『ミッドナイト・イン・パリ』 前を向いて歩こう
一番好きな詩人を問われれば、やはりジャン・コクトーかもしれない。もっとも私はフランス語が判らないので、原語ではなく堀口大學の訳で親しむのみだが。
もしもジャン・コクトー主催のパーティーに参加できたり、目の前にアーネスト・ヘミングウェイやルイス・ブニュエルらが現れたら、多くの人が鼻血を出して引っくり返るだろう。
『ミッドナイト・イン・パリ』は、タイムスリップしてそんな夢のような時を過ごす男を描いた、ウディ・アレン久々のSF映画である。
相変わらずウディ・アレン映画では共和党支持者をおちょくっているが、おちょくる側の主人公ギルも相当に変わり者だ。彼はハリウッドでそれなりに成功した脚本家でありながら、いや成功しているからこそパリの屋根裏部屋に住んで小説一本に専念したいと願うロマンチストである。昔のものに憧れる彼にとって、F・スコット・フィッツジェラルドやパブロ・ピカソと交流できる1920年代は理想の世界だ。
もちろんこれは、かなり皮肉なシチュエーションだ。
主人公ギルがその出会いに感激するフィッツジェラルドは、今でこそロストジェネレーション(自堕落な世代)を代表する作家とされるが、生前は生活のためにハリウッドでクレジットもされない脚本書きに従事していた。それこそ、まさにギルが決別したいと思っている人生だ。けれども現代のギルにとって、フィッツジェラルドは自堕落なんてとんでもない、偉大な文学者にしか見えないのだ。
主人公の現実逃避が高じて、あこがれの別世界の人と行動を共にしてしまう作品には、やはりウディ・アレン監督・脚本の『カイロの紫のバラ』(1985年)があるけれど、あれは映画の中の人と恋に落ちてしまう純然たるファンタジーだった。
一方、本作のように過去を美化したり、ノスタルジーに浸ることは、しばしば現実に見られる光景だ。
2011年の東日本大震災の後に制作された邦画には、昔ながらの生活でいいじゃないかと呼びかけるようなものもある。
けれども、過去が美しいのは映画やテレビの中だけであって、実際には時代を遡れば遡るほど不衛生で不健康で治安が悪い。
なにしろ2011年の日本の殺人事件は1051件しかなく、戦後最少記録を3年連続で更新するほど今は平和なのである。
他方、昭和時代の殺人事件は、件数においても検挙人員数においても、また人口10万人当たりの比率においても、平成時代の数倍に及ぶ。昭和は、恐ろしく凶悪な時代なのだ。
加えて與那覇潤著『中国化する日本』によれば、昭和は「親子心中の時代」でもあったという。大正時代に女性の専業主婦化が進む一方、「ムラ」という社会的なセーフティ・ネットが取り払われた結果、夫が死亡すると残された妻子は自力では生きていけなかった。そのため大正末期から親子心中がめちゃめちゃ増えたのだという。
江戸時代に遡ればさらに過酷だ。テレビの時代劇では、みんなきれいに洗った服を着て、肌の色艶もよく、現代と同じように健康そうだが、医療が発達しておらず、上下水道もなく不衛生だった当時、誰も彼もがそんな健康に暮らせたわけがない。ましてや労働組合も失業手当も医療保険もないので、当然労働者の環境は今より悪い。與那覇潤氏によれば、当時の江戸や大阪に出稼ぎに行くと、3人に1人は死亡して帰村できなかったという。すなわち「当時の江戸や大阪は太平洋戦争以上の死亡率を誇る戦場だった」のだ。
過去に遡ってもいいことがない点では、芸術も同じだ。
『ミッドナイト・イン・パリ』では小説や絵画を話題にしているから過去の人々と話が通じるが、本作をはじめとする映画は100年も遡ったらジョルジュ・メリエスらが活躍した黎明期になってしまう。200年遡ったら映画なんか存在しない。
映画史の研究家ならいざ知らず、一般の観客が今ジョルジュ・メリエスの作品を見て、新作同様に楽しんだり感動したりはできないだろう。
映画のように技術の進歩に支えられた芸術は、昔に戻ることはできないのだ。『トイ・ストーリー』シリーズを観てしまった私たちは、CGIを駆使した作品を心待ちにしてしまうし、『スター・ウォーズ』を観てしまった私たちは、宇宙船を吊るピアノ線が見え見えの作品では満足できない。
インデペンデントの映画作家だって、撮影機材の小型・軽量化やデジタル技術に助けられて映画を撮っている。
本作でも語られるジャン・コクトーは、詩人であるとともに優れた映画作家であり、『美女と野獣』(1946年)や『オルフェ』(1949年)等の詩的な傑作を残している。そこでは幻想的なシーンを実現するために、フィルムの逆回しをはじめとした(今となっては)素朴なトリック撮影を駆使しているが、もしもジャン・コクトーが現代の映画技術に接したら、大喜びで最新のVFXを取り入れるだろう。
昔ながらの生活でいいじゃないかと呼びかけるような映画だって、作品そのものは最新のデジタル技術の賜物だ。その表現は現代の産業がなければ実現できない。
また東日本大震災の後に頭をもたげてきたものとして、小峰隆夫氏は「脱成長論」の登場を指摘している。東日本大震災を期に「これ以上の経済成長は必要ない」「GDPの成長よりも幸福度を重視すべきだ」という意見が登場したのだ。
けれども日本経済は「失われた20年」と呼ばれるほど長年低迷し続けており、そこから脱却することの重要性が叫ばれてきたのが実情だ。ほとんど成長していないのに、さらに成長しないとしたら、過去に退行するくらいしかない。
そこで小峰隆夫氏は、「経済成長は七難を隠す」と述べるとともに、次のような点から脱成長論を支持できないとしている。
---
第1は、本来やるべきことから目をそらしていることだ。(略)脱成長論に乗って成長を忌避していては、人々を豊かにする上での王道から逸脱してしまうのではないかと危惧される。
(略)
第3は、「成長しないことのコスト」を過小評価していることだ。(略)「もう十分豊かなのだから、これ以上成長しないでもいい」と言う人は、現世代が、将来の世代がもっと豊かになる機会を摘んでしまうことになる可能性を真剣に考えるべきだと思う。
---
「これ以上の成長は必要ない」と云う人々は、自分たちが成長の恩恵にあずかってきたことに気づいていないのかもしれない。
あるいは成長を名目に導入された不適切な成果主義等で疲れてるのかもしれないし、近年発展したもの、例えばインターネットやケータイやスマートフォン等々を利用していないのかもしれない。
けれども、まがりなりにも成長した結果である現代生活に浸りながらそのように主張することは、昔ながらの生活でいいじゃないかと呼びかける映画を最新のデジタル技術で撮影・上映するような矛盾である。
とはいえ大多数の人は、そんなことは判っている。
大竹文雄氏によれば、過去の日本で幸福度が今よりもう少し高かった時期と比べて、その頃と今と、どちらに生まれたいかをアンケート調査すると、今の日本に生まれたいと回答する人の方が多いそうだ。
大竹文雄氏は次のように解説する。
---
バブル期が一番高いわけではなくて、もう少し前だったと思います。そこで比べると、昔の方が(幸福度が)高かったというのがベースにあるものの、どちらに生まれたいかと言われると、例えば今の方がパソコンも安いし、服も安いし、携帯電話も使えるしというので、今の方がいいという人が結構多いわけです。
---
本作では、ロマンチストの主人公ギルと現実的な婚約者イネズの対立軸が物語を貫いている。しかし両者の対立が続いたままでは、ギルが現実に立ち返る場所がない。
そこでウディ・アレンは、婚約者に落ち度が生じるように筋を運んだ。そうすることで、彼女はギルの対立相手としての座から滑り落ち、ギルの居場所ができるのだ。
またウディ・アレンは、映画の冒頭で現代のパリの風景を見せている。大通りや街角の何気ない光景の積み重ねだが、劇中のどんなショットよりも美しい。
今の私たちに大切なのは、今を生きることなのだ。
『ミッドナイト・イン・パリ』 [ま行]
監督・脚本/ウディ・アレン
出演/オーウェン・ウィルソン レイチェル・マクアダムス マリオン・コティヤール キャシー・ベイツ エイドリアン・ブロディ マイケル・シーン ニーナ・アリアンダ カート・フラー トム・ヒドルストン ミミ・ケネディ アリソン・ピル レア・セドゥー コリー・ストール カーラ・ブルーニ
日本公開/2012年5月26日
ジャンル/[コメディ] [ファンタジー] [ロマンス] [SF]
http://bookmarks.yahoo.co.jp/bookmarklet/showpopup?t='+encodeURIComponent(document.title)+'&u='+encodeURIComponent(location.href)+'&ei=UTF-8','_blank','width=550,height=480,left=100,top=50,scrollbars=1,resizable=1',0);">
もしもジャン・コクトー主催のパーティーに参加できたり、目の前にアーネスト・ヘミングウェイやルイス・ブニュエルらが現れたら、多くの人が鼻血を出して引っくり返るだろう。
『ミッドナイト・イン・パリ』は、タイムスリップしてそんな夢のような時を過ごす男を描いた、ウディ・アレン久々のSF映画である。
相変わらずウディ・アレン映画では共和党支持者をおちょくっているが、おちょくる側の主人公ギルも相当に変わり者だ。彼はハリウッドでそれなりに成功した脚本家でありながら、いや成功しているからこそパリの屋根裏部屋に住んで小説一本に専念したいと願うロマンチストである。昔のものに憧れる彼にとって、F・スコット・フィッツジェラルドやパブロ・ピカソと交流できる1920年代は理想の世界だ。
もちろんこれは、かなり皮肉なシチュエーションだ。
主人公ギルがその出会いに感激するフィッツジェラルドは、今でこそロストジェネレーション(自堕落な世代)を代表する作家とされるが、生前は生活のためにハリウッドでクレジットもされない脚本書きに従事していた。それこそ、まさにギルが決別したいと思っている人生だ。けれども現代のギルにとって、フィッツジェラルドは自堕落なんてとんでもない、偉大な文学者にしか見えないのだ。
主人公の現実逃避が高じて、あこがれの別世界の人と行動を共にしてしまう作品には、やはりウディ・アレン監督・脚本の『カイロの紫のバラ』(1985年)があるけれど、あれは映画の中の人と恋に落ちてしまう純然たるファンタジーだった。
一方、本作のように過去を美化したり、ノスタルジーに浸ることは、しばしば現実に見られる光景だ。
2011年の東日本大震災の後に制作された邦画には、昔ながらの生活でいいじゃないかと呼びかけるようなものもある。
けれども、過去が美しいのは映画やテレビの中だけであって、実際には時代を遡れば遡るほど不衛生で不健康で治安が悪い。
なにしろ2011年の日本の殺人事件は1051件しかなく、戦後最少記録を3年連続で更新するほど今は平和なのである。
他方、昭和時代の殺人事件は、件数においても検挙人員数においても、また人口10万人当たりの比率においても、平成時代の数倍に及ぶ。昭和は、恐ろしく凶悪な時代なのだ。
加えて與那覇潤著『中国化する日本』によれば、昭和は「親子心中の時代」でもあったという。大正時代に女性の専業主婦化が進む一方、「ムラ」という社会的なセーフティ・ネットが取り払われた結果、夫が死亡すると残された妻子は自力では生きていけなかった。そのため大正末期から親子心中がめちゃめちゃ増えたのだという。
江戸時代に遡ればさらに過酷だ。テレビの時代劇では、みんなきれいに洗った服を着て、肌の色艶もよく、現代と同じように健康そうだが、医療が発達しておらず、上下水道もなく不衛生だった当時、誰も彼もがそんな健康に暮らせたわけがない。ましてや労働組合も失業手当も医療保険もないので、当然労働者の環境は今より悪い。與那覇潤氏によれば、当時の江戸や大阪に出稼ぎに行くと、3人に1人は死亡して帰村できなかったという。すなわち「当時の江戸や大阪は太平洋戦争以上の死亡率を誇る戦場だった」のだ。
過去に遡ってもいいことがない点では、芸術も同じだ。
『ミッドナイト・イン・パリ』では小説や絵画を話題にしているから過去の人々と話が通じるが、本作をはじめとする映画は100年も遡ったらジョルジュ・メリエスらが活躍した黎明期になってしまう。200年遡ったら映画なんか存在しない。
映画史の研究家ならいざ知らず、一般の観客が今ジョルジュ・メリエスの作品を見て、新作同様に楽しんだり感動したりはできないだろう。
映画のように技術の進歩に支えられた芸術は、昔に戻ることはできないのだ。『トイ・ストーリー』シリーズを観てしまった私たちは、CGIを駆使した作品を心待ちにしてしまうし、『スター・ウォーズ』を観てしまった私たちは、宇宙船を吊るピアノ線が見え見えの作品では満足できない。
インデペンデントの映画作家だって、撮影機材の小型・軽量化やデジタル技術に助けられて映画を撮っている。
本作でも語られるジャン・コクトーは、詩人であるとともに優れた映画作家であり、『美女と野獣』(1946年)や『オルフェ』(1949年)等の詩的な傑作を残している。そこでは幻想的なシーンを実現するために、フィルムの逆回しをはじめとした(今となっては)素朴なトリック撮影を駆使しているが、もしもジャン・コクトーが現代の映画技術に接したら、大喜びで最新のVFXを取り入れるだろう。
昔ながらの生活でいいじゃないかと呼びかけるような映画だって、作品そのものは最新のデジタル技術の賜物だ。その表現は現代の産業がなければ実現できない。
また東日本大震災の後に頭をもたげてきたものとして、小峰隆夫氏は「脱成長論」の登場を指摘している。東日本大震災を期に「これ以上の経済成長は必要ない」「GDPの成長よりも幸福度を重視すべきだ」という意見が登場したのだ。
けれども日本経済は「失われた20年」と呼ばれるほど長年低迷し続けており、そこから脱却することの重要性が叫ばれてきたのが実情だ。ほとんど成長していないのに、さらに成長しないとしたら、過去に退行するくらいしかない。
そこで小峰隆夫氏は、「経済成長は七難を隠す」と述べるとともに、次のような点から脱成長論を支持できないとしている。
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第1は、本来やるべきことから目をそらしていることだ。(略)脱成長論に乗って成長を忌避していては、人々を豊かにする上での王道から逸脱してしまうのではないかと危惧される。
(略)
第3は、「成長しないことのコスト」を過小評価していることだ。(略)「もう十分豊かなのだから、これ以上成長しないでもいい」と言う人は、現世代が、将来の世代がもっと豊かになる機会を摘んでしまうことになる可能性を真剣に考えるべきだと思う。
---
「これ以上の成長は必要ない」と云う人々は、自分たちが成長の恩恵にあずかってきたことに気づいていないのかもしれない。
あるいは成長を名目に導入された不適切な成果主義等で疲れてるのかもしれないし、近年発展したもの、例えばインターネットやケータイやスマートフォン等々を利用していないのかもしれない。
けれども、まがりなりにも成長した結果である現代生活に浸りながらそのように主張することは、昔ながらの生活でいいじゃないかと呼びかける映画を最新のデジタル技術で撮影・上映するような矛盾である。
とはいえ大多数の人は、そんなことは判っている。
大竹文雄氏によれば、過去の日本で幸福度が今よりもう少し高かった時期と比べて、その頃と今と、どちらに生まれたいかをアンケート調査すると、今の日本に生まれたいと回答する人の方が多いそうだ。
大竹文雄氏は次のように解説する。
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バブル期が一番高いわけではなくて、もう少し前だったと思います。そこで比べると、昔の方が(幸福度が)高かったというのがベースにあるものの、どちらに生まれたいかと言われると、例えば今の方がパソコンも安いし、服も安いし、携帯電話も使えるしというので、今の方がいいという人が結構多いわけです。
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本作では、ロマンチストの主人公ギルと現実的な婚約者イネズの対立軸が物語を貫いている。しかし両者の対立が続いたままでは、ギルが現実に立ち返る場所がない。
そこでウディ・アレンは、婚約者に落ち度が生じるように筋を運んだ。そうすることで、彼女はギルの対立相手としての座から滑り落ち、ギルの居場所ができるのだ。
またウディ・アレンは、映画の冒頭で現代のパリの風景を見せている。大通りや街角の何気ない光景の積み重ねだが、劇中のどんなショットよりも美しい。
今の私たちに大切なのは、今を生きることなのだ。
![Midnight in Paris/ミッドナイト・イン・パリ[日本語字幕無][PAL-UK][リージョン2]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/51W4rai2VDL._SL160_.jpg)
監督・脚本/ウディ・アレン
出演/オーウェン・ウィルソン レイチェル・マクアダムス マリオン・コティヤール キャシー・ベイツ エイドリアン・ブロディ マイケル・シーン ニーナ・アリアンダ カート・フラー トム・ヒドルストン ミミ・ケネディ アリソン・ピル レア・セドゥー コリー・ストール カーラ・ブルーニ
日本公開/2012年5月26日
ジャンル/[コメディ] [ファンタジー] [ロマンス] [SF]


【theme : 特撮・SF・ファンタジー映画】
【genre : 映画】
tag : ウディ・アレンオーウェン・ウィルソンレイチェル・マクアダムスマリオン・コティヤールキャシー・ベイツエイドリアン・ブロディマイケル・シーンニーナ・アリアンダカート・フラートム・ヒドルストン
『別離』 嘘つきは泥棒の始まり
さすが『彼女が消えた浜辺』のアスガー・ファルハディ監督だ。新作『別離』も実に面白い映画である。
テヘランを舞台に描かれるのは、離婚や介護や失業等々、どこの国でも人々の頭を悩ませる問題だ。映画は、ゴミを入れた袋が破れていたり、浴室の戸が開かなくなったりと、些細ではあるが苛立つことを描写して、観客の心をざわつかせる。
そして小さな行き違いや、つい口にしないで済ませてしまったことが積み重なり、いつのまにか人々の間に不和が広がり、誰もが思いもよらない窮地に立たされる。
前作『彼女が消えた浜辺』がまるで上質のミステリーのような味わいなのと同様、家族の問題を描いていたはずの『別離』もまた観客を日常の闇にいざない、人生という迷路をさまよわせる。登場人物の中にもしも悪意を抱いた人がいるのなら、その人を懲らしめれば良いだろうが、人々の保身と、家族の身を案じた結果として事態が錯綜してしまったなら、この結び目をほどくにはどうすればよいのか。
ここで描かれるものは、日本だろうとイランだろうと本質的には変わらない。観客は映画に登場するすべての人に共感するとともにすべての人に反発し、スクリーンを見つめながら我と我が身を振り返るだろう。
とはいえ、日本の観客が特に強く印象づけられるとしたら、それは宗教だろう。
映画の冒頭で、ヘルパーの女性が、男性の身体を洗うことが信仰に反しないか電話で相談する場面がある。これにより観客は、女性が敬虔な信徒であることと、イラン社会の秩序を保つ仕組みを知ることになる。
日本人に宗旨を尋ねると、「信仰する宗教はない」と答える人がいる。自分を無宗教だと考えている人は少なくないだろう。実際には、無宗教を自認する人でも根っこの部分では怨霊信仰や言霊信仰等に深く浸っており、その言動が信仰に制約されていたりするのだが、イスラームやキリスト教のように体系立った宗教を学んでいないために、自分の言動の裏に宗教があるとはなかなか気づかない。
だが、日本ではそれで済んでも、外国で「信仰する宗教がない」と口外するのは考えものだ。それは「私には道徳心がありません」「私には一般常識がありません」と云っているようなもの、いやそれ以上に強烈な発言として受け取られるおそれがあるからだ。
2012年1月3日放映のテレビ番組『池上彰の世界を見に行く!2012年新春スペシャル 暮らしに直結!世界を動かすお金』に出演したサウジアラビアの方が、「信仰心のない人は何をするか判らないから怖い」と発言したことは印象的である。
『別離』を観ると、そのことがとても実感できる。
たとえ立場が異なっても、いさかいが起こっても、人々が拠りどころとするのはクルアーン(コーラン)だ。クルアーンに誓った言葉は真実であり、クルアーンが禁じることは行わない。その認識が共有されているから、どんなに対立していてもどこかで秩序が保たれる。
もちろん信仰心の持ち方には個人差があり、言葉の重みにもぶれがあるが、少なくとも各人が信仰を尊重するからこそ意見が違っても同じ席に着けるのだろう。
もしも本作の登場人物に共通する宗教がなければ、この争いはとどまることがなかったはずだ。
このように社会を秩序立てる仕組みとしての宗教は、社会が大きくなるにつれて欠かせなくなる。その仕組みは宗教でなくても良いかもしれないが、キリスト教の信徒が20億人以上、イスラームの信徒が11億人もいる事実が、宗教に代わる有力な仕組みを我々が持ち得ていないことを示していよう。
世界価値観調査に基づいてロナルド・イングルハートとクリスチャン・ヴェルツェルが各国の傾向をプロットした価値マップによれば、イランは宗教等の伝統的価値観を重視する国であり、他方日本は世界一世俗的な国である。けれど日頃信仰に無自覚な日本人といえども、このイラン映画を観ると、宗教が社会秩序の根幹として機能していることに気づくだろう。
そして宗教が人々にもたらしているもの――本作が成立する上で大前提になっているものの一つが、嘘をついてはいけないという倫理観だ。嘘をつくのはいけないことだと登場人物みんなが考えているからこそ、身に覚えのないことを云われると激昂し、真実を口にしない人はやましさを感じる。
日本にも「嘘つきは泥棒の始まり」ということわざがあるし、嘘をつくのがいけないなんて当たり前のことだと思うかもしれないが、騙し合いばかりの近頃の映画を観続けていると、嘘をついていないことを正面から問いただす本作はかえって新鮮だ。
本作がベルリン国際映画祭金熊賞やアカデミー賞外国語映画賞をはじめ各国の映画賞を受賞したのは、嘘をついてはいけないという物語にまだ世界が共感できるからだろう。
『別離』 [は行]
監督・制作・脚本/アスガー・ファルハディ
出演/レイラ・ハタミ ペイマン・モアディ シャハブ・ホセイニ サレー・バヤト サリナ・ファルハディ ババク・カリミ メリッラ・ザレイ
日本公開/2012年4月7日
ジャンル/[ドラマ] [ミステリー]
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テヘランを舞台に描かれるのは、離婚や介護や失業等々、どこの国でも人々の頭を悩ませる問題だ。映画は、ゴミを入れた袋が破れていたり、浴室の戸が開かなくなったりと、些細ではあるが苛立つことを描写して、観客の心をざわつかせる。
そして小さな行き違いや、つい口にしないで済ませてしまったことが積み重なり、いつのまにか人々の間に不和が広がり、誰もが思いもよらない窮地に立たされる。
前作『彼女が消えた浜辺』がまるで上質のミステリーのような味わいなのと同様、家族の問題を描いていたはずの『別離』もまた観客を日常の闇にいざない、人生という迷路をさまよわせる。登場人物の中にもしも悪意を抱いた人がいるのなら、その人を懲らしめれば良いだろうが、人々の保身と、家族の身を案じた結果として事態が錯綜してしまったなら、この結び目をほどくにはどうすればよいのか。
ここで描かれるものは、日本だろうとイランだろうと本質的には変わらない。観客は映画に登場するすべての人に共感するとともにすべての人に反発し、スクリーンを見つめながら我と我が身を振り返るだろう。
とはいえ、日本の観客が特に強く印象づけられるとしたら、それは宗教だろう。
映画の冒頭で、ヘルパーの女性が、男性の身体を洗うことが信仰に反しないか電話で相談する場面がある。これにより観客は、女性が敬虔な信徒であることと、イラン社会の秩序を保つ仕組みを知ることになる。
日本人に宗旨を尋ねると、「信仰する宗教はない」と答える人がいる。自分を無宗教だと考えている人は少なくないだろう。実際には、無宗教を自認する人でも根っこの部分では怨霊信仰や言霊信仰等に深く浸っており、その言動が信仰に制約されていたりするのだが、イスラームやキリスト教のように体系立った宗教を学んでいないために、自分の言動の裏に宗教があるとはなかなか気づかない。
だが、日本ではそれで済んでも、外国で「信仰する宗教がない」と口外するのは考えものだ。それは「私には道徳心がありません」「私には一般常識がありません」と云っているようなもの、いやそれ以上に強烈な発言として受け取られるおそれがあるからだ。
2012年1月3日放映のテレビ番組『池上彰の世界を見に行く!2012年新春スペシャル 暮らしに直結!世界を動かすお金』に出演したサウジアラビアの方が、「信仰心のない人は何をするか判らないから怖い」と発言したことは印象的である。
『別離』を観ると、そのことがとても実感できる。
たとえ立場が異なっても、いさかいが起こっても、人々が拠りどころとするのはクルアーン(コーラン)だ。クルアーンに誓った言葉は真実であり、クルアーンが禁じることは行わない。その認識が共有されているから、どんなに対立していてもどこかで秩序が保たれる。
もちろん信仰心の持ち方には個人差があり、言葉の重みにもぶれがあるが、少なくとも各人が信仰を尊重するからこそ意見が違っても同じ席に着けるのだろう。
もしも本作の登場人物に共通する宗教がなければ、この争いはとどまることがなかったはずだ。
このように社会を秩序立てる仕組みとしての宗教は、社会が大きくなるにつれて欠かせなくなる。その仕組みは宗教でなくても良いかもしれないが、キリスト教の信徒が20億人以上、イスラームの信徒が11億人もいる事実が、宗教に代わる有力な仕組みを我々が持ち得ていないことを示していよう。
世界価値観調査に基づいてロナルド・イングルハートとクリスチャン・ヴェルツェルが各国の傾向をプロットした価値マップによれば、イランは宗教等の伝統的価値観を重視する国であり、他方日本は世界一世俗的な国である。けれど日頃信仰に無自覚な日本人といえども、このイラン映画を観ると、宗教が社会秩序の根幹として機能していることに気づくだろう。
そして宗教が人々にもたらしているもの――本作が成立する上で大前提になっているものの一つが、嘘をついてはいけないという倫理観だ。嘘をつくのはいけないことだと登場人物みんなが考えているからこそ、身に覚えのないことを云われると激昂し、真実を口にしない人はやましさを感じる。
日本にも「嘘つきは泥棒の始まり」ということわざがあるし、嘘をつくのがいけないなんて当たり前のことだと思うかもしれないが、騙し合いばかりの近頃の映画を観続けていると、嘘をついていないことを正面から問いただす本作はかえって新鮮だ。
本作がベルリン国際映画祭金熊賞やアカデミー賞外国語映画賞をはじめ各国の映画賞を受賞したのは、嘘をついてはいけないという物語にまだ世界が共感できるからだろう。
![別離 [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/51JffNw1iJL._SL160_.jpg)
監督・制作・脚本/アスガー・ファルハディ
出演/レイラ・ハタミ ペイマン・モアディ シャハブ・ホセイニ サレー・バヤト サリナ・ファルハディ ババク・カリミ メリッラ・ザレイ
日本公開/2012年4月7日
ジャンル/[ドラマ] [ミステリー]


tag : アスガー・ファルハディレイラ・ハタミペイマン・モアディシャハブ・ホセイニサレー・バヤトサリナ・ファルハディババク・カリミメリッラ・ザレイ
『ファミリー・ツリー』 ささいな違いが大違い
『マイレージ、マイライフ』と同様なことが、またしても起きている。
『マイレージ、マイライフ』の公開に際して興味深いと思ったのは、日米のポスターの違いだった。
日本のポスターは、主要な登場人物を演じるジョージ・クルーニーとヴェラ・ファーミガとアナ・ケンドリックが空港で座っている写真が使われていた。この構図は公式サイトでも見ることができる。ジョージ・クルーニーはやや横向き、アナ・ケンドリックは斜め上を向いているが、三人とも顔がはっきり見て取れる。
一方、米国のポスターは、やはり空港にいる三人の姿ではあるものの、逆光になって三人とも顔が見えない。主役のジョージ・クルーニーに至っては、背を向けてるので顔立ちすら判らない。
日本では出演者が誰であるかを明確にして、役者の顔で売っているのに対し、米国ではジョージ・クルーニーの名前こそ書かれているものの、絵柄には出演者のことが現れず、それより内容の奥深さを想像させるものにしている。
顔を重視する日本と、内容を重視する米国との違いである。
これはマンガだともっと判りやすい。
日本のマンガの表紙には、主人公の顔のアップや、正面を向いた立ち姿や座った姿が圧倒的に多い。本を売る上でもっとも重要な表紙に、キャラクターそのもの、顔かたちそのものが使われている。
しかしアメコミの表紙で、ただ主人公が突っ立っていたり、ニッコリしているものはまずない。そこでは主人公が敵と戦っていたり、危機に陥ったりしている。アメコミの表紙は、たった1枚の絵でもキャラクターではなくシチュエーションを描いているのだ。
『ファミリー・ツリー』でも、日米のポスターの些細な違いが決定的な差を生じさせているのが面白い。
日本のポスターは、ジョージ・クルーニーの横顔を大きく描いたものだ。その背後には浜辺が広がり、遠くに二人の少女の姿がある。そして「ハワイに暮らしていても人生は楽じゃない」という惹句が書き添えられている。
これにより、主人公がジョージ・クルーニーであること、少女たちが登場すること、海のきれいなハワイが舞台であることが判る。
サウンドトラックのCDジャケットも同じ絵なので、参考までに掲げておこう。上が日本のポスターに使われた絵、下が米国のポスターに使われた絵である。
一見して判るように、ほとんど同じ構図なのだが、ジョージ・クルーニーの向きがわずかに違う。日本版では横を向いていたジョージ・クルーニーが、米国版では斜め後ろを向いてしまい、顔立ちがよく判らない。
そして主役の顔を犠牲にすることで明確になったのは、少女たちとの関係である。日本版では背景でしかなかった少女たちを、米国版のジョージ・クルーニーはじっと見つめている。そこにかぶさる原題「The Descendants(子孫)」の文字。
これにより、少女たちがジョージ・クルーニー演じる主人公の娘であること、彼は娘たちをはじめとした将来世代のことを考えて、もの思いにふけっていることが判る。
日本のポスターがジョージ・クルーニーという役者の顔で売っているのに対し、米国のポスターは、子供たちのことを考える男というシチュエーションを表現しているのだ。
人物を配置する際のわずかな角度の違いから、まったく異なる意味が生じているのである。
そしてもちろん、映画の本質を表しているのは米国版のポスターだ。
本作の主人公キングは、カメハメハ大王の子孫である。彼は今、二つの大事なものを失おうとしている。一つは事故で意識の戻らない妻、もう一つは先祖伝来の原野だ。土地の所有を制限する法律のため、風光明媚なその原野を手放さざるを得ないのだ。開発業者に土地を渡せば、そこにはリゾート施設等が林立するだろう。
これまで彼は、どちらもほったらかしにしていた。妻とは、仕事にかまけて会話すらなかった。また、土地の賃貸等で暮らす従兄弟たちと違い、彼は弁護士業で生計を立ててきたから、土地の所有は生活に関係なかった。
ところが彼は妻の浮気を知って、妻と死別するだけでなく、彼女の心まで失っていたことに苦悩する。土地を売れば莫大な金を手に入れられるが、もはや妻に贅沢させてやることもできない。
残される子供たちや、将来の子孫のために、彼はどうすれば良いのか。
そんな彼の悩みと行動を、本作は時にコミカルに、特にシニカルに描き出す。
本作を通じて彼が身に沁みるのは、努力しなければ大切なものを維持できないということだ。ほったらかしにしといて、旨くいくわけがない。
彼は、これまでそれに気づかなかった。
ひるがえって私たちは、今の暮らしを維持するために必要なことに気づいているだろうか。
目の前の子供たちのために、将来の子孫のために。
『ファミリー・ツリー』 [は行]
監督・制作・脚本/アレクサンダー・ペイン 原作/カウイ・ハート・ヘミングス
脚本/ナット・ファクソン、ジム・ラッシュ
出演/ジョージ・クルーニー シャイリーン・ウッドリー アマラ・ミラー ニック・クラウス ボー・ブリッジス ロバート・フォスター ジュディ・グリア マシュー・リラード メアリー・バードソング
日本公開/2012年5月18日
ジャンル/[ドラマ] [コメディ]
http://bookmarks.yahoo.co.jp/bookmarklet/showpopup?t='+encodeURIComponent(document.title)+'&u='+encodeURIComponent(location.href)+'&ei=UTF-8','_blank','width=550,height=480,left=100,top=50,scrollbars=1,resizable=1',0);">
『マイレージ、マイライフ』の公開に際して興味深いと思ったのは、日米のポスターの違いだった。
日本のポスターは、主要な登場人物を演じるジョージ・クルーニーとヴェラ・ファーミガとアナ・ケンドリックが空港で座っている写真が使われていた。この構図は公式サイトでも見ることができる。ジョージ・クルーニーはやや横向き、アナ・ケンドリックは斜め上を向いているが、三人とも顔がはっきり見て取れる。
一方、米国のポスターは、やはり空港にいる三人の姿ではあるものの、逆光になって三人とも顔が見えない。主役のジョージ・クルーニーに至っては、背を向けてるので顔立ちすら判らない。
日本では出演者が誰であるかを明確にして、役者の顔で売っているのに対し、米国ではジョージ・クルーニーの名前こそ書かれているものの、絵柄には出演者のことが現れず、それより内容の奥深さを想像させるものにしている。
顔を重視する日本と、内容を重視する米国との違いである。
これはマンガだともっと判りやすい。
日本のマンガの表紙には、主人公の顔のアップや、正面を向いた立ち姿や座った姿が圧倒的に多い。本を売る上でもっとも重要な表紙に、キャラクターそのもの、顔かたちそのものが使われている。
しかしアメコミの表紙で、ただ主人公が突っ立っていたり、ニッコリしているものはまずない。そこでは主人公が敵と戦っていたり、危機に陥ったりしている。アメコミの表紙は、たった1枚の絵でもキャラクターではなくシチュエーションを描いているのだ。

日本のポスターは、ジョージ・クルーニーの横顔を大きく描いたものだ。その背後には浜辺が広がり、遠くに二人の少女の姿がある。そして「ハワイに暮らしていても人生は楽じゃない」という惹句が書き添えられている。
これにより、主人公がジョージ・クルーニーであること、少女たちが登場すること、海のきれいなハワイが舞台であることが判る。
サウンドトラックのCDジャケットも同じ絵なので、参考までに掲げておこう。上が日本のポスターに使われた絵、下が米国のポスターに使われた絵である。
一見して判るように、ほとんど同じ構図なのだが、ジョージ・クルーニーの向きがわずかに違う。日本版では横を向いていたジョージ・クルーニーが、米国版では斜め後ろを向いてしまい、顔立ちがよく判らない。

これにより、少女たちがジョージ・クルーニー演じる主人公の娘であること、彼は娘たちをはじめとした将来世代のことを考えて、もの思いにふけっていることが判る。
日本のポスターがジョージ・クルーニーという役者の顔で売っているのに対し、米国のポスターは、子供たちのことを考える男というシチュエーションを表現しているのだ。
人物を配置する際のわずかな角度の違いから、まったく異なる意味が生じているのである。
そしてもちろん、映画の本質を表しているのは米国版のポスターだ。
本作の主人公キングは、カメハメハ大王の子孫である。彼は今、二つの大事なものを失おうとしている。一つは事故で意識の戻らない妻、もう一つは先祖伝来の原野だ。土地の所有を制限する法律のため、風光明媚なその原野を手放さざるを得ないのだ。開発業者に土地を渡せば、そこにはリゾート施設等が林立するだろう。
これまで彼は、どちらもほったらかしにしていた。妻とは、仕事にかまけて会話すらなかった。また、土地の賃貸等で暮らす従兄弟たちと違い、彼は弁護士業で生計を立ててきたから、土地の所有は生活に関係なかった。
ところが彼は妻の浮気を知って、妻と死別するだけでなく、彼女の心まで失っていたことに苦悩する。土地を売れば莫大な金を手に入れられるが、もはや妻に贅沢させてやることもできない。
残される子供たちや、将来の子孫のために、彼はどうすれば良いのか。
そんな彼の悩みと行動を、本作は時にコミカルに、特にシニカルに描き出す。
本作を通じて彼が身に沁みるのは、努力しなければ大切なものを維持できないということだ。ほったらかしにしといて、旨くいくわけがない。
彼は、これまでそれに気づかなかった。
ひるがえって私たちは、今の暮らしを維持するために必要なことに気づいているだろうか。
目の前の子供たちのために、将来の子孫のために。
![ファミリー・ツリー(ジョージ・クルーニー主演、第69回ゴールデングローブ賞受賞) [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/51G6i7DGLVL._SL160_.jpg)
監督・制作・脚本/アレクサンダー・ペイン 原作/カウイ・ハート・ヘミングス
脚本/ナット・ファクソン、ジム・ラッシュ
出演/ジョージ・クルーニー シャイリーン・ウッドリー アマラ・ミラー ニック・クラウス ボー・ブリッジス ロバート・フォスター ジュディ・グリア マシュー・リラード メアリー・バードソング
日本公開/2012年5月18日
ジャンル/[ドラマ] [コメディ]


tag : アレクサンダー・ペインジョージ・クルーニーシャイリーン・ウッドリーアマラ・ミラーニック・クラウスボー・ブリッジスロバート・フォスタージュディ・グリアマシュー・リラードメアリー・バードソング
『ポテチ』 「絆」よりもヒステリシス!
中村義洋監督!伊坂幸太郎原作!濱田岳主演!
まさしく鉄板の陣営だ。『アヒルと鴨のコインロッカー』、『フィッシュストーリー』、そして『ゴールデンスランバー』で私たちを楽しませてくれた人々が、またも傑作を届けてくれた。
毎度お馴染み仙台を舞台にした『ポテチ』は、期待にたがわず抜群に面白い映画である。
68分という短めの上映時間の中に、思わずニヤニヤしてしまう軽妙な会話と、感情移入せずにはいられない愛すべきキャラクターたちと、一瞬たりとも飽きさせない意外性に満ちたプロットと、怒涛のような感動が凝縮されている。
それなのに一般・大高生の料金は1,300円と、通常の前売券なみだ。
映画の良し悪しは上映時間の長さとは全然関係がないし、それどころかダラダラと長い映画に何時間も付き合う苦痛を考えれば短いことはいいことなのだが、本作は短い上に料金を安く設定していただき、たいへんありがたい作品である。
とりわけ主人公を演じる濱田岳さんは、いつもながらのコンソメ味もといトボけた味でニヤリとさせてくれる。
しかも今回の濱田岳さんは泥棒役だ。泥棒だからこそ遭遇してしまう事件の顛末が面白いのだが、結局のところ悪事を働いてることに違いはない。けれども主人公はいいヤツだ。性格はいいのに犯罪者、おまけに一般常識に欠けるという支離滅裂な役柄を、観客にスッと受け入れさせるのは濱田岳さんならではだろう。
本作は、2011年3月11日に発生した東日本大震災の被災地である仙台を勇気づけようと伊坂氏と中村監督が企画し、わずか8日間で撮り上げたという。
そして2011年といえば、世相を表す漢字として選ばれたのは「絆」だった。
財団法人 日本漢字能力検定協会のプレスリリースによれば、応募者が「絆」を選んだ理由として挙げたのは、「震災で家族・友達・恋人・地域の人々との絆の大切さを知ったこと」「支援の絆が生まれたこと」「チームワークの絆により勝ち取ったワールドカップ優勝」等であるという。
思えば、これまで伊坂氏と中村監督が送り出した作品も、「人と人との絆」を感じさせるものだった。
『アヒルと鴨のコインロッカー』では青年たちの奇妙な連帯を描き、『ゴールデンスランバー』では卒業から何年経っても仲間意識がなくなることはない学生時代の友人たちを描いた。
本作に登場する親子や男女にも、なんらかの絆があるようにも思われる。
しかし、本作には「絆」よりもっと大事なものがある。
ここに登場するのは、偶発的な出来事で知り合った人々だ。親子ですら、偶発的な出来事による人間関係であると云える。
それは『ポテチ』の原作が収められた『フィッシュストーリー』の表題作でも強調されている。『フィッシュストーリー』は、まったく面識のない他人の行動が、面白いように絡まって事件を起こしたり解決していく奇妙な物語だった。登場人物それぞれのあいだには何の関係もなく、とうぜんそこに「絆」なんてものはない。
ではこれらの作品が描いているのはなんだろう?
それは「縁」だ。
ある人の行動や偶然の出来事が、他の人の行動に、人生に影響していく。「縁」というものの不思議さ、面白さ。伊坂氏と中村監督の作品に一貫して流れるのは、「縁」を肯定する思いだ。
『アヒルと鴨のコインロッカー』で青年がブータンからの留学生と出会ったのも、『ゴールデンスランバー』であの時代にあの仲間たちが出会ったのも、本作で親子や男女が一緒に暮らしているのも、巡りあわせというものだろう。
別に、強く連帯したいとか、絆を結びたいと熱望した結果ではない。それは単なる偶然の産物かもしれない。にもかかわらず、それが大切なもの、かけがえのないものになっていく。
これもまた、ヒステリシスと云えるかもしれない。
ヒステリシスとは、「履歴現象」とも表記される物理学や経済学等で用いられる言葉であり、ある状態が現在の条件だけでなく、過去の出来事に影響されることを指す。
物事は、現在の条件を変えたところで、必ずしも状態が元に戻るわけではない。たとえば磁性体は一度強く磁化させると容易には磁化が弱まらないし、阪神・淡路大震災で減少した神戸港の取扱量は、港湾機能が回復しても元に戻ることはなかった。
考えてみれば、これは特別なことではない。私たちの人生はいつでもヒステリシスである。
一つの出会い、一つの出来事は、長く影響し続ける。それが故意であろうと偶然であろうと、私たちはそれをなかったことにはできない。
そして、いつしかその出会い、その出来事に私たちは馴染み、それらのある人生が当たり前になっていく。
コンソメ味のポテトチップスを食べたかった人が、偶然食べた塩味の方を気に入るように。
『ポテチ』 [は行]
監督・脚本・出演/中村義洋 原作/伊坂幸太郎 音楽/斉藤和義
出演/堤田岳 木村文乃 大森南朋 石田えり 中村大樹 松岡茉優 阿部亮平 桜金造
日本公開/2012年5月12日
ジャンル/[ドラマ] [コメディ]
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まさしく鉄板の陣営だ。『アヒルと鴨のコインロッカー』、『フィッシュストーリー』、そして『ゴールデンスランバー』で私たちを楽しませてくれた人々が、またも傑作を届けてくれた。
毎度お馴染み仙台を舞台にした『ポテチ』は、期待にたがわず抜群に面白い映画である。
68分という短めの上映時間の中に、思わずニヤニヤしてしまう軽妙な会話と、感情移入せずにはいられない愛すべきキャラクターたちと、一瞬たりとも飽きさせない意外性に満ちたプロットと、怒涛のような感動が凝縮されている。
それなのに一般・大高生の料金は1,300円と、通常の前売券なみだ。
映画の良し悪しは上映時間の長さとは全然関係がないし、それどころかダラダラと長い映画に何時間も付き合う苦痛を考えれば短いことはいいことなのだが、本作は短い上に料金を安く設定していただき、たいへんありがたい作品である。
とりわけ主人公を演じる濱田岳さんは、いつもながらのコンソメ味もといトボけた味でニヤリとさせてくれる。
しかも今回の濱田岳さんは泥棒役だ。泥棒だからこそ遭遇してしまう事件の顛末が面白いのだが、結局のところ悪事を働いてることに違いはない。けれども主人公はいいヤツだ。性格はいいのに犯罪者、おまけに一般常識に欠けるという支離滅裂な役柄を、観客にスッと受け入れさせるのは濱田岳さんならではだろう。
本作は、2011年3月11日に発生した東日本大震災の被災地である仙台を勇気づけようと伊坂氏と中村監督が企画し、わずか8日間で撮り上げたという。
そして2011年といえば、世相を表す漢字として選ばれたのは「絆」だった。
財団法人 日本漢字能力検定協会のプレスリリースによれば、応募者が「絆」を選んだ理由として挙げたのは、「震災で家族・友達・恋人・地域の人々との絆の大切さを知ったこと」「支援の絆が生まれたこと」「チームワークの絆により勝ち取ったワールドカップ優勝」等であるという。
思えば、これまで伊坂氏と中村監督が送り出した作品も、「人と人との絆」を感じさせるものだった。
『アヒルと鴨のコインロッカー』では青年たちの奇妙な連帯を描き、『ゴールデンスランバー』では卒業から何年経っても仲間意識がなくなることはない学生時代の友人たちを描いた。
本作に登場する親子や男女にも、なんらかの絆があるようにも思われる。
しかし、本作には「絆」よりもっと大事なものがある。
ここに登場するのは、偶発的な出来事で知り合った人々だ。親子ですら、偶発的な出来事による人間関係であると云える。
それは『ポテチ』の原作が収められた『フィッシュストーリー』の表題作でも強調されている。『フィッシュストーリー』は、まったく面識のない他人の行動が、面白いように絡まって事件を起こしたり解決していく奇妙な物語だった。登場人物それぞれのあいだには何の関係もなく、とうぜんそこに「絆」なんてものはない。
ではこれらの作品が描いているのはなんだろう?
それは「縁」だ。
ある人の行動や偶然の出来事が、他の人の行動に、人生に影響していく。「縁」というものの不思議さ、面白さ。伊坂氏と中村監督の作品に一貫して流れるのは、「縁」を肯定する思いだ。
『アヒルと鴨のコインロッカー』で青年がブータンからの留学生と出会ったのも、『ゴールデンスランバー』であの時代にあの仲間たちが出会ったのも、本作で親子や男女が一緒に暮らしているのも、巡りあわせというものだろう。
別に、強く連帯したいとか、絆を結びたいと熱望した結果ではない。それは単なる偶然の産物かもしれない。にもかかわらず、それが大切なもの、かけがえのないものになっていく。
これもまた、ヒステリシスと云えるかもしれない。
ヒステリシスとは、「履歴現象」とも表記される物理学や経済学等で用いられる言葉であり、ある状態が現在の条件だけでなく、過去の出来事に影響されることを指す。
物事は、現在の条件を変えたところで、必ずしも状態が元に戻るわけではない。たとえば磁性体は一度強く磁化させると容易には磁化が弱まらないし、阪神・淡路大震災で減少した神戸港の取扱量は、港湾機能が回復しても元に戻ることはなかった。
考えてみれば、これは特別なことではない。私たちの人生はいつでもヒステリシスである。
一つの出会い、一つの出来事は、長く影響し続ける。それが故意であろうと偶然であろうと、私たちはそれをなかったことにはできない。
そして、いつしかその出会い、その出来事に私たちは馴染み、それらのある人生が当たり前になっていく。
コンソメ味のポテトチップスを食べたかった人が、偶然食べた塩味の方を気に入るように。
![ポテチ〔初回限定仕様〕 [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/4185pIY7ymL._SL160_.jpg)
監督・脚本・出演/中村義洋 原作/伊坂幸太郎 音楽/斉藤和義
出演/堤田岳 木村文乃 大森南朋 石田えり 中村大樹 松岡茉優 阿部亮平 桜金造
日本公開/2012年5月12日
ジャンル/[ドラマ] [コメディ]


『タイタニック 3D』 真の主人公は誰か?
史実と違う。1997年に公開された映画『タイタニック』に対して、そんな声があるそうだ。
沈みゆくタイタニック号から逃げようと、我先に救命ボートに群がる男たち。そんな映画に対して、男性が女性や子供らを優先した英雄的なエピソードを無視しており、臆病者のように描いたという非難がある。
なるほど、主人公を除けば、好感を持って描かれる男性は甲板上で讃美歌『主よ御許に近づかん(Nearer, my God, to Thee)』を演奏するバンドメンバーぐらいのもので、ほとんどの男たちは自分勝手に行動している。
大勢が災厄に見舞われる他の映画、たとえば『タワーリング・インフェルノ』とは、まったく様相が異なる。
『タワーリング・インフェルノ』をはじめとする多くの映画では、互いに助け合う人々や、崇高な任務を遂行する人々が登場する。たまに嫌なヤツがいるものの、それはあくまでワンポイントで、映画は様々な人間を通して厚みのあるドラマを描き出す。
それらと比較すると、『タイタニック』は驚くほどシンプルだ。
主人公のジャックとローズは、いつも孤独である。二人の周りには、頼れる人も、信頼できる人もおらず、ジャックの友人はやられ役でしかない。
わずかにキャシー・ベイツ演じるモリー・ブラウンが協力的だが、それはまだ事故が起きる前のことで、二人が本当に困ったときにはその場にいない。
明らかにジェームズ・キャメロン監督には、本作で多様なドラマを描くつもりがない。
なぜなら『タイタニック』は、パニック映画ではないからだ。

『タイタニック』は、登場人物だけでなく、その物語の構成も極めてシンプルだ。
一隻の豪華客船が沈む。3時間14分もかけて、それしか描いていない。すべてはそれを観客に見せるために考えられている。
まず映画は、現代の深海探査の様子からはじまる。それにより、タイタニックが沈没すればどのような状態になるかを観客に映像で知らしめる。
その上、丁寧にもCGを使って沈没の模様をシミュレーションしてくれる。船がどんな角度で沈んでいくか、船体にどのような力が加わってどこが壊れるか等、これから映画で描くことをすべて解説付きで教えてくれる。
舞台が過去に移ると、タイタニックの内部構造と沈没によって生じる事態を、主人公二人が案内役となって説明する。
まず、ローズを一等船客に、ジャックを三等船客に設定し、この二人を追うだけで船内の上層部と下層部を説明できるようにする。
そして二人を船尾甲板で出会わせる。
ここは、ローズが海に飛び込むのを止めようとジャックが説得することで、二人の境遇や立場の違いを観客に印象づける大切なシーンだが、一番の狙いは船体後部の状況を観客に説明することにある。
ローズが船から身を乗り出すことで、甲板から海面まで驚くほどの距離があることを映像で示す。さらにジャックが、海の冷たさと、海中に落ちたら無数のナイフで刺されるように辛いことを説明する。
これらは、映画の終盤で二人が追い詰められるのがまさにこの場所であり、海に落ちる恐怖を味わうことから、あらかじめその場の状況を観客の頭に叩き込むためにあるのだ。
それは『ルパン三世 カリオストロの城』において、後半で決壊する水道を前半で通り抜けておくことで、位置関係等を観客に知らしめるのと同じである。
同様に、二人が船首で風を切るシーンもまた、後半のための伏線だ。
ローズが腕を広げ、後ろからジャックが支えるところは、本作でもっとも有名なシーンだろう。舳先は強い風を受け、眼下ではイルカがタイタニックと競争している。まるで夕日に祝福されるかのように美しい情景は、二人の深い愛が感じられて印象的だ。
実に爽快なこのシーンの目的は、船のスピードを観客に実感させることだ。
タイタニックの事故における疑問の一つに、なぜ氷山を回避できなかったのかという問題がある。監視の目が行き届かなかったとか、原因はいくつもあるだろうが、船が簡単には旋回できないことも大きな要因だ。
そのためには、タイタニックがいかに速い速度で航行していたかを観客に知らせておく必要がある。劇中の会話でタイタニックの航行速度が画期的であることは語られるものの、映画としてはそれを映像で示さねばならない。
それこそが、二人が船首に立って風を受ける理由である。
また、ジャックとローズに、一般の船客は立ち入らないボイラー室や貨物室等を案内させるため、映画の作り手は二人が船内を逃げ回るシチュエーションを用意した。二人が追いかけ回されることで、船内のあちこちの様子をカメラに収めるのだ。
そのために、二人は道ならぬ恋をして、つかまれば引き離されることにする。
道ならぬ恋といえば、身分違いの恋と、三角関係が定番だ。本作にはその両方を備えさせる。
こうしてジェームズ・キャメロンは、映画の前半でタイタニックの構造と乗船している人々の構成をしっかり観客に理解させている。そのために必要な行動を取れるように、ジャックとローズの人物像を作り込んで、船首から船尾までくまなく歩かせたのだ。
船に限らず、作品中の何かが壊れるときは、観客がその細部や大きさを理解していてこそリアルに感じられる。いくらセットやVFXに凝ったところで、見ず知らずの物体の崩壊に驚くことはできない。
だからこの前半部は、クライマックスの沈没の迫力を観客に実感させる上で欠かせないステップなのだ。
後半、氷山と衝突してからは、前半で見せておいた船内構造のおさらいをするだけだ。
氷山と衝突する瞬間に二人が甲板に居合わせて氷を見るようにしたり、船長たちが事態の重大さを話し合っているところに二人が通りかかって会話を聞くことにしたり、二人だけは甲板に逃げないで急激に浸水する様子を目撃したりと、ここでも二人が案内役となって、沈没の様子を観客に見せてくれる。
それが不自然にならないように、二人は甲板でキスをしたり、船内に幽閉されたりと、その場にいる必然性を生じさせるべく物語が組み立てられている。
この映画は、タイタニックの沈没というただ一つの出来事を、二人の人物だけで説明できるように作られているのだ。
普通の映画は、こうはしない。
たいていは乗員側と乗客側に主役級の人物を配し、さらに乗客側には様々な階級や職種の人々を登場させることで、複数の視点から事態の詳細を語らせる。
その方が事態の多くの局面を描きやすいし、物語に厚みが出て、一石二鳥だからだ。それがパニック映画の常套手段である。
けれどもジェームズ・キャメロン監督は、次のように述べている。
「私のすべての映画はラブストーリーなんだ。でも『タイタニック』でようやく適切なバランスを実現したよ。これはパニック映画じゃない。古い時代の重圧の下でのラブストーリーなのさ。」
そして脚本を書く上では、ラブストーリーの古典『ロミオとジュリエット』からインスピレーションを得たという。
本作がラブストーリーだとすれば、多様なドラマで構成しないのもうなずける。ラブストーリーでは、恋する男女だけが心を通わせ合い、他の登場人物は二人の障害でしかない。
二人に降り注ぐ幾多の試練や困難に打ち克ち、遂に愛を成就する。それがラブストーリーなのだから、困難が多ければ多いほど、試練が厳しければ厳しいほど、二人の恋が際立つ。
だから、二人がすぐに祝福されたり、周囲のみんなに応援されたら、ドラマチックなラブストーリーにはならない。
『タイタニック』では、せっかく二人の前途に船の沈没という究極の困難が立ちはだかるのに、乗客同士の助け合いや英雄的なエピソードを描いたら、ラブストーリーが台無しになってしまう。
ゆえに、史実と違うと非難されても、ラブストーリーとしてはこれで正解なのだ。
マードック一等航海士の描き方がひどいと遺族から抗議され、謝罪することになっても、ジェームズ・キャメロンが「この描写が正しいとも正しくないとも誰にも証明できないさ」と平然としていたのも、本作の目的が遺族みんなが納得するような真実を追究することではなく、優れたラブストーリーにすることだからだ。

加えて本作は、ジェームズ・キャメロンが一貫して撮り続けている「女性が自立する物語」の完成形でもある。
『タイタニック』はローズの回想として語られ、視点は終始ローズにある。古い考え方を打ち破り、新たなステップに踏み出すのもローズだ。本作は、様々なしがらみでがんじがらめになっていたローズが、男性に保護される立場に甘んじることを止め、斧を振るって戦うまでに成長する物語なのだ。
とうぜん物語の必然として、彼女の周りは敵だらけでなければならない。
ジェームズ・キャメロンの作品はどれも同じだ。ヒロインは、物語を通して自立することに目覚めるか(『ターミネーター』『トゥルーライズ』)、最初から戦う女性だ(『エイリアン2』『ターミネーター2』、企画中の『銃夢』等)。
たとえば『ターミネーター』では、平凡な生活を送る女性サラ・コナーが、未来から来た男性カイルに助けられながらT-800と戦い、やがてカイルの言葉を胸に、自立した女性として困難に立ち向かうようになる。
これは本作のローズが、ジャックに助けられながらタイタニックの大惨事を乗り越え、やがてジャックの言葉を胸に、自立した女性として困難に立ち向かうようになるのと同じだ。現代のシーンで映し出される馬に跨ったローズの写真や、飛行機に搭乗する写真の数々が、昔はできなかったことを克服した彼女の変化を表している。
一方のジャックが、物語の始まりと終わりでなんら変わっておらず、特段の成長が見られないのは、『ターミネーター』のカイルと同じである。
本作はケイト・ウィンスレット演じるローズの成長物語であり、クレジットの順番こそジャック役のレオナルド・ディカプリオが先だが、真の主人公はローズなのである。
『タイタニック』をもって、ジェームズ・キャメロンの「男性社会で戦う女性の物語」は完成を見た。
そして次作『アバター』では、身体障害者が周りの無理解と戦う物語が展開されるのは知ってのとおりだ。
『タイタニック』 [た行]
監督・制作・脚本・編集/ジェームズ・キャメロン
出演/レオナルド・ディカプリオ ケイト・ウィンスレット グロリア・スチュアート ビリー・ゼイン キャシー・ベイツ フランシス・フィッシャー ビル・パクストン バーナード・ヒル デヴィッド・ワーナー ジョナサン・ハイド ヴィクター・ガーバー スージー・エイミス
日本公開/1997年12月20日 3D版:2012年4月7日
ジャンル/[ドラマ] [ロマンス]
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沈みゆくタイタニック号から逃げようと、我先に救命ボートに群がる男たち。そんな映画に対して、男性が女性や子供らを優先した英雄的なエピソードを無視しており、臆病者のように描いたという非難がある。
なるほど、主人公を除けば、好感を持って描かれる男性は甲板上で讃美歌『主よ御許に近づかん(Nearer, my God, to Thee)』を演奏するバンドメンバーぐらいのもので、ほとんどの男たちは自分勝手に行動している。
大勢が災厄に見舞われる他の映画、たとえば『タワーリング・インフェルノ』とは、まったく様相が異なる。
『タワーリング・インフェルノ』をはじめとする多くの映画では、互いに助け合う人々や、崇高な任務を遂行する人々が登場する。たまに嫌なヤツがいるものの、それはあくまでワンポイントで、映画は様々な人間を通して厚みのあるドラマを描き出す。
それらと比較すると、『タイタニック』は驚くほどシンプルだ。
主人公のジャックとローズは、いつも孤独である。二人の周りには、頼れる人も、信頼できる人もおらず、ジャックの友人はやられ役でしかない。
わずかにキャシー・ベイツ演じるモリー・ブラウンが協力的だが、それはまだ事故が起きる前のことで、二人が本当に困ったときにはその場にいない。
明らかにジェームズ・キャメロン監督には、本作で多様なドラマを描くつもりがない。
なぜなら『タイタニック』は、パニック映画ではないからだ。

『タイタニック』は、登場人物だけでなく、その物語の構成も極めてシンプルだ。
一隻の豪華客船が沈む。3時間14分もかけて、それしか描いていない。すべてはそれを観客に見せるために考えられている。
まず映画は、現代の深海探査の様子からはじまる。それにより、タイタニックが沈没すればどのような状態になるかを観客に映像で知らしめる。
その上、丁寧にもCGを使って沈没の模様をシミュレーションしてくれる。船がどんな角度で沈んでいくか、船体にどのような力が加わってどこが壊れるか等、これから映画で描くことをすべて解説付きで教えてくれる。
舞台が過去に移ると、タイタニックの内部構造と沈没によって生じる事態を、主人公二人が案内役となって説明する。
まず、ローズを一等船客に、ジャックを三等船客に設定し、この二人を追うだけで船内の上層部と下層部を説明できるようにする。
そして二人を船尾甲板で出会わせる。
ここは、ローズが海に飛び込むのを止めようとジャックが説得することで、二人の境遇や立場の違いを観客に印象づける大切なシーンだが、一番の狙いは船体後部の状況を観客に説明することにある。
ローズが船から身を乗り出すことで、甲板から海面まで驚くほどの距離があることを映像で示す。さらにジャックが、海の冷たさと、海中に落ちたら無数のナイフで刺されるように辛いことを説明する。
これらは、映画の終盤で二人が追い詰められるのがまさにこの場所であり、海に落ちる恐怖を味わうことから、あらかじめその場の状況を観客の頭に叩き込むためにあるのだ。
それは『ルパン三世 カリオストロの城』において、後半で決壊する水道を前半で通り抜けておくことで、位置関係等を観客に知らしめるのと同じである。
同様に、二人が船首で風を切るシーンもまた、後半のための伏線だ。
ローズが腕を広げ、後ろからジャックが支えるところは、本作でもっとも有名なシーンだろう。舳先は強い風を受け、眼下ではイルカがタイタニックと競争している。まるで夕日に祝福されるかのように美しい情景は、二人の深い愛が感じられて印象的だ。
実に爽快なこのシーンの目的は、船のスピードを観客に実感させることだ。
タイタニックの事故における疑問の一つに、なぜ氷山を回避できなかったのかという問題がある。監視の目が行き届かなかったとか、原因はいくつもあるだろうが、船が簡単には旋回できないことも大きな要因だ。
そのためには、タイタニックがいかに速い速度で航行していたかを観客に知らせておく必要がある。劇中の会話でタイタニックの航行速度が画期的であることは語られるものの、映画としてはそれを映像で示さねばならない。
それこそが、二人が船首に立って風を受ける理由である。
また、ジャックとローズに、一般の船客は立ち入らないボイラー室や貨物室等を案内させるため、映画の作り手は二人が船内を逃げ回るシチュエーションを用意した。二人が追いかけ回されることで、船内のあちこちの様子をカメラに収めるのだ。
そのために、二人は道ならぬ恋をして、つかまれば引き離されることにする。
道ならぬ恋といえば、身分違いの恋と、三角関係が定番だ。本作にはその両方を備えさせる。
こうしてジェームズ・キャメロンは、映画の前半でタイタニックの構造と乗船している人々の構成をしっかり観客に理解させている。そのために必要な行動を取れるように、ジャックとローズの人物像を作り込んで、船首から船尾までくまなく歩かせたのだ。
船に限らず、作品中の何かが壊れるときは、観客がその細部や大きさを理解していてこそリアルに感じられる。いくらセットやVFXに凝ったところで、見ず知らずの物体の崩壊に驚くことはできない。
だからこの前半部は、クライマックスの沈没の迫力を観客に実感させる上で欠かせないステップなのだ。
後半、氷山と衝突してからは、前半で見せておいた船内構造のおさらいをするだけだ。
氷山と衝突する瞬間に二人が甲板に居合わせて氷を見るようにしたり、船長たちが事態の重大さを話し合っているところに二人が通りかかって会話を聞くことにしたり、二人だけは甲板に逃げないで急激に浸水する様子を目撃したりと、ここでも二人が案内役となって、沈没の様子を観客に見せてくれる。
それが不自然にならないように、二人は甲板でキスをしたり、船内に幽閉されたりと、その場にいる必然性を生じさせるべく物語が組み立てられている。
この映画は、タイタニックの沈没というただ一つの出来事を、二人の人物だけで説明できるように作られているのだ。
普通の映画は、こうはしない。
たいていは乗員側と乗客側に主役級の人物を配し、さらに乗客側には様々な階級や職種の人々を登場させることで、複数の視点から事態の詳細を語らせる。
その方が事態の多くの局面を描きやすいし、物語に厚みが出て、一石二鳥だからだ。それがパニック映画の常套手段である。
けれどもジェームズ・キャメロン監督は、次のように述べている。
「私のすべての映画はラブストーリーなんだ。でも『タイタニック』でようやく適切なバランスを実現したよ。これはパニック映画じゃない。古い時代の重圧の下でのラブストーリーなのさ。」
そして脚本を書く上では、ラブストーリーの古典『ロミオとジュリエット』からインスピレーションを得たという。
本作がラブストーリーだとすれば、多様なドラマで構成しないのもうなずける。ラブストーリーでは、恋する男女だけが心を通わせ合い、他の登場人物は二人の障害でしかない。
二人に降り注ぐ幾多の試練や困難に打ち克ち、遂に愛を成就する。それがラブストーリーなのだから、困難が多ければ多いほど、試練が厳しければ厳しいほど、二人の恋が際立つ。
だから、二人がすぐに祝福されたり、周囲のみんなに応援されたら、ドラマチックなラブストーリーにはならない。
『タイタニック』では、せっかく二人の前途に船の沈没という究極の困難が立ちはだかるのに、乗客同士の助け合いや英雄的なエピソードを描いたら、ラブストーリーが台無しになってしまう。
ゆえに、史実と違うと非難されても、ラブストーリーとしてはこれで正解なのだ。
マードック一等航海士の描き方がひどいと遺族から抗議され、謝罪することになっても、ジェームズ・キャメロンが「この描写が正しいとも正しくないとも誰にも証明できないさ」と平然としていたのも、本作の目的が遺族みんなが納得するような真実を追究することではなく、優れたラブストーリーにすることだからだ。

加えて本作は、ジェームズ・キャメロンが一貫して撮り続けている「女性が自立する物語」の完成形でもある。
『タイタニック』はローズの回想として語られ、視点は終始ローズにある。古い考え方を打ち破り、新たなステップに踏み出すのもローズだ。本作は、様々なしがらみでがんじがらめになっていたローズが、男性に保護される立場に甘んじることを止め、斧を振るって戦うまでに成長する物語なのだ。
とうぜん物語の必然として、彼女の周りは敵だらけでなければならない。
ジェームズ・キャメロンの作品はどれも同じだ。ヒロインは、物語を通して自立することに目覚めるか(『ターミネーター』『トゥルーライズ』)、最初から戦う女性だ(『エイリアン2』『ターミネーター2』、企画中の『銃夢』等)。
たとえば『ターミネーター』では、平凡な生活を送る女性サラ・コナーが、未来から来た男性カイルに助けられながらT-800と戦い、やがてカイルの言葉を胸に、自立した女性として困難に立ち向かうようになる。
これは本作のローズが、ジャックに助けられながらタイタニックの大惨事を乗り越え、やがてジャックの言葉を胸に、自立した女性として困難に立ち向かうようになるのと同じだ。現代のシーンで映し出される馬に跨ったローズの写真や、飛行機に搭乗する写真の数々が、昔はできなかったことを克服した彼女の変化を表している。
一方のジャックが、物語の始まりと終わりでなんら変わっておらず、特段の成長が見られないのは、『ターミネーター』のカイルと同じである。
本作はケイト・ウィンスレット演じるローズの成長物語であり、クレジットの順番こそジャック役のレオナルド・ディカプリオが先だが、真の主人公はローズなのである。
『タイタニック』をもって、ジェームズ・キャメロンの「男性社会で戦う女性の物語」は完成を見た。
そして次作『アバター』では、身体障害者が周りの無理解と戦う物語が展開されるのは知ってのとおりだ。
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監督・制作・脚本・編集/ジェームズ・キャメロン
出演/レオナルド・ディカプリオ ケイト・ウィンスレット グロリア・スチュアート ビリー・ゼイン キャシー・ベイツ フランシス・フィッシャー ビル・パクストン バーナード・ヒル デヴィッド・ワーナー ジョナサン・ハイド ヴィクター・ガーバー スージー・エイミス
日本公開/1997年12月20日 3D版:2012年4月7日
ジャンル/[ドラマ] [ロマンス]


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