『ひまわりと子犬の7日間』 野心作とはコレなのだ!
「いいか、映画を撮るとき、どんな世代でもいい。必ず家族の関係を仕掛けとして入れておけ。映画全体が落ち着くから。」
山田洋次監督は、若いころ先輩にそう云われたことが忘れられないという。
家族こそは誰にとっても、もっとも身近でもっとも付き合いの長い人間関係だ。先輩の言葉どおり、山田洋次監督は家族の映画を撮り続けてきた。
20年にわたって山田洋次監督の助監督や共同脚本を務めてきた平松恵美子監督にも、その教えはしっかり受け継がれている。初監督作品であり、みずから脚本も手がけた『ひまわりと子犬の7日間』は、まぎれもなく家族の映画だ。
物語の中心となるのは宮崎県の平凡な家族。堺雅人さん演じる父と、小学生の娘と息子、そして祖母と二頭の犬が暮らしている。
交通事故で母を失ってはいるものの、仲の良い家族であり、一見すると波風の立つ要素はなさそうだ。
しかし、映画を盛り上げるには、主人公の葛藤や、人間同士の衝突や、乗り越えるべき障壁が欠かせない。平松監督はこの点を良く心得ており、父親にある秘密を持たせている。
父親の秘密、それは子供に云えない仕事をしていることだ。犬好きの子供たちには告げられない――父親の仕事は犬を殺すことなのだ。
まことに巧い設定だ。
子供に対して、いつまでも父親の職業を偽れるはずがない。では、父は子供にいつどうやって仕事のことを伝えるのか。子供はどう反応するのか。それが家族をどう変えるのか。観客はことの成り行きを気にせずにはいられない。
思えば、テレビや映画が描く職業は立派すぎた。犯罪者を主人公にした作品は別として、多くの映画の主人公は職業を公言してはばからず、子供に隠す必要もなかった。
一方で、日本では毎年400~500本の映画が公開され、テレビでは160タイトルの連続ドラマと480本の単発ドラマが放映されるにもかかわらず、まったく取り上げられない職業もある。あたかもそんな職業は存在しないかのごとく避けられている。
特に「死」にまつわる職業は、なかなか題材にされにくい。
本作の主人公の、犬や猫の殺処分担当者も、そんな職業の一つだろう。
斬新な企画である。これまで取り上げられなかったのだから、画期的な映画である。
だが、この映画の作り手は、新しいものに飛び付いたわけではない。この職業は昔からあった。
テレビや映画で取り上げられない理由は、とうぜんのことながら数字が稼げないからだ。
テレビを点ければ、動物の可愛らしさや自然の驚異を扱った番組にはこと欠かない。それらは一定の視聴率を見込めるのだろう。けれども、殺処分を取り上げると視聴率がとれない、そんな話を聞いたことがある。
『ひまわりと子犬の7日間』の作り手も、殺処分担当者を主人公にするなんてためらったはずだ。犬や猫の可愛らしさを売り物にして家族層の動員を狙う――そんな映画も作れるのに、あえて厳しい数字になりかねないこの題材に挑むのかと。
公式サイトには、作り手たちの苦悶が綴られている。そこで作り手たちのたどり着いた結論は、次の言葉に要約される。
「誰もやらないからこそ、自分たちがやるべきだ」
私はこのチャレンジ精神を、まず第一に称えたい。これこそ活動屋魂だと思う。
ドキュメンタリーなら『犬と猫と人間と』があった。テレビドラマ『犬を飼うということ ~スカイと我が家の180日~』は、動物保護センターの裏側を取り上げた点で画期的だった。
だが、殺処分の当事者を主人公にして、すべてを包み隠さず描いた劇映画が作られるのは――ましてや大手映画会社が春休み期間に全国公開するのは、おそらく日本映画史上初めてのことではないだろうか。
これこそ近年まれにみる野心作なのは間違いない。
もちろん、難しい題材を取り上げれば良いわけではない。
いかに意欲的な企画であっても、映画の完成度が追いつかなければ観客は受け入れない。
本作は脚本に1年を費やしただけあって、その点も抜かりはない。
保健所に務めて殺処分している職員は、犬や猫を殺したくてこの職に就くのではない。残念ながら世の中には、一緒に暮らす犬や猫を殺して欲しいと望む人間がいる。そして自分では手を下さないことの受け皿として、公務員が駆り出される。
動物好きの主人公が、この仕事とどう向き合うか、家族とどんな関係を築いていくか。平松恵美子監督はその葛藤を掘り下げながら、とてもドラマチックでファミリー向けの作品としてこの題材を昇華させている。
犬猫が出てくるんだからファミリー向けでしょ、と思うのは早計だ。この題材を細部まで書きこみながらファミリー映画にするのは、驚くべきことである。
多くの人は、保健所で犬や猫を処分していることは知っていても、具体的な殺し方まではご存知ないのではなかろうか。
むごいことに、彼らは小さな箱に詰め込まれ、炭酸ガスで窒息死させられる。職員は犬たちの悲痛な叫びを聞きながら、ガスを充満させていく。その無残な殺し方を演じ切る堺雅人さんは、これまでのどんな役より印象的だ。
主人公の行動に期限が切られている点も、映画の緊迫感を増している。
期限を切るのは『96時間』等でお馴染の手法だが、本作の場合は作劇上のテクニックとして期限を設けたわけではなく、短い時間しか許されない現実がある。
題名の「7日間」とは、犬たちが保健所に収容されている期間のこと。この期間は自治体によりまちまちだが、本作ではそれが7日なのだ。そのあいだに飼い主となる人間が現れれば良し、現れなければ犬たちは殺される。
たった7日しかないのは、税金の「無駄遣い」を許さない私たちが、エサ代を渋るからだ。
殺処分するのも、住民のニーズがあるから。犬や猫は、2010年度だけで213,607匹も殺されている。
本作は、それが私たちの社会の姿であることをきちんと物語に織り込みつつ、お約束の子犬の可愛らしさもたっぷり味わわせてくれる。その上で、老若男女に向けた感動作に仕上げているのだ。
平松監督の手腕を見れば、松竹が田中絹代以来50年ぶりの女性監督誕生に動いたのもうなずけよう。
上映中、劇場内は誰も彼もが泣いていた。
本作が、実話に基づくことに胸を打たれる。
『ひまわりと子犬の7日間』 [は行]
監督・脚本/平松恵美子
出演/堺雅人 中谷美紀 でんでん 若林正恭 吉行和子 夏八木勲 檀れい 小林稔侍 左時枝 草村礼子 近藤里沙 藤本哉汰
日本公開/2013年3月16日
ジャンル/[ドラマ] [ファミリー] [犬]
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山田洋次監督は、若いころ先輩にそう云われたことが忘れられないという。
家族こそは誰にとっても、もっとも身近でもっとも付き合いの長い人間関係だ。先輩の言葉どおり、山田洋次監督は家族の映画を撮り続けてきた。
20年にわたって山田洋次監督の助監督や共同脚本を務めてきた平松恵美子監督にも、その教えはしっかり受け継がれている。初監督作品であり、みずから脚本も手がけた『ひまわりと子犬の7日間』は、まぎれもなく家族の映画だ。
物語の中心となるのは宮崎県の平凡な家族。堺雅人さん演じる父と、小学生の娘と息子、そして祖母と二頭の犬が暮らしている。
交通事故で母を失ってはいるものの、仲の良い家族であり、一見すると波風の立つ要素はなさそうだ。
しかし、映画を盛り上げるには、主人公の葛藤や、人間同士の衝突や、乗り越えるべき障壁が欠かせない。平松監督はこの点を良く心得ており、父親にある秘密を持たせている。
父親の秘密、それは子供に云えない仕事をしていることだ。犬好きの子供たちには告げられない――父親の仕事は犬を殺すことなのだ。
まことに巧い設定だ。
子供に対して、いつまでも父親の職業を偽れるはずがない。では、父は子供にいつどうやって仕事のことを伝えるのか。子供はどう反応するのか。それが家族をどう変えるのか。観客はことの成り行きを気にせずにはいられない。
思えば、テレビや映画が描く職業は立派すぎた。犯罪者を主人公にした作品は別として、多くの映画の主人公は職業を公言してはばからず、子供に隠す必要もなかった。
一方で、日本では毎年400~500本の映画が公開され、テレビでは160タイトルの連続ドラマと480本の単発ドラマが放映されるにもかかわらず、まったく取り上げられない職業もある。あたかもそんな職業は存在しないかのごとく避けられている。
特に「死」にまつわる職業は、なかなか題材にされにくい。
本作の主人公の、犬や猫の殺処分担当者も、そんな職業の一つだろう。
斬新な企画である。これまで取り上げられなかったのだから、画期的な映画である。
だが、この映画の作り手は、新しいものに飛び付いたわけではない。この職業は昔からあった。
テレビや映画で取り上げられない理由は、とうぜんのことながら数字が稼げないからだ。
テレビを点ければ、動物の可愛らしさや自然の驚異を扱った番組にはこと欠かない。それらは一定の視聴率を見込めるのだろう。けれども、殺処分を取り上げると視聴率がとれない、そんな話を聞いたことがある。
『ひまわりと子犬の7日間』の作り手も、殺処分担当者を主人公にするなんてためらったはずだ。犬や猫の可愛らしさを売り物にして家族層の動員を狙う――そんな映画も作れるのに、あえて厳しい数字になりかねないこの題材に挑むのかと。
公式サイトには、作り手たちの苦悶が綴られている。そこで作り手たちのたどり着いた結論は、次の言葉に要約される。
「誰もやらないからこそ、自分たちがやるべきだ」
私はこのチャレンジ精神を、まず第一に称えたい。これこそ活動屋魂だと思う。
ドキュメンタリーなら『犬と猫と人間と』があった。テレビドラマ『犬を飼うということ ~スカイと我が家の180日~』は、動物保護センターの裏側を取り上げた点で画期的だった。
だが、殺処分の当事者を主人公にして、すべてを包み隠さず描いた劇映画が作られるのは――ましてや大手映画会社が春休み期間に全国公開するのは、おそらく日本映画史上初めてのことではないだろうか。
これこそ近年まれにみる野心作なのは間違いない。
もちろん、難しい題材を取り上げれば良いわけではない。
いかに意欲的な企画であっても、映画の完成度が追いつかなければ観客は受け入れない。
本作は脚本に1年を費やしただけあって、その点も抜かりはない。
保健所に務めて殺処分している職員は、犬や猫を殺したくてこの職に就くのではない。残念ながら世の中には、一緒に暮らす犬や猫を殺して欲しいと望む人間がいる。そして自分では手を下さないことの受け皿として、公務員が駆り出される。
動物好きの主人公が、この仕事とどう向き合うか、家族とどんな関係を築いていくか。平松恵美子監督はその葛藤を掘り下げながら、とてもドラマチックでファミリー向けの作品としてこの題材を昇華させている。
犬猫が出てくるんだからファミリー向けでしょ、と思うのは早計だ。この題材を細部まで書きこみながらファミリー映画にするのは、驚くべきことである。
多くの人は、保健所で犬や猫を処分していることは知っていても、具体的な殺し方まではご存知ないのではなかろうか。
むごいことに、彼らは小さな箱に詰め込まれ、炭酸ガスで窒息死させられる。職員は犬たちの悲痛な叫びを聞きながら、ガスを充満させていく。その無残な殺し方を演じ切る堺雅人さんは、これまでのどんな役より印象的だ。
主人公の行動に期限が切られている点も、映画の緊迫感を増している。
期限を切るのは『96時間』等でお馴染の手法だが、本作の場合は作劇上のテクニックとして期限を設けたわけではなく、短い時間しか許されない現実がある。
題名の「7日間」とは、犬たちが保健所に収容されている期間のこと。この期間は自治体によりまちまちだが、本作ではそれが7日なのだ。そのあいだに飼い主となる人間が現れれば良し、現れなければ犬たちは殺される。
たった7日しかないのは、税金の「無駄遣い」を許さない私たちが、エサ代を渋るからだ。
殺処分するのも、住民のニーズがあるから。犬や猫は、2010年度だけで213,607匹も殺されている。
本作は、それが私たちの社会の姿であることをきちんと物語に織り込みつつ、お約束の子犬の可愛らしさもたっぷり味わわせてくれる。その上で、老若男女に向けた感動作に仕上げているのだ。
平松監督の手腕を見れば、松竹が田中絹代以来50年ぶりの女性監督誕生に動いたのもうなずけよう。
上映中、劇場内は誰も彼もが泣いていた。
本作が、実話に基づくことに胸を打たれる。

監督・脚本/平松恵美子
出演/堺雅人 中谷美紀 でんでん 若林正恭 吉行和子 夏八木勲 檀れい 小林稔侍 左時枝 草村礼子 近藤里沙 藤本哉汰
日本公開/2013年3月16日
ジャンル/[ドラマ] [ファミリー] [犬]


『シュガー・ラッシュ』 肝になるのは4番目の世界
![シュガー・ラッシュ DVD+ブルーレイセット [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/71Sw9xpKDYL._SL160_.jpg)
『シュガー・ラッシュ』がべらぼうに面白い理由の一つは、豊富なアイデアを溢れんばかりにぶち込んだことにあるだろう。
『シュガー・ラッシュ』の舞台となるのは、アーケードゲームの世界。
プログラムを擬人化してゲーム内の世界を描いた映画なら、同じくディズニーが配給した『トロン』(1982年)が思い起こされる。
けれども『トロン』から30年を経ただけあって、キャンディ大王が電脳空間へ侵入するシーンなど、ディズニーらしく洗練されたサイバーパンクになっている。
しかも、『トロン』の描くのが一つの世界だけだったのに、『シュガー・ラッシュ』はゲームセンターのたくさんのゲーム機そのままに、多くの世界が登場する。
その一つ、「ヒーローズ・デューティ」は典型的なシューティングゲームの世界だ。未来の軍人達が昆虫型の怪物サイ・バグと激戦を繰り広げる世界観は、映画『エイリアン』や『エイリアン2』に相当しよう。ちゃんとフェイスハガーまで登場する。
お菓子の国のレースゲーム「シュガー・ラッシュ」は、マリオカートを思わせる世界だ。『REDLINE』や『カーズ2』の記事でも述べたように、カーレースはアニメーションの題材として打ってつけであり、本作でもスリリングなレースが楽しめる。
そして主人公ラルフが暮らす「フィックス・イット・フェリックス」は、マリオのデビュー作「ドンキーコング」のような世界だ。そこは8ビットゲームの素朴な見かけとは裏腹に、ゴミ溜めに住むラルフが高層マンションの住民から邪険にされる格差社会である。
これらユニークな世界を幾つも登場させる上で、リッチ・ムーア監督はゲームごとの世界観をしっかり残すことにこだわった。そのために、三つの異なる世界を"異なる自然法則をもつ惑星"に見立てることにしたという。
だから観客は、『シュガー・ラッシュ』1本でまるで違った三つの世界を楽しむことができる。
「3」という数字は、映画を面白くする秘訣かもしれない。
三つの惑星を舞台にするのは、スター・ウォーズシリーズでお馴染みの手法だ。『新たなる希望』ではタトゥイーン、デス・スター、ヤヴィンを訪れ、『ファントム・メナス』でナブー、タトゥイーン、コルサントが舞台となるように、映画を変化に富ませるには"三つの世界"が最適なのだろう。
しかも『シュガー・ラッシュ』では、単に舞台が三つあるだけではなく、それぞれの世界に達成すべき冒険と異なる物語性があり、これがどれも面白い。
もちろん、ゲームセンターのゲーム機は三台だけじゃないから、他にも多くの世界が存在する。
ラルフが愚痴をこぼす酒場「タッパー」をはじめ、実在のゲームの世界やキャラクターが続々と登場するのは、たとえゲームを知らなくてもバラエティの豊かさを感じて楽しい。
バラエティに富むのは世界観だけではない。『シュガー・ラッシュ』には幾つものストーリーが織り込まれている。
一つに、みんなから除け者にされた男が自分の生き方を見つける物語があり、また一つには、誰もが社会にとって大事な歯車であることに気がつく物語でもある。そしてまた、友情の絆を描いた物語であり、ラブロマンスでもあり、さらに貴種流離譚でもある。
メインキャラクターがたった四人しかいないのに、その豊かなストーリーには舌を巻く。
こんな風にあれもこれも手を出すと、往々にして、とっ散らかって収拾がつかなくなってしまうものだが、本作はレースの盛り上がりと、サイ・バグとの戦いと、ラルフの成長とが、一つのクライマックスに収斂し、複数世界に張り巡らされた伏線が一気に開花する。
観客が作品に織り込まれたストーリーのどれに感情移入しようとも、このクライマックスには大満足だろう。
このような見事な展開の肝となるのが、ゲーム・セントラル・ステーションの存在だ。本作の舞台となる四番目の世界である。
もっとも、ゲーム・セントラル・ステーションそのものには物語性がない。ゲーム・セントラル・ステーションは、物理的にはゲーム機が接続されたテーブルタップだ。各ゲームの世界はテーブルタップを介して電源コードで結ばれている。見てくれも駅構内のような、地味な世界である。
とはいえ、ゲーム・セントラル・ステーションがあるからこそ、各ゲームのキャラクターは異なるゲーム世界へ行けるのであり、ステーションの検疫官サージ・プロテクターが通行を監視しているからこそ、本作の世界に秩序が生まれる。
まったく世界観の異なるゲーム世界が混在しながら、本作に一本筋が通っているのは、ゲーム世界に共通な掟とゲーム・セントラル・ステーションのおかげなのだ。
ここらへん、多元宇宙もののSFを好きな御仁は、ニヤリとすることだろう。
並行して異なる世界が存在する設定、それらを主人公が移動することで巻き起こる冒険は、典型的な多元宇宙ものである。したがってゲーム・セントラル・ステーションの検疫官は、並行時間パトロールに相当する。
たとえば、キース・ローマー著『多元宇宙の王子』に登場し、時空連続体をまたがる事件の解決に当たる"セントラル"や、同じくキース・ローマーの『多元宇宙の帝国』で時空連続体を監視する"帝国"等、並行時間パトロールを描いた小説は多い。キース・ローマーのこれらの作品の主人公は"セントラル"や"帝国"に監視されているが、監視する側を主人公にした痛快作にはマイクル・マッコーラムの『時空監視官出動!』等がある。
作品ごとに呼び名は違えど、このような並行時間パトロールが登場すれば、複数の世界が混在しても統一感が得られるし、作品のスケールも広がる。
『シュガー・ラッシュ』はカワイイお菓子の国が主な舞台でありながら、多元宇宙テーマのSFに通じる骨太の世界観に貫かれており、だからこそ誰もが楽しめる安定感があるのだろう。
付記
『シュガー・ラッシュ』と同時上映の『紙ひこうき』は、ロマンチックな短編だ。
無生物の紙ひこうきがリズミカルに動く様子は、ミッキーの魔法でモップたちが動き出す『ファンタジア』を髣髴とさせ、アニメーションならではの素晴らしさに溢れている。
第85回アカデミー賞で短編アニメーション映画賞を受賞するのも納得だろう。
傑作長編『シュガー・ラッシュ』と傑作短編『紙ひこうき』の二本立て。なんとも贅沢なプログラムだ。
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監督・原案/リッチ・ムーア
出演/ジョン・C・ライリー サラ・シルヴァーマン ジャック・マクブレイヤー ジェーン・リンチ アラン・テュディック
日本語吹替版/山寺宏一 諸星すみれ 花輪英司 田村聖子 多田野曜平
日本公開/2013年3月23日
ジャンル/[ファンタジー] [アドベンチャー] [ファミリー] [SF]


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【theme : ディズニー映画】
【genre : 映画】
tag : リッチ・ムーアジョン・C・ライリーサラ・シルヴァーマンジャック・マクブレイヤージェーン・リンチアラン・テュディック山寺宏一諸星すみれ花輪英司
『愛、アムール』 愛という名の依存
![愛、アムール [DVD]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/71tzKd5OlLL._SL160_.jpg)
『白いリボン』で悪意の誕生を描いたミヒャエル・ハネケ監督が、次回作では打って変わってAmour(愛)をテーマにした――のだろうか。
「愛」とは美しい言葉だが、ミヒャエル・ハネケは、私たちが愛だと思っているものの表皮をはぎ取り、その正体の深刻さを眼前にさらけ出す。この映画の題名が『愛、アムール』(原題『Amour』)とは、なんとも皮肉なことだ。
『愛、アムール』は、音楽家の老夫婦の二人暮しを描いている。子供も音楽家として独立し、ときには世界的なピアニストになった弟子が訪ねてくれる。経済的にも文化的にも充実した生活を送る二人だった。
しかし、妻が体を壊したことから、二人の関係は変化する。夫婦であり音楽家でもあった二人が、介護する者とされる者の二つの立場に分かれるのだ。
映画はそのほとんどがアパルトマン内での夫婦の描写である。
妻はまず半身が麻痺して車椅子の生活になる。次には顔面も麻痺して満足に話せなくなる。さらには寝たきりになり、記憶も混乱し、我が子のことも識別できなくなる。
徐々に症状が重くなっていく妻を夫は献身的に介護する。だから本作は介護を題材にした作品と見ることもできる。だが、問題の本質はそこにはない。
夫の介護を受けざるを得ない妻と、妻の介護にのめり込む夫の、これは共依存を描いた作品なのだ。
共依存とは、他者が自分に依存し、同時に自分もその他者に依存している状態を指す。
本作の妻が夫に依存しているのは一目瞭然だ。妻は夫の手助けがなければ室内の移動も食事もままならない。
では夫は妻に何を依存しているかといえば、自分が助けなければ何もできない妻がいることで、自分に存在意義を感じているのだ。共依存とは「他者に必要とされることで、自分の存在意義を見い出すこと」なのである。
共依存は、アルコール依存症患者とその世話をする家族の関係から知られるようになったという。ダメ男となかなか別れない妻が、なぜ別れないのかを問われて「私がいないと、ダメになってしまうのよ、あの人」と答えるようなケースは、映画でもしばしば取り上げられるところである。
アルコール依存症に限らず、ドメスティックバイオレンスやギャンブル依存でも同様の事例は見られよう。
『愛、アムール』は、夫婦が介護を通して共依存に陥る様子を綴っていく。
ハネケ監督の作品に説明的なセリフはないけれど、代わりに映像が雄弁に物語る。
判りやすいのが、水に足を取られたり口を封じられる夢のシーンや、連続して映し出される絵画だろう。
当初は夫も普通に妻を気遣って、入院させたり自宅に看護師を呼んだりするのだが、彼の心境は徐々に変化していく。画面いっぱいに映し出された絵画は、穏やかな木陰の絵から、嵐の前兆のように雲がむら立つ絵に変わり、遂には断崖絶壁を前にした二人の人物の絵に変わる。
そして夫の行動は、訪問介護研究所の記事「共依存とその弊害」に挙げられた例に酷似していく。
まだ意識がはっきりしていた頃の妻が入院を嫌がったことをアリバイにして、妻の症状がどんどん重くなっても夫は妻を自宅で介護し続ける。難癖を付けて看護師を追い出し、自分だけで世話しようとする。妻の部屋に鍵をかけ、妻の姿を人目にさらさないようにする。子供が心配して来ても、話をそらしたり遮ったりして、深刻な状態を打ち明けない。
どれもこれも、自分だけで妻のすべてを背負い込もうとする行為だ。
もしかしたら夫は自分の状態を自覚していたのかもしれない。
共依存からの回復には、日記を付けて心を整理することが役に立つという。
映画では、夫が誰に読ませるでもなく日々の出来事を書き綴る場面がたびたび挿入される。
このような夫の姿に同情したり悲しんだりできれば、観客はある種のカタルシスを得られるかもしれない。
しかしハネケ監督はモンタージュの技法を駆使することで、物語をミステリアスに、多義的に展開し、安易なカタルシスは味わわせない。
本作は倒叙法で描かれており、観客は最初に物語の結末を知ってしまう。だから観客は夫に感情移入するよりも、その結末に至った理由に興味をそそられてしまう。
また、介護の様子をつぶさに描写する一方で、看護師を追い出す経緯は大胆に省略し、はたして夫が難癖を付けただけなのか、看護師に落ち度があったのか、その判断を観客の想像に委ねてしまう。看護師は「こんなこと云われたことないわ!私はプロよ!」と怒りまくっており、おそらく夫が理不尽なクレームを付けたのだろうと察せられるが、肝心のクレームの内容が描かれないために、本当に看護師に問題があった可能性も捨てきれない。このシーンを見て、夫が重度の共依存に陥っていると解釈する人もいれば、しっかり者の夫が看護師の素行の悪さを見抜いたと解釈する人もいるだろう。
観客に自由に解釈させ、各人が納得するに任せるところが、ハネケ監督のしたたかさだ。
だが、これで終われば、本作は共依存を描いた映画の一つにすぎないだろう。
その人間関係が「共依存なのか、愛なのか」は難しい問題だが、『自虐の詩』や『その夜の侍』等、共依存と思われる状態を描いた映画は過去にもある。
『愛、アムール』が残酷なのは、劇中の共依存が不完全なことだ。共依存と呼ばれる状態は、二人の人間が過剰に依存し合うことのはずなのに、本作の妻は夫への依存を良しとしない。
もちろん身体的には、妻は夫の介護に依存している。だが、妻は夫よりも行動力があり、自立心が強いのだ。
そのことを端的に語るのが、映画冒頭の空き巣に関するシークエンスだ。幸いにもドアを傷つけられただけで盗難の被害はないようだが、妻はすぐにアパルトマンの管理人や警察に連絡しようと云う。だが、夫は演奏会を楽しんだ気分を台無しにしたくないからと、連絡を後回しにしてしまう。
妻はベッドに横たわるようになってからも、なんとか自力で歩こうとする。上手く歩けず転倒する妻に、夫が「なぜ自分に云わないんだ」と怒鳴るのは、妻への気遣いもさることながら、自分に依存しようとしない妻への怒りのためでもあろう。
挙句の果てに、妻は古いアルバムを持ち出して、結婚前の写真を見つめながら「人生は素晴らしい」などと口にする。
世界的なピアニストが、夫ではなく妻の弟子であることからは、妻が音楽家としてのみならず指導者としても優れていることがうかがえる。
妻は体の自由が失われていくことと反比例するように、夫の関与を拒絶する。夫が水を飲ませてやろうとしても、妻は口に注がれた水を吐き出してしまう。
怒りに駆られた夫の行き着く先は暴力だ。
夫のやり場のない想いを表すのが、部屋に舞い込む鳩である。
鳩が迷い込むシークエンスは二回ある。
映画の前半、鳩を見つけた夫は窓を開け放し、すぐに鳩を追い出している。ここでの鳩は、夫婦の部屋に現れた闖入者でしかない。
ところが後半での夫は窓を閉ざし、鳩を部屋の奥へ追い込んでいく。鳩を捕まえた夫は、鳩を毛布でくるみ、愛おしそうに撫でさする。まるで自分を拒絶する妻の代わりに、溢れる想いを受けとめてくれるものが見つかったかのように。
他者に必要とされることで自分の存在意義を見い出しているのに、病に臥せる妻は自分を必要としているはずなのに、その妻から拒絶されてしまう苦悩。無抵抗な鳩にしか想いをぶつけられない苦しみ。
その辛さは、やがて夫の日記すらも変質させる。
その日の出来事や感じたことを書くのは、自分の心を整理するためのはずだったが、夫は日記に嘘を書きはじめる。鳩を捕まえたことは書かず、あたかも鳩をすぐ逃がしてやったかのように書き記すのだ。
自分しか読まない日記にすら、ありのままのことを吐き出せなくなった夫は、この生活に限界を感じたのだろう。彼は唐突にピリオドを打ってしまう。
哺乳類や鳥類は、子孫を残すために「愛情」というメカニズムを発達させた。魚類や昆虫の多くが一度に大量の卵を産むことで子孫を残そうとするのに対し、私たち哺乳類や鳥類は少数の子供を親が守ることで子孫を残そうとする。
男女が愛し合い、協力し合い、愛する我が子を育むのは、生存競争に勝ち残り、繁殖する上で有効な戦略だった。
ミヒャエル・ハネケ監督は、あえて子育てを終えた男女を主人公にすることで、愛情と繁殖とを切り離した。
そして、この夫婦の物語に「愛」と名づけた。
夫のかいがいしい介護を目にしたアパルトマンの管理人は、まさしく愛に溢れる夫婦だと思ったのだろう。「あなたを尊敬します」と夫に告げる。
はたして、「愛」の名の下に突きつけられたこの物語を、私たちは本当に愛と呼ばねばならないのか。
![愛、アムール [DVD]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/71tzKd5OlLL._SL160_.jpg)
監督・脚本/ミヒャエル・ハネケ
出演/ジャン=ルイ・トランティニャン エマニュエル・リヴァ イザベル・ユペール アレクサンドル・タロー ウィリアム・シメル ラモン・アジーレ リタ・ブランコ
日本公開/2013年3月9日
ジャンル/[ロマンス] [ドラマ]


【theme : ヨーロッパ映画】
【genre : 映画】
tag : ミヒャエル・ハネケジャン=ルイ・トランティニャンエマニュエル・リヴァイザベル・ユペールアレクサンドル・タローウィリアム・シメルラモン・アジーレリタ・ブランコ
『オズ はじまりの戦い』が大切にした2つのこと
【ネタバレ注意】
サム・ライミ監督の『オズ はじまりの戦い』は、『オズの魔法使い』への愛情に満ちた、実に楽しいファンタジー映画だ。
本稿では、この作品についてネタバレを辞さずに語る。
『オズ はじまりの戦い』のネタバレというよりも、主に『オズの魔法使い』のネタバレだ。『オズ はじまりの戦い』そのものが『オズの魔法使い』のネタバレなので、これはいかんともしがたいし、『オズの魔法使い』について語れば『オズ はじまりの戦い』のネタバレになる。
1900年に出版された『オズの魔法使い』のことは多くの人が知っていようし、『オズの魔法使い』を知っていればその前日譚たる『オズ はじまりの戦い』のネタは割れているも同然だから、ネタバレ過多もご容赦願いたい。
『オズ はじまりの戦い』は、オズの魔法使いがオズの国にやってきて、国王になったいきさつを描く。『オズの魔法使い』の数十年前のお話だ。
本作は、ライマン・フランク・ボームが著した児童文学のオズ・シリーズをベースにしてはいるものの、それ以上に1939年公開のミュージカル映画『オズの魔法使』を意識している(映画の題名には送り仮名の「い」が付かない)。
ジュディ・ガーランド主演のこの映画は名作の誉れが高いし、劇中歌「虹の彼方に(Over the Rainbow)」は世界中のアーティストにカバーされているから誰もが一度ならず耳にしていることだろう。
本作における『オズの魔法使』へのリスペクトは、映像面で特に顕著だ。白黒の日常から色彩豊かなオズの国へ変化するところ。しかもカラーパートは往年のテクニカラーを思わせる発色で、エメラルド・シティの緑色もケシの花々の赤色も、過剰なまでの鮮やかさだ。絵に描いたようなエメラルド・シティの遠景は、1939年版そのものである。
けれども、1939年版とは違うところもある。
たとえば東の魔女が履いていたルビーの靴は出てこない。西の魔女にはホクロがない。
だが、私はそれで良いと思う。なぜならボームの原作小説には、ルビーの靴なんて出てこないし、魔女にはホクロがないからだ。
本来、東の魔女が履いているのは銀の靴である。ギリシャ神話のアルテミスが銀の馬車に乗っていたように、銀の弾丸が狼男や悪魔を撃退するように、特別な力が宿る靴には銀こそが相応しい。
それがルビーに変えられたのは、まだカラー映画が珍しかった1939年当時、せっかくのカラー映画なのだから銀よりも視覚に訴える色にしようとの考えからだ(1978年の映画『ウィズ』では原作どおり銀の靴)。
1939年版をリスペクトする作り手は、ルビーの靴を出したかったに違いない。
しかし、1939年版『オズの魔法使』の権利は、ワーナー・ブラザーズが有しているのだ。そのため『オズ はじまりの戦い』を制作したディズニーは、パブリックドメインに入っているボームの原作小説ならいくらでも料理できるけれど、1939年の映画で考案された要素は取り入れることができない。
本作の魔女が靴を見せないのは、それがルビーなのか銀なのかを観客の想像に委ねるためだろう。
東の魔女と西の魔女が姉妹という設定も1939年版のオリジナルだ。原作の魔女に血縁関係はない。
でも、本作のスタッフは二人の魔女を姉妹として描きたかった。そこで舞台『ウィキッド』でも見られる西の魔女が姉で東の魔女が妹という解釈は取らず、東の魔女を姉、西の魔女を妹にした。
ディズニーは1939年版を思わせる映画を作りながら、1939年版の特徴的な部分をあえて外すことで、ワーナー・ブラザーズの権利を侵害しないように細心の注意を払っている。
同時に、ケシの花を戦術に活用したり、1939年版では描けなかった「せとものの国」を登場させたりと、オズの世界への深い理解を示していることは、原作ファンに好意的に受け入れられるのではないだろうか。
ディズニーがオズ・シリーズに取り組むのは、本作がはじめてではない。
1985年にも『オズ』(原題『Return to Oz』)を制作している。これは『オズの魔法使』の後日譚だから、前日譚の『オズ はじまりの戦い』と合わせることで、『オズの魔法使』を挟み込む形になる。
ディズニーは自分が権利を持っていない『オズの魔法使』を中核に、勝手に三部作にしているのだ。
なぜディズニーはこれほど『オズの魔法使』にこだわるのだろうか。
それは100年以上もアメリカの子供たちに親しまれた夢と魔法の世界が、ディズニーのコンセプトとドンピシャに重なるからだろう。ディズニーにしてみれば、『オズの魔法使い』の世界は喉から手が出るほど欲しいはずだ。テーマパークにオズのアトラクションを置きたいだろうし、パレードに臆病なライオンやブリキの木こりやかかしを登場させたいだろう。
だったら『オズの魔法使い』を映画化すれば良さそうだが、ディズニーは負け戦はしない。すでに1939年版が映画史に残る名作として人々のあいだに浸透している。これを今から払拭するのは不可能だし、無謀な挑戦は笑い者になるだけだ。
ならば前日譚や後日譚で『オズの魔法使』を包囲して、オズ・シリーズならディズニーという評判を確立したい。
そんな思惑で行動しているのではないだろうか。
まぁ、妄想はともかく、ワーナー・ブラザーズの権利を侵害せずに、1939年版を髣髴とさせる映画にするという難題を、サム・ライミ監督が上手くこなしているのは確かだろう。
そして『オズの魔法使い』のとても大切な部分を、『オズ はじまりの戦い』はきちんと踏襲している。
私が『オズの魔法使い』で好きなのは、(1)オズの魔法使いが単なるペテン師でしかないこと、(2)オズの魔法使いの贈り物がひどくチープなことだ。
ここは説明が必要だろう。
オズの国には東西南北に一人ずつ魔女がおり、善悪に分かれて微妙なバランスを保っている(1939年版の映画では魔女が三人しかいないが)。
そして彼らの上に君臨するのが、エメラルド・シティに住む「オズの魔法使い」である。強大な魔法を操る魔女ですら恐れおののく偉大な魔法使い――その正体が『オズの魔法使い』の面白いところなのだが、ネタバレ覚悟で書いてしまおう、オズの魔法使いの正体はただのお爺さんなのだ。魔法なんて使えない、なんの力もない、たまたまオズの国にたどり着いた平凡な男なのだ。すなわち、『オズ はじまりの戦い』の主人公である。
はじめて『オズの魔法使い』を読んだとき、私はひどく驚いた。そしてとても感心した。
魔法の力で何でもできる魔女ですら、恐怖や思い込みに囚われると、思考が停止して、つまらないものに支配されてしまう。恐ろしい恐ろしいと思っているから恐ろしいのであって、その実態をきちんと探れば、ペテン師ごときに支配されずに済んだはずだ。
『オズの魔法使い』は思い込みに囚われる愚かさを示している。
またこれは、魔法という不思議な力ですら恐るるに足りず、ということでもある。
オズの魔法使いは、トリックを駆使して人々に本物の魔法使いだと思わせていた。魔法を使える魔女ですら、そのトリックに引っかかった。
つまり平凡な人間でも、知恵と工夫を凝らせば魔法をも凌駕できるのだ。
この原作の精神は、『オズ はじまりの戦い』にも受け継がれている。
『オズ はじまりの戦い』は、副題のとおり戦いがクライマックスだが、そこで敵を倒すのは魔法の力でも伝説の剣でもない。農夫や職人たちの知恵と工夫、そしてちょっぴりのこけおどしが功を奏する。
(2)の贈り物とは、ライオンとかかしとブリキの木こりに渡したものだ。
臆病なライオンは勇気が欲しい。藁のかかしは優れた頭脳が欲しい。ブリキの木こりは暖かなハートが欲しい。彼らはそれをオズの魔法使いに所望するのだが、ただの人間である「オズの魔法使い」にそんなものを授ける力はない。
けれども、オズの魔法使いはちゃんとそれらを授けてあげる。
本当は、勇気も頭脳もハートも、はじめから当人たちに備わっているのだ。オズの魔法使いが行うのは、それを自覚させてやることだ。
そのために彼は、実にくだらないものを三人に渡す。たとえばかかしには、脳ミソと称して針やらピンやらを頭に詰めてやる。かかしは頭が鋭くなったと大喜びだ。
ここで渡す物には、何の価値もない。その品物がくだらなければくだらないほど、大切なのは気の持ちようであることが強調される。
この点もまた、『オズ はじまりの戦い』は受け継いでいる。
主人公が仲間たちにプレゼントを贈る場面で、私はくだらないものを期待した。それが品物としてはくだらなければくだらないほど、気持ちでカバーしなければならないからだ。それでこそオズの魔法使いだから。
そして『オズ はじまりの戦い』は、見事に期待に応えてくれた。
加えて、『オズの魔法使い』は何かが足りないダメ男たちの再生物語でもある。
勇気がない、知恵がない、思いやりがない。そう嘆いてしょぼくれていた男たちが、小さな子供と旅するうちに勇気や知恵や思いやりを発揮して立ち直る。それが『オズの魔法使い』なのだ。
『オズ はじまりの戦い』の主人公は、善い心が足りないと感じている。野心家で金に汚いペテン師を自認する彼は、純朴な女性からの求愛に応じる資格すらないと思っている。そんな彼が冒険の果てに、自分にも善い心があるのだと気づくまでを描くのが本作だ。
善い心も、勇気や知恵や思いやりと同様に、他人から貰うものではない。自分で気がつくべきことだ。そこを外さない『オズ はじまりの戦い』は、ちゃんとダメ男の再生物語になっている。
これらの点さえブレなければ、『オズの魔法使い』に連なる作品として申し分ない。
『オズ はじまりの戦い』 [あ行]
監督/サム・ライミ
出演/ジェームズ・フランコ ミラ・クニス レイチェル・ワイズ ミシェル・ウィリアムズ ビル・コッブス トニー・コックス ザック・ブラフ ジョーイ・キング
日本公開/2013年3月8日
ジャンル/[ファンタジー] [アドベンチャー]
http://bookmarks.yahoo.co.jp/bookmarklet/showpopup?t='+encodeURIComponent(document.title)+'&u='+encodeURIComponent(location.href)+'&ei=UTF-8','_blank','width=550,height=480,left=100,top=50,scrollbars=1,resizable=1',0);">
サム・ライミ監督の『オズ はじまりの戦い』は、『オズの魔法使い』への愛情に満ちた、実に楽しいファンタジー映画だ。
本稿では、この作品についてネタバレを辞さずに語る。
『オズ はじまりの戦い』のネタバレというよりも、主に『オズの魔法使い』のネタバレだ。『オズ はじまりの戦い』そのものが『オズの魔法使い』のネタバレなので、これはいかんともしがたいし、『オズの魔法使い』について語れば『オズ はじまりの戦い』のネタバレになる。
1900年に出版された『オズの魔法使い』のことは多くの人が知っていようし、『オズの魔法使い』を知っていればその前日譚たる『オズ はじまりの戦い』のネタは割れているも同然だから、ネタバレ過多もご容赦願いたい。
『オズ はじまりの戦い』は、オズの魔法使いがオズの国にやってきて、国王になったいきさつを描く。『オズの魔法使い』の数十年前のお話だ。
本作は、ライマン・フランク・ボームが著した児童文学のオズ・シリーズをベースにしてはいるものの、それ以上に1939年公開のミュージカル映画『オズの魔法使』を意識している(映画の題名には送り仮名の「い」が付かない)。
ジュディ・ガーランド主演のこの映画は名作の誉れが高いし、劇中歌「虹の彼方に(Over the Rainbow)」は世界中のアーティストにカバーされているから誰もが一度ならず耳にしていることだろう。
本作における『オズの魔法使』へのリスペクトは、映像面で特に顕著だ。白黒の日常から色彩豊かなオズの国へ変化するところ。しかもカラーパートは往年のテクニカラーを思わせる発色で、エメラルド・シティの緑色もケシの花々の赤色も、過剰なまでの鮮やかさだ。絵に描いたようなエメラルド・シティの遠景は、1939年版そのものである。
けれども、1939年版とは違うところもある。
たとえば東の魔女が履いていたルビーの靴は出てこない。西の魔女にはホクロがない。
だが、私はそれで良いと思う。なぜならボームの原作小説には、ルビーの靴なんて出てこないし、魔女にはホクロがないからだ。
本来、東の魔女が履いているのは銀の靴である。ギリシャ神話のアルテミスが銀の馬車に乗っていたように、銀の弾丸が狼男や悪魔を撃退するように、特別な力が宿る靴には銀こそが相応しい。
それがルビーに変えられたのは、まだカラー映画が珍しかった1939年当時、せっかくのカラー映画なのだから銀よりも視覚に訴える色にしようとの考えからだ(1978年の映画『ウィズ』では原作どおり銀の靴)。
1939年版をリスペクトする作り手は、ルビーの靴を出したかったに違いない。
しかし、1939年版『オズの魔法使』の権利は、ワーナー・ブラザーズが有しているのだ。そのため『オズ はじまりの戦い』を制作したディズニーは、パブリックドメインに入っているボームの原作小説ならいくらでも料理できるけれど、1939年の映画で考案された要素は取り入れることができない。
本作の魔女が靴を見せないのは、それがルビーなのか銀なのかを観客の想像に委ねるためだろう。
東の魔女と西の魔女が姉妹という設定も1939年版のオリジナルだ。原作の魔女に血縁関係はない。
でも、本作のスタッフは二人の魔女を姉妹として描きたかった。そこで舞台『ウィキッド』でも見られる西の魔女が姉で東の魔女が妹という解釈は取らず、東の魔女を姉、西の魔女を妹にした。
ディズニーは1939年版を思わせる映画を作りながら、1939年版の特徴的な部分をあえて外すことで、ワーナー・ブラザーズの権利を侵害しないように細心の注意を払っている。
同時に、ケシの花を戦術に活用したり、1939年版では描けなかった「せとものの国」を登場させたりと、オズの世界への深い理解を示していることは、原作ファンに好意的に受け入れられるのではないだろうか。
ディズニーがオズ・シリーズに取り組むのは、本作がはじめてではない。
1985年にも『オズ』(原題『Return to Oz』)を制作している。これは『オズの魔法使』の後日譚だから、前日譚の『オズ はじまりの戦い』と合わせることで、『オズの魔法使』を挟み込む形になる。
ディズニーは自分が権利を持っていない『オズの魔法使』を中核に、勝手に三部作にしているのだ。
なぜディズニーはこれほど『オズの魔法使』にこだわるのだろうか。
それは100年以上もアメリカの子供たちに親しまれた夢と魔法の世界が、ディズニーのコンセプトとドンピシャに重なるからだろう。ディズニーにしてみれば、『オズの魔法使い』の世界は喉から手が出るほど欲しいはずだ。テーマパークにオズのアトラクションを置きたいだろうし、パレードに臆病なライオンやブリキの木こりやかかしを登場させたいだろう。
だったら『オズの魔法使い』を映画化すれば良さそうだが、ディズニーは負け戦はしない。すでに1939年版が映画史に残る名作として人々のあいだに浸透している。これを今から払拭するのは不可能だし、無謀な挑戦は笑い者になるだけだ。
ならば前日譚や後日譚で『オズの魔法使』を包囲して、オズ・シリーズならディズニーという評判を確立したい。
そんな思惑で行動しているのではないだろうか。
まぁ、妄想はともかく、ワーナー・ブラザーズの権利を侵害せずに、1939年版を髣髴とさせる映画にするという難題を、サム・ライミ監督が上手くこなしているのは確かだろう。
そして『オズの魔法使い』のとても大切な部分を、『オズ はじまりの戦い』はきちんと踏襲している。
私が『オズの魔法使い』で好きなのは、(1)オズの魔法使いが単なるペテン師でしかないこと、(2)オズの魔法使いの贈り物がひどくチープなことだ。
ここは説明が必要だろう。
オズの国には東西南北に一人ずつ魔女がおり、善悪に分かれて微妙なバランスを保っている(1939年版の映画では魔女が三人しかいないが)。
そして彼らの上に君臨するのが、エメラルド・シティに住む「オズの魔法使い」である。強大な魔法を操る魔女ですら恐れおののく偉大な魔法使い――その正体が『オズの魔法使い』の面白いところなのだが、ネタバレ覚悟で書いてしまおう、オズの魔法使いの正体はただのお爺さんなのだ。魔法なんて使えない、なんの力もない、たまたまオズの国にたどり着いた平凡な男なのだ。すなわち、『オズ はじまりの戦い』の主人公である。
はじめて『オズの魔法使い』を読んだとき、私はひどく驚いた。そしてとても感心した。
魔法の力で何でもできる魔女ですら、恐怖や思い込みに囚われると、思考が停止して、つまらないものに支配されてしまう。恐ろしい恐ろしいと思っているから恐ろしいのであって、その実態をきちんと探れば、ペテン師ごときに支配されずに済んだはずだ。
『オズの魔法使い』は思い込みに囚われる愚かさを示している。
またこれは、魔法という不思議な力ですら恐るるに足りず、ということでもある。
オズの魔法使いは、トリックを駆使して人々に本物の魔法使いだと思わせていた。魔法を使える魔女ですら、そのトリックに引っかかった。
つまり平凡な人間でも、知恵と工夫を凝らせば魔法をも凌駕できるのだ。
この原作の精神は、『オズ はじまりの戦い』にも受け継がれている。
『オズ はじまりの戦い』は、副題のとおり戦いがクライマックスだが、そこで敵を倒すのは魔法の力でも伝説の剣でもない。農夫や職人たちの知恵と工夫、そしてちょっぴりのこけおどしが功を奏する。
(2)の贈り物とは、ライオンとかかしとブリキの木こりに渡したものだ。
臆病なライオンは勇気が欲しい。藁のかかしは優れた頭脳が欲しい。ブリキの木こりは暖かなハートが欲しい。彼らはそれをオズの魔法使いに所望するのだが、ただの人間である「オズの魔法使い」にそんなものを授ける力はない。
けれども、オズの魔法使いはちゃんとそれらを授けてあげる。
本当は、勇気も頭脳もハートも、はじめから当人たちに備わっているのだ。オズの魔法使いが行うのは、それを自覚させてやることだ。
そのために彼は、実にくだらないものを三人に渡す。たとえばかかしには、脳ミソと称して針やらピンやらを頭に詰めてやる。かかしは頭が鋭くなったと大喜びだ。
ここで渡す物には、何の価値もない。その品物がくだらなければくだらないほど、大切なのは気の持ちようであることが強調される。
この点もまた、『オズ はじまりの戦い』は受け継いでいる。
主人公が仲間たちにプレゼントを贈る場面で、私はくだらないものを期待した。それが品物としてはくだらなければくだらないほど、気持ちでカバーしなければならないからだ。それでこそオズの魔法使いだから。
そして『オズ はじまりの戦い』は、見事に期待に応えてくれた。
加えて、『オズの魔法使い』は何かが足りないダメ男たちの再生物語でもある。
勇気がない、知恵がない、思いやりがない。そう嘆いてしょぼくれていた男たちが、小さな子供と旅するうちに勇気や知恵や思いやりを発揮して立ち直る。それが『オズの魔法使い』なのだ。
『オズ はじまりの戦い』の主人公は、善い心が足りないと感じている。野心家で金に汚いペテン師を自認する彼は、純朴な女性からの求愛に応じる資格すらないと思っている。そんな彼が冒険の果てに、自分にも善い心があるのだと気づくまでを描くのが本作だ。
善い心も、勇気や知恵や思いやりと同様に、他人から貰うものではない。自分で気がつくべきことだ。そこを外さない『オズ はじまりの戦い』は、ちゃんとダメ男の再生物語になっている。
これらの点さえブレなければ、『オズの魔法使い』に連なる作品として申し分ない。
![オズ はじまりの戦い 3Dスーパー・セット(2枚組/デジタルコピー付き) [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/51aniwGy00L._SL160_.jpg)
監督/サム・ライミ
出演/ジェームズ・フランコ ミラ・クニス レイチェル・ワイズ ミシェル・ウィリアムズ ビル・コッブス トニー・コックス ザック・ブラフ ジョーイ・キング
日本公開/2013年3月8日
ジャンル/[ファンタジー] [アドベンチャー]


【theme : ディズニー映画】
【genre : 映画】
tag : サム・ライミジェームズ・フランコミラ・クニスレイチェル・ワイズミシェル・ウィリアムズビル・コッブストニー・コックスザック・ブラフジョーイ・キング
『フラッシュバックメモリーズ 3D』 同時に流れる3つの時間
この映画らしからぬ映画の凄さをどこから語ろう。
私は『フラッシュバックメモリーズ 3D』を観て、ディジュリドゥなるものをはじめて知った。本作の魅力の根源にはディジュリドゥがあり、ディジュリドゥの魅力を最大限に活かして本作は撮られている。それが見事に成功しているところに、この映画――映像作品の驚きがある。
オーストラリアのアボリジニーに伝わるディジュリドゥは、世界最古の管楽器ともいわれ、木製ながら金管楽器に分類されるという。それは唇の振動を利用して音を発するからだ。
2メートル近くもある巨大な管から発せられる音は、低く深く、くぐもっている。軽く目を閉じてディジュリドゥを吹き続けるGOMAさんに、パーカッションやドラムスが加わった GOMA & The Jungle Rhythm Section の音楽は、リズミカルで実にノリがいい。
重層的な構造を持つ『フラッシュバックメモリーズ 3D』の第一の魅力は、彼らのスタジオライブの素晴らしさだ。劇中曲を流すのとはわけが違う。72分の上映時間のほとんどが彼らのライブであり、その音楽をじっくり堪能できる。
GOMA & The Jungle Rhythm Section の音楽が素晴らしいのはもちろんのこと、それをカメラに収める松江哲明監督の手腕も素晴らしい。
松江哲明監督はカメラをあまり動かさず、アングルも奇をてらわずに、奏者をしっかり捉えようとする。それがどんなに効果的か、言葉では表現しにくい。
先日、私はあるバンドのライブ・ビューイングに足を運んだ。バンドの楽曲は聴き応えがあったし、コンサート会場に行けなくても、各国のファンがスクリーンの前で同時に演奏を楽しめることは大いに愉快だった。
だが、映像はいささか残念だった。同じ映像が後日テレビでも放映されるためだろう、ライブ・ビューイングで配信された映像は凝りに凝っていたのだ。何台ものカメラが素早く切り替わり、目まぐるしく動き回って、ミュージシャンの姿を上から下から撮りまくる。
テレビで見る視聴者には、そんな映像も刺激的で楽しいかもしれない。
だが、劇場の観客席に身を置いた私にとって、激しく動くカメラは臨場感を損なうばかりだった。だって、本当にコンサート会場にいたなら、そんなに視点が動くはずはないのだから。せっかく演奏を同時中継する場所にいながら、カメラが切り替わるたびに、そこがコンサート会場ではないことを思い知らされた。
その点、松江哲明監督はむやみにカメラを動かさず、観客がライブにのめり込むに任せていた。
しかも、3Dにすることで驚くべき効果が生まれていた。
奏者を画面の手前に配置し、奏者の背後にスクリーンがあるかのようにイメージ映像を映し出す。それを3Dで見せられると、スクリーンの中に奏者とイメージ映像があるのではなく、イメージ映像を映したスクリーンの前にGOMAさんたちが立っているように錯覚するのだ。
これは同時中継のライブ・ビューイングをはるかに上回る臨場感だ。これまで『アバター』や『ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日』等で3D映像の美しさを堪能してきたが、それらとは3Dの使い方が決定的に違う。
ましてや、映し出される映像は、GOMAさんの過去のビデオや、臨死体験をアニメーションにしたものであり、ライブを行うGOMAさんの現在とは、違う次元のものばかりだった。
観客と、遠くに見えるGOMAさんの過去や心象風景の映像とのあいだに、現在のGOMAさんたちがいることで――その優れた演奏で観客を魅了することで、観客の今・GOMAさんの現在・GOMAさんの過去という三つの世界が文字どおり立体的に融合する。三つの時間が同時に流れ、スクリーンのあちらとこちらを隔てる壁がみるみる透明になっていく。
3Dにはこんな使い方があったのかと、私は舌を巻いた。
松江哲明監督は公式サイトに次のようなメッセージを寄せている。
---
今を生きる彼をドキュメンタリーの手法で撮影することは必然だったが、彼が無くした過去も「現在」として同時に表現しなければいけない、と僕は考えた。そのためには3Dをパーソナルな表現として捉え、立体感や奥行きをレイヤーとして認識する必要があった。
---
さらに、ここからがディジュリドゥの面白いところだ。
金管楽器といっても、トランペットあたりだと人間の声とは異質の音が朗々と響くものだが、ディジュリドゥは低く深い音がジワジワと伝わってくる。奏者が唇を振動させているのは聴き手にも判るので、あたかも奏者が大きな筒を口に当てて喋っているように思える。実際、GOMAさんの吹くディジュリドゥは、まるで僧侶の読経のようである。
いったいGOMAさんは何を喋っているのだろう。私たちに何を伝えようとしているのだろう。
そんな気持ちになったところで、スクリーンに文字が浮かび上がる。
それはGOMAさんが語りかける言葉のようだ。
松江哲明監督は、GOMAさんの日記から抜粋した文字をスクリーンに投影する。それは交通事故のあとに、人から勧められて書き出したものだ。
2009年11月の事故で脳に損傷を受けたGOMAさんは、過去の記憶の多くを失った。ディジュリドゥの本場オーストラリアに渡り、優れた奏者として活躍していた彼が、ディジュリドゥが楽器であることすら忘れてしまった。写真を見ても、そこに写る人がなぜ笑っているのか判らない。会う人に挨拶しようにも、その人と自分がどんな関係なのかも判らない。
今も、日々の出来事を憶えていられない。日記に書いたことも、いつまで記憶していられるか判らない。
そんな彼と家族のひたむきな言葉がスクリーンに浮かび上がった。
ある日GOMAさんは蕎麦屋でうまい蕎麦を食った。彼の日記には、うまい蕎麦を食べたと嬉しそうに書いてある。
しかし、奥様の日記には、何度も入ったことのある蕎麦屋なのに、美味しいと喜んでいるGOMAさんへの戸惑いが綴られる。
なぜスピーカーが家にあるのか判らなかったこと。再びディジュリドゥを吹き出したGOMAさんが、来る日も来る日も練習して、遂に一曲吹けたときに大泣きしたこと。そんな日記の断片が、ライブ中のGOMAさんの背後に映し出される。
ディジュリドゥの音を聞きながら文字を目で追うと、音楽に合わせてGOMAさんが朗読しているような、ディジュリドゥを通して私たちに囁いているような、そんな気持ちになっていく。
映画がGOMAさんの「声」になっていく。
上映後にトークショーがあり、SPACE SHOWER TV の高根順次プロデューサーが語ってくれた。
事故のために音楽活動を中断していたGOMAさんが、ようやく復活ライブを開催する。それをドキュメンタリーにできないかという申し入れが音楽番組専門チャンネルの SPACE SHOWER TV にあったこと。事故に遭ったミュージシャンの復帰を描くなら、自分より適任者がいるんじゃないかと松江監督が感じていたこと。それでもライブに行ってみたらその音楽に圧倒されて、音楽を前面に出した作品になったこと。
GOMAさんは、映画のおかげで多くの人に自分のことを判ってもらえたと語っていた。
映画の収録を行ったことすら、しっかとは記憶していないGOMAさんにとって、その半生と音楽を記録した映画の存在は観客の考える以上に大きいだろう。
GOMAさんの穏やかな笑顔が何よりも印象に残った。
『フラッシュバックメモリーズ 3D』 [は行]
監督/松江哲明 プロデューサー/高根順次
出演/GOMA
日本公開/2013年1月19日
ジャンル/[音楽] [ドキュメンタリー]
http://bookmarks.yahoo.co.jp/bookmarklet/showpopup?t='+encodeURIComponent(document.title)+'&u='+encodeURIComponent(location.href)+'&ei=UTF-8','_blank','width=550,height=480,left=100,top=50,scrollbars=1,resizable=1',0);">
私は『フラッシュバックメモリーズ 3D』を観て、ディジュリドゥなるものをはじめて知った。本作の魅力の根源にはディジュリドゥがあり、ディジュリドゥの魅力を最大限に活かして本作は撮られている。それが見事に成功しているところに、この映画――映像作品の驚きがある。
オーストラリアのアボリジニーに伝わるディジュリドゥは、世界最古の管楽器ともいわれ、木製ながら金管楽器に分類されるという。それは唇の振動を利用して音を発するからだ。
2メートル近くもある巨大な管から発せられる音は、低く深く、くぐもっている。軽く目を閉じてディジュリドゥを吹き続けるGOMAさんに、パーカッションやドラムスが加わった GOMA & The Jungle Rhythm Section の音楽は、リズミカルで実にノリがいい。
重層的な構造を持つ『フラッシュバックメモリーズ 3D』の第一の魅力は、彼らのスタジオライブの素晴らしさだ。劇中曲を流すのとはわけが違う。72分の上映時間のほとんどが彼らのライブであり、その音楽をじっくり堪能できる。
GOMA & The Jungle Rhythm Section の音楽が素晴らしいのはもちろんのこと、それをカメラに収める松江哲明監督の手腕も素晴らしい。
松江哲明監督はカメラをあまり動かさず、アングルも奇をてらわずに、奏者をしっかり捉えようとする。それがどんなに効果的か、言葉では表現しにくい。
先日、私はあるバンドのライブ・ビューイングに足を運んだ。バンドの楽曲は聴き応えがあったし、コンサート会場に行けなくても、各国のファンがスクリーンの前で同時に演奏を楽しめることは大いに愉快だった。
だが、映像はいささか残念だった。同じ映像が後日テレビでも放映されるためだろう、ライブ・ビューイングで配信された映像は凝りに凝っていたのだ。何台ものカメラが素早く切り替わり、目まぐるしく動き回って、ミュージシャンの姿を上から下から撮りまくる。
テレビで見る視聴者には、そんな映像も刺激的で楽しいかもしれない。
だが、劇場の観客席に身を置いた私にとって、激しく動くカメラは臨場感を損なうばかりだった。だって、本当にコンサート会場にいたなら、そんなに視点が動くはずはないのだから。せっかく演奏を同時中継する場所にいながら、カメラが切り替わるたびに、そこがコンサート会場ではないことを思い知らされた。
その点、松江哲明監督はむやみにカメラを動かさず、観客がライブにのめり込むに任せていた。
しかも、3Dにすることで驚くべき効果が生まれていた。
奏者を画面の手前に配置し、奏者の背後にスクリーンがあるかのようにイメージ映像を映し出す。それを3Dで見せられると、スクリーンの中に奏者とイメージ映像があるのではなく、イメージ映像を映したスクリーンの前にGOMAさんたちが立っているように錯覚するのだ。
これは同時中継のライブ・ビューイングをはるかに上回る臨場感だ。これまで『アバター』や『ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日』等で3D映像の美しさを堪能してきたが、それらとは3Dの使い方が決定的に違う。
ましてや、映し出される映像は、GOMAさんの過去のビデオや、臨死体験をアニメーションにしたものであり、ライブを行うGOMAさんの現在とは、違う次元のものばかりだった。
観客と、遠くに見えるGOMAさんの過去や心象風景の映像とのあいだに、現在のGOMAさんたちがいることで――その優れた演奏で観客を魅了することで、観客の今・GOMAさんの現在・GOMAさんの過去という三つの世界が文字どおり立体的に融合する。三つの時間が同時に流れ、スクリーンのあちらとこちらを隔てる壁がみるみる透明になっていく。
3Dにはこんな使い方があったのかと、私は舌を巻いた。
松江哲明監督は公式サイトに次のようなメッセージを寄せている。
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今を生きる彼をドキュメンタリーの手法で撮影することは必然だったが、彼が無くした過去も「現在」として同時に表現しなければいけない、と僕は考えた。そのためには3Dをパーソナルな表現として捉え、立体感や奥行きをレイヤーとして認識する必要があった。
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さらに、ここからがディジュリドゥの面白いところだ。
金管楽器といっても、トランペットあたりだと人間の声とは異質の音が朗々と響くものだが、ディジュリドゥは低く深い音がジワジワと伝わってくる。奏者が唇を振動させているのは聴き手にも判るので、あたかも奏者が大きな筒を口に当てて喋っているように思える。実際、GOMAさんの吹くディジュリドゥは、まるで僧侶の読経のようである。
いったいGOMAさんは何を喋っているのだろう。私たちに何を伝えようとしているのだろう。
そんな気持ちになったところで、スクリーンに文字が浮かび上がる。
それはGOMAさんが語りかける言葉のようだ。
松江哲明監督は、GOMAさんの日記から抜粋した文字をスクリーンに投影する。それは交通事故のあとに、人から勧められて書き出したものだ。
2009年11月の事故で脳に損傷を受けたGOMAさんは、過去の記憶の多くを失った。ディジュリドゥの本場オーストラリアに渡り、優れた奏者として活躍していた彼が、ディジュリドゥが楽器であることすら忘れてしまった。写真を見ても、そこに写る人がなぜ笑っているのか判らない。会う人に挨拶しようにも、その人と自分がどんな関係なのかも判らない。
今も、日々の出来事を憶えていられない。日記に書いたことも、いつまで記憶していられるか判らない。
そんな彼と家族のひたむきな言葉がスクリーンに浮かび上がった。
ある日GOMAさんは蕎麦屋でうまい蕎麦を食った。彼の日記には、うまい蕎麦を食べたと嬉しそうに書いてある。
しかし、奥様の日記には、何度も入ったことのある蕎麦屋なのに、美味しいと喜んでいるGOMAさんへの戸惑いが綴られる。
なぜスピーカーが家にあるのか判らなかったこと。再びディジュリドゥを吹き出したGOMAさんが、来る日も来る日も練習して、遂に一曲吹けたときに大泣きしたこと。そんな日記の断片が、ライブ中のGOMAさんの背後に映し出される。
ディジュリドゥの音を聞きながら文字を目で追うと、音楽に合わせてGOMAさんが朗読しているような、ディジュリドゥを通して私たちに囁いているような、そんな気持ちになっていく。
映画がGOMAさんの「声」になっていく。
上映後にトークショーがあり、SPACE SHOWER TV の高根順次プロデューサーが語ってくれた。
事故のために音楽活動を中断していたGOMAさんが、ようやく復活ライブを開催する。それをドキュメンタリーにできないかという申し入れが音楽番組専門チャンネルの SPACE SHOWER TV にあったこと。事故に遭ったミュージシャンの復帰を描くなら、自分より適任者がいるんじゃないかと松江監督が感じていたこと。それでもライブに行ってみたらその音楽に圧倒されて、音楽を前面に出した作品になったこと。
GOMAさんは、映画のおかげで多くの人に自分のことを判ってもらえたと語っていた。
映画の収録を行ったことすら、しっかとは記憶していないGOMAさんにとって、その半生と音楽を記録した映画の存在は観客の考える以上に大きいだろう。
GOMAさんの穏やかな笑顔が何よりも印象に残った。
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監督/松江哲明 プロデューサー/高根順次
出演/GOMA
日本公開/2013年1月19日
ジャンル/[音楽] [ドキュメンタリー]


【theme : ドキュメンタリー映画】
【genre : 映画】