『ダークナイト ライジング』 バットマン最大の敵に立ち上がる
A hero can be anyone...
クリストファー・ノーラン監督は、三部作のテーマをそれぞれ一言で表現している。
『バットマン ビギンズ』は"Fear(恐怖)"。
『ダークナイト』は"Chaos(混乱)"。
そして『ダークナイト ライジング』は"Pain(苦悩)"である。
これら各作品でバットマンは強敵と戦ってきたが、シリーズ全体を通じてバットマンを悩ませるのは、悪魔の頭ラーズ・アル・グールでも、犯罪界の道化王子ジョーカーでも、傭兵ベインでもない。おそらくバットマンにとって最大の敵は、スケアクロウことジョナサン・クレインである。
キリアン・マーフィが演じるこの精神科医は、『バットマン ビギンズ』(2005年)においては幻覚ガスを撒き散らして人々の恐怖を煽り、『ダークナイト』(2008年)では精神異常を誘発する麻薬を売りさばき、『ダークナイト ライジング』(2012年)では司法が崩壊したゴッサム・シティでリンチ裁判の判事を務めている。
このシリーズの悪役たちは、幾つもの点でバットマンことブルース・ウェインと共通していたり、その裏返しであったりするのだが、とりわけリンチ裁判で判決を下すクレイン医師は、個人的な正義感から私刑を繰り返すブルース・ウェインが最終的に行き着く姿であるかもしれない。
クリストファー・ノーラン監督と脚本家のジョナサン・ノーランの兄弟は、本作を『二都物語』から着想しており、特にこのリンチ裁判はその中心的な題材である。『二都物語』はフランス革命を描いた小説だが、革命に立ち上がった民衆は残虐性に火がついて、わずか1年あまりのうちに16,594人をギロチン送りにしている。裁判なしで殺された者を含めれば、犠牲者は4万人に上るという。
もちろん、当時のフランスは歳入の9倍もの財政赤字を抱えながら、増税反対の声に押されて財政改革が挫折するありさまだったから、民衆が蜂起するのもとうぜんである(現在の日本の財政赤字も大きいが)。
しかし、自由と平等を掲げた人権宣言の採択ではじまったはずのフランス革命が、恐怖政治に転落するのは早かった。反対意見を述べる者は次々に粛清され、国全体であさま山荘事件が起きているような状態だった。
これが健全な国家運営であるはずがない。
『ダークナイト ライジング』の観客も、クレイン医師が被告を全員死刑にするリンチ裁判が適切であるとは思わないだろう。
けれども、それではバットマンがやっていることは何なのだろうか。
執事アルフレッドから警察に任せるように諭されても、キャットウーマンことセリーナ・カイルに「通報しないの?」と尋ねられても、ブルース・ウェインは自分の手で悪を追うことを止めようとしない。
いったい何の権限があってブルースはそんなことをしているのか。それを正当化するどんな理由があるというのか。
クリストファー・ノーラン監督は、シリーズを通じて何度も問いかけてきた。
正義とは何か。正義の執行とは何なのかを。
それは、すべてのスーパーヒーローと、スーパーヒーローを支持する市民が抱えている問題だ。
平凡な高校生がヒーロー気取りでうろつき回る『キック・アス』では、街の悪事に頬かむりする人々と、自警に立ち上がり暴走するヒーローの双方に眼差しを向けた。
レンチを持った中年男が物陰から襲いかかる『スーパー!』も、正義の味方を自認する男の暴力を取り上げた。
治安のためなら暴力も辞さない機関として、私たちは警察を設置している。警察が十全に機能していれば、私刑を行うマスクの男は不要かもしれない。
だが『ダークナイト ライジング』において、警察の機能は疑問視されている。
バットマンとして再び立ち上がったブルース・ウェインは、警察を無視して独力で悪を追い続ける。ブルースの盟友ジェームズ・ゴードン市警本部長は、(今回は怪我のために前線に出られない設定だが)やり方が汚いとなじられる。ピーター・フォーリー副本部長は、功名心が強いくせに、危機にあっては家に閉じこもっている。現場の警察官は杓子定規に命令に従うばかりで、市民の脱出を阻んでしまう。
わずかにジョセフ・ゴードン=レヴィット演じるジョン・ブレイクが熱血警察官として活躍するものの、彼も警察に愛想を尽かしていく。
警察が散々な扱いを受ける一方、市民たちは自警団を肥大化させ、気に入らない人間を次々にリンチ裁判にかけていく。
悪事に頬かむりせず立ち上がるとは、こういうことなのか。
そこでは、バットマンの最大の特徴もシニカルに描かれる。
公式サイトには、クリストファー・ノーラン監督がバットマンをどう見ているかが紹介されている。
「僕がバットマンというキャラクターにいつも惹かれてきたのは、これまでに何度も指摘してきたように、彼が巨額の富以外には何の超人的パワーももたないスーパーヒーローだという点なんだ」「彼が何か途方もないことをやってのけるとき、彼を突き動かしているのは極めて強い動機と純粋な献身だ。だからこそ、彼はとても信頼のおける人間なんだよ」
本作がフランス革命を背景にした『二都物語』からインスピレーションを得ているのも、バットマンが大富豪であり、貴族と平民という『二都物語』の対立軸がそのまま適用できるからだろう。
ノーラン監督は、バットマンが信頼のおける人間だというが、富裕層であるだけで民衆の恨みを買うのなら、バットマンの居場所はどこにあるのか。
そしてバットマンと対比するように、盗賊セリーナ・カイルが貧しさゆえに悪事に手を染めたことや、孤児院を出た子供たちはベインの傭兵となるしか行き場がないことが語られる。
はたして、巨額の富を持つブルース・ウェインがするべきだったのは、マスクとケープに身を包んで悪人退治に徘徊することだったのだろうか。
やがて市民たちの自警団と警察が衝突するとき、遂にバットマンは警察と共闘する。
そのとき警察官たちが叫ぶ「警察は一つだ」というセリフは、勝手に振る舞う自警団を否定するとともに、私刑執行人たるバットマンをも否定している。
とはいえ「立ち上がる」ことを巡る葛藤には、日米で温度差があるかもしれない。
上田紀行氏は、日本の学生に毎年こんな質問をしているという。
「あなたはメーカーに勤務し、東南アジアの工場で働くことになりました。そこでは有害物質を排出し、公害を引き起こしています。赴任早々、それに気づいたあなたは、上司に報告しましたが、効率重視の上司は『そうはいっても』と、改善しようとしません。さて、あなたはどうしますか?」
この問いに対する答えを3つ用意する。
(1) 実名で告発する。
(2) 匿名で告発する。
(3) 何もしない。
ここから学生に選ばせたら、どうなるだろう。
実は学生たちの8割以上が「(3) 何もしない」を選ぶということに、あなたは驚くだろうか、やっぱりと頷くだろうか。
上田紀行氏はこの結果を受けて、「答えたのはまだ会社に入っているわけでもない、会社に忠誠を誓っているわけでもない、学生たちなのです。これがはたして自由な社会で出てくる比率でしょうか?」と疑問を呈している。
不正の告発に対して、「告げ口しやがって」と責めるのではなく、「偉い」「立派だ」と称える文化がなければ、正義のために立ち上がる映画は意味を持たない。
ちなみに財団法人日本青少年研究所が2007年4月に発表した「高校生の意欲に関する調査」によれば、日米中韓4ヶ国のうち、日本の高校生に顕著な点が一つある。
「偉くなりたいか」という設問に、「偉くなりたいと思う」「強くそう思う」と答えた人が、中国34.4%、韓国22.9%、米国で22.3%いるのに比べ、日本は8.0%しかいないのだ。
そもそも日本と他国では、偉くなることの捉え方が違っている。
米中韓では偉くなることを「自分の能力をより発揮できる」「周りに尊敬される」と肯定的に捉えているのに対し、日本人は偉くなると「責任が重くなる」「自分の時間がなくなる」と回答している。
思えば、スパイダーマンは「大いなる力には、大いなる責任が伴う」という言葉を噛みしめて、責任をまっとうしようとした。
一方バットマンは、クリストファー・ノーラン監督が云うように何の超人的パワーも持たないが、それでも立ち上がろうとする。
だから『ダークナイト ライジング』が強調するのは、「バットマンには誰でもなれる」ということだ。
映画の中盤、ブルース・ウェインは、バットマンを待望する警察官ジョン・ブレイクとの会話において「バットマンには誰でもなれるさ」と気のない返事をする。
しかし終盤、バットマンの正体を知りたいというゴードン本部長に、バットマンは答える。
「バットマンには誰でもなれるのだ。」
( A hero can be anyone. Even a man doing something as simple and reassuring as putting a coat around a little boy's shoulders to let him know that the world hadn't ended. )
『ダークナイト ライジング』では、立ち上がるのはすでに当然のことなのだ。
その上でいかに独善に陥らず、人々と協調し、理性的に立ち上がるかが問われている。
前二作と同様、本作においてもスケアクロウことジョナサン・クレインは姿をくらましてしまった。人々に恐怖を植え付け、社会不安を煽り、でたらめな断罪で他人を攻撃する者は、バットマンにも片付けられない難敵なのだ。
それが手強いのは、爆弾犯や殺人犯のような特定の人物を倒せば済むものではないからだろう。
ところで、上田紀行氏の話には続きがある。
2011年、日本は大きな災難に見舞われた。誰もが、自分には何ができるかを考えた。
その後、上田紀行氏が例年と同じ質問をしたところ、6割以上の学生が「告発する」と答えたという。
『ダークナイト ライジング』 [た行]
監督・制作・原案・脚本/クリストファー・ノーラン
脚本/ジョナサン・ノーラン
出演/クリスチャン・ベイル マイケル・ケイン ゲイリー・オールドマン アン・ハサウェイ トム・ハーディ マリオン・コティヤール ジョセフ・ゴードン=レヴィット モーガン・フリーマン キリアン・マーフィ
日本公開/2012年7月28日
ジャンル/[アクション] [サスペンス] [犯罪] [SF]
http://bookmarks.yahoo.co.jp/bookmarklet/showpopup?t='+encodeURIComponent(document.title)+'&u='+encodeURIComponent(location.href)+'&ei=UTF-8','_blank','width=550,height=480,left=100,top=50,scrollbars=1,resizable=1',0);">
クリストファー・ノーラン監督は、三部作のテーマをそれぞれ一言で表現している。
『バットマン ビギンズ』は"Fear(恐怖)"。
『ダークナイト』は"Chaos(混乱)"。
そして『ダークナイト ライジング』は"Pain(苦悩)"である。
これら各作品でバットマンは強敵と戦ってきたが、シリーズ全体を通じてバットマンを悩ませるのは、悪魔の頭ラーズ・アル・グールでも、犯罪界の道化王子ジョーカーでも、傭兵ベインでもない。おそらくバットマンにとって最大の敵は、スケアクロウことジョナサン・クレインである。
キリアン・マーフィが演じるこの精神科医は、『バットマン ビギンズ』(2005年)においては幻覚ガスを撒き散らして人々の恐怖を煽り、『ダークナイト』(2008年)では精神異常を誘発する麻薬を売りさばき、『ダークナイト ライジング』(2012年)では司法が崩壊したゴッサム・シティでリンチ裁判の判事を務めている。
このシリーズの悪役たちは、幾つもの点でバットマンことブルース・ウェインと共通していたり、その裏返しであったりするのだが、とりわけリンチ裁判で判決を下すクレイン医師は、個人的な正義感から私刑を繰り返すブルース・ウェインが最終的に行き着く姿であるかもしれない。
クリストファー・ノーラン監督と脚本家のジョナサン・ノーランの兄弟は、本作を『二都物語』から着想しており、特にこのリンチ裁判はその中心的な題材である。『二都物語』はフランス革命を描いた小説だが、革命に立ち上がった民衆は残虐性に火がついて、わずか1年あまりのうちに16,594人をギロチン送りにしている。裁判なしで殺された者を含めれば、犠牲者は4万人に上るという。
もちろん、当時のフランスは歳入の9倍もの財政赤字を抱えながら、増税反対の声に押されて財政改革が挫折するありさまだったから、民衆が蜂起するのもとうぜんである(現在の日本の財政赤字も大きいが)。
しかし、自由と平等を掲げた人権宣言の採択ではじまったはずのフランス革命が、恐怖政治に転落するのは早かった。反対意見を述べる者は次々に粛清され、国全体であさま山荘事件が起きているような状態だった。
これが健全な国家運営であるはずがない。
『ダークナイト ライジング』の観客も、クレイン医師が被告を全員死刑にするリンチ裁判が適切であるとは思わないだろう。
けれども、それではバットマンがやっていることは何なのだろうか。
執事アルフレッドから警察に任せるように諭されても、キャットウーマンことセリーナ・カイルに「通報しないの?」と尋ねられても、ブルース・ウェインは自分の手で悪を追うことを止めようとしない。
いったい何の権限があってブルースはそんなことをしているのか。それを正当化するどんな理由があるというのか。
クリストファー・ノーラン監督は、シリーズを通じて何度も問いかけてきた。
正義とは何か。正義の執行とは何なのかを。
それは、すべてのスーパーヒーローと、スーパーヒーローを支持する市民が抱えている問題だ。
平凡な高校生がヒーロー気取りでうろつき回る『キック・アス』では、街の悪事に頬かむりする人々と、自警に立ち上がり暴走するヒーローの双方に眼差しを向けた。
レンチを持った中年男が物陰から襲いかかる『スーパー!』も、正義の味方を自認する男の暴力を取り上げた。
治安のためなら暴力も辞さない機関として、私たちは警察を設置している。警察が十全に機能していれば、私刑を行うマスクの男は不要かもしれない。
だが『ダークナイト ライジング』において、警察の機能は疑問視されている。
バットマンとして再び立ち上がったブルース・ウェインは、警察を無視して独力で悪を追い続ける。ブルースの盟友ジェームズ・ゴードン市警本部長は、(今回は怪我のために前線に出られない設定だが)やり方が汚いとなじられる。ピーター・フォーリー副本部長は、功名心が強いくせに、危機にあっては家に閉じこもっている。現場の警察官は杓子定規に命令に従うばかりで、市民の脱出を阻んでしまう。
わずかにジョセフ・ゴードン=レヴィット演じるジョン・ブレイクが熱血警察官として活躍するものの、彼も警察に愛想を尽かしていく。
警察が散々な扱いを受ける一方、市民たちは自警団を肥大化させ、気に入らない人間を次々にリンチ裁判にかけていく。
悪事に頬かむりせず立ち上がるとは、こういうことなのか。
そこでは、バットマンの最大の特徴もシニカルに描かれる。
公式サイトには、クリストファー・ノーラン監督がバットマンをどう見ているかが紹介されている。
「僕がバットマンというキャラクターにいつも惹かれてきたのは、これまでに何度も指摘してきたように、彼が巨額の富以外には何の超人的パワーももたないスーパーヒーローだという点なんだ」「彼が何か途方もないことをやってのけるとき、彼を突き動かしているのは極めて強い動機と純粋な献身だ。だからこそ、彼はとても信頼のおける人間なんだよ」
本作がフランス革命を背景にした『二都物語』からインスピレーションを得ているのも、バットマンが大富豪であり、貴族と平民という『二都物語』の対立軸がそのまま適用できるからだろう。
ノーラン監督は、バットマンが信頼のおける人間だというが、富裕層であるだけで民衆の恨みを買うのなら、バットマンの居場所はどこにあるのか。
そしてバットマンと対比するように、盗賊セリーナ・カイルが貧しさゆえに悪事に手を染めたことや、孤児院を出た子供たちはベインの傭兵となるしか行き場がないことが語られる。
はたして、巨額の富を持つブルース・ウェインがするべきだったのは、マスクとケープに身を包んで悪人退治に徘徊することだったのだろうか。
やがて市民たちの自警団と警察が衝突するとき、遂にバットマンは警察と共闘する。
そのとき警察官たちが叫ぶ「警察は一つだ」というセリフは、勝手に振る舞う自警団を否定するとともに、私刑執行人たるバットマンをも否定している。
とはいえ「立ち上がる」ことを巡る葛藤には、日米で温度差があるかもしれない。
上田紀行氏は、日本の学生に毎年こんな質問をしているという。
「あなたはメーカーに勤務し、東南アジアの工場で働くことになりました。そこでは有害物質を排出し、公害を引き起こしています。赴任早々、それに気づいたあなたは、上司に報告しましたが、効率重視の上司は『そうはいっても』と、改善しようとしません。さて、あなたはどうしますか?」
この問いに対する答えを3つ用意する。
(1) 実名で告発する。
(2) 匿名で告発する。
(3) 何もしない。
ここから学生に選ばせたら、どうなるだろう。
実は学生たちの8割以上が「(3) 何もしない」を選ぶということに、あなたは驚くだろうか、やっぱりと頷くだろうか。
上田紀行氏はこの結果を受けて、「答えたのはまだ会社に入っているわけでもない、会社に忠誠を誓っているわけでもない、学生たちなのです。これがはたして自由な社会で出てくる比率でしょうか?」と疑問を呈している。
不正の告発に対して、「告げ口しやがって」と責めるのではなく、「偉い」「立派だ」と称える文化がなければ、正義のために立ち上がる映画は意味を持たない。
ちなみに財団法人日本青少年研究所が2007年4月に発表した「高校生の意欲に関する調査」によれば、日米中韓4ヶ国のうち、日本の高校生に顕著な点が一つある。
「偉くなりたいか」という設問に、「偉くなりたいと思う」「強くそう思う」と答えた人が、中国34.4%、韓国22.9%、米国で22.3%いるのに比べ、日本は8.0%しかいないのだ。
そもそも日本と他国では、偉くなることの捉え方が違っている。
米中韓では偉くなることを「自分の能力をより発揮できる」「周りに尊敬される」と肯定的に捉えているのに対し、日本人は偉くなると「責任が重くなる」「自分の時間がなくなる」と回答している。
思えば、スパイダーマンは「大いなる力には、大いなる責任が伴う」という言葉を噛みしめて、責任をまっとうしようとした。
一方バットマンは、クリストファー・ノーラン監督が云うように何の超人的パワーも持たないが、それでも立ち上がろうとする。
だから『ダークナイト ライジング』が強調するのは、「バットマンには誰でもなれる」ということだ。
映画の中盤、ブルース・ウェインは、バットマンを待望する警察官ジョン・ブレイクとの会話において「バットマンには誰でもなれるさ」と気のない返事をする。
しかし終盤、バットマンの正体を知りたいというゴードン本部長に、バットマンは答える。
「バットマンには誰でもなれるのだ。」
( A hero can be anyone. Even a man doing something as simple and reassuring as putting a coat around a little boy's shoulders to let him know that the world hadn't ended. )
『ダークナイト ライジング』では、立ち上がるのはすでに当然のことなのだ。
その上でいかに独善に陥らず、人々と協調し、理性的に立ち上がるかが問われている。
前二作と同様、本作においてもスケアクロウことジョナサン・クレインは姿をくらましてしまった。人々に恐怖を植え付け、社会不安を煽り、でたらめな断罪で他人を攻撃する者は、バットマンにも片付けられない難敵なのだ。
それが手強いのは、爆弾犯や殺人犯のような特定の人物を倒せば済むものではないからだろう。
ところで、上田紀行氏の話には続きがある。
2011年、日本は大きな災難に見舞われた。誰もが、自分には何ができるかを考えた。
その後、上田紀行氏が例年と同じ質問をしたところ、6割以上の学生が「告発する」と答えたという。

監督・制作・原案・脚本/クリストファー・ノーラン
脚本/ジョナサン・ノーラン
出演/クリスチャン・ベイル マイケル・ケイン ゲイリー・オールドマン アン・ハサウェイ トム・ハーディ マリオン・コティヤール ジョセフ・ゴードン=レヴィット モーガン・フリーマン キリアン・マーフィ
日本公開/2012年7月28日
ジャンル/[アクション] [サスペンス] [犯罪] [SF]


【theme : ダークナイト ライジング(The Dark Knight Rises)】
【genre : 映画】
tag : クリストファー・ノーランクリスチャン・ベイルマイケル・ケインゲイリー・オールドマンアン・ハサウェイトム・ハーディマリオン・コティヤールジョセフ・ゴードン=レヴィットモーガン・フリーマンキリアン・マーフィ
『ローマ法王の休日』 映画が楽しめない、という人に
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ローマ法王は、かつてローマ帝国の首都だったローマの司教である。
数あるキリスト教の教会の中でも、ローマ・カトリック教会はもっとも信徒が多く、その数は11億人以上と云われる。
日本の教会では「ローマ教皇(きょうこう)」と表記するのだが、邦題はマスコミの慣例に従って「法王(ほうおう)」としている。
それはともかく、『ローマ法王の休日』とは実に秀逸な邦題だ。上映の際にスクリーンに映し出された邦題は、「法王」の字が少しばかり小さくなっていた。
公式サイトで述べているように、本作は法王版の『ローマの休日』なのだ。
『ローマの休日』といえば、今でも多くの人がロマンチック・コメディの代表として挙げる名作だ。ローマ法王と『ローマの休日』を引っ掛けるだけで、本作が愉快な映画であることは伝わってくる。
だが、本作は単に楽しいだけの映画ではない。コメディとしてだけでなく、もっと奥深いところで『ローマの休日』に繋がっているのだ。
映画は法王の葬儀からはじまる。
カトリックの総本山たるバチカンでは、世界中から集まった枢機卿がコンクラーヴェ(教皇選挙)を行い、新たな法王を選出しようとしている。
ところが投票で選ばれたメルヴィルが、新法王として挨拶する直前に「無理だ」と云いはじめたから、さぁ大変!
法王の選挙制度は長い歴史の中で形作られたものである。その手続で選ばれた法王は、多くの枢機卿から信任されただけでなく、神の意志によって選ばれたといえる。
それはメルヴィルも充分に理解しており、だからこそ彼も法王の大役をきちんと果たしたいと願っている。
ところが、どうしてもそれができない。
だから、まずは本人も周りも心身の異常を疑った。
けれど、医者に体を診てもらっても、精神科医に相談しても、サッパリ埒が明かない。
事態が進展しないまま、時間ばかりが過ぎていく……。
というのが映画の筋であり、そのまま1時間45分の映画は幕を閉じる。
それじゃあ起承転結の転も結もないじゃないかと思われるだろうが、そのとおり。この映画には目立った転だの結だのはない。
それよりも、こまごまとしたエピソードの積み重ねがジワジワと効いてくるのが魅力だろう。
コンクラーヴェでは、枢機卿団の3分の2以上の票を得なければならない。有力視される枢機卿といえども3分の2以上を制することができず、投票は何度も繰り返される。
そのたびに選出されなかった枢機卿はさぞかし悔しがっているだろうと思いきや、なんと誰も彼もが心の中で祈っているのは「神よ、私が選ばれませんように」ということだ。
これには観客もついニヤニヤしてしまうことだろう。
さらにおかしいのが、集まった枢機卿たちが睡眠薬や抗精神病薬に頼っていることだ。
枢機卿といえば聖職者の中でも特に高位の人たちだ。司祭に悩みを相談する信徒からすれば、枢機卿は遥かな高みの存在だ。悩みに煩わされることなど、ないものと思いがちだ。
その彼らが実は睡眠薬に頼らなければ眠ることもできないのだから、枢機卿のイメージを引っ繰り返すシーンである。
そんな悩み多き枢機卿たちが、晴れ晴れとした表情を見せるのがバレーボールの試合だ。
精神科医の発案で、枢機卿たちは地域ごとに分かれてバレーのリーグ戦を行う。その彼らの何と楽しげなことか。宗教の中心を担う人々が、宗教とは関係のないところで元気を取り戻すとはケッサクだ。
しかも取り組むスポーツが他でもないバレーボールなのは、日本人も親しみを覚えるところだろう。なにしろイタリアは日本のアニメ『アタックNo.1』の影響で、バレーボールが盛んになった国だ。1969年に作られた『アタックNo.1』が時代遅れになると、後継作品を作ってまでアニメでバレーを振興している。
おかしいのは、枢機卿のあいだを練り歩く精神科医も同様だ。
彼は聖書を読むなり、ここに書かれているのは鬱病の症状だと叫び出す。よりによって枢機卿たちを前にして、彼らの信仰の根幹を揺るがしかねない発言である。
そして何よりおかしみを感じさせるのが、主人公メルヴィルだろう。
彼はかつて役者志望だった。こんにちのメルヴィルは、役者になれなかった挫折の結果でしかないのだ。そんな彼は、新法王に選ばれて全カトリック教会の統治者となったものの、実は懸命に聖職者を演じてきただけなのかもしれない。
しかも彼は、法王として信者たちの前に立つことはできないのに、紛れ込んだ劇団で俳優の代役を務めようと申し出る。本当にやりたいことはできるのだ。
その上、街の教会に入り込むと、神父の説教に耳を傾けたりもする。
他ならぬ法王が!一介の神父の話に耳を傾ける!
なんとも愉快な場面である。
本作にはそんなエピソードが連なるけれど、決してカトリックを批判したり愚弄したりするものではない。
コンクラーヴェの会場を抜け出したまま当てもなくさまようメルヴィルも、メルヴィルが戻らないので時間潰しに興じる枢機卿たちも、愛すべき人たちとして描かれている。彼らは観客をゲラゲラ笑わせたりはしないが、どうにも憎めない人物なのだ。
そして最後にメルヴィルがたどり着く結論は、映画としては異色である。
彼は最後にちゃんと認識するのだ。自分は法王を務めるには力不足だと。とても自分にはできないと。
その結末に、多くの観客は呆気にとられるに違いない。
みんなから選ばれた上での大役を投げ出してしまうメルヴィルは、いったいどう見えるだろうか。いい加減な人間だと思うだろうか? 軽蔑すべきか?
そうかもしれない。
そうかもしれないが、一方でメルヴィルに癒される人もいるのではないだろうか。
見渡せば、私たちの周りには人を鼓舞する作品が溢れている。
曰く、努力すれば報われる。諦めなければ夢は叶う。頑張ろう、前向きにいこう。
それはそれで素晴らしいメッセージだ。そういう作品に勇気づけられる人もいるだろう。与えられた大役を果たそうと頑張る人もいるだろう。前向きな主人公に感動したり、立派な生き様に憧れたりもするだろう。
けれどもそういう映画ばかりだったら、夢を持ち続けられなかった人はどれを観れば良いのだろう。役割を果たせなかったと自分を責めている人は、どうすれば良いのだろう。挫折した人や、頑張れなかった人は、「頑張れ」「必ず良いことがある」という映画を観て楽しいだろうか。
人によっては、前向きなメッセージが眩し過ぎることもあるだろう。そんな人には、こともあろうに法王がその座を投げ出す本作が、実は癒しになるのではないか。
なんといっても法王なのだから。彼は人々が悩んだとき、困ったときに相談する聖職者の中でも最高位の人であり、11億の信徒の精神的指導者なのだ。その彼ですら、できないものはできないのである。自分には無理だと云って、役割を降りてしまうのだ。
いわんや、市井の私たちが頑張れないからといって、責任を果たせないからといって、これ以上自分を責める必要があるだろうか。
『ローマの休日』のアン王女は立派だった。休日は休日として楽しみながら、ときが来れば自分の職務に戻っていった。
誰だって立派に振る舞いたい、振る舞わなければならないと思っている。
けれども、みんながみんなアン王女のようにできるわけではない。
アン王女だって、職務を投げ出したままの方が幸せだったかもしれないのだ。
『ローマ法王の休日』のメルヴィルは、情けなく見えるかもしれない。
彼の結論に腹を立てる人がいるかもしれない。
だが一方ではこの映画を観て、自分にのしかかっていた重しが取れたように感じる人もいよう。かすかな安堵を覚える人もいよう。
そんな映画があってもいいのではないだろうか。
![ローマ法王の休日 [DVD]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/51rU5iKj6nL._SL160_.jpg)
監督・制作・原案・脚本/ナンニ・モレッティ
原案・脚本/フランチェスコ・ピッコロ、フェデリカ・ポントレモーリ
出演/ミシェル・ピッコリ イエルジー・スチュエル レナート・スカルパ ナンニ・モレッティ マルゲリータ・ブイ フランコ・グラツィオージ カミーロ・ミッリ ダリオ・カンタレッリ ロベルト・ノービレ ジャンルカ・ゴビ
日本公開/2012年7月21日
ジャンル/[コメディ] [ドラマ]


【theme : ヨーロッパ映画】
【genre : 映画】
tag : ナンニ・モレッティミシェル・ピッコリイエルジー・スチュエルレナート・スカルパマルゲリータ・ブイフランコ・グラツィオージカミーロ・ミッリダリオ・カンタレッリロベルト・ノービレジャンルカ・ゴビ
『おおかみこどもの雨と雪』 ことはそう単純ではない
【ネタバレ注意】
一見すると、『おおかみこどもの雨と雪』は細田守監督の前作『サマーウォーズ』(2009年)の延長のようだ。
だが、ことはそう単純ではない。
『おおかみこどもの雨と雪』は、大きく三つのパートからなっている。
第1のパートは、大学生の花(はな)が"おおかみおとこ"と出会い、都会の片隅で小さな家庭を築くまで。
第2のパートは、二人の子供を抱えた花が、農村に居場所を見つけて生活を確立するまで。
第3のパートは、成長した子供たちがそれぞれ自分の世界を見出していくまでだ。
本作が描くのは時間にしてわずか13年の出来事に過ぎないが、繰り返し語られる父の死(花の父の死、"おおかみおとこ"の父の死、雪と雨の父の死、父親代わりの先生の死)と、子供たちの成長ぶりによって、作品は大河ドラマの風格を備えている。
そして『サマーウォーズ』で取り上げた田舎の暮らしと、人々との交流が、ここではさらに強調される。
主人公の女性が農村での生活を選ぶことや、農村の人々と信頼を築いていく様は、かつて高畑勲監督が『おもいでぽろぽろ』(1991年)でも描いており、古くは黒澤明監督の『わが青春に悔なし』(1946年)でも描かれた。
だが、アニメーションで農村を写実的に捉えるという高畑勲監督の手法は、1991年当時こそ新鮮だったものの、2012年の今、ただそれを繰り返すわけにはいかない。
そこで本作は、農村での生活を描写するのは主に第2パートまでにして、第3パートでは自然の奥深さとの対峙へと物語を押し進める。
観客にとって明らかなように、狼は自然を代表しており、"おおかみおとこ"と"おおかみこども"は、自然と人間双方のメタファーである。すなわち花の子供たちが、自然の化身たる狼に変身するのは、アニメーションならではの自然の具現化である。
そして花が都会を離れて農村への移住を選んだように、子供たちも人間との交流を重視するか、自然の中へ深く分け入っていくかを選択することになる。
これは『サマーウォーズ』が包含していた「田舎暮らし」というテーマを、よりラジカルに突きつめた結果であろう。
その意味で、細田監督が『サマーウォーズ』の次に本作を発表したのは必然である。
ところが本作は、実のところ『サマーウォーズ』とは正反対の作品だ。
『サマーウォーズ』も『おおかみこどもの雨と雪』も、人と人との繋がりや助け合いを描いているように見える。
しかし、両者における人の繋がり方はまったく異なっており、それは細田監督のイメージする社会の分裂でもある。
『おおかみこどもの雨と雪』が重視するのは地縁である。
花が移り住んだ農村では、同じムラに住む者同士が助け合い、融通し合うことで、過酷な自然と闘っている。これは日本の伝統的な共同体の姿であり、居住地の移動が制限されていた江戸時代に一つの完成を見たものだ。先祖から受けついだ土地に執着し続ける「一所懸命」転じて「一生懸命」なる言葉は、今の日本でも美徳として語られる。
他方、『サマーウォーズ』での助け合いに、居住地は関係ない。
現在の日本そのままに、人々は世界のどこにでも自由に移り住める。そこで人々を結びつけるのは、インターネットだったり、電話だったり、昔の手紙だったりする。地理的な遠近は関係ないのだ。
そしてもっとも重視されるのが家族である。家族であればこそ、どんなに遠く離れていても、長いあいだ会わずにいても、みんな共同体の一員なのだ。
これは中国人が宗族(そうぞく)と呼ばれる父系血縁のネットワークで助け合うことに似ている。1000年以上も前から移動の自由があった中国人にとって、住む場所はさして重要ではない。日本にも2010年末現在で中国・台湾人が68万7000人おり、東京都民の80人に1人は中国・台湾人だそうである。移動の自由が当たり前の人々にとって、地縁にさしたる意味はない。だから積極的に移民しつつ、血縁のネットワークを大事にするのだろう。
與那覇潤氏は著書『中国化する日本』において、このような社会の二つの方向性を「再江戸時代化」と「中国化」として説明した。前者の特徴は「人間関係のコミュニティ化」(=近くて深い地域社会の結束)であり、後者の特徴は「人間関係のネットワーク化」(=広く浅い個人的なコネクション)である。
まさしく本作と『サマーウォーズ』は、この二つの方向性をそれぞれ描いているのだ。
日本はその歴史において、「中国化」と「江戸時代化」を行きつ戻りつしてきた。
平清盛が宋を手本に中国化を進めようとすれば、源頼朝が立ちはだかって江戸時代化を推進した。
後醍醐天皇が中国化を進めようとしても、足利尊氏が元に戻して、また江戸時代に近づけてしまう。
やがて登場した江戸時代に、ようやく明治維新でピリオドを打ったはずなのに、今度は軍国主義と名を変えて江戸時代的施策が復活する(江戸時代の五人組が、昭和期には隣組として復活したのはその一例だろう)。
細田守監督は、今も「中国化」と「再江戸時代化」のはざまにいる私たちに向けて、それぞれの特徴を提示してみせた。
けれども、いずれが私たちの行く末であるかまでは示していない。
はたして私たちが進む未来は、『サマーウォーズ』だろうか。『おおかみこどもの雨と雪』だろうか。
『おおかみこどもの雨と雪』 [あ行]
監督・原作・脚本/細田守 脚本/奥寺佐渡子
出演/宮崎あおい 大沢たかお 菅原文太 黒木華 西井幸人 大野百花 加部亜門 平岡拓真 林原めぐみ 染谷将太 谷村美月 麻生久美子
日本公開/2012年7月21日
ジャンル/[ドラマ] [ファミリー] [ファンタジー]
http://bookmarks.yahoo.co.jp/bookmarklet/showpopup?t='+encodeURIComponent(document.title)+'&u='+encodeURIComponent(location.href)+'&ei=UTF-8','_blank','width=550,height=480,left=100,top=50,scrollbars=1,resizable=1',0);">
一見すると、『おおかみこどもの雨と雪』は細田守監督の前作『サマーウォーズ』(2009年)の延長のようだ。
だが、ことはそう単純ではない。
『おおかみこどもの雨と雪』は、大きく三つのパートからなっている。
第1のパートは、大学生の花(はな)が"おおかみおとこ"と出会い、都会の片隅で小さな家庭を築くまで。
第2のパートは、二人の子供を抱えた花が、農村に居場所を見つけて生活を確立するまで。
第3のパートは、成長した子供たちがそれぞれ自分の世界を見出していくまでだ。
本作が描くのは時間にしてわずか13年の出来事に過ぎないが、繰り返し語られる父の死(花の父の死、"おおかみおとこ"の父の死、雪と雨の父の死、父親代わりの先生の死)と、子供たちの成長ぶりによって、作品は大河ドラマの風格を備えている。
そして『サマーウォーズ』で取り上げた田舎の暮らしと、人々との交流が、ここではさらに強調される。
主人公の女性が農村での生活を選ぶことや、農村の人々と信頼を築いていく様は、かつて高畑勲監督が『おもいでぽろぽろ』(1991年)でも描いており、古くは黒澤明監督の『わが青春に悔なし』(1946年)でも描かれた。
だが、アニメーションで農村を写実的に捉えるという高畑勲監督の手法は、1991年当時こそ新鮮だったものの、2012年の今、ただそれを繰り返すわけにはいかない。
そこで本作は、農村での生活を描写するのは主に第2パートまでにして、第3パートでは自然の奥深さとの対峙へと物語を押し進める。
観客にとって明らかなように、狼は自然を代表しており、"おおかみおとこ"と"おおかみこども"は、自然と人間双方のメタファーである。すなわち花の子供たちが、自然の化身たる狼に変身するのは、アニメーションならではの自然の具現化である。
そして花が都会を離れて農村への移住を選んだように、子供たちも人間との交流を重視するか、自然の中へ深く分け入っていくかを選択することになる。
これは『サマーウォーズ』が包含していた「田舎暮らし」というテーマを、よりラジカルに突きつめた結果であろう。
その意味で、細田監督が『サマーウォーズ』の次に本作を発表したのは必然である。
ところが本作は、実のところ『サマーウォーズ』とは正反対の作品だ。
『サマーウォーズ』も『おおかみこどもの雨と雪』も、人と人との繋がりや助け合いを描いているように見える。
しかし、両者における人の繋がり方はまったく異なっており、それは細田監督のイメージする社会の分裂でもある。
『おおかみこどもの雨と雪』が重視するのは地縁である。
花が移り住んだ農村では、同じムラに住む者同士が助け合い、融通し合うことで、過酷な自然と闘っている。これは日本の伝統的な共同体の姿であり、居住地の移動が制限されていた江戸時代に一つの完成を見たものだ。先祖から受けついだ土地に執着し続ける「一所懸命」転じて「一生懸命」なる言葉は、今の日本でも美徳として語られる。
他方、『サマーウォーズ』での助け合いに、居住地は関係ない。
現在の日本そのままに、人々は世界のどこにでも自由に移り住める。そこで人々を結びつけるのは、インターネットだったり、電話だったり、昔の手紙だったりする。地理的な遠近は関係ないのだ。
そしてもっとも重視されるのが家族である。家族であればこそ、どんなに遠く離れていても、長いあいだ会わずにいても、みんな共同体の一員なのだ。
これは中国人が宗族(そうぞく)と呼ばれる父系血縁のネットワークで助け合うことに似ている。1000年以上も前から移動の自由があった中国人にとって、住む場所はさして重要ではない。日本にも2010年末現在で中国・台湾人が68万7000人おり、東京都民の80人に1人は中国・台湾人だそうである。移動の自由が当たり前の人々にとって、地縁にさしたる意味はない。だから積極的に移民しつつ、血縁のネットワークを大事にするのだろう。
與那覇潤氏は著書『中国化する日本』において、このような社会の二つの方向性を「再江戸時代化」と「中国化」として説明した。前者の特徴は「人間関係のコミュニティ化」(=近くて深い地域社会の結束)であり、後者の特徴は「人間関係のネットワーク化」(=広く浅い個人的なコネクション)である。
まさしく本作と『サマーウォーズ』は、この二つの方向性をそれぞれ描いているのだ。
日本はその歴史において、「中国化」と「江戸時代化」を行きつ戻りつしてきた。
平清盛が宋を手本に中国化を進めようとすれば、源頼朝が立ちはだかって江戸時代化を推進した。
後醍醐天皇が中国化を進めようとしても、足利尊氏が元に戻して、また江戸時代に近づけてしまう。
やがて登場した江戸時代に、ようやく明治維新でピリオドを打ったはずなのに、今度は軍国主義と名を変えて江戸時代的施策が復活する(江戸時代の五人組が、昭和期には隣組として復活したのはその一例だろう)。
細田守監督は、今も「中国化」と「再江戸時代化」のはざまにいる私たちに向けて、それぞれの特徴を提示してみせた。
けれども、いずれが私たちの行く末であるかまでは示していない。
はたして私たちが進む未来は、『サマーウォーズ』だろうか。『おおかみこどもの雨と雪』だろうか。
![おおかみこどもの雨と雪 BD(本編1枚+特典ディスク1枚) [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/51m-QUySgGL._SL160_.jpg)
監督・原作・脚本/細田守 脚本/奥寺佐渡子
出演/宮崎あおい 大沢たかお 菅原文太 黒木華 西井幸人 大野百花 加部亜門 平岡拓真 林原めぐみ 染谷将太 谷村美月 麻生久美子
日本公開/2012年7月21日
ジャンル/[ドラマ] [ファミリー] [ファンタジー]


『先生を流産させる会』 埋められたい願い
「先生を流産させる会」という、これ以上ないほどの悪意を込めた会を結成した中学生たち。彼らの標的にされた女性教師。その同僚や上司の保身、親たちの支配欲。さらに傍観しながら笑っている大勢の生徒たち。
この題名は衝撃的だ。「先生」からは教育現場が、「流産」からは生命倫理が、「させる会」からは同調圧力に満ちた社会が、異臭を放ちながら私たちに迫ってくる。
何より衝撃なのは、「先生を流産させる会」が実在したことだ。
パンフレット収録のインタビューによれば、内藤監督もその名称に衝撃を受けたという。
---
「先生を殺す会」より「流産させる会」のほうがはるかにおぞましい印象がある。悪意のあり方として、人間の最も否定されたくない部分を否定されたようなニュアンスを感じる。だからこそ、この題材を描くことで僕たちが肯定したいものを逆説的に描けるだろう、と思いました。
---
映画『『先生を流産させる会』の上映時間は62分。一般の長編映画に比べれば短いかもしれない。
しかし、目を覆い、耳を塞ぎたくなるようなこの映画は、短いなんて感じないだろう。上映が終わり、場内が明るくなったとき、観客は映画から受けたものの重さにうな垂れると同時に、ようやく解放されたことに安堵するはずだ。
この強烈な映画を撮った内藤瑛亮監督とは、さぞかしアクの強い人物だろうと思ったら、上映後に登壇したのはさらりとした好青年だった。
2012年7月20日、オーディトリウム渋谷での夜の上映の最終日、内藤監督は満場の客席に向かって「埋める」ことについて語ってくれた。
内藤瑛亮監督は愛知県の三河地方のご出身だそうである。
その地域では古くから土葬が行われており、監督は穴掘り当番になった祖父に連れられて、墓堀の現場を見ていたという。
墓堀は死者の親族がやってはならないため、当番になった祖父があちこちの家の墓を掘る。広い土地に、家ごとの墓を掘る場所が決まっており、掘っていると土の中から骨が出てくることもある。
この習慣は今ではあまり行われず、火葬が一般的になってきたそうだ。親族が穴を掘れないということは、必ず他の家に墓堀を頼まなくてはならないのだが、ムラの中の結びつきが希薄になるとこのような頼みごとは難しいのだ。
けれども、内藤監督の祖父は、自分が死んだら土葬がいいと云うそうだ。
土葬では、掘った穴に棺桶を入れ、掘り出した土を上からかける。するととうぜん棺桶の分だけ土がこんもり盛り上がる。
やがて遺体が腐敗する頃には棺桶も腐り、盛り上がっていた土がストンと落ちる。それは次の遺体を埋められる合図なのだ。
こうして墓には、その家の人が死ぬたびに重なるように埋められていく。
土葬にすれば、死んでも家族と一緒にいられる。だから祖父は死んだら埋めて欲しいのだという。
映画『先生を流産させる会』でも埋めるシーンは象徴的だ。
土葬の際は親族が掘ってはいけない。すなわち土葬するには人の結びつきが必要だということを、監督からお聞きできたのは貴重だった。
そしてもう一つ、内藤監督は文鳥と猫の思い出も語ってくれた。
文鳥が死んだときに「あんたのせいだよ」と叱った母。雨の中、猫の死骸を手掴みで運んで埋める母。その話はとても映像的で、いずれ監督が映画の中で見せてくれることを期待したい。
さて、本作は実話に基づいているものの、事実をそのままなぞったわけではない。
大きな違いは、会を結成した中学生たちを男子ではなく女子に設定したことだろう。
この点について、内藤監督は先のインタビューで次のように語っている。
---
先生が妊娠していることそのものに嫌悪を感じるキャラクターでないと、自分が追求したいテーマは成立しないと思ったんです。(略)中学生の頃に同級生の女子が「そういう行為(セックス)で自分が生まれてきたってイヤだよね」と話しているのを聞いたことがあって(略)ギョッとしたんですね。
---
映画では会のメンバーを女子に変更したことで、彼らもやがて妊娠や流産をするかもしれない、先生と性を共有する存在になった。
ここから映画はそのエキセントリックな題材にもかかわらず、確かな物語性を持ちはじめる。
内藤監督はこう続ける。
---
しかもそれだけ嫌がっていた女子たちが数年後には普通に彼氏を作って肉体関係もあると言う。体が少女から大人へと変化しつつあるときに、性的なものを拒みたい時期があると思うのですが、その葛藤を描きたかったんです。
---
そして設定を女子生徒に変えたことは、映画にほのかな救いをももたらしている。
なぜなら少女から大人への変化は、永遠に続くものではないからだ。内藤監督の同級生が数年後には彼氏を作っていたように、映画の中の少女たちもいずれ変化を完了し、妊娠したりするだろう。
だから、この映画はそのおぞましさにもかかわらず、現実より穏やかなのかもしれない。
現実に女性教師を攻撃したのは男子であり、彼らは永遠に妊娠しないし、流産のおそれに直面することもない。
男子の抱いた強い暴力性と悪意には、いつかどこかで終止符が打たれるのだろうか。
私たちはそれに終止符を打てるのだろうか。
・トーク内容をWebに公表することで関係者の方に不都合がございましたら、ご連絡ください。
『先生を流産させる会』 [さ行]
監督・制作・脚本/内藤瑛亮
脚本協力/佐野真規、松久育紀、渡辺あい
出演/宮田亜紀 小林香織 高良弥夢 竹森菜々瀬 相場涼乃 室賀砂和希 大沼百合子
日本公開/2012年5月26日
ジャンル/[ドラマ] [青春] [サスペンス]
http://bookmarks.yahoo.co.jp/bookmarklet/showpopup?t='+encodeURIComponent(document.title)+'&u='+encodeURIComponent(location.href)+'&ei=UTF-8','_blank','width=550,height=480,left=100,top=50,scrollbars=1,resizable=1',0);">
この題名は衝撃的だ。「先生」からは教育現場が、「流産」からは生命倫理が、「させる会」からは同調圧力に満ちた社会が、異臭を放ちながら私たちに迫ってくる。
何より衝撃なのは、「先生を流産させる会」が実在したことだ。
パンフレット収録のインタビューによれば、内藤監督もその名称に衝撃を受けたという。
---
「先生を殺す会」より「流産させる会」のほうがはるかにおぞましい印象がある。悪意のあり方として、人間の最も否定されたくない部分を否定されたようなニュアンスを感じる。だからこそ、この題材を描くことで僕たちが肯定したいものを逆説的に描けるだろう、と思いました。
---
映画『『先生を流産させる会』の上映時間は62分。一般の長編映画に比べれば短いかもしれない。
しかし、目を覆い、耳を塞ぎたくなるようなこの映画は、短いなんて感じないだろう。上映が終わり、場内が明るくなったとき、観客は映画から受けたものの重さにうな垂れると同時に、ようやく解放されたことに安堵するはずだ。
この強烈な映画を撮った内藤瑛亮監督とは、さぞかしアクの強い人物だろうと思ったら、上映後に登壇したのはさらりとした好青年だった。
2012年7月20日、オーディトリウム渋谷での夜の上映の最終日、内藤監督は満場の客席に向かって「埋める」ことについて語ってくれた。
内藤瑛亮監督は愛知県の三河地方のご出身だそうである。
その地域では古くから土葬が行われており、監督は穴掘り当番になった祖父に連れられて、墓堀の現場を見ていたという。
墓堀は死者の親族がやってはならないため、当番になった祖父があちこちの家の墓を掘る。広い土地に、家ごとの墓を掘る場所が決まっており、掘っていると土の中から骨が出てくることもある。
この習慣は今ではあまり行われず、火葬が一般的になってきたそうだ。親族が穴を掘れないということは、必ず他の家に墓堀を頼まなくてはならないのだが、ムラの中の結びつきが希薄になるとこのような頼みごとは難しいのだ。
けれども、内藤監督の祖父は、自分が死んだら土葬がいいと云うそうだ。
土葬では、掘った穴に棺桶を入れ、掘り出した土を上からかける。するととうぜん棺桶の分だけ土がこんもり盛り上がる。
やがて遺体が腐敗する頃には棺桶も腐り、盛り上がっていた土がストンと落ちる。それは次の遺体を埋められる合図なのだ。
こうして墓には、その家の人が死ぬたびに重なるように埋められていく。
土葬にすれば、死んでも家族と一緒にいられる。だから祖父は死んだら埋めて欲しいのだという。
映画『先生を流産させる会』でも埋めるシーンは象徴的だ。
土葬の際は親族が掘ってはいけない。すなわち土葬するには人の結びつきが必要だということを、監督からお聞きできたのは貴重だった。
そしてもう一つ、内藤監督は文鳥と猫の思い出も語ってくれた。
文鳥が死んだときに「あんたのせいだよ」と叱った母。雨の中、猫の死骸を手掴みで運んで埋める母。その話はとても映像的で、いずれ監督が映画の中で見せてくれることを期待したい。
さて、本作は実話に基づいているものの、事実をそのままなぞったわけではない。
大きな違いは、会を結成した中学生たちを男子ではなく女子に設定したことだろう。
この点について、内藤監督は先のインタビューで次のように語っている。
---
先生が妊娠していることそのものに嫌悪を感じるキャラクターでないと、自分が追求したいテーマは成立しないと思ったんです。(略)中学生の頃に同級生の女子が「そういう行為(セックス)で自分が生まれてきたってイヤだよね」と話しているのを聞いたことがあって(略)ギョッとしたんですね。
---
映画では会のメンバーを女子に変更したことで、彼らもやがて妊娠や流産をするかもしれない、先生と性を共有する存在になった。
ここから映画はそのエキセントリックな題材にもかかわらず、確かな物語性を持ちはじめる。
内藤監督はこう続ける。
---
しかもそれだけ嫌がっていた女子たちが数年後には普通に彼氏を作って肉体関係もあると言う。体が少女から大人へと変化しつつあるときに、性的なものを拒みたい時期があると思うのですが、その葛藤を描きたかったんです。
---
そして設定を女子生徒に変えたことは、映画にほのかな救いをももたらしている。
なぜなら少女から大人への変化は、永遠に続くものではないからだ。内藤監督の同級生が数年後には彼氏を作っていたように、映画の中の少女たちもいずれ変化を完了し、妊娠したりするだろう。
だから、この映画はそのおぞましさにもかかわらず、現実より穏やかなのかもしれない。
現実に女性教師を攻撃したのは男子であり、彼らは永遠に妊娠しないし、流産のおそれに直面することもない。
男子の抱いた強い暴力性と悪意には、いつかどこかで終止符が打たれるのだろうか。
私たちはそれに終止符を打てるのだろうか。
・トーク内容をWebに公表することで関係者の方に不都合がございましたら、ご連絡ください。
![先生を流産させる会 [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/51ivnd5wF4L._SL160_.jpg)
監督・制作・脚本/内藤瑛亮
脚本協力/佐野真規、松久育紀、渡辺あい
出演/宮田亜紀 小林香織 高良弥夢 竹森菜々瀬 相場涼乃 室賀砂和希 大沼百合子
日本公開/2012年5月26日
ジャンル/[ドラマ] [青春] [サスペンス]


『サニー 永遠の仲間たち』 彼女が変わらない秘密
【ネタバレ注意】
無茶苦茶である。
『サニー 永遠の仲間たち』の公式サイトによれば、この作品は韓国で740万人を動員する大ヒットを飛ばしたという。
さもありなん。『過速スキャンダル』で抜群の手際の良さを示したカン・ヒョンチョル監督が、『過速スキャンダル』の各要素を無茶苦茶にエスカレートさせたのが『サニー 永遠の仲間たち』だ。
『過速スキャンダル』で父、娘、孫の三世代の交流を描いたカン・ヒョンチョル監督は、本作で主人公の高校時代(1986年)と現代(2011年)を交互に映し出すことで、ティーンエイジャーとアラフォーの両方の世界を描いている。しかも本作は主人公と仲良しグループの交流がモチーフであり、グループ7人の群像劇にもなっている。すなわち、< 2つの時代 × 7人 > の計14人が登場し、およそすべての女性がどこかしらに共感できる仕掛けなのだ。
しかも、映画産業の主要なターゲットである若者たちと、購買力の高いアラフォー世代との両方に目配りするのだから、ヒットするのはもっともだろう。
さらに、カン・ヒョンチョル監督は『過速スキャンダル』でのラジオ・メッセージという飛び道具に味を占めたようで、本作ではラジオありビデオあり手紙ありと、『過速スキャンダル』の3倍増しで泣ける要素を盛り込んできた。
加えて 『過速スキャンダル』では父も娘も歌が得意であったのに対し、本作は7人もの人数を活かしてダンスシーンを織り込んでいる。題名の「サニー」とは、彼女たち仲良しグループの名称であると同時に、彼女たちのダンスレパートリーであるディスコ・ミュージック『Sunny』のことでもある。
『Sunny』に限らず、全編を彩るのは70~80年代のヒット曲の数々だ。ここで韓国の曲ばかり流されると外国の観客は白けてしまうが、カン・ヒョンチョル監督と音楽担当のキム・ジュンソクは、世界中でヒットした曲を厳選して散りばめた。これには日本の観客も、アラフォー世代を中心に懐かしく感じることだろう。
そして主人公たちのダンスを絡めることで、往年のヒット曲が単なるBGMの域にとどまらないのが心憎い。
さすが『過速スキャンダル』のカン・ヒョンチョル監督と云いたいところだが、ここまでやると映画はいささか破綻気味だ。
なにしろ主要人物が14人は多すぎる。
彼女たち全員に見せ場があり、それぞれの家族が絡みながら高校時代から現代にかけての人生の悲哀を表現するのだから、挿入されるエピソードは無理矢理詰め込んだ感じである。
その上、泣かせどころが何度も訪れるので、観客はお腹一杯だ。
けれどもそれらは、映画のどこかしらに共感できるための仕掛けである以上、観客に向けた特盛り大サービスなのだ。
そして最後に待ち受けるのが、あいた口が塞がらないほどの大団円である。
ジョディ・フォスター監督のアメリカ映画『それでも、愛してる』(2009年)が安易なハッピーエンドを拒絶して、どんな人生でも真摯に向き合おうとするのに引き換え、本作が大ヒットする韓国といい、『海猿』シリーズがナンバー1ヒットを記録する日本といい、なんて判りやすいハッピーエンドが好きなのだろう。そこには、東洋と西洋の文化の違いもあるのだろう。
カン・ヒョンチョル監督は呆れるほどの大団円で、そんな私たちの嗜好を満たしてくれる。
このように本作は、25年ぶりの旧友との再会を通して人生模様を映し出す作品だが、その陰にはもう一つのテーマが存在する。
それは、趙章恩(チョウ・チャンウン)氏が外見至上主義と呼ぶものだ。
氏によれば、韓国では美貌も才能の一つと捉えて外見を重視するそうで、就職試験の前には整形手術をするし、老若男女に関係なく誰もがダイエットに励んでいるという。ポータルサイトDaumが2012年1月に小学生2万人を対象にアンケート調査したところ、新年の目標の第1位はダイエットだったそうだ。
本作も、登場人物が女性ばかりなのもあって、ファッションやお洒落がクローズアップされている。
高校時代の彼女たちは、靴のブランドを気にしたり、整形手術で二重まぶたになることを夢見ている。
そして現代では、美容整形で別人のような美貌を手に入れ、玉の輿に乗っていたりする。そこでは美容整形したことなど茶飲み話のネタでしかなく、「あら、キレイになったわね」は挨拶代わりだ。
事実、国際美容外科学会(ISAPS)が公表した調査報告によると、韓国では2010年に77万件もの外科的・非外科的美容処置が施されている。
これは世界で第7位の多さだが、4位の日本(118万件)、1位の米国(331万件)に比べれば少ないように見える。しかし人口との比率で見れば、韓国は1,000人当たり16件にも及び、米国の10件/1,000人や日本の9件/1,000人を上回って世界最多なのだ。
この報告の注意すべき点は、人数ではなく件数についての調査なので、1,000人当たり16人が美容処置をしているわけではないことだ。ディープな整形マニアが、件数を押し上げている可能性もある。
ただ、いずれにしろ韓国が美容処置に積極的な国であるのは間違いないだろう。
かくいう日本も、人口との比率では韓国に負けるものの、美容処置件数の上位国なのは間違いない。就職試験前に限らず整形手術をする人はいるだろし、年の初めに「今年こそは痩せよう」と思う小学生もいるだろう。
それどころか、日本のテレビを見れば、整形美人ならぬ元・男性の美女たちが番組を賑わしている。彼女たちは外見といい物腰といい、生来の女性に交じっても何ら変わることがない。
そんな彼女たちを見慣れた観客は、女性の美容整形ぐらいでは驚きもしないだろう。
そのような中で、主人公は再会した友人たちから繰り返し「あなたは変わらないわね」と言葉をかけられる。それは単に若々しいというだけでなく、「整形していないのね」という意味でもある。
旧友の中には、美容処置に入れ込んで昔の面影をなくした者もいれば、生活に追われて外見どころではない者もいる。そんな彼女たちのあいだを昔ながらの主人公が訪ね歩くことで、25年も会わなかった親友たちが再会に向けて動き出す。
もちろん本作は、外見至上主義を否定するものではない。
美容処置で幸せを手に入れる人もいるし、傷ついた心身を隠せる人もいる。
美容処置をする人もいれば、しない人もいることが、本作ではラストに向けての伏線になっている。
いずれにせよ、彼女たちにはどうでもいいことなのだ。
外見が変わろうと変わるまいと、その友情はいささかも揺らぐことはない。
私たちの本質は変わらないのだから。
『サニー 永遠の仲間たち』 [さ行]
監督・脚本/カン・ヒョンチョル
出演/ユ・ホジョン シム・ウンギョン チン・ヒギョン カン・ソラ コ・スヒ キム・ミニョン ホン・ジニ パク・チンジュ イ・ヨンギョン ナム・ボラ キム・ソンギョン キム・ボミ ミン・ヒョリン
日本公開/2012年5月19日
ジャンル/[ドラマ] [青春]
http://bookmarks.yahoo.co.jp/bookmarklet/showpopup?t='+encodeURIComponent(document.title)+'&u='+encodeURIComponent(location.href)+'&ei=UTF-8','_blank','width=550,height=480,left=100,top=50,scrollbars=1,resizable=1',0);">
無茶苦茶である。
『サニー 永遠の仲間たち』の公式サイトによれば、この作品は韓国で740万人を動員する大ヒットを飛ばしたという。
さもありなん。『過速スキャンダル』で抜群の手際の良さを示したカン・ヒョンチョル監督が、『過速スキャンダル』の各要素を無茶苦茶にエスカレートさせたのが『サニー 永遠の仲間たち』だ。
『過速スキャンダル』で父、娘、孫の三世代の交流を描いたカン・ヒョンチョル監督は、本作で主人公の高校時代(1986年)と現代(2011年)を交互に映し出すことで、ティーンエイジャーとアラフォーの両方の世界を描いている。しかも本作は主人公と仲良しグループの交流がモチーフであり、グループ7人の群像劇にもなっている。すなわち、< 2つの時代 × 7人 > の計14人が登場し、およそすべての女性がどこかしらに共感できる仕掛けなのだ。
しかも、映画産業の主要なターゲットである若者たちと、購買力の高いアラフォー世代との両方に目配りするのだから、ヒットするのはもっともだろう。
さらに、カン・ヒョンチョル監督は『過速スキャンダル』でのラジオ・メッセージという飛び道具に味を占めたようで、本作ではラジオありビデオあり手紙ありと、『過速スキャンダル』の3倍増しで泣ける要素を盛り込んできた。
加えて 『過速スキャンダル』では父も娘も歌が得意であったのに対し、本作は7人もの人数を活かしてダンスシーンを織り込んでいる。題名の「サニー」とは、彼女たち仲良しグループの名称であると同時に、彼女たちのダンスレパートリーであるディスコ・ミュージック『Sunny』のことでもある。
『Sunny』に限らず、全編を彩るのは70~80年代のヒット曲の数々だ。ここで韓国の曲ばかり流されると外国の観客は白けてしまうが、カン・ヒョンチョル監督と音楽担当のキム・ジュンソクは、世界中でヒットした曲を厳選して散りばめた。これには日本の観客も、アラフォー世代を中心に懐かしく感じることだろう。
そして主人公たちのダンスを絡めることで、往年のヒット曲が単なるBGMの域にとどまらないのが心憎い。
さすが『過速スキャンダル』のカン・ヒョンチョル監督と云いたいところだが、ここまでやると映画はいささか破綻気味だ。
なにしろ主要人物が14人は多すぎる。
彼女たち全員に見せ場があり、それぞれの家族が絡みながら高校時代から現代にかけての人生の悲哀を表現するのだから、挿入されるエピソードは無理矢理詰め込んだ感じである。
その上、泣かせどころが何度も訪れるので、観客はお腹一杯だ。
けれどもそれらは、映画のどこかしらに共感できるための仕掛けである以上、観客に向けた特盛り大サービスなのだ。
そして最後に待ち受けるのが、あいた口が塞がらないほどの大団円である。
ジョディ・フォスター監督のアメリカ映画『それでも、愛してる』(2009年)が安易なハッピーエンドを拒絶して、どんな人生でも真摯に向き合おうとするのに引き換え、本作が大ヒットする韓国といい、『海猿』シリーズがナンバー1ヒットを記録する日本といい、なんて判りやすいハッピーエンドが好きなのだろう。そこには、東洋と西洋の文化の違いもあるのだろう。
カン・ヒョンチョル監督は呆れるほどの大団円で、そんな私たちの嗜好を満たしてくれる。
このように本作は、25年ぶりの旧友との再会を通して人生模様を映し出す作品だが、その陰にはもう一つのテーマが存在する。
それは、趙章恩(チョウ・チャンウン)氏が外見至上主義と呼ぶものだ。
氏によれば、韓国では美貌も才能の一つと捉えて外見を重視するそうで、就職試験の前には整形手術をするし、老若男女に関係なく誰もがダイエットに励んでいるという。ポータルサイトDaumが2012年1月に小学生2万人を対象にアンケート調査したところ、新年の目標の第1位はダイエットだったそうだ。
本作も、登場人物が女性ばかりなのもあって、ファッションやお洒落がクローズアップされている。
高校時代の彼女たちは、靴のブランドを気にしたり、整形手術で二重まぶたになることを夢見ている。
そして現代では、美容整形で別人のような美貌を手に入れ、玉の輿に乗っていたりする。そこでは美容整形したことなど茶飲み話のネタでしかなく、「あら、キレイになったわね」は挨拶代わりだ。
事実、国際美容外科学会(ISAPS)が公表した調査報告によると、韓国では2010年に77万件もの外科的・非外科的美容処置が施されている。
これは世界で第7位の多さだが、4位の日本(118万件)、1位の米国(331万件)に比べれば少ないように見える。しかし人口との比率で見れば、韓国は1,000人当たり16件にも及び、米国の10件/1,000人や日本の9件/1,000人を上回って世界最多なのだ。
この報告の注意すべき点は、人数ではなく件数についての調査なので、1,000人当たり16人が美容処置をしているわけではないことだ。ディープな整形マニアが、件数を押し上げている可能性もある。
ただ、いずれにしろ韓国が美容処置に積極的な国であるのは間違いないだろう。
かくいう日本も、人口との比率では韓国に負けるものの、美容処置件数の上位国なのは間違いない。就職試験前に限らず整形手術をする人はいるだろし、年の初めに「今年こそは痩せよう」と思う小学生もいるだろう。
それどころか、日本のテレビを見れば、整形美人ならぬ元・男性の美女たちが番組を賑わしている。彼女たちは外見といい物腰といい、生来の女性に交じっても何ら変わることがない。
そんな彼女たちを見慣れた観客は、女性の美容整形ぐらいでは驚きもしないだろう。
そのような中で、主人公は再会した友人たちから繰り返し「あなたは変わらないわね」と言葉をかけられる。それは単に若々しいというだけでなく、「整形していないのね」という意味でもある。
旧友の中には、美容処置に入れ込んで昔の面影をなくした者もいれば、生活に追われて外見どころではない者もいる。そんな彼女たちのあいだを昔ながらの主人公が訪ね歩くことで、25年も会わなかった親友たちが再会に向けて動き出す。
もちろん本作は、外見至上主義を否定するものではない。
美容処置で幸せを手に入れる人もいるし、傷ついた心身を隠せる人もいる。
美容処置をする人もいれば、しない人もいることが、本作ではラストに向けての伏線になっている。
いずれにせよ、彼女たちにはどうでもいいことなのだ。
外見が変わろうと変わるまいと、その友情はいささかも揺らぐことはない。
私たちの本質は変わらないのだから。

監督・脚本/カン・ヒョンチョル
出演/ユ・ホジョン シム・ウンギョン チン・ヒギョン カン・ソラ コ・スヒ キム・ミニョン ホン・ジニ パク・チンジュ イ・ヨンギョン ナム・ボラ キム・ソンギョン キム・ボミ ミン・ヒョリン
日本公開/2012年5月19日
ジャンル/[ドラマ] [青春]


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