『惜春鳥』 白虎隊の謎
福島県会津若松市の飯盛山(いいもりやま)を訪れたのは、『惜春(せきしゅん)鳥』のことが引っかかっていたからだ。
この年、会津はNHK大河ドラマ『八重の桜』の舞台ということもあって、観光客で賑わっていた。
特に私が訪れたときは、ドラマが会津戦争における鶴ヶ城の攻防で盛り上がり、白虎隊が自刃するエピソードが放映されたばかりだった。訪れた人々は、あたかも隊士のごとく飯盛山の「白虎隊自刃の地」から遥かな鶴ヶ城を望み、19の墓が並ぶ白虎隊士墓に線香をあげていた。
会津を舞台にした木下惠介監督の『惜春鳥』は、私にとって不思議な映画だった。
それは、石原郁子氏が著書『異才の人 木下惠介 弱い男たちの美しさを中心に』で書いてるように「木下が早世する若者を<単純に美化>したことは一度もないのだが、この映画だけは別だ」からだ。
石原郁子氏は、木下監督が愚直なまでに「反戦平和への思い」を持ち続けていると指摘している。その思いは、国民映画と呼ばれた『二十四の瞳』や『喜びも悲しみも幾歳月』を観ればひしひしと伝わってくる。
そんな木下監督が、死にゆく若者を美化するはずがない。死は、悲しみや無念をもたらすものであり、悼むことはあっても美化するものではない。木下監督ならそう考えると思うのだが、「この映画だけは別」で、夭折した白虎隊の少年たちへの愛惜や共感に満ちている。
なぜ、「この映画だけは別」なんだろう?
そんな疑問を抱きながら、私は白虎隊ゆかりの地を歩いた。
1959年公開の『惜春鳥』は、津川雅彦さんら五人の青年の友情――というより、愛憎を描いた作品だ。
石原郁子氏は本作を「日本メジャー初のゲイ・フィルム?」と紹介している。末尾に疑問符が付いているのは、石原郁子氏がすべての映画を観たわけではないから「日本メジャー初」と断言できないためであり、「ゲイ・フィルム」であることは劇中の細かな描写から例証している。
男同士の入浴シーン、床を並べてくつろぐ男たち、友人に渡された品を大切にする青年等々は、友情の表現とも云えるものの、なるほど単なる男同士の友情にしては抒情的すぎるように見える。
『惜春鳥』こそは、しばしば「女性的」と形容される木下惠介監督が、その「性向」を堂々と主張した映画であり、ゲイであることを表立っては口にできなかった当時における「捨身のカムアウト」なのだ。――と、石原郁子氏は論じる。
だが、やはり私には判らなかった。
たとえ本作がゲイ・フィルムだとしても、そこに白虎隊を絡める理由が判らない。この映画への白虎隊の絡み方は半端じゃないのだ。
五人の青年たちは、かつて一緒に白虎隊の墓前祭で踊った仲間だ。それもあって、再会した彼らはまず白虎隊の墓を詣でる。
一方、彼ら五人に並行して、二人の男女の恋も描かれる。結核の英太郎と芸者のみどりは、深く愛し合っていながら周囲に仲を引き裂かれている。彼ら二人も白虎隊ゆかりの地を訪れ、白虎隊の剣舞を舞ったのち、死に急いだ少年武士たちに感化されたかのように心中してしまう。
本作の登場人物は、誰も彼もが白虎隊に影響されている。映画の舞台を会津にしたのも、白虎隊を絡めるためだろう。
にもかかわらず、木下監督が「性向」を「捨身のカムアウト」することと白虎隊とに関係が見出せない。ましてや、仲を裂かれた男女の悲恋が、なぜ白虎隊の影響を受けて展開するのだろうか。
男女の悲恋と青年たちの愛憎だけであれば、世間に受け入れられない愛というテーマに集約することも可能だろう。
だが、煙の上がる鶴ヶ城を目にして、悲嘆、落胆し、敵に捕まり生き恥をさらすよりもいっそ死ぬことを選んだ少年武士を、このテーマでくくることはできない。
石原郁子氏も気になったのだろう。本作が「ゲイ・フィルム」であることを説明するだけでなく、夭折した少年たちへの木下監督の思いにもページを割いている。
本作において木下監督は感情を隠していない。だからここには木下監督の、早世する若者が抱く清潔なひたむきさへの熱愛と、無力に敗れるがゆえに純粋さや一途さが見えてくる<敗残>への熱愛と、さらには、ともに死ぬという行為にまで至る<深い友愛で結ばれた少年たち>に対する熱愛があるのだろうと説く。
氏の論考を読んでもなお、私は腹に落ちなかった。
私たちの歴史において集団自決は珍しいことではない。
会津戦争では白虎隊のみならず、家老西郷頼母の一族21人も自害したし、第二次世界大戦では樺太の住民が次々に自殺した。沖縄でもバンザイクリフでも多くの人がみずから命を絶っている。古くは壇ノ浦に追い詰められた平家が入水したことも挙げられようし、台湾映画『セデック・バレ』を観れば、同様の悲劇が日本だけではないことが判る。戦争に敗れれば、人は往々にして自決を選んでしまうのだ。
ましてや心中事件に目を向ければ、事例にはこと欠かない。
にもかかわらず、本作では、なぜ他ならぬ白虎隊を取り上げたのか。なぜこれほどまでに美化したのか。
異性愛や同性愛での悩みを描いた本作に、戦争の結果自刃した白虎隊を絡めることは、<深い友愛で結ばれた少年たち>に対する熱愛だけでは説明できないように思った。
会津に足を運んだところ、その「答え」は意外にも簡単に見つかった。
私は白虎隊のことや、おそらくは1959年当時の世情を判っていなかったのだ。
男女の心中と青年たちの友情は、おそらく白虎隊の行為を二つに分解したものなのだ。
すなわち、死を選ぶ行為を男女に代表させ、19人の少年が行動をともにする連帯を五人の青年たちに代表させたのだ。
たしかに石原郁子氏の見立てどおり、本作はゲイ・フィルムであるに違いない。それは五人の青年に単なる友情を超えた強い連帯を持たせるために、必要な要素だったのだ。
こうして本作は、白虎隊の行為を死と連帯という二つの面で受け継いで見せる。
近松門左衛門を例にするまでもなく、心中物は日本で人気がある。
また、津川雅彦さんらオールスターキャストで青年たちの愛憎を描くのも、観客受けするだろう。
本作は白虎隊を二つの面から盛り上げて、白虎隊がなぜ死んだか、何のために死んだのかという問題を*忘れさせてしまう*のだ。
そもそも白虎隊はなぜ死んだのか。
飯盛山の白虎隊士墓の前には、1928年にローマ市から寄贈された碑が立っている。碑文が刻まれた前面に比べると、裏面はのっぺりしているが、第二次世界大戦後に占領軍の命により削り取られるまで、ここには「武士道の精神に捧ぐ」と刻まれていたという。
飯盛山から東山温泉に向かう途中にある博物館・会津武家屋敷にも、こんな言葉が掲げられている。
「我が国武士道の精華と謳われた会津士魂(しこん)は、中世封建社会の成立と、近世の藩校日新館教育によって体系的に確立されたものである。」
会津を歩いた私には、名所旧跡で何度も目にする「武士道」の文字が印象的だった。
会津では新政府軍のことを西軍と呼ぶ。徳川方として西軍と戦ったがために長く逆賊呼ばわりされた会津の人には、武家の棟梁である徳川に付いたことこそ忠実な武士の証だという思いがあろう。会津こそ純粋な武士道精神を有していたと任ずることが、新政府下にあっては精神的な支柱だったかもしれない。
そんな中で、白虎隊の自刃もまた、武士道精神の顕れとして語られてきた。
藩のため、主君のため、年少者さえ命を投げ出し、敵に捕まるくらいならと自刃した白虎隊の行為は、武士道の何たるかを今に伝えている。
だが、『惜春鳥』には武士道精神なんてかけらもない。
白虎隊の死は男女の心中事件に置き換わり、白虎隊を結びつけた精神性はゲイの愛情で語られる。
『惜春鳥』は全編にわたって白虎隊を美化し、愛惜をもって描いてるにもかかわらず、武士道精神がどこにもないのだ。
これこそ木下惠介監督の狙いだろう。
1953年、今井正監督の映画『ひめゆりの塔』のヒットにより、沖縄戦の過酷さをはじめて多くの人が知った。1954年には木下監督もまた『二十四の瞳』で戦争の悲劇を取り上げた。
そこから、日本人を戦争に駆り立てたもの、生きることよりも死ぬことを選ばせたものを考察したとき、木下監督がたどり着いたのが武士道だったのではあるまいか。
その武士道の象徴として、白虎隊の死がまるで美談のように語り継がれるのを目にしたとき、白虎隊の物語を換骨奪胎し、まったく異なる意味づけをしてしまおうと企んだのではあるまいか。彼らの死への哀悼の意はそのままに、意味だけをアップデートする。それにより、白虎隊をいかに美化しようとも、武士道の高揚には結びつかないようにする。それが『惜春鳥』の狙いではないだろうか。
この映画には、木下惠介監督がみずからの「性向」を堂々と主張することや、「捨身のカムアウト」の意味合いもあるかもしれないが、それは木下監督が本気であることを示していよう。
まだ若い少年たちを戦場に駆り立てたもの、早まった自刃へと走らせたもの、それが武士道だとしたら、その象徴たる白虎隊を題材にながら、武士道に染まった人の心をアップデートするには、木下監督も自分の心の奥深くにあるものをぶつけなければ対抗できない。そう考えたのではないだろうか。
惜春鳥とは、5月から6月に飛来するメボソムシクイのことだ。惜春(せきしゅん)の意は「行く春を惜しむこと」だから、この小鳥が見られるようになると春も終わりなのだろう。
そして惜春には「過ぎ行く青春を惜しむ」意味もあることを思えば、可憐な小鳥に哀れすら覚える。
世が世なら、あるいは心持ちが違っていれば失われずに済んだかもしれない若者の青春を犠牲にしながら、歴史は刻まれていく。
それを<単純に美化>してはならない。
やはり木下惠介監督は、反戦平和への思いを抱く人なのだ。
『惜春鳥』 [さ行]
監督・脚本/木下惠介
出演/津川雅彦 小坂一也 石濱朗 山本豊三 川津祐介 有馬稲子 佐田啓二 十朱幸代 笠智衆 伴淳三郎
日本公開/1959年4月28日
ジャンル/[ドラマ] [青春]
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この年、会津はNHK大河ドラマ『八重の桜』の舞台ということもあって、観光客で賑わっていた。
特に私が訪れたときは、ドラマが会津戦争における鶴ヶ城の攻防で盛り上がり、白虎隊が自刃するエピソードが放映されたばかりだった。訪れた人々は、あたかも隊士のごとく飯盛山の「白虎隊自刃の地」から遥かな鶴ヶ城を望み、19の墓が並ぶ白虎隊士墓に線香をあげていた。
会津を舞台にした木下惠介監督の『惜春鳥』は、私にとって不思議な映画だった。
それは、石原郁子氏が著書『異才の人 木下惠介 弱い男たちの美しさを中心に』で書いてるように「木下が早世する若者を<単純に美化>したことは一度もないのだが、この映画だけは別だ」からだ。
石原郁子氏は、木下監督が愚直なまでに「反戦平和への思い」を持ち続けていると指摘している。その思いは、国民映画と呼ばれた『二十四の瞳』や『喜びも悲しみも幾歳月』を観ればひしひしと伝わってくる。
そんな木下監督が、死にゆく若者を美化するはずがない。死は、悲しみや無念をもたらすものであり、悼むことはあっても美化するものではない。木下監督ならそう考えると思うのだが、「この映画だけは別」で、夭折した白虎隊の少年たちへの愛惜や共感に満ちている。
なぜ、「この映画だけは別」なんだろう?
そんな疑問を抱きながら、私は白虎隊ゆかりの地を歩いた。
1959年公開の『惜春鳥』は、津川雅彦さんら五人の青年の友情――というより、愛憎を描いた作品だ。
石原郁子氏は本作を「日本メジャー初のゲイ・フィルム?」と紹介している。末尾に疑問符が付いているのは、石原郁子氏がすべての映画を観たわけではないから「日本メジャー初」と断言できないためであり、「ゲイ・フィルム」であることは劇中の細かな描写から例証している。
男同士の入浴シーン、床を並べてくつろぐ男たち、友人に渡された品を大切にする青年等々は、友情の表現とも云えるものの、なるほど単なる男同士の友情にしては抒情的すぎるように見える。
『惜春鳥』こそは、しばしば「女性的」と形容される木下惠介監督が、その「性向」を堂々と主張した映画であり、ゲイであることを表立っては口にできなかった当時における「捨身のカムアウト」なのだ。――と、石原郁子氏は論じる。
だが、やはり私には判らなかった。
たとえ本作がゲイ・フィルムだとしても、そこに白虎隊を絡める理由が判らない。この映画への白虎隊の絡み方は半端じゃないのだ。
五人の青年たちは、かつて一緒に白虎隊の墓前祭で踊った仲間だ。それもあって、再会した彼らはまず白虎隊の墓を詣でる。
一方、彼ら五人に並行して、二人の男女の恋も描かれる。結核の英太郎と芸者のみどりは、深く愛し合っていながら周囲に仲を引き裂かれている。彼ら二人も白虎隊ゆかりの地を訪れ、白虎隊の剣舞を舞ったのち、死に急いだ少年武士たちに感化されたかのように心中してしまう。
本作の登場人物は、誰も彼もが白虎隊に影響されている。映画の舞台を会津にしたのも、白虎隊を絡めるためだろう。
にもかかわらず、木下監督が「性向」を「捨身のカムアウト」することと白虎隊とに関係が見出せない。ましてや、仲を裂かれた男女の悲恋が、なぜ白虎隊の影響を受けて展開するのだろうか。
男女の悲恋と青年たちの愛憎だけであれば、世間に受け入れられない愛というテーマに集約することも可能だろう。
だが、煙の上がる鶴ヶ城を目にして、悲嘆、落胆し、敵に捕まり生き恥をさらすよりもいっそ死ぬことを選んだ少年武士を、このテーマでくくることはできない。
石原郁子氏も気になったのだろう。本作が「ゲイ・フィルム」であることを説明するだけでなく、夭折した少年たちへの木下監督の思いにもページを割いている。
本作において木下監督は感情を隠していない。だからここには木下監督の、早世する若者が抱く清潔なひたむきさへの熱愛と、無力に敗れるがゆえに純粋さや一途さが見えてくる<敗残>への熱愛と、さらには、ともに死ぬという行為にまで至る<深い友愛で結ばれた少年たち>に対する熱愛があるのだろうと説く。
氏の論考を読んでもなお、私は腹に落ちなかった。
私たちの歴史において集団自決は珍しいことではない。
会津戦争では白虎隊のみならず、家老西郷頼母の一族21人も自害したし、第二次世界大戦では樺太の住民が次々に自殺した。沖縄でもバンザイクリフでも多くの人がみずから命を絶っている。古くは壇ノ浦に追い詰められた平家が入水したことも挙げられようし、台湾映画『セデック・バレ』を観れば、同様の悲劇が日本だけではないことが判る。戦争に敗れれば、人は往々にして自決を選んでしまうのだ。
ましてや心中事件に目を向ければ、事例にはこと欠かない。
にもかかわらず、本作では、なぜ他ならぬ白虎隊を取り上げたのか。なぜこれほどまでに美化したのか。
異性愛や同性愛での悩みを描いた本作に、戦争の結果自刃した白虎隊を絡めることは、<深い友愛で結ばれた少年たち>に対する熱愛だけでは説明できないように思った。
会津に足を運んだところ、その「答え」は意外にも簡単に見つかった。
私は白虎隊のことや、おそらくは1959年当時の世情を判っていなかったのだ。
男女の心中と青年たちの友情は、おそらく白虎隊の行為を二つに分解したものなのだ。
すなわち、死を選ぶ行為を男女に代表させ、19人の少年が行動をともにする連帯を五人の青年たちに代表させたのだ。
たしかに石原郁子氏の見立てどおり、本作はゲイ・フィルムであるに違いない。それは五人の青年に単なる友情を超えた強い連帯を持たせるために、必要な要素だったのだ。
こうして本作は、白虎隊の行為を死と連帯という二つの面で受け継いで見せる。
近松門左衛門を例にするまでもなく、心中物は日本で人気がある。
また、津川雅彦さんらオールスターキャストで青年たちの愛憎を描くのも、観客受けするだろう。
本作は白虎隊を二つの面から盛り上げて、白虎隊がなぜ死んだか、何のために死んだのかという問題を*忘れさせてしまう*のだ。
そもそも白虎隊はなぜ死んだのか。
飯盛山の白虎隊士墓の前には、1928年にローマ市から寄贈された碑が立っている。碑文が刻まれた前面に比べると、裏面はのっぺりしているが、第二次世界大戦後に占領軍の命により削り取られるまで、ここには「武士道の精神に捧ぐ」と刻まれていたという。
飯盛山から東山温泉に向かう途中にある博物館・会津武家屋敷にも、こんな言葉が掲げられている。
「我が国武士道の精華と謳われた会津士魂(しこん)は、中世封建社会の成立と、近世の藩校日新館教育によって体系的に確立されたものである。」
会津を歩いた私には、名所旧跡で何度も目にする「武士道」の文字が印象的だった。
会津では新政府軍のことを西軍と呼ぶ。徳川方として西軍と戦ったがために長く逆賊呼ばわりされた会津の人には、武家の棟梁である徳川に付いたことこそ忠実な武士の証だという思いがあろう。会津こそ純粋な武士道精神を有していたと任ずることが、新政府下にあっては精神的な支柱だったかもしれない。
そんな中で、白虎隊の自刃もまた、武士道精神の顕れとして語られてきた。
藩のため、主君のため、年少者さえ命を投げ出し、敵に捕まるくらいならと自刃した白虎隊の行為は、武士道の何たるかを今に伝えている。
だが、『惜春鳥』には武士道精神なんてかけらもない。
白虎隊の死は男女の心中事件に置き換わり、白虎隊を結びつけた精神性はゲイの愛情で語られる。
『惜春鳥』は全編にわたって白虎隊を美化し、愛惜をもって描いてるにもかかわらず、武士道精神がどこにもないのだ。
これこそ木下惠介監督の狙いだろう。
1953年、今井正監督の映画『ひめゆりの塔』のヒットにより、沖縄戦の過酷さをはじめて多くの人が知った。1954年には木下監督もまた『二十四の瞳』で戦争の悲劇を取り上げた。
そこから、日本人を戦争に駆り立てたもの、生きることよりも死ぬことを選ばせたものを考察したとき、木下監督がたどり着いたのが武士道だったのではあるまいか。
その武士道の象徴として、白虎隊の死がまるで美談のように語り継がれるのを目にしたとき、白虎隊の物語を換骨奪胎し、まったく異なる意味づけをしてしまおうと企んだのではあるまいか。彼らの死への哀悼の意はそのままに、意味だけをアップデートする。それにより、白虎隊をいかに美化しようとも、武士道の高揚には結びつかないようにする。それが『惜春鳥』の狙いではないだろうか。
この映画には、木下惠介監督がみずからの「性向」を堂々と主張することや、「捨身のカムアウト」の意味合いもあるかもしれないが、それは木下監督が本気であることを示していよう。
まだ若い少年たちを戦場に駆り立てたもの、早まった自刃へと走らせたもの、それが武士道だとしたら、その象徴たる白虎隊を題材にながら、武士道に染まった人の心をアップデートするには、木下監督も自分の心の奥深くにあるものをぶつけなければ対抗できない。そう考えたのではないだろうか。
惜春鳥とは、5月から6月に飛来するメボソムシクイのことだ。惜春(せきしゅん)の意は「行く春を惜しむこと」だから、この小鳥が見られるようになると春も終わりなのだろう。
そして惜春には「過ぎ行く青春を惜しむ」意味もあることを思えば、可憐な小鳥に哀れすら覚える。
世が世なら、あるいは心持ちが違っていれば失われずに済んだかもしれない若者の青春を犠牲にしながら、歴史は刻まれていく。
それを<単純に美化>してはならない。
やはり木下惠介監督は、反戦平和への思いを抱く人なのだ。

監督・脚本/木下惠介
出演/津川雅彦 小坂一也 石濱朗 山本豊三 川津祐介 有馬稲子 佐田啓二 十朱幸代 笠智衆 伴淳三郎
日本公開/1959年4月28日
ジャンル/[ドラマ] [青春]


『エンド・オブ・ホワイトハウス』 これをやってはいけない
優れた創作者には、現実に起きることを見通す力があるのだろうか。
月刊「創」の篠田編集長は、映画『さよなら渓谷』を観た驚きを同誌2013年7月号に綴っている。1998年に帝京大ラグビー部員が起こした事件のその後については、月刊「創」2011年12月号と2012年1月号で取り上げるまで世間は知らなかったはずなのに、『さよなら渓谷』の原作者吉田修一氏は2007年に発表した小説で事件当事者のその後の苦悩を見通していたからだ。
『エンド・オブ・ホワイトハウス』も同様の驚きに満ちており、単なるアクション映画にとどまらない。
それもこれも、際どいところを狙う作り手のハンドリングの巧さによるものだろう。
本作は題名のとおりホワイトハウスへの襲撃を題材とした映画である。
まずは、その襲撃方法がショッキングだ。
なにしろテロリストは航空機を使って空からホワイトハウスを狙ってくる。地上の警備陣との応酬を経て、航空機はホワイトハウスへ突っ込み、建物に甚大な被害をもたらす。
航空機がビルに突っ込むテロといえば、もちろん誰もが2001年のアメリカ同時多発テロ事件を連想するだろう。しかも映画の作り手は、ご丁寧にもホワイトハウスのすぐ近くにあるワシントン記念塔を倒壊させ、否応なしに世界貿易センタービルの倒壊を思い出させる。
アメリカ同時多発テロ事件で受けた心の傷を優しく癒す映画が公開されたのは、それほど前のことではない。
まだまだ慎重な扱いが必要であろうこの事件をアクションシーンのネタに使うとは、米国民の神経を逆なでしかねない行為だ。
にもかかわらず、こんな際どい映像を挿入するのは、本作がカッコいいヒーローのアクションを描くだけでなく、世界がいかに危険に満ちているかを観客に実感させるためだろう。
映画は韓国首相(国務総理)のホワイトハウス訪問からはじまり、一気に朝鮮半島を取り巻く国際情勢へとスケールアップしていく。
主人公は元大統領担当のシークレットサービス。
財務省担当の閑職に追いやられていた彼が、全滅したホワイトハウスの警備陣に代わってテロリストに反撃するのはスピード感に溢れて面白い。
ここで観客の度肝を抜くのも「際どさ」だ。
主人公が心優しい正義の味方だと思ったら大間違い。彼はやり過ぎに見えるくらい無情に行動し、無抵抗の者を平然と殺してしまう。その人物像も行動も、みんな際どい。
テロリストに占拠されたホワイトハウス内で孤軍奮闘する彼にすれば、後顧の憂いを断つために、敵に回る可能性のある者は始末しておかねばならない。その点は『96時間』と同じで、ちょっとひどい描写の連続となる。殺す瞬間を映さないだけ、本作はまだお手柔らかと云えるだろうか。
いずれにせよ主人公がそうまですることで、世界で一番堅牢であるべきホワイトハウスが、今や油断のならない危険地帯であることがビンビン伝わってくる。
だが、やはりもっとも目を引くのは、現実世界の動向を読んだようなストーリー展開だ。
本作を制作したミレニアム・フィルムズがスペック・スクリプト(売り込み用脚本)を獲得したのは2012年3月のことである。その後に変更があったとしても、撮影やポストプロダクションの時間を考えれば、2013年3月22日の米国公開までにプロットを大きく変えられるはずがない。
にもかかわらず、2012年12月に行われた韓国大統領選やその後の状況、特に2013年春に北朝鮮が繰り返したミサイル攻撃の威嚇や、同年5月の韓国大統領の訪米と6月末の訪中を先取りしたかのような国際情勢の理解には舌を巻く。
劇中、ホワイトハウスを占拠したのは北朝鮮出身のテロリストであり、彼らの要求はズバリ韓国からの米軍の撤退と、東アジア地域から第七艦隊が退去することだ。すなわち、米韓同盟の無効化である。
そして映画が描くのは、在韓米軍の撤退を見越して緊張が高まる38度線と、中国との連携に迫られて、すでに東アジアでのイニシアチブを失っていることを露呈する米国。さらに「韓国を失った」とうろたえる米国当局者だ。
これはすなわち、現実に北朝鮮の核開発やミサイル攻撃の脅威を止められない米国と、そんな米国に限界を感じて中国との関係を強化し、米中二股外交に乗り出した韓国のカリカチュアだ。
この映画は暗に「米国に距離を置く韓国」をテーマにしているのだ。
鈴置高史(すずおき たかぶみ)氏は、近頃の韓国の動きを「離米従中」という言葉で説明している。
もとより二千年にわたって中国を宗主国としてきた韓国では、海軍力で天下を睥睨する海洋勢力・米国の陣営を離れ、中国を中心とする大陸勢力の華夷秩序(かいちつじょ)に戻る方が本来の姿なのだという。
中国はアヘン戦争で勢力圏を侵されてから、170年以上かけて失地を回復してきた。朝鮮半島が南北ともに中国の勢力圏に入れば、大陸の一部が海洋勢力に属するという不自然な形も解消する。
鈴置高史氏の指摘を念頭に置いたとき、一映画好きとして思い当たるのが韓国映画『王になった男』だ。
李氏朝鮮の第15代国王・光海君(クァンヘグン)を描いたこの映画は、人口が5,000万人しかない韓国で1,232万人も動員する大ヒットとなり、「韓国のアカデミー賞」と称される大鐘賞を歴代最多の15部門も受賞している。
映画をつくるのは作り手側の思惑によるが、公開されて名実ともに成績を上げるには社会の側に作品を受け入れる下地がなければならない。
黒澤明監督の『影武者』をコミカルにしたような『王になった男』がこれほど韓国社会で受けた要因の一つは、「時代精神」とシンクロしたことではないだろうか。
韓国の「時代精神」とは、「抗うことのできない時代の流れや常識」を意味するという。
『王になった男』の光海君は、臣下が明王朝に従うべきだと考える中で、新興の後金との外交を重視する。歴史によれば、後年光海君は失脚し、朝鮮は明側につくことを選ぶ。
だが明は、後金すなわち清に滅ぼされ、明側についていた朝鮮もまた屈辱的な降伏を余儀なくされた。
このとき朝鮮が学んだのは、衰えていく大国にいつまでもついていくのではなく、覇権の移る先を見極めることだという。
今にして思えば、光海君が後金と外交関係を結んだのは先見の明があったと云える。
かつて暴君と呼ばれた光海君を題材にした『王になった男』が韓国で大ヒットしたのは、観客が光海君を優れた時代精神の読み手と見たからではないだろうか。
そして光海君に、米中二大国のあいだを上手く泳いでいかねばならない自分たちを重ね合わせたからではないだうか。
一方、米国にしてみれば、自陣営の一員だった韓国が中国との関係を強化すれば、まさしく「韓国を失った」ように感じるかもしれない。
では、米国は韓国を引き止めるために全力を尽くすのかというと、そう単純な話でもないようだ。
木村幹氏は、そもそも米国は朝鮮半島に本格的にかかわるつもりなどなかったと指摘する。朝鮮戦争が勃発し、やむを得ず米軍を韓国に置くことになったまま、冷戦が終結した現在も米国は28,000人を駐在させている。できれば朝鮮半島から撤兵して戦線を整理したい、米国はそう考えているという。
朝鮮戦争以来、韓国軍の有事作戦統制権は米国側にある。米国としては、これを韓国に移管することで、韓国にもっと自国の安全保障に責任を負って欲しいのだが、韓国はたびたび移管の延期を申し出ている。
『エンド・オブ・ホワイトハウス』の冒頭で米国政府が朝鮮半島の問題に消極的な様子が描かれるのは、このような実情を捉えてのことだろう。
それらを考えると、「韓国を失う事態に直面する米国」を描いた本作がきわめて今日的であり、半島情勢に敏感な日本人にもたいへん興味深い作品であることが判るだろう。
本作からは米韓両国に対する強烈なアピールが感じられる。
韓国に対しては、現在の韓国の平和が在韓米軍あってのものだと強調している。韓国から米軍が引き上げたらどれほど困ったことになるか、その緊迫した状況を描いて、米国との強い結びつきの必要性を訴えている。
米国に対しては、朝鮮半島に優先的に取り組むことの重要性を訴えている。「韓国を失った」とうろたえる当局者の姿は、米国の観客に韓国がかけがえのない国であることを認識させる。
本作を観ていると、そんなメッセージが込もっているように思われて、一体どういう立場の人間がこの映画に資金提供したのかと考えるだけでも面白い。
こうしてみると、米韓以外の各国の反応も描かれる本作にあって、日本だけまったく登場しないのも合点がいく。日本を絡めるとややこしくなって、米韓両国へアピールしたいことが薄まってしまうからだ。
もしも米韓関係に特段の興味を持たない者が、単に面白い映画を作りたい一心でここまで作り込んだのであればたいしたものである。
さて、いろんな意味で面白い『エンド・オブ・ホワイトハウス』だが、一つだけ問題点を指摘しておこう。
本作を撮るに当たって、アントワーン・フークア監督はリアリティを重視したという。
なによりもホワイトハウス陥落という衝撃的なシチュエーションに説得力がなければ映画全体が色褪せてしまうから、ホワイトハウスの実態を知る人間の協力を得て物語を練ったという。
その過程が公式サイトに紹介されている。
---
フークアは、本作の絶対的な信憑性を高めるため、ホワイトハウスとシークレットサービスの両方について、さらに突っ込んだリサーチを開始した。
(略)
フークア監督は、元シークレットサービス、FBI、CIA、法執行機関の当局者たちといった顧問チームとミーティングを行った。「元シークレットサービスや、ホワイトハウスで過ごした経験のある人間に参加してもらい、エンタテインメント大作として脚本のどの部分に飛躍が必要で、どこを正確に描いていけばいいのかを地固めしていった」
顧問チームの一員であり、テロへの対抗措置手段に対する専門的知識をもつリッキー・ジョーンズは、大統領官邸への直接攻撃は仮定の問題ではなく、誰かが試みる可能性があることをフークアに断言した。
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映画はテロリストがホワイトハウスを占拠するまでを実にテンポ良く、説得力を持って描いている。
もちろんこれはアクション映画なので、最後には主人公がテロリストを退治する。
ところがおかしなことに、主人公の反撃を可能にするのはテロリストの落ち度ではなく、ホワイトハウスの警備陣の不手際なのだ。
主人公は大統領の警護を担当していたから、ホワイトハウスの構造にも詳しい。そこまでは良いのだが、主人公は担当を外されて18ヶ月も経っているのに、ホワイトハウスのセキュリティシステムにログインしてテロリストを撹乱している。
だが、こんなことはあり得ないだろう。
担当者が異動したら、セキュリティシステムにログインするためのアカウントを抹消するなり、パスワードの変更なりが行われるはずだ。そうしなければ、アクセス権限がなくなった人間の侵入を許すことになる。
主人公の異動は一時的なものではなく、大統領担当に戻る可能性がないまま18ヶ月も経っているのだから、セキュリティシステムへのアクセス権限は失っているはずだ。
にもかかわらず、主人公は易々とシステムにログインする。これではホワイトハウスの警備がだらしなく見えてしまうので、フークア監督の顧問チームはとうぜん指摘したはずだ。
この点は、主人公に反撃の取っ掛かりを与えるために目をつぶったのだろう。
本作の場合は、この不手際があったおかげで事件の解決を見るけれど、現実に異動者のアクセス権限が残っていたら大問題だ。
あなたがホワイトハウスを占拠したら、まずパスワードを変えてしまおう。
『エンド・オブ・ホワイトハウス』 [あ行]
監督・制作/アントワーン・フークア
出演/ジェラルド・バトラー アーロン・エッカート モーガン・フリーマン アンジェラ・バセット リック・ユーン ロバート・フォスター コール・ハウザー フィンリー・ジェイコブセン アシュレイ・ジャッド メリッサ・レオ ディラン・マクダーモット ラダ・ミッチェル
日本公開/2013年6月8日
ジャンル/[アクション] [サスペンス]
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月刊「創」の篠田編集長は、映画『さよなら渓谷』を観た驚きを同誌2013年7月号に綴っている。1998年に帝京大ラグビー部員が起こした事件のその後については、月刊「創」2011年12月号と2012年1月号で取り上げるまで世間は知らなかったはずなのに、『さよなら渓谷』の原作者吉田修一氏は2007年に発表した小説で事件当事者のその後の苦悩を見通していたからだ。
『エンド・オブ・ホワイトハウス』も同様の驚きに満ちており、単なるアクション映画にとどまらない。
それもこれも、際どいところを狙う作り手のハンドリングの巧さによるものだろう。
本作は題名のとおりホワイトハウスへの襲撃を題材とした映画である。
まずは、その襲撃方法がショッキングだ。
なにしろテロリストは航空機を使って空からホワイトハウスを狙ってくる。地上の警備陣との応酬を経て、航空機はホワイトハウスへ突っ込み、建物に甚大な被害をもたらす。
航空機がビルに突っ込むテロといえば、もちろん誰もが2001年のアメリカ同時多発テロ事件を連想するだろう。しかも映画の作り手は、ご丁寧にもホワイトハウスのすぐ近くにあるワシントン記念塔を倒壊させ、否応なしに世界貿易センタービルの倒壊を思い出させる。
アメリカ同時多発テロ事件で受けた心の傷を優しく癒す映画が公開されたのは、それほど前のことではない。
まだまだ慎重な扱いが必要であろうこの事件をアクションシーンのネタに使うとは、米国民の神経を逆なでしかねない行為だ。
にもかかわらず、こんな際どい映像を挿入するのは、本作がカッコいいヒーローのアクションを描くだけでなく、世界がいかに危険に満ちているかを観客に実感させるためだろう。
映画は韓国首相(国務総理)のホワイトハウス訪問からはじまり、一気に朝鮮半島を取り巻く国際情勢へとスケールアップしていく。
主人公は元大統領担当のシークレットサービス。
財務省担当の閑職に追いやられていた彼が、全滅したホワイトハウスの警備陣に代わってテロリストに反撃するのはスピード感に溢れて面白い。
ここで観客の度肝を抜くのも「際どさ」だ。
主人公が心優しい正義の味方だと思ったら大間違い。彼はやり過ぎに見えるくらい無情に行動し、無抵抗の者を平然と殺してしまう。その人物像も行動も、みんな際どい。
テロリストに占拠されたホワイトハウス内で孤軍奮闘する彼にすれば、後顧の憂いを断つために、敵に回る可能性のある者は始末しておかねばならない。その点は『96時間』と同じで、ちょっとひどい描写の連続となる。殺す瞬間を映さないだけ、本作はまだお手柔らかと云えるだろうか。
いずれにせよ主人公がそうまですることで、世界で一番堅牢であるべきホワイトハウスが、今や油断のならない危険地帯であることがビンビン伝わってくる。
だが、やはりもっとも目を引くのは、現実世界の動向を読んだようなストーリー展開だ。
本作を制作したミレニアム・フィルムズがスペック・スクリプト(売り込み用脚本)を獲得したのは2012年3月のことである。その後に変更があったとしても、撮影やポストプロダクションの時間を考えれば、2013年3月22日の米国公開までにプロットを大きく変えられるはずがない。
にもかかわらず、2012年12月に行われた韓国大統領選やその後の状況、特に2013年春に北朝鮮が繰り返したミサイル攻撃の威嚇や、同年5月の韓国大統領の訪米と6月末の訪中を先取りしたかのような国際情勢の理解には舌を巻く。
劇中、ホワイトハウスを占拠したのは北朝鮮出身のテロリストであり、彼らの要求はズバリ韓国からの米軍の撤退と、東アジア地域から第七艦隊が退去することだ。すなわち、米韓同盟の無効化である。
そして映画が描くのは、在韓米軍の撤退を見越して緊張が高まる38度線と、中国との連携に迫られて、すでに東アジアでのイニシアチブを失っていることを露呈する米国。さらに「韓国を失った」とうろたえる米国当局者だ。
これはすなわち、現実に北朝鮮の核開発やミサイル攻撃の脅威を止められない米国と、そんな米国に限界を感じて中国との関係を強化し、米中二股外交に乗り出した韓国のカリカチュアだ。
この映画は暗に「米国に距離を置く韓国」をテーマにしているのだ。
鈴置高史(すずおき たかぶみ)氏は、近頃の韓国の動きを「離米従中」という言葉で説明している。
もとより二千年にわたって中国を宗主国としてきた韓国では、海軍力で天下を睥睨する海洋勢力・米国の陣営を離れ、中国を中心とする大陸勢力の華夷秩序(かいちつじょ)に戻る方が本来の姿なのだという。
中国はアヘン戦争で勢力圏を侵されてから、170年以上かけて失地を回復してきた。朝鮮半島が南北ともに中国の勢力圏に入れば、大陸の一部が海洋勢力に属するという不自然な形も解消する。
鈴置高史氏の指摘を念頭に置いたとき、一映画好きとして思い当たるのが韓国映画『王になった男』だ。
李氏朝鮮の第15代国王・光海君(クァンヘグン)を描いたこの映画は、人口が5,000万人しかない韓国で1,232万人も動員する大ヒットとなり、「韓国のアカデミー賞」と称される大鐘賞を歴代最多の15部門も受賞している。
映画をつくるのは作り手側の思惑によるが、公開されて名実ともに成績を上げるには社会の側に作品を受け入れる下地がなければならない。
黒澤明監督の『影武者』をコミカルにしたような『王になった男』がこれほど韓国社会で受けた要因の一つは、「時代精神」とシンクロしたことではないだろうか。
韓国の「時代精神」とは、「抗うことのできない時代の流れや常識」を意味するという。
『王になった男』の光海君は、臣下が明王朝に従うべきだと考える中で、新興の後金との外交を重視する。歴史によれば、後年光海君は失脚し、朝鮮は明側につくことを選ぶ。
だが明は、後金すなわち清に滅ぼされ、明側についていた朝鮮もまた屈辱的な降伏を余儀なくされた。
このとき朝鮮が学んだのは、衰えていく大国にいつまでもついていくのではなく、覇権の移る先を見極めることだという。
今にして思えば、光海君が後金と外交関係を結んだのは先見の明があったと云える。
かつて暴君と呼ばれた光海君を題材にした『王になった男』が韓国で大ヒットしたのは、観客が光海君を優れた時代精神の読み手と見たからではないだろうか。
そして光海君に、米中二大国のあいだを上手く泳いでいかねばならない自分たちを重ね合わせたからではないだうか。
一方、米国にしてみれば、自陣営の一員だった韓国が中国との関係を強化すれば、まさしく「韓国を失った」ように感じるかもしれない。
では、米国は韓国を引き止めるために全力を尽くすのかというと、そう単純な話でもないようだ。
木村幹氏は、そもそも米国は朝鮮半島に本格的にかかわるつもりなどなかったと指摘する。朝鮮戦争が勃発し、やむを得ず米軍を韓国に置くことになったまま、冷戦が終結した現在も米国は28,000人を駐在させている。できれば朝鮮半島から撤兵して戦線を整理したい、米国はそう考えているという。
朝鮮戦争以来、韓国軍の有事作戦統制権は米国側にある。米国としては、これを韓国に移管することで、韓国にもっと自国の安全保障に責任を負って欲しいのだが、韓国はたびたび移管の延期を申し出ている。
『エンド・オブ・ホワイトハウス』の冒頭で米国政府が朝鮮半島の問題に消極的な様子が描かれるのは、このような実情を捉えてのことだろう。
それらを考えると、「韓国を失う事態に直面する米国」を描いた本作がきわめて今日的であり、半島情勢に敏感な日本人にもたいへん興味深い作品であることが判るだろう。
本作からは米韓両国に対する強烈なアピールが感じられる。
韓国に対しては、現在の韓国の平和が在韓米軍あってのものだと強調している。韓国から米軍が引き上げたらどれほど困ったことになるか、その緊迫した状況を描いて、米国との強い結びつきの必要性を訴えている。
米国に対しては、朝鮮半島に優先的に取り組むことの重要性を訴えている。「韓国を失った」とうろたえる当局者の姿は、米国の観客に韓国がかけがえのない国であることを認識させる。
本作を観ていると、そんなメッセージが込もっているように思われて、一体どういう立場の人間がこの映画に資金提供したのかと考えるだけでも面白い。
こうしてみると、米韓以外の各国の反応も描かれる本作にあって、日本だけまったく登場しないのも合点がいく。日本を絡めるとややこしくなって、米韓両国へアピールしたいことが薄まってしまうからだ。
もしも米韓関係に特段の興味を持たない者が、単に面白い映画を作りたい一心でここまで作り込んだのであればたいしたものである。
さて、いろんな意味で面白い『エンド・オブ・ホワイトハウス』だが、一つだけ問題点を指摘しておこう。
本作を撮るに当たって、アントワーン・フークア監督はリアリティを重視したという。
なによりもホワイトハウス陥落という衝撃的なシチュエーションに説得力がなければ映画全体が色褪せてしまうから、ホワイトハウスの実態を知る人間の協力を得て物語を練ったという。
その過程が公式サイトに紹介されている。
---
フークアは、本作の絶対的な信憑性を高めるため、ホワイトハウスとシークレットサービスの両方について、さらに突っ込んだリサーチを開始した。
(略)
フークア監督は、元シークレットサービス、FBI、CIA、法執行機関の当局者たちといった顧問チームとミーティングを行った。「元シークレットサービスや、ホワイトハウスで過ごした経験のある人間に参加してもらい、エンタテインメント大作として脚本のどの部分に飛躍が必要で、どこを正確に描いていけばいいのかを地固めしていった」
顧問チームの一員であり、テロへの対抗措置手段に対する専門的知識をもつリッキー・ジョーンズは、大統領官邸への直接攻撃は仮定の問題ではなく、誰かが試みる可能性があることをフークアに断言した。
---
映画はテロリストがホワイトハウスを占拠するまでを実にテンポ良く、説得力を持って描いている。
もちろんこれはアクション映画なので、最後には主人公がテロリストを退治する。
ところがおかしなことに、主人公の反撃を可能にするのはテロリストの落ち度ではなく、ホワイトハウスの警備陣の不手際なのだ。
主人公は大統領の警護を担当していたから、ホワイトハウスの構造にも詳しい。そこまでは良いのだが、主人公は担当を外されて18ヶ月も経っているのに、ホワイトハウスのセキュリティシステムにログインしてテロリストを撹乱している。
だが、こんなことはあり得ないだろう。
担当者が異動したら、セキュリティシステムにログインするためのアカウントを抹消するなり、パスワードの変更なりが行われるはずだ。そうしなければ、アクセス権限がなくなった人間の侵入を許すことになる。
主人公の異動は一時的なものではなく、大統領担当に戻る可能性がないまま18ヶ月も経っているのだから、セキュリティシステムへのアクセス権限は失っているはずだ。
にもかかわらず、主人公は易々とシステムにログインする。これではホワイトハウスの警備がだらしなく見えてしまうので、フークア監督の顧問チームはとうぜん指摘したはずだ。
この点は、主人公に反撃の取っ掛かりを与えるために目をつぶったのだろう。
本作の場合は、この不手際があったおかげで事件の解決を見るけれど、現実に異動者のアクセス権限が残っていたら大問題だ。
あなたがホワイトハウスを占拠したら、まずパスワードを変えてしまおう。
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監督・制作/アントワーン・フークア
出演/ジェラルド・バトラー アーロン・エッカート モーガン・フリーマン アンジェラ・バセット リック・ユーン ロバート・フォスター コール・ハウザー フィンリー・ジェイコブセン アシュレイ・ジャッド メリッサ・レオ ディラン・マクダーモット ラダ・ミッチェル
日本公開/2013年6月8日
ジャンル/[アクション] [サスペンス]


『風立ちぬ』 宮崎駿と堀越二郎を繋ぐのは誰だ?
![風立ちぬ [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/41KRisgHFRL._SL160_.jpg)
自動車の個人所有が一般的ではなく、しかも原油不足から民間では木炭自動車が使われていた当時にあって、彼の父はガソリンの自家用車に乗っていた。世間が食糧難で、食べる物が何もない中、宮崎家はおひつでご飯を食べていた。
叔父が社長、父が工場長を務める宮崎航空興学は、軍需産業の一員として飛行機部品を組み立てていた。栃木県の工場には千数百人の工員がいたというから、ちっぽけな町工場ではない。なるほど、裕福な一族だったのだろう。
だが、未熟な女の子たちを臨時工として動員しても、できた翼は規格に合わない。規格に合わなくても、検査官の軍人にポケットマネーを渡せば通ってしまう。
それで特攻隊の青年たちが乗る飛行機は、できたときから機関銃に穴が開いていないような欠陥品だったという。
エンジンは油がボトボト漏るし、1000馬力のはずが500馬力しか出ない。そういう飛行機に青年を乗せて、戦場を飛ばせていたのだ。
男はみんな兵隊に引っ張られる時代だったが、軍需産業に必要だからと手を回すことで、宮崎監督の父方の親戚は戦争に行くこともなかった。
映画『風立ちぬ』には空襲のシーンがある。
宮崎駿監督もまた空襲を経験している。
といっても、1941年1月生まれの宮崎監督は、1945年7月の宇都宮空襲のときにわずか四歳半。だから記憶は不確かだろうが、それでも焼夷弾で町中が燃える中を小さなトラックで逃げたこと、女の子を抱いた近所のおばさんが「乗せてください」と駆け寄ってきたことは憶えているという。
宮崎監督はそのときのことを回想して、次のように述べている。[*1]
---
自分が戦争中に、全体が物質的に苦しんでいる時に軍需産業で儲けてる親の元でぬくぬくと育った、しかも人が死んでる最中に滅多になかったガソリンのトラックで逃げちゃった、乗せてくれって言う人も見捨ててしまった、っていう事は、四歳の子供にとっても強烈な記憶になって残ったんです。それは周りで言ってる正しく生きるとか、人に思いやりを持つとかいうことから比べると、耐え難いことなわけですね。それに自分の親は善い人であり世界で一番優れた人間だ、っていうふうに小さい子どもは思いたいですから、この記憶はずーっと自分の中で押し殺していたんです。それで忘れていまして、そして思春期になった時に、どうしてもこの記憶ともう一回対面せざるを得なくなったわけです。
(略)
自分のどっかの根本に、自分が生まれてここまで生きて来たってことの根本に、とんでもないごまかしがあるっていうふうに気がついたんです。
---
その問題と対決した宮崎青年は、とうぜん親とも喧嘩した。
そして、あのとき運転していたのが自分だったらトラックを止めただろうかと自問する。
その宮崎駿監督が、『コクリコ坂から』に続いて『風立ちぬ』に取り組んだのは必然といえよう。
宮崎監督は、身の周りを意識しながら作品を創ってきた人だ。
長年、我が子や孫に向けてアニメーションを創ってきた宮崎駿氏は、企画・脚本を手掛けた『コクリコ坂から』で二つのことに挑戦した。一つは自分自身と向かい合うこと、もう一つは現実の戦争に取り組むことだ。
だから『コクリコ坂から』の時代設定を労働運動に励んだみずからの青年期に重ね合わせるとともに、ほとんど知られていなかった朝鮮戦争の事件を物語に絡めている(詳しくは「『コクリコ坂から』 忘れ去られたモデルとなった事件」をお読みいただきたい)。
『コクリコ坂から』でそこまでした宮崎監督にとって、もう一歩踏み込んだ先にあるのが、幼少期から戦闘機や戦車が好きだった軍事オタクの自分と、空襲で逃げ惑った第二次世界大戦だ。
それは、「軍需産業のおかげで育った自分」という一つのテーマに収束する。
スタジオジブリの鈴木敏夫プロデューサーが『風立ちぬ』のパンフレットに書いているように、アニメーター宮崎駿の得意技は戦闘シーンだ。『長靴をはいた猫』(1969年)、『どうぶつ宝島』(1971年)、『アリババと40匹の盗賊』(1971年)等の激しい剣戟や追いかけっこ、あるいは『空飛ぶゆうれい船』(1969年)の戦車や『未来少年コナン』(1978年)の巨大飛行機のド迫力。その躍動感は他の追随を許さない。
戦闘機や戦車が大好きで、生き生きとした戦闘シーンを描くにもかかわらず、作品では必ず平和を希求する宮崎駿。
その矛盾した自分自身にメスを入れることが、アニメーション作家・宮崎駿に残された課題ではないか。そう考えてきた宮崎ファンは、私だけではないはずだ。
鈴木プロデューサーも同じ考えだったようだ。
鈴木プロデューサーは、宮崎監督がモデルグラフィックス誌に連載した漫画『風立ちぬ』の映画化を持ちかけた気持ちを次のように語っている。
---
宮崎駿は一九四一(昭和十六)年生まれ。子どものころは戦争中。だから、宮さんの言葉を借りれば、物心ついたときに絵を描くとなると、戦闘機ばかり。でも、一方では大人になって反戦デモにも参加する。相矛盾ですよね。
(略)
その矛盾に対する自分の答えを、宮崎駿はそろそろ出すべきなんじゃないか。僕はそう思った。年も年だし。これはやっておくべきじゃないか、と。
---
鈴木プロデューサーの提案に対して、宮崎監督は当初「あの漫画は趣味で描いているんだ。趣味を映画にするなんてあり得ない」「アニメーション映画は子どものためにつくるもの。大人のための映画はつくっちゃいけない」と猛反対したという。
しかし「趣味で描いている」とは、「子供のためと自分を縛らず、自分に素直に描いている」という意味だろう。
鈴木プロデューサーは、数ヶ月後にようやく『風立ちぬ』の映画化に取り組むことにした宮崎監督の想いを紹介している。
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戦争反対でありながら、一方では兵器関係のものが好きだし、恋愛小説なども好き。「なんで自分みたいなものができたのだろう?」ということをこの映画の中で明らかにしたいということで、原作も苦労して描いていましたが、改めて映画にする時にもそれが非常に大きなテーマとなっています。
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その一人は、ゼロ戦[*2]の設計主務者として有名な堀越二郎。1903年に生まれ、飛行機の開発一筋に歩んだ人物である。
宮崎監督は堀越二郎氏に、飛行機が好きなところや軍需産業に関わることや、時間に追われながらモノ作りに打ち込む姿勢等の多くのものを仮託している。
もう一人は、小説家の堀辰雄。堀越二郎氏より一歳下の同時代人だ。
婚約者を肺結核で亡くした堀辰雄氏は、その体験を基に小説『風立ちぬ』を発表した。
これまで大人の恋愛を描いたことのない宮崎監督は、『風立ちぬ』から多くのエピソードを借用している。草むらでイーゼルを立てて絵を描くヒロイン。病に臥せるヒロインを訪ねて、庭に面した大きなフランス窓から入っていく主人公。廊下をあわただしく走る看護師の姿に、かき立てられる不安感……。
もっとも、小説『風立ちぬ』のヒロイン節子があまりにか弱く従順な女性であるためか、宮崎監督は自作のヒロインとしてもっと自立した強い女性を求めたようだ。
本作のヒロイン里見菜穂子(さとみ なおこ)のベースは、堀辰雄氏の別の小説『菜穂子』の黒川菜穂子である。黒川菜穂子は勝手に療養所を抜け出すような行動的な女性であり、名前のみならず、その行動力も本作に活かされている。
本作の菜穂子が二郎の上司・黒川の許に身を寄せるのも、小説『菜穂子』の影響だろう。
けれども、宮崎監督が堀辰雄氏を持ち出したのは、何も恋愛要素を拝借するためばかりではない。
満州事変から四年が過ぎ、堀越二郎氏が海軍の要請により戦闘機の開発に邁進していた1935年に、世俗を離れ、高原の療養所で婚約者と自分の二人だけのことを考えて暮らした堀辰雄氏。頑張れば頑張るほどどんどん戦争を引き寄せた堀越二郎氏とは対照的に、堀辰雄氏の世界には愛する女性と自分の二人しかいなかった。彼女の父ですら、堀辰雄氏の世界では闖入者だった。
堀越二郎と堀辰雄。
二つの生き方が同時に存在したのが当時の日本だ。それを劇中では、ドイツ人の友人カストルプの「この山にいると、満州国を作ったことも、国際連盟を脱退したことも、みんな忘れてしまう」という言葉で指摘している。
そして兵器関係が好きだし、恋愛小説も好きな宮崎駿監督にとって、そのどちらもが自分のルーツたり得る。
本作が、堀越二郎氏一人の評伝とはならなかったのも頷けよう。
とはいえ、自分がアニメーションの世界に入るきっかけになるほど心酔していた『白蛇伝』ですら、描いてることに嘘があると批判する宮崎駿監督だ。[*1]
小説『風立ちぬ』も単純には取り入れない。
先に述べたヒロイン像の違いはもとより、仕事もせずに女と二人で療養所に引きこもる男なんて、(それが実話だったにせよ)宮崎アニメではあり得ない。だから本作の二郎と菜穂子は、二人の暮らしと二郎の仕事を両立させようと無理を重ねる。
また小説『風立ちぬ』が、長いあいだ男女二人きりで過ごしながら額へのキス(ルパンがクラリスにしたように)しか描写しないことの不自然さを批判するように、本作では宮崎アニメには珍しくキスシーンがたっぷりある。その上、寝床をともにするシーンまである。
さて、本作の主人公が実在した堀越二郎氏と堀辰雄氏をごちゃまぜにしたものであることは、宮崎駿監督がみずから企画書に書いている。
だが、私は同時代に生きたもう一人の人物が重ねられていると思う。というよりも、その人物と重ねるために、同時代の堀越二郎氏と堀辰雄氏が取り上げられたのではないかと思う。
それは、宮崎監督の父親だ。
宮崎監督の父君は関東大震災のときに九歳だったそうだから、堀辰雄氏より十歳若い。それでも敗戦当時四歳だった宮崎監督にしてみれば、三氏ともたいして違いはない。
戦闘機の部品を組み立てる企業を経営し、検査官にポケットマネーを渡して規格に合わなくても通してしまった父親。
戦闘機の設計技師として軍需産業に従事した堀越二郎氏と、軍需産業のおかげで育った宮崎監督は、戦闘機の部品工場の経営者である父親を通してはじめて一つに繋がるのだ。
鈴木プロデューサーも、この主人公はもしかしたら宮崎監督のお父さんなのではないかと思ってそれを指摘したら、「自分の親父を知りたい。この作品で」と答えが返ってきたという。前監督作『崖の上のポニョ』で母を描いた宮崎監督にとって、残る主題は父だった。
今年72歳になる宮崎監督も知らない父親たちの若かりし時代。
それを丁寧にたどることで、国全体が物質的に苦しんでいる時に軍需産業で儲け、人が死んでる最中に滅多になかったガソリンのトラックで逃げちゃって、乗せてくれって言う人も見捨ててしまうような人間と、世界で一番優れた善い人であるべき自分の親とが同一人物であり得るということを、理解しようとしたのではないだろうか。
併せて、宮崎監督の胸にはひとり父親だけでなく、戦前を生きた同時代人たちへの思いもあろう。
本作の完成報告会見に臨んだ宮崎監督は、「昭和初期の激動期である20年間に生きた、自分の親父も含む多くの人へのいろいろな思いも描いている」と語っている。[*3]
だがしかし、矛盾に対する答えを探し求めても、見つかるのは矛盾でしかなかった。
宮崎監督は、実在した本庄季郎をモデルとする登場人物の口を借りて、劇中幾度も「矛盾だ」とつぶやいている。
本作には実にたくさんの矛盾が存在する。
見知らぬ子供にシベリア(羊羹カステラ)を差し出してやる一方で、軍用機の開発に邁進する主人公。
肺結核は感染するというのに、愛する夫を床に誘う妻。
妻との一日一日を大切に生きていると云いながら、空気の澄んだ療養所にいるべき妻の隣でタバコを吸う主人公。
劇中では明示的に語られない矛盾もある。
技師たちの自主勉強会で、二郎が新型機の構想について語るシーンがある。その優れた速度や旋回性能に、聞く者はみな興奮するが、二郎はこれでは機体が重すぎると云ってその構想を先送りしてしまう。
けれども、この二郎の構想がやがてゼロ戦として結実することは、多くの人の知るところだろう。
では、機体を軽くするために、二郎はいかなる工夫を凝らすのか。
軽量化を徹底するため、実のところゼロ戦にはパイロットを護るべき防弾板が搭載されていなかった。防弾ガラスも防弾燃料タンクも搭載されていなかった。
無敵と思われたゼロ戦は、このような弱点を突かれ、日本はやがて多くのパイロットを失うことになる。
本作はその詳しい経緯を描くことなく、戦闘機の残骸の山に立ち尽くす二郎の姿に切り替わる。
飛行機に憧れる少年の楽しい夢から幕を開けた本作は、美しい草むらで朽ち果てる戦闘機の夢で幕を閉じる。
世は矛盾に満ちたままだ。
いや、そもそもそれは矛盾ではないのだ。
私たちは同じ集団の仲間と協力して、互いに守りあう本能を持っている。同時に、他の集団を攻撃する本能も持っている。平和を好み助け合う気持ちも、攻撃を好む気持ちも、私たちの心の中に並存している。それが私たちなのだ。
それを知ってなお、私たちは生きることを試みなければならない。
なぜか?
それは風が吹いているから。
風立ちぬ、いざ生きめやも。[*4]
[*1] 宮崎駿監督の戦争中の暮らしや思い出については、次の文献に詳しい。また、この中で『白蛇伝』を取り上げて、ヒロインに「人間は魂という素敵なものを持っている」と云わせながら、人間の顔をいいかげんに描く作品づくりを強く批判している。
「宮崎駿講演採録 アニメーション罷り通る (なごやシネフェスティバル'88にて)」
『キネマ旬報臨時増刊1995年7月16日号 宮崎駿、高畑勲とスタジオジブリのアニメーションたち』所収
[*2] 「ゼロ戦」ではなく「零戦」と表記すべきとの意見もあろうが、筆者にとってゼロ戦の原体験はテレビアニメ『0戦はやと』であるため、アニメ関係の記事では漢字表記にしない。
[*3] 2013年7月12日 読売新聞夕刊
[*4] ポール・ヴァレリーの詩『海辺の墓地』の一節を堀辰雄氏が訳したもの。堀辰雄著『風立ちぬ』の中に、たびたび掲げられている。
![風立ちぬ [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/41KRisgHFRL._SL160_.jpg)
監督・原作・脚本/宮崎駿
出演/庵野秀明 瀧本美織 西島秀俊 西村雅彦 野村萬斎 風間杜夫 竹下景子 志田未来 國村隼 大竹しのぶ
日本公開/2013年7月20日
ジャンル/[ドラマ] [青春] [ロマンス]

『モンスターズ・ユニバーシティ』 ルールを変えろ!
【ネタバレ注意】
なんて心優しい映画だろう。
『モンスターズ・ユニバーシティ』を見終えてしみじみ思った。
ここには私たちの生きづらさの理由と対処法がハッキリと描かれている。
『モンスターズ・ユニバーシティ』は、傑作『モンスターズ・インク』の前日譚だ。
マイク(マイケル・ワゾウスキ)とサリー(ジェームズ・P・サリバン)の若かりし頃、学生時代の思い出を綴っている。
二人はモンスターズ・ユニバーシティの「怖がらせ学部」で学びながら、人間を怖がらせる「怖がらせ屋」になりたいと願っていた。
モンスターの世界では、人間の子供に悲鳴を上げさせる「怖がらせ屋」は花形スターだ。多くの若者が、怖がらせ学部で勉強し、怖がらせ屋を目指している。
有名な怖がらせ屋の息子サリーは、体が大きく、鋭い牙を持ち、大きな唸り声で人々を圧倒する。誰が見てもサリーは怖がらせ屋として申し分ない。それだけにサリーは勉強なんかちっともせず、自分は怖がらせ屋になれて当然だと思っていた。
片やマイクは、体が小さく丸っこい。可愛らしい体形で、誰も怖がってくれない。でも勉強熱心で人一倍努力している。小さい頃からの夢だった怖がらせ屋になるべく、念願叶ってモンスターズ・ユニバーシティに進学した。
この簡単な設定紹介で、多くの人がストーリーを察するはずだ。
驕ったサリーはヘマをしでかし、努力家のマイクがここぞという場面で活躍する。やっぱり努力を欠かしちゃいけない。二人は夢が叶ってめでたしめでたし……なんてストーリーを。
でも、これって本当にめでたいだろうか?
多くの映画や芝居やマンガやアニメが、私たちに向かって明るい未来や夢や希望を謳い上げる。物語の主人公のほとんどは、希望を抱いてへこたれず、夢を叶えてハッピーエンドを迎える。
フィクションの中だけじゃなく、どんな職種や業種でも成功した人に話を聞けば「信じれば夢は叶う」と答えるだろう。「夢は必ず叶う」と信じることが、ストレスへの耐性を強めるはずだと説く人もいる。
でも本当にそうだろうか。
信じれば夢は叶うのだろうか。
たしかに夢が叶った人もいるだろう。だが、その背後に夢が叶わなかった人がどれだけいることだろうか。
「努力すれば夢が叶う」というのは嘘じゃないだろう。けれども、努力しても夢が叶わない人だっているはずだ。
では、夢が叶わないのは何がまずかったのだろうか。努力が足りなかったのだろうか。夢を叶えられない人は、怠け者なのだろうか。
そもそも、夢を抱くことが叶わない人もいる。
中国の若者には、日本のマンガやアニメが描く青春ドラマのような世界がない。中学・高校時代はクラブ活動なんかせず、学校に残って夜中まで勉強しなければならないからだ。そこには「青春」も「感動」も「恋愛」もない。
そんな中国人が日本に留学に来ると、「日本人は何でもやりたいことができるのか」と不思議に思うという。中国の名門大学で学ぶ、都会の若者ですらこう述べる。
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日本人はたいていみんな心がおだやかで、人のことをあれこれ言いませんよね。だから自分がやりたいことをやっても、他人から何も言われない。
たとえば、傍からみて、それほど歌の才能がないだろうな(笑)って思う人でも、会社に勤めもせず、30歳くらいまではアルバイトしながら自由に歌手活動をしている人がいたりする。親もある程度、それを許していますよね。あんな「わがまま」は中国では許されない。
(略)
中国人は将来のために必死で勉強して、今やりたいことをあきらめている人がすごく多い。ときには恋だってあきらめる
---
傍からみて才能があるとは思えない人が、夢を目指して歌手活動を続ける。「信じれば夢は叶う」という言葉が本当なら、この人はいつか歌手として大成するのかも知れないが、本当にそうなるだろうか。
とはいえ、意に沿わないことをするのも辛い。
インド映画『きっと、うまくいく』には、名門工科大学に入学したものの、本心ではエンジニアよりもカメラマンになりたい学生が登場する。エンジニアになるように親からきつく云われており、不承々々工学を学んでいるが、エンジニアに適性がないことは当人が一番よく知っている。大学ではすっかり落ちこぼれだ。
彼の友人は貧しい家庭の子で、とにかく就職して家族を食わせねばならない。その点では、親と対立してでもカメラマンになりたいと願う彼は裕福な家庭の息子だから、ある程度恵まれているのかもしれない。
中国の若者たちも、やがてはやりたいことに取り組めるようになるかも知れない。
だが、当人の夢にしろ、親の希望にしろ、選んだ進路に適性があるとは限らない。
この残酷な事実を、安藤寿康(あんどう じゅこう)氏は著書『遺伝マインド 遺伝子が織り成す行動と文化』で説明している。
---
かつて行動主義の祖ワトソンは、人間の行動はすべて環境によって決まるという作業仮説を立て、「私に健康な1ダースの赤ん坊を与えてくれれば、医者、法律家、芸術家、いや乞食や泥棒にさえも、きっとしてみせよう」という有名な一節をしたためた。これはまったく正しい。なぜなら人間は他の動物と異なり、進化的・遺伝的に何でも学ぶことのできる装置、「一般知能」を備えているからである。ただし行動遺伝学者はその先までしたためる。「ただし大泥棒になるためには、それなりの遺伝子を当人がもっていなければならない」、と。
---
同一の遺伝子を持つ一卵性双生児と、遺伝子が異なる二卵性双生児を比較することで、ヒトの心や行動に影響するのが遺伝なのか環境なのかを調べることができる。
エリック・タークハイマーはふたご研究から得られた知見をまとめて、「行動遺伝学の三法則」を提唱した。
1. 遺伝の影響はあらゆる側面に見られる。
2. 共有環境の影響はまったくないか、あっても相対的に小さい場合が多い。
3. 非共有環境の影響が大きい。
共有環境とは、異なる人物(ふたご)が共有する環境(同じ家庭、同じ親等)のことであり、非共有環境とは、人物が異なれば共有しない環境(異なる友人、異なる立場等)のことだ。
安藤寿康氏は、この三法則をもっと平易な言葉で表現している。
「こんなものにも遺伝の影響がある(第一法則)」
「家庭環境の影響と思っていたものが実は遺伝だった(第二法則)」
「同じ家庭で育ったきょうだいが何でこんなに違うのか(第三法則)」
私たちの才能・能力には、意外なほど遺伝がかかわっている。たとえば短距離走に勝つには、ACTN3という遺伝子の遺伝子型がRR型でなければならないという。
ただし遺伝というと、親の特徴が子に受け継がれることだと思う人もいるようだが、血液型がA型の親の子供が必ずしもA型にはならないことを思い出していただきたい。ここでの遺伝とは、受精したときの遺伝子たちの組み合わせのことと理解した方が良いだろう。
この点で、『プラチナデータ』(2013年)は刺激的な映画だった。
DNAによるプロファイリング技術が進んだ近未来。犯行現場に残された毛髪等からDNAを調べ、そのパターンから犯人の身体的な特徴のみならず気質、能力等を割り出してしまう社会。それは冤罪率0%の理想の犯罪捜査だった。
『プラチナデータ』は、そんな世界に二重人格者を放り込んだサスペンスだ。肉体的には一人であるにもかかわらず、気質も能力も異なる人格が同居する二重人格者。DNAによるプロファイリングは、二重人格者を相手にしたとき何をあぶり出すのか。
『プラチナデータ』は、あれもこれも遺伝子によって決まると論ずる遺伝子決定論に、優生学の匂いを感じて警鐘を鳴らした作品だろう。優生学の暴走はナチス・ドイツの人種政策を招いてしまった。
娯楽作らしく、この映画に登場するプロファイリング技術は現実にはありえないほど進歩しているが、近年の遺伝子関係の研究に興味のある人ならば、『プラチナデータ』をまことにスリリングに感じるはずだ。
ところが、残念なことに映画『プラチナデータ』のテーマは、諦めずにやりたいことをやろうという、よくあるお題目に集約されてしまう。物語の途中から、身体的な特徴も気質、能力もDNAで割り出せてしまう設定に、目をつぶってしまうのだ。
おそらくこの映画の作り手は、夢や努力をないがしろにするような事実を否定したかったに違いない。「信じれば夢は叶う」という言葉は、美しい理念として語られることが多いから。
しかし、実はそれこそが残酷な考え方だ。
「信じれば夢は叶う」「努力すれば夢が叶う」という考えは、夢が叶わなかった人を切り捨てている。努力しなかったとなじっている。
発明王エジソンは「1%のひらめきがなければ99%の努力は徒労」と述べている。明暗を分けるたった1%のひらめきは、努力で得られるものではないのだ。
安藤寿康氏は、遺伝要因を否定する考え方こそが、事実上の優生社会を作り上げると警告している。
社会的地位や経済的に恵まれた者が、「いまの生活は100%自分の知恵と努力のたまものであり、社会的成功を得られない人がいてもそれは自己責任だ」と考えるなら、それは欺瞞だ。遺伝子たちの組み合わせという、当人の努力とは何の関係もないところに能力差の原因があるとき、努力しろと云うほど過酷なことはない。
けれども親や上司や先輩は、誰も彼もが「努力しろ」「やればできる」と口にする。
こんな社会では、努力してもできなかった、やったけれどダメだった人は、ただ絶望するしかない。
『映画 鈴木先生』には、嫌がる生徒に無理強いして、生徒会役員に立候補させる場面がある。これは中学教師として当たり前だ。何でも学ぶことのできる「一般知能」を鍛えるべき義務教育の場で、教師が手加減したら生徒は育たない。
だが、生徒会役員には誰もがなれるだろうが、「大泥棒になるには、それなりの遺伝子を持っていなければならない」。
他人から「努力しろ」と云われるだけならともかく、もっとも痛いのは本人が「努力すれば夢が叶う」と信じ込んでいるときだ。
『モンスターズ・ユニバーシティ』のマイクがその典型だ。
小さくて可愛いマイクは、学長をはじめ周囲のみんなから「怖くない」と云われても、「怖がらせ屋」になることを諦めない。
そして努力に努力を重ね、あらゆるアクシデントを乗り越えていく。
『モンスターズ・ユニバーシティ』が素晴らしいのは、観客の予想に反してマイクの努力が報われないからだ。
結局マイクは子供を怖がらせることができない。
まともに勉強していなかったサリーが、やっぱり怖がらせでは優秀なのに比べ、マイクの唸り声では誰も圧倒されない。その事実を子供向けのアニメできちんと描いた点において、本作は必見といえよう。
もちろん本作はそれだけでは終わらない。
そもそも、なぜ努力しても社会的地位や経済的に成功しない人がいるのだろうか。
それは人間という生物が生き残る上で、多様性が欠かせないからだ。金儲けは苦手な人が、ある種の病原菌には強い抵抗力を持つかもしれない。社会的地位を築けない人が、気候の変化には耐性があるかもしれない。人類が存続するには、どんな環境の変化があっても誰かが生き延びねばならず、それを実現するには多様性が必要なのだ。
問題は、現在の文明社会の評価軸が狭量で、社会的、経済的な成功・不成功でしか人を評価できないことにある。
マイクも、怖がらせ学部の評価軸では劣った学生だった。恐ろしい体つきでもないし、迫力ある唸り声も出せない。学長に見放されるのは当然だ。
だが、マイクには違う才能があった。
微かな物音で人を不安にさせる洞察力、ゾッとするタイミングでベッドや人形を動かす計算力。恐ろしい顔で牙を剥くばかりの学生たちとはまったく異なる方法で、マイクは人間を怖がらせることができた。
マイクはダメなヤツなんかじゃない。モンスターズ・ユニバーシティの怖がらせ学部の評価方法では、マイクの素晴らしさを計りきれないだけなのだ。
モンスターズ・ユニバーシティは、過去の成功体験から編み出された怖がらせ方を習得する場だった。けれどもマイクは、まったく新しい怖がらせ方を考案した。
怖がらせればいいんだろう? 違うやり方でもいいじゃないか。
既存のルールにのっとった勝負では負けるかもしれないが、そんなときは勝負のルールを変えればいいのだ!
もう一つ本作の素晴らしい点は、「法の支配」の重要性を忘れないことだ。
マイクとサリーは大学当局が思いもしなかった大活躍をする。その成果は誰の目にも明らかだ。
なのに、マイクとサリーは退学になってしまう。大学の規則を破ったからだ。
大学を去ろうとするマイクとサリーに学長がかけた温かな言葉は、学長がすべてを理解していることを示している。マイクとサリーがどれほど優れているか、彼らの成し遂げたことがいかに驚くべき成果なのか。
大学はそれらを理解しないから彼らを退学処分にするのではない。
社会には規則があり、みんながそれを遵守することで秩序が保たれている。たとえ大きな貢献があっても、その規則を曲げてしまっては社会が成り立たない。
規則を無視しても、大きな成果を上げれば大団円――しはしば邦画にはそんな作品が見受けられる。
けれども、「柔軟さ」と「いい加減さ」を履き違えてはいけない。『モンスターズ・ユニバーシティ』の作り手は、観客に(とりわけ子供たちに)そのことを伝える責任を自覚している。
だから改めて思うのだ。
この作品は誰も切り捨てない。
才能溢れる人も、才能がないと思われている人も、大人も子供も、あらゆる人を考慮して作られている。
『モンスターズ・ユニバーシティ』を作った会社は、インターンシップ2人の募集に17,000人も応募してしまう超難関のピクサーだ。ここで監督やストーリー作りに携われる人は、それこそ「信じれば夢は叶う」と口にしてもおかしくない。
でも本作からは、そんな想いは露ほども感じられない。彼らはきっと、インターンシップに採用されなかった16,998人もまた素晴らしい人材であることを知っているのだ。
なんて心優しい映画だろう。
私は映画を見終えて、しみじみ思った。
付記
同時上映の短編『ブルー・アンブレラ』も秀逸。
傘や樋などの無生物の心を描くこの作品は、すべてのものに心があると考える子供らしい発想を踏まえるとともに、アニミズム的世界観へ敬意を払っている。
普通なら意図しなくても作り手の宗教観等が作品ににじみ出てしまうものだが、本作には特定の宗教に偏ることを慎重に排除する姿勢が伺えて感心する。
参考文献
安藤寿康 (2011) 『遺伝マインド 遺伝子が織り成す行動と文化』 有斐閣
石川幹人 (2012) 『生きづらさはどこから来るか 進化心理学で考える』 筑摩書房
『モンスターズ・ユニバーシティ』 [ま行]
監督・脚本/ダン・スキャンロン 脚本/ロバート・L・ベアード、ダニエル・ガーソン
出演/ビリー・クリスタル ジョン・グッドマン スティーヴ・ブシェミ ヘレン・ミレン アルフレッド・モリナ デイヴ・フォーリー ショーン・P・ヘイズ ジョエル・マーレイ ピーター・ソーン フランク・オズ
日本語吹替版の出演/田中裕二 石塚英彦
日本公開/2013年7月6日
ジャンル/[ファンタジー] [コメディ] [ファミリー]
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なんて心優しい映画だろう。
『モンスターズ・ユニバーシティ』を見終えてしみじみ思った。
ここには私たちの生きづらさの理由と対処法がハッキリと描かれている。
『モンスターズ・ユニバーシティ』は、傑作『モンスターズ・インク』の前日譚だ。
マイク(マイケル・ワゾウスキ)とサリー(ジェームズ・P・サリバン)の若かりし頃、学生時代の思い出を綴っている。
二人はモンスターズ・ユニバーシティの「怖がらせ学部」で学びながら、人間を怖がらせる「怖がらせ屋」になりたいと願っていた。
モンスターの世界では、人間の子供に悲鳴を上げさせる「怖がらせ屋」は花形スターだ。多くの若者が、怖がらせ学部で勉強し、怖がらせ屋を目指している。
有名な怖がらせ屋の息子サリーは、体が大きく、鋭い牙を持ち、大きな唸り声で人々を圧倒する。誰が見てもサリーは怖がらせ屋として申し分ない。それだけにサリーは勉強なんかちっともせず、自分は怖がらせ屋になれて当然だと思っていた。
片やマイクは、体が小さく丸っこい。可愛らしい体形で、誰も怖がってくれない。でも勉強熱心で人一倍努力している。小さい頃からの夢だった怖がらせ屋になるべく、念願叶ってモンスターズ・ユニバーシティに進学した。
この簡単な設定紹介で、多くの人がストーリーを察するはずだ。
驕ったサリーはヘマをしでかし、努力家のマイクがここぞという場面で活躍する。やっぱり努力を欠かしちゃいけない。二人は夢が叶ってめでたしめでたし……なんてストーリーを。
でも、これって本当にめでたいだろうか?
多くの映画や芝居やマンガやアニメが、私たちに向かって明るい未来や夢や希望を謳い上げる。物語の主人公のほとんどは、希望を抱いてへこたれず、夢を叶えてハッピーエンドを迎える。
フィクションの中だけじゃなく、どんな職種や業種でも成功した人に話を聞けば「信じれば夢は叶う」と答えるだろう。「夢は必ず叶う」と信じることが、ストレスへの耐性を強めるはずだと説く人もいる。
でも本当にそうだろうか。
信じれば夢は叶うのだろうか。
たしかに夢が叶った人もいるだろう。だが、その背後に夢が叶わなかった人がどれだけいることだろうか。
「努力すれば夢が叶う」というのは嘘じゃないだろう。けれども、努力しても夢が叶わない人だっているはずだ。
では、夢が叶わないのは何がまずかったのだろうか。努力が足りなかったのだろうか。夢を叶えられない人は、怠け者なのだろうか。
そもそも、夢を抱くことが叶わない人もいる。
中国の若者には、日本のマンガやアニメが描く青春ドラマのような世界がない。中学・高校時代はクラブ活動なんかせず、学校に残って夜中まで勉強しなければならないからだ。そこには「青春」も「感動」も「恋愛」もない。
そんな中国人が日本に留学に来ると、「日本人は何でもやりたいことができるのか」と不思議に思うという。中国の名門大学で学ぶ、都会の若者ですらこう述べる。
---
日本人はたいていみんな心がおだやかで、人のことをあれこれ言いませんよね。だから自分がやりたいことをやっても、他人から何も言われない。
たとえば、傍からみて、それほど歌の才能がないだろうな(笑)って思う人でも、会社に勤めもせず、30歳くらいまではアルバイトしながら自由に歌手活動をしている人がいたりする。親もある程度、それを許していますよね。あんな「わがまま」は中国では許されない。
(略)
中国人は将来のために必死で勉強して、今やりたいことをあきらめている人がすごく多い。ときには恋だってあきらめる
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傍からみて才能があるとは思えない人が、夢を目指して歌手活動を続ける。「信じれば夢は叶う」という言葉が本当なら、この人はいつか歌手として大成するのかも知れないが、本当にそうなるだろうか。
とはいえ、意に沿わないことをするのも辛い。
インド映画『きっと、うまくいく』には、名門工科大学に入学したものの、本心ではエンジニアよりもカメラマンになりたい学生が登場する。エンジニアになるように親からきつく云われており、不承々々工学を学んでいるが、エンジニアに適性がないことは当人が一番よく知っている。大学ではすっかり落ちこぼれだ。
彼の友人は貧しい家庭の子で、とにかく就職して家族を食わせねばならない。その点では、親と対立してでもカメラマンになりたいと願う彼は裕福な家庭の息子だから、ある程度恵まれているのかもしれない。
中国の若者たちも、やがてはやりたいことに取り組めるようになるかも知れない。
だが、当人の夢にしろ、親の希望にしろ、選んだ進路に適性があるとは限らない。
この残酷な事実を、安藤寿康(あんどう じゅこう)氏は著書『遺伝マインド 遺伝子が織り成す行動と文化』で説明している。
---
かつて行動主義の祖ワトソンは、人間の行動はすべて環境によって決まるという作業仮説を立て、「私に健康な1ダースの赤ん坊を与えてくれれば、医者、法律家、芸術家、いや乞食や泥棒にさえも、きっとしてみせよう」という有名な一節をしたためた。これはまったく正しい。なぜなら人間は他の動物と異なり、進化的・遺伝的に何でも学ぶことのできる装置、「一般知能」を備えているからである。ただし行動遺伝学者はその先までしたためる。「ただし大泥棒になるためには、それなりの遺伝子を当人がもっていなければならない」、と。
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同一の遺伝子を持つ一卵性双生児と、遺伝子が異なる二卵性双生児を比較することで、ヒトの心や行動に影響するのが遺伝なのか環境なのかを調べることができる。
エリック・タークハイマーはふたご研究から得られた知見をまとめて、「行動遺伝学の三法則」を提唱した。
1. 遺伝の影響はあらゆる側面に見られる。
2. 共有環境の影響はまったくないか、あっても相対的に小さい場合が多い。
3. 非共有環境の影響が大きい。
共有環境とは、異なる人物(ふたご)が共有する環境(同じ家庭、同じ親等)のことであり、非共有環境とは、人物が異なれば共有しない環境(異なる友人、異なる立場等)のことだ。
安藤寿康氏は、この三法則をもっと平易な言葉で表現している。
「こんなものにも遺伝の影響がある(第一法則)」
「家庭環境の影響と思っていたものが実は遺伝だった(第二法則)」
「同じ家庭で育ったきょうだいが何でこんなに違うのか(第三法則)」
私たちの才能・能力には、意外なほど遺伝がかかわっている。たとえば短距離走に勝つには、ACTN3という遺伝子の遺伝子型がRR型でなければならないという。
ただし遺伝というと、親の特徴が子に受け継がれることだと思う人もいるようだが、血液型がA型の親の子供が必ずしもA型にはならないことを思い出していただきたい。ここでの遺伝とは、受精したときの遺伝子たちの組み合わせのことと理解した方が良いだろう。
この点で、『プラチナデータ』(2013年)は刺激的な映画だった。
DNAによるプロファイリング技術が進んだ近未来。犯行現場に残された毛髪等からDNAを調べ、そのパターンから犯人の身体的な特徴のみならず気質、能力等を割り出してしまう社会。それは冤罪率0%の理想の犯罪捜査だった。
『プラチナデータ』は、そんな世界に二重人格者を放り込んだサスペンスだ。肉体的には一人であるにもかかわらず、気質も能力も異なる人格が同居する二重人格者。DNAによるプロファイリングは、二重人格者を相手にしたとき何をあぶり出すのか。
『プラチナデータ』は、あれもこれも遺伝子によって決まると論ずる遺伝子決定論に、優生学の匂いを感じて警鐘を鳴らした作品だろう。優生学の暴走はナチス・ドイツの人種政策を招いてしまった。
娯楽作らしく、この映画に登場するプロファイリング技術は現実にはありえないほど進歩しているが、近年の遺伝子関係の研究に興味のある人ならば、『プラチナデータ』をまことにスリリングに感じるはずだ。
ところが、残念なことに映画『プラチナデータ』のテーマは、諦めずにやりたいことをやろうという、よくあるお題目に集約されてしまう。物語の途中から、身体的な特徴も気質、能力もDNAで割り出せてしまう設定に、目をつぶってしまうのだ。
おそらくこの映画の作り手は、夢や努力をないがしろにするような事実を否定したかったに違いない。「信じれば夢は叶う」という言葉は、美しい理念として語られることが多いから。
しかし、実はそれこそが残酷な考え方だ。
「信じれば夢は叶う」「努力すれば夢が叶う」という考えは、夢が叶わなかった人を切り捨てている。努力しなかったとなじっている。
発明王エジソンは「1%のひらめきがなければ99%の努力は徒労」と述べている。明暗を分けるたった1%のひらめきは、努力で得られるものではないのだ。
安藤寿康氏は、遺伝要因を否定する考え方こそが、事実上の優生社会を作り上げると警告している。
社会的地位や経済的に恵まれた者が、「いまの生活は100%自分の知恵と努力のたまものであり、社会的成功を得られない人がいてもそれは自己責任だ」と考えるなら、それは欺瞞だ。遺伝子たちの組み合わせという、当人の努力とは何の関係もないところに能力差の原因があるとき、努力しろと云うほど過酷なことはない。
けれども親や上司や先輩は、誰も彼もが「努力しろ」「やればできる」と口にする。
こんな社会では、努力してもできなかった、やったけれどダメだった人は、ただ絶望するしかない。
『映画 鈴木先生』には、嫌がる生徒に無理強いして、生徒会役員に立候補させる場面がある。これは中学教師として当たり前だ。何でも学ぶことのできる「一般知能」を鍛えるべき義務教育の場で、教師が手加減したら生徒は育たない。
だが、生徒会役員には誰もがなれるだろうが、「大泥棒になるには、それなりの遺伝子を持っていなければならない」。
他人から「努力しろ」と云われるだけならともかく、もっとも痛いのは本人が「努力すれば夢が叶う」と信じ込んでいるときだ。
『モンスターズ・ユニバーシティ』のマイクがその典型だ。
小さくて可愛いマイクは、学長をはじめ周囲のみんなから「怖くない」と云われても、「怖がらせ屋」になることを諦めない。
そして努力に努力を重ね、あらゆるアクシデントを乗り越えていく。
『モンスターズ・ユニバーシティ』が素晴らしいのは、観客の予想に反してマイクの努力が報われないからだ。
結局マイクは子供を怖がらせることができない。
まともに勉強していなかったサリーが、やっぱり怖がらせでは優秀なのに比べ、マイクの唸り声では誰も圧倒されない。その事実を子供向けのアニメできちんと描いた点において、本作は必見といえよう。
もちろん本作はそれだけでは終わらない。
そもそも、なぜ努力しても社会的地位や経済的に成功しない人がいるのだろうか。
それは人間という生物が生き残る上で、多様性が欠かせないからだ。金儲けは苦手な人が、ある種の病原菌には強い抵抗力を持つかもしれない。社会的地位を築けない人が、気候の変化には耐性があるかもしれない。人類が存続するには、どんな環境の変化があっても誰かが生き延びねばならず、それを実現するには多様性が必要なのだ。
問題は、現在の文明社会の評価軸が狭量で、社会的、経済的な成功・不成功でしか人を評価できないことにある。
マイクも、怖がらせ学部の評価軸では劣った学生だった。恐ろしい体つきでもないし、迫力ある唸り声も出せない。学長に見放されるのは当然だ。
だが、マイクには違う才能があった。
微かな物音で人を不安にさせる洞察力、ゾッとするタイミングでベッドや人形を動かす計算力。恐ろしい顔で牙を剥くばかりの学生たちとはまったく異なる方法で、マイクは人間を怖がらせることができた。
マイクはダメなヤツなんかじゃない。モンスターズ・ユニバーシティの怖がらせ学部の評価方法では、マイクの素晴らしさを計りきれないだけなのだ。
モンスターズ・ユニバーシティは、過去の成功体験から編み出された怖がらせ方を習得する場だった。けれどもマイクは、まったく新しい怖がらせ方を考案した。
怖がらせればいいんだろう? 違うやり方でもいいじゃないか。
既存のルールにのっとった勝負では負けるかもしれないが、そんなときは勝負のルールを変えればいいのだ!
もう一つ本作の素晴らしい点は、「法の支配」の重要性を忘れないことだ。
マイクとサリーは大学当局が思いもしなかった大活躍をする。その成果は誰の目にも明らかだ。
なのに、マイクとサリーは退学になってしまう。大学の規則を破ったからだ。
大学を去ろうとするマイクとサリーに学長がかけた温かな言葉は、学長がすべてを理解していることを示している。マイクとサリーがどれほど優れているか、彼らの成し遂げたことがいかに驚くべき成果なのか。
大学はそれらを理解しないから彼らを退学処分にするのではない。
社会には規則があり、みんながそれを遵守することで秩序が保たれている。たとえ大きな貢献があっても、その規則を曲げてしまっては社会が成り立たない。
規則を無視しても、大きな成果を上げれば大団円――しはしば邦画にはそんな作品が見受けられる。
けれども、「柔軟さ」と「いい加減さ」を履き違えてはいけない。『モンスターズ・ユニバーシティ』の作り手は、観客に(とりわけ子供たちに)そのことを伝える責任を自覚している。
だから改めて思うのだ。
この作品は誰も切り捨てない。
才能溢れる人も、才能がないと思われている人も、大人も子供も、あらゆる人を考慮して作られている。
『モンスターズ・ユニバーシティ』を作った会社は、インターンシップ2人の募集に17,000人も応募してしまう超難関のピクサーだ。ここで監督やストーリー作りに携われる人は、それこそ「信じれば夢は叶う」と口にしてもおかしくない。
でも本作からは、そんな想いは露ほども感じられない。彼らはきっと、インターンシップに採用されなかった16,998人もまた素晴らしい人材であることを知っているのだ。
なんて心優しい映画だろう。
私は映画を見終えて、しみじみ思った。
付記
同時上映の短編『ブルー・アンブレラ』も秀逸。
傘や樋などの無生物の心を描くこの作品は、すべてのものに心があると考える子供らしい発想を踏まえるとともに、アニミズム的世界観へ敬意を払っている。
普通なら意図しなくても作り手の宗教観等が作品ににじみ出てしまうものだが、本作には特定の宗教に偏ることを慎重に排除する姿勢が伺えて感心する。
参考文献
安藤寿康 (2011) 『遺伝マインド 遺伝子が織り成す行動と文化』 有斐閣
石川幹人 (2012) 『生きづらさはどこから来るか 進化心理学で考える』 筑摩書房
![モンスターズ・ユニバーシティ MovieNEX [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/61s%2Byzvc1gL._SL160_.jpg)
監督・脚本/ダン・スキャンロン 脚本/ロバート・L・ベアード、ダニエル・ガーソン
出演/ビリー・クリスタル ジョン・グッドマン スティーヴ・ブシェミ ヘレン・ミレン アルフレッド・モリナ デイヴ・フォーリー ショーン・P・ヘイズ ジョエル・マーレイ ピーター・ソーン フランク・オズ
日本語吹替版の出演/田中裕二 石塚英彦
日本公開/2013年7月6日
ジャンル/[ファンタジー] [コメディ] [ファミリー]


【theme : ディズニー映画】
【genre : 映画】
tag : ダン・スキャンロン田中裕二石塚英彦ビリー・クリスタルジョン・グッドマンスティーヴ・ブシェミヘレン・ミレンアルフレッド・モリナデイヴ・フォーリーショーン・P・ヘイズ
『真夏の方程式』 ミステリーの危うさ
【ネタバレ注意】
『宇宙戦艦ヤマト』を見て科学を志した子供は多いだろう。
『宇宙戦艦ヤマト2199』の科学考証を担当する半田利弘氏(鹿児島大学理学部物理科学科・大学院理工学研究科教授)も、ヤマトを見たことがきっかけで天文学を志したという。
子供の頃、私の級友も「物理学者になって波動エンジンを作るんだ!」と息巻いていたものである(「波動エンジン」といっても、東海大学で開発している熱音響機関のことではない)。
『真夏の方程式』では、主人公の帝都大学物理学准教授の湯川学が科学を志したきっかけは語られないが、きっとワクワクするような体験があるのだろう。
『真夏の方程式』は、そんな少年と科学の心ときめく出会いを描いた作品である。
本作は、子供嫌いの湯川学と理科嫌いの少年・恭平が協力して、夏休みの自由研究に取り組む話だ。
湯川が選んだ題材はペットボトルロケット。これはペットボトルで作ったロケットを水と圧縮空気の力で打ち上げるものであり、今は学校の授業でも取り上げられているから、実際に作った経験をお持ちの方も多いだろう。
ロケット花火に喜んでいた恭平にとって、200mも飛ぶペットボトルロケットと飛んだ先に見える光景は、驚きと興奮に満ちている。ミジンコを観察する理科の授業が大嫌いだった恭平少年は、ペットボトルロケットに夢中になり、科学の素晴らしさに目覚めていく。
数ある映画の中には、「科学技術が環境を壊している」と主張するものがある。環境を壊しているのは科学技術ではなく、環境を犠牲にすることを厭わない人間のはずだが、科学技術そのものが危険視されてしまうのだ。
本作でも海底鉱物資源の開発に反対する活動家が登場し、海底調査すら許すまいとして推進派と敵対する。
これに対して、調査の内容すら理解せずに反対するばかりの活動家たちを「無責任だ」と一蹴するのが湯川である。
湯川は科学技術を礼賛するわけでも危険視するわけでもない。何ごともトレードオフの関係にあるから、現実的な選択をするためには、まず事実を知らねばならないと主張するだけだ。
本作はミステリーであるから、ストーリーの軸は殺人事件とその解決である。
だが、自由研究を通して「科学する」ことを描く本作は、ミステリーへのアンチテーゼにもなっている。
本作を観て私が思い出したのは、齊藤誠氏が池上彰氏との対談で述べた「危なっかしい人物」の話だった。
---
齊藤:CSCD(大阪大学コミュニケーションデザインセンター)の小林先生が実に面白いことをおっしゃっていました。
「国立大学の文系の優秀な連中は、文系科目はもちろん、実は理科と数学もけっこう得意なんです。試験科目にありますからね。でも、理数系のできる文系学生が一番危なっかしいんですよ」と。
小林先生は、続けて次のように文系秀才の危うさを指摘しています。
「彼らの知識はしょせん机上のものです。大学受験からこっち、体系的な理系知識の習得も実験も何もやっていない。すると、科学や技術に対して、とんでもない誤解をしている恐れがあるんです」
たしかに理系の学生は大学に入ってからいやというほど実践を積みます。さまざまな実験を行い、フィールドに出て、なにかをつくる。そんな実践を通じて、科学のあいまいな部分、技術の及ばぬ部分、頭でわかっていても現実には思い通りにならないことを、体で経験するわけです。
一方、文系出身の人間は、大学受験の数学や理科のように明確な答えが常に出る間違いのない世界だと勘違いしているところがあります。「1+1=2」が科学だと信じていたりするんですね。その結果、文系の頭のいい人が、科学に対して全幅の信頼を置いてしまったりするわけです。それが危ない、と小林先生は指摘されていました。
池上:たしかに、東京大学をはじめ難関国立大学では、法学部に入るのにも数学や理科が受験で必要になりますね。なるほど、なまじ理系科目ができる文系学生ほど、科学に対して全面的に信頼してしまう傾向が出る可能性がある、というわけですか。目から鱗が落ちる話です。
齊藤:でも、理系の知識がなまじっかある文系学生は、科学や技術の曖昧さや不確かさや本質的な危うさに対する皮膚感覚的な体験がない。
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理系科目が得意でも文系の学部に進む人もいれば、文系科目が得意だけど理系の学部に進む人もいるだろうから、理系の人と文系の人を単純に線引きすることはできまい。だが、実験を繰り返して、机上の知識を実証することのたいへんさを経験できるのは理系学部で学んでこそだ。
本作も夏休みの自由研究を通してそのことを描いている。
天才物理学者・湯川学でさえ、なかなかペットボトルロケットの飛距離を延ばすことはできない。発射角度や尾翼の付け方や注入する水の量を何度も変えて、計算結果と実測値を比較しながら実験を繰り返している。
当然だろう。
当日の風向きや風の強さは事前には判らないし、ロケットを工作する際の些細な誤差が飛翔にどのように影響するかは検証しなければ判らない。
ここで湯川が示すのは、ものごとには曖昧な部分、技術の及ばぬ部分、頭で判っていても現実には思いどおりにならない部分が必ずあるということ、それは実際に調べて見なければ判り得ないということだ。
毎回同じことが起きるから、次回も同じになるだろうと思い込むのも禁物だ。
ブドウ球菌を培養していたアレクサンダー・フレミングは、アオカビの発生という事故に気付いたことからペニシリンを発見し、これが世界初の抗生物質の開発に繋がった。
裏を返せば、同じことに過ぎないと思っても毎日きちんと観察を続けるからこそ、まれな現象に気付くことができる。
この地道さもまた理系学部で学べることだ。
ところが、往々にしてミステリーでは頭の中の考えどおりにトリックが成立する。
今や日本を代表する名探偵の江戸川コナン君は「真実はいつもひとつ!」と云って名推理を披露する。その推理はもちろん作中の真実を云い当てる。
おそらく犯人も探偵もトリックを成立させるために繰り返し実験・練習に励んだはずだが、そんな努力は作品中でほとんど語られない。
ミステリーでは犯人も探偵も優秀な頭脳の持ち主が多いけれど、頭で判っているとおりに現実も思いどおりになるだろうと期待してしまう点で、まさしく「理数系のできる文系学生」だ。
このような作品はまた、観客をも「理数系のできる文系学生」的な気質に染めてしまうやもしれない。
『真夏の方程式』の自由研究は、ミステリーたる本作がなかなか探偵(湯川学)の思いどおりにはならないことを示しており、単なる挿話に終わらない。
湯川が見送る調査船は、試行錯誤しながら未知の領域を探求する好奇心の象徴だ。
にもかかわらず、『真夏の方程式』の中心となる事件は湯川准教授が実験もなしに解明してしまうのだが、名探偵の鮮やかな推理がミステリーの醍醐味だから、これは致し方ないだろう。
湯川の子供嫌いを描いてきたガリレオシリーズにあって、この事件には大人が子供を愛してることを強調する効果がある。それにより、湯川が子供のために全力を傾けることに説得力を持たせている。
お馴染み福田靖脚本の長ゼリフも、今回は年少者に語りかける形にすることでしっくりと収まった。
これまでガリレオシリーズに親しんできた観客も、本作ではじめてシリーズに触れる観客も、少年と科学者の束の間の触れあいに魅了されるに違いない。
題名になっている「真夏の方程式」とは、ペットボトルロケットの着地点を計算するために用いた式のこと。小学生の自由研究には高度な内容だが、子供は判らないことがあってこそ、判るようになろうと励むものだ。
本作を観たことがきっかけで、客席の子供の中から未来の湯川秀樹が誕生するかもしれない。海底探査とロケットを描いた本作には、それだけの力がある。
『真夏の方程式』 [ま行]
監督/西谷弘 脚本/福田靖
出演/福山雅治 吉高由里子 風吹ジュン 前田吟 北村一輝 杏 白竜 西田尚美 塩見三省 田中哲司 山崎光 永島敏行 仁科貴 青木珠菜
日本公開/2013年6月29日
ジャンル/[ミステリー] [サスペンス]
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『宇宙戦艦ヤマト』を見て科学を志した子供は多いだろう。
『宇宙戦艦ヤマト2199』の科学考証を担当する半田利弘氏(鹿児島大学理学部物理科学科・大学院理工学研究科教授)も、ヤマトを見たことがきっかけで天文学を志したという。
子供の頃、私の級友も「物理学者になって波動エンジンを作るんだ!」と息巻いていたものである(「波動エンジン」といっても、東海大学で開発している熱音響機関のことではない)。
『真夏の方程式』では、主人公の帝都大学物理学准教授の湯川学が科学を志したきっかけは語られないが、きっとワクワクするような体験があるのだろう。
『真夏の方程式』は、そんな少年と科学の心ときめく出会いを描いた作品である。
本作は、子供嫌いの湯川学と理科嫌いの少年・恭平が協力して、夏休みの自由研究に取り組む話だ。
湯川が選んだ題材はペットボトルロケット。これはペットボトルで作ったロケットを水と圧縮空気の力で打ち上げるものであり、今は学校の授業でも取り上げられているから、実際に作った経験をお持ちの方も多いだろう。
ロケット花火に喜んでいた恭平にとって、200mも飛ぶペットボトルロケットと飛んだ先に見える光景は、驚きと興奮に満ちている。ミジンコを観察する理科の授業が大嫌いだった恭平少年は、ペットボトルロケットに夢中になり、科学の素晴らしさに目覚めていく。
数ある映画の中には、「科学技術が環境を壊している」と主張するものがある。環境を壊しているのは科学技術ではなく、環境を犠牲にすることを厭わない人間のはずだが、科学技術そのものが危険視されてしまうのだ。
本作でも海底鉱物資源の開発に反対する活動家が登場し、海底調査すら許すまいとして推進派と敵対する。
これに対して、調査の内容すら理解せずに反対するばかりの活動家たちを「無責任だ」と一蹴するのが湯川である。
湯川は科学技術を礼賛するわけでも危険視するわけでもない。何ごともトレードオフの関係にあるから、現実的な選択をするためには、まず事実を知らねばならないと主張するだけだ。
本作はミステリーであるから、ストーリーの軸は殺人事件とその解決である。
だが、自由研究を通して「科学する」ことを描く本作は、ミステリーへのアンチテーゼにもなっている。
本作を観て私が思い出したのは、齊藤誠氏が池上彰氏との対談で述べた「危なっかしい人物」の話だった。
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齊藤:CSCD(大阪大学コミュニケーションデザインセンター)の小林先生が実に面白いことをおっしゃっていました。
「国立大学の文系の優秀な連中は、文系科目はもちろん、実は理科と数学もけっこう得意なんです。試験科目にありますからね。でも、理数系のできる文系学生が一番危なっかしいんですよ」と。
小林先生は、続けて次のように文系秀才の危うさを指摘しています。
「彼らの知識はしょせん机上のものです。大学受験からこっち、体系的な理系知識の習得も実験も何もやっていない。すると、科学や技術に対して、とんでもない誤解をしている恐れがあるんです」
たしかに理系の学生は大学に入ってからいやというほど実践を積みます。さまざまな実験を行い、フィールドに出て、なにかをつくる。そんな実践を通じて、科学のあいまいな部分、技術の及ばぬ部分、頭でわかっていても現実には思い通りにならないことを、体で経験するわけです。
一方、文系出身の人間は、大学受験の数学や理科のように明確な答えが常に出る間違いのない世界だと勘違いしているところがあります。「1+1=2」が科学だと信じていたりするんですね。その結果、文系の頭のいい人が、科学に対して全幅の信頼を置いてしまったりするわけです。それが危ない、と小林先生は指摘されていました。
池上:たしかに、東京大学をはじめ難関国立大学では、法学部に入るのにも数学や理科が受験で必要になりますね。なるほど、なまじ理系科目ができる文系学生ほど、科学に対して全面的に信頼してしまう傾向が出る可能性がある、というわけですか。目から鱗が落ちる話です。
齊藤:でも、理系の知識がなまじっかある文系学生は、科学や技術の曖昧さや不確かさや本質的な危うさに対する皮膚感覚的な体験がない。
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理系科目が得意でも文系の学部に進む人もいれば、文系科目が得意だけど理系の学部に進む人もいるだろうから、理系の人と文系の人を単純に線引きすることはできまい。だが、実験を繰り返して、机上の知識を実証することのたいへんさを経験できるのは理系学部で学んでこそだ。
本作も夏休みの自由研究を通してそのことを描いている。
天才物理学者・湯川学でさえ、なかなかペットボトルロケットの飛距離を延ばすことはできない。発射角度や尾翼の付け方や注入する水の量を何度も変えて、計算結果と実測値を比較しながら実験を繰り返している。
当然だろう。
当日の風向きや風の強さは事前には判らないし、ロケットを工作する際の些細な誤差が飛翔にどのように影響するかは検証しなければ判らない。
ここで湯川が示すのは、ものごとには曖昧な部分、技術の及ばぬ部分、頭で判っていても現実には思いどおりにならない部分が必ずあるということ、それは実際に調べて見なければ判り得ないということだ。
毎回同じことが起きるから、次回も同じになるだろうと思い込むのも禁物だ。
ブドウ球菌を培養していたアレクサンダー・フレミングは、アオカビの発生という事故に気付いたことからペニシリンを発見し、これが世界初の抗生物質の開発に繋がった。
裏を返せば、同じことに過ぎないと思っても毎日きちんと観察を続けるからこそ、まれな現象に気付くことができる。
この地道さもまた理系学部で学べることだ。
ところが、往々にしてミステリーでは頭の中の考えどおりにトリックが成立する。
今や日本を代表する名探偵の江戸川コナン君は「真実はいつもひとつ!」と云って名推理を披露する。その推理はもちろん作中の真実を云い当てる。
おそらく犯人も探偵もトリックを成立させるために繰り返し実験・練習に励んだはずだが、そんな努力は作品中でほとんど語られない。
ミステリーでは犯人も探偵も優秀な頭脳の持ち主が多いけれど、頭で判っているとおりに現実も思いどおりになるだろうと期待してしまう点で、まさしく「理数系のできる文系学生」だ。
このような作品はまた、観客をも「理数系のできる文系学生」的な気質に染めてしまうやもしれない。
『真夏の方程式』の自由研究は、ミステリーたる本作がなかなか探偵(湯川学)の思いどおりにはならないことを示しており、単なる挿話に終わらない。
湯川が見送る調査船は、試行錯誤しながら未知の領域を探求する好奇心の象徴だ。
にもかかわらず、『真夏の方程式』の中心となる事件は湯川准教授が実験もなしに解明してしまうのだが、名探偵の鮮やかな推理がミステリーの醍醐味だから、これは致し方ないだろう。
湯川の子供嫌いを描いてきたガリレオシリーズにあって、この事件には大人が子供を愛してることを強調する効果がある。それにより、湯川が子供のために全力を傾けることに説得力を持たせている。
お馴染み福田靖脚本の長ゼリフも、今回は年少者に語りかける形にすることでしっくりと収まった。
これまでガリレオシリーズに親しんできた観客も、本作ではじめてシリーズに触れる観客も、少年と科学者の束の間の触れあいに魅了されるに違いない。
題名になっている「真夏の方程式」とは、ペットボトルロケットの着地点を計算するために用いた式のこと。小学生の自由研究には高度な内容だが、子供は判らないことがあってこそ、判るようになろうと励むものだ。
本作を観たことがきっかけで、客席の子供の中から未来の湯川秀樹が誕生するかもしれない。海底探査とロケットを描いた本作には、それだけの力がある。

監督/西谷弘 脚本/福田靖
出演/福山雅治 吉高由里子 風吹ジュン 前田吟 北村一輝 杏 白竜 西田尚美 塩見三省 田中哲司 山崎光 永島敏行 仁科貴 青木珠菜
日本公開/2013年6月29日
ジャンル/[ミステリー] [サスペンス]

