『J・エドガー』 毛布をかけてもらうには?
【ネタバレ注意】
クリント・イーストウッド監督がJ・エドガー・フーバーの映画を撮る!
その報に接したとき、あまりにも上手い組み合わせに驚くとともに、傑作になることを予感してワクワクした。
なにしろ『チェンジリング』で米国の過去の汚点と捜査機関の問題を指摘し、『グラン・トリノ』で米国の現代社会の片隅を切り取ってみせたイーストウッド監督が、米国史上の怪物の一人である伝説的なFBI長官を描くのだ。
いったい米国のどんな暗部が描かれるのか、何が白日の下にさらされるのか、イーストウッド監督は絶大な権力を思うままに振るった男にどのようにメスを入れるのか。想像すればするほど期待は高まった。
けれども、映画『J・エドガー』は私が予想していたものとは趣きが違った。
たしかにレオナルド・ディカプリオ演じるジョン・エドガー・フーバーは、捜査機関の長たる権力を持ち、捜査官を武装させて華々しく犯罪者と戦い、有名な極秘ファイルをネタに大統領ですら逆らうことを許さなかった。彼は共産主義者や公民権運動家への憎しみに満ち、自分の考える国家像を実現するためなら卑劣な手段も辞さない奸物だ。
しかし、スクリーンの中にいるのは寂しい老人にすぎなかった。
結婚もせず、友人もほとんどおらず、家にいるのは犬とメイドだけ。そんな孤独な老人が、昔の自分を美化しながら思い出話をしているのだ。
なるほど、クリント・イーストウッドは私が思うよりもずっと老成し、優しい眼差しの持ち主だったのだ。恐るべき怪物フーバーを扱う手つきは、まるで『グラン・トリノ』の老いた自動車工に接するようである。
イーストウッドはフーバーを断罪するでもなく、英雄視するでもなく、ただ血気にはやった青年が偏屈な老人になっていく様子を描写する。
しかも出来事を時系列的に追うのではない。映像は彼の若い頃と老いたときとを頻繁に切り替わり、そのたびに彼の老いが印象付けられる。若い頃のシーンはフーバーがどうして今に至ったかを説明するためにあり、映画が主眼とするのは、強大な権力を握っても決して避けることのできない老いを迎えた一人の男だ。
それは凄腕ガンマンの役で鳴らしたイーストウッドが、『許されざる者』で銃を振り回すことを否定し、『グラン・トリノ』で暴力を封じ、『ヒア アフター』で穏やかに暮らすことの大切さに目を向けたことの延長にある。
劇中のフーバーは報道陣に囲まれ、銀幕に登場し、人々のヒーローになっている。そう、彼はイーストウッドらハリウッドスターと同じなのだ。
ところが、この男は穏やかな暮らしとは対極にいる。当年とって82歳のクリント・イーストウッドは、77歳で没したフーバーを通して、きれいな人生の幕引きなんてできない男の醜悪ともいえるエネルギーを描き出す。
そして栄光を独り占めにしたかのような彼が、一生を通じてさいなまれるのは人間不信である。みずからの望むように組織を作り、半世紀近く君臨し続け、逆らう者のいない世界を築き上げながら、自分が生み育てたFBIですら信用できず、彼の周りには副官と秘書しか残らない。
そのごく少ない愛情と忠誠のみが彼のかけがえのない財産であることを、彼はどれだけ理解していただろうか。
さらに、彼の寒々とした私生活を印象付けるのが、数ショットしか登場せず、セリフもほとんどない黒人のメイドである。
人種差別主義者のフーバーの家で働く黒人メイドは、1970年代でありながらあたかも南北戦争時代のような姿だ。その彼女は、半裸で倒れたフーバーを目にしながら毛布の一枚もかけてやろうとはしない。
フーバーは権力の頂点に達しながら、自発的に毛布をかけてもらうことすらできなかったのである。
『J・エドガー』 [さ行]
監督・制作/クリント・イーストウッド 撮影/トム・スターン
出演/レオナルド・ディカプリオ ナオミ・ワッツ アーミー・ハマー ジョシュ・ルーカス ジュディ・デンチ
日本公開/2012年1月28日
ジャンル/[伝記] [ドラマ]
http://bookmarks.yahoo.co.jp/bookmarklet/showpopup?t='+encodeURIComponent(document.title)+'&u='+encodeURIComponent(location.href)+'&ei=UTF-8','_blank','width=550,height=480,left=100,top=50,scrollbars=1,resizable=1',0);">
クリント・イーストウッド監督がJ・エドガー・フーバーの映画を撮る!
その報に接したとき、あまりにも上手い組み合わせに驚くとともに、傑作になることを予感してワクワクした。
なにしろ『チェンジリング』で米国の過去の汚点と捜査機関の問題を指摘し、『グラン・トリノ』で米国の現代社会の片隅を切り取ってみせたイーストウッド監督が、米国史上の怪物の一人である伝説的なFBI長官を描くのだ。
いったい米国のどんな暗部が描かれるのか、何が白日の下にさらされるのか、イーストウッド監督は絶大な権力を思うままに振るった男にどのようにメスを入れるのか。想像すればするほど期待は高まった。
けれども、映画『J・エドガー』は私が予想していたものとは趣きが違った。
たしかにレオナルド・ディカプリオ演じるジョン・エドガー・フーバーは、捜査機関の長たる権力を持ち、捜査官を武装させて華々しく犯罪者と戦い、有名な極秘ファイルをネタに大統領ですら逆らうことを許さなかった。彼は共産主義者や公民権運動家への憎しみに満ち、自分の考える国家像を実現するためなら卑劣な手段も辞さない奸物だ。
しかし、スクリーンの中にいるのは寂しい老人にすぎなかった。
結婚もせず、友人もほとんどおらず、家にいるのは犬とメイドだけ。そんな孤独な老人が、昔の自分を美化しながら思い出話をしているのだ。
なるほど、クリント・イーストウッドは私が思うよりもずっと老成し、優しい眼差しの持ち主だったのだ。恐るべき怪物フーバーを扱う手つきは、まるで『グラン・トリノ』の老いた自動車工に接するようである。
イーストウッドはフーバーを断罪するでもなく、英雄視するでもなく、ただ血気にはやった青年が偏屈な老人になっていく様子を描写する。
しかも出来事を時系列的に追うのではない。映像は彼の若い頃と老いたときとを頻繁に切り替わり、そのたびに彼の老いが印象付けられる。若い頃のシーンはフーバーがどうして今に至ったかを説明するためにあり、映画が主眼とするのは、強大な権力を握っても決して避けることのできない老いを迎えた一人の男だ。
それは凄腕ガンマンの役で鳴らしたイーストウッドが、『許されざる者』で銃を振り回すことを否定し、『グラン・トリノ』で暴力を封じ、『ヒア アフター』で穏やかに暮らすことの大切さに目を向けたことの延長にある。
劇中のフーバーは報道陣に囲まれ、銀幕に登場し、人々のヒーローになっている。そう、彼はイーストウッドらハリウッドスターと同じなのだ。
ところが、この男は穏やかな暮らしとは対極にいる。当年とって82歳のクリント・イーストウッドは、77歳で没したフーバーを通して、きれいな人生の幕引きなんてできない男の醜悪ともいえるエネルギーを描き出す。
そして栄光を独り占めにしたかのような彼が、一生を通じてさいなまれるのは人間不信である。みずからの望むように組織を作り、半世紀近く君臨し続け、逆らう者のいない世界を築き上げながら、自分が生み育てたFBIですら信用できず、彼の周りには副官と秘書しか残らない。
そのごく少ない愛情と忠誠のみが彼のかけがえのない財産であることを、彼はどれだけ理解していただろうか。
さらに、彼の寒々とした私生活を印象付けるのが、数ショットしか登場せず、セリフもほとんどない黒人のメイドである。
人種差別主義者のフーバーの家で働く黒人メイドは、1970年代でありながらあたかも南北戦争時代のような姿だ。その彼女は、半裸で倒れたフーバーを目にしながら毛布の一枚もかけてやろうとはしない。
フーバーは権力の頂点に達しながら、自発的に毛布をかけてもらうことすらできなかったのである。

監督・制作/クリント・イーストウッド 撮影/トム・スターン
出演/レオナルド・ディカプリオ ナオミ・ワッツ アーミー・ハマー ジョシュ・ルーカス ジュディ・デンチ
日本公開/2012年1月28日
ジャンル/[伝記] [ドラマ]


tag : クリント・イーストウッドレオナルド・ディカプリオナオミ・ワッツアーミー・ハマージョシュ・ルーカスジュディ・デンチ
『灼熱の魂』 3つの特長と3つの弱点
どう考えてもおかしいと思った。
この傑作がアカデミー賞外国語映画賞のカナダ代表に選出され、ノミネート作品5本のうちに選ばれながら、肝心の受賞を逃すなんておかしい。
そこで第83回アカデミー賞の結果を調べてみたら、この年の受賞作は『未来を生きる君たちへ』だった。
なんてこった!
『未来を生きる君たちへ』が受賞することに異存はない。あれも素晴らしい作品だ。
でも『灼熱の魂』が受賞しないなんてことがあっていいのだろうか。
そんな思いに囚われてしまうほど、『灼熱の魂』は傑作だ。どこからどう見ても傑作だ。
これは驚くべきことで、どんなに素晴らしい映画でも見方によっては少しくらいキズがあるものなのに、『灼熱の魂』にはそれがない。
ほとんど完全無欠の傑作である。
だが、アカデミー賞を争った『未来を生きる君たちへ』と比べると、いささか弱点らしきものが見えてこないでもない。とりわけ、本作のテーマは『未来を生きる君たちへ』に通じるものだから、なおのこと同じテーマへのアプローチの共通点と相違点を考えれば、本作の特徴が判りやすい。
本作の、しいていえば弱点といえなくもないのは、判りやすいことである。
本作のテーマに関して、ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督は公式サイトで次のように述べている。
---
我々はどうすれば終わりのない暴力を生み出す、怒りの連鎖を断ち切ることができるのか。どうやったら互いに反目しあう人々、同じ土地の住人、親族たちの間に平和をもたらすことができるのだろうか。
---
これは『未来を生きる君たちへ』が追求していたものと同じであり、『息もできない』や『ヘヴンズ ストーリー』等、多くの映画が取り上げてきたことだ。悲しいことに、これは人類にとっていつでもどこでも普遍的なテーマだ。冷戦という「ある種の重し」がなくなった現代では、ますますクローズアップされていよう。
本作を観た人なら、誰もがこのテーマの重みを感じるはずだ。本作では、理解不能の映像を見せられて頭を抱えるようなことはない。
『灼熱の魂』の原作は、レバノンから亡命して現在カナダのケベック州に住むワジディ・ムアワッドの戯曲『INCENDIES(火災)』である。1997~2009年に発表された『約束の血』四部作の第二部『INCENDIES(火災)』は、日本でも2009年に『焼け焦げるたましい』の題で上演されたというから、本作の邦題もこの日本上演時の題名にならったものだろう。
本作がテーマをストレートに突きつけてくるのは、元々が戯曲だからかもしれない。
演劇の場合、舞台で役者が芝居をしているのに、その目の前で観客に爆睡されるのは辛いから、観客を置いてきぼりにするようなことはあまりしない。ときには難解な芝居もあるし、私も役者の目と鼻の先で豪快に寝たことがあるけれど、映画よりは芝居の方が観客に歩み寄っている気がする。
とはいえ、作品が判りやすいのは結構なことでも、人によってはその歩み寄りを不要と思うかもしれないし、ストレートなために物足りなく感じるかもしれない。
これが第一の弱点だ。
第二の、おそらく戯曲ゆえの弱点は、面白すぎることである。
これほど重いテーマをシリアスに描いているのに、まったく退屈させることがない。退屈させないどころか、一種のミステリー仕立ての本作は最後まで観客をとりこにして離さない。
それは巧みなストーリーテリングによるものだが、『未来を生きる君たちへ』がリアルな日常を積み重ねるのに比べると、この物語は人工的すぎると感じる人がいるかもしれない。
しかしながら、そのストーリーの妙も観客の興味を持続させる演劇らしい工夫といえよう。
本作の公式サイトでは、この悲惨な物語を「ギリシャ悲劇にも比肩しうる」と表現しているが、これはソポクレスによるギリシャ悲劇の代表作を念頭に置いてのことだ。ミステリーとして味わいたい人もいるだろうから具体的な作品名を挙げるのは控えておくが、本作の源流は24世紀以上にもわたり世界中の人々に衝撃を与えてきた悲劇なのだ。
そこに現代の悲劇である中東の戦乱を重ね合わせた本作は、悲劇の中の悲劇である。
ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督によれば、本作は1970年代半ばにレバノンを壊滅させた内戦から部分的に想を得ているという。それはまだ8歳だったワジディ・ムアワッドがレバノンを去ることになった戦乱だ。
戦禍、復讐、拷問――『灼熱の魂』が描く終わりのない暴力と怒りの連鎖、そして運命の皮肉がもたらす衝撃に観客は席も立てないだろう。
もう一つ弱点らしきものとして、本作の登場人物が特別な運命を背負っているように見えてしまうことが挙げられる。
『未来を生きる君たちへ』が学校でのいじめや街中での暴力などの観客にとって身近な世界での出来事を描くのに対し、本作の双子が親の因縁を解き明かしていく物語は、観客が身近に見聞きすることではない。ギリシャ神話に材を取ったギリシャ悲劇ならではの、特別な双子の物語に思えてしまう。
それをどう捉えるかは観た人それぞれだが、普遍的な物語と云いにくいのは確かである。
まして本作は「どうすれば怒りの連鎖を断ち切ることができるのか」との問いに作品なりの解答を出している。それは悲劇を悲劇として終わらせてしまうことへの強烈なアンチテーゼでもある。
多くの作品がハッキリした解を示さない中、私は本作が出した答えに感銘を受けたが、これとて特別な人たちの特別な結論と受け取られてしまうかもしれない。
以上、あえて『灼熱の魂』の弱点らしきものを並べてみたが、もちろんこれらは『灼熱の魂』の特長でもある。
さらに本作には戯曲が原作とは思えないほどの空間的な広がりがあり、中東の乾いた大地を捉えた映像は、まぎれもなく映画らしさに溢れている。
これらの特長は、観る者に強烈な印象を残すだろう。
やはり、完全無欠の傑作である。
『灼熱の魂』 [さ行]
監督・脚本/ドゥニ・ヴィルヌーヴ 原作戯曲/ワジディ・ムアワッド
出演/ルブナ・アザバル メリッサ・デゾルモー=プーラン マキシム・ゴーデット レミー・ジラール
日本公開/2010年12月17日
ジャンル/[ドラマ] [ミステリー] [戦争]
http://bookmarks.yahoo.co.jp/bookmarklet/showpopup?t='+encodeURIComponent(document.title)+'&u='+encodeURIComponent(location.href)+'&ei=UTF-8','_blank','width=550,height=480,left=100,top=50,scrollbars=1,resizable=1',0);">
この傑作がアカデミー賞外国語映画賞のカナダ代表に選出され、ノミネート作品5本のうちに選ばれながら、肝心の受賞を逃すなんておかしい。
そこで第83回アカデミー賞の結果を調べてみたら、この年の受賞作は『未来を生きる君たちへ』だった。
なんてこった!
『未来を生きる君たちへ』が受賞することに異存はない。あれも素晴らしい作品だ。
でも『灼熱の魂』が受賞しないなんてことがあっていいのだろうか。
そんな思いに囚われてしまうほど、『灼熱の魂』は傑作だ。どこからどう見ても傑作だ。
これは驚くべきことで、どんなに素晴らしい映画でも見方によっては少しくらいキズがあるものなのに、『灼熱の魂』にはそれがない。
ほとんど完全無欠の傑作である。
だが、アカデミー賞を争った『未来を生きる君たちへ』と比べると、いささか弱点らしきものが見えてこないでもない。とりわけ、本作のテーマは『未来を生きる君たちへ』に通じるものだから、なおのこと同じテーマへのアプローチの共通点と相違点を考えれば、本作の特徴が判りやすい。
本作の、しいていえば弱点といえなくもないのは、判りやすいことである。
本作のテーマに関して、ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督は公式サイトで次のように述べている。
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我々はどうすれば終わりのない暴力を生み出す、怒りの連鎖を断ち切ることができるのか。どうやったら互いに反目しあう人々、同じ土地の住人、親族たちの間に平和をもたらすことができるのだろうか。
---
これは『未来を生きる君たちへ』が追求していたものと同じであり、『息もできない』や『ヘヴンズ ストーリー』等、多くの映画が取り上げてきたことだ。悲しいことに、これは人類にとっていつでもどこでも普遍的なテーマだ。冷戦という「ある種の重し」がなくなった現代では、ますますクローズアップされていよう。
本作を観た人なら、誰もがこのテーマの重みを感じるはずだ。本作では、理解不能の映像を見せられて頭を抱えるようなことはない。
『灼熱の魂』の原作は、レバノンから亡命して現在カナダのケベック州に住むワジディ・ムアワッドの戯曲『INCENDIES(火災)』である。1997~2009年に発表された『約束の血』四部作の第二部『INCENDIES(火災)』は、日本でも2009年に『焼け焦げるたましい』の題で上演されたというから、本作の邦題もこの日本上演時の題名にならったものだろう。
本作がテーマをストレートに突きつけてくるのは、元々が戯曲だからかもしれない。
演劇の場合、舞台で役者が芝居をしているのに、その目の前で観客に爆睡されるのは辛いから、観客を置いてきぼりにするようなことはあまりしない。ときには難解な芝居もあるし、私も役者の目と鼻の先で豪快に寝たことがあるけれど、映画よりは芝居の方が観客に歩み寄っている気がする。
とはいえ、作品が判りやすいのは結構なことでも、人によってはその歩み寄りを不要と思うかもしれないし、ストレートなために物足りなく感じるかもしれない。
これが第一の弱点だ。
第二の、おそらく戯曲ゆえの弱点は、面白すぎることである。
これほど重いテーマをシリアスに描いているのに、まったく退屈させることがない。退屈させないどころか、一種のミステリー仕立ての本作は最後まで観客をとりこにして離さない。
それは巧みなストーリーテリングによるものだが、『未来を生きる君たちへ』がリアルな日常を積み重ねるのに比べると、この物語は人工的すぎると感じる人がいるかもしれない。
しかしながら、そのストーリーの妙も観客の興味を持続させる演劇らしい工夫といえよう。
本作の公式サイトでは、この悲惨な物語を「ギリシャ悲劇にも比肩しうる」と表現しているが、これはソポクレスによるギリシャ悲劇の代表作を念頭に置いてのことだ。ミステリーとして味わいたい人もいるだろうから具体的な作品名を挙げるのは控えておくが、本作の源流は24世紀以上にもわたり世界中の人々に衝撃を与えてきた悲劇なのだ。
そこに現代の悲劇である中東の戦乱を重ね合わせた本作は、悲劇の中の悲劇である。
ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督によれば、本作は1970年代半ばにレバノンを壊滅させた内戦から部分的に想を得ているという。それはまだ8歳だったワジディ・ムアワッドがレバノンを去ることになった戦乱だ。
戦禍、復讐、拷問――『灼熱の魂』が描く終わりのない暴力と怒りの連鎖、そして運命の皮肉がもたらす衝撃に観客は席も立てないだろう。
もう一つ弱点らしきものとして、本作の登場人物が特別な運命を背負っているように見えてしまうことが挙げられる。
『未来を生きる君たちへ』が学校でのいじめや街中での暴力などの観客にとって身近な世界での出来事を描くのに対し、本作の双子が親の因縁を解き明かしていく物語は、観客が身近に見聞きすることではない。ギリシャ神話に材を取ったギリシャ悲劇ならではの、特別な双子の物語に思えてしまう。
それをどう捉えるかは観た人それぞれだが、普遍的な物語と云いにくいのは確かである。
まして本作は「どうすれば怒りの連鎖を断ち切ることができるのか」との問いに作品なりの解答を出している。それは悲劇を悲劇として終わらせてしまうことへの強烈なアンチテーゼでもある。
多くの作品がハッキリした解を示さない中、私は本作が出した答えに感銘を受けたが、これとて特別な人たちの特別な結論と受け取られてしまうかもしれない。
以上、あえて『灼熱の魂』の弱点らしきものを並べてみたが、もちろんこれらは『灼熱の魂』の特長でもある。
さらに本作には戯曲が原作とは思えないほどの空間的な広がりがあり、中東の乾いた大地を捉えた映像は、まぎれもなく映画らしさに溢れている。
これらの特長は、観る者に強烈な印象を残すだろう。
やはり、完全無欠の傑作である。
![灼熱の魂 [DVD]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/51PAdTKyrRL._SL160_.jpg)
監督・脚本/ドゥニ・ヴィルヌーヴ 原作戯曲/ワジディ・ムアワッド
出演/ルブナ・アザバル メリッサ・デゾルモー=プーラン マキシム・ゴーデット レミー・ジラール
日本公開/2010年12月17日
ジャンル/[ドラマ] [ミステリー] [戦争]


tag : ドゥニ・ヴィルヌーヴワジディ・ムアワッドルブナ・アザバルメリッサ・デゾルモー=プーランマキシム・ゴーデットレミー・ジラール
『海賊戦隊ゴーカイジャーVS宇宙刑事ギャバン THE MOVIE』 実は40周年記念作!
『宇宙刑事ギャバン』が『特捜戦隊デカレンジャー』と世界観の整合を図っていたとは知らなかった。
ギャバンは銀河連邦警察の刑事だったはずなのに、『海賊戦隊ゴーカイジャーVS宇宙刑事ギャバン THE MOVIE』では一貫して宇宙警察の刑事と呼ばれ、デカレンジャーが所属する宇宙警察と同一組織であることが示唆される。
こうしてメタルヒーローシリーズとスーパー戦隊シリーズをクロスオーバーするための地ならしをした上で、ギャバンとゴーカイジャーの活躍を見せてくれるのが本作である。
それはハッとするような場面ではじまる。
帆船型宇宙船ゴーカイガレオンと超次元高速機ドルギランが、NEC本社ビルを挟んで繰り広げる空中戦の大迫力!
ギャバンの愛機ドルギランが30年ぶりに登場するだけでも感激なのに、いきなり激しい戦闘が交わされるのだから、掴みはOKである。
そもそも2012年にギャバンが復活するのは必然だ。
『宇宙刑事ギャバン』の放映開始は1982年、今からちょうど30年前である。「30年復活の法則」に基づけば、2012年はギャバンの年なのだ。
「30年復活の法則」とは私が勝手に名付けたものだが、名前なんか関係なく業界関係者はよくご存知のことだろう。これまでも多くの作品が30年目に復活してきた。その理由は以前の記事に譲るとして、ウルトラシリーズや仮面ライダーシリーズばかりでなく、遂に『宇宙刑事ギャバン』にはじまるメタルヒーローシリーズの復活するときがやってきたのは喜ばしい。
そして本作は『海賊戦隊ゴーカイジャー』の映画版であることから、ギャバンとゴーカイジャーの共通の敵として宇宙帝国ザンギャックが登場する。
けれどもそこに『宇宙刑事ギャバン』の敵・宇宙犯罪組織マクーの末裔を絡ませることで、敵味方とも両作品の要素を引き継いだものになっている。
特に嬉しいのは、戦闘の場がマクー空間であることだ。
マクー空間――それこそ『宇宙刑事ギャバン』の特徴であり、それまでの作品と一線を画す要因だった。番組を作る際に爆発シーン等をオフィス街や市街地で撮るわけにはいかないから、テレビを見ていると突然撮影場所が変わってしまうことがある。ギャバン以前の作品はそのことに何の説明もしていなかったが、あれは異空間への転移なのだと説明してみせたのが『宇宙刑事ギャバン』の画期的なところであった。
この着想は、『宇宙刑事ギャバン』が1982年の作品だから生まれたものだろう。
その前年、映画『フラッシュ・ゴードン』が公開され、色鮮やかな別世界が観客に強い印象を与えた。『フラッシュ・ゴードン』は、主人公たちが地球を後にし、極彩色の雲が渦巻く異世界に飛び込む冒険活劇だ。その空は普通ではあり得ないような色の雲で覆われ、不思議な形の星々が浮かんでいる。
そんな世界を楽しんだ観客は、一年後にはじまった『宇宙刑事ギャバン』に狂喜した。『フラッシュ・ゴードン』の異世界を模した景色が、マクー空間として広がっていたからだ。こんな世界を毎週見られるとは、なんと楽しいことだろう。
こうして『宇宙刑事ギャバン』はさまざまなSF映画のいいとこ取りをしながら、独自の世界を構築した。
『海賊戦隊ゴーカイジャーVS宇宙刑事ギャバン THE MOVIE』では、単に戦闘シーンのみならず、マクー空間が物語の主要な舞台となる。こんな展開はオリジナルの『宇宙刑事ギャバン』でもなかった。
本作の作り手は、マクー空間こそが『宇宙刑事ギャバン』の肝であることをよく理解し、その設定を存分に活かしているのだ。
また本作は、64分の上映時間の中に怒涛の如くアクションがつまっている。テンポ良く進む物語と、ダイナミックな戦いは、片時も飽きさせない。
その面白さはスタッフとキャスト一同の力によるものだが、なんといってもギャバン役の大葉健二さんの存在が大きいだろう。ウルトラシリーズにしろ仮面ライダーシリーズにしろ懐かしいヒーローがたびたび登場するものの、アクションはあくまで変身後にやるものだ。ところが大葉健二さんは、本作でみずから敵兵士を殴る、蹴る、そして頭上からジャンプする。当年とって56歳の大葉さんにここまでやられたら、他のスタッフ・キャストの意気も揚がろう。
大葉健二さんにとって2012年は、『宇宙刑事ギャバン』から30周年であるとともに、『人造人間キカイダー』(1972年)で華麗なスタントを披露してから40年という記念すべき年である。
それもあってか、本作は大葉健二さんの魅力を最大限に引き出してくれている。
なにしろ大葉健二さんが、一条寺烈ことギャバンだけにとどまらず、バトルケニアこと曙四郎、デンジブルーこと青梅大五郎と一人三役をこなしており、ファンにとっては夢の共演になっているのだ。
もちろん本作はアクションだけが売りではない。
ギャバンとキャプテン・マーベラスとの邂逅は、『宇宙刑事ギャバン』における父ボイサーとの再会を彷彿とさせて涙を誘う。
かつて父を捜した若者が、今は若者を教え導く男になっていることに、観客は30年の重みを感じるだろう。
『海賊戦隊ゴーカイジャーVS宇宙刑事ギャバン THE MOVIE』 [か行]
監督/中澤祥次郎
出演/大葉健二 佐野史郎 濱田龍臣 小澤亮太 山田裕貴 市道真央 清水一希 小池唯 池田純矢
日本公開/2011年1月21日
ジャンル/[スーパーヒーロー] [アクション]
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ギャバンは銀河連邦警察の刑事だったはずなのに、『海賊戦隊ゴーカイジャーVS宇宙刑事ギャバン THE MOVIE』では一貫して宇宙警察の刑事と呼ばれ、デカレンジャーが所属する宇宙警察と同一組織であることが示唆される。
こうしてメタルヒーローシリーズとスーパー戦隊シリーズをクロスオーバーするための地ならしをした上で、ギャバンとゴーカイジャーの活躍を見せてくれるのが本作である。
それはハッとするような場面ではじまる。
帆船型宇宙船ゴーカイガレオンと超次元高速機ドルギランが、NEC本社ビルを挟んで繰り広げる空中戦の大迫力!
ギャバンの愛機ドルギランが30年ぶりに登場するだけでも感激なのに、いきなり激しい戦闘が交わされるのだから、掴みはOKである。
そもそも2012年にギャバンが復活するのは必然だ。
『宇宙刑事ギャバン』の放映開始は1982年、今からちょうど30年前である。「30年復活の法則」に基づけば、2012年はギャバンの年なのだ。
「30年復活の法則」とは私が勝手に名付けたものだが、名前なんか関係なく業界関係者はよくご存知のことだろう。これまでも多くの作品が30年目に復活してきた。その理由は以前の記事に譲るとして、ウルトラシリーズや仮面ライダーシリーズばかりでなく、遂に『宇宙刑事ギャバン』にはじまるメタルヒーローシリーズの復活するときがやってきたのは喜ばしい。
そして本作は『海賊戦隊ゴーカイジャー』の映画版であることから、ギャバンとゴーカイジャーの共通の敵として宇宙帝国ザンギャックが登場する。
けれどもそこに『宇宙刑事ギャバン』の敵・宇宙犯罪組織マクーの末裔を絡ませることで、敵味方とも両作品の要素を引き継いだものになっている。
特に嬉しいのは、戦闘の場がマクー空間であることだ。
マクー空間――それこそ『宇宙刑事ギャバン』の特徴であり、それまでの作品と一線を画す要因だった。番組を作る際に爆発シーン等をオフィス街や市街地で撮るわけにはいかないから、テレビを見ていると突然撮影場所が変わってしまうことがある。ギャバン以前の作品はそのことに何の説明もしていなかったが、あれは異空間への転移なのだと説明してみせたのが『宇宙刑事ギャバン』の画期的なところであった。
この着想は、『宇宙刑事ギャバン』が1982年の作品だから生まれたものだろう。
その前年、映画『フラッシュ・ゴードン』が公開され、色鮮やかな別世界が観客に強い印象を与えた。『フラッシュ・ゴードン』は、主人公たちが地球を後にし、極彩色の雲が渦巻く異世界に飛び込む冒険活劇だ。その空は普通ではあり得ないような色の雲で覆われ、不思議な形の星々が浮かんでいる。
そんな世界を楽しんだ観客は、一年後にはじまった『宇宙刑事ギャバン』に狂喜した。『フラッシュ・ゴードン』の異世界を模した景色が、マクー空間として広がっていたからだ。こんな世界を毎週見られるとは、なんと楽しいことだろう。
こうして『宇宙刑事ギャバン』はさまざまなSF映画のいいとこ取りをしながら、独自の世界を構築した。
『海賊戦隊ゴーカイジャーVS宇宙刑事ギャバン THE MOVIE』では、単に戦闘シーンのみならず、マクー空間が物語の主要な舞台となる。こんな展開はオリジナルの『宇宙刑事ギャバン』でもなかった。
本作の作り手は、マクー空間こそが『宇宙刑事ギャバン』の肝であることをよく理解し、その設定を存分に活かしているのだ。
また本作は、64分の上映時間の中に怒涛の如くアクションがつまっている。テンポ良く進む物語と、ダイナミックな戦いは、片時も飽きさせない。
その面白さはスタッフとキャスト一同の力によるものだが、なんといってもギャバン役の大葉健二さんの存在が大きいだろう。ウルトラシリーズにしろ仮面ライダーシリーズにしろ懐かしいヒーローがたびたび登場するものの、アクションはあくまで変身後にやるものだ。ところが大葉健二さんは、本作でみずから敵兵士を殴る、蹴る、そして頭上からジャンプする。当年とって56歳の大葉さんにここまでやられたら、他のスタッフ・キャストの意気も揚がろう。
大葉健二さんにとって2012年は、『宇宙刑事ギャバン』から30周年であるとともに、『人造人間キカイダー』(1972年)で華麗なスタントを披露してから40年という記念すべき年である。
それもあってか、本作は大葉健二さんの魅力を最大限に引き出してくれている。
なにしろ大葉健二さんが、一条寺烈ことギャバンだけにとどまらず、バトルケニアこと曙四郎、デンジブルーこと青梅大五郎と一人三役をこなしており、ファンにとっては夢の共演になっているのだ。
もちろん本作はアクションだけが売りではない。
ギャバンとキャプテン・マーベラスとの邂逅は、『宇宙刑事ギャバン』における父ボイサーとの再会を彷彿とさせて涙を誘う。
かつて父を捜した若者が、今は若者を教え導く男になっていることに、観客は30年の重みを感じるだろう。

監督/中澤祥次郎
出演/大葉健二 佐野史郎 濱田龍臣 小澤亮太 山田裕貴 市道真央 清水一希 小池唯 池田純矢
日本公開/2011年1月21日
ジャンル/[スーパーヒーロー] [アクション]


【theme : 特撮・SF・ファンタジー映画】
【genre : 映画】
『ALWAYS 三丁目の夕日'64』に泣くのは恥ずかしくない
まず『ALWAYS 三丁目の夕日'64』という題名が注目に値する。
同じように題名に年数が使われた映画には、1974年から1975年にかけて公開された『エアポート'75』や1999年末公開の『ゴジラ2000 ミレニアム』がある。お判りのように、題名に付けられた年数は映画の公開時期であり、その作品が新作であることをアピールしている。
けれども『ALWAYS 三丁目の夕日'64』の公開は2012年であり、1964年ではない。
あるいは『1911』や『1492 コロンブス』のように、誰もが知っている歴史的な出来事のあった年を題名にすることもある。
では1964年に歴史的な出来事があっただろうか。
そう問われても、多くの人思い浮かべるのは新幹線の開通や東京オリンピックくらいだろう。有名な出来事ではあるものの、それらを歴史的とまでは云うまい。
ではこの頃に歴史的な出来事はなかったのか?
あったのだ。歴史に残ることが。
もちろんそれは新幹線の開通や東京オリンピックのことではない。
また、この映画の山崎貴監督と出演する堤真一さん、薬師丸ひろ子さん、温水洋一さんらが生まれたことや、2012年の公開は十二支が4回巡って年男・年女の集結となったことでもない。
もっと大きな日本史上の出来事である。
ここで質問だ。
目の前に日本史の年表を広げてどこか一ヶ所で区切るとしたら、あなたはどこに区切りを入れるだろうか。
明治維新?
第二次世界大戦の終わり?
実は、応仁の乱の前後で切れるというのが日本史研究者の一致するところであるという。室町時代までの中世と戦国時代以降の近世が、応仁の乱で切れるのである。
では、二ヶ所目の区切りを入れるならば、それはどこか?
今度こそ明治維新か、それとも敗戦か?
いやいや、與那覇潤氏によれば、高度経済成長期で切れるそうだ。
近世に完成を見た地域ごとのムラ社会――それは、居住地と身分(職業)を固定し、住民同士の相互扶助によるセーフティ・ネットになるとともに相互監視による安心社会をもたらし、地域ごとの濃密な中間集団を形成した。
ところが高度経済成長期になって、地域に根差していたムラが変容する。
與那覇潤氏は『中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史』において、1960年代の高度成長路線を「地方のムラの人々を会社という『都市のムラ』へ引っ越しさせる」政策であると述べている。高度経済成長期こそは、「戦国時代と並ぶ日本人の生活の激変期」であったという。
そして高度経済成長期のド真ん中が1964年であり、その象徴的な出来事としての新幹線開通や東京オリンピック開催がある。この時期から日本人は、それまでとは違う生活をはじめたのだ。
だから、『ALWAYS 三丁目の夕日'64』の作り手が、1964年を舞台にしたことは慧眼である。
私たちがこの映画を観て懐かしさを覚えるのは、単に東京オリンピックがあったとか、テレビを買って嬉しかったということではない。数百年にわたり連綿と続けてきた生活がここを境に変容してしまった、そのことに感慨を抱くのだ。
ALWAYSシリーズは、とりわけ一貫して家族の変容を描いてきた。
文学崩れの茶川は他人の子供と暮らそうとし、鈴木オートは青森から上京してきた従業員の星野六子(ほしの むつこ、通称ロクちゃん)を家族として扱う。本作に至っては、六子の郷里の両親よりも勤務先の上司であり雇い主である鈴木則文が六子の親として振る舞う。[*]
そして結婚が持つ家と家とを結びつける機能を無視して、本作の登場人物たちは結婚するもしないも本人たちの自由意思で進めてしまう。
本作は一見ほのぼのと家族を賛美するようでいて、実のところ血縁を超えた人間関係の構築がテーマになっているのだ。
21世紀の日本における暮らし方の主流は単身世帯である。多くの人が一人で生きていこうとしている。ハッキリ云えば、血縁に依拠した家族というものが不人気なのだ。
そんな現代において、このシリーズは昔ながらの家族の良さを充分に認めつつ、血縁によらず生活を共にする疑似家族の形成を描き続け、遂に本作では疑似家族から独立する子供や、新たな家族の創出を描いている。
そして数百年来の日本の伝統だった長男が家を継ぐことに関しても、家を継ぐ長男や継がない長男、継げと云われている長男や継ぐなと云われている長男等々、時代の変化とともに出現したさまざまなパターンを描き、古い伝統はここで終わったことを示す。
私たちはこの映画の中に、失われゆくものと新たに生まれたものの双方を見い出すだろう。その双方に愛情を感じ、いずれにも優しさや思いやりがあったことを知る。
しかし時代は変化したのだ。
本作は、単に過去の時代を振り返ったり、懐かしんだりするだけの映画ではない。
あの時代はすでに過ぎ去り、私たちは違う時代に生きているが、あのとき私たちは希望を胸にみずからの足で踏みだしたのだ。新しいものを愛おしく思えばこそ、この道を選んだのだ。
本作はそのことを思い出させ、今の私たちを勇気づける映画なのである。
[*]六子が見染めた菊地医師の人となりを巡る騒動が、本作の主要なエピソードとなる。
とはいえ、自動車修理工たる六子は、無意識のうちに菊地医師のクルマが発するメッセージを読み取っていたに違いない。なにしろ菊地医師のクルマのナンバーは、4114(良い医師)なのだから。
『ALWAYS 三丁目の夕日'64』 [あ行]
監督・脚本・VFX/山崎貴 脚本/古沢良太
出演/吉岡秀隆 堤真一 小雪 薬師丸ひろ子 堀北真希 森山未來 もたいまさこ 染谷将太 大森南朋 三浦友和 須賀健太 小清水一揮 マギー 温水洋一 神戸浩 飯田基祐 ピエール瀧 蛭子能収 正司照枝 高畑淳子 米倉斉加年
日本公開/2012年1月21日
ジャンル/[ドラマ] [ファミリー]
http://bookmarks.yahoo.co.jp/bookmarklet/showpopup?t='+encodeURIComponent(document.title)+'&u='+encodeURIComponent(location.href)+'&ei=UTF-8','_blank','width=550,height=480,left=100,top=50,scrollbars=1,resizable=1',0);">
同じように題名に年数が使われた映画には、1974年から1975年にかけて公開された『エアポート'75』や1999年末公開の『ゴジラ2000 ミレニアム』がある。お判りのように、題名に付けられた年数は映画の公開時期であり、その作品が新作であることをアピールしている。
けれども『ALWAYS 三丁目の夕日'64』の公開は2012年であり、1964年ではない。
あるいは『1911』や『1492 コロンブス』のように、誰もが知っている歴史的な出来事のあった年を題名にすることもある。
では1964年に歴史的な出来事があっただろうか。
そう問われても、多くの人思い浮かべるのは新幹線の開通や東京オリンピックくらいだろう。有名な出来事ではあるものの、それらを歴史的とまでは云うまい。
ではこの頃に歴史的な出来事はなかったのか?
あったのだ。歴史に残ることが。
もちろんそれは新幹線の開通や東京オリンピックのことではない。
また、この映画の山崎貴監督と出演する堤真一さん、薬師丸ひろ子さん、温水洋一さんらが生まれたことや、2012年の公開は十二支が4回巡って年男・年女の集結となったことでもない。
もっと大きな日本史上の出来事である。
ここで質問だ。
目の前に日本史の年表を広げてどこか一ヶ所で区切るとしたら、あなたはどこに区切りを入れるだろうか。
明治維新?
第二次世界大戦の終わり?
実は、応仁の乱の前後で切れるというのが日本史研究者の一致するところであるという。室町時代までの中世と戦国時代以降の近世が、応仁の乱で切れるのである。
では、二ヶ所目の区切りを入れるならば、それはどこか?
今度こそ明治維新か、それとも敗戦か?
いやいや、與那覇潤氏によれば、高度経済成長期で切れるそうだ。
近世に完成を見た地域ごとのムラ社会――それは、居住地と身分(職業)を固定し、住民同士の相互扶助によるセーフティ・ネットになるとともに相互監視による安心社会をもたらし、地域ごとの濃密な中間集団を形成した。
ところが高度経済成長期になって、地域に根差していたムラが変容する。
與那覇潤氏は『中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史』において、1960年代の高度成長路線を「地方のムラの人々を会社という『都市のムラ』へ引っ越しさせる」政策であると述べている。高度経済成長期こそは、「戦国時代と並ぶ日本人の生活の激変期」であったという。
そして高度経済成長期のド真ん中が1964年であり、その象徴的な出来事としての新幹線開通や東京オリンピック開催がある。この時期から日本人は、それまでとは違う生活をはじめたのだ。
だから、『ALWAYS 三丁目の夕日'64』の作り手が、1964年を舞台にしたことは慧眼である。
私たちがこの映画を観て懐かしさを覚えるのは、単に東京オリンピックがあったとか、テレビを買って嬉しかったということではない。数百年にわたり連綿と続けてきた生活がここを境に変容してしまった、そのことに感慨を抱くのだ。
ALWAYSシリーズは、とりわけ一貫して家族の変容を描いてきた。
文学崩れの茶川は他人の子供と暮らそうとし、鈴木オートは青森から上京してきた従業員の星野六子(ほしの むつこ、通称ロクちゃん)を家族として扱う。本作に至っては、六子の郷里の両親よりも勤務先の上司であり雇い主である鈴木則文が六子の親として振る舞う。[*]
そして結婚が持つ家と家とを結びつける機能を無視して、本作の登場人物たちは結婚するもしないも本人たちの自由意思で進めてしまう。
本作は一見ほのぼのと家族を賛美するようでいて、実のところ血縁を超えた人間関係の構築がテーマになっているのだ。
21世紀の日本における暮らし方の主流は単身世帯である。多くの人が一人で生きていこうとしている。ハッキリ云えば、血縁に依拠した家族というものが不人気なのだ。
そんな現代において、このシリーズは昔ながらの家族の良さを充分に認めつつ、血縁によらず生活を共にする疑似家族の形成を描き続け、遂に本作では疑似家族から独立する子供や、新たな家族の創出を描いている。
そして数百年来の日本の伝統だった長男が家を継ぐことに関しても、家を継ぐ長男や継がない長男、継げと云われている長男や継ぐなと云われている長男等々、時代の変化とともに出現したさまざまなパターンを描き、古い伝統はここで終わったことを示す。
私たちはこの映画の中に、失われゆくものと新たに生まれたものの双方を見い出すだろう。その双方に愛情を感じ、いずれにも優しさや思いやりがあったことを知る。
しかし時代は変化したのだ。
本作は、単に過去の時代を振り返ったり、懐かしんだりするだけの映画ではない。
あの時代はすでに過ぎ去り、私たちは違う時代に生きているが、あのとき私たちは希望を胸にみずからの足で踏みだしたのだ。新しいものを愛おしく思えばこそ、この道を選んだのだ。
本作はそのことを思い出させ、今の私たちを勇気づける映画なのである。
[*]六子が見染めた菊地医師の人となりを巡る騒動が、本作の主要なエピソードとなる。
とはいえ、自動車修理工たる六子は、無意識のうちに菊地医師のクルマが発するメッセージを読み取っていたに違いない。なにしろ菊地医師のクルマのナンバーは、4114(良い医師)なのだから。

監督・脚本・VFX/山崎貴 脚本/古沢良太
出演/吉岡秀隆 堤真一 小雪 薬師丸ひろ子 堀北真希 森山未來 もたいまさこ 染谷将太 大森南朋 三浦友和 須賀健太 小清水一揮 マギー 温水洋一 神戸浩 飯田基祐 ピエール瀧 蛭子能収 正司照枝 高畑淳子 米倉斉加年
日本公開/2012年1月21日
ジャンル/[ドラマ] [ファミリー]


『ロボジー』 成長の鍵はコレだ!
『ロボジー』で主役を務める五十嵐信次郎って誰?そんな役者さんいたっけ?
……と思ったら、『時空戦士スピルバン』(1986年)のギローチン皇帝や『世界忍者戦ジライヤ』(1988年)の黒猫こと闇忍デビルキャッツで特撮ファンにもお馴染みのミッキー・カーチスさんではないか。
というわけで、本作の見どころは73歳にしてロボット「ニュー潮風」の被り物に挑戦する五十嵐信次郎さんの愉快な演技だが、ロカビリーで鳴らした彼らしく、「五十嵐信次郎とシルバー人材センター」というバンドで主題歌も披露している。
これがまた傑作で、本作の音楽も担当しているキーボードの天才・ミッキー吉野氏や、ゴダイゴのギタリスト浅野孝已氏らが結集し、あの名曲『Mr. Roboto』を聴かせてくれる。
『Mr. Roboto』は米国のロックバンド・スティクスが1983年に大ヒットさせた曲だ。英語を交えた日本の曲は多いけれど、日本語を交えた米国の曲は珍しいのではないか。
その詞はこんな風にはじまる。
どうもありがとうミスターロボット
また会う日まで
どうもありがとうミスターロボット
秘密を知りたい
1983年といえば、『ジャパン・アズ・ナンバーワン』が日本で70万部を超えるベストセラーになった余韻も覚めやらず、日本車が米国市場を席巻し、日米自動車摩擦が激しかったころである。米国ではその前年に、日本人に間違えられた中国系技術者が自動車工場を解雇された白人労働者に撲殺される事件が起きるほど、日本製品の流入が敵視されていた。この後、80年代後半には半導体でも摩擦が生じ、SF映画で未来社会を牛耳るのは日系企業ばかりになった。
だからこそ当時スティクスは、日本製の部品からなるロボットの歌をうたったわけだ。
なのに、その曲が、実はロボットの開発ができていない騒動を描いた『ロボジー』の主題歌になるんだから、何ともおかしい。
この懐かしい名曲を、五十嵐信次郎さんがかくしゃくとして歌い上げるエンドクレジットを観ていると、しみじみとした感慨が湧いてくる。
怒涛のような感動じゃないのは、本作の構成が変則的だからだ。
本作はロボットの開発に勤しむ若者たちを描きながら、その目指すところは必ずしも大会やコンテストではない。矢口史靖監督は過去のヒット作『ウォーターボーイズ』のような晴れの舞台を用意していないので、本作には判りやすい山場がない。
では何で盛り上がるのかというと、ロボットを巡る学生たちの熱い討議なのである。
今どきの日本の大学生が技術屋の講演に詰めかけて、『ハーバード白熱教室』ばりに活発な議論を戦わせるものなのかは判らない。
しかし、ロボットのメカニズムを考察し、激論を重ねて技術的困難を解決していく彼らの姿は、観客の胸を熱くさせる。
思えば、80年代はなぜあれほどまでに日本製品が売れまくったのだろうか。
日本人が優秀だったのか?
その要因はいろいろあろうが、私見を云わせてもらえば、当時まともに工業製品の開発・製造に取り組んでいた国は日本しかなかったのだと思う。
社会主義国では計画経済の下、創意工夫して優れた製品を生み出そうとする自由(=自由競争)がなかった。開発途上国は政情不安や戦乱で産業どころではない。西側先進国と云われる国々も、社会が麻痺するようなストライキを繰り返したり、品質そっちのけの大味な製品作りだったりと、欠点だらけの状態だった。
そんな中で、日本は治安が良く、企業は製品作りに邁進し、現場もカイゼンにいそしんだ。相対的に日本製品の欠点は少なかったのだ。
しかし、各国だっていつまでも自分で自分の首を絞め続けてはいない。いくつもの国が政情不安や戦乱を克服したし、米国等は制約条件の理論(TOC)やシックス・シグマによってまともな製品開発に取り組んだ。
人間の能力に大した差はないから、各国がまともに取り組めば、まともな製品が生み出される。
かつて日本は技術立国を標榜したが、どこの国でもそれは可能なのだ。
とはいえ、ことロボットに関していえば、日本の取り組みは格別かもしれない。他国もロボットを開発しているが、二足歩行や人間そっくりであることへのこだわりは、日本人がもっとも強いのではないだろうか。
自分に代わって困難に当たってくれる他者を待望するのは、近世以来の日本人の伝統的な心理であろうと思うが、今回そこにはあまり触れずにおこう。
とにかく、米国映画の『リアル・スティール』や『サロゲート』でロボット開発の本場として日本が登場することからも判るように、日本人は自他共に認めるロボット好きなのだ。
科学技術を進展させることにネガティブな想いを抱く人もいる昨今、誰もが科学技術の夢や楽しさを語れる分野は、宇宙開発とロボットくらいなのかもしれない。
だからこそ、本作に登場する学生たちが、ホワイトボードいっぱいに自分の考えを書き連ね、みんなでロボットのあり方を検討する熱気は、映画の観客にも共感しやすい。
本作が偽ロボットの話であることを忘れてしまいそうな盛り上がりである。
そして、ここに老人を絡めてくるのが本作の面白いところだ。
主人公鈴木重光73歳は、勤め先を退職し、毎日々々やることがない。同年齢の老人たちは、老人会の芝居や踊りに取り組んでいるけれど、鈴木翁はそんなものじゃ満たされない。
これは日本が直面している重要な問題だ。
白川方明氏によれば、ここ10年の日本経済の落ち込みは急速な高齢化の影響が大きいという。労働人口が激減したために、実質GDP成長率の低下や財政悪化を招いたのだ。
なるほど、日本の65歳以上人口の15~64歳人口に対する比率は2010年時点で35%に達し、米、英、伊、仏、独と比べても断然高い。毎日時間を持て余したり、ときどき芝居や踊りをするだけの人が激増すれば、経済が落ち込むのはとうぜんだろう。
また映画では、老人が時間を持て余す一方、学生たちは就活に追われている。ここには世代間格差の問題もあるのだ。
そこで本作が指摘するのは、ロボットがやれば驚かれることでも、老人には普通にできるという点だ。
若手技術者は彼らなりに熱心だし頑張っているが、失敗もする。他方では時間を持て余す老人がいる。本作では両者の組み合わせで難局を乗り切るのだが、両者が補完関係にあるのは映画の世界にとどまらないだろう。ひらたくいえば、ロボットの活躍は待ち遠しいものの、まだ二足歩行がやっとのロボットより、老人の方が役に立つということだ。
この映画が描いたのはある種のインチキだ。しかし、そこに日本が成長する鍵があるように思えるのだが、いかがだろうか。
スティクスが歌うミスターロボットは、部品こそ日本製だが頭脳はIBM製品だった。
けれども本作のニュー潮風なら、頭脳も含めて立派な日本生まれである。
『ロボジー』 [ら行]
監督・脚本/矢口史靖 脚本協力/矢口純子
音楽/ミッキー吉野
出演/五十嵐信次郎 (ミッキー・カーチス) 吉高由里子 濱田岳 川合正悟 川島潤哉 田畑智子 和久井映見 小野武彦
日本公開/2011年1月14日
ジャンル/[コメディ]
http://bookmarks.yahoo.co.jp/bookmarklet/showpopup?t='+encodeURIComponent(document.title)+'&u='+encodeURIComponent(location.href)+'&ei=UTF-8','_blank','width=550,height=480,left=100,top=50,scrollbars=1,resizable=1',0);">
……と思ったら、『時空戦士スピルバン』(1986年)のギローチン皇帝や『世界忍者戦ジライヤ』(1988年)の黒猫こと闇忍デビルキャッツで特撮ファンにもお馴染みのミッキー・カーチスさんではないか。
というわけで、本作の見どころは73歳にしてロボット「ニュー潮風」の被り物に挑戦する五十嵐信次郎さんの愉快な演技だが、ロカビリーで鳴らした彼らしく、「五十嵐信次郎とシルバー人材センター」というバンドで主題歌も披露している。
これがまた傑作で、本作の音楽も担当しているキーボードの天才・ミッキー吉野氏や、ゴダイゴのギタリスト浅野孝已氏らが結集し、あの名曲『Mr. Roboto』を聴かせてくれる。
『Mr. Roboto』は米国のロックバンド・スティクスが1983年に大ヒットさせた曲だ。英語を交えた日本の曲は多いけれど、日本語を交えた米国の曲は珍しいのではないか。
その詞はこんな風にはじまる。
どうもありがとうミスターロボット
また会う日まで
どうもありがとうミスターロボット
秘密を知りたい
1983年といえば、『ジャパン・アズ・ナンバーワン』が日本で70万部を超えるベストセラーになった余韻も覚めやらず、日本車が米国市場を席巻し、日米自動車摩擦が激しかったころである。米国ではその前年に、日本人に間違えられた中国系技術者が自動車工場を解雇された白人労働者に撲殺される事件が起きるほど、日本製品の流入が敵視されていた。この後、80年代後半には半導体でも摩擦が生じ、SF映画で未来社会を牛耳るのは日系企業ばかりになった。
だからこそ当時スティクスは、日本製の部品からなるロボットの歌をうたったわけだ。
なのに、その曲が、実はロボットの開発ができていない騒動を描いた『ロボジー』の主題歌になるんだから、何ともおかしい。
この懐かしい名曲を、五十嵐信次郎さんがかくしゃくとして歌い上げるエンドクレジットを観ていると、しみじみとした感慨が湧いてくる。
怒涛のような感動じゃないのは、本作の構成が変則的だからだ。
本作はロボットの開発に勤しむ若者たちを描きながら、その目指すところは必ずしも大会やコンテストではない。矢口史靖監督は過去のヒット作『ウォーターボーイズ』のような晴れの舞台を用意していないので、本作には判りやすい山場がない。
では何で盛り上がるのかというと、ロボットを巡る学生たちの熱い討議なのである。
今どきの日本の大学生が技術屋の講演に詰めかけて、『ハーバード白熱教室』ばりに活発な議論を戦わせるものなのかは判らない。
しかし、ロボットのメカニズムを考察し、激論を重ねて技術的困難を解決していく彼らの姿は、観客の胸を熱くさせる。
思えば、80年代はなぜあれほどまでに日本製品が売れまくったのだろうか。
日本人が優秀だったのか?
その要因はいろいろあろうが、私見を云わせてもらえば、当時まともに工業製品の開発・製造に取り組んでいた国は日本しかなかったのだと思う。
社会主義国では計画経済の下、創意工夫して優れた製品を生み出そうとする自由(=自由競争)がなかった。開発途上国は政情不安や戦乱で産業どころではない。西側先進国と云われる国々も、社会が麻痺するようなストライキを繰り返したり、品質そっちのけの大味な製品作りだったりと、欠点だらけの状態だった。
そんな中で、日本は治安が良く、企業は製品作りに邁進し、現場もカイゼンにいそしんだ。相対的に日本製品の欠点は少なかったのだ。
しかし、各国だっていつまでも自分で自分の首を絞め続けてはいない。いくつもの国が政情不安や戦乱を克服したし、米国等は制約条件の理論(TOC)やシックス・シグマによってまともな製品開発に取り組んだ。
人間の能力に大した差はないから、各国がまともに取り組めば、まともな製品が生み出される。
かつて日本は技術立国を標榜したが、どこの国でもそれは可能なのだ。
とはいえ、ことロボットに関していえば、日本の取り組みは格別かもしれない。他国もロボットを開発しているが、二足歩行や人間そっくりであることへのこだわりは、日本人がもっとも強いのではないだろうか。
自分に代わって困難に当たってくれる他者を待望するのは、近世以来の日本人の伝統的な心理であろうと思うが、今回そこにはあまり触れずにおこう。
とにかく、米国映画の『リアル・スティール』や『サロゲート』でロボット開発の本場として日本が登場することからも判るように、日本人は自他共に認めるロボット好きなのだ。
科学技術を進展させることにネガティブな想いを抱く人もいる昨今、誰もが科学技術の夢や楽しさを語れる分野は、宇宙開発とロボットくらいなのかもしれない。
だからこそ、本作に登場する学生たちが、ホワイトボードいっぱいに自分の考えを書き連ね、みんなでロボットのあり方を検討する熱気は、映画の観客にも共感しやすい。
本作が偽ロボットの話であることを忘れてしまいそうな盛り上がりである。
そして、ここに老人を絡めてくるのが本作の面白いところだ。
主人公鈴木重光73歳は、勤め先を退職し、毎日々々やることがない。同年齢の老人たちは、老人会の芝居や踊りに取り組んでいるけれど、鈴木翁はそんなものじゃ満たされない。
これは日本が直面している重要な問題だ。
白川方明氏によれば、ここ10年の日本経済の落ち込みは急速な高齢化の影響が大きいという。労働人口が激減したために、実質GDP成長率の低下や財政悪化を招いたのだ。
なるほど、日本の65歳以上人口の15~64歳人口に対する比率は2010年時点で35%に達し、米、英、伊、仏、独と比べても断然高い。毎日時間を持て余したり、ときどき芝居や踊りをするだけの人が激増すれば、経済が落ち込むのはとうぜんだろう。
また映画では、老人が時間を持て余す一方、学生たちは就活に追われている。ここには世代間格差の問題もあるのだ。
そこで本作が指摘するのは、ロボットがやれば驚かれることでも、老人には普通にできるという点だ。
若手技術者は彼らなりに熱心だし頑張っているが、失敗もする。他方では時間を持て余す老人がいる。本作では両者の組み合わせで難局を乗り切るのだが、両者が補完関係にあるのは映画の世界にとどまらないだろう。ひらたくいえば、ロボットの活躍は待ち遠しいものの、まだ二足歩行がやっとのロボットより、老人の方が役に立つということだ。
この映画が描いたのはある種のインチキだ。しかし、そこに日本が成長する鍵があるように思えるのだが、いかがだろうか。
スティクスが歌うミスターロボットは、部品こそ日本製だが頭脳はIBM製品だった。
けれども本作のニュー潮風なら、頭脳も含めて立派な日本生まれである。

監督・脚本/矢口史靖 脚本協力/矢口純子
音楽/ミッキー吉野
出演/五十嵐信次郎 (ミッキー・カーチス) 吉高由里子 濱田岳 川合正悟 川島潤哉 田畑智子 和久井映見 小野武彦
日本公開/2011年1月14日
ジャンル/[コメディ]

