『009 RE:CYBORG』 「神々との闘い」との闘い
【ネタバレ注意】
『009 RE:CYBORG』の公式サイトに踊る惹句が胸に突き刺さる。
「終わらせなければ、始まらない。」
そうだろうか。終わらせなければ、始まらないのだろうか。そもそも終わらせることはできるのだろうか。
私たちの胸にはポッカリと穴が開いている。
その穴には幾つもの疑問が浮かんでいる。
神とはなにか?
伝説とは?
歴史とは?
文明とはなんだ?
そして人間とは……?
生命(いのち)とは……?
死とは……?
肉体とは……?
精神(こころ)とは……?
そして――そして神とはなんなんだ!?
石ノ森章太郎氏は、『サイボーグ009 神々との闘い編』の冒頭でこれらの疑問をファンに投げかけながら、その答えを見せることなく逝去した。
そして009ファンは、作者が答えなかったこれらの疑問を数十年にわたり考え続けている。神とは何か、精神(こころ)とは何か。もしも作者が逝去しなければ、どんな答えが示されただろうか?
2009年、押井守監督は『サイボーグ009』の映画化を進めていた。
『サイボーグ009 神々との闘い編』が自分の原点という押井守氏の企画は、4分45秒のプロモーション・ビデオ『009 THE REOPENING』を公開するまではこぎつけた。だが押井氏の構想は、ゼロゼロナンバーサイボーグのほとんどが死んでしまった後の世界というこれまでにない方向に進み、制作委員会には受け入れられなかったようだ(001が犬であるとか、押井氏らしい着想なのかもしれないが)。
そこで『009 THE REOPENING』の脚本を担当した神山健治氏が監督となり、「RE:OPENING(新装開店)」させたのが本作『009 RE:CYBORG』である。
なるほど、『009 RE:CYBORG』には『009 THE REOPENING』と同じようなシーンもあり、元のプロットを引き継いでいることがよく判る。
しかし、『サイボーグ009』に挑むのは困難なことだ。過去の作品は、石ノ森章太郎自身のマンガも含めて、その困難に囚われていた。
それは原作マンガが未完のままだからだ。
『サイボーグ009』は、「神とは何か」を考察する作品だ。いや、考察しようとした作品だ。その考察に取り掛かったところで、原作は中断している。これほど普遍的な命題を投げかけられたら、創作者たるもの避けては通れないだろう。とはいえ、軽々しく結論を出せることでもない。
そのため、『天使編』と『神々との闘い編』が中断してからの『サイボーグ009』は、幻の完結編との葛藤にさいなまれることとなった。
石ノ森章太郎氏の原作マンガが、続編ではなく番外編としてお茶を濁し続けざるを得なかっただけではない。
1979年の高橋良輔監督版テレビシリーズは、神が出現する衝撃的なシチュエーションからはじまりながら、そのスケールの大きさが手に余り、早々に方向転換してしまった。
明比正行監督による1980年の劇場版『サイボーグ009 超銀河伝説』も、スペースオペラ的な展開を経た終盤では宇宙の根源たるボルテックスとの邂逅を描き、生命とは何か、死とは何か、神とは何かに迫ろうとした。だが、人間の生死を超越したボルテックスを説得力をもって描くのは難しく、観客には単に登場人物が死んだり生き返ったりする映画と捉えられてしまった。
2001年の川越淳監督版テレビシリーズは、最後に『~Conclusion God's War~序章~』に突入した。009の完結編に恋焦がれるファンにとって、神々との闘いが序章だけで終わってしまう展開は、最高にして残酷なプレゼントだった。
とにかく、『サイボーグ009』に関わる作り手たちには、「神とは何か」という命題を避けては通れないが、真正面から取り上げるのは難しいという悩みが付いて回ったのだ。
神山健治監督が本作を撮るに当たって考えたのもこの点だ。
---
あそこで完結していないがゆえに、そこから先のエピソードをなかなか作れなかったと思うんです。もう一回リスタートするためには、単純にリブートして(過去を)忘れちゃって作る、という手もあるんですね。でもあれだけの作品なので、僕としても忘れる事はできなかった。そこを抜きにして『009』を描いても、なんとなく据わりが悪いなと。そして、完結してないがゆえに完結させて、それによって『009』をまた作れるんじゃないか。今回『RE:CYBORG』というタイトルに込めたのはそういう思いなんです
---
「終わらせなければ、始まらない。」──『神々との闘い編』の続きを書くか、リメイクを書くかという選択を迫られた神山監督は、「いったん我々が、こういう答えを出してみました、という形で結末の提示をしよう」と決意した。本気で神々との闘いを描くことで、『サイボーグ009』にまつわる葛藤を終わらせようとしたのだ。
かくして『009 RE:CYBORG』は、中断したマンガ『神々との闘い編』のアニメ化かと見まがう作品になった。
発掘調査の過程で奇妙なものに遭遇した考古学者、文献を調べながらの神を巡る談義、何物かに操られて破壊活動をはじめるサイボーグたち、ゼロゼロナンバーサイボーグとギルモア博士との離反、人間の弱さを浮き彫りにする心の旅、姿を見せたかと思いきやすぐに隠れてしまう謎の美少女……。本作は『神々との闘い編』の要素を実にきめ細かく再現している。
さらに『神々との闘い編』で読者のあいだに物議を醸したという009と003のラブシーンまで取り込むのは、石ノ森章太郎氏を支持しなかった009ファンに対して挑発的だ。
また、敵が口にする「人類をやり直す」というセリフは、『天使編』で天使が語ることと同じでもある。
リスペクトされる原作は、『神々との闘い編』ばかりではない。
ゼロゼロナンバーサイボーグたちが個人の思想や生活を優先させてまとまらない様子は『地下帝国ヨミ編』を彷彿とさせるし、サイボーグ兵士を開発する軍産複合体は現代風の「黒い幽霊団(ブラックゴースト)」だ。
そしてもちろんアクションは満載だし、宇宙に放り出された009のもとへ002が駆け付けるところはやっぱり名場面だ。
シリーズの総決算ともいうべき『009 RE:CYBORG』に、ファンは感涙ものだろう。
「終わらせなければ、始まらない。」──本作を世に送り出すのは、原作が未完であることと作者の逝去によるファンの喪失感を終わらせる作業でもある。
もちろん、神山監督らしいモチーフも散りばめられている。
記憶喪失の主人公にテロリストにミサイル攻撃、そして特別な力を持つ者がそれぞれの正義を行おうとするのは、神山監督の『東のエデン』でもお馴染みだ。あれも、日本を破壊して戦後からやり直す企みとの対決を描いていた。
神山監督は「やり直す」ことについて次のように語っている。
---
キャッチコピーはダブルミーニングにもなっています。映画をご覧いただければわかりますが、「混沌とした世界を、一度終わらせなければ始まらない」という神からのメッセージを、人々ひとりひとりがどう乗り越えていくかという、ストーリーに対する意味合いも込められているんです。
---
とはいえ、「神」という題材はアクション映画では扱いにくい。
今や進化心理学が神の正体を明かしつつあるが、進化心理学のアプローチはアクション物たりえない。
そこで本作は、私たちが普段から脳の聞いたと思うものを聞き、脳の見たと思うものを見ている事実に着目する。そして「彼の声」を聞くのはその本人だけ、白い服の少女を見るのも本人だけ、という演出を押し通す。もちろん、009の母親やクラスメートを見るのは009だけだ。
あらゆる事件の背後に神がいるように見せながら、同時に神(を含む世界)が人間の心の産物でしかないことを示唆して、本作は「神々との闘い」を決着させる。
でも、それだけじゃあない。
本作は、石ノ森章太郎氏が好んで取り上げたオーパーツ(場違いな遺物)を登場させる。
あたかも『海底ピラミッド編』のラストカットを思わせる幕引きに、009ファンはニヤリとするに違いない。
『009 RE:CYBORG』 [さ行]
監督・脚本/神山健治 原作/石ノ森章太郎
出演/宮野真守 小野大輔 斎藤千和 大川透 増岡太郎 吉野裕行 杉山紀彰 丹沢晃之 玉川砂記子 勝部演之
日本公開/2012年10月27日
ジャンル/[SF] [アクション]
http://bookmarks.yahoo.co.jp/bookmarklet/showpopup?t='+encodeURIComponent(document.title)+'&u='+encodeURIComponent(location.href)+'&ei=UTF-8','_blank','width=550,height=480,left=100,top=50,scrollbars=1,resizable=1',0);">
『009 RE:CYBORG』の公式サイトに踊る惹句が胸に突き刺さる。
「終わらせなければ、始まらない。」
そうだろうか。終わらせなければ、始まらないのだろうか。そもそも終わらせることはできるのだろうか。
私たちの胸にはポッカリと穴が開いている。
その穴には幾つもの疑問が浮かんでいる。
神とはなにか?
伝説とは?
歴史とは?
文明とはなんだ?
そして人間とは……?
生命(いのち)とは……?
死とは……?
肉体とは……?
精神(こころ)とは……?
そして――そして神とはなんなんだ!?
石ノ森章太郎氏は、『サイボーグ009 神々との闘い編』の冒頭でこれらの疑問をファンに投げかけながら、その答えを見せることなく逝去した。
そして009ファンは、作者が答えなかったこれらの疑問を数十年にわたり考え続けている。神とは何か、精神(こころ)とは何か。もしも作者が逝去しなければ、どんな答えが示されただろうか?
2009年、押井守監督は『サイボーグ009』の映画化を進めていた。
『サイボーグ009 神々との闘い編』が自分の原点という押井守氏の企画は、4分45秒のプロモーション・ビデオ『009 THE REOPENING』を公開するまではこぎつけた。だが押井氏の構想は、ゼロゼロナンバーサイボーグのほとんどが死んでしまった後の世界というこれまでにない方向に進み、制作委員会には受け入れられなかったようだ(001が犬であるとか、押井氏らしい着想なのかもしれないが)。
そこで『009 THE REOPENING』の脚本を担当した神山健治氏が監督となり、「RE:OPENING(新装開店)」させたのが本作『009 RE:CYBORG』である。
なるほど、『009 RE:CYBORG』には『009 THE REOPENING』と同じようなシーンもあり、元のプロットを引き継いでいることがよく判る。
しかし、『サイボーグ009』に挑むのは困難なことだ。過去の作品は、石ノ森章太郎自身のマンガも含めて、その困難に囚われていた。
それは原作マンガが未完のままだからだ。
『サイボーグ009』は、「神とは何か」を考察する作品だ。いや、考察しようとした作品だ。その考察に取り掛かったところで、原作は中断している。これほど普遍的な命題を投げかけられたら、創作者たるもの避けては通れないだろう。とはいえ、軽々しく結論を出せることでもない。
そのため、『天使編』と『神々との闘い編』が中断してからの『サイボーグ009』は、幻の完結編との葛藤にさいなまれることとなった。
石ノ森章太郎氏の原作マンガが、続編ではなく番外編としてお茶を濁し続けざるを得なかっただけではない。
1979年の高橋良輔監督版テレビシリーズは、神が出現する衝撃的なシチュエーションからはじまりながら、そのスケールの大きさが手に余り、早々に方向転換してしまった。
明比正行監督による1980年の劇場版『サイボーグ009 超銀河伝説』も、スペースオペラ的な展開を経た終盤では宇宙の根源たるボルテックスとの邂逅を描き、生命とは何か、死とは何か、神とは何かに迫ろうとした。だが、人間の生死を超越したボルテックスを説得力をもって描くのは難しく、観客には単に登場人物が死んだり生き返ったりする映画と捉えられてしまった。
2001年の川越淳監督版テレビシリーズは、最後に『~Conclusion God's War~序章~』に突入した。009の完結編に恋焦がれるファンにとって、神々との闘いが序章だけで終わってしまう展開は、最高にして残酷なプレゼントだった。
とにかく、『サイボーグ009』に関わる作り手たちには、「神とは何か」という命題を避けては通れないが、真正面から取り上げるのは難しいという悩みが付いて回ったのだ。
神山健治監督が本作を撮るに当たって考えたのもこの点だ。
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あそこで完結していないがゆえに、そこから先のエピソードをなかなか作れなかったと思うんです。もう一回リスタートするためには、単純にリブートして(過去を)忘れちゃって作る、という手もあるんですね。でもあれだけの作品なので、僕としても忘れる事はできなかった。そこを抜きにして『009』を描いても、なんとなく据わりが悪いなと。そして、完結してないがゆえに完結させて、それによって『009』をまた作れるんじゃないか。今回『RE:CYBORG』というタイトルに込めたのはそういう思いなんです
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「終わらせなければ、始まらない。」──『神々との闘い編』の続きを書くか、リメイクを書くかという選択を迫られた神山監督は、「いったん我々が、こういう答えを出してみました、という形で結末の提示をしよう」と決意した。本気で神々との闘いを描くことで、『サイボーグ009』にまつわる葛藤を終わらせようとしたのだ。
かくして『009 RE:CYBORG』は、中断したマンガ『神々との闘い編』のアニメ化かと見まがう作品になった。
発掘調査の過程で奇妙なものに遭遇した考古学者、文献を調べながらの神を巡る談義、何物かに操られて破壊活動をはじめるサイボーグたち、ゼロゼロナンバーサイボーグとギルモア博士との離反、人間の弱さを浮き彫りにする心の旅、姿を見せたかと思いきやすぐに隠れてしまう謎の美少女……。本作は『神々との闘い編』の要素を実にきめ細かく再現している。
さらに『神々との闘い編』で読者のあいだに物議を醸したという009と003のラブシーンまで取り込むのは、石ノ森章太郎氏を支持しなかった009ファンに対して挑発的だ。
また、敵が口にする「人類をやり直す」というセリフは、『天使編』で天使が語ることと同じでもある。
リスペクトされる原作は、『神々との闘い編』ばかりではない。
ゼロゼロナンバーサイボーグたちが個人の思想や生活を優先させてまとまらない様子は『地下帝国ヨミ編』を彷彿とさせるし、サイボーグ兵士を開発する軍産複合体は現代風の「黒い幽霊団(ブラックゴースト)」だ。
そしてもちろんアクションは満載だし、宇宙に放り出された009のもとへ002が駆け付けるところはやっぱり名場面だ。
シリーズの総決算ともいうべき『009 RE:CYBORG』に、ファンは感涙ものだろう。
「終わらせなければ、始まらない。」──本作を世に送り出すのは、原作が未完であることと作者の逝去によるファンの喪失感を終わらせる作業でもある。
もちろん、神山監督らしいモチーフも散りばめられている。
記憶喪失の主人公にテロリストにミサイル攻撃、そして特別な力を持つ者がそれぞれの正義を行おうとするのは、神山監督の『東のエデン』でもお馴染みだ。あれも、日本を破壊して戦後からやり直す企みとの対決を描いていた。
神山監督は「やり直す」ことについて次のように語っている。
---
キャッチコピーはダブルミーニングにもなっています。映画をご覧いただければわかりますが、「混沌とした世界を、一度終わらせなければ始まらない」という神からのメッセージを、人々ひとりひとりがどう乗り越えていくかという、ストーリーに対する意味合いも込められているんです。
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とはいえ、「神」という題材はアクション映画では扱いにくい。
今や進化心理学が神の正体を明かしつつあるが、進化心理学のアプローチはアクション物たりえない。
そこで本作は、私たちが普段から脳の聞いたと思うものを聞き、脳の見たと思うものを見ている事実に着目する。そして「彼の声」を聞くのはその本人だけ、白い服の少女を見るのも本人だけ、という演出を押し通す。もちろん、009の母親やクラスメートを見るのは009だけだ。
あらゆる事件の背後に神がいるように見せながら、同時に神(を含む世界)が人間の心の産物でしかないことを示唆して、本作は「神々との闘い」を決着させる。
でも、それだけじゃあない。
本作は、石ノ森章太郎氏が好んで取り上げたオーパーツ(場違いな遺物)を登場させる。
あたかも『海底ピラミッド編』のラストカットを思わせる幕引きに、009ファンはニヤリとするに違いない。

監督・脚本/神山健治 原作/石ノ森章太郎
出演/宮野真守 小野大輔 斎藤千和 大川透 増岡太郎 吉野裕行 杉山紀彰 丹沢晃之 玉川砂記子 勝部演之
日本公開/2012年10月27日
ジャンル/[SF] [アクション]


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【theme : 009 RE:CYBORG】
【genre : 映画】
『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ』 幸せを感じる秘密
【ネタバレ注意】
正義の味方とその仲間たちは、決して死ぬことはない。その思い込みを裏切って、主要キャラがあっさり命を落としていく。
敵は悪玉、主人公たちは善玉という当たり前の区別さえも、脆くも崩れ去ってしまう。
その衝撃に、テレビの前の視聴者は戦慄した。
『勇者ライディーン』では、『マジンガーZ』以来のロボットアニメのパターンをほぼ忠実になぞってみせた富野喜幸(現・富野由悠季)監督は、再度ロボットアニメに挑戦した『無敵超人ザンボット3』においてロボットアニメの常識をことごとく覆した。
続く『無敵鋼人ダイターン3』では、それまでにないクールでウィットに富んだ異色のロボットアニメを展開し、さらには『機動戦士ガンダム』でロボットアニメにニュータイプという概念的なものを持ち込んだ。そして『伝説巨神イデオン』に至って、人間の精神や魂、宇宙全体にまで思いを馳せた。
これと同様のことをたった12話の魔法少女モノでやったのだから、テレビアニメ『魔法少女まどか☆マギカ』が注目を集めるのは当然だ。1980年前後の青少年が富野アニメに熱狂したように、現代の青少年は『魔法少女まどか☆マギカ』を大歓迎したのだろう。このやり方は青少年に受けるのだ。
さて、『魔法少女まどか☆マギカ』はたいへん論評しやすい作品である。
論評のネタになる要素を全編に散りばめて人口に上りやすく作られているから、すでに多くの人が様々な角度から本作を語っているだろう。
そのため、『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [前編]始まりの物語』と『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [後編]永遠の物語』とではじめて作品世界に触れた私が語る余地など、残っていないに違いない。
それでも取り上げておきたいのは、本作に登場する魔女たちが実に日本的であることだ。
『魔法少女まどか☆マギカ』で、主人公たる魔法少女たちが戦う相手は魔女である。
魔女は絶望を撒き散らし、人を自殺に追い込んだり、天変地異を起こして人々の暮らしを破滅させる。その姿は人間の目には見えないので、街が壊されても人々は天災に見舞われたとしか思わない。けれどもそこには魔女の呪いが存在している。
物語の中盤で明らかになるように、魔女とは魔法少女のなれの果てだ。
人々の幸せを願い、希望を胸に魔法少女になった彼女たちは、人から尊敬を集めてもおかしくない崇高な精神の持ち主だ。
だが、彼女たちは人々のために戦いながら、ままならない現実を前に少しずつ絶望を溜め込んで、他者を呪うようになっていく。それがピークに達したとき、愛らしい魔法少女は消滅し、おぞましい魔女が出現するのだ。
私はこの伝統的な設定に驚いた。これは怨霊のことではないか。
唯一絶対の神を持たない日本神話には、絶対神に対抗するような悪魔も存在しない。代わって日本人が恐れてきたのは怨霊だ。
怨霊がどういうものかは、その代表例を見れば判りやすい。日本三大怨霊といえば、菅原道真(903年没)、平将門(940年没)、崇徳上皇(1164年没)が挙げられるように、怨霊とはそもそも人間――しかも立派な人間なのである。
菅原道真は政治改革に邁進した政府高官だし、平将門は新国家を建設するほどに人望を集めた英傑だ。崇徳上皇は日本の最高権威である天皇を20年、上皇を22年も務めた人物だ。いずれも一般庶民とは段違いの人物のはずだ。
ところが彼らは政争や戦争に敗れ、いずれも非業の死を遂げてしまう。
すると菅原道真は怨霊となって政敵を祟り、病気や落雷で殺してしまった。平将門は天変地異を起こし、崇徳上皇も大火を起こしたり皇族を次々に殺したりした。
本来、相次ぐ災害や死亡事件と英傑の死とは関係ないはずだが、私たちは何ごとも因果関係で説明したがる。当時の人々にとって、たび重なる不幸は非業の死により怨霊と化した者の祟りでしか説明できなかったのだ。
怨霊の力を鎮めようと、人々は鎮魂のメカニズムを構築した。それが北野天満宮や神田明神であり、今でも私たちはこれらの神社に足を運び、災いが起こらないように祈りを捧げている。
これはあたかも、魔法少女が魔女と戦い、呪いがまき散らされないようにしているようなものだ。
死後、怨霊として恐れられる者がいるのなら、当然、死して神様として祀られる者もいる。
豊臣秀吉は豊国大明神として豊国神社に祀られたし、徳川家康は東照大権現として日光東照宮に祀られ、明治天皇と昭憲皇太后は明治神宮に祀られた。
天皇や将軍ばかりでなく、日本では人は死ねばカミ様、ホトケ様になると考えられている。亡くなったお祖父さん、お祖母さん、ご先祖様が私たちを見守ってくれるという祖先崇拝が、日本人の意識の底にはある。日本人は自分を無宗教だと思っているが、新年になれば全人口の8割近くが初詣に繰り出して祈りを捧げる。しかも日本一多くの参拝者を集めるのは、100年前の死者を祀った明治神宮だ。
他の宗教、たとえばキリスト教では、死んだ人は最後の審判でイエスに裁かれる身だし、インドの仏教では死ぬと49日以内に他者に転生してしまう。
ところが日本では、普通の人間が神様になり、死ぬときに恨みがあれば怨霊と化して天変地異を起こす。
魔法少女のうち、ある者は世の中に絶望して魔女になり、またある者は希望を捨てずに神様になるのと同じである。
そう、主人公鹿目(かなめ)まどかは神様になったのだ。
神について語る前に、一つの設問を考えよう。
・マクシ少年は、チョコレートを「緑」の戸棚にしまって遊びに出かけた。
・マクシがいない間にお母さんが「緑」の戸棚からチョコレートを取り出し、その後「青」の戸棚にしまった。
・遊びから帰ったマクシは、チョコレートがどの戸棚にあると思っているだろうか?
「マクシはお母さんがチョコレートを移動させたのを知らないのだから、『緑』の戸棚にあると思っているはずだ」とお考えだろうか。
そのとおり、正解は「緑」なのだが、ときに「青」と答える人もいる。
ハインツ・ヴィマーとジョゼフ・パーナーの研究によれば、3歳の子供の多くは「青」と答えてしまうという。一方、4歳を過ぎると多くの子供が「緑」と答えられるようになる。
「緑」と答えるためには、マクシという他者の思いを類推しなければならないが、3歳までの子供にはこれができないのだ。
この、他者の心を類推したり、他者の行動を予測する機能を「心の理論」という。私たちは成長する過程でこの推論システムを発動させる。
心の理論は、私たちが社会生活を送る上で極めて重要だ。
私たちは他人がどう考えるかを予測できるからこそ他者と協調できるし、自分が他人からどう思われるかを類推できるから他者に嫌われるようなことはしない。心の理論があるから、私たちは他人の目を気にするし、羞恥心やプライドといった社会的感情も生まれてくる。
加えて、人間は言葉というものを持っている。
言葉があるから、他人に嫌われるようなことをしたら、それを目撃した人が周囲の人々に広めてしまう。誰かに不道徳な行為、反社会的な行為を見られようものなら、それはあっという間にみんなが知るところとなり、あなたは世間から後ろ指をさされ、居場所がなくなってしまうだろう。
ジェシー・ベリングはその著書において次のように述べている。
---
心理学者が発見してきたように、私たちが罪を犯した人間を罰するべきかについて意見を求められて、それがほかの人間に聞かれているとわかっていると、罰を選びがちであり、しかもより重い罰を選ぶ傾向にある
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だから人間は心の理論をフル稼働させて、人目を気にしなければならない。たとえそこに誰の姿も見えなくても、もしかしたら誰かが見ている可能性を考えなくてはならない。
そもそも人目を気にしないタイプの人間は、とうの昔に居場所がなくなり、進化の過程で淘汰されてしまったはずだ。
現在の人間は、心の理論を発達させて、いつでも誰かに見られていると感じる者たちなのだ。誰もいないはずの部屋で、そっと振り返ってしまうような生き物なのである。
見ているのは、あなたの隣人かもしれないし、背後霊かもしれないし、死んだお祖母ちゃんやお天道様かもしれない。とにかく何かがあなたを見ている。そう思うメカニズムが私たちの本能に組み込まれている。私たちはそのように進化したのだ。
そして人間を見ている「何か」を、私たちは「神」と名付けた。
それゆえ一神教と多神教を区別することにはたいして意味がない。
どこにいてもお見通しの唯一絶対の神がいると思う一神教も、あらゆるところに神がいていつも見られていると思う多神教も、私たちの本能にとっては同じことだ。
人間を見ている「何か」を神と呼ぶのをためらう人は、インテリジェント・デザイナーなどと別の呼び方を用いているが、超自然的観察者を指すことには変わりがない。
そして21世紀の日本では、私たちを見ている者を「鹿目まどか」と呼んだ。
『魔法少女まどか☆マギカ』の終盤、まどかはすべての宇宙、すべての時間軸を再構築した概念的存在となる。ひらたくいえば、まどかは過去から未来のあらゆる時空を見渡して、魔女の発生を阻止してくれる存在になったのである。
いつでも世界を見ているまどかは、心の理論が生み出した神と同じ役割を担っている。
ましてまどかは、ユダヤ教・キリスト教のヤハウェやイスラームのアッラーフのような造物主ではなく、私たちと同じひとりの人間で、このあいだまで中学生だった女の子だ。
過去のSF作品でも、主人公たちが宇宙の再構築に関与したり、上位の存在に昇華する展開は見られるが、本作はその役割を愛らしい少女に担わせていて頬笑ましい。そこには祖先崇拝に通じる親しみやすさもある。
再構築後の世界で戦う暁美(あけみ)ほむらが、どこかしら幸せそうなのも、いつでもまどかが見てくれていると感じるからだろう。
三大怨霊に恐れおののいた時代から千年を経ても、私たちの心は超自然的な存在を求めてやまない。だからこそ、この魔法少女の物語に魅了されるのだろう。
参考資料
ジェシー・ベリング『ヒトはなぜ神を信じるのか――信仰する本能』
井沢元彦『逆説の日本史』
深田昭三『子どもの「心の理論」』
『魔法少女まどか☆マギカ』 [ま行]
監督/新房昭之 シリーズディレクター/宮本幸裕
日本公開/2011年1月6日~2011年4月21日
『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [前編]始まりの物語』
総監督/新房昭之 監督/宮本幸裕
日本公開/2012年10月6日
『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [後編]永遠の物語』
総監督/新房昭之 監督/宮本幸裕
日本公開/2012年10月13日
脚本/虚淵玄
出演/悠木碧 斎藤千和 水橋かおり 喜多村英梨 野中藍 加藤英美里 新谷良子 後藤邑子 岩永哲哉 岩男潤子
ジャンル/[SF] [ファンタジー] [ミステリー] [アドベンチャー]
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正義の味方とその仲間たちは、決して死ぬことはない。その思い込みを裏切って、主要キャラがあっさり命を落としていく。
敵は悪玉、主人公たちは善玉という当たり前の区別さえも、脆くも崩れ去ってしまう。
その衝撃に、テレビの前の視聴者は戦慄した。
『勇者ライディーン』では、『マジンガーZ』以来のロボットアニメのパターンをほぼ忠実になぞってみせた富野喜幸(現・富野由悠季)監督は、再度ロボットアニメに挑戦した『無敵超人ザンボット3』においてロボットアニメの常識をことごとく覆した。
続く『無敵鋼人ダイターン3』では、それまでにないクールでウィットに富んだ異色のロボットアニメを展開し、さらには『機動戦士ガンダム』でロボットアニメにニュータイプという概念的なものを持ち込んだ。そして『伝説巨神イデオン』に至って、人間の精神や魂、宇宙全体にまで思いを馳せた。
これと同様のことをたった12話の魔法少女モノでやったのだから、テレビアニメ『魔法少女まどか☆マギカ』が注目を集めるのは当然だ。1980年前後の青少年が富野アニメに熱狂したように、現代の青少年は『魔法少女まどか☆マギカ』を大歓迎したのだろう。このやり方は青少年に受けるのだ。
さて、『魔法少女まどか☆マギカ』はたいへん論評しやすい作品である。
論評のネタになる要素を全編に散りばめて人口に上りやすく作られているから、すでに多くの人が様々な角度から本作を語っているだろう。
そのため、『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [前編]始まりの物語』と『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [後編]永遠の物語』とではじめて作品世界に触れた私が語る余地など、残っていないに違いない。
それでも取り上げておきたいのは、本作に登場する魔女たちが実に日本的であることだ。
『魔法少女まどか☆マギカ』で、主人公たる魔法少女たちが戦う相手は魔女である。
魔女は絶望を撒き散らし、人を自殺に追い込んだり、天変地異を起こして人々の暮らしを破滅させる。その姿は人間の目には見えないので、街が壊されても人々は天災に見舞われたとしか思わない。けれどもそこには魔女の呪いが存在している。
物語の中盤で明らかになるように、魔女とは魔法少女のなれの果てだ。
人々の幸せを願い、希望を胸に魔法少女になった彼女たちは、人から尊敬を集めてもおかしくない崇高な精神の持ち主だ。
だが、彼女たちは人々のために戦いながら、ままならない現実を前に少しずつ絶望を溜め込んで、他者を呪うようになっていく。それがピークに達したとき、愛らしい魔法少女は消滅し、おぞましい魔女が出現するのだ。
私はこの伝統的な設定に驚いた。これは怨霊のことではないか。
唯一絶対の神を持たない日本神話には、絶対神に対抗するような悪魔も存在しない。代わって日本人が恐れてきたのは怨霊だ。
怨霊がどういうものかは、その代表例を見れば判りやすい。日本三大怨霊といえば、菅原道真(903年没)、平将門(940年没)、崇徳上皇(1164年没)が挙げられるように、怨霊とはそもそも人間――しかも立派な人間なのである。
菅原道真は政治改革に邁進した政府高官だし、平将門は新国家を建設するほどに人望を集めた英傑だ。崇徳上皇は日本の最高権威である天皇を20年、上皇を22年も務めた人物だ。いずれも一般庶民とは段違いの人物のはずだ。
ところが彼らは政争や戦争に敗れ、いずれも非業の死を遂げてしまう。
すると菅原道真は怨霊となって政敵を祟り、病気や落雷で殺してしまった。平将門は天変地異を起こし、崇徳上皇も大火を起こしたり皇族を次々に殺したりした。
本来、相次ぐ災害や死亡事件と英傑の死とは関係ないはずだが、私たちは何ごとも因果関係で説明したがる。当時の人々にとって、たび重なる不幸は非業の死により怨霊と化した者の祟りでしか説明できなかったのだ。
怨霊の力を鎮めようと、人々は鎮魂のメカニズムを構築した。それが北野天満宮や神田明神であり、今でも私たちはこれらの神社に足を運び、災いが起こらないように祈りを捧げている。
これはあたかも、魔法少女が魔女と戦い、呪いがまき散らされないようにしているようなものだ。
死後、怨霊として恐れられる者がいるのなら、当然、死して神様として祀られる者もいる。
豊臣秀吉は豊国大明神として豊国神社に祀られたし、徳川家康は東照大権現として日光東照宮に祀られ、明治天皇と昭憲皇太后は明治神宮に祀られた。
天皇や将軍ばかりでなく、日本では人は死ねばカミ様、ホトケ様になると考えられている。亡くなったお祖父さん、お祖母さん、ご先祖様が私たちを見守ってくれるという祖先崇拝が、日本人の意識の底にはある。日本人は自分を無宗教だと思っているが、新年になれば全人口の8割近くが初詣に繰り出して祈りを捧げる。しかも日本一多くの参拝者を集めるのは、100年前の死者を祀った明治神宮だ。
他の宗教、たとえばキリスト教では、死んだ人は最後の審判でイエスに裁かれる身だし、インドの仏教では死ぬと49日以内に他者に転生してしまう。
ところが日本では、普通の人間が神様になり、死ぬときに恨みがあれば怨霊と化して天変地異を起こす。
魔法少女のうち、ある者は世の中に絶望して魔女になり、またある者は希望を捨てずに神様になるのと同じである。
そう、主人公鹿目(かなめ)まどかは神様になったのだ。
神について語る前に、一つの設問を考えよう。
・マクシ少年は、チョコレートを「緑」の戸棚にしまって遊びに出かけた。
・マクシがいない間にお母さんが「緑」の戸棚からチョコレートを取り出し、その後「青」の戸棚にしまった。
・遊びから帰ったマクシは、チョコレートがどの戸棚にあると思っているだろうか?
「マクシはお母さんがチョコレートを移動させたのを知らないのだから、『緑』の戸棚にあると思っているはずだ」とお考えだろうか。
そのとおり、正解は「緑」なのだが、ときに「青」と答える人もいる。
ハインツ・ヴィマーとジョゼフ・パーナーの研究によれば、3歳の子供の多くは「青」と答えてしまうという。一方、4歳を過ぎると多くの子供が「緑」と答えられるようになる。
「緑」と答えるためには、マクシという他者の思いを類推しなければならないが、3歳までの子供にはこれができないのだ。
この、他者の心を類推したり、他者の行動を予測する機能を「心の理論」という。私たちは成長する過程でこの推論システムを発動させる。
心の理論は、私たちが社会生活を送る上で極めて重要だ。
私たちは他人がどう考えるかを予測できるからこそ他者と協調できるし、自分が他人からどう思われるかを類推できるから他者に嫌われるようなことはしない。心の理論があるから、私たちは他人の目を気にするし、羞恥心やプライドといった社会的感情も生まれてくる。
加えて、人間は言葉というものを持っている。
言葉があるから、他人に嫌われるようなことをしたら、それを目撃した人が周囲の人々に広めてしまう。誰かに不道徳な行為、反社会的な行為を見られようものなら、それはあっという間にみんなが知るところとなり、あなたは世間から後ろ指をさされ、居場所がなくなってしまうだろう。
ジェシー・ベリングはその著書において次のように述べている。
---
心理学者が発見してきたように、私たちが罪を犯した人間を罰するべきかについて意見を求められて、それがほかの人間に聞かれているとわかっていると、罰を選びがちであり、しかもより重い罰を選ぶ傾向にある
---
だから人間は心の理論をフル稼働させて、人目を気にしなければならない。たとえそこに誰の姿も見えなくても、もしかしたら誰かが見ている可能性を考えなくてはならない。
そもそも人目を気にしないタイプの人間は、とうの昔に居場所がなくなり、進化の過程で淘汰されてしまったはずだ。
現在の人間は、心の理論を発達させて、いつでも誰かに見られていると感じる者たちなのだ。誰もいないはずの部屋で、そっと振り返ってしまうような生き物なのである。
見ているのは、あなたの隣人かもしれないし、背後霊かもしれないし、死んだお祖母ちゃんやお天道様かもしれない。とにかく何かがあなたを見ている。そう思うメカニズムが私たちの本能に組み込まれている。私たちはそのように進化したのだ。
そして人間を見ている「何か」を、私たちは「神」と名付けた。
それゆえ一神教と多神教を区別することにはたいして意味がない。
どこにいてもお見通しの唯一絶対の神がいると思う一神教も、あらゆるところに神がいていつも見られていると思う多神教も、私たちの本能にとっては同じことだ。
人間を見ている「何か」を神と呼ぶのをためらう人は、インテリジェント・デザイナーなどと別の呼び方を用いているが、超自然的観察者を指すことには変わりがない。
そして21世紀の日本では、私たちを見ている者を「鹿目まどか」と呼んだ。
『魔法少女まどか☆マギカ』の終盤、まどかはすべての宇宙、すべての時間軸を再構築した概念的存在となる。ひらたくいえば、まどかは過去から未来のあらゆる時空を見渡して、魔女の発生を阻止してくれる存在になったのである。
いつでも世界を見ているまどかは、心の理論が生み出した神と同じ役割を担っている。
ましてまどかは、ユダヤ教・キリスト教のヤハウェやイスラームのアッラーフのような造物主ではなく、私たちと同じひとりの人間で、このあいだまで中学生だった女の子だ。
過去のSF作品でも、主人公たちが宇宙の再構築に関与したり、上位の存在に昇華する展開は見られるが、本作はその役割を愛らしい少女に担わせていて頬笑ましい。そこには祖先崇拝に通じる親しみやすさもある。
再構築後の世界で戦う暁美(あけみ)ほむらが、どこかしら幸せそうなのも、いつでもまどかが見てくれていると感じるからだろう。
三大怨霊に恐れおののいた時代から千年を経ても、私たちの心は超自然的な存在を求めてやまない。だからこそ、この魔法少女の物語に魅了されるのだろう。
参考資料
ジェシー・ベリング『ヒトはなぜ神を信じるのか――信仰する本能』
井沢元彦『逆説の日本史』
深田昭三『子どもの「心の理論」』
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監督/新房昭之 シリーズディレクター/宮本幸裕
日本公開/2011年1月6日~2011年4月21日
『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [前編]始まりの物語』
総監督/新房昭之 監督/宮本幸裕
日本公開/2012年10月6日
『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [後編]永遠の物語』
総監督/新房昭之 監督/宮本幸裕
日本公開/2012年10月13日
脚本/虚淵玄
出演/悠木碧 斎藤千和 水橋かおり 喜多村英梨 野中藍 加藤英美里 新谷良子 後藤邑子 岩永哲哉 岩男潤子
ジャンル/[SF] [ファンタジー] [ミステリー] [アドベンチャー]


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【theme : 魔法少女まどか☆マギカ】
【genre : アニメ・コミック】
『ライク・サムワン・イン・ラブ』 映画館ならではの面白さ!
極めつけに面白い小説家を挙げよと問われたら、あなたは誰を推すだろうか。
人それぞれお薦めの作家がいるだろうが、私は悩みに悩んで「日本人なら国枝史郎」と答えるだろう。
国枝史郎(1887-1943年)は、大正から昭和にかけて活躍した伝奇小説の第一人者だ。個性的な登場人物や、奇想天外なストーリーが織りなす面白さは格別である。半村良氏や永井豪氏をはじめ、国枝史郎ファンの小説家、マンガ家は少なくない。
けれども、彼の活躍した頃から1世紀近くが経ちながら、その面白さを受け継ぐ作品が誕生しているだろうか。多くの作家が国枝史郎のように面白い作品を書こうと挑戦してきたが、その面白さを再現するのはなかなか難しいようだ。
なぜなら、まともな作家は物語の先の展開を構想してしまい、伏線を張ったり、それを回収したりと、作品を面白くするのに余念がないからだ。それはそれで当然のことなのだが、国枝史郎の魅力はそんなことでは再現できない。国枝作品の特徴は、伏線を張り続けるだけ、風呂敷を広げ続けるだけ、先の展開なんて考えてないんじゃないかと思わせるほどの行き当たりばったり感にあるからだ。
そんな小説が面白いのかって?
これが滅法面白いから驚きなのだ。
でもこんなことは、まともな人間がすることではない。
緻密な構成と見事な伏線の回収で素晴らしい作品をものにした作家たちが、おのが傑作に飽き足らず、国枝史郎ばりの面白さに近づきたいと考えて、しばしば行き当たりばったりの作品を発表する。だがその結果は、話の辻褄が合わなかったり、説明が強引すぎたりする。それが未熟さや能力不足のためじゃないのは、他の作品が証明しているのに。
同じようなことをしていても、辻褄が合わないとか、強引とは感じさせないのが国枝史郎の凄いところだ。
国枝史郎作品の特徴を幾つか挙げてみよう。
・会話から始まる出だし
国枝史郎は戯曲を書いていたこともあって、会話のテンポがすこぶる良い。その作品はしばしば会話の途中からはじまり、誰と誰が話しているかは判らないが、そんなことお構いなしに続く会話が作品にリズムをもたらす。
・主人公が一貫しない
特定の人物の描写が続くので彼/彼女が主人公かと思いきや、途中から出てきた人物が場を奪ってしまう。最初の人物はもともと脇役として構想されていたのか、それとも書き手の気まぐれによるのかは判らない。
・どんどん変わるシチュエーション
物語の向かうところが次々変わり、いったいどこを目指すのか判然としない。その場その場の流れは滅法面白いので、このまま物語が続いて欲しいと思うのだが、そんな受け手の期待は裏切られ続ける。
・クライマックスも終わりもない
大小の山場を繰り返しながら、徐々にクライマックスに向けて盛り上がり、最大のクライマックスを迎えた後に、物語がストンと終わる。国枝作品はそんなストレートなストーリーテリングではないので、読み進める受け手は物語のどこらへんにいるのか見当もつかない。事件が何らの解決も見ないまま、突然中断したりする。
もうお判りだろう。
これらはアッバス・キアロスタミ監督の『ライク・サムワン・イン・ラブ』の特徴でもある。
国枝作品で特に印象的なのは、クライマックスや終わりがどこか判らないことだ。
本を読む際は残りのページ数が見当付くから、読みながらそろそろ終わるはずだろうと思う。しかし国枝作品では、どこまで読んでも物語が収束する様子がなく、事件の解決の目処も立たないので不審に思いながらページをめくると、「未完」の文字が目に飛び込んでくる。
それはないよ、と読者は思う。この次のページにはもっと面白いことが書いてあるはずなのに。読者はクライマックスを堪能していないからこそ、これからの盛り上がりに思いを馳せて地団駄を踏む。
それでも現代の読者は国枝史郎作品を単行本で読むために、物語が決着を見ないことは残りのページ数から察してしまうが、発表当時、雑誌連載で読んでいた人は突然の連載終了に驚いたことだろう。
その衝撃も含めて、先の見えないところが国枝作品の魅力である。
永井豪氏は、国枝史郎の代表作『神州纐纈城』を石川賢氏がマンガ化した際に解説文を寄せており、その中で石川賢氏と小説『神州纐纈城』について語り合った思い出を紹介している。
---
で、ふと気がついた。「未完って面白い!」。物語の結末が読者に委ねられたということではないか?
読者各人が、好みの結末を作って悦に入れば良いのだ。
「よしっ!『凄ノ王』の終わり方もこれでいこう!」。そう思いつき、いくつかの戦いを直前で未完にしてしまった。ノッて読んでいた読者は悶絶するに違いない。たちの悪い作者はほくそ笑んでいた
---
『凄ノ王』連載時の週刊少年マガジンの読者は、突然の終了に呆気に取られたに違いない(長年の永井豪ファンは「またか」と思っただろうが)。
ともかく、残りのページ数を見て取れる単行本と、突如として連載が終わる雑誌とでは、衝撃の度合いが違う。未完が面白いと云うなら、突然の連載終了の方が面白さは何倍も上だ。
映画にしても同じことだ。
自宅でDVDを再生したり、テレビ放映されたものを見るときは、室内の時計やDVDプレーヤーの時間表示が目に入って、開始から何分経ったか、あと何分で終わるのかが判ってしまう。行方の知れない物語を楽しむときに、こんな味気ないことはない。
映画館での鑑賞は違う。
映画館で時刻を気にせず観ていたら、突如としてエンドクレジットが流れ出す――その方が衝撃も面白さもはるかに大きいだろう。
だからこそ、国枝史郎ばりの『ライク・サムワン・イン・ラブ』は、映画館で観てこそ面白い。ノッて観ていた客は悶絶し、その反応に監督はほくそ笑むことだろう。
「私の映画は始まりがなく、終わりもない」とは、本作を上映した後の記者会見におけるキアロスタミ監督の弁である。
本作は判りやすいクライマックスを用意したストレートなストーリーテリングではない。私たちの実人生のように。
そして上映が終わった後も、観客には好みの結末を作って悦に入る楽しみが残されている。
『ライク・サムワン・イン・ラブ』 [ら行]
監督・脚本/アッバス・キアロスタミ 編集/バーマン・キアロスタミ
撮影/柳島克己 録音/菊池信之
出演/奥野匡 高梨臨 加瀬亮 でんでん 鈴木美保子 窪田かね子 岸博之 森レイ子 大堀こういち 辰巳智秋 春日井静奈
日本公開/2012年9月15日
ジャンル/[ドラマ]
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人それぞれお薦めの作家がいるだろうが、私は悩みに悩んで「日本人なら国枝史郎」と答えるだろう。
国枝史郎(1887-1943年)は、大正から昭和にかけて活躍した伝奇小説の第一人者だ。個性的な登場人物や、奇想天外なストーリーが織りなす面白さは格別である。半村良氏や永井豪氏をはじめ、国枝史郎ファンの小説家、マンガ家は少なくない。
けれども、彼の活躍した頃から1世紀近くが経ちながら、その面白さを受け継ぐ作品が誕生しているだろうか。多くの作家が国枝史郎のように面白い作品を書こうと挑戦してきたが、その面白さを再現するのはなかなか難しいようだ。
なぜなら、まともな作家は物語の先の展開を構想してしまい、伏線を張ったり、それを回収したりと、作品を面白くするのに余念がないからだ。それはそれで当然のことなのだが、国枝史郎の魅力はそんなことでは再現できない。国枝作品の特徴は、伏線を張り続けるだけ、風呂敷を広げ続けるだけ、先の展開なんて考えてないんじゃないかと思わせるほどの行き当たりばったり感にあるからだ。
そんな小説が面白いのかって?
これが滅法面白いから驚きなのだ。
でもこんなことは、まともな人間がすることではない。
緻密な構成と見事な伏線の回収で素晴らしい作品をものにした作家たちが、おのが傑作に飽き足らず、国枝史郎ばりの面白さに近づきたいと考えて、しばしば行き当たりばったりの作品を発表する。だがその結果は、話の辻褄が合わなかったり、説明が強引すぎたりする。それが未熟さや能力不足のためじゃないのは、他の作品が証明しているのに。
同じようなことをしていても、辻褄が合わないとか、強引とは感じさせないのが国枝史郎の凄いところだ。
国枝史郎作品の特徴を幾つか挙げてみよう。
・会話から始まる出だし
国枝史郎は戯曲を書いていたこともあって、会話のテンポがすこぶる良い。その作品はしばしば会話の途中からはじまり、誰と誰が話しているかは判らないが、そんなことお構いなしに続く会話が作品にリズムをもたらす。
・主人公が一貫しない
特定の人物の描写が続くので彼/彼女が主人公かと思いきや、途中から出てきた人物が場を奪ってしまう。最初の人物はもともと脇役として構想されていたのか、それとも書き手の気まぐれによるのかは判らない。
・どんどん変わるシチュエーション
物語の向かうところが次々変わり、いったいどこを目指すのか判然としない。その場その場の流れは滅法面白いので、このまま物語が続いて欲しいと思うのだが、そんな受け手の期待は裏切られ続ける。
・クライマックスも終わりもない
大小の山場を繰り返しながら、徐々にクライマックスに向けて盛り上がり、最大のクライマックスを迎えた後に、物語がストンと終わる。国枝作品はそんなストレートなストーリーテリングではないので、読み進める受け手は物語のどこらへんにいるのか見当もつかない。事件が何らの解決も見ないまま、突然中断したりする。
もうお判りだろう。
これらはアッバス・キアロスタミ監督の『ライク・サムワン・イン・ラブ』の特徴でもある。
国枝作品で特に印象的なのは、クライマックスや終わりがどこか判らないことだ。
本を読む際は残りのページ数が見当付くから、読みながらそろそろ終わるはずだろうと思う。しかし国枝作品では、どこまで読んでも物語が収束する様子がなく、事件の解決の目処も立たないので不審に思いながらページをめくると、「未完」の文字が目に飛び込んでくる。
それはないよ、と読者は思う。この次のページにはもっと面白いことが書いてあるはずなのに。読者はクライマックスを堪能していないからこそ、これからの盛り上がりに思いを馳せて地団駄を踏む。
それでも現代の読者は国枝史郎作品を単行本で読むために、物語が決着を見ないことは残りのページ数から察してしまうが、発表当時、雑誌連載で読んでいた人は突然の連載終了に驚いたことだろう。
その衝撃も含めて、先の見えないところが国枝作品の魅力である。
永井豪氏は、国枝史郎の代表作『神州纐纈城』を石川賢氏がマンガ化した際に解説文を寄せており、その中で石川賢氏と小説『神州纐纈城』について語り合った思い出を紹介している。
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で、ふと気がついた。「未完って面白い!」。物語の結末が読者に委ねられたということではないか?
読者各人が、好みの結末を作って悦に入れば良いのだ。
「よしっ!『凄ノ王』の終わり方もこれでいこう!」。そう思いつき、いくつかの戦いを直前で未完にしてしまった。ノッて読んでいた読者は悶絶するに違いない。たちの悪い作者はほくそ笑んでいた
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『凄ノ王』連載時の週刊少年マガジンの読者は、突然の終了に呆気に取られたに違いない(長年の永井豪ファンは「またか」と思っただろうが)。
ともかく、残りのページ数を見て取れる単行本と、突如として連載が終わる雑誌とでは、衝撃の度合いが違う。未完が面白いと云うなら、突然の連載終了の方が面白さは何倍も上だ。
映画にしても同じことだ。
自宅でDVDを再生したり、テレビ放映されたものを見るときは、室内の時計やDVDプレーヤーの時間表示が目に入って、開始から何分経ったか、あと何分で終わるのかが判ってしまう。行方の知れない物語を楽しむときに、こんな味気ないことはない。
映画館での鑑賞は違う。
映画館で時刻を気にせず観ていたら、突如としてエンドクレジットが流れ出す――その方が衝撃も面白さもはるかに大きいだろう。
だからこそ、国枝史郎ばりの『ライク・サムワン・イン・ラブ』は、映画館で観てこそ面白い。ノッて観ていた客は悶絶し、その反応に監督はほくそ笑むことだろう。
「私の映画は始まりがなく、終わりもない」とは、本作を上映した後の記者会見におけるキアロスタミ監督の弁である。
本作は判りやすいクライマックスを用意したストレートなストーリーテリングではない。私たちの実人生のように。
そして上映が終わった後も、観客には好みの結末を作って悦に入る楽しみが残されている。
![ライク・サムワン・イン・ラブ [DVD]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/51ZiMkWPyOL._SL160_.jpg)
監督・脚本/アッバス・キアロスタミ 編集/バーマン・キアロスタミ
撮影/柳島克己 録音/菊池信之
出演/奥野匡 高梨臨 加瀬亮 でんでん 鈴木美保子 窪田かね子 岸博之 森レイ子 大堀こういち 辰巳智秋 春日井静奈
日本公開/2012年9月15日
ジャンル/[ドラマ]


【theme : この映画がすごい!!】
【genre : 映画】
『宇宙戦艦ヤマト2199 第三章 果てしなき航海』 アナライザーの居場所はどこだ!?
『宇宙戦艦ヤマト2199 第三章 果てしなき航海』は、1本の長編映画のようにダイナミックな構成だった『第一章 遥かなる旅立ち』、『第二章 太陽圏の死闘』とは打って変わって、SF小説のアンソロジーを読むような粋な作品だ。
本来はテレビの30分番組として放映されるシリーズの第7話~第10話なので、短編四本をまとめて観るような印象なのは当然だが、『第二章』が対シュルツ戦を核とした大きな物語であったことを思うと、この変化が実に楽しい。『宇宙戦艦ヤマト2199』という作品の振幅の大きさが味わえよう。
各話は第1テレビシリーズのエピソードをベースにしており、そのアレンジの仕方が乙である。
ウィキペディアに記載された各話リストを参考に、旧作と対比してみよう。
第7話「太陽圏に別れを告げて」
これは旧第10話「さらば太陽圏!銀河より愛をこめて!!」に相当する。乗組員が一人ずつ地球との最後の通信をする点は旧作のとおりだ。旧作での「太陽圏お別れパーティー」は赤道祭として開催する。今回は戦闘シーンがなく、乗組員たちの人となりを描いて味わい深い。
第8話「星に願いを」
旧第9話「回転防禦!!アステロイド・ベルト!!」のシュルツとの最後の戦いと、旧第11話「決断!!ガミラス絶対防衛線突入!!」のデスラー機雷(本作ではデスラー魚雷)と、旧第12話「絶体絶命!!オリオンの願い星、地獄星」のガス生命体と恒星との挟み撃ちとを組み合わせたスリリングな一編。
旧第9話のアステロイドシップ計画のように、今となっては活用が難しいアイデアを捨てる一方で、使えるネタは上手く組み合わせており感心する。
第9話「時計仕掛けの虜囚」
ウィキペディアにはオリジナルストーリーと書かれているが、オートマタ(自動人形)の自我を巡る寓話は旧第16話「ビーメラ星、地下牢の死刑囚!!」に相当しよう。敵捕虜に人間性を認める点では、旧第13話「急げヤマト!!地球は病んでいる!!」の影響もあるかもしれない。
第10話「大宇宙の墓場」
旧第13話「急げヤマト!!地球は病んでいる!!」での生身のガミラス人との接触と、旧第15話「必死の逃亡!!異次元のヤマト」での異次元断層に落ち込んだヤマトの組み合わせ。
さすがにスターシアの不思議な力(?)で助けられる展開は削除され、次元断層からの脱出を巡るガミラス艦長との男のドラマになっており、戦記物のような味わいに痺れる。
本作ではアルフレッド・ベスターの傑作小説『我が赴くは星の群』(別題『虎よ、虎よ!』)をもじって第2話のサブタイトル「我が赴くは星の海原」を命名するような遊びが見られるが、第10話はズバリ、アンドレ・ノートンの<太陽の女王号>シリーズ『大宇宙の墓場』からそのままサブタイトルにしている。<太陽の女王号>シリーズのイラストを担当したのが松本零士氏であることと、第10話が松本零士氏得意の戦記マンガを彷彿とさせることから、ニヤリとさせられるネーミングである。
そして『第三章』の劇中及びエンディングに流れるのが、懐かしい『真赤なスカーフ』だ。
『第三章』は、全編を貫く骨太のストーリーがない代わりに、『真赤なスカーフ』を繰り返し奏でることで『宇宙戦艦ヤマト』の世界を補強している。
特に第7話や第9話の哀愁を帯びた物語には、『真赤なスカーフ』がよく似合う。
お気づきのように、新年を祝って餅つきをする旧第14話「銀河の試練!!西暦2200年の発進!!」は飛ばされている。
第1テレビシリーズのヤマトは2199年10月9日に地球を出発するので、航海の途中で新年を迎えるが、本作の物語は2199年1月からはじまるため、新年を迎えるのは地球へ帰還する時になる。
だからこそ作品名に「2199」と付けているわけで、餅つきは当分お預けだろう。
個々のエピソードの面白さもさることながら、『第三章』の見どころは掘り下げられた各キャラクターだ。
正直を云えば、私は本作に新キャラクターをぞろぞろ登場させる必然性が判らずにいた。だが今回、旧作をなぞりながらも新たな展開をさせる上で、新キャラクターや設定の変わったキャラクターのいることが物語に弾みをつけるのを実感した。
たとえば第1テレビシリーズでも特に印象深い第10話「さらば太陽圏!銀河より愛をこめて!!」では、乗組員たちが家族と交信しているのに、家族のいない古代進は何も映らない画面をただ眺めているばかりだった。そして同じく交信相手のいない沖田と二人きりで酒を酌み交わす。
このグッと来るシチュエーションを削除したのはもったいないが、考えてみれば数百人もの乗組員がいながら、戦争で家族を失くした者が古代と沖田だけのはずがない。
第1テレビシリーズの乗組員が114名しかいないのに対し、本作では999名と大幅に増加している。それでも現実の戦艦大和に2,500名以上が乗り込んだのに比べれば少ないが、これだけ増えても家族のいないのがまだ古代と沖田だけではリアリティが損なわれよう。
そこで今回の第7話「太陽圏に別れを告げて」では、新キャラクターたちが彩りを添えてくれる。
彼らの言動は旧来のファンにも予想が付かないから、知ってるエピソードのはずなのに新鮮な展開が楽しめる。どうやら新キャラクターにも好感を持てそうである。
とはいえ、扱いの難しいキャラクターもいる。
その筆頭がアナライザーだろう。第1テレビシリーズにおいても、アナライザーは純然たる機械として振舞ったり、妙に自意識が強かったり、セクハラ行為をしたりと扱いが一定しなかった。
対して、本作ではアナライザーを分析ロボット以下でも以上でもなく描き、位置付けをハッキリさせている。
ただ、それだけではアナライザーがつまらない添え物になりかねないためだろう、森雪に結婚を申し込む旧第16話に相当するエピソードとして、ロボット同士の交流を描く第9話「時計仕掛けの虜囚」が作られている。
もちろん、単なる機械人形に自意識が宿ったり、感情豊かにお喋りしたらファンタジーだ。下手をすると作品世界をぶち壊してしまう。
そこで作り手は、アナライザーを単なる機械以上のキャラクターとして立たせるために、周到な用意をしている。
まず、アナライザーの相方となるロボット・オルタを登場させ、アナライザーが羽目を外せない分、オルタを暴走させている。
そして『われはロボット』『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』『流れよわが涙、と警官は言った』等の、人造物と人間性を問う作品の題名をもじったテロップを散りばめて、観客にそれらの作品を思い起こさせる。
さらに、劇中劇として『観測員9号の心』の朗読を挿入し、ストーリーに和音を響かせる。
その上、真田志郎の書棚には萩原朔太郎の詩集や量子力学や進化生物学の本らしきものを並べてみせる。
すでに第4話では真田志郎が中原中也の詩集を持っていることが明らかにされていた。おそらく本作の観客ならば、これらの詩集なり学術書の一部もしくは全部が書棚にあるのではないだろうか。
技師長たる真田志郎は、必ずしも量子力学や進化生物学の本を手元に置いておく必要はないはずだ。だからこのセレクションはあくまで真田志郎の趣味であり、これらは彼の人柄を示すとともに、第9話のテーマをも示唆している。
詩集が象徴する感受性と人間性、量子力学が示す不確定性、進化生物学が示す生物進化の連続性、これらを並べることで、本編は「心」とか「精神」と呼ばれるものへの疑問――人間なら心があり、人間じゃなければ心がないと思うことへの疑問が呈される。
すなわち、そもそも心なんてものはどこにもないかもしれないし、あるとしたら人間か否かには関係ないのかもしれないと。
受け手をそこまで引き込んではじめて、アナライザーも一人のキャラクターとして受け入れられる。『宇宙戦艦ヤマト2199』の世界にアナライザーの居場所を作るために、第9話は必要だったのだろう。
これは22世紀の物語だが、思えばその300年も前にニーチェはこう云っている。
「わたしの兄弟よ、君が『精神』と名づけている君の小さい理性も、君の肉体の道具なのだ。君の大きい理性の小さい道具であり、玩具である。」
追記:
旧第14話「銀河の試練!!西暦2200年の発進!!」の餅つきは飛ばされたが、古代と島の確執と和解に関しては第四章の第12話「その果てにあるもの」が相当するだろう。
『宇宙戦艦ヤマト2199 第三章 果てしなき航海』 [あ行][テレビ]
第7話『太陽圏に別れを告げて』 脚本/大野木寛 絵コンテ/吉田英俊 演出/吉川浩司
第8話『星に願いを』 脚本/村井さだゆき 絵コンテ/笹嶋啓一、出渕裕 演出/室谷靖
第9話『時計仕掛けの虜囚』 脚本/村井さだゆき 絵コンテ/本郷みつる、羽原信義 演出/羽原信義
第10話『大宇宙の墓場』 脚本/大野木寛 絵コンテ/千明孝一 演出/金子秀一
総監督・シリーズ構成/出渕裕 原作/西崎義展
チーフディレクター/榎本明広 キャラクターデザイン/結城信輝
音楽/宮川彬良、宮川泰
出演/菅生隆之 小野大輔 鈴村健一 桑島法子 大塚芳忠 山寺宏一 麦人 千葉繁 田中理恵 久川綾 赤羽根健治 チョー
日本公開/2012年6月30日
ジャンル/[SF] [アドベンチャー] [戦争]
http://bookmarks.yahoo.co.jp/bookmarklet/showpopup?t='+encodeURIComponent(document.title)+'&u='+encodeURIComponent(location.href)+'&ei=UTF-8','_blank','width=550,height=480,left=100,top=50,scrollbars=1,resizable=1',0);">
本来はテレビの30分番組として放映されるシリーズの第7話~第10話なので、短編四本をまとめて観るような印象なのは当然だが、『第二章』が対シュルツ戦を核とした大きな物語であったことを思うと、この変化が実に楽しい。『宇宙戦艦ヤマト2199』という作品の振幅の大きさが味わえよう。
各話は第1テレビシリーズのエピソードをベースにしており、そのアレンジの仕方が乙である。
ウィキペディアに記載された各話リストを参考に、旧作と対比してみよう。
第7話「太陽圏に別れを告げて」
これは旧第10話「さらば太陽圏!銀河より愛をこめて!!」に相当する。乗組員が一人ずつ地球との最後の通信をする点は旧作のとおりだ。旧作での「太陽圏お別れパーティー」は赤道祭として開催する。今回は戦闘シーンがなく、乗組員たちの人となりを描いて味わい深い。
第8話「星に願いを」
旧第9話「回転防禦!!アステロイド・ベルト!!」のシュルツとの最後の戦いと、旧第11話「決断!!ガミラス絶対防衛線突入!!」のデスラー機雷(本作ではデスラー魚雷)と、旧第12話「絶体絶命!!オリオンの願い星、地獄星」のガス生命体と恒星との挟み撃ちとを組み合わせたスリリングな一編。
旧第9話のアステロイドシップ計画のように、今となっては活用が難しいアイデアを捨てる一方で、使えるネタは上手く組み合わせており感心する。
第9話「時計仕掛けの虜囚」
ウィキペディアにはオリジナルストーリーと書かれているが、オートマタ(自動人形)の自我を巡る寓話は旧第16話「ビーメラ星、地下牢の死刑囚!!」に相当しよう。敵捕虜に人間性を認める点では、旧第13話「急げヤマト!!地球は病んでいる!!」の影響もあるかもしれない。
第10話「大宇宙の墓場」
旧第13話「急げヤマト!!地球は病んでいる!!」での生身のガミラス人との接触と、旧第15話「必死の逃亡!!異次元のヤマト」での異次元断層に落ち込んだヤマトの組み合わせ。
さすがにスターシアの不思議な力(?)で助けられる展開は削除され、次元断層からの脱出を巡るガミラス艦長との男のドラマになっており、戦記物のような味わいに痺れる。
本作ではアルフレッド・ベスターの傑作小説『我が赴くは星の群』(別題『虎よ、虎よ!』)をもじって第2話のサブタイトル「我が赴くは星の海原」を命名するような遊びが見られるが、第10話はズバリ、アンドレ・ノートンの<太陽の女王号>シリーズ『大宇宙の墓場』からそのままサブタイトルにしている。<太陽の女王号>シリーズのイラストを担当したのが松本零士氏であることと、第10話が松本零士氏得意の戦記マンガを彷彿とさせることから、ニヤリとさせられるネーミングである。
そして『第三章』の劇中及びエンディングに流れるのが、懐かしい『真赤なスカーフ』だ。
『第三章』は、全編を貫く骨太のストーリーがない代わりに、『真赤なスカーフ』を繰り返し奏でることで『宇宙戦艦ヤマト』の世界を補強している。
特に第7話や第9話の哀愁を帯びた物語には、『真赤なスカーフ』がよく似合う。
お気づきのように、新年を祝って餅つきをする旧第14話「銀河の試練!!西暦2200年の発進!!」は飛ばされている。
第1テレビシリーズのヤマトは2199年10月9日に地球を出発するので、航海の途中で新年を迎えるが、本作の物語は2199年1月からはじまるため、新年を迎えるのは地球へ帰還する時になる。
だからこそ作品名に「2199」と付けているわけで、餅つきは当分お預けだろう。
個々のエピソードの面白さもさることながら、『第三章』の見どころは掘り下げられた各キャラクターだ。
正直を云えば、私は本作に新キャラクターをぞろぞろ登場させる必然性が判らずにいた。だが今回、旧作をなぞりながらも新たな展開をさせる上で、新キャラクターや設定の変わったキャラクターのいることが物語に弾みをつけるのを実感した。
たとえば第1テレビシリーズでも特に印象深い第10話「さらば太陽圏!銀河より愛をこめて!!」では、乗組員たちが家族と交信しているのに、家族のいない古代進は何も映らない画面をただ眺めているばかりだった。そして同じく交信相手のいない沖田と二人きりで酒を酌み交わす。
このグッと来るシチュエーションを削除したのはもったいないが、考えてみれば数百人もの乗組員がいながら、戦争で家族を失くした者が古代と沖田だけのはずがない。
第1テレビシリーズの乗組員が114名しかいないのに対し、本作では999名と大幅に増加している。それでも現実の戦艦大和に2,500名以上が乗り込んだのに比べれば少ないが、これだけ増えても家族のいないのがまだ古代と沖田だけではリアリティが損なわれよう。
そこで今回の第7話「太陽圏に別れを告げて」では、新キャラクターたちが彩りを添えてくれる。
彼らの言動は旧来のファンにも予想が付かないから、知ってるエピソードのはずなのに新鮮な展開が楽しめる。どうやら新キャラクターにも好感を持てそうである。
とはいえ、扱いの難しいキャラクターもいる。
その筆頭がアナライザーだろう。第1テレビシリーズにおいても、アナライザーは純然たる機械として振舞ったり、妙に自意識が強かったり、セクハラ行為をしたりと扱いが一定しなかった。
対して、本作ではアナライザーを分析ロボット以下でも以上でもなく描き、位置付けをハッキリさせている。
ただ、それだけではアナライザーがつまらない添え物になりかねないためだろう、森雪に結婚を申し込む旧第16話に相当するエピソードとして、ロボット同士の交流を描く第9話「時計仕掛けの虜囚」が作られている。
もちろん、単なる機械人形に自意識が宿ったり、感情豊かにお喋りしたらファンタジーだ。下手をすると作品世界をぶち壊してしまう。
そこで作り手は、アナライザーを単なる機械以上のキャラクターとして立たせるために、周到な用意をしている。
まず、アナライザーの相方となるロボット・オルタを登場させ、アナライザーが羽目を外せない分、オルタを暴走させている。
そして『われはロボット』『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』『流れよわが涙、と警官は言った』等の、人造物と人間性を問う作品の題名をもじったテロップを散りばめて、観客にそれらの作品を思い起こさせる。
さらに、劇中劇として『観測員9号の心』の朗読を挿入し、ストーリーに和音を響かせる。
その上、真田志郎の書棚には萩原朔太郎の詩集や量子力学や進化生物学の本らしきものを並べてみせる。
すでに第4話では真田志郎が中原中也の詩集を持っていることが明らかにされていた。おそらく本作の観客ならば、これらの詩集なり学術書の一部もしくは全部が書棚にあるのではないだろうか。
技師長たる真田志郎は、必ずしも量子力学や進化生物学の本を手元に置いておく必要はないはずだ。だからこのセレクションはあくまで真田志郎の趣味であり、これらは彼の人柄を示すとともに、第9話のテーマをも示唆している。
詩集が象徴する感受性と人間性、量子力学が示す不確定性、進化生物学が示す生物進化の連続性、これらを並べることで、本編は「心」とか「精神」と呼ばれるものへの疑問――人間なら心があり、人間じゃなければ心がないと思うことへの疑問が呈される。
すなわち、そもそも心なんてものはどこにもないかもしれないし、あるとしたら人間か否かには関係ないのかもしれないと。
受け手をそこまで引き込んではじめて、アナライザーも一人のキャラクターとして受け入れられる。『宇宙戦艦ヤマト2199』の世界にアナライザーの居場所を作るために、第9話は必要だったのだろう。
これは22世紀の物語だが、思えばその300年も前にニーチェはこう云っている。
「わたしの兄弟よ、君が『精神』と名づけている君の小さい理性も、君の肉体の道具なのだ。君の大きい理性の小さい道具であり、玩具である。」
追記:
旧第14話「銀河の試練!!西暦2200年の発進!!」の餅つきは飛ばされたが、古代と島の確執と和解に関しては第四章の第12話「その果てにあるもの」が相当するだろう。
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第7話『太陽圏に別れを告げて』 脚本/大野木寛 絵コンテ/吉田英俊 演出/吉川浩司
第8話『星に願いを』 脚本/村井さだゆき 絵コンテ/笹嶋啓一、出渕裕 演出/室谷靖
第9話『時計仕掛けの虜囚』 脚本/村井さだゆき 絵コンテ/本郷みつる、羽原信義 演出/羽原信義
第10話『大宇宙の墓場』 脚本/大野木寛 絵コンテ/千明孝一 演出/金子秀一
総監督・シリーズ構成/出渕裕 原作/西崎義展
チーフディレクター/榎本明広 キャラクターデザイン/結城信輝
音楽/宮川彬良、宮川泰
出演/菅生隆之 小野大輔 鈴村健一 桑島法子 大塚芳忠 山寺宏一 麦人 千葉繁 田中理恵 久川綾 赤羽根健治 チョー
日本公開/2012年6月30日
ジャンル/[SF] [アドベンチャー] [戦争]


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【theme : 宇宙戦艦ヤマト2199】
【genre : アニメ・コミック】
『アウトレイジ ビヨンド』 やさしい漫才映画
「日本人は想像力を使えなくなっている。映画では前より倍しゃべって説明しないとダメになった」
かつて、極めてセリフの少ない映画を撮っていた北野武監督が、こう語っている。
「テレビでさえ吹き出しを付ける。お笑い番組では笑い声まで書いてある。そこまで徹底しないと客が理解しないのか?」(日経新聞10月1日夕刊)
『アウトレイジ ビヨンド』は、そんな客たちに北野監督が最大限歩み寄った作品だ。
登場人物たちは冗舌で、誰も彼もが喋り続けている。無言のイメージシーンが延々と続く北野映画の特徴が、今やすっかり影を潜めた。
北野監督はもともと漫才師として大ブームを起こした人だから、言葉の応酬は得意中の得意。その人が、言葉によらない映画を作るのは驚きだった。
けれども「想像力を使えなく」なった日本人には、漫才のように判りやすいオチを提示してやらなきゃダメなのだ。本作は、そんな北野監督の割り切りの産物だろう。
先のインタビューで、北野監督はこうも語っている。
「漫才と同じ。言葉は筋振りであって、落とし所を考える。言葉をうのみにしていると、アレッとなる。予想外のことが起こる」
「しゃべってわからせといて、実はそれウソだよ、となる。落語のオチみたいなところがある。そうやって客を混乱させる」
なるほど、本作は漫才やショートコントの積み重ねのようである。「『出てけ!』と云ったら出て行っちゃった」なんて展開はツービート時代の漫才のようだし、ヤクザ同士が怒号のやりとりに加熱したところをストンと落としてみせるタイミングも、漫才を思わせる切れの良さだ。
おそらく北野監督は、これまでだって本作のような映画を作ろうと思えば作れたのだろう。激しい言葉の応酬を中心に据えるなんて、簡単すぎてやる気が起こらなかったのかもしれない。
それを今になって手掛けるほど、日本人は「しゃべって説明しないとダメになった」。
監督の思いはともあれ、本作が判りやすくてテンポの良い映画であることは間違いない。
日本が誇る題材――サムライ、ニンジャに続くコンテンツと云えばヤクザだろうし、その抗争を描いた本作は世界のどこでも受けるだろう。
かつて脚本家・笠原和夫氏は、北野武作品のシナリオの弱さを指摘したそうだ。そりゃあ、笠原和夫氏がシナリオを書いた『県警対組織暴力』(1975年)の急坂を転がり落ちるがごとき怒涛の面白さは他人が再現できるものではないが、本作にはヤクザが演芸場に立って怒鳴りながら漫才をするようなアンバランスな魅力がある。
これぞ北野監督ならではのシナリオだろう。
ただ、漫才らしいノリを大事にする本作では、ノリと相容れない要素が省かれているのは残念だ。
その一つが、かつて北野作品に見られた美しい絵のようなショットである。
フィルムの1コマを拡大して額に飾れば、それだけで素晴らしい絵画になる。北野作品はそんな映像に溢れていたが、本作ではそれを敢えて避けている。
たとえば死体を映すときはカメラの動きを止めて、美しい絵画のように撮ることが多かった北野監督だが、本作の死体は美しくない。かつての北野作品が、美術館に絵を飾るようなものだとすれば、本作は演芸場でコントや漫才を見せるようなものだろう。
北野監督は前作『アウトレイジ』の公開時に次のように述べていた。
「基本的には漫才の出身だから、お金払って見に来る人にもう実験はしちゃいかんと思ったんだ。(略)やっぱり映画はエンターテインメントじゃないとね」
そして「みんなが喜ぶエンターテインメントなんて、その気になれば簡単なんだよ。」と語ったとおり、『アウトレイジ』は興行収入7.5億円を記録した。
より一層観客に歩み寄った本作は、さらに好成績を残すだろう。
私たち観客は、北野監督の手玉に取られるばかりである。
『アウトレイジ ビヨンド』 [あ行]
監督・編集・脚本/北野武
出演/ビートたけし 西田敏行 三浦友和 加瀬亮 中野英雄 松重豊 小日向文世 高橋克典 桐谷健太 新井浩文 塩見三省 中尾彬 神山繁
日本公開/2012年10月6日
ジャンル/[犯罪] [ドラマ] [アクション]
http://bookmarks.yahoo.co.jp/bookmarklet/showpopup?t='+encodeURIComponent(document.title)+'&u='+encodeURIComponent(location.href)+'&ei=UTF-8','_blank','width=550,height=480,left=100,top=50,scrollbars=1,resizable=1',0);">
かつて、極めてセリフの少ない映画を撮っていた北野武監督が、こう語っている。
「テレビでさえ吹き出しを付ける。お笑い番組では笑い声まで書いてある。そこまで徹底しないと客が理解しないのか?」(日経新聞10月1日夕刊)
『アウトレイジ ビヨンド』は、そんな客たちに北野監督が最大限歩み寄った作品だ。
登場人物たちは冗舌で、誰も彼もが喋り続けている。無言のイメージシーンが延々と続く北野映画の特徴が、今やすっかり影を潜めた。
北野監督はもともと漫才師として大ブームを起こした人だから、言葉の応酬は得意中の得意。その人が、言葉によらない映画を作るのは驚きだった。
けれども「想像力を使えなく」なった日本人には、漫才のように判りやすいオチを提示してやらなきゃダメなのだ。本作は、そんな北野監督の割り切りの産物だろう。
先のインタビューで、北野監督はこうも語っている。
「漫才と同じ。言葉は筋振りであって、落とし所を考える。言葉をうのみにしていると、アレッとなる。予想外のことが起こる」
「しゃべってわからせといて、実はそれウソだよ、となる。落語のオチみたいなところがある。そうやって客を混乱させる」
なるほど、本作は漫才やショートコントの積み重ねのようである。「『出てけ!』と云ったら出て行っちゃった」なんて展開はツービート時代の漫才のようだし、ヤクザ同士が怒号のやりとりに加熱したところをストンと落としてみせるタイミングも、漫才を思わせる切れの良さだ。
おそらく北野監督は、これまでだって本作のような映画を作ろうと思えば作れたのだろう。激しい言葉の応酬を中心に据えるなんて、簡単すぎてやる気が起こらなかったのかもしれない。
それを今になって手掛けるほど、日本人は「しゃべって説明しないとダメになった」。
監督の思いはともあれ、本作が判りやすくてテンポの良い映画であることは間違いない。
日本が誇る題材――サムライ、ニンジャに続くコンテンツと云えばヤクザだろうし、その抗争を描いた本作は世界のどこでも受けるだろう。
かつて脚本家・笠原和夫氏は、北野武作品のシナリオの弱さを指摘したそうだ。そりゃあ、笠原和夫氏がシナリオを書いた『県警対組織暴力』(1975年)の急坂を転がり落ちるがごとき怒涛の面白さは他人が再現できるものではないが、本作にはヤクザが演芸場に立って怒鳴りながら漫才をするようなアンバランスな魅力がある。
これぞ北野監督ならではのシナリオだろう。
ただ、漫才らしいノリを大事にする本作では、ノリと相容れない要素が省かれているのは残念だ。
その一つが、かつて北野作品に見られた美しい絵のようなショットである。
フィルムの1コマを拡大して額に飾れば、それだけで素晴らしい絵画になる。北野作品はそんな映像に溢れていたが、本作ではそれを敢えて避けている。
たとえば死体を映すときはカメラの動きを止めて、美しい絵画のように撮ることが多かった北野監督だが、本作の死体は美しくない。かつての北野作品が、美術館に絵を飾るようなものだとすれば、本作は演芸場でコントや漫才を見せるようなものだろう。
北野監督は前作『アウトレイジ』の公開時に次のように述べていた。
「基本的には漫才の出身だから、お金払って見に来る人にもう実験はしちゃいかんと思ったんだ。(略)やっぱり映画はエンターテインメントじゃないとね」
そして「みんなが喜ぶエンターテインメントなんて、その気になれば簡単なんだよ。」と語ったとおり、『アウトレイジ』は興行収入7.5億円を記録した。
より一層観客に歩み寄った本作は、さらに好成績を残すだろう。
私たち観客は、北野監督の手玉に取られるばかりである。
![アウトレイジ ビヨンド [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/51paq-NNDnL._SL160_.jpg)
監督・編集・脚本/北野武
出演/ビートたけし 西田敏行 三浦友和 加瀬亮 中野英雄 松重豊 小日向文世 高橋克典 桐谷健太 新井浩文 塩見三省 中尾彬 神山繁
日本公開/2012年10月6日
ジャンル/[犯罪] [ドラマ] [アクション]

