『イヴの時間 劇場版』 アニメーションなのに!

 彼らに心はあるのだろうか?
 『イヴの時間 劇場版』を観ながら、観客は自分の胸に問うだろう。
 はたして、喫茶室「イヴの時間」に集う客たちは"心"を持っているのか? 我々と同じような喜怒哀楽を感じることがあるのだろうか?

 本作は、人間そっくりなアンドロイドが普及した、ちょっと未来の物語である。
 家事や、お使いや、子守など、日常生活の様々なことをアンドロイドに代行させている未来。非常に高性能なアンドロイドがいることを除けば、21世紀はじめの日本とほとんど変わらない世界。ロボット三原則がしっかり組み込まれたアンドロイドたちは、どこまでも人間に従順だ。人間に危害を加えることもない。
 ところが、お使いに行かせたアンドロイドが、人間の知らないところに寄り道していたとしたら……。

 ミステリアスな導入部、アンドロイドの謎の行動、そしてアンドロイド廃絶を唱える結社の暗躍。本作は、派手なSFを期待させる要素に事欠かない。
 ところが『イヴの時間 劇場版』は、これがオリジナルアニメーションとして企画された作品かと驚くような展開を見せる。
 本作は、まるで舞台劇のようなのだ。
 劇中で描かれるのは、ほとんどが「イヴの時間」という名の喫茶室の中ばかりである。私たちが住む現代の街角にもありそうな小さな店を訪れる客たちの触れ合いが、物語の中心だ。登場人物も多くはなく、常連客や一見の客が数人たむろするばかり。
 限定的な空間で、限られた人数で交わす何気ない会話や打ち明け話が続く様子は、まるで小劇場の芝居を観ているようである。
 アニメーションなのに! どんな異世界でも、メカでもモンスターでも、絵に描けば表現できるのに!

 2011年3月4日、『イヴの時間 劇場版』上映後に開催されたトークショーで、吉浦康裕監督とジャーナリストの斉藤守彦氏は、「アニメーションはすべてを描かなきゃならない」と語っていた。
 そのとおりだ。実写映画と違って、アニメーションの場合はたまたま写るものとか偶然フレームに入り込むことなんてあり得ない。画面に映っているすべては、人間が意図して描いたものだ。
 云い方を変えれば、アニメーションなら何でも描けるということだ。ロケ地を探す必要もない、天気の回復を待つ必要もない。セットや衣裳、大道具小道具の制作に金がかかることもない。作り手のイマジネーションひとつで、どんな世界も、どんな事象もスクリーンに映し出せる。
 にもかかわらず、本作では、室内で椅子に座った数人が延々と会話するだけだ。
 ストイックなほどに、喫茶室「イヴの時間」には何の仕掛けもない。

 その作り手の決意に、私は圧倒された。
 目を奪うような派手派手しいものは一切出さず、受け手に媚びるようなキャラクターも一切出さず、それでいて受け手を飽きさせない。ストーリーの面白さと練り込んだ脚本と、演出のリズムと画のセンスだけで勝負しているのだ。
 ご存知のように、アニメーションで一番難しいのは日常生活の描写である。とくに食事の動作は、人間誰しも毎日経験しているだけに、不自然さがあればすぐに気づかれる。生身の役者が演じる実写映画でも、食事シーンの良し悪しには役者と監督の力量が出るものだ。
 それを考えれば、登場人物がテーブルについてコーヒーを飲むばかりの本作が、いかに挑戦的な作品か判るだろう。
 そして、それは功を奏している。
 この作品で楽しめる要素といったら、一にも二にもストーリーだ。そしてストーリーが抜群に面白い。
 派手な大道具小道具が出てこないだけに、私たちは日常生活の延長上の感覚でこの世界に入り込み、登場人物と一緒になって一喜一憂してしまうのだ。


 とはいえ、「登場人物」と書いたものの、彼らの多くはアンドロイドだ。彼らが喜んだり悲しんだりする姿に、人間たる私たちが自分を重ね合わせて良いのだろうか。
 ここで私は、心がないはずの人物が登場する映画を、思い起こさずにはいられない。
 それはたとえば、『アレクサンドリア』に登場するローマ帝国の奴隷であり、『アメイジング・グレイス』で売り買いされる奴隷たちだ。

 『アレクサンドリア』の主人公は聡明な女性だが、彼女は奴隷の前で平気で入浴し、裸身を拭かせている。よもや奴隷に感情や知性があるなんて考えてもみないのだ。彼女にとって、奴隷は入浴を補助する道具のようなものである。
 『アメイジング・グレイス』でも18世紀の奴隷船の劣悪な環境が描かれる。奴隷は単なる貿易品だから、衛生なんぞに配慮する必要はないのだ。
 これらの映画は、私たちが同じ人間を、簡単に非人間的に扱えることを示している。

 『イヴの時間 劇場版』に登場するのはアンドロイドであり、人間ではない。
 しかし、泣いたり笑ったりする彼らと、彼らの心をおもんぱからずに突き放す人間たちを観るにつけ、このような関係が私たちの現実にもあるのではないかと、振り返ってみざるを得ない。


「イヴの時間 劇場版」 [DVD]イヴの時間 劇場版』  [あ行]
監督・原作・脚本/吉浦康裕
出演/福山潤 野島健児 田中理恵 佐藤利奈
日本公開/2010年3月6日
ジャンル/[SF]
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『ヒューゴの不思議な発明』 映画愛ではない、とスコセッシは云った

 【ネタバレ注意】

 本作はなぜ二つの異なる要素から構成されるのだろうか。
 『ヒューゴの不思議な発明』の主人公ヒューゴは孤児である。駅の時計台に隠れ住んでおり、かっぱらいをして暮らしている。
 敵は鉄道公安官だ。こいつに見つかると孤児院送りになってしまう。
 ……これはまるで、チャールズ・ディケンズの小説『オリバー・ツイスト』を彷彿とさせる、伝統的な物語だ。

 ところが、映画は途中からジョルジュ・メリエスの伝記に切り替わってしまう。
 ジョルジュ・メリエスはいわずと知れた映画黎明期のパイオニアである。SF・特撮映画史を取り上げた本であれば、必ず彼の『月世界旅行』が紹介され、月にロケットが突き刺さったスチールが掲載されている。
 にもかかわらず、彼の生涯をご存知の方は案外少ないのではないだろうか。

 ジョルジュ・メリエスは1861年にパリに生まれ、おびただしい数の映画を世に送り出した。1902年の映画『月世界旅行』が彼の代表作である。
 しかし、1910年代になると大作映画の興行的失敗や、兄弟の放漫経営がたたり、彼は一文無しになってしまう。おりしも第一次世界大戦がはじまり、フランス軍は彼のスタジオを負傷兵を収容する病院にしてしまい、その上セルロイドと銀を抽出するために400本以上のオリジナルプリントを没収してしまった。結局彼は金がないためにスタジオを手放す破目になり、彼は怒りのあまり保存しておいたネガやセットや衣裳を燃やしてしまう。
 1920年代中頃には、ジョルジュ・メリエスはモンパルナス駅でキャンディと玩具を販売して生計を立てるあり様だった。1925年には、『月世界旅行』にも出演していたジュアンヌ・ダルシーと再婚し、孫娘のマドレーヌと一緒にパリで暮らしている。

 けれども、1920年代後期になると、メリエス作品の研究者が現れ、ジョルジュ・メリエスは再び人々に関心を持たれるようになる。やがて1929年12月に彼の回顧展が開かれ、彼は人生のうちで最も素晴らしい瞬間を迎えることになる。
 1931年にはレジオンドヌール勲章を授与されており、そのときの贈呈者は「映画の父」ルイ・リュミエールであった。

 『ヒューゴの不思議な発明』は、ジョルジュ・メリエスが映画人としてはどん底で、キャンディと玩具の販売をしていたころに焦点を当てている。劇中で紹介される彼の生涯は、史実をかなり忠実になぞったものだ。
 

 このように本作は、『オリバー・ツイスト』のような少年ヒューゴの物語と、ジョルジュ・メリエスの伝記という二つの異なる要素からなっており、いささか不思議な構成である。
 その謎を解く鍵は、小説好きの少女イザベルだ。メリエスと暮らすこの少女は、実在の孫娘マドレーヌがモデルだろう。
 イザベルは本が大好きで、ヒューゴに本の素晴らしさを教えてくれる。彼女は本屋の店主とも仲良しで、店の本も読み放題だ。

 イザベルの位置付けは、本作の原作が小説であることを考えれば良く判る。
 あなたが手に取った本に、小説好きの少女が出てきたとしよう。彼女はたくさんの本を読んでいて、面白い小説の題名をいくつも挙げてくれる。彼女は明らかにあなたの分身であり、水先案内人だ。あなたはイザベルの立場で、少年ヒューゴをより詳しく知ることになる。

 そしてヒューゴはイザベルに、小説とは異なる不思議な世界「映画」というものを教えてくれる。
 本と違って映画には、映像や音響がある。そして、本が自宅で、独りきりで楽しむのに対して、映画は家の外で、みんなで集まって感動を共有する。連れがいようといまいと構わない。劇場内が見ず知らずの人ばかりだとしても、誰かと一緒に笑ったり、一緒にハラハラしたり、一緒に泣いたりするのは、読書からは得られない体験だ。
 イザベル(と同化した読者)は、ヒューゴと一緒に映画館へ忍び込み、映画という不思議な発明を堪能し、やがて映画黎明期のパイオニアであるジョルジュ・メリエスの秘密に迫る……。

 つまりこの小説は、紙とインクからなる「本」の世界から、機械と電気からなる「映画」の世界への旅を描いた本なのだ。本好きの少年少女にとって、「映画」はオズの国のような別世界であり、様々なトリックを考案して特撮映画を作ったジョルジュ・メリエスの正体を探る冒険は、オズの魔法使いを探す旅のようなものだ。
 その探索手段も、図書館に行って映画に関する本を調べることであり、彼らの「現実世界」はあくまで本をベースにしている。この作品が小説だからこそ、「映画」を別世界に見立てることができるのだ。


 ところが、この物語を映画にすると、まったく異なる様相を呈する。
 映画『ヒューゴの不思議な発明』は、映画についての映画である。映画の観客は、現実とは異なる冒険を楽しむために劇場に足を運ぶのだが、スクリーンに繰り広げられるのは、正に今見ている映画そのものの歴史をたどる旅だ。100年前の映画の誕生や特撮技術の出現等々、映画の起源に関する物語を、映画をとおして知ることになる。
 それは別世界に飛躍する物語ではなく、自己言及する映画の姿だ。

 そして本作は映画らしい仕掛けに満ちている。
 技術面でいえば、CGIや3Dの活用だ。本作は他の3D映画に比べても、かなり立体感を強めに設定してある。そのため、顔のアップが映し出されれば、鼻や顎まで飛び出して見える。
 撮影に関していえば、俯瞰を多用している点が映画らしい。俯瞰は、日常生活の中ではなかなか見られないアングルだ。そういう日常とは異なる映像を目撃してこそ、劇場に足を運んだ甲斐がある。
 そして内容面では、過去の映画との符合を用意しているのが面白い。ヒューゴが住むのは時計台であり、時計台といえば『ロイドの要心無用』(1923年)である。映画館に入ったヒューゴとイザベルは、『ロイドの要心無用』でハロルド・ロイドが時計の針にぶら下がる有名なシーンにハラハラするのだが、本作の後半ではヒューゴ自身が時計の針からぶら下がることになる。

 こんな調子で、本作は過去の映画へのオマージュと現在の最新技術に溢れている。
 マーティン・スコセッシ監督が、映画の保存を目的とする映画財団(The Film Foundation)や世界映画基金(The World Cinema Foundation)の創設者でもあることを考えれば、本作の映画化を手掛けるのはとうぜんといえよう。

 けれども、スコセッシ監督自身は、「私がこの映画を作ろうと思ったのは『映画愛』とか『映画のありがたみ』を伝えるためではない」と語っている。この映画を作った目的は、単純に12歳になる末娘のためなのだ。
 なるほど、本作のクライマックスは、映画を巡る冒険ではなく、ヒューゴと鉄道公安官の追いかけっこだ。ジョルジュ・メリエスを中心に盛り上げる手もあっただろうが、本作はあくまで少年少女の冒険物語なのだ。
 そしてヒューゴが冒険の末に手にするのは、自分を迎えてくれる暖かい家族である。それは『オリバー・ツイスト』のような、伝統的な結末だ。

 原作が、「本」の世界から「映画」の世界への旅を描いたものだとすれば、本作は「映画」の世界のなんたるかを映画の過去と現在の姿によって示しつつ、伝統的な少年少女の物語に帰結させた作品である。
 それは、本好きの少年少女を映画の世界へいざなってくれた原作小説への、映画からの返歌であろう。


ヒューゴの不思議な発明 3Dスーパーセット(3枚組) [Blu-ray]ヒューゴの不思議な発明』  [は行]
監督/マーティン・スコセッシ
出演/ベン・キングズレー ジュード・ロウ エイサ・バターフィールド クロエ・グレース・モレッツ レイ・ウィンストン エミリー・モーティマー ヘレン・マックロリー クリストファー・リー サシャ・バロン・コーエン マイケル・スタールバーグ フランシス・デ・ラ・トゥーア リチャード・グリフィス
日本公開/2012年3月1日
ジャンル/[アドベンチャー] [ファンタジー]
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『僕達急行 A列車で行こう』 間違われないためのルールとは?

 どこの誰かは知らないけれど、よく見かける人はいるものだ。
 通勤電車で乗り合わせる人などその典型だろうが、私の場合は特定の映画館で同じ人を見かけることがある。なかでも珍しいのが中年男性の二人連れだ。並んで映画鑑賞する姿をしばしば見かけるので、きっと連れ立って来ているのだろう。
 はたして彼らはどんな関係なのだろうか。兄弟? 友だち? それともカップル?

 『僕達急行 A列車で行こう』は、鉄道好きの男性二人の恋や仕事を描いたコメディである。恋や仕事という点では、往年のサラリーマン喜劇に近いかもしれない。
 しかし、サラリーマンが活躍する傑作『ニッポン無責任時代』(1962年)や、森田芳光監督の手による『そろばんずく』(1986年)とはずいぶん違う。かつて映画の中心をなしていたはずの恋も仕事も、ここではすっかり添え物だ。
 本作に一貫しているのは、とにかく鉄道が好きだということ。
 恋人との会話よりも列車の振動を感じてる方が楽しい彼らは、恋も仕事も上手くいったりいかなかったり。とはいえ一緒に語り合い、鉄道を見たり、列車で旅をしていると、それはそれで幸せそうだ。

 でも、彼らの親しげな様子を見て、さわやかな友情だと感じる観客は少ないだろう。
 森田芳光監督は、主演の松山ケンイチさんと瑛太さんに、明らかに同性愛っぽい演技をさせている。
 列車の中ではじめて目が合ったときのピピッと来た様子。別れ際に何度も振り返りながら手を振るしぐさ。女に振られても僕がいるからいいじゃないか、と云わんばかりの二人の会話。それはあたかも恋人同士の語らいを見るようなのだ。


 考えてみれば不思議なもので、観光地でもレストランでも、そして映画館でも、女性グループや男女のカップルや親子連れなら珍しくないが、男性だけのグループはあまり見かけない。
 もちろん平日の夜に同僚たちと飲んでる男性はたくさんいる。けれでも休みの日に待ち合わせしたり、一緒に旅をしたりする社会人男性のグループは、どれほどいるだろうか。

 吉原真里氏によれば、現代の男性同士の付き合いが薄いのは、他の男性を感情をさらけ出し合う友人というよりも、ライバルや競争相手と捉える傾向が強くなったためだという。弱さを見せないことが男らしさの印というジェンダー観や、男同士でべったりと時間を過ごすのはゲイがすることだという先入観、そして自分の感情について話すことへの気恥ずかしさなどが、男同士の交友関係を邪魔するそうだ。
 それは、男性としてのアイデンティティが、稼ぎ手の家父長という役割にあるためだ。

 それでも友人同士なら会って話すこともあるだろうが、男ならではの苦労がつきまとう。
 吉原真里氏は、ニューヨーク・タイムズ紙に掲載された、ゲイのカップルと間違われないためのルールを紹介している。
 それはたとえば次のようなものだ。

・バーで一緒に飲むのはOKだが、レストランに二人で行くのは危険。
・飲むのはビールやハード・リッカーならよいが、ワインは危険。
・映画を観に行くのであれば、爆発物や特撮をたくさん使った作品にし、二人の間にひとつ空席をあけて座るべし。

 そういえば、『宇宙人ポール』ではSFオタクが男二人で旅しているだけで、必ず「ゲイか?」と尋ねられていた。
 ゲイならゲイで良いわけだが、ゲイじゃない男同士が休日に二人で旅するなんて、日本でも珍しいように思う。


 森田芳光監督もそれが判っているからだろう。列車の旅が好きな本作の主人公二人には、ゲイだと思われることを意に介さない演技を要求している。
 一応、劇中ではそれぞれ女性との付き合いがあり、彼らは異性愛者ということになっているが、映画を観た後の印象は、二人でイチャイチャしていたようにしか思えない。
 とりわけ面白いのは、鉄道好きであることをひた隠しにするピエール瀧さんだ。鉄道なんて興味がないように取りつくろう彼は、まるでカミングアウトできない同性愛者だ。

 けれども、それでいいのである。
 人がとっても好きなものを持ち、その好きなものを通して繋がっていくとしたら、それが趣味でも愛情でも、見た目は変わらないかもしれないのだ。

 公式サイトにある森田芳光監督のメッセージは、まさに今どきの人の繋がり方を示したものだ。
---
いま、ひとは趣味でつながっています。一流企業もブルーカラーも関係なく、同じ趣味を持つ同士は、すぐに打ち解けられます。なぜなら、趣味に向かうことはピュアで純粋なことだから。「何かに対して純粋になる」ということは、おかしくもあり、親しみが持てることでもあると思います。
---

 なるほど、良く考えれば社会人男性のグループを見かけることもたまにはある。
 それは、バイクを連ねて走るツーリング仲間だったり、コミケに繰り出すオタクたちだったり、登山仲間だったりと、強い「趣味」で結ばれた者たちだ。
 その趣味が強烈であればあるほど、ゲイのカップルと間違われないための努力なんていらなくなる。他人の視線なんて、どうでも良くなるからだ。

 森田芳光監督は、こうも云っている。
 「これからの時代の人間関係は、「趣味」を通して豊かになっていくのではないか。」

 そうだ、人はもっとマニアらしさ、オタク臭さを発散させて、その力で繋がっていけば良いのである。


僕達急行 A列車で行こう  豪華版  (初回限定生産) [Blu-ray]僕達急行 A列車で行こう』  [は行]
監督・脚本/森田芳光
出演/松山ケンイチ 瑛太 貫地谷しほり ピエール瀧 村川絵梨 松坂慶子 西岡徳馬 伊武雅刀 星野知子 伊東ゆかり 菅原大吉 三上市朗 松平千里 笹野高史 ジュン デイビット矢野
日本公開/2012年3月24日
ジャンル/[コメディ] [ドラマ] [青春]
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『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』 日英の大きなギャップ

 うまいオープニングだ。映画はあり得ないようなシチュエーションではじまり、観客をギョッとさせる。
 なんと老いたマーガレット・サッチャーがスーパーのレジに並び、ミルクを買っているのだ。首相経験者は生涯にわたって警護されるはずだから、彼女が一人でスーパーに行くなど尋常ではない。
 にもかかわらずサッチャーは一人きりで買い物を済ませると、夫と食卓を囲みながらミルクの価格について会話する。
 これら一連のシークエンスで、マーガレット・サッチャーにただならぬことが起きているのが観客にも判る。

 『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』は、英国首相として20世紀最長の在任記録を持つマーガレット・サッチャーの生涯をたどった映画である。
 映画の作り手にとって、彼女の人生への切り口はたくさんあったはずだ。上流階級の者たちの中で食料品店の娘が這いあがっていく苦闘。女性初の保守党党首、女性初の英国首相としての栄光。魅力的な物語はいくらでも作れる。
 しかし映画の中心になるのは、認知症に悩まされ、警護されてるはずなのにまるで監禁されているかのような老婦人の姿であった。

 映画人は皮肉屋だ。
 強大な権力を掴みながら孤独な老後を送った人物の評伝といえば、先ごろ『J・エドガー』が公開されたばかりだ。やはり実在の、しかも存命中の人物を扱った映画としては、『ソーシャル・ネットワーク』も記憶に新しい。
 いずれの作品も、構造は同じだ。
 主人公は権力、財力を手に入れて、はた目には成功者に見えるものの、実は孤独を抱えている。それは権力でも財力でも満たせない。人生において本当に大切なものは、もっと別のものなのだ。
 ――どの映画も、そんな描き方をする。映画人は、権力者や資産家の人生に皮肉を利かせることで、観客の大多数を占める一般庶民が納得できるように主人公の人物像を引きずり下ろしたつもりでいる。

 実際、制作総指揮のキャメロン・マクラッケンは、本作が権力と、権力のために支払う代価に関する映画だと述べている。公私のバランスを取らねばならなかったすべての人に通じる物語であると。
 また、公式サイトによれば、脚本家アビ・モーガンが本作を執筆したきっかけは、マーガレットの娘が母の認知症を認めたことだったという。
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あれほど強靭な女性も、自分たちと同じように普通の人間で、年を取り弱くなっていく。その事実に衝撃を覚えたモーガンは、舞台を現代に置くことで、権力者が権力を失うこと、年を取ること、そして喪失について語ってみたいと考えた。「私は、王となった人間が権力を失うのはどういうことなのかを追求してみたいと思いました。自分で朝食の支度をしなければならなくなった、かつての王様の姿。」
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 なるほど、本作を観れば、キャメロン・マクラッケンやアビ・モーガンの狙いが充分に反映されていることが判る。映画は幻覚に悩まされる老人を追い続け、そこにときどき過去のシーンが挿入される。過去の上り調子の頃と現在の姿を対比させようとする意図は明らかだ。


 しかし、マーガレット・サッチャーについて描かれるべきは、そこなのだろうか。
 現在の彼女は認知症に悩まされている。それはそうだろうが、認知症は誰にでも訪れる可能性がある。首相か否かに関係ない。はたして現代のシーンにおける老人の姿は、女性初の英国首相ならではの描写といえるだろうか。
 マーガレット・サッチャーの功績には賛否さまざまな意見があろうが、彼女が20世紀後半に世界有数の指導者であったことは間違いない。だからこそ、映画の題材たり得るのだ。にもかかわらず、皮肉な映画人は、抜きん出た能力や信念や情熱を持った人を、矮小化してはいないだろうか。
 真にドラマチックな部分は、実は引きずり下ろすことのできない、一般庶民には納得しがたいところにあるのではないだろうか。

 そうなのだ。私たちは、どこにでもいそうな今の哀れな老人よりも、誰とも違うキャリアを歩んだ女性がいかに誕生したのかを知りたいのだ。マーガレット・サッチャーの鉄の意志はどこから来るのか、いかようにしてこの激しい気性の人物が誕生したのかを知りたいのだ。

 劇中、サッチャーは「英国の衰退を食い止める」と宣言し、周囲の反対を押し切って数々の施策を実行する。こんなことをしたら次の選挙で勝てない、と心配する者たちを尻目に、数世代後の人々が評価してくれると云い放つサッチャー。
 今、衰退しつつある国に住んでいる私たちは、そんな人物の来歴をこそ見たいと思う。


 しかし、そう感じるのは私が英国人ではないからだろう。
 マーガレット・サッチャーは、12年近くも首相であり続けた。そのあいだ英国では彼女の生い立ちが繰り返し語られただろうし、サッチャー政権時代の記憶もみながまだ共有している。観客の中には、施策に反対するデモに参加した者もいるだろう。その権力者ぶりはアビ・モーガンが「王様」と呼ぶほどだった。
 英国人にとっては、このイギリス映画で語られるサッチャーの老後こそが目新しく、興味を引く部分なのだ。
 「母のように皿を洗う毎日はイヤ!」と叫んで首相にまで上り詰めた女性が、老いた後、ティーカップを洗うときに見せる穏やかな表情。そこに、長年マーガレット・サッチャーという「王様」を戴いていた英国民なら感慨を覚えるはずだ。

 それが、鉄の女と呼ばれたマーガレット・サッチャーの描き方として相応しいかどうかはともかく。

 「左翼のファンタジー」
 本作に対して、マーガレット・サッチャーの子供マークとキャロルはそう感じたという。
 サッチャーの縁者には、この映画が彼女とは立場を異にする者たちの夢物語に見えたのだ。映画では、サッチャーが子供たちをないがしろにして政治に邁進する様子が描かれるが、当の子供たちがこの映画は違うと云っている。
 本当の鉄の女は、映画人が2時間枠で描けるような、一般の観客が判ったつもりになれるような、そんな人間ではないのかもしれない。


 それでも、本作における主人公の存在感は圧倒的だ。
 第84回アカデミー賞の主演女優賞とメイクアップ賞の受賞は、誰にも異を唱えられないだろう。


マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙 コレクターズ・エディション [Blu-ray]マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』  [ま行]
監督/フィリダ・ロイド
出演/メリル・ストリープ アレクサンドラ・ローチ ジム・ブロードベント ハリー・ロイド オリヴィア・コールマン ロジャー・アラム スーザン・ブラウン ニック・ダニング ニコラス・ファレル イアン・グレン リチャード・E・グラント
日本公開/2012年3月16日
ジャンル/[ドラマ] [伝記]
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『中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史』 ジャパニメーションの起源は中国なの?

 (この連載のはじめから読む)

 最後にジャパニメーションの出自について検討しておきたい。
 與那覇潤氏はその著書『中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史』において、ジャパニメーションは中国起源の文化だと述べている。これには誰もが驚くだろう。
 該当箇所は『第7章 近世の衝突――中国に負けた帝国日本』の末尾(209~210ページ)の短い記述なので、下に引用しよう。

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 この章の最後に「あの戦争」が日本社会にもたらした中国起源の文化を紹介しましょう。それこそが、いわゆるジャパニメーションです。
 日本軍支配下の中国上海で製作された、『西遊記』に材をとったアジア初の長編アニメ映画『鉄扇公主』(万籟鳴・万古蟾兄弟監督、1941)――見る人が見れば抗日映画だが、しかし日本の官憲に対して言い逃れができなくもない作りになっていました――は、翌年日本でも輸入公開されて大ヒット。その刺戟によって日本初の長編アニメ『桃太郎の海鷲』(瀬尾光世監督、1943)の製作が決まります(佐野明子「漫画映画の時代」)。この「戦時下で生まれた」という出自を持つがゆえに、手塚治虫から宮崎駿に至るまで、日本のアニメが子供文化でありながら人の生死や戦争の当否といった重い主題を扱う独自の個性を有している点は、大塚英志氏らの評論によって知られるとおりです(『「ジャパニメーション」はなぜ敗れるか』)。
 かくて、『風の谷のナウシカ』が「あの戦争」をモデルとしていることの意味が、十全に理解できるでしょう。それは、日本のアニメが自らの起源に対して行った自己言及なのです。
---

 どうだろう、十全に理解できただろうか。
 残念ながら私の読解力では、この文章の意味が判らなかった。
 整理のために、著者の主張を箇条書きにしてみよう。

(1) 日本軍支配下の中国上海で製作された、アジア初の長編アニメ映画『鉄扇公主(てっせんこうしゅ)』(1941)は、翌年日本でも輸入公開されて大ヒットした。

(2) その刺戟によって日本初の長編アニメ『桃太郎の海鷲』(1943)の製作が決まった。

(3) ジャパニメーションは「戦時下で生まれた」という出自を持つ。

(4) ゆえに、日本のアニメは子供文化でありながら人の生死や戦争の当否といった重い主題を扱う独自の個性を有している。

(5) 『風の谷のナウシカ』が「あの戦争」をモデルとしているのは、日本のアニメが自らの起源に対して行った自己言及である。

 そして著者は、(1)、(2)の根拠として佐野明子著「漫画映画の時代」を挙げ、(3)、(4)の根拠として大塚英志・大澤信亮共著『「ジャパニメーション」はなぜ敗れるか』を挙げている。(1)~(4)は著者なりの要約であり、詳細はこれらの参考文献に書かれているというわけだ。
 しかし、先に結論から云ってしまうと、これらの文献にはジャパニメーションが中国起源であるとは書かれていない。それは著者なりの意見なのだ。


■中国製アニメの衝撃

 参考文献に当たりながら、詳しく見ていこう。
 佐野明子氏の「漫画映画の時代」(加藤幹郎編『映画学的想像力――シネマ・スタディーズの冒険』収録)は、戦前、戦中における日本のアニメーションの変遷を、外国アニメからの影響と時局を念頭に考察したものだ。
 佐野明子氏は「漫画映画の時代」の冒頭で、この論考で取り上げる問題は次の3点だと述べている(紹介するに当たって、便宜上箇条書きにさせていただく)。

(a) 一九三〇年代に世界のアニメーション市場を席巻したミッキー・マウスなどのアメリカ製アニメーション映画は、日本でどのように受容、規範化され、日本製アニメーション映画にいかなる変容をせまったのかという問題

(b) 三〇年代は中国大陸における戦況が拡大してナショナリズムが昂揚し、アニメーションにすら「日本的なるもの」が要求された時期であるが、アメリカ志向と日本志向のはざまで、日本のアニメーションはいかなる方向に向かったのかという問題

(c) 一九四一年一二月の日米開戦以後、「アメリカ」に代わってあらわれた「支那」という第三項が「日本」にいかなる指針をあたえたのかという問題

 (c)で触れている「アメリカに代わって現れた支那」こそ、アメリカ製の漫画映画(アニメ)が輸入できない時期に上映された、アジア初の長編アニメ映画『鉄扇公主』である。
 日本でも1910年代からアニメーションは作られていたが、それらは映画的な演出の見られない短編だった。こんにちの作品に例えれば、NHKの「みんなのうた」で流れるようなアニメーションを思い浮かべれば良いかもしれない。戦時下のアニメーション制作者たちはディズニーの模倣に汲々とするばかりで、映画としてのストーリーや興奮を堪能できるものではなかったようだ。
 そこに現れたのが『鉄扇公主』である。10分前後の短編しか見ていなかった日本の観客にとって、73分という上映時間は大長編だ。しかも孫悟空が牛魔王・羅刹女と戦う物語がちゃんとある上に、ディズニーの模倣ではない中国らしい美術やキャラクター造形が施されている。この作品が日本のアニメーション制作者に与えた衝撃は大きかっただろう。
 ウィキペディアによれば、万籟鳴(ウォン・ライミン)・万古蟾(ウォン・グチャン)兄弟監督はディズニーの『白雪姫』(1937年)を目標としたそうだが、『白雪姫』は外国映画の輸入規制のために日本では公開されていなかったから、日本の観客にとっては『鉄扇公主』こそがはじめて堪能する長編アニメだったのである。

 そして日本でも1942年に37分の(当時としては)長編『桃太郎の海鷲』が作られ、1943年3月25日に公開される。さらに1944年には3本の中長編が制作されている。
 これらを受けて、「漫画映画の時代」では次のように結論づけている。

(d) アメリカのトーキー漫画の登場は、漫画映画というジャンルを一躍表舞台に立たせると同時に「標準規格」となり、日本の漫画映画の方向性を収斂させていった。

(e) しかし戦局の拡大とともにナショナリズムが高揚すると、「日本志向」と「アメリカ志向」のはざまで日本の漫画映画は揺れ動く。その混迷ぶりは、大藤信郎の作風の変化、すなわち千代紙映画から漫画映画、さらに影絵映画へいたる二度の転向に端的にしめされていよう。

(f) そこへ「支那」の『鉄扇公主』が第三のオルタナティブとして歓迎をうけ、さらに漫画映画が国策映画の「客寄せ」としての社会的機能をはたす契機にもなる。漫画映画なるジャンルが日本の興行界や国策映画の観客動員に寄与した事実は、それがただ懐古的に眺められるべき存在ではなく、より積極的な歴史的意義を有することをはっきりとしめしているのである。

 こうしてみると、與那覇氏が述べる(1)から(2)への流れ、すなわち『鉄扇公主』が日本でも大ヒットし、その刺戟によって『桃太郎の海鷲』の製作が決まったことは、明らかなように見える。

 しかし、よくよく考えると、これにはいささか疑問がある。
 『鉄扇公主』の日本公開は1942年9月10日だ。『桃太郎の海鷲』は公開こそ1943年だが、1942年には完成している。
『桃太郎の海鷲』は、海軍省が戦意高揚を目的に制作を命じたものなのだが、海軍省は『鉄扇公主』の日本公開の反響を見てから命じたのだろうか。

 アニメの量産体制が整っている現在でも、企画もないまっさらな中から一つの作品を完成させるのはたいへんだ。ましてや30分以上の作品なんて前代未聞だった日本の映画会社が、そんな短期間にはじめての長編アニメを完成させられるものだろうか。なにしろ『桃太郎の海鷲』の演出・撮影を担当した瀬尾光世氏にしても、前年に制作したアニメ『アリチャン』はたったの11分である。いきなり37分の作品を完成させるのは相当な苦労が伴ったはずだ。
 私には、『鉄扇公主』が日本でヒットしてから『桃太郎の海鷲』の製作が決まったとは思えない。もしも海軍省が国策アニメの制作を命じた日付をご存知の方がいらっしゃったら、ご教示たまわりたいと思う。


 さて、(1)から(2)への流れに疑問があるとなると、佐野明子氏の論考が誤っているのだろうか。
 いや、そうではない。『鉄扇公主』が日本の漫画映画(アニメ)に及ぼした影響として佐野明子氏が挙げているのは、単に長編か否かといったことだけではない。漫画映画を封切館で上映する興行形態そのものが斬新だったのだ。
 当時の映画には、劇映画、文化映画、ニュース映画があり、上映館も封切館やニュース映画館に分かれていた。漫画映画は主にニュース映画館で上映されており、封切館で漫画映画中心の興行はほとんど行われていなかった。ところが、封切館における『鉄扇公主』と文化映画『空の神兵』の二本立てが大ヒットしたことから、その後は漫画映画を封切館で公開することが増えていく。
 1943年には『桃太郎の海鷲』と文化映画『戦う護送船団』が封切館で同時上映されているし、短編アニメ4本と短編映画2本の同時上映も行われている。1944年には『フクチャンの潜水艦』が、1945年には『桃太郎・海の神兵』が封切館で公開された。
 アニメーション作家諸氏には、米国でなくとも高度なアニメを作れることを示した点で『鉄扇公主』の衝撃は大きかっただろうが、映画関係者にとってはアニメが封切館の興行として成り立つことを示した点に大きな意味があったのだ。

 これが、中国製アニメが日本にもたらした影響である。漫画映画はニュース映画館で上映するのが当たり前になっていた興行形態を、『鉄扇公主』が吹き飛ばしたのだ。
 したがって、佐野明子氏は、『鉄扇公主』が大ヒットしたから『桃太郎の海鷲』の製作が決まったと云っているわけではないのだ。
 それなのに與那覇潤氏が著書の中で「その刺戟によって日本初の長編アニメ『桃太郎の海鷲』(瀬尾光世監督、1943)の製作が決まります」と表現してしまったのは、言葉の選び方が適切とはいえないだろう。


 また、『鉄扇公主』の影響が大きいのは判るにしても、この作品がなければ日本でアニメが盛んにはならなかったのかと疑問を抱く方もいるだろう。
 歴史でifをこねくり回しても仕方がないので、それはなんとも云えないが、ひとつポイントになるのは『白雪姫』だ。
 万兄弟は『白雪姫』を観たことで、これに負けないアニメーション作品を作ろうとして『鉄扇公主』を生み出した。日本での『白雪姫』の公開は1950年を待つことになるが、たとえ『鉄扇公主』の衝撃がなくても、戦後この長編アニメを目にすれば、日本のクリエーターは奮起したのではないだろうか。
 私はそんな風に想像する。


■ジャパニメーションは戦時下の生まれ?

 続いて、(3)、(4)について検討しよう。
 こちらは大塚英志・大澤信亮共著の『「ジャパニメーション」はなぜ敗れるか』が参考文献として挙げられている。
 しかしこの文献においても、ジャパニメーションが中国起源とは書かれていないのはもとより、ジャパニメーションが「戦時下で生まれた」とも書かれていない。

 『「ジャパニメーション」はなぜ敗れるか』は二部構成で、第一部がマンガとアニメの歴史の俯瞰、第二部が国策としてのジャパニメーションに関する考察になっている。特に第一部はアニメよりもマンガの変遷について論じられており、アニメについてはディズニー作品をはじめとする米国アニメが日本のマンガに及ぼした影響を検討する中で触れることが多い。この論考は、ジャパニメーションの誕生の歴史を紐解いているわけではないのだ。
 もちろん、マンガとアニメの関係は濃密だし、マンガの変遷はアニメの変遷にも影響するから、マンガについて論じたことをアニメにも敷衍して考える必要はあるだろう。だから、戦時下においてマンガに生じた変容を、アニメに通じるものとして取り扱うことに異議はない。
 とはいえ、そこからジャパニメーションが「戦時下で生まれた」と云えるかどうか……。

 ここでは、大塚英志氏、大澤信亮氏が『「ジャパニメーション」はなぜ敗れるか』において戦争に関連して述べていることを簡単に紹介しておこう。
 両氏によれば、日本のマンガには戦時下を起源とする次のような要素がある。
 ・科学的なリアリズム
 ・記号的な身体性
 ・戦局を見る視点
 ・映画的な演出理論、いわゆる「映像的手法」

 これらは、1930年代に思想統制が厳しくなる中でマンガが身に付けた(身に付けさせられた)要素である。初期のディズニー作品のように面白おかしい空想ばなしだったはずのマンガが、リアルな兵器や機械を描かなくてはならなくなり、作画上は透視図法に基づく緻密な描き方が広まり、内容面では個人の背後に大きな戦局があることがうかがわれるようになる。戦時下だからこそ求められたマンガの変容は、確実に現在のマンガ・アニメにも受け継がれている。
 日本のマンガ・アニメはディズニーから大きな影響を受けたはずなのに、今では丸っこいメカにつぶらな瞳がついたりはしないし、キャラクターが崖から落ちたらペチャンコになったりせずに死んでしまう。
 このようなマンガ・アニメの変容は、戦時下の思想統制によるものもあるし、マンガ家やその卵たちが実際に戦争を経験することで直面してしまった現実の問題によるものもある。大阪上空を飛ぶ爆撃機を見上げ、爆弾が炸裂する中で生き残った手塚治虫には、銃で撃たれてもヘラヘラしてるキャラクターなんて描けなかったのだろう。

 戦争が日本のマンガとクリエーターたちに及ぼした影響については、『「ジャパニメーション」はなぜ敗れるか』で詳述されており、今のマンガやアニメに見られる表現が戦時下に端を発していることはよく判る。
 しかし、マンガ・アニメ自体は戦争前から存在していたのも確かなのだ。
 したがって、(3)のようにジャパニメーションそのものが「戦時下で生まれた」かのように書くのは、いささかやり過ぎのように思う。「起源」とか「生まれた」という表現は、それ以前には存在しないことが前提となるからだ。


 もしかしたら、與那覇潤氏がこのような刺激的な云い回しをした理由のひとつには、大塚英志・大澤信亮両氏への共感があるのかもしれない。
 『「ジャパニメーション」はなぜ敗れるか』の「あとがき」には、執筆の目的が次のように書かれている。
---
 本書はまんが/アニメーションにとっては決してプラスになるとは思えない「ジャパニメーション」をめぐる「国策」化の動きが、いかに無効であり根拠を欠くものかを第一部ではまんが/アニメ史の視点から、第二部では実際に「国策」として示されたものを検証することで徹底して批判するものである。
---

 この本は、日本のマンガ・アニメを文化ナショナリズムと結びつけようとする者たちへの牽制球なのだ。
 この本を読むと、どうやらこの国には日本のマンガ・アニメが世界で称賛されることを、日本の国威発揚のように捉える者がいるらしい。「ジャパニメーション」という呼び名そのものが西洋から見た日本文化を象徴しており、西洋ありきの発想なのだが、それをなにか特別なアニメーションであるかのように考える人が、少なくともこの本が出版された2005年当時はいたらしいのだ。
 あいにく私は国内外にかかわらずマンガ・アニメが好きであり、どこか1国(たとえそれが日本でも)の作品だけを贔屓にすることはないので、そういう人がいることはこの本ではじめて知った。

 とにかく、『「ジャパニメーション」はなぜ敗れるか』は、マンガ・アニメを文化ナショナリズムと結びつけようとする者たちが考えたこともないであろうマンガ・アニメの歴史を説明し、日本のマンガ・アニメがどこから来て、今どこに立っているのかを明らかにした本なのだ。
 それは、與那覇潤氏が『中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史』で見せたスタンスによく似ている。
 與那覇氏は、本書であえて刺激的な表現を多用し、左右どちらの読者にも冷水を浴びせまくっている。そんな冷水が必要なほど、偏った考えに凝り固まった人が多いと、與那覇氏は感じているのだろう。氏が、随所で参考文献を紹介し、読者に一層の考察を促すのも、同じ理由からだろう。
 その手に乗せられて、私なんぞは佐野明子氏や大塚英志氏らの著作を読む破目になったわけだ。


 ただ、『「ジャパニメーション」はなぜ敗れるか』にはいくつか残念な点がある。
 マンガ・アニメ史を語った第一部は、前述したようにマンガの歴史が中心であり、アニメの歴史はあまり整理されていない。
 與那覇潤氏はこの本を受けて、(4)のように「ゆえに、日本のアニメは子供文化でありながら人の生死や戦争の当否といった重い主題を扱う独自の個性を有している。」と述べているのだが、アニメでは具体的にいつ、どのような契機で独自の個性を有するようになったのかが判然としない。


 もうひとつ『「ジャパニメーション」はなぜ敗れるか』の残念なところは、外国マンガへの言及が少ないことだ。日本のマンガの変遷はたいへんよく判るものの、では諸外国で同じような動きがあったのか、それとも違う状況だったのかが判らない。
 もちろん、この本の目的とするところは日本のマンガ・アニメについて語ることだから、外国マンガへの言及が少なくてもまったく構わない。しかし、與那覇潤氏が「日本のアニメの独自の個性」と云うからには、それは他国では見られないことが前提となるはずだ。だが、それをこの本から読み取るのは困難だ。

 たとえば、大塚・大澤両氏は、1942年(昭和17年)のディズニーアニメ『戦争を止めろ』に登場する戦車がデフォルメされ、キャラクター化されていることに着目し、兵器のリアリズム化がディズニーの中では起きていないと述べている。一方、1937年(昭和12年)の新関青花のマンガ『愛国漫画決死隊』でのリアルな空中戦を指して、日本のマンガの方がはるかに進化していたと語っている(69ページ)。
 だが、メカの描き方について対比する相手として、ディズニーを持ち出すのが適切とは思えない。米国ではすでに1934年にアレックス・レイモンドが『フラッシュ・ゴードン』の連載をはじめている。後に従軍画家としても活躍するアレックス・レイモンドは、きわめてリアルなタッチで人物やメカを描写した。リアリズムはたまたまディズニー作品にはなかったのだ。
 こんなことを云わなくても、外国のマンガ・アニメがお好きな人なら「人の生死や戦争の当否といった重い主題」が外国の作品でも見られることは、とうにご存知だろう。そういう重い主題を受け入れる素地がなければ、アレハンドロ・ホドロフスキーマイケル・ムアコックのような個性的な人物がマンガ原作者としてやっていくことはできないだろうから。


 以上のように佐野明子氏や大塚英志氏・大澤信亮氏の著作を読んでいくと、次の結論が得られよう。

 ・中国製アニメの成功が、興行形態も含めて日本のアニメに大きな影響を及ぼした。
 ・現在の日本のマンガ、アニメには、日中戦争下を起源とする要素が濃厚にある。

 これを與那覇潤氏なりに表現すると、「中国起源の文化」という云い方になるのだろう。
 どこが起源だろうと、マンガ好き・アニメ好きの人にとってはどうでもいいことだが、アニメ好きでもなんでもない人が『中国化する日本』の記述を表面的に受け取って、新橋の飲み屋なんぞで「ジャパニメーションの起源はな……」なんて吹聴しないかと心配である。


 加えて、(5)の「『風の谷のナウシカ』が「あの戦争」をモデルとしている」という意見が乱暴であることは、先の記事で述べたとおりだ。


■子供文化という視点

 ところで、與那覇潤氏は、佐野明子氏や大塚英志氏・大澤信亮氏があまり触れていない重要な視点を提示している。
 (4)に挙げた「子供文化」という視点が、実は佐野明子氏も大塚英志氏・大澤信亮氏も希薄なのだ。
 それはもちろん、それぞれの論考を著した目的が、子供文化を述べることではないからだ。佐野明子氏は映画のひとつとしての漫画映画の変容を語っており、大塚英志氏・大澤信亮氏はマンガが形成された過程に目を向けている。いずれも「子供文化」を考察するものではない。

 しかし、(4)の「子供文化でありながら人の生死や戦争の当否といった重い主題を扱う」ことは、マンガ・アニメに限ったものではなく、本来子供文化全般の流れの中で論じられてしかるべきだ。それが『「ジャパニメーション」はなぜ敗れるか』を読んで残念に感じた最後の点だ。
 現代の子供たちが、マンガもアニメも特撮もゲームも分け隔てなく楽しむように、戦前・戦中の子供たちだって、マンガだけ、アニメだけに集中していたわけではない。作り手たる大人たちはそれぞれの領域の中でものを考えるが、子供は楽しければ媒体を問わないのだ。
 だから、マンガやアニメの変遷を語るのであれば、本当は同時期の実写映画や小説等についても語って欲しいところである。

 とりわけ、当時の子供文化の柱のひとつとして小説があったことは見逃せない。
 少年雑誌は19世紀から存在し、1914年(大正3年)には現在の週刊少年マガジンの源流ともいえる少年倶楽部が創刊された。
 そこで娯楽の中心になったのは小説である。お伽話や童話も掲載されていたようだが、人気を博したのは熱血痛快小説だ。「少年小説」という言葉は今では死語となっているが、かつて子供たちは血沸き肉躍る少年小説に夢中になった。映画『ALWAYS 三丁目の夕日』で茶川先生が書いているアレだ。
 しかし、絵物語や紙芝居が姿を消したように、少年小説も子供文化の主流ではなくなってしまう。後年のジュブナイルやライトノベルなどがその末裔と云えるだろう。

 少年小説には、吉川英治のような大人向け小説の書き手も参入したし、高垣眸のように少年小説一筋の書き手も存在した。大佛次郎の鞍馬天狗シリーズといえば、天狗を慕う杉作少年を思い浮かべる人も多いだろうが、杉作少年と天狗の出会いが描かれたのも少年倶楽部に連載した『角兵衛獅子』(1927年)である。
 ジャンルも多岐にわたっている。時代小説もあれば、日露戦争に材をとった実録小説『敵中横断三百里』(1930年)もあり、海野十三はSFを、江戸川乱歩は『怪人二十面相』(1936年)にはじまる少年探偵団シリーズを執筆した。
 『敵中横断三百里』は子供向けの小説でありながら大人気を博し、1957年には森一生監督、黒澤明・小国英雄の脚本で*大人向け*映画になっている。この映画は、『虎の尾を踏む男達』(1945年)、『隠し砦の三悪人』(1958年)と並ぶ黒澤明の逃避行物として注目されていい作品である。

 このように子供たちが剣客や軍人の活躍する物語に熱狂していたのだから、マンガやアニメがいつまでもディズニーのようなホンワカしたものばかりを続けていられないのは必至ではないだろうか。
 そこを考察してこそ、「子供文化でありながら」と云えるように思うのである。

■参考文献
 佐野明子「漫画映画の時代」(加藤幹郎編『映画学的想像力――シネマ・スタディーズの冒険』収録)人文書院、2006
 大塚英志・大澤信亮『「ジャパニメーション」はなぜ敗れるか』角川書店、2005


中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史』 [書籍]
著者/與那覇潤
日本初版/2011年11月20日
ジャンル/[歴史]
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