『ウエスト・サイド物語』 マリアの不思議

 【ネタバレ注意】

 『ウエスト・サイド物語』は云わずと知れたミュージカル映画の金字塔だ。
 いや、ミュージカルというジャンルにとどまらず、映画がどれほどの高みに昇れるか、芸術としても娯楽としても至高の存在たり得るかを示す作品だろう。テンポの良いストーリー運び、印象的な音楽、華麗なダンス、スタイリッシュな映像、個性的な役者たち。どれを取ってもこれ以上ないほど素晴らしい。
 もちろん、原作であるブロードウェイミュージカルが優れているのであろうが、俯瞰を多用した鋭いカメラアングルで群舞や街並みをスクリーンに収めた鮮やかさは、映画ならではの魅力だ。

 『ウエスト・サイド物語』のブロードウェイでの初演は1957年。映画は1961年に公開されている。以来、半世紀以上にわたり舞台も映画も世界中で親しまれてきた。
 これほど長いあいだ観客に支持されるのは、作品の完成度の高さもさることながら、そのテーマが普遍的だからだろう。
 イタリア系アメリカ人とプエルトリコ系アメリカ人の抗争を描いた『ウエスト・サイド物語』は、シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』を下敷きにしている。『ロミオとジュリエット』ではキャピュレット家とモンタギュー家の争いが背景にあった。『ロミオとジュリエット』の初演は1595年頃と云われるが、その源流はギリシャ神話の『ピュラモスとティスベ』までたどれるという。『ピュラモスとティスベ』は隣り合う二家族の憎み合いを描いていた。
 対立する二つのグループ。両者が憎み合う中、踏みにじられてしまう若い男女の愛。
 いつの時代もこの悲劇の構造は人々の涙を誘う。

 人間は、世界を「俺たち」と「奴ら」に色分けし、戦争せずにはいられない生き物である。[*]
 このことは1954年のロバーズ・ケイブ実験が端的に示している。
 オクラホマ大学はロバーズ・ケイブ州立公園で11歳の少年たちのサマーキャンプを二つ開催した。二つのグループは互いの存在を知らなかったが、別のグループがいることに気がつくと、相手への敵愾心に燃え上がった。少年たちは過去に面識がないことを条件に選ばれていたから、お互いに何の恨みも因縁もない。なのに二つのグループは激しく対立し、「俺たち」が「奴ら」に打ち勝つためには暴力も辞さなかった。
 この危険な実験は、二つのグループが接触すると必ずや争いが生じることを示している。
 私たちはその争いにいつも悩まされているからこそ、憎み合いの中で命を落とすカップルの物語に心を打たれるのだろう。

 ところが『ウエスト・サイド物語』には、『ロミオとジュリエット』とも『ピュラモスとティスベ』とも異なる特徴がある。
 それはマリアが死なないことだ。
 『ロミオとジュリエット』ではロミオもジュリエットも命を落とす。『ピュラモスとティスベ』ではピュラモスもティスベも命を落とす。
 それなのに『ウエスト・サイド物語』ではトニーが命を落とす一方、マリアは生き残る。
 神話の時代から語り継がれた定番のストーリーだというのに、なぜ『ウエスト・サイド物語』では結末を改変してマリアが生き残ることにしたのだろうか。

 『ウエスト・サイド物語』のポイントは、時代設定を現代にしたことだ。
 16世紀の英国で書かれた『ロミオとジュリエット』の舞台は、14世紀のイタリアの地方都市ヴェローナであった。その都市は実在するし、14世紀に貴族同士で争ったことも事実だが、16世紀の英国の観客にしてみれば「昔々あるところに……」と云われるのと同じだろう。物語の構造には共感しても、我がこととしては受け止めにくかったに違いない。
 だが、プエルトリコからニューヨークへの移住がブームになった1950年代の米国において、『ウエスト・サイド物語』の設定は他人事ではない。それだけにプエルトリコ系アメリカ人が歌う「アメリカ」の歌詞は社会性を帯びざるを得ない。

 また、当時は東西冷戦の緊張が世界を覆っていたことも忘れてはならないだろう。
 『ウエスト・サイド物語』のブロードウェイでの上演と映画化とのあいだの1958年には、やはり二つのグループの対立を描いた『大いなる西部』が公開されている。『大いなる西部』が冷戦下の寓話を意図して作られたことから判るように、この時代を東西両陣営の対立と切り離して語ることはできない。

 現実社会を色濃く反映しているからこそ、『ウエスト・サイド物語』の二つのグループの対立は解消しない。
 劇中、イタリア系の若者たちとプエルトリコ系の若者たちはトニーの死に大きなショックを受ける。映画では、これをきっかけに和解するかもしれないことが示唆される。
 しかし現実社会の対立が容易には解消せず、冷戦の終結も映画公開から30年後になったように、『ウエスト・サイド物語』も両グループの和解までは描かずに幕を閉じる。

 まさにそれが、マリアが死なない理由だろう。
 『ロミオとジュリエット』では、対立していたキャピュレット家とモンタギュー家双方から犠牲が出ることで、両家は憎み合う愚かさに気づき和解する。『ピュラモスとティスベ』でも、子供を一人ずつ失った両家の親は深く反省する。
 対立するグループのどちらも同じく犠牲を出せば、公平に罰を受けたことになる。だから残された者たちはみな一様に後悔し、和解に向けて歩み出す。
 主人公の恋人たちが死をもって退場している以上、残された登場人物だけで物語にけりを付けるには、和解で締めくくるしかない。
 逆にいえば、現実社会同様に対立が解消しないまま終わらせるなら、両グループから公平に犠牲者が出る結末を改変することだ。

 一人トニーは犠牲になる。
 しかしマリアが死ななければ、両グループの犠牲は公平ではない。
 かといって、マリアの所属するプエルトリコ系グループが勝利するわけでもない。
 生き残ったマリアは、どちらのグループも非難する。みんなの憎しみがトニーを殺したのだと責め立てる。

 そこからどうやって物語にけりを付けるのか?
 誰がけりを付けるのか?

 『ウエスト・サイド物語』で、物語の結末を委ねられたのは観客だ。
 トニーの死を目撃し、マリアに責められた両グループの若者たちは、一人また一人とその場を後にする。ただ黙って現場を去っていく。
 それは、劇場を後にする観客の姿そのものである。マリアの非難の言葉を噛み締めながら一人また一人とその場を去るのは、私たち観客なのだ。

 私たちは容易には解消しない現実世界の対立の中で生きているから、せめてお話の世界では和解に接して安らぎたいと思う。
 だが、それを許さないのが『ウエスト・サイド物語』だ。
 私たち自身が現実の対立を解消しない限り、マリアの非難はいつまでも心に響き続けるのだ。

 東西冷戦は20世紀で終結した。
 しかし、私たちは新しい「俺たち」と「奴ら」の対立に直面している。
 両者の憎しみを抑えるには、不断の努力が必要だ。少しでも気を緩めれば、そこには悲劇が待っている。
 その悲劇を描いた『ウエスト・サイド物語』は、今こそ観るべき映画である。


[*] 橘玲 (2012) 『(日本人)』 幻冬舎


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監督/ロバート・ワイズ、ジェローム・ロビンス  原作/ジェローム・ロビンス、アーサー・ローレンツ
作曲/レナード・バーンスタイン  制作/ロバート・ワイズ、ソウル・チャップリン
出演/ナタリー・ウッド リチャード・ベイマー ジョージ・チャキリス リタ・モレノ ラス・タンブリン タッカー・スミス デヴィッド・ウィンターズ トニー・モルデンテ サイモン・オークランド ジョン・アスティン ネッド・グラス
日本公開/1961年12月23日
ジャンル/[ミュージカル] [青春] [ロマンス]
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【theme : ミュージカル
【genre : 映画

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『くちづけ』 エンドクレジットが短すぎる!

 エンドクレジットが短すぎる!
 どんなに泣いても今どきの延々と続くクレジットなら場内が明るくなる頃には泣き止むのに、本作はまだ泣いてるうちに映画が終わってしまう。どうりで前回の観客が泣きながら出てきたわけだ。
 丸の内TOEIは上映が終了してもしばらく明かりを点けずにいてくれたけど、それでも『くちづけ』には短すぎた。トイレに行くと誰も彼もが頬を拭っている。

 帰宅してからインターネットで『くちづけ』の予告編を見たら、また涙がこぼれてきた。よせばいいのに『くちづけ』の主題歌「グッド・バイ・マイ・ラブ」を聴くと、もう涙が止まらない。
 映画の基になった東京セレソンデラックスの舞台は観てないけれど、なるほど「舞台史上一番泣ける」と話題になるのももっともだ。
 かつて『歌姫』に号泣した私は、同じ宅間孝行作だから『くちづけ』にも泣いてしまうだろうと覚悟していたが、それでもこんなに涙が溢れるとは思わなかった。
 
 舞台『くちづけ』が韓国で上演されたのもよく判る。
 日本人はシャイなのか、あざとく泣かそうとはしない。日本にもこれでもかと泣かせようとする作品はあるものの、韓国映画のあの手この手の泣かせ方にはなかなか叶わない。
 でも『くちづけ』ならば、そんな韓国においても一歩も引けを取らないだろう。

 だからこそ、堤幸彦監督がオファーされたに違いない。
 堤幸彦監督はヒットメーカーとして知られるけれど、私が一番感心するのは徹底して素材を活かしていることだ。マンガが原作ならマンガらしく、実話の映画化ならあくまでリアルに、元ネタに合わせて変幻自在にタッチを変える。だから、どんな素材でも取り組むことができるのだろう。
 公式サイトによれば、映画『くちづけ』ではできるだけ舞台に近く撮ろうとしたという。もちろん土砂降りの雨が降ったり、カメラが動き回ったりと、映画ならではのことも盛り込んでるが、けっして作品世界を壊してはいない。
 堤監督は2010年の東京セレソンデラックスの公演を観ていたそうだし、舞台版の作・演出を務めた宅間孝行氏も「監督が作品を本当に愛してくれていたので根本的な方向性は同じでした」と語っている。

 登場人物が劇中で口ずさむ主題歌も、舞台版と同じ「グッド・バイ・マイ・ラブ」だ。
 なかにし礼作詞、平尾昌晃作曲のこの歌は、1974年にアン・ルイスさんが歌ってヒットした。以来、どれだけの歌手がカバーしたことだろう。
 本作では舞台版ののあのわに代わり熊谷育美さんがカバーしている。

  忘れないわ あなたの声
  優しい仕草 手のぬくもり
  忘れないわ くちづけの時
  そうよあなたの あなたの名前

  もちろんあなたの あなたの名前

 本作の題を含んだこの歌詞は、劇場を後にする観客の耳にいつまでも響き続けることだろう。
 この哀しい物語が現実の新聞記事に基いて創られたということに、胸が締めつけられる。


くちづけ [Blu-ray]くちづけ』  [か行]
監督/堤幸彦  原作・脚本/宅間孝行
出演/貫地谷しほり 竹中直人 宅間孝行 田畑智子 橋本愛 麻生祐未 平田満 嶋田久作 岡本麗 伊藤高史 谷川功 屋良学 尾畑美依奈 宮根誠司 万田祐介
日本公開/2013年5月25日
ジャンル/[ロマンス] [ドラマ]
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『中学生円山』は中二病か?

 学生時代、先輩が野良犬を眺めながらつぶやいた。
 「犬はいいなぁ。自分で舐められて。」
 その言葉をきっかけに、私たちは犬がうらやましいという話題でひとしきり盛り上がった。
 二十歳前後の青年でも頭の中はこのあり様だから、中学生が自分で舐めるべく柔軟体操に励むのももっともだ。
 『中学生円山』では、タイトルロールの中学二年生円山君が来る日も来る日も自分で舐めようと懸命に努力する。その一途な姿に、男性客なら共感を覚えるに違いない。

 トレーニングしていないときの円山が妄想に耽ってばかりいるのも、大いに共感できる点だ。
 中学生の生活といえば家庭と学校とテレビやマンガがほとんどを占める。ここに塾も加わるかもしれないし、マンガだけでなくゲームや音楽や小説やネットが加わる(あるいは置き換わる)かもしれないが、大人に比べれば行動範囲は限られるだろう。
 そのため経験や知見は不足しがちで、そこを何かで埋めざるを得ない。それが空想――というより妄想だ。顕著な妄想の一つである陰謀論など、若い人ほど影響を受けやすいようだ。

 宮藤官九郎監督もご多分にもれず妄想していたという。
 「僕は円山みたいな中学生でした。『好きな女の子が自宅の隣に引っ越してこないかなあ』『うちの家族は実は宇宙人。僕が留守のときは宇宙語で話しているんじゃないか』とか、よく妄想していましたよね」

 本作の面白さは、自分で舐めようと努力する他にはこれといったドラマのない中学生の実生活と、頭の中を占有する妄想とをバランス良く配置している点にある。
 こんなに妄想シーンが多い映画は珍しいかもしれないが、中学生が主人公だからこれくらいでちょうどいい。妄想を妄想として映像化した本作こそ、男子中学生の生態に肉薄しているのではないか。

 しかも円山少年の妄想は実に楽しい
 彼の妄想の中では、団地の上階に住むシングルファーザーは殺し屋「子連れ狼」となる。別の棟の徘徊老人は二丁拳銃の殺し屋「認知症のデスペラード」、電気工の韓国人は殺し屋「処刑人プルコギ」、フルーツ好きの父親はスーパーヒーロー「9時5時戦士 キャプテンフルーツ」となる。
 これら癖のあるキャラクターが入り乱れるだけでも楽しいのに、子連れ狼を演じるのが草なぎ剛さんで、認知症のデスペラードが遠藤賢司さん、処刑人プルコギはなんと『息もできない』で世界中を震撼させたヤン・イクチュンさん、そしてキャプテンフルーツを演じるのが肉体派の仲村トオルさんなのだから、なんとも贅沢極まりない。ヤン・イクチュンさんの処刑人や仲村トオルさんのスーパーヒーローだけでも、観る価値があろうというものだ。

 あくまで妄想だから滑稽に演出されているけれど、萬屋錦之介主演のテレビドラマ『子連れ狼』やアントニオ・バンデラス主演の映画『デスペラード』等に喜んできた観客は、この妄想をくだらないと切り捨てられない。
 妄想シーンは中学生らしく矮小化されており、バカバカしいと同時に微笑ましくもあるのだ。


 ところがこの妄想には風変りな特徴がある。
 上階のシングルファーザー、別棟の徘徊老人、出入りの電気工、自分の父親。これでは大事な人物が欠けている。
 円山の妄想には、円山自身が登場しないのだ。

 中学二年生くらいの少年を形容する言葉に「中二病」がある。厳密な定義はないものの、ニコニコ大百科には中二病の特徴として「自分を良く見せようとする自己顕示欲、あるいは自己陶酔」が挙げられている。たしかにこの年頃になると、背伸びをしたくなるものだ。
 「自分を良く見せようとする自己顕示欲、あるいは自己陶酔」が強いのなら、円山自身がスーパーヒーローになるとか、恐るべき殺しのテクニックを持っているとか、そんな妄想を抱いても良いはずだ。
 なのに円山はそんなことを考えない。一応、妄想の中で「中学生円山」というサイドキック(ヒーローの相棒)に変身するが、これは草なぎ剛さん演じるシングルファーザーが名付けたもの。円山自身の発案ではない。
 つまり彼は背伸びとか自己陶酔を特徴とする中二病患者ではないのだ。

 それどころか、不器用すぎるシングルファーザーや、徘徊しても誰にも心配されない老人や、韓国から逃げるようにやってきた電気工に、心の中で居場所を作ってあげている。少年にとっては殺し屋も日常から逸脱したヒーローだ。
 本作は少年の妄想の形を取りながら、他人の存在を気にかけてあげる物語なのである。映画の後味が爽やかなのも、その妄想に悪意がないからだろう。

 宮藤監督はこうも語る。
 「中学時代の思い出を呼び起こす映画を作ったので、あらゆる人に見てもらいたい。(略)『こんなことがあったな』とか思い出してもらえればうれしい。大人になってから『中学時代の俺はこんなにばかだったんだ』と思えると、他人に優しくなれると思うんですよね」


 興味深いのは、現実が少年の妄想を凌駕していることだ。
 徘徊老人は偉大なロックスターだった。電気工は人気の韓流スターだった。シングルファーザーにも少年の知らない過去があった。

 経験や知見の不足も、やがては現実で埋められる。
 いくつもの経験を経て、少年はスーパーヒーローの自分を妄想するようになった。
 立派な中二病に突入したのだ。
 人はこうして大人になっていくのだろうか。


中学生円山 ブルーレイデラックス・エディション [Blu-ray]中学生円山』  [た行]
監督・脚本/宮藤官九郎
出演/草なぎ剛 平岡拓真 仲村トオル 坂井真紀 遠藤賢司 ヤン・イクチュン 鍋本凪々美 刈谷友衣子 三宅弘城 YOU 皆川猿時 岩松了 田口トモロヲ 野波麻帆 宍戸美和公 少路勇介
日本公開/2013年5月18日
ジャンル/[コメディ] [青春] [ドラマ]
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【theme : 日本映画
【genre : 映画

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『愛さえあれば』なくてもいいものは?

 『愛さえあれば』とは巧い邦題だ。
 デンマークでの原題は『Den skaldede frisør(ハゲの美容師)』であり、インターナショナル用の題は『Love Is All You Need』もしくは『All You Need Is Love』、それを日本語に訳したのが『愛さえあれば』だ。
 邦題もインターナショナル用の題も、原題の意味を的確に汲み取って秀逸だと思う。

 ビートルズの楽曲『All You Need Is Love』が「愛こそがすべて」と訳されてるのも、「愛さえあれば」と同じこと。すなわち、愛さえあれば他のものはいらないという意味だ。
 では具体的に何がいらないのだろうか?
 そこに鋭くメスを入れるのが、前作『未来を生きる君たちへ』でも社会の過酷さから目をそらさなかったスサンネ・ビア監督だ。

 本作の主人公イーダは、癌の治療の副作用で頭髪がない。
 他人の髪を扱う美容師なのに自分はウイッグ(かつら)を被っていることを、イーダはことあるごとに説明しなければならない。イーダにとってウイッグは公私ともに自分を偽る道具である。
 本来、ウイッグを被っていることと美容師の仕事に関係はないはずだ。ウイッグをつけたからって、美容師としての腕が落ちるわけではない。そのことを自他ともに受け入れられればこんなに云い訳しなくて済むのだろうが、残念ながらイーダはまだそういう境地になれない。
 デンマーク映画『愛さえあれば』は、そんなイーダがウイッグをつけなくても生きられるようになるまでを描いている。

 物語はイーダの娘の結婚を巡って展開する。
 イタリアで式を挙げる娘の許へ向かおうとクルマで急いでいたイーダは、運転を誤ってある男性のクルマにぶつけてしまう。それは奇遇にも娘の結婚相手の父親だった。まるで昔の少女マンガの「パンをくわえて家を飛び出したら角で同じクラスの男の子とぶつかった」ようなシチュエーションだ。
 しかも、その父親役は元ジェームズ・ボンドのピアース・ブロスナンだから素敵なことこの上ない。腹が出て、下品で、浮気者の夫より、ピアース・ブロスナン演じる男やもめのフィリップの方がはるかに魅力的だ。
 ベタな出だしではじまる本作は、大人のラブコメとして最後まで品よくまとまっている。

 だが、それはあくまで物語の表面上に過ぎない。
 娘の結婚式に集まる面々は、それぞれが象徴的な役割を帯びている。長年連れ添った夫との生活が危機に瀕しているイーダ。イーダの気持ちも考えず、浮気相手といちゃつく夫。妻を亡くしてから仕事に没頭してきたフィリップ。結婚を目前にして逡巡しているイーダの娘とフィリップの息子。
 ここで若いカップルが投げかけるのは「結婚すれば幸せなのか」という問題であり、イーダと夫が投げかけるのは「幸せとは何か」という問題だ。

 この問題を突き詰めるため、スサンネ・ビア監督はイーダが夫以外の男性に惹かれる心情を丁寧に描いている。
 さらに若いカップルやその他の男女を駒にして、結婚制度の矛盾と限界をさらけ出す。結婚という枠組があたかもウイッグのようなものであり、生きていく上での必需品ではないことを暴くのだ。

 その背景には、結婚が子供を産むためでの前提ではなくなっている現実がある。
 人間も生物の一つだから、心身のメカニズムは子孫をより確実に残すようにできている。子供や異性への愛情は哺乳類や鳥類に多く見られる機能であり、愛し合い協力し合うことで私たちは繁殖している。
 そして愛情以外のもの、すなわち結婚制度のような人為的なものも、子孫を残すことに役立つ限りは存在意義があるけれど、役立たなくなれば存続させても仕方がない。

 デンマークの婚外子の割合は2008年時点で46.2%に上る。半分近い子供が結婚とは関係なく産まれているのだ。
 欧米ではここ20~30年のあいだに婚外子の割合が増加し、フランスでは52.6%、スウェーデンに至っては54.7%もの子供が婚外子になっている。
 これは社会制度が整って、結婚しないと不利益を被る状況が解消されてきたからだろう。もはや結婚制度は「社会的な役割を終えつつある」とも云われる。

 もちろん、結婚してから子供を産む人もまだまだいる。
 幸せな結婚生活を送る人もたくさんいるから、結婚を望む人は大いに結婚するといい。
 だが、スサンネ・ビア監督が本作で訴えるのは、制度としての結婚にしがみついたり、結婚が何かの解決になると期待することの愚かさだ。劇中の「もう嘘は吐きたくない!」というセリフやウイッグが象徴するのは、結婚制度そのものである。
 スサンネ・ビア監督は幸福が古い制度の中にはないことを示して、社会にさらなる変革を促すのだ。


 アンチテーゼとして語られるのが、カイガラムシの一生だ。
 柑橘類の栽培から事業を起こしたフィリップは、木を枯らす害虫であるカイガラムシの話をする。カイガラムシの雄には口がなく、交尾するとすぐに死んでしまうのが特徴だ。
 私たち哺乳類が子孫を残すために少数の子供を愛情深く育てるのに対し、昆虫は大量の卵を産むことで子供が生き残る可能性を高めている。だから雄と雌が協力して子育てすることはなく、雄の寿命はせいぜい交尾を済ませるまでもてばいい。
 だがフィリップは、カイガラムシの一生には意味がないと云う。
 生き残るために愛情を必要とする私たちからすれば、愛のないカイガラムシの一生に意味を見出すのは難しいのだ。

 だからこそ、『愛さえあれば』という題になる。
 私たち人間には愛こそがすべてだ。愛さえあれば結婚なんて制度は必要ない。

 また、「愛情」は子孫を残す上で大いに役立つが、この感情は強力なので子孫を残すことと切り離しても発動する。
 だから異性ではなく同性を愛する人もいるし、我が子ではない犬や猫を深く愛することもある。
 もう子供を産んで育てられる年齢を過ぎても、人を愛することはできる。

 愛さえあれば、どんな生き方でも暮らし方でも人は幸せを感じられる。
 そして社会は、それを容認するものであるべきだろう。


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監督・原案/スサンネ・ビア  原案・脚本/アナス・トマス・イェンセン
出演/ピアース・ブロスナン トリーヌ・ディルホム キム・ボドゥニア セバスチャン・イェセン モリー・ブリキスト・エゲリンド パプリカ・スティーン クリスティアーヌ・シャウンブルク=ミュラー
日本公開/2013年5月17日
ジャンル/[ロマンス] [コメディ]
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【theme : ヨーロッパ映画
【genre : 映画

tag : スサンネ・ビア ピアース・ブロスナン トリーヌ・ディルホム キム・ボドゥニア セバスチャン・イェセン モリー・ブリキスト・エゲリンド パプリカ・スティーン クリスティアーヌ・シャウンブルク=ミュラー

『セデック・バレ』 これが抗日事件の着地点か!?

 日本一高い山はどこだろう?
 今では誰もが富士山と答えるだろうが、68年前までは新高山(にいたかやま)――現在の玉山(ユイシャン)だった。台湾中央部のこの山は、標高3,952mで富士山の3,776mを凌いでいる。
 日本を云い表すのに、しばしば「四方を海に囲まれた島国」という表現があるけれど、第二次世界大戦が終わるまでは島もあれば大陸の一部もある、複雑な地理の国だった。

 したがって、戦前、戦中、そして戦後しばらくの日本映画を、現在の日本国を念頭に観ると作品の意図を見誤る。
 そう指摘したのが、與那覇潤著『帝国の残影 兵士・小津安二郎の昭和史』だ。この本では、中国戦線への従軍経験を持つ小津安二郎監督が、現在の日本に相当する内地とその他の外地に離ればなれになった家族(あるいは久しぶりに再会した家族)を通して描こうとしたものを解題している。

 ウェイ・ダーション監督もまた、日本との関係の中で捉えた台湾を撮り続けている人だ。
 初監督作『海角七号(かいかくななごう)/君想う、国境の南』(2008年)は、日本人と台湾人の恋を歴史を絡めて描き出し、台湾歴代映画興行成績の第2位を記録するヒットを飛ばした。この映画は甘いラブストーリーで、日本人がこそばゆくなるほど親日感たっぷりだった。

 ところが同監督の新作『セデック・バレ』では、台湾の原住民族のひとつセデック族が1930年に起こした抗日暴動事件を取り上げたという。
 前作とはあまりにもギャップが大きい題材に驚いたが、それ以上に注目したのは、いち早く台湾で鑑賞した福島香織氏の「抗日事件を題材にしながらも反日映画ではなかったと思う。誤解を恐れずに言えば、むしろ親日映画かもしれない。さらに言えば、ひょっとすると反中華映画かもしれない。」という記事だ。
 抗日事件を題材にしながら親日映画とはどういうことか。

 本作が大ヒットした台湾の世相や、本作に対する中国(大陸)メディアの反応については、福島香織氏の記事『日本人を文明人として描きすぎた? 台湾発「セデックバレ」は反日映画か』に詳しい。
 映画を完成させるのは作り手の情熱の大きさだろうが、それがヒットして、あまつさえ多くの映画賞を受賞するのは、社会に受け入れる下地があればこそだ。その政治的な解釈については同記事を参照されたい。


 台湾での公開から1年半、待ちわびていた『セデック・バレ』がようやく日本でも封切られた。
 抗日事件を題材にしながら反日映画でないことは、たしかに冒頭から感じられる。
 映画は清国と日本が下関条約を締結するところからはじまる。台湾が日本に割譲されたこの出来事を描くに当たり、判りやすくストレートな演出が持ち味のウェイ・ダーション監督は、日清戦争の敗者・清をひどく惨めに、勝者・日本を壮麗に描写する。
 その後の日本軍が台湾を制圧するシークエンスでも、日本軍の犠牲となるセデック族らを描くと同時に、伝わってくるのは日本の圧倒的な軍事力と段違いの文明の力だ。残虐な描写もあるものの、日本を卑しめようとする意図は見られない。

 4時間36分に及ぶ映画は二部構成となっており、第一部は日本の圧制に耐えかねたセデック族が蜂起するまで、第二部は日本の警察及び軍隊と激突したセデック族の運命を描いている。
 とうぜん映画が強調するのはセデック族の気高さ、勇猛さなのだが、セデック族が強ければ強いほど、勇敢であればあるほど、そのセデック族ですら倒せない日本の凄さも強調される。
 抗日事件を題材にしながらこんな描き方があるのかと、私はとても驚いた。

 この映画を実現するために10年以上を費やしたウェイ・ダーション監督は、事件の描き方にずいぶん悩んだそうだ。パンフレット掲載のインタビューで、その苦労を吐露している。
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これは絶対映画にしなくてはと脚本に取りかかりましたが、そこで台湾と日本の歴史の中で誰が善人で誰が悪人なのか、分からなくなってしまいました。(略)自分の立場はどこなのか、どう描いていいか悩んでしまった。そして、広い視野でこの霧社事件を捉えようと決めました。それは文化と信仰の衝突という描き方です。太陽と虹をそれぞれ信仰する者たちが山の中でぶつかったという描き方ならできると思いました。
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 映画の第一部と第二部には、それぞれ『太陽旗』と『虹の橋』という副題が付いている。
 太陽旗とはすなわち日章旗や旭日旗のことであり、太陽神アマテラスを信仰した日本人を表す。
 他方、虹の橋はセデック族の信仰を表す。彼らは虹の橋の向こうに祖先が待っていると信じており、死後は勇者として虹の橋を渡ることを夢見ている。

 ダーション監督は両者の衝突を描くべく、セデック側、日本側ともに多数の人物を配置し、きめ細かいエピソードを織り込みながら重層的にドラマを展開した。
 劇中には、原住民族を蔑視する日本人や卑しい日本人が登場する一方で、友好に努めようとする日本人もいる。原住民族も一枚岩ではないし、その殺戮は日本人に劣らず残虐だ。
 4時間36分という長尺は、映画が一面的にならないためにどうしても必要な時間だったのだろう。

 この歴史ドラマのため、セデック族のキャストに実際の原住民族を起用し、日本側にも多数の日本人俳優を配しているのも特徴だ。本当にそれぞれの文化を背負った人が演じているから、その言動に嘘がない。少なくとも、こんな日本人いるもんかと思うことはない。

 日本人のキャラクターで特に印象的なのが、安藤政信さん演じる小島源治巡査だ。
 『海角七号/君想う、国境の南』の「小島」なる人物があまりにも抒情的に表現されていたので、日台関係史の重要な位置に「小島」という人が実在したのだろうかと気になっていたが、本作でその疑問が氷解した。
 多くの日本人が原住民族を蔑視する中、小島源治巡査は担当域の原住民族と良好な関係を築き、抗日暴動事件では原住民族を味方に付けた。
 『海角七号/君想う、国境の南』の制作前から本作の完成に向けて努力していたウェイ・ダーション監督にとって、日台交流を象徴する人物に「小島」と名付けるのはごく自然なことだったに違いない。


 面白いのは、日本側の登場人物だけでなく、セデック族の登場人物にも私たち日本人が大いに感情移入できることだろう。
 もちろん、どこの国の映画を観たって、主人公には感情移入できるものだ。
 だが本作では、異なる文化と信仰の衝突が題材と云いながら、セデック族の文化や信仰が日本のそれとよく似ているのだ。
 一見すると、日本とセデックの習俗は違って見えるのだが、セデック族の祖先崇拝や、掟を重視する「動機オーライ主義」や、すぐに集団自決すること、入れ墨や首狩りの風習等が、まるで日本人のようなのだ。

 祖先崇拝については説明するまでもないだろう。
 日本人は、寺にお参りに行ったりして仏教徒の真似をしているが、家では仏像よりも肉親や祖父母の位牌を目立つように置き、うら盆だの彼岸だの仏教用語を口にしながら祖先の霊を祀っている。最高神アマテラスだって、皇室の祖先という位置付けだ。
 セデック族の「祖先に恥じないように」というセリフは、日本人が「死んだお祖母ちゃんが見ているぞ」と云うのと何ら変わることがない。

 そして、勝ち目がなくても立ち上がるセデック族の戦いは、まさに「動機オーライ主義」だろう。
 動機がピュアであるならば結果の成否を問わない「動機オーライ主義」は、日本人を第二次世界大戦へと突っ走らせ、悲惨な結果をもたらした。その源流を陽明学に求める説があるけれど、陽明学を知るよしもないセデック族が古くからの掟を重視して無謀な戦いに飛び込んでいく姿を見ると、東アジアに広がる「動機オーライ主義」の根深さを感じずにはいられない。

 いかにセデック族が勇猛で機略に富んでいても、300人の戦士では日本軍に敵わないことは火を見るよりも明らかだ。
 本作で凄惨なのは、勝ち目のないセデック族が次々と集団自決するところだろう。
 集団自決は、バンザイクリフや沖縄や樺太で日本人も経験してきた。セデック族が自決する心情は、日本人にもよく判るのではないか。

 また、戦いで敵を倒したセデック族が勇者として入れ墨をするシーンにも、日本人は親近感を抱くだろう。
 縄文時代の土偶の全身が文様で覆われていることや、『魏志倭人伝』に倭人は入れ墨していると書かれていることからも判るように、古来から入れ墨は日本人に馴染み深いものである。
 今でこそ入れ墨は暴力団員の特徴のようにみなされているが、桜吹雪を彫った遠山の金さんはいまだ庶民のヒーローだ。
 セデック族が敵の首を狩るシーンも、時代劇で首実検やさらし首を見慣れている日本人にとっては野蛮でも何でもない。


 かように日本人によく似た文化・習俗を持つセデック族と対峙して、河原さぶさんが演じる鎌田陸軍少将は、日本人が100年前に忘れた武士道をセデック族の中に見出す。
 現実に鎌田少将が武士道のことを口にしたかどうかは判らないが、これはウェイ・ダーション監督からセデック族への、そして日本人への賛辞であろう。

 『Bushido: The Soul of Japan(武士道)』は、米国在住の新渡戸稲造が日本にも西洋の騎士道に対比できるものがあると欧米人に説明するために、1900年に英語で刊行した本だ。新渡戸稲造は農学者のキリスト教徒であり、武士でも何でもなかったが、新興国日本への関心が高まっていた当時、この本は各国でベストセラーになった。ここから「武士道」は世界の知るところになる。[*]

 武士道の実態はいざ知らず、日本人の精神性を表すものとして知られる武士道のことを本作で語らせたのは、セデック族が繰り返し口にする「セデック・バレ(真の人)」を観客に判りやすく伝えるためだろう。新渡戸稲造が騎士道になぞらえて武士道を説明したように、ウェイ・ダーション監督は武士道になぞらえてセデック・バレを説明したのだ。
 日本人がセデック族を武士道に例えて称賛するのは、両者が同じ精神性を有することの表明に他ならない。それは称えられたセデック族のみならず、称えた日本人をも尊重することになるだろう。

 これが抗日暴動事件を描いた映画の着地点かと、私は驚くとともに感銘を受けた。
 なるほどこれは親日映画と云っても過言ではない。
 この映画を完成させたウェイ・ダーション監督以下スタッフ・キャストの努力に応えるためにも、本作の日本でのヒットを切に願う。


 なお、早くもウェイ・ダーション監督は次回作の制作を進めているという。
 新作『KANO』は、1931年の夏の甲子園を舞台に、日本人、漢族、原住民族からなる台湾の農林学校野球部の大活躍を描くという。
 今から完成が楽しみだ。


[*] 「武士」像や「日本人論」の成立と普及については、次の文献を参照されたい。
   橘玲 (2012) 『(日本人)』 幻冬舎


セデック・バレ 第一部:太陽旗/第二部:虹の橋【豪華版 3枚組】[Blu-ray]セデック・バレ』  [さ行]
監督・脚本/ウェイ・ダーション
出演/リン・チンタイ ダー・チン 安藤政信 ビビアン・スー シュー・イーファン 田中千絵 木村祐一 河原さぶ 春田純一 マー・ジーシアン ルオ・メイリン ランディ・ウェン ティエン・ジュン リン・ユアンジエ スー・ダー
日本公開/2013年4月20日
ジャンル/[ドラマ] [アクション] [歴史劇]
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