『聯合艦隊司令長官 山本五十六』 映画を観る2つのポイント
「その根拠を示していただきたい。」
『聯合艦隊司令長官 山本五十六』の中で、山本五十六(やまもと いそろく)は何度も人々に問いかける。
映画は140分のあいだ山本五十六を追い続け、その功罪を含めて彼がしたこと、云ったことを描き出すが、最後まで山本五十六は国がどうあるべきかを口にしない。
彼は理念を振りかざしたり、「あるべき論」に突き動かされることなく、常に実現可能か否かを吟味するのだ。人と議論するときも、相手に意見の根拠を数字で示せと迫る。
■異なる意見・立場の人との議論を成立させる方法
映画は、日独同盟を推し進めようとする陸軍及び海軍にあって、米内光政海軍大臣、山本五十六海軍次官、井上成美軍務局長の三人だけが、反対を唱えるところからはじまる。
すでに1933~1934年の海軍良識派の追放によって山本五十六の友人・堀悌吉中将らが海軍を去っており、対米英戦争に抵抗する者はほとんどいなくなっていた。そんな中、薩摩長州が主流の軍において、盛岡、越後長岡、仙台(いずれも薩長と戦った奥羽越列藩同盟)出身の傍流である彼ら三人が抵抗を続け、いったんは日独の軍事同盟成立を押しとどめる。
そこでも山本五十六が問うのは「根拠は何か」ということだ。
本作の宣伝に当たって『太平洋戦争70年目の真実』という副題が付けられているが、70年経っても私たちが苦手とするのは、根拠を数字で確かめること、あるべき論に陥らずに実現可能性を吟味することだ。
机上のディベートであれば「是か・非か」を論じるのも良いだろう。しかし、現実の施策を考える際には「可能か・不可能か」を突き詰めることが欠かせない。にもかかわらず、是非を論じ出すと「可能か・不可能か」という検討が置き去りにされ、ひとたび「是」となれば、「できない」とは云わせない空気が私たちにはあるのではないか。
これは、「是・非」論と「可能・不可能」論の区別ができない日本的思考の弱点だと指摘されるところである。
そして可能・不可能を論じることなく突き進めば、「欲しがりません勝つまでは」「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」等の標語が登場することになる。国民みんなで我慢や節約を唱えるようでは、もう負け戦でしかないのだが。
本作で山本五十六が日独同盟に反対して語るのは、この「可能か・不可能か」に尽きる。日米の戦力差、造船等の能力差、それらを数字で比較してみせる。
「是・非」論に陥って迷走するのを防ぐには、「可能か・不可能か」を数字で議論することだ。
この映画では軍人同士が戦争について語るので、航空機や艦船の数を挙げているが、違う立場の人が異なるシチュエーションで議論するときには、どんな数字を使えば良いのだろう。
経営手法として知られるシックス・シグマでは、異なる意見・立場の人とでも議論を成立させるために、いったんすべての要素を金額に換算することを提唱している。世界中の誰もが価値の大小を認識できる数字は、金額ぐらいしかないからだ。
面白いことに、金の話というと胡散臭く感じる人が必ず存在する。
しかし、ただの紙切れが貨幣として流通できるのは、そこに人々の信用があればこそだ。無人島に漂着した二人の男が最後の食料を奪い合うとき、どんなに札束を積んでも相手は譲ってくれないだろう。金が価値を発揮するのは、人々が信用で結ばれた平和な世界だけなのだ。金額には換算しにくい価値もあろうが、貝殻や石を貨幣とした時代から数千年を経てもなお、人類はこれ以上の価値の数量化方法を編み出していない。
そしてまた、「可能か・不可能か」を検討するには、金額的に見合うかどうかを議論すれば充分なはずだ。
金額で表現できなくなったら、そこには「是・非」論が混ざり込んでいる。70年前と同じ過ちに陥る危険信号である。
残念なことに、山本五十六らの反対にもかかわらず、日独伊三国同盟は成立してしまう。
本作の監修を務めた半藤一利氏の著書『[真珠湾]の日』には、日独伊三国同盟締結時の山本五十六の憂慮と怒りの言葉が載っている。
「実に言語道断だ。……自分の考えでは、この結果としてアメリカと戦争するということは、ほとんど全世界を相手にするつもりにならなければ駄目だ。もうこうなった以上、やがて戦争となるであろうが、そうなったときは最善をつくして奮闘する。そうして戦艦長門の艦上で討死することになろう。その間に、東京大阪あたりは三度ぐらいまる焼けにされて、非常なみじめな目にあうだろう。」[*1]
残念なことに、山本五十六の言葉はほとんど当たってしまう。
彼は戦争半ばで討死し、全国各地に爆弾が落とされ、東京はまる焼けになり、広島、長崎はまる焼けどころではない被害に合う。日本は、民間人が住む街を新旧爆弾の実験場にされるという、非常にみじめな目に遭うのだ。
■映画を観る上での二つのポイント
過去の時代を描いた映画を観るときには、二つの重要なポイントがある。
一つは、現代人に何を訴えるかということだ。鑑賞するのは現代の観客なのだから、作品は現代人に向けて作られているはずだ。単なるノスタルジーや、ネームバリューへの依存を超えて、現代の作品として観客にどんなメッセージを届けるのか。それが明確でなければ、わざわざ過去を舞台にする意味がない。
その点、『聯合艦隊司令長官 山本五十六』は70年前を舞台にしながら、前述したようにセリフの一つ一つが今の私たちに響いてくる。
不安定な内閣、「閉塞感」が覆うという世の中、数字での議論を置き去りにした是非論。作り手たちが今の日本と重ね合わせているのは明らかだ。そこで語られる言葉のすべては、現代人へのメッセージである。
たとえば日独同盟推進派の軍人たちが日本語に訳されたドイツの本を読んで彼の国を知ったつもりになっている場面。
実は翻訳段階で一部が削られており、原書を読まねば本の真意が判らないのに、軍人たちは日本語訳を信じ込んでいるところなど、現代の私たちが情報源も確かめないでWebページを鵜呑みにするようなものである。
公式サイトの撮影日誌によれば、本作が企画されたのは東日本大震災より前とのことだが、震災を経てそのメッセージはますます重みを増していよう。
重要なポイントの二つ目は、現代ならでは考察がなされていることだ。
すでに過去の考察があろうとも、新たに発見された事実や、今でなければ考えが至らないこと、発言できないことがあるはずだ。もし過去の評価を上書きするような現代ならではの考察がないならば、新作なんぞ作らずに過去の作品をリバイバル上映すれば良い。
では、本作の題材である戦争を、かつて日本人はどのように見ていたのだろう。
それを端的に表した惹句がある。
「巨大な組織が育てた一人の独裁者…その野望と狂気が日本を戦争へかり立てた!」
これは1970年公開の堀川弘通監督『激動の昭和史 軍閥』のポスターに書かれたものだ。この惹句の下には東條英機に扮した小林桂樹さんのアップがあり、当時の人々が東條英機と軍部こそ国民を戦争へ引きずり込んだ張本人だと見なしていたことが判る。
もちろん彼らの責任も大きいが、この映画そのものはポスターほど一方的ではなく、東條英機だって戦争を避けようとしたことや、戦争が始まって大喜びしたのは国民みんなであることも描いている。そもそも、ヒトラーが10年以上にわたって権力を掌握し続けたのに対し、日本は戦争中でも首相がころころ変わっていたのだから、独裁とはいいがたい。
とはいえ戦後の長い間、軍部が暴走したから戦争になったとか、国民は被害者であるといった言説が流布していたのは確かである。
その点で、市井の人々が戦争を待ち望む姿を描いた本作は、20世紀には作りづらかったものであろう。
2011年2月公開の『太平洋の奇跡 フォックスと呼ばれた男』でも軍人より好戦的な民間人が登場したが、本作は一刻も早い開戦を望むのが国民の日常の姿であったことを描いて印象的だ。
実際に日米開戦が報じられると、日本国民は快哉を叫んだ。前述の『[真珠湾]の日』には、喜びに湧き返る日本の様子がたっぷりと収められている。
---
首相官邸には、激励の声や電話が殺到し、当時の電話交換手の証言によれば、電話回線がパンクしそうなほどであったという。「よくやってくれた」「胸がスーッとした」「東条さんは英雄だ」「みんな頑張れ、オレも頑張るぞ」……それらはすべて泣き声に近いような声をはりあげていたともいう。
---
現在の私たちは、この戦争の行く末を知っている。だから『聯合艦隊司令長官 山本五十六』で、軍令部総長らが真珠湾の戦果を聞いて有頂天になる様を見て愚かしく思う。しかし、それは当時の国民みんなの姿だったのだ。
■あおらせるのは誰か
映画は、人々を煽るマスコミの責任も取り上げる。
前述の『激動の昭和史 軍閥』では、毎日新聞の竹槍事件をモデルとしたエピソードが描かれる。すでに戦況が悪化していた1944年、竹槍訓練なぞを実施させる軍に対して、毎日新聞は「竹槍では間に合わぬ」と批判する記事を掲載したのだ。
竹槍事件の中心にいたのは新名丈夫記者だが、本作で似たような位置づけなのは、新名記者と半藤一利氏の名を組み合わせたとおぼしき真藤利一記者である。玉木宏さんが演じる真藤記者は、人々を煽る報道に疑問を感じている。
けれども竹槍事件のような批判記事は書かない。竹槍事件は例外中の例外なのだ。
たとえば朝日新聞は、日本が敗戦することを1945年8月10日には掴んでいながら、ポツダム宣言を受諾するまさに8月14日においてもなお、その社説で「一億の信念の凝り固まった火の玉は消すことはできない。」と主張し、最後の最後まで国民を鼓舞し続けた。[*2]
本作では、日独同盟を推し進めて世の閉塞感を打ち破るべしと主張する東京日報の主幹に対し、山本五十六が「その閉塞感を煽っているのはあなた方ではないのですか」と切り返している。
なぜ新聞は人々を煽るような記事を書いたのか。
右翼の圧力、不買運動等もあろうが、読者が望んだことも見逃せない。
朝日新聞を例に取れば、1931年の満州事変を機に発行部数はウナギ登りになる。1931年の1,435,628部が敗戦の前年には3,669,380部へと増加し、実に2.5倍以上の伸びだ。日中戦争の期間だけでも1.5倍になっている。
読売新聞も「戦争は新聞の販売上絶好の機会」とばかりにそれまで手を出せなかった夕刊を発行して成功したというから、新聞は読者の要望に応えることで支持されたのである。[*2]
そして静かに事実を伝えるよりも、センセーショナルな記事で読者の気持ちを昂らせるのは昔も今も変わらない。
さらに、今や警戒すべきは新聞ばかりではない。
私たちが目にする本や雑誌や映画が、真実を伝えているとは限らない。
ましてやインターネットの発達は、情報を発信するための巨大な編集システムや輪転機を不要にし、新聞社に属さないフリーのジャーナリストでも、ジャーナリストでない人でも、いともたやすく発信できるようにした。そこには原稿をチェックする人も掲載の適否を判断する人もいない。
だからこそ、情報の受け手であると同時に送り手にもなる私たちは、情報を吟味するだけでなく、情報を発信するべきなのかを自問しなければならないのだ。
■山本五十六の誤算
本作の冒頭、日独同盟に反対する山本五十六は暗殺されるおそれがあるにもかかわらず、厳重な警護を付けようという意見に対して「普通でいいんだ」と聞き入れない。もしも自分が討たれても、それで人々が大事なことに気づいてくれれば良いと云うのだ。
なるほど、世論がどれほど戦争を望んでいようとも、実際に暗殺事件が起これば、暗殺者を称賛することはないだろう。山本五十六が凶弾に倒れたとなれば、世間の同情が集まり、戦争反対の声も勢いづいたかもしれない。
けれど、ほどなく日本は開戦し、山本五十六は戦争半ばで死亡した。そして、このときすでに世間にとっての山本五十六は、戦争反対派ではなく真珠湾攻撃以来の英雄だった。
朝日新聞は1943年5月22日のコラムで「(山本五十六の)戦死によって、皇軍将兵の士気はいやが上にも高鳴るものがある」と述べ、同5月23日夕刊には「(戦死を受けて)かえって鉄より固き米英撃滅の信念を植えつけられた」という投書を紹介している。死後、山本五十六は元帥を追贈され、「元帥に続け」「元帥の仇討ち」が国民の合い言葉になったという。[*2]
このような取り上げ方は、山本五十六が喜ぶことではなかったろう。戦争が長期化する中で、彼は自分の身にもしものことがあったら国民がどう反応すると考えていたのだろうか。
残念ながら、山本五十六の死は、国民の戦意をますますかき立ててしまったのである。
そしてまた、生きていればやるべきこともあったろう。
映画では描かれないが、山本五十六の死後、終戦間際に海軍傍流トリオの残る二人である米内光政と井上成美は日本の滅亡を食い止めるべく奮闘した。
1945年、ほぼ全滅状態にあった海軍は、陸軍に統合されそうになるのだが、二人はこれに猛反発したのだ。[*3]
海軍が陸軍に統合されるということは、海軍大臣、陸軍大臣二つの椅子が一つになることを意味する。陸海統合軍の大臣には、とうぜん陸軍の人間が納まるだろう。そうなれば、当時陸軍が主張していた「本土決戦」に反対する大臣がいなくなる。
日本の内閣は連帯責任を負い、明治憲法制定から今に至るまで閣議の全会一致制を採用している。つまりすべての閣僚が拒否権を持っているのだ。
だから海軍が独立していればこそ、内閣に大臣を送り込み、「本土決戦」に反対することができた。
本土決戦をしていたなら、当時人口7000万人の日本国民のうち2000万人は死亡しただろうと云われている。ソ連の侵攻も樺太だけにとどまらなかっただろう。
そんなことになったら、敗戦から6年で独立国に復帰することはできなかったかもしれない。
日本列島にあるのは、今の日本国とはまったく異なるものだったかもしれない。それは国ですらなかったかもしれない。
奇しくも、『聯合艦隊司令長官 山本五十六』が封切られた12月23日は、A級戦犯7名が処刑された日である。
戦争の終わらせ方を模索していた山本五十六なら、どのように終わらせただろうか。
今こそ私たちは、目と耳と心を大きく開いて、世界を見る必要があるのだろう。
参考文献
[*1] 半藤一利 (2001) 『[真珠湾]の日』 文藝春秋
[*2] 安田将三・石橋孝太郎 (1995) 『朝日新聞の戦争責任……東スポもびっくり!の戦争記事を徹底検証』 太田出版
[*3] 半藤一利・戸高一成 (2006) 『愛国者の条件 ――昭和の失策とナショナリズムの本質を問う』 ダイヤモンド社
『聯合艦隊司令長官 山本五十六』 [ら行]
監督/成島出 監修/半藤一利
脚本/長谷川康夫、飯田健三郎
出演/役所広司 玉木宏 柄本明 柳葉敏郎 阿部寛 吉田栄作 椎名桔平 香川照之 益岡徹 袴田吉彦 五十嵐隼士 河原健二 碓井将大 坂東三津五郎 原田美枝子 瀬戸朝香 田中麗奈 中原丈雄 中村育二 伊武雅刀 宮本信子
日本公開/2011年12月23日
ジャンル/[ドラマ] [戦争]
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『聯合艦隊司令長官 山本五十六』の中で、山本五十六(やまもと いそろく)は何度も人々に問いかける。
映画は140分のあいだ山本五十六を追い続け、その功罪を含めて彼がしたこと、云ったことを描き出すが、最後まで山本五十六は国がどうあるべきかを口にしない。
彼は理念を振りかざしたり、「あるべき論」に突き動かされることなく、常に実現可能か否かを吟味するのだ。人と議論するときも、相手に意見の根拠を数字で示せと迫る。
■異なる意見・立場の人との議論を成立させる方法
映画は、日独同盟を推し進めようとする陸軍及び海軍にあって、米内光政海軍大臣、山本五十六海軍次官、井上成美軍務局長の三人だけが、反対を唱えるところからはじまる。
すでに1933~1934年の海軍良識派の追放によって山本五十六の友人・堀悌吉中将らが海軍を去っており、対米英戦争に抵抗する者はほとんどいなくなっていた。そんな中、薩摩長州が主流の軍において、盛岡、越後長岡、仙台(いずれも薩長と戦った奥羽越列藩同盟)出身の傍流である彼ら三人が抵抗を続け、いったんは日独の軍事同盟成立を押しとどめる。
そこでも山本五十六が問うのは「根拠は何か」ということだ。
本作の宣伝に当たって『太平洋戦争70年目の真実』という副題が付けられているが、70年経っても私たちが苦手とするのは、根拠を数字で確かめること、あるべき論に陥らずに実現可能性を吟味することだ。
机上のディベートであれば「是か・非か」を論じるのも良いだろう。しかし、現実の施策を考える際には「可能か・不可能か」を突き詰めることが欠かせない。にもかかわらず、是非を論じ出すと「可能か・不可能か」という検討が置き去りにされ、ひとたび「是」となれば、「できない」とは云わせない空気が私たちにはあるのではないか。
これは、「是・非」論と「可能・不可能」論の区別ができない日本的思考の弱点だと指摘されるところである。
そして可能・不可能を論じることなく突き進めば、「欲しがりません勝つまでは」「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」等の標語が登場することになる。国民みんなで我慢や節約を唱えるようでは、もう負け戦でしかないのだが。
本作で山本五十六が日独同盟に反対して語るのは、この「可能か・不可能か」に尽きる。日米の戦力差、造船等の能力差、それらを数字で比較してみせる。
「是・非」論に陥って迷走するのを防ぐには、「可能か・不可能か」を数字で議論することだ。
この映画では軍人同士が戦争について語るので、航空機や艦船の数を挙げているが、違う立場の人が異なるシチュエーションで議論するときには、どんな数字を使えば良いのだろう。
経営手法として知られるシックス・シグマでは、異なる意見・立場の人とでも議論を成立させるために、いったんすべての要素を金額に換算することを提唱している。世界中の誰もが価値の大小を認識できる数字は、金額ぐらいしかないからだ。
面白いことに、金の話というと胡散臭く感じる人が必ず存在する。
しかし、ただの紙切れが貨幣として流通できるのは、そこに人々の信用があればこそだ。無人島に漂着した二人の男が最後の食料を奪い合うとき、どんなに札束を積んでも相手は譲ってくれないだろう。金が価値を発揮するのは、人々が信用で結ばれた平和な世界だけなのだ。金額には換算しにくい価値もあろうが、貝殻や石を貨幣とした時代から数千年を経てもなお、人類はこれ以上の価値の数量化方法を編み出していない。
そしてまた、「可能か・不可能か」を検討するには、金額的に見合うかどうかを議論すれば充分なはずだ。
金額で表現できなくなったら、そこには「是・非」論が混ざり込んでいる。70年前と同じ過ちに陥る危険信号である。
残念なことに、山本五十六らの反対にもかかわらず、日独伊三国同盟は成立してしまう。
本作の監修を務めた半藤一利氏の著書『[真珠湾]の日』には、日独伊三国同盟締結時の山本五十六の憂慮と怒りの言葉が載っている。
「実に言語道断だ。……自分の考えでは、この結果としてアメリカと戦争するということは、ほとんど全世界を相手にするつもりにならなければ駄目だ。もうこうなった以上、やがて戦争となるであろうが、そうなったときは最善をつくして奮闘する。そうして戦艦長門の艦上で討死することになろう。その間に、東京大阪あたりは三度ぐらいまる焼けにされて、非常なみじめな目にあうだろう。」[*1]
残念なことに、山本五十六の言葉はほとんど当たってしまう。
彼は戦争半ばで討死し、全国各地に爆弾が落とされ、東京はまる焼けになり、広島、長崎はまる焼けどころではない被害に合う。日本は、民間人が住む街を新旧爆弾の実験場にされるという、非常にみじめな目に遭うのだ。
■映画を観る上での二つのポイント
過去の時代を描いた映画を観るときには、二つの重要なポイントがある。
一つは、現代人に何を訴えるかということだ。鑑賞するのは現代の観客なのだから、作品は現代人に向けて作られているはずだ。単なるノスタルジーや、ネームバリューへの依存を超えて、現代の作品として観客にどんなメッセージを届けるのか。それが明確でなければ、わざわざ過去を舞台にする意味がない。
その点、『聯合艦隊司令長官 山本五十六』は70年前を舞台にしながら、前述したようにセリフの一つ一つが今の私たちに響いてくる。
不安定な内閣、「閉塞感」が覆うという世の中、数字での議論を置き去りにした是非論。作り手たちが今の日本と重ね合わせているのは明らかだ。そこで語られる言葉のすべては、現代人へのメッセージである。
たとえば日独同盟推進派の軍人たちが日本語に訳されたドイツの本を読んで彼の国を知ったつもりになっている場面。
実は翻訳段階で一部が削られており、原書を読まねば本の真意が判らないのに、軍人たちは日本語訳を信じ込んでいるところなど、現代の私たちが情報源も確かめないでWebページを鵜呑みにするようなものである。
公式サイトの撮影日誌によれば、本作が企画されたのは東日本大震災より前とのことだが、震災を経てそのメッセージはますます重みを増していよう。
重要なポイントの二つ目は、現代ならでは考察がなされていることだ。
すでに過去の考察があろうとも、新たに発見された事実や、今でなければ考えが至らないこと、発言できないことがあるはずだ。もし過去の評価を上書きするような現代ならではの考察がないならば、新作なんぞ作らずに過去の作品をリバイバル上映すれば良い。
では、本作の題材である戦争を、かつて日本人はどのように見ていたのだろう。
それを端的に表した惹句がある。
「巨大な組織が育てた一人の独裁者…その野望と狂気が日本を戦争へかり立てた!」
これは1970年公開の堀川弘通監督『激動の昭和史 軍閥』のポスターに書かれたものだ。この惹句の下には東條英機に扮した小林桂樹さんのアップがあり、当時の人々が東條英機と軍部こそ国民を戦争へ引きずり込んだ張本人だと見なしていたことが判る。
もちろん彼らの責任も大きいが、この映画そのものはポスターほど一方的ではなく、東條英機だって戦争を避けようとしたことや、戦争が始まって大喜びしたのは国民みんなであることも描いている。そもそも、ヒトラーが10年以上にわたって権力を掌握し続けたのに対し、日本は戦争中でも首相がころころ変わっていたのだから、独裁とはいいがたい。
とはいえ戦後の長い間、軍部が暴走したから戦争になったとか、国民は被害者であるといった言説が流布していたのは確かである。
その点で、市井の人々が戦争を待ち望む姿を描いた本作は、20世紀には作りづらかったものであろう。
2011年2月公開の『太平洋の奇跡 フォックスと呼ばれた男』でも軍人より好戦的な民間人が登場したが、本作は一刻も早い開戦を望むのが国民の日常の姿であったことを描いて印象的だ。
実際に日米開戦が報じられると、日本国民は快哉を叫んだ。前述の『[真珠湾]の日』には、喜びに湧き返る日本の様子がたっぷりと収められている。
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首相官邸には、激励の声や電話が殺到し、当時の電話交換手の証言によれば、電話回線がパンクしそうなほどであったという。「よくやってくれた」「胸がスーッとした」「東条さんは英雄だ」「みんな頑張れ、オレも頑張るぞ」……それらはすべて泣き声に近いような声をはりあげていたともいう。
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現在の私たちは、この戦争の行く末を知っている。だから『聯合艦隊司令長官 山本五十六』で、軍令部総長らが真珠湾の戦果を聞いて有頂天になる様を見て愚かしく思う。しかし、それは当時の国民みんなの姿だったのだ。
■あおらせるのは誰か
映画は、人々を煽るマスコミの責任も取り上げる。
前述の『激動の昭和史 軍閥』では、毎日新聞の竹槍事件をモデルとしたエピソードが描かれる。すでに戦況が悪化していた1944年、竹槍訓練なぞを実施させる軍に対して、毎日新聞は「竹槍では間に合わぬ」と批判する記事を掲載したのだ。
竹槍事件の中心にいたのは新名丈夫記者だが、本作で似たような位置づけなのは、新名記者と半藤一利氏の名を組み合わせたとおぼしき真藤利一記者である。玉木宏さんが演じる真藤記者は、人々を煽る報道に疑問を感じている。
けれども竹槍事件のような批判記事は書かない。竹槍事件は例外中の例外なのだ。
たとえば朝日新聞は、日本が敗戦することを1945年8月10日には掴んでいながら、ポツダム宣言を受諾するまさに8月14日においてもなお、その社説で「一億の信念の凝り固まった火の玉は消すことはできない。」と主張し、最後の最後まで国民を鼓舞し続けた。[*2]
本作では、日独同盟を推し進めて世の閉塞感を打ち破るべしと主張する東京日報の主幹に対し、山本五十六が「その閉塞感を煽っているのはあなた方ではないのですか」と切り返している。
なぜ新聞は人々を煽るような記事を書いたのか。
右翼の圧力、不買運動等もあろうが、読者が望んだことも見逃せない。
朝日新聞を例に取れば、1931年の満州事変を機に発行部数はウナギ登りになる。1931年の1,435,628部が敗戦の前年には3,669,380部へと増加し、実に2.5倍以上の伸びだ。日中戦争の期間だけでも1.5倍になっている。
読売新聞も「戦争は新聞の販売上絶好の機会」とばかりにそれまで手を出せなかった夕刊を発行して成功したというから、新聞は読者の要望に応えることで支持されたのである。[*2]
そして静かに事実を伝えるよりも、センセーショナルな記事で読者の気持ちを昂らせるのは昔も今も変わらない。
さらに、今や警戒すべきは新聞ばかりではない。
私たちが目にする本や雑誌や映画が、真実を伝えているとは限らない。
ましてやインターネットの発達は、情報を発信するための巨大な編集システムや輪転機を不要にし、新聞社に属さないフリーのジャーナリストでも、ジャーナリストでない人でも、いともたやすく発信できるようにした。そこには原稿をチェックする人も掲載の適否を判断する人もいない。
だからこそ、情報の受け手であると同時に送り手にもなる私たちは、情報を吟味するだけでなく、情報を発信するべきなのかを自問しなければならないのだ。
■山本五十六の誤算
本作の冒頭、日独同盟に反対する山本五十六は暗殺されるおそれがあるにもかかわらず、厳重な警護を付けようという意見に対して「普通でいいんだ」と聞き入れない。もしも自分が討たれても、それで人々が大事なことに気づいてくれれば良いと云うのだ。
なるほど、世論がどれほど戦争を望んでいようとも、実際に暗殺事件が起これば、暗殺者を称賛することはないだろう。山本五十六が凶弾に倒れたとなれば、世間の同情が集まり、戦争反対の声も勢いづいたかもしれない。
けれど、ほどなく日本は開戦し、山本五十六は戦争半ばで死亡した。そして、このときすでに世間にとっての山本五十六は、戦争反対派ではなく真珠湾攻撃以来の英雄だった。
朝日新聞は1943年5月22日のコラムで「(山本五十六の)戦死によって、皇軍将兵の士気はいやが上にも高鳴るものがある」と述べ、同5月23日夕刊には「(戦死を受けて)かえって鉄より固き米英撃滅の信念を植えつけられた」という投書を紹介している。死後、山本五十六は元帥を追贈され、「元帥に続け」「元帥の仇討ち」が国民の合い言葉になったという。[*2]
このような取り上げ方は、山本五十六が喜ぶことではなかったろう。戦争が長期化する中で、彼は自分の身にもしものことがあったら国民がどう反応すると考えていたのだろうか。
残念ながら、山本五十六の死は、国民の戦意をますますかき立ててしまったのである。
そしてまた、生きていればやるべきこともあったろう。
映画では描かれないが、山本五十六の死後、終戦間際に海軍傍流トリオの残る二人である米内光政と井上成美は日本の滅亡を食い止めるべく奮闘した。
1945年、ほぼ全滅状態にあった海軍は、陸軍に統合されそうになるのだが、二人はこれに猛反発したのだ。[*3]
海軍が陸軍に統合されるということは、海軍大臣、陸軍大臣二つの椅子が一つになることを意味する。陸海統合軍の大臣には、とうぜん陸軍の人間が納まるだろう。そうなれば、当時陸軍が主張していた「本土決戦」に反対する大臣がいなくなる。
日本の内閣は連帯責任を負い、明治憲法制定から今に至るまで閣議の全会一致制を採用している。つまりすべての閣僚が拒否権を持っているのだ。
だから海軍が独立していればこそ、内閣に大臣を送り込み、「本土決戦」に反対することができた。
本土決戦をしていたなら、当時人口7000万人の日本国民のうち2000万人は死亡しただろうと云われている。ソ連の侵攻も樺太だけにとどまらなかっただろう。
そんなことになったら、敗戦から6年で独立国に復帰することはできなかったかもしれない。
日本列島にあるのは、今の日本国とはまったく異なるものだったかもしれない。それは国ですらなかったかもしれない。
奇しくも、『聯合艦隊司令長官 山本五十六』が封切られた12月23日は、A級戦犯7名が処刑された日である。
戦争の終わらせ方を模索していた山本五十六なら、どのように終わらせただろうか。
今こそ私たちは、目と耳と心を大きく開いて、世界を見る必要があるのだろう。
参考文献
[*1] 半藤一利 (2001) 『[真珠湾]の日』 文藝春秋
[*2] 安田将三・石橋孝太郎 (1995) 『朝日新聞の戦争責任……東スポもびっくり!の戦争記事を徹底検証』 太田出版
[*3] 半藤一利・戸高一成 (2006) 『愛国者の条件 ――昭和の失策とナショナリズムの本質を問う』 ダイヤモンド社
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監督/成島出 監修/半藤一利
脚本/長谷川康夫、飯田健三郎
出演/役所広司 玉木宏 柄本明 柳葉敏郎 阿部寛 吉田栄作 椎名桔平 香川照之 益岡徹 袴田吉彦 五十嵐隼士 河原健二 碓井将大 坂東三津五郎 原田美枝子 瀬戸朝香 田中麗奈 中原丈雄 中村育二 伊武雅刀 宮本信子
日本公開/2011年12月23日
ジャンル/[ドラマ] [戦争]


『孔子の教え』 タイトルには騙されないぞ!
ずいぶん説教くさい邦題を付けたものである。
孔子が*偉い*教えを広めた人物であることは誰でも知っていよう。それは儒教となって中国のみならず朝鮮や日本にも伝わり、広く東アジアに浸透している。儒教から朱子学、陽明学が発生し、幕末にはこれが倒幕の思想的バックボーンになったことを思えば、日本での孔子の影響も甚大である。
だから『孔子の教え』という邦題を目にして、さぞかしありがたく退屈な映画だろうと思い込んでも無理はない。
しかし、そう思う人は、孔子の生きた時代が乱世だったことを忘れている。私は忘れていた。
易姓革命によって強力な王朝が登場し、数世紀にわたって広大な領土を支配する。中国はその繰り返しを2000年以上続けてきた。
だが、孔子が生きたのは、周が力を失い諸侯が争うようになってから秦が再統一するまでの間――春秋戦国時代であり、このときばかりは中国も多くの国に分裂し、国の中でも貴族たちが相争っていたのである。兵法で知られる孫子もまたこの時代の人であることからも、動乱の時代だったことが知れよう。
『孔子の教え』は、そんな春秋戦国時代に知略を駆使して理想の国造りに邁進した男の物語だ。
乱世を背景とするから、軍が出動するシーンや合戦シーンにはこと欠かない。孔子は必要とあらば軍の動員を厭わない人物であったから、反対勢力とは武力で衝突する。
2500年も前に、映画に登場するような巨大兵器があったかどうかはともかく、本作はエキストラとCGIを駆使して、大スペクタクルを展開している。
邦題の説教くささからは想像もつかない派手なシーンに溢れた、スケールの大きな娯楽大作である。
とはいえ、映画はもちろん孔子の教えにも触れている。監督の意図は戦争映画を作ることではないのだから。
ここで質問だが、もしもあなたの目の前で2歳の少女がクルマに轢かれたら、あなたはどうするだろうか?
あなたが通行人だったら、何もせずに通り過ぎることができよう。
あなたがバイクもしくはクルマで通りかかったなら、少女を避けて走り去ることもできるし、横たわった少女をさらに轢いて行くこともできる。
2011年10月13日、中国広東省佛山市(ぶつざんし)の道路に設置された監視カメラは、クルマに轢かれた少女をなんと18人もの人々が知らんぷりし、通り過ぎる姿を捉えていた。
ようやく少女に手を差し伸べたのは、19人目に通りかかったゴミ拾いの老婦人だった。老婦人は周囲の商店に向かって大声で誰の子供かと尋ねたが、誰一人としてこれに応じる者はいない。ようやく子供を探す母親と出会った後、母親は少女を病院に担ぎ込んだが、残念ながら少女は亡くなった。
それに先立つ2006年11月20日には、江蘇省南京市で転んだ老人を助けた青年が、あろうことか当の老人から訴えられるという事件が起きた。老人は青年に怪我をさせられたと主張したのである。そして裁判所は、青年が老人を病院まで送ったのは後ろめたさの表れであると推定し、青年に損害額の4割を支払うように命じてしまった。
この事件をレポートした北村豊氏によれば、同様の事件は他にも起こっているそうだ。
北村豊氏は、高額な医療費を負担できない老人が、他人に怪我の責任を押しつけて医療費を負担させようとしたのだろうと述べている(たとえ助けてくれた相手であっても!)。また、南京市の事件では、転んだ老人の息子が南京市の警察官であり、警察署が証拠となる目撃者からの聞き取り調書を紛失したとして裁判所に提出しなかったことも判明しているという。
なるほど、このような事件が続けば、倒れている人を助けるのは控えようという考えが広まるのかもしれない。
しかし、もちろん中国人の全部がそんな考え方でいるわけではない。
上に紹介した事件はいずれも中国で大きな反響を呼び、議論になったそうだ。とうぜん、多くの人が問題だと感じたのだ。
困っている人がいたら助けるのは当たり前のはずだ。
「義を見てせざるは勇なきなり」
2500年前に孔子が残したこの言葉は、東アジアの人なら誰でも知っていよう。仁や礼に基づく孔子の思想は、暗に陽に私たちの規範となっていたはずだ。
ところが、それが実践されない。
中国では、文化大革命の時代に儒教を徹底的に弾圧した。21世紀になってようやく儒教を再評価する動きが出ているそうだ。
フー・メイ監督が『孔子の教え』を撮ったのも、孔子を通して今の時代に訴えたいことがあるからだろう。実は、孔子ほどよく知られた人物でありながら、本格的な映画化はこの作品が初めてだという。
フー・メイ監督は本作を撮った理由を次のように語っている。
---
仁、義、礼、智、信。今日の人類の文明にとって、これらはとてつもなく大きな精神的財産、東洋文明の精神的財産です。(略)キリスト教やイスラム教は“神”のものですが、儒学は“共同”のもの。他人と溶け合うこの精神が、素晴らしい未来をつくる道であり、発展の方向性だと思っています。そしてこれが、私が本当に本作『孔子の教え』を撮りたかった理由でもあるのです。(略)私たち、とりわけ若者には精神面での栄養や思想が不足していると思う。信仰がありません。何を信じてよいのか分からず、利己的になる。どの家庭の子どもも一人っ子で、何でも他人が与えてくれると思っています。それでは発展は続かず、将来が危険です
---
日本でも、人々の無関心をテーマにした瀬々敬久監督の『アントキノイノチ』が、『孔子の教え』と同時期に公開されたのは興味深い。
もっとも、孔子は道徳ばかりを説いたのではない。その思想の大きな部分が、国の在り方や政治についての考察であったことを、本作は描いている。
そして君臣の関係を前提としたその思想は、現代にそのまま当てはまるわけではない。
孔子の教えに学ぶこともあれば、孔子の教えに疑問を感じ、意見を異にすることもあるだろう。
とうぜんだ。私たちは2500年前の孔子の言葉に触れるだけでなく、新たな思想も展開していかねばならないのだ。
「温故知新」――それもまた孔子の教えなのだから。
『孔子の教え』 [か行]
監督/フー・メイ
出演/チョウ・ユンファ ジョウ・シュン チェン・ジェンビン ヤオ・ルー ルー・イー レン・チュアン
日本公開/2011年11月12日
ジャンル/[ドラマ] [伝記] [歴史劇]
http://bookmarks.yahoo.co.jp/bookmarklet/showpopup?t='+encodeURIComponent(document.title)+'&u='+encodeURIComponent(location.href)+'&ei=UTF-8','_blank','width=550,height=480,left=100,top=50,scrollbars=1,resizable=1',0);">
孔子が*偉い*教えを広めた人物であることは誰でも知っていよう。それは儒教となって中国のみならず朝鮮や日本にも伝わり、広く東アジアに浸透している。儒教から朱子学、陽明学が発生し、幕末にはこれが倒幕の思想的バックボーンになったことを思えば、日本での孔子の影響も甚大である。
だから『孔子の教え』という邦題を目にして、さぞかしありがたく退屈な映画だろうと思い込んでも無理はない。
しかし、そう思う人は、孔子の生きた時代が乱世だったことを忘れている。私は忘れていた。
易姓革命によって強力な王朝が登場し、数世紀にわたって広大な領土を支配する。中国はその繰り返しを2000年以上続けてきた。
だが、孔子が生きたのは、周が力を失い諸侯が争うようになってから秦が再統一するまでの間――春秋戦国時代であり、このときばかりは中国も多くの国に分裂し、国の中でも貴族たちが相争っていたのである。兵法で知られる孫子もまたこの時代の人であることからも、動乱の時代だったことが知れよう。
『孔子の教え』は、そんな春秋戦国時代に知略を駆使して理想の国造りに邁進した男の物語だ。
乱世を背景とするから、軍が出動するシーンや合戦シーンにはこと欠かない。孔子は必要とあらば軍の動員を厭わない人物であったから、反対勢力とは武力で衝突する。
2500年も前に、映画に登場するような巨大兵器があったかどうかはともかく、本作はエキストラとCGIを駆使して、大スペクタクルを展開している。
邦題の説教くささからは想像もつかない派手なシーンに溢れた、スケールの大きな娯楽大作である。
とはいえ、映画はもちろん孔子の教えにも触れている。監督の意図は戦争映画を作ることではないのだから。
ここで質問だが、もしもあなたの目の前で2歳の少女がクルマに轢かれたら、あなたはどうするだろうか?
あなたが通行人だったら、何もせずに通り過ぎることができよう。
あなたがバイクもしくはクルマで通りかかったなら、少女を避けて走り去ることもできるし、横たわった少女をさらに轢いて行くこともできる。
2011年10月13日、中国広東省佛山市(ぶつざんし)の道路に設置された監視カメラは、クルマに轢かれた少女をなんと18人もの人々が知らんぷりし、通り過ぎる姿を捉えていた。
ようやく少女に手を差し伸べたのは、19人目に通りかかったゴミ拾いの老婦人だった。老婦人は周囲の商店に向かって大声で誰の子供かと尋ねたが、誰一人としてこれに応じる者はいない。ようやく子供を探す母親と出会った後、母親は少女を病院に担ぎ込んだが、残念ながら少女は亡くなった。
それに先立つ2006年11月20日には、江蘇省南京市で転んだ老人を助けた青年が、あろうことか当の老人から訴えられるという事件が起きた。老人は青年に怪我をさせられたと主張したのである。そして裁判所は、青年が老人を病院まで送ったのは後ろめたさの表れであると推定し、青年に損害額の4割を支払うように命じてしまった。
この事件をレポートした北村豊氏によれば、同様の事件は他にも起こっているそうだ。
北村豊氏は、高額な医療費を負担できない老人が、他人に怪我の責任を押しつけて医療費を負担させようとしたのだろうと述べている(たとえ助けてくれた相手であっても!)。また、南京市の事件では、転んだ老人の息子が南京市の警察官であり、警察署が証拠となる目撃者からの聞き取り調書を紛失したとして裁判所に提出しなかったことも判明しているという。
なるほど、このような事件が続けば、倒れている人を助けるのは控えようという考えが広まるのかもしれない。
しかし、もちろん中国人の全部がそんな考え方でいるわけではない。
上に紹介した事件はいずれも中国で大きな反響を呼び、議論になったそうだ。とうぜん、多くの人が問題だと感じたのだ。
困っている人がいたら助けるのは当たり前のはずだ。
「義を見てせざるは勇なきなり」
2500年前に孔子が残したこの言葉は、東アジアの人なら誰でも知っていよう。仁や礼に基づく孔子の思想は、暗に陽に私たちの規範となっていたはずだ。
ところが、それが実践されない。
中国では、文化大革命の時代に儒教を徹底的に弾圧した。21世紀になってようやく儒教を再評価する動きが出ているそうだ。
フー・メイ監督が『孔子の教え』を撮ったのも、孔子を通して今の時代に訴えたいことがあるからだろう。実は、孔子ほどよく知られた人物でありながら、本格的な映画化はこの作品が初めてだという。
フー・メイ監督は本作を撮った理由を次のように語っている。
---
仁、義、礼、智、信。今日の人類の文明にとって、これらはとてつもなく大きな精神的財産、東洋文明の精神的財産です。(略)キリスト教やイスラム教は“神”のものですが、儒学は“共同”のもの。他人と溶け合うこの精神が、素晴らしい未来をつくる道であり、発展の方向性だと思っています。そしてこれが、私が本当に本作『孔子の教え』を撮りたかった理由でもあるのです。(略)私たち、とりわけ若者には精神面での栄養や思想が不足していると思う。信仰がありません。何を信じてよいのか分からず、利己的になる。どの家庭の子どもも一人っ子で、何でも他人が与えてくれると思っています。それでは発展は続かず、将来が危険です
---
日本でも、人々の無関心をテーマにした瀬々敬久監督の『アントキノイノチ』が、『孔子の教え』と同時期に公開されたのは興味深い。
もっとも、孔子は道徳ばかりを説いたのではない。その思想の大きな部分が、国の在り方や政治についての考察であったことを、本作は描いている。
そして君臣の関係を前提としたその思想は、現代にそのまま当てはまるわけではない。
孔子の教えに学ぶこともあれば、孔子の教えに疑問を感じ、意見を異にすることもあるだろう。
とうぜんだ。私たちは2500年前の孔子の言葉に触れるだけでなく、新たな思想も展開していかねばならないのだ。
「温故知新」――それもまた孔子の教えなのだから。
![孔子の教え [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/51GoVD6aqtL._SL160_.jpg)
監督/フー・メイ
出演/チョウ・ユンファ ジョウ・シュン チェン・ジェンビン ヤオ・ルー ルー・イー レン・チュアン
日本公開/2011年11月12日
ジャンル/[ドラマ] [伝記] [歴史劇]


【theme : ☆.。.:*・゚中国・香港・台湾映画゚・*:.。.☆】
【genre : 映画】
『ロッキー・ホラー・ショー』 大切な3つのもの
なんと、今回はROLLYの訳詞だ!
大晦日に『ロッキー・ホラー・ショー』を観劇し、ROLLYと一緒に新年をカウントダウンしてから早14年。今回の『ロッキー・ホラー・ショー』において、ROLLYはフランクン・フルター博士ではなくエディ役だ。でも、それがこんなに功を奏するとは!!
なんてったって、今回はROLLYのギターソロが聴ける!
そして男闘呼組のギタリスト岡本健一さんも絶好調でプレイする!!
劇団☆新感線の舞台でお馴染み岡崎司さんも福井敏さんも、舞台に出てきて弾きまくる!!!
いったい何人ミュージシャンを揃えれば気が済むのだあぁぁぁぁ!!!!
そしてROLLYに代わってフランクン・フルター博士を演じるのは、新感線の看板役者古田新太!主人公がフルターだから古田さんというわけではあるまいが、オリジナルキャストのティム・カリーをも凌ぐ気色悪さは絶品だ。
さらに笹本玲奈さんが、まさかまさかのあられもない姿を披露し、歌唱指導ならこの人、右近健一さんがスコット博士を兼ねる。
そして舞台いっぱいの役者たちがそれぞれ動き回るのみならず、いのうえひでのり氏お得意の映像の投影も同時進行し、盛り沢山の舞台上はどこに焦点を合わせればいいのか判らないほどゴージャスだ。
いやはや、何をどう書いたって、この素晴らしさは表現しきれない。
件の『ロッキー・ホラー・ショー』を作った男はリチャード・オブライエン。
彼の脚本と作詞と作曲したミュージカル劇があったればこそ、カルトムービーの傑作『ロッキー・ホラー・ショー』も生まれたし、映画館でパフォーマンスする文化も生まれた。
そのリチャード・オブライエンといえば、『フラッシュ・ゴードン』のフィコ役が有名だが、なぜ彼が『フラッシュ・ゴードン』に出演したのか、両作品を観れば合点がいく。
ロックと笑いとSFと、コスチュームプレイの楽しさに、昔の映画へのオマージュがたっぷり。そして全編に流れるこそばゆいエロティシズム。イギリス人の手により誕生した両作品のテイストは、驚くほどに近い。
そうだ、やはり大切なのはロックと笑いとSFなのだ!
『ロッキー・ホラー・ショー』 [演劇]
演出/いのうえひでのり 脚本・作詞・作曲/リチャード・オブライエン
出演/古田新太 岡本健一 ROLLY(ローリー寺西) 笹本玲奈 中村倫也 右近健一 グリフィス・ちか ニーコ 辛源 藤木孝 飯野めぐみ 生尾佳子 JuNGLE 皆本麻帆
公演初日/2011年12月9日
劇場/KAAT神奈川芸術劇場、サンシャイン劇場
ジャンル/[SF] [コメディ] [ミュージカル]
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大晦日に『ロッキー・ホラー・ショー』を観劇し、ROLLYと一緒に新年をカウントダウンしてから早14年。今回の『ロッキー・ホラー・ショー』において、ROLLYはフランクン・フルター博士ではなくエディ役だ。でも、それがこんなに功を奏するとは!!
なんてったって、今回はROLLYのギターソロが聴ける!
そして男闘呼組のギタリスト岡本健一さんも絶好調でプレイする!!
劇団☆新感線の舞台でお馴染み岡崎司さんも福井敏さんも、舞台に出てきて弾きまくる!!!
いったい何人ミュージシャンを揃えれば気が済むのだあぁぁぁぁ!!!!
そしてROLLYに代わってフランクン・フルター博士を演じるのは、新感線の看板役者古田新太!主人公がフルターだから古田さんというわけではあるまいが、オリジナルキャストのティム・カリーをも凌ぐ気色悪さは絶品だ。
さらに笹本玲奈さんが、まさかまさかのあられもない姿を披露し、歌唱指導ならこの人、右近健一さんがスコット博士を兼ねる。
そして舞台いっぱいの役者たちがそれぞれ動き回るのみならず、いのうえひでのり氏お得意の映像の投影も同時進行し、盛り沢山の舞台上はどこに焦点を合わせればいいのか判らないほどゴージャスだ。
いやはや、何をどう書いたって、この素晴らしさは表現しきれない。
件の『ロッキー・ホラー・ショー』を作った男はリチャード・オブライエン。
彼の脚本と作詞と作曲したミュージカル劇があったればこそ、カルトムービーの傑作『ロッキー・ホラー・ショー』も生まれたし、映画館でパフォーマンスする文化も生まれた。
そのリチャード・オブライエンといえば、『フラッシュ・ゴードン』のフィコ役が有名だが、なぜ彼が『フラッシュ・ゴードン』に出演したのか、両作品を観れば合点がいく。
ロックと笑いとSFと、コスチュームプレイの楽しさに、昔の映画へのオマージュがたっぷり。そして全編に流れるこそばゆいエロティシズム。イギリス人の手により誕生した両作品のテイストは、驚くほどに近い。
そうだ、やはり大切なのはロックと笑いとSFなのだ!
![ロッキー・ホラー・ショー [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/51jYjeJp8vL._SL160_.jpg)
演出/いのうえひでのり 脚本・作詞・作曲/リチャード・オブライエン
出演/古田新太 岡本健一 ROLLY(ローリー寺西) 笹本玲奈 中村倫也 右近健一 グリフィス・ちか ニーコ 辛源 藤木孝 飯野めぐみ 生尾佳子 JuNGLE 皆本麻帆
公演初日/2011年12月9日
劇場/KAAT神奈川芸術劇場、サンシャイン劇場
ジャンル/[SF] [コメディ] [ミュージカル]


【theme : 演劇・劇団】
【genre : 学問・文化・芸術】
tag : いのうえひでのりリチャード・オブライエン古田新太岡本健一ROLLYローリー寺西笹本玲奈中村倫也右近健一グリフィス・ちか
『ミッション:インポッシブル/ゴースト・プロトコル』 4作目にして遂に映画化!
![ミッション:インポッシブル/ゴースト・プロトコル ブルーレイ+DVDセット スチールブック仕様 (初回生産・取扱店限定)(デジタル・コピー付) [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/51nYwk6rf5L._SL160_.jpg)
『ミッション:インポッシブル/ゴースト・プロトコル』は、ピクサーで痛快アニメ『Mr.インクレディブル』等を放ってきたブラッド・バード監督初の実写作品だ。
そのためか、今回のミッションはピクサー本社へのミサイル攻撃を防ぐことである。
だからといって、ピクサーのあるサンフランシスコ界隈が舞台になるわけではない。これまでのシリーズ作品に負けず劣らず、主人公イーサン・ハントは世界を股に駆けて活躍する。
とうぜんのことながら、本作は全世界での大ヒットを狙った映画だ。観客の取りこぼしは許されない。『ソルト』のように特定の国を悪者扱いしたら、その国での公開や観客動員は望めないだろう。それでもいいという映画もあろうが、本作は違う。
そこに登場する国々を見れば、映画の作り手の熟慮を感じることだろう。
本作でイーサン・ハントの活躍の場となるのは、ロシアの首都モスクワ、インド最大の都市ムンバイ、アラブ首長国連邦のドバイである。
いわゆるBRICsのうち、前作の中国に続いて今度はロシアとインドを舞台にしている。BRICsの四ヶ国(とりあえず南アを含めないとして)だけで世界人口の45%を占めるのだから、世界市場を睨めばとうぜんの選択だろう。
ましてや、インドは中国と並んで有史以来の大国である。過去2000年の歴史のうち直近の200年を除けばずっとインドと中国のGDPの合計は世界GDPの5割を超えていた。再びインドと中国が世界の二強に戻ろうとする中で、世界市場を考える作り手たちが彼の国を取り上げないわけがない。
さらにイスラム圏の代表としては、国際金融センター発展指数がイスラム圏トップのドバイを取り上げている。
もちろんドバイには2011年現在で世界一高い超高層ビル「ブルジュ・ハリーファ」があることから、二作目で観客の度肝を抜いたフリークライミングの場面を超える大迫力の映像を撮影する意図もあろう。
こうして現在注目されている各国を作品に取り込んだ本作は、ストーリーにしろアクションにしろ練りに練られて飽きさせない。
私はアクション映画が好きなつもりなのだが、実はアクション映画を観ていると結構ウトウトしてしまう。
それは、アクションシーンになるとストーリー進行が止まることが多いからだ。主役と敵役が殴り合いや撃ち合いを始めれば、まさか主役が敗北するはずはないから、先はもう見えてしまう。すると途端に映画への興味が薄れてしまうのだ。
しかし『ミッション:インポッシブル/ゴースト・プロトコル』は、趣向を凝らしたアクションと、アクションの進展そのものがストーリーの進行に密接にかかわることで、観客の緊張を維持し続ける。やはりタイムリミットが迫る中で進行する物語は、緊迫感があって良い。
そして本作には、シリーズ四作目にして初めてともいえる要素がある。
副題の Ghost Protocol を直訳すれば、さしずめ「幽霊規約」とでもなろうか。劇中では政府がIMF (Impossible Mission Force)の存在を認めない(幽霊と見なす)取り決めを指しているが、同時にこれは主人公らの「魂の作法(ghost protocol)」に従った行動も意味していよう。
魂の作法――それはチームメンバー同士の信頼であり、チームワークだ。
これこそ、従来の『ミッション:インポッシブル』シリーズには見られなかったものであり、往年のテレビドラマ『スパイ大作戦』(1966~1973年)が持っていた大事なものである。
思えば、映画化第一作『ミッション:インポッシブル』は、テレビドラマ『スパイ大作戦』の映画化と称しながら、『スパイ大作戦』へのアンチテーゼだった。
メンバー各人が得意技を持つ専門家ではあるものの、当局からの支援が一切ない中で、孤立無援のメンバーたちがチームワークだけを頼りに難題を解決するのが『スパイ大作戦』らしさだった。なのに映画化第一作は、たとえ同じチームといえども信用できないスパイの非情さを描き出した。その意外さが第一作の面白さになったとはいえ、テレビ版の出演者たちが映画に批判的な態度を示したのはもっともである。
続く二作目、三作目は、トム・クルーズ演じるイーサン・ハント個人の活躍に重きを置きすぎていた。『スパイ大作戦』は一人の「主人公」が活躍するのではなく、チームメンバー全員でドラマを引っ張るはずなのに。
だから二作目、三作目はアクション映画としては面白いものの、チームプレーで魅せる『スパイ大作戦』らしくはなかった。
それに対して本作は、イーサン・ハント個人の生活や情感を極力排するとともに、ゴースト・プロトコルの発動によってチームを孤立無援の状態に置くことで、オリジナルの『スパイ大作戦』を髣髴とさせるものになった。
そして映画は、徹頭徹尾ひとつのチームを大切にし、メンバーを信頼する。
チームワークがあってこそ不可能を可能にする『スパイ大作戦』は、本作にして遂に映画化されたといえよう!
なお、ジェレミー・レナー演じるウィリアム・ブラントは、トム・クルーズが本シリーズを離れたときの後任を務めるべく造形されたキャラクターだそうだ。
シリーズはまだまだ続くだろう。次の舞台はブラジルだ。
![ミッション:インポッシブル/ゴースト・プロトコル ブルーレイ+DVDセット スチールブック仕様 (初回生産・取扱店限定)(デジタル・コピー付) [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/51nYwk6rf5L._SL160_.jpg)
監督/ブラッド・バード 制作/トム・クルーズ、J・J・エイブラムス、ブライアン・バーク
出演/トム・クルーズ ジェレミー・レナー サイモン・ペッグ ポーラ・パットン ミカエル・ニクヴィスト ウラジミール・マシコフ ジョシュ・ホロウェイ アニル・カプール レア・セドゥー
日本公開/2011年12月16日
ジャンル/[アクション] [サスペンス]


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【theme : アクション映画】
【genre : 映画】
tag : ブラッド・バードJ・J・エイブラムストム・クルーズジェレミー・レナーサイモン・ペッグポーラ・パットンミカエル・ニクヴィストウラジミール・マシコフジョシュ・ホロウェイアニル・カプール
『アーサー・クリスマスの大冒険』 大人がプレゼントすべきもの
ゲルマン神話の主神オーディンが起源とも云われるファーザー・クリスマスが、ローマ帝国の司教である聖ニコラオス(オランダ語ではSinterklaas(シンタクラース))と同化されるようになったのは、19世紀のことだという。
そのためか、オランダのシンタクラースはスペインから船や馬を乗り継いでやってきたのに、現代のサンタクロースは北極に住んでいたり、ソリで空を飛んだりと、神がかった存在になっている。
とはいえ、英国では今でもファーザー・クリスマスと呼ぶ方が主流なのだろうか。大島渚監督の『戦場のメリークリスマス』でも、英軍将校に「ファーザー・クリスマス」と呼び掛けるのが印象的であった。
そしてファーザー・クリスマスといえば、レイモンド・ブリッグズ原作のアニメ『ファーザー・クリスマス』をご覧になった方も多いだろう。1991年制作のこの英国作品は、世界中の子供たちにプレゼントを配り終えたはずのファーザー・クリスマスが、まだプレゼントが残っていることに気づいて大あわてする話だ。
そのクリスマスシーズンに親子で見るのにうってつけであろう『ファーザー・クリスマス』――原題「Father Christmas」に、少しもじった「Arthur Christmas」というタイトルで挑んだのが『アーサー・クリスマスの大冒険』だ。
なるほど、プレゼントが残っていた。でもたった1個だ。20億人の子供のうち、19億9999万9999人には無事プレゼントを届けられたのだから、1個ぐらいどうでもいいじゃないか――もしもファーザー・クリスマスがそう考えてしまったら。あわてて届けようなんてしなかったら。
『アーサー・クリスマスの大冒険』は、そんなファーザー・クリスマスに代わり、息子のアーサーが大活躍するアニメだ。
制作は英国のアードマン・アニメーションズと、米国のソニー・ピクチャーズ アニメーション。てっきり子供たちがソニー製品をプレゼントされて喜ぶ映画かと思ったら、そんなえげつないことはしていなかった。もっとも、ソニーがそんなことをしなくても、子供がプレイステーションをもらって喜ぶ映画は作られている。ソニーにとってはありがたいことだろう。
『アーサー・クリスマスの大冒険』で目をみはるのは、なんといっても映画館の大スクリーンを意識した壮麗な映像である。
水陸両用の巨大万能艇S-1と、北極の広大な指令室の迫力は圧巻だ。その緻密な描き込みは、CGならではだろう。
絵の見せ方もイカしている。
スクリーンに1頭のアザラシが登場するや、アザラシのいる水面が盛り上がる。アザラシの下から何やら巨大なものが上昇してくる。カメラがドンドン引いて、アザラシが小さくて見えないほどになると、アザラシの下から出てきた巨大なものがもっと大きなものの一部でしかないことが判る。さらにカメラが引いて水中から赤いものが全貌を表す。大迫力のS-1登場シーンである。
このシーンといい、いっせいにプレゼントを届ける冒頭のスピード感といい、本作はワクワクする映像に満ちている。
ところが、この映画はあまり客の入りが良くないようで、私が足を運んだ映画館では公開されて間もないのに上映回数が1日1回に減っていた。
その理由は判らないでもない。
本作の主なターゲットは間違いなく親子連れなのに、親子で観るには必ずしも適してはいないのだ。
それはクリスマス一家の人物造形にある。
主人公アーサー・クリスマスはいいヤツだ。彼はいい。たったひとつ残ってしまったプレゼントを届けるために頑張る姿は、共感できなくもない(たとえ残ってしまった原因が彼にあろうとも)。
しかし、アーサーが頑張るシチュエーションにするには、アーサーを除く人たちはプレゼントを届けようとしない設定が必要だ。
そのために、サンタクロースはプレゼントを届けるよりもベッドで寝たがる身勝手な人物とされた。
次期サンタと目されるアーサーの兄も、たかが1個の届け忘れなんてどうでもいいと考える人物にされた。
そして元サンタの祖父も、子供のことより自分の見栄を優先させる人物になった。
次男坊のアーサーが奮闘する物語なんだから、他の人物がプレゼントを軽んじる設定にしたのは判る。
判るのだが、こんなサンタクロースたちの姿を、親は子供に見せたいだろうか。
子供たちが見たいサンタクロースは、もっと優しくて、届け忘れがあろうものなら大汗かいて駆け付けてくれる人物ではないだろうか。
本作の提示するサンタクロース像では、本来の客層である親子連れが受け入れにくいのではなかろうか。
では、本作に足を運ぶ価値がないかといえば、そうではない。
本作の見どころは、登場人物の気持ちの変化である。
何をやってもダメだと思っていたアーサーが、頑張ってみようとする過程。
プレゼントだけではなく子供に夢を運んでいたはずのサンタクロースが、いつしかそれを忘れていた。そのことに気づいていく過程。
作業効率ばかりを重視して、子供たちの笑顔なんて考えてもみなかった兄が、そもそも何のためにプレゼントを届けるのかを考えるようになる過程。
そして、自分の居場所を奪われたように感じていた祖父が、自分を犠牲にして後進に道を譲るようになる過程。
それは、親が子供のために見せるものではない。親の世代が自分を振り返るためにこそ見るべきものだ。
本作は、これまでの年老いたサンタクロース像を粉々に打ち砕き、若者に未来への希望を託すことに重きを置く。
子供への1番のプレゼントは、子供の未来を信じることなのだ。
『アーサー・クリスマスの大冒険』 [あ行]
監督・脚本/サラ・スミス 脚本/ピーター・ベイナム
出演/ジェームズ・マカヴォイ ヒュー・ローリー ビル・ナイ ジム・ブロードベント イメルダ・スタウントン アシュレー・ジェンセン
日本語吹替版の出演/ウエンツ瑛士 大塚芳忠 緒方賢一 石田圭祐 小宮和枝 瑚海みどり 浪川大輔 佐々木りお
日本公開/2011年11月23日
ジャンル/[ファンタジー] [コメディ] [ファミリー]
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そのためか、オランダのシンタクラースはスペインから船や馬を乗り継いでやってきたのに、現代のサンタクロースは北極に住んでいたり、ソリで空を飛んだりと、神がかった存在になっている。
とはいえ、英国では今でもファーザー・クリスマスと呼ぶ方が主流なのだろうか。大島渚監督の『戦場のメリークリスマス』でも、英軍将校に「ファーザー・クリスマス」と呼び掛けるのが印象的であった。
そしてファーザー・クリスマスといえば、レイモンド・ブリッグズ原作のアニメ『ファーザー・クリスマス』をご覧になった方も多いだろう。1991年制作のこの英国作品は、世界中の子供たちにプレゼントを配り終えたはずのファーザー・クリスマスが、まだプレゼントが残っていることに気づいて大あわてする話だ。
そのクリスマスシーズンに親子で見るのにうってつけであろう『ファーザー・クリスマス』――原題「Father Christmas」に、少しもじった「Arthur Christmas」というタイトルで挑んだのが『アーサー・クリスマスの大冒険』だ。
なるほど、プレゼントが残っていた。でもたった1個だ。20億人の子供のうち、19億9999万9999人には無事プレゼントを届けられたのだから、1個ぐらいどうでもいいじゃないか――もしもファーザー・クリスマスがそう考えてしまったら。あわてて届けようなんてしなかったら。
『アーサー・クリスマスの大冒険』は、そんなファーザー・クリスマスに代わり、息子のアーサーが大活躍するアニメだ。
制作は英国のアードマン・アニメーションズと、米国のソニー・ピクチャーズ アニメーション。てっきり子供たちがソニー製品をプレゼントされて喜ぶ映画かと思ったら、そんなえげつないことはしていなかった。もっとも、ソニーがそんなことをしなくても、子供がプレイステーションをもらって喜ぶ映画は作られている。ソニーにとってはありがたいことだろう。
『アーサー・クリスマスの大冒険』で目をみはるのは、なんといっても映画館の大スクリーンを意識した壮麗な映像である。
水陸両用の巨大万能艇S-1と、北極の広大な指令室の迫力は圧巻だ。その緻密な描き込みは、CGならではだろう。
絵の見せ方もイカしている。
スクリーンに1頭のアザラシが登場するや、アザラシのいる水面が盛り上がる。アザラシの下から何やら巨大なものが上昇してくる。カメラがドンドン引いて、アザラシが小さくて見えないほどになると、アザラシの下から出てきた巨大なものがもっと大きなものの一部でしかないことが判る。さらにカメラが引いて水中から赤いものが全貌を表す。大迫力のS-1登場シーンである。
このシーンといい、いっせいにプレゼントを届ける冒頭のスピード感といい、本作はワクワクする映像に満ちている。
ところが、この映画はあまり客の入りが良くないようで、私が足を運んだ映画館では公開されて間もないのに上映回数が1日1回に減っていた。
その理由は判らないでもない。
本作の主なターゲットは間違いなく親子連れなのに、親子で観るには必ずしも適してはいないのだ。
それはクリスマス一家の人物造形にある。
主人公アーサー・クリスマスはいいヤツだ。彼はいい。たったひとつ残ってしまったプレゼントを届けるために頑張る姿は、共感できなくもない(たとえ残ってしまった原因が彼にあろうとも)。
しかし、アーサーが頑張るシチュエーションにするには、アーサーを除く人たちはプレゼントを届けようとしない設定が必要だ。
そのために、サンタクロースはプレゼントを届けるよりもベッドで寝たがる身勝手な人物とされた。
次期サンタと目されるアーサーの兄も、たかが1個の届け忘れなんてどうでもいいと考える人物にされた。
そして元サンタの祖父も、子供のことより自分の見栄を優先させる人物になった。
次男坊のアーサーが奮闘する物語なんだから、他の人物がプレゼントを軽んじる設定にしたのは判る。
判るのだが、こんなサンタクロースたちの姿を、親は子供に見せたいだろうか。
子供たちが見たいサンタクロースは、もっと優しくて、届け忘れがあろうものなら大汗かいて駆け付けてくれる人物ではないだろうか。
本作の提示するサンタクロース像では、本来の客層である親子連れが受け入れにくいのではなかろうか。
では、本作に足を運ぶ価値がないかといえば、そうではない。
本作の見どころは、登場人物の気持ちの変化である。
何をやってもダメだと思っていたアーサーが、頑張ってみようとする過程。
プレゼントだけではなく子供に夢を運んでいたはずのサンタクロースが、いつしかそれを忘れていた。そのことに気づいていく過程。
作業効率ばかりを重視して、子供たちの笑顔なんて考えてもみなかった兄が、そもそも何のためにプレゼントを届けるのかを考えるようになる過程。
そして、自分の居場所を奪われたように感じていた祖父が、自分を犠牲にして後進に道を譲るようになる過程。
それは、親が子供のために見せるものではない。親の世代が自分を振り返るためにこそ見るべきものだ。
本作は、これまでの年老いたサンタクロース像を粉々に打ち砕き、若者に未来への希望を託すことに重きを置く。
子供への1番のプレゼントは、子供の未来を信じることなのだ。
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監督・脚本/サラ・スミス 脚本/ピーター・ベイナム
出演/ジェームズ・マカヴォイ ヒュー・ローリー ビル・ナイ ジム・ブロードベント イメルダ・スタウントン アシュレー・ジェンセン
日本語吹替版の出演/ウエンツ瑛士 大塚芳忠 緒方賢一 石田圭祐 小宮和枝 瑚海みどり 浪川大輔 佐々木りお
日本公開/2011年11月23日
ジャンル/[ファンタジー] [コメディ] [ファミリー]


【theme : クリスマス映画】
【genre : 映画】
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