『ワイルド・スピード MEGA MAX』 中国化する世界
![ワイルド・スピード MEGA MAX [DVD]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/51pTzUBvjFL._SL160_.jpg)
なるほど、ワイルド・スピードシリーズを三作目以降監督し続けているジャスティン・リン(本名:林詣彬)は、米国のカリフォルニア州育ちでUCLAの卒業生ではあるものの、生まれは台湾の台北市だ。
映画『ワイルド・スピード MEGA MAX』を、プロテスタントの建国した米国の物語ではなく、中国の話として見れば、納得できるところがたくさんある。
私は先の記事「『戦火の馬』 アメリカは壊れているか?」の中で、本作について次のように書いた。
---
これは窃盗団が警察や街の有力者を出し抜いて大金をせしめる話だ。そんな映画はこれまでにもたくさんあるが、私が気になったのは、窃盗団の面々に罪を犯す意識がないことだ。それどころか、この映画で悪者扱いされるのは警察の方である。
過去、ギャングの抗争や窃盗団を描いた映画では、警察はギャングや窃盗団を取り締まる側だった。頼りになるかどうかは別にして、さすがに警察はギャングや窃盗団とは一線を画していた。
ところが本作では、警察といえども対抗勢力の一つでしかない。
窃盗団のメンバーには、元FBIの捜査官もいる。FBIに属するのも窃盗団に入るのも、所属するグループの選択でしかないのだ。彼らが信じているのは、ファミリーと呼ぶ仲間同士の絆だけ。彼らは腐敗した警察をとっちめるが、義賊でもなんでもなく、ただ自分たちの暮らしのために大金を得たいだけなのである。
---
與那覇潤著『中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史』によれば、1000年以上前の中国では宋朝が誕生したことにより世界で最初に(皇帝以外の)身分制や世襲制が撤廃され、移動の自由、営業の自由、職業選択の自由が広く世間に行きわたったという。それ以来、多少の振り幅はあっても、1000年以上ほぼ一貫して経済活動の自由と機会の平等が確立された社会だった。
日本が19世紀の半ばまで身分制と世襲制に縛られて、移動の自由も営業の自由も職業選択の自由もなかったのとは大違いである。いや、日本ではこんにちでも首相の子や孫が首相になることが多く、永田町は世襲制の実例でいっぱいだ。
また、営業の自由、職業選択の自由を考えるとき、キリスト教やイスラム教では金融を禁止しており、『ヴェニスの商人』の金貸しとして登場するユダヤ人とてユダヤ教徒の間での利子を伴う金銭の貸借は禁止されていることを思い出す。キリスト教もイスラム教もユダヤ教も、その教義を変えたりしていないから、営業の自由や職業選択の自由が確立された社会というのは、実はとても珍しいものなのだ。
私は、『ワイルド・スピード MEGA MAX』の登場人物が倫理や規律を重視しておらず、この映画のどこにも「正義」がないと感じたが、考えてみれば厳しい教義に従うべきキリスト教徒やイスラム教徒であればこそ自分の行いが正しいかを自問する必要もあろうが、1000年以上も自由に振る舞ってきた中国人にとって、金を儲けるのに何をためらうことがあるだろうか。
もちろん、窃盗団はよろしくないが、それはさしずめ規制による保護がない実力本位の競争社会のメタファーといえるだろう。
ドキュメンタリー映画『インサイド・ジョブ 世界不況の知られざる真実』(2010年)では、米国で各種規制を取り払ってきた歴史が語られるが、西洋社会も1000年遅れでようやく中国に近づいてきたのかもしれない。
本作が、結局最後に金儲けで締めくくられるのも、これが商売の話だからだ。
そして、『ワイルド・スピード MEGA MAX』において、ファミリーの絆を重視するのも中国らしい。
激烈な自由競争の世界である中国では、セーフティーネットとして宗族(そうぞく)と呼ばれる父系血縁のネットワークが存在する。前掲書によれば、中国人は父方の先祖が共通であれば、どこに暮らして何の職業について誰と結婚していようとも、同族と見なしてお互い助けあうという。
そういえば、『1911』では孫文が外国在住の中国人を集めて支援を乞う場面があった。たとえ中国に住んでいなくても彼らは血縁ネットワークの一員だから、孫文の呼びかけに応えるのだ。地域のコミュニティを重視する日本人が、米国に住めばあくまで米国の一員として対日戦に志願したこととの違いを感じる。
『ワイルド・スピード MEGA MAX』には、ある人物がファミリーを裏切ったと糾弾されるエピソードがあるが、ファミリーの「父」である主人公は、彼がファミリーに復帰するのをあっさり許す。それは彼がネットワークの一員だからだろう。
日本だったら、ムラに迷惑をかけた者を村八分にしてしまうことでムラの秩序を守るところだ。日本の観客にとっては、主人公があっさり許すのがしっくり来ないのではないだろうか。
與那覇潤氏はその著書の中で幾つかの事例を挙げながら、「いよいよ世界も中国に追いついたなぁ」と述懐している。
たしかに、中国らしさに満ち満ちた『ワイルド・スピード MEGA MAX』が、米国内では2億ドル以上を稼ぎ、全世界ではなんと6億ドル以上を稼ぐ大ヒットとなったのだから、世界は中国化しているのかもしれない。
その一方で、本作の日本での興行収入は14.4億円にとどまっている。2011年の洋画と邦画の中で、その成績は37位でしかない。14.4億円が悪い数字だとは云わないが、世界各国での大ヒットぶりを考えると、落差を感じないではいられない。
これはやっぱり、日本人のグローバル・スタンダードへの適応不全なのだろうか。
[*]中国系と表現したが、もちろんここでの「中国」は中華人民共和国の略称ではない。
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監督/ジャスティン・リン
出演/ヴィン・ディーゼル ポール・ウォーカー ジョーダナ・ブリュースター エヴァ・メンデス ドウェイン・ジョンソン タイリース・ギブソン クリス・“リュダクリス”・ブリッジス ガル・ギャドット マット・シュルツ サン・カン
日本公開/2011年10月1日
ジャンル/[アクション]


tag : ジャスティン・リンヴィン・ディーゼルポール・ウォーカージョーダナ・ブリュースターエヴァ・メンデスドウェイン・ジョンソンタイリース・ギブソンクリス・“リュダクリス”・ブリッジスガル・ギャドットマット・シュルツ
『戦火の馬』 アメリカは壊れているか?
アメリカはずいぶん変わった。
2011年公開の『ワイルド・スピード MEGA MAX』を観て、私はそう感じた。
私の好きなアメリカ映画は、たとえば『大いなる西部』(1958年)や『大脱走』(1963年)である。
それらの主人公は、保安官もいなければ自国のガバナンスも及ばない土地にあって、誇り高く、みずからの倫理感を支えに困難に立ち向かった。
敵対する人々も、決してならず者ではない。『大いなる西部』の粗野なヘネシー家にも、『大脱走』のドイツ軍にも、敵ながら天晴れな人物がいた。彼らは互いに相手を憎むのではなく、軽蔑するのでもなく、立場の違いはあるものの、尊敬の念を抱いていた。
どんな人間にも、その人の歴史があり背景がある。守るべき信念や誇りがある。そういったものが感じられる映画だった。
しかしアメリカは、そんな映画を作り続けることができなかった。
外にあってはベトナム戦争があり、内にあっては公民権運動があり、しょせんアメリカ映画が描いてきたのは白人同士、キリスト教徒同士の物語でしかなく、人種も宗教も異なる人々との連携までは視野に入っていないことが露呈してしまった。
そしてアメリカ映画も変化した。有色人種の出番を増やし、ネイティブ・アメリカンとの交流を描きもした。1970年には日米開戦を題材とした『トラ・トラ・トラ!』が公開され、かつての交戦国である日本側についても冷静で公平な描き方をした。
21世紀におけるこの流れの最高峰はSF映画『アバター』(2009年)だろう。主人公が接触する異星人は、地球上のすべての種族・民族の化身(アバター)であり、彼らとの交流を描くことは、全民族の相互理解を願うものに他ならない。
その一方で、自分たちが直面している相手は理解や交流なんて考えられない敵であり、自陣営で結束し、あくまで戦うしかないと主張する作品もある。
特に2001年9月11日に突如として多くの人が犠牲になった事件と、後に続くイラク戦争の影響だろうか、近年、異種族・異民族との対立を強調する作品が目についた。
もちろん、実在の国家や民族を名指しすることはできないから、これまたSF映画に象徴させている。
2011年に『トランスフォーマー/ダークサイド・ムーン』、『世界侵略:ロサンゼルス決戦』、『スカイライン-征服-』と侵略SFが立て続けに公開されたのは、さすがに食傷気味だった。
1997年の『スターシップ・トゥルーパーズ』の頃は、まだ自陣営を皮肉る余裕もあったけれど、『トランスフォーマー/ダークサイド・ムーン』や『世界侵略:ロサンゼルス決戦』は、自軍が敵陣を粉砕するのを称賛する映画だった。
特に『世界侵略:ロサンゼルス決戦』では、前線の兵士の判断で敵捕虜をいきなり人体実験してしまうのだから、国際法も何もあったものではない。その一方的な描き方には慄然とした。
この二つの流れ、すなわち異民族との交流と対立を両方描いたのが、やはり2011年公開の『カウボーイ&エイリアン』である。
西部開拓時代のエイリアン襲来を題材にしたこの映画は、SFであることを存分に活かした作品だ。
ここでのエイリアンも、獰猛で、とても知的生命体には見えない怪物だ。一方でエイリアンと戦うために、カウボーイとネイティブ・アメリカンが手を組むのは注目である。現実の歴史ではあり得なかった同盟関係を、SF映画に託して描いたのだ。
民族の垣根を越えて協力し合うことの大切さを認めつつ、同時に異民族との対立が解消できないことも取り上げた点で、特筆すべき作品である。
とはいえ、これらはSF映画であり、敵が異星人という設定だからこそ、コミュニケーションできない相手として描けた。
では、SFではない映画では、人間たちの関係はどのように描かれているのだろう。
そんなことを考えていた私は、同じく2011年の『ワイルド・スピード MEGA MAX』を観て驚いた。
これは窃盗団が警察や街の有力者を出し抜いて大金をせしめる話だ。そんな映画はこれまでにもたくさんあるが、私が気になったのは、窃盗団の面々に罪を犯す意識がないことだ。それどころか、この映画で悪者扱いされるのは警察の方である。
過去、ギャングの抗争や窃盗団を描いた映画では、警察はギャングや窃盗団を取り締まる側だった。頼りになるかどうかは別にして、さすがに警察はギャングや窃盗団とは一線を画していた。
ところが本作では、警察といえども対抗勢力の一つでしかない。
窃盗団のメンバーには、元FBIの捜査官もいる。FBIに属するのも窃盗団に入るのも、所属するグループの選択でしかないのだ。彼らが信じているのは、ファミリーと呼ぶ仲間同士の絆だけ。彼らは腐敗した警察をとっちめるが、義賊でもなんでもなく、ただ自分たちの暮らしのために大金を得たいだけなのである。
驚くべきは、この映画のどこにも「正義」がないことだ。法も、国家も関係なく、倫理も規律も何もない。登場人物の誰一人として、何が正しいかを自問しない。ただファミリーの生き残りだけが目的で、ファミリーでない者はすべて敵だ。
ここで描かれているのは、国家成立以前の、民族と呼ぶものすら誕生する前の原始的な小集団なのだ。彼らは、自分たちの食糧の確保のために狩猟採取や他の集団との戦争に明け暮れた原始社会と同じである。
この映画はアメリカで大ヒットし、続編の企画が進んでいるという。
こうして、異種族・異民族とのコミュニケーションを拒否して戦争する映画が量産されると同時に、法や国家の存在すら認めずに自分たちだけの生き残りを目的とする映画が観客に支持されたことに、私はとても驚いた。
これが、『大いなる西部』や『大脱走』で、信念や誇りや、敵対する者にも敬意を払うことを描いていたアメリカの映画なのか?
私は、かつて『大いなる西部』や『大脱走』にあったものが、すっかり壊れてしまったように思って驚いたのだ。
そんな中、スティーヴン・スピルバーグ監督の『戦火の馬』は、クラシックな趣きで懐かしさを感じさせた。
まず観客は、そのライティングに目を見張るだろう。
大地の向こうから歩いてくる男の姿が、空を背負い逆光になって浮かび上がる様は、往年の名画を彷彿とさせる。
室内のシーンでも、窓外から射し込む日の光が強調され、室内の人物の半身が影になり、その輪郭は光り輝く。それはかつてのハリウッド映画で、スターのアップをソフトフォーカスで撮り、柔らかな光に包まれたように見せていたことを思い出させる。
そして登場人物たちは、本当の誇りや勇気を問いながら生きている。
戦争で勲章を得ながらも、しまい込んでちっとも誇ろうとしない父について、母はこう語る。「それを誇りにしないのは、勇気がいることよ。」
また、乱暴狼藉されても抵抗しない老人は、孫娘に語って聞かせる。「目的地を目指す伝書鳩には、悲惨で恐ろしい戦場を見下ろさずに真っ直ぐ前を向く勇気が必要なんだ。」
戦場では、傷ついた軍馬を助けようと、兵士が身の危険も顧みずに銃火の前に歩み出る。その彼に協力しようとやってくるのは敵軍の兵士だ。
本作は、1頭の馬が狂言回しとなり、イギリス軍やドイツ軍、小作人や農園主の人生を垣間見せる。
人間同士ではなかなか云えないこと、できないことが、馬を介するおかげで口にでき、行動に移せるのだ。
そこに馬がいなければ、母が息子に父の心情を代弁することはなかったろう。老人が孫娘に自分の思いを吐露することもなかっただろう。それほど、今の時代には表現しにくいことなのかもしれない。
だが、私が壊れてしまったかと思ったものが、『戦火の馬』にはたしかに存在した。そこにはかつてのアメリカ映画が持っていた、信念や誇りや敬意が込められている。
『プライベート・ライアン』で戦争のむごさを描き出したスピルバーグは、それでも失われないものがあることを本作で思い出させてくれた。
第一次世界大戦下のヨーロッパという、時代も場所も現代アメリカとは異なる設定にしなければ描けないほど、それはもろくはかないのかもしれない。
それを支持するかどうかは、私たち観客次第である。
『戦火の馬』 [さ行]
監督・制作/スティーヴン・スピルバーグ 原作/マイケル・モーパーゴ
脚本/リー・ホール リチャード・カーティス
出演/ジェレミー・アーヴァイン エミリー・ワトソン デヴィッド・シューリス ピーター・ミュラン ニエル・アレストリュプ トム・ヒドルストン パトリック・ケネディ デヴィッド・クロス ベネディクト・カンバーバッチ セリーヌ・バッケンズ
日本公開/2012年3月2日
ジャンル/[ドラマ] [戦争]
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2011年公開の『ワイルド・スピード MEGA MAX』を観て、私はそう感じた。
私の好きなアメリカ映画は、たとえば『大いなる西部』(1958年)や『大脱走』(1963年)である。
それらの主人公は、保安官もいなければ自国のガバナンスも及ばない土地にあって、誇り高く、みずからの倫理感を支えに困難に立ち向かった。
敵対する人々も、決してならず者ではない。『大いなる西部』の粗野なヘネシー家にも、『大脱走』のドイツ軍にも、敵ながら天晴れな人物がいた。彼らは互いに相手を憎むのではなく、軽蔑するのでもなく、立場の違いはあるものの、尊敬の念を抱いていた。
どんな人間にも、その人の歴史があり背景がある。守るべき信念や誇りがある。そういったものが感じられる映画だった。
しかしアメリカは、そんな映画を作り続けることができなかった。
外にあってはベトナム戦争があり、内にあっては公民権運動があり、しょせんアメリカ映画が描いてきたのは白人同士、キリスト教徒同士の物語でしかなく、人種も宗教も異なる人々との連携までは視野に入っていないことが露呈してしまった。
そしてアメリカ映画も変化した。有色人種の出番を増やし、ネイティブ・アメリカンとの交流を描きもした。1970年には日米開戦を題材とした『トラ・トラ・トラ!』が公開され、かつての交戦国である日本側についても冷静で公平な描き方をした。
21世紀におけるこの流れの最高峰はSF映画『アバター』(2009年)だろう。主人公が接触する異星人は、地球上のすべての種族・民族の化身(アバター)であり、彼らとの交流を描くことは、全民族の相互理解を願うものに他ならない。
その一方で、自分たちが直面している相手は理解や交流なんて考えられない敵であり、自陣営で結束し、あくまで戦うしかないと主張する作品もある。
特に2001年9月11日に突如として多くの人が犠牲になった事件と、後に続くイラク戦争の影響だろうか、近年、異種族・異民族との対立を強調する作品が目についた。
もちろん、実在の国家や民族を名指しすることはできないから、これまたSF映画に象徴させている。
2011年に『トランスフォーマー/ダークサイド・ムーン』、『世界侵略:ロサンゼルス決戦』、『スカイライン-征服-』と侵略SFが立て続けに公開されたのは、さすがに食傷気味だった。
1997年の『スターシップ・トゥルーパーズ』の頃は、まだ自陣営を皮肉る余裕もあったけれど、『トランスフォーマー/ダークサイド・ムーン』や『世界侵略:ロサンゼルス決戦』は、自軍が敵陣を粉砕するのを称賛する映画だった。
特に『世界侵略:ロサンゼルス決戦』では、前線の兵士の判断で敵捕虜をいきなり人体実験してしまうのだから、国際法も何もあったものではない。その一方的な描き方には慄然とした。
この二つの流れ、すなわち異民族との交流と対立を両方描いたのが、やはり2011年公開の『カウボーイ&エイリアン』である。
西部開拓時代のエイリアン襲来を題材にしたこの映画は、SFであることを存分に活かした作品だ。
ここでのエイリアンも、獰猛で、とても知的生命体には見えない怪物だ。一方でエイリアンと戦うために、カウボーイとネイティブ・アメリカンが手を組むのは注目である。現実の歴史ではあり得なかった同盟関係を、SF映画に託して描いたのだ。
民族の垣根を越えて協力し合うことの大切さを認めつつ、同時に異民族との対立が解消できないことも取り上げた点で、特筆すべき作品である。
とはいえ、これらはSF映画であり、敵が異星人という設定だからこそ、コミュニケーションできない相手として描けた。
では、SFではない映画では、人間たちの関係はどのように描かれているのだろう。
そんなことを考えていた私は、同じく2011年の『ワイルド・スピード MEGA MAX』を観て驚いた。
これは窃盗団が警察や街の有力者を出し抜いて大金をせしめる話だ。そんな映画はこれまでにもたくさんあるが、私が気になったのは、窃盗団の面々に罪を犯す意識がないことだ。それどころか、この映画で悪者扱いされるのは警察の方である。
過去、ギャングの抗争や窃盗団を描いた映画では、警察はギャングや窃盗団を取り締まる側だった。頼りになるかどうかは別にして、さすがに警察はギャングや窃盗団とは一線を画していた。
ところが本作では、警察といえども対抗勢力の一つでしかない。
窃盗団のメンバーには、元FBIの捜査官もいる。FBIに属するのも窃盗団に入るのも、所属するグループの選択でしかないのだ。彼らが信じているのは、ファミリーと呼ぶ仲間同士の絆だけ。彼らは腐敗した警察をとっちめるが、義賊でもなんでもなく、ただ自分たちの暮らしのために大金を得たいだけなのである。
驚くべきは、この映画のどこにも「正義」がないことだ。法も、国家も関係なく、倫理も規律も何もない。登場人物の誰一人として、何が正しいかを自問しない。ただファミリーの生き残りだけが目的で、ファミリーでない者はすべて敵だ。
ここで描かれているのは、国家成立以前の、民族と呼ぶものすら誕生する前の原始的な小集団なのだ。彼らは、自分たちの食糧の確保のために狩猟採取や他の集団との戦争に明け暮れた原始社会と同じである。
この映画はアメリカで大ヒットし、続編の企画が進んでいるという。
こうして、異種族・異民族とのコミュニケーションを拒否して戦争する映画が量産されると同時に、法や国家の存在すら認めずに自分たちだけの生き残りを目的とする映画が観客に支持されたことに、私はとても驚いた。
これが、『大いなる西部』や『大脱走』で、信念や誇りや、敵対する者にも敬意を払うことを描いていたアメリカの映画なのか?
私は、かつて『大いなる西部』や『大脱走』にあったものが、すっかり壊れてしまったように思って驚いたのだ。
そんな中、スティーヴン・スピルバーグ監督の『戦火の馬』は、クラシックな趣きで懐かしさを感じさせた。
まず観客は、そのライティングに目を見張るだろう。
大地の向こうから歩いてくる男の姿が、空を背負い逆光になって浮かび上がる様は、往年の名画を彷彿とさせる。
室内のシーンでも、窓外から射し込む日の光が強調され、室内の人物の半身が影になり、その輪郭は光り輝く。それはかつてのハリウッド映画で、スターのアップをソフトフォーカスで撮り、柔らかな光に包まれたように見せていたことを思い出させる。
そして登場人物たちは、本当の誇りや勇気を問いながら生きている。
戦争で勲章を得ながらも、しまい込んでちっとも誇ろうとしない父について、母はこう語る。「それを誇りにしないのは、勇気がいることよ。」
また、乱暴狼藉されても抵抗しない老人は、孫娘に語って聞かせる。「目的地を目指す伝書鳩には、悲惨で恐ろしい戦場を見下ろさずに真っ直ぐ前を向く勇気が必要なんだ。」
戦場では、傷ついた軍馬を助けようと、兵士が身の危険も顧みずに銃火の前に歩み出る。その彼に協力しようとやってくるのは敵軍の兵士だ。
本作は、1頭の馬が狂言回しとなり、イギリス軍やドイツ軍、小作人や農園主の人生を垣間見せる。
人間同士ではなかなか云えないこと、できないことが、馬を介するおかげで口にでき、行動に移せるのだ。
そこに馬がいなければ、母が息子に父の心情を代弁することはなかったろう。老人が孫娘に自分の思いを吐露することもなかっただろう。それほど、今の時代には表現しにくいことなのかもしれない。
だが、私が壊れてしまったかと思ったものが、『戦火の馬』にはたしかに存在した。そこにはかつてのアメリカ映画が持っていた、信念や誇りや敬意が込められている。
『プライベート・ライアン』で戦争のむごさを描き出したスピルバーグは、それでも失われないものがあることを本作で思い出させてくれた。
第一次世界大戦下のヨーロッパという、時代も場所も現代アメリカとは異なる設定にしなければ描けないほど、それはもろくはかないのかもしれない。
それを支持するかどうかは、私たち観客次第である。
![戦火の馬 ブルーレイ(2枚組) [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/61Z-6v%2BeCoL._SL160_.jpg)
監督・制作/スティーヴン・スピルバーグ 原作/マイケル・モーパーゴ
脚本/リー・ホール リチャード・カーティス
出演/ジェレミー・アーヴァイン エミリー・ワトソン デヴィッド・シューリス ピーター・ミュラン ニエル・アレストリュプ トム・ヒドルストン パトリック・ケネディ デヴィッド・クロス ベネディクト・カンバーバッチ セリーヌ・バッケンズ
日本公開/2012年3月2日
ジャンル/[ドラマ] [戦争]


tag : スティーヴン・スピルバーグリチャード・カーティスジェレミー・アーヴァインエミリー・ワトソンデヴィッド・シューリスピーター・ミュランニエル・アレストリュプトム・ヒドルストンパトリック・ケネディデヴィッド・クロス
『ライアーゲーム -再生-』 遂に出てきた現実解
![ライアーゲーム -再生- プレミアム・エディションBD [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/41wsq1rOrNL._SL160_.jpg)
映画第二弾の『ライアーゲーム -再生-』は、これまで以上にゲームの面白さが前面に出た作品だ。
テレビシリーズや映画前作でお馴染みの、鈴木浩介さん演じるキノコこと福永ユウジや、鈴木一真さん演じる横谷ノリヒコ等が顔を出すものの、それはあくまでファンサービス。彼らの活躍はBS日本映画専門チャンネルのスピンオフドラマ『フクナガVSヨコヤ』の方で存分に楽しめる(後にDVDの特典映像として収録された)。
彼らがほとんどストーリーにかかわらない本作は、これまでのシリーズに比べて二つの特徴を有している。
(1) ゲームのプレイヤーがヒロインを含めて一新されたことで、お馴染みの(行動を読める)キャラクターはいなくなり、誰が味方になるのか敵対するのか観客にはまったく判らない。プレイヤーの人となりの説明もできるだけ排されて、個人的な特殊事情が入り込むこともない。おかげでゲームによってあぶりだされる人間心理が際立ってくる。
(2) 前作にあったゲーム事務局との対決色を薄めることで、正体不明の黒幕と戦う陰謀論的な展開は影を潜めた。そのためゲームの進行に応じて合従連衡を繰り返す人間模様に重心が置かれている。
このような状況下で、プレイヤーはゲームの勝敗を競うことになる。
・ゲーム参加者には特典として1億円がプレゼントされる。
・ゲームの賞金は20億円
・けれども参加者は全員2億円を払わなければならない。
かように、ゲームに勝ちさえすれば大金を得られるが、負ければ差し引き負債のほうが大きい。ゲーム参加者は必死である。
ところが、このゲームは実のところ誰も損しないし得もしない。数学の試験問題を解いていくと答えが1になるように、とても単純な構造なのだ。
ゲーム事務局の立場で見てみれば判りやすい。
・20人の参加者に特典として1億円ずつ、計20億円を配る。
・ゲーム終了時に賞金20億円を支払う。
・20人の参加者から2億円ずつ、計40億円を回収する。
つまり、40億円を提供して、40億円回収するので、まったく損得がない。
ゲーム事務局に損得がないということは、参加者にも損得がないということだ。事務局に払うべき2億円のうち、1億円は参加特典を充てれば良い。残り1億円は、賞金の20億円を1人1億円ずつ分ければ充当できる。
誰一人損しない。
しかし、これができないのだ。私たちの社会のように。
たとえば、国際連合世界食糧計画(WFP)によれば、世界にはすべての人に行き渡るだけの充分な食糧があるという。それなのに、現在、世界ではおよそ7人に1人、計9億2,500万人が飢餓に苦しんでいる。
それは食糧が偏在しているからだ。9億2,500万人が飢餓に苦しむ一方で、日本では食品の腐敗を防ぐ努力もそこそこに年間約1,900万トンの食品が廃棄されている。
まさしく、ライアーゲームの世界だ。
では、どうすれば良いのだろう。
前作のヒロイン神崎直は、全プレイヤーで協力しようと呼びかけた。他者を出し抜いて自分だけ賞金を獲得しようなんてせず、みんなで協力しあえば、一人の脱落者も出さずに済むと考えた。
しかしその主張がなかなか他のプレイヤーに受け入れられないのは、「『ライアーゲーム ザ・ファイナルステージ』が避けた百年戦争」に書いたとおりである。
そこで本作は、より現実に根ざした展開となる。
それがクニ取り合戦だ。
本作ではプレイヤーが集まっていくつかのクニを作る。前作のようにプレイヤーが単独で行動するのではなく、事務局に勝手にチーム分けされるのでもなく、プレイヤーが任意に集まってグループになるのだ。このクニが意味するものを、国家と捉えるか、地域と捉えるか、はたまた企業、同族、派閥等、なんの比喩と捉えるかは観客次第である。
それぞれのクニの中では人々が協力し合い、クニ同士は対抗して争いを繰り広げる。
また、クニのメンバーは必ずしも固い絆で結ばれているわけではなく、ときとしてクニの中でも他者を出し抜こうとする者が出るし、他のクニに移る者もいる。
なるほど、これは利己主義のみならず利他主義を考察するモデルなのだ。私は設定の妙に舌を巻いた。
池田信夫氏は、人類が小集団で戦争を繰り返した氷河期から私たちの遺伝子はほとんど変わっておらず、戦闘のための感情が遺伝的に備わっているのだと述べる。
---
一つの部族の中では利己的な個体が利他的な個体に勝つが、部族間の競争では利他的な個体からなる部族の団結力が強いので戦争に勝つ。したがって利己主義と並んで、それを抑制する利他主義が遺伝的に備わっていると思われる。経済学の想定しているようなエゴイストだけからなる部族は、戦争に敗れて淘汰されてしまうので合理的ではない。
---
人間は集団を形作って、他の集団に勝とうとする生き物なのだ。
だからクニ同士は激しく争うものの、クニの中では協力し、自分たちのクニが優位に立てば我がことのように喜ぶ。ときにはエゴイストも出現するが、エゴイストは集団の結束を危うくするので、集団から追放される。
本作の観客は、同じクニの仲間同士が意外にあっさり協力するので、拍子抜けするかもしれないが、私たちはそういう生き物なのだ。何万年もかけてそういう生物に進化してきたのだ。本作は現実社会の縮図であるにとどまらず、人類史の縮図である。
前作の、全員が一致して協力しようと呼びかけることにいささか無理があったのに対して、本作の、いくつかの集団に分かれることは認めた上で、集団間のバランスを取るにはどうしたら良いかを考えるのは、まことに現実的だ。
まさに、私たちの社会がそうであるように。
さらに、本作の肝になるのは、社会の脱落者たちである。勝ち残っている者たちだけで、すべてが決するわけではない。
社会の脱落者といえども選挙権を持っていて、彼らの票はときとして力になる。いや、彼らの票をまとめることこそが、勝った者同士で椅子を争うよりも大切なのだ。
勝ち残ったつもりの者たちには、彼らが脱落者に見えるだろう。しかし、彼らは実は脱落者なんかじゃないのだ。立派な社会の構成員なのだ。
それに気づいて、彼らをきちんと遇した者がゲームを制する。
私たちの社会には、退場者なんていないのだから。
![ライアーゲーム -再生- プレミアム・エディションBD [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/41wsq1rOrNL._SL160_.jpg)
演出/森脇智延
出演/鈴木浩介 鈴木一真 芦田愛菜 江角マキコ
日本公開/2012年2月24日
ジャンル/[サスペンス] [ミステリー]
『ライアーゲーム -再生-』 [ら行]
監督/松山博昭 原作/甲斐谷忍 音楽/中田ヤスタカ
出演/松田翔太 多部未華子 船越英一郎 小池栄子 新井浩文 野波麻帆 池田鉄洋 芦田愛菜 鈴木浩介 濱田マリ 要潤 高橋ジョージ 渡辺いっけい 春海四方 江角マキコ 鈴木一真 斎藤陽子 川村陽介 竜星涼 大野拓朗 前田健 青木忠宏 上原敏郎 上野なつひ 桝木亜子
日本公開/2012年3月3日
ジャンル/[サスペンス] [ミステリー]


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【theme : 映画ライアーゲーム※ネタバレ】
【genre : 映画】
『中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史』 どこにいる『風の谷のナウシカ』?
(この連載のはじめから読む)
先の記事では、與那覇潤著『中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史』における『天空の城ラピュタ』の取り上げ方について検討した。
今回は、『風の谷のナウシカ』について見てみよう。
■『風の谷のナウシカ』が描くのはどの戦争?
『風の谷のナウシカ』は、本書の『第7章 近世の衝突――中国に負けた帝国日本』で取り上げられている。
アニメ映画『風の谷のナウシカ』は、ナウシカの住む「風の谷」と、クシャナ率いるトルメキア国の戦争を描いた作品だ。これを著者は、日中戦争、すなわち中華民国と大日本帝国の戦争になぞらえている。
いや、著者は「クシャナと風の谷の王女ナウシカとのあいだで展開される闘争が、日本近世と中国近世という2つの「文明の衝突」の忠実な戯画として描かれている」(190ページ)、「同作が「あの戦争」を再現している」(200ページ)と述べ、『風の谷のナウシカ』は日中戦争になぞらえて作られたと主張する。つまり、『風の谷のナウシカ』の原作・脚本・監督等々を担った宮崎駿氏は、『風の谷のナウシカ』において日中戦争から日本の敗戦までを語っているのだと。
それはたしかにそうなのだろう。
帝国主義で頭に血が上った軍事国家と、あまり組織化はされていないが民衆が決起した国の戦いは、なるほど日中戦争そのものだ。終盤に登場する巨神兵の桁外れの破壊力が、「核兵器の比喩になっている」(200ページ)のも與那覇氏のおっしゃるとおりだ。
現代の日本人にとって、戦争といえば他ならぬ先の大戦であり、それは創作物に多くの影響を及ぼしている。
しかし、それは判るものの、著者の主張をそのまま首肯するのはためらわれる。
なぜなら次のような疑問が浮かぶからだ。
・『風の谷のナウシカ』がなぞらえているのは、日中戦争だけなのか?
『風の谷のナウシカ』に日中戦争の陰があることは否定しない。
特に、宮崎駿氏は特攻用の航空機部品を作る一族に育ち、戦争に親を取られた子供たちと同じ教室で接すると罪悪感を覚えたそうだから、氏が戦争を描くとき念頭には日中戦争があることだろう。
だからといって、宮崎駿氏が平和な理想郷として描いている「風の谷」が、中国文明であるとは限らない。
宮崎駿氏が二つの文明の衝突を描くのは『風の谷のナウシカ』がはじめてではない。先の記事でも触れた『未来少年コナン』(1978年)では、農耕や漁業を中心とするハイハーバーと、工業化を推し進めたインダストリアが対比されている。『太陽の王子 ホルスの大冒険』(1968年)は、漁業に従事する村人たちと、狼を組織化して襲ってくる悪魔との戦いだ。テレビアニメ『さらば愛しきルパンよ』(1980年)も、自由人たるルパン一味と腹黒い資本家の戦いを描いており、これらの系譜に連ねて良いだろう。
宮崎アニメのファンにとって、風の谷とトルメキアの戦いは、昔からお馴染みのモチーフなのだ。
それは、かならずしも中国vs日本ということではなく、平等な共同体vs階級社会、自然vs工業化社会、精神文明vs物質文明等々、様々な対立軸が込められている。怒涛のごとく迫り来る王蟲の群れは、『未来少年コナン』における労働者の大群や、『太陽の王子 ホルスの大冒険』の立ち上がった村人たちにも通じよう。
そして巨神兵の強すぎる破壊力は、『未来少年コナン』の超磁力兵器や巨人機ギガント、『さらば愛しきルパンよ』の暴走するロボット・シグマ、『天空の城ラピュタ』でラピュタを崩壊させる力でもある。それは単に核兵器を表すのみならず、物質文明の行き着く先としての「破壊」の象徴である。
もちろん核兵器も寓意として含んでいるが、それだけではない。戦局を決着させる超兵器としては、『宇宙戦艦ヤマト』の波動砲の方が原子爆弾に近いだろう(SFでは、こういう最終兵器には枚挙にいとまがない)。
実のところ巨神兵の特徴は、その恐るべき破壊力にもかかわらず、なんの役にも立たないことだ。巨神兵の力を持ってしてもトルメキアは勝利せず、それは物質文明がどんなに高度になっても誰も利さないことを象徴するだけだ。巨人機ギガントもロボット・シグマも、天空の城ラピュタでさえも、なんの恩恵ももたらさないのと同じである。
宮崎アニメが描く二つの文明の衝突は、労働組合の闘士だった宮崎駿氏の、社会主義への憧れも影響していよう。
『風の谷のナウシカ』の公開は1984年、ソビエト連邦が1991年に崩壊するとは夢想だにしない頃であり、まだ世界を二項対立で描けた時代だった。
それを「文明の衝突」と呼ぶと本書のサブタイトルになってしまうが、宮崎駿氏にとって、平等な共同体vs階級社会、自然vs工業化社会、精神文明vs物質文明の衝突は、日中戦争というよりも、二つの生き方、人間のあり方として現代人に選択を迫るものである。それは二項対立が成り立たない時代(ソ連崩壊以降)の作品が、工業化社会や資本家を責めてもどうしようもない中で対立軸が曖昧になりながら、それでも自然とのかかわりや共同体を描こうとしていることからも明らかだろう。
だから、『風の谷のナウシカ』の頃はまだ社会主義への憧れが残っていたという意味においては、「風の谷」は中国(社会主義国家としての中華人民共和国)のアナロジーであると云えるかもしれない。しかしそれを日中戦争の相手である中国(中華民国)と見立てるのは、いささか乱暴に過ぎよう。
もちろん、「この地に王道楽土を建設する」と宣言するクシャナのセリフに、観客は大日本帝国を思い起こすのだが。
(つづく)
『風の谷のナウシカ』 [か行]
監督・原作・脚本/宮崎駿 プロデューサー/高畑勲
出演/島本須美 榊原良子 松田洋治 冨永みーな 辻村真人 京田尚子 納谷悟朗 永井一郎 家弓家正 宮内幸平 八奈見乗児 吉田理保子
日本公開/1984年3月11日
ジャンル/[ドラマ] [ファンタジー] [SF] [アクション] [戦争]
『中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史』 [書籍]
著者/與那覇潤
日本初版/2011年11月20日
ジャンル/[歴史]
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先の記事では、與那覇潤著『中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史』における『天空の城ラピュタ』の取り上げ方について検討した。
今回は、『風の谷のナウシカ』について見てみよう。
■『風の谷のナウシカ』が描くのはどの戦争?
『風の谷のナウシカ』は、本書の『第7章 近世の衝突――中国に負けた帝国日本』で取り上げられている。
アニメ映画『風の谷のナウシカ』は、ナウシカの住む「風の谷」と、クシャナ率いるトルメキア国の戦争を描いた作品だ。これを著者は、日中戦争、すなわち中華民国と大日本帝国の戦争になぞらえている。
いや、著者は「クシャナと風の谷の王女ナウシカとのあいだで展開される闘争が、日本近世と中国近世という2つの「文明の衝突」の忠実な戯画として描かれている」(190ページ)、「同作が「あの戦争」を再現している」(200ページ)と述べ、『風の谷のナウシカ』は日中戦争になぞらえて作られたと主張する。つまり、『風の谷のナウシカ』の原作・脚本・監督等々を担った宮崎駿氏は、『風の谷のナウシカ』において日中戦争から日本の敗戦までを語っているのだと。
それはたしかにそうなのだろう。
帝国主義で頭に血が上った軍事国家と、あまり組織化はされていないが民衆が決起した国の戦いは、なるほど日中戦争そのものだ。終盤に登場する巨神兵の桁外れの破壊力が、「核兵器の比喩になっている」(200ページ)のも與那覇氏のおっしゃるとおりだ。
現代の日本人にとって、戦争といえば他ならぬ先の大戦であり、それは創作物に多くの影響を及ぼしている。
しかし、それは判るものの、著者の主張をそのまま首肯するのはためらわれる。
なぜなら次のような疑問が浮かぶからだ。
・『風の谷のナウシカ』がなぞらえているのは、日中戦争だけなのか?
『風の谷のナウシカ』に日中戦争の陰があることは否定しない。
特に、宮崎駿氏は特攻用の航空機部品を作る一族に育ち、戦争に親を取られた子供たちと同じ教室で接すると罪悪感を覚えたそうだから、氏が戦争を描くとき念頭には日中戦争があることだろう。
だからといって、宮崎駿氏が平和な理想郷として描いている「風の谷」が、中国文明であるとは限らない。
宮崎駿氏が二つの文明の衝突を描くのは『風の谷のナウシカ』がはじめてではない。先の記事でも触れた『未来少年コナン』(1978年)では、農耕や漁業を中心とするハイハーバーと、工業化を推し進めたインダストリアが対比されている。『太陽の王子 ホルスの大冒険』(1968年)は、漁業に従事する村人たちと、狼を組織化して襲ってくる悪魔との戦いだ。テレビアニメ『さらば愛しきルパンよ』(1980年)も、自由人たるルパン一味と腹黒い資本家の戦いを描いており、これらの系譜に連ねて良いだろう。
宮崎アニメのファンにとって、風の谷とトルメキアの戦いは、昔からお馴染みのモチーフなのだ。
それは、かならずしも中国vs日本ということではなく、平等な共同体vs階級社会、自然vs工業化社会、精神文明vs物質文明等々、様々な対立軸が込められている。怒涛のごとく迫り来る王蟲の群れは、『未来少年コナン』における労働者の大群や、『太陽の王子 ホルスの大冒険』の立ち上がった村人たちにも通じよう。
そして巨神兵の強すぎる破壊力は、『未来少年コナン』の超磁力兵器や巨人機ギガント、『さらば愛しきルパンよ』の暴走するロボット・シグマ、『天空の城ラピュタ』でラピュタを崩壊させる力でもある。それは単に核兵器を表すのみならず、物質文明の行き着く先としての「破壊」の象徴である。
もちろん核兵器も寓意として含んでいるが、それだけではない。戦局を決着させる超兵器としては、『宇宙戦艦ヤマト』の波動砲の方が原子爆弾に近いだろう(SFでは、こういう最終兵器には枚挙にいとまがない)。
実のところ巨神兵の特徴は、その恐るべき破壊力にもかかわらず、なんの役にも立たないことだ。巨神兵の力を持ってしてもトルメキアは勝利せず、それは物質文明がどんなに高度になっても誰も利さないことを象徴するだけだ。巨人機ギガントもロボット・シグマも、天空の城ラピュタでさえも、なんの恩恵ももたらさないのと同じである。
宮崎アニメが描く二つの文明の衝突は、労働組合の闘士だった宮崎駿氏の、社会主義への憧れも影響していよう。
『風の谷のナウシカ』の公開は1984年、ソビエト連邦が1991年に崩壊するとは夢想だにしない頃であり、まだ世界を二項対立で描けた時代だった。
それを「文明の衝突」と呼ぶと本書のサブタイトルになってしまうが、宮崎駿氏にとって、平等な共同体vs階級社会、自然vs工業化社会、精神文明vs物質文明の衝突は、日中戦争というよりも、二つの生き方、人間のあり方として現代人に選択を迫るものである。それは二項対立が成り立たない時代(ソ連崩壊以降)の作品が、工業化社会や資本家を責めてもどうしようもない中で対立軸が曖昧になりながら、それでも自然とのかかわりや共同体を描こうとしていることからも明らかだろう。
だから、『風の谷のナウシカ』の頃はまだ社会主義への憧れが残っていたという意味においては、「風の谷」は中国(社会主義国家としての中華人民共和国)のアナロジーであると云えるかもしれない。しかしそれを日中戦争の相手である中国(中華民国)と見立てるのは、いささか乱暴に過ぎよう。
もちろん、「この地に王道楽土を建設する」と宣言するクシャナのセリフに、観客は大日本帝国を思い起こすのだが。
(つづく)
![風の谷のナウシカ [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/41Lex5r0UCL._SL160_.jpg)
監督・原作・脚本/宮崎駿 プロデューサー/高畑勲
出演/島本須美 榊原良子 松田洋治 冨永みーな 辻村真人 京田尚子 納谷悟朗 永井一郎 家弓家正 宮内幸平 八奈見乗児 吉田理保子
日本公開/1984年3月11日
ジャンル/[ドラマ] [ファンタジー] [SF] [アクション] [戦争]

著者/與那覇潤
日本初版/2011年11月20日
ジャンル/[歴史]


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