『1911』 世界同時公開にした裏事情?
ジャッキー・チェンが13年ぶりに監督業に復帰してまでやりたかったことはなんだろう?
2011年は辛亥革命から100周年を記念する年である。
この年に、ジャッキー・チェンにとっても記念となる出演映画100本目の作品として『1911』を公開するのは、ジャッキーの並々ならぬ意気込みの表れであろう。
『1911』は、辛亥革命の立役者・孫文(中国では孫中山と呼ばれる)とその盟友である黄興(こう こう)を中心に、数千年に及ぶ中国の君主制を終わらせた激動の時代の、一断面を切り取った歴史大作である。ジャッキー・チェンはここで主人公・黄興を演じるとともに総監督も務めている。
2011年は清朝を倒して100周年なのだから、中国ではこの年を盛大に祝っており、本作もお祭り気分に浮かれた中から誕生したのだろう。本作を観て、あなたはそんな風に思うだろうか。
たしかに、孫文、黄興、袁世凱ら英傑が活躍し、激しい戦闘シーンとアクションが盛りだくさんの本作は、充分な娯楽性を備えている。
しかし、おめでたい記念映画の趣きはまったくない。
ここで描かれるのは、凄惨な歴史であり、多くの犠牲を払った先人たちの苦難だ。
記念の年なら、とうぜん記念行事が営まれるはずだ。
ところが、実は中国では少なからず記念活動が中止されたという。また、出版においても、掲載差し止めになった論文や記事がたくさんあったという。
福島香織氏によれば、これは「革命」という言葉自体の持つ危うさのためである。
革命により今の国家が誕生し、国民がその体制を歓迎しているのなら、盛大に記念活動を行えば良い。孫文の偉大さを称え、革命の理念を確認し、次の100年に踏み出せば良い。
しかし、もしも国民が現在の体制に満足しておらず、革命の理念がないがしろにされていると感じていたらどうだろう。「革命々々」と国民が盛り上がったら、現体制への革命を志しかねないだろう。ましてや中華人民共和国は、孫文が樹立した中華民国とイコールではない。孫文を称え、孫文の樹立した中華民国を思い起こすことが、必ずしも現在の中華人民共和国を称える気持ちに結びつくとは限らない。
だからこそ、せっかくの記念の年でありながら、体制側は記念活動を中止させ、論文や記事を掲載させなかったのだろう。
そんな中で『1911』を制作し公開するのは、たいへんなことに違いない。おそらく、それは関係者にとって大きな冒険だったはずだ。
映画の端々からは、映画作りそのものが微妙であり、ギリギリのところで危ない橋を渡っていることが伝わってくる。
まず、作り手は、映画で描くことを実に慎重に選んでいる。
誰もが気付くのは、ほとんど1911年のことしか描いてない点だ。いかに激しい革命でも、数千年続いた君主制にくさびを打ち込むには、少なからぬ年月がかかる。しかし、映画は1911年の蜂起から1912年の清朝滅亡までしか取り上げない。
孫文の生涯を考えればとうぜんだ。これより前を描くと、孫文が日本を拠点とし、梅屋庄吉が映画制作で稼いだ金に助けられつつ組織作りを進めたことに触れなくてはならない。これより後だと、袁世凱が勢力を振るい、中華民国内で争いがあったことを描かなくてはならない。
いずれも現体制にとっては面白くないだろう。国父と呼ばれる孫文が、外国(しかも日本)の支援を得ていたことは強調したくないし、中華人民共和国が中華民国内の争いから誕生したことを思い出されたくもない。
とうぜん映画の作り手は、企画を潰されないように余計なことは描かない。
歴史絵巻のはずなのに、映画が取り上げるのはごく短期間の出来事に絞られ、孫文を資金援助するのは外国在住の華僑だけとなった。
孫文を主人公とせず、あえて黄興を主人公にしたのも同様の配慮だろう。孫文が主人公なら、彼と妻とを結びつけたのが日本人で、祝言も日本で挙げたことに触れざるをえない。
それを避けるために、海外へは行かなかった黄興を主人公とし、ラブストーリーの部分は黄興を中心にしたのだろう。
近年、警察国家体質を強めている中国での映画公開に漕ぎつけるため、作り手たちが細心の注意を払っているのは明らかである。
なにしろ、9月30日に北京国家劇院で上演される予定だった歌劇『中山・逸仙』も突然、上演停止命令が下ったのだ。福島香織氏の伝えるところでは、停止命令を通知したのは中央宣伝部で、「孫文」を愛国情操教育に使うのは良いが、孫文の信念である三民主義や五権分立を語ることは許されず、ラブストーリーもダメだという規定に反していたからだという。
これを聞いて、本作を観た人は驚くのではないか。
なるほど『1911』では、孫文のラブストーリーは削られていた。
しかし、孫文の思いは高らかに謳われていたではないか。堂々と民族主義、民権主義、民生主義の「三民主義」が語られていたではないか、と。
本作が、世界で同時公開した理由はここにあるのではないか。
ラブストーリーを削り、日本との関係も削り、当局に睨まれそうな点は削りに削った作り手が、どうしても残したかったもの。これだけは観客に伝えたいメッセージ。それを確実に発信するには、世界で同時に公開してしまうしかなかったのではないか。
まずは中国国内で公開し、映画見本市を経て順次各国で……なんて悠長なことをやっていたら、どこかでつぶされてしまうかもしれない。そこで、同時といっても時期に少しのズレはあるし、世界といっても上映国は限られているが、とにかく一つでも多くの国で上映したかった。
孫文が梅屋庄吉たちから支援されたように、映画の作り手も外国の観客に支持してもらい、中国政府が手出しできない状況に持っていきたかったのではないか。
そう考えてみれば、孫文の思いを伝えるシーンは、映像とセリフがまったく合っていないことに気付く。エキストラを集めて孫文の演説シーンを撮影するような目立つことは避け、あえて関係ないシーンを撮影し、そこにセリフだけをかぶせたのかもしれない。
それが、孫文の思い――100年前に孫文が作ろうとした国の理念であり、こうでもしなければ語れないもの――映画の作り手がここだけは譲れないメッセージなのだろう。
公式サイトでジャッキー・チェンは語っている。「いま私が皆さんに見てもらいたいもの、話したいことを映画の中で全て表現しています」と。
それは国内に向けてのメッセージだが、世界を通して発信するのは100年前の孫文と同じである。
だから、ジャッキーは期待している。外国の友人たちの支えを。
孫文が日本での映画の売上に支えられて革命をなしたように、私たちもジャッキーを応援できる。劇場に足を運び、『1911』のチケットを買うことで。
『1911』 [あ行]
総監督/ジャッキー・チェン 監督/チャン・リー
出演/ジャッキー・チェン リー・ビンビン ウィンストン・チャオ ジョアン・チェン ジェイシー・チェン フー・ゴー ニン・チン スン・チュン ジャン・ウー ユィ・シャオチュン
日本公開/2011年11月5日
ジャンル/[ドラマ] [歴史劇]
http://bookmarks.yahoo.co.jp/bookmarklet/showpopup?t='+encodeURIComponent(document.title)+'&u='+encodeURIComponent(location.href)+'&ei=UTF-8','_blank','width=550,height=480,left=100,top=50,scrollbars=1,resizable=1',0);">
2011年は辛亥革命から100周年を記念する年である。
この年に、ジャッキー・チェンにとっても記念となる出演映画100本目の作品として『1911』を公開するのは、ジャッキーの並々ならぬ意気込みの表れであろう。
『1911』は、辛亥革命の立役者・孫文(中国では孫中山と呼ばれる)とその盟友である黄興(こう こう)を中心に、数千年に及ぶ中国の君主制を終わらせた激動の時代の、一断面を切り取った歴史大作である。ジャッキー・チェンはここで主人公・黄興を演じるとともに総監督も務めている。
2011年は清朝を倒して100周年なのだから、中国ではこの年を盛大に祝っており、本作もお祭り気分に浮かれた中から誕生したのだろう。本作を観て、あなたはそんな風に思うだろうか。
たしかに、孫文、黄興、袁世凱ら英傑が活躍し、激しい戦闘シーンとアクションが盛りだくさんの本作は、充分な娯楽性を備えている。
しかし、おめでたい記念映画の趣きはまったくない。
ここで描かれるのは、凄惨な歴史であり、多くの犠牲を払った先人たちの苦難だ。
記念の年なら、とうぜん記念行事が営まれるはずだ。
ところが、実は中国では少なからず記念活動が中止されたという。また、出版においても、掲載差し止めになった論文や記事がたくさんあったという。
福島香織氏によれば、これは「革命」という言葉自体の持つ危うさのためである。
革命により今の国家が誕生し、国民がその体制を歓迎しているのなら、盛大に記念活動を行えば良い。孫文の偉大さを称え、革命の理念を確認し、次の100年に踏み出せば良い。
しかし、もしも国民が現在の体制に満足しておらず、革命の理念がないがしろにされていると感じていたらどうだろう。「革命々々」と国民が盛り上がったら、現体制への革命を志しかねないだろう。ましてや中華人民共和国は、孫文が樹立した中華民国とイコールではない。孫文を称え、孫文の樹立した中華民国を思い起こすことが、必ずしも現在の中華人民共和国を称える気持ちに結びつくとは限らない。
だからこそ、せっかくの記念の年でありながら、体制側は記念活動を中止させ、論文や記事を掲載させなかったのだろう。
そんな中で『1911』を制作し公開するのは、たいへんなことに違いない。おそらく、それは関係者にとって大きな冒険だったはずだ。
映画の端々からは、映画作りそのものが微妙であり、ギリギリのところで危ない橋を渡っていることが伝わってくる。
まず、作り手は、映画で描くことを実に慎重に選んでいる。
誰もが気付くのは、ほとんど1911年のことしか描いてない点だ。いかに激しい革命でも、数千年続いた君主制にくさびを打ち込むには、少なからぬ年月がかかる。しかし、映画は1911年の蜂起から1912年の清朝滅亡までしか取り上げない。
孫文の生涯を考えればとうぜんだ。これより前を描くと、孫文が日本を拠点とし、梅屋庄吉が映画制作で稼いだ金に助けられつつ組織作りを進めたことに触れなくてはならない。これより後だと、袁世凱が勢力を振るい、中華民国内で争いがあったことを描かなくてはならない。
いずれも現体制にとっては面白くないだろう。国父と呼ばれる孫文が、外国(しかも日本)の支援を得ていたことは強調したくないし、中華人民共和国が中華民国内の争いから誕生したことを思い出されたくもない。
とうぜん映画の作り手は、企画を潰されないように余計なことは描かない。
歴史絵巻のはずなのに、映画が取り上げるのはごく短期間の出来事に絞られ、孫文を資金援助するのは外国在住の華僑だけとなった。
孫文を主人公とせず、あえて黄興を主人公にしたのも同様の配慮だろう。孫文が主人公なら、彼と妻とを結びつけたのが日本人で、祝言も日本で挙げたことに触れざるをえない。
それを避けるために、海外へは行かなかった黄興を主人公とし、ラブストーリーの部分は黄興を中心にしたのだろう。
近年、警察国家体質を強めている中国での映画公開に漕ぎつけるため、作り手たちが細心の注意を払っているのは明らかである。
なにしろ、9月30日に北京国家劇院で上演される予定だった歌劇『中山・逸仙』も突然、上演停止命令が下ったのだ。福島香織氏の伝えるところでは、停止命令を通知したのは中央宣伝部で、「孫文」を愛国情操教育に使うのは良いが、孫文の信念である三民主義や五権分立を語ることは許されず、ラブストーリーもダメだという規定に反していたからだという。
これを聞いて、本作を観た人は驚くのではないか。
なるほど『1911』では、孫文のラブストーリーは削られていた。
しかし、孫文の思いは高らかに謳われていたではないか。堂々と民族主義、民権主義、民生主義の「三民主義」が語られていたではないか、と。
本作が、世界で同時公開した理由はここにあるのではないか。
ラブストーリーを削り、日本との関係も削り、当局に睨まれそうな点は削りに削った作り手が、どうしても残したかったもの。これだけは観客に伝えたいメッセージ。それを確実に発信するには、世界で同時に公開してしまうしかなかったのではないか。
まずは中国国内で公開し、映画見本市を経て順次各国で……なんて悠長なことをやっていたら、どこかでつぶされてしまうかもしれない。そこで、同時といっても時期に少しのズレはあるし、世界といっても上映国は限られているが、とにかく一つでも多くの国で上映したかった。
孫文が梅屋庄吉たちから支援されたように、映画の作り手も外国の観客に支持してもらい、中国政府が手出しできない状況に持っていきたかったのではないか。
そう考えてみれば、孫文の思いを伝えるシーンは、映像とセリフがまったく合っていないことに気付く。エキストラを集めて孫文の演説シーンを撮影するような目立つことは避け、あえて関係ないシーンを撮影し、そこにセリフだけをかぶせたのかもしれない。
それが、孫文の思い――100年前に孫文が作ろうとした国の理念であり、こうでもしなければ語れないもの――映画の作り手がここだけは譲れないメッセージなのだろう。
公式サイトでジャッキー・チェンは語っている。「いま私が皆さんに見てもらいたいもの、話したいことを映画の中で全て表現しています」と。
それは国内に向けてのメッセージだが、世界を通して発信するのは100年前の孫文と同じである。
だから、ジャッキーは期待している。外国の友人たちの支えを。
孫文が日本での映画の売上に支えられて革命をなしたように、私たちもジャッキーを応援できる。劇場に足を運び、『1911』のチケットを買うことで。
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総監督/ジャッキー・チェン 監督/チャン・リー
出演/ジャッキー・チェン リー・ビンビン ウィンストン・チャオ ジョアン・チェン ジェイシー・チェン フー・ゴー ニン・チン スン・チュン ジャン・ウー ユィ・シャオチュン
日本公開/2011年11月5日
ジャンル/[ドラマ] [歴史劇]


【theme : ☆.。.:*・゚中国・香港・台湾映画゚・*:.。.☆】
【genre : 映画】
tag : ジャッキー・チェンチャン・リーリー・ビンビンウィンストン・チャオジョアン・チェンジェイシー・チェンフー・ゴーニン・チンスン・チュンジャン・ウー
『コンテイジョン』 今これを観る意義
世界人口の約50%が感染し、25%が発症し、死亡者は2,000万人以上(5,000万人とも1億人とも)と云われている。世界人口が18~20億人の時代に、なんと大きな数字だろう。
1918年~19年に猛威を振るったスペインインフルエンザ(いわゆるスペインかぜ)の犠牲者数である。
ここ100年で人類が大量死した事象としては、第一次世界大戦の戦死者が992万人、行方不明者が775万人、また第二次世界大戦の戦死者は6,200万人と推定されているので、このインフルエンザのパンデミック(汎発流行)がいかに人類にとって歴史的な災厄だったかが判ろう。
生存競争の激しい地球で、もっとも進化を遂げ、我が物顔で他の生物を餌食にしているのはウイルスである。私たち人類は常にウイルスとの闘いの最前線にいる。
敵の中でも極めて強力なのがインフルエンザウイルスだ。人類の歴史はインフルエンザとの戦いでもある。
スペインインフルエンザ以降も、100万人以上が死亡した1957~58年のアジアかぜ、50万人が死亡した1968~69年の香港かぜ等が発生している。
スペインインフルエンザでの大量死を思えば、その後は人類も善戦していると云えるかもしれない。しかしウイルスの突然変異のスピードは凄まじく、次々と新しい対戦相手が誕生している。しかもヒトに巣食うインフルエンザだけでなく、豚や鳥に住みついたものも突然変異を起こしてヒトを襲うおそれがある。
本来の宿主であるカモ等はインフルエンザに感染しても発症することはなかったので、永遠にカモとだけ仲良く暮らしてくれていれば良かったのだが、ウイルスたちは貪欲である。特に私たちはトリに住みつくインフルエンザウイルスに免疫を持っていなかったので、襲われたら多くの犠牲者が出てしまう。スペインインフルエンザもアジアかぜも香港かぜも、トリ由来のウイルスであったという。
季節性インフルエンザの致死率(感染して病気になった場合に死亡する率)が0.05%であるのに対し、スペインインフルエンザの致死率は2.0%あるいは2.5%以上だったそうだから、恐るべき強毒性である。
そして世の中にはもっと恐ろしいウイルスもいる。
2002年から2003年にかけて世界を震撼させた重症急性呼吸器症候群(SARS)の致死率は14~15%だし、悪名高いエボラ出血熱の致死率はなんと50~89%に上る。
地球という星は、決して私たち人類のために居心地の良い環境を提供しているわけではない。医療関係者や薬品研究者等の不断の努力によって、私たちは何とか生き長らえているのである。
とはいえ、私たちは恐れてばかりもいられない。
究極の予防策は、宿主となる可能性のあるすべての生物を根絶やしにすることだろう。
トリ由来のインフルエンザが怖ければ、すべての鳥類を絶滅させれば良い。重症急性呼吸器症候群(SARS)やエボラ出血熱が怖ければ、彼らの自然宿主であるコウモリを絶滅させれば効果的だ。その他、ヒトを除く生き物をことごとく絶滅させれば、地球は住みやすい星になるかもしれない。
もちろん、私たちはそれが現実的ではないことを知っている。トリもコウモリも、いや細菌やウイルスさえも、地球の同居人なのだ。時として恐ろしい同居人ではあるが、彼らを完全に排除することはできない。
そのためには、徒手空拳ではいられない。
体調が悪ければ薬を飲むし、食品には保存料を添加して腐敗を防ぎ、食中毒リスクを下げる。
そうやって、人智を尽くして様々な対策を施す必要があるだろう。
『コンテイジョン』は、人類が何度目かのパンデミックに見舞われる様子を徹底的にリアルに描いた作品である。
この題材は、リアルに描くことに大きな意義がある。
過去、パンデミックを題材にした映画は、恐怖をやたらと煽ったり、非現実的だったり、妙な陰謀物に堕してしまったりしたものだ。映画は娯楽なので、どんな手段を使おうが観客を興奮されば良いというのも一つの考え方ではある。
しかし、パンデミックはいつ起きるかもしれないのだから、それが起きたときのことをリアルにシミュレーションしておくのは重要だ。
人間の五感のうち視覚・聴覚の役割の大きさを考えれば、映像と音響を武器にする映画というものが観客に与える影響は小さくないだろう。その映画が恐怖を煽るものだったり非現実的なものであったなら、人々が実際にパンデミックに遭遇したときにそれを思い浮かべないとも限らない。
ありえないことを題材にしたホラー映画ならともかく、いつ起きてもおかしくないパンデミック物において、おぞましい映像や空想的な描写を頻出させ、人々の印象を形作るのは感心しない。
また、パンデミックを人間の陰謀に帰結させるのも問題を矮小化させている。
ウイルスをばら撒く陰謀があるのなら、陰謀を企んだ悪党を懲らしめれば良いだろう。しかし残念ながら、悪党の有無にかかわらず、私たちはパンデミックの可能性と隣り合わせに暮らしている。陰謀論をもてあそんでいられるような甘い状況ではない。
こうしたことを考えるとき、本作がリアリティを重視してパンデミックを扱う姿勢は申し分ない。映画は、パンデミックが発生したら起こり得ることを、無駄なく、無茶な誇張もなく、冷徹に描写し続ける。感染(contagion)の模様や、政府機関にできること、できないことの描写も、リアリティ満点である。
たとえば、事件が香港からはじまることもリアルな描写のひとつだろう。アジアかぜも香港かぜも香港から流行したし、重症急性呼吸器症候群(SARS)は香港に隣接する広東省で発生している。
また、パンデミックを起こすウイルスが、致死率20~30%というのも絶妙な数字だ。
これは5人に3~4人は生き残るということであり、パニックを煽る映画としてはもの足りないと思うかもしれない。
しかし致死率20~30%ならば、人類を襲った未曾有の大災厄であるスペインインフルエンザの10倍に及ぶ。パンデミックとしては充分すぎる数字である。
それに、これより高い数字にするとリアリティが失われてしまう。
エボラ出血熱の致死率は50~89%もあるが、それにより世界的な大量死が発生しないのはなぜだろう。その理由は、インフルエンザとの感染の仕方の違いに加えて、致死率があまりにも高く、感染が世界に広まるよりも先に宿主が死に絶えてしまうからだ。
致死率90%のウイルスが世界に蔓延なんて映画を作ったら、物笑いになるだけだろう。だから致死率を20~30%とする本作は、絶妙な数字を突いている。
本作のウイルスは、感染しても5人に4人は生き残るから、人類絶滅なんて話にはならない。
幸いにも、感染者に接触しながら大事に至らない人もいる。多くの犠牲が出るのは確かだが、やがて病気の猛威は終息する。
リアリティを重視すれば、そういう展開になるはずである。
それゆえに、本作が淡々としすぎていると感じる人もいるかもしれない。死に直面した恐怖とか、家族を失う悲しみ等が描き足りないと思う観客もいるだろう。
しかし、そういう話なら、数々の難病モノや余命モノの映画が描写済みだ。パンデミック、すなわち世界的な大流行を題材とする本作にまで、そのような描写を差し挟む必要はなかろう。
本作は、人類とウイルスとの永続する戦いの1ショットを切り取った作品である。
パンデミックはいつでも起こりかねないのに、私たちはあらかじめ経験を積んでおくことができない。だからこそ、リアルな映画でシミュレーションしておくことに意義がある。
地球での生存競争に終わりはないのだから。
本作でとりわけ面白いのは、ジュード・ロウ演じるフリーのジャーナリストだ。
彼は人々の不安を煽る記事を書き、政府発表をウソ呼ばわりし、それにより注目を集める。彼のブログへのアクセスはウナギ登りとなる。
本作では、そんな立ち回りをジュード・ロウひとりに代表させているが、現実にはそういう人が多々出現するだろう。それは必ずしも私利私欲のためではなく、正義を実践したつもりなのかもしれない。
そのような言説は、自分たちが被害者で、どこかに隠された真実があると思いたい人々の渇望を満たしてくれるので、少なからぬ需要がある。
インターネットはどんなネタでも発信できる環境をすべての人に提供したから、誰でもあらゆる言説を流し放題だ。
過去、私たちは統制された報道が危険であることを学んできたが、これからは誰もが情報発信できることの危険も学ばなければならない。
そのことに目配りしている点においても、本作はリアルなのである。
『コンテイジョン』 [か行]
監督/スティーヴン・ソダーバーグ
出演/マリオン・コティヤール マット・デイモン ローレンス・フィッシュバーン ジュード・ロウ グウィネス・パルトロー ケイト・ウィンスレット ブライアン・クランストン ジェニファー・イーリー サナ・レイサン
日本公開/2011年11月12日
ジャンル/[サスペンス] [パニック]
http://bookmarks.yahoo.co.jp/bookmarklet/showpopup?t='+encodeURIComponent(document.title)+'&u='+encodeURIComponent(location.href)+'&ei=UTF-8','_blank','width=550,height=480,left=100,top=50,scrollbars=1,resizable=1',0);">
1918年~19年に猛威を振るったスペインインフルエンザ(いわゆるスペインかぜ)の犠牲者数である。
ここ100年で人類が大量死した事象としては、第一次世界大戦の戦死者が992万人、行方不明者が775万人、また第二次世界大戦の戦死者は6,200万人と推定されているので、このインフルエンザのパンデミック(汎発流行)がいかに人類にとって歴史的な災厄だったかが判ろう。
生存競争の激しい地球で、もっとも進化を遂げ、我が物顔で他の生物を餌食にしているのはウイルスである。私たち人類は常にウイルスとの闘いの最前線にいる。
敵の中でも極めて強力なのがインフルエンザウイルスだ。人類の歴史はインフルエンザとの戦いでもある。
スペインインフルエンザ以降も、100万人以上が死亡した1957~58年のアジアかぜ、50万人が死亡した1968~69年の香港かぜ等が発生している。
スペインインフルエンザでの大量死を思えば、その後は人類も善戦していると云えるかもしれない。しかしウイルスの突然変異のスピードは凄まじく、次々と新しい対戦相手が誕生している。しかもヒトに巣食うインフルエンザだけでなく、豚や鳥に住みついたものも突然変異を起こしてヒトを襲うおそれがある。
本来の宿主であるカモ等はインフルエンザに感染しても発症することはなかったので、永遠にカモとだけ仲良く暮らしてくれていれば良かったのだが、ウイルスたちは貪欲である。特に私たちはトリに住みつくインフルエンザウイルスに免疫を持っていなかったので、襲われたら多くの犠牲者が出てしまう。スペインインフルエンザもアジアかぜも香港かぜも、トリ由来のウイルスであったという。
季節性インフルエンザの致死率(感染して病気になった場合に死亡する率)が0.05%であるのに対し、スペインインフルエンザの致死率は2.0%あるいは2.5%以上だったそうだから、恐るべき強毒性である。
そして世の中にはもっと恐ろしいウイルスもいる。
2002年から2003年にかけて世界を震撼させた重症急性呼吸器症候群(SARS)の致死率は14~15%だし、悪名高いエボラ出血熱の致死率はなんと50~89%に上る。
地球という星は、決して私たち人類のために居心地の良い環境を提供しているわけではない。医療関係者や薬品研究者等の不断の努力によって、私たちは何とか生き長らえているのである。
とはいえ、私たちは恐れてばかりもいられない。
究極の予防策は、宿主となる可能性のあるすべての生物を根絶やしにすることだろう。
トリ由来のインフルエンザが怖ければ、すべての鳥類を絶滅させれば良い。重症急性呼吸器症候群(SARS)やエボラ出血熱が怖ければ、彼らの自然宿主であるコウモリを絶滅させれば効果的だ。その他、ヒトを除く生き物をことごとく絶滅させれば、地球は住みやすい星になるかもしれない。
もちろん、私たちはそれが現実的ではないことを知っている。トリもコウモリも、いや細菌やウイルスさえも、地球の同居人なのだ。時として恐ろしい同居人ではあるが、彼らを完全に排除することはできない。
そのためには、徒手空拳ではいられない。
体調が悪ければ薬を飲むし、食品には保存料を添加して腐敗を防ぎ、食中毒リスクを下げる。
そうやって、人智を尽くして様々な対策を施す必要があるだろう。
『コンテイジョン』は、人類が何度目かのパンデミックに見舞われる様子を徹底的にリアルに描いた作品である。
この題材は、リアルに描くことに大きな意義がある。
過去、パンデミックを題材にした映画は、恐怖をやたらと煽ったり、非現実的だったり、妙な陰謀物に堕してしまったりしたものだ。映画は娯楽なので、どんな手段を使おうが観客を興奮されば良いというのも一つの考え方ではある。
しかし、パンデミックはいつ起きるかもしれないのだから、それが起きたときのことをリアルにシミュレーションしておくのは重要だ。
人間の五感のうち視覚・聴覚の役割の大きさを考えれば、映像と音響を武器にする映画というものが観客に与える影響は小さくないだろう。その映画が恐怖を煽るものだったり非現実的なものであったなら、人々が実際にパンデミックに遭遇したときにそれを思い浮かべないとも限らない。
ありえないことを題材にしたホラー映画ならともかく、いつ起きてもおかしくないパンデミック物において、おぞましい映像や空想的な描写を頻出させ、人々の印象を形作るのは感心しない。
また、パンデミックを人間の陰謀に帰結させるのも問題を矮小化させている。
ウイルスをばら撒く陰謀があるのなら、陰謀を企んだ悪党を懲らしめれば良いだろう。しかし残念ながら、悪党の有無にかかわらず、私たちはパンデミックの可能性と隣り合わせに暮らしている。陰謀論をもてあそんでいられるような甘い状況ではない。
こうしたことを考えるとき、本作がリアリティを重視してパンデミックを扱う姿勢は申し分ない。映画は、パンデミックが発生したら起こり得ることを、無駄なく、無茶な誇張もなく、冷徹に描写し続ける。感染(contagion)の模様や、政府機関にできること、できないことの描写も、リアリティ満点である。
たとえば、事件が香港からはじまることもリアルな描写のひとつだろう。アジアかぜも香港かぜも香港から流行したし、重症急性呼吸器症候群(SARS)は香港に隣接する広東省で発生している。
また、パンデミックを起こすウイルスが、致死率20~30%というのも絶妙な数字だ。
これは5人に3~4人は生き残るということであり、パニックを煽る映画としてはもの足りないと思うかもしれない。
しかし致死率20~30%ならば、人類を襲った未曾有の大災厄であるスペインインフルエンザの10倍に及ぶ。パンデミックとしては充分すぎる数字である。
それに、これより高い数字にするとリアリティが失われてしまう。
エボラ出血熱の致死率は50~89%もあるが、それにより世界的な大量死が発生しないのはなぜだろう。その理由は、インフルエンザとの感染の仕方の違いに加えて、致死率があまりにも高く、感染が世界に広まるよりも先に宿主が死に絶えてしまうからだ。
致死率90%のウイルスが世界に蔓延なんて映画を作ったら、物笑いになるだけだろう。だから致死率を20~30%とする本作は、絶妙な数字を突いている。
本作のウイルスは、感染しても5人に4人は生き残るから、人類絶滅なんて話にはならない。
幸いにも、感染者に接触しながら大事に至らない人もいる。多くの犠牲が出るのは確かだが、やがて病気の猛威は終息する。
リアリティを重視すれば、そういう展開になるはずである。
それゆえに、本作が淡々としすぎていると感じる人もいるかもしれない。死に直面した恐怖とか、家族を失う悲しみ等が描き足りないと思う観客もいるだろう。
しかし、そういう話なら、数々の難病モノや余命モノの映画が描写済みだ。パンデミック、すなわち世界的な大流行を題材とする本作にまで、そのような描写を差し挟む必要はなかろう。
本作は、人類とウイルスとの永続する戦いの1ショットを切り取った作品である。
パンデミックはいつでも起こりかねないのに、私たちはあらかじめ経験を積んでおくことができない。だからこそ、リアルな映画でシミュレーションしておくことに意義がある。
地球での生存競争に終わりはないのだから。
本作でとりわけ面白いのは、ジュード・ロウ演じるフリーのジャーナリストだ。
彼は人々の不安を煽る記事を書き、政府発表をウソ呼ばわりし、それにより注目を集める。彼のブログへのアクセスはウナギ登りとなる。
本作では、そんな立ち回りをジュード・ロウひとりに代表させているが、現実にはそういう人が多々出現するだろう。それは必ずしも私利私欲のためではなく、正義を実践したつもりなのかもしれない。
そのような言説は、自分たちが被害者で、どこかに隠された真実があると思いたい人々の渇望を満たしてくれるので、少なからぬ需要がある。
インターネットはどんなネタでも発信できる環境をすべての人に提供したから、誰でもあらゆる言説を流し放題だ。
過去、私たちは統制された報道が危険であることを学んできたが、これからは誰もが情報発信できることの危険も学ばなければならない。
そのことに目配りしている点においても、本作はリアルなのである。
![コンテイジョン(マリオン・コティヤール、マット・デイモン、ローレンス・フィッシュバーン出演) [DVD]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/51lx13bJznL._SL160_.jpg)
監督/スティーヴン・ソダーバーグ
出演/マリオン・コティヤール マット・デイモン ローレンス・フィッシュバーン ジュード・ロウ グウィネス・パルトロー ケイト・ウィンスレット ブライアン・クランストン ジェニファー・イーリー サナ・レイサン
日本公開/2011年11月12日
ジャンル/[サスペンス] [パニック]


tag : スティーヴン・ソダーバーグマリオン・コティヤールマット・デイモンローレンス・フィッシュバーンジュード・ロウグウィネス・パルトローケイト・ウィンスレットブライアン・クランストンジェニファー・イーリーサナ・レイサン
『指輪をはめたい』 急上昇しているのはコレだ!
思わず吹き出した。
なにしろ水森亜土さんが医師役で登場し、いきなりカルテにイラストを描きだすのだ。しかも得意の両手描き。
この絶妙なキャスティングに、期待は高まろうというものである。
そして映画『指輪をはめたい』は、最後まで期待を裏切らない。
山田孝之さん演じる主人公の片山輝彦は、30歳目前のサラリーマンだ。
モテモテの彼は、小西真奈美さん、真木よう子さん、池脇千鶴さんが演じる女性たちを相手に三股をかけている。そして彼の手には婚約指輪がひとつ。
さて、彼は指輪を誰に贈れば良いのだろう。
小西真奈美さんは医薬品の研究者らしく、終始白衣姿である。彼女の長い黒髪が白衣に映えるのは、『ちゅらさん』の医師役で実証済みだ。輝彦の云うとおり、「完璧な美しさ」である。
真木よう子さんは『SP 警視庁警備部警護課第四係』や『モテキ』のつんけんした女性が印象的だが、本人が「今までにない役」と云うように、本作では一転して屈託のない笑顔を振りまいている。こんなに可愛い笑顔の人だったのだ。
池脇千鶴さんはさすがの演技力で、二歩も三歩も五歩も下がって前に出られない女の子を演じている。手料理が一番美味そうなのである。
さらに二階堂ふみさんが、岩田ユキ監督の前作『8ミリメートル』での猫に続いて、本作でもちょっと不思議な役で登場する。『劇場版 神聖かまってちゃん ロックンロールは鳴り止まないっ』で男を蹴倒した勇猛さとはうって変わり、カワイ子ブリッ子な笑顔が愛らしい。
こんな素敵な女性たちに囲まれるなんて、輝彦は幸せ者だ。くー、うらやましい。
現実には、こんな恵まれたことがあろうはずもないが、あながちデタラメとはいいきれない。
内閣府が20~30代の男女を調査した結果によれば、既婚者は男性の16.7%、女性の21.8%しかおらず、なんと男性の58%、女性の44.1%には恋人がいない。それどころか男性の25.8%、女性の15.1%は、これまで交際した経験すらない。
したがって、片山輝彦のようなケースはもちろん珍しいのだが、注目すべきは男女の数字のギャップである。男性よりも女性の方が交際経験を持ち、現在結婚している人や恋人がいる人も女性の方が多い。
ん?
たしかに、総務省統計局が発表した2009年11月1日現在の日本の人口によれば、20~30代では女性よりも男性の人口がやや多い。だから1対1で付き合ったら、男性があぶれる計算にはなる。
しかし、男女の人口比を考慮しても、このギャップは大きすぎる。
その理由はいくつか挙げられよう。
ひとつには、20~30代の女性が同年代の男性とは交際しないことが考えられる。加藤茶さんが68歳のときに23歳の女性と結婚した例もあるように、20~30代の女性は40代以上のオジサンと付き合うのかもしれない。とはいえ、男性の未婚率は全世代で女性を上回っているし、生涯未婚率に至っては1990年に女性を追い抜き、2000年代に入ってからは女性の2倍もの高率で推移している。
となると、世のオジ様たちがモテているとばかりもいえない。
すると、もうひとつ考えられるのは、男女の付き合いが1対1ではないということ!?
公式な統計に表れることはないだろうが、水面下で二股、三股をかけている男性は案外いるのかもしれない。
それはともかく、本作は女優陣の魅力もさることながら、山田孝之さんのコミカルな演技がまた楽しい。テレビドラマ『勇者ヨシヒコと魔王の城』でも大笑いさせてもらったが、本作では公園から走り去るときの素っ転び方が見事である。
三股もかけていながら嫌らしさを感じさせないのは、山田孝之さんのオドオドした演技プランがマッチしているからだろう。
そしてまた、単なるラブコメに終わらないのが本作の憎いところだ。
岩田ユキ監督は短編『8ミリメートル』において8ミリフィルムの映像と夢と現実が錯綜する構成を試みていたが、本作でも記憶の混濁と幻想がない交ぜになった重層的な構成で目が離せない。
病院に運ばれる主人公と夢うつつな物語、そして不思議な女性が相談相手になる様は、ボブ・フォッシー監督の名作『オール・ザット・ジャズ』を髣髴とさせて愉快である。
本作はまがうかたなきコメディだし、恋愛モノだし、とても楽しい映画だが、その味わいは切なくほろ苦い。
独身者に「独身にとどまっている理由」を尋ねると、24歳までの男女は「結婚しない」理由を挙げるが、25歳以上になると「結婚できない」理由が増える。しかしそれは「親が同意しない」とか「結婚資金が足りない」ということではない。「適当な相手に巡り会わない」という理由がもっとも多いのだ。周囲に独身の異性はたくさんいるのに。
「適当な相手に巡り会わない」というと素敵な相手がいないかのようだが、本作の主人公は周囲が素敵な相手だらけのために、かえって適当な相手を決められない。いや、結局素敵な相手と適当な相手は違うのだが。
生涯未婚率が急上昇している現代において、「指輪をはめたい」という願望は実は重いテーマなのである。
『指輪をはめたい』 [や行]
監督・脚本/岩田ユキ
出演/山田孝之 小西真奈美 真木よう子 池脇千鶴 二階堂ふみ 山内健司 佐藤貴広 水森亜土 杉山彦々
日本公開/2011年11月19日
ジャンル/[コメディ] [ロマンス]
http://bookmarks.yahoo.co.jp/bookmarklet/showpopup?t='+encodeURIComponent(document.title)+'&u='+encodeURIComponent(location.href)+'&ei=UTF-8','_blank','width=550,height=480,left=100,top=50,scrollbars=1,resizable=1',0);">
なにしろ水森亜土さんが医師役で登場し、いきなりカルテにイラストを描きだすのだ。しかも得意の両手描き。
この絶妙なキャスティングに、期待は高まろうというものである。
そして映画『指輪をはめたい』は、最後まで期待を裏切らない。
山田孝之さん演じる主人公の片山輝彦は、30歳目前のサラリーマンだ。
モテモテの彼は、小西真奈美さん、真木よう子さん、池脇千鶴さんが演じる女性たちを相手に三股をかけている。そして彼の手には婚約指輪がひとつ。
さて、彼は指輪を誰に贈れば良いのだろう。
小西真奈美さんは医薬品の研究者らしく、終始白衣姿である。彼女の長い黒髪が白衣に映えるのは、『ちゅらさん』の医師役で実証済みだ。輝彦の云うとおり、「完璧な美しさ」である。
真木よう子さんは『SP 警視庁警備部警護課第四係』や『モテキ』のつんけんした女性が印象的だが、本人が「今までにない役」と云うように、本作では一転して屈託のない笑顔を振りまいている。こんなに可愛い笑顔の人だったのだ。
池脇千鶴さんはさすがの演技力で、二歩も三歩も五歩も下がって前に出られない女の子を演じている。手料理が一番美味そうなのである。
さらに二階堂ふみさんが、岩田ユキ監督の前作『8ミリメートル』での猫に続いて、本作でもちょっと不思議な役で登場する。『劇場版 神聖かまってちゃん ロックンロールは鳴り止まないっ』で男を蹴倒した勇猛さとはうって変わり、カワイ子ブリッ子な笑顔が愛らしい。
こんな素敵な女性たちに囲まれるなんて、輝彦は幸せ者だ。くー、うらやましい。
現実には、こんな恵まれたことがあろうはずもないが、あながちデタラメとはいいきれない。
内閣府が20~30代の男女を調査した結果によれば、既婚者は男性の16.7%、女性の21.8%しかおらず、なんと男性の58%、女性の44.1%には恋人がいない。それどころか男性の25.8%、女性の15.1%は、これまで交際した経験すらない。
したがって、片山輝彦のようなケースはもちろん珍しいのだが、注目すべきは男女の数字のギャップである。男性よりも女性の方が交際経験を持ち、現在結婚している人や恋人がいる人も女性の方が多い。
ん?
たしかに、総務省統計局が発表した2009年11月1日現在の日本の人口によれば、20~30代では女性よりも男性の人口がやや多い。だから1対1で付き合ったら、男性があぶれる計算にはなる。
しかし、男女の人口比を考慮しても、このギャップは大きすぎる。
その理由はいくつか挙げられよう。
ひとつには、20~30代の女性が同年代の男性とは交際しないことが考えられる。加藤茶さんが68歳のときに23歳の女性と結婚した例もあるように、20~30代の女性は40代以上のオジサンと付き合うのかもしれない。とはいえ、男性の未婚率は全世代で女性を上回っているし、生涯未婚率に至っては1990年に女性を追い抜き、2000年代に入ってからは女性の2倍もの高率で推移している。
となると、世のオジ様たちがモテているとばかりもいえない。
すると、もうひとつ考えられるのは、男女の付き合いが1対1ではないということ!?
公式な統計に表れることはないだろうが、水面下で二股、三股をかけている男性は案外いるのかもしれない。
それはともかく、本作は女優陣の魅力もさることながら、山田孝之さんのコミカルな演技がまた楽しい。テレビドラマ『勇者ヨシヒコと魔王の城』でも大笑いさせてもらったが、本作では公園から走り去るときの素っ転び方が見事である。
三股もかけていながら嫌らしさを感じさせないのは、山田孝之さんのオドオドした演技プランがマッチしているからだろう。
そしてまた、単なるラブコメに終わらないのが本作の憎いところだ。
岩田ユキ監督は短編『8ミリメートル』において8ミリフィルムの映像と夢と現実が錯綜する構成を試みていたが、本作でも記憶の混濁と幻想がない交ぜになった重層的な構成で目が離せない。
病院に運ばれる主人公と夢うつつな物語、そして不思議な女性が相談相手になる様は、ボブ・フォッシー監督の名作『オール・ザット・ジャズ』を髣髴とさせて愉快である。
本作はまがうかたなきコメディだし、恋愛モノだし、とても楽しい映画だが、その味わいは切なくほろ苦い。
独身者に「独身にとどまっている理由」を尋ねると、24歳までの男女は「結婚しない」理由を挙げるが、25歳以上になると「結婚できない」理由が増える。しかしそれは「親が同意しない」とか「結婚資金が足りない」ということではない。「適当な相手に巡り会わない」という理由がもっとも多いのだ。周囲に独身の異性はたくさんいるのに。
「適当な相手に巡り会わない」というと素敵な相手がいないかのようだが、本作の主人公は周囲が素敵な相手だらけのために、かえって適当な相手を決められない。いや、結局素敵な相手と適当な相手は違うのだが。
生涯未婚率が急上昇している現代において、「指輪をはめたい」という願望は実は重いテーマなのである。
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監督・脚本/岩田ユキ
出演/山田孝之 小西真奈美 真木よう子 池脇千鶴 二階堂ふみ 山内健司 佐藤貴広 水森亜土 杉山彦々
日本公開/2011年11月19日
ジャンル/[コメディ] [ロマンス]


『マネーボール』 経済学は冷たいか?
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そんなツイートを目にすることがあった。ひとつの学問に冷たいだの温かいだのと体感温度はないはずだが、そういう思い込みを持つ人がいることに興味を引かれた。
『マネーボール』は、プロ野球チーム・アスレチックスのゼネラルマネージャーであるビリー・ビーンが、イェール大学で経済学を専攻したピーター・ブランドと共にチームの改革に取り組む物語だ。
ピーター・ブランドのモデルになった人物ポール・デポデスタは、ハーバード大学の出身だそうで、映画の作り手がなぜイェール大学に変えたのかは判らない。脚本のアーロン・ソーキンが手掛けた『ソーシャル・ネットワーク』はハーバード大学を舞台にしていたから、もうハーバードはいいよと思ったのかもしれない。
あるいは経済学については、ポール・クルーグマンをはじめノーベル経済学賞受賞者を輩出しているイェールの方が今は受けると考えたのかもしれない。
それはともかく、経済学を専攻して統計を学んだピーター・ブランドは、アスレチックスを安くて勝てるチームにすべく統計的手法を駆使する。
考えてみれば統計とは不思議なものだ。
経済学のみならず、理学、工学等、多くの分野で使用され、統計を学んだ人も多いに違いないのに、私たちの暮らしに十二分に活かされているかは疑問だ。政治家や経営者が述べる施策にしろそれへの反論にしろ、統計的な裏付けがあるとは云えないことが多いし、ましてや日常の判断に統計的手法を使っている人は皆無ではないか。
たとえば、初詣する人は、それで1年間の運勢が良くなるという統計的な裏付けがあるから行くわけではない。血液型と性格が関係すると考えている人は、そのことを立証するデータを目にしたわけではない。
にもかかわらず、日本人の約8割が初詣に繰り出し、血液型性格診断に関する本はいつも書店を賑わしている。そして人々は、そこに時間や金銭を費やすだけの便益があるか否かの検証すら行わない。
統計なんて特定の狭い領域でしか使えない、と思われているのかもしれない。
人間の評価にしても同じことだ。
『マネーボール』に登場するスカウトたちは、多くの選手たちを値踏みする。曰く、「あいつは球を打つ音がいい」「いい顔をしている」「彼女が美人じゃない。魅力のない証拠だ」……。彼らはそんな主観や印象論で判断し、ある選手には高い報酬を提示し、別の選手は選択肢から外す。
また、判断材料に数字を使ったとしても、それが本当に適切かは疑問である。
劇中、ビリー・ビーンとピーター・ブランドが打率ではなく出塁率を重視して、周囲から非難される場面がある。打率は安打のみから算出するが、出塁率の計算には四球も含まれる。投手のミスである四球を、打者の評価に使うのはおかしいとみんなは考えていたのだ。
しかし、選手を評価する指標は、チームの勝敗を左右する重大な要素である。なぜなら、評価指標を打率にするか出塁率にするかで選手の行動も変わってくるからだ。
もしも出塁率で評価してもらえるなら、たとえ四球だろうが塁に出さえすれば良い。したがって打者は投手が繰り出す球を正確に見極めて、ボールのときには手を出さないだろう。ボールを積み重ねることも塁に出るためには役立つからだ。
他方、打率で評価されるのであれば、とにかく球を打たなければならない。バットを握って立っているだけじゃ評価は上がらないのだから、何はともあれバットを振るだろう。それで安打になれば良いものの、アウトになることも増えるかもしれない。
こうして考えれば、チームが勝つ上では打率と出塁率のどちらが大事か判るはずだ。
にもかかわらず、ビリー・ビーンとピーター・ブランドが云い出すまでは、誰もが打率を重視していた。
そして目出つ選手や打率の良い選手が高評価を得るために、ボールを正確に見極めるような地味な選手は冷遇されていた。
ビリー・ビーンとピーター・ブランドは、そこに統計的手法を駆使して本当に重視すべき指標を持ち込んだ。主観や印象論で評価するのでもなければ、目に付きやすい数字だけを取り上げるのでもなく、本当にチームに貢献する人を掘り起こす指標を統計的に導き出した。
彼らが行ったのは他でもない、評価システムの見直しなのである。
そして映画では、冷遇されてきた選手たちが、自信を取り戻し活躍する。
そんなビリーやピーターの手法が冷たいだろうか。主観や印象論ばかりの旧来のやり方に温かみがあるのだろうか。
本作に関して、ビリー・ビーン役のブラッド・ピットはこう語る。[*]
「この作品は、価値観や我々が人をどう評価するか、そして社会における評価システムによって、自分たちの価値とは何かが決まる、といったことを描いている。勝者とはなにか、敗者とはなにか。そうした普遍的なテーマを扱っているんだ」
ピーター・ブランド役のジョナ・ヒルの意見も同様である。[*]
「これは、過小評価されている人たちについての映画なんだ。ビーンは子供のころからずっと過小評価されてきたピーターのような人間にチャンスを与えた。それは光り輝き、花を咲かせるチャンスだ。それを描いていることが、この映画のすばらしいところだと思う」
もう将来はないと思われていた選手が、違う物差しを当てることで輝き出す様は感動である。
ただし、机上の計算だけでチームがうまくいくわけではない。本作は、チームマネジメントの基本もちゃんと押さえている。
・リーダーがビジョン(この場合は優勝)を掲げ、メンバー全員にみずからの言葉で伝達する。
・新たに採用した方式の狙いや効果を各メンバーに説明し、リーダーの考えを浸透させる。
・チームのムードを乱す者は、場合によっては退場させてでも、みんなのベクトルを一致させる。
こういったマネジメントの基本を実践することでチームは変わっていくのだが、それも統計的な数字の裏付けがあればこそである。
もっとも、統計的に数字を出しやすい分野とそうでない分野がある。
野球は比較的数字にしやすい分野だろう。試合数が多いので母集団が大きく、個々の選手の活躍も衆目の下で測定しやすい。
しかし、吉田耕作氏によれば、一般企業においては個人の業績は測れないという。成果の80%はみんなが係わり合った結果であって、環境から独立した個々の人間の成果として判別できるのはごく一部であるというのだ。
そのような中で、無理に従業員に序列を付けたり、ましてや序列に応じて報酬額を大きく変動させては、かえってパフォーマンスは低下するだろう。
吉田耕作氏は次のように述べる。
---
序列制は恐怖による経営である。なぜなら、従業員のあいだに失業という恐怖の念を植えつけるからだ。恐怖の念は個人個人の人間の尊厳を奪い、従業員の創造力を枯渇させ、長期にわたる質および生産性の向上には結びつかない。リーダーは、このことをしっかり肝に銘ずべきである。
---
なるほど、『マネーボール』で描かれるのは、すでに成績によって評価するのが当たり前のプロ野球の世界であり、安いといっても数十万ドルに及ぶような高報酬が提示される人々の話だ。
そんな報酬を提示できない一般企業では、『マネーボール』のようにはいかないことをゆめゆめ忘れてはならないのだろう。
[*] 月刊シネコンウォーカー(No.071/2011年11月12日発行)
![マネーボール プレミアムエディション (初回生産限定) [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/51E3fHLT%2BmL._SL160_.jpg)
監督/ベネット・ミラー
出演/ブラッド・ピット ジョナ・ヒル フィリップ・シーモア・ホフマン ロビン・ライト クリス・プラット ケリス・ドーシー
日本公開/2011年11月11日
ジャンル/[ドラマ] [スポーツ]

tag : ベネット・ミラーブラッド・ピットジョナ・ヒルフィリップ・シーモア・ホフマンロビン・ライトクリス・プラットケリス・ドーシー
『友だちのうちはどこ?』に見る子供の壊し方
【ネタバレ注意】
大人はひどく残酷だ。
『友だちのうちはどこ?』にも、残酷な大人たちが登場する。
なかでもひどいのは、アッバス・キアロスタミ監督だろう。子供を泣かせて、その模様をフィルムに収めて公開しているのだから。
『友だちのうちはどこ?』を観れば、登場する子供たちが本当に困って、本当に泣いていることが判る。「迫真の演技」なんてものじゃない。本当に泣いている子供以上に胸を打つものはない。
ひどい演出術ではあるものの、スクリーンに見とれて称賛している私たちもひどい大人である。でも、子供たちの表情に嘘がないからこそ、この映画には見とれてしまう。
劇中に登場する大人たちは、とくに悪い人でもなければ、とくにひどいことをするわけでもない。どこにでもいる典型的な大人たちだ。
彼らは子供の云い分を聞かない。彼らは子供に自分の意見を押し付け、従わせることを躾だと考えている。彼らはときに暴力を辞さない。彼らの云うことはしばしば間違っており、導かれるまま付いて行っても問題は解決しない。
子供は、知識量では大人に劣るかもしれない。しかし、子供なりにものごとを考え、道理に外れまいとしている。
それは決して軽んじられるべきではないのだが、大人たちは、発言しているのが子供だというだけで取り合わない。
本作で、主人公の少年が遭遇するのは、大人たちへの失望だ。
大人に正直に話しても埒が明かないことによる失望。誤解したまま、正そうとしないことへの失望。古い知識に囚われてしまい、正しく行動できないことへの失望。
結局、大人たちはよってたかって少年の邪魔しかできない。正直に振る舞い、良いことをしようとする少年の力にはなれない。
本作は、友だちの家を捜すというシンプルな物語を通して、少年を惑わせ、困らせ、疲れさせるばかりの大人たちの姿を描き出す。
風が吹いて、少年の目の前で部屋の戸が開くシーンは象徴的だ。戸の外には暗い闇が広がり、その暗黒の中に大人がいる。
このとき少年は悟ってしまうのだ。
大人たちが暗愚であることを。正直に問題を知らせても理解できず、大人の云う通りにしても事態は解決しないことを。自分がいくら正直にしても、正しい行動を心がけても、ただ暗闇に呑まれるだけであることを。
そして少年は学ぶ。大人には本当のことを伝えなくて良いということを。大人の云うことなんか、まともに聞かなくて良いということを。
少年は嘘を吐き、大人を騙すことで事態を収拾する。
少年は普通の大人になるだろう。人の云うことを聞かず、自分の意見を押し付け、ときには人を騙しながらずるく立ち回る。そんな普通の大人になるだろう。
そう仕向けたのは、他ならぬ周りの大人たちなのだ。
それを世の中では成長と呼ぶのだ。
残念ながら。
『友だちのうちはどこ?』 [た行]
監督・脚本/アッバス・キアロスタミ
出演/ババク・アハマッドプール アハマッド・アハマッドプール ゴダバクシュ・デファイエ イラン・オタリ
日本公開/1993年10月23日
ジャンル/[ドラマ]
大人はひどく残酷だ。
『友だちのうちはどこ?』にも、残酷な大人たちが登場する。
なかでもひどいのは、アッバス・キアロスタミ監督だろう。子供を泣かせて、その模様をフィルムに収めて公開しているのだから。
『友だちのうちはどこ?』を観れば、登場する子供たちが本当に困って、本当に泣いていることが判る。「迫真の演技」なんてものじゃない。本当に泣いている子供以上に胸を打つものはない。
ひどい演出術ではあるものの、スクリーンに見とれて称賛している私たちもひどい大人である。でも、子供たちの表情に嘘がないからこそ、この映画には見とれてしまう。
劇中に登場する大人たちは、とくに悪い人でもなければ、とくにひどいことをするわけでもない。どこにでもいる典型的な大人たちだ。
彼らは子供の云い分を聞かない。彼らは子供に自分の意見を押し付け、従わせることを躾だと考えている。彼らはときに暴力を辞さない。彼らの云うことはしばしば間違っており、導かれるまま付いて行っても問題は解決しない。
子供は、知識量では大人に劣るかもしれない。しかし、子供なりにものごとを考え、道理に外れまいとしている。
それは決して軽んじられるべきではないのだが、大人たちは、発言しているのが子供だというだけで取り合わない。
本作で、主人公の少年が遭遇するのは、大人たちへの失望だ。
大人に正直に話しても埒が明かないことによる失望。誤解したまま、正そうとしないことへの失望。古い知識に囚われてしまい、正しく行動できないことへの失望。
結局、大人たちはよってたかって少年の邪魔しかできない。正直に振る舞い、良いことをしようとする少年の力にはなれない。
本作は、友だちの家を捜すというシンプルな物語を通して、少年を惑わせ、困らせ、疲れさせるばかりの大人たちの姿を描き出す。
風が吹いて、少年の目の前で部屋の戸が開くシーンは象徴的だ。戸の外には暗い闇が広がり、その暗黒の中に大人がいる。
このとき少年は悟ってしまうのだ。
大人たちが暗愚であることを。正直に問題を知らせても理解できず、大人の云う通りにしても事態は解決しないことを。自分がいくら正直にしても、正しい行動を心がけても、ただ暗闇に呑まれるだけであることを。
そして少年は学ぶ。大人には本当のことを伝えなくて良いということを。大人の云うことなんか、まともに聞かなくて良いということを。
少年は嘘を吐き、大人を騙すことで事態を収拾する。
少年は普通の大人になるだろう。人の云うことを聞かず、自分の意見を押し付け、ときには人を騙しながらずるく立ち回る。そんな普通の大人になるだろう。
そう仕向けたのは、他ならぬ周りの大人たちなのだ。
それを世の中では成長と呼ぶのだ。
残念ながら。
![友だちのうちはどこ? [DVD]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/21VRDHAFFPL._SL160_.jpg)
監督・脚本/アッバス・キアロスタミ
出演/ババク・アハマッドプール アハマッド・アハマッドプール ゴダバクシュ・デファイエ イラン・オタリ
日本公開/1993年10月23日
ジャンル/[ドラマ]

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