『白雪姫と鏡の女王』 理想の映画って何だ?
この映画を、ハリウッドスターを配したVFXたっぷりのアメリカ映画――なんて思うと、その素晴らしさを掴みそこなうおそれがあろう。
『白雪姫と鏡の女王』の魅力は、何といっても驚くほどの能天気さだ。そしてふんだんに金色を使った豪華絢爛な衣裳とセット、さらにはやたら贅沢な映像に圧倒される。トドメを刺すのが、脈絡なく飛び出す陽気な歌と踊りである。
そうだ、これはまさしくインド映画のノリではないか。
そういえば、本作のターセム・シン・ダンドワール監督はインド出身だ。
もちろん監督がインドの出身だからインド映画風になる、なんて単純な話ではないだろう。
けれども、本作はマサラムービーを観るような態度で臨んでこそ、映画と観客との幸せなシンクロが生まれよう。受身な態度で楽しませてもらう、面白がらせてもらうのではなく、観客の方から楽しんでやるぞ、面白がっちゃうぞ、と能動的な気持ちで臨めば、本作は何倍も楽しめる。
とにかく愉快だし、バカバカしいし、人物造形も至って単純だ。
たとえばテリー・ギリアム監督あたりだと、グリム童話に材を取っても知的に処理してしまうのだが、本作はちっとも知性を感じさせないところがイイ!
設定だって無茶苦茶だ。グリム兄弟は二人そろって言語学者・文学者にして大学教授だったのに、本作ではあろうことか盗賊の一味扱いだ。
だが、それほど無茶苦茶でも、本作はベタなギャグを押し付けず、スマートで取っ付き易い。
そしてターセム・シン・ダンドワール監督お得意の、見事な構図や映像美は健在だ。
もしかしたら、これは理想の映画ではないだろうか。
映画はしばしば総合芸術と称される。たしかに映画には、映像があり、音楽があり、その上ストーリーを語る力もある。他の芸術よりも多様な面を持っている。
しかし、多様な面があるからこそ、制約もまた多い。
上映時間や予算、技術面の制約は、小説やマンガの映画化においてしばしばスケールダウンをもたらし、原作ファンをガッカリさせる。130巻に及ぶグイン・サーガなんて、原作に忠実に映画化されることは永遠にないだろう。
舞台やコンサートのような双方向性もないので、演者が観客のノリに合わせていつにも増して素晴らしい演目を披露することもない。
演劇ならば初日から楽日のあいだに変化することもあるが、映画は公開初日に不評だと判っても、翌日も翌々日も同じ作品を上映しなければならない。
ゲームのように、観客が登場人物の行動を変えることもできない。
こうしてみると、映画とは実はあんまり面白いものではないのかもしれない。
けれど、他の芸術に比べて映画が秀でる点もある。
その一つが、現実には見たこともない光景を現出させられることだろう。
視覚は人間の情報源として大きなウェイトを占めている。そこに向けて、あり得ないほど美しく、あり得ないほど豪勢で、あり得ないほど奇妙な光景を見せてくれるのは、映画ならではの楽しみだ。
なにしろ、ただ美しいとか奇妙なばかりではなく、映し出された人物はお喋りするし、鳥や獣は動き回るし、草木はなびくし、雪も舞う。絵画や写真とは異なり、その光景には動きがあるのだ。
しかも映画なら、人間が一瞬にして消えることも可能だ。役者がカメラのフレームの外へ歩み出るところを、編集でカットすれば良い。こんな単純なことですら、ナマの舞台では不可能だ。
このような映画の魅力を、充分に心得ているのがターセム・シン・ダンドワール監督である。
『白雪姫と鏡の女王』も前作『インモータルズ -神々の戦い-』に引き続き、カチッと決まった構図やきらびやかな色彩や大胆なカメラワークに溢れている。
そしてその映像に、息を呑むほどの素晴らしさを与えているのが、石岡瑛子氏のデザインによる衣裳である。
石岡瑛子氏がターセム・シン監督と決めた本作のコンセプトは「ハイブリッド・クラシック」だという。その衣裳は、16世紀から19世紀までのデザインの混合である。
もちろん、いくらクラシックと云ったって、こんな衣裳はいまだかつて世界のどこにもなかったろう。
私はゴキブリ風の礼服がこんなにチャーミングに見えるとは知らなかった。ウサギにシルクハットが似合うのも驚きである。金色のドレスなんて趣味が悪いと思いきや、とんでもなく美しい。
眼福にあずかるとは、まさに本作のことを云うのだろう。
『白雪姫と鏡の女王』 [さ行]
監督/ターセム・シン・ダンドワール 衣装デザイン/石岡瑛子
出演/ジュリア・ロバーツ リリー・コリンズ アーミー・ハマー ネイサン・レイン メア・ウィニンガム マイケル・ラーナー ロバート・エムズ ショーン・ビーン
日本公開/2012年9月14日
ジャンル/[ファンタジー] [コメディ] [アクション]
http://bookmarks.yahoo.co.jp/bookmarklet/showpopup?t='+encodeURIComponent(document.title)+'&u='+encodeURIComponent(location.href)+'&ei=UTF-8','_blank','width=550,height=480,left=100,top=50,scrollbars=1,resizable=1',0);">
『白雪姫と鏡の女王』の魅力は、何といっても驚くほどの能天気さだ。そしてふんだんに金色を使った豪華絢爛な衣裳とセット、さらにはやたら贅沢な映像に圧倒される。トドメを刺すのが、脈絡なく飛び出す陽気な歌と踊りである。
そうだ、これはまさしくインド映画のノリではないか。
そういえば、本作のターセム・シン・ダンドワール監督はインド出身だ。
もちろん監督がインドの出身だからインド映画風になる、なんて単純な話ではないだろう。
けれども、本作はマサラムービーを観るような態度で臨んでこそ、映画と観客との幸せなシンクロが生まれよう。受身な態度で楽しませてもらう、面白がらせてもらうのではなく、観客の方から楽しんでやるぞ、面白がっちゃうぞ、と能動的な気持ちで臨めば、本作は何倍も楽しめる。
とにかく愉快だし、バカバカしいし、人物造形も至って単純だ。
たとえばテリー・ギリアム監督あたりだと、グリム童話に材を取っても知的に処理してしまうのだが、本作はちっとも知性を感じさせないところがイイ!
設定だって無茶苦茶だ。グリム兄弟は二人そろって言語学者・文学者にして大学教授だったのに、本作ではあろうことか盗賊の一味扱いだ。
だが、それほど無茶苦茶でも、本作はベタなギャグを押し付けず、スマートで取っ付き易い。
そしてターセム・シン・ダンドワール監督お得意の、見事な構図や映像美は健在だ。
もしかしたら、これは理想の映画ではないだろうか。
映画はしばしば総合芸術と称される。たしかに映画には、映像があり、音楽があり、その上ストーリーを語る力もある。他の芸術よりも多様な面を持っている。
しかし、多様な面があるからこそ、制約もまた多い。
上映時間や予算、技術面の制約は、小説やマンガの映画化においてしばしばスケールダウンをもたらし、原作ファンをガッカリさせる。130巻に及ぶグイン・サーガなんて、原作に忠実に映画化されることは永遠にないだろう。
舞台やコンサートのような双方向性もないので、演者が観客のノリに合わせていつにも増して素晴らしい演目を披露することもない。
演劇ならば初日から楽日のあいだに変化することもあるが、映画は公開初日に不評だと判っても、翌日も翌々日も同じ作品を上映しなければならない。
ゲームのように、観客が登場人物の行動を変えることもできない。
こうしてみると、映画とは実はあんまり面白いものではないのかもしれない。
けれど、他の芸術に比べて映画が秀でる点もある。
その一つが、現実には見たこともない光景を現出させられることだろう。
視覚は人間の情報源として大きなウェイトを占めている。そこに向けて、あり得ないほど美しく、あり得ないほど豪勢で、あり得ないほど奇妙な光景を見せてくれるのは、映画ならではの楽しみだ。
なにしろ、ただ美しいとか奇妙なばかりではなく、映し出された人物はお喋りするし、鳥や獣は動き回るし、草木はなびくし、雪も舞う。絵画や写真とは異なり、その光景には動きがあるのだ。
しかも映画なら、人間が一瞬にして消えることも可能だ。役者がカメラのフレームの外へ歩み出るところを、編集でカットすれば良い。こんな単純なことですら、ナマの舞台では不可能だ。
このような映画の魅力を、充分に心得ているのがターセム・シン・ダンドワール監督である。
『白雪姫と鏡の女王』も前作『インモータルズ -神々の戦い-』に引き続き、カチッと決まった構図やきらびやかな色彩や大胆なカメラワークに溢れている。
そしてその映像に、息を呑むほどの素晴らしさを与えているのが、石岡瑛子氏のデザインによる衣裳である。
石岡瑛子氏がターセム・シン監督と決めた本作のコンセプトは「ハイブリッド・クラシック」だという。その衣裳は、16世紀から19世紀までのデザインの混合である。
もちろん、いくらクラシックと云ったって、こんな衣裳はいまだかつて世界のどこにもなかったろう。
私はゴキブリ風の礼服がこんなにチャーミングに見えるとは知らなかった。ウサギにシルクハットが似合うのも驚きである。金色のドレスなんて趣味が悪いと思いきや、とんでもなく美しい。
眼福にあずかるとは、まさに本作のことを云うのだろう。
![白雪姫と鏡の女王 コレクターズ・エディション [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/512tr6BV27L._SL160_.jpg)
監督/ターセム・シン・ダンドワール 衣装デザイン/石岡瑛子
出演/ジュリア・ロバーツ リリー・コリンズ アーミー・ハマー ネイサン・レイン メア・ウィニンガム マイケル・ラーナー ロバート・エムズ ショーン・ビーン
日本公開/2012年9月14日
ジャンル/[ファンタジー] [コメディ] [アクション]


【theme : 特撮・SF・ファンタジー映画】
【genre : 映画】
tag : ターセム・シン・ダンドワールジュリア・ロバーツリリー・コリンズアーミー・ハマーネイサン・レインメア・ウィニンガムマイケル・ラーナーロバート・エムズショーン・ビーン石岡瑛子
『最強のふたり』 嗤いと笑いは大違い
フランス映画『最強のふたり』は、『千と千尋の神隠し』の記録をも上回った。
これまで、英語以外の映画での史上最高の興行成績は、『千と千尋の神隠し』の2.749億ドルだったが、2012年3月20日、『最強のふたり』がこれを超えたのだ。
しかも『千と千尋の神隠し』の収益の大半が日本一国によるものなのに、『最強のふたり』は世界各国でヒットしており、2012年3月20日以降に公開された国々でも動員が伸びている。
それももっともだろう。
本作は実に気持ちの良い作品であり、どこの国の人にとっても普遍的な物語だ。
題名になっている最強のふたりとは、中年のフィリップと青年ドリスのことである。立場も嗜好も異なるこの二人の交流が、本作の主題だ。
なにしろ、フィリップは大富豪、ドリスは貧しい無職の男だ。フィリップが好きなのはクラシック音楽や美術品、一方ドリスが好むのはファンクミュージック。何もかもが正反対の二人なのだ。
そして最大の違いは、ドリスは五体満足だが、フィリップは首から下が麻痺して動かないことである。
これまでにも身体障碍者が登場する映画は数々あった。
そこでは障碍が物語の中心となり、障碍をこうむった経緯であるとか、障碍を抱えた主人公の苦悩や葛藤が描かれることが多かったように思う。
ところが、本作が特徴的なのは、障碍についてのあれやこれやをほとんど取り上げない点である。
障碍をこうむった経緯なんて、セリフでちょっと触れるだけだし、フィリップの抱える苦悩は、障碍そのものよりも障碍があるために生じる人間関係なのだ。
そしてドリスのがさつな人物造形も手伝って、障碍はまるでギャグのネタのように扱われる。
たとえば、ドリスはフィリップの麻痺した足に熱湯をかけたり、熱いヤカンを押し当てたりして、フィリップが熱がらないか試している。
また、雪の日にフィリップを連れ出して、雪合戦に興じてもいる。もちろんフィリップは雪つぶてを投げられないから、一方的に雪をぶつけられるだけだ。
さらに、フィリップが抵抗できないのをいいことに、ドリスはフィリップの髭を変な形に剃って大笑いする。
このように書くと、本作を見ていない人はけしからん描写だと眉をひそめるかもしれない。あるいは、とんでもないブラックユーモアを仕掛けた作品だと誤解するかもしれない。
ところが劇場を埋め尽くした観客は、これらのシーンであっけらかんと大笑いする。いずれのシーンも、すがすがしいくらいに楽しいからだ。
ドリスの行動は意地悪なものではなく、友人同士に見られるような悪ふざけなのだ。
本作におけるフィリップの苦悩は、障碍そのものというよりも、周囲が障碍者扱いすることである。
フィリップは何をするにも他人の介護を要するから、常に誰かが周囲におり、プライバシーなんてものはない。彼らは、朝から晩までフィリップの健康を気遣い、管理を徹底しようとする。周囲の人間にとって、フィリップは管理すべき対象物だ。フィリップは勝手に破目をはずすこともできないし、他人に隠れてこっそり悪さをすることもできない。
そんな彼の前に現れたドリスは、一緒にマリファナを吸ったり、二人でスポーツカーを駆ってスピード違反で追われたりと、フィリップの健康にお構いなしの傍若無人ぶりを発揮する。
その善し悪しはともかく、フィリップにとってはドリスが唯一悪ふざけの相手なのだ。
一歩間違えれば不快な描写になりかねないところを、オリヴィエ・ナカシュとエリック・トレダノ両監督のさじ加減は絶妙だ。だからこそ、観客は安心して笑っていられる。
思えば、映画の作り手の多くもまた、これまで障碍者を特別扱いし過ぎてはいなかったろうか。
また、本作は健常者のドリスが障碍者のフィリップに接する、というだけの映画ではない。
映画の中盤、フィリップは親戚の者から忠告される。ドリスは前科者だ、あんな者を周りに置くのは良くないと。
その忠告を一蹴するフィリップは、ドリスにとって前科者とか貧困層という色眼鏡で見ない唯一の金持ちだ。
人間誰しも、持っているものもあれば、持っていないものもある。
持っている者同士、持っていない者同士が固まれば、立場が同じだから話は早い。
けれども本作は、立場が違っても人と人とは交流できることを示している。そして心の交流があればこそ、悪ふざけもできるのだと。
本作は実話に基いており、映画の試写にはモデルになった二人も招かれた。
公式サイトによれば、映画が終わると本物のフィリップは目に涙を浮かべて、「私は両手で拍手しているんだ!」と微笑んだという。
『最強のふたり』 [か行]
監督・脚本/エリック・トレダノ、オリヴィエ・ナカシュ
出演/フランソワ・クリュゼ オマール・シー アンヌ・ル・ニ オドレイ・フルーロ クロティルド・モレ
日本公開/2012年9月1日
ジャンル/[ドラマ] [コメディ]
http://bookmarks.yahoo.co.jp/bookmarklet/showpopup?t='+encodeURIComponent(document.title)+'&u='+encodeURIComponent(location.href)+'&ei=UTF-8','_blank','width=550,height=480,left=100,top=50,scrollbars=1,resizable=1',0);">
これまで、英語以外の映画での史上最高の興行成績は、『千と千尋の神隠し』の2.749億ドルだったが、2012年3月20日、『最強のふたり』がこれを超えたのだ。
しかも『千と千尋の神隠し』の収益の大半が日本一国によるものなのに、『最強のふたり』は世界各国でヒットしており、2012年3月20日以降に公開された国々でも動員が伸びている。
それももっともだろう。
本作は実に気持ちの良い作品であり、どこの国の人にとっても普遍的な物語だ。
題名になっている最強のふたりとは、中年のフィリップと青年ドリスのことである。立場も嗜好も異なるこの二人の交流が、本作の主題だ。
なにしろ、フィリップは大富豪、ドリスは貧しい無職の男だ。フィリップが好きなのはクラシック音楽や美術品、一方ドリスが好むのはファンクミュージック。何もかもが正反対の二人なのだ。
そして最大の違いは、ドリスは五体満足だが、フィリップは首から下が麻痺して動かないことである。
これまでにも身体障碍者が登場する映画は数々あった。
そこでは障碍が物語の中心となり、障碍をこうむった経緯であるとか、障碍を抱えた主人公の苦悩や葛藤が描かれることが多かったように思う。
ところが、本作が特徴的なのは、障碍についてのあれやこれやをほとんど取り上げない点である。
障碍をこうむった経緯なんて、セリフでちょっと触れるだけだし、フィリップの抱える苦悩は、障碍そのものよりも障碍があるために生じる人間関係なのだ。
そしてドリスのがさつな人物造形も手伝って、障碍はまるでギャグのネタのように扱われる。
たとえば、ドリスはフィリップの麻痺した足に熱湯をかけたり、熱いヤカンを押し当てたりして、フィリップが熱がらないか試している。
また、雪の日にフィリップを連れ出して、雪合戦に興じてもいる。もちろんフィリップは雪つぶてを投げられないから、一方的に雪をぶつけられるだけだ。
さらに、フィリップが抵抗できないのをいいことに、ドリスはフィリップの髭を変な形に剃って大笑いする。
このように書くと、本作を見ていない人はけしからん描写だと眉をひそめるかもしれない。あるいは、とんでもないブラックユーモアを仕掛けた作品だと誤解するかもしれない。
ところが劇場を埋め尽くした観客は、これらのシーンであっけらかんと大笑いする。いずれのシーンも、すがすがしいくらいに楽しいからだ。
ドリスの行動は意地悪なものではなく、友人同士に見られるような悪ふざけなのだ。
本作におけるフィリップの苦悩は、障碍そのものというよりも、周囲が障碍者扱いすることである。
フィリップは何をするにも他人の介護を要するから、常に誰かが周囲におり、プライバシーなんてものはない。彼らは、朝から晩までフィリップの健康を気遣い、管理を徹底しようとする。周囲の人間にとって、フィリップは管理すべき対象物だ。フィリップは勝手に破目をはずすこともできないし、他人に隠れてこっそり悪さをすることもできない。
そんな彼の前に現れたドリスは、一緒にマリファナを吸ったり、二人でスポーツカーを駆ってスピード違反で追われたりと、フィリップの健康にお構いなしの傍若無人ぶりを発揮する。
その善し悪しはともかく、フィリップにとってはドリスが唯一悪ふざけの相手なのだ。
一歩間違えれば不快な描写になりかねないところを、オリヴィエ・ナカシュとエリック・トレダノ両監督のさじ加減は絶妙だ。だからこそ、観客は安心して笑っていられる。
思えば、映画の作り手の多くもまた、これまで障碍者を特別扱いし過ぎてはいなかったろうか。
また、本作は健常者のドリスが障碍者のフィリップに接する、というだけの映画ではない。
映画の中盤、フィリップは親戚の者から忠告される。ドリスは前科者だ、あんな者を周りに置くのは良くないと。
その忠告を一蹴するフィリップは、ドリスにとって前科者とか貧困層という色眼鏡で見ない唯一の金持ちだ。
人間誰しも、持っているものもあれば、持っていないものもある。
持っている者同士、持っていない者同士が固まれば、立場が同じだから話は早い。
けれども本作は、立場が違っても人と人とは交流できることを示している。そして心の交流があればこそ、悪ふざけもできるのだと。
本作は実話に基いており、映画の試写にはモデルになった二人も招かれた。
公式サイトによれば、映画が終わると本物のフィリップは目に涙を浮かべて、「私は両手で拍手しているんだ!」と微笑んだという。
![最強のふたりコレクターズエディション(初回限定仕様) [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/51AbtVM6vyL._SL160_.jpg)
監督・脚本/エリック・トレダノ、オリヴィエ・ナカシュ
出演/フランソワ・クリュゼ オマール・シー アンヌ・ル・ニ オドレイ・フルーロ クロティルド・モレ
日本公開/2012年9月1日
ジャンル/[ドラマ] [コメディ]


tag : エリック・トレダノオリヴィエ・ナカシュフランソワ・クリュゼオマール・シーアンヌ・ル・ニオドレイ・フルーロクロティルド・モレ
『鍵泥棒のメソッド』 失くしたのは銭湯の鍵じゃない
2010年、映画ファンが投票した「2000年~2009年の映画の中からもう一度観たい映画」の第一位に輝いたのが、内田けんじ監督の劇場デビュー作『運命じゃない人』だ。
池袋の名画座・新文芸坐が、観客に呼びかけて投票を募った結果である。
一位を記念して行われた上映会とトークショーにおいて、客席から内田けんじ監督に質問が寄せられた。
「どうしてもっと映画を作らないんですか?」
それを受けて内田監督が、「私もたくさん作りたいと思ってるんです」と苦笑していたのが印象深い。
多くの映画ファンが待っていたであろう『鍵泥棒のメソッド』は、前作『アフタースクール』から実に4年ぶりの新作だ。
そして本作は、4年も待ち続けた甲斐があった。これは何よりも幸せな気持ちになれる映画である。
たびたび紹介しているけれど、私が敬愛する小津安二郎監督は、こんな言葉を残している。
「一口でいえば、見終わったときの後味だね。いくらいい話でも、後味の悪いものは御免だ。我慢して見ても、後味のいいものはいい。」(55.6「シナリオ」)
これぞまさしく本作を表現する言葉だろう。観終わって、こんなに気分良く映画館を後にできることはなかなかない。
そんな本作は、銭湯でロッカーの鍵を入れ替えたために、人生まで入れ替わる二人の男の物語だ。
題名の鍵泥棒とは、直接的にはロッカーの鍵をすり替えて他人の持ち物を失敬する主人公・桜井武史のことである。メソッドとは、役柄になりきって演技するメソッド演技法のことだ。
しかし、もちろん内田けんじ監督はロッカーの鍵ごときを題名にしたわけじゃない。
本作の英題は『Key of Life』。この Key は、 KFS (Key Factor for Success)の Key でもあろう。KFSとは、ものごとを成功させるためにキーとなる要因のことだ。それを見極めて、きちんと押さえておかなければ、他の何を得たところで満足のいく結果は出ない。
本作は、人生の扉を開く鍵――もっとも大事な肝になるもの――それを失っていた男たちが、他人に成り代わり、成り済ますうちに、自分にとって大切な人生の鍵に気がついていく物語だ。
「健康で、努力家の方であれば。」
劇中で広末涼子さん演じる水嶋香苗が、アルバイト募集の際に提示する条件がこれだ。
それはまた、彼女が結婚相手に望む条件でもある。
映画館の客席にいる私たちは、その単純な条件に思わず失笑してしまう。それだけでいいなら、条件に合う人間はいくらでも見つかると、舐めてかかるかもしれない。
だが私たちは、香川照之さん演じるコンドウの努力家ぶりと、堺雅人さん演じる桜井武史のダメさ加減を見るにつけ、「健康で、努力家」と名乗るのがいかに難しいか実感することになる。
少なくとも、私は桜井タイプである。
何かをしようと、まずは参考書を買ってきても、本棚に置いてそれで終わってしまうたちだ。読んでもせいぜい8ページ。
映画を観ながら、そうか自分は努力家じゃなかったんだと、反省することしきりである。
皮肉なことに、立場が入れ替わり、持ち物・財産の一切合財を取り替えても、努力家のコンドウが着実に地歩を固める一方、いい加減な桜井はやることなすこと上手くいかない。
結局のところ、身につけたメソッド(方法論)の違いが効いてくるのだ。
それでも、メソッドが人生の鍵というわけではない。
本作には金持ちが何人も出てくるし、貧乏人も出てくる。カネを巡って争いも起こる。
けれども誰一人として、金があって良かったとか、貧乏だから辛いとは口にしない。
大事なのは、誰と時間を過ごすか、誰と晩ご飯を食べるかだからだ。
そんな人間模様を、当代きっての芸達者である堺雅人さん、香川照之さん、広末涼子さんが演じるのだから、面白くないわけがない。
なのに予告編は、この映画の魅力を正しく伝えていない。予告編にはこんなナレーションが入るのだ。
「笑いと、ハラハラドキドキ、そこには史上最高に爽快でトキメくラストが待っている。」
たしかに笑いもあるし、ハラハラドキドキもするし、最高に爽快でトキメくラストも待っている。
でも、涙するほど感動することも付け加えなければ、本作の魅力を正しく伝えたことにはならないだろう。
『鍵泥棒のメソッド』 [か行]
監督・脚本/内田けんじ
出演/堺雅人 香川照之 広末涼子 荒川良々 森口瑤子 小山田サユリ 木野花 小野武彦
日本公開/2012年9月15日
ジャンル/[ロマンス] [コメディ]
http://bookmarks.yahoo.co.jp/bookmarklet/showpopup?t='+encodeURIComponent(document.title)+'&u='+encodeURIComponent(location.href)+'&ei=UTF-8','_blank','width=550,height=480,left=100,top=50,scrollbars=1,resizable=1',0);">
池袋の名画座・新文芸坐が、観客に呼びかけて投票を募った結果である。
一位を記念して行われた上映会とトークショーにおいて、客席から内田けんじ監督に質問が寄せられた。
「どうしてもっと映画を作らないんですか?」
それを受けて内田監督が、「私もたくさん作りたいと思ってるんです」と苦笑していたのが印象深い。
多くの映画ファンが待っていたであろう『鍵泥棒のメソッド』は、前作『アフタースクール』から実に4年ぶりの新作だ。
そして本作は、4年も待ち続けた甲斐があった。これは何よりも幸せな気持ちになれる映画である。
たびたび紹介しているけれど、私が敬愛する小津安二郎監督は、こんな言葉を残している。
「一口でいえば、見終わったときの後味だね。いくらいい話でも、後味の悪いものは御免だ。我慢して見ても、後味のいいものはいい。」(55.6「シナリオ」)
これぞまさしく本作を表現する言葉だろう。観終わって、こんなに気分良く映画館を後にできることはなかなかない。
そんな本作は、銭湯でロッカーの鍵を入れ替えたために、人生まで入れ替わる二人の男の物語だ。
題名の鍵泥棒とは、直接的にはロッカーの鍵をすり替えて他人の持ち物を失敬する主人公・桜井武史のことである。メソッドとは、役柄になりきって演技するメソッド演技法のことだ。
しかし、もちろん内田けんじ監督はロッカーの鍵ごときを題名にしたわけじゃない。
本作の英題は『Key of Life』。この Key は、 KFS (Key Factor for Success)の Key でもあろう。KFSとは、ものごとを成功させるためにキーとなる要因のことだ。それを見極めて、きちんと押さえておかなければ、他の何を得たところで満足のいく結果は出ない。
本作は、人生の扉を開く鍵――もっとも大事な肝になるもの――それを失っていた男たちが、他人に成り代わり、成り済ますうちに、自分にとって大切な人生の鍵に気がついていく物語だ。
「健康で、努力家の方であれば。」
劇中で広末涼子さん演じる水嶋香苗が、アルバイト募集の際に提示する条件がこれだ。
それはまた、彼女が結婚相手に望む条件でもある。
映画館の客席にいる私たちは、その単純な条件に思わず失笑してしまう。それだけでいいなら、条件に合う人間はいくらでも見つかると、舐めてかかるかもしれない。
だが私たちは、香川照之さん演じるコンドウの努力家ぶりと、堺雅人さん演じる桜井武史のダメさ加減を見るにつけ、「健康で、努力家」と名乗るのがいかに難しいか実感することになる。
少なくとも、私は桜井タイプである。
何かをしようと、まずは参考書を買ってきても、本棚に置いてそれで終わってしまうたちだ。読んでもせいぜい8ページ。
映画を観ながら、そうか自分は努力家じゃなかったんだと、反省することしきりである。
皮肉なことに、立場が入れ替わり、持ち物・財産の一切合財を取り替えても、努力家のコンドウが着実に地歩を固める一方、いい加減な桜井はやることなすこと上手くいかない。
結局のところ、身につけたメソッド(方法論)の違いが効いてくるのだ。
それでも、メソッドが人生の鍵というわけではない。
本作には金持ちが何人も出てくるし、貧乏人も出てくる。カネを巡って争いも起こる。
けれども誰一人として、金があって良かったとか、貧乏だから辛いとは口にしない。
大事なのは、誰と時間を過ごすか、誰と晩ご飯を食べるかだからだ。
そんな人間模様を、当代きっての芸達者である堺雅人さん、香川照之さん、広末涼子さんが演じるのだから、面白くないわけがない。
なのに予告編は、この映画の魅力を正しく伝えていない。予告編にはこんなナレーションが入るのだ。
「笑いと、ハラハラドキドキ、そこには史上最高に爽快でトキメくラストが待っている。」
たしかに笑いもあるし、ハラハラドキドキもするし、最高に爽快でトキメくラストも待っている。
でも、涙するほど感動することも付け加えなければ、本作の魅力を正しく伝えたことにはならないだろう。
![鍵泥棒のメソッド [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/51tyWp8VndL._SL160_.jpg)
監督・脚本/内田けんじ
出演/堺雅人 香川照之 広末涼子 荒川良々 森口瑤子 小山田サユリ 木野花 小野武彦
日本公開/2012年9月15日
ジャンル/[ロマンス] [コメディ]


『踊る大捜査線 THE FINAL 新たなる希望』 もう続けられない理由
そう来たか! シリーズも遂にFINALということで、とっときのネタを出してきたな!
それが『踊る大捜査線 THE FINAL 新たなる希望』を観ての感想だ。
『踊る大捜査線』シリーズは、一貫して組織論を取り上げてきた。組織の硬直化や、現場と上層部の乖離等を繰り返し描き、組織というものの正体と、組織の一員はどう振る舞うべきかを考察してきた。
組織についての悩みは、警察に限らず、誰もが多かれ少なかれ抱くものである。人外境で仙人のような暮らしをするのでなければ、本シリーズの組織論に考えさせられることだろう。
もちろん目的や規模により、組織のあり方は千差万別だ。業種や規模が似ていても、文化が違えば組織も変わる。
似たような業種、規模でありながら、対照的な組織の例として挙げられるのが、たとえば富士通とNECだった。
1935年設立の富士通は、富士電機の通信機器部門が発展した会社である。富士電機は古河電気工業が設立した会社だ。古河電気工業は古河機械金属の電線製造等の部門が発展した会社だ。このように富士通が所属する古河グループは、子会社、孫会社がどんどん大きくなり、親を凌ぐほど成長する。富士通からもファナック等の子会社が誕生し、発展していることはよく知られている。
一方、1899年設立のNECは、特に前身はない中で米国企業との合弁会社としてはじまった。以来、子会社はたくさんできたが主要事業は一貫してNECが手がけており、古河機械金属に劣らぬ長い歴史がありながら、親を凌ぐほど成長した子会社はない。
このような違いから、現場が権限を持って活発に動く富士通の文化を評価する人もいれば、本社が組織を統括するので間違いのないNECの文化を評価する人もいる。
どちらが正解ということではなく、組織の文化やトップの考え方によって、様々な形態があり得るのだ。
そして組織のあり方を端的に問題提起したのが、『踊る大捜査線 THE MOVIE2 レインボーブリッジを封鎖せよ!』(2003年)だった。
この作品では、代表的なピラミッド型組織である警察が、「リーダーは用無し」を標榜するネットワーク型組織の犯人グループに翻弄される。犯人グループはメンバー各位が自由な発想で行動するため、首根っこを押さえようにも首がない。
その予想もつかない行動力を前にして、恩田すみれ巡査部長は「軍隊みたいな私たちが敵うわけない」と漏らしている。
本シリーズの特徴は、現場から乖離した上層部によるトップダウンへの強い批判だ。そのため、目的だけ共有してあとはメンバーが個々に判断する犯人グループこそ、ある種の理想の組織と云える。
だが、『踊る大捜査線 THE MOVIE2 レインボーブリッジを封鎖せよ!』の段階では、映画の作り手はまだピラミッド型の警察組織を全否定はしておらず、青島巡査部長に「リーダーが優秀なら組織も悪くない」と云わせている。
何はともあれピラミッド型組織や上層部を批判できたのは、主人公青島俊作に部下がおらず、組織の末端にいる青島の口を借りて上層部批判ができたからだ。
しかしシリーズ開始から13年を経た『踊る大捜査線 THE MOVIE3 ヤツらを解放せよ!』(2010年)では、さすがに主人公を昇進させないわけにはいかず、青島は強行犯係の係長に就任している。
すると、青島自身が部下に命令したり、部下から突き上げを食らう立場になり、前作までのようにヒエラルキーへの嫌悪を前面に打ち出すのが難しくなった。とはいえ警察が、映画の作り手が理想とするネットワーク型組織に変われるはずもないので、組織人としての青島をどう描くのかジレンマに陥ってしまった。
その解決策として映画三作目で採用したのが、仲間意識を強調することだ。
強行犯係を、上司と部下の立場を超えた一つの仲間として描くことで、単純なピラミッド型組織へのアンチテーゼにしようとしたのだ。
それは2012年9月1日放映のテレビスペシャルドラマ『踊る大捜査線 THE LAST TV サラリーマン刑事と最後の難事件』においてさらに強化され、強行犯係を一つの家族にたとえるほどに至っている。ピラミッド型組織の中でも、係長と部下という上下関係を超えた家族的な繋がりを構築できると主張しているのだ。
けれども、日本最大の暴力団と呼ばれる警察の問題がまさに家族主義にあることは、警察の実態をえぐった『ポチの告白』が知らしめるところである。
組織を家族のように思うことが、身内の問題を表に出すまいとする隠蔽体質を増長し、身内だから大目に見る気持ちが腐敗の温床となる。
そして『踊る大捜査線 THE FINAL 新たなる希望』で私たちが目撃するのは、腐敗にまみれた青島係長の姿である。
間違えて注文した大量のビールを、彼は隠蔽しようとする。部下に命じて隠させているから、組織ぐるみの犯行だ。
上司である真下署長も、やはりビールを隠すように指示を出す。
そして本作のストーリーは、警察上層部による犯罪の隠蔽が中心だ。
ことの大小はあるけれど、間違いを正すのではなく隠蔽しようとする体質が、組織の上から下まで染み付いている様が描かれる。
その動機はただ一つ、我が身の保身である。
世の中には政府や大企業が陰謀を巡らせているかのごとき言説が溢れているが、陰謀なんて手の込んだことを推進するほどの知力・胆力・行動力が政府や企業にあるのなら、この国はまだまだ安泰だろう。
しかし本作が訴えるのは、立派な陰謀を支える人材なんぞどこにもおらず、あるのは、やるべきことをやらない怠慢と、それを正そうとしない腐敗と、その場を取り繕うだけの保身が組織を蝕んでいるということだ。
その皺寄せを受ける組織の末端ですら、末端なりに保身に走る。
このシリーズの常として、本作も規則に縛られることを否定的に描いているが、以前の記事「『踊る大捜査線』 規則を遵守せよ!」でも書いたように、規則を破ってもいいと考えることこそ、やるべきことをやらない怠慢と、それを正そうとしない腐敗と、その場を取り繕うだけの保身に直結する思考である。
このように、本シリーズは二律背反でいっぱいだ。
組織のやり方に反発していた主人公なのに、組織の一員としてそのやり方に染まってしまうこと。
規則に縛られる愚を描きながら、規則を守れない腐敗も描いていること。
このような矛盾は、主な登場人物が下っ端で、腐敗した上司と一線を画しているうちは表面化せずに済んでいたが、彼らが昇進し、腐った役割を担いだすと、途端に目に付いてしまう。
この映画の作り手たちは、残念なことに組織の一員が所属組織の色に染まってしまうことや、主な登場人物といえども腐敗から逃れるなんてあり得ないことを理解しているのだ。
だから、このシリーズはもう限界である。
このまま続けたら、これまで以上に身内の庇い合いや怠慢や腐敗を描かざるを得なくなる。いくらコミカルに演出しようと、これ以上エスカレートしたら気持ちの良い作品にはならないだろう。
そして、組織について考察し続けた本シリーズが、最後に切り込むのは警察機構そのものだ。
もちろんこれまでも警察を取り上げて来たのだが、そこで描かれる問題は警察に限らない普遍性を持っていた。
だが本作では、警察内での押収物の紛失や、警察が管理すべき銃を使用した発砲事件やその隠蔽等、警察特有の犯罪が描かれる上、警察への告発文まで読み上げられる。
『踊る大捜査線』のTVシリーズを書くに当たっては、引退した刑事や警察関係の方に相当取材をしたという。
はたして本作のどこが作り手の空想で、どこが取材で掴んだものか、観客には判らない。けれども最後だからこそ突っ込んできたネタであろうし、本作が事件以外の点では過剰にコミカルなのも、ネタの深刻さを相殺するためだろう。
思えば、警察の不正経理問題が表面化する以前から、本シリーズは警察の不正行為を描いてきた。湾岸署の署長は公費(税金)でゴルフセットを買い、ハワイ旅行を楽しんでいた。それを庇うために、署員は一丸となって隠蔽していた。
そのコミカルな描写を、当時の視聴者はてっきりギャグだと思って、笑いながら見ていたのだが……。
P.S.
例によってクルマのナンバーの遊びも溢れている。今回はテレビスペシャルドラマにも登場する室井さん専用車の「6613(ムロイサン)」が楽しい。
『踊る大捜査線 THE FINAL 新たなる希望』 [あ行]
監督/本広克行 脚本/君塚良一
出演/織田裕二 柳葉敏郎 深津絵里 ユースケ・サンタマリア 小栗旬 伊藤淳史 内田有紀 香取慎吾 小泉孝太郎 北村総一朗 小野武彦 斉藤暁 佐戸井けん太 真矢みき 筧利夫
日本公開/2012年9月7日
ジャンル/[ドラマ] [アクション] [コメディ] [サスペンス]
http://bookmarks.yahoo.co.jp/bookmarklet/showpopup?t='+encodeURIComponent(document.title)+'&u='+encodeURIComponent(location.href)+'&ei=UTF-8','_blank','width=550,height=480,left=100,top=50,scrollbars=1,resizable=1',0);">
それが『踊る大捜査線 THE FINAL 新たなる希望』を観ての感想だ。
『踊る大捜査線』シリーズは、一貫して組織論を取り上げてきた。組織の硬直化や、現場と上層部の乖離等を繰り返し描き、組織というものの正体と、組織の一員はどう振る舞うべきかを考察してきた。
組織についての悩みは、警察に限らず、誰もが多かれ少なかれ抱くものである。人外境で仙人のような暮らしをするのでなければ、本シリーズの組織論に考えさせられることだろう。
もちろん目的や規模により、組織のあり方は千差万別だ。業種や規模が似ていても、文化が違えば組織も変わる。
似たような業種、規模でありながら、対照的な組織の例として挙げられるのが、たとえば富士通とNECだった。
1935年設立の富士通は、富士電機の通信機器部門が発展した会社である。富士電機は古河電気工業が設立した会社だ。古河電気工業は古河機械金属の電線製造等の部門が発展した会社だ。このように富士通が所属する古河グループは、子会社、孫会社がどんどん大きくなり、親を凌ぐほど成長する。富士通からもファナック等の子会社が誕生し、発展していることはよく知られている。
一方、1899年設立のNECは、特に前身はない中で米国企業との合弁会社としてはじまった。以来、子会社はたくさんできたが主要事業は一貫してNECが手がけており、古河機械金属に劣らぬ長い歴史がありながら、親を凌ぐほど成長した子会社はない。
このような違いから、現場が権限を持って活発に動く富士通の文化を評価する人もいれば、本社が組織を統括するので間違いのないNECの文化を評価する人もいる。
どちらが正解ということではなく、組織の文化やトップの考え方によって、様々な形態があり得るのだ。
そして組織のあり方を端的に問題提起したのが、『踊る大捜査線 THE MOVIE2 レインボーブリッジを封鎖せよ!』(2003年)だった。
この作品では、代表的なピラミッド型組織である警察が、「リーダーは用無し」を標榜するネットワーク型組織の犯人グループに翻弄される。犯人グループはメンバー各位が自由な発想で行動するため、首根っこを押さえようにも首がない。
その予想もつかない行動力を前にして、恩田すみれ巡査部長は「軍隊みたいな私たちが敵うわけない」と漏らしている。
本シリーズの特徴は、現場から乖離した上層部によるトップダウンへの強い批判だ。そのため、目的だけ共有してあとはメンバーが個々に判断する犯人グループこそ、ある種の理想の組織と云える。
だが、『踊る大捜査線 THE MOVIE2 レインボーブリッジを封鎖せよ!』の段階では、映画の作り手はまだピラミッド型の警察組織を全否定はしておらず、青島巡査部長に「リーダーが優秀なら組織も悪くない」と云わせている。
何はともあれピラミッド型組織や上層部を批判できたのは、主人公青島俊作に部下がおらず、組織の末端にいる青島の口を借りて上層部批判ができたからだ。
しかしシリーズ開始から13年を経た『踊る大捜査線 THE MOVIE3 ヤツらを解放せよ!』(2010年)では、さすがに主人公を昇進させないわけにはいかず、青島は強行犯係の係長に就任している。
すると、青島自身が部下に命令したり、部下から突き上げを食らう立場になり、前作までのようにヒエラルキーへの嫌悪を前面に打ち出すのが難しくなった。とはいえ警察が、映画の作り手が理想とするネットワーク型組織に変われるはずもないので、組織人としての青島をどう描くのかジレンマに陥ってしまった。
その解決策として映画三作目で採用したのが、仲間意識を強調することだ。
強行犯係を、上司と部下の立場を超えた一つの仲間として描くことで、単純なピラミッド型組織へのアンチテーゼにしようとしたのだ。
それは2012年9月1日放映のテレビスペシャルドラマ『踊る大捜査線 THE LAST TV サラリーマン刑事と最後の難事件』においてさらに強化され、強行犯係を一つの家族にたとえるほどに至っている。ピラミッド型組織の中でも、係長と部下という上下関係を超えた家族的な繋がりを構築できると主張しているのだ。
けれども、日本最大の暴力団と呼ばれる警察の問題がまさに家族主義にあることは、警察の実態をえぐった『ポチの告白』が知らしめるところである。
組織を家族のように思うことが、身内の問題を表に出すまいとする隠蔽体質を増長し、身内だから大目に見る気持ちが腐敗の温床となる。
そして『踊る大捜査線 THE FINAL 新たなる希望』で私たちが目撃するのは、腐敗にまみれた青島係長の姿である。
間違えて注文した大量のビールを、彼は隠蔽しようとする。部下に命じて隠させているから、組織ぐるみの犯行だ。
上司である真下署長も、やはりビールを隠すように指示を出す。
そして本作のストーリーは、警察上層部による犯罪の隠蔽が中心だ。
ことの大小はあるけれど、間違いを正すのではなく隠蔽しようとする体質が、組織の上から下まで染み付いている様が描かれる。
その動機はただ一つ、我が身の保身である。
世の中には政府や大企業が陰謀を巡らせているかのごとき言説が溢れているが、陰謀なんて手の込んだことを推進するほどの知力・胆力・行動力が政府や企業にあるのなら、この国はまだまだ安泰だろう。
しかし本作が訴えるのは、立派な陰謀を支える人材なんぞどこにもおらず、あるのは、やるべきことをやらない怠慢と、それを正そうとしない腐敗と、その場を取り繕うだけの保身が組織を蝕んでいるということだ。
その皺寄せを受ける組織の末端ですら、末端なりに保身に走る。
このシリーズの常として、本作も規則に縛られることを否定的に描いているが、以前の記事「『踊る大捜査線』 規則を遵守せよ!」でも書いたように、規則を破ってもいいと考えることこそ、やるべきことをやらない怠慢と、それを正そうとしない腐敗と、その場を取り繕うだけの保身に直結する思考である。
このように、本シリーズは二律背反でいっぱいだ。
組織のやり方に反発していた主人公なのに、組織の一員としてそのやり方に染まってしまうこと。
規則に縛られる愚を描きながら、規則を守れない腐敗も描いていること。
このような矛盾は、主な登場人物が下っ端で、腐敗した上司と一線を画しているうちは表面化せずに済んでいたが、彼らが昇進し、腐った役割を担いだすと、途端に目に付いてしまう。
この映画の作り手たちは、残念なことに組織の一員が所属組織の色に染まってしまうことや、主な登場人物といえども腐敗から逃れるなんてあり得ないことを理解しているのだ。
だから、このシリーズはもう限界である。
このまま続けたら、これまで以上に身内の庇い合いや怠慢や腐敗を描かざるを得なくなる。いくらコミカルに演出しようと、これ以上エスカレートしたら気持ちの良い作品にはならないだろう。
そして、組織について考察し続けた本シリーズが、最後に切り込むのは警察機構そのものだ。
もちろんこれまでも警察を取り上げて来たのだが、そこで描かれる問題は警察に限らない普遍性を持っていた。
だが本作では、警察内での押収物の紛失や、警察が管理すべき銃を使用した発砲事件やその隠蔽等、警察特有の犯罪が描かれる上、警察への告発文まで読み上げられる。
『踊る大捜査線』のTVシリーズを書くに当たっては、引退した刑事や警察関係の方に相当取材をしたという。
はたして本作のどこが作り手の空想で、どこが取材で掴んだものか、観客には判らない。けれども最後だからこそ突っ込んできたネタであろうし、本作が事件以外の点では過剰にコミカルなのも、ネタの深刻さを相殺するためだろう。
思えば、警察の不正経理問題が表面化する以前から、本シリーズは警察の不正行為を描いてきた。湾岸署の署長は公費(税金)でゴルフセットを買い、ハワイ旅行を楽しんでいた。それを庇うために、署員は一丸となって隠蔽していた。
そのコミカルな描写を、当時の視聴者はてっきりギャグだと思って、笑いながら見ていたのだが……。
P.S.
例によってクルマのナンバーの遊びも溢れている。今回はテレビスペシャルドラマにも登場する室井さん専用車の「6613(ムロイサン)」が楽しい。
![踊る大捜査線 THE FINAL 新たなる希望 FINAL SET [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/41FLxLhQ0UL._SL160_.jpg)
監督/本広克行 脚本/君塚良一
出演/織田裕二 柳葉敏郎 深津絵里 ユースケ・サンタマリア 小栗旬 伊藤淳史 内田有紀 香取慎吾 小泉孝太郎 北村総一朗 小野武彦 斉藤暁 佐戸井けん太 真矢みき 筧利夫
日本公開/2012年9月7日
ジャンル/[ドラマ] [アクション] [コメディ] [サスペンス]


- 関連記事
-
- 『踊る大捜査線 THE FINAL 新たなる希望』 もう続けられない理由 (2012/09/09)
- 『踊る大捜査線』 規則を遵守せよ! (2010/07/05)
『映画 ひみつのアッコちゃん』の4つの論点
綾瀬はるかさん主演で『ひみつのアッコちゃん』を映画するという報に接したとき、これは一本取られたと思った。もちろん制作は日本テレビのはずだ。
だからその面白さが保証つきなのは判っていたが、よもやここまで素晴らしい作品になっているとは想像だにしなかった。
2012年時点での綾瀬はるかさんの代表作といえば、それはテレビドラマ『ホタルノヒカリ』だろう。日本テレビ系列で放映されたこのドラマは、彼女にとって初の連続ドラマ単独主演作であり、続編や映画版も作られるほど高い人気を得た。
このドラマの魅力は、何といっても綾瀬はるかさんの愉快な演技だ。干物女と呼ばれるほど色気のない主人公の無邪気でふざけた行動は、視聴者を大笑いさせ、演じた綾瀬はるかさんへの好感度をグンと高めたはずだ。関係者としては、とうぜん同じ路線の作品を投入したいところだろう。
だが、当年とって27歳の綾瀬はるかさんが演じられる役で、干物女のホタルを超える強烈なキャラクターはなかなかあるものではない。
そこで、『映画 ひみつのアッコちゃん』だ。
立派な成人女性なのに、ホタルを凌ぐほど色気がなくて無邪気でふざけたキャラクターとくれば、体は大人でも心は小学生のアッコちゃん以上のものがあるだろうか。
綾瀬はるかさんにとってアッコちゃんは、『ホタルノヒカリ』で成功した路線をさらに推し進めたものと云えるだろう。
とはいえ、本作は綾瀬はるかさんの人気に当て込んだだけの映画ではない。
公式サイトによれば、山口雅俊プロデューサーが本作を企画したのは10年以上前だという。
それだけの時間をかけて準備してきた本作は、企画、演出、演者等の魅力が有機的に結合し、類稀なる輝きを放っている。私は大いに笑い、楽しみ、そして滂沱の涙を流した。隣り合わせた小学生の女の子に怪しまれそうなほどに。
本作の魅力は多岐に及び、とてもすべては書き切れないので、本稿では次の点に絞って取り上げよう。
1. 実写化が難しい魔法少女の変身譚
2. サラリーマン喜劇に学ぶ世の中の仕組み
3. 学級会に学ぶ民主制
4. 恋愛物の王道としてのアッコちゃん
■1. 実写化が難しい魔法少女の変身譚
魔法のコンパクトを使って様々な職業人に変身する『ひみつのアッコちゃん』が過去に三度もアニメ化され、さらには同趣向の『魔法のプリンセス ミンキーモモ』や『魔法の妖精ペルシャ』等が作られてきたことからすると、少女が大人に(しかも職業人に)変身する物語は、女の子にとって普遍的な魅力があるのだろう。
特に株式会社クラレが調査した『2012年版 新小学1年生の「将来就きたい職業」、親の「就かせたい職業」』によれば、男の子が将来就きたい職業にTV・アニメキャラクター(仮面ライダーとか戦隊ヒーローとか)が上位に食い込むのに対し、女の子が上位に挙げるのはどれも真っ当な職業である。
女の子の方が大人になることや働くことをきちんと認識しているのだろう(男の子はバカすぎて、少年が働くおじさんに変身するアニメを楽しめないのかもしれない)。
ところがこれほどアニメでは、「大人に変身する少女」に人気があるのに、寡聞にして実写での成功例はちょっと思い浮かばない。
その理由は多々あるだろうが、一つには作品に説得力をもたせるのが難しいことが挙げられよう。
まず、「大人に変身する少女」を演じられる女優がいない。
主人公を一人で演じようとしたら、少女に見えて大人にも見えて、様々な職業も演じられる女優がいなければならない。けれども相応の演技力を備えた女優が、いつまでも少女の外見でいるはずがないし、逆に若々しい女優を主演に迎えても演技力が付いてこない。
かつて実写ドラマ『クルクルくりん』が人気絶頂のアイドル岩井小百合の主演で制作され、原作を大幅にアレンジして「様々な職業人に変身する少女」物を目指したが、残念ながら今ではそんな作品があったことさえ忘れ去られているようだ。
大人が様々な職業に変身する『CUTIE HONEY キューティーハニー』ですら、佐藤江梨子という女優にたどり着くまで何年もかかっている。
あるいは「大人に変身する少女」を実現する策として、主人公を二人一役にし、少女役の女優と大人役の女優を配することも考えられよう。これなら少女から大人への外見の変化は表現できるけれど、精神年齢の問題が残る。
「大人に変身する少女」物を支持する女の子たちは、変身した主人公が世間知らずで失敗することなんて望んでいない。
過去のアニメ作品では、変身後の主人公はその職業のスペシャリストとして活躍した。何の学習も訓練も経ずにスペシャリストになるなんて嘘は、アニメなら通用するかもしれないが、現実の肉体を持った人間が演じるとキャラクターの一貫性のなさが露呈してしまい、子供と大人が別人にしか思えないだろう。
キャラクターの一貫性を保つためには、変身しても大人顔負けの知識や技量を発揮したりせず、内面は子供のままの主人公にするのも一つの方策である。
だが、大人の女優が子供並みの知識と精神で振る舞ったら、観客はバカバカしくて付き合いきれない。
よほど主演女優の子供のような振る舞いに説得力があり、観客が突き放さずに親しみを覚えるようでなければ成り立たないのだ。
そして1962年の『ひみつのアッコちゃん』のマンガ連載から半世紀経った2012年、遂に「少女が変身した大人」を演じられる女優が出現した。
川村泰祐監督は断言している。「日本広しといえど、アッコちゃんを演じられるのは綾瀬さんだけだ」
綾瀬はるかという逸材を得ることで、『映画 ひみつのアッコちゃん』は誕生したのだ。
■2. サラリーマン喜劇に学ぶ世の中の仕組み
本作をご覧になった方はお判りのように、『映画 ひみつのアッコちゃん』は大人向けの映画である。
原作は少女マンガだし、三度のアニメ化も子供をターゲットにしていたから、本作を少女向けの作品と思う人も多いだろう。それはそれで間違いじゃないし、劇場に詰めかけた少女たちもきっと楽しい時間を過ごしたはずだ。
だが『ホタルノヒカリ』の主人公が、どんなにおバカなことをしていてもその裏では職業人としての誇りや頑張りで一本筋を通していたように、『映画 ひみつのアッコちゃん』も単なるドタバタを描くのではなく、小学生の女の子と大人たちが相対することで引き起こされる気づきと風刺が主題になっている。
川村泰祐監督は、本作を大人向けに作ったと語っており、「大人が子どもを見て振り返らなきゃいけないということが、映画のテーマ」であると述べている。
10年以上この企画を温めてきた山口雅俊プロデューサーも、本作の意味を次のように語る。
「ひとりの女の子が、岐路に立ち迷っている大人たちの社会に対して、小学生ならではの問いかけをする。それが現代の日本にアッコちゃんをよみがえらせる意味なんじゃないかと、10年以上前にこの企画が頭に浮かんだときからずっと考えていました。子供が大人の世界に飛び込むことで、大人の側にも子供の側にも、見えてくることがある。」
乗っ取り騒ぎに揺れる会社に、常識外れの主人公が飛び込んで引っかき回す本作は、まるで『ニッポン無責任時代』等のサラリーマン喜劇を彷彿とさせる。社内の常識に囚われない主人公が型破りな行動をしているうちに、周りの人々が忘れていたことに気づきはじめる様は、痛快であるとともに考えさせられる。
また、企業買収そのものは悪いことではないが、会社役員と結託した外部勢力による乗っ取りに社員が一丸となって抵抗する話は、2008年の春日電機の件のように現実に起こり得ることであり、勤め人の多くにとって他人事ではない。
ただ、この手の作品では、あまりに主人公の型破りさを強調すると単なる非常識な人間に見えてしまい、観客に好感を持たれないおそれがある。
けれども本作の主人公は小学生だから、いくら型破りでも、大人の常識が通じなくても、一向に構わない。誰もがフィクションとして面白がれるわけで、なかなか巧い設定である。
■3. 学級会に学ぶ民主制
本作において特に私たちが身につまされるのは、株主総会のシークエンスだ。
議論が紛糾し、けんけんごうごうとするばかりで話が進まない株主総会を、日本の国政のように感じた人も多いだろう。本来、株主総会は会社の所有者たる株主が会社の方針等を決定する場だから、必要な数の議決権さえ集まれば、話し合いに時間をかける必要はない。
しかしここで問われているのは、私たちは話し合いで複数の意見を調整することができるのか、という切実な問題である。
與那覇潤氏は『危機に立つ日本型民主主義―西洋化か中国化か』と題した会見において、日本人が熟議や妥協というよりも相互の中傷非難合戦としてしか政党政治を運営できなかったこと、その結果ようやく実現した二大政党制に早くも飽きつつあることを指摘している。
西洋の議会制民主主義(民主制)を輸入してから1世紀以上の歴史を有し、二大政党制による政権交代まで実現していながら、私たちはなんと討議を重ねて結論を出すことが下手なのだろう。
そんな大人たちに、アッコちゃんは「人の意見は最後まで聞きましょう、って習わなかったんですか!」と一喝する。
なるほど私たちは小中学校の学級会で、話し合いにより合意形成することを学んできた。それは民主制のトレーニングでもあったはずだが、そのトレーニングの成果はいかばかりか。
現在の何も決まらない行政にうんざりし、「民主制の時代は終わった」という意見もあるが、そう云う前に、そもそも私たちは本当に民主制を実践できているのかを、アッコちゃんに問われているのだ。
■4. 恋愛物の王道としてのアッコちゃん
本作はいくつもの面から読み解けるが、恋愛物としてもたいへん面白い作品である。
往々にして恋愛物は、障害が大きいほど面白い。本作では10歳のアッコちゃんが魔法の力で22歳に変身し、27歳の青年に恋をするという歳の差が障害になっている。成人同士ならいざしらず、10歳と27歳では結ばれるはずもない。
青年は優れた発明家であり、その発明で会社を発展させようとしていたが、会社乗っとりの陰謀に巻き込まれてしまう。発明を生かせずに不遇をかこっていた彼の味方になってくれたのは、年端もいかぬ少女と猫だった……。
このプロットに、ピンと来る方も多いだろう。
これは『映画 ひみつのアッコちゃん』のプロットだが、多くの方が思い浮かべるのは、日本のSFファンがオールタイム・ベスト1に挙げる名作中の名作、ロバート・A・ハインラインの『夏への扉』ではないだろうか。
アッコちゃんと青年との恋は、読めば誰もが猫好きになるというあの素晴らしい小説を彷彿とさせるのだ。
もちろん『映画 ひみつのアッコちゃん』が『夏への扉』を真似たわけではなく、これは別々に進化した生物が同じ特徴を備えてしまう収斂進化のようなものだろう。
『夏への扉』の場合はSF的アイデアで見事に物語が収束していくのだが、さて魔法で変身していることを口外できないアッコちゃんの恋は、どのように着地するのか。『夏への扉』に感動された御仁であれば、アッコちゃんを応援せずにはいられないだろう。
なんといっても、経験豊富な男性と、世間知らずで不器用で若い女性が恋をするのは、恋愛物の王道なのだ。本作はそれを最大限に強調した作品である。
さて、超マンガファンを自認する川村泰祐監督は、今回の映画化に当たってテレビアニメと原作マンガの両方を勉強したそうだ。鏡の精を原作のような男性にする一方、アニメにあった鏡の墓を取り入れているのは、原作に近づけた上でアニメのいいところを散りばめた結果だという。
ところが不思議なことに、原作でもアニメでもアッコちゃんの飼い猫シッポナは白かったのに、本作ではロシアンブルーとおぼしきブルーグレーの猫になっている。
テレビアニメと原作マンガを勉強した川村泰祐監督としたことが、どうしたというのだろう。
その理由はいずれ川村監督が明かしてくれるだろうが、『夏への扉』の表紙絵を見ている私としては、白猫でないことに納得している。
『映画 ひみつのアッコちゃん』 [あ行]
監督/川村泰祐 脚本・制作・企画・企画プロデュース/山口雅俊
脚本/大森美香、福間正浩
出演/綾瀬はるか 岡田将生 谷原章介 吹石一恵 塚地武雅 大杉漣 鹿賀丈史 香川照之 もたいまさこ 吉田里琴
日本公開/2012年9月1日
ジャンル/[コメディ] [ロマンス] [ファンタジー]
http://bookmarks.yahoo.co.jp/bookmarklet/showpopup?t='+encodeURIComponent(document.title)+'&u='+encodeURIComponent(location.href)+'&ei=UTF-8','_blank','width=550,height=480,left=100,top=50,scrollbars=1,resizable=1',0);">
だからその面白さが保証つきなのは判っていたが、よもやここまで素晴らしい作品になっているとは想像だにしなかった。
2012年時点での綾瀬はるかさんの代表作といえば、それはテレビドラマ『ホタルノヒカリ』だろう。日本テレビ系列で放映されたこのドラマは、彼女にとって初の連続ドラマ単独主演作であり、続編や映画版も作られるほど高い人気を得た。
このドラマの魅力は、何といっても綾瀬はるかさんの愉快な演技だ。干物女と呼ばれるほど色気のない主人公の無邪気でふざけた行動は、視聴者を大笑いさせ、演じた綾瀬はるかさんへの好感度をグンと高めたはずだ。関係者としては、とうぜん同じ路線の作品を投入したいところだろう。
だが、当年とって27歳の綾瀬はるかさんが演じられる役で、干物女のホタルを超える強烈なキャラクターはなかなかあるものではない。
そこで、『映画 ひみつのアッコちゃん』だ。
立派な成人女性なのに、ホタルを凌ぐほど色気がなくて無邪気でふざけたキャラクターとくれば、体は大人でも心は小学生のアッコちゃん以上のものがあるだろうか。
綾瀬はるかさんにとってアッコちゃんは、『ホタルノヒカリ』で成功した路線をさらに推し進めたものと云えるだろう。
とはいえ、本作は綾瀬はるかさんの人気に当て込んだだけの映画ではない。
公式サイトによれば、山口雅俊プロデューサーが本作を企画したのは10年以上前だという。
それだけの時間をかけて準備してきた本作は、企画、演出、演者等の魅力が有機的に結合し、類稀なる輝きを放っている。私は大いに笑い、楽しみ、そして滂沱の涙を流した。隣り合わせた小学生の女の子に怪しまれそうなほどに。
本作の魅力は多岐に及び、とてもすべては書き切れないので、本稿では次の点に絞って取り上げよう。
1. 実写化が難しい魔法少女の変身譚
2. サラリーマン喜劇に学ぶ世の中の仕組み
3. 学級会に学ぶ民主制
4. 恋愛物の王道としてのアッコちゃん
■1. 実写化が難しい魔法少女の変身譚
魔法のコンパクトを使って様々な職業人に変身する『ひみつのアッコちゃん』が過去に三度もアニメ化され、さらには同趣向の『魔法のプリンセス ミンキーモモ』や『魔法の妖精ペルシャ』等が作られてきたことからすると、少女が大人に(しかも職業人に)変身する物語は、女の子にとって普遍的な魅力があるのだろう。
特に株式会社クラレが調査した『2012年版 新小学1年生の「将来就きたい職業」、親の「就かせたい職業」』によれば、男の子が将来就きたい職業にTV・アニメキャラクター(仮面ライダーとか戦隊ヒーローとか)が上位に食い込むのに対し、女の子が上位に挙げるのはどれも真っ当な職業である。
女の子の方が大人になることや働くことをきちんと認識しているのだろう(男の子はバカすぎて、少年が働くおじさんに変身するアニメを楽しめないのかもしれない)。
ところがこれほどアニメでは、「大人に変身する少女」に人気があるのに、寡聞にして実写での成功例はちょっと思い浮かばない。
その理由は多々あるだろうが、一つには作品に説得力をもたせるのが難しいことが挙げられよう。
まず、「大人に変身する少女」を演じられる女優がいない。
主人公を一人で演じようとしたら、少女に見えて大人にも見えて、様々な職業も演じられる女優がいなければならない。けれども相応の演技力を備えた女優が、いつまでも少女の外見でいるはずがないし、逆に若々しい女優を主演に迎えても演技力が付いてこない。
かつて実写ドラマ『クルクルくりん』が人気絶頂のアイドル岩井小百合の主演で制作され、原作を大幅にアレンジして「様々な職業人に変身する少女」物を目指したが、残念ながら今ではそんな作品があったことさえ忘れ去られているようだ。
大人が様々な職業に変身する『CUTIE HONEY キューティーハニー』ですら、佐藤江梨子という女優にたどり着くまで何年もかかっている。
あるいは「大人に変身する少女」を実現する策として、主人公を二人一役にし、少女役の女優と大人役の女優を配することも考えられよう。これなら少女から大人への外見の変化は表現できるけれど、精神年齢の問題が残る。
「大人に変身する少女」物を支持する女の子たちは、変身した主人公が世間知らずで失敗することなんて望んでいない。
過去のアニメ作品では、変身後の主人公はその職業のスペシャリストとして活躍した。何の学習も訓練も経ずにスペシャリストになるなんて嘘は、アニメなら通用するかもしれないが、現実の肉体を持った人間が演じるとキャラクターの一貫性のなさが露呈してしまい、子供と大人が別人にしか思えないだろう。
キャラクターの一貫性を保つためには、変身しても大人顔負けの知識や技量を発揮したりせず、内面は子供のままの主人公にするのも一つの方策である。
だが、大人の女優が子供並みの知識と精神で振る舞ったら、観客はバカバカしくて付き合いきれない。
よほど主演女優の子供のような振る舞いに説得力があり、観客が突き放さずに親しみを覚えるようでなければ成り立たないのだ。
そして1962年の『ひみつのアッコちゃん』のマンガ連載から半世紀経った2012年、遂に「少女が変身した大人」を演じられる女優が出現した。
川村泰祐監督は断言している。「日本広しといえど、アッコちゃんを演じられるのは綾瀬さんだけだ」
綾瀬はるかという逸材を得ることで、『映画 ひみつのアッコちゃん』は誕生したのだ。
■2. サラリーマン喜劇に学ぶ世の中の仕組み
本作をご覧になった方はお判りのように、『映画 ひみつのアッコちゃん』は大人向けの映画である。
原作は少女マンガだし、三度のアニメ化も子供をターゲットにしていたから、本作を少女向けの作品と思う人も多いだろう。それはそれで間違いじゃないし、劇場に詰めかけた少女たちもきっと楽しい時間を過ごしたはずだ。
だが『ホタルノヒカリ』の主人公が、どんなにおバカなことをしていてもその裏では職業人としての誇りや頑張りで一本筋を通していたように、『映画 ひみつのアッコちゃん』も単なるドタバタを描くのではなく、小学生の女の子と大人たちが相対することで引き起こされる気づきと風刺が主題になっている。
川村泰祐監督は、本作を大人向けに作ったと語っており、「大人が子どもを見て振り返らなきゃいけないということが、映画のテーマ」であると述べている。
10年以上この企画を温めてきた山口雅俊プロデューサーも、本作の意味を次のように語る。
「ひとりの女の子が、岐路に立ち迷っている大人たちの社会に対して、小学生ならではの問いかけをする。それが現代の日本にアッコちゃんをよみがえらせる意味なんじゃないかと、10年以上前にこの企画が頭に浮かんだときからずっと考えていました。子供が大人の世界に飛び込むことで、大人の側にも子供の側にも、見えてくることがある。」
乗っ取り騒ぎに揺れる会社に、常識外れの主人公が飛び込んで引っかき回す本作は、まるで『ニッポン無責任時代』等のサラリーマン喜劇を彷彿とさせる。社内の常識に囚われない主人公が型破りな行動をしているうちに、周りの人々が忘れていたことに気づきはじめる様は、痛快であるとともに考えさせられる。
また、企業買収そのものは悪いことではないが、会社役員と結託した外部勢力による乗っ取りに社員が一丸となって抵抗する話は、2008年の春日電機の件のように現実に起こり得ることであり、勤め人の多くにとって他人事ではない。
ただ、この手の作品では、あまりに主人公の型破りさを強調すると単なる非常識な人間に見えてしまい、観客に好感を持たれないおそれがある。
けれども本作の主人公は小学生だから、いくら型破りでも、大人の常識が通じなくても、一向に構わない。誰もがフィクションとして面白がれるわけで、なかなか巧い設定である。
■3. 学級会に学ぶ民主制
本作において特に私たちが身につまされるのは、株主総会のシークエンスだ。
議論が紛糾し、けんけんごうごうとするばかりで話が進まない株主総会を、日本の国政のように感じた人も多いだろう。本来、株主総会は会社の所有者たる株主が会社の方針等を決定する場だから、必要な数の議決権さえ集まれば、話し合いに時間をかける必要はない。
しかしここで問われているのは、私たちは話し合いで複数の意見を調整することができるのか、という切実な問題である。
與那覇潤氏は『危機に立つ日本型民主主義―西洋化か中国化か』と題した会見において、日本人が熟議や妥協というよりも相互の中傷非難合戦としてしか政党政治を運営できなかったこと、その結果ようやく実現した二大政党制に早くも飽きつつあることを指摘している。
西洋の議会制民主主義(民主制)を輸入してから1世紀以上の歴史を有し、二大政党制による政権交代まで実現していながら、私たちはなんと討議を重ねて結論を出すことが下手なのだろう。
そんな大人たちに、アッコちゃんは「人の意見は最後まで聞きましょう、って習わなかったんですか!」と一喝する。
なるほど私たちは小中学校の学級会で、話し合いにより合意形成することを学んできた。それは民主制のトレーニングでもあったはずだが、そのトレーニングの成果はいかばかりか。
現在の何も決まらない行政にうんざりし、「民主制の時代は終わった」という意見もあるが、そう云う前に、そもそも私たちは本当に民主制を実践できているのかを、アッコちゃんに問われているのだ。
■4. 恋愛物の王道としてのアッコちゃん
本作はいくつもの面から読み解けるが、恋愛物としてもたいへん面白い作品である。
往々にして恋愛物は、障害が大きいほど面白い。本作では10歳のアッコちゃんが魔法の力で22歳に変身し、27歳の青年に恋をするという歳の差が障害になっている。成人同士ならいざしらず、10歳と27歳では結ばれるはずもない。
青年は優れた発明家であり、その発明で会社を発展させようとしていたが、会社乗っとりの陰謀に巻き込まれてしまう。発明を生かせずに不遇をかこっていた彼の味方になってくれたのは、年端もいかぬ少女と猫だった……。
![夏への扉[新訳版]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/41i94BLdluL._SL160_.jpg)
これは『映画 ひみつのアッコちゃん』のプロットだが、多くの方が思い浮かべるのは、日本のSFファンがオールタイム・ベスト1に挙げる名作中の名作、ロバート・A・ハインラインの『夏への扉』ではないだろうか。
アッコちゃんと青年との恋は、読めば誰もが猫好きになるというあの素晴らしい小説を彷彿とさせるのだ。
もちろん『映画 ひみつのアッコちゃん』が『夏への扉』を真似たわけではなく、これは別々に進化した生物が同じ特徴を備えてしまう収斂進化のようなものだろう。
『夏への扉』の場合はSF的アイデアで見事に物語が収束していくのだが、さて魔法で変身していることを口外できないアッコちゃんの恋は、どのように着地するのか。『夏への扉』に感動された御仁であれば、アッコちゃんを応援せずにはいられないだろう。
なんといっても、経験豊富な男性と、世間知らずで不器用で若い女性が恋をするのは、恋愛物の王道なのだ。本作はそれを最大限に強調した作品である。
さて、超マンガファンを自認する川村泰祐監督は、今回の映画化に当たってテレビアニメと原作マンガの両方を勉強したそうだ。鏡の精を原作のような男性にする一方、アニメにあった鏡の墓を取り入れているのは、原作に近づけた上でアニメのいいところを散りばめた結果だという。
ところが不思議なことに、原作でもアニメでもアッコちゃんの飼い猫シッポナは白かったのに、本作ではロシアンブルーとおぼしきブルーグレーの猫になっている。
テレビアニメと原作マンガを勉強した川村泰祐監督としたことが、どうしたというのだろう。
その理由はいずれ川村監督が明かしてくれるだろうが、『夏への扉』の表紙絵を見ている私としては、白猫でないことに納得している。
![映画 ひみつのアッコちゃん(本編BD1枚+特典DVD1枚) [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/51U8ciALjML._SL160_.jpg)
監督/川村泰祐 脚本・制作・企画・企画プロデュース/山口雅俊
脚本/大森美香、福間正浩
出演/綾瀬はるか 岡田将生 谷原章介 吹石一恵 塚地武雅 大杉漣 鹿賀丈史 香川照之 もたいまさこ 吉田里琴
日本公開/2012年9月1日
ジャンル/[コメディ] [ロマンス] [ファンタジー]

