『ミロクローゼ』 映画という美術を鑑賞しよう
日本に住んでいてよかったと思うことの一つは、手軽に『地獄の門』が見られることだ。
オーギュスト・ロダンがその後半生を費やした巨大な彫刻『地獄の門』は、ダンテの叙事詩『神曲』を題材としながらも、『神曲』に描かれた門をはるかに上回るイマジネーションの産物であり、鑑賞者に畏怖の念すら起こさせる。
ロダンといえば『考える人』[*]が有名だが、『考える人』は『地獄の門』の一パーツとして構想されたに過ぎない。
『地獄の門』のブロンズは、パリのロダン美術館をはじめ、世界の七ヶ所に置かれている。日本にはこのうちの二つがあり、上野の国立西洋美術館と静岡県立美術館で見ることができる。
しかも国立西洋美術館のものは砂型鋳造、静岡県立美術館のものは蝋型鋳造と異なる製法で作られているので、その違いを楽しむこともできる。
多くの美術品がそうであるように、彫刻も実物を自分の目で見なければ意味がない。立体の像はあらゆる角度から楽しめるものだから、平板な写真ではその魅力が伝わらない。
だからこそ美術館に足を運び、彫刻の周囲を巡って異なる角度から眺めるのだ。
映画は総合芸術と呼ばれるが、平板なスクリーンに映し出すことが前提なので、一つの作品を文字通り様々な角度から眺めることはできない。作り手が見せたいと考えた一つのアングルからのみ鑑賞できる。
ところが、そんな制約をぶち破ったのが『ミロクローゼ』だ。
この映画は、90分足らずの時間で実に多くの面を見せる。主演の山田孝之さんは、幼児的なオブレネリ・ブレネリギャーと野性的な熊谷ベッソンと愛に一途な多聞(タモン)の三役を演じ、しかも多聞は現代風の紳士であったり、爽やかなライダーであったり、侍であったりと、場面ごとにまったく異なる様相を見せる。
シチュエーションも様々だ。
西部劇風の酒場のシーンとヤクザ映画の博打シーンと刀を振るう大立ち回りが一つの世界の中で繋がっている。三人の主人公に応じてそれぞれの世界があるだけでなく、それぞれの世界がまた多様性・多面性を有しており、一言ではくくれない。
普通だったら支離滅裂に感じてしまうところなのに、印象的なビジュアルと音楽のノリの良さが疾走し、観客を最後まで連れ去ってしまう。それどころか、次に何が飛び出すか予想もつかないバラエティ性が、心地よくて仕方ない。
石橋義正監督は、一人三役に関して次のように述べている。
---
今回あえていろんな話をあまり直接的に結びつけずにシーンとしては別々にしながら、この人物像を一人の人間に感じられるようにできないかなと考えて、山田孝之さんが三役やってくれることになったのでそれが成立できました。一人の人間でもいい加減な面や激しい面、いろんな側面があって、そういうものを違う人物で描きつつ観終わったあとに一人の人間として感じられるような実験的な要素をこの映画に組みこんでみたんです。
---
これはまさに立体像を様々な角度から眺めているようなものである。
あるいは宝石を光にかざしてキラキラと輝く様を見ているような、はたまた万華鏡を覗いて刻々と変わる模様を楽しんでいるような感じである。
そこにあるものは一つなのに、見る角度や光の加減でまったく異なる容貌が表れる。だからといって別々のものではなく、結局一つのものに集約される。
そんな立体像のような楽しみ方ができるのが本作の魅力であり、それを実現できたのも映画のマジックがあればこそだ。
石橋監督は、映画を映画として作ったことを強調する。
---
最近は原作もの、特に漫画の映画化であるとか、テレビ番組の映画化というのがどうしても多くなってきていて、映画そのものとして成立する企画が非常に少なくなっていると思うんです。僕自身、子供のころから映画がすごく好きでこの世界に入ったので、何とかその状況を変えていきたいという思いがありまして。
---
たしかに、本作の世界を小説やマンガで表現するのは不可能だろう。ビジュアルと音楽もなしにこの統一感のなさに直面したら、どう受け止めていいか判らない。
テレビでこんな支離滅裂な番組があったら、回を増すごとには視聴者は減少するだろう。
本作の内容が映画でしか表現できないことを示す良い例が、映画情報サイトの紹介記事だ。
たとえば、allcinema ONLINE では多聞の物語を次のように解説している。
「さらわれた彼女を取り戻すべく、時空までをも超えて壮絶な流浪の旅を続ける。」
映画を知らない人がこの文を読んだら、『きみがぼくを見つけた日』のようなタイムトラベル物や、楳図かずお著『イアラ』のような生まれ変わり物かと思いかねない。
もちろん映画を観た人はこの解説では誤解を招くと判るわけだが、じゃあ西部劇と時代劇とヤクザ映画を変遷するような物語を、どうやって文章で説明したら良いのだろう。ましてや多聞の物語を、歌って踊る熊谷ベッソンの青春相談と、絵本みたいなオブレネリの物語で挟み込んだ映画なんて、文章で解説できるものじゃない。
しかも、三者三様の物語のギャップの大きさこそが面白さであり、それを一人の役者が出ずっぱりで演じ切ることで作品のバランスを保っている。この味わいは、映画を観て感じ取るしかない。
本作は映画だから成立するものであり、マンガやテレビを基にした企画からは生まれ得ないだろう。
そして本作は、あらゆるところを、あらゆる角度から見られることを意識して作られており、クレジットの文字までが徹底的にカッコイイ!
立体的な彫刻が、横から見ても後ろから見ても素晴らしいのと同じである。
ところで、たいへん印象的な『ミロクローゼ』という題名は、石橋監督の造語だという。
「“弥勒菩薩(みろくぼさつ)”と、“魅力的な女性”から発想した造語で、太陽の意味と、恋する相手の総称を“ミロクローゼ”としています。」
「それは“太陽”をイメージしています。自分自身を照らし、あらためて自分の生き方を見つめ直させてくれるものです。」
弥勒菩薩がなぜ太陽を意味するのか、すぐには判りづらいところだが、これは弥勒の源流がゾロアスター教の太陽神ミトラであることから説明できよう。
「人は闇の中で生きていくことは簡単にできますが、日向で生きることの方が難しい。日向で生きるには、照らしてくれる太陽が必要です。その太陽を見つけるのに命をかけることがこの映画の軸になっています。」
恋する相手を見つけ出してこそ、日向で生きられる。石橋監督はそう語る
内閣府の調べによれば、20~30代男性の58%には恋人がおらず、25.8%はこれまで交際した経験すらないという。
ミロクローゼを見つけるのは、人生をかけた大冒険なのだ。
[*]『考える人』
『ヤマトよ永遠に』のキーアイテムとしてアニメファンにはお馴染みだ。
『ミロクローゼ』 [ま行]
監督・脚本・美術・編集・音楽/石橋義正
出演/山田孝之 マイコ 石橋杏奈 原田美枝子 鈴木清順 佐藤めぐみ 岩佐真悠子 奥田瑛二 武藤敬司
日本公開/2012年11月24日
ジャンル/[コメディ] [ロマンス] [ファンタジー] [アート]
http://bookmarks.yahoo.co.jp/bookmarklet/showpopup?t='+encodeURIComponent(document.title)+'&u='+encodeURIComponent(location.href)+'&ei=UTF-8','_blank','width=550,height=480,left=100,top=50,scrollbars=1,resizable=1',0);">
オーギュスト・ロダンがその後半生を費やした巨大な彫刻『地獄の門』は、ダンテの叙事詩『神曲』を題材としながらも、『神曲』に描かれた門をはるかに上回るイマジネーションの産物であり、鑑賞者に畏怖の念すら起こさせる。
ロダンといえば『考える人』[*]が有名だが、『考える人』は『地獄の門』の一パーツとして構想されたに過ぎない。
『地獄の門』のブロンズは、パリのロダン美術館をはじめ、世界の七ヶ所に置かれている。日本にはこのうちの二つがあり、上野の国立西洋美術館と静岡県立美術館で見ることができる。
しかも国立西洋美術館のものは砂型鋳造、静岡県立美術館のものは蝋型鋳造と異なる製法で作られているので、その違いを楽しむこともできる。
多くの美術品がそうであるように、彫刻も実物を自分の目で見なければ意味がない。立体の像はあらゆる角度から楽しめるものだから、平板な写真ではその魅力が伝わらない。
だからこそ美術館に足を運び、彫刻の周囲を巡って異なる角度から眺めるのだ。
映画は総合芸術と呼ばれるが、平板なスクリーンに映し出すことが前提なので、一つの作品を文字通り様々な角度から眺めることはできない。作り手が見せたいと考えた一つのアングルからのみ鑑賞できる。
ところが、そんな制約をぶち破ったのが『ミロクローゼ』だ。
この映画は、90分足らずの時間で実に多くの面を見せる。主演の山田孝之さんは、幼児的なオブレネリ・ブレネリギャーと野性的な熊谷ベッソンと愛に一途な多聞(タモン)の三役を演じ、しかも多聞は現代風の紳士であったり、爽やかなライダーであったり、侍であったりと、場面ごとにまったく異なる様相を見せる。
シチュエーションも様々だ。
西部劇風の酒場のシーンとヤクザ映画の博打シーンと刀を振るう大立ち回りが一つの世界の中で繋がっている。三人の主人公に応じてそれぞれの世界があるだけでなく、それぞれの世界がまた多様性・多面性を有しており、一言ではくくれない。
普通だったら支離滅裂に感じてしまうところなのに、印象的なビジュアルと音楽のノリの良さが疾走し、観客を最後まで連れ去ってしまう。それどころか、次に何が飛び出すか予想もつかないバラエティ性が、心地よくて仕方ない。
石橋義正監督は、一人三役に関して次のように述べている。
---
今回あえていろんな話をあまり直接的に結びつけずにシーンとしては別々にしながら、この人物像を一人の人間に感じられるようにできないかなと考えて、山田孝之さんが三役やってくれることになったのでそれが成立できました。一人の人間でもいい加減な面や激しい面、いろんな側面があって、そういうものを違う人物で描きつつ観終わったあとに一人の人間として感じられるような実験的な要素をこの映画に組みこんでみたんです。
---
これはまさに立体像を様々な角度から眺めているようなものである。
あるいは宝石を光にかざしてキラキラと輝く様を見ているような、はたまた万華鏡を覗いて刻々と変わる模様を楽しんでいるような感じである。
そこにあるものは一つなのに、見る角度や光の加減でまったく異なる容貌が表れる。だからといって別々のものではなく、結局一つのものに集約される。
そんな立体像のような楽しみ方ができるのが本作の魅力であり、それを実現できたのも映画のマジックがあればこそだ。
石橋監督は、映画を映画として作ったことを強調する。
---
最近は原作もの、特に漫画の映画化であるとか、テレビ番組の映画化というのがどうしても多くなってきていて、映画そのものとして成立する企画が非常に少なくなっていると思うんです。僕自身、子供のころから映画がすごく好きでこの世界に入ったので、何とかその状況を変えていきたいという思いがありまして。
---
たしかに、本作の世界を小説やマンガで表現するのは不可能だろう。ビジュアルと音楽もなしにこの統一感のなさに直面したら、どう受け止めていいか判らない。
テレビでこんな支離滅裂な番組があったら、回を増すごとには視聴者は減少するだろう。
本作の内容が映画でしか表現できないことを示す良い例が、映画情報サイトの紹介記事だ。
たとえば、allcinema ONLINE では多聞の物語を次のように解説している。
「さらわれた彼女を取り戻すべく、時空までをも超えて壮絶な流浪の旅を続ける。」
映画を知らない人がこの文を読んだら、『きみがぼくを見つけた日』のようなタイムトラベル物や、楳図かずお著『イアラ』のような生まれ変わり物かと思いかねない。
もちろん映画を観た人はこの解説では誤解を招くと判るわけだが、じゃあ西部劇と時代劇とヤクザ映画を変遷するような物語を、どうやって文章で説明したら良いのだろう。ましてや多聞の物語を、歌って踊る熊谷ベッソンの青春相談と、絵本みたいなオブレネリの物語で挟み込んだ映画なんて、文章で解説できるものじゃない。
しかも、三者三様の物語のギャップの大きさこそが面白さであり、それを一人の役者が出ずっぱりで演じ切ることで作品のバランスを保っている。この味わいは、映画を観て感じ取るしかない。
本作は映画だから成立するものであり、マンガやテレビを基にした企画からは生まれ得ないだろう。
そして本作は、あらゆるところを、あらゆる角度から見られることを意識して作られており、クレジットの文字までが徹底的にカッコイイ!
立体的な彫刻が、横から見ても後ろから見ても素晴らしいのと同じである。
ところで、たいへん印象的な『ミロクローゼ』という題名は、石橋監督の造語だという。
「“弥勒菩薩(みろくぼさつ)”と、“魅力的な女性”から発想した造語で、太陽の意味と、恋する相手の総称を“ミロクローゼ”としています。」
「それは“太陽”をイメージしています。自分自身を照らし、あらためて自分の生き方を見つめ直させてくれるものです。」
弥勒菩薩がなぜ太陽を意味するのか、すぐには判りづらいところだが、これは弥勒の源流がゾロアスター教の太陽神ミトラであることから説明できよう。
「人は闇の中で生きていくことは簡単にできますが、日向で生きることの方が難しい。日向で生きるには、照らしてくれる太陽が必要です。その太陽を見つけるのに命をかけることがこの映画の軸になっています。」
恋する相手を見つけ出してこそ、日向で生きられる。石橋監督はそう語る
内閣府の調べによれば、20~30代男性の58%には恋人がおらず、25.8%はこれまで交際した経験すらないという。
ミロクローゼを見つけるのは、人生をかけた大冒険なのだ。
[*]『考える人』
『ヤマトよ永遠に』のキーアイテムとしてアニメファンにはお馴染みだ。
![ミロクローゼ スペシャル・エディション [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/514LwJvYcAL._SL160_.jpg)
監督・脚本・美術・編集・音楽/石橋義正
出演/山田孝之 マイコ 石橋杏奈 原田美枝子 鈴木清順 佐藤めぐみ 岩佐真悠子 奥田瑛二 武藤敬司
日本公開/2012年11月24日
ジャンル/[コメディ] [ロマンス] [ファンタジー] [アート]


『声をかくす人』 「現代と何の関係があるんだ?」
「魅力的な物語だが、現代と何の関係があるんだ?」
みんなにそう云われたと、脚本家のジェームズ・ソロモンは述懐している。18年前に『声をかくす人』の脚本を書きはじめた頃のことだ。
公式サイトは次のような彼の言葉を紹介している。
「18年前に脚本を書き始めた頃、それを見せた人たち全員が驚いていた。リンカーンの暗殺が大きな陰謀の一部だったこと。その夜に複数の襲撃があったこと。軍法会議が行われ、被告の中に一人の女性がいたこと。でも皆に『魅力的な物語だが、現代と何の関係があるんだ?』と言われたよ。だが、2001年9月以降、そういう言葉を聞くことはめったになくなったね」
この物語は、現代人にこそ観て欲しい。ロバート・レッドフォード監督をはじめとするスタッフ、キャストには、そんな強い思いがあったはずだ。
その対象はもちろん米国民だろうが、私は日本国民もまた本作を是非とも観るべきだと思う。
1865年に米国で起きたこと、2001年9月以降に起きたこと、そして現在日本で起きていること、そこには共通性が感じられるからだ。
本作は、1865年にリンカーン大統領暗殺に加担したとして軍法会議にかけられた女性と、彼女の弁護士の物語だ。
長かった南北戦争がようやく終結し、平和な国家を築こうとしていた矢先の南軍支持派による大統領暗殺に、人々は憎しみの炎を燃やした。誰もが犯人に対する早急な死刑を望んでおり、政府は事件の決着が遅れて北米大陸を二分する戦争が再燃することを恐れた。被告となった女性を、すみやかに死刑にすべきと誰もが思った。
主人公の弁護士も、北軍で活躍した一人として同じ気持ちだったが、あいにく女性の弁護を引き受ける破目になってしまう。ところが嫌々弁護をはじめた彼は、やがて女性のために真摯に弁護をするようになる。
女性が無実だと思ったからか?
そうではない。弁護側の証人もいない中で一方的に進められる軍法会議が、適切ではないと考えたからだ。たとえ女性が犯人だったとしても、女性に有利な証言や証拠をきちんと吟味し、適切な手続きにのっとった上でなければ、軽々しく裁いてはいけないと考えたのだ。
被告を死刑にしようと結論を急ぐ会議は、弁護士から見れば充分な審理を尽くしていなかった。憲法の謳う正義が実践されているとは思えなかったのだ。
しかし、人々は弁護士を批難した。大統領暗殺の一味を弁護してやるなんて、まるで犯人に味方しているように見えたのだ。弁護士は法の正義を尊重しようとしただけなのに、人々から爪はじきにされ、最愛の恋人にも去られてしまう。
被告を死刑にすれば、人々の溜飲が下がるだろう。世の中は落ち着いて、国家に平和が訪れるだろう。
政府が民衆の思いを汲もうとしているときに、一介の弁護士が慎重な審理を求めるのは許されないのだろうか。
2001年9月11日、アメリカ同時多発テロ事件は多くのものを破壊した。
事件への報復を訴えたジョージ・W・ブッシュ大統領の支持率は急上昇し、その支持を背景にブッシュ大統領はアフガニスタンへ、そしてイラクへ攻め込んだ。
アフガニスタンのタリバン政権には宣戦布告のないまま戦闘を仕掛け、イラク戦争には根拠がなかった。
西洋諸国は何世紀にもわたる戦争を通して、国家間の戦争にも一定のルールを築いてきた。それが国際人道法等に結実し、交戦者の定義や、非戦闘員の保護等が定められてきたはずだった。だが、「テロリスト」との戦いでは、戦闘員と非戦闘員との区別すらうやむやだ。イラクでは、相手がテロリストかどうかも確かめずに銃を乱射する事件が頻発した。
米国大統領がオバマに変わっても、「戦争」は終わらない。米国にとって対テロ戦争の「パートナー」であるはずのパキスタン領内でも攻撃は行われ、誤爆により多数のパキスタン兵が亡くなっている。そして「テロリスト」の周辺にいる人々も「テロリスト」という論法なのだろう、殺害された「テロリスト」の葬式に集まった人々にミサイルを撃ち込んで、多数の「テロリストの仲間」を殺害している。
同時に米国では、異種族・異民族との対立を強調し、米軍が敵陣を粉砕するのを称賛する映画が続々と公開された。人々はそんな映画を観て溜飲を下げたかもしれない。
だが、さすがに本作の脚本を読んで「現代と何の関係があるんだ?」とは云わないだろう。
レッドフォード監督は、本作に関してこう述べている。「歴史は素晴らしい物語の情報源であり、現代と関係しているものだ。」
一方、日本では、2010年9月に尖閣諸島中国漁船衝突事件が起こった。海上保安庁が公務執行妨害で逮捕した中国漁船の船長を、那覇地方検察庁が釈放した事件である。
この事件において日本が取るべきだった対応については様々な声があるだろうが、とりわけ加藤嘉一氏の「中国側も呆気に取られるほど、日本のハンドリングは一貫していなかった」という意見が印象深い。
---
日本は今回の問題に関して対応が一致していませんよね。最初から「司法は独立だ」というなら最後まで貫くべきだったでしょう。それなのに、那覇の地方裁判所は処分保留で船長を釈放したわけですから、政治介入があったのは明白です。
(略)
僕はこれまで中国で言論活動をしていく中で、日本人として1つのよりどころがありました。それが「日本は法治国家である」ということでした。
様々な問題について中国人と議論する中で意見が合わない人はたくさんいます。それでも「独裁国家よりも法治国家の方が社会や国民のためになる」と言うこの1点に関しては、誰もが認めてくれることだったのです。
(略)
だけれど、金輪際、僕は「法治国家」と言う言葉を中国で口にすることはできなくなりましたね。日本が法治国家であるという前提が崩れてしまったのですから、当然です。
---
また2011~2012年には、内閣総理大臣が民間企業に操業停止を「要請」し、この圧力によって民間企業の業績が悪化、コストは消費者が被るという事態が発生した。内閣総理大臣の「要請」には法的根拠がないのだから、圧力としか云いようがない。全国の原子力発電所は、役所の醸成する「空気」によって運転を停止した。
原子力発電所の稼働についてもまた様々な意見があるだろう。だがそれとは別に、適切な審理も手続きも経ずに政府が民間に圧力をかけるということが、一つの問題である。
大辞泉は、「法治主義」を次のように解説する。
「絶対君主の支配を否定し、国家権力の行使は議会の制定した法律に基づかねばならないとする近代市民国家の政治原理。」
たとえ国家権力といえども、その行使は法律に制限される。何らかの施策を推進するには、根拠となる法律を議会で制定する必要がある。それでこそ、法は国家権力の恣意的な運用から国民を守る社会的なバリケードになるという。
もしも、為政者や民衆の思いを遂げるために審理や手続きをおろそかにすることがあれば、それはもはや法治国家ではない。
リンカーン大統領暗殺に加担した罪で告訴されたメアリー・サラットは、弁護士フレデリック・エイキンの努力にもかかわらず処刑され、彼女は米国史上はじめて死刑になった女性として名を残した。
法というバリケードが失われることこそ、国民にとって最も恐ろしい事態である。
『声をかくす人』 [か行]
監督・制作/ロバート・レッドフォード 脚本/ジェームズ・ソロモン
出演/ジェームズ・マカヴォイ ロビン・ライト ケヴィン・クライン エヴァン・レイチェル・ウッド ダニー・ヒューストン ジャスティン・ロング アレクシス・ブレデル ジョニー・シモンズ コルム・ミーニイ トム・ウィルキンソン
日本公開/2012年10月27日
ジャンル/[ドラマ]
http://bookmarks.yahoo.co.jp/bookmarklet/showpopup?t='+encodeURIComponent(document.title)+'&u='+encodeURIComponent(location.href)+'&ei=UTF-8','_blank','width=550,height=480,left=100,top=50,scrollbars=1,resizable=1',0);">
みんなにそう云われたと、脚本家のジェームズ・ソロモンは述懐している。18年前に『声をかくす人』の脚本を書きはじめた頃のことだ。
公式サイトは次のような彼の言葉を紹介している。
「18年前に脚本を書き始めた頃、それを見せた人たち全員が驚いていた。リンカーンの暗殺が大きな陰謀の一部だったこと。その夜に複数の襲撃があったこと。軍法会議が行われ、被告の中に一人の女性がいたこと。でも皆に『魅力的な物語だが、現代と何の関係があるんだ?』と言われたよ。だが、2001年9月以降、そういう言葉を聞くことはめったになくなったね」
この物語は、現代人にこそ観て欲しい。ロバート・レッドフォード監督をはじめとするスタッフ、キャストには、そんな強い思いがあったはずだ。
その対象はもちろん米国民だろうが、私は日本国民もまた本作を是非とも観るべきだと思う。
1865年に米国で起きたこと、2001年9月以降に起きたこと、そして現在日本で起きていること、そこには共通性が感じられるからだ。
本作は、1865年にリンカーン大統領暗殺に加担したとして軍法会議にかけられた女性と、彼女の弁護士の物語だ。
長かった南北戦争がようやく終結し、平和な国家を築こうとしていた矢先の南軍支持派による大統領暗殺に、人々は憎しみの炎を燃やした。誰もが犯人に対する早急な死刑を望んでおり、政府は事件の決着が遅れて北米大陸を二分する戦争が再燃することを恐れた。被告となった女性を、すみやかに死刑にすべきと誰もが思った。
主人公の弁護士も、北軍で活躍した一人として同じ気持ちだったが、あいにく女性の弁護を引き受ける破目になってしまう。ところが嫌々弁護をはじめた彼は、やがて女性のために真摯に弁護をするようになる。
女性が無実だと思ったからか?
そうではない。弁護側の証人もいない中で一方的に進められる軍法会議が、適切ではないと考えたからだ。たとえ女性が犯人だったとしても、女性に有利な証言や証拠をきちんと吟味し、適切な手続きにのっとった上でなければ、軽々しく裁いてはいけないと考えたのだ。
被告を死刑にしようと結論を急ぐ会議は、弁護士から見れば充分な審理を尽くしていなかった。憲法の謳う正義が実践されているとは思えなかったのだ。
しかし、人々は弁護士を批難した。大統領暗殺の一味を弁護してやるなんて、まるで犯人に味方しているように見えたのだ。弁護士は法の正義を尊重しようとしただけなのに、人々から爪はじきにされ、最愛の恋人にも去られてしまう。
被告を死刑にすれば、人々の溜飲が下がるだろう。世の中は落ち着いて、国家に平和が訪れるだろう。
政府が民衆の思いを汲もうとしているときに、一介の弁護士が慎重な審理を求めるのは許されないのだろうか。
2001年9月11日、アメリカ同時多発テロ事件は多くのものを破壊した。
事件への報復を訴えたジョージ・W・ブッシュ大統領の支持率は急上昇し、その支持を背景にブッシュ大統領はアフガニスタンへ、そしてイラクへ攻め込んだ。
アフガニスタンのタリバン政権には宣戦布告のないまま戦闘を仕掛け、イラク戦争には根拠がなかった。
西洋諸国は何世紀にもわたる戦争を通して、国家間の戦争にも一定のルールを築いてきた。それが国際人道法等に結実し、交戦者の定義や、非戦闘員の保護等が定められてきたはずだった。だが、「テロリスト」との戦いでは、戦闘員と非戦闘員との区別すらうやむやだ。イラクでは、相手がテロリストかどうかも確かめずに銃を乱射する事件が頻発した。
米国大統領がオバマに変わっても、「戦争」は終わらない。米国にとって対テロ戦争の「パートナー」であるはずのパキスタン領内でも攻撃は行われ、誤爆により多数のパキスタン兵が亡くなっている。そして「テロリスト」の周辺にいる人々も「テロリスト」という論法なのだろう、殺害された「テロリスト」の葬式に集まった人々にミサイルを撃ち込んで、多数の「テロリストの仲間」を殺害している。
同時に米国では、異種族・異民族との対立を強調し、米軍が敵陣を粉砕するのを称賛する映画が続々と公開された。人々はそんな映画を観て溜飲を下げたかもしれない。
だが、さすがに本作の脚本を読んで「現代と何の関係があるんだ?」とは云わないだろう。
レッドフォード監督は、本作に関してこう述べている。「歴史は素晴らしい物語の情報源であり、現代と関係しているものだ。」
一方、日本では、2010年9月に尖閣諸島中国漁船衝突事件が起こった。海上保安庁が公務執行妨害で逮捕した中国漁船の船長を、那覇地方検察庁が釈放した事件である。
この事件において日本が取るべきだった対応については様々な声があるだろうが、とりわけ加藤嘉一氏の「中国側も呆気に取られるほど、日本のハンドリングは一貫していなかった」という意見が印象深い。
---
日本は今回の問題に関して対応が一致していませんよね。最初から「司法は独立だ」というなら最後まで貫くべきだったでしょう。それなのに、那覇の地方裁判所は処分保留で船長を釈放したわけですから、政治介入があったのは明白です。
(略)
僕はこれまで中国で言論活動をしていく中で、日本人として1つのよりどころがありました。それが「日本は法治国家である」ということでした。
様々な問題について中国人と議論する中で意見が合わない人はたくさんいます。それでも「独裁国家よりも法治国家の方が社会や国民のためになる」と言うこの1点に関しては、誰もが認めてくれることだったのです。
(略)
だけれど、金輪際、僕は「法治国家」と言う言葉を中国で口にすることはできなくなりましたね。日本が法治国家であるという前提が崩れてしまったのですから、当然です。
---
また2011~2012年には、内閣総理大臣が民間企業に操業停止を「要請」し、この圧力によって民間企業の業績が悪化、コストは消費者が被るという事態が発生した。内閣総理大臣の「要請」には法的根拠がないのだから、圧力としか云いようがない。全国の原子力発電所は、役所の醸成する「空気」によって運転を停止した。
原子力発電所の稼働についてもまた様々な意見があるだろう。だがそれとは別に、適切な審理も手続きも経ずに政府が民間に圧力をかけるということが、一つの問題である。
大辞泉は、「法治主義」を次のように解説する。
「絶対君主の支配を否定し、国家権力の行使は議会の制定した法律に基づかねばならないとする近代市民国家の政治原理。」
たとえ国家権力といえども、その行使は法律に制限される。何らかの施策を推進するには、根拠となる法律を議会で制定する必要がある。それでこそ、法は国家権力の恣意的な運用から国民を守る社会的なバリケードになるという。
もしも、為政者や民衆の思いを遂げるために審理や手続きをおろそかにすることがあれば、それはもはや法治国家ではない。
リンカーン大統領暗殺に加担した罪で告訴されたメアリー・サラットは、弁護士フレデリック・エイキンの努力にもかかわらず処刑され、彼女は米国史上はじめて死刑になった女性として名を残した。
法というバリケードが失われることこそ、国民にとって最も恐ろしい事態である。
![声をかくす人 [DVD]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/51zchq6hfmL._SL160_.jpg)
監督・制作/ロバート・レッドフォード 脚本/ジェームズ・ソロモン
出演/ジェームズ・マカヴォイ ロビン・ライト ケヴィン・クライン エヴァン・レイチェル・ウッド ダニー・ヒューストン ジャスティン・ロング アレクシス・ブレデル ジョニー・シモンズ コルム・ミーニイ トム・ウィルキンソン
日本公開/2012年10月27日
ジャンル/[ドラマ]


tag : ロバート・レッドフォードジェームズ・マカヴォイロビン・ライトケヴィン・クラインエヴァン・レイチェル・ウッドダニー・ヒューストンジャスティン・ロングアレクシス・ブレデルジョニー・シモンズコルム・ミーニイ
『レ・ミゼラブル』 ミュージカルファンよ、心配するなかれ
奇異な目を向ける人もいただろうが、私は席を立つことができなかった。
私と友人は、場内が明るくなり、他の観客が帰り出しても嗚咽が止まらず、いつまでも泣き続けていた。
子供の頃に児童書『ああ無情』を読み、テレビアニメ『ジャン・バルジャン物語』も見ていたから、内容は知ってるつもりだったが、そんな予備知識をはるかに上回る波乱万丈の物語と大いなる感動に、圧倒されてしまったのだ。
その後、何度も足を運ぶことになる東宝ミュージカル『レ・ミゼラブル』を、はじめて観たときのことである。
その、私にとって最高のミュージカル『レ・ミゼラブル』が、ヴィクトル・ユーゴーの原作発表からちょうど150年目の2012年に、映画として公開された。『レ・ミゼラブル』のファンは映画化と聞いて、期待混じり、不安混じりで公開を待っていたのではないだろうか。
かくいう私も不安を抱きながら公開日に臨んだ一人だが、最初の1シーン、いや最初の1ショトを観ただけで、すべては杞憂であると、映画も素晴らしい作品であると確信した。
映画『レ・ミゼラブル』は、ミュージカル版にきわめて忠実に作られている。
ミュージカル版はセリフのほとんどが歌になっており、しかも独立の楽曲が並ぶのではなく、少数のモチーフが全編にわたって繰り返され絡み合うことで、ミュージカル全体を統一感のある一つの楽曲のように仕立てている。そのためいたずらにセリフを変えたり、場面を入れ替えたりすると、楽曲としての完成度を損なってしまう。
映画の作り手もそのことは承知しているのだろう。私は日頃ロンドン・オリジナル・キャスト盤のCDを聴いているが、映画の歌にも音楽にもまったく違和感がない。
しかも公式サイトが伝えるところでは、まるで舞台のようにすべての歌を実際に歌いながら生で収録したというから驚きだ。
さらに、キャスティングのはまり具合にも感心する。役のイメージにキャストがピタリと合っているだけではない。スクリーンを見つめていると、映画のキャストが日本版ミュージカルのキャストに重なってくるのだ。
ヒュー・ジャックマン演じるジャン・バルジャンの風貌は鹿賀丈史さんのようであるし、ラッセル・クロウ演じるジャベールは滝田栄さんを彷彿とさせる。ファンティーヌ役のアン・ハサウェイの線の細さは岩崎宏美さんを思わせるし、コゼット役のアマンダ・サイフリッドはクリッとした目の魅力が斉藤由貴さんと共通している。エポニーヌ役のサマンサ・バークスに至っては島田歌穂さんにそっくりだ。
もちろんそれは、日本版キャストを意識して映画がキャスティングされたということではない。映画でも舞台でも、役のイメージに合ったキャスティングがとことん追求され、出演者それぞれが役作りを極めたからこそ、その到達点が一致したのだろう。
一方で、映画ならではの工夫もある。
舞台に比べると映画は生演奏も生出演もないだけ迫力に欠け、客席との一体感を演出しにくい。その代わり、映画が舞台を凌ぐのが映像の力である。
『レ・ミゼラブル』は嵐の中で大きく傾いた帆船のショットからはじまる。数え切れないほど多くの服役囚たちが帆船に伸びた綱を掴み、嵐に逆らって引いている。辛いばかりで無駄としか思えない重労働だ。
ミュージカル版も同様に服役囚の群れから幕を開けるが、彼らの辛さはその歌の内容から窺うばかりだった。映画は、降りしきる雨や荒れ狂う波や、いうことをきかない巨大帆船を映像で見せつけ、彼らの過酷な環境を一瞬で観客に示す。「レ・ミゼラブル」とは「みじめなる人々」という意味だ。まさにこの作品に相応しいオープニングである。
仮釈放されたジャン・バルジャンが険しい山頂を越えていく場面も、最適のロケ地を選べる映画ならではの映像だ。
ロバート・ワイズ監督が『サウンド・オブ・ミュージック』の映画化に当たって、空撮という舞台では絶対不可能な技法をオープニングに持ってきたのと同じである。
だから本作は、ミュージカル版に思い入れがたっぷりある人でも、なんら心配することはない。映画と舞台の違いと特質を踏まえて、ミュージカル版を尊重しつつ丁寧に映画化されている。
それにしても、1985年にロンドンで初演されたミュージカルが、なぜ今頃映画になるのだろう。
それは本作の描くものが、普遍的な問題だからだ。
本作は逃亡犯ジャン・バルジャンと、彼を執拗に追うジャベール警部との対立を縦糸とし、犯罪者や革命家や虐げられた人々のエピソードを横糸として織り成された物語だ。
ジャン・バルジャンはかつて盗みを働いた。だがそれは飢えた子供にパンを与えんがためだった。やがて工場を経営して人々に仕事を与え、貧しい者には施しもした。
片やジャベールは法の番人を自認し、逃亡したジャン・バルジャンを捕らえることに執念を燃やす。彼はジャン・バルジャンの動機や行為の崇高さには目もくれず、法を破ったことをもってジャン・バルジャンを極悪人と見なしている。
二人の違いは、他ならぬジャベールのセリフで「法か善か」と表現されている。ジャベールは法を守ることを絶対視し、法さえ守れば行いの善し悪しは問わない。ジャン・バルジャンはたしかに法を犯したかもしれないが、他者のため、苦しむ者のための犠牲をいとわず、常に正しい人であろうとしている。
はたして社会が成り立つ上で必要なのは、法なのか善なのか。
この命題の立て方からお判りのとおり、ここでの「法」は「実定法」もしくは「形式的法治主義」を意味しよう。対する「善」とは「自然法」もしくは「実質的法治主義」「法の支配」のことである。
前者は成文化された法律さえ守っていれば良いという考え方だ。どんなひどいことをしても、法律が禁止していなければ良い。それどころか、ひどいことをする法律を制定してしまえば、ひどいことが法に適った行為となる。よく例に挙げられるのが、ナチスに権力を集中させた全権委任法や、法学博士たちが集まってホロコーストを合法的に推進したヴァンゼー会議である。
後者は、本質的な正しさを備えたものこそ法であるという考え方だ。たとえ成文化された法律であっても、正しくなければ真の法ではない。そして何人も犯すことを許されない本質的に正しいものが法であるなら、一般大衆のみならず、国王や権力者でも法の支配を受けねばならない。国家の横暴をも制限するのが法の支配だ。
いささか乱暴な説明で恐縮だが、本作を観る際のポイントはこの違いである。
『レ・ミゼラブル』では、司教がジャン・バルジャンを諭したり、十字架や修道院が映されたりすることで判るように、自然法の象徴としてキリスト教的なアイテムを用いている。これは自然法の法源(法の存在根拠)の一つに神が挙げられていることに符合しよう。
これらのアイテムはジャン・バルジャンの信心深さ(だけ)を表現するものではなく、「正しい」こととは何かという問いかけを表している。
だからこそ、ジャベールは死なねばならない。善を無視した法を体現する彼は、ジャン・バルジャンを見逃すことで、遂に形式的な法を越える本質的な正しさに目覚めてしまう。その相克の中で善の勝利を確信せざるを得なくなった彼は、物語から退場するしかないのだ。
「法の支配」という考えは古くからある。1215年に英国王に認めさせたマグナ・カルタはその先駆けといえるだろう。
しかし、残念ながら「本質的に正しいこと」が為政者を含めたすべてを支配するのは難しい。どの国にも法はあるが、しばしばそれは形式的法治主義の域を出ない。
本作が背景とするのは1832年の六月暴動である。
それから180年を経ても、社会には多くの問題があり、人々は不満を抱え、時として激しく対立している。「本質的に正しいこと」を問う『レ・ミゼラブル』は、決して古びることはない。
とはいえ、法か善か、すなわち「形式的法治主義」か「法の支配」かを巡る議論は、本作の舞台であるフランスや、ミュージカルが作られたイギリス等の西洋ならともかく、東洋では馴染みにくいのではないか。
はたして我が国の官吏は、ジャベールのように法を守ることに執念を燃やしているだろうか。「規則は、破るためにあるんだよ。」とのたまう警察官が人気を集める本邦では、まず形式的法治主義までたどり着くのが第一ステップかもしれない。
さて、帝国劇場での初演時、観客がまばらになっても泣き続けていた私と友人に、出演者の使いの人が声をかけてくれた。同行した友人のつてで、楽屋に呼んでいただけたのだ。
ところが、たったいま素晴らしい作品を見せてくれた出演者が目の前にいるというのに、私も友人も言葉を発することができなかった。口を開けばようやく止まった涙がまたこぼれ落ちそうで、唇をかみしめていたからだ。
役者さんはメークを落としながら「どうだった?」と声をかけてくれたが、一言二言答えるだけですぐに黙ってしまう私たちを変に思ったに違いない。
この作品を観てどんなに感動したか、どんなに素晴らしいと思ったかを、もっときちんとお伝えすれば良かったと、いまだにそれが気になっている。
『レ・ミゼラブル』 [ら行]
監督/トム・フーパー 原作(小説)/ヴィクトル・ユゴー
作(ミュージカル)/アラン・ブーブリル、クロード=ミシェル・シェーンベルク
作詞/ハーバート・クレッツマー
出演/ヒュー・ジャックマン ラッセル・クロウ アン・ハサウェイ アマンダ・セイフライド エディ・レッドメイン ヘレナ・ボナム=カーター サシャ・バロン・コーエン サマンサ・バークス アーロン・トヴェイト イザベル・アレン
日本公開/2012年12月21日
ジャンル/[ミュージカル] [ドラマ] [文芸]
http://bookmarks.yahoo.co.jp/bookmarklet/showpopup?t='+encodeURIComponent(document.title)+'&u='+encodeURIComponent(location.href)+'&ei=UTF-8','_blank','width=550,height=480,left=100,top=50,scrollbars=1,resizable=1',0);">
私と友人は、場内が明るくなり、他の観客が帰り出しても嗚咽が止まらず、いつまでも泣き続けていた。
子供の頃に児童書『ああ無情』を読み、テレビアニメ『ジャン・バルジャン物語』も見ていたから、内容は知ってるつもりだったが、そんな予備知識をはるかに上回る波乱万丈の物語と大いなる感動に、圧倒されてしまったのだ。
その後、何度も足を運ぶことになる東宝ミュージカル『レ・ミゼラブル』を、はじめて観たときのことである。
その、私にとって最高のミュージカル『レ・ミゼラブル』が、ヴィクトル・ユーゴーの原作発表からちょうど150年目の2012年に、映画として公開された。『レ・ミゼラブル』のファンは映画化と聞いて、期待混じり、不安混じりで公開を待っていたのではないだろうか。
かくいう私も不安を抱きながら公開日に臨んだ一人だが、最初の1シーン、いや最初の1ショトを観ただけで、すべては杞憂であると、映画も素晴らしい作品であると確信した。
映画『レ・ミゼラブル』は、ミュージカル版にきわめて忠実に作られている。
ミュージカル版はセリフのほとんどが歌になっており、しかも独立の楽曲が並ぶのではなく、少数のモチーフが全編にわたって繰り返され絡み合うことで、ミュージカル全体を統一感のある一つの楽曲のように仕立てている。そのためいたずらにセリフを変えたり、場面を入れ替えたりすると、楽曲としての完成度を損なってしまう。
映画の作り手もそのことは承知しているのだろう。私は日頃ロンドン・オリジナル・キャスト盤のCDを聴いているが、映画の歌にも音楽にもまったく違和感がない。
しかも公式サイトが伝えるところでは、まるで舞台のようにすべての歌を実際に歌いながら生で収録したというから驚きだ。
さらに、キャスティングのはまり具合にも感心する。役のイメージにキャストがピタリと合っているだけではない。スクリーンを見つめていると、映画のキャストが日本版ミュージカルのキャストに重なってくるのだ。
ヒュー・ジャックマン演じるジャン・バルジャンの風貌は鹿賀丈史さんのようであるし、ラッセル・クロウ演じるジャベールは滝田栄さんを彷彿とさせる。ファンティーヌ役のアン・ハサウェイの線の細さは岩崎宏美さんを思わせるし、コゼット役のアマンダ・サイフリッドはクリッとした目の魅力が斉藤由貴さんと共通している。エポニーヌ役のサマンサ・バークスに至っては島田歌穂さんにそっくりだ。
もちろんそれは、日本版キャストを意識して映画がキャスティングされたということではない。映画でも舞台でも、役のイメージに合ったキャスティングがとことん追求され、出演者それぞれが役作りを極めたからこそ、その到達点が一致したのだろう。
一方で、映画ならではの工夫もある。
舞台に比べると映画は生演奏も生出演もないだけ迫力に欠け、客席との一体感を演出しにくい。その代わり、映画が舞台を凌ぐのが映像の力である。
『レ・ミゼラブル』は嵐の中で大きく傾いた帆船のショットからはじまる。数え切れないほど多くの服役囚たちが帆船に伸びた綱を掴み、嵐に逆らって引いている。辛いばかりで無駄としか思えない重労働だ。
ミュージカル版も同様に服役囚の群れから幕を開けるが、彼らの辛さはその歌の内容から窺うばかりだった。映画は、降りしきる雨や荒れ狂う波や、いうことをきかない巨大帆船を映像で見せつけ、彼らの過酷な環境を一瞬で観客に示す。「レ・ミゼラブル」とは「みじめなる人々」という意味だ。まさにこの作品に相応しいオープニングである。
仮釈放されたジャン・バルジャンが険しい山頂を越えていく場面も、最適のロケ地を選べる映画ならではの映像だ。
ロバート・ワイズ監督が『サウンド・オブ・ミュージック』の映画化に当たって、空撮という舞台では絶対不可能な技法をオープニングに持ってきたのと同じである。
だから本作は、ミュージカル版に思い入れがたっぷりある人でも、なんら心配することはない。映画と舞台の違いと特質を踏まえて、ミュージカル版を尊重しつつ丁寧に映画化されている。
それにしても、1985年にロンドンで初演されたミュージカルが、なぜ今頃映画になるのだろう。
それは本作の描くものが、普遍的な問題だからだ。
本作は逃亡犯ジャン・バルジャンと、彼を執拗に追うジャベール警部との対立を縦糸とし、犯罪者や革命家や虐げられた人々のエピソードを横糸として織り成された物語だ。
ジャン・バルジャンはかつて盗みを働いた。だがそれは飢えた子供にパンを与えんがためだった。やがて工場を経営して人々に仕事を与え、貧しい者には施しもした。
片やジャベールは法の番人を自認し、逃亡したジャン・バルジャンを捕らえることに執念を燃やす。彼はジャン・バルジャンの動機や行為の崇高さには目もくれず、法を破ったことをもってジャン・バルジャンを極悪人と見なしている。
二人の違いは、他ならぬジャベールのセリフで「法か善か」と表現されている。ジャベールは法を守ることを絶対視し、法さえ守れば行いの善し悪しは問わない。ジャン・バルジャンはたしかに法を犯したかもしれないが、他者のため、苦しむ者のための犠牲をいとわず、常に正しい人であろうとしている。
はたして社会が成り立つ上で必要なのは、法なのか善なのか。
この命題の立て方からお判りのとおり、ここでの「法」は「実定法」もしくは「形式的法治主義」を意味しよう。対する「善」とは「自然法」もしくは「実質的法治主義」「法の支配」のことである。
前者は成文化された法律さえ守っていれば良いという考え方だ。どんなひどいことをしても、法律が禁止していなければ良い。それどころか、ひどいことをする法律を制定してしまえば、ひどいことが法に適った行為となる。よく例に挙げられるのが、ナチスに権力を集中させた全権委任法や、法学博士たちが集まってホロコーストを合法的に推進したヴァンゼー会議である。
後者は、本質的な正しさを備えたものこそ法であるという考え方だ。たとえ成文化された法律であっても、正しくなければ真の法ではない。そして何人も犯すことを許されない本質的に正しいものが法であるなら、一般大衆のみならず、国王や権力者でも法の支配を受けねばならない。国家の横暴をも制限するのが法の支配だ。
いささか乱暴な説明で恐縮だが、本作を観る際のポイントはこの違いである。
『レ・ミゼラブル』では、司教がジャン・バルジャンを諭したり、十字架や修道院が映されたりすることで判るように、自然法の象徴としてキリスト教的なアイテムを用いている。これは自然法の法源(法の存在根拠)の一つに神が挙げられていることに符合しよう。
これらのアイテムはジャン・バルジャンの信心深さ(だけ)を表現するものではなく、「正しい」こととは何かという問いかけを表している。
だからこそ、ジャベールは死なねばならない。善を無視した法を体現する彼は、ジャン・バルジャンを見逃すことで、遂に形式的な法を越える本質的な正しさに目覚めてしまう。その相克の中で善の勝利を確信せざるを得なくなった彼は、物語から退場するしかないのだ。
「法の支配」という考えは古くからある。1215年に英国王に認めさせたマグナ・カルタはその先駆けといえるだろう。
しかし、残念ながら「本質的に正しいこと」が為政者を含めたすべてを支配するのは難しい。どの国にも法はあるが、しばしばそれは形式的法治主義の域を出ない。
本作が背景とするのは1832年の六月暴動である。
それから180年を経ても、社会には多くの問題があり、人々は不満を抱え、時として激しく対立している。「本質的に正しいこと」を問う『レ・ミゼラブル』は、決して古びることはない。
とはいえ、法か善か、すなわち「形式的法治主義」か「法の支配」かを巡る議論は、本作の舞台であるフランスや、ミュージカルが作られたイギリス等の西洋ならともかく、東洋では馴染みにくいのではないか。
はたして我が国の官吏は、ジャベールのように法を守ることに執念を燃やしているだろうか。「規則は、破るためにあるんだよ。」とのたまう警察官が人気を集める本邦では、まず形式的法治主義までたどり着くのが第一ステップかもしれない。
さて、帝国劇場での初演時、観客がまばらになっても泣き続けていた私と友人に、出演者の使いの人が声をかけてくれた。同行した友人のつてで、楽屋に呼んでいただけたのだ。
ところが、たったいま素晴らしい作品を見せてくれた出演者が目の前にいるというのに、私も友人も言葉を発することができなかった。口を開けばようやく止まった涙がまたこぼれ落ちそうで、唇をかみしめていたからだ。
役者さんはメークを落としながら「どうだった?」と声をかけてくれたが、一言二言答えるだけですぐに黙ってしまう私たちを変に思ったに違いない。
この作品を観てどんなに感動したか、どんなに素晴らしいと思ったかを、もっときちんとお伝えすれば良かったと、いまだにそれが気になっている。
![レ・ミゼラブル 〈ブルーレイ・コレクターズBOX(5枚組) [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/51EKo7xwOCL._SL160_.jpg)
監督/トム・フーパー 原作(小説)/ヴィクトル・ユゴー
作(ミュージカル)/アラン・ブーブリル、クロード=ミシェル・シェーンベルク
作詞/ハーバート・クレッツマー
出演/ヒュー・ジャックマン ラッセル・クロウ アン・ハサウェイ アマンダ・セイフライド エディ・レッドメイン ヘレナ・ボナム=カーター サシャ・バロン・コーエン サマンサ・バークス アーロン・トヴェイト イザベル・アレン
日本公開/2012年12月21日
ジャンル/[ミュージカル] [ドラマ] [文芸]


tag : トム・フーパーヒュー・ジャックマンラッセル・クロウアン・ハサウェイアマンダ・セイフライドエディ・レッドメインヘレナ・ボナム=カーターサシャ・バロン・コーエンサマンサ・バークスアーロン・トヴェイト
『フランケンウィニー』 ウィニーとは?
天国の手前には、虹の橋があるという。
寿命の短い犬や猫たちは、あなたより先にそこに行く。そしてあなたが来るのをそこでずっと待っている。やがてあなたも虹の橋に行くときが来て、彼らとの再会を果たす。もう二度と離れることはない。そしてあなた方は一緒に虹の橋を渡っていく……。
世界中で知られている詩『虹の橋』はこんな内容だ。ペットと暮らす人であれば、一度は目にしているのではないか。
この詩が世界に広まったのは、それだけ人々がペットを愛し、その死を悼んでるからだろう。
だから犬と暮らした人であれば、『フランケンウィニー』の主人公ヴィクター・フランケンシュタインの気持ちが痛いほど判るはずだ。
大の仲良しである愛犬スパーキーとの幸せな日々。突然訪れたスパーキーの死。ヴィクターの深い悲しみと、なんとしてもスパーキーに会いたいという切ない想い。
公式サイトによれば、本作はティム・バートン監督が個人的に最も作りたかった映画だという。ここには少年時代の愛犬との思い出が込められている。ディズニー所属のアニメーター時代に100万ドルで制作した短編を、28年後に同じディズニーで3900万ドルかけて長編化できたのだから、感慨もひとしおだろう。
そして、ストップモーション・アニメーションで表現されたブルテリアのスパーキーを見れば、ティム・バートン監督が犬に注ぐ愛情の深さがよく判る。スパーキーの表情や細かい仕草、さらにヴィクターへのじゃれつき方は、犬たちが、大好きな飼い主の前で見せるものだ。本作を鑑賞し、自分の愛犬を思い出した観客も多いだろう。
その愛の深さが、メアリー・シェリーの小説『フランケンシュタイン』(1818年)の青年科学者ヴィクター・フランケンシュタインと、本作のヴィクター少年の違いでもある。
人造人間を創造したヴィクター青年に、創造物への愛情はない。科学的野心から人間を創った彼は、その醜い出来上がりを忌み嫌い、しまいには悲劇を招く。
だが、ヴィクター少年は溢れる愛をもってスパーキーを復活させる。復活したスパーキーは縫合跡も痛々しく、とても可愛らしいとはいえないのだが、ヴィクター少年は生前と変わらず愛を注ぎ続ける。
ヴィクター少年を指導する科学の先生ジクルスキは、まさにこのことを指摘する。ヴィクターはスパーキーを復活させたものの、金魚の復活には失敗した。その成否を分けたのが、愛情の有無であるとジクルスキ先生は云うのだ。
「科学は善くも悪くもない。どちらにも使うことができる。」
ジクルスキ先生のこのセリフが、本作の肝である。
科学展での優勝を目指して死体の復活を競う子供たちは、その野心のために街を危機に陥れる。一方、科学を恐れるばかりで理解しない大人たちは、無邪気なスパーキーを怪物呼ばわりして狩り立てる。
観客は、子供たちの思慮の浅さに不安を覚えるだろう。同時に、大人たちの愚かさに呆れ、その無理解を残念に思うだろう。
だが、現実に未知の事象に出くわしたとき、私たちは劇中の大人と同じようにただ批難し、排除していないだろうか。しかるべき配慮の上で行動させようとするのではなく、行動そのものを制止していないだろうか。
劇中、ジクルスキ先生は、問題の原因が大人たちの無知と無教養にあると演説する。無知のために科学を恐れ、その恐れが出来事への理解を妨げている。
ジクルスキ先生は大人たちを前に「あなたがたを変えるにはもう遅い」と述べ、次代を担う子供に期待を託そうとするのだが、残念ながら先生は真実を云い当てられた大人たちに追い出されてしまう。
映画は、話の流れを自然に見せるため、ジクルスキを恐ろしい変人のように描く。そのため彼が追い出されるのは当然のように感じられるが、彼の言葉は(過激だけれど)間違っていない。真実を突いた言葉は、しばしば私たちにとって耳障りなのだ。
そして、意見を同じくする者ばかりで集まってエスカレートした結果が、本作でのスパーキー狩りである。
人々の無知は、スパーキーの些細な行為を大きな災厄のように感じさせてしまうのだ。
さて、本作の題名『フランケンウィニー』(原題:Frankenweenie)を日本語にすれば、「フランケンおたく」とでもなろうか。
フランケンおたくと呼ばれるべきは、死体の復活を競う子供たちよりも、第一にティム・バートン監督だろうが、本作は監督が「少年と愛犬の物語と、『フランケンシュタインの館』的な要素を融合」させたというだけあって、『フランケンシュタインの館』に登場する5大キャラクター、すなわちキチガイ博士(本作ではヴィクター少年)とドラキュラ伯爵(本作では猫と蝙蝠の合体モンスター)と狼男(本作ではネズミ怪人)とせむし男(本作ではヴィクターの同級生)とフランケンシュタイン(本作ではスパーキー)が勢揃いする。
加えて、クリストファー・リー演じるドラキュラが映し出されたり、少年に布が巻きついてミイラ男のようになったりと、往年のモンスター映画へのオマージュに溢れた作品になっている。
とりわけ日本の映画ファンに嬉しいのは、ガメラの登場だろう。他でもない『フランケンシュタイン』の原作者と同じシェリーという名のカメが、巨大化して大暴れするのは愉快である。
思えば、ゴジラが水爆の影響で怪物化した恐竜であり、科学の被害者として振る舞うのに対し、ウランを常食とするガメラは原爆のエネルギーすら食ってしまい、人間の科学なんぞ怖がらない。
それはあたかも、『フランケンシュタイン』の悲劇性に対する、本作のポジティブさを象徴するかのようだ。
『フランケンウィニー』 [は行]
監督・制作・原案/ティム・バートン
出演/キャサリン・オハラ マーティン・ショート マーティン・ランドー ウィノナ・ライダー チャーリー・ターハン アッティカス・シェイファー
日本公開/2012年12月15日
ジャンル/[ファンタジー] [犬]
http://bookmarks.yahoo.co.jp/bookmarklet/showpopup?t='+encodeURIComponent(document.title)+'&u='+encodeURIComponent(location.href)+'&ei=UTF-8','_blank','width=550,height=480,left=100,top=50,scrollbars=1,resizable=1',0);">
寿命の短い犬や猫たちは、あなたより先にそこに行く。そしてあなたが来るのをそこでずっと待っている。やがてあなたも虹の橋に行くときが来て、彼らとの再会を果たす。もう二度と離れることはない。そしてあなた方は一緒に虹の橋を渡っていく……。
世界中で知られている詩『虹の橋』はこんな内容だ。ペットと暮らす人であれば、一度は目にしているのではないか。
この詩が世界に広まったのは、それだけ人々がペットを愛し、その死を悼んでるからだろう。
だから犬と暮らした人であれば、『フランケンウィニー』の主人公ヴィクター・フランケンシュタインの気持ちが痛いほど判るはずだ。
大の仲良しである愛犬スパーキーとの幸せな日々。突然訪れたスパーキーの死。ヴィクターの深い悲しみと、なんとしてもスパーキーに会いたいという切ない想い。
公式サイトによれば、本作はティム・バートン監督が個人的に最も作りたかった映画だという。ここには少年時代の愛犬との思い出が込められている。ディズニー所属のアニメーター時代に100万ドルで制作した短編を、28年後に同じディズニーで3900万ドルかけて長編化できたのだから、感慨もひとしおだろう。
そして、ストップモーション・アニメーションで表現されたブルテリアのスパーキーを見れば、ティム・バートン監督が犬に注ぐ愛情の深さがよく判る。スパーキーの表情や細かい仕草、さらにヴィクターへのじゃれつき方は、犬たちが、大好きな飼い主の前で見せるものだ。本作を鑑賞し、自分の愛犬を思い出した観客も多いだろう。
その愛の深さが、メアリー・シェリーの小説『フランケンシュタイン』(1818年)の青年科学者ヴィクター・フランケンシュタインと、本作のヴィクター少年の違いでもある。
人造人間を創造したヴィクター青年に、創造物への愛情はない。科学的野心から人間を創った彼は、その醜い出来上がりを忌み嫌い、しまいには悲劇を招く。
だが、ヴィクター少年は溢れる愛をもってスパーキーを復活させる。復活したスパーキーは縫合跡も痛々しく、とても可愛らしいとはいえないのだが、ヴィクター少年は生前と変わらず愛を注ぎ続ける。
ヴィクター少年を指導する科学の先生ジクルスキは、まさにこのことを指摘する。ヴィクターはスパーキーを復活させたものの、金魚の復活には失敗した。その成否を分けたのが、愛情の有無であるとジクルスキ先生は云うのだ。
「科学は善くも悪くもない。どちらにも使うことができる。」
ジクルスキ先生のこのセリフが、本作の肝である。
科学展での優勝を目指して死体の復活を競う子供たちは、その野心のために街を危機に陥れる。一方、科学を恐れるばかりで理解しない大人たちは、無邪気なスパーキーを怪物呼ばわりして狩り立てる。
観客は、子供たちの思慮の浅さに不安を覚えるだろう。同時に、大人たちの愚かさに呆れ、その無理解を残念に思うだろう。
だが、現実に未知の事象に出くわしたとき、私たちは劇中の大人と同じようにただ批難し、排除していないだろうか。しかるべき配慮の上で行動させようとするのではなく、行動そのものを制止していないだろうか。
劇中、ジクルスキ先生は、問題の原因が大人たちの無知と無教養にあると演説する。無知のために科学を恐れ、その恐れが出来事への理解を妨げている。
ジクルスキ先生は大人たちを前に「あなたがたを変えるにはもう遅い」と述べ、次代を担う子供に期待を託そうとするのだが、残念ながら先生は真実を云い当てられた大人たちに追い出されてしまう。
映画は、話の流れを自然に見せるため、ジクルスキを恐ろしい変人のように描く。そのため彼が追い出されるのは当然のように感じられるが、彼の言葉は(過激だけれど)間違っていない。真実を突いた言葉は、しばしば私たちにとって耳障りなのだ。
そして、意見を同じくする者ばかりで集まってエスカレートした結果が、本作でのスパーキー狩りである。
人々の無知は、スパーキーの些細な行為を大きな災厄のように感じさせてしまうのだ。
さて、本作の題名『フランケンウィニー』(原題:Frankenweenie)を日本語にすれば、「フランケンおたく」とでもなろうか。
フランケンおたくと呼ばれるべきは、死体の復活を競う子供たちよりも、第一にティム・バートン監督だろうが、本作は監督が「少年と愛犬の物語と、『フランケンシュタインの館』的な要素を融合」させたというだけあって、『フランケンシュタインの館』に登場する5大キャラクター、すなわちキチガイ博士(本作ではヴィクター少年)とドラキュラ伯爵(本作では猫と蝙蝠の合体モンスター)と狼男(本作ではネズミ怪人)とせむし男(本作ではヴィクターの同級生)とフランケンシュタイン(本作ではスパーキー)が勢揃いする。
加えて、クリストファー・リー演じるドラキュラが映し出されたり、少年に布が巻きついてミイラ男のようになったりと、往年のモンスター映画へのオマージュに溢れた作品になっている。
とりわけ日本の映画ファンに嬉しいのは、ガメラの登場だろう。他でもない『フランケンシュタイン』の原作者と同じシェリーという名のカメが、巨大化して大暴れするのは愉快である。
思えば、ゴジラが水爆の影響で怪物化した恐竜であり、科学の被害者として振る舞うのに対し、ウランを常食とするガメラは原爆のエネルギーすら食ってしまい、人間の科学なんぞ怖がらない。
それはあたかも、『フランケンシュタイン』の悲劇性に対する、本作のポジティブさを象徴するかのようだ。
![フランケンウィニー 3Dスーパー・セット(3枚組/デジタルコピー付き) [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/51CkxVCJzfL._SL160_.jpg)
監督・制作・原案/ティム・バートン
出演/キャサリン・オハラ マーティン・ショート マーティン・ランドー ウィノナ・ライダー チャーリー・ターハン アッティカス・シェイファー
日本公開/2012年12月15日
ジャンル/[ファンタジー] [犬]


【theme : ディズニー映画】
【genre : 映画】
tag : ティム・バートンキャサリン・オハラマーティン・ショートマーティン・ランドーウィノナ・ライダーチャーリー・ターハンアッティカス・シェイファー
『黄金を抱いて翔べ』 魅力的なことと当たり前のこと
『映画 ひみつのアッコちゃん』の素晴らしさを周囲に吹聴していたところ、ある友人からこんな言葉が返ってきた。
「たしかに『映画 ひみつのアッコちゃん』を観て泣いた。でも、あの作品には映画の規範がない。」
友人との会話から、なるほどと思うところがあった。
『映画 ひみつのアッコちゃん』の一つの要素に悪人との攻防がある。だが、この映画での悪人のとっちめ方は充分ではない。悪だくみは粉砕されるものの、悪人がその報いを受けたとはいいがたい。
もちろん、『映画 ひみつのアッコちゃん』は悪人退治を主眼とした作品ではないから、アッコちゃんの恋と冒険が悪人たちを蹴散らせば充分である。仏教では因果応報という言葉があるけれど、現実世界がその言葉通りに説明できるわけでもない。悪人が生き延びることに、一人の少女が責任を負うものでもなかろう。
だが、私の友人は、映画はそれではいかんと云う。
善いことをすれば良い報いがあり、悪いことをすれば悪い報いがある。そういう物語を紡ぐことで、映画は人々の規範であるべきだと云うのだ。
たしかに、法を破り、悪事を反省することもなく、金を奪って万々歳という映画を観ると、その映画の作り手は何を考えているのかと思う。そんな作品を受容する世の中はいかがなものかと思う。
映画は現実の鏡であるとともに、現実に働きかけるメッセージでもあろうから、悪事を許すものであってはならないのだ。
私は『映画 ひみつのアッコちゃん』につゆほども不満はないが、友人の主張にも頷けるところではあった。少なくとも、作り手側の職業に従事している友人が、そんな規範を心がけながら作品に取り組んでいることを知って嬉しく思った。
『黄金を抱いて翔べ』は銀行から金塊を盗もうとする男たちの話だから、『映画 ひみつのアッコちゃん』以上に規範の有無が問われる。
だから本作は苦い味わいに覆われており、それは金を奪って万々歳という映画の対極といえよう。
ただ、規範といっても堅苦しいものではない。本作はどこをとっても良くできた、無類の娯楽作だ。
本作の優れたところを数え上げたら切りがない。練り込まれたストーリー、無駄のない脚本、テンポ良く緊張感に満ちた映像、個性的な登場人物とそれを体現する達者な俳優陣。どれか一つでも欠けたら映画が台無しになってしまうところ、本作は余裕でクリアしている。
こう云うと、何を当たり前な、と思われるかもしれない。私が列挙したものは、すべての作品が備えていて当たり前のことばかりだ。
しかし、その当たり前のことが往々にして備わっていないことを私たちは知っている。
製造業でもサービス業でも、客商売で忘れてはならないのが当たり前品質と魅力的品質だ。これは狩野紀昭氏が提唱した考え方で、次のように定義される。
当たり前品質要素:それが充足されれば当たり前と受け止められるが、不充足であれば不満を引き起こす品質要素。
魅力的品質要素:それが充足されれば満足を与えるが、不充足であっても仕方がないと受けとられる品質要素。
この二つの境界上に位置するのが一元的品質要素である。
一元的品質要素:それが充足されれば満足、不充足であれば不満を引き起こす品質要素。
たとえば飲食業を例に取ってみよう。
飲食業において店舗が清潔であることは必要不可欠だ。店が汚かったり、ゴキブリが目についたりしたら、客は二度とその店に来ない。だが、店舗が清潔なのはあまりにも当たり前のことであり、清潔にしただけで客が増えるわけではない。これが当たり前品質だ。
一方、その店のラーメンがずば抜けて美味いとしよう。そこそこの味でも不満足にはならないだろうが、ずば抜けた味だと思えば客はまた来店するし、口コミを広げて他の客を呼び込んでくれるかもしれない。これが魅力的品質だ。
店や企業が素晴らしさを競うのは、この魅力的品質の部分であり、これが評判になってこそ客足も伸びる。
だが、勘違いしてはならないのが、魅力的品質は当たり前品質に優先するものではないということだ。
飲食店であれば、どんなに美味いラーメンを出しても、ゴキブリのいる店に客は来ない。自動車であれば、どんなに驚異的な低燃費を実現しても、乗り心地が悪かったり、ブレーキの作動に問題のあるクルマは売れない。
「当店にゴキブリはいません」とか「ブレーキを踏めば必ず止まります」なんて、全然セールスポイントにならないが、それは消費者に軽視されてるからではなく、備わっていて当たり前だと思われているからだ。
映画だって、おんなじだ。
テレビの人気者を初主演に迎えたり、驚異的なスペクタクルシーンを用意してくれるのは、たいへん魅力的であり、観客も歓迎しよう。
だからといって、観客は、温いストーリーや、雑な映像や、つまらないキャラクターを許したりはしない。それらは、充足されて当たり前、不充足であれば不満を引き起こす要素なのだ。
映画もまた、当たり前品質はセールスポイントになりにくいけれど、本当に観客を満足させるのはここである。無名の俳優ばかりでも、金をかけたVFXなんかなくても、面白い映画は面白い。
そして『黄金を抱いて翔べ』が素晴らしいのは、当たり前品質において不充足な部分が一切ないからだ。
金塊強奪というネタに新奇性はないかもしれない。驚異的なスペクタクルシーンもないし、映画出演が話題になる人気者を配しているわけでもない(観客の中にはチャンミン目当ての人もいたが)。
けれども、魅力的品質のはずのものがしばしば目くらましにすぎないことを思えば、当たり前品質が完璧な本作の満足度は高い。
そして映画を貫く苦い規範は、私たちの胸に深い味わいを残してくれる。
『黄金を抱いて翔べ』 [あ行]
監督・脚本/井筒和幸 脚本/吉田康弘
出演/妻夫木聡 浅野忠信 桐谷健太 溝端淳平 チャンミン 青木崇高 中村ゆり 田口トモロヲ 鶴見辰吾 西田敏行
日本公開/2012年11月3日
ジャンル/[サスペンス] [犯罪]
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「たしかに『映画 ひみつのアッコちゃん』を観て泣いた。でも、あの作品には映画の規範がない。」
友人との会話から、なるほどと思うところがあった。
『映画 ひみつのアッコちゃん』の一つの要素に悪人との攻防がある。だが、この映画での悪人のとっちめ方は充分ではない。悪だくみは粉砕されるものの、悪人がその報いを受けたとはいいがたい。
もちろん、『映画 ひみつのアッコちゃん』は悪人退治を主眼とした作品ではないから、アッコちゃんの恋と冒険が悪人たちを蹴散らせば充分である。仏教では因果応報という言葉があるけれど、現実世界がその言葉通りに説明できるわけでもない。悪人が生き延びることに、一人の少女が責任を負うものでもなかろう。
だが、私の友人は、映画はそれではいかんと云う。
善いことをすれば良い報いがあり、悪いことをすれば悪い報いがある。そういう物語を紡ぐことで、映画は人々の規範であるべきだと云うのだ。
たしかに、法を破り、悪事を反省することもなく、金を奪って万々歳という映画を観ると、その映画の作り手は何を考えているのかと思う。そんな作品を受容する世の中はいかがなものかと思う。
映画は現実の鏡であるとともに、現実に働きかけるメッセージでもあろうから、悪事を許すものであってはならないのだ。
私は『映画 ひみつのアッコちゃん』につゆほども不満はないが、友人の主張にも頷けるところではあった。少なくとも、作り手側の職業に従事している友人が、そんな規範を心がけながら作品に取り組んでいることを知って嬉しく思った。
『黄金を抱いて翔べ』は銀行から金塊を盗もうとする男たちの話だから、『映画 ひみつのアッコちゃん』以上に規範の有無が問われる。
だから本作は苦い味わいに覆われており、それは金を奪って万々歳という映画の対極といえよう。
ただ、規範といっても堅苦しいものではない。本作はどこをとっても良くできた、無類の娯楽作だ。
本作の優れたところを数え上げたら切りがない。練り込まれたストーリー、無駄のない脚本、テンポ良く緊張感に満ちた映像、個性的な登場人物とそれを体現する達者な俳優陣。どれか一つでも欠けたら映画が台無しになってしまうところ、本作は余裕でクリアしている。
こう云うと、何を当たり前な、と思われるかもしれない。私が列挙したものは、すべての作品が備えていて当たり前のことばかりだ。
しかし、その当たり前のことが往々にして備わっていないことを私たちは知っている。
製造業でもサービス業でも、客商売で忘れてはならないのが当たり前品質と魅力的品質だ。これは狩野紀昭氏が提唱した考え方で、次のように定義される。
当たり前品質要素:それが充足されれば当たり前と受け止められるが、不充足であれば不満を引き起こす品質要素。
魅力的品質要素:それが充足されれば満足を与えるが、不充足であっても仕方がないと受けとられる品質要素。
この二つの境界上に位置するのが一元的品質要素である。
一元的品質要素:それが充足されれば満足、不充足であれば不満を引き起こす品質要素。
たとえば飲食業を例に取ってみよう。
飲食業において店舗が清潔であることは必要不可欠だ。店が汚かったり、ゴキブリが目についたりしたら、客は二度とその店に来ない。だが、店舗が清潔なのはあまりにも当たり前のことであり、清潔にしただけで客が増えるわけではない。これが当たり前品質だ。
一方、その店のラーメンがずば抜けて美味いとしよう。そこそこの味でも不満足にはならないだろうが、ずば抜けた味だと思えば客はまた来店するし、口コミを広げて他の客を呼び込んでくれるかもしれない。これが魅力的品質だ。
店や企業が素晴らしさを競うのは、この魅力的品質の部分であり、これが評判になってこそ客足も伸びる。
だが、勘違いしてはならないのが、魅力的品質は当たり前品質に優先するものではないということだ。
飲食店であれば、どんなに美味いラーメンを出しても、ゴキブリのいる店に客は来ない。自動車であれば、どんなに驚異的な低燃費を実現しても、乗り心地が悪かったり、ブレーキの作動に問題のあるクルマは売れない。
「当店にゴキブリはいません」とか「ブレーキを踏めば必ず止まります」なんて、全然セールスポイントにならないが、それは消費者に軽視されてるからではなく、備わっていて当たり前だと思われているからだ。
映画だって、おんなじだ。
テレビの人気者を初主演に迎えたり、驚異的なスペクタクルシーンを用意してくれるのは、たいへん魅力的であり、観客も歓迎しよう。
だからといって、観客は、温いストーリーや、雑な映像や、つまらないキャラクターを許したりはしない。それらは、充足されて当たり前、不充足であれば不満を引き起こす要素なのだ。
映画もまた、当たり前品質はセールスポイントになりにくいけれど、本当に観客を満足させるのはここである。無名の俳優ばかりでも、金をかけたVFXなんかなくても、面白い映画は面白い。
そして『黄金を抱いて翔べ』が素晴らしいのは、当たり前品質において不充足な部分が一切ないからだ。
金塊強奪というネタに新奇性はないかもしれない。驚異的なスペクタクルシーンもないし、映画出演が話題になる人気者を配しているわけでもない(観客の中にはチャンミン目当ての人もいたが)。
けれども、魅力的品質のはずのものがしばしば目くらましにすぎないことを思えば、当たり前品質が完璧な本作の満足度は高い。
そして映画を貫く苦い規範は、私たちの胸に深い味わいを残してくれる。
![黄金を抱いて翔べ コレクターズ・エディション(2枚組)(初回限定版) [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/51z771TrgxL._SL160_.jpg)
監督・脚本/井筒和幸 脚本/吉田康弘
出演/妻夫木聡 浅野忠信 桐谷健太 溝端淳平 チャンミン 青木崇高 中村ゆり 田口トモロヲ 鶴見辰吾 西田敏行
日本公開/2012年11月3日
ジャンル/[サスペンス] [犯罪]

