『ソハの地下水道』 屁をしたのは誰だ!

 本稿は日本人向けの戯れ言なので、他国の方は読み飛ばしていただきたい。

 先日、『宇宙戦艦ヤマト2199』の記事で、米国陸軍第442連隊について紹介した。
 第二次世界大戦中に大きな戦功を残したこの部隊は、日系アメリカ人のみで構成されていた。すずきじゅんいち監督のドキュメンタリー映画『442 日系部隊・アメリカ史上最強の陸軍』では第442連隊の生き残りに取材しており、米国市民としての誇りに満ちた彼らの声を聞くことができる。
 彼らは、活動期間と規模に比べてアメリカ陸軍史上でもっとも多くの勲章を受けた部隊と云われており、今でもなお勲章が授与されている。
 たとえば2000年6月には陸軍殊勲十字章20個が再調査の結果名誉勲章(議会栄誉章)に格上げされたし、2010年10月には民間人に与えられる最高位の勲章の議会名誉黄金勲章がオバマ大統領から贈られたという。

 ウィキペディアによれば、一度叙勲されたものが後に格上げされるのは次のような背景による。
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格上げが多いのは、当時日本と戦争中のアメリカで日系人部隊を評価することにためらいがあったが、戦後そのしがらみがなくなり再評価されたためと、1960年代に公民権法が施行され、それまでの人種差別政策が是正されたためである。
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 米国の日系人が今でも新たに叙勲されたり、勲章を格上げされてると聞いて、あなたはどう思うだろうか。
 日本人の血を引く者が異国で高く評価されることを喜ばしく思うだろうか。
 たしかに、そういう見方もあるだろう。
 だが、同時に見逃せないのは、他国が過去を水に流さないことだ。
 日本には、過去のことを水に流すという考え方がある。けれども米国では70年も前の出来事を今もこうして評価している。
 その姿勢は賞罰を問わないだろう。

 第二次世界大戦が終わると、米国はドイツや日本の戦犯に当たる者たちの一部を、秘かに渡米させてかくまったという。
 この事情について、遠藤誉氏はこう説明する。
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(略)日本に関しては「731細菌部隊」に関わった関東軍の一部、そしてドイツに関してはナチス、ヒトラーに協力した科学者や技術者などである。旧ソ連との冷戦構造の中、アメリカは戦争になった際のアメリカの武力強化にかつての日本やナチスドイツの科学技術が必要だったのである。

 ところが1991年12月にソ連が崩壊し冷戦構造が消滅すると、事態は一変した。

(略)それまでナチの戦犯探しに非常に消極的だったアメリカは、情報公開の波をかわす言い訳を失い、戦後処理に関する機密情報をも公開せざるを得ないところに追い込まれた。闇の世界にメスが入りはじめ、アメリカ議会は1998年に、「ナチ戦犯情報公開法」を制定。少なからぬナチ戦犯が探し出され逮捕された。2000年、同じ枢軸国であった「日本帝国」に対しても同様に「日本帝国政府情報公開法」が制定され、日本の戦争犯罪に関する情報公開を要求することとなった。
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 詳しい経緯は遠藤誉氏の記事『なぜいまアメリカが日本の歴史認識をターゲットに?』を参照されたい。
 ともあれ人権保護団体等の働きかけで制定された日本帝国政府情報公開法(Japanese Imperial Government Disclosure Act)により、約800万件もの戦時犯罪行為が公開された。[*1]

 遠藤誉氏はこうも書く。
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アメリカには、こと「人権」に関する問題であると、非常にデリケートに共鳴する文化がある。そのためアメリカの中に「日本が何をやったかを直視しよう」という雰囲気が出来上がりつつあった。
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 米国の「人権意識」については、映画ファンも大いに首肯するところだろう。
 70年どころか、150年も前の奴隷制度を批判する映画がこんにちでも公開され、奴隷制度廃止を訴えたリンカーン大統領の映画がアカデミー賞の主演男優賞を受賞するのが米国だ。
 歴史を紐解けばどこの国でも人権を蹂躙した過去はあるだろうが、米国は映画のような娯楽媒体まで動員してその過去を取り上げ続けている。


 こんなことを書くのは、木村幹氏の『「ガラパゴス化」する慰安婦論争 ―― なぜに日本の議論は受入れられないか』を読んだからだ。
 木村氏の論考は、氏みずから「今回のポストは、慰安婦問題を網羅的に纏めようとしたものではありません。どちらかといえば、慰安婦問題の展開過程をお浚いする事により、日本での議論が如何に偏っているか(だけ)を示そうとしたものになります。」と述べているように、個別具体的な争点を掘り下げるのではなく、日本人のスタンスを今一度考えようと呼びかけるものだ。
 具体的な事実関係については池田信夫氏が反論しているが、木村氏の論考の狙いは必ずしも慰安婦「問題」に限るまい。米国では800万件もの日本の戦時犯罪行為が公開されている。事実と異なる濡れ衣ならばきちんと晴らすべきだが、木村氏の論考は問題を個別具体的な事実関係に局所化しすぎることを危惧するものだ。

 私は木村幹氏のような朝鮮半島の研究者ではないし、池田信夫氏のように現地で取材したわけでもないので、両氏から学ばせていただくばかりであり、何らかの知見を加えられるものではない。
 ただ、一映画ファンとして映画の話をしたいと思う。

 以前の記事で、世の中には屁尾下郎(へをしたろう)氏が存在することを紹介した。
 屁尾下郎氏が出現する理由について、糸井重里氏は次のように説明する。
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糸井 それは、リスク回避をしたいときですよ。リスクを回避する、というのは、必ず「正義の側」につく、ってことなんです。

 前に何気なく書いた話なんですが、人ごみの中でおならをした人が、「誰か屁をしたな!」って、でかい声を出す。それをやられちゃうと、「ぼくはしてないですよ」、あるいは「お前じゃないか?」という発言しか、周りは言えなくなっちゃう。

 昔、NHKのドキュメンタリーで、文革のときの中国の紅衛兵のときの話を取り上げていました。これがもう笑っちゃうぐらいみんな、この「誰が屁をしたな!」の論理で動く。それぞれが「あいつは悪い」って告げ口しあうことで、自分だけが生き延びようとしたんです。

―― とにかく先に「あいつが悪い」と言ったやつのほうが生き延びる。

糸井 そうなんです、「俺は悪くない」と言うとその時点ですでに犯人扱いになっちゃう。ましてや、「え、あいつって本当に悪いのかい?」なんて言ったら、もうその人はおしまいなんです。

 そういうやりとりを横で見ている連中は、「結局、一番うまくやったのは誰だろう」って勉強をしちゃう。だからみんな、自分のリスクを避けるために「屁をしたろう」「屁をしたろう」と、みんなで指を差し合っているわけ。
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 こんな光景は外国映画でお馴染みだ。
 たとえば中国・香港合作の『王朝の陰謀 判事ディーと人体発火怪奇事件』。
 映画の冒頭で、工事現場に現れた官吏が不審な物を見つけ、「これは誰がやったのか!」と怒鳴る。居並ぶ人夫たちは、一人の男をサッと指差す。男は官吏の前に歩み出て……とストーリーが進んでいく。
 あるいはインド映画の『きっと、うまくいく』。
 悪さをした生徒を睨みつける先生の視線を受けて、生徒は隣の級友を指差す。

 糸井重里氏の発言は現在の日本の傾向を述べたものだが、まだ日本映画では他人を指差す場面をあまり見ない。
 隣組による連帯責任の考え方が根強いためか、日本では隣人を指差して自分だけ矛先をかわすよりも、みんなで頭を低くしてやり過ごす方を選ぶように思う。
 しかし、「あいつが悪い」と云って「正義の側」につく人からすれば、「あいつが悪い」と云えない者は「正義の側」ではないことを意味する。ましてや「俺は悪くない」と抗弁すると「その時点ですでに犯人扱いになっちゃう」のだ。

 木村氏は論考の中で「重要なのは、何らかのかたちで「過去」に区切りをつけ、「現在」のわれわれと切り離すこと」と述べている。
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ドイツでは、ナチスにかかわる過去を現在のドイツと切り離す「理屈」ができあがっており、これにより「過去」に対する批判が「現在」の彼等に及ばないような仕組みを作り上げている。その意味では「過去」の清算とは、単に法律的賠償を尽くしたり、謝罪のパフォーマンスをすることだけではないのである。
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 ユダヤ系のスティーヴン・スピルバーグ監督は、ユダヤの秘宝を狙うナチス・ドイツをこてんぱんにやっつける映画『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』(1981年)を撮った。1941年にキャプテン・アメリカがヒトラーを殴る絵でデビューしたように、第二次世界大戦がはじまってからずっとナチスは映画やマンガの悪者だった。
 その風潮は米国の影響を受けた日本にも広まり、手塚治虫氏が生み出したヒーロー『ビッグX』はナチス同盟と戦い、石ノ森章太郎氏の『サイボーグ009』は新ナチス党と戦った(ちなみに「ビッグX」とは、ナチス・ドイツと戦う米英軍人を描いた『大脱走』に登場するリーダーの名前である)。

 こうしてドイツは戦前戦中の行為のために世界中から袋叩きにされたが、注目すべきはその矛先がナチスに向いていることだ。叩かれるのはナチス・ドイツであり、戦後成立したドイツ連邦共和国ではない。少なくとも映画等の媒体がナチスを悪として強調すればするほど、それは現在のドイツから切り離された別のものに見えてくる。
 これも木村氏の云う「ナチスにかかわる過去を現在のドイツと切り離す」ことであり、「「過去」に対する批判が「現在」の彼等に及ばないような仕組み」の一つなのかもしれない。

 奴隷制度を敷いていた米国も同様だ。木村氏はこうも述べる。
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今日のアメリカが奴隷制度について否定的に議論できるのは、彼らが自らの歴史をこの問題を「克服した」歴史として位置づけているからである。少し皮肉ないい方をすれば、問題が深刻であればある程、それを克服する過程は偉大なものとなり、彼らはそこに肯定的な意味さえ見出すことができる。アメリカの歴史において南北戦争や公民権運動が重視されるのはそのためであり、だからこそリンカーンやキング牧師はアメリカ史のヒーローの座を占めている。
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 スピルバーグ監督の『リンカーン』を観ても判るように、奴隷制度という「悪」は南軍とともに滅んだことになっている。
 その歴史を強調してきたからこそ、大統領が南軍兵士の眠るアーリントン国立墓地を訪れても「奴隷制度の支持者だ」なんて批判されずに済むのだろう。

 1987年に民主化して第六共和国となった韓国においても、民主化以前のことは「克服した歴史」だ。

 こうして各国は、過去の罪過に対して「俺は悪くない」と抗弁するのではなく、過去を切り離して「あいつ(ナチス、南軍等)が悪い」と批判することで「正義の側」に回っている。
 そんな中で「俺は悪くない」と抗弁しているのが日本だ。いや、頭を低くしてやり過ごそうとしているようにも見える。いずれにしろ、犯人扱いになっちゃうことに変わりはない。


 日本が「過去」に区切りをつけ、「現在」の我々と切り離すには、どうすれば良いのだろう。
 そのヒントはすでに米国が示している。
 2000年に米国で制定されたのは「日本帝国政府情報公開法(Japanese Imperial Government Disclosure Act)」。その名のとおり、これは大日本帝国政府に関するものであり、日本国政府を指したものではない。
 考えてみれば、戦争を起こしたのも、数々の戦争犯罪を行ったのも大日本帝国であり、日本国憲法を掲げる日本国ではない。
 だから大日本帝国の行為について日本国民が抗弁するのはちぐはぐとも云えるし、「あいつ(大日本帝国)が悪い」と批判すれば日本国民は「正義の側」に回ることができる。
 他国の人々が大日本帝国の所業を批判しているときに、日本国民が「俺は悪くない」と立ち上がったら、矛先が日本国に向くのは当然だ。「過去」と「現在」を切り離している各国には、切り離さない日本は理解されないだろう。

 「正義の側」に回るのは、必ずしも他国の人々に与することではない。むしろ「正義の側」に回ることで、日本への批判・非難を包摂することも可能になる。
 人権保護団体等が問題提起したり批判してきたら、こういう切り返し方ができる。
 「建設的な提案ならどんなものでも歓迎です。いっしょに議論しましょう。どんどん批判してください。」[*2]
 そして大日本帝国の所業の証拠をどんどん出してもらい、その確からしさを一緒に吟味すれば良い。証拠が不充分でも、その指摘はウソだと反論するのではなく、「これでは批判できないので、きちんと批判するために確かな証拠を用意しましょう」とあくまで「正義の側」として述べれば良い。確かな証拠が出てくれば、それはちゃんと扱えば良い。

 他国はいつまで経っても過去のことを水に流さない以上、どこかで「あいつが悪い」と批判する側に回らない限り、日本人は子々孫々に至るまで世界から非難を浴び続けるのではないだろうか。


 ……と書いてはみたものの、「過去」を批判するなんて芸当は日本人には難しいかもしれない。
 祖先崇拝と怨霊信仰の根強い日本で、祖先を批判することができるだろうか。
 祖先とは、生前の行いの善し悪しにかかわらず、丁重に祀るものだ。死んだ者を責めたりしたら、祟られるかもしれない。
 ハッキリそうとは思わなくても、祖先を批判することに気が乗らない人もいるだろう。「祖先」といっても、まだ存命の方もいることだし。

 日本もかつては「過去」と「現在」を切り離そうとした。だがそれが成功したとは云いがたい。
 木村幹氏は次のように呟いている。
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今の日本の状況は変わっていて、わざわざ「今」と「否定的に看做されている過去」を連結させようとしている。「都合の悪い過去」は「切り離し、克服した」事にすれば、説明がぐっと楽になるのに、わざわざ難しいほうに行っている。

この辺も「戦後民主主義」の賞味期限切れと関係のある話なのかも知れない。そもそも現憲法の「肝」は、「日本は過去と断絶した事にして」「平和国家になったという事にして」「自衛隊は軍隊ではないということにして」無理やり、1945年以前を以後と切り離した事にあった筈。
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 たとえば、「あいつが悪い」と批判する映画を、今映画人が積極的に制作できるだろうか。
 冷戦構造が消滅した今こそ、そんな映画が必要かもしれないのに。

 ところが、世の中にはそんな映画をどんどん作れる人たちがいる。
 云わずと知れた他国の人々だ。
 テレビドラマのデータで恐縮だが、中国で2011年と2012年に配信を許可された反日ドラマは177本もあり、これは許可された全ドラマの5分の1に上るという。
 配給会社が日本に持ってこないだけで、他国では反日色の強い映画もたくさん作られていることだろう。

 そんな状況を考えるとき、注目したいのが『ソハの地下水道』だ。
 ポーランド出身のアグニェシュカ・ホランド監督のこの映画は、ナチス支配下のポーランドで貧しい労働者がユダヤ人を地下水道に匿った実話に基いている。
 第84回アカデミー賞外国語映画賞のポーランド代表として見事ノミネートを果たしただけあって、ホランド監督の腕は確かだ。その真摯な作風に、観客誰しも引き込まれてしまうだろう。

 だが、私が気になったのは劇中の人物像だった。
 哀れなユダヤ人たち、憎めないポーランド人、残虐なナチス・ドイツ。題材を考えれば――ホランド監督の祖父母がユダヤ人を押し込めたワルシャワ・ゲットーで亡くなったことを考えても――そのような描き方になるのは当然だが、それにしてもステレオタイプだ。
 ドイツ映画『命をつなぐバイオリン』(2011年)がナチスに距離を置く善良なドイツ人を登場させるのはともかく、オーストリア・ルクセンブルク合作の『ミケランジェロの暗号』(2011年)が人間味のあるナチス党員を登場させたり、キャプテン・アメリカが復活した米国映画『キャプテン・アメリカ ザ・ファースト・アベンジャー』(2011年)がナチス・ドイツを敵とはせずにナチスから逸脱した一党との戦いを描いたりと、単純にナチスを悪者扱いするのは避けるようになっているのに、『ソハの地下水道』のナチスは酷く残虐に描かれている。

 そして私が一番気になったのは、『ソハの地下水道』がドイツ資本で作られていることだ。本作はポーランドだけではなく、ドイツ、カナダとの合作なのだ。
 フランスの監督ローズ・ボッシュが撮った『黄色い星の子供たち』(2010年)も同様だ。ナチス占領下のフランスにおけるユダヤ人の悲劇を描いたこの映画は、フランス、ドイツ、ハンガリーの合作である。

 ドイツの出資者がどのような意図でこれらの作品に資金を提供したのか私は知らない。
 ドイツには映画資金に関する税の優遇制度があるから、出資者は映画の中身よりも税金対策のために資金を出したのかもしれない。
 たとえ、「あいつ(ナチス)が悪い」と批判する映画に協力することで、批判が現在の自分たちに及ばないようにしているのだとしても、出資者がそんな意図を口外するはずもない。
 だから、私が木村氏の論考から『ソハの地下水道』を連想したのは、単なる妄想でしかない。
 確かなことは、今も各国でナチスを批判する映画が作られていることと、そこにドイツが資金を提供していることである。

 もちろん、いくら「過去」を批判しても、「現在」の人間が「あれは悪くなかった」などと口にしたらブチ壊しだ。
 木村幹氏は次のようにも云う。
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重要なのは、今のわれわれの社会がどのような状態にあるかである。慰安婦問題で問われているのは、「過去」の事実以上に、われわれの「現実」、より正確にはわが国の「女性の人権」、さらには「組織的暴力の下に置かれている人々」をめぐる状況である。それこそがじつは慰安婦問題の「本丸」なのであり、だからこそ慰安婦問題を突きつけられた日本が女性の人権にかかわる問題についてどのような態度を見せるかはきわめて重要なことなのである。
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 木村幹氏の論考は慰安婦問題に関するものだから、ここでは「女性の人権」を挙げている。
 でもそれだけではなく、日本では長時間労働や過労死・パワハラ自殺が相次いでいるとして国連の社会権規約委員会から対策を講じるように勧告されているし、日本の司法は自白に頼りすぎで取調べに弁護人の立会すらなく国際水準に達していないと国連の拷問禁止委員会で云われている
 西洋文明が発明した「人権」がまだ浸透していない国は多く、日本とて例外ではない。
 これでは人権保護団体の批判を勢いづかせるばかりだ。
 個別の事実関係を議論するだけでなく、やることはたくさんあるのだ。


[*1] 日本帝国情報公開法制定への働きかけには在米華人華僑もかかわっている。そう聞くと、さては中国政府の差し金かと勘ぐる人がいるかもしれないが、そう単純な事情ではない。詳しくは遠藤誉氏の前述の記事を参照されたい。
 また、同記事で触れられている、在米華人華僑が日本人の遠藤誉氏を受け入れたほどの壮絶な体験については、『中国に言論の自由はいつ来るのか?』に詳しい。

[*2] これは橘玲氏が著書の中で"政治家の橋本徹氏なら自分の掲げる政策への批判にこう切り返すだろう"と予想した言葉だ。
 だが、政策に関しては巧みに切り返す橋本徹氏ながら、慰安婦問題に関する立ち回り方は異なっていた。2013年6月23日の都議選の結果を見ると、慰安婦問題での立ち回りは有権者に支持されなかったようだ。


ソハの地下水道 [DVD]ソハの地下水道』  [さ行]
監督/アグニェシュカ・ホランド
出演/ロベルト・ヴィエツキーヴィッチ ベンノ・フユルマン アグニェシュカ・グロホウスカ マリア・シュラーダー ヘルバート・クナウプ キンガ・プレイス
日本公開/2012年9月22日
ジャンル/[ドラマ] [戦争]
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『旅立ちの島唄~十五の春~』 泣いてはいけない

 地味な題名だ。
 映画『旅立ちの島唄~十五の春~』は、15歳の春に旅立つ少女が島唄を歌う話である。これが物語の骨子だから、題名がほとんど説明してしまっている。というより、内容説明が題名になっている。
 そのため題名を聞いてもグッと来ないし、劇場に足を運ぶ気にもならないかもしれない。
 だが、本作を観た人ならば判るはずだ。飾り気のない、朴訥なまでの語り口と、だからこそ鮮明になる瑞々しさが本作の魅力であることを。

 舞台は沖縄本島から360km離れた南大東島(みなみだいとうじま)。
 ここには高校がないため、進学する子供は島を出なければならない。
 映画は中学三年生の少女の一年間を綴り、家族がバラバラになるのが当然の島を描く。

 本作に限らず地方を舞台にした映画は多いし、それぞれに味わいがある。
 祭りや踊り等、その土地のイベントを絡めた映画もあれば、郷土史を掘り起こしてどっさりと情報を詰め込む映画もある。はたまた、都会よりも産業構造の変化を受けやすい地方ならではの問題に焦点を合わせた映画もある。
 だが、祭りや踊りを取り上げた映画は、祭りや踊りを置き換えればどこの土地でも通用するドラマだったりする。映画によっては、取材を重ねて発掘した郷土史に呑まれてしまい、その情報を咀嚼した世界観の構築に至らないこともある。はたまた、産業構造の変化にさらされた人々を描くことに注力するあまり、変化を起こすのもまた人であることを置き忘れた映画もある。

 本作はそのいずれとも違う。
 『旅立ちの島唄~十五の春~』は普遍的な家族の話でありながら、島ならではの特徴に彩られている。
 吉田康弘監督は本作のテーマを「島の宿命」と述べている。
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最初は小さな家族の普遍的な話にしようと思っていたんですが、少しずつ“島の宿命”みたいなものがテーマになり、この島に課せられた宿命の中で成長していく14歳の女の子が15歳の春を迎える話、にスライドしていきました。
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 子供たちが15歳の春に旅立たねばならないことを、教育問題として取り上げるでもない。
 子供だけで島を出るにしろ、片親が同行するにしろ、家族が離れ離れになってしまうけれど、それを社会問題として突き上げるでもない。
 宿命。
 子供が15歳になるということはそういうものだと島民みんなが知っている南大東島のありさまを「宿命」として描き出すことで、本作は誰もが共感する物語になるとともに、南大東島自体が主人公として浮かび上がってくる。
 この映画がもたらす感慨は、地方にスポットを当てることを目的にしたご当地映画ではなかなか達し得ないものだ。

 本作の魅力をズバリと云い当てているのが、寡黙な父を演じた小林薫さんである。
 「個人的には、父と娘、現代版小津安二郎を観ている気持ちになりました。」
 なるほど、父親が嫁いでいく娘を見送る『晩春』『彼岸花』『秋刀魚の味』……。島を出ていく娘を見送る本作の父の姿は、小津安二郎監督の名作の数々に通じよう。
 政岡保宏プロデューサーが「古典ともいえる映画作りを目指した」と云うとおり、『旅立ちの島唄~十五の春~』は世代や地域を越えて観客の胸に響くに違いない。

 登場人物が饒舌ではないだけに、一つひとつのセリフが印象的だ。
 特に心に残るのは、題名にもある旅立ちの際に歌う島唄「アバヨーイ」を練習する主人公に、民謡教室の新垣先生が告げる言葉だ。
 「アバヨーイ」は、娘が父母への感謝の気持ちを贈る唄。この唄を歌うということは、故郷を離れて旅立たつときを意味する。15歳の少女にとって、それは辛くもあり、悲しくもあろう。
 しかし新垣先生は、これは感謝の唄だから、と教える。「この歌は泣いて歌ったら価値ないからさ、堪えて歌うんだよ」。
 三線の物悲しい旋律を奏でながら、泣かずに別れの唄を歌う少女。
 それは『晩春』で娘を見送った父親役の笠智衆さんが、人生でたった一度だけ、号泣せよという小津監督の演技指導を断って、ただ黙するままだったことを思い起こさせる。[*]

 政岡プロデューサーが本作を企画したきっかけは、島を離れる少女が唄を歌うドキュメンタリー番組を見たことだという。
 島の少女はこれからも、泣かずに「アバヨーイ」を歌い続けるのだ。


[*] 與那覇潤 (2011) 『帝国の残影 兵士・小津安二郎の昭和史』 NTT出版

旅立ちの島唄~十五の春~ [DVD]旅立ちの島唄~十五の春~』  [た行]
監督・脚本/吉田康弘
出演/三吉彩花 小林薫 大竹しのぶ 早織 立石涼子 ひーぷー 普久原明 山本舞子 照喜名星那 上原宗司 手島隆寛 小久保寿人 日向丈 松浦祐也 若葉竜也 野吾沙織
日本公開/2013年5月18日
ジャンル/[ドラマ] [青春]
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【theme : 日本映画
【genre : 映画

tag : 吉田康弘 三吉彩花 小林薫 大竹しのぶ 早織 立石涼子 ひーぷー 普久原明 山本舞子 照喜名星那

『はじまりのみち』 オールタイム・ベストワンは?

 あなたにとって、オールタイム・ベスト1の映画は何だろうか。
 古今東西それぞれの映画にそれぞれの良さがあるので、一つに絞るのはなかなか難しいことだろう。
 そこで私は久しく以前にオールタイム・ベスト1の回答を決めてしまい、頭を悩まさないことにした。
 それは私が過去一番泣いた映画、木下惠介監督の『二十四の瞳』である。泣ける映画がいい映画とは限らないが、この映画の感動は群を抜いている。
 『二十四の瞳』をバイブルと呼ぶ吉永小百合さんが、東映創立60周年記念の主演映画に『二十四の瞳』を意識した作品を持ってきたのもうなずける。

 その木下惠介監督の「生誕100年プロジェクト」の一環として制作されたのが映画『はじまりのみち』だ。
 この映画で注目されるのは、これまでアニメーションを撮り続けてきた原恵一監督がはじめて実写作品に取り組んだことだろう。
 アニメーションの監督が実写作品を手掛ける例がないわけではない。『ウォーリー』のアンドリュー・スタントンが『ジョン・カーター』を監督したり、『Mr.インクレディブル』のブラッド・バードが『ミッション:インポッシブル/ゴースト・プロトコル』を監督したのも記憶に新しい。
 原監督はディテールをきっちり押さえた映像を作るから「なんで実写でやらないの?」という声が必ず出てくるそうだが、「なんとなくアニメできちゃったんで、アニメでつくってるというだけなんです」「実写には自信もないです」と前作『カラフル』公開時のインタビューで答えている。
 だから原監督にとってはアニメで作ることが自然なんだろうと思っていたから、遂に実写映画を撮ったと聞いて私にはとても意外だった。

 実写映画を撮った理由を、原監督は次のように語る。
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ある時、木下作品の特集上映を見る機会があって、凄さに打ちのめされました。(略)個人的に木下作品をもっと見てもらえるよう、あちこちで声を上げていたのですが、それが松竹の方にも届いていたのか、この木下監督の生誕100年という年に、作品を作るという企画に声を掛けていただきました。実写の監督経験は無いので、ためらいましたが、こんなメモリアル企画に次は無いと思い、受けさせていただきました。
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 「実写には自信もないです」と云っていた原監督をして「こんな企画は次にない」からと踏み切らせるほど、原監督の木下作品への思い入れは強かったのだ。

 それだけに、『はじまりのみち』は単に在りし日の木下惠介監督のエピソードを描くだけでなく、木下作品の魅力を伝えるべく大胆に構成されている。
 私は『はじまりのみち』もオイオイ泣きながら観ていたのだが、もっとも泣いたのは原監督が撮影した場面ではなく、劇中に引用された木下監督の『陸軍』を観たときだった。
 それは「引用」どころではない。『陸軍』のワンショット、ワンシーンがチラッと映るだけかと思ったら、『陸軍』の終盤のシークエンスが延々と続き、遂にラストまで映し終えてしまう。
 「メモリアル企画」だからこその大技だが、原監督の気持ちは良く判る。途中で切れないのだ。涙なくしては観られない感動的なシーンを、途中でスッパリ断ち切るなんてできるわけがない。それだけ木下作品が素晴らしく、ちょっとの紹介では済まないということだ。

 『はじまりのみち』は劇映画であるとともに、木下作品のガイドにもなっており、後半では木下作品が次々に紹介される。
 本作で取り上げられるのは木下作品49作のうちの15作だが、それだけでも木下監督がいかに多様な作品を世に送り出したかがうかがい知れる。[*]
 さすがにこれらの作品を延々と映すことはできず、印象的なショットだけに絞り込んでいるが、公式サイトによればこの抜き出しにもたいへんな時間を要したという。この部分の編集をやりたかったのが、この仕事を受けた大きな要因である原監督は、「もうこれ以上は切れない」と云いつつ泣く泣く切ったという。

 映画の中に他の作品のショットがこれほどまとめて挿入されるのは異例のことではないだろうか。
 だが、木下惠介監督の足跡を表現するのに、これ以上の方法はあるまい。
 私は『二十四の瞳』のショットを観ただけで泣けてきた。また、紹介された映画のすべてを観ているわけではないので、せめてここに取り上げられた作品は早く見なければと思った。

 『はじまりのみち』は、軍部の圧力に反抗して映画会社を辞めた木下惠介監督が母と交流する、ほんの数日を描いた作品だ。
 親子の愛、戦争の辛さ、市井の人々の優しさ、たくましさ。木下惠介監督が作品を通して繰り返し描いてきたこれらを象徴するエピソードにスポットを当て、各要素を過不足なく盛り込んだ構成もまた、称賛されるべきだろう。
 木下惠介ファンは本作を観て木下作品の素晴らしさを改めて実感するだろうし、木下作品を知らない人は目の前に素晴らしい作品群があることに気づくはずだ。

 『はじまりのみち』は木下惠介監督の生誕100年を記念するに相応しい映画である。


 ちなみに、冒頭において過去一番泣いた映画は木下惠介監督の『二十四の瞳』であると述べたが、私が二番目に泣いた映画はやはり木下惠介監督の『喜びも悲しみも幾歳月』だ。


[*] 本作に登場する木下惠介監督作品
 『花咲く港』 『陸軍』 『わが恋せし乙女』 『お嬢さん乾杯!』 『破れ太鼓』 『カルメン故郷に帰る』 『日本の悲劇』 『二十四の瞳』 『野菊の如き君なりき』 『喜びも悲しみも幾歳月』 『楢山節考』 『笛吹川』 『永遠の人』 『香華 前篇/後篇』 『新・喜びも悲しみも幾歳月』


はじまりのみち (リンダブックス)はじまりのみち』  [は行]
監督・脚本/原恵一
出演/加瀬亮 田中裕子 ユースケ・サンタマリア 濱田岳 斉木しげる 光石研 濱田マリ 山下リオ 藤村聖子 松岡茉優 相楽樹 宮崎あおい 大杉漣
日本公開/2013年6月1日
ジャンル/[ドラマ] [伝記]

【theme : 日本映画
【genre : 映画

tag : 原恵一 加瀬亮 田中裕子 ユースケ・サンタマリア 濱田岳 斉木しげる 光石研 濱田マリ 山下リオ 藤村聖子

『宇宙戦艦ヤマト2199 第六章 到達!大マゼラン』 彼らは442だった!

 遂に公開された第六章には深く考えさせられた。

 『宇宙戦艦ヤマト2199 第六章 到達!大マゼラン』が面白いのは判りきっている。なにしろシリーズ最大の見せ場ともいえる、七色星団の決戦が描かれるのだ。つまらないわけがない。
 三隻の多層式航宙母艦と戦闘航宙母艦、そしてドメル上級大将の乗艦ドメラーズIII世からなるドメル機動部隊の姿は、旧作のドメル艦隊に勝るとも劣らない勇ましさだ。特殊削岩弾(旧ドリルミサイル)や物質転送機(旧瞬間物質移送器)もしっかり再現し、ドメル及びヤマト双方の砲撃戦や、艦載機による空中戦は本当に大迫力で、まばたきするのも我慢して目を見開き続けた。

 あえて七色星団海戦の残念なところを挙げるとすれば、第19話『彼らは来た』と第20話『七色の陽のもとに』だけで終わってしまうことだろう。
 旧作でも第21話『ドメル艦隊!!決死の挑戦状』と第22話『決戦!!七色星団の攻防戦!!』の2回で決着がついてしまうから旧作の構成に忠実ではあるのだが、できれば胸躍る大海戦を4回くらいは観たかった。
 ともあれ待ちに待ってた七色星団海戦は、期待を裏切らない面白さだ。

 しかも、旧作にはない意外な展開も用意されている。
 それがザルツ星義勇兵の襲撃だ。
 旧作におけるガミラス人の肌の色が途中から変わったことを逆手に取り、肌の青い一等ガミラス人とそれ以外の二等ガミラス臣民の設定を考案したのは、洒落たやり方だと思っていた。
 肌の青いシュルツやガンツなんて見たくはないし、さりとてシュルツやガンツを旧作と同じく肌色にしたらガミラス人の体色の統一が取れない。二等ガミラス臣民という設定は、そういう不都合を解消するための苦肉の策だ、くらいに考えていた。
 ところが、ガミラスに肌色の人間がいることを活かしてヤマト潜入の特殊部隊を編成するとは、完全に一本取られてしまった。そこまでこの設定を活用してくるとは思いも寄らなかった。
 というわけで、本作ではドメル機動部隊との激戦と並行して、ヤマト艦内の作戦行動が描かれる。

 しかも、そこで襲われるのは森雪だ。
 旧作において森雪とサーシャが瓜二つだったこと(松本零士氏の描く美女がみんな同じ顔をしていること)をこれまた逆手に取り、本作では「森雪=イスカンダル人」疑惑を展開して楽しませてくれた。
 けれども、このことはそれだけのネタだと思っていた。
 ところが、森雪がイスカンダル人としてガミラス部隊の標的になるとは、いやはや一粒で二度も三度もおいしい思いをさせてくれる作り手たちの手腕に恐れ入るばかりだ。

 これだけでも第六章には大満足なところだが、私が考えさせられたのはザルツ星義勇兵たちの部隊名をパンフレットで確認したからだ。
 ザルツ星義勇兵B特殊戦軍第442特務小隊!
 これが彼らの呼び名だった。
 そうか、彼らは442だったのか……。
 大海戦の迫力に興奮気味だった私は、冷水を浴びせられたように感じた。

 そしてまた第22話『向かうべき星』で女性たちがパフェを食べながら他愛ない会話を交わすシーン――『宇宙戦艦ヤマト2199』には場違いとも思えるコメディシーンが必要な理由に気が付いた。
 影のあるキャラクターとして登場した山本玲がパフェなんぞを頬張り、続々登場する女性キャラと恋愛バナシに花を咲かせるシーンなんて、戦う男の燃えるロマンを期待する私には不要に思われたのだが、これこそ本作のテーマを語る上で重要なものだったのだ。


 442――それはアメリカ史上最強と云われる陸軍部隊である。
 米国陸軍の第442連隊戦闘団は、第二次世界大戦において華々しい戦果を上げた。フランス東部の街ブリュイエールでは、ドイツ軍から解放した442連隊を記念して通りに「第442連隊通り」と名付け、今も街の住民は感謝の言葉を口にする。
 テキサス大隊がドイツ軍に包囲され、誰もが救出に失敗してテキサス大隊を諦めざるを得ないと思われたときも、442連隊はドイツ軍の包囲を打ち破ってテキサス大隊を助け出した。この不可能とも思える任務の遂行は、映画『プライベート・ライアン』のモチーフであるとも云われる。
 442連隊は18,000近くの勲章や賞を受けており、活動期間と規模からすれば米国陸軍史上もっとも多くの勲章を受けた部隊だそうである。

 第442連隊戦闘団は、なぜそれほどの戦果を上げられたのか?
 それは彼らの戦い方が尋常ではなく勇猛だったからだ。
 彼らは211人のテキサス大隊を救出するために216人の戦死者を出し、手足を失う等の重症者を600人以上出している。
 彼らは犠牲を厭わず戦い、テキサス大隊の救出を含めた2ヶ月ほどのあいだに約2,800名の兵員が1,400名にまで減少してしまう。

 では、なぜ彼らはそれほどの犠牲を出しながら戦い続けたのだろうか?
 それは彼らが日系人だったからだ。 
 すずきじゅんいち監督のドキュメンタリー映画『442 日系部隊・アメリカ史上最強の陸軍』には、何人もの442連隊の生き残りが登場し、当時のことを語っている。
 日米間で戦争が勃発すると、米国に住む日系人と日本人移民は強制収容所に入れられた。有色人種に対する偏見も強かった時代である。
 米国市民たる彼らは、日系人だってアメリカを愛していることを体を張って証明する必要があった。
 かくして日系アメリカ人のみからなる第442連隊戦闘団が編成され、ヨーロッパ戦線で未曽有の活躍をするのである。

 ガミラスにおいて二等臣民と見下され、義勇兵としてあえて危険な任務に就くことで忠誠を示そうとしたザルツ人たちの第442特務小隊。
 これはそのまま日系人の姿なのだ。

 以前、当ブログにコメントをいただいたように、旧作のガミラスは米国になぞらえている。その意匠や人名はドイツ第三帝国風ではあるものの、超強力爆弾で都市を破壊し、圧倒的な戦力で大和を包囲する巨大国家は、米国以外の何者でもない。
 20世紀の日本が戦争した主な相手は中華民国であり、米国は日中戦争の最後の方で中華民国に加勢しただけなのだが、米国との激しい戦いの印象から日本人は米国との戦争に負けたように感じている。[*]
 そのイメージが旧作の制作時にも投影されたのだろう。

 だから『宇宙戦艦ヤマト2199』におけるガミラス人のマイノリティが、日系アメリカ人を模して描かれるのはあながち筋違いではない。
 それどころか、もしも第442連隊戦闘団がヨーロッパ戦線ではなく太平洋戦争に投入されていたら……。悲壮なザルツ星義勇兵の姿に、そんなことを考えずにはいられなかった。
 戦争がいかなる悲劇を引き起こすのか。第442特務小隊のエピソードはそれを端的に表している。

 宇宙葬のシーンが旧作と異なるのもそのためだろう。
 七色星団で多くの犠牲者を出したヤマトは、旧作でも宇宙葬を行っていた。このとき沖田艦長は「地球のために命を賭けた、すべての勇士に送る。君たちの心は我々の心に蘇って明日の地球の力となるだろう。我々は君たちを決して忘れはしない」と弔辞を述べている。この宇宙葬はあくまで地球人のために行われたものだ。
 『宇宙戦艦ヤマト2199』でも宇宙葬が営まれるが、旧作と大きく異なるのはザルツ人も一緒に葬られることだ。
 ヤマトにとっては敵国人であるガミラス兵を、地球人と同じく丁重に葬ってやる。旧作にはないこの扱いから、『宇宙戦艦ヤマト2199』が訴えるものが伝わってくる。

 だからこそ、パフェを食べるシーンが重要なのだ。
 山本玲とメルダ・ディッツとユリーシャ・イスカンダル――すなわち地球人とガミラス人とイスカンダル人が席を並べて仲良く会話に興じる。そこには敵も見方も、身分の上下もない。
 それこそ『宇宙戦艦ヤマト2199』の作り手が目指す世界だ。

 『宇宙戦艦ヤマト』及びそのリメイクである『宇宙戦艦ヤマト2199』は、戦艦大和をモチーフにした戦争ドラマであり、ややもすれば好戦的なナショナリズムをかき立てることになりかねない。
 それだけに作り手には慎重さと配慮が求められよう。
 旧作の第24話で古代進が「我々がしなければならなかったのは戦うことじゃない。愛し合うことだった。」と口にするのはその配慮の表れだ。
 だが、さんざんガミラスと戦っておいて後から出てきたこのセリフは、いかにも唐突に感じられる。

 それを『宇宙戦艦ヤマト2199』の作り手も判っているのだろう。
 旧作での古代進のセリフの趣旨を作品の中に散りばめて、唐突にならないように腐心している。
 その一つがパフェを食べるシーンなのだ。

 これ以上の戦闘はやめようと沖田艦長から呼びかけられたドメルが、旧作では「ガミラスの命運」がかかっていることを理由に拒むのに対し、本作では「死んでいった部下のために」戦いはやめられないと述べるのも、ナショナリズムを緩和するためだろう。


 また、本作ではガミラスを米国の暗喩とすることも緩和している。
 米国の第442連隊戦闘団を模したザルツ人の登場は米国らしさの強調のように感じられるが、第六章はそう単純ではない。
 そのキーとなるのが各話のサブタイトルだ。

 第19話のサブタイトル『彼らは来た』は、ナチス親衛隊出身のパウル・カレルがノルマンディー上陸作戦をドイツ側から描いたドキュメンタリー『彼らは来た―ノルマンディー上陸作戦』(1960年)を踏まえてのものだろう。ということは、ガミラスがドイツとして位置付けられるだけでなく、なんとヤマトが米国の位置付けになるわけだ。
 この回のガミラス国歌「永遠に讃えよ我が光」の歌声を聴くと、観客はすっかりガミラス側に感情移入してしまうはずだ。

 こうして地球対ガミラスを単純に日米戦争とみなすことを否定した上で、第20話『七色の陽のもとに』に突入する。
 パンフレットで氷川竜介氏が述べているように、七色星団の決戦は第二次世界大戦のミッドウェー海戦を参考にしたものだ。大日本帝国はこの戦いで航空母艦4隻を失い、致命的な損害を被る。航宙母艦4隻を失うドメル機動部隊は、ここでは大日本帝国海軍なのである。
 つまり第20話のガミラスは日本であり、ヤマトはやはり米国に位置付けられる。
 けれどもそれだけではない。
 サブタイトル『七色の陽のもとに』は、もちろんポーランドのスタニスワフ・レムが執筆した『ソラリスの陽のもとに』(1961年)が元ネタだ。この小説が書かれた頃のポーランドは、ポーランド統一労働者党が支配する社会主義国だった。

 続く第21話のサブタイトル『第十七収容所惑星』は、ビリー・ワイルダー監督の映画『第十七捕虜収容所』(1953年)とソビエト連邦(現ロシア)のストルガツキー兄弟が執筆した『収容所惑星』(1969年)を掛け合わせたものだろう。
 『第十七捕虜収容所』はドイツの捕虜収容所から脱走しようとするアメリカ兵を描いた作品で、第21話冒頭の2人の捕虜が射殺されるシークエンスはこの映画にならっている。
 だが、第21話の主眼が圧制の恐ろしさである点で、ソビエト連邦の『収容所惑星』も念頭に置くべきだ。

 第20話、第21話と連続で旧社会主義国を指し示すサブタイトルにすることで、本作はガミラスという国家にドイツでも米国でもない新たなニュアンスを吹き込んだ。
 長年にわたり一党独裁を続け、思想・言論を制限した社会主義国家群(いわゆる東側陣営)
 『宇宙戦艦ヤマトIII』のボラー連邦はソビエト連邦を思わせるものだったが、本作ではガミラスが社会主義国のようなカラーを帯びた。

 ドイツ第三帝国や大日本帝国は、対外戦争に敗れることで終焉を迎えた。
 だが社会主義国の多くは体制を拒否した国民の手で倒された。
 国家の命運は、他国との戦いにかかっているばかりではないのだ。


[*] 與那覇潤氏は70年前の「あの戦争」を「日中戦争とそのオマケ」と呼んでいる。詳しくは以下の文献を参照されたい。同書では、世界で一番成功した社会主義国が東側陣営ではなく日本であることも説明している。
   與那覇潤 (2011) 『中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史』 文藝春秋


宇宙戦艦ヤマト2199 6 [Blu-ray]宇宙戦艦ヤマト2199 第六章 到達!大マゼラン』  [あ行][テレビ]
第19話『彼らは来た』 脚本/森田繁 絵コンテ/羽原信義 演出/羽原信義
第20話『七色の陽のもとに』 脚本/森田繁 絵コンテ/出渕裕 演出/別所誠人
第21話『第十七収容所惑星』 脚本/村井さだゆき 絵コンテ/片山一良 演出/中山勝一
第22話『向かうべき星』 脚本/大野木寛 絵コンテ/片山一良 演出/江上潔

総監督・シリーズ構成/出渕裕  原作/西崎義展
チーフディレクター/榎本明広  キャラクターデザイン/結城信輝
音楽/宮川彬良、宮川泰
出演/菅生隆之 小野大輔 鈴村健一 桑島法子 大塚芳忠 山寺宏一 麦人 千葉繁 田中理恵 久川綾
日本公開/2013年6月15日
ジャンル/[SF] [アドベンチャー] [戦争]
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【theme : 宇宙戦艦ヤマト2199
【genre : アニメ・コミック

tag : 出渕裕 西崎義展 菅生隆之 小野大輔 鈴村健一 桑島法子 大塚芳忠 山寺宏一 麦人 千葉繁

『きっと、うまくいく』 インド人にびっくり!

 インド映画の特徴といえば、上映時間が長いこと、歌と踊りが満載なこと、底抜けに楽しいことなどいろいろ挙げられるだろうが、酒とタバコがほとんど出てこないのも大きな特徴だろう。
 もちろん、そんなものにはかかわらないお国柄によるのだろうが、酒を飲んでおしゃべりするシーンや、タバコの煙をくゆらせるシーンに尺を使わない分、映画に歌や踊りやアクションがぎゅうぎゅう詰まって、濃密で面白い。
 たまに酒が出てきても、次のシチュエーションへ導くための鍵として必然性のある扱いだから、物語の進行を妨げない。

 『きっと、うまくいく』にも酒を飲むシーンはあるものの、単に友人と旧交を温めるとか、同僚とくだを巻くのではなく、悪い出来事へのイントロダクションとして意味を成すようにちゃんと計算されている。
 しばしば「神は細部に宿る」と云われるが、『きっと、うまくいく』の細部の作り込みは本当に見事だ。突然歌ったり踊ったりする大雑把な娯楽作品のようでいて、細やかに張り巡らされた伏線と、その回収の妙に圧倒される。

 『きっと、うまくいく』は、2010年の第3回したまちコメディ映画祭in台東において『3バカに乾杯!』の題で上映された。原題が『3 Idiots (3バカ)』だから、映画祭での邦題は原題の意味に即している。
 たしかに三人のバカ学生を主人公にした本作は、170分のあいだバカ騒ぎとお笑いとハチャメチャな学生生活で楽しませてくれる。
 だが、印象的な劇中歌「Aal Izz Well (All is Well)」の題から取って新たに『きっと、うまくいく』と名付けたのは大成功だ。

 ♪ニワトリに卵の運命は判らない。ヒナがかえるかオムレツになるか。
  誰にも先のことは判らない。
  だから口笛を吹いていよう。
  きっと、うまくいく。きっと、うまくいく。

 『3バカに乾杯!』の題名では、恋と友情と人生訓に富んだ感動的なこの物語を表現しきれない。涙するほど素晴らしい本作には、『3バカに乾杯!』よりも『きっと、うまくいく』の方がしっくり来る。


 しかも、本作は決してバカさを売りにした映画ではない。
 それどころか、作り手の深い教養と見識に驚かされる。

 舞台となるのは全国一の工科大学ICE(Imperial College of Engineering)。ここからして日本映画とは違っている。
 例えば、やはり学生生活を描いた日本の映画『横道世之介』の主人公は、経営学部の学生だった。とうぜんのことながら世之介を取り巻く友人たちも経営学部生である。その生き生きとした生活に、理系の影はこれっぽっちもない。
 『横道世之介』は原作者吉田修一氏の経歴をそのまま作品に反映させたから経営学部が舞台になったのだろうが、では理系の人が登場する映画はどれほど生き生きしているだろうか。

 現実の宇宙探査を描いた映画『はやぶさ/HAYABUSA』は、実在の科学者や技術者をモデルにしただけあって、とてもリアルな作風だった。
 それだけに、竹内結子さん演じる架空の主人公・水沢が浮いていた。
 水沢の人物像は複数の関係者をモデルに作り上げたそうだが、結果としてはステレオタイプの「ヘンな理系の女の子」になってしまった。理系女子は化粧っ気がないとか、理系女子はコミュニケーション下手だとか、理系女子は星を見るためなら寝食を忘れるとか。
 たしかにそういうこともあるかも知れないし、そういう人もいるかも知れない。だが、人間はそれだけではないはずなのに、水沢は「こういう要素を集めれば理系っぽいでしょ」というイメージの固まりになってしまったように思う。

 リアリティを追求した『はやぶさ/HAYABUSA』でもこのとおりだから、テレビドラマ及び映画になった『SPEC ~警視庁公安部公安第五課 未詳事件特別対策係事件簿~』の主人公で京都大学理学部出身の当麻紗綾(とうま さや)や『ガリレオ』の主人公で帝都大学理工学部物理学科准教授の湯川学はものの見事な変人だ。
 主人公を個性的にするために変人として描くのは常套手段でも、これらの理系出身者が事件の謎を解くシーンで視覚効果をふんだんに用いて超能力の発現のように描写するのはいただけない。これではまるで理系と変人と超能力者がイコールの関係のようだ(当麻紗綾の左手には特殊能力があるけれど、それは別の話)。

 『SPEC』や『ガリレオ』は極端な例としても、映画やドラマを観ていると、その作り手は理系の生活をリアルに活写するのが苦手なのかと感じられることがしばしばだ。
 映画やドラマの技術スタッフには理系の人もいるだろうが、作品を企画したり人物設定やストーリーを考案するポジションにいる人は、理系の人物像や言動をリアルに思い描くことができるのだろうか。

 理系と文系を分けて考えることがそもそもおかしいかもしれないが、本川達雄氏は「理系と文系では話す言葉が違う」と指摘する。
---
 ひとつは「イメージでつながっていく言葉」。もうひとつは「論理でつながっていく言葉」。普通の会話は、両方のつながり方が入り交じっています。でも文系、特に詩の言葉はイメージ中心ですね。それに対して、論理オンリーの言葉が数学や物理など理系の言葉です。数式を使い、まったく曖昧性なく、論理できっちりとつながっている言葉、これが数学です。
(略)
 論理の言葉を理系の言葉、イメージの言葉を文系の言葉と、ざっくりと置き換えると、なぜ理系と文系とがわかり合えないか、という問題の謎も解けます。つまりお互いが、自分の得意な言葉しか使っていない。話が通じないのは当然です。

 理系の人も文系の人も、ひとつの事象を、論理の言葉とイメージの言葉、その両方で意識的に語れるようになれば、互いの話がとっても伝わりやすくなるはずです。

 ところが実際はそうなっていない。理系は論理でばかり語ろうとするし、文系、特に文学系はイメージでばかり話をしようとする。これでは、理系と文系の思考が交わるのは困難ですね。それぞれの分野に閉じこもってしまう。
---

 理系と文系との断絶がもたらす問題の例として、池上彰氏は東日本大震災後に起こった「理系のひとが当然のように使っている用語が、文系のひとにはちんぷんかんぷん」「官邸に呼ばれた理系の専門家が、政治家たちに問題点を理解させることができず、まったく機能しなかった」ことを挙げる。
 そして文理融合が個々人に求められると感じた池上氏は、東京工業大学のリベラルアーツの教授に就任する。

 インド映画を観て驚くのは、「言葉が違う」とまで云われる理系と文系の垣根を易々と越えていることだ。
 『きっと、うまくいく』に登場する理系の学生たちは、変人でもなければ超能力者でもない。恋もすれば将来のことに悩みもする。同時に機械いじりが好きで、妙なマシンを発明したり、パソコンを駆使して入院中の友人を励ましたりする。恋の相手は医学生で、その設定もちゃんと活かされる。
 ここでは理系臭さプンプンの学生生活が楽しく描かれているのだ。

 こういう普通の生活は、科学考証の専門家を置いたから描けるものではない。映画の作り手自身が、脚本を書いたり演出したりする文系的な素養と、科学技術についての知見とを併せ持っていなければ、無理なく織り込むのは難しいだろう。
 『きっと、うまくいく』の面白さの肝は、単に珍発明が登場するようなことではなく、豊かなイメージを論理的に繋げていることなのだ。
 イメージの言葉と論理の言葉、その両方を駆使しているから、たかが学生生活に奥行きが生まれる。

 また、劇中で主人公の語る教育論は、"世界の理系の雄"マサチューセッツ工科大学(MIT)のリベラルアーツに通じる点も興味深い。
 MITの先生は、どうやって具体的にリベラルアーツを教えているかを問われて、こう答えている。
 「私たちが学生に教えるべきは、知識そのものではなく、学び続ける姿勢です」。
 これは本作の主人公が学長に語ることと同じである。

 思えば、科学者を主人公にしたインド映画『ロボット』でも、歌と踊りとアクションの中に科学や医学の話題と哲学談義が込められていた。
 ここでも理系と文系の垣根を易々と越えている。
 驚くべきインド映画!


きっと、うまくいく [Blu-ray]きっと、うまくいく』  [か行]
監督・脚本/ラージクマール・ヒラニ  脚本/ヴィドゥ・ヴィノード・チョープラー、Abhijat Joshi
出演/アーミル・カーン カリーナ・カプール R・マーダヴァン シャルマン・ジョーシー オーミー・ヴェイドヤー ボーマン・イラーニー
日本公開/2013年5月18日
ジャンル/[青春] [コメディ] [ドラマ]
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【theme : インド映画
【genre : 映画

tag : ラージクマール・ヒラニ アーミル・カーン カリーナ・カプール R・マーダヴァン シャルマン・ジョーシー オーミー・ヴェイドヤー ボーマン・イラーニー

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