『ジョン・カーター』 原作に反するピクサーの流儀
トム・クルーズが主演する!
大好きな小説の映画化には懐疑的な私が、『火星のプリンセス』の映画を観てみたいと思ったのは、『ダイ・ハード』のジョン・マクティアナンが監督し、主人公ジョン・カーターをトム・クルーズが演じると知ったからだ。
ところが残念ながら、1980年代にディズニーが進めたこの企画は、遂に日の目を見ることがなかった。
■完成に80年かかった映画
その後、ロバート・ロドリゲス、ケリー・コンラン、ジョン・ファヴローら名立たる監督がプロジェクトに取り組み、誰もが頓挫していった。
100年前の1912年に発表された『火星のプリンセス』は、実に80年にわたって映画化の努力が続けられながら、誰もその偉業を成し遂げることができなかったのである。
そして映画化のニュースが流れるたびに一喜一憂し、その実現を目にすることなく他界したファンも多いはずだ。
そもそも面白い小説を放っておかない映画界が、20世紀を代表するエンターテインメント作家エドガー・ライス・バローズの作品を映画化しないはずがなかった。
長編三作目の『類猿人ターザン』は早くも1918年には映画になり、原作と同じく映画もシリーズ化されているし、『時間に忘れられた国』シリーズも『恐竜の島』(1974年)、『続・恐竜の島』(1977年)と映画化され、ペルシダー・シリーズも映画『地底王国』(1976年)になっている。
それらの動きにもかかわらず、バローズのデビュー作にして代表作の火星シリーズが、第1巻の『火星のプリンセス』ですら映画化できなかったのは、ロバート・ロドリゲスのように全米監督協会とのトラブルによるケースもあることながら、何といってもバローズのイマジネーションが奔放すぎて映像技術の太刀打ちできるものではなかったからだろう[*1]。
そこに描かれるのは、緑色人たちの奇妙な社会や赤色人の超科学、そして大白猿等のモンスターが跋扈する異世界だ。軍神マースの名を持つ火星に相応しく、荒々しく気高い世界なのだ。
そこに迷い込んだ地球人ジョン・カーターが剣を振るってプリンセスを救う冒険活劇は、いくら面白くても映画で実現できる世界じゃなかった。
一方『火星のプリンセス』が発表されてから100年のうちに、その亜流や模倣が世にはびこった。
バローズ登場以前のSFといえば、ジュール・ヴェルヌが科学者・技術者を主人公にした現実的な冒険を描き、H・G・ウェルズは文明批判を含んだ物語を展開していた。スペース・オペラやヒロイック・ファンタジーを読みなれた今の私たちから見れば、ある意味「固い」小説ばかりだった。
そこにエドガー・ライス・バローズは荒唐無稽な活劇を持ち込むという大発明を行った。バローズが『火星のプリンセス』で発明した「異星のモンスターや悪の皇帝と戦いながら、王女を助けて大活躍」するスタイルは、当時の読者の想像を絶するものだろう。
そのスタイルは、またたくまに多くの模倣者を生み出した。バローズが生きている頃には数百人の模倣者がいて、その模倣者の中でも有力な者にはさらに数百人の模倣者がいたという。
小説はもとより、1934年にはアレックス・レイモンドにより、地球人が惑星モンゴで冒険するマンガ『フラッシュ・ゴードン』が発表されてアメコミ史を代表する人気作となり、それを映画化した連続活劇も大ヒット。ジョージ・ルーカスはこれをリメイクしようとするが、権利関係をクリアできず、やむなく似て異なる『スター・ウォーズ』シリーズを作ることになる。とりわけ『ジェダイの復讐』[*2]の惑星タトゥイーンのシークエンスでは、「荒涼とした星で」「空飛ぶ船から」「肌もあらわなお姫様を」「剣を振るって救い出す」という火星シリーズの特徴がそっくり再現されており、バローズファンを歓喜させた。
バローズが発明したスタイルは、メディアを超えて今に至るも数限りない模倣を生み続けているのだ。
けれども、マイケル・ムアコックの"新"火星シリーズの解説で鏡明氏が述べているように、いかに優れた作家でもバローズタイプの小説に挑むとバローズの模倣の域を出なくなってしまう。バローズが生み出したスタイルの最高峰は、永遠にバローズなのだ。
そうなると、やはり本家本元の『火星のプリンセス』をなんとしてでも映画化したいところである。
一度映画化権を手放したディズニーに働きかけて、改めて映画化を進めたのは、10歳のときから原作のファンだったアンドリュー・スタントン監督だ。スタントン監督が熱心なSFファンであり、SFの作り手としても優れていることは、前作『ウォーリー』が証明している。
最初に映画化が企画されてから80年以上を経て、遂に完成した『ジョン・カーター』は、原作ファンのスタントン監督らしいこだわりの見られる映画である。
■原作から変えた理由
火星シリーズのファンは、まずオープニングロゴを見て思わずニヤリとするだろう。
ディズニー映画でお馴染みのシンデレラ城の映像は、いつものきらびやかなものではなく、火星らしい赤茶けた色になっている。
さらに映画の序盤、ジョン・カーターが買い物をするところも面白い。変人扱いされて、店主に追い払われそうになったカーターは、豆(beans)を出せと大声で怒鳴るのだ。これはエドガー・ライス・バローズが、自分の書いた処女作が余りに突飛な作品であったために、Normal Bean(普通のソラ豆=正気の男)というペンネームでデビューしようとしたことに引っかけた洒落だろう。
このように映画の開巻まもないうちから、アンドリュー・スタントン監督が原作を尊重する思いはひしひしと伝わってくる。
もちろん、原作とまったく同じというわけにはいかない。
たとえば、タルス・タルカスをはじめとする緑色人がナメクジのように飛び出した目で全方位を一度に見たりしないのは、映像にするとグロテスク過ぎるためだろう。
ヒロインのデジャー・ソリスが可憐なだけのお姫様ではなく勇敢な戦士として描かれるのも、現代的な女性像としては妥当だ。日本では武部本一郎画伯の挿絵によって清楚でたおやかなイメージが強いけれど、フランク・フラゼッタのイラストに馴染んだ米国では案外活動的なイメージなのかもしれない。
また、多数のキャラクターが整理され、ジェド(国王)は姿を見せずにジェダック(皇帝)ばかりが登場するのも、2時間程度の上映時間に収めるためには致し方ない。
それらの違いには、原作ファンも目くじらを立てたりするまい。
それよりも原作と大きく異なるのは、原作を良く知るアンドリュー・スタントン監督が熟慮の末に作った映画であるだけに、原作の特徴である行き当たりばったりのいい加減さがなくなったことだ。
小説やマンガの書き方は作家によって千差万別だ。プロットを綿密に練り上げ、縦横に張った伏線を回収しながら執筆する作家もいれば、先の展開はあまり考えずにドンドン書き進める作家もいる。前者の代表例はE・E・スミスのレンズマン・シリーズ、後者の例としては国枝史郎の『神州纐纈城』が挙げられよう。いずれも抜群に面白い小説で、それぞれの魅力がある。
ただ、前者のような書き方だと、上手くはまれば構成の妙に舌を巻くが、ひとつ間違えると躍動感やスピード感に欠けたものになってしまう。
後者の書き方では、先の展開が読めない驚きを楽しめる一方、広げた風呂敷をたためなかったり、話の辻褄が合わなかったりする。国枝史郎の作品が未完で終わったり、竜頭蛇尾と云われるのはこのためである。
だが、エドガー・ライス・バローズは、おそらく後者のようなラフな書き方だったと思われるが、辻褄を合わせてキチンと終わらせる天賦の才を持っていた。
『火星のプリンセス』も、状況が次々に変わって物語がどこに行き着くのか判らない面白さに満ちている。
まず冒頭にジョン・カーターの地球でのエピソードが申し訳程度に書かれているものの、舞台は早々に火星に移ってしまう。ジョン・カーターの地球での生活や行動は、後の展開に関係ないからまったく掘り下げようとはしていない。
火星に移動した理由も理屈も説明なしだ。
火星に着くと、そこには4本腕の怪物的な緑色人が住んでおり、しばらくは彼らに囚われたジョン・カーターのサバイバルが描かれる。
これが物語の中心かと思いきや、地球人そっくりの絶世の美女が登場し、「怪物の中で生き抜くたった一人の人間」という設定はあっさり捨て去られる。そしてこの美女デジャー・ソリスとのロマンスがしばらく続き、これはこれでいい感じでありながら、その後デジャー・ソリスと逃避行したり、ジョン・カーターの単独行になったり、国家間の大戦争になったりと、あれよあれよと物語のテイストは変わっていく。
そして物語は、健全なご都合主義の助けも借りながら、大団円に向かってひた走る。
行き先の判らない急坂を転げ落ちるようなこの感じが、物語の躍動感を高めて実に心地よい。
しかし、このような作り方は個人作業の小説やマンガならともかく、集団作業の映画では難しい。
いや、笠原和夫氏が脚本を書いた『県警対組織暴力』(1975年)のように勢いつけて急坂を転げ落ちるような面白い映画もあるけれど、少なくとも今のハリウッドの大作映画は、プロットを綿密に練り上げて、複数人で脚本を執筆し、プロデューサーたちの了解を得てストーリーを確定させるやり方だ。
ましてアンドリュー・スタントン監督の所属するピクサーは、集団でストーリー作りをすることで知られている。
そしてスタントン監督は、ディズニーで制作した『ジョン・カーター』にもピクサーの流儀を持ち込んだ。
たとえばスタントン監督は、ジョン・カーターが火星へ移動する理屈をみんなで考えたと述べている。
---
原作では地球からバルスームへ、緑色のスモークとともに瞬間移動するジョン・カーターだが、映画ではメダルが移動のアイテムになる。「カーターの移動に関しては、初めて原作を読んだ子供のときから“そりゃないだろう”と思っていた(笑)。今回、真っ先にやったのも、移動にどうリアリティをもたせるかだった。みんなで頭をひねりまくって考えたんだよ」
---
理屈っぽくないのが原作の魅力なので、不思議な力で瞬間移動したと云うだけでも良いと思うのだが、昔からの原作ファンであるスタントン監督だけに、自分なりの説明を付けずにはいられなかったのだろう。
『ジョン・カーター』の脚本はアンドリュー・スタントン監督がマーク・アンドリュースとともに執筆し、さらにSF作家のマイケル・シェイボンが修正している。
このように、複数人で脚本を仕上げていくのはハリウッドでは珍しくない。しかしそれが原因なのか、できあがった映画からはバローズらしい行き当たりばったりのいい加減さが感じられない。
たとえば、原作では後半まで登場しないゾダンガ帝国のサブ・サンを冒頭に出すことで、物語の構造を早々にきちんと示しているし、ジョン・カーターの地球での身分や暮らしもしっかり描いて主人公の背景を観客に説明している。
それに本来『火星のプリンセス』には出てこない(続編のキャラクターである)サーンを登場させてまで、火星への瞬間移動に理屈を付けて、ちっともいい加減ではない。
また本作は、主人公の動機付けと行動もピクサー流だ。
ピクサーの「脚本の書き方講座」によれば、ピクサー作品の主人公は「大切なもの」に執着しており、それが失われたために分別のない行動に出てしまう――というパターンになっているそうだ。
ところが原作のジョン・カーターには、執着するほど大切なものなんて何もない。デジャー・ソリスと恋に落ちて、はじめて守るべきものができるのだ。
これではピクサーの作劇パターンに当てはまらないから、スタントン監督はジョン・カーターに愛する妻子がいたことにした。そして妻子を失ったがために人里離れた荒野でバカげた黄金探しに没頭し、それが誰も知らない洞穴を経た冒険に繋がることにした。
このようなやり方は、長年ピクサーで映画作りに携わったスタントン監督らしいと云えるだろうし、近年のアメリカ映画の多くが妻子と別れた男を主人公としていることからも、真っ当なアプローチであろう。
しかし、こうした取り組みは、バローズ作品に見られる、
・痛快なほど楽天的な主人公
・あれこれ考える間もなく襲ってくる危機また危機の連続
といった特徴とは相容れない気がする。
たぶんアンドリュー・スタントンは、プロットを綿密に練り上げ、縦横に張った伏線を回収していくタイプの作り手なのだ。
他方、エドガー・ライス・バローズの魅力は、行き当たりばったりで荒唐無稽なところである。
さてさて、これら二つの流儀のブレンドを、観客はどう味わうだろうか。
■大切なのは異星か異性か
もっとも、アンドリュー・スタントンが理屈を付けなかったところもある。
舞台となる惑星バルスームが、原作どおり火星とされている点だ。
原作の書かれた100年前は、火星に運河があって、火星人が存在すると云われていた時代である。バローズが火星を舞台に冒険物語を書くのは、もっともなことだった。
しかし、火星探査が行われた今では、火星に文明があるとは誰も思っていない。だから、バルスームを火星ではなく架空の星に設定しても良かったはずだ。
だが、さすがにアンドリュー・スタントンは*火星*シリーズのファンである。こればっかりは変更できない。
そこでスタントンが取った手段は、時代設定を原作どおり19世紀に据え置くことだった。現代の観客は、まず火星人がいると思われていた時代に連れて行かれ、そこから別の惑星バルスームに連れて行かれる。この2段階の飛躍によって、火星探査機のある現実から、絶世の美女のいる火星へ観客をいざなうのだ。
また、映画『ジョン・カーター』では、結婚式をクライマックスに持ってきたのも嬉しいところだ。
意に沿わない結婚からヒロインを助け出すのが、男子最大の冒険だ。エドガー・ライス・バローズの作品は、そういう話ばかりである。
この古典的なフォーマットは、バローズの系譜を継ぐ『フラッシュ・ゴードン』(1980年)がなぞったのはもちろんのこと、冒険活劇の典型である『ルパン三世 カリオストロの城』(1979年)でも採用している。活劇ばかりじゃなく、青春ドラマの『卒業』(1967年)も、クライマックスは結婚式での花嫁奪還だ。
ただ、残念ながら今ではこういう映画をなかなか作れない。
それは結婚の意義が薄れているからだ。結婚したって、相手が嫌ならば離婚すれば良いし、はなから結婚しないカップルもいる。どの映画を見たって登場人物の誰も彼もが離婚しているご時世に、結婚を阻止する冒険にどれだけの意味があるだろうか。
そこで映画の作り手は、クライマックスに結婚以外の要素を盛り込むようにしている。もちろんクライマックスは結婚式なのだが、『ルパン三世 カリオストロの城』ではそれが同時に偽札作りの陰謀を暴く場となり、『フラッシュ・ゴードン』では地球を救うタイムリミットを重ね合わせる。
本作でも、結婚式を邪魔することがゾダンガ帝国の野望を挫き、ひいては火星を救うという寸法だ。
本当は火星の危機なんてどうでもいいのだが、そういうことを絡めてでも結婚式をクライマックスにしようとしたのが、アンドリュー・スタントンの熱意の表れである。
それでこそ、100年にわたって世界中を熱狂させてきた宇宙冒険大活劇の王道というものだ。
[*1]無謀にも2009年に『火星のプリンセス』のビデオ化がなされている。日本では『アバター・オブ・マーズ』という邦題で、『アバター』のパチもんのような売られ方をしている。
その『アバター・オブ・マーズ』の監督・脚本・撮影を手がけたマーク・アトキンスは、やはりエドガー・ライス・バローズの小説『時間に忘れられた国』をビデオ化した『ランド・オブ・ザ・ロスト』(2009年)の撮影も担当している。
[*2]『スター・ウォーズ/ジェダイの復讐』は、DVDの発売に当たって原題『Return of the Jedi』に即した『スター・ウォーズ/ジェダイの帰還』に改題されているが、本ブログは映画初公開時の表記に合わせることを原則とする。
『ジョン・カーター』 [さ行]
監督/アンドリュー・スタントン 原作/エドガー・ライス・バローズ
出演/テイラー・キッチュ リン・コリンズ ウィレム・デフォー サマンサ・モートン マーク・ストロング キアラン・ハインズ ドミニク・ウェスト ジェームズ・ピュアフォイ ダリル・サバラ トーマス・ヘイデン・チャーチ
日本公開/2012年4月13日
ジャンル/[SF] [アドベンチャー] [ファンタジー]
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ところが残念ながら、1980年代にディズニーが進めたこの企画は、遂に日の目を見ることがなかった。
■完成に80年かかった映画
その後、ロバート・ロドリゲス、ケリー・コンラン、ジョン・ファヴローら名立たる監督がプロジェクトに取り組み、誰もが頓挫していった。
100年前の1912年に発表された『火星のプリンセス』は、実に80年にわたって映画化の努力が続けられながら、誰もその偉業を成し遂げることができなかったのである。
そして映画化のニュースが流れるたびに一喜一憂し、その実現を目にすることなく他界したファンも多いはずだ。
そもそも面白い小説を放っておかない映画界が、20世紀を代表するエンターテインメント作家エドガー・ライス・バローズの作品を映画化しないはずがなかった。
長編三作目の『類猿人ターザン』は早くも1918年には映画になり、原作と同じく映画もシリーズ化されているし、『時間に忘れられた国』シリーズも『恐竜の島』(1974年)、『続・恐竜の島』(1977年)と映画化され、ペルシダー・シリーズも映画『地底王国』(1976年)になっている。
それらの動きにもかかわらず、バローズのデビュー作にして代表作の火星シリーズが、第1巻の『火星のプリンセス』ですら映画化できなかったのは、ロバート・ロドリゲスのように全米監督協会とのトラブルによるケースもあることながら、何といってもバローズのイマジネーションが奔放すぎて映像技術の太刀打ちできるものではなかったからだろう[*1]。
そこに描かれるのは、緑色人たちの奇妙な社会や赤色人の超科学、そして大白猿等のモンスターが跋扈する異世界だ。軍神マースの名を持つ火星に相応しく、荒々しく気高い世界なのだ。
そこに迷い込んだ地球人ジョン・カーターが剣を振るってプリンセスを救う冒険活劇は、いくら面白くても映画で実現できる世界じゃなかった。
一方『火星のプリンセス』が発表されてから100年のうちに、その亜流や模倣が世にはびこった。
バローズ登場以前のSFといえば、ジュール・ヴェルヌが科学者・技術者を主人公にした現実的な冒険を描き、H・G・ウェルズは文明批判を含んだ物語を展開していた。スペース・オペラやヒロイック・ファンタジーを読みなれた今の私たちから見れば、ある意味「固い」小説ばかりだった。
そこにエドガー・ライス・バローズは荒唐無稽な活劇を持ち込むという大発明を行った。バローズが『火星のプリンセス』で発明した「異星のモンスターや悪の皇帝と戦いながら、王女を助けて大活躍」するスタイルは、当時の読者の想像を絶するものだろう。
そのスタイルは、またたくまに多くの模倣者を生み出した。バローズが生きている頃には数百人の模倣者がいて、その模倣者の中でも有力な者にはさらに数百人の模倣者がいたという。
小説はもとより、1934年にはアレックス・レイモンドにより、地球人が惑星モンゴで冒険するマンガ『フラッシュ・ゴードン』が発表されてアメコミ史を代表する人気作となり、それを映画化した連続活劇も大ヒット。ジョージ・ルーカスはこれをリメイクしようとするが、権利関係をクリアできず、やむなく似て異なる『スター・ウォーズ』シリーズを作ることになる。とりわけ『ジェダイの復讐』[*2]の惑星タトゥイーンのシークエンスでは、「荒涼とした星で」「空飛ぶ船から」「肌もあらわなお姫様を」「剣を振るって救い出す」という火星シリーズの特徴がそっくり再現されており、バローズファンを歓喜させた。
バローズが発明したスタイルは、メディアを超えて今に至るも数限りない模倣を生み続けているのだ。
けれども、マイケル・ムアコックの"新"火星シリーズの解説で鏡明氏が述べているように、いかに優れた作家でもバローズタイプの小説に挑むとバローズの模倣の域を出なくなってしまう。バローズが生み出したスタイルの最高峰は、永遠にバローズなのだ。
そうなると、やはり本家本元の『火星のプリンセス』をなんとしてでも映画化したいところである。
一度映画化権を手放したディズニーに働きかけて、改めて映画化を進めたのは、10歳のときから原作のファンだったアンドリュー・スタントン監督だ。スタントン監督が熱心なSFファンであり、SFの作り手としても優れていることは、前作『ウォーリー』が証明している。
最初に映画化が企画されてから80年以上を経て、遂に完成した『ジョン・カーター』は、原作ファンのスタントン監督らしいこだわりの見られる映画である。
■原作から変えた理由
火星シリーズのファンは、まずオープニングロゴを見て思わずニヤリとするだろう。
ディズニー映画でお馴染みのシンデレラ城の映像は、いつものきらびやかなものではなく、火星らしい赤茶けた色になっている。
さらに映画の序盤、ジョン・カーターが買い物をするところも面白い。変人扱いされて、店主に追い払われそうになったカーターは、豆(beans)を出せと大声で怒鳴るのだ。これはエドガー・ライス・バローズが、自分の書いた処女作が余りに突飛な作品であったために、Normal Bean(普通のソラ豆=正気の男)というペンネームでデビューしようとしたことに引っかけた洒落だろう。
このように映画の開巻まもないうちから、アンドリュー・スタントン監督が原作を尊重する思いはひしひしと伝わってくる。
もちろん、原作とまったく同じというわけにはいかない。
たとえば、タルス・タルカスをはじめとする緑色人がナメクジのように飛び出した目で全方位を一度に見たりしないのは、映像にするとグロテスク過ぎるためだろう。
ヒロインのデジャー・ソリスが可憐なだけのお姫様ではなく勇敢な戦士として描かれるのも、現代的な女性像としては妥当だ。日本では武部本一郎画伯の挿絵によって清楚でたおやかなイメージが強いけれど、フランク・フラゼッタのイラストに馴染んだ米国では案外活動的なイメージなのかもしれない。
また、多数のキャラクターが整理され、ジェド(国王)は姿を見せずにジェダック(皇帝)ばかりが登場するのも、2時間程度の上映時間に収めるためには致し方ない。
それらの違いには、原作ファンも目くじらを立てたりするまい。
それよりも原作と大きく異なるのは、原作を良く知るアンドリュー・スタントン監督が熟慮の末に作った映画であるだけに、原作の特徴である行き当たりばったりのいい加減さがなくなったことだ。
小説やマンガの書き方は作家によって千差万別だ。プロットを綿密に練り上げ、縦横に張った伏線を回収しながら執筆する作家もいれば、先の展開はあまり考えずにドンドン書き進める作家もいる。前者の代表例はE・E・スミスのレンズマン・シリーズ、後者の例としては国枝史郎の『神州纐纈城』が挙げられよう。いずれも抜群に面白い小説で、それぞれの魅力がある。
ただ、前者のような書き方だと、上手くはまれば構成の妙に舌を巻くが、ひとつ間違えると躍動感やスピード感に欠けたものになってしまう。
後者の書き方では、先の展開が読めない驚きを楽しめる一方、広げた風呂敷をたためなかったり、話の辻褄が合わなかったりする。国枝史郎の作品が未完で終わったり、竜頭蛇尾と云われるのはこのためである。
だが、エドガー・ライス・バローズは、おそらく後者のようなラフな書き方だったと思われるが、辻褄を合わせてキチンと終わらせる天賦の才を持っていた。
『火星のプリンセス』も、状況が次々に変わって物語がどこに行き着くのか判らない面白さに満ちている。
まず冒頭にジョン・カーターの地球でのエピソードが申し訳程度に書かれているものの、舞台は早々に火星に移ってしまう。ジョン・カーターの地球での生活や行動は、後の展開に関係ないからまったく掘り下げようとはしていない。
火星に移動した理由も理屈も説明なしだ。
火星に着くと、そこには4本腕の怪物的な緑色人が住んでおり、しばらくは彼らに囚われたジョン・カーターのサバイバルが描かれる。
これが物語の中心かと思いきや、地球人そっくりの絶世の美女が登場し、「怪物の中で生き抜くたった一人の人間」という設定はあっさり捨て去られる。そしてこの美女デジャー・ソリスとのロマンスがしばらく続き、これはこれでいい感じでありながら、その後デジャー・ソリスと逃避行したり、ジョン・カーターの単独行になったり、国家間の大戦争になったりと、あれよあれよと物語のテイストは変わっていく。
そして物語は、健全なご都合主義の助けも借りながら、大団円に向かってひた走る。
行き先の判らない急坂を転げ落ちるようなこの感じが、物語の躍動感を高めて実に心地よい。
しかし、このような作り方は個人作業の小説やマンガならともかく、集団作業の映画では難しい。
いや、笠原和夫氏が脚本を書いた『県警対組織暴力』(1975年)のように勢いつけて急坂を転げ落ちるような面白い映画もあるけれど、少なくとも今のハリウッドの大作映画は、プロットを綿密に練り上げて、複数人で脚本を執筆し、プロデューサーたちの了解を得てストーリーを確定させるやり方だ。
ましてアンドリュー・スタントン監督の所属するピクサーは、集団でストーリー作りをすることで知られている。
そしてスタントン監督は、ディズニーで制作した『ジョン・カーター』にもピクサーの流儀を持ち込んだ。
たとえばスタントン監督は、ジョン・カーターが火星へ移動する理屈をみんなで考えたと述べている。
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原作では地球からバルスームへ、緑色のスモークとともに瞬間移動するジョン・カーターだが、映画ではメダルが移動のアイテムになる。「カーターの移動に関しては、初めて原作を読んだ子供のときから“そりゃないだろう”と思っていた(笑)。今回、真っ先にやったのも、移動にどうリアリティをもたせるかだった。みんなで頭をひねりまくって考えたんだよ」
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理屈っぽくないのが原作の魅力なので、不思議な力で瞬間移動したと云うだけでも良いと思うのだが、昔からの原作ファンであるスタントン監督だけに、自分なりの説明を付けずにはいられなかったのだろう。
『ジョン・カーター』の脚本はアンドリュー・スタントン監督がマーク・アンドリュースとともに執筆し、さらにSF作家のマイケル・シェイボンが修正している。
このように、複数人で脚本を仕上げていくのはハリウッドでは珍しくない。しかしそれが原因なのか、できあがった映画からはバローズらしい行き当たりばったりのいい加減さが感じられない。
たとえば、原作では後半まで登場しないゾダンガ帝国のサブ・サンを冒頭に出すことで、物語の構造を早々にきちんと示しているし、ジョン・カーターの地球での身分や暮らしもしっかり描いて主人公の背景を観客に説明している。
それに本来『火星のプリンセス』には出てこない(続編のキャラクターである)サーンを登場させてまで、火星への瞬間移動に理屈を付けて、ちっともいい加減ではない。
また本作は、主人公の動機付けと行動もピクサー流だ。
ピクサーの「脚本の書き方講座」によれば、ピクサー作品の主人公は「大切なもの」に執着しており、それが失われたために分別のない行動に出てしまう――というパターンになっているそうだ。
ところが原作のジョン・カーターには、執着するほど大切なものなんて何もない。デジャー・ソリスと恋に落ちて、はじめて守るべきものができるのだ。
これではピクサーの作劇パターンに当てはまらないから、スタントン監督はジョン・カーターに愛する妻子がいたことにした。そして妻子を失ったがために人里離れた荒野でバカげた黄金探しに没頭し、それが誰も知らない洞穴を経た冒険に繋がることにした。
このようなやり方は、長年ピクサーで映画作りに携わったスタントン監督らしいと云えるだろうし、近年のアメリカ映画の多くが妻子と別れた男を主人公としていることからも、真っ当なアプローチであろう。
しかし、こうした取り組みは、バローズ作品に見られる、
・痛快なほど楽天的な主人公
・あれこれ考える間もなく襲ってくる危機また危機の連続
といった特徴とは相容れない気がする。
たぶんアンドリュー・スタントンは、プロットを綿密に練り上げ、縦横に張った伏線を回収していくタイプの作り手なのだ。
他方、エドガー・ライス・バローズの魅力は、行き当たりばったりで荒唐無稽なところである。
さてさて、これら二つの流儀のブレンドを、観客はどう味わうだろうか。
■大切なのは異星か異性か
もっとも、アンドリュー・スタントンが理屈を付けなかったところもある。
舞台となる惑星バルスームが、原作どおり火星とされている点だ。
原作の書かれた100年前は、火星に運河があって、火星人が存在すると云われていた時代である。バローズが火星を舞台に冒険物語を書くのは、もっともなことだった。
しかし、火星探査が行われた今では、火星に文明があるとは誰も思っていない。だから、バルスームを火星ではなく架空の星に設定しても良かったはずだ。
だが、さすがにアンドリュー・スタントンは*火星*シリーズのファンである。こればっかりは変更できない。
そこでスタントンが取った手段は、時代設定を原作どおり19世紀に据え置くことだった。現代の観客は、まず火星人がいると思われていた時代に連れて行かれ、そこから別の惑星バルスームに連れて行かれる。この2段階の飛躍によって、火星探査機のある現実から、絶世の美女のいる火星へ観客をいざなうのだ。
また、映画『ジョン・カーター』では、結婚式をクライマックスに持ってきたのも嬉しいところだ。
意に沿わない結婚からヒロインを助け出すのが、男子最大の冒険だ。エドガー・ライス・バローズの作品は、そういう話ばかりである。
この古典的なフォーマットは、バローズの系譜を継ぐ『フラッシュ・ゴードン』(1980年)がなぞったのはもちろんのこと、冒険活劇の典型である『ルパン三世 カリオストロの城』(1979年)でも採用している。活劇ばかりじゃなく、青春ドラマの『卒業』(1967年)も、クライマックスは結婚式での花嫁奪還だ。
ただ、残念ながら今ではこういう映画をなかなか作れない。
それは結婚の意義が薄れているからだ。結婚したって、相手が嫌ならば離婚すれば良いし、はなから結婚しないカップルもいる。どの映画を見たって登場人物の誰も彼もが離婚しているご時世に、結婚を阻止する冒険にどれだけの意味があるだろうか。
そこで映画の作り手は、クライマックスに結婚以外の要素を盛り込むようにしている。もちろんクライマックスは結婚式なのだが、『ルパン三世 カリオストロの城』ではそれが同時に偽札作りの陰謀を暴く場となり、『フラッシュ・ゴードン』では地球を救うタイムリミットを重ね合わせる。
本作でも、結婚式を邪魔することがゾダンガ帝国の野望を挫き、ひいては火星を救うという寸法だ。
本当は火星の危機なんてどうでもいいのだが、そういうことを絡めてでも結婚式をクライマックスにしようとしたのが、アンドリュー・スタントンの熱意の表れである。
それでこそ、100年にわたって世界中を熱狂させてきた宇宙冒険大活劇の王道というものだ。
[*1]無謀にも2009年に『火星のプリンセス』のビデオ化がなされている。日本では『アバター・オブ・マーズ』という邦題で、『アバター』のパチもんのような売られ方をしている。
その『アバター・オブ・マーズ』の監督・脚本・撮影を手がけたマーク・アトキンスは、やはりエドガー・ライス・バローズの小説『時間に忘れられた国』をビデオ化した『ランド・オブ・ザ・ロスト』(2009年)の撮影も担当している。
[*2]『スター・ウォーズ/ジェダイの復讐』は、DVDの発売に当たって原題『Return of the Jedi』に即した『スター・ウォーズ/ジェダイの帰還』に改題されているが、本ブログは映画初公開時の表記に合わせることを原則とする。
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監督/アンドリュー・スタントン 原作/エドガー・ライス・バローズ
出演/テイラー・キッチュ リン・コリンズ ウィレム・デフォー サマンサ・モートン マーク・ストロング キアラン・ハインズ ドミニク・ウェスト ジェームズ・ピュアフォイ ダリル・サバラ トーマス・ヘイデン・チャーチ
日本公開/2012年4月13日
ジャンル/[SF] [アドベンチャー] [ファンタジー]


【theme : ディズニー映画】
【genre : 映画】
tag : アンドリュー・スタントンテイラー・キッチュリン・コリンズウィレム・デフォーサマンサ・モートンマーク・ストロングキアラン・ハインズドミニク・ウェストジェームズ・ピュアフォイダリル・サバラ
『宇宙戦艦ヤマト2199』 変貌した古代守問題
『宇宙戦艦ヤマト』のファンに求められるのは、何よりも忍耐強さだろう。
作る作ると云われながらいつまでも世に出てこない長い時間を耐え忍ぶことはもとより、できたらできたでトホホな内容でも我慢すること、不合理・不条理に満ちていても仕方がないサと諦めること、それがファンにとって必須の心得だ。
しかし、『宇宙戦艦ヤマト』第1テレビシリーズから38年を経て、遂に私たちの前に我慢も諦めもいらない「ヤマト」が登場した!
ファミリー劇場で放映された『宇宙戦艦ヤマト2199』第1話を見た私は、あまりのことに腰を抜かしそうだった。感極まって涙が込み上げてきた。
面白い!カッコいい!素晴らしい!!
はじめて『宇宙戦艦ヤマト』の第1シリーズを見たときの興奮が、まざまざと甦ってきたのだ。
まだ第1話を見ただけなのに、私はこの作品を生み出したすべてのスタッフに感謝するとともに、この感慨をぜひとも書きとめねばならないと思った。
『宇宙戦艦ヤマト2199』は、第1テレビシリーズのほぼ忠実なリメイクである。全26話で今の世にもう一度『宇宙戦艦ヤマト』を再現するのだ。
元の作品が優れているのだから、同じように作れば優れたものになるはずだ。それは当たり前のようでありながら、なかなか実践できないことだ。オリジナルのファンが本気で納得できるリメイクを、私はほとんど見たことがない。
もちろん『宇宙戦艦ヤマト2199』には、オリジナルの第1テレビシリーズと違う点も少なからずある。1974年当時とは異なる時代背景、技術の進展、声優陣の死去等により、オリジナルとまったく同じことをするのはあり得ない。
その点については、第1話とともに放映された『宇宙戦艦ヤマト2199公開記念特別番組~新生ヤマト発進宣言~』の中で、総監督とシリーズ構成を担当した出渕裕氏が語っている。
「長年ファンであった自分の中で良かったところはキチッと残しながら、それに対して、いくらなんでも今見たらそれはないだろうというような話も結構あるわけで、(略)それに対して(理屈を)付けてくことで、それが逆にただ付けて言い訳で終わるんじゃなくて、もっと面白い形に転換できるんだったら、それは積極的にやっていこうと」
そう、オリジナルから変えられたところは、オリジナルのままでは今見るにはしんどい部分であり、決してオリジナルのスピリットを損なったり、今の受け手に媚びようとはしていない。
出渕裕総監督をはじめとした作り手たちは、オリジナルを本当に好きで、その良さを充分に理解しているからこそ、今の世に送り出す「ヤマト」がどうあるべきかが判るのだ。
しばしば原典を好きなスタッフの手にかかると、過剰な思い入れが空回りして、目に余ることがある。自分の中で神格化しすぎるために、作り手として冷静に接することができないのだ。
だが、『宇宙戦艦ヤマト2199』の第1話を見る限り、その心配は無用である。本作の作り手たちもまた、長い歳月にわたって我慢に我慢を重ね、耐えに耐えてきたヤマトファンなのだ。「ヤマト」を手掛けるなら何をすべきで何をすべきではないか、骨身に沁みて知っているはずだ。
その熟慮、配慮の成果を、具体的に見てみよう。
・キャラクターデザインは、オリジナルよりややスマートになった。松本零士らしさが減ったのは、いささか残念ではあるが、新しいデザインは旧作ファンにも充分に許容範囲だろう。
そもそも、キャラクターデザインは第1テレビシリーズでも不揃いだった。当時は制作する外注会社の個性が強く、キャラクターの絵柄は各話でかなり異なっていた。ちなみに、私はタイガープロが担当した回の絵が好きだった。
あのバラツキを思い起こせば、本作でキャラクターデザインがリファインされたといっても、たいした違和感ではないだろう。
・メカニックデザインは、驚くほどオリジナルに忠実である。しかも、線が多くてアニメーター泣かせだったオリジナルを凌駕するディテールへのこだわりで、オリジナル以上にオリジナルのスピリットを表現している。緻密に描きこまれた駆逐艦「ゆきかぜ」や旗艦「きりしま」が、ガミラス艦隊と対峙する様は、落涙ものだ。
・違うのは、メカのスピード感だ。これまでにも語られてきたように、「ヤマト」の特徴はゆっくりとした動きにある。こんなに線が多くて描きにくいメカが、ゆっくりゆっくり画面を右から左へ進むのだから、アニメーターの描き損ないが目立ちやすい。それでもゆっくりした動きに挑戦したのは、ヤマトの重厚感を演出するためであるが、これが同時にスピード感やスリルを削いでいたことは否めない。
ところが本作では、「ゆきかぜ」が急激に方向転換したり、ガミラス艦が高速で迫ったりと、必要に応じてスピーディーな動きを見せる。
とうぜん、必要がなければゆっくり動かしており、この緩急自在なメカ描写が、本作の戦闘シーンの迫力をいや増している。
・ストーリーも若干変えてある。たとえば第1テレビシリーズでは、サーシャの宇宙船が火星に墜落したときに、たまたま近くに居合わせた古代と島が駆け付けている。この、広い宇宙で「たまたま」「居合わせた」のは、出渕総監督の云う「いくらなんでも今見たらそれはないだろう」という点だ。本作では、あらかじめサーシャの到着地点を予測して、古代と島が待機していたことになっている。このような変更は、頑固な旧作ファンといえども納得できるはずだ。
・同じく設定も少々異なる。目につくのは、第1テレビシリーズには本来登場しない土方や山南が、早くも第1話に出ていることだ。
これは、ファンへのサービスの意味合いもあろうが、それ以上に「いくらなんでも今見たらそれはない」点の改善だろう。
なぜなら、第1テレビシリーズの開始時点で、地球艦隊はほぼ壊滅状態だったはずなのだ。だからこそ、ヤマトのクルーは実戦経験のない古代ら若輩者で構成されている。にもかかわらず、シリーズが進むにつれて土方や山南のようなベテラン軍人が次々に現れることに、ファンの多くが「いくらなんでも」と感じたはずだ。
だから本作では、土方や山南が作品世界に存在するなら冥王星会戦の際にいたであろうポジションにちゃんと配されている。これは単なるファンサービスというよりも、ヤマトの世界を熟考した結果としての必然である。
・地球が放射能で汚染された、という設定も変えられている。本来「放射性物質」ないしは「放射線」といった言葉を使うべきところ、「放射能」なる言葉を広めてしまった点では、ゴジラに次いで第1テレビシリーズにもいささかの責任があろう。本作では、地球上のどこにでも存在する放射性物質や、いつでも宇宙から降り注いでいる放射線を汚染源扱いするのは止めている。けだし見識であろう。
・音楽はもちろんオリジナルを尊重している。故宮川泰氏の思いを誰よりも知っているであろうご子息の宮川彬良氏が、譜面の失われてしまった楽曲群をなんと耳コピーで再現したという。音楽はヤマトの大きな魅力であり、本作はその懐かしい旋律を甦らせてくれたのだ。
・そして演出も脚本も、決してオリジナルを壊さない。ヤマトのファンなら、今でも各場面が目に浮かび、多くのセリフをそらんじているだろう。みずから第1話の脚本と絵コンテを担当した出渕総監督は、それらの大切なセリフを忠実に再現し、映像も丁寧に再現した上で、懐かしい旋律をここぞというところで流す。
正直な話、第1テレビシリーズの作画レベルでは、目の肥えた今のアニメファンには物足りないだろう。けれど本作は、極めて高いレベルのアニメーション技術を駆使して、旧作ファンの思い出のシーンの数々を慎重に再現している。オリジナルより見応えがあると云っても良い。
このように、『宇宙戦艦ヤマト2199』は細部に至るまで凝りに凝って、ヤマトファンはもちろんのこと、はじめてヤマトを見る人でも目を見張ること間違いなしだ。
だが、それでも私には心配があった。
先の記事「『SPACE BATTLESHIP ヤマト』を惑わせる3つの「原作」」に述べたように、ヤマトシリーズは第1テレビシリーズと『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』以降とで思想的な違いがある。どの作品に思い入れを抱くかは、ファンそれぞれだ。だから実写映画『SPACE BATTLESHIP ヤマト』のように、第1テレビシリーズを原典としつつ、『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』まで取り込もうとする例もある。
はたして、『宇宙戦艦ヤマト2199』の作り手は、何をもって「ヤマトらしさ」と考えているだろうか。それは私の思いと一致するのだろうか。
第1話には、それを判断するのにうってつけの場面がある。
ガミラス艦隊に敗北を喫して撤退する際の、古代守と沖田十三との会話だ。詳しくは先の記事をお読みいただきたいが、ここで何を喋らせるかが、作り手の戦争観、死生観、ひいては人生観を象徴すると云っても過言ではない。
念のために、第1テレビシリーズの会話を改めて紹介しておこう。
---
沖田「ここで今全滅してしまっては、地球を守る為に戦う者が居なくなってしまうんだ。明日の為に今日の屈辱に耐えるんだ。それが男だ。」
古代「男だったら、戦って戦って戦い抜いて、一つでも多くの敵をやっつけて、死ぬべきじゃないんですか!」
---
そして、下が中島理彦氏に教えていただいた米国放映版『Star Blazers』での古代のセリフである。
---
古代「単なる数字の問題です。あなたの旗艦には470名の乗組員がいる。私の船は20名。あなたたちが必ず帰還できるよう守ります。」
---
お読みいただけば判るように、オリジナルの第1テレビシリーズと米国放映版とでは、生と死や、戦いの意味についての考え方が、まったく異なっている。
そして、まさしく第1テレビシリーズと『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』以降とを分かつのも、生と死や、戦いの意味についての違いにある。
はたして、本作の作り手は、ここで二人に何を喋らせるか。私は固唾を飲んで、その場面を待った。
そして注目の場面は、意外な言葉のやりとりだった。
---
沖田「古代、ワシに続け。」
古代「沖田さん、僕は逃げません。」
沖田「古代!」
古代「ゆきかぜは戦線に留まり、きりしま撤退を援護します。」
沖田「古代、多くの犠牲を払ったが、作戦は成功したのだ。ここは引くんだ。」
古代「このままでは地球艦隊は全滅です。それでは地球を守る者がいなくなってしまいます。」
沖田「古代!」
古代「沖田さん、あなたはこんなところで死んではいけない人だ。地球はあなたを必要としているんです。」
沖田「それはお前も同じだ。同じなのだぞ、古代。」
古代「ありがとうございます。その言葉だけで充分です。」
沖田「頼む。判ってくれ。」
古代「お元気で。地球のことを頼みます。」
沖田「古代!!」
---
私はここに感極まった。
この会話は、第1テレビシリーズとは違う。米国放映版とも違う。けれど、そのいずれのニュアンスも汲み取っている。そして重要なのは、第1テレビシリーズで沖田が語ったセリフと同じ思いを、本作では古代守も共有していることだ。
第1テレビシリーズの古代守――すなわち、勝てないと判っている戦いに精神論だけで飛び込んでいく日本人像とは、もう決別すべきだ。さりとて、米国放映版の古代守のように、数字に基づいた合理的な説明で済ませられるほど、私たちは政教分離ができていない。
そんな私たち21世紀の日本人に向けて語られた言葉が、そこにはあった。
ストーリー上、ここで古代守の乗艦「ゆきかぜ」が撃沈することは避けられないものの、その死を肯定的に捉えたり、英雄視することはない。それが沖田の「頼む。判ってくれ。」のセリフに滲み出ている。
ここに作り手たちは宣言している。
もう『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』以降のように、毎回誰かが特攻するような作品にはしないと。
登場人物が次々に死んでいけば感動する――そんな作品にはしないと。
まだ『宇宙戦艦ヤマト2199』は、はじまったばかりだ。
私はこの作品に、とことん付き合うつもりでいる。
『宇宙戦艦ヤマト2199』 [あ行][テレビ]
第1話『イスカンダルの使者』 脚本/出渕裕 絵コンテ/出渕裕 演出/榎本明広
第2話『我が赴くは星の海原』 脚本/出渕裕 絵コンテ/榎本明広 演出/榎本明広
総監督・シリーズ構成/出渕裕 原作/西崎義展
チーフディレクター/榎本明広 キャラクターデザイン/結城信輝
音楽/宮川彬良、宮川泰
出演/菅生隆之 小野大輔 鈴村健一 桑島法子 大塚芳忠 麦人 千葉繁 赤羽根健治
日本公開/2012年4月7日
ジャンル/[SF] [アドベンチャー] [戦争]
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作る作ると云われながらいつまでも世に出てこない長い時間を耐え忍ぶことはもとより、できたらできたでトホホな内容でも我慢すること、不合理・不条理に満ちていても仕方がないサと諦めること、それがファンにとって必須の心得だ。
しかし、『宇宙戦艦ヤマト』第1テレビシリーズから38年を経て、遂に私たちの前に我慢も諦めもいらない「ヤマト」が登場した!
ファミリー劇場で放映された『宇宙戦艦ヤマト2199』第1話を見た私は、あまりのことに腰を抜かしそうだった。感極まって涙が込み上げてきた。
面白い!カッコいい!素晴らしい!!
はじめて『宇宙戦艦ヤマト』の第1シリーズを見たときの興奮が、まざまざと甦ってきたのだ。
まだ第1話を見ただけなのに、私はこの作品を生み出したすべてのスタッフに感謝するとともに、この感慨をぜひとも書きとめねばならないと思った。
『宇宙戦艦ヤマト2199』は、第1テレビシリーズのほぼ忠実なリメイクである。全26話で今の世にもう一度『宇宙戦艦ヤマト』を再現するのだ。
元の作品が優れているのだから、同じように作れば優れたものになるはずだ。それは当たり前のようでありながら、なかなか実践できないことだ。オリジナルのファンが本気で納得できるリメイクを、私はほとんど見たことがない。
もちろん『宇宙戦艦ヤマト2199』には、オリジナルの第1テレビシリーズと違う点も少なからずある。1974年当時とは異なる時代背景、技術の進展、声優陣の死去等により、オリジナルとまったく同じことをするのはあり得ない。
その点については、第1話とともに放映された『宇宙戦艦ヤマト2199公開記念特別番組~新生ヤマト発進宣言~』の中で、総監督とシリーズ構成を担当した出渕裕氏が語っている。
「長年ファンであった自分の中で良かったところはキチッと残しながら、それに対して、いくらなんでも今見たらそれはないだろうというような話も結構あるわけで、(略)それに対して(理屈を)付けてくことで、それが逆にただ付けて言い訳で終わるんじゃなくて、もっと面白い形に転換できるんだったら、それは積極的にやっていこうと」
そう、オリジナルから変えられたところは、オリジナルのままでは今見るにはしんどい部分であり、決してオリジナルのスピリットを損なったり、今の受け手に媚びようとはしていない。
出渕裕総監督をはじめとした作り手たちは、オリジナルを本当に好きで、その良さを充分に理解しているからこそ、今の世に送り出す「ヤマト」がどうあるべきかが判るのだ。
しばしば原典を好きなスタッフの手にかかると、過剰な思い入れが空回りして、目に余ることがある。自分の中で神格化しすぎるために、作り手として冷静に接することができないのだ。
だが、『宇宙戦艦ヤマト2199』の第1話を見る限り、その心配は無用である。本作の作り手たちもまた、長い歳月にわたって我慢に我慢を重ね、耐えに耐えてきたヤマトファンなのだ。「ヤマト」を手掛けるなら何をすべきで何をすべきではないか、骨身に沁みて知っているはずだ。
その熟慮、配慮の成果を、具体的に見てみよう。
・キャラクターデザインは、オリジナルよりややスマートになった。松本零士らしさが減ったのは、いささか残念ではあるが、新しいデザインは旧作ファンにも充分に許容範囲だろう。
そもそも、キャラクターデザインは第1テレビシリーズでも不揃いだった。当時は制作する外注会社の個性が強く、キャラクターの絵柄は各話でかなり異なっていた。ちなみに、私はタイガープロが担当した回の絵が好きだった。
あのバラツキを思い起こせば、本作でキャラクターデザインがリファインされたといっても、たいした違和感ではないだろう。
・メカニックデザインは、驚くほどオリジナルに忠実である。しかも、線が多くてアニメーター泣かせだったオリジナルを凌駕するディテールへのこだわりで、オリジナル以上にオリジナルのスピリットを表現している。緻密に描きこまれた駆逐艦「ゆきかぜ」や旗艦「きりしま」が、ガミラス艦隊と対峙する様は、落涙ものだ。
・違うのは、メカのスピード感だ。これまでにも語られてきたように、「ヤマト」の特徴はゆっくりとした動きにある。こんなに線が多くて描きにくいメカが、ゆっくりゆっくり画面を右から左へ進むのだから、アニメーターの描き損ないが目立ちやすい。それでもゆっくりした動きに挑戦したのは、ヤマトの重厚感を演出するためであるが、これが同時にスピード感やスリルを削いでいたことは否めない。
ところが本作では、「ゆきかぜ」が急激に方向転換したり、ガミラス艦が高速で迫ったりと、必要に応じてスピーディーな動きを見せる。
とうぜん、必要がなければゆっくり動かしており、この緩急自在なメカ描写が、本作の戦闘シーンの迫力をいや増している。
・ストーリーも若干変えてある。たとえば第1テレビシリーズでは、サーシャの宇宙船が火星に墜落したときに、たまたま近くに居合わせた古代と島が駆け付けている。この、広い宇宙で「たまたま」「居合わせた」のは、出渕総監督の云う「いくらなんでも今見たらそれはないだろう」という点だ。本作では、あらかじめサーシャの到着地点を予測して、古代と島が待機していたことになっている。このような変更は、頑固な旧作ファンといえども納得できるはずだ。
・同じく設定も少々異なる。目につくのは、第1テレビシリーズには本来登場しない土方や山南が、早くも第1話に出ていることだ。
これは、ファンへのサービスの意味合いもあろうが、それ以上に「いくらなんでも今見たらそれはない」点の改善だろう。
なぜなら、第1テレビシリーズの開始時点で、地球艦隊はほぼ壊滅状態だったはずなのだ。だからこそ、ヤマトのクルーは実戦経験のない古代ら若輩者で構成されている。にもかかわらず、シリーズが進むにつれて土方や山南のようなベテラン軍人が次々に現れることに、ファンの多くが「いくらなんでも」と感じたはずだ。
だから本作では、土方や山南が作品世界に存在するなら冥王星会戦の際にいたであろうポジションにちゃんと配されている。これは単なるファンサービスというよりも、ヤマトの世界を熟考した結果としての必然である。
・地球が放射能で汚染された、という設定も変えられている。本来「放射性物質」ないしは「放射線」といった言葉を使うべきところ、「放射能」なる言葉を広めてしまった点では、ゴジラに次いで第1テレビシリーズにもいささかの責任があろう。本作では、地球上のどこにでも存在する放射性物質や、いつでも宇宙から降り注いでいる放射線を汚染源扱いするのは止めている。けだし見識であろう。
・音楽はもちろんオリジナルを尊重している。故宮川泰氏の思いを誰よりも知っているであろうご子息の宮川彬良氏が、譜面の失われてしまった楽曲群をなんと耳コピーで再現したという。音楽はヤマトの大きな魅力であり、本作はその懐かしい旋律を甦らせてくれたのだ。
・そして演出も脚本も、決してオリジナルを壊さない。ヤマトのファンなら、今でも各場面が目に浮かび、多くのセリフをそらんじているだろう。みずから第1話の脚本と絵コンテを担当した出渕総監督は、それらの大切なセリフを忠実に再現し、映像も丁寧に再現した上で、懐かしい旋律をここぞというところで流す。
正直な話、第1テレビシリーズの作画レベルでは、目の肥えた今のアニメファンには物足りないだろう。けれど本作は、極めて高いレベルのアニメーション技術を駆使して、旧作ファンの思い出のシーンの数々を慎重に再現している。オリジナルより見応えがあると云っても良い。
このように、『宇宙戦艦ヤマト2199』は細部に至るまで凝りに凝って、ヤマトファンはもちろんのこと、はじめてヤマトを見る人でも目を見張ること間違いなしだ。
だが、それでも私には心配があった。
先の記事「『SPACE BATTLESHIP ヤマト』を惑わせる3つの「原作」」に述べたように、ヤマトシリーズは第1テレビシリーズと『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』以降とで思想的な違いがある。どの作品に思い入れを抱くかは、ファンそれぞれだ。だから実写映画『SPACE BATTLESHIP ヤマト』のように、第1テレビシリーズを原典としつつ、『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』まで取り込もうとする例もある。
はたして、『宇宙戦艦ヤマト2199』の作り手は、何をもって「ヤマトらしさ」と考えているだろうか。それは私の思いと一致するのだろうか。
第1話には、それを判断するのにうってつけの場面がある。
ガミラス艦隊に敗北を喫して撤退する際の、古代守と沖田十三との会話だ。詳しくは先の記事をお読みいただきたいが、ここで何を喋らせるかが、作り手の戦争観、死生観、ひいては人生観を象徴すると云っても過言ではない。
念のために、第1テレビシリーズの会話を改めて紹介しておこう。
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沖田「ここで今全滅してしまっては、地球を守る為に戦う者が居なくなってしまうんだ。明日の為に今日の屈辱に耐えるんだ。それが男だ。」
古代「男だったら、戦って戦って戦い抜いて、一つでも多くの敵をやっつけて、死ぬべきじゃないんですか!」
---
そして、下が中島理彦氏に教えていただいた米国放映版『Star Blazers』での古代のセリフである。
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古代「単なる数字の問題です。あなたの旗艦には470名の乗組員がいる。私の船は20名。あなたたちが必ず帰還できるよう守ります。」
---
お読みいただけば判るように、オリジナルの第1テレビシリーズと米国放映版とでは、生と死や、戦いの意味についての考え方が、まったく異なっている。
そして、まさしく第1テレビシリーズと『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』以降とを分かつのも、生と死や、戦いの意味についての違いにある。
はたして、本作の作り手は、ここで二人に何を喋らせるか。私は固唾を飲んで、その場面を待った。
そして注目の場面は、意外な言葉のやりとりだった。
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沖田「古代、ワシに続け。」
古代「沖田さん、僕は逃げません。」
沖田「古代!」
古代「ゆきかぜは戦線に留まり、きりしま撤退を援護します。」
沖田「古代、多くの犠牲を払ったが、作戦は成功したのだ。ここは引くんだ。」
古代「このままでは地球艦隊は全滅です。それでは地球を守る者がいなくなってしまいます。」
沖田「古代!」
古代「沖田さん、あなたはこんなところで死んではいけない人だ。地球はあなたを必要としているんです。」
沖田「それはお前も同じだ。同じなのだぞ、古代。」
古代「ありがとうございます。その言葉だけで充分です。」
沖田「頼む。判ってくれ。」
古代「お元気で。地球のことを頼みます。」
沖田「古代!!」
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私はここに感極まった。
この会話は、第1テレビシリーズとは違う。米国放映版とも違う。けれど、そのいずれのニュアンスも汲み取っている。そして重要なのは、第1テレビシリーズで沖田が語ったセリフと同じ思いを、本作では古代守も共有していることだ。
第1テレビシリーズの古代守――すなわち、勝てないと判っている戦いに精神論だけで飛び込んでいく日本人像とは、もう決別すべきだ。さりとて、米国放映版の古代守のように、数字に基づいた合理的な説明で済ませられるほど、私たちは政教分離ができていない。
そんな私たち21世紀の日本人に向けて語られた言葉が、そこにはあった。
ストーリー上、ここで古代守の乗艦「ゆきかぜ」が撃沈することは避けられないものの、その死を肯定的に捉えたり、英雄視することはない。それが沖田の「頼む。判ってくれ。」のセリフに滲み出ている。
ここに作り手たちは宣言している。
もう『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』以降のように、毎回誰かが特攻するような作品にはしないと。
登場人物が次々に死んでいけば感動する――そんな作品にはしないと。
まだ『宇宙戦艦ヤマト2199』は、はじまったばかりだ。
私はこの作品に、とことん付き合うつもりでいる。
![宇宙戦艦ヤマト 2199 (1) [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/51aVPbWIhUL._SL160_.jpg)
第1話『イスカンダルの使者』 脚本/出渕裕 絵コンテ/出渕裕 演出/榎本明広
第2話『我が赴くは星の海原』 脚本/出渕裕 絵コンテ/榎本明広 演出/榎本明広
総監督・シリーズ構成/出渕裕 原作/西崎義展
チーフディレクター/榎本明広 キャラクターデザイン/結城信輝
音楽/宮川彬良、宮川泰
出演/菅生隆之 小野大輔 鈴村健一 桑島法子 大塚芳忠 麦人 千葉繁 赤羽根健治
日本公開/2012年4月7日
ジャンル/[SF] [アドベンチャー] [戦争]


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【theme : 宇宙戦艦ヤマト2199】
【genre : アニメ・コミック】
『アーティスト』の画期的なところは何か?
こんな映画を観たかった!
映画は、技術の進展とともに様々な要素を付け加えていった。トーキー(音声)もカラー(総天然色)も、後から加わった要素である。
けれども現代の映画の作り手たちが、それらの要素を巧みに使いこなしているかは疑問である。
多くの観客にとって、音声があることもカラーであることも当たり前だろう。
しかし、それらの映画に、音声の必然性やカラーの必然性が本当にあるのだろうか。
思えば、サイレントで監督デビューしたルネ・クレールがはじめて取り組んだトーキー『巴里の屋根の下』では、列車の音に声がかき消されてセリフが聞き取れない場面があったりと、トーキーの利点をあえて損なう挑戦的な演出がなされていた。
また、モノクロ映画で巨匠の地位を確立していた小津安二郎監督も、カラー映画を撮るに当たっては画面に「赤いヤカン」を配する等、色への強いこだわりを見せた。
ミヒャエル・ハネケ監督がモノクロで音楽のない『白いリボン』(2009年)を撮ったときに、「音楽を用いるのは自らの失敗を隠蔽する行為」だと語ったのも、本来映画は音や色がなくても構築できると考えてのことだろう。
そんなことを念頭に映画を観ると、どうも無造作に音や色が付いているように感じることが多い。
たとえば、映画をマンガに置き換えてみれば、日本人には理解しやすいだろう。
日本は世界有数のマンガ大国だが、不思議なことに多くの作品が白黒だ。カラーで印刷する技術はあるし、マンガ家だってカラーページを描けるのに、フルカラーの雑誌は見かけない。欧米ではフルカラーのマンガが当たり前なことを考えると、たいへん興味深いことだ。
これについては、水墨画に代表されるモノクロ文化の系譜と、東洋人と西洋人の虹彩の色の違いがもたらす機能差とを併せて、別の機会に論じてみたい。
なにはともあれ、魅力的な作品を生み出すのに、色彩は必須の要素ではないということだ。
だからトーキーでもカラーでもない映画『アーティスト』は、実験作でも前衛映画でもない。ごく普通の娯楽作であり、お馴染みのメロドラマだ。
ただミシェル・アザナヴィシウス監督は、映画に色彩や音声が不可欠ではないと知っていたにすぎない。
そして無造作に音や色を付けるくらいなら、そんなものはない方がよほど楽しめることを『アーティスト』は示している。
本作は、そのはじまり方からして面白い。
サイレント映画と同じ1.33:1の横縦比に、縦長の優美な文字で浮かび上がるタイトル。まさにサイレント映画そのものだ。
このような作りは、映画への期待を高めるのにも効果的だ。
なにしろ1910~1920年代の映画で、今なお見る機会がある作品は、映画史に残る名作に決まっているからだ。そのため、サイレント映画のようなスタイルを見せられると、さぁ名作がはじまるぞとワクワクしてしまう。
とはいえ、『アーティスト』はサイレントに似せつつも、無音の映画ではない。役者の声や効果音がない代わりに、ほぼ全編にわたって音楽が流れている。かつてサイレント映画の上映では楽団の伴奏が付いていたのと同じである(日本では楽団に加えて弁士もいたから、「無声」でもなかったが)。
そして、インストルメンタルの曲が続く中で、ここぞというところで歌声を聞かせてくれる。他のシーンでは聞けないからこそ、その歌声は心に響く。
加えて、本作は効果音が皆無でもない。劇中、主人公の心情を表すポイントに絞って、厳選した音を聞かせてくる。これこそ名実ともに「効果音」というものだ。
このような音声の使い方から判るのは、本作が普通の映画から音や色を引いていった「引き算の結果」ではないということだ。音や色がなくても面白いのが映画の原点であり、本作はそこに音声という効果を加えた「足し算の結果」なのだ。
さらに本作は奥が深い。
1910~1920年代のサイレントを彷彿とさせるだけでなく、1930年代以降に人気を博したミュージカルの要素も併せ持つのだ。もちろん、サイレント時代にミュージカルなんてない。
ところがサイレントでもダンスなら楽しめるのは、大きな発見である。
このように、本作が映画の原点とその効果のなんたるかを改めて知らしめたからだろう、なんと本作はフランス・ベルギー合作でありながら第84回アカデミー賞の10部門にノミネートされ、作品賞をはじめとする5部門を制することになった。
非英語圏の国で制作された映画が作品賞を受賞するのは史上初のことである。
ご存知のように、映像をスクリーンに投射して大勢で観賞する今の映画を開発したのは、フランスのリュミエール兄弟だ。はじめてストーリーのある映画を作ったのも、フランスのジョルジュ・メリエス。そしてまた1946年からはカンヌで国際映画祭を開催するなど、フランスは一貫して映画文化の発信地だった。
ところが、ここに立ちはだかるのがハリウッドである。
受け売りで恐縮だが、大塚英志・大澤信亮著『「ジャパニメーション」はなぜ敗れるか』では、赤木照夫氏の『ハリウッドはなぜ強いか』の分析を紹介している。それによれば、ハリウッドが外国映画のリメイクを作り続けるのは、ストーリーの構築にかかるコストを削減するのとは別に、原作である外国映画をハリウッド市場から締め出す目的があるからだという。
たしかに、クロエ・グレース・モレッツが出演する英語の『モールス』が観られるのに、わざわざオリジナルのスウェーデン版『ぼくのエリ 200歳の少女』を観る米国人はいないだろう。いや、米国に限らず、英語とスウェーデン語の市場規模の差を考えれば、同じ内容の英語版を作られたらオリジナルの売り込み先なんてなくなってしまう。
これに抵抗しているのがリュック・ベッソンで、ベッソンはフランス映画をアメリカ映画に見せかけることで世界市場を相手にしている。
その意味では『アーティスト』もしたたかだ。
舞台となるのはハリウッドであり、主人公の人物像はダグラス・フェアバンクスをベースにしている。フェアバンクスは人気俳優であるとともに映画会社ユナイテッド・アーティスツの設立者であり、映画芸術科学アカデミーの初代会長でもある、まさにアメリカ映画黎明期の大物アーティストだ。
そして本作は、実際にロサンゼルスでロケを行い、ヒロインのペピー・ミラーの家として撮影されたのはダグラス・フェアバンクスの妻でありユナイテッド・アーティスツの共同設立者でもあり映画芸術科学アカデミーのピックフォード映画研究センターにその名を残す大スター、メアリー・ピックフォードの家である(ペピー・ミラーのイニシャルはメアリー・ピックフォードを逆にしただけだ!)。
ここまでアメリカ映画へのリスペクトを示されたら、アカデミー会員の頬も緩むというものだろう。作品賞も監督賞も主演男優賞も、どんどん持ってけ状態である。
本作と同じく映画黎明期をテーマにした『ヒューゴの不思議な発明』が、本作より多い11部門にノミネートされて受賞を争いながら、視覚効果賞等の技術面での受賞にとどまったのは、アメリカ映画でありながらフランス映画をリスペクトしているのが、アメリカ映画の発展を目的とするアカデミー賞にそぐわないと判断されたのだろうか。
いずれにしろ、非英語圏で制作された映画が、アメリカ映画の祭典であるアカデミー賞の頂点に立った。
これはその記念すべき第一作である。
『アーティスト』 [あ行]
監督・脚本・編集/ミシェル・アザナヴィシウス
出演/ジャン・デュジャルダン ベレニス・ベジョ ジョン・グッドマン ジェームズ・クロムウェル マルコム・マクダウェル ペネロープ・アン・ミラー ミッシー・パイル ベス・グラント ジョエル・マーレイ エド・ローター アギー
日本公開/2012年4月7日
ジャンル/[ロマンス] [コメディ] [犬]
http://bookmarks.yahoo.co.jp/bookmarklet/showpopup?t='+encodeURIComponent(document.title)+'&u='+encodeURIComponent(location.href)+'&ei=UTF-8','_blank','width=550,height=480,left=100,top=50,scrollbars=1,resizable=1',0);">
映画は、技術の進展とともに様々な要素を付け加えていった。トーキー(音声)もカラー(総天然色)も、後から加わった要素である。
けれども現代の映画の作り手たちが、それらの要素を巧みに使いこなしているかは疑問である。
多くの観客にとって、音声があることもカラーであることも当たり前だろう。
しかし、それらの映画に、音声の必然性やカラーの必然性が本当にあるのだろうか。
思えば、サイレントで監督デビューしたルネ・クレールがはじめて取り組んだトーキー『巴里の屋根の下』では、列車の音に声がかき消されてセリフが聞き取れない場面があったりと、トーキーの利点をあえて損なう挑戦的な演出がなされていた。
また、モノクロ映画で巨匠の地位を確立していた小津安二郎監督も、カラー映画を撮るに当たっては画面に「赤いヤカン」を配する等、色への強いこだわりを見せた。
ミヒャエル・ハネケ監督がモノクロで音楽のない『白いリボン』(2009年)を撮ったときに、「音楽を用いるのは自らの失敗を隠蔽する行為」だと語ったのも、本来映画は音や色がなくても構築できると考えてのことだろう。
そんなことを念頭に映画を観ると、どうも無造作に音や色が付いているように感じることが多い。
たとえば、映画をマンガに置き換えてみれば、日本人には理解しやすいだろう。
日本は世界有数のマンガ大国だが、不思議なことに多くの作品が白黒だ。カラーで印刷する技術はあるし、マンガ家だってカラーページを描けるのに、フルカラーの雑誌は見かけない。欧米ではフルカラーのマンガが当たり前なことを考えると、たいへん興味深いことだ。
これについては、水墨画に代表されるモノクロ文化の系譜と、東洋人と西洋人の虹彩の色の違いがもたらす機能差とを併せて、別の機会に論じてみたい。
なにはともあれ、魅力的な作品を生み出すのに、色彩は必須の要素ではないということだ。
だからトーキーでもカラーでもない映画『アーティスト』は、実験作でも前衛映画でもない。ごく普通の娯楽作であり、お馴染みのメロドラマだ。
ただミシェル・アザナヴィシウス監督は、映画に色彩や音声が不可欠ではないと知っていたにすぎない。
そして無造作に音や色を付けるくらいなら、そんなものはない方がよほど楽しめることを『アーティスト』は示している。
本作は、そのはじまり方からして面白い。
サイレント映画と同じ1.33:1の横縦比に、縦長の優美な文字で浮かび上がるタイトル。まさにサイレント映画そのものだ。
このような作りは、映画への期待を高めるのにも効果的だ。
なにしろ1910~1920年代の映画で、今なお見る機会がある作品は、映画史に残る名作に決まっているからだ。そのため、サイレント映画のようなスタイルを見せられると、さぁ名作がはじまるぞとワクワクしてしまう。
とはいえ、『アーティスト』はサイレントに似せつつも、無音の映画ではない。役者の声や効果音がない代わりに、ほぼ全編にわたって音楽が流れている。かつてサイレント映画の上映では楽団の伴奏が付いていたのと同じである(日本では楽団に加えて弁士もいたから、「無声」でもなかったが)。
そして、インストルメンタルの曲が続く中で、ここぞというところで歌声を聞かせてくれる。他のシーンでは聞けないからこそ、その歌声は心に響く。
加えて、本作は効果音が皆無でもない。劇中、主人公の心情を表すポイントに絞って、厳選した音を聞かせてくる。これこそ名実ともに「効果音」というものだ。
このような音声の使い方から判るのは、本作が普通の映画から音や色を引いていった「引き算の結果」ではないということだ。音や色がなくても面白いのが映画の原点であり、本作はそこに音声という効果を加えた「足し算の結果」なのだ。
さらに本作は奥が深い。
1910~1920年代のサイレントを彷彿とさせるだけでなく、1930年代以降に人気を博したミュージカルの要素も併せ持つのだ。もちろん、サイレント時代にミュージカルなんてない。
ところがサイレントでもダンスなら楽しめるのは、大きな発見である。
このように、本作が映画の原点とその効果のなんたるかを改めて知らしめたからだろう、なんと本作はフランス・ベルギー合作でありながら第84回アカデミー賞の10部門にノミネートされ、作品賞をはじめとする5部門を制することになった。
非英語圏の国で制作された映画が作品賞を受賞するのは史上初のことである。
ご存知のように、映像をスクリーンに投射して大勢で観賞する今の映画を開発したのは、フランスのリュミエール兄弟だ。はじめてストーリーのある映画を作ったのも、フランスのジョルジュ・メリエス。そしてまた1946年からはカンヌで国際映画祭を開催するなど、フランスは一貫して映画文化の発信地だった。
ところが、ここに立ちはだかるのがハリウッドである。
受け売りで恐縮だが、大塚英志・大澤信亮著『「ジャパニメーション」はなぜ敗れるか』では、赤木照夫氏の『ハリウッドはなぜ強いか』の分析を紹介している。それによれば、ハリウッドが外国映画のリメイクを作り続けるのは、ストーリーの構築にかかるコストを削減するのとは別に、原作である外国映画をハリウッド市場から締め出す目的があるからだという。
たしかに、クロエ・グレース・モレッツが出演する英語の『モールス』が観られるのに、わざわざオリジナルのスウェーデン版『ぼくのエリ 200歳の少女』を観る米国人はいないだろう。いや、米国に限らず、英語とスウェーデン語の市場規模の差を考えれば、同じ内容の英語版を作られたらオリジナルの売り込み先なんてなくなってしまう。
これに抵抗しているのがリュック・ベッソンで、ベッソンはフランス映画をアメリカ映画に見せかけることで世界市場を相手にしている。
その意味では『アーティスト』もしたたかだ。
舞台となるのはハリウッドであり、主人公の人物像はダグラス・フェアバンクスをベースにしている。フェアバンクスは人気俳優であるとともに映画会社ユナイテッド・アーティスツの設立者であり、映画芸術科学アカデミーの初代会長でもある、まさにアメリカ映画黎明期の大物アーティストだ。
そして本作は、実際にロサンゼルスでロケを行い、ヒロインのペピー・ミラーの家として撮影されたのはダグラス・フェアバンクスの妻でありユナイテッド・アーティスツの共同設立者でもあり映画芸術科学アカデミーのピックフォード映画研究センターにその名を残す大スター、メアリー・ピックフォードの家である(ペピー・ミラーのイニシャルはメアリー・ピックフォードを逆にしただけだ!)。
ここまでアメリカ映画へのリスペクトを示されたら、アカデミー会員の頬も緩むというものだろう。作品賞も監督賞も主演男優賞も、どんどん持ってけ状態である。
本作と同じく映画黎明期をテーマにした『ヒューゴの不思議な発明』が、本作より多い11部門にノミネートされて受賞を争いながら、視覚効果賞等の技術面での受賞にとどまったのは、アメリカ映画でありながらフランス映画をリスペクトしているのが、アメリカ映画の発展を目的とするアカデミー賞にそぐわないと判断されたのだろうか。
いずれにしろ、非英語圏で制作された映画が、アメリカ映画の祭典であるアカデミー賞の頂点に立った。
これはその記念すべき第一作である。
![アーティスト コレクターズ・エディション [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/412MWv2JMXL._SL160_.jpg)
監督・脚本・編集/ミシェル・アザナヴィシウス
出演/ジャン・デュジャルダン ベレニス・ベジョ ジョン・グッドマン ジェームズ・クロムウェル マルコム・マクダウェル ペネロープ・アン・ミラー ミッシー・パイル ベス・グラント ジョエル・マーレイ エド・ローター アギー
日本公開/2012年4月7日
ジャンル/[ロマンス] [コメディ] [犬]


tag : ミシェル・アザナヴィシウスジャン・デュジャルダンベレニス・ベジョジョン・グッドマンジェームズ・クロムウェルマルコム・マクダウェルペネロープ・アン・ミラーミッシー・パイルベス・グラントジョエル・マーレイ
『ヘルプ ~心がつなぐストーリー~』 そのいくつもの意味
なんて楽しい映画なのだろう。
ややオーバーアクション気味に豊かな表情を見せる役者たち、色鮮やかな街並みや衣裳の数々、恋人たちの背後に流れるオールディーズの歌声。いずれも映画の楽しさをいや増し、上映中は場内のあちらこちらでひっきりなしに笑いが起こっていた。
『ヘルプ ~心がつなぐストーリー~』の舞台は1960年代前半のアメリカ南部、ミシシッピ州ジャクソン市。そこは、奴隷解放とは言葉ばかりで、黒人と白人との隔離が当たり前のように行われている土地だ。
黒人の子と白人の子は教科書の貸し借りもできないし、黒人が白人と同じトイレを使うだけでも怒られる。黒人女性がなれる職業といえば、ヘルプ(お手伝いさん)として白人にかしずくことだけ。
そんな中、黒人メイドたちが白人の前では決して語れない本音を描くこの映画は、とてつもなく重いテーマを抱えている。
にもかかわらず、全編のトーンは明るく楽しい。
それは、登場する女性たちが前向きで積極的に生きているからだろう。
この映画の女性たちが魅力的な理由のひとつに、登場人物の役割が男女で分担されていることがあろう。
本作の男性は、誰も彼もが後ろ向きで消極的だ。そしてストーリーには深く関わらず引っ込んでしまう。対して女性は(ことの善し悪しは別として)誰もが積極的であり、何ごとにもへこたれない。男性嫌悪映画とすら云われた『プレシャス』にも負けないほど、女性中心の映画なのだ。
だから出演する女優たちはみんな輝いて見える。
それはアカデミー賞とゴールデン・グローブ賞と英国アカデミー賞と放送映画批評家協会賞の主演女優賞にヴィオラ・デイヴィスがノミネートされ、助演女優賞にオクタヴィア・スペンサーとジェシカ・チャステインがノミネートされたことからも明らかだ(そしてオクタヴィア・スペンサーはそれらすべてを受賞し、ヴィオラ・デイヴィスも放送映画批評家協会賞の主演女優賞を受賞した)。さらに本作は放送映画批評家協会賞のアンサンブル演技賞まで受賞している。
もちろん、彼女たちの魅力を引き出したのは、テイト・テイラー監督の手腕である。
監督は、映画がシリアスになり過ぎないように、役者たちに少々オーバーな演技を要求している。それに応えてオクタヴィア・スペンサーが演じるミニーはしょっちゅう目をむいたり唇を歪ませたりしている。ジェシカ・チャステインは、おつむの弱いブロンド美人の典型としてシーリアを演じ、『ツリー・オブ・ライフ』の物静かな母親像とはうって変わったコミカルな演技を披露する。
中でも楽しいのが、ブライス・ダラス・ハワードが演じる意地悪なヒリーである。プライドが高く、黒人を徹底的に差別するヒリーは、本作一番の悪役だ。その高慢そうな表情や、悔しいときの大袈裟なリアクションは、本作がコメディかと思うほど愉快な演技である。
そしてまた、裾の広がったスカートをまとった彼女たちは、人形のように可愛らしい。
画面は明るい色に満ちており、いじめも反撃も陰湿には見えない。
映画のこのような“ルック”について、公式サイトで撮影監督のスティーヴン・ゴールドブラットが語っている。
「過去の時代をお決まりの懐古趣味やくすんだ色調で見せるのは好きじゃない。30年、40年前の生活を今の時代より劣っていたと考えるのはナンセンスだよ。ケネディの時代なんだから、あらゆるものがカラフルに輝いていた。アメリカがアメリカらしかった、活気に満ちた色のある時代なんだ」
ところが、白人女性の多くが華やかな衣裳に身を包んでいるのに、エマ・ストーンの演じるスキーターだけは活動しやすいアッサリした服装だ。女は何よりも結婚して子供を産むものとされる南部にあって、職業婦人を目指す彼女の他者との違いが際立っている。
女性中心の映画だけあって、そんなファッションを見るのも楽しい。
このように明るく楽しく作られた映画ではあるが、中身はあくまで痛烈だ。
とりわけ傑作なのは、地元の白人女性たちが開催する慈善パーティーだろう。彼女らはコートや焼き菓子をオークションに出して、その収益をアフリカの恵まれない子供たちのために役立てようとする。同時に、屋外に黒人専用のトイレを設けて、屋内ではトイレすら使わせないイニシアティブ(住民発案)を推し進めようとしている。
実に傑作な偽善者ぶりだが、彼らの誰一人として自分たちが偽善者だなんて思っていない。こんなダブルスタンダードは、私たちの周りにも溢れていよう。
とうぜん、この慈善パーティーが平和裏に成功したら面白くないわけで、本作は観客が溜飲を下げられるようになっている。
でも、世の中の差別や偏見は、映画の中でちょっと溜飲を下げただけで解決するものではない。
そのことを作り手も充分に理解している。
だから私たちは、本作を観て、楽しい146分だったと晴れやかに劇場を後にするわけにはいかない。それだけでは済ませられないものを、本作は突きつける。
そしてまた、世の中を良くするのも悪くするのも、市井の一人ひとりでしかないことをも明らかにする。
それは、どこかの権力者や、何かの偉い人に任せておけば良いものではないのだ。
聞くべき耳を持てば、周りに「ヘルプ」と叫んでいる人はいるのである。
『ヘルプ ~心がつなぐストーリー~』 [は行]
監督・脚本/テイト・テイラー 原作/キャスリン・ストケット
出演/エマ・ストーン ヴィオラ・デイヴィス オクタヴィア・スペンサー ブライス・ダラス・ハワード ジェシカ・チャステイン アリソン・ジャネイ シシー・スペイセク シシリー・タイソン メアリー・スティーンバージェン
日本公開/2012年3月31日
ジャンル/[ドラマ]
http://bookmarks.yahoo.co.jp/bookmarklet/showpopup?t='+encodeURIComponent(document.title)+'&u='+encodeURIComponent(location.href)+'&ei=UTF-8','_blank','width=550,height=480,left=100,top=50,scrollbars=1,resizable=1',0);">
ややオーバーアクション気味に豊かな表情を見せる役者たち、色鮮やかな街並みや衣裳の数々、恋人たちの背後に流れるオールディーズの歌声。いずれも映画の楽しさをいや増し、上映中は場内のあちらこちらでひっきりなしに笑いが起こっていた。
『ヘルプ ~心がつなぐストーリー~』の舞台は1960年代前半のアメリカ南部、ミシシッピ州ジャクソン市。そこは、奴隷解放とは言葉ばかりで、黒人と白人との隔離が当たり前のように行われている土地だ。
黒人の子と白人の子は教科書の貸し借りもできないし、黒人が白人と同じトイレを使うだけでも怒られる。黒人女性がなれる職業といえば、ヘルプ(お手伝いさん)として白人にかしずくことだけ。
そんな中、黒人メイドたちが白人の前では決して語れない本音を描くこの映画は、とてつもなく重いテーマを抱えている。
にもかかわらず、全編のトーンは明るく楽しい。
それは、登場する女性たちが前向きで積極的に生きているからだろう。
この映画の女性たちが魅力的な理由のひとつに、登場人物の役割が男女で分担されていることがあろう。
本作の男性は、誰も彼もが後ろ向きで消極的だ。そしてストーリーには深く関わらず引っ込んでしまう。対して女性は(ことの善し悪しは別として)誰もが積極的であり、何ごとにもへこたれない。男性嫌悪映画とすら云われた『プレシャス』にも負けないほど、女性中心の映画なのだ。
だから出演する女優たちはみんな輝いて見える。
それはアカデミー賞とゴールデン・グローブ賞と英国アカデミー賞と放送映画批評家協会賞の主演女優賞にヴィオラ・デイヴィスがノミネートされ、助演女優賞にオクタヴィア・スペンサーとジェシカ・チャステインがノミネートされたことからも明らかだ(そしてオクタヴィア・スペンサーはそれらすべてを受賞し、ヴィオラ・デイヴィスも放送映画批評家協会賞の主演女優賞を受賞した)。さらに本作は放送映画批評家協会賞のアンサンブル演技賞まで受賞している。
もちろん、彼女たちの魅力を引き出したのは、テイト・テイラー監督の手腕である。
監督は、映画がシリアスになり過ぎないように、役者たちに少々オーバーな演技を要求している。それに応えてオクタヴィア・スペンサーが演じるミニーはしょっちゅう目をむいたり唇を歪ませたりしている。ジェシカ・チャステインは、おつむの弱いブロンド美人の典型としてシーリアを演じ、『ツリー・オブ・ライフ』の物静かな母親像とはうって変わったコミカルな演技を披露する。
中でも楽しいのが、ブライス・ダラス・ハワードが演じる意地悪なヒリーである。プライドが高く、黒人を徹底的に差別するヒリーは、本作一番の悪役だ。その高慢そうな表情や、悔しいときの大袈裟なリアクションは、本作がコメディかと思うほど愉快な演技である。
そしてまた、裾の広がったスカートをまとった彼女たちは、人形のように可愛らしい。
画面は明るい色に満ちており、いじめも反撃も陰湿には見えない。
映画のこのような“ルック”について、公式サイトで撮影監督のスティーヴン・ゴールドブラットが語っている。
「過去の時代をお決まりの懐古趣味やくすんだ色調で見せるのは好きじゃない。30年、40年前の生活を今の時代より劣っていたと考えるのはナンセンスだよ。ケネディの時代なんだから、あらゆるものがカラフルに輝いていた。アメリカがアメリカらしかった、活気に満ちた色のある時代なんだ」
ところが、白人女性の多くが華やかな衣裳に身を包んでいるのに、エマ・ストーンの演じるスキーターだけは活動しやすいアッサリした服装だ。女は何よりも結婚して子供を産むものとされる南部にあって、職業婦人を目指す彼女の他者との違いが際立っている。
女性中心の映画だけあって、そんなファッションを見るのも楽しい。
このように明るく楽しく作られた映画ではあるが、中身はあくまで痛烈だ。
とりわけ傑作なのは、地元の白人女性たちが開催する慈善パーティーだろう。彼女らはコートや焼き菓子をオークションに出して、その収益をアフリカの恵まれない子供たちのために役立てようとする。同時に、屋外に黒人専用のトイレを設けて、屋内ではトイレすら使わせないイニシアティブ(住民発案)を推し進めようとしている。
実に傑作な偽善者ぶりだが、彼らの誰一人として自分たちが偽善者だなんて思っていない。こんなダブルスタンダードは、私たちの周りにも溢れていよう。
とうぜん、この慈善パーティーが平和裏に成功したら面白くないわけで、本作は観客が溜飲を下げられるようになっている。
でも、世の中の差別や偏見は、映画の中でちょっと溜飲を下げただけで解決するものではない。
そのことを作り手も充分に理解している。
だから私たちは、本作を観て、楽しい146分だったと晴れやかに劇場を後にするわけにはいかない。それだけでは済ませられないものを、本作は突きつける。
そしてまた、世の中を良くするのも悪くするのも、市井の一人ひとりでしかないことをも明らかにする。
それは、どこかの権力者や、何かの偉い人に任せておけば良いものではないのだ。
聞くべき耳を持てば、周りに「ヘルプ」と叫んでいる人はいるのである。
![ヘルプ~心がつなぐストーリー~ ブルーレイ+DVDセット [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/51Q2u4MA9sL._SL160_.jpg)
監督・脚本/テイト・テイラー 原作/キャスリン・ストケット
出演/エマ・ストーン ヴィオラ・デイヴィス オクタヴィア・スペンサー ブライス・ダラス・ハワード ジェシカ・チャステイン アリソン・ジャネイ シシー・スペイセク シシリー・タイソン メアリー・スティーンバージェン
日本公開/2012年3月31日
ジャンル/[ドラマ]


tag : テイト・テイラーエマ・ストーンヴィオラ・デイヴィスオクタヴィア・スペンサーブライス・ダラス・ハワードジェシカ・チャステインアリソン・ジャネイシシー・スペイセクシシリー・タイソンメアリー・スティーンバージェン
『ルート・アイリッシュ』 なぜ2007年なのか?
【ネタバレ注意】
2007年、『ルート・アイリッシュ』がこの年を舞台とすることに、ピンと来る人も多いだろう。
菅原出氏によれば、それは2007年9月16日のお昼前のことだったという。場所はイラクのバグダッド西部、ニソール広場。非常に交通量の多いところである。
ここで米国民間企業の従業員が1台のクルマに発砲をはじめた。同僚たちも発砲に加わり、運転手と同乗していた彼の母親は死亡。銃を乱射する者もいたため多くの市民が巻き添えになり、17人が死亡、24人が負傷する大惨事になった。
事件を起こしたのはブラックウォーター社――PMSCsすなわち民間軍事会社(Private Military and Security Companies)の最大手であり、発砲したのはコントラクターと呼ばれる民間兵だ。
菅原出氏は、このニソール広場の事件の他にも、ブラックウォーター社が起こした数々の「不祥事」を紹介している。
---
「2005年5月14日:米軍部隊はブラックウォーターの身辺警護部隊(PSD)が民間人の車両に発砲し、乗車していた父親を殺害、その妻と娘を負傷させた。
2006年5月2日:路肩爆弾が爆発した地点に向かっていたイラク救急車両の運転手は、ブラックウォーター社武装警備員の“コントロールの効かなくなった小銃乱射”によって殺害されたと目撃者は語った。
2006年8月16日:南方方面の高速道路レーンで路肩爆弾が爆発した後、北方方面のレーンを通行中の民間車両にブラックウォーター社の社員が発砲し、イラク人一人が死亡。キルクーク市とヒラ市の少なくとも2カ所で、デモに参加していた民間人がブラックウォーター社警備員により殺害された。
2006年8月22日:路肩爆弾が爆発した直後、ブラックウォーター社の社員が現場で無差別に乱射していたのが目撃された。」
---
さすがに2007年の事件でブラックウォーターの悪名が世界にとどろいたためか、同社はその後たびたび社名を変え、2012年4月現在は平凡なイメージを狙ってACADEMI社と名乗って活動を続けている。
映画『ルート・アイリッシュ』が描くのは、まさしくこの民間軍事会社の忌むべき実態である。
それにしても、なぜ彼らはイラクでこれほど傍若無人な振る舞いができるのだろうか?
それは2004年に連合国暫定当局が発行したOrder17の効力により、民間軍事会社はイラクの法律に従う必要が無く、あらゆる免責特権が認められていたためである。
劇中でコントラクター(民間兵)たちの会話に「日常茶飯事」という言葉が繰り返し出てくるのも、Order17で守られていたからだろう。
映画では、民間兵がイラク人の家に踏み込んで乱暴したり、イラクの民衆を射殺したりと、恐るべき振る舞いが語られるたびに、「そんなの日常茶飯事だ」というセリフが飛び出してくる。
オフィシャル・サイトによれば、脚本家のポール・ラヴァーティはイラク戦争に参加した多くの兵士にインタビューを重ね、また戦争の後遺症に悩む元兵士たちをケアする慈善団体コンバット・ストレスを取材したというから、彼らの言葉の中に「日常茶飯事」も出てきたのかもしれない。
ちなみに、本作においてイラク戦争で失明したクレイグを演じるクレイグ・ランドバーグ自身もまた、イラク勤務中の戦闘で失明した英軍兵士である。
そもそもイラク戦争の現場に民間軍事会社が深く食い込むことになったのは、この戦争が必要に駆られて行ったものではなく、他の政策オプションがあったにもかかわらず、あえて戦争というオプションを選択したからだという。
菅原出氏は次のように説明する。
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あえて「選択」した政策オプションであるから、当時のブッシュ政権としてはなるべく低コストで済ませたい。なぜならばそんなに高いコストや犠牲があるのであれば、なぜわざわざそのオプションを「選択」するのか、と有権者から責められると困るからである。
そこで当時のラムズフェルド国防長官は、イラクに派遣する兵隊の数を極限まで少なくし、戦争を安上がりにしようとした。そして小規模な軍隊しか派遣しなかったために、戦後治安維持にまわす兵隊の数が足りなくなり、治安が悪化した。治安が悪化したので、米政府職員や民間企業はブラックウォーター社のような民間軍事会社を雇った。そしてこうした民間軍事会社の蛮行が、さらにイラク国民の反米感情を煽り、治安悪化に拍車をかけた。
---
まさに蛮行が蛮行を生み、愚行が愚行を生み出すのだ。
それはイラクだけにとどまらない。
たとえば悪名高い民間軍事会社ブラックウォーター社の警備員だったレイモンド・デービスなる人物は、2011年1月27日にパキスタンの街中で発砲事件を起こして、複数のパキスタン人を殺害している。デービスはブラックウォーター社を辞めた後、本作の主人公ファーガスのように自前の会社を立ち上げ、CIAと契約してパキスタンでの活動に従事していたという。
この事件もまた、パキスタンでの反米感情を上昇させた。
もちろん、ケン・ローチ監督が本作を撮った意図は、反米感情を焚きつけることではない。
イギリスもイラクに軍を派遣していたし、イギリスの民間軍事会社もイラクでビジネスをしていた。だから本作に登場するのはあくまでイギリス人である。
オフィシャル・サイトには、ケン・ローチ監督のコメントが掲載されている。「この戦争の最大の犠牲者はイラク人であることも忘れてはいけないと思う。私はアメリカ人の兵士こそが最大の犠牲者であるかのような描き方をしたアメリカ映画にはうんざりしている。彼らだって苦しんできたが、イラク人の苦しみもけっして忘れるべきではない」
本作は正義漢が悪漢を倒すような、胸のすく物語ではない。
主人公も、彼に敵対する者たちも、コントラクターもしくは元コントラクターであり、いずれもイラク人の犠牲の上にこんにちがあるのだ。
そのため、ケン・ローチ監督も脚本家のポール・ラヴァーティも、本作が後味の良い、スッキリした作品になってはいけないことを理解している。
映画を観た客たちは、重く固いものを抱えながら劇場を後にすることだろう。
なお、オフィシャル・サイトには、題名となったルート・アイリッシュのなんたるかを説明している。
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それはイラクのバグダッド空港と市内の米軍管轄区域グリーンゾーンを結ぶ12キロに及ぶ道路のことで、03年の米軍によるイラク侵攻後、テロ攻撃の第一目的とされる“世界一、危険な道路”として知られていた。
---
本来、国民の活動の基盤となり、活気に溢れるはずの道路が、通行困難な危険な場所になってしまったのだ。劇中の事件もこの道路で起こる。
2007年9月16日の17人が射殺された事件を受けて、イラク政府は2009年1月1日にOrder17の無効を宣言し、民間軍事会社から免責特権を剥奪したという。
『ルート・アイリッシュ』 [ら行]
監督/ケン・ローチ
出演/マーク・ウォーマック アンドレア・ロウ ジョン・ビショップ トレヴァー・ウィリアムズ ジェフ・ベル タリブ・ラスール クレイグ・ランドバーグ ジャック・フォーチュン ナイワ・ニムリ
日本公開/2012年3月31日
ジャンル/[ドラマ] [戦争] [サスペンス]
http://bookmarks.yahoo.co.jp/bookmarklet/showpopup?t='+encodeURIComponent(document.title)+'&u='+encodeURIComponent(location.href)+'&ei=UTF-8','_blank','width=550,height=480,left=100,top=50,scrollbars=1,resizable=1',0);">
2007年、『ルート・アイリッシュ』がこの年を舞台とすることに、ピンと来る人も多いだろう。
菅原出氏によれば、それは2007年9月16日のお昼前のことだったという。場所はイラクのバグダッド西部、ニソール広場。非常に交通量の多いところである。
ここで米国民間企業の従業員が1台のクルマに発砲をはじめた。同僚たちも発砲に加わり、運転手と同乗していた彼の母親は死亡。銃を乱射する者もいたため多くの市民が巻き添えになり、17人が死亡、24人が負傷する大惨事になった。
事件を起こしたのはブラックウォーター社――PMSCsすなわち民間軍事会社(Private Military and Security Companies)の最大手であり、発砲したのはコントラクターと呼ばれる民間兵だ。
菅原出氏は、このニソール広場の事件の他にも、ブラックウォーター社が起こした数々の「不祥事」を紹介している。
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「2005年5月14日:米軍部隊はブラックウォーターの身辺警護部隊(PSD)が民間人の車両に発砲し、乗車していた父親を殺害、その妻と娘を負傷させた。
2006年5月2日:路肩爆弾が爆発した地点に向かっていたイラク救急車両の運転手は、ブラックウォーター社武装警備員の“コントロールの効かなくなった小銃乱射”によって殺害されたと目撃者は語った。
2006年8月16日:南方方面の高速道路レーンで路肩爆弾が爆発した後、北方方面のレーンを通行中の民間車両にブラックウォーター社の社員が発砲し、イラク人一人が死亡。キルクーク市とヒラ市の少なくとも2カ所で、デモに参加していた民間人がブラックウォーター社警備員により殺害された。
2006年8月22日:路肩爆弾が爆発した直後、ブラックウォーター社の社員が現場で無差別に乱射していたのが目撃された。」
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さすがに2007年の事件でブラックウォーターの悪名が世界にとどろいたためか、同社はその後たびたび社名を変え、2012年4月現在は平凡なイメージを狙ってACADEMI社と名乗って活動を続けている。
映画『ルート・アイリッシュ』が描くのは、まさしくこの民間軍事会社の忌むべき実態である。
それにしても、なぜ彼らはイラクでこれほど傍若無人な振る舞いができるのだろうか?
それは2004年に連合国暫定当局が発行したOrder17の効力により、民間軍事会社はイラクの法律に従う必要が無く、あらゆる免責特権が認められていたためである。
劇中でコントラクター(民間兵)たちの会話に「日常茶飯事」という言葉が繰り返し出てくるのも、Order17で守られていたからだろう。
映画では、民間兵がイラク人の家に踏み込んで乱暴したり、イラクの民衆を射殺したりと、恐るべき振る舞いが語られるたびに、「そんなの日常茶飯事だ」というセリフが飛び出してくる。
オフィシャル・サイトによれば、脚本家のポール・ラヴァーティはイラク戦争に参加した多くの兵士にインタビューを重ね、また戦争の後遺症に悩む元兵士たちをケアする慈善団体コンバット・ストレスを取材したというから、彼らの言葉の中に「日常茶飯事」も出てきたのかもしれない。
ちなみに、本作においてイラク戦争で失明したクレイグを演じるクレイグ・ランドバーグ自身もまた、イラク勤務中の戦闘で失明した英軍兵士である。
そもそもイラク戦争の現場に民間軍事会社が深く食い込むことになったのは、この戦争が必要に駆られて行ったものではなく、他の政策オプションがあったにもかかわらず、あえて戦争というオプションを選択したからだという。
菅原出氏は次のように説明する。
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あえて「選択」した政策オプションであるから、当時のブッシュ政権としてはなるべく低コストで済ませたい。なぜならばそんなに高いコストや犠牲があるのであれば、なぜわざわざそのオプションを「選択」するのか、と有権者から責められると困るからである。
そこで当時のラムズフェルド国防長官は、イラクに派遣する兵隊の数を極限まで少なくし、戦争を安上がりにしようとした。そして小規模な軍隊しか派遣しなかったために、戦後治安維持にまわす兵隊の数が足りなくなり、治安が悪化した。治安が悪化したので、米政府職員や民間企業はブラックウォーター社のような民間軍事会社を雇った。そしてこうした民間軍事会社の蛮行が、さらにイラク国民の反米感情を煽り、治安悪化に拍車をかけた。
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まさに蛮行が蛮行を生み、愚行が愚行を生み出すのだ。
それはイラクだけにとどまらない。
たとえば悪名高い民間軍事会社ブラックウォーター社の警備員だったレイモンド・デービスなる人物は、2011年1月27日にパキスタンの街中で発砲事件を起こして、複数のパキスタン人を殺害している。デービスはブラックウォーター社を辞めた後、本作の主人公ファーガスのように自前の会社を立ち上げ、CIAと契約してパキスタンでの活動に従事していたという。
この事件もまた、パキスタンでの反米感情を上昇させた。
もちろん、ケン・ローチ監督が本作を撮った意図は、反米感情を焚きつけることではない。
イギリスもイラクに軍を派遣していたし、イギリスの民間軍事会社もイラクでビジネスをしていた。だから本作に登場するのはあくまでイギリス人である。
オフィシャル・サイトには、ケン・ローチ監督のコメントが掲載されている。「この戦争の最大の犠牲者はイラク人であることも忘れてはいけないと思う。私はアメリカ人の兵士こそが最大の犠牲者であるかのような描き方をしたアメリカ映画にはうんざりしている。彼らだって苦しんできたが、イラク人の苦しみもけっして忘れるべきではない」
本作は正義漢が悪漢を倒すような、胸のすく物語ではない。
主人公も、彼に敵対する者たちも、コントラクターもしくは元コントラクターであり、いずれもイラク人の犠牲の上にこんにちがあるのだ。
そのため、ケン・ローチ監督も脚本家のポール・ラヴァーティも、本作が後味の良い、スッキリした作品になってはいけないことを理解している。
映画を観た客たちは、重く固いものを抱えながら劇場を後にすることだろう。
なお、オフィシャル・サイトには、題名となったルート・アイリッシュのなんたるかを説明している。
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それはイラクのバグダッド空港と市内の米軍管轄区域グリーンゾーンを結ぶ12キロに及ぶ道路のことで、03年の米軍によるイラク侵攻後、テロ攻撃の第一目的とされる“世界一、危険な道路”として知られていた。
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本来、国民の活動の基盤となり、活気に溢れるはずの道路が、通行困難な危険な場所になってしまったのだ。劇中の事件もこの道路で起こる。
2007年9月16日の17人が射殺された事件を受けて、イラク政府は2009年1月1日にOrder17の無効を宣言し、民間軍事会社から免責特権を剥奪したという。
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監督/ケン・ローチ
出演/マーク・ウォーマック アンドレア・ロウ ジョン・ビショップ トレヴァー・ウィリアムズ ジェフ・ベル タリブ・ラスール クレイグ・ランドバーグ ジャック・フォーチュン ナイワ・ニムリ
日本公開/2012年3月31日
ジャンル/[ドラマ] [戦争] [サスペンス]


【theme : ヨーロッパ映画】
【genre : 映画】
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