『藁の楯 わらのたて』 この挑戦を受けて立て!

 シンプルなのに捻りがある。
 作り手はこの設定にした段階で、『藁の楯 わらのたて』は面白いと確信したことだろう。
 もちろん、その第一の功績は原作小説にあるのだろうが、主演の大沢たかおさんが数年前に原作を読んで「すごく面白いけど、日本で映画化するのは無理」と思い[*]、三池崇史監督が「ある意味で日本映画への挑戦として書かれた原作だ」と語る小説を、撮影用に外国の鉄道を運行させたり、高速道路を封鎖してまで映画化したのは、スタッフ・キャストの力によるものだろう。

 護送物というジャンルはないかもしれないが、護送を描いた作品は幾つもある。
 『ガントレット』(1977年)は裁判所へ検察側の証人を護送する話だ。被告側の一味が、裁判で証言させまいと刑事と証人を襲撃する。はたして証人が裁判所へたどり着けるかどうかが眼目の作品だ。

 『決断の3時10分』(1957年)とそのリメイク『3時10分、決断のとき』(2007年)は、強盗団の首領を刑務所に入れるため、駅まで護送する話である。首領を奪還しに来る強盗団の襲撃をかわしつつ、いかに駅にたどり着くかが眼目だ。『3時10分、決断のとき』では、強盗団のみならず金に釣られた一般人も襲撃に加わるので、主人公は町全体を敵に回す破目になる。

 『藁の楯 わらのたて』の面白さは、これら先行する作品とはいささか異なる設定による。
 護送されるのは、誰もが「人間のクズ」と吐き捨てる犯罪者・清丸国秀。その目的は、清丸が出頭した福岡県警から東京の警視庁へ移送することだ。
 犯罪者を護送するのは『3時10分、決断のとき』と同じだが、本作で主人公たちを襲う連中は清丸を助けたいのではない。清丸に復讐したい大金持ちが用意した10億円の賞金に釣られて、一般人が清丸の命を狙って殺到するのだ。この点で、『3時10分、決断のとき』とは真逆のシチュエーションになっている。

 対象の命が狙われるのは『ガントレット』と同じだが、『ガントレット』の対象者は悪人ではないから、「人間のクズ」が狙われる本作とは真逆である。
 つまり『藁の楯 わらのたて』では、『ガントレット』のように善人を守るのでもなければ、『3時10分、決断のとき』のように悪人の脱出を阻止するのでもなく、悪人を守るために命を張るのだ。

 この捻りが物語を格段に面白くしている。
 「清丸に、守る価値はあるのか!?」
 劇中、誰もがこのセリフを口にする。賞金をかけた大金持ちも、清丸の犠牲になった少女の親も、清丸を護送する刑事までもが口にする。
 たとえ命がけの職務でも、善人を守るならやりがいを感じるかもしれない。悪人が二度と罪を犯さないように処罰することに命をかけるのも、やる価値はあるかもしれない。
 けれども「人間のクズ」の清丸を守るために体を張り、場合によっては命を落とす。そんなことを、本当にやり通すべきなのか。

 しかも清丸を狙う人間は、必ずしも金の亡者ばかりではない。彼らの中には清丸が死ぬべきだと考えている者もいれば、恨みを晴らしたい者もいる。清丸なんかを護送する警察官の方が間違っている、そう考える者もいる。
 襲撃側の事情や思いが判るにつれ、観客も清丸を守ることに疑問を感じてしまうだろう。
 この状況で、主人公たち警察官は清丸を守りきれるのか。守るべきなのか。清丸を守るために犠牲を出すことが正しいのか。

 本作はシンプルなストーリーにアクションやサスペンスが満載だ。
 だが、一番の見どころは、「極悪人でも命がけで守るべきか」という葛藤だ。
 その葛藤を、観客は息を詰めて凝視する。映画の上映時間125分はひたすら熱い。


 本作の肝となるのは、ひとえに清丸国秀の造形だ。いかにクズらしく、いかに憎々しく、いかに鬼畜として描くか。そこを徹底してこそ本作は成立する。
 『ガントレット』なら護送の対象である証人と情を交わしてもいいし、『3時10分、決断のとき』なら強盗団の首領と友情に似た感情が芽生えてもいい。しかし本作の葛藤は、対象が護送任務の警察官ですら殺したくなるほど最低の人間でなければ成立しない。

 この点で、藤原竜也さん演じる清丸国秀は見事な成功と云えるだろう。本作を鑑賞した観客は、清丸に怒りを覚え、嫌悪感を抱くだろう。主人公に、もう清丸を守るなと思い、いっそお前が清丸を襲えと思うだろう。
 そのとき主人公がどうするか、何を思うか、なぜそう思うのかが焦点だ。主人公にも迷いはある。主人公が一瞬でも職務をためらったら、警護の手が緩んだら、清丸は死ぬ。それが判った上で、全国民を敵に回す中で、何をするか選択しなければならない。

 日本のドラマや映画では、善意から行動すればハッピーエンドが待っている、なんて作品がしばしば見受けられる。
 しかし本作に天の配剤は働かない。
 その決断の機微こそ、映画の作り手が観客に味わわせたいことである。
 あなたならどうするか。
 この映画は観客への挑戦だ。


[*] 読売新聞 2013年4月26日 夕刊「一見不可能な撮影 次々実現」

藁の楯 わらのたて Blu-ray&DVD プレミアム・エディション(Amazon.co.jp限定映像特典ディスク付)(初回限定生産)藁の楯 わらのたて』  [わ行]
監督/三池崇史
出演/大沢たかお 藤原竜也 松嶋菜々子 岸谷五朗 伊武雅刀 永山絢斗 山崎努 余貴美子 本田博太郎
日本公開/2013年4月26日
ジャンル/[アクション] [サスペンス] [ドラマ]
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『アイアンマン3』 シリーズ物がはまる罠

 大成功を収めたシリーズの新作を撮るに当たって、これまでの作品を否定するとは面白い。

 2008年の『アイアンマン』にはじまるマーベル・スタジオズ制作のヒーロー映画は、作品世界がクロスオーバーするために「マーベル・シネマティック・ユニバース」と総称される。そのフェイズ1「Avengers Assembled(アベンジャーズ集結編)」は、2012年公開の大ヒット映画『アベンジャーズ』をもって終了した。
 フェイズ1では、一作ごとに他のヒーローの存在を示唆するシーンを織り込んでスーパーヒーロー大集合への期待を高める作戦が功を奏し、ヒーロー集団アベンジャーズが全貌を現す映画『アベンジャーズ』は全世界で15億ドル以上を稼ぎ出した。

 ところが、『アベンジャーズ』後にはじまったフェイズ2の作品群は、一転してヒーローひとり一人に焦点を絞った映画になるようだ。
 その先駆けである『アイアンマン3』は、なるほどお祭りのように賑やかだった『アベンジャーズ』とは裏腹に、アイアンマンことトニー・スタークの孤独な戦いに終始する。それどころか、スーパーヒーローたるアイアンマンをも否定する。

 私はその戦略の巧さに感心した。
 しばしばシリーズ物がはまる罠は、前作のスケールを超えねばならないとか、敵の数や強さをエスカレーションさせねばならない、という強迫観念に取り付かれてしまうことだ。
 ゴジラシリーズが二作目にして早くもアンギラスとの対戦物になってしまったがために、以降は知名度のある怪獣と対戦したり(対キングコング)、怪獣の数を増やしたり(三大怪獣、怪獣総進撃)し続けたのがその例だ。ティム・バートンとジョエル・シュマッカーのバットマンシリーズが、一作ごとに敵味方の数を増やしたのも同様だ。

 しかし『アイアンマン3』では、世界中で歓迎されたスーパーヒーロー大集合にあっさり背を向け、人間トニー・スタークを掘り下げている。『アイアンマン2』が前面に出していた社長の地位も大金持ちであることも今回は脇に置き、ボディガードのハッピーすらいない中、トニーが頼るのは偶然出会った孤児の少年だけとなる。成功しているシリーズが、これほど大きな路線変更を図るとは驚きだ。

 本作が巧みなのは、スケールアップやエスカレーションの期待をある面では満足させていることだ。
 アイアンマンのアーマーはマーク42に及び、敵対する超人兵士たちはこれまで以上の難敵である。1.4億ドルの制作費が『アベンジャーズ』のヒットを受けて2億ドルに跳ね上がっただけあって、アーマーのパーツが体を覆う変身シーンは(ILMが不参加でも)これまで以上にテッカマンらしいし、トニー・スタークの大切なものがことごとく破壊されるシーンも大迫力だ。

 その一方で、『アイアンマン2』の公聴会ではあれほどトニーとアーマーが一体だと強調していたのに、本作のアーマーには重みがない。単に脱着可能な部品と化し、ときにはトニーのお荷物にすらなっている。アーマーが42体もあっては、もはやどれがアイアンマンというわけでもなく、替えの服がたくさん吊ってあるようなものだ。
 アーマーが破壊されるシチュエーションが続くのも、アイアンマンの姿からヒーロー性をはぎ取るためだろう。
 観客の目の前に残るのは、生身のトニー・スタークだけとなる。本作は、アイアンマンではなく人間トニー・スタークがいかに活躍するかが焦点なのだ。

 『アイアンマン2』以来ヒーローの仲間入りをしたローズ大佐も、ウォーマシンを改良したアイアン・パトリオットのアーマーをあっさりと脱ぐ破目になる。
 トニーの恋人ペッパー・ポッツがアーマーを装着して新ヒーロー「レスキュー」になるけれど、映画ではレスキューと名乗りもしないので、単に誰もがアーマーを装着できるようにしか見えない。
 これらも、アーマーの重みを削ぐための計算だろう。


 実のところ、制作会社は『アイアンマン2』の演出に満足していなかったという。
 制作に回ったジョン・ファヴロー監督に代わり、本作の監督に抜擢されたシェーン・ブラックは、本作を「鋼鉄のスーツを着た男たちが格闘するような映画にはしない」と語っている。すなわち一作目、二作目のようにはしないと云っているのだ。シェーン・ブラックが目指すのは、現実的な敵と戦うトム・クランシーのスリラーだという。

 現実的な敵といっても、『デアデビル』のようにギャングや武道家が相手ではない。
 トム・クランシーの小説は映画化され、『レッド・オクトーバーを追え!』『トータル・フィアーズ』等が公開されているから、その国際的な謀略の世界は映画ファンにもお馴染みだろう。
 もちろんシェーン・ブラック監督は、トム・クランシーが書くような世界と、鋼鉄のアーマーに身を固めたアイアンマンの世界が調和しないことを知っている。

 だからこそシェーン・ブラック監督が描くのはアイアンマンではなくトニー・スタークなのであり、戦う相手は「鋼鉄のスーツを着た男」じゃなく、マンダリン率いるテロ組織テン・リングスだ。テレビ電波を乗っ取って10個の輪のロゴマークを放映するテン・リングスは、一作目『アイアンマン』の冒頭でトニー・スタークを拉致監禁した組織でもある。
 本作では、なんとトニー・スタークがアイアンマンになる前に出会った組織が、ヴィランとして名乗りを上げるのだ。
 その陰謀は、再生医療の悪用と爆破テロ。彼らの技術を用いれば、大怪我がきっかけでアイアンマンになったトニー・スタークを元の体に戻せるし、普通の人間を超人にすることもできる。ヒーロー物らしい荒唐無稽さを残しつつ、鋼鉄のスーツを着た男たちとは一線を画す設定だ。

 このような路線変更は、一作目、二作目が好きな御仁には唐突かもしれない。
 しかし、同じ路線で観客を惹きつけようとしたら、内容をエスカレーションし続ける必要があり、いずれ設定の辻褄が合わなくなったり、リアリティを損なったりして破綻することだろう。
 作品の魅力を人間トニー・スタークに求めることは、今後アイアンマンシリーズを続ける上で大きな意味を持つはずだ。
 本作は三部作の掉尾を飾るものではあるが、当然『アイアンマン4』と『アイアンマン5』が期待されるのだから。


アイアンマン3 3Dスーパー・セット(2枚組/デジタルコピー付き) [Blu-ray]アイアンマン3』  [あ行]
監督・脚本/シェーン・ブラック  脚本/ドリュー・ピアース
出演/ロバート・ダウニー・Jr グウィネス・パルトロー ドン・チードル ガイ・ピアース レベッカ・ホール ベン・キングズレー ジョン・ファヴロー ステファニー・ショスタク ジェームズ・バッジ・デール
日本公開/2013年4月26日
ジャンル/[SF] [アクション] [ドラマ]
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『人生の特等席』 なぜイーストウッドが監督しないのか?

 【ネタバレ注意】 

 映画に反論するには映画をもって、ということだろうか。
 野球を題材にしながら、選手ではなくGM(ゼネラルマネージャー)にスポットを当てた映画として『マネーボール』はたいそう面白い作品だった。ブラッド・ピットが制作・主演を務めたこの映画は、当ブログでも取り上げたことがある。
 そして『マネーボール』のちょうど1年後に公開され、『マネーボール』を徹頭徹尾否定したのがクリント・イーストウッド制作・主演の『人生の特等席』だ。

 『人生の特等席』の主人公ガスは、米国南部の大都市アトランタを拠点とするチーム、ブレーブスのスカウトだ。
 西海岸の都市オークランドを拠点とする貧乏チーム、アスレチックスを描いた『マネーボール』で、GMビリーが真っ先に否定したのがスカウトだった。だが『人生の特等席』はガスの行動を通して、『マネーボール』の主張するものを否定してかかる。ご丁寧にビリーに相当するライバルが登場し、ガスに赤っ恥をかかされる。
 その徹底ぶりは驚くほどだが、『人生の特等席』が『マネーボール』の何を否定しているかを知るには、まず『マネーボール』について知らねばならない。

 『マネーボール』のことは、押井守監督が絶賛している。その分析は実に的確で詳細だから、押井守監督が『マネーボール』に言及したことを紹介し、『人生の特等席』がそれにいかに反しているかを述べるとしよう。
 以下、●印ではじまる部分は押井監督の意見の一部を要約したものである。出典は次のインタビュー記事だ。

 ■押井守監督の「勝つために見る映画」: 勝ち抜きたければ「迷わない人」と組んではいけない。

 ■押井守監督の「勝つために見る映画」: 「クビにする人に、理由を説明する必要はない」

 本稿は、『マネーボール』『人生の特等席』双方のネタバレになっている。
 映画の詳細を知りたくない人は、この先を読まない方がいい。


●『マネーボール』は、データを重視して、無名で安く、しかも使える選手を集める過程で、オーナーをはじめ抵抗勢力とどう戦ったかという話。その方針に一番抵抗したのが、スカウトだったというのが面白い。

 『人生の特等席』の主人公ガスはベテランのスカウト。これは、データを重視してガスの意見を無視する男と、どう戦ったかという話だ。

●『マネーボール』のスカウトは、「俺たちには経験値と直感があるんだ。データとか統計で試合に勝てるわけがない」と主張する。アニメの現場でも同じことを云われたことがある。球団のスカウトだろうが映画のスタッフだろうがアニメーターだろうが編集者だろうが、職人の云うことはどこでも一緒。でも、経験値があるから判るって口にするプロデューサーで本当に信頼に値するプロデューサーと会ったことがない。
 『マネーボール』で描かれるのは、「職人の云うことを信用するな」ということ。基本的に経験や直感を信じているような人間や、自分に絶対的な信念を持ってる人間とは組むなということなんだ。

 スカウト一筋にやってきたガスは、まさしく職人だ。経験や直感を信じており、自分に絶対的な信念を持っている。『人生の特等席』は、頑固な職人こそ信頼に値すると主張する。

●『マネーボール』はアメリカ映画の中でも珍しい「ポリシーだけを問うている」映画。人間側のドラマはそんなにない。いわゆる家庭の事情とかがうっすら背景にあるくらいで。別れた奥さんは少ししか出てこないし、離婚の原因も明確には描かれない。余計なことやらない。

 主人公ガスの野球人生には、家庭の事情がたっぷり絡んでくる。理解し合えない娘とどう接するかは、本作の重要なモチーフだ。

●日本のプロデューサーが経験に頼るのとは逆に、米国はマーケットリサーチを重視しすぎる。米国のプロデューサーはマーケットリサーチャーの云うことしか聞かない。監督作『アヴァロン』は世界90ヶ国以上で公開されたが、米国ではマーケットリサーチャーが「今のままでは売れない」と云ったため配給されなかった。
 『マネーボール』は、野球を統計で戦うのが正しいんだとも云ってない。結局、チームは地区のプレーオフで負けるんだから、2年連続で。どっちの理論が正しいとか、職人の直感と経験は絶対信用するなとか、一方的に云ってるわけじゃない。
 ビリーは、「今迷っている」という歌を何度も何度も聞く。それが象徴するように、誰でも悩むし迷うんだ。逆に云えば「迷いもしない人間の云うことを信用するな」ということだ。ただし、どこかでは決断するんだと、『マネーボール』はその機微を描いている。

 『人生の特等席』のガスにも当然悩みはある。観客が感情移入するような葛藤がなければ、娯楽映画にならないから。しかしこれはポリシーを問う映画ではないので、彼の悩みはもっぱら娘のことや健康状態に関することだ。スカウトとしての信念は、微塵も揺るがない。
 本作は職業人としてのドラマと家庭人としてのドラマの二重構造を取り、誰もが共感しやすい親子の葛藤を家庭人の部分に持ってくることで、職業人のドラマでの葛藤不足を補っている。

●『マネーボール』は「いまだにワールドシリーズ優勝に挑戦中」で終わる。勝ってない。これがこの映画の面白いところ。
 最後にワールドシリーズに勝っちゃうのが少年ジャンプやアニメの世界。日本のスポーツものがダメなのは全国大会とか世界大会で勝つまで終われないからだ。そうじゃない、大事なのは途中経過

 『人生の特等席』ではキレイに勝敗がついてしまう。データ分析に依存していたライバルにガスは勝つ。娘とのわだかまりも解消し、公私とも完全に勝利する。

●ビリーは娘を大学にやりたいからお金が必要だ。にもかかわらず、クビを賭けてまでデータ重視のチーム作りを行う。シーズン終了後にビリーはボストン・レッドソックスに移籍を持ちかけられる。1250万ドルというGM史上最大の契約金で。ビリーはそれすらも蹴り、アスレチックスで勝つことにこだわる。

 ガスの娘ミッキーは優秀な弁護士として頭角を現し、弁護士事務所のパートナー(社員)候補になっている。ガスが無理に稼ぐ必要はない。すなわち、ガスはクビをおそれる必要がない。金の心配なんかせず、云いたいことを云えば良い。
 一方、子供の進学のために金が必要なのはライバルの方だ。彼は失敗できないので、コンピュータでデータを分析するだけでなく、他のスカウトを現場に送り、データの裏もしっかり取る。
 真剣に勝負しているのはどちらだろう。

●この辺のところが『マネーボール』のテーマでもあるし、一番優れてるところでもあるし、同時に映画の作り方の見本でもある。彼がそれで大成功して、弱小球団がワールドシリーズに優勝しちゃって、あるいはレッドソックスに移籍して大金持ちになったら、それこそ少年ジャンプだ。努力と友情と勝利の世界だよ。だけど、そういうのって全然現実原則に即してないわけ。
 映画ってもちろんファンタジーなんだけど、どこかで人生の教訓があるから面白い。人間というのは不合理なものなんだから。

 『人生の特等席』のガスはスカウトとして勝利するし、ミッキーという後継者も得る。ミッキーも弁護士として勝利するし、恋も実る。努力と友情と勝利の世界だ。

●ビリーはシーズン途中で容赦なく選手を入れ替える。余計なことは云わない。それがプロの世界。プロスポーツというのは本来そういうもので、日本人みたいに相手の事情なんか聞いちゃいけない。

 『人生の特等席』のガスは、選手が入団した後々まで気にかけている。スカウトした選手がトレードされそうになれば、ガスは頑張って反対する。ガスがそうしてくれたことを、選手はいつまでも憶えている。

●「お前はクビだ」という時点で、その人と友情があろうが過去があろうが、そいつが家を買って娘が転校したばかりだろうが一切関係ない。どちらも職業人なんだから、それで当たり前。日本人はそこまでドライになれず、学生時代の成績で指揮官を決めたりしてたから戦争に負けるんだよ。

 ガスは、不調の選手がいると、親の顔を見てないせいかと心配して、親に引きあわせてやる。
 個人の事情に踏み込んで、一人ひとりを大切にする。

●一方ビリーは、云うことをきかない監督をクビにせず、それどころか監督がメリットを得られるようにしてやる。メリットを作ってやらなかったら誰も味方になんかならない。

 ガスもミッキーもそれぞれのライバルを潰そうとするだけだ。GMと一スカウト、一弁護士の立場の違いはあるものの、『人生の特等席』は相手の鼻を明かして爽快感を味わって終わる。
 ビリーはチームの人間を、勝つために役立つか役立たないかで判断するが、ガスやミッキーは仲間うちを庇いつつ、敵対する者は叩く。職業人としての判断と、個人的な人間関係が入り混じっている。

●現状維持を望むことがつまり「経験」とか「直感」を重視する考えの背景に広がっている。現状維持を望むというのは勝たなくてもいいから言い訳が欲しいだけなんだ。要するに、直感や経験を重視する人は「勝つこと」を絶対条件にしてないことがほとんどなわけ。勝つためだったら自分の経験だろうがなんだろうがドブに捨てる覚悟がなかったら勝てるわけないじゃん、という話なんだよ。

 『人生の特等席』は、自分の経験や直感に固執して、それで上手くいけばいいじゃないか、という話。その勝利の要因は、他チームが目を付けてない人材にたまたま出会う運の良さだ。ここから導かれる結論は、新しいことに挑戦せず頑固一徹でいれば神様が助けてくれる、ということだろうか。たしかにファンタジーの世界だ。

●スタッフというのは自分でやったことに気がつかない。ビリーだって、自分のやった仕事の意味には気がついてなかった。それをビリーに悟らせるため、相棒ピーターはある試合のビデオを見せる。それはホームランを打ったことにバッターが気づかず、一塁にしがみついて二塁に走ろうとしない光景だった。
 当事者は自分たちがやってることの本質がわからない。それは当事者だから。

 ミッキーは弁護士事務所の上司を説得しようとするが、自分の意見が通らないと事務所を辞めてしまう。自分が納得できることを貫くのが『人生の特等席』。意味を実感できない仕事は辞めてしまえ。

●当事者は自分たちがやってることの本質が判らない。ビリーはそれを判ってるからこそ、試合を直接見ない。
 僕はビリーが試合は絶対見ないというのはすごくよく理解できた。当事者になっちゃったらGMなんてできないんだよ。結果だけ見ているんでなければ正確に判断できない。だから結果しか知らなくていい。むしろ聞きたくないんだ。GMってまさに、プロとしての「経営者」。人間関係、情実、社内の実績や常識とは無関係に、スキルで雇われる。

 『人生の特等席』は、データで選手を分析することを否定する。代わりに強調するのが直接見ること、聞くこと。自分の目で見たこと、耳で聞いたことだけで判断する。
 現場に来もせず事務所でコンピュータをいじってる人間は、けちょんけちょんにこき下ろす。

●ピーターがビリーの決断を咎めて「このことは誰にも説明できないぞ」と忠告したとき、ビリーは「誰に説明するんだ? 説明する必要なんてない」と答える。本当の決断というのは説明がいらないんだ。

 『人生の特等席』で繰り返し描かれるのは、きちんと話し合い、理解し合うことの大切さだ。
 ガスはミッキーに決断の背景を説明してこなかったため、ずっとミッキーに辛い思いをさせていた。
 ミッキーもガスへの説明をしないから、ガスはこれでいいものと思っていた。
 ミッキーには付き合ってる男性がいるけれど、彼との関係でも決断を先送りし、充分な説明もしないので、彼はミッキーから離れてしまう。
 説明をないがしろにするから人々は行き違いを重ねて不幸になると、『人生の特等席』は主張する。

●『マネーボール』も数字だけでやってるわけじゃない。統計値だけじゃなくて人間性もちゃんと見てる。その描き方が結構面白い。急造一塁手のところに、ベテランの黒人選手がアドバイスに行くわけ。それで黒人選手がどんなアドバイスをするかというと「しっかり捕れよ」しか云わないんだ。「余計なことは云わなくていい」という世界の典型なんだよ。本人はわかってるんだから。「聞いてやること」が大事なんだ。
 僕は人の云うことは聞くんです。「この監督は自分の云うことを聞いてくれた」というのはとても大事なことなの。ただし判断は僕がする。それはしゃべった本人も判ってる。しゃべった時点ですっきりしてるからそれでいいんです。単なるガス抜き、というわけじゃない。

 『人生の特等席』では、家族や彼氏だけでなく、ミッキーと弁護士事務所の上司も話し合いが足りない。
 両者ともプロフェッショナルだが、ミッキーは上司の判断に納得しない。そして彼女の意見を取り上げない上司に愛想を尽かす。

●結婚だろうがビジネスだろうがなんだろうがみんな同じで、あれかこれかしかない中で自分の順番を確立することが最も大事。1番目2番目3番目はあり得るけど、全部が1番はあり得ない。
 『ウォール街』等、ビジネスを描いた映画の大半がダメなのは、結局みんな前提が間違ってる。要するに冷酷さと人間性の世界の対立という、そういう命題を立てた瞬間もう間違っちゃう。その方が判りやすいけど、「判りやすいだけ」だ。人生の真相と何の関係もない。映画が役に立つことがあるとすればそこ、人生の中にある真実に触れられること、それだけなんだから。
 迷うのは当たり前であって、迷わない人間は判断する資格もなければ決断すらできない。迷うから決断するんだから。『マネーボール』はその優先順位をつけるのがいかに難しいかという話。個人の事情が全部入り込んでくるから。
 それをいい加減な言葉で突破しようとするなと。直感だの経験値だの、もちろん統計でもない。ましてマーケティングなんかであるわけがない。
 順番を決めるためには自分に確信がなきゃならない、つまり自分の生き方に自信が持てなかったら優先順位なんか決められるわけがない。だからビリーは1000万ドル以上の給料を示されてもレッドソックスに行かなかった。
 それはなぜかと云ったら、自分の優先順位がわかってるから。

 『人生の特等席』は、ガスが仕事も家庭も大勝利する映画だ。全部が1番。優先順位を付けたりせず、全部を大切にして、すべてにおいて勝利する。

               

 押井守監督は、『マネーボール』が映画の作り方の見本であり、人生の教訓があり、人生の中にある真実に触れられるとまで云っている。それに比べれば、『人生の特等席』は努力と友情と勝利に溢れた少年ジャンプ的ファンタジーかもしれない。
 では、『人生の特等席』は映画作りの見本にならず、人生の教訓もなく、人生の中にある真実にも触れられないのだろうか。

 もともと『人生の特等席』はクリント・イーストウッドの監督作として検討されていた。
 長年プロデューサーとしてイーストウッドの映画作りを支えてきたロバート・ロレンツに、イーストウッドが「君が監督をやった方がいい」と勧めて、ロバート・ロレンツの初監督作となった。イーストウッドは制作を務めると同時に、『グラン・トリノ』以来4年ぶりの映画出演を果たし、他人の監督作への出演は約20年ぶりという破格の取り組みでロバート・ロレンツを支援した。
 監督こそしていないものの、イーストウッドは本作の成立に大きく関与している。

 実のところクリント・イーストウッドの映画は、少年ジャンプ的ファンタジーからほど遠い。
 『グラン・トリノ』は頑固な老人がこれまでのやり方では上手くいかないと悟って考えを改める話だし、『チェンジリング』は米国の汚点とも云うべき悲劇を描いていたし、『J・エドガー』は国一番の権力を手にしても侘しい最期を迎える話だった。モーガン・フリーマンが持ち込んだ企画『インビクタス/負けざる者たち』は努力と友情と勝利に溢れていたが、あれはファンタジーじゃなくて実話である。

 しかも、『人生の特等席』のガスのような人間を、イーストウッドはすでに否定している。
 ガスはいつも葉巻をくわえたヘビースモーカーで、酒を飲みながらテレビの野球中継を見てばかり。テレビに集中し過ぎて、一緒に食事する家族と会話もしない男である。
 このような人間は魅力に乏しく妻に逃げられるということを、イーストウッドはすでに『マディソン郡の橋』で描写済みだ。

 こう見てくると、『人生の特等席』がクリント・イーストウッドにとって異色作であることが判る。それどころか、監督イーストウッドにとって食指の動く題材とは思えない。イーストウッドが「これは君が監督した方がいい」と勧めたのは、そのまま「俺は監督しない」という意味ではないだろうか。

 さしずめ、ビッグコミック誌に大人向けのマンガを連載している石ノ森章太郎氏に、少年誌のヒーローマンガの企画が持ち込まれるようなものである。かつてはそういう作品も手掛けたし、今だってやろうと思えばやれるけど、自分がやるのはちょっとなぁ……。
 そんなときは、石森プロの有望な人材に「君がやってみろ」とデビューのきっかけを作ってやり、自分は(原作等の形で)名前を貸してやる、なんてことになりそうだ。もちろん、少年誌だから努力と友情と勝利に溢れた作品である。
 ――イーストウッドにとっての『人生の特等席』は、こんな位置付けではあるまいか。

 ただし、イーストウッドは自分で監督しないからといって、『人生の特等席』をいい加減に扱っているわけではない。
 そもそも、上の例で「大人向け」と「少年誌」と述べたように、『マネーボール』と『人生の特等席』も対象とする客層が異なっている。

 『マネーボール』の舞台はリベラルな気風と云われる西海岸。オークランドを含めたカリフォルニア州は、10年以上にわたって民主党の大統領候補を選んできた。西海岸の代表的な産業であるIT業界やハリウッド映画界にも民主党支持者が多いという。ブラッド・ピットも民主党のバラク・オバマに募金している。
 以前の記事でも述べたように、『マネーボール』はコンピュータを駆使することで所属チームにかかわらず日の当らない選手を発掘し、活躍の場を与える話だ。押井監督は選手をクビにするドライさを強調するが、チームの選手を平気でクビにするかわり、他チームの者でも有望そうならチャンスを与えるのは、公平・平等な態度と云える。

 一方、『人生の特等席』の舞台は南部のジョージア州アトランタ。共和党支持者の多い地域である。クリント・イーストウッドが、ハリウッドスターにしては珍しく共和党支持なのは有名だ。現在の共和党は南部・中西部の白人に支持されており、そういえば『人生の特等席』の主要キャストに有色人種はいない。登場する人々は酒場で輪になって楽しく踊り、日本人でも思い浮かべる南部のイメージそのままだ。
 そして『人生の特等席』の世界では、『マネーボール』とは対照的にチームの仲間を大切にする。成績が悪くても仲間だから庇おうとする。その仲間意識は素晴らしいかもしれないが、敵とみなした者には容赦ない。

 こうしてみると『マネーボール』と『人生の特等席』は、「GM」対「スカウト」、「統計」対「経験」という違いだけではなく、背景とする土地柄も、対象とする客層も、その思想も嗜好も正反対であることが判る。
 その差は「女っ気」にすら及んでいる。

●『マネーボール』は主人公の中学生ぐらいの娘が出てくるだけで、女っ気ほぼゼロ。

 『人生の特等席』も主要な女性キャラは主人公の娘ミッキーぐらいだが、こちらはエイミー・アダムス演じるうら若き美女。エイミー・アダムスは胸元見せるわ下着姿になるわで、「女っ気」は『ザ・ファイター』以上『ザ・マスター』未満というところだ。レイティングがR15+の『ザ・マスター』はともかく、『人生の特等席』はしみじみした邦題とは裏腹に、意外に「サービスカット」に溢れているのだ。
 ヘビースモーカーで、酒を飲みながらテレビの野球中継を見るような男性を喜ばせるには、こういう味付けも大事ということか。

 他のキャスティングも対照的だ。
 スカウトを全部敵に回す『マネーボール』のビリーが組むのは、イエール大で経済学を学んだオタクのデブ、ピーターだ。他チームの人間だが、ビリーは公平・平等だからそんなこと気にせず引っ張って来る。
 『人生の特等席』でミッキーが出会うのは、ジャスティン・ティンバーレイク演じる格好いい元野球選手ジョニー。ピーターとは大違いだ。

 ちなみにジョニーは、今でこそ所属チームが違うけれど、元々ガスがプロ野球の世界に引っ張りこんだ男であり、ミッキーから野球の知識を問い質され、合格することで仲間として認められる。ここでの品定めの基準は、いま現在のことではなく、過去の試合を良く知っていること、つまり中高年の話について来られるかどうかだ。
 ひらたく云えば、『人生の特等席』はスカウトを主人公にしながら、若い人の発掘よりも、これまで頑張ってきた中高年に敬意を払うことを重視する映画なのだ。
 たぶんイーストウッドはそんな中高年の心情が判るのだろう。そういう人がいる以上、そういう人に向けた映画があってもいいと考えたのだろう。


 だが、これなら努力と友情と勝利に溢れたファンタジーの見本にはなるかもしれないが、そこに人生の教訓や、人生の中の真実があるだろうか。
 実は、『人生の特等席』にはこれまで述べていない重要な人物がいる。題名がそれを示している。邦題が心温まる物語を示唆するのとは裏腹に、原題は作り手が見つめようとする問題点をストレートに表現している。それが『Trouble with the Curve (カーブの問題)』だ。

 カーブに問題を抱えるのは、主人公ガスでも、その娘ミッキーでも、その相手ジョニーでも、ましてやガスのライバルでもない。それはガスたちスカウトが観察する候補選手ボーである。ドラフトでメジャーリーグに指名されると確信しているボーは、尊大な暴君であり、今のチームメイトを奴隷のように扱っている。そんな彼がメジャーリーグに歓迎される人間かどうかを分かつのが、カーブの問題なのだ。
 本作は、仲間(俺たち)と敵(奴ら)を区別することを肯定し、仲間の大切さを強調するが、その一員でありながら仲間を大切にできない人間には惨めな末路を示す。それは人生の真実ではないかもしれないけれど、教訓ではあると云えるだろう。


 加えて、本作の制作にイーストウッドを突き動かしたのは、イーストウッド自身がデータよりも勘で行動する映画人だからに違いない。
 押井監督は「米国はマーケットリサーチを重視しすぎる。米国のプロデューサーはマーケットリサーチャーの云うことしか聞かない」と不満げだが、この点を苦々しく思っているのが、長年米国で映画を作り続けてきたクリント・イーストウッドではあるまいか。
 イーストウッドは、「自分の勘で作品を選んでいく」「ヒットするかどうかは考えない」と述べている。
 マーケットリサーチャーがデータを集計してダメと云ったら公開しない。そんな米国にあって、勘にしたがい映画作りを行うイーストウッドは、まさしく『人生の特等席』のガスそのものだ。
 本作は、野球に託してイーストウッドの映画観を語る作品でもあるのだろう。

 もちろん、勘違いしてはいけない。
 クリント・イーストウッドの経験と勘は、クリント・イーストウッドしか持っていない。米アカデミー賞の作品賞と監督賞を二度も受賞したイーストウッドであればこそ、みずからの暗黙知を「勘」と云ってのけられるのだ。


人生の特等席 ブルーレイ&DVDセット(初回限定生産) [Blu-ray]人生の特等席』  [さ行]
監督・制作/ロバート・ロレンツ  制作/クリント・イーストウッド
出演/クリント・イーストウッド エイミー・アダムス ジャスティン・ティンバーレイク ジョン・グッドマン ロバート・パトリック マシュー・リラード ジョー・マッシンギル
日本公開/2012年11月23日
ジャンル/[ドラマ] [スポーツ]
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『リンカーン』 大統領は本当は弱い

 「世論、民意に従うのが本当の政治ではない。」
 小峰隆夫氏のこの言葉は印象的だ。
 民意を汲み取らずして、何の民主主義だろう。
 そう突っ込みたくなるかもしれないが、そも民主主義なる用語は誤訳と云われる。democracy を先人は民主主義と訳したけれど、democracy の意味は民衆が支配することであり、主義(ism)ではない。democracy は autocracy (専政)や aristocracy (貴族政)に対比して民衆が支配する政体を表しており、民主政と訳す方が相応しい。

 その民主政は、衆愚政と紙一重でもある。衆愚政と呼んでは言葉が過ぎるなら、民意のバイアス――偏りと呼べば穏当だろうか。
 映画『リンカーン』の背後にあるのは、民主政がもたらす苦悶、民意のバイアスへの悲憤である。

 小峰隆夫氏は参考人として国会に出席した際、議員たちを前に次のように述べたそうだ。
---
 しばしば世論調査で人々の考えを聞き、民意に従うべきだという議論が出ます。しかし、民意には民意のバイアスというものがあると思います。それは、『短期的な視点で物事を判断してしまう』ことや『自分の身の回りのことを中心に物事を判断してしまう』というバイアスです。

 しかし、短期的なマイナスを避けようとして、長期的にかえって大きなマイナスを抱え込むということはよくあります。また、身の回りのマイナスを避けようとして、回り回ってかえって大きなマイナスが身に及んでくるということもよくあることです。

 こうした民意のバイアスを避ける仕組みが『間接民主主義』だと私は思います。従って、国会議員の方々は、自らの判断で長期的に国民のためになる政策を考えていただき、もしそれが民意に反するものである場合は、(民意に従って自らの考えを修正するのではなく)民意の方を説得していただきたいと思います。
---

 小峰氏は民主主義(民主政)の欠点を克服する仕組みとして間接民主主義に言及したが、本作の主人公エイブラハム・リンカーンにとっては間接民主主義すら不完全だった。
 リンカーンは奴隷を解放すべきだと考えていた。しかし間接民主主義の下、各州で選出された議員には奴隷解放に反対の者も多く、大統領という弱い立場のリンカーンは奴隷制を廃止できなかった。なにしろ大統領には議会への出席権すらないのである。
 『リンカーン』は四年に及んだ南北戦争から1865年1月を取り上げて、民主主義と戦うリンカーンを描いた映画である。

 だから、題名が『リンカーン』だからといって、本作はリンカーンの生涯を描くわけではない。リンカーンが奴隷解放を訴えるようになった経緯をこの映画は詳しく語らないが、そんなことはどうでもいい。南北戦争の波乱万丈を描くわけでもないし、歴史的背景についてまったく知らなくても構わない。
 スティーヴン・スピルバーグ監督が描くのはただ一つ、迷いを抱えた人がいかに決断するか、ということだ。150分の上映時間は、その決断の辛さと重さを伝えるためにある。
 それゆえ、スピルバーグはリンカーンの大統領任期全体を描いた脚本を改稿させて、リンカーンが奴隷解放に向けて憲法修正第13条を可決させるべく尽力した1月に絞らせた。


 奴隷制廃止後の現在の私たちの眼には、奴隷制なんて廃止して当然の不合理に映る。しかし、150年前の米国では、奴隷制への賛否が南北戦争に発展するほど意見が分かれていた。
 そんな中、本作でリンカーンを襲うジレンマは、奴隷解放と奴隷制廃止が必ずしも両立しないことだ。
 アメリカ合衆国の法律では、交戦国の財産を没収できる。連邦政府に逆らう南部諸州が、あくまで黒人は奴隷であり、個人の私有財産だと主張するなら、戦力で押しつぶして、奴隷を没収してしまえば良い。それで現在奴隷の境遇にいる者たちを解放できる。
 しかし南部を交戦国として扱えば、彼らがアメリカ合衆国の一部ではないと認めることになる。アメリカ合衆国の法に従わせるには、南部もあくまでアメリカ合衆国であり、この戦いは国家間の戦争ではなく反逆の鎮圧だ、という立場を貫かねばならない。そうしなければ、諸州に残る奴隷制を根絶することはできないだろう。
 奴隷制の根絶を目指すと、現在奴隷として苦しんでいる者たちを解放できないとは、なんたる矛盾!

 さらにリンカーンを悩ませるのは、南部諸州が和平を模索しはじめたことだった。
 劇中リンカーンは、奴隷制を廃止してこそ戦争が終わると人々に思わせていたが、世の中には、嫌な戦争が終わりさえすれば奴隷制の廃止に踏み込まなくて良いと考える者も少なくなかった。
 そんなときに和平の申し出があれば、人々は戦争終結を望んで飛びつくだろう。戦争さえ終わるなら、南部の奴隷制には譲歩しよう――連邦議会の大勢がそう動くのは間違いない。アメリカ合衆国の大統領には法案を提出する権限もないから、議員の理解がなければ修正第13条は審議すらされずに終わる。

 奴隷解放のために戦争してきたのに、和平の提案を受け入れたら戦争だけ終わって奴隷制が残ってしまう。
 はたして、戦争で多くの若者が死に、日々犠牲が拡大していても、奴隷制廃止を目指して戦争を続けるべきなのか。
 それとも、戦争を終わらせ、平和な暮らしを取り戻す代わりに、悲惨な奴隷制を存続させるのか。
 映画は、究極の決断を突きつける。その葛藤をより強調するために、スピルバーグはリンカーンの息子を登場させ、リンカーンがまさに戦争続行か否かを悩んでいるそのときに軍に入隊させてしまう。息子の身を案じる妻は狂乱して、リンカーンを非難する。本作を構成するありとあらゆる要素は、リンカーンの葛藤を強調するためにある。

 これらすべてを背負い込んで、リンカーンは一人で決断しなければならない。
 誰も代わってくれないし、幸運も舞い込まない。どう決断しても、誰かが不幸になる。恨む者もいるだろう。
 それは孤独な戦いだ。

 アメリカ映画はこれまでも葛藤する主人公を描いてきた。
 当ブログでも、『ナバロンの要塞』等を例に出してたびたび論じてきた。
 そのアメリカ映画の歴史の中でも、本作の葛藤は飛び抜けて苦しいものだろう。
 それでも決断せねばならない。
 その場に観客を立ち会わせることに、この映画の真価がある。


 2009年はリンカーン生誕から200年、2011年はリンカーンの大統領就任から150年ということもあるのだろう、リンカーンを題材とする映画が続々と公開されている。
 けれどもスピルバーグが、本作には生涯でもとりわけ魅了されたとまで語り、12年かけて映画化したのは、時流に乗りたかったわけではあるまい。
 近年、異国・異民族との対立を強調する映画が目につく米国で、ロバート・ゼメキス監督はキリスト教を通した秩序と平安を訴えた。
 ユダヤ系のスピルバーグはキリスト教を持ち出すのではなく、人間同士の信頼や敬意を強調し、前作『戦火の馬』ではドイツ兵とも判りえることを示した。
 そのスピルバーグにとって、この題材に取り組むのは必然であろう。
 150年前に北のアメリカ合衆国と南のアメリカ連合国は四年間も戦争し、62万人もの死者を出した。北部と南部は激しく憎み合っただろうが、それが今や一つの国として何ら争うことはない。奴隷制は廃止され、米国は差別の撤廃に向けて歩んできた。
 150年前の米国でこれほどのことができたなら、今の世界から争いをなくし、差別をなくせないはずがない。それをスピルバーグは映画を通して気づかせてくれる。


 また、本作は「動機オーライ主義」を戒める点でも重要だ。
 立派なことをするのだから勝ち負けは関係ない――私たちはしばしばそんな考えに囚われはしないだろうか。
 リンカーンは目的達成のためなら策を弄し、まわり道も厭わない。
 かつて測量士だったリンカーンが、方位磁針の話をするシーンがある。
 「方位磁針があれば北は判る。けれども、どこに山や沼があるかは判らない。北を目指しても途中で沼に落ちて沈んでしまったら、真北を知ることに意味はない。」
 真北に向かうことだけが真北に行くことではない。
 スピルバーグ監督も、現代を描くために150年前を舞台にしたのだ。


 本作のその後の顛末は、映画『声をかくす人』で描かれる。
 こちらも、いま観るべき傑作だ。


リンカーン [Blu-ray]リンカーン』  [ら行]
監督・制作/スティーヴン・スピルバーグ  制作/キャスリーン・ケネディ
出演/ダニエル・デイ=ルイス サリー・フィールド トミー・リー・ジョーンズ デヴィッド・ストラザーン ジョセフ・ゴードン=レヴィット ジェームズ・スペイダー ハル・ホルブルック ジョン・ホークス
日本公開/2013年4月19日
ジャンル/[ドラマ] [伝記]
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『宇宙戦艦ヤマト2199 第五章 望郷の銀河間空間』 作り手たちの出した結論

 いやはや、これはまた脱帽だ。
 周到に計算された『宇宙戦艦ヤマト2199 第五章 望郷の銀河間空間』の上手さには舌を巻くばかりだ。

 1974年のテレビアニメ『宇宙戦艦ヤマト』が低視聴率だったことは良く知られている。平均視聴率はビデオリサーチ調べで6.0%、ニールセン調べで7.3%しかなかった。
 2013年4月7日に放映された『宇宙戦艦ヤマト2199』第1話は、番組平均視聴率がビデオリサーチ調べで関西5.9%、関東5.7%でも好スタートと報じられたが、39年前は環境が違う。
 家庭に録画・再生機器なんてほとんどなく、映像ソフトが発売されることもなかった1974年当時、放映時刻にテレビを見なければ、その番組は一生見られないかもしれなかった。誰もがテレビに噛り付き、NHK紅白歌合戦の視聴率が74.8%、NHKの朝ドラ『鳩子の海』の平均視聴率が47.2%も取った時代である(2012年のNHK紅白歌合戦の視聴率は42.5%、NHKの朝ドラ『梅ちゃん先生』の平均視聴率は20.7%)。
 アニメだって同時期の『グレートマジンガー』が平均視聴率22.8%を獲得していたのだから、6~7%しか取れないヤマトは低視聴率番組だ。

 そんな『宇宙戦艦ヤマト』の中でも、とりわけストーリー面の重要性に乏しいのが、中盤の一話完結のエピソードだ。太陽圏でのシュルツとの戦いを済ませ、ドメルとの決戦にはまだ至らないときのエピソード群は、一話や二話見なくても何ら困ることはない。
 個々のエピソードは面白いし、印象深くもあるのだが、劇場用に第1テレビシリーズを再編集するときスッパリ削られてしまったように、ストーリーの幹というよりは枝葉に当たる。

 『宇宙戦艦ヤマト2199』の作り手たちは、全26話を構成する上で、いかに中だるみさせず、受け手の興味を持続させるか、思案したに違いない。
 第1テレビシリーズ同様に一話完結のエピソードを続けるだけで、テレビ以外の多くの娯楽に囲まれた今日の視聴者を番組に繋ぎ止められるだろうか。
 その答えが『第五章 望郷の銀河間空間』、すなわち第15話~第18話だ。

 作り手たちの出した結論、それはカードを切ってしまうことだ。
 ヤマト計画の前に立案されたイズモ計画をいまだに支持する一派の策謀や、ここ1年の記憶しかない森雪の秘密や、ガミラス内部の抗争や、第9話「時計仕掛けの虜囚」のオートマタ(自動人形)が女神と呼んだ謎の存在等々、緻密に張り巡らされた伏線が、ここで一気に回収された。
 全編を通して徐々に謎が解き明かされると思っていた観客は、驚きをもって受け止めただろう。まだ中盤の第五章が、大きな山場になったのだから。
 はじめてヤマトに接する世代はもとより、旧作を知る者にとっても、起承転結の転がここに来るのは予想外だったはずだ。

 最後まで引っ張るかと思われた伏線を、中途で惜しみなく巻き取ってしまう。これは、なかなか巧みなテクニックである。
 たとえば『ドラゴンクエスト』のようにお姫様を助けて敵を倒すゲームをプレイした人は、序盤のうちにお姫様の救出も敵の打倒も終えてしまう『ファイナルファンタジー』に驚いただろう。
 物語の最後に向けて盛り上がると思われた要素が、前倒しで発動する効果は大きい。最後を待たずに山場を楽しめるし、当然のことながらその山場の後にはもっと大きな山場が期待できるからだ。

 これまでの伏線を回収するとともに新たな謎を散りばめた第五章は、ものの見事に中だるみを吹き飛ばした。

 しかも旧作にはない大胆な展開も、本作スタッフが勝手に考えたわけではない。
 旧作には放映期間短縮の影響で未使用に終わった設定があり、当時の検討用プロットに「ドメル将軍の妻とガミラス星のパルチザン」「ガミラス星内での政治内紛劇」「ヤマト艦内で起きる叛乱」等があったことを、氷川竜介氏が本作パンフレットで紹介している。
 新作独自の展開は、旧作からの乖離ではなく、本来あるべき姿への回帰なのだ。
 地球からの脱出を図るイズモ計画が、汚染浄化システムを取りに行くヤマト計画へ変更されたのは、さしずめロバート・A・ハインライン著『地球脱出』(『メトセラの子ら』)に刺激を受けて立ち上がった旧作の企画が、『西遊記』を取り入れて人類救済のための装置を取りに行く物語に変わったことに符合しよう。

 このように物語中盤を盛り上げる工夫を凝らしつつも、本作はあくまで『宇宙戦艦ヤマト』の忠実なリメイクだ。
 旧第16話のビーメラ星人の反乱を植民惑星オルタリアに置き換え、旧第15話のドメル艦隊との遭遇と、旧第20話の中止命令による討ち損じを再現した第15話。
 旧第16話のビーメラ星での冒険と、古代進と森雪の抱擁を再現した第16話。
 旧第18話の真田の告白を再現した第17話。
 旧第20話のバラン星崩壊を再現した第18話。
 ストーリーを大きく改変しながらも、旧作との繋がりをキチンと残すのはさすがである。
 しかも旧第15話ではドメル艦隊から逃げ回ったのに、本作の沖田は正面突破を指示したり、古代進と森雪の抱擁を見てがっくりするのがアナライザーから南部に変わったりと、心憎い改変もある。


 ストーリーテリングの巧みさばかりでなく、第五章は戦争アクションとしての見応えもたっぷりだ。
 第13話「異次元の狼」での一対一の睨み合いとは打ってかわり、今回は大艦隊との激戦が続く。スクリーンを埋め尽くす大軍と、ありったけの火力を振るうヤマトとの戦いは、あまりにもスピーディで一瞬たりとも眼が離せない。瞬きすらできないほどだ。
 ここしばらく戦争アクションとしては地味な展開が続いていたから、物量を前面に押し出した第五章に誰もが快哉を叫ぶだろう。

 それに、ここで大艦隊ときちんと戦っておくことは、なぜ大ガミラス帝星ともあろうものがヤマト一隻ごときに敗北するのかを説明する上で重要だ。
 第五章では、ガミラスの国家元帥ゼーリックが国全体を制圧するに足ると考えるほどの艦船が集結するが、それをヤマトははるか後方に置き去りにするのだ。


 以上、第五章の魅力を綴ってきたが、実は私が一番魅了されたことは別にある。
 それは、優れたSFである本作が、ここへ来て一段とSFとしての深みとスケールの大きさを備えたことだ。

 第五章の見所は、ガミラスが「ゲシュタムの門」と呼ぶ亜空間ゲートである。
 超古代文明が各地に遺した亜空間ゲートを利用して宇宙を旅する設定は、特段珍しいものではない。映画なら、その名もズバリ『スターゲイト』が思い浮かぶ。
 ただ、宇宙艦隊が通れるほど巨大な構造物を、映像で見せてくれるのは嬉しい。現代の私たちには到底つくれない超巨大建造物が出現し、その迫力で圧倒してくれるのもSFの醍醐味だ。
 バラン星の赤道上空を環状に取り巻く亜空間ゲートのシステムは、恒星を取り巻くリングワールドほどではないにしろ、超巨大建造物として申し分ない。

 それを単なる移動手段として登場させるのではなく、これを生かした戦術をヤマトに実行させるのだから上手い作りだ。
 旧第18話のサツマイモのような宇宙要塞13号を、亜空間ゲートを制御するシステム衛星としてリファインし、ストーリーに無理なく組み込んだのも秀逸である。

 そして惑星規模の建造物がもたらすスケールの大きさに加え、遠大な時間の広がりを感じさせる点もSFらしさが漂う。
 失われた太古の文明と、その遺跡である「ゲシュタムの門」。
 イスカンダル人が数百年前から星々に使者を送っていたこと。その恵みがありながら、滅んでしまったビーメラ文明。

 これまで地球とガミラスの星間戦争を描くミリタリーSFのカラーが強かった『宇宙戦艦ヤマト2199』は、はるかな過去へと時間軸を伸ばし、文明の栄枯盛衰まで視野に入れた宇宙史の様相を呈してきた。
 思えば、『宇宙戦艦ヤマトIII』には伝説の古代国家シャルバートが登場し、『宇宙戦艦ヤマト 完結編』には銀河を回遊しながら星々に生命の恵みと試練を与える惑星アクエリアスが出現した。『宇宙戦艦ヤマト』シリーズは、人類の起源に遡るほどの時間的スケールを持つ作品だった。
 続編ができるたびに未知の文明が登場するのはいささか辻褄が合わなかったが、ヤマトの世界を熟考した上でつくられた本作は、これら超古代文明をも包含するのだろう。

 第五章を見終えたとき、観客は『宇宙戦艦ヤマト2199』のスケールが、これまで思っていたよりひと回りもふた回りも大きいことを知るのだ。


宇宙戦艦ヤマト2199 5 [Blu-ray]宇宙戦艦ヤマト2199 第五章 望郷の銀河間空間』  [あ行][テレビ]
第15話『帰還限界点』 脚本/大野木寛 絵コンテ/吉田英俊、樋口真嗣、出渕裕、松尾慎 演出/友田政晴
第16話『未来への選択』 脚本/出渕裕 絵コンテ/榎本明広 演出/榎本明広
第17話『記憶の森から』 脚本/大野木寛 絵コンテ/増井壮一 演出/江上潔
第18話『昏き光を超えて』 脚本/武半慎吾 絵コンテ/大倉雅彦 演出/加戸誉夫

総監督・シリーズ構成/出渕裕  原作/西崎義展
チーフディレクター/榎本明広  キャラクターデザイン/結城信輝
音楽/宮川彬良、宮川泰
出演/菅生隆之 小野大輔 鈴村健一 桑島法子 大塚芳忠 山寺宏一 麦人 千葉繁 田中理恵 久川綾
日本公開/2013年4月12日
ジャンル/[SF] [アドベンチャー] [戦争]
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tag : 出渕裕 西崎義展 菅生隆之 小野大輔 鈴村健一 桑島法子 大塚芳忠 山寺宏一 麦人 千葉繁

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