしろ正面からゾンビ映画を撮るのが日本では難しいことの例証であるように思う。
私が感じている疑問――なぜこれほど西洋、特に米国でゾンビ映画が盛んなのか、という疑問については、すでにホラーやゾンビの研究者が追求していることだろう。
それでも、『ワールド・ウォーZ』を観て私なりに思うところがあったので、ここに記しておきたい。
■ゾンビ映画が抱える矛盾
ゾンビ映画が米国で盛んな理由の一つは、ゾンビの概念を生み出したブードゥー教の信仰地域を抱えるからだろう。
元来アフリカに起源を持つブードゥー教だが、奴隷貿易による黒人の移送は、アメリカ大陸にアフリカ文化をもたらした。ブードゥー教は今もカリブ海の島国ハイチや、カリブ海に面した米国ルイジアナ州ニューオーリンズ等で信仰されている。ニューオーリンズにあるフットボールチームの名が「ニューオーリンズ・ブードゥー」であることからも、ブードゥー教が親しまれていることが判るだろう。
カリブ海にブードゥーと来れば、『007/死ぬのは奴らだ』を思い浮かべる人も多かろう。この作品は、カリブ海を舞台に、007がCIAのフェリックス・ライターと協力して、ブードゥーの力を振るう黒人犯罪王と対決する話だった。
ゾンビとは、墓から掘り出した死体をブードゥーの術で蘇らせ、奴隷として使役するものである。
これが米国映画に登場するようになった背景を、ウィキペディアでは次のように説明している。
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20世紀初頭にハイチを占領したアメリカは、ハリウッド映画などでゾンビを面白おかしく題材にし、ブードゥーのイメージダウンを行った。
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日本でも、平井和正原作のマンガ『デスハンター』やその小説化『死霊狩り』(ゾンビー・ハンターシリーズ)により、奴隷化された死体としてのゾンビは60~70年代には知られていた。
しかし、こんにち映画で盛んに取り上げられるゾンビは、ブードゥー教の死人奴隷とは異質のものだ。
1968年に米国で公開されたジョージ・A・ロメロ監督の『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド/ゾンビの誕生』が、現在盛んなゾンビ映画の源流だという。「ゾンビ映画の一覧」のこの映画の解説には「カニバリズム、感染、理性の喪失、頭部の破壊以外は不死身など現在のゾンビ映画の基本的なルールをつくった作品」と書かれている。
ブードゥー教の死人奴隷は、人間を食べたり、ゾンビ状態を感染させたりしなかった。
本来のゾンビにはないこれらの特徴は、リチャード・マシスンのSF小説『地球最後の男』(1954年発表、1964年にマシスンも脚本に参加して映画化)の影響であるという。吸血鬼をテーマにしたマシスンの小説には、「人間を食料にする」「襲われた人間も吸血鬼になる」といった吸血鬼ならではの特徴があり、ロメロはこれをゾンビに移植したのだ。
もっとも、『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド/ゾンビの誕生』は、米国以外にはほとんど公開されなかった。
世界にロメロのゾンビを知らしめたのは、1978年の続編『ゾンビ』であろう。
日本での公開は1979年だ。平井和正氏の小説で「ゾンビー」の語に親しんでいたSFファンは、長音符号がない「ゾンビ」に違和感を覚えたが、「ゾンビ」の呼び名はあっという間に浸透した。
以降、群れをなして人間を襲う不死身の怪物ゾンビは、アメリカ映画に欠かせない人気キャラクターになった。
そしてゾンビ映画の多くがジョージ・A・ロメロの、というよりリチャード・マシスンの影響下にある。
otokinoki氏が「ゾンビもののストーリー定形」を手際良くまとめているので、ここに引用させていただこう。
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■ゾンビもののストーリー定形
0)大前提として、終末映画である。直接描かれなくても、人類滅亡が暗示されている。
1)ゾンビに追い立てられた主人公たちは逃げ場の無い場所に閉じ込められて、小さいコミュニティでのサバイバルを行う
2)職業も思想も違う人々は疑心暗鬼と不安に囚われ、最初はなんとかなると思っていたコミュニティは崩壊する。
3)崩壊した隠れ家を主人公は飛び出し、また別の隠れ場所を見出すが、そこにもゾンビが満ちている(終末の暗示)
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この定形からして、ほぼリチャード・マシスンの小説どおりである。
マシスンの『地球最後の男』は、1964年のヴィンセント・プライス主演版のみならず、1971年にはチャールトン・ヘストン主演の『地球最後の男オメガマン』に、2007年にはウィル・スミス主演『アイ・アム・レジェンド』になっているから、小説を読んでいなくても内容をご存知の方は多いだろう。
ただ、この定形だけであれば、1951年にジョン・ウィンダムが書いたSF小説『トリフィドの日』とほぼ変わらない。『トリフィドの日』は1962年に『人類SOS!』として映画化されており、これもまたジョージ・A・ロメロの映画に影響を与えたと云われている。
なるほど、『Night of the Living Dead(ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド/ゾンビの誕生)』とは『The Day of the Triffids(トリフィドの日)』のもじりなのだろう。
ジョン・ウィンダムの『トリフィドの日』に対して、その3年後にリチャード・マシスンが『地球最後の男』で行った工夫は、ウィンダムが別々の恐怖として描いた「怪物」と「疫病」を一つにまとめた点だろう。ウイルスに感染した犠牲者が捕食者に変わり、人間は少数派になってしまう。ここがマシスンの『地球最後の男』の特徴だ。
だから、バイオハザードシリーズはアクション重視で従来のゾンビ映画から離れてるようでいても、ゾンビ化の原因をウイルス感染に求めるところがリチャード・マシスンの小説に忠実といえるかもしれない。
だが、これらのゾンビ映画では、本来は吸血鬼の特徴であるものをゾンビに移植したことによって無理も生じている。
なぜなら「人肉を食べること」と「襲われた人間もゾンビになること」は両立しにくいからだ。
吸血鬼なら血を吸うだけだから、襲われた人が吸血鬼になって他人の血を吸いはじめてもおかしくない。
だがゾンビが人肉を食べる設定では、ゾンビが獰猛であればあるほど、つまり腹をすかしていればいるほど人体を貪り食ってしまい、ゾンビになるべき人体が残らないはずだ。ゾンビとは、他のゾンビに食われたときの食べ残しが歩き出したものだから、活動力のあるゾンビ(手足がまだ残っているゾンビ)は遠慮がちに食べてもらったことになる。
そう考えると、ゾンビが凶暴なんだか慎み深いのか判らなくなり、何だかゾンビが怖くなくなってしまう。
こんなことになるのは、『地球最後の男』からゾンビ物への移植が上手くいってないからだ。
そこでゾンビ映画が抱える矛盾を整理し、これまでゾンビ映画が避けていた領域に踏み出したのが『ワールド・ウォーZ』である。
■ゾンビ映画を観られる人は?
『ワールド・ウォーZ』の特徴の一つは、グロテスクでないことだ。
ゾンビ映画にしばしば見られる、血飛沫、血まみれ、損壊した人体が、本作にはほとんど出てこない。
バイオハザードシリーズのレイティングはPG12(小学生には助言・指導が必要)なのに、そのおかげで本作はG(どなたでもご覧になれます)にとどまっている(米国ではPG-13(Parents strongly cautioned))。
大予算(結果的に1.9億ドルに膨らんだ)を投じるのだから、残酷描写を控えて、できるだけたくさんの人に見てもらえるレイティングにするのは重要だった(それでも制作と主演を兼ねるブラッド・ピットは、表現を過激にすることを望んだそうだが)。
だがそれだけでなく、本作に残酷描写が少ないのは、「人肉を食べること」と「襲われた人間もゾンビになること」の矛盾を解消するために、「襲われた人間もゾンビになること」のみを採用したからだ。
本作のゾンビは人間に噛み付くだけで、肉を食ったりしない。
噛み付けばウイルスに感染するので、人間を食べなくても、より広範囲にウイルスを蔓延させるというウイルスの目的が達せられるからだ。それどころか体を損傷してしまうと、宿主が行動しにくくなり、ウイルスの蔓延が妨げられるおそれがある。
人間が食べられる猟奇的な映像を撮るよりも、ウイルスに感染した犠牲者が捕食者に変わるコンセプトを優先する方が、ウイルスの活動の説明として合理的だし、『地球最後の男』の原点に立ち返っても当然の選択といえる。
「ウイルスの目的」だの「ウイルスの活動」だのと書くと、ウイルスが計算ずくで宿主を操作しているようでバカバカしく感じられるかもしれない。
しかし現実に、昆虫に感染して行動を操るバキュロウイルスや、働きバチを外敵と戦わせる覚悟ウイルスの例もある(覚悟ウイルスに感染しなければ働きバチは戦わずに逃げてしまうので、巣が外敵に荒らされる)。
そもそもヒトゲノム(人間の遺伝情報)の半分近くは、外部から侵入して数千万年かけて潜り込んだウイルスたちであることが判っている。人類が誕生してからまだ200~300万年しか経っていないから、人類になる前から私たちの遺伝子はウイルスたちに侵されているのだ。
それどころか、彼らが持ち込んだ遺伝因子により霊長類が生まれたとも推測されている。私たちは、ウイルスたちの遺伝子操作の結果として誕生したのかもしれない。
人間の母親にとって、父親由来の遺伝形質を持つ胎児は異物である。だから母親は免疫反応を起こし、病原体を攻撃するのと同じようにリンパ球が胎児を攻撃するはずだが、この攻撃から胎児を守っているのもウイルスだ。ウイルスは母体から胎児を守り、人間の繁殖を助けている。
地球上には膨大な種類のウイルスがいるけれど、人類はまだほんの一部を研究しているに過ぎない。地球の環境や生物がどれほどウイルスに依存し、操作されているか、私たちはまだまだ知らないのだ。
話を映画に戻そう。
本作が従来のゾンビ映画と違うのは、残酷描写を控えたことだけではない。
第一次世界大戦(World War I)や第ニ次世界大戦(World War II)をもじった題の『ワールド・ウォーZ(World War Z)』は、まさに「最後の世界大戦」と「世界ゾンビ大戦」を掛けているのだろう。
その名のとおり、本作は全世界規模での対ゾンビ戦を描いており、ゾンビ映画史上屈指のスケールだ。
そのスケールの大きさは、otokinoki氏が指摘した「ゾンビもののストーリー定形」をも覆す。
具体的には次のとおりだ。
0)大前提として、終末映画である。直接描かれなくても、人類滅亡が暗示されている。
→人類が世界中でゾンビに対抗する姿が描かれ、必ずしも人類滅亡が前提ではない。
1)ゾンビに追い立てられた主人公たちは逃げ場の無い場所に閉じ込められて、小さいコミュニティでのサバイバルを行う
→主人公たちはゾンビと戦うため世界を股に掛けて活躍する。
2)職業も思想も違う人々は疑心暗鬼と不安に囚われ、最初はなんとかなると思っていたコミュニティは崩壊する。
→職業も思想も違う人々が、時に自己を犠牲にしながら主人公を支援する。当初は自己中心的に見えた主人公も、戦いの中では自己犠牲を厭わない。
3)崩壊した隠れ家を主人公は飛び出し、また別の隠れ場所を見出すが、そこにもゾンビが満ちている(終末の暗示)
→ゾンビに抵抗し続ける人類の姿が強調され、事態は好転するであろうことが示唆される。
otokinoki氏の記事は、『ワールド・ウォーZ』の原作小説がいかに革新的なゾンビ物かを説明している。
私は原作を読んでいないが、映画が国連調査員を主人公にして各地のエピソードを結びつけるのに対し、原作は国連の調査によるインタビュー集の形を取っており、映画以上に定形から踏み出しているようだ。
ともあれ定形から外れるのは、まず定形をきちんと理解していないとできることではない。
ゾンビ物というジャンルの中にありながら従来の矛盾を解消し、過去の作品が避けていた領域に踏み出した本作は、たとえて云うならロボットアニメにおける『機動戦士ガンダム』や、魔法少女アニメにおける『魔法少女まどか☆マギカ』に匹敵する画期的な位置にあろう。
ここで注目したいのは、革新的な作品でありながらなお踏襲せざるを得ないそのジャンルの特徴だ。
『ワールド・ウォーZ』以前の作品にあり、『ワールド・ウォーZ』でも打ち出しているポイント。それこそが変えることのできないゾンビ物の中核、ジャンルを成り立たせている主要因子のはずだ。
ゾンビ映画がこれほど盛んな秘密を探る鍵は、そこにあるかもしれない。
■人間とゾンビを隔てるのは何?
ウィキペディアで『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド/ゾンビの誕生』に付けられた解説をもう一度見てみよう。
そこには、「カニバリズム、感染、理性の喪失、頭部の破壊以外は不死身など現在のゾンビ映画の基本的なルールをつくった作品」と書かれている。
だが前述したように、本作はカニバリズムを排除した。
すると、ここに挙げられるようなゾンビ映画の基本的なルールでは、「感染」「理性の喪失」「頭部の破壊以外は不死身」の三点が残る。
これは『ワールド・ウォーZ』でも踏襲している。
感染:
本作はゾンビ化の原因をウイルスとしているので、人々は常に感染の恐怖にさらされている。犠牲者はいつでも捕食者に変わり得る。
これは『地球最後の男』から続く重大な要素だ。
理性の喪失:
ゾンビは、人間を見ると凶暴性を発揮して襲いかかる一方で、獲物がなければ立ち尽くして休眠状態に入る。いずれにしろ理性的に行動することはない。ブードゥー教のゾンビが自由意志を持たない奴隷であることを考えても、ゾンビ物を特徴付ける重大な要素だろう。
実は『地球最後の男』の吸血鬼は生前の知性を維持しており、理性を喪失したりしない。理性の有無が、吸血鬼物とゾンビ物の違いかもしれない。
不死身:
ゾンビは強靭な肉体を持っており、主人公を何度も追い詰める。
それはゾンビの特徴でもあるが、モンスターはおおむねそうだろう。か弱くて短命なモンスターではお話にならないから、これを重視しても仕方あるまい。
こうしてみると、ゾンビ物で一番重要なのは「理性の喪失」であり、次が「感染」になるだろうか。
本作が改めて強調していることもある。
序盤に主人公を匿ってくれる優しい男が登場するが、彼は家の中に閉じこもり続けようとする。主人公は、男に行動しなければダメだと説くのだが、男は何もしないことが一番だと思い込んでいる。
説得を諦めた主人公が男と別れて血路を開いているころ、男は自宅でゾンビに襲われ、やっぱりゾンビと化してしまう。
また、各国が崩壊する中、信じがたい報告でもきちんと吟味し、用心深く行動してきたイスラエルは、防護壁を完成させてゾンビを防ぐことに成功していた。
ところが、壁の内側に逃げ込めた人々がはしゃいで大騒ぎしたことから、聞きつけたゾンビが集まって、せっかくの壁は破られてしまう。
これらのエピソードは、人々が一様に犠牲になるわけではないことを示している。
一人ひとりの判断と行動が、ゾンビになるか否かの明暗を分けてしまうのだ。
ここでotokinoki氏の記事から「ゾンビものの登場キャラクター定形」を紹介しよう。
ゾンビ物にはストーリーだけでなく、キャラクターの定形もあるという。
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■ゾンビものの登場キャラクター定形
1)軍人の作戦は失敗し、結果的に崩壊を呼び寄せ、軍人キャラは主人公よりも早く死ぬ。
2)ゾンビを科学的に利用しようとか、儲けようなどの強欲なキャラは惨めな死に方をする。
3)キャラクターの性格は、基本的に変わることはなく、人格的に成長しない
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これを見ると、本作はストーリー定形のみならずキャラクター定形も引っくり返しているのが判る。
1)軍人の作戦は失敗し、結果的に崩壊を呼び寄せ、軍人キャラは主人公よりも早く死ぬ。
→本作では軍人、民間人の区別なく、多くの人がゾンビと戦うために心血を注いでおり、軍人が特に早く死ぬわけではない。軍人はどちらかというと献身的にすら描かれる。
2)ゾンビを科学的に利用しようとか、儲けようなどの強欲なキャラは惨めな死に方をする。
→原作小説とは違い、映画には強欲というほどのキャラは出てこないのだが、強いていえば自分の家族のことしか考えない主人公一家が強欲キャラに当たるだろうか。
だが、群像劇である原作を一人の主人公の物語に集約するため、主人公像は「自分勝手な民間人→有能な国連調査員→自己犠牲を厭わない勇敢な人物」と変遷する。終盤では、自分の家族のことばかり考えていたのを恥じ、家族の安否を心配しながらも、ゾンビへの対抗策を見出すために犠牲的な活躍をする。彼は決して惨めではない。
3)キャラクターの性格は、基本的に変わることはなく、人格的に成長しない
→前述のようにキャラクターの性格は変化し、人格的に成長する。
「ゾンビものの登場キャラクター定形」に照らせば、本作はキャラクター面でも革新的な作品だ。
けれどキャラクター定形の分類の仕方を変えると、そうともいえないかもしれない。
1)状況をきちんと把握した上で先の見通しを立てることができない者は助からない。
2)慎重さを欠いて、その場の感情に身を任せる者は助からない。
3)他者との協調性を欠いたまま、変わろうとしない者は助からない。
このように整理すると、本作も他のゾンビ物も同じような定形にまとまるように思う。
ショッピングモールで主人公に薬をくれた青年が、1シーンだけの端役なのにやけに印象的なのも、物資を略奪する他の者との違いを強調するためだろう。
もちろんこの青年が死ぬ(ゾンビ化する)ことはないのだ。
考えてみれば、ゾンビの犠牲になる者とゾンビとのあいだに、どれほどの違いがあるだろうか。
先に述べたように、ゾンビとは理性をなくした存在だ。そしてゾンビになるのは、理性的に行動しなかった人間だ。
これまでのゾンビ映画では、人間がゾンビにされる際に食人等の残酷描写があった。そのショッキングな映像が挟まるために、人間とゾンビとのあいだには明確な境界があるように感じられた。
しかし、過剰な残酷描写を取り除いた本作によって見えてくるのは、人間とゾンビとの境界の曖昧さだ。理性的に行動しない人間はゾンビになる。一人の理性の欠如は、感染して他人の理性も失わせる。
人間とゾンビを隔てるのは、理性の有無という何とも曖昧なものではないだろうか。
■恐怖の正体
人間とゾンビの境界が曖昧であれば、ゾンビ映画が盛んなのも頷けようというものだ。
映画に出てくる他の怪物には、往々にして特別な出自がある。人間を凌駕する能力もあり、一般人がおいそれとはなれそうもない。凄い能力を持つ彼らはヒーローと紙一重であり(仮面ライダーがショッカーのバッタ怪人であるように)、なろうにもハードルが高そうなのだ。
だが、理性を失うことなら、誰にでも可能性がありそうだ。感情がたかぶったり、酒を飲んで我を忘れたりなんてことは、人間誰しもあるのではないか。
ゾンビは単に死なないだけで、能力面では一般の人間より劣ることが多い。他の怪物よりもハードルが低いゾンビは、だらしない自分を見るようなのだ。
本作のゾンビが俊敏なのももっともだ。
血まみれでもなく、肉が剥き出しにもなっていないゾンビ(すなわち、普通の人間にしか見えない)が、他の映画のように緩慢に歩いていたら、ただの愚か者にしか見えない。
本作で休眠状態にあるゾンビは、まさに単なるでくの坊だ。せめて人間を襲うシーンぐらい全力で走らねば見てられない。
ゾンビ映画が突きつけるのは、愚か者の群れに巻き込まれ、感化されてしまう自分なのだ。
その恐怖は、人間を凌ぐ凄い怪物に対峙する他のモンスター映画とはまったく異なる。
理性という、ややもすれば失いがちなものを問えるからこそ、ゾンビ映画は好んで作られるのだろう。そして観客も、内心では愚か者に転落しかねない危うさを自覚しているから、ゾンビ映画に見入ってしまうのではないだろうか。
とはいえ、それだけではまだ冒頭の疑問に答えていない。
なぜ西洋でゾンビ映画が盛んなのか説明できない。
特に米国が盛んなのは、ブードゥー教の信仰地域を抱えるからだとしても、ブードゥー教は全米に広まっているわけではない。
米国では土葬が一般的なので、墓から死者が蘇ることがイメージしやすいのかもしれないが、近年盛んなゾンビ映画は、もはや墓から掘り出すブードゥーのゾンビとはかけ離れている。
この疑問について考えるには、まず理性とは何かを明らかにする必要があるだろう。
人間に備わっていて、喪失したらゾンビになってしまう「理性」とはいったい何だろう?
ダニエル・カーネマンは人間の認知システムを2段階モデルで説明した。彼によれば、人間には直感を担うシステム1と推論を担うシステム2があるという。
池田信夫・與那覇潤共著『「日本史」の終わり 変わる世界、変われない日本人』にカーネマンの理論の紹介があるので、そこから図を引用しよう。

システム1は直感的に情報を処理する仕組みであり、脳の一番古い層だという。意識を経由せずに素早く働く思考であり、睡眠も呼吸もここで行う。
対するシステム2は進化の中で比較的最近できたもので、意識的に推論を行ったりする時間のかかる思考だ。システム2は高度な思考ができるけれど、エネルギーを大量に消費して効率が悪い。脳の重さは体重の2%程度だが、基礎代謝の20%も消費するため、私たちはなるべくシステム1でエネルギーを使わずに情報を処理し、意識的に働くシステム2の負荷を小さくしている。
たとえばピアノの演奏を最初に習うときはシステム2で意識して鍵盤をたたくが、慣れてくればシステム1で自動的に指が動くようになる。
これを人間とゾンビで考えると、理性を喪失したゾンビとは、システム2が機能せず、いつも直感的なシステム1だけで行動する者といえよう。
脳の一番古い層の、自動的に働く速い思考をゾンビ呼ばわりとは、ひどい云い方だと思われるかもしれないが、もともと人間は集団内では愛情や共感を抱くものの、集団間では激しい戦争を繰り返す生き物だった。所属する集団が違えば人間といえども食料でしかなかったし、ここ数百年を除けば人間の最大の死因は殺人だった。
他の動物に比べて、人間が特別に凶暴なわけではない。他の動物と同様に、人間も縄張り争いや食い合いをしていただけなのだ。聖書にはかつて人間が楽園にいたかのごとく書かれているが、隣町に行っても食い殺されない現代の方がよっぽど平和なのである。
このように、カーネマンの2段階モデルは人間とゾンビに当てはめることができる。
では、西洋でゾンビ映画が盛んなことは、どうかかわるのだろうか。
前掲書に與那覇潤氏の興味深い発言があるので、少々長いが引用しよう。
---
なるほど、システム1のレベルはおそらく全人類に共通であると。それでは、フクヤマの際に議論したような人類の諸社会の違いは、むしろシステム2の部分で出てくることになりますね。実はこれは、ヨーロッパ型の「近代化」と、私の言う「中国化」を区別する上でも鍵になるポイントだと思うのです。
つまり西洋近代のすごかったところは、条件反射的なシステム1の作動を「抑制する機構」をかなりがっちりと作って、それがいわば社会的なシステム2なのではあるまいか。近世ヨーロッパは本来、一大宗教戦争の時代で、カトリックとプロテスタントがシステム1レベルの反発心から「お前らは邪教だ」といってメチャクチャ殺し合って、これ以上続けたらもう社会が持たないところまで来た。
そこで、だからこそ宗教的な本能は合理性で抑制しようと。信じる宗教が違っていたとしても、最低限お互い人間であることは認め合って、人それぞれの信仰を政治には持ち込まないことで、なんとか共存していきましょうという形になった。これがいわゆる政教分離であって、近代ヨーロッパのイノベーションの根源ですね。
逆に中国の場合は、たぶんそれをやっていない。前近代からおおむねずっと国家が統一されてきて、近世のあいだもせいぜい豊臣秀吉がちょっかいを出してきた程度で、隣国とも平和だったから。
そうなると、システム1の本能的な道徳感情を抑制しないといけない、という発想がそもそも生まれないから、ほぼ剥き出しの状態でシステム1をキープしたまま来ているのだろうと思うんですね。だから政教分離は起きないし、道徳感情は持ち込まずに客観的なルールで人を裁こうという法治国家も作られず、むしろ政争と道徳的糾弾とがつねに一体化して展開する「徳治国家」になる。
(略)
西洋のほうは、カトリックとプロテスタントの宗教戦争を経て政教分離が進むとともに、身の安全のために合理的に考えて「社会契約」を結び、いわば利己的で野獣のような人間どうしであっても、お互い生存できる秩序を作るという発想になった。ホッブスの言う「人間は人間に対して狼」、すなわちシステム1に任せていたら大量殺戮になる状態を前提にして、システム2としての社会契約でそれを制御するという考え方です。
しかし岸本先生によれば、東洋は別の道を行ったという。『リヴァイアサン』が刊行された1651年は、中国史で言えば明清交替のころで、儒教のなかでも新興の「陽明学」が猛烈に流行した時期だというのです。
陽明学の人間観とはホッブスとはまさに逆で、「心即理」のスローガンが有名ですが、いわばシステム1への徹底的な信頼です。「親に孝行を尽くせ」などと説教しなくても、赤子がおのずと母を慕って泣く心を持っているように、人間の素直なまごころをそのまま発揮すれば、自動的にすべてが調和して秩序が成り立つはずだと考える。
逆に、システム2的に合理主義をごちゃごちゃこねまわすのは、自分の本心をストレートに発揮できなくさせる悪しき行いだから、われわれは小理屈のうまいインテリ連中よりも、無知蒙昧だが質朴な「愚夫愚婦」の言動こそを尺度にすべきだ、と唱えたのです。
(略)
システム1が人類に普遍的だとすると、「それに身を委ねるだけでいいんだ」というエートスは、狭義の陽明学者でなくても伝染していく。
---
西洋では身の安全のために、システム2の部分をフル稼働させねばならなかった。
システム2によって意識的に政教分離し、社会契約を結び、法治国家を徹底しなければ、システム1が噴出して、恐ろしい殺し合いの世界に逆戻りしてしまう。本来ならシステム2の働きをシステム1に肩代わりさせてシステム2の負荷を小さくしたいのに、システム1を抑制する機構をシステム2に担わせたため、システム2の負荷が小さくならない。そのストレスにさらされ続けているのが西洋だというわけだ。
一方、中国をはじめ東洋の世界は、「抑制する機構」としてのシステム2を発達させなかった。
それどころかシステム1を信頼すればいいという考えもあって、システム1の世界――すなわち無知蒙昧で質朴な愚夫愚婦になるのが怖くない。
ちなみに、陽明学は日本にも伝わり、江戸幕府を倒す思想的背景になっている。
システム1を「抑制する機構」を持たない倒幕運動は、やがて江戸城が無血開城し、倒幕が果たされたにもかかわらず、東北諸藩との戦争を起こしてしまう。
社会の秩序はシステム1を抑制して実現するのか、信頼して実現するのか。
洋の東西で違う答えを出したことが、以降の社会を大きく分けた。
こう考えると、西洋ばかりでゾンビ映画が盛んなのは、むしろ当然のように思えてくる。
理性を喪失し、凶暴さが人々のあいだに蔓延していく――それは西洋の人々が長い歴史を通して懸命に抑え込もうとしてきた悪夢なのだ。
そのストレスを抱える西洋なればこそ、ゾンビ映画が切実に感じられるのだろう。
だから、『ワールド・ウォーZ』の作り直したラストは大正解だと思う。
■却下されたラスト
私はマーク・フォースター監督の『007/慰めの報酬』が大好きだ。世界で5.8億ドル以上を稼いだ成績は立派だと思う。
しかし評論家から厳しく批評されたため、マーク・フォースター監督はもう一度アクション映画を撮って再評価されることを願っていたという。
『ワールド・ウォーZ』の脚本を最初に担当したJ・マイケル・ストラジンスキーは、こう語っている。
「頭が空っぽのランボーとゾンビが戦うアクション映画を撮りたいんなら、何だってこのエレガントで知的な原作を選んだんだ?」
『ワールド・ウォーZ』の制作が遅れに遅れ、費用が膨れ上がったいきさつは、VANITY FAIR誌のレポートに詳しい。そこには、ストラジンスキーが抜けた後、新たに雇ったマシュー・マイケル・カーナハンの脚本に基づいて、フォースター監督がどんな映画を撮ったかが書かれている。
本作は三幕物だ。
第一幕は、ゾンビが発生したフィラデルフィアで、主人公と家族が逃げ惑う話。
第二幕は、国連調査員に復帰した主人公が、イスラエル等でゾンビの調査をする話。
第三幕は、飛行機でモスクワに不時着した主人公が、ロシア軍に加わって赤の広場でゾンビとの大戦争を繰り広げる話だ。
単なる調査員だった主人公は、第三幕でなぜか凄腕のゾンビ・キラーとして活躍し、軍のリーダーになっていく。
主要な撮影が終わってから3ヶ月後の2012年2月2日、マーク・フォースター監督はパラマウントの経営陣にディレクターズ・カット版を公開した。
上映後、室内は静まり返っていたという。
パラマウント・フィルムグループの社長アダム・グッドマンは、前半は気に入ったそうだ。だがディレクターズ・カットには、ホラー映画なら当然備えているべきサスペンスがなかった。
制作の(そして主演の)ブラッド・ピットは、マーク・フォースター監督に「一人だけでもう一度じっくり観させてくれ。その後、話し合おう」と告げた。
それから1ヶ月ちょっとが経ち、映画の公開日を2012年12月から2013年6月21日に変更することが発表された。
2012年4月、ブラッド・ピットに頼まれて、『スター・トレック イントゥ・ダークネス』の脚本家デイモン・リンデロフは編集し直した映画を観た。
リンデロフは、イスラエルを出発した後の展開をすべて変えたらどうかと提案した。それはせっかく撮ったロシアの大戦争を捨ててしまうことを意味したが、なんとパラマウントの経営陣は賛成した。映画の主人公が「世界を救う」症候群に陥ることを防ぐ彼のアイデアは、経営陣に受け入れられたのだ。
リンデロフは、『LOST』で組んだドリュー・ゴダードと一緒に脚本に取り掛かり、10日後には新たな60ページを仕上げた。何年ものあいだ誰もが考えあぐねたエンディングが、こうして形になった。
イスラエルを出発した主人公は、ロシアではなくウェールズに不時着し、広場で大戦争するのではなく、研究所の狭い部屋で試練に立ち向かうことになった。
追加撮影には、約2000万ドルが投じられた。
1.9億ドルもの制作費を投入した超大作なのに、クライマックスの第三幕をたった2000万ドルで撮ってしまうとは、スケールダウンに見えるかもしれない。
でも、私はこの第三幕に納得した。スケールダウンで映画が損なわれたとは思わない。
ロシアのシーンを観ていないから、それがどんな出来だったのか私は知らない。
しかし、たとえロシアの戦闘シーンが手に汗握るほどの大アクションだったとしても、この映画には相応しくないだろう。
本作は、ゾンビ物にもかかわらず残酷描写を排除することで、ゾンビ物の本質が理性の有無にあることをさらけ出してしまった。
そこで問われるのは、理性をどこまで保てるかだ。理性をなくした者たちに取り巻かれ、誰にも助けてもらえない極限まで追い詰められて、それでも人間は理性的に振舞えるのか。独りぼっちで、恐怖や動揺に襲われながらも、それらの感情を抑え込んで冷静に対処できるのか。
その葛藤が、この映画のクライマックスであるべきだ。
だから、暴力的な行動では何も解決しない。
たとえ人間側のためであっても、ヒーローと称賛されようと、大暴れしてゾンビをたくさん殺すことでは、理性の勝利を表現できない。
観客の心に訴えるのは、派手な戦闘シーンではなく、静かな葛藤なのだ。
主人公の最後の葛藤は、マラリア療法を思わせるゾンビ対策に挑むことだ。
マラリア療法とは、病気を治すために別の病気にかからせる危険な治療法である。梅毒患者をマラリアに感染させ、マラリアのために患者が発した高熱で梅毒の病原体が死滅したら、マラリアの治療に取り掛かるのだ。
第二次世界大戦中、マラリアのために10万人以上の日本人が死亡したから、その恐ろしさはよく知られていよう。
毒をもって毒を制すという言葉はあるが、患者を梅毒とマラリアにかからせるとは驚くべき治療法だ。治療をする側にもされる側にも、たいへんな葛藤があったに違いない。
1927年、マラリア療法を発明したユリウス・ワーグナー=ヤウレックに、ノーベル生理学・医学賞が贈られている。
追記
本作公開の3年後、日本でユニークなゾンビ映画が登場した。
本記事に続けてこちらの記事もお読みいただければ幸いだ。
「『アイアムアヒーロー』はゾンビ映画なの?」
参考文献
池田信夫・與那覇潤 (2012) 『「日本史」の終わり 変わる世界、変われない日本人』 株式会社PHP研究所

監督/マーク・フォースター 原作/マックス・ブルックス
原案/マシュー・マイケル・カーナハン J・マイケル・ストラジンスキー
脚本/マシュー・マイケル・カーナハン ドリュー・ゴダード デイモン・リンデロフ
出演/ブラッド・ピット ミレイユ・イーノス ジェームズ・バッジ・デール ダニエラ・ケルテス デヴィッド・モース ルディ・ボーケン ファナ・モコエナ アビゲイル・ハーグローヴ マシュー・フォックス
日本公開/2013年8月10日
ジャンル/[アクション] [パニック] [ホラー]


tag : マーク・フォースターブラッド・ピットミレイユ・イーノスジェームズ・バッジ・デールダニエラ・ケルテスデヴィッド・モースルディ・ボーケンファナ・モコエナアビゲイル・ハーグローヴマシュー・フォックス
『パシフィック・リム』が守った映画のルール
【ネタバレ注意】
ジャンボーグA対大悪獣ギロン!
『パシフィック・リム』には冒頭から度肝を抜かれた。全編がこんな夢の対決で溢れているのだ。
映画『風立ちぬ』はそれだけでも充分素晴らしい作品だが、堀辰雄の小説も読んでいると、映画では少し触れるだけの主人公とヒロインの情愛がより深く理解できる。
『パシフィック・リム』も同様で、本作だけでも充分楽しめるけれど、『ゴジラ』をはじめとする怪獣映画や『ウルトラマン』等の特撮番組を観ていれば、より深く深く堪能できる。
観客の多くが、これまでの鑑賞歴から本作に符合する過去の作品を思い出して、子供の頃のワクワクした気持ちを甦らせたに違いない。
私は『パシフィック・リム』がはじまって早々、怪獣ナイフヘッドの鋭い頭部とその暴れっぷりに感激した。
ナイフヘッドはどこから見ても『ガメラ対大悪獣ギロン』(1969年)でガメラを苦しめたギロンそのものである。ギロンに勝るとも劣らないナイフヘッドの強さには惚れ惚れした。
対するは劇中でイェーガーと呼ばれる巨大ロボット。「イェーガー」はドイツ語で狩人を意味する。
本来ロボットとは自動機械のことであり、産業用ロボットのように人間の手を離れて動き続けるものを指す。人間が搭乗して操作する機械は、いくら外見が人型であってもブルドーザーや乗用車の延長に位置付けられるべきものだ。
しかし『マジンガーZ』の大ヒットは、人間の搭乗する機械をロボットと呼ぶ誤用を定着させてしまった。
それゆえ、本稿でも便宜上ロボットという用語を使わせていただく。
このイェーガーが秀逸で、主人公が乗り込むジプシー・デンジャーは、人間のいる頭部が胴体と合体することで起動するという痺れるメカニズムだ。マジンガーZのホバーパイルダーにしろ、コン・バトラーVのバトルジェットにしろ、やっぱりスーパーロボットには頭部の合体が欠かせない。
しかもそのデザインは、ギレルモ・デル・トロ監督が多大な影響を受けたという鉄人28号の流れを汲み、『戦闘メカ ザブングル』のウォーカー・ギャリアのようながっしりした体形だ。といっても、ジプシー・デンジャーは全高79m(260フィート)もあるので、18.6mのウォーカー・ギャリアよりもはるかに大きく、15人乗りのダイラガーの60mをも凌ぐ。
他のイェーガーのデザインも個性的で、三本腕のクリムゾン・タイフーンや、原子力発電所の冷却塔を頭に乗っけたチェルノ・アルファ等、『マジンガーZ』の機械獣をデザインした故石川賢氏を思わせるほどのぶっ飛んだロボットたちが登場する。
けれども、もっとも嬉しくなるのはイェーガーの操縦方法だ。
イェーガーの操縦は人体への負担が大きいため、二人で協力して操縦する。その方法は、搭乗者の手足の動きを感知して、そのままイェーガーの動作に反映させるジャンボーグA方式だ(アニメで類似の方式が取り入れられたのは『勇者ライディーン』から)。
搭乗者が座ったまま操縦桿を握るだけのマジンガーZ方式と違い、この方法なら搭乗者自身もロボットと一緒にアクションするので、躍動感とともにロボットとの一体感も演出できる。
しかも二人の搭乗者は、ドリフトと呼ばれる精神接続により心を一つにしないと、イェーガーを操縦できない。
この設定にもニヤリとさせられる。
複数名で操縦するゲッターロボが登場してからというもの、搭乗者たちが心を一つにするのはロボット物の定番になった。一人に心の乱れがあると合体できないとか、心を一つにするためにみんなで特訓するとかが、ロボット物のお約束だった。
『ゲッターロボG』に至っては、三人の搭乗者が10分の1秒のズレもなく同時にペダルを踏まないと技を発動できないという(理不尽な)制約まであった。
イェーガーにはこんな懐かしい設定が満載だが、本作の魅力はむしろ怪獣にこそある。
冒頭に挙げたギロンそっくりの怪獣ナイフヘッドはもとより、翼を持つ怪獣オオタチは『大怪獣空中戦 ガメラ対ギャオス』のギャオスのようだし、電磁パルスを発生させる怪獣レザーバックが全身に青白い筋を浮き上がらせたところは『ウルトラマン』の彗星怪獣ドラコを連想させる。頭部が裂けて本当の顔が出てくる怪獣ライジュウは、やはり『ウルトラマン』のウラン怪獣ガボラのようだ。
このような怪獣個々のデザインだけでなく、怪獣の描き方もまた往年の怪獣映画を思わせる。
本作は、物語の進行につれて怪獣の生物的な特徴が解き明かされる過程が見どころになっている。
なぜ、これほど巨大で、多様な怪獣が出現するのか。その共通点と相違点は何なのか。本作では怪獣の存在そのものが謎であり、そこに切り込む科学者たちのアプローチが、イェーガーの戦闘以上にスリリングだ。
そのワクワクする作りは、「伝説の怪獣が降臨しました」というゴジラシリーズよりも、怪獣の動物らしさにこだわったガメラシリーズの精神に近い。
怪獣の体内を探索し、子供怪獣を発見してしまうくだりなどは、『ガメラ対大魔獣ジャイガー』の最大の見せ場と共通する。
さらに、怪獣たちが別世界からの尖兵であることが明らかになり、戦いが壮大な次元戦争の様相を呈してくると、敵は『ウルトラマンA』のヤプール人であったかと膝を打つ観客もいるはずだ。
以上、過去の怪獣映画やロボットアニメと『パシフィック・リム』との類似箇所の一部を紹介したが、ギレルモ・デル・トロ監督は、本作が過去作の模倣でもオマージュでもないと強調している。
ギレルモ・デル・トロ監督は、デザイナーたちに「ゴジラもガメラも『フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ』も見返したりするな」と指示したそうだ。
ギレルモ・デル・トロ監督が意図したのは模倣やオマージュではなく、過去の伝統を受け継ぎつつも新しい作品を創造することだったからだ。
実際、ナイフヘッドをデザインしたウェイン・バーロウは、ギロンを知らなかったという。ナイフヘッドはゴブリンシャーク(ミツクリザメ)を参考にデザインされたものなのだ。
本作が過去の特撮作品やアニメに類似しているのは、特定の作品をパクったのではなく、面白さをとことん追求した結果、過去の作品と同じ境地に収斂したからだろう。
もちろん、いまさら過去の作品を見なくたって、滲み出てしまうものもある。
ジプシー・デンジャーのロケット(アシスト)パンチにマジンガーZの影響がないはずはないし、怪獣が地下シェルターの屋根を破壊して、中の人間を物色する場面は『サンダ対ガイラ』に通じよう。
でもそれは、マジンガーZを見て取り入れたとか、『サンダ対ガイラ』をなぞったということではない。ギレルモ・デル・トロ監督にしろデザイナー諸氏にしろ、過去の作品が体の奥深くに染み込んで、自分でも分化できないほど馴染んでいるのだろう。
また、おそらく確信犯的にやっていることもあろう。
怪獣に負け続けたスタッカー・ペントコスト司令官が各国代表に責め立てられる場面では、非難の急先鋒に立つ米国代表とは裏腹に、日本代表は情けない顔でそこにいるだけだ。
これなど、前作『ヘルボーイ/ゴールデン・アーミー』で『太陽の王子 ホルスの大冒険』の岩男を再現したデル・トロ監督らしく、『ルパン三世 カリオストロの城』で銭形警部が各国代表に責められる場面が念頭にあったはずだ。
これまで私は、日本の怪獣映画をもっとも上手く再現したハリウッド映画は、スティーブン・スピルバーグ監督の『宇宙戦争』だと思っていた。
丘の向こうから宇宙人のトライポッドが迫ってくる恐ろしさは、大戸島でゴジラがにょっきり顔を出す場面そのものだった。
けれども『パシフィック・リム』は、『宇宙戦争』と同じく伊福部昭調の重厚な音楽をバックにしながらも、『ゴジラ』一つに限らず、過去の怪獣映画やロボットアニメを総ざらいする。そして、観客が子供の頃に経験した怪獣の怖さや迫力や、ロボットへの憧れを思い起こさせてくれる。
『パシフィック・リム』を通して見えてくるのは、過去のおびただしい特撮映画やテレビ番組であり、1本の映画だけでは味わえないほどの興奮をもたらしてくれるのだ。
同時に、怪獣映画やロボットアニメをまだあまり観ていない子供たちは、本作をきっかけにしてそれらの素晴らしさに目覚めるだろう。
優れた監督であるギレルモ・デル・トロは、子供を楽しませるための怪獣映画のルールも判っている。
ガメラシリーズ二作目『大怪獣決闘 ガメラ対バルゴン』は人間ドラマを重視した力作だが、いざ封切ってみると子供は男女の愛の話なんて全然見ておらず、怪獣が出てくるまで館内を走り回っていたという。
湯浅憲明監督は、これではいかんと三作目から子供向けを強く意識し、ガメラと敵怪獣の戦いを必ず4ラウンド用意したそうだ。[*]
『パシフィック・リム』も、この4ラウンドルールを踏襲している。
1ラウンド目は米国沿岸での怪獣ナイフヘッドとジプシー・デンジャーの激突。
2ラウンド目は廃墟と化した東京での怪獣オニババとコヨーテ・タンゴの戦い。
3ラウンド目はイェーガーが結集しての香港防衛戦。
そして4ラウンド目が太平洋での最終決戦だ。
その他にも、主人公の回想場面や、シドニーのニュース映像等で怪獣はひっきりなしに登場しているし、怪獣のいない場面でも巨大ロボットのイェーガーが登場している。
ここまでやれば子供が館内を走り回るようなことはあるまい。
ひとつ残念な点を挙げるとすれば、放射線を浴びて何年も経つのに鼻血が出るといった誤った描写が存在することだ。子供も観る映画なのだから、描写の正確さには気をつけたい。
ともあれ、エンドクレジットに添えられたレイ・ハリーハウゼンと本多猪四郎への献辞は、ギレルモ・デル・トロ監督が子供の頃に影響を受けた偉人たちへの感謝を表すとともに、本作に対する自信の顕れでもあろう。
「この映画で子供たちの世代を怪獣やロボット好きにしたい」というデル・トロ監督の「本当の願い」は、きっと叶っているはずだ。
パシフィック・リムとは、環太平洋地域のことである。
本作の舞台となる国、あるいは登場人物の出身国――すなわち日本、中国、米国、ロシア、オーストラリアは、みなパシフィック・リムを構成する国であり、ギレルモ・デル・トロ監督の母国メキシコもその一つだ。
本作はこれらパシフィック・リムの人々が、個人としても国としても協力し合い、手を携えて、海の脅威に対抗する物語だ。
海から来るものをえびすと呼んで信仰し、かつてはクジラもえびすと呼んだように、パシフィック・リムに住む私たちは、古来より海に人知を超えたもの、巨大なものがいると考えてきた。
そんな私たちだからこそ、海から出現する大怪獣が琴線に触れるのだろう。
[*] 『日本特撮・幻想映画全集』 (1997) 勁文社
『パシフィック・リム』 [は行]
監督・制作・脚本/ギレルモ・デル・トロ 脚本/トラヴィス・ビーチャム
出演/チャーリー・ハナム イドリス・エルバ 菊地凛子 チャーリー・デイ ロブ・カジンスキー マックス・マーティーニ 芦田愛菜 ロン・パールマン バーン・ゴーマン クリフトン・コリンズ・Jr ディエゴ・クラテンホフ
日本公開/2013年8月9日
ジャンル/[アクション] [SF] [ロボット]
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ジャンボーグA対大悪獣ギロン!
『パシフィック・リム』には冒頭から度肝を抜かれた。全編がこんな夢の対決で溢れているのだ。
映画『風立ちぬ』はそれだけでも充分素晴らしい作品だが、堀辰雄の小説も読んでいると、映画では少し触れるだけの主人公とヒロインの情愛がより深く理解できる。
『パシフィック・リム』も同様で、本作だけでも充分楽しめるけれど、『ゴジラ』をはじめとする怪獣映画や『ウルトラマン』等の特撮番組を観ていれば、より深く深く堪能できる。
観客の多くが、これまでの鑑賞歴から本作に符合する過去の作品を思い出して、子供の頃のワクワクした気持ちを甦らせたに違いない。
私は『パシフィック・リム』がはじまって早々、怪獣ナイフヘッドの鋭い頭部とその暴れっぷりに感激した。
ナイフヘッドはどこから見ても『ガメラ対大悪獣ギロン』(1969年)でガメラを苦しめたギロンそのものである。ギロンに勝るとも劣らないナイフヘッドの強さには惚れ惚れした。
対するは劇中でイェーガーと呼ばれる巨大ロボット。「イェーガー」はドイツ語で狩人を意味する。
本来ロボットとは自動機械のことであり、産業用ロボットのように人間の手を離れて動き続けるものを指す。人間が搭乗して操作する機械は、いくら外見が人型であってもブルドーザーや乗用車の延長に位置付けられるべきものだ。
しかし『マジンガーZ』の大ヒットは、人間の搭乗する機械をロボットと呼ぶ誤用を定着させてしまった。
それゆえ、本稿でも便宜上ロボットという用語を使わせていただく。
このイェーガーが秀逸で、主人公が乗り込むジプシー・デンジャーは、人間のいる頭部が胴体と合体することで起動するという痺れるメカニズムだ。マジンガーZのホバーパイルダーにしろ、コン・バトラーVのバトルジェットにしろ、やっぱりスーパーロボットには頭部の合体が欠かせない。
しかもそのデザインは、ギレルモ・デル・トロ監督が多大な影響を受けたという鉄人28号の流れを汲み、『戦闘メカ ザブングル』のウォーカー・ギャリアのようながっしりした体形だ。といっても、ジプシー・デンジャーは全高79m(260フィート)もあるので、18.6mのウォーカー・ギャリアよりもはるかに大きく、15人乗りのダイラガーの60mをも凌ぐ。
他のイェーガーのデザインも個性的で、三本腕のクリムゾン・タイフーンや、原子力発電所の冷却塔を頭に乗っけたチェルノ・アルファ等、『マジンガーZ』の機械獣をデザインした故石川賢氏を思わせるほどのぶっ飛んだロボットたちが登場する。
けれども、もっとも嬉しくなるのはイェーガーの操縦方法だ。
イェーガーの操縦は人体への負担が大きいため、二人で協力して操縦する。その方法は、搭乗者の手足の動きを感知して、そのままイェーガーの動作に反映させるジャンボーグA方式だ(アニメで類似の方式が取り入れられたのは『勇者ライディーン』から)。
搭乗者が座ったまま操縦桿を握るだけのマジンガーZ方式と違い、この方法なら搭乗者自身もロボットと一緒にアクションするので、躍動感とともにロボットとの一体感も演出できる。
しかも二人の搭乗者は、ドリフトと呼ばれる精神接続により心を一つにしないと、イェーガーを操縦できない。
この設定にもニヤリとさせられる。
複数名で操縦するゲッターロボが登場してからというもの、搭乗者たちが心を一つにするのはロボット物の定番になった。一人に心の乱れがあると合体できないとか、心を一つにするためにみんなで特訓するとかが、ロボット物のお約束だった。
『ゲッターロボG』に至っては、三人の搭乗者が10分の1秒のズレもなく同時にペダルを踏まないと技を発動できないという(理不尽な)制約まであった。
イェーガーにはこんな懐かしい設定が満載だが、本作の魅力はむしろ怪獣にこそある。
冒頭に挙げたギロンそっくりの怪獣ナイフヘッドはもとより、翼を持つ怪獣オオタチは『大怪獣空中戦 ガメラ対ギャオス』のギャオスのようだし、電磁パルスを発生させる怪獣レザーバックが全身に青白い筋を浮き上がらせたところは『ウルトラマン』の彗星怪獣ドラコを連想させる。頭部が裂けて本当の顔が出てくる怪獣ライジュウは、やはり『ウルトラマン』のウラン怪獣ガボラのようだ。
このような怪獣個々のデザインだけでなく、怪獣の描き方もまた往年の怪獣映画を思わせる。
本作は、物語の進行につれて怪獣の生物的な特徴が解き明かされる過程が見どころになっている。
なぜ、これほど巨大で、多様な怪獣が出現するのか。その共通点と相違点は何なのか。本作では怪獣の存在そのものが謎であり、そこに切り込む科学者たちのアプローチが、イェーガーの戦闘以上にスリリングだ。
そのワクワクする作りは、「伝説の怪獣が降臨しました」というゴジラシリーズよりも、怪獣の動物らしさにこだわったガメラシリーズの精神に近い。
怪獣の体内を探索し、子供怪獣を発見してしまうくだりなどは、『ガメラ対大魔獣ジャイガー』の最大の見せ場と共通する。
さらに、怪獣たちが別世界からの尖兵であることが明らかになり、戦いが壮大な次元戦争の様相を呈してくると、敵は『ウルトラマンA』のヤプール人であったかと膝を打つ観客もいるはずだ。
以上、過去の怪獣映画やロボットアニメと『パシフィック・リム』との類似箇所の一部を紹介したが、ギレルモ・デル・トロ監督は、本作が過去作の模倣でもオマージュでもないと強調している。
ギレルモ・デル・トロ監督は、デザイナーたちに「ゴジラもガメラも『フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ』も見返したりするな」と指示したそうだ。
ギレルモ・デル・トロ監督が意図したのは模倣やオマージュではなく、過去の伝統を受け継ぎつつも新しい作品を創造することだったからだ。
実際、ナイフヘッドをデザインしたウェイン・バーロウは、ギロンを知らなかったという。ナイフヘッドはゴブリンシャーク(ミツクリザメ)を参考にデザインされたものなのだ。
本作が過去の特撮作品やアニメに類似しているのは、特定の作品をパクったのではなく、面白さをとことん追求した結果、過去の作品と同じ境地に収斂したからだろう。
もちろん、いまさら過去の作品を見なくたって、滲み出てしまうものもある。
ジプシー・デンジャーのロケット(アシスト)パンチにマジンガーZの影響がないはずはないし、怪獣が地下シェルターの屋根を破壊して、中の人間を物色する場面は『サンダ対ガイラ』に通じよう。
でもそれは、マジンガーZを見て取り入れたとか、『サンダ対ガイラ』をなぞったということではない。ギレルモ・デル・トロ監督にしろデザイナー諸氏にしろ、過去の作品が体の奥深くに染み込んで、自分でも分化できないほど馴染んでいるのだろう。
また、おそらく確信犯的にやっていることもあろう。
怪獣に負け続けたスタッカー・ペントコスト司令官が各国代表に責め立てられる場面では、非難の急先鋒に立つ米国代表とは裏腹に、日本代表は情けない顔でそこにいるだけだ。
これなど、前作『ヘルボーイ/ゴールデン・アーミー』で『太陽の王子 ホルスの大冒険』の岩男を再現したデル・トロ監督らしく、『ルパン三世 カリオストロの城』で銭形警部が各国代表に責められる場面が念頭にあったはずだ。
これまで私は、日本の怪獣映画をもっとも上手く再現したハリウッド映画は、スティーブン・スピルバーグ監督の『宇宙戦争』だと思っていた。
丘の向こうから宇宙人のトライポッドが迫ってくる恐ろしさは、大戸島でゴジラがにょっきり顔を出す場面そのものだった。
けれども『パシフィック・リム』は、『宇宙戦争』と同じく伊福部昭調の重厚な音楽をバックにしながらも、『ゴジラ』一つに限らず、過去の怪獣映画やロボットアニメを総ざらいする。そして、観客が子供の頃に経験した怪獣の怖さや迫力や、ロボットへの憧れを思い起こさせてくれる。
『パシフィック・リム』を通して見えてくるのは、過去のおびただしい特撮映画やテレビ番組であり、1本の映画だけでは味わえないほどの興奮をもたらしてくれるのだ。
同時に、怪獣映画やロボットアニメをまだあまり観ていない子供たちは、本作をきっかけにしてそれらの素晴らしさに目覚めるだろう。
優れた監督であるギレルモ・デル・トロは、子供を楽しませるための怪獣映画のルールも判っている。
ガメラシリーズ二作目『大怪獣決闘 ガメラ対バルゴン』は人間ドラマを重視した力作だが、いざ封切ってみると子供は男女の愛の話なんて全然見ておらず、怪獣が出てくるまで館内を走り回っていたという。
湯浅憲明監督は、これではいかんと三作目から子供向けを強く意識し、ガメラと敵怪獣の戦いを必ず4ラウンド用意したそうだ。[*]
『パシフィック・リム』も、この4ラウンドルールを踏襲している。
1ラウンド目は米国沿岸での怪獣ナイフヘッドとジプシー・デンジャーの激突。
2ラウンド目は廃墟と化した東京での怪獣オニババとコヨーテ・タンゴの戦い。
3ラウンド目はイェーガーが結集しての香港防衛戦。
そして4ラウンド目が太平洋での最終決戦だ。
その他にも、主人公の回想場面や、シドニーのニュース映像等で怪獣はひっきりなしに登場しているし、怪獣のいない場面でも巨大ロボットのイェーガーが登場している。
ここまでやれば子供が館内を走り回るようなことはあるまい。
ひとつ残念な点を挙げるとすれば、放射線を浴びて何年も経つのに鼻血が出るといった誤った描写が存在することだ。子供も観る映画なのだから、描写の正確さには気をつけたい。
ともあれ、エンドクレジットに添えられたレイ・ハリーハウゼンと本多猪四郎への献辞は、ギレルモ・デル・トロ監督が子供の頃に影響を受けた偉人たちへの感謝を表すとともに、本作に対する自信の顕れでもあろう。
「この映画で子供たちの世代を怪獣やロボット好きにしたい」というデル・トロ監督の「本当の願い」は、きっと叶っているはずだ。
パシフィック・リムとは、環太平洋地域のことである。
本作の舞台となる国、あるいは登場人物の出身国――すなわち日本、中国、米国、ロシア、オーストラリアは、みなパシフィック・リムを構成する国であり、ギレルモ・デル・トロ監督の母国メキシコもその一つだ。
本作はこれらパシフィック・リムの人々が、個人としても国としても協力し合い、手を携えて、海の脅威に対抗する物語だ。
海から来るものをえびすと呼んで信仰し、かつてはクジラもえびすと呼んだように、パシフィック・リムに住む私たちは、古来より海に人知を超えたもの、巨大なものがいると考えてきた。
そんな私たちだからこそ、海から出現する大怪獣が琴線に触れるのだろう。
[*] 『日本特撮・幻想映画全集』 (1997) 勁文社
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監督・制作・脚本/ギレルモ・デル・トロ 脚本/トラヴィス・ビーチャム
出演/チャーリー・ハナム イドリス・エルバ 菊地凛子 チャーリー・デイ ロブ・カジンスキー マックス・マーティーニ 芦田愛菜 ロン・パールマン バーン・ゴーマン クリフトン・コリンズ・Jr ディエゴ・クラテンホフ
日本公開/2013年8月9日
ジャンル/[アクション] [SF] [ロボット]


【theme : 特撮・SF・ファンタジー映画】
【genre : 映画】
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