『横道世之介』は、どこにいる?

 小説の登場人物のうちでもっとも重要なのは主人公のはずだが、吉田修一氏は自著『悪人』の主人公祐一に関して、「自分は祐一そのものを書かなかった」と語っている。
 小説に主人公が書かれていないのだから、映画化しにくかったことだろう。吉田修一氏と共同で脚本を手掛けた李相日(リ・サンイル)監督は、原作を読んでも「祐一の存在そのものがすごくもやもやとしていて掴みきれなかった」と述べている。
 では『悪人』の主人公をどのように表現しているのかと云えば、『悪人』の原作小説は主人公の周囲の人を書くことで主人公を浮かび上がらせていたのだ。

 やはり吉田修一氏が原作の『パレード』では、周囲が抱くイメージと本人とのギャップがモチーフになっている。
 『パレード』に登場する若者たちは、共同生活を営みながらも、お互いを全人的に理解することはない。お互いが見ている/見せているのは、その人のほんの一面だけで、他の面があるのかどうかも、あったらそれがどのような面なのかも、互いにまったく知らずにいる。
 知らないどころか、見ている/見せているほんの一面からその人間のイメージを作り上げ、イメージを壊さないように各人が役割を演じながら、かろうじて人間関係を保っている。

 このような作劇法をさらに深化させたのが『横道世之介』だろう(例によって吉田修一氏の原作は未読)。
 ここで描かれるのは、旧友と再会した折などに「アイツって面白いヤツだったよな」と回想されるアイツである。
 私たちは昔なじみと思い出話をするとき、そこにはいない「アイツ」のことを口にする。「アイツ」は気のいいヤツで、頼みごとを聞いてくれた。また「アイツ」は楽しいヤツで、おかしなサークルではしゃいでいた。さらに「アイツ」はついてるヤツで、けっこう可愛い子とつき合っていた。そんなことを思い出し、私たちはそこにはいない「アイツ」の話題で盛り上がる。

 一応本作の主人公はタイトルロールの横道世之介ではあるものの、映画を観ていれば、本作が世之介の友人たちの回想から成り立っていることが判る。
 世之介が単独で画面に映る冒頭の上京シーンは、彼が主人公であることを示すための監督の計らいだろうが、他のシーンの世之介は、友人に目撃され、話しかけられることで存在が確かめられる。
 彼は他人の思い出の中に存在する男だから、独りで考え込んだり孤独に苦悩する場面はない。それはみんなにとっての世之介のイメージではないのだ。もしかしたら本当の彼はもっと陰影があったかもしれないが、友人たちはそんな面を見ていないし、見たとしても憶えていない。回想で語られる世之介は、気が良くて、ついていて、楽しいだけの男である。
 『悪人』の祐一が人々から悪人のイメージで見られてしまうように、世之介は人々のイメージによって「気のいいアイツ」になってしまうのだ。

 そんな横道世之介は、1968年に長崎で生まれ、高校を卒業するまで長崎で過ごし、その後、東京の法政大学経営学部に進学した。すなわち、原作者の吉田修一氏と同じ人生を歩んできた。
 これは世之介のモデルが吉田修一氏であるとか、世之介が原作者の分身であるというよりも、主人公に対して作為的な性格付けをせず、作者にとってもっとも等身大の人物を設定したことを示していよう。

 創作に当たって、通常なら作者が強く意識するはずのキャラ立ちを、あえて抑えながらキャラクターを造形した理由は、劇中の会話からうかがえる。
 近親者の死に接した世之介は、こんなことを友人につぶやくのだ。「わいが死んでもさぁ、みんな泣くとやろか。」
 友人は答える。「世之介のことを思い出したら、きっとみんな笑うとじゃなかと?」
 本作で描かれるのは、誰もが多かれ少なかれ持っている青春時代の楽しい思い出であり、その共通項を具現化したのが横道世之介なのだ。
 それは同時に、ありふれた人生の中にも楽しいことがいっぱいあることを表しており、普通の人がいかに素晴らしいかということでもある。
 吉田修一氏とは同学年になる久保寺健彦氏(1969年1月生まれ)が、『みなさん、さようなら』で一風変わった青年を通して青春時代を切り取ろうとしたことと好対照であろう。

 だから、主人公の名前が横道世之介なんて個性的なネーミングなのは当然だ。みんなの思い出の中にいるたくさんの「気のいいアイツ」から本作の主人公を識別するものは、風変わりな名前くらいしかないのだから。
 他の登場人物がそれなりに個性豊かな面々であればこそ、せめて主人公の名前ぐらいは個性的にする必要があっただろう。

 映画では高良健吾さんが世之介を演じることで、主人公を外見でも識別できるようになっている。
 だが、それでも世之介には飛び抜けたところがない。そんな普通の若者を、高良健吾さんは実に軽妙に演じている。
 沖田修一監督の演出も、いつもながら軽妙だ。2時間40分もの長さがありながら、そこに描かれる愉快な日々はあまりにも愛おしく、いつまでも映画が終わらないで欲しいと思う。
 だが私たちは、世之介の友人たちと同じように知っている。何ごとにも終わりがあり、過ぎ去った時間は懐かしく回想するしかないことを。


横道世之介 (スペシャル版) [Blu-ray]横道世之介』  [や行]
監督・脚本/沖田修一  脚本/前田司郎
原作/吉田修一
出演/高良健吾 吉高由里子 池松壮亮 伊藤歩 綾野剛 朝倉あき 黒川芽以 柄本佑 佐津川愛美 井浦新 堀内敬子 國村隼 きたろう 余貴美子 大水洋介 田中こなつ 江口のりこ 黒田大輔 眞島秀和 ムロツヨシ 渋川清彦 広岡由里子
日本公開/2013年2月23日
ジャンル/[ドラマ] [コメディ] [青春]
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『遺体 明日への十日間』 哀悼の意を表して

 葬儀――死者を弔うこの儀式は、私たちにとって極めて重要なものだ。
 家族や友人、親しい者を亡くしたとき、人は深い悲しみに囚われ、茫然としてしまう。悲しみの淵に落ち込んで、何もできなくなってしまうこともあるだろう。
 そんなとき、弔いのプロである葬儀社の人がこまごまと指図してくれることに、助けられる人もいよう。
 死者の弔い方に慣れている人なんてあまりいないから、指図してもらわなければどうしたら良いか判らない。平常であれば自分で判断できることも、できなくなっているのが親しい者の死に直面したときである。

 そして指図に従って行動しているうちに、徐々に体を動かす感覚が戻ってくる。型どおりのお悔やみの言葉と、型どおりの挨拶を交わすうちに、話すこともできるようになってくる。僧侶のお経なんて、何を云ってるのか聞き取れなくても、厳かな式の進行さえ感じられれば良いのである。
 やがて葬儀が終わるころには、自分で行動したり話したりできるようになってくる。こうして、親しい者の死を受け入れ、普段の生活に戻る準備が整うのだ。
 信仰心の有無や宗派にかからわず、葬儀の形式ばった流れに身を任せることには、平常心を取り戻す効用もあるといえよう。

 けれども、2011年3月11日の東日本大震災では、そんな儀式を行う余地すらなかった。
 限りなく運び込まれる泥まみれの遺体。誰が亡くなり、誰が生き残ったのかも判らない状態。電力が供給されず、停止したままの火葬場。
 『遺体 明日への十日間』は、そんな震災の現場をつぶさに描いた作品だ。
 2013年2月20日の警察庁緊急災害警備本部の発表によれば、東日本大震災の人的被害は、死者15,880人、行方不明者2,694人、負傷者6,135人に上る。死因の92.5%が水死で、4.4%が流出した瓦礫に巻き込まれた圧死・損傷死とみられるように、その被害のほとんどは津波によるものだ。劇中の「津波が憎い」というセリフが表すように、これだけの人命を一瞬にして奪う津波こそ、もっとも恐るべき、もっとも憎むべきものである。

 本作は新聞、テレビでは報道できなかった溺死体の様子を含め、津波被害のむごさを映し出している。
 主な舞台は、急ごしらえの遺体安置所になった廃校の体育館だ。床いっぱいに並べられたおびただしいご遺体と、泣き崩れるご遺族。そこは葬儀のプロに任せられるものではない。葬儀社の人だって、何の道具もなしに、ようやく生き残っただけなのだ。
 映画は、それでもご遺族が死を受け入れられる手助けとなるべく努力する人々を描く。観客はその姿を見るうちに、本作そのものが亡くなった方々への哀悼の意を表するものであることを悟る。本作を鑑賞することで、劇中の人々たちと一緒に死者を見送っていることに気づくのだ。


 原作者の石井光太氏は、震災直後に現地入りし、Twitterでそのあり様を伝えていた。自称ジャーナリストたちが震災をネタとして盛り上がる中、氏の粛々としたツイートは異色だった。
 公式サイトによれば、石井光太氏は自身のルポタージュの映画化に際し、「まず被災地へ行って、実際に安置所で働いた方々やご遺族と会ってほしいとお願い」したという。
 その意を汲んで、モデルとなった方々と関係を築いた上で撮られた本作もまた、震災をネタとするのではなく震災を描いた劇映画として重要な位置を占めることだろう。

 さて、人間には状況に適応する能力があるらしい。
 肯定的な体験による幸福度の上昇も、肉親との死別など否定的な体験による幸福度の低下も、三年ほどすると元のレベルに戻る傾向があるという
 本作の公開は2013年2月23日。大津波の被害から、まだ二年である。


遺体 明日への十日間 [Blu-ray]遺体 明日への十日間』  [あ行]
監督・脚本/君塚良一  原作/石井光太
出演/西田敏行 柳葉敏郎 佐藤浩市 筒井道隆 沢村一樹 緒形直人 勝地涼 志田未来 國村隼 酒井若菜 佐野史郎
日本公開/2013年2月23日
ジャンル/[ドラマ]
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『奪命金』 流される人生

 【ネタバレ注意】

 『奪命金』の面白さは、その構造にある。
 登場するのは多様な人々だ。刑事とその妻、金融商品を扱う銀行員とその顧客たち、義理人情に生きるヤクザと羽振りの良い兄弟分。接点がある者もいればない者もいる。ほとんどの者たちは、これまでもこれからも知り合うことなく生きていく。
 そんな群像劇は、一つの殺人事件で幕を開ける。登場人物の中に刑事とヤクザがいることから、殺傷沙汰にはことかかない。クライムサスペンスとしてのお膳立てはバッチリだ。
 ところが、殺人事件は焦点でも何でもなく、本作はパニック映画として推移していく。
 高層ビルの大火災や天変地異を題材にして、災厄の中の人間模様を描くパニック映画と、同じフォーマットで貫かれているから『奪命金』は面白い。

 パニック映画を盛り上げるには、災害が起こる前に登場人物の人となりを明確にしておくことが重要だろう。
 それぞれの人物の交友関係や家族関係や暮らしぶり、何に困っていて、何を望んでいるのか。それらを克明に描いて人物像を浮き彫りにしておくからこそ、大災害での行動に興味が湧く。
 本作もその点は抜かりがない。
 刑事は日々の事件に追われ、家を買いたい妻の相手をしてやれない。そのため妻からは、決断を先送りしてると非難される。
 銀行員はノルマが達成できずに焦っており、リスクの高い金融商品を顧客に勧めてしまう。
 ヤクザは兄貴分の保釈金を工面できず、カネ集めが嫌になった子分たちに去られてしまう。
 登場人物それぞれにドラマがあり、カネを巡る緊張が高まり続ける。

 それがピークに達したとき、大災害がやってくる。
 本作の災害、それは株価の暴落だ。市場を揺るがす暴落は天変地異ではないものの、人為的にコントロールできないことでは天災と変わらない。株を売り買いするのは人間でも、市場全体の株価を思いどおりの値にすることは誰にもできないのだ。

 そして、パニック映画の炎上する高層ビルや暴風雨が、個人のちっぽけな人生を呑み込んでしまうように、株価の暴落は一人ひとりが営々と築き上げてきたものを一挙になぎ倒し、破壊する。
 そのとき人は思いもしなかった状況に直面し、場合によっては命を落とすこともある。
 堤防が決壊したり、ビルが崩落するシーンこそないものの、溜めに溜めたカネへの執着や願望が解き放たれたクライマックスは、本作をパニック映画と呼ぶに相応しいものにしている。

 株価暴落の波に洗われる人々は、それまでの羽振りの良さや落ち着いた態度が印象深いだけに、哀れで悲惨で滑稽だ。登場人物がジタバタもがけばもがくほど、客席には笑いが起こる。
 映画はクライムサスペンスの緊張を維持しつつ、悲喜劇の様相を呈していく。

 この大災害が地震や嵐と違うのは、結局は個人の判断が道を決する点である。株価の暴落を嘆く者がいる一方で、それを喜ぶ者や、チャンスに変える者もいる。
 登場人物たちはそれぞれの決断を迫られる。その決断は、偶然のなりゆきと絡み合いながら、彼らの人生を思いもよらぬ顛末へと向かわせるのだ。


 本作の英題は『Life Without Principle』。ヘンリー・デイヴィッド・ソローの著作(邦題『生き方の原則――魂は売らない』)から取ったものだろう。ソローは俗世間を離れて、森の丸太小屋で一人暮らしをした作家である。
 本作の登場人物たちは、ソローのように森で暮らすわけではないが、これまでの生活と決別し、新たな一歩を踏み出していく。
 堅気の銀行員だったのに犯罪者に堕ちた女は夜の街に消えていき、金策に困っていたヤクザは裕福になって通りを闊歩する。
 その二人が交差するラストには、たっぷりと皮肉が効いている。


奪命金 ≪特別版≫【Blu-ray】(2枚組:BD+DVD)奪命金』  [た行]
監督・制作/ジョニー・トー
出演/ラウ・チンワン リッチー・レン デニス・ホー ミョーリー・ウー ロー・ホイパン ソー・ハンシュン テレンス・イン パトリック・クン
日本公開/2013年2月9日
ジャンル/[ドラマ] [サスペンス] [犯罪]
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『みなさん、さようなら』 団地の復権

 『ふがいない僕は空を見た』はとても面白い映画だった。
 だが、いささか気になったのが団地住まいの少年を巡るエピソードだ。
 団地のヤツらは素行が悪いとさげすまれ、貧しい少年は今日食べるものもない。少年の望みはいつかこの団地を出ることで、「お前なんか一生団地暮らしだ」と罵られると烈火のごとく怒りだす。
 それらの描写に私は違和感を覚えた。
 団地って何なのだ? それは貧困の象徴なのか?

 大辞泉は「団地」を次のように説明する。
 「住宅を計画的、集団的に建てた区域。また、それに似た体裁で集団的に開発された工場・倉庫などの区域。工業団地・流通団地など。」

 少年が住む団地は、高度経済成長期に建てられたとおぼしき集合住宅で、同じような棟が幾つも立ち並んでいる。
 それも団地の一種だろうが、住宅を計画的、集団的に建てた区域とはそれだけにとどまらない。ウィキペディアが紹介するように、たくさんの戸建住宅が集まるのも「団地」だし、近年都内に立ち並ぶタワーマンションの群れも「団地」の説明に当てはまる。
 専門的にはもっと厳密な定義があるかもしれないが、私なんぞからすれば、戦後住宅のために開発された区域はことごとく団地であろうと思う。

 なのに『ふがいない僕は空を見た』では団地という言葉を狭く捉えて、そこに住む人はみんな貧困で、虐げられているかのように描写していた。
 日本に貧困がないと云うつもりはないし、そういう団地に住む貧しい人もいるかもしれない。だが貧困や苦難を、「団地」という住宅の形態を指す言葉に集約させて、団地住まいがすなわち貧困であるかのごとく表現することに、私はしっくり来なかった。

 だって、団地住まいには団地住まいのメリットや楽しさがあり、好きで住んでる人も多いと思うからだ。
 そこで『みなさん、さようなら』の登場だ。
 本作は、一生団地の中で生きていくと決めた悟の、少年時代から大人になるまでを描いている。
 悟が暮らすのは高度経済成長期に建てられた集合住宅群――『ふがいない僕は空を見た』の舞台と似たような団地だ。
 だが、『みなさん、さようなら』での団地は貧困の象徴でもなければ、住む人々が虐げられてるわけでもない。そこには貧しい人も虐げられた人もいるけれど、楽しいことも素敵なこともいっぱいあって、みんなが普通に暮らしている。

 「団地好きの、団地好きによる、団地に住むためのサイト」団地R不動産千葉敬介氏は、団地の魅力を次のように述べている。
---
千葉:団地と一言でいっても、実は様々な形があるのですが、僕らがイメージしているのは古い公営住宅が近いです。その魅力は全てを語り尽すことはできないと思うんですが、まず建物としてすごく魅力的だと思っています。

 何ていうんですかね。飾らないというか。いわゆるモダニズムを純粋に追いかけて作った建物という感じでしょうか。余計なものを削ぎ落とした、素朴な佇まいの形にものすごく惹かれますね。水平、垂直、幾何学的で、至ってシンプル。(略)そして、古さも魅力を引き出しています。築40~50年の歴史が、団地の味わい深さを一層引き立てている面がありますね。

――なるほど。

千葉:あとはやっぱり、敷地の魅力です。どの団地でも大抵そうですが、今では考えられないような空間の使い方をしています。50年、60年経ったような巨木が至るところに生えている敷地の中に、建物がゆったりと並んでいるような。まるで公園の中に家があるような感じですよ。

 都心ではもはや不可能なレベルでの自然との触れあいを、本当に日常的なこととして楽しめるというのが魅力的ですね。たぶん、僕が一番団地にはまっているのはそこです。そうした環境を、あえて賃料に上乗せしたりとかもないですしね(笑)。

 魅力を語れば切りがないんですけど、間取りも、すごく贅沢ですよ。一般的な団地は、階段を上がった両側に部屋がある作りになっています。風通しもいいし、採光も抜群なわけですよね。
(略)
千葉:メンバーはだいたい建築出身なので、いわゆるモダニズム的な部分に惹かれている面は大きいと思います。あとは、団地に残るコミュニティーの存在も大きいかもしれませんね。というのも、20代のメンバーは東京近郊の出身じゃないので、団地のコミュニティーというのは、人の密度が濃くて、何か安心できる住環境というイメージがあるのではないでしょうか。
---
 実際、団地R不動産へのアクセスは増え続けているという。


 ただ、『みなさん、さようなら』では題名のとおり、みんなここから去っていく。好きで住んでいた者も、やがて外に出たいと云うようになる。なぜなら、本作の団地は青春の象徴だからだ。
 悟にとっての団地――それは子供の頃から顔見知りばかりで住んでいた場所だ。若気の至りでバカもやれば、ほろ苦い思い出もある。周りにいるのは仲の良い友だちばかりだった。でも永遠にそこに留まってはいられない。一人、また一人と、自分の世界を築くために外へ出ていく。――それが本作の団地なのだ。

 この団地は、悟そのものでもある。
 悟は1968年生まれだ。そして彼が住む団地も1960年代に誕生し、高度経済成長を謳歌しながら発展してきた。少子化が叫ばれる現在と違い、人口爆発が危惧されて、人口の抑制が課題となっていた時代である。
 標準世帯には子供が二人おり、子供一人に一部屋をあてがうようになると、60年代の部屋割りでは対応できなくなっていった。映画の中でも、子供のいる世帯が団地を去る場面が続く。時代が下り、子供のいる世帯が減少すると、標準世帯とは異なる層が住むようになるのだが、悟の青春時代は友だちが去るばかりだった。
 それでもバブル景気の時代には悟も難なく就職し、素敵な恋人を獲得する。だが、バブルが崩壊すれば、彼もまた手にしたものをことごとく失ってしまう。
 団地から一歩も出ない悟は変わり者のようでありながら、日本がたどった数十年を代表してもいるのである。

 本作は、悟が団地を出ない理由や、成長するきっかけを用意し、娯楽性を高めている。それもまた面白い要素だが、一番の見どころは悟の切なすぎる青春だろう。 
 みんなが団地という青春の場を去る中で、悟だけが同じ場所に留まりたいと願う。
 だが、同じ場所に留まり続ける男に、つきあってくれる者はいない。気が付けば周りの顔ぶれは変わっており、悟が大切にしてきた世界ではなくなっている。
 誰でもいつかは出ていかねばならないのだ。居心地の良かったその場所から。

 悟は今年で45歳になる。今日もどこかで頑張っていることだろう。


みなさん、さようなら [Blu-ray]みなさん、さようなら』  [ま行]
監督・脚本/中村義洋
脚本/林民夫
出演/濱田岳 倉科カナ 永山絢斗 波瑠 大塚寧々 ベンガル 田中圭 ナオミ・オルテガ 志保 安藤玉恵
日本公開/2013年1月26日
ジャンル/[ドラマ] [青春]
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『テッド』 『フラッシュ・ゴードン』を継ぐ者

テッド 俺のモコモコ スペシャルBOX  Blu-ray&DVD (限定生産商品) 「サム・ジョーンズがウチに来てるぞ!」
 その電話に私は耳を疑った。スクリーンの中でも主人公ジョンが目を丸くしている。
 電話の向こうでテッドがまくし立てた。「早く来いよ。サム・ジョーンズは俺たちの導師だろ。」

 それを聞いたら断れるはずがない。ジョンが何もかも放り出してクルマを走らせるのは当然だ。ジョンの頭の中では、映画『フラッシュ・ゴードン』の主題歌のB面にもなった「フットボール・ファイト」が鳴り響き、サム・J・ジョーンズの登場シーンが駆け巡る。
 客席でスクリーンを見つめる私も、あまりのことにドキドキした。クマの縫いぐるみが動き出すという触れ込みのコメディ『テッド』に、本物のサム・J・ジョーンズが出演するなんてことがあるんだろうか。

 映画『テッド』の舞台は1985年からはじまる。当時8歳だったジョンは、不思議なクマの縫いぐるみテッドを友人として『フラッシュ・ゴードン』のビデオを見て成長してきた。
 『フラッシュ・ゴードン』が米国で公開されたのは1980年だから、ジョンが3歳で『フラッシュ・ゴードン』ファンになったとは考えられない。彼の親が『フラッシュ・ゴードン』ファンでビデオを買っていたか、子供のために買い与えたのだろう。
 そしてジョンとテッドの『フラッシュ・ゴードン』漬けの日々は、2012年の今も変わらない。

 ということは、ジョンは新しいメディアが出るたびに『フラッシュ・ゴードン』を買ってきたのだろう。まずビデオテープを、次にレーザーディスクを買い、さらにDVDも買ったはずだ。私のように。
 それでもジョンは米国でリリースされた『フラッシュ・ゴードン』を買うだけで済むが、日本では米国ほどタイムリーに発売されなかったから、日本在住の私はまず米国版を買い、日本での発売を待って日本版も買っていた。ジャケットの絵が変わったり、特典が変わればまた買うので、同じメディアでも複数の『フラッシュ・ゴードン』を持つことになる。
 『テッド』に夏のシーンはないけれど、夏になればジョンは白地に赤文字で「FLASH」と書かれたTシャツ――『フラッシュ・ゴードン』の劇中で主人公が来ていたシャツ――を着て過ごしたはずだ。私のように。

フラッシュ・ゴードン [Blu-ray] このように人々が夢中になる宇宙最高のSF映画『フラッシュ・ゴードン』は、クイーンがオープニングで歌うように決して挫けない不屈の男の物語だ。人々に友愛を説き、勇気をもって困難に立ち向かう、それがフラッシュ・ゴードンだ。
 その偉大なタイトルロールを演じた役者こそ、他ならぬサム・J・ジョーンズである。「人気作は30年目に復活する法則」のとおり、1980年に公開された『フラッシュ・ゴードン』は(2年遅れたけど)『テッド』の中で復活した。

 『テッド』の最大の山場は、もちろんサム・J・ジョーンズ本人の登場だ。彼が『フラッシュ・ゴードン』のプロモーションで来日した際、本当は黒髪だと知ったファンは驚いたものだが、本作ではちゃんとフラッシュらしく金髪に染めて、フラッシュの衣裳まで着てくれる。
 本物のサム・J・ジョーンズを前にしたジョンは妄想が止まらなくなり、なんとスクリーンには、惑星モンゴ上空でフラッシュとジョンがロケットサイクルを二人乗りするシーンが映し出される。『フラッシュ・ゴードン』の映像に、ジョンを演じるマーク・ウォールバーグと現在のサム・J・ジョーンズを重ね合わせて、フラッシュとの二人乗りという夢のような情景を作り上げているのだ。
 これほど『フラッシュ・ゴードン』ファンのハートを揺さぶる映画を作るとは、監督・原案・脚本・制作・出演のセス・マクファーレンはたいした男だ。

 さらには、本人役のサム・J・ジョーンズが『フラッシュ・ゴードン』内のセリフを叫んだり、ミン皇帝ならぬ中国人ミンと戦ったりと、本作はやりたい放題だ。
 それは『テッド』の掟破りの面白さのためでもあろうが、『フラッシュ・ゴードン』そのものがコメディ要素に満ちた作品であることも忘れてはならないだろう。当時の他のSF映画――『スター・ウォーズ』なり『スーパーマン』なり『エイリアン』なりが、わりと真面目な作品だったのに対し、『フラッシュ・ゴードン』は大予算を投じてヒーローの活躍を描きながら、他の映画のもじりやオマージュでいっぱいのセルフパロディの面があり、観客を大いに笑わせてくれる映画だった。ラテン各国でバカ受けしたのも、そのあっけらかんとした楽しさゆえだろう。
 『テッド』はその路線を悪ノリさせた作品であるとも云えるわけで、方向性からして『フラッシュ・ゴードン』と相性がいいのだ。

 『テッド』が取り上げた作品は『フラッシュ・ゴードン』に限らない。階段の手すりを滑り降りるシーンでレイダースマーチが流れたり、ジョンが求愛のために歌う曲が『007/オクトパシー』の主題歌「オール・タイム・ハイ」だったりと枚挙にいとまがない(詳しくはこちら)。
 ロジャー・ムーア主演の007映画にはけっこうトホホな作品がある中で、『007/オクトパシー』は映画も面白いし主題歌も名曲だしで、ジョン(というかセス・マクファーレン監督)のセンスの良さがうかがわれる。

 とはいえ、これでもかとブチ込まれる映画ネタには、付いていけない人もいるだろう。でも、観客に判るかどうかなんてそっちのけでネタをブチ込む姿勢こそ、『フラッシュ・ゴードン』ゆずりと云えよう。
 たとえば『テッド』の結婚式のシーンから『フラッシュ・ゴードン』のミン皇帝の結婚式を思い出す人も多いだろうが、『フラッシュ・ゴードン』のそれは『カリギュラ』(1979年)の皇帝の結婚式のもじりである。楽しいスペースオペラの『フラッシュ・ゴードン』と成人向けの『カリギュラ』では客層がまったく異なるから、観客は元ネタがあることに気づかないんじゃないかと心配になるけれど、そんなことを気にしないのが『フラッシュ・ゴードン』だ。
 70年代後半から80年代の作品を中心に取り上げている『テッド』は、まだ判りやすいかもしれない。


 一応『テッド』には、まともな成長物語らしいプロットもある。35歳にもなって、子供の頃と同様に映画漬けの生活でいいのか、という問いかけがある。
 けれども本作を観れば、セス・マクファーレン監督自身が、映画好きの子供がそのまま大きくなったような人物であることが伝わってくる。だから、子供っぽいジョンに反省を促すシークエンスはあるものの、これまでの自分から卒業しろとまでは云わない。

 それよりもジョンが直面するのは、ジョンと同じ様に子供じみた思いを胸に抱いたまま大きくなった男だ。男は他人の迷惑もかえりみず、息子のためと称して自分が子供の頃にやりたかったことを実現しようとする。
 これは一歩間違えればジョンが歩んだかもしれない道だ。クマの縫いぐるみに執着する二人の男が対決することで、同じところから出発しても、いい大人にもダメな大人にもなり得ることが示される。
 ジョンはその対決を乗り越えることで、テッドも『フラッシュ・ゴードン』も好きなままで、明るく健全に成長していく。

 そんな本作を締めくくるのが、なんと、なんと、フラッシュ・ジャンプだ!
 テッドが「ここはやっぱりフラッシュ・ジャンプだろ」と云うのを聞いたとき、私は本当に驚いた。まさか、『テッド』でサム・J・ジョーンズのジャンプが見られるのか!?
 映画『フラッシュ・ゴードン』の中でも、ジャンプは編集のマルコム・クックの腕が冴えた名シーンだ。
 期待に震える私が凝視する中、『フラッシュ・ゴードン』さながらに白地に「FLASH」の文字を刺繍したローブを着たサムは、カメラに向かってジャンプした!
 「Yeah!」
 これぞフラッシュ・ジャンプ! あまりにも完璧なリスペクトに、私は感極まった。

 思えば先日公開されたベン・アフレック監督の『アルゴ』でも、劇中劇の形で『フラッシュ・ゴードン』のミン皇帝とオーラ姫が登場していた(バック・ロジャースやチューバッカと一緒に)。そして『テッド』ではサム・J・ジョーンズ本人の登場だ。
 少年時代にインパクトを与えた映画は、こうして受け継がれていくのだろう。


テッド 俺のモコモコ スペシャルBOX  Blu-ray&DVD (限定生産商品)テッド』  [た行]
監督・制作・原案・脚本/セス・マクファーレン
脚本/アレック・サルキン、ウェルズリー・ワイルド
ナレーション/パトリック・スチュワート
出演/マーク・ウォールバーグ ミラ・クニス セス・マクファーレン ジョエル・マクヘイル ジョヴァンニ・リビシ サム・J・ジョーンズ ノラ・ジョーンズ トム・スケリット ライアン・レイノルズ
日本公開/2013年1月18日
ジャンル/[コメディ]
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