『わが母の記』 これは松竹らしいホームドラマではない

この作品の注目すべき点は、まず松竹映画であることだろう。
白井佳夫氏は本作を「小津安二郎をはじめとする松竹大船撮影所系の映画監督たちへの、オマージュをこめて作られた一作だ」と紹介している(日本経済新聞夕刊2012年4月27日付)。
たしかに小津安二郎監督は長年松竹で活躍し、家族の物語を撮り続けてきた。現在、松竹大船撮影所の系譜を引く映画監督といえば山田洋次監督であり、松竹大船で撮影された映画の代表作は車寅次郎を中心に家族がてんやわんやする『男はつらいよ』シリーズだろう。
それゆえ原作者井上靖氏をモデルとする作家・伊上とその母、そして妻や子供たち家族を描いた松竹映画『わが母の記』に、松竹大船を連想するのはもっともだ。
しかしながら、原田眞人監督が小津安二郎作品の中で最重要視するのは、あろうことか一本だけ大映で撮った『浮草』(1959年)である。
そして原田監督は、小津安二郎が松竹では決して撮ることのなかった土砂降りの場面を、そっくりそのまま『わが母の記』の冒頭に配置する。土砂降りの雨に隔てられた男女が道の両側の軒下で相対する構図が、『浮草』で中村鴈治郎と京マチ子が睨みあう場面の忠実な再現であることは、多くの観客が気づくだろう。
小津安二郎のフィルモグラフィーにおいて、おそらく唯一となる土砂降りの場面は、大映の名カメラマン宮川一夫氏のアイデアによるものだ。これは古巣松竹で、馴染みの小津組のメンバーと撮影している限り、生まれ得なかった場面なのだ。
それを冒頭で印象づける原田監督は、本当に松竹大船撮影所系の映画へオマージュを込めているのだろうか。
さらに原田眞人監督が重視する他の小津作品も興味深い。
原田監督は2011年6月23日に行われた早稲田大学での公開講座『~小津安二郎再発見と『わが母の記』~』に際して、次のようなメッセージを寄せている。
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(略)新作「わが母の記」は小津作品の影響なしには語ることはできない。
映画作家小津を語る上で重要なのは1941年の「戸田家の兄妹」以降17本の戦中戦後作品だが、一般的には「戸田家」を一番手と数えると#5「晩春」、#7「麦秋」、#9「東京物語」という、いわゆる「紀子トリロジー」が頂点をなすと見られている。
ゆえに#12「彼岸花」以降のカラー6作品は作家性が枯渇し、マンネリズムに陥ったという見方だ。ぼく自身、この「俗説」を鵜呑みにして、表現者の目として作品群を検証することもなく「小津のベストは『東京物語』である」と信じ込んでいた。このとんでもない誤解は数年前、#14にあたる「浮草」を十数年ぶりに見たことで修正された。
「浮草」は「東京物語」をすべての表現、とりわけ作家性という名称のこだわりと演技表現において数等しのいでいる。そして、去年、小津の十七作品を集中的に見、小津に関する書籍や小津語録を読みあさり、ひとつの結論を得た。
小津晩年のカラー6作品をマンネリズムの産物と切り捨てるのが如何に愚かであるか、と。
小津のマスターピースとは「浮草」であり、それに#16「小早川家の秋」、#17「秋刀魚の味」が続く。
小津の真骨頂は色彩にある。小津は深化し、進化を続けた。
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原田監督が「小津のマスターピース」とまで呼ぶ『浮草』が唯一の大映作品なら、それに続く『小早川家の秋』は唯一の東宝作品である(製作は宝塚映画)。最後の『秋刀魚の味』こそ松竹に戻って撮った作品だが、原田監督が重要視する三作品のうち二つまでが松竹作品ではないことを考えると、『わが母の記』は小津安二郎監督へのオマージュではあっても、松竹大船撮影所系映画へのオマージュではないだろう。
そんな作品を松竹で撮るのだから、原田監督は大胆だ。おそらく昭和時代を舞台にしたホームドラマということで、それなら松竹大船調だろうと松竹も世間も思い込んでしまったのだ。
なにしろ原田監督みずからが小津作品の影響を認めているにもかかわらず、本作からは小津作品らしい"いつもの"特徴が感じられない。
たとえば、対面で座った人物の会話を画面の切り返しで表現したり、二人の人物が同じ方を見つめたりといった、人物間の調和を感じさせる小津作品らしい構図がない。
逆に小津安二郎が避けてきたもの、たとえば向かいあった人物が睨みあう構図を、わざわざ例外的に撮った『浮草』から引用している。
また『小早川家の秋』は、映画の後味を大切にする小津安二郎には珍しく、父の葬儀という"暗い"儀式で締めくくった作品であり、最後には不吉なカラスの映像を挿入するほど重い後味を演出している。
『わが母の記』も、単に松竹大船調のホームドラマだと思っていると、待ち受ける荘厳さに驚くだろう。
おそらく原田監督は小津作品からの影響を公言しつつ、世評の高い「紀子トリロジー」を想起させる作品にはせず、監督が重視する『浮草』『小早川家の秋』『秋刀魚の味』の影響を前面に出した映画を撮ってみせることで、みずからの手で小津晩年のカラー作品の復権を図ったのではないか。
もちろん、いくら原田監督が小津作品の影響を認めたとしても、小津安二郎監督の作風をそのままなぞっているわけではない。『クライマーズ・ハイ』のようにテンポ良くスピード感のある作品を得意とする原田監督ならば、小津安二郎の再発見といっても、おのずと他の映画作家とは違うところに着目しよう。その結果としての本作が、小津映画の多くを占める松竹大船作品とは違うのも、当然といえば当然である。
ただ、私自身はじめて観た小津作品が『小早川家の秋』であり、そのあまりの傑作ぶりに度胆を抜かれて小津ファンになった身としては、小津晩年のカラー作品を重視する原田監督の姿勢に拍手を贈りたいと思う。
最後に、本作において印象的でありながら、それでいて小津安二郎らしからぬ二つのことに触れておこう。
一つは本作で最高に盛り上がる食堂の場面だ。
まず観客は、食堂の客に扮した小劇場出身の役者たちに目を奪われよう。これは小劇場の同窓会かと思っていると、やおら立ち上がりその場を制するのが劇団☆新感線の看板役者・橋本じゅんさんである。ピカピカの靴を気にする洒落者でありながら、困っているお婆さんのためにひと肌脱いで男を上げる。まるで『港町純情オセロ』や『鋼鉄番長』でお馴染みの暴走男そのままを快演してカッコいい!
大声を張り上げて目立つ男なんて、小津作品ではサイレント時代の岡田時彦ぐらいしかいないと思うが(サイレントだから声は聞こえないが)、原田監督は「紀子トリロジー」では絶対に出てこないような人物を大事な場面に放り込んで、作品を加速させている。
ちなみにエンドクレジットの表記によれば、橋本じゅんさんの役名は「クールなダンプ男」:-)
まったく、最高にクールであった。
もう一つは、テレビドラマ『SPEC ~警視庁公安部公安第五課 未詳事件特別対策係事件簿~』のサトリ役で強烈な印象を残した真野恵里菜さんが演じる女中の貞代だ。
これが、たびたび手鼻をかむ汚い女で、小津作品ではやはりサイレント時代の突貫小僧を思わせるような品のなさだ。
こんな下品な人物を、アイドルとしても活躍する真野恵里菜さんが演じるのだから、小津安二郎らしからぬ上にアイドルらしくもなく、二重の意味で型破りだ。
しかし、晩年の小津安二郎が好んで取り上げた家族像そのままに裕福で小奇麗な伊上家の中で、貞代の存在は初期の小津作品を彷彿とさせ、まことに愉快である。
この二人の人物も、小津作品のうち「紀子トリロジー」ばかりが称賛されることへのアンチテーゼなのかもしれない。
なお、原田監督は本作を「イングマール・ベルイマン、小津安二郎といった監督たちへのオマージュ」と語っている。
劇中の会話で、小津安二郎監督の『東京物語』やイングマール・ベルイマン監督の『処女の泉』が話題になるが、原田監督が出演者に参考として薦めたのも小津安二郎、イングマール・ベルイマンの諸作であったという。

監督・脚本/原田眞人
出演/役所広司 樹木希林 宮崎あおい 南果歩 キムラ緑子 ミムラ 赤間麻里子 菊池亜希子 三浦貴大 真野恵里菜 三國連太郎
日本公開/2012年4月28日
ジャンル/[ドラマ]


『テルマエ・ロマエ』 時空を超える秘密
『のだめカンタービレ』で私たちを大いに楽しませてくれた武内英樹監督が、そこでつちかったノウハウを活かして作り上げたのが『テルマエ・ロマエ』である。
誰もが認める本作の最大の特徴は、そのキャスティングであろう。
『のだめカンタービレ』でも、ベッキーやウエンツ瑛士のようにヨーロッパ人に見える(当たり前だ)俳優を起用する一方、竹中直人、なだぎ武ら素顔は日本人にしか見えない人にドイツ人やフランス人を演じさせるなど、大胆なキャスティングが愉快であった。
これで自信を深めたのだろう。本作では古代ローマの人々を、あろうことか"顔が濃い"日本の俳優たちが演じている。
阿部寛、北村一輝、市村正親といった顔の濃い人々の集結は、誰もが一度は見てみたかった光景だろう。
いざそれが実現すると、まったくもって壮観だ。ドラマや映画に一人いるだけでそこだけ"濃くなる"顔立ちの人が、ズラリと並べばそれだけでおかしい。
『奇巌城の冒険』(1966年)などは、奇想天外な内容にもかかわらず少々真面目な雰囲気なので、中東の景色の中に日本人ばかりが登場することに違和感を覚えなくもないが、『テルマエ・ロマエ』はその不自然さを作品全体を覆うアホらしさとして巧みに昇華させている。これは日本人がインド人を演じた『映画 怪物くん』にも通じる楽しい趣向である。
『のだめカンタービレ』での経験は、言語の扱いにも活きている。
外国を舞台にした作品での言語の扱いには、作り手のスタンスが顕著に現れる。たとえばアメリカ映画では、『ドラゴン・タトゥーの女』や『ヒューゴの不思議な発明』に見られるように、舞台がスウェーデンだろうがフランスだろうが平気で英語を喋っている。
そんなことは気にしないのが米国人の大勢なのだろうが、一方で『スター・ウォーズ』のように異星人が地球の言葉とは違う言語を話す映画もある。ところがそれが部分的な処置なものだから、では他のシーンで英語を喋っているのは何なのだろうと思わないでもない。
いっそ『フラッシュ・ゴードン』のように冒頭のカットで異星人の機器に英語のラベルが付いてるところを見せて、「これはリアリティを排除した作品なのだ」と最初に宣言してしまう方法もある。
いずれにしろ観客の理解を助けるためには、映画の舞台がどこだろうと制作国の母国語で作らざるを得ない。
だからフランスを舞台にしたアメリカ映画を観て、「英語を話すのはおかしい」なんて突っ込んでも意味がない。それはあらかじめ吹き替え版になっているのだと思えば良いだけだ。
とはいえ、複数の言語が混在する作品では、不自然さを感じさせない何らかの配慮が欲しいものだ。
そこで作品のテイストを活かしながら上手く対処したのが、『のだめカンタービレ』である。
スペシャルドラマ『のだめカンタービレ in ヨーロッパ』では、舞台がフランスに移ったはじめのうちこそ、のだめがフランス語を勉強する場面があるものの、途中で「ここからは日本語でお送りします」とテロップを出して、後はすべて日本語で進行してしまう。役者たちはそこまではフランス語で話しながら、テロップ以降は日本語で喋りだす(日本語が話せない役者のセリフは吹き替えになる)。
テレビの前の視聴者は、あまりにも開き直ったやり方に唖然としたことだろう。
もともと日本人は、歌舞伎や人形浄瑠璃で黒子が見えていても「見えないことにする」文化を持っている。"お約束"がはっきりしていれば、それを受け入れてしまうのだ。
だから、日本語で進行するけど「フランス語ということになっている」のがお約束であれば、それはそれでアリなのだ。
そしてコメディタッチの作風を活かし、作り手と受け手でお約束を取り交わしたのが『のだめカンタービレ』である。
同じことは『テルマエ・ロマエ』にもいえる。
主人公が古代ローマから現代日本へタイムスリップした場面では、阿部寛さんが猛勉強の成果を発揮してラテン語を話している。観客に配布された『テルマエ・ロマエ 特別編』に収録のインタビューによれば、ラテン語は現在では使われていないために、どこにアクセントを付けるべきか掴めなくて苦労したそうだ。
また、古代ローマ人だけが登場するシークエンスのセリフは日本語だが、観客はラテン語を話しているものとして受け止める。本当にラテン語で話されたらチンプンカンプンなんだから、『ドラゴン・タトゥーの女』や『ヒューゴの不思議な発明』と同様にあらかじめ観客の母国語に吹き替えたのだと思えば良い。
ところが問題は現代日本のヒロインが古代ローマへタイムスリップした場面である。
ヒロインはラテン語を勉強したことになっているから、ラテン語のセリフが飛び交っても良いわけだが、それでは観客が理解できない。昨今は洋画の字幕版が敬遠されるくらいだから、邦画なのに字幕で進行させるのは避けたいところだ。
さりとてすべてのセリフを日本語にして、そこに日本人が混じって日本語を話していたら、もう何がなんだか判らなくなってしまう。
そこで採用したのが、『のだめカンタービレ』と同じく「ここからは日本語でお送りします」という"お約束"を交わすことだ。
しかも『のだめカンタービレ』のようにわざわざ物語の進行を止めてテロップを映し出したりせず、画面の端に「BILINGUAL」と表示して済ませてしまう。
こんなやり方ができるのも、『のだめカンタービレ』で"お約束"方式の実績があるからだろう。
そして『のだめカンタービレ』の成果を最大限に活かしたのが、タイムスリップするところである。
もちろん『のだめカンタービレ』にタイムスリップなんてないけれど、この場面は『のだめカンタービレ』の経験を持つ武内英樹監督だからこそなし得たものだろう。
本作は古代ローマ人が現代日本へタイムスリップすることが面白さの中核だが、どんなメカニズムで時空を超えるのか具体的な説明がない。これが大事なことである。
作り手は誰しも、作品のわけの判らないところに理屈を付けたくなってしまうものだ。
しかし、娯楽作において理屈を付けるのが効果的とは限らない。理屈の説明が物語の円滑な流れを妨げたり、作品の主眼ではない部分が膨れ上がったりして、娯楽性を損なうことも考えられる。
だから武内監督は、本作のタイムスリップについて説明しないことにした。
これは大正解であろう。観客が見たいのは、題名どおりローマの風呂(テルマエ・ロマエ)を巡るあれこれであり、タイムスリップの謎の解明ではないのだから。
だが、単に説明しないだけでは、わけが判らなくて観客が作品に乗ってこないかもしれない。
そこで武内監督は、余計な説明がなくても観客がタイムスリップを受け入れるように、時空を超える場面の納得性を高めている。そのために利用したのが音楽である。
本作ではタイムスリップするたびに朗々たるオペラが流れるのだ。その声の力、音楽の力が観客の感性を刺激して、理屈を超えた共感を覚えさせ、現実離れしたシチュエーションを受け入れさせてしまう。
そもそもこのような効果を生み出すことが、音楽が存在する理由かもしれない。
元々音楽は、人間が生きていくのに必須のものではない。人間が狩猟採取で食物を得たり、戦争に勝つ上で、音楽が必要なわけではない。
にもかかわらず世界のすべての部族に音楽があり、舞踏が行われるのは、それが宗教的な儀式の道具だったからだという。
宗教的な儀式を経ることで、子供は一人前の「戦士」と認められ、集団の結束力が高まる。そうした集団だけが、戦争に明け暮れる原始社会で生き残れた。
それが音楽の出自なのだとすれば、音楽によって理屈を超えた連帯が生まれるのはとうぜんなのかもしれない。
犬が嬉しいときに飛び跳ねたりクルクル回っている様子を見ると、舞踏や音楽は宗教的儀式よりもさらに奥深いところから発しているようにも思うけれど、いずれにしろ武内英樹監督は、音楽ドラマ『のだめカンタービレ』を手がけることで、音楽の持つ力を実感したのだろう。そしてタイムスリップという不思議な現象を観客に納得させるには、理屈をこねるよりも音楽の力を使う方が効果的だと考えたのだ。
だから本作では、タイムスリップするたびに音楽が流れる。しかも生半可なものではない、迫力を持ったオペラの歌声が観客を圧倒する。
映画館の優れた音響設備でこれを味わうとき、観客は理屈を超えてタイムスリップを受け入れることだろう。
これこそが、『のだめカンタービレ』を経た監督ならではの演出なのだ。
『テルマエ・ロマエ』 [た行]
監督/武内英樹
出演/阿部寛 上戸彩 北村一輝 市村正親 竹内力 宍戸開 勝矢 キムラ緑子 笹野高史 神戸浩 内田春菊
日本公開/2012年4月28日
ジャンル/[コメディ] [ファンタジー]
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誰もが認める本作の最大の特徴は、そのキャスティングであろう。
『のだめカンタービレ』でも、ベッキーやウエンツ瑛士のようにヨーロッパ人に見える(当たり前だ)俳優を起用する一方、竹中直人、なだぎ武ら素顔は日本人にしか見えない人にドイツ人やフランス人を演じさせるなど、大胆なキャスティングが愉快であった。
これで自信を深めたのだろう。本作では古代ローマの人々を、あろうことか"顔が濃い"日本の俳優たちが演じている。
阿部寛、北村一輝、市村正親といった顔の濃い人々の集結は、誰もが一度は見てみたかった光景だろう。
いざそれが実現すると、まったくもって壮観だ。ドラマや映画に一人いるだけでそこだけ"濃くなる"顔立ちの人が、ズラリと並べばそれだけでおかしい。
『奇巌城の冒険』(1966年)などは、奇想天外な内容にもかかわらず少々真面目な雰囲気なので、中東の景色の中に日本人ばかりが登場することに違和感を覚えなくもないが、『テルマエ・ロマエ』はその不自然さを作品全体を覆うアホらしさとして巧みに昇華させている。これは日本人がインド人を演じた『映画 怪物くん』にも通じる楽しい趣向である。
『のだめカンタービレ』での経験は、言語の扱いにも活きている。
外国を舞台にした作品での言語の扱いには、作り手のスタンスが顕著に現れる。たとえばアメリカ映画では、『ドラゴン・タトゥーの女』や『ヒューゴの不思議な発明』に見られるように、舞台がスウェーデンだろうがフランスだろうが平気で英語を喋っている。
そんなことは気にしないのが米国人の大勢なのだろうが、一方で『スター・ウォーズ』のように異星人が地球の言葉とは違う言語を話す映画もある。ところがそれが部分的な処置なものだから、では他のシーンで英語を喋っているのは何なのだろうと思わないでもない。
いっそ『フラッシュ・ゴードン』のように冒頭のカットで異星人の機器に英語のラベルが付いてるところを見せて、「これはリアリティを排除した作品なのだ」と最初に宣言してしまう方法もある。
いずれにしろ観客の理解を助けるためには、映画の舞台がどこだろうと制作国の母国語で作らざるを得ない。
だからフランスを舞台にしたアメリカ映画を観て、「英語を話すのはおかしい」なんて突っ込んでも意味がない。それはあらかじめ吹き替え版になっているのだと思えば良いだけだ。
とはいえ、複数の言語が混在する作品では、不自然さを感じさせない何らかの配慮が欲しいものだ。
そこで作品のテイストを活かしながら上手く対処したのが、『のだめカンタービレ』である。
スペシャルドラマ『のだめカンタービレ in ヨーロッパ』では、舞台がフランスに移ったはじめのうちこそ、のだめがフランス語を勉強する場面があるものの、途中で「ここからは日本語でお送りします」とテロップを出して、後はすべて日本語で進行してしまう。役者たちはそこまではフランス語で話しながら、テロップ以降は日本語で喋りだす(日本語が話せない役者のセリフは吹き替えになる)。
テレビの前の視聴者は、あまりにも開き直ったやり方に唖然としたことだろう。
もともと日本人は、歌舞伎や人形浄瑠璃で黒子が見えていても「見えないことにする」文化を持っている。"お約束"がはっきりしていれば、それを受け入れてしまうのだ。
だから、日本語で進行するけど「フランス語ということになっている」のがお約束であれば、それはそれでアリなのだ。
そしてコメディタッチの作風を活かし、作り手と受け手でお約束を取り交わしたのが『のだめカンタービレ』である。
同じことは『テルマエ・ロマエ』にもいえる。
主人公が古代ローマから現代日本へタイムスリップした場面では、阿部寛さんが猛勉強の成果を発揮してラテン語を話している。観客に配布された『テルマエ・ロマエ 特別編』に収録のインタビューによれば、ラテン語は現在では使われていないために、どこにアクセントを付けるべきか掴めなくて苦労したそうだ。
また、古代ローマ人だけが登場するシークエンスのセリフは日本語だが、観客はラテン語を話しているものとして受け止める。本当にラテン語で話されたらチンプンカンプンなんだから、『ドラゴン・タトゥーの女』や『ヒューゴの不思議な発明』と同様にあらかじめ観客の母国語に吹き替えたのだと思えば良い。
ところが問題は現代日本のヒロインが古代ローマへタイムスリップした場面である。
ヒロインはラテン語を勉強したことになっているから、ラテン語のセリフが飛び交っても良いわけだが、それでは観客が理解できない。昨今は洋画の字幕版が敬遠されるくらいだから、邦画なのに字幕で進行させるのは避けたいところだ。
さりとてすべてのセリフを日本語にして、そこに日本人が混じって日本語を話していたら、もう何がなんだか判らなくなってしまう。
そこで採用したのが、『のだめカンタービレ』と同じく「ここからは日本語でお送りします」という"お約束"を交わすことだ。
しかも『のだめカンタービレ』のようにわざわざ物語の進行を止めてテロップを映し出したりせず、画面の端に「BILINGUAL」と表示して済ませてしまう。
こんなやり方ができるのも、『のだめカンタービレ』で"お約束"方式の実績があるからだろう。
そして『のだめカンタービレ』の成果を最大限に活かしたのが、タイムスリップするところである。
もちろん『のだめカンタービレ』にタイムスリップなんてないけれど、この場面は『のだめカンタービレ』の経験を持つ武内英樹監督だからこそなし得たものだろう。
本作は古代ローマ人が現代日本へタイムスリップすることが面白さの中核だが、どんなメカニズムで時空を超えるのか具体的な説明がない。これが大事なことである。
作り手は誰しも、作品のわけの判らないところに理屈を付けたくなってしまうものだ。
しかし、娯楽作において理屈を付けるのが効果的とは限らない。理屈の説明が物語の円滑な流れを妨げたり、作品の主眼ではない部分が膨れ上がったりして、娯楽性を損なうことも考えられる。
だから武内監督は、本作のタイムスリップについて説明しないことにした。
これは大正解であろう。観客が見たいのは、題名どおりローマの風呂(テルマエ・ロマエ)を巡るあれこれであり、タイムスリップの謎の解明ではないのだから。
だが、単に説明しないだけでは、わけが判らなくて観客が作品に乗ってこないかもしれない。
そこで武内監督は、余計な説明がなくても観客がタイムスリップを受け入れるように、時空を超える場面の納得性を高めている。そのために利用したのが音楽である。
本作ではタイムスリップするたびに朗々たるオペラが流れるのだ。その声の力、音楽の力が観客の感性を刺激して、理屈を超えた共感を覚えさせ、現実離れしたシチュエーションを受け入れさせてしまう。
そもそもこのような効果を生み出すことが、音楽が存在する理由かもしれない。
元々音楽は、人間が生きていくのに必須のものではない。人間が狩猟採取で食物を得たり、戦争に勝つ上で、音楽が必要なわけではない。
にもかかわらず世界のすべての部族に音楽があり、舞踏が行われるのは、それが宗教的な儀式の道具だったからだという。
宗教的な儀式を経ることで、子供は一人前の「戦士」と認められ、集団の結束力が高まる。そうした集団だけが、戦争に明け暮れる原始社会で生き残れた。
それが音楽の出自なのだとすれば、音楽によって理屈を超えた連帯が生まれるのはとうぜんなのかもしれない。
犬が嬉しいときに飛び跳ねたりクルクル回っている様子を見ると、舞踏や音楽は宗教的儀式よりもさらに奥深いところから発しているようにも思うけれど、いずれにしろ武内英樹監督は、音楽ドラマ『のだめカンタービレ』を手がけることで、音楽の持つ力を実感したのだろう。そしてタイムスリップという不思議な現象を観客に納得させるには、理屈をこねるよりも音楽の力を使う方が効果的だと考えたのだ。
だから本作では、タイムスリップするたびに音楽が流れる。しかも生半可なものではない、迫力を持ったオペラの歌声が観客を圧倒する。
映画館の優れた音響設備でこれを味わうとき、観客は理屈を超えてタイムスリップを受け入れることだろう。
これこそが、『のだめカンタービレ』を経た監督ならではの演出なのだ。

監督/武内英樹
出演/阿部寛 上戸彩 北村一輝 市村正親 竹内力 宍戸開 勝矢 キムラ緑子 笹野高史 神戸浩 内田春菊
日本公開/2012年4月28日
ジャンル/[コメディ] [ファンタジー]


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『サウダーヂ』 変化か悪化か好転か
やけに面白かったのが、「山王団地」を「サウダーヂ」に聞き間違えるところだ。映画『サウダーヂ』の一場面である。
「サウダーヂ(サウダージ)」とは、ブラジル連邦共和国の公用語であるポルトガル語で、郷愁、憧憬、思慕、切なさ、などの意味を持ち、さらには「追い求めても叶わぬもの」「憧れ」といったニュアンスも含むという。
その山王団地に住みついたブラジル人労働者たちは、故国への愛を歌って盛り上がり、山王団地を後に故国ブラジルへ帰っていく。
そうかと思うと、日本から出たことのない日本人は、タイには幸せがあると考えて、故国日本を捨てようとする。
一方、タイから来た女性はタイに戻っても生活できないと考え、日本国籍を得て故国タイを捨てようとする。
あぁ、まさにサウダーヂは追い求めても叶わぬもの。山王団地がここにあるにもかかわらず、彼らはそれぞれのサウダーヂを胸に、ここではないどこかへ行きたがる。
『サウダーヂ』の舞台となる甲府市は、特急あずさを使えば1時間半足らずで新宿に出てこられるところだ。鉄道のみならず中央高速バスも運行しており、所要時間も運賃も鉄道に拮抗している。そう聞くと都内に通勤している人の中には、1時間半なら日々の通勤時間より短いと感じる方もいるだろう。
短時間で移動できるから、買い物をしたいなら週末にでもモノが豊富な都心部へ行けば良い。いわゆるストロー現象というやつだ。
劇中、東京と甲府を往復している女性が登場するのも、甲府から都心へ行くのが手軽だからだ。
他方、甲府市の中央商店街は、甲府駅よりやや離れたところにあり、歩いてみると意外に距離がある。
さりとて、大きな道路である甲府バイパスや昭和バイパスからはもっと離れているので、クルマで移動する人にはそれこそバイパスされてしまう。たいていの品はバイパス沿いの店で手に入るので、わざわざ城下町だった商店街へ乗り入れる必要はないだろう。
そんな状況を反映してか、『サウダーヂ』を観ているとシャッターの下りた商店街が頻繁に映し出される。
決して甲府から人がいなくなったわけではない。映画の中に広大なショッピングモールの建設地が出てくるように、今も充分な商圏はある。
事実、甲府市の人口は、昭和50年に193,988人、平成10年に195,444人、平成22年に193,069人、そして平成24年4月1日現在の住民基本台帳人口が196,229人と、数十年にわたってほとんど変化していない。
それなのに商店街にはシャッターが目立つ。その理由は、人々が嗜好や暮らし方を変化させた結果として、商店街に足を運ばないことを選んだからだろう。商店主側の事情として、あるいはその後継者の事情で、シャッターを下ろすことになった店もあろう。
これは日本のどこでも、都会でも目にする光景だ。都内だって人口密集地だって、大型店舗の進出等により人の流れが変わり、既存の店舗に人が行かなくなることはある。世の中はいつだって変化しているのだから。
土方の仕事も同様で、目の前には建設予定地が広がりながら、一方で土方をしている主人公には仕事がない。親方の営業は上手くいかないし、重機を新しくする金もない。
キャバクラ嬢だった妻は、今はエステシャンに転身し、さらには怪しげな水の販売に係わろうとしている。ブラジル人は仕事を求めて国から国へ行ったり来たり。
はたまた事業を軌道に乗せて、我が世の春を謳歌している者もいる。
そんな珍しくもない人々を捉えた『サウダーヂ』は、驚くほど新鮮な映画だった。
不思議なことに、大手映画会社が配給した近年の作品では、土方が主人公のものを見た憶えがない。怪しげなものの販売に係わろうとする人も、『さんかく』の例が浮かぶくらいか。外国人の労働者だって(名目はともかく)現実には珍しくないのに、そのコミュニティや普段の生活が描かれた映画は目にしない(『ダーリンは外国人』のように、外国人であることがネタの映画はあるけれど)。
もちろん、これは私が映画を鑑賞した範囲での印象だ。ここに挙げたようなことを題材にした映画はたくさんあるのかも知れない。だが、これらの普通の人々の普通の生活が、少なくとも私がこれまで観た映画では取り上げられていなかったことに、本作を観てはじめて気がついた。普通のことに驚くのもおかしな話だが、正直なところ本作を観るまで映画の題材として認識していなかったのだ。
そして、それがこんなにも新鮮で、面白いのも驚きだった。普通のことでありながら、世の中の変化の断面が見事に切り取られていたからだ。
多くの映画は、変化を変化として捉えていない。それを「悪化」と見て、変化に取り残される人に感情移入してしまったり、それを「好転」と見て、成功物語にしてしまったりする。たとえ一つの事象でもいくつもの側面を持っているのに、作り手の観点が固定化されているためにその一面しか捉えられないのだ。
けれども本作は、ただ変化を変化と捉え、変化とのギャップからくる悲哀や、変化に追いつこうとあがく滑稽さや、変化に乗った者の傲慢さを、地に足のついた範囲でカメラに収めている。
そして本作は、世の中が変化する限り、どんなに日常的な光景であっても、常にこれまでとは違う新しいものであることにも気づかせてくれる。
たとえばブラジル人とフィリピン人の夫婦が、いつまでも日本にいる気はないのに、どの国に帰るかで意見が合わなくて身動きとれない様なんて、日本に生まれ育った私には思いもつかないシチュエーションだ。だが同様なことに頭を悩ませている夫婦は、きっといるはずなのだ。
多くの映画制作者が取りこぼしてきた日本の光景が、ここにはある。それは一つの視点では捉えきれない現実そのものだ。
『サウダーヂ』の作り手は、このような日本の現状を描きながら、登場人物の口を借りて故郷への様々な思いを語らせる。
ブラジル人ラッパーが故国への愛を歌う一方、日本人ラッパーは社会への不平の数々を歌い、集まった聴衆にすら不満を感じる。そしてタイから来た女性は故郷を捨てて日本で生きていこうとする。
すなわち、日本はしょせん一時滞在するだけの場所だったり、住み続けると不満を覚える場所だったり、故郷を捨ててまで住みたい場所だったりするのだ。
そのいずれもが、この日本なのだ。
そして、世の中は絶えず変化していく。
甲府の商店街にはシャッターが目立つけれど、やがてバイパス沿いの店もシャッターを下ろす日が来るだろう。私たちは、これからもっともっとシャッターの下りる未来を選ぼうとしている。
日本人がみずから減ることによって。
総務省統計局によれば2010年現在の日本の総人口は1億2805万人。
ところが国土交通省が2011年2月21日に公表した『「国土の長期展望」中間とりまとめ』によれば、これから数十年で次のように激減する見込みである。
2030年 11,522万人 高齢化率31.8%
2050年 9,515万人 高齢化率39.6%
2100年 4,771万人 高齢化率40.6%
なんと今世紀末には2010年の4割未満に減ってしまう。同資料では2010年の三大都市圏の人口を6,479万人と推計しているから、今世紀末の総人口は現在三大都市圏に住んでいる人と比べても3割以上も少ない。
云い方を変えれば、三大都市圏を除いた全土が無人地帯になり、三大都市圏もごっそり減るくらいの変化が今世紀中に起こるのだ。しかも住民の4割以上が高齢者になる。
実際、人口の減少は全国で均一に進むのではなく、地方は都市より急激に減少する。早くも2050年の時点で、三大都市圏の人口が総人口に占める割合は次のように増加する。
三大都市圏56.7% (うち東京圏だけで32.5%)
三大都市圏を除く地域43.3%
三大都市圏を除いた地域に住む人は、日本全体を合計しても人口の半分に満たないのだ。
もちろんそれらの人も各地方に均一に住むわけではなく、現在の政令指定都市を中心に中核都市に集まるだろう。中核都市でないところは、もう集落として存続しないかもしれない。
だからアーケードや商店街にシャッターが下りるどころではないのだ。街全体、地域全体が無人になり、道路にはクルマ一台走らない。そんな光景が日本の至るところに迫っている。
なぜそんなことになるのだろうか。
本作は、その原因も描いている。
主人公は妻から子供を作ろうと迫られるが、人の親になる気構えがなくていつも逃げている。
子供を作らない――それこそが日本人が減少する理由だ。当たり前のことである。
大人が子供を作ろうとしない心情を描く本作は、日本人が未来の人口を激減させようとする様子を、気負わずにあっさり描写する。
それは大きな決断や驚くような転機ではなく、日々の積み重ねの延長なのだ。
もっとも、東京オリンピックの頃だって日本人は1億人もいなかった。日本の人口が1億を超えたのは、ほんのここ数十年のことである。第二次世界大戦のときなんて、今にして思えばたかだか7千万人しかいなかったのに、海外に進出しようとしたのだ。
今後の人口減少と高齢化を心配事と考えるばかりではなく、世の中を変革する大きなチャンスと捉える動きもある。
そうだ、たとえサウダーヂが追い求めても叶わぬものだとしても、私たちの山王団地はいまここにある。
『サウダーヂ』 [さ行]
監督・脚本・編集/富田克也
脚本/相澤虎之助 撮影・編集/高野貴子
出演/鷹野毅 伊藤仁 田我流 ディーチャイ・パウイーナ 尾崎愛 工藤千枝 野口雄介 中島朋人 亜矢乃 川瀬陽太 隅田靖
日本公開/2011年10月22日
ジャンル/[ドラマ]
http://bookmarks.yahoo.co.jp/bookmarklet/showpopup?t='+encodeURIComponent(document.title)+'&u='+encodeURIComponent(location.href)+'&ei=UTF-8','_blank','width=550,height=480,left=100,top=50,scrollbars=1,resizable=1',0);">
「サウダーヂ(サウダージ)」とは、ブラジル連邦共和国の公用語であるポルトガル語で、郷愁、憧憬、思慕、切なさ、などの意味を持ち、さらには「追い求めても叶わぬもの」「憧れ」といったニュアンスも含むという。
その山王団地に住みついたブラジル人労働者たちは、故国への愛を歌って盛り上がり、山王団地を後に故国ブラジルへ帰っていく。
そうかと思うと、日本から出たことのない日本人は、タイには幸せがあると考えて、故国日本を捨てようとする。
一方、タイから来た女性はタイに戻っても生活できないと考え、日本国籍を得て故国タイを捨てようとする。
あぁ、まさにサウダーヂは追い求めても叶わぬもの。山王団地がここにあるにもかかわらず、彼らはそれぞれのサウダーヂを胸に、ここではないどこかへ行きたがる。
『サウダーヂ』の舞台となる甲府市は、特急あずさを使えば1時間半足らずで新宿に出てこられるところだ。鉄道のみならず中央高速バスも運行しており、所要時間も運賃も鉄道に拮抗している。そう聞くと都内に通勤している人の中には、1時間半なら日々の通勤時間より短いと感じる方もいるだろう。
短時間で移動できるから、買い物をしたいなら週末にでもモノが豊富な都心部へ行けば良い。いわゆるストロー現象というやつだ。
劇中、東京と甲府を往復している女性が登場するのも、甲府から都心へ行くのが手軽だからだ。
他方、甲府市の中央商店街は、甲府駅よりやや離れたところにあり、歩いてみると意外に距離がある。
さりとて、大きな道路である甲府バイパスや昭和バイパスからはもっと離れているので、クルマで移動する人にはそれこそバイパスされてしまう。たいていの品はバイパス沿いの店で手に入るので、わざわざ城下町だった商店街へ乗り入れる必要はないだろう。
そんな状況を反映してか、『サウダーヂ』を観ているとシャッターの下りた商店街が頻繁に映し出される。
決して甲府から人がいなくなったわけではない。映画の中に広大なショッピングモールの建設地が出てくるように、今も充分な商圏はある。
事実、甲府市の人口は、昭和50年に193,988人、平成10年に195,444人、平成22年に193,069人、そして平成24年4月1日現在の住民基本台帳人口が196,229人と、数十年にわたってほとんど変化していない。
それなのに商店街にはシャッターが目立つ。その理由は、人々が嗜好や暮らし方を変化させた結果として、商店街に足を運ばないことを選んだからだろう。商店主側の事情として、あるいはその後継者の事情で、シャッターを下ろすことになった店もあろう。
これは日本のどこでも、都会でも目にする光景だ。都内だって人口密集地だって、大型店舗の進出等により人の流れが変わり、既存の店舗に人が行かなくなることはある。世の中はいつだって変化しているのだから。
土方の仕事も同様で、目の前には建設予定地が広がりながら、一方で土方をしている主人公には仕事がない。親方の営業は上手くいかないし、重機を新しくする金もない。
キャバクラ嬢だった妻は、今はエステシャンに転身し、さらには怪しげな水の販売に係わろうとしている。ブラジル人は仕事を求めて国から国へ行ったり来たり。
はたまた事業を軌道に乗せて、我が世の春を謳歌している者もいる。
そんな珍しくもない人々を捉えた『サウダーヂ』は、驚くほど新鮮な映画だった。
不思議なことに、大手映画会社が配給した近年の作品では、土方が主人公のものを見た憶えがない。怪しげなものの販売に係わろうとする人も、『さんかく』の例が浮かぶくらいか。外国人の労働者だって(名目はともかく)現実には珍しくないのに、そのコミュニティや普段の生活が描かれた映画は目にしない(『ダーリンは外国人』のように、外国人であることがネタの映画はあるけれど)。
もちろん、これは私が映画を鑑賞した範囲での印象だ。ここに挙げたようなことを題材にした映画はたくさんあるのかも知れない。だが、これらの普通の人々の普通の生活が、少なくとも私がこれまで観た映画では取り上げられていなかったことに、本作を観てはじめて気がついた。普通のことに驚くのもおかしな話だが、正直なところ本作を観るまで映画の題材として認識していなかったのだ。
そして、それがこんなにも新鮮で、面白いのも驚きだった。普通のことでありながら、世の中の変化の断面が見事に切り取られていたからだ。
多くの映画は、変化を変化として捉えていない。それを「悪化」と見て、変化に取り残される人に感情移入してしまったり、それを「好転」と見て、成功物語にしてしまったりする。たとえ一つの事象でもいくつもの側面を持っているのに、作り手の観点が固定化されているためにその一面しか捉えられないのだ。
けれども本作は、ただ変化を変化と捉え、変化とのギャップからくる悲哀や、変化に追いつこうとあがく滑稽さや、変化に乗った者の傲慢さを、地に足のついた範囲でカメラに収めている。
そして本作は、世の中が変化する限り、どんなに日常的な光景であっても、常にこれまでとは違う新しいものであることにも気づかせてくれる。
たとえばブラジル人とフィリピン人の夫婦が、いつまでも日本にいる気はないのに、どの国に帰るかで意見が合わなくて身動きとれない様なんて、日本に生まれ育った私には思いもつかないシチュエーションだ。だが同様なことに頭を悩ませている夫婦は、きっといるはずなのだ。
多くの映画制作者が取りこぼしてきた日本の光景が、ここにはある。それは一つの視点では捉えきれない現実そのものだ。
『サウダーヂ』の作り手は、このような日本の現状を描きながら、登場人物の口を借りて故郷への様々な思いを語らせる。
ブラジル人ラッパーが故国への愛を歌う一方、日本人ラッパーは社会への不平の数々を歌い、集まった聴衆にすら不満を感じる。そしてタイから来た女性は故郷を捨てて日本で生きていこうとする。
すなわち、日本はしょせん一時滞在するだけの場所だったり、住み続けると不満を覚える場所だったり、故郷を捨ててまで住みたい場所だったりするのだ。
そのいずれもが、この日本なのだ。
そして、世の中は絶えず変化していく。
甲府の商店街にはシャッターが目立つけれど、やがてバイパス沿いの店もシャッターを下ろす日が来るだろう。私たちは、これからもっともっとシャッターの下りる未来を選ぼうとしている。
日本人がみずから減ることによって。
総務省統計局によれば2010年現在の日本の総人口は1億2805万人。
ところが国土交通省が2011年2月21日に公表した『「国土の長期展望」中間とりまとめ』によれば、これから数十年で次のように激減する見込みである。
2030年 11,522万人 高齢化率31.8%
2050年 9,515万人 高齢化率39.6%
2100年 4,771万人 高齢化率40.6%
なんと今世紀末には2010年の4割未満に減ってしまう。同資料では2010年の三大都市圏の人口を6,479万人と推計しているから、今世紀末の総人口は現在三大都市圏に住んでいる人と比べても3割以上も少ない。
云い方を変えれば、三大都市圏を除いた全土が無人地帯になり、三大都市圏もごっそり減るくらいの変化が今世紀中に起こるのだ。しかも住民の4割以上が高齢者になる。
実際、人口の減少は全国で均一に進むのではなく、地方は都市より急激に減少する。早くも2050年の時点で、三大都市圏の人口が総人口に占める割合は次のように増加する。
三大都市圏56.7% (うち東京圏だけで32.5%)
三大都市圏を除く地域43.3%
三大都市圏を除いた地域に住む人は、日本全体を合計しても人口の半分に満たないのだ。
もちろんそれらの人も各地方に均一に住むわけではなく、現在の政令指定都市を中心に中核都市に集まるだろう。中核都市でないところは、もう集落として存続しないかもしれない。
だからアーケードや商店街にシャッターが下りるどころではないのだ。街全体、地域全体が無人になり、道路にはクルマ一台走らない。そんな光景が日本の至るところに迫っている。
なぜそんなことになるのだろうか。
本作は、その原因も描いている。
主人公は妻から子供を作ろうと迫られるが、人の親になる気構えがなくていつも逃げている。
子供を作らない――それこそが日本人が減少する理由だ。当たり前のことである。
大人が子供を作ろうとしない心情を描く本作は、日本人が未来の人口を激減させようとする様子を、気負わずにあっさり描写する。
それは大きな決断や驚くような転機ではなく、日々の積み重ねの延長なのだ。
もっとも、東京オリンピックの頃だって日本人は1億人もいなかった。日本の人口が1億を超えたのは、ほんのここ数十年のことである。第二次世界大戦のときなんて、今にして思えばたかだか7千万人しかいなかったのに、海外に進出しようとしたのだ。
今後の人口減少と高齢化を心配事と考えるばかりではなく、世の中を変革する大きなチャンスと捉える動きもある。
そうだ、たとえサウダーヂが追い求めても叶わぬものだとしても、私たちの山王団地はいまここにある。
『サウダーヂ』 [さ行]
監督・脚本・編集/富田克也
脚本/相澤虎之助 撮影・編集/高野貴子
出演/鷹野毅 伊藤仁 田我流 ディーチャイ・パウイーナ 尾崎愛 工藤千枝 野口雄介 中島朋人 亜矢乃 川瀬陽太 隅田靖
日本公開/2011年10月22日
ジャンル/[ドラマ]


『捜査官X』 これぞヒーロー物の王道だ!
【ネタバレ注意】
ドニー・イェン主演のヒーロー・アクションか、それとも金城武が主演のミステリーか。
日本で観客が入るのはどちらだろうか?
配給会社は後者と判断したのだろう。まるで大ヒットした『容疑者Xの献身』(2008年)を彷彿とさせる邦題を付け、公式サイトにはミステリー作家たちのコメントを掲載し、映画の中で金城武が中心となる謎解きの部分ばかりをクローズアップした宣伝を展開している。
邦題『捜査官X』に含まれる「X」も、金城武演じる捜査官シュウのピンイン「Xu」の頭文字にこじつけたようで、公式サイトには「タイトルロールの"捜査官X"に扮した金城武」とまで書いてある。
しかし本作はミステリーではないし、金城武が主演でもない。
『捜査官X』の原題は『武侠』。ドニー・イェン主演のヒーロー映画である。
「武侠」という言葉は、日本ではあまり馴染みがないかもしれない。
しかし、かつて押川春浪が自著・海底軍艦シリーズに『英雄小説 武侠の日本』(1902年)や『英雄小説 東洋武侠団』(1907年)等の題名を付けていたように、武勇と侠気に満ちた血沸き肉踊る物語はいつだって娯楽の王道である。
その言葉をそのまま題名に戴く本作は、武術に長けた男が大活躍する伝奇物であり、中国の武侠作品の本流に位置するものといえよう。
本作の冒頭では、吸い込まれるほど美しい田園風景が映し出され、それがそのまま主人公の心根の清さと、守るべきものの大切さを伝えている。俯瞰を多用した映像は、平和な村の瑞々しい光景を捉え、その映像美を堪能するだけでも本作を観る価値がある。
そんな村で強盗事件が起きるのだが、これが実に愉快なのだ。
強盗が暴れるあいだ、紙職人リウ・ジンシーは物陰に隠れて、強盗たちに気づかれないよう小さくなっている。その状況では誰でも同じことをするかもしれないが、なんとリウ・ジンシーを演じるのがアクション監督も兼ねるドニー・イェンなのだ。乱暴狼藉を見逃すはずがない。
ところが、ここで痛快なアクションシーンにならないから本作は面白い。
その事件を調べるためにやって来るのが、金城武演じる捜査官シュウだ。彼は事件を解明するため、優れた洞察力を駆使して彼なりに捜査を進める。
二人の主役級の人物の位置付けは、あたかも『仮面ライダー』における本郷猛とFBI捜査官・滝和也である。
本郷猛は仮面ライダーなので、彼がかかわれば事件はすぐに解決し、悪漢どもも退治される。
それでは面白くないから、毎回前半は滝和也が捜査を進めて、事件の深みにはまっていく。そして捜査官では手に負えないところまで事態が進むと、あわやというところで本郷猛が仮面ライダーに変身し、常人ではかなわない強敵に立ち向かうのだ。
本郷猛役の藤岡弘、が出演できない分を補うために設けられた滝和也というキャラクターは、作劇上まことに便利だったのだろう、主演俳優を確保できた後もレギュラーとして登場し続けることになる。
『捜査官X』でも、作劇法はまったく同じだ。
捜査官としては優れているが武術はからっきしのシュウの行動は、事件を解決するどころか危険を呼び込んでしまう。
事態が進んであわやというところで立ち上がるドニー・イェンは、まるでスーパーヒーローに変身したかのような変貌ぶりだ。朴訥とした田舎の村人だったはずのリウ・ジンシーが、表情と姿勢を一変させるだけで目元のキリリとした武侠の勇士に早変わりするのである。
そこからは、期待通りのアクションシーンの連続だ!
また本作は、主人公と捜査官の関係のみならず、物語の構造そのものが『仮面ライダー』と酷似している。いや、『仮面ライダー』のみならず、『タイガーマスク』やアニメの『デビルマン』と共通の構造を持つ、ヒーロー物の典型なのだ。
以前の記事「『キック・アス』 あなたが戦わない理由は?」に挙げた日本のヒーロー物の特徴は、次のようなものだった。
・敵味方一人ひとりが異なる特殊な技を持つこと
・主人公は集団からの離反者(裏切り者)であること
・離反しつつも元いた集団の特異性(特殊な技能等)を引きずり、孤独感を抱えていること
日本では、抜け忍を主人公とした時代劇がこれらの特徴を有し、そこから多くのヒーロー物に受け継がれているが、本作を観ればお判りのように香港/中国の作品も同じ伝統を有するわけだ。
ましてや、本作が最終的に兄弟同士、親子同士の戦いになっていくあたりも、石ノ森章太郎作品等を彷彿とさせて面白い。
親兄弟の争いは神話の時代からの定番だし、やはり親兄弟こそが、超人的な能力を持つ主人公の最大の敵なのだ。
加えて本作は、伝奇物らしく、古来からの因縁とおどろおどろしい演出でいっぱいだ。
敵対するのは西夏族の生き残りたちである。かつて西夏族80万人が虐殺されたことから、その復讐のために殺戮を繰り返すのだという。
失われた民族がいたとか、彼らに伝えられた必殺技があったとか、これもまた『アイアンキング』の不知火一族が二千年前に大和政権に滅ぼされた怨みから日本を襲っていたのと同様の、定番の設定である。
しかも西夏といえば11~13世紀に中国西北部に同名の王朝が出現しているが、西夏族がその王朝と関係があるのかないのか不明なままだ。
このリアリティのない設定が絶妙である。
歴史をさかのぼれば、西夏を建てたタングートはチベット系民族だ。弾圧を受けたチベット系民族と聞くと、現在の民族問題を連想せずにはいられないが、西夏を滅ぼしたのはチンギス・カン率いるモンゴル帝国であって、たとえ子孫がいたとしても中国が恨まれる筋合いではない。
このように現実の民族問題に直接結びつけることなく、それでいて意図したものかどうかはともかく民族問題をそこはかとなく匂わせているのが絶妙だ。
それだけではない。
ヒーローではない捜査官シュウの存在が、本作にさらなる奥深さを与えている。
捜査官シュウは、厳格な法の執行を信条としながらも、いつも葛藤を抱えている。警察機構は腐敗だらけで、犯罪者を捕らえるべく組織を動かすのも一苦労だし、一方で妻からは情のない法執行者として非難される。
いったい、法とは何のため、誰のためのものなのか。
ここには、「法」が象徴するものへの批判が込められている。
そこにあるのは英米のような「法の支配」ではない。「法の支配」とは、国家権力ですら法に拘束されるという、民主主義と密接に結びついた考え方だが、捜査官シュウの行動はあくまで国家権力の手先としての任務遂行だ。
もちろん彼は彼なりに正義をまっとうしようとし、それが法を厳格に適用することだと考えるのだが、本作は彼にハッピーエンドを用意しない。その根底には、国家権力の道具としての法や裁判への不信があろう。
それらを考え合わせれば、本作が1917年を舞台とすることにも、幾つもの意味があると気づく。
一つには、謎解きを進める上で科学捜査を排し、シュウの独特の推理を展開させるためであろう。
また、本作に飛び道具が登場せず、武術での戦いが中心であることに説得力を持たせるためでもあろうし、そもそも武侠小説というジャンルがこの時期に誕生したことへのオマージュもあろう。
さらには、清朝滅亡後の、中国に統一政府がなかった時代に設定することで、現在の政府への批判となることを避ける意味もあるのではないか。
このように、本作は典型的なヒーロー物でありながら、一筋縄ではいかないのだ。
同時期を舞台にした『孫文の義士団』が、たとえていうならスーパー戦隊シリーズだとすれば、こちらはさしずめ仮面ライダーシリーズに当たるのだが、本作はさらに二重にも三重にも味わえる奥深さを持っているのだ。
『捜査官X』 [さ行]
監督・制作/ピーター・チャン アクション監督/ドニー・イェン
出演/ドニー・イェン 金城武 タン・ウェイ ジミー・ウォング クララ・ウェイ リー・シャオラン
日本公開/2012年4月21日
ジャンル/[アクション] [ミステリー] [サスペンス]
http://bookmarks.yahoo.co.jp/bookmarklet/showpopup?t='+encodeURIComponent(document.title)+'&u='+encodeURIComponent(location.href)+'&ei=UTF-8','_blank','width=550,height=480,left=100,top=50,scrollbars=1,resizable=1',0);">
ドニー・イェン主演のヒーロー・アクションか、それとも金城武が主演のミステリーか。
日本で観客が入るのはどちらだろうか?
配給会社は後者と判断したのだろう。まるで大ヒットした『容疑者Xの献身』(2008年)を彷彿とさせる邦題を付け、公式サイトにはミステリー作家たちのコメントを掲載し、映画の中で金城武が中心となる謎解きの部分ばかりをクローズアップした宣伝を展開している。
邦題『捜査官X』に含まれる「X」も、金城武演じる捜査官シュウのピンイン「Xu」の頭文字にこじつけたようで、公式サイトには「タイトルロールの"捜査官X"に扮した金城武」とまで書いてある。
しかし本作はミステリーではないし、金城武が主演でもない。
『捜査官X』の原題は『武侠』。ドニー・イェン主演のヒーロー映画である。
「武侠」という言葉は、日本ではあまり馴染みがないかもしれない。
しかし、かつて押川春浪が自著・海底軍艦シリーズに『英雄小説 武侠の日本』(1902年)や『英雄小説 東洋武侠団』(1907年)等の題名を付けていたように、武勇と侠気に満ちた血沸き肉踊る物語はいつだって娯楽の王道である。
その言葉をそのまま題名に戴く本作は、武術に長けた男が大活躍する伝奇物であり、中国の武侠作品の本流に位置するものといえよう。
本作の冒頭では、吸い込まれるほど美しい田園風景が映し出され、それがそのまま主人公の心根の清さと、守るべきものの大切さを伝えている。俯瞰を多用した映像は、平和な村の瑞々しい光景を捉え、その映像美を堪能するだけでも本作を観る価値がある。
そんな村で強盗事件が起きるのだが、これが実に愉快なのだ。
強盗が暴れるあいだ、紙職人リウ・ジンシーは物陰に隠れて、強盗たちに気づかれないよう小さくなっている。その状況では誰でも同じことをするかもしれないが、なんとリウ・ジンシーを演じるのがアクション監督も兼ねるドニー・イェンなのだ。乱暴狼藉を見逃すはずがない。
ところが、ここで痛快なアクションシーンにならないから本作は面白い。
その事件を調べるためにやって来るのが、金城武演じる捜査官シュウだ。彼は事件を解明するため、優れた洞察力を駆使して彼なりに捜査を進める。
二人の主役級の人物の位置付けは、あたかも『仮面ライダー』における本郷猛とFBI捜査官・滝和也である。
本郷猛は仮面ライダーなので、彼がかかわれば事件はすぐに解決し、悪漢どもも退治される。
それでは面白くないから、毎回前半は滝和也が捜査を進めて、事件の深みにはまっていく。そして捜査官では手に負えないところまで事態が進むと、あわやというところで本郷猛が仮面ライダーに変身し、常人ではかなわない強敵に立ち向かうのだ。
本郷猛役の藤岡弘、が出演できない分を補うために設けられた滝和也というキャラクターは、作劇上まことに便利だったのだろう、主演俳優を確保できた後もレギュラーとして登場し続けることになる。
『捜査官X』でも、作劇法はまったく同じだ。
捜査官としては優れているが武術はからっきしのシュウの行動は、事件を解決するどころか危険を呼び込んでしまう。
事態が進んであわやというところで立ち上がるドニー・イェンは、まるでスーパーヒーローに変身したかのような変貌ぶりだ。朴訥とした田舎の村人だったはずのリウ・ジンシーが、表情と姿勢を一変させるだけで目元のキリリとした武侠の勇士に早変わりするのである。
そこからは、期待通りのアクションシーンの連続だ!
また本作は、主人公と捜査官の関係のみならず、物語の構造そのものが『仮面ライダー』と酷似している。いや、『仮面ライダー』のみならず、『タイガーマスク』やアニメの『デビルマン』と共通の構造を持つ、ヒーロー物の典型なのだ。
以前の記事「『キック・アス』 あなたが戦わない理由は?」に挙げた日本のヒーロー物の特徴は、次のようなものだった。
・敵味方一人ひとりが異なる特殊な技を持つこと
・主人公は集団からの離反者(裏切り者)であること
・離反しつつも元いた集団の特異性(特殊な技能等)を引きずり、孤独感を抱えていること
日本では、抜け忍を主人公とした時代劇がこれらの特徴を有し、そこから多くのヒーロー物に受け継がれているが、本作を観ればお判りのように香港/中国の作品も同じ伝統を有するわけだ。
ましてや、本作が最終的に兄弟同士、親子同士の戦いになっていくあたりも、石ノ森章太郎作品等を彷彿とさせて面白い。
親兄弟の争いは神話の時代からの定番だし、やはり親兄弟こそが、超人的な能力を持つ主人公の最大の敵なのだ。
加えて本作は、伝奇物らしく、古来からの因縁とおどろおどろしい演出でいっぱいだ。
敵対するのは西夏族の生き残りたちである。かつて西夏族80万人が虐殺されたことから、その復讐のために殺戮を繰り返すのだという。
失われた民族がいたとか、彼らに伝えられた必殺技があったとか、これもまた『アイアンキング』の不知火一族が二千年前に大和政権に滅ぼされた怨みから日本を襲っていたのと同様の、定番の設定である。
しかも西夏といえば11~13世紀に中国西北部に同名の王朝が出現しているが、西夏族がその王朝と関係があるのかないのか不明なままだ。
このリアリティのない設定が絶妙である。
歴史をさかのぼれば、西夏を建てたタングートはチベット系民族だ。弾圧を受けたチベット系民族と聞くと、現在の民族問題を連想せずにはいられないが、西夏を滅ぼしたのはチンギス・カン率いるモンゴル帝国であって、たとえ子孫がいたとしても中国が恨まれる筋合いではない。
このように現実の民族問題に直接結びつけることなく、それでいて意図したものかどうかはともかく民族問題をそこはかとなく匂わせているのが絶妙だ。
それだけではない。
ヒーローではない捜査官シュウの存在が、本作にさらなる奥深さを与えている。
捜査官シュウは、厳格な法の執行を信条としながらも、いつも葛藤を抱えている。警察機構は腐敗だらけで、犯罪者を捕らえるべく組織を動かすのも一苦労だし、一方で妻からは情のない法執行者として非難される。
いったい、法とは何のため、誰のためのものなのか。
ここには、「法」が象徴するものへの批判が込められている。
そこにあるのは英米のような「法の支配」ではない。「法の支配」とは、国家権力ですら法に拘束されるという、民主主義と密接に結びついた考え方だが、捜査官シュウの行動はあくまで国家権力の手先としての任務遂行だ。
もちろん彼は彼なりに正義をまっとうしようとし、それが法を厳格に適用することだと考えるのだが、本作は彼にハッピーエンドを用意しない。その根底には、国家権力の道具としての法や裁判への不信があろう。
それらを考え合わせれば、本作が1917年を舞台とすることにも、幾つもの意味があると気づく。
一つには、謎解きを進める上で科学捜査を排し、シュウの独特の推理を展開させるためであろう。
また、本作に飛び道具が登場せず、武術での戦いが中心であることに説得力を持たせるためでもあろうし、そもそも武侠小説というジャンルがこの時期に誕生したことへのオマージュもあろう。
さらには、清朝滅亡後の、中国に統一政府がなかった時代に設定することで、現在の政府への批判となることを避ける意味もあるのではないか。
このように、本作は典型的なヒーロー物でありながら、一筋縄ではいかないのだ。
同時期を舞台にした『孫文の義士団』が、たとえていうならスーパー戦隊シリーズだとすれば、こちらはさしずめ仮面ライダーシリーズに当たるのだが、本作はさらに二重にも三重にも味わえる奥深さを持っているのだ。
![捜査官X [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/519R7CEIDnL._SL160_.jpg)
監督・制作/ピーター・チャン アクション監督/ドニー・イェン
出演/ドニー・イェン 金城武 タン・ウェイ ジミー・ウォング クララ・ウェイ リー・シャオラン
日本公開/2012年4月21日
ジャンル/[アクション] [ミステリー] [サスペンス]


『劇場版 SPEC~天~』 大人は口にしないこと
![劇場版 SPEC~天~ プレミアム・エディション [DVD]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/51dzHQ%2BgiuL._SL160_.jpg)
他の事件も併せれば、オウム真理教による死者は30人にも上る。
最近、オウム真理教に関連して驚いたことがある。コラムニストの小田嶋隆氏が、次のように書いていたのだ。
---
オウム真理教の中枢部にいた高学歴の信者たちが、どうしてあの荒唐無稽な教義に傾倒したのかについては、これまでにも、様々な仮説が立てられてきた。
(略)
結局、最終的なところでうまい説明を見つけることができなかった。
(略)
あの教義を、あれだけの数の人間が丸呑みに信じこんで、ああいう事件を起こしたことについて、結局、マトモな解釈はどうやっても見つからないのだ。
---
私はこれを読んでひどく驚いた。あれだけの数の人間が荒唐無稽な教義に傾倒した理由なんて、自明なことだと思っていたからだ。
地下鉄サリン事件の時点で、信徒数は公称で15,400人にも及んでいる。係わり方や傾倒の度合いは様々かもしれないが、一人や二人の気の迷いとはわけが違う。
それには、小田嶋隆氏がコラムで指摘しているとおり、信じることになる人間の側にあらかじめ下地が備わっていたはずだ。すなわち、信徒にはならないまでも、同様の下地を持った人間がそれこそ大量にいたはずなのだ。その中で、オウム真理教との接点を持ってしまった人間が、様々な要因から信徒になったのであろう。1万5千人もの信徒を獲得するからには、下地を持つ人間は数十万人、数百万人いたかもしれない。つまりその「下地」は、ごくありふれたもののはずだ。
ところが、小田嶋隆氏は地下鉄サリン事件から十数年を経ても、うまい説明を見つけることができなかったという。少なくとも小田嶋隆氏には「下地」がなかったのだ。
その下地とは何か?
小田嶋隆氏は同じコラムにおいて、2011年に交わした30~40代の人間との会話を紹介している。1956年生まれの小田嶋氏からすれば、1960~1970年代生まれの話し相手は若造であろう。
---
「だって、オレ、21世紀は来ないと思ってましたから」
「…どういう意味?」
「ほら、そういう予言があったでしょ?」
「1999年の7の月にとかいうヤツ?」
「そう。それです。ノストラダムスの大予言」
「まさか、あれを信じてたわけじゃないだろ?」
「いや、まるっきり鵜呑みに信じこんでたわけじゃないけど、アタマの中で3割ぐらいは、いつもそんな気がしてましたよ。なにしろ、はじめて知ったのが小学生の時で、思春期まるごとがオカルトのブームの中でしたから」
「でも、いくらなんでも、空から恐怖の大王が降りてくるなんてお話がマトモじゃないぐらいなことは、年頃になればわかるもんじゃないのか?」
「ええ。でも、受験勉強とかしてると、もう世界は滅びるしかないって思えてくるんですよ」
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小田嶋氏はこの会話を紹介し、「オウム信者のうちに、下地として「ノストラダムスの大予言」があったことが、案外バカにならないのではないか」「信者たちは、ジャストミートで大予言を浴びた世代だ」と述べている。
五島勉著『ノストラダムスの大予言』が発売されてベストセラーになったのは1973年のことだ。1974年には映画化もされている。続編も次々に刊行され、1998年の第10巻まで書き継がれた。
小田嶋氏は「私自身は、ブームが来た時にはいいかげん大人になっていたので、鼻で笑っていたが、私の世代の中にも、影響を受けた人間はそこそこいる。」「まして、子供たちは、かなり露骨にひっかかっていた。」と述べている。なるほど、1973年の時点で小田嶋氏は17歳だ。ロック好きの高校生には、大予言なんて笑いの対象だったかもしれない。
だが、ウィキペディアで判る範囲でオウム真理教事件の犯人の生年を見ると、ほとんど1950年代後半から1960年代生まれの者だ。とりわけ1960年代生まれの者は、小田嶋氏の見た「露骨にひっかかっていた」子供たちに当たる。
たとえば1960年生まれの人にとって、地下鉄サリン事件が起こる1995年まではどんな世の中だったのだろうか。
まず、13歳のとき(1973年)にノストラダムスの大予言のブームが起きて、世界は1999年に滅びると云われる。そのころは公害が大きな社会問題になっており、都会の空は排気ガス等に覆われて、夏になるとたびたび光化学スモッグ注意報や警報が発令された。拡声器が光化学スモッグの発生を知らせると、子供は外出を止められ、校庭での体育の授業は中止になった。かつてのロンドンや、今の北京で起きているようなことが、東京でも発生していたのだ。
そして14歳のとき(1974年)には『宇宙戦艦ヤマト』が放映され、汚染のために人類は滅亡の危機を迎える。
18歳のとき(1978年)に平井和正著『真幻魔大戦』の連載が開始され、翌年には『幻魔大戦』の連載がはじまる。
人知を超えた絶対悪との戦いや、カリスマ指導者の下に帰依する人々を描いた『幻魔大戦』は大ブームとなり、世界最終戦争を意味する「ハルマゲドン」という言葉が世の中に一気に広まる。同作は23歳のとき(1983年)にアニメ化されて大ヒットを記録する。
また、21歳のとき(1981年)には、『ノストラダムスの大予言』シリーズの五島勉氏が、予言ブーム再びとばかり『ファティマ・第三の秘密』を刊行し、ノストラダムス以上に恐ろしい予言が存在することが知れわたる。
こうしてみると、この世代はフィクションや予言本により、最終戦争や人類滅亡の話を繰り返し浴びながら成長したことが判る。
実際、オウム真理教の信徒にはアニメやマンガのファンが多かったようで、機器に「コスモクリーナー」とか「オリハルコン」といった名前を付けている。
その状況で、「高学歴の信者たちがどうして」と疑問視するのは設問が間違っている。むしろ「高学歴の者だから」と考える方が妥当かもしれない。
最終戦争や人類滅亡の話を囁かれながら生きてきた人が、勉強に勉強を重ねても宇宙の真理や絶対的な真実にたどり着けないと判ったとき、残る有力な選択肢は宗教だ。少なくとも、宗教との接点を作る下地にはなるだろう。
私が小田嶋隆氏のコラムを読んで驚いたのは、過去にもオウム真理教事件との関連でノストラダムスの大予言や幻魔大戦の影響を指摘する声があったにもかかわらず、一般にはあまり知られていないことを知ったからだ。
ただ、フィクションや予言本は誰にでも影響するわけではない。たとえば小田嶋隆氏のコラムにあるように、「いいかげん大人になっていた」ら相手にしない。
そこで、年齢による考え方の違いを示すグラフを掲げよう。

これは謀略を心配している人の割合を年齢別に示したものである。青い線は、施策の裏には謀略があると思って反対する人の割合、赤い線は施策に賛成する人の割合である。陰謀論を信じやすいか否かの割合と見てもいいだろう。
一見して判るように、若い人ほど陰謀を恐れて反対に回りやすい傾向がある。
実はこのグラフは、日経ビジネスオンラインというネットメディアが2011年10月に実施した環太平洋経済連携協定(TPP)参加への賛否を尋ねたアンケートの結果である。必ずしも「陰謀を信じますか」と質問したわけではない。
ただ、興味深いことに、反対にまわる人の挙げる理由が陰謀論を恐れるようなものばかりなのだ。
二つまで選んだ理由のうち、最も多い反対理由は「自由貿易の推進は2国間のFTA(自由貿易協定)や、TPP以外の多国間EPA(経済連携協定)を進めれば十分だから」というものだ。ただ、これはTPPの他にも施策はいろいろあると云っているだけで、TPPに積極的に反対する理由にはならない。
注目なのは二番目の理由だ。三番以降に差を付けて、38.6%の人が挙げているのは、「日本向けの輸出を拡大させたい米国の戦略だから」という理由だ。
米国の戦略については諸説あり、私はこの理由とは違う考えを持っているが、一つ断言できるのは、戦略の裏付けのない施策なんてないということだ。どの国でも、何らかの戦略に基づいて施策を推し進めている。日本の為政者だって民間人だって、企業人も自営業者も専門職も、それぞれのレベルで相当の戦略をもっている、はずだ。……ありますよね、戦略?

自国の利益を最大化するべく行動するのは、どの国でも当然のことであり、そのための戦略はあってしかるべきだ。
ところが不思議なことに、反対の理由を読んでいると、日本が一方的に被害者になるような、攻め込まずに攻め込まれることばかり心配しているように見受けられる。
三番目以降の理由を見ても同様である。
「日本の……が崩れる可能性があるから」
「日本の……が壊滅する可能性があるから」
「日本の……が引き下げられる可能性があるから」
米国にもTPPにより自分たちの権益が損なわれると危惧する人はいるので、その点ではお互い様なのだが、どうも日本はペリー来航により開国*させられて*以来アメリカに何かされると恐れ続けているようだ。
本稿は、TPP参加の是非を論じることが目的ではないので、個別具体的な検討はここでは控える。
ともあれ、若い人ほど、既得権益にしがみつく老人を打ち倒して新しい施策に積極的に臨むのかと思いきや、実情は若い人ほど陰謀を恐れる傾向があるように感じられる。
これは、年齢が上がるほど経験を積み、往々にして地位が上がることと関係があるだろう。
若いころはどこかの誰かが戦略を巡らしていると思っていても、いざ組織の中核に位置してみると、まともな戦略なんてない実態を目の当たりにしたり、自分で戦略を作る破目になったり、出来の悪い戦略のために失敗する様子を見たりする。年齢が上がり、みずからの権限と自由度が大きくなればなるほど、高度な戦略を巡らすどこかの誰かなんていないことを痛感するのかもしれない。
しかも、2011年10月19日に日経新聞が発表した同様の調査結果では「賛成」が77.6%なのに、同時期に日経ビジネスオンラインが実施した調査では「賛成」が62.7%まで減っている。この約15ポイントの差は、ネット住民の傾向を示しているといえようか。
それでも日経ビジネスオンラインの回答者は、ある程度の社会人経験を持つビジネスパーソンがほとんどを占めると考えられるが、このアンケートに表れない青少年や日経ビジネスに興味を持たない人々にあっては、どのような傾向が見られるだろうか。
陰謀論への傾倒は、自分ではどうにもならない現実を誰かのせいにしたいという願望のなせる業でもある。そう考えれば、社会的な権限を持たない青少年ほど、「いいかげん大人になっていた」ら相手にしないものに絡め取られるのかもしれない。

脚本の西荻弓絵氏は、1960年生まれの東京都出身だ。「ジャストミートで大予言を浴びた世代」であり、外出禁止を知らせる拡声器の声も聞いたろうし、『幻魔大戦』を読んでハルマゲドンを話題にしたかもしれない。
本シリーズにおいて、テレビドラマ『SPEC ~警視庁公安部公安第五課 未詳事件特別対策係事件簿~』のころから続く特徴は、事件の背後では謎の組織が暗躍し、主人公の刑事たちもまた国家の「上の方」の意向により将棋の駒として使われることだ。あっちもこっちも陰謀だらけで、陰謀を一皮むいても次の陰謀が現れる。
本作ではとうとう警視庁トップである警視総監や、内閣官房や、もっと上の御前会議までが引っ張り出される。御前会議とは、戦前の元老や重臣会議を彷彿とさせるが、どうやら古代から連綿と続く日本の黒幕らしい。
しかし、これらの黒幕たちの細かな設定はどうでもいいことだ。西荻弓絵氏が描くのは、要するにどこかの誰かが陰謀を巡らしている、その限りない連鎖である。
この点、『踊る大捜査線』シリーズで知られる君塚良一氏の世界観と比較すると面白い。
西荻弓絵氏と小田嶋隆氏のちょうど真ん中、1958年に生まれた君塚良一氏が自作で強調するのは、組織は上に行けばいくほど現場から乖離して無能であるということだ。「上の人たち」は会議ばかりしていて、ちっともまともな手を打てない。そしてまた大陰謀と思われた事件も、正体を暴いてみれば心ない子供たちの行動だったり、落ちこぼれ社会人の私怨の結果だったりする。
しょせん、高度な陰謀を張り巡らせる黒幕なんておらず、しょぼい事件に大騒ぎしているに過ぎない、というのが君塚良一氏のパターンだ。
こうしてみると、『劇場版 SPEC~天~』との対照ぶりが判るだろう。
作品の受け手に向けて、世の中とはどういうものだと伝えるか。その点において、まったく逆の思想で作られているのだ。
さらに本作では懐かしい「ファティマ・第三の秘密」までが登場し、オウム真理教の背景ともなった80年代のオカルトブームを思い起こさせる。
そして陰謀を暴いても暴いても真相にたどり着けない主人公たちは、あたかも勉強に勉強を重ねているのに宇宙の真理や絶対的な真実にたどり着けない高学歴者のようである[*]。
本作は、自殺大国日本にあって「死ぬな」というセリフを繰り返すことや、数多くのSPECホルダーが登場するにもかかわらず瀬文刑事は特殊能力を否定して当たり前の人間としての力だけで頑張ろうとすることから、作り手のメッセージは良く判る。
判るのだが、テレビシリーズと併せてたいへん面白い作品であるだけに、陰謀論に傾きやすい若者たちに何らかの「下地」を作っていないか気にかかる。

それは、「必ず」とか「絶対」という言葉である。
劇中、瀬文刑事は「必ず救い出す」と云い放つ。当麻刑事も「絶対助け出します」と約束する。けれどもその遂行状況は、誰も検証しない。
「必ず」とか「絶対」という言葉は、子供同士の会話では珍しくない。
しかし大人が口にするのはフィクションの中だけだろう。
なぜなら、この世の中に100%のものはないからだ。「絶対○○する」なんて言葉を口にしたら、信憑性を疑われる。大人はいつだって(不測の事態等によって)100%は達成できない可能性があることを承知しているので、「できるだけ○○する」といった云い回しをするし、その方が現実的で誠実だ。だから安全性を説明する際にも「絶対に大丈夫」なんて子供のような言葉は使わず、「ただちに問題はない」と表現する。
ところが、ドラマや映画の登場人物は軽々しく「必ず」とか「絶対」と発言する。
まるで、勉強に勉強を重ねれば絶対的な真実にたどり着けるかのように。
本作のポスターには、「真実を疑え。」なる言葉が踊っている。
なるほど。まずは、この映画から疑ってかかろう。
[*]主人公・当麻紗綾(とうま さや)が京大理学部卒の天才という設定にもかかわらず、本作の作り手はいささか勉強不足である。
飛んでいる弾丸の向きを変える描写は慣性の法則を無視しているし、「クローンに心が無い」というセリフはクローン技術を誤解している。
「人間の脳は10%しか使われていない」云々の説明も、脳の研究が進んでいなかったころ(作り手が子供のころ)に云われたことである。特殊能力(SPEC)があれば愉快だろうが、残念ながら私たちの脳は100%使ってもこの程度なのだ。
![劇場版 SPEC~天~ プレミアム・エディション [DVD]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/51dzHQ%2BgiuL._SL160_.jpg)
監督/堤幸彦 脚本/西荻弓絵
出演/戸田恵梨香 加瀬亮 竜雷太 椎名桔平 福田沙紀 神木隆之介 伊藤淳史 栗山千明 三浦貴大 浅野ゆう子 でんでん 麿赤兒
日本公開/2012年4月7日
ジャンル/[サスペンス] [SF] [コメディ]

