『闇金ウシジマくん』は現代の仕事人だ!
『闇金ウシジマくん』の映画版は、テレビシリーズのような手加減はしておらず、情け容赦がない。
テレビドラマでは、違法な闇金業者を主人公にして厳しい借金の取り立てを描くことに、眉をひそめる視聴者がいると配慮したのだろう。片瀬那奈さん演じる大久保千秋なるオリジナルのキャラクターが登場し、丑嶋(うしじま)率いるカウカウファイナンスの社員の身でありながら、その業態を疑問視した。千秋は、作品と視聴者との緩衝材の役割を果たしたのだ。
しかし映画となれば、そんな温い配慮は必要ない。
大久保千秋はすでにカウカウファイナンスを退職しており、残った社員は一丸となって闇金融に精を出している。
『闇金ウシジマくん』の面白さは、なんといってもその徹底した取り立てである。
返済額が足りなければ、たとえ1000円でも容赦はしない。債務者に部屋中の小銭をかき集めさせ、まだ足りなければ隣近所や道行く人に土下座させてでも1000円ばかしを持って来させる。
この映画を観ながら、私は闇金融とはまったく関係のないSFを思い出していた。私たちの住む世界が、まるでSF小説の中のようだと感じたからだ。
E・E・スミスが著したレンズマンシリーズは、SF小説の金字塔としてつとに有名だ。E・E・スミスは奔放なイマジネーションを駆使してはるかな未来の遠い宇宙の物語を描いており、その空想の翼は通貨にも及んでいる。
それがcredit――小隅黎氏の訳では「クレジット」、小西宏氏の訳では「信用単位」と表記される通貨だ。現代日本の丑嶋が取り立てるカネは円単位だが、レンズマンシリーズでは「クレジット」単位で通貨が流通している。
通貨の単位が「クレジット」と云われても、すぐにはピンと来ないだろう。しかし、これはレンズマンシリーズが執筆された時代背景を考えてみればよく判る。
E・E・スミスが長い準備期間を経てレンズマンシリーズの第一作『銀河パトロール隊』を発表したのは1937年だ。1929年にはじまった世界恐慌のために各国の経済が大揺れに揺れ、第二次世界大戦が近づいていた頃である。
世界恐慌で大きな影響を受けたものの一つに、金本位制がある。
かつては高価な貨幣として金貨が使われていたけれど、市場に流通する貨幣をまかないきるだけの金貨を鋳造するには、莫大な金塊が必要になる。そこで各国は、金そのものを貨幣にして流通させるのではなく、金と交換可能な印刷物を作り、これを貨幣の代わりに流通させた。すなわち紙幣(兌換紙幣)である。紙幣に「1000円」と書かれていれば、1000円分の金貨と交換できるのだ。
このように金に裏付けられた貨幣制度が金本位制だ。
だが、世界恐慌の荒波を受けると、金の有無とは関係なしに通貨を発行する国が現れた。1931年にイギリスが金本位制を放棄したのを皮切りに、金本位制を放棄する国が相次いだのである。
この様子を見ていたE・E・スミスは、全世界で、金がなくても通貨が成り立つ未来を思い描いた。その通貨が「クレジット」である。
こんにち、クレジットと云われればクレジットカードによる買い物を思い浮かべる人が多いだろう。つまり信用販売だ。
E・E・スミスの空想もそれに近い。その未来社会では、紙に「1000クレジット」と書かれていれば、金と交換できない紙切れでも1000クレジット分の物を買うことができる。紙はあくまで紙でしかないのに、人々は書かれた数字どおりの価値があると信用して、品物を渡してしまうのだ。これがE・E・スミスの空想した未来の買い物だ。
ところが、私たちはすでにそんな世界を実現している。
金本位制は1971年に完全に停止され、私たちは金額を印刷した紙切れを貨幣として使っている。紙に「1000円」と印刷してあれば、その紙には1000円分の価値があるという「お約束」になっている。それどころかおサイフケータイに代表されるように、私たちは紙がなくてもICチップやコンピュータ間を行き来する数値データだけで買い物ができるようになった。
人々は、目に見えて手で触れる金貨がなくても、紙やコンピュータ上の数字の価値を信じることにしたのだ。E・E・スミスは、金がないのに紙上の数字を信用する世界は遠い未来のことと夢想したが、私たちはそれを20世紀中に実現した。
そもそも貨幣の最古の形態は、借金の証文だったという。それは「信用している」とか「恩がある」という人間関係を示していたのだ。
証文があるなら、そこに書かれたものを返す約束が存在している。証文を突きつければ、そこに書かれたものは手元に戻ってくるはずだ。約束を守る、約束を信用するというお互いの信頼関係がなければ、貸し借りは成立しない。
E・E・スミスが未来の通貨の単位を「クレジット」にしたのも、このような思いがあったからだろう。creditという語には、「信用」「信頼」「名誉」「名声」等の意味がある。
貸したものを返さなければ、信用は失墜し、名誉は損なわれる。
これらを考えれば、丑嶋が金額にかかわらず借金を厳しく取り立てる理由が判るだろう。
彼はカネを集めようとしているのではない。貸し借りの本質に立ち返り、約束を守らせることで人と人との「信用」を維持しようとしているのだ。
彼が課す金利は出資法の上限を越えている。だから彼のビジネスは現行法の下では違法であり、闇金融と呼ばれてしまう。
しかし本作を見ればお判りのとおり、彼は至って紳士的だ。カネを貸す前にきちんと金利を説明するし、はじめての客には10万円しか貸さずに返済能力を確かめる。返せそうもない人間に無理に貸し付けて、後から引っぱがすわけではない。
だからカウカウファイナンスからカネを借りるのは、借り手も合意の上である。お互いを信頼し、期日と返済条件について約束を取り交わすのだ。
約束を守っている限り、丑嶋は手荒なことはしない。だが、ひとたび「信用」を裏切れば、丑嶋は容赦ない。
とりわけ彼の取り立てで面白いのは、債務者から知人に連絡を入れさせることだ。取り立ての場に同席した者や、近所の住人や、電話の繋がる友人知人に連絡させて、返済金を用立てさせる。ここでのポイントは、全額が揃わなくて一部だけの回収にとどまっても、勘弁してやることだ。
これは丑嶋の目的がカネの回収ではなく、「信用」を見ることにあるからだ。
カウカウファイナンスに借金しにくる者は、もうすべての知人からカネを借りまくり、踏み倒しまくって、にっちもさっちもいかなくなった人間なのだ。それでも少しでも用立てようとする者が現れるなら、その債務者はまだ信用を完全に失ってはいない。信頼で結ばれた者がいるのなら、その債務者を制裁するには及ばない。
けれども、誰も債務者に手を差し伸べようとしないなら、債務者は周りのすべての信用を踏みにじった人間ということだ。人と人との信頼がなくてもいいと思っている人間なのだ。
裏稼業の人間が、人の世の「信用」を裏切る者を制裁する物語――それは現代の必殺仕事人と呼んでも良かろう。
カウカウファイナンスのメンバーが債務者をとっちめるシーンが痛快なのは、必殺仕事人の仕事に通じるものがあるからだ。
もしも無人島に流れついた二人の人間が、最後の食料を奪い合っているとしたら、カネを積んでも食料を手に入れることはできないだろう。
カネを払えばものが買える世界――それは信用が保たれた、平和な世界なのである。
『闇金ウシジマくん』 [や行]
監督・企画・プロデュース・脚本/山口雅俊 脚本/福間正浩
出演/山田孝之 大島優子 林遣都 崎本大海 やべきょうすけ 片瀬那奈 新井浩文 黒沢あすか 市原隼人 岡田義徳 ムロツヨシ 鈴之助 金田明夫 希崎ジェシカ 内田春菊
日本公開/2012年8月25日
ジャンル/[ドラマ]
http://bookmarks.yahoo.co.jp/bookmarklet/showpopup?t='+encodeURIComponent(document.title)+'&u='+encodeURIComponent(location.href)+'&ei=UTF-8','_blank','width=550,height=480,left=100,top=50,scrollbars=1,resizable=1',0);">
テレビドラマでは、違法な闇金業者を主人公にして厳しい借金の取り立てを描くことに、眉をひそめる視聴者がいると配慮したのだろう。片瀬那奈さん演じる大久保千秋なるオリジナルのキャラクターが登場し、丑嶋(うしじま)率いるカウカウファイナンスの社員の身でありながら、その業態を疑問視した。千秋は、作品と視聴者との緩衝材の役割を果たしたのだ。
しかし映画となれば、そんな温い配慮は必要ない。
大久保千秋はすでにカウカウファイナンスを退職しており、残った社員は一丸となって闇金融に精を出している。
『闇金ウシジマくん』の面白さは、なんといってもその徹底した取り立てである。
返済額が足りなければ、たとえ1000円でも容赦はしない。債務者に部屋中の小銭をかき集めさせ、まだ足りなければ隣近所や道行く人に土下座させてでも1000円ばかしを持って来させる。
この映画を観ながら、私は闇金融とはまったく関係のないSFを思い出していた。私たちの住む世界が、まるでSF小説の中のようだと感じたからだ。
E・E・スミスが著したレンズマンシリーズは、SF小説の金字塔としてつとに有名だ。E・E・スミスは奔放なイマジネーションを駆使してはるかな未来の遠い宇宙の物語を描いており、その空想の翼は通貨にも及んでいる。
それがcredit――小隅黎氏の訳では「クレジット」、小西宏氏の訳では「信用単位」と表記される通貨だ。現代日本の丑嶋が取り立てるカネは円単位だが、レンズマンシリーズでは「クレジット」単位で通貨が流通している。
通貨の単位が「クレジット」と云われても、すぐにはピンと来ないだろう。しかし、これはレンズマンシリーズが執筆された時代背景を考えてみればよく判る。
E・E・スミスが長い準備期間を経てレンズマンシリーズの第一作『銀河パトロール隊』を発表したのは1937年だ。1929年にはじまった世界恐慌のために各国の経済が大揺れに揺れ、第二次世界大戦が近づいていた頃である。
世界恐慌で大きな影響を受けたものの一つに、金本位制がある。
かつては高価な貨幣として金貨が使われていたけれど、市場に流通する貨幣をまかないきるだけの金貨を鋳造するには、莫大な金塊が必要になる。そこで各国は、金そのものを貨幣にして流通させるのではなく、金と交換可能な印刷物を作り、これを貨幣の代わりに流通させた。すなわち紙幣(兌換紙幣)である。紙幣に「1000円」と書かれていれば、1000円分の金貨と交換できるのだ。
このように金に裏付けられた貨幣制度が金本位制だ。
だが、世界恐慌の荒波を受けると、金の有無とは関係なしに通貨を発行する国が現れた。1931年にイギリスが金本位制を放棄したのを皮切りに、金本位制を放棄する国が相次いだのである。
この様子を見ていたE・E・スミスは、全世界で、金がなくても通貨が成り立つ未来を思い描いた。その通貨が「クレジット」である。
こんにち、クレジットと云われればクレジットカードによる買い物を思い浮かべる人が多いだろう。つまり信用販売だ。
E・E・スミスの空想もそれに近い。その未来社会では、紙に「1000クレジット」と書かれていれば、金と交換できない紙切れでも1000クレジット分の物を買うことができる。紙はあくまで紙でしかないのに、人々は書かれた数字どおりの価値があると信用して、品物を渡してしまうのだ。これがE・E・スミスの空想した未来の買い物だ。
ところが、私たちはすでにそんな世界を実現している。
金本位制は1971年に完全に停止され、私たちは金額を印刷した紙切れを貨幣として使っている。紙に「1000円」と印刷してあれば、その紙には1000円分の価値があるという「お約束」になっている。それどころかおサイフケータイに代表されるように、私たちは紙がなくてもICチップやコンピュータ間を行き来する数値データだけで買い物ができるようになった。
人々は、目に見えて手で触れる金貨がなくても、紙やコンピュータ上の数字の価値を信じることにしたのだ。E・E・スミスは、金がないのに紙上の数字を信用する世界は遠い未来のことと夢想したが、私たちはそれを20世紀中に実現した。
そもそも貨幣の最古の形態は、借金の証文だったという。それは「信用している」とか「恩がある」という人間関係を示していたのだ。
証文があるなら、そこに書かれたものを返す約束が存在している。証文を突きつければ、そこに書かれたものは手元に戻ってくるはずだ。約束を守る、約束を信用するというお互いの信頼関係がなければ、貸し借りは成立しない。
E・E・スミスが未来の通貨の単位を「クレジット」にしたのも、このような思いがあったからだろう。creditという語には、「信用」「信頼」「名誉」「名声」等の意味がある。
貸したものを返さなければ、信用は失墜し、名誉は損なわれる。
これらを考えれば、丑嶋が金額にかかわらず借金を厳しく取り立てる理由が判るだろう。
彼はカネを集めようとしているのではない。貸し借りの本質に立ち返り、約束を守らせることで人と人との「信用」を維持しようとしているのだ。
彼が課す金利は出資法の上限を越えている。だから彼のビジネスは現行法の下では違法であり、闇金融と呼ばれてしまう。
しかし本作を見ればお判りのとおり、彼は至って紳士的だ。カネを貸す前にきちんと金利を説明するし、はじめての客には10万円しか貸さずに返済能力を確かめる。返せそうもない人間に無理に貸し付けて、後から引っぱがすわけではない。
だからカウカウファイナンスからカネを借りるのは、借り手も合意の上である。お互いを信頼し、期日と返済条件について約束を取り交わすのだ。
約束を守っている限り、丑嶋は手荒なことはしない。だが、ひとたび「信用」を裏切れば、丑嶋は容赦ない。
とりわけ彼の取り立てで面白いのは、債務者から知人に連絡を入れさせることだ。取り立ての場に同席した者や、近所の住人や、電話の繋がる友人知人に連絡させて、返済金を用立てさせる。ここでのポイントは、全額が揃わなくて一部だけの回収にとどまっても、勘弁してやることだ。
これは丑嶋の目的がカネの回収ではなく、「信用」を見ることにあるからだ。
カウカウファイナンスに借金しにくる者は、もうすべての知人からカネを借りまくり、踏み倒しまくって、にっちもさっちもいかなくなった人間なのだ。それでも少しでも用立てようとする者が現れるなら、その債務者はまだ信用を完全に失ってはいない。信頼で結ばれた者がいるのなら、その債務者を制裁するには及ばない。
けれども、誰も債務者に手を差し伸べようとしないなら、債務者は周りのすべての信用を踏みにじった人間ということだ。人と人との信頼がなくてもいいと思っている人間なのだ。
裏稼業の人間が、人の世の「信用」を裏切る者を制裁する物語――それは現代の必殺仕事人と呼んでも良かろう。
カウカウファイナンスのメンバーが債務者をとっちめるシーンが痛快なのは、必殺仕事人の仕事に通じるものがあるからだ。
もしも無人島に流れついた二人の人間が、最後の食料を奪い合っているとしたら、カネを積んでも食料を手に入れることはできないだろう。
カネを払えばものが買える世界――それは信用が保たれた、平和な世界なのである。
![映画 闇金ウシジマくん [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/51YDWcWUTTL._SL160_.jpg)
監督・企画・プロデュース・脚本/山口雅俊 脚本/福間正浩
出演/山田孝之 大島優子 林遣都 崎本大海 やべきょうすけ 片瀬那奈 新井浩文 黒沢あすか 市原隼人 岡田義徳 ムロツヨシ 鈴之助 金田明夫 希崎ジェシカ 内田春菊
日本公開/2012年8月25日
ジャンル/[ドラマ]


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『The Lady アウンサンスーチー ひき裂かれた愛』 賞はご褒美ではない
『The Lady アウンサンスーチー ひき裂かれた愛』は実に面白い!
数々の娯楽作を世に送り出してきたリュック・ベッソン監督が、持てる力の限りを尽くしてスリリングかつドラマチックな感動作に仕上げている。
その豊かな娯楽性から感じられるのは、リュック・ベッソン監督の考えの深さである。
2009年に米国のバラク・オバマ大統領がノーベル平和賞を受賞したのは大統領の就任から間もない時期であり、具体的な実績が上がっていないために、「オバマが受賞なんておかしい」という人がいた。
私はその意見を耳にして、賞をご褒美だと考えているのだなと思った。
たしかに、多くの賞は何らかの業績を上げた人や、特筆すべき貢献を果たした人に授与される。ノーベル賞の科学三賞や経済学賞もそうだろう。
しかし平和賞は、これらの賞とは趣が異なる。
このノルウェー・ノーベル委員会の深慮遠謀を、伊東乾氏は次のように説明している。
---
科学の賞は過去の業績に対して授与されますが、平和賞は今後のため、つまり未来の平和持続とその発展のために投機・投資的に与えられるという明らかな違いがある。
(略)
佐藤栄作氏へのノーベル平和賞も「非核三原則」発信を受けて、日本という国家の「その後」に国際社会が一面でエールを送り、また一面で縛りをかけるというコードとして見るべきで、佐藤氏個人がどうこう、だからノーベル委員会はどうこう、といった議論は、かなりアサッテなところにズレてしまっている。オバマは今回の授賞で「未来において何を縛られるのか」 平和賞の存在意義を考慮すれば、それをこそ検討していく必要があるでしょう。
---
『インビクタス/負けざる者たち』の記事でも触れたように、黒人と白人の対立が残る南アフリカ共和国で黒人代表ネルソン・マンデラ氏と白人代表フレデリック・デクラーク氏がノーベル平和賞を授与されたのも、同様の文脈からだろう。
このように、ある勢力の代表者や権力者に平和賞受賞者というレッテルを貼ることでその行動を牽制するのは、何もノーベル委員会が嚆矢ではない。
与那覇潤氏は著書『中国化する日本』の中で、オバマ受賞のニュースから中国の朱子学思想を想起したと述べている。宋朝以降の中国では、皇帝なり官僚なりの権力基盤の正統性が朱子学思想に置かれており、それゆえ権力者は朱子学の理念に相応しい振る舞いを求められる。朱子学では、世界普遍的な道徳の教えをもっともよく身に付けた聖人こそが権力者として選ばれるという理屈になっているので、その行動は常に朱子学の理念により統制されるのだ。
これはまさしく、ノーベル委員会の戦略と同じだろう。
だが、ノーベル平和賞の狙いは、権力者や政治家を抑え込むばかりではない。ノーベル平和賞は、ときとして命を守る武器になる。
それは『The Lady アウンサンスーチー ひき裂かれた愛』をご覧になればお判りのはずだ。
アウンサンスーチー氏はビルマの民主化運動の指導者であり、軍事政権から激しい弾圧を受けてきた。通算15年もの長きにわたる軟禁や、家族と引き離された生活を強いられながら、一貫して民主化運動を率いてきたのだ。ビルマではその名を呼ぶことさえはばかられ、The Lady とだけ呼ばれていたという。
映画では、そんな彼女を守るために、英国にいる夫がノーベル平和賞受賞に向けて奔走する姿が描かれる。ノーベル平和賞を受賞することで、世界の注目を彼女に集め、軍事政権の行動を牽制しようと考えたのだ。
夫の働きはノーベル委員会を動かし、1991年のノーベル平和賞は自宅軟禁中のアウンサンスーチー氏に贈られている。
ノーベル委員会は授与によってアウンサンスーチー氏の身を守るとともに、ビルマの軍事政権に対しては民主化の動きを世界中が注視しているというメッセージを送ったのだ。
2010年の劉暁波(リュウ・シャオボー)氏への授与も同じことだろう。中国の民主化のために活動する劉氏は、中国政府により投獄される中でノーベル平和賞を受賞した。もちろん、2020年まで服役が続く劉氏は授賞式に出席できない。ノーベル委員会のヤーグラン委員長は、授賞式において劉氏の釈放を求める演説をしている。
そして映画『The Lady アウンサンスーチー ひき裂かれた愛』からも、ノルウェー・ノーベル委員会に負けず劣らずの深慮遠謀が感じられる。
本作の公式サイトによれば、2007年に脚本を手にしたミシェル・ヨーがリュック・ベッソンに相談したことから、この映画は実現に向けて動き出したという。
映画の題材は存命中の人物でありながら、会って取材することもできない。舞台となる国で撮影することも叶わない。それどころか、そんな映画を企画していることすら軍事政権には極秘にしなければならない。
そんな条件下で、それでもこの映画を作るのは、世界の目をアウンサンスーチー氏に集め、ビルマの民主化運動を多くの人に知ってもらうため、そうすることでアウンサンスーチー氏を支援するためだろう。
その点を踏まえれば、この映画がこのような形になる必然性が見えてくる。
映画は、軍事政権樹立に至るビルマの歴史にはあまり触れていない。なぜなら、歴史の勉強をするための映画ではないからだ。
アウンサンスーチー氏の子供の頃からの生い立ちを丁寧に追うこともない。なぜなら、いま彼女が置かれている状況を知らしめることが重要だからだ。
そして映画は、彼女の政治活動よりも家族との絆に重きを置く。なぜなら、彼女を一人の人間として知ってもらい、より多くの人から共感を得る必要があるからだ。
さらに娯楽性豊かな感動作になっているのは、辛気臭い政治ドラマじゃ限られた観客にしかアピールできないためである。
本作が、過去の歴史を振り返る作品だったら、別のアプローチがあったかもしれない。だが、現実に今も民主化に向けて戦っている人物のため、世界中のエールを集めるには、本作のアプローチが最適ではなかろうか。
2010年11月、本作の撮影終了直前に、ようやくアウンサンスーチー氏の軟禁は解除された。彼女は2011年8月に政治活動を再開し、2012年4月には連邦議会補欠選挙に当選。この選挙で彼女が率いる国民民主連盟は圧勝した。
これと前後して、2008年には米国がアウンサンスーチー氏に議会名誉黄金勲章を贈り、2012年にはフランスがレジオン・ドヌール勲章コマンドゥールを、パキスタンがベナジル・ブット賞を、ユネスコがマダンジート・シン賞を贈る等、今も各国や国際機関が彼女への支持を形にしている。
そして2011年からはじまった各国での本作の上映もまた、世界がアウンサンスーチー氏と民主化運動を支援していることのアピールになるはずだ(2012年8月現在、中国では上映されていない)。
なお1989年に軍事政権「国家法秩序回復評議会」は国名の英語表記を Union of Burma から Union of Myanmar に改称した。これを受けて日本政府は日本語の呼称を「ビルマ」から「ミャンマー」に改めた。
しかし、アウンサンスーチー氏や米国、英国等は、軍事政権による一方的な改称を認めておらず、本作も劇中の呼称を「ビルマ」で通している。
このことからも判るように、軍事政権と友好的だった国の一つが日本である。
ウィキペディアの「対日関係」の項には、日本が1988年の軍事クーデター後に成立した軍事政権をいち早く承認したこと、軍事政権との要人往来や経済協力による援助を実施し続けてきたことが紹介されている(2003年からは停止)。
そのためだろう、本作には日本がビルマへ民主化するよう働きかける場面がある。わざわざこのような場面を挿入したのは、日本も民主化運動を支援するようにと釘を刺すためだろう。
映画は、アウンサンスーチー氏の言葉を紹介している。
May your freedom serve ours.
(私たちの自由のために、あなたの自由を行使してください。)
『The Lady アウンサンスーチー ひき裂かれた愛』 [さ行]
監督/リュック・ベッソン
出演/ミシェル・ヨー デヴィッド・シューリス ジョナサン・ラゲット ジョナサン・ウッドハウス スーザン・ウールドリッジ ベネディクト・ウォン
日本公開/2012年7月21日
ジャンル/[ドラマ] [伝記]
http://bookmarks.yahoo.co.jp/bookmarklet/showpopup?t='+encodeURIComponent(document.title)+'&u='+encodeURIComponent(location.href)+'&ei=UTF-8','_blank','width=550,height=480,left=100,top=50,scrollbars=1,resizable=1',0);">
数々の娯楽作を世に送り出してきたリュック・ベッソン監督が、持てる力の限りを尽くしてスリリングかつドラマチックな感動作に仕上げている。
その豊かな娯楽性から感じられるのは、リュック・ベッソン監督の考えの深さである。
2009年に米国のバラク・オバマ大統領がノーベル平和賞を受賞したのは大統領の就任から間もない時期であり、具体的な実績が上がっていないために、「オバマが受賞なんておかしい」という人がいた。
私はその意見を耳にして、賞をご褒美だと考えているのだなと思った。
たしかに、多くの賞は何らかの業績を上げた人や、特筆すべき貢献を果たした人に授与される。ノーベル賞の科学三賞や経済学賞もそうだろう。
しかし平和賞は、これらの賞とは趣が異なる。
このノルウェー・ノーベル委員会の深慮遠謀を、伊東乾氏は次のように説明している。
---
科学の賞は過去の業績に対して授与されますが、平和賞は今後のため、つまり未来の平和持続とその発展のために投機・投資的に与えられるという明らかな違いがある。
(略)
佐藤栄作氏へのノーベル平和賞も「非核三原則」発信を受けて、日本という国家の「その後」に国際社会が一面でエールを送り、また一面で縛りをかけるというコードとして見るべきで、佐藤氏個人がどうこう、だからノーベル委員会はどうこう、といった議論は、かなりアサッテなところにズレてしまっている。オバマは今回の授賞で「未来において何を縛られるのか」 平和賞の存在意義を考慮すれば、それをこそ検討していく必要があるでしょう。
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『インビクタス/負けざる者たち』の記事でも触れたように、黒人と白人の対立が残る南アフリカ共和国で黒人代表ネルソン・マンデラ氏と白人代表フレデリック・デクラーク氏がノーベル平和賞を授与されたのも、同様の文脈からだろう。
このように、ある勢力の代表者や権力者に平和賞受賞者というレッテルを貼ることでその行動を牽制するのは、何もノーベル委員会が嚆矢ではない。
与那覇潤氏は著書『中国化する日本』の中で、オバマ受賞のニュースから中国の朱子学思想を想起したと述べている。宋朝以降の中国では、皇帝なり官僚なりの権力基盤の正統性が朱子学思想に置かれており、それゆえ権力者は朱子学の理念に相応しい振る舞いを求められる。朱子学では、世界普遍的な道徳の教えをもっともよく身に付けた聖人こそが権力者として選ばれるという理屈になっているので、その行動は常に朱子学の理念により統制されるのだ。
これはまさしく、ノーベル委員会の戦略と同じだろう。
だが、ノーベル平和賞の狙いは、権力者や政治家を抑え込むばかりではない。ノーベル平和賞は、ときとして命を守る武器になる。
それは『The Lady アウンサンスーチー ひき裂かれた愛』をご覧になればお判りのはずだ。
アウンサンスーチー氏はビルマの民主化運動の指導者であり、軍事政権から激しい弾圧を受けてきた。通算15年もの長きにわたる軟禁や、家族と引き離された生活を強いられながら、一貫して民主化運動を率いてきたのだ。ビルマではその名を呼ぶことさえはばかられ、The Lady とだけ呼ばれていたという。
映画では、そんな彼女を守るために、英国にいる夫がノーベル平和賞受賞に向けて奔走する姿が描かれる。ノーベル平和賞を受賞することで、世界の注目を彼女に集め、軍事政権の行動を牽制しようと考えたのだ。
夫の働きはノーベル委員会を動かし、1991年のノーベル平和賞は自宅軟禁中のアウンサンスーチー氏に贈られている。
ノーベル委員会は授与によってアウンサンスーチー氏の身を守るとともに、ビルマの軍事政権に対しては民主化の動きを世界中が注視しているというメッセージを送ったのだ。
2010年の劉暁波(リュウ・シャオボー)氏への授与も同じことだろう。中国の民主化のために活動する劉氏は、中国政府により投獄される中でノーベル平和賞を受賞した。もちろん、2020年まで服役が続く劉氏は授賞式に出席できない。ノーベル委員会のヤーグラン委員長は、授賞式において劉氏の釈放を求める演説をしている。
そして映画『The Lady アウンサンスーチー ひき裂かれた愛』からも、ノルウェー・ノーベル委員会に負けず劣らずの深慮遠謀が感じられる。
本作の公式サイトによれば、2007年に脚本を手にしたミシェル・ヨーがリュック・ベッソンに相談したことから、この映画は実現に向けて動き出したという。
映画の題材は存命中の人物でありながら、会って取材することもできない。舞台となる国で撮影することも叶わない。それどころか、そんな映画を企画していることすら軍事政権には極秘にしなければならない。
そんな条件下で、それでもこの映画を作るのは、世界の目をアウンサンスーチー氏に集め、ビルマの民主化運動を多くの人に知ってもらうため、そうすることでアウンサンスーチー氏を支援するためだろう。
その点を踏まえれば、この映画がこのような形になる必然性が見えてくる。
映画は、軍事政権樹立に至るビルマの歴史にはあまり触れていない。なぜなら、歴史の勉強をするための映画ではないからだ。
アウンサンスーチー氏の子供の頃からの生い立ちを丁寧に追うこともない。なぜなら、いま彼女が置かれている状況を知らしめることが重要だからだ。
そして映画は、彼女の政治活動よりも家族との絆に重きを置く。なぜなら、彼女を一人の人間として知ってもらい、より多くの人から共感を得る必要があるからだ。
さらに娯楽性豊かな感動作になっているのは、辛気臭い政治ドラマじゃ限られた観客にしかアピールできないためである。
本作が、過去の歴史を振り返る作品だったら、別のアプローチがあったかもしれない。だが、現実に今も民主化に向けて戦っている人物のため、世界中のエールを集めるには、本作のアプローチが最適ではなかろうか。
2010年11月、本作の撮影終了直前に、ようやくアウンサンスーチー氏の軟禁は解除された。彼女は2011年8月に政治活動を再開し、2012年4月には連邦議会補欠選挙に当選。この選挙で彼女が率いる国民民主連盟は圧勝した。
これと前後して、2008年には米国がアウンサンスーチー氏に議会名誉黄金勲章を贈り、2012年にはフランスがレジオン・ドヌール勲章コマンドゥールを、パキスタンがベナジル・ブット賞を、ユネスコがマダンジート・シン賞を贈る等、今も各国や国際機関が彼女への支持を形にしている。
そして2011年からはじまった各国での本作の上映もまた、世界がアウンサンスーチー氏と民主化運動を支援していることのアピールになるはずだ(2012年8月現在、中国では上映されていない)。
なお1989年に軍事政権「国家法秩序回復評議会」は国名の英語表記を Union of Burma から Union of Myanmar に改称した。これを受けて日本政府は日本語の呼称を「ビルマ」から「ミャンマー」に改めた。
しかし、アウンサンスーチー氏や米国、英国等は、軍事政権による一方的な改称を認めておらず、本作も劇中の呼称を「ビルマ」で通している。
このことからも判るように、軍事政権と友好的だった国の一つが日本である。
ウィキペディアの「対日関係」の項には、日本が1988年の軍事クーデター後に成立した軍事政権をいち早く承認したこと、軍事政権との要人往来や経済協力による援助を実施し続けてきたことが紹介されている(2003年からは停止)。
そのためだろう、本作には日本がビルマへ民主化するよう働きかける場面がある。わざわざこのような場面を挿入したのは、日本も民主化運動を支援するようにと釘を刺すためだろう。
映画は、アウンサンスーチー氏の言葉を紹介している。
May your freedom serve ours.
(私たちの自由のために、あなたの自由を行使してください。)
![The Lady アウンサンスーチー ひき裂かれた愛 [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/519YNz8Z9TL._SL160_.jpg)
監督/リュック・ベッソン
出演/ミシェル・ヨー デヴィッド・シューリス ジョナサン・ラゲット ジョナサン・ウッドハウス スーザン・ウールドリッジ ベネディクト・ウォン
日本公開/2012年7月21日
ジャンル/[ドラマ] [伝記]


【theme : ヨーロッパ映画】
【genre : 映画】
tag : リュック・ベッソンミシェル・ヨーデヴィッド・シューリスジョナサン・ラゲットジョナサン・ウッドハウススーザン・ウールドリッジベネディクト・ウォン
『かぞくのくに』 誰が歌に気づくのか?
若い人と話していたら、北朝鮮が「地上の楽園」と呼ばれていたことを知らないのに気づいた。
なるほど、そうかもしれない。多数の餓死者を出す国が、楽園のはずはないだろう。1990年代後半、飢餓による死者は22万人から350万人に及んだというから、総人口の約1~16%になる。近年、躍進著しい韓国に対して、かつて一つの国だったと思えないほどその落差は大きい。
けれど、1970年代まではそれほど大きな差は開いてなかった。韓国と北朝鮮の1人当たりGDPを比べると、北朝鮮が韓国を上回っていた時期すらある。
この頃の、軍事クーデターで権力を掌握した独裁者が君臨する韓国と、粛清により社会主義政党の一党独裁を強化していた北朝鮮のどちらが暮らしやすかったかは判らない。
ただ、安部公房著『第四間氷期』(1958年)に登場する予言機械が、すべての国は共産主義国になると予言したように、いずれ資本主義はこの世からなくなるだろうと多くの人が思っていた。
私が社会科の授業で資本主義と社会主義を学んだときも、先生は「まだ共産主義国はないけれど、遠からず共産主義国が誕生するでしょう。少なくともすべての国は社会主義国になるでしょう」とおっしゃっていた。別に先生は、子供を共産主義に洗脳しようと企んでいたわけではない。ちょっとインテリっぽい人なら、誰もがそう思っていた時代だっだ。資本主義がもたらす競争社会を批判し、政府が計画的に富を分配する社会主義を待望するのが時流だった。
20世紀は壮大な実験の世紀といえよう。
有史以来、富の多くは国王や貴族が握り、後には資本家がこれに加わったが、労働者階級はいずれの時代を通しても豊かさとは縁遠かった。その彼らが、みずから国家を運営し、平等な社会を実現しようと試みたのが20世紀だった。
そして1922年に世界初の社会主義国であるソビエト連邦が成立すると、世界は社会主義を推進する勢力と対抗する勢力の真っ二つに分かれ、世界中のあらゆるところで戦った。
従来の体制を存続させようとする人々からすれば、社会主義及び共産主義は叩き潰すべき危険思想である。だが、世を憂う識者や現状に不満を抱く者にとっては、資本主義こそ引導を渡すべき古い考えだった。
そんな中、いち早く社会主義化を実現し、韓国を上回る成長を見せていた北朝鮮は「地上の楽園」を謳っていた。日本の若者が、日本での闘争がままならなくて、北朝鮮に亡命する時代だった。
しかし、人類史上最大の実験は失敗に終わった。
失敗の理由は単純なことだ。みんなが豊かになれるように計画できる者なんていなかったのだ。それどころか計画する者は、富を分配する際に自分にたくさん分配した。計画的な平等社会なんか実現しなかったのだ。
20世紀末に社会主義国は次々に崩壊し、1991年には遂にソビエト連邦も解体した。
その解体直前に、ソ連のゴルバチョフ大統領は韓国からの訪問団にこう尋ねたという。
「朝鮮半島が南北に分断された当時は、北朝鮮の工業がもっと発達していて国民所得も南より高かったです。南はせいぜい農業に依存する水準でした。でも、今は、逆に北朝鮮が南より貧しい。どうしてだとお思いですか?」
答えに窮する韓国人に、ゴルバチョフ大統領はみずから説明した。
「北朝鮮は共産主義を採択し、南は資本主義を選択したからです」
それでも、北朝鮮こと朝鮮民主主義人民共和国は、いまだに存続する社会主義国の一つである。
1950年代末からの「帰国事業」で日本から北朝鮮に渡った者は、93,340人に上る。彼らは「地上の楽園」の果実を享受するため、あるいはその発展に資するため、建国間もない北朝鮮を目指したのだ。一方の韓国が、外国との養子縁組で子供を国外へ送り出していた頃である。
映画『かぞくのくに』は、「帰国者」として兄を北朝鮮に送り出し、以来家族が会うこともままならなかった梁英姫(ヤン ヨンヒ)監督一家の実話に基いた作品である。
舞台となるのは1997年の東京。北朝鮮で多くの人が餓死していた頃だ。
1974年に16歳で北朝鮮に渡った兄が来日し、25年ぶりに家族が再会する。兄は脳に悪性の腫瘍ができてしまい、北朝鮮では治療できないのだ。再会を喜びつつも、兄が難病に冒されていることや、また過酷な生活の待つ北朝鮮に帰さなければならないことに心中複雑な家族や幼馴染たち。
映画は兄が滞在した数日間の出来事を、ドキュメンタリータッチで克明に描き出す。ヤン監督の分身たる主人公を演じるのが安藤サクラさん、生き別れの兄を演じるのが井浦新さん、そして北朝鮮の監視人を演じるのが『息もできない』のヤン・イクチュンと、当代きっての役者たちが顔を揃えており、長回しの手持ちカメラが捉える彼らの姿は、本当の家族の中に入り込んだような緊張を、観る者に感じさせる。
映画を通してヤン監督は家族が離れ離れになった経緯も、それによって家族が背負ったものの重さも丁寧に説明しつつ、何よりも兄への深い愛情を描き出す。
その思いは『かぞくのくに』という題名に込められている。国家体制とか、国交の有無とかの前に、そこは家族が住む国なのだ。自分の兄がそこにいるのだ。兄はそこで生きていかなければならないのだ。
その国を「朝鮮民主主義人民共和国」という国名で、あるいは「北朝鮮」という地域名でくくってしまうと、つい見えなくなりがちだが、そこにはヤン監督の兄や、その家族が暮らしている。今日も、明日も、これからも。
そしてまた、日本もまた「かぞくのくに」だ。兄にとっては父や母や妹が暮らす国だ。
けれども二つの「かぞくのくに」は、互いの往来を許さない。
とりわけ切ないのは、兄がまだ日本にいた頃によく聴いていたという『白いブランコ』を口ずさむ場面だ。
遠い昔の恋を振り返る『白いブランコ』[*]は、フォークデュオのビリー・バンバンが歌って1969年にヒットした。本作では、仲の良い友だちに囲まれて、家族みんなで暮らしていた日本での日々が白いブランコに重ねられている。
僕の心に今もゆれる
あの白いブランコ
幼い恋を見つめてくれた
あの白いブランコ
……
ブランコなんて、どこの公園にもあるものだ。
だからなおさら、それを懐かしむ兄の、家族の失ったものの大きさが胸に迫る。
そして兄は、灯りのない国へ帰っていく。

これはNASAが2000年11月27日に公表した地球の夜景の一部である。
日本も韓国も台湾も中国も明るいのに、北朝鮮の部分は真っ暗だ。わずかにピョンヤンの辺りに小さな光の点が見えるものの、国土全体はまるで海のように暗い。
平口良司氏がヘンダーソン、ストアガード、ウェイルらの研究結果を紹介したところによれば、夜間に各場所から発せられる光量の推移はGDPの変化を反映しているという。あらゆる文明社会では日没時に照明が使われるので、光量の変化は経済活動の変動に密接に関係している。平たく云えば、豊かな国は目で見ても明るくて、夜の暗い国は、戦争で灯火管制を敷いてるのでない限り、極めて貧しい国なのだ。
兄はその真っ暗な国へ帰っていくのだ。
終盤、帰国しなければならない兄は、走るクルマの窓を開けて、小さな声で『白いブランコ』を口ずさむ。車外の音が歌声をかき消して、日本の歌謡をうたっていることを同志に気取られないように。『白いブランコ』の思い出を、窓の外に押し出すように。
クルマは彼を乗せて走り去り、私たちは歌声に気づかない。
[*] 『白いブランコ』 作詞:小平なほみ、作曲:菅原進
『かぞくのくに』 [か行]
監督・原作・脚本/ヤン・ヨンヒ
出演/安藤サクラ 井浦新 ヤン・イクチュン 津嘉山正種 宮崎美子 諏訪太朗 京野ことみ 大森立嗣 村上淳 省吾 塩田貞治 金守珍
日本公開/2012年8月4日
ジャンル/[ドラマ]
http://bookmarks.yahoo.co.jp/bookmarklet/showpopup?t='+encodeURIComponent(document.title)+'&u='+encodeURIComponent(location.href)+'&ei=UTF-8','_blank','width=550,height=480,left=100,top=50,scrollbars=1,resizable=1',0);">
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けれど、1970年代まではそれほど大きな差は開いてなかった。韓国と北朝鮮の1人当たりGDPを比べると、北朝鮮が韓国を上回っていた時期すらある。
この頃の、軍事クーデターで権力を掌握した独裁者が君臨する韓国と、粛清により社会主義政党の一党独裁を強化していた北朝鮮のどちらが暮らしやすかったかは判らない。
ただ、安部公房著『第四間氷期』(1958年)に登場する予言機械が、すべての国は共産主義国になると予言したように、いずれ資本主義はこの世からなくなるだろうと多くの人が思っていた。
私が社会科の授業で資本主義と社会主義を学んだときも、先生は「まだ共産主義国はないけれど、遠からず共産主義国が誕生するでしょう。少なくともすべての国は社会主義国になるでしょう」とおっしゃっていた。別に先生は、子供を共産主義に洗脳しようと企んでいたわけではない。ちょっとインテリっぽい人なら、誰もがそう思っていた時代だっだ。資本主義がもたらす競争社会を批判し、政府が計画的に富を分配する社会主義を待望するのが時流だった。
20世紀は壮大な実験の世紀といえよう。
有史以来、富の多くは国王や貴族が握り、後には資本家がこれに加わったが、労働者階級はいずれの時代を通しても豊かさとは縁遠かった。その彼らが、みずから国家を運営し、平等な社会を実現しようと試みたのが20世紀だった。
そして1922年に世界初の社会主義国であるソビエト連邦が成立すると、世界は社会主義を推進する勢力と対抗する勢力の真っ二つに分かれ、世界中のあらゆるところで戦った。
従来の体制を存続させようとする人々からすれば、社会主義及び共産主義は叩き潰すべき危険思想である。だが、世を憂う識者や現状に不満を抱く者にとっては、資本主義こそ引導を渡すべき古い考えだった。
そんな中、いち早く社会主義化を実現し、韓国を上回る成長を見せていた北朝鮮は「地上の楽園」を謳っていた。日本の若者が、日本での闘争がままならなくて、北朝鮮に亡命する時代だった。
しかし、人類史上最大の実験は失敗に終わった。
失敗の理由は単純なことだ。みんなが豊かになれるように計画できる者なんていなかったのだ。それどころか計画する者は、富を分配する際に自分にたくさん分配した。計画的な平等社会なんか実現しなかったのだ。
20世紀末に社会主義国は次々に崩壊し、1991年には遂にソビエト連邦も解体した。
その解体直前に、ソ連のゴルバチョフ大統領は韓国からの訪問団にこう尋ねたという。
「朝鮮半島が南北に分断された当時は、北朝鮮の工業がもっと発達していて国民所得も南より高かったです。南はせいぜい農業に依存する水準でした。でも、今は、逆に北朝鮮が南より貧しい。どうしてだとお思いですか?」
答えに窮する韓国人に、ゴルバチョフ大統領はみずから説明した。
「北朝鮮は共産主義を採択し、南は資本主義を選択したからです」
それでも、北朝鮮こと朝鮮民主主義人民共和国は、いまだに存続する社会主義国の一つである。
1950年代末からの「帰国事業」で日本から北朝鮮に渡った者は、93,340人に上る。彼らは「地上の楽園」の果実を享受するため、あるいはその発展に資するため、建国間もない北朝鮮を目指したのだ。一方の韓国が、外国との養子縁組で子供を国外へ送り出していた頃である。
映画『かぞくのくに』は、「帰国者」として兄を北朝鮮に送り出し、以来家族が会うこともままならなかった梁英姫(ヤン ヨンヒ)監督一家の実話に基いた作品である。
舞台となるのは1997年の東京。北朝鮮で多くの人が餓死していた頃だ。
1974年に16歳で北朝鮮に渡った兄が来日し、25年ぶりに家族が再会する。兄は脳に悪性の腫瘍ができてしまい、北朝鮮では治療できないのだ。再会を喜びつつも、兄が難病に冒されていることや、また過酷な生活の待つ北朝鮮に帰さなければならないことに心中複雑な家族や幼馴染たち。
映画は兄が滞在した数日間の出来事を、ドキュメンタリータッチで克明に描き出す。ヤン監督の分身たる主人公を演じるのが安藤サクラさん、生き別れの兄を演じるのが井浦新さん、そして北朝鮮の監視人を演じるのが『息もできない』のヤン・イクチュンと、当代きっての役者たちが顔を揃えており、長回しの手持ちカメラが捉える彼らの姿は、本当の家族の中に入り込んだような緊張を、観る者に感じさせる。
映画を通してヤン監督は家族が離れ離れになった経緯も、それによって家族が背負ったものの重さも丁寧に説明しつつ、何よりも兄への深い愛情を描き出す。
その思いは『かぞくのくに』という題名に込められている。国家体制とか、国交の有無とかの前に、そこは家族が住む国なのだ。自分の兄がそこにいるのだ。兄はそこで生きていかなければならないのだ。
その国を「朝鮮民主主義人民共和国」という国名で、あるいは「北朝鮮」という地域名でくくってしまうと、つい見えなくなりがちだが、そこにはヤン監督の兄や、その家族が暮らしている。今日も、明日も、これからも。
そしてまた、日本もまた「かぞくのくに」だ。兄にとっては父や母や妹が暮らす国だ。
けれども二つの「かぞくのくに」は、互いの往来を許さない。
とりわけ切ないのは、兄がまだ日本にいた頃によく聴いていたという『白いブランコ』を口ずさむ場面だ。
遠い昔の恋を振り返る『白いブランコ』[*]は、フォークデュオのビリー・バンバンが歌って1969年にヒットした。本作では、仲の良い友だちに囲まれて、家族みんなで暮らしていた日本での日々が白いブランコに重ねられている。
僕の心に今もゆれる
あの白いブランコ
幼い恋を見つめてくれた
あの白いブランコ
……
ブランコなんて、どこの公園にもあるものだ。
だからなおさら、それを懐かしむ兄の、家族の失ったものの大きさが胸に迫る。
そして兄は、灯りのない国へ帰っていく。

これはNASAが2000年11月27日に公表した地球の夜景の一部である。
日本も韓国も台湾も中国も明るいのに、北朝鮮の部分は真っ暗だ。わずかにピョンヤンの辺りに小さな光の点が見えるものの、国土全体はまるで海のように暗い。
平口良司氏がヘンダーソン、ストアガード、ウェイルらの研究結果を紹介したところによれば、夜間に各場所から発せられる光量の推移はGDPの変化を反映しているという。あらゆる文明社会では日没時に照明が使われるので、光量の変化は経済活動の変動に密接に関係している。平たく云えば、豊かな国は目で見ても明るくて、夜の暗い国は、戦争で灯火管制を敷いてるのでない限り、極めて貧しい国なのだ。
兄はその真っ暗な国へ帰っていくのだ。
終盤、帰国しなければならない兄は、走るクルマの窓を開けて、小さな声で『白いブランコ』を口ずさむ。車外の音が歌声をかき消して、日本の歌謡をうたっていることを同志に気取られないように。『白いブランコ』の思い出を、窓の外に押し出すように。
クルマは彼を乗せて走り去り、私たちは歌声に気づかない。
[*] 『白いブランコ』 作詞:小平なほみ、作曲:菅原進
![かぞくのくに ブルーレイ [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/51DS6wJd39L._SL160_.jpg)
監督・原作・脚本/ヤン・ヨンヒ
出演/安藤サクラ 井浦新 ヤン・イクチュン 津嘉山正種 宮崎美子 諏訪太朗 京野ことみ 大森立嗣 村上淳 省吾 塩田貞治 金守珍
日本公開/2012年8月4日
ジャンル/[ドラマ]


『桐島、部活やめるってよ』 陽はまた昇る
サミュエル・ベケットが『ゴドーを待ちながら』を発表したのは1952年のことだ。この著名な戯曲は、それから半世紀以上たった今でも世界のどこかで上演され続けている。
『ゴドーを待ちながら』が表題にゴドーの名を謳いながら遂にゴドーはやって来ないように、『桐島、部活やめるってよ』も桐島を巡る物語でありながら、私たちは去り行く桐島の姿を見ることができない。
その代わりに私たちが目撃するのは、キャプテンに頼りきりだったことを思い知らされてうろたえる部員たちや、恋人の決断を事前に相談してもらえなくて自分の立場を悟ってしまった女性、親友の活躍に自分を重ね合わせて自分まで活躍しているつもりだった友人、仲良しグループから外されることを恐れて懸命に話を合わせている女の子、自分の世界の小ささを自覚しつつそこにしがみ付くしかない男――つまり、私たち自身である。
本当はいないのだ、桐島なんて。
頼っていれば何とかしてくれるキャプテンも、自分は何でも知っている恋人も、栄光のお裾分けをくれる親友も、そんな人はどこにもいない。
なのに私たちは、彼を追い求める。自分に限界があることを知っているから。何でも語り合える仲良しなんていないことを知っているから。夢はきっと叶うなんておとぎ話だと知っているから。せめて桐島に託したい。どこかにいるかもしれない桐島に、自分の代わりを務めて欲しい。
だからみんな桐島を捜すのに懸命だ。それは永遠の自分探しだ。
けれども、彼にはたどり着けない。
視点を変えれば真実も変わってしまう『羅生門』のように、私たち一人ひとりは違う人間だから、全員の希望に応えてくれる桐島には、いつまで経ってもたどり着けない。
17歳という年齢は、それを自覚しなければならないときだろう。本作の高校二年生という設定は絶妙だ。
そろそろ将来のことを考えねばならない彼らは、子供のように夢ばかりを語ってはいられない。小中学生のころは野球選手になりたいとか芸能人になりたいとか好きなことを云ってたのに、高校生になると急に公務員とか学校の先生とか堅実なことを話し出す。
彼らは少しずつ何かを諦めはじめているのだ。こんなはずじゃなかったと意識しはじめているのだ。
でも、大きなものを諦めれば、せめてささやかなものは手に入ると思っている。諦めることと引き替えに手に入れようとする小さなものですら、実ははかなく脆いことにはまだ気づいていない。
30年にわたって第一線の映画監督として活躍してきた押井守氏ですらこう語る。
---
「自分の好きな人とささやかな幸せを守れればいい」とか簡単そうに言うけど、いまの日本でちゃんと家庭を持ってささやかな幸せを築くということがどれだけ大変か。
---
彼らはこれから踏み出さなければならない。野球選手や芸能人や公務員や学校の先生に。
やがて公務員は試験に合格しなければなれないことに、学校の先生もたくさん単位を取って試験に受からなければなれないことに気づくだろう。毎日通勤電車に揺られるサラリーマンを続けられない人がいることに気づくだろう。
ささやかな幸せを築くということがどれだけたいへんか気づくだろう。
そして桐島は自分の心の中にしかいなかったことに気づくだろう。
映画を観終えた私たちに、高橋優氏の叫ぶような歌声が迫ってくる。高橋優作詞・作曲の『陽はまた昇る』だ。
公式サイトによれば、この曲は高橋優氏が撮影現場を訪れ、感じたものを書き下ろしたという。だからこの曲は、観客たる私たちが感じたものとおんなじだ。私たちも心の中で叫んでいるのだ。
選ばれし才能も お金も地位も名誉も
持っていたっていなくたって 同じ空の下
愛しき人よ ほら見渡してみて
尊い今というときを 陽はまた昇るさ
……
『桐島、部活やめるってよ』 [か行]
監督・脚本/吉田大八 脚本/喜安浩平
出演/神木隆之介 橋本愛 大後寿々花 東出昌大 清水くるみ 山本美月 松岡茉優 落合モトキ 太賀 浅香航大 前野朋哉 高橋周平
日本公開/2012年8月11日
ジャンル/[ドラマ] [青春] [学園]
http://bookmarks.yahoo.co.jp/bookmarklet/showpopup?t='+encodeURIComponent(document.title)+'&u='+encodeURIComponent(location.href)+'&ei=UTF-8','_blank','width=550,height=480,left=100,top=50,scrollbars=1,resizable=1',0);">
『ゴドーを待ちながら』が表題にゴドーの名を謳いながら遂にゴドーはやって来ないように、『桐島、部活やめるってよ』も桐島を巡る物語でありながら、私たちは去り行く桐島の姿を見ることができない。
その代わりに私たちが目撃するのは、キャプテンに頼りきりだったことを思い知らされてうろたえる部員たちや、恋人の決断を事前に相談してもらえなくて自分の立場を悟ってしまった女性、親友の活躍に自分を重ね合わせて自分まで活躍しているつもりだった友人、仲良しグループから外されることを恐れて懸命に話を合わせている女の子、自分の世界の小ささを自覚しつつそこにしがみ付くしかない男――つまり、私たち自身である。
本当はいないのだ、桐島なんて。
頼っていれば何とかしてくれるキャプテンも、自分は何でも知っている恋人も、栄光のお裾分けをくれる親友も、そんな人はどこにもいない。
なのに私たちは、彼を追い求める。自分に限界があることを知っているから。何でも語り合える仲良しなんていないことを知っているから。夢はきっと叶うなんておとぎ話だと知っているから。せめて桐島に託したい。どこかにいるかもしれない桐島に、自分の代わりを務めて欲しい。
だからみんな桐島を捜すのに懸命だ。それは永遠の自分探しだ。
けれども、彼にはたどり着けない。
視点を変えれば真実も変わってしまう『羅生門』のように、私たち一人ひとりは違う人間だから、全員の希望に応えてくれる桐島には、いつまで経ってもたどり着けない。
17歳という年齢は、それを自覚しなければならないときだろう。本作の高校二年生という設定は絶妙だ。
そろそろ将来のことを考えねばならない彼らは、子供のように夢ばかりを語ってはいられない。小中学生のころは野球選手になりたいとか芸能人になりたいとか好きなことを云ってたのに、高校生になると急に公務員とか学校の先生とか堅実なことを話し出す。
彼らは少しずつ何かを諦めはじめているのだ。こんなはずじゃなかったと意識しはじめているのだ。
でも、大きなものを諦めれば、せめてささやかなものは手に入ると思っている。諦めることと引き替えに手に入れようとする小さなものですら、実ははかなく脆いことにはまだ気づいていない。
30年にわたって第一線の映画監督として活躍してきた押井守氏ですらこう語る。
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「自分の好きな人とささやかな幸せを守れればいい」とか簡単そうに言うけど、いまの日本でちゃんと家庭を持ってささやかな幸せを築くということがどれだけ大変か。
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彼らはこれから踏み出さなければならない。野球選手や芸能人や公務員や学校の先生に。
やがて公務員は試験に合格しなければなれないことに、学校の先生もたくさん単位を取って試験に受からなければなれないことに気づくだろう。毎日通勤電車に揺られるサラリーマンを続けられない人がいることに気づくだろう。
ささやかな幸せを築くということがどれだけたいへんか気づくだろう。
そして桐島は自分の心の中にしかいなかったことに気づくだろう。
映画を観終えた私たちに、高橋優氏の叫ぶような歌声が迫ってくる。高橋優作詞・作曲の『陽はまた昇る』だ。
公式サイトによれば、この曲は高橋優氏が撮影現場を訪れ、感じたものを書き下ろしたという。だからこの曲は、観客たる私たちが感じたものとおんなじだ。私たちも心の中で叫んでいるのだ。
選ばれし才能も お金も地位も名誉も
持っていたっていなくたって 同じ空の下
愛しき人よ ほら見渡してみて
尊い今というときを 陽はまた昇るさ
……
![桐島、部活やめるってよ (本編BD+特典DVD 2枚組) [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/51N5ol0nM0L._SL160_.jpg)
監督・脚本/吉田大八 脚本/喜安浩平
出演/神木隆之介 橋本愛 大後寿々花 東出昌大 清水くるみ 山本美月 松岡茉優 落合モトキ 太賀 浅香航大 前野朋哉 高橋周平
日本公開/2012年8月11日
ジャンル/[ドラマ] [青春] [学園]


『アベンジャーズ』 アイアンマンは何番目か?
【ネタバレ注意】
怪物を前にしてアイアンマンことトニー・スタークが叫ぶ。
「ヨナじゃないんだからさ!」
そんなアイアンマンのぼやきが聞き届けられるはずもなく、戦いは激しさを増していく。ヨナってなんだよ、という観客の疑問は置いてけぼりである。
映画『アベンジャーズ』は全編その調子で、目まぐるしいことこの上ない。
突然はじまる量子トンネル効果の講釈も、ヒドラ党の悪だくみの話も、詳しく説明されることなく素っ飛ばされる。先行するシリーズ作品を見れば判ることなのか、単なる戯言なのか、吟味する間もありはしない。
そのテンポの早さが本作の魅力だ。
新幹線で旅しながら幕の内弁当をかっ込んでいるときに、漬物の素材を分析したり、窓外の一点をじっくり観察する人はいない。旅の楽しさは、そんなところにはないからだ。
本作でも、ヒドラ党の悪だくみなんか思い出さなくともキャプテン・アメリカに因縁があるらしいことが判ればいいし、量子トンネル効果を知らずともトニー・スタークとブルース・バナー博士が科学に詳しいことが判ればいい。もちろんその科学談義から、The Science and Entertainment Exchange により科学者が映画をコンサルテーションした成果を楽しんでも良い。
アイアンマンが口にしたヨナとは、旧約聖書の『ヨナ書』に登場する預言者であり、大きな魚に飲み込まれる物語で知られる。アイアンマンは、怪物に飲まれそうな自分をヨナに例えたわけだ。でもそんな話に意味はなくて、観客は、アイアンマンが危機に瀕しても軽口をたたくような男であると判ればいい。
みずから脚本も手掛けたジョス・ウェドン監督は、数々のヒーローたち、すなわちアイアンマン、マイティ・ソー、キャプテン・アメリカ、ハルク、ホークアイ、ブラック・ウィドウ、そしてニック・フューリーが集結するこのお祭り映画を、ごった煮の魅力で溢れさせることに徹している。
集団ヒーローというだけなら、X-MENシリーズや日本のスーパー戦隊シリーズ等の例もある。しかし、それらは最初から集団物として構想されているから、キャラクターのバランスが取れている。直情径行の者やお調子者、ニヒルな者らが、個性が被らないように配置されているのだ。
だが本作は、一枚看板を背負った主役が複数集結するものだから、アイアンマンとソーの俺様キャラが被ったり、ホークアイとブラック・ウィドウがいずれも凄腕スパイだったりと、煩雑なことこの上ない。そこにはウルトラ一族に見られる秩序立った上下関係も、歴代仮面ライダーのような先輩後輩の間柄もない。
だがその個性のぶつかり合いこそが、本作の楽しさの源泉だ。
さらに、単独主演映画があるアイアンマン、ソー、キャプテン・アメリカ、ハルクと違い、これまで脇役に甘んじてきたホークアイとブラック・ウィドウに関しては、アクションの見せ場だけでなく、秘められた過去にまつわるエピソードを挿入することで、キャラクターを掘り下げて観客に親しみを持たせている。
これまではゲスト出演の域を出ていなかったS.H.I.E.L.D.長官ニック・フューリーの指揮官ぶりも見どころだ。
平和の維持が最優先である彼は、敵の攻撃を封じるには抑止力が欠かせないことを知っているし、必要であれば汚いことも厭わない。そのやり口はときに非情にも見えるが、そこまで踏み込んだ彼の行動が本作に深みを与えている。
その彼が命名した「アベンジャーズ」とは、復讐者という意味である。「復讐」なら『スター・ウォーズ エピソード3/シスの復讐』に使われた"revenge"という言葉があるけれど、"revenge"と"avenge"ではその意味するところがいささか異なる。
revenge: 私憤的な恨みをはらす。憎悪感がある。
avenge: 悪に対する正義の(非合法的)報復との含み。
―eプログレッシブ英和中辞典より―
アベンジャーズは、悪に対して敢然と立ち上がる者たちなのだ。そして彼らの活躍を描く本作は、幾つもの作品が世界を共有し、相互に関連しあうマーベル・シネマティック・ユニバースの集大成となる映画である。
この複雑な世界を把握すれば映画をより楽しめるという配慮からだろう。『アベンジャーズ』の公式サイトの情報は、近年稀に見るほど充実している。
特に、『アベンジャーズ』に至る5作品に散りばめられた伏線や、戦いの焦点となる四次元キューブがたどった運命を表にまとめてくれているのはありがたい。こんな情報は本国のサイトにだってないから、日本版サイトの制作者が大いに楽しみながら仕事をしたのだろう。
ところで、映画のたびに新型が登場するアイアンマンのスーツは、本作で遂にマークVIIになる。
その脱着シーンを手がけたのは、『トランスフォーマー』のトランスフォーム・シーンで知られる山口圭二氏だ。アメコミヒーローの中でもとりわけアイアンマンは日本の特撮・アニメの影響が濃厚であり、山口氏もトニー・スタークがマークVIIを装着するシーンを『宇宙の騎士テッカマン』で鎖帷子が体を巻いていくところをイメージしながら組み上げたという。
なるほど、アイアンマンの装着シーンに説得力を感じるのは、私たちが子供のころに刷り込まれた光景だからなのだ。
さて、本作でのチタウリ軍の地球侵略はアベンジャーズの活躍で阻止されるが、「アベンジャーズに戦いを挑めば死あるのみ」というチタウリからの報告は、あらゆる者の死を願うタイタン人サノスをかえって喜ばせてしまう。
この狂ったタイタン人との戦いは、引き続きジョス・ウェドンが監督する『アベンジャーズ2』で描かれることだろう。
『アベンジャーズ』 [あ行]
監督・脚本/ジョス・ウェドン 脚本/ザック・ペン
出演/ロバート・ダウニー・Jr クリス・エヴァンス マーク・ラファロ クリス・ヘムズワース スカーレット・ヨハンソン ジェレミー・レナー サミュエル・L・ジャクソン トム・ヒドルストン グウィネス・パルトロー クラーク・グレッグ ステラン・スカルスガルド コビー・スマルダーズ ダミオン・ポワチエ
日本公開/2012年8月14日
ジャンル/[アクション] [SF]
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怪物を前にしてアイアンマンことトニー・スタークが叫ぶ。
「ヨナじゃないんだからさ!」
そんなアイアンマンのぼやきが聞き届けられるはずもなく、戦いは激しさを増していく。ヨナってなんだよ、という観客の疑問は置いてけぼりである。
映画『アベンジャーズ』は全編その調子で、目まぐるしいことこの上ない。
突然はじまる量子トンネル効果の講釈も、ヒドラ党の悪だくみの話も、詳しく説明されることなく素っ飛ばされる。先行するシリーズ作品を見れば判ることなのか、単なる戯言なのか、吟味する間もありはしない。
そのテンポの早さが本作の魅力だ。
新幹線で旅しながら幕の内弁当をかっ込んでいるときに、漬物の素材を分析したり、窓外の一点をじっくり観察する人はいない。旅の楽しさは、そんなところにはないからだ。
本作でも、ヒドラ党の悪だくみなんか思い出さなくともキャプテン・アメリカに因縁があるらしいことが判ればいいし、量子トンネル効果を知らずともトニー・スタークとブルース・バナー博士が科学に詳しいことが判ればいい。もちろんその科学談義から、The Science and Entertainment Exchange により科学者が映画をコンサルテーションした成果を楽しんでも良い。
アイアンマンが口にしたヨナとは、旧約聖書の『ヨナ書』に登場する預言者であり、大きな魚に飲み込まれる物語で知られる。アイアンマンは、怪物に飲まれそうな自分をヨナに例えたわけだ。でもそんな話に意味はなくて、観客は、アイアンマンが危機に瀕しても軽口をたたくような男であると判ればいい。
みずから脚本も手掛けたジョス・ウェドン監督は、数々のヒーローたち、すなわちアイアンマン、マイティ・ソー、キャプテン・アメリカ、ハルク、ホークアイ、ブラック・ウィドウ、そしてニック・フューリーが集結するこのお祭り映画を、ごった煮の魅力で溢れさせることに徹している。
集団ヒーローというだけなら、X-MENシリーズや日本のスーパー戦隊シリーズ等の例もある。しかし、それらは最初から集団物として構想されているから、キャラクターのバランスが取れている。直情径行の者やお調子者、ニヒルな者らが、個性が被らないように配置されているのだ。
だが本作は、一枚看板を背負った主役が複数集結するものだから、アイアンマンとソーの俺様キャラが被ったり、ホークアイとブラック・ウィドウがいずれも凄腕スパイだったりと、煩雑なことこの上ない。そこにはウルトラ一族に見られる秩序立った上下関係も、歴代仮面ライダーのような先輩後輩の間柄もない。
だがその個性のぶつかり合いこそが、本作の楽しさの源泉だ。
さらに、単独主演映画があるアイアンマン、ソー、キャプテン・アメリカ、ハルクと違い、これまで脇役に甘んじてきたホークアイとブラック・ウィドウに関しては、アクションの見せ場だけでなく、秘められた過去にまつわるエピソードを挿入することで、キャラクターを掘り下げて観客に親しみを持たせている。
これまではゲスト出演の域を出ていなかったS.H.I.E.L.D.長官ニック・フューリーの指揮官ぶりも見どころだ。
平和の維持が最優先である彼は、敵の攻撃を封じるには抑止力が欠かせないことを知っているし、必要であれば汚いことも厭わない。そのやり口はときに非情にも見えるが、そこまで踏み込んだ彼の行動が本作に深みを与えている。
その彼が命名した「アベンジャーズ」とは、復讐者という意味である。「復讐」なら『スター・ウォーズ エピソード3/シスの復讐』に使われた"revenge"という言葉があるけれど、"revenge"と"avenge"ではその意味するところがいささか異なる。
revenge: 私憤的な恨みをはらす。憎悪感がある。
avenge: 悪に対する正義の(非合法的)報復との含み。
―eプログレッシブ英和中辞典より―
アベンジャーズは、悪に対して敢然と立ち上がる者たちなのだ。そして彼らの活躍を描く本作は、幾つもの作品が世界を共有し、相互に関連しあうマーベル・シネマティック・ユニバースの集大成となる映画である。
この複雑な世界を把握すれば映画をより楽しめるという配慮からだろう。『アベンジャーズ』の公式サイトの情報は、近年稀に見るほど充実している。
特に、『アベンジャーズ』に至る5作品に散りばめられた伏線や、戦いの焦点となる四次元キューブがたどった運命を表にまとめてくれているのはありがたい。こんな情報は本国のサイトにだってないから、日本版サイトの制作者が大いに楽しみながら仕事をしたのだろう。
ところで、映画のたびに新型が登場するアイアンマンのスーツは、本作で遂にマークVIIになる。
その脱着シーンを手がけたのは、『トランスフォーマー』のトランスフォーム・シーンで知られる山口圭二氏だ。アメコミヒーローの中でもとりわけアイアンマンは日本の特撮・アニメの影響が濃厚であり、山口氏もトニー・スタークがマークVIIを装着するシーンを『宇宙の騎士テッカマン』で鎖帷子が体を巻いていくところをイメージしながら組み上げたという。
なるほど、アイアンマンの装着シーンに説得力を感じるのは、私たちが子供のころに刷り込まれた光景だからなのだ。
さて、本作でのチタウリ軍の地球侵略はアベンジャーズの活躍で阻止されるが、「アベンジャーズに戦いを挑めば死あるのみ」というチタウリからの報告は、あらゆる者の死を願うタイタン人サノスをかえって喜ばせてしまう。
この狂ったタイタン人との戦いは、引き続きジョス・ウェドンが監督する『アベンジャーズ2』で描かれることだろう。
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監督・脚本/ジョス・ウェドン 脚本/ザック・ペン
出演/ロバート・ダウニー・Jr クリス・エヴァンス マーク・ラファロ クリス・ヘムズワース スカーレット・ヨハンソン ジェレミー・レナー サミュエル・L・ジャクソン トム・ヒドルストン グウィネス・パルトロー クラーク・グレッグ ステラン・スカルスガルド コビー・スマルダーズ ダミオン・ポワチエ
日本公開/2012年8月14日
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【theme : アベンジャーズ】
【genre : 映画】
tag : ジョス・ウェドンロバート・ダウニー・Jrクリス・エヴァンスマーク・ラファロクリス・ヘムズワーススカーレット・ヨハンソンジェレミー・レナーサミュエル・L・ジャクソントム・ヒドルストングウィネス・パルトロー