『ツリー・オブ・ライフ』 信仰があれば幸せなのか?

 エデンの園の中央には、二本の木が生えているという。
 一つが知恵の樹、もう一つが生命の樹(Tree of Life)である。
 『旧約聖書』の『創世記』に登場する生命の樹は、孫悟空が食べた蟠桃(ばんとう)のごとく、その実を食べれば永遠に生きられるのだが、人間はこちらには手を出さず、神が禁じた知恵の樹の実を食べてしまう。
 神は、知恵の樹の実によって善悪を知るようになった人間が、生命の樹の実まで食べて永遠に生きることのないように、人間をエデンの園から追い出した。つまり、人間は知恵の樹の実を食べた罰として追放されたのではなく、永遠の命を手に入れないように、予防処置として生命の樹から引き離されたのだ。

 だがしかし、人はすでに生命の樹を手に入れているのではないか。
 そう考察するのが映画『ツリー・オブ・ライフ(The Tree of Life)』である。


 映画は、『ヨブ記』38章4~7節の引用から始まる。
 「わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか。……そのとき、明けの星々が共に喜び歌い、神の子たちはみな喜び叫んだ。」
 『ヨブ記』については、『シリアスマン』の記事で触れたので繰り返すまい。『ツリー・オブ・ライフ』では、教会のシーンでわざわざ『ヨブ記』の解説までしてくれる。

 とはいえ、本作は『シリアスマン』ほど『ヨブ記』を忠実になぞってはいない。『ヨブ記』のように大きな不幸が訪れるわけではないし、事件が連続するわけでもない。
 主人公は、父への憎しみや母への軽蔑、兄弟の死の悲しみを経験するが、それは人間誰しも味わうものだろう。
 だが本作では、主人公はヨブそのものと目されている。なにしろ、主人公の名はジャック・オブライエン――Jack O'Brien、すなわちJ-O-B(ヨブ)なのだから。


 ところが、ジャックは聖書中のヨブほど深い信仰心を持ち合わせてはいない。
 彼の母は信仰に篤い人で、ジャックと弟たちに寛大に接する。一方、父は信仰なんかそっちのけで、ジャックたちに厳しく当たる。
 そしてジャックはいずれにも等距離なのだ。父にも母にも、愛情とともに嫌悪感を抱いている。
 ジャックは母ほど信心深くはないけれど、ときには「私が嘘をつかないようにしてください」と神に祈ったりもする普通の少年だ。

 もう一度、映画の冒頭に掲げられた『ヨブ記』の38章4~7節を見てみよう。
 38章はヨブの信仰心について述べた箇所ではない。ヨブの行いの是非について議論した箇所でもない。
 ここでは宇宙の誕生や世界の形成にかかわりえない人間の矮小さが語られている。

 信仰よりも富と名声を望んだ父は、挫折を味わい、富や名声よりも大切なものがあることに気づく。
 父の期待があったからか、ジャックは長じて実業家として成功するが、摩天楼から下界を見下ろしながら心は満たされない。
 2005年に制作発表された本作は、世界が米国発の住宅バブルに浮かれていた頃に構想され、2008年9月のリーマン・ショックより前に撮影が開始された。本作がリーマン・ショックの頃に公開されていれば、富や名声を追い求める人間の矮小さがより強く感じられたに違いない。
 主人公ジャックは、信心深さによってヨブになぞらえるのではなく、人間の矮小さの象徴としてJ-O-Bの名を与えられているのだ。


 そして映画は人間の矮小さをさらに強調するように、宇宙の歴史を紐解いてみせる。
 銀河と太陽系が生まれ、やがて地球が形作られる。広大な海の中で原始生物が誕生し、植物が陸に進出する。そして恐竜の時代を迎えると、海には首長竜のエラスモサウルスが、森には草食のパラサウロロフスや肉食のトロオドンが棲息した。
 約6550万年前にはユカタン半島への隕石の落下により多くの生物が絶滅し、時を経て現在の氷河期に至る。

 私はこれら一連のシークエンスを見て、正直なところ驚いた。これはきちんとした科学考証に基づいた映像である。進化論以降の自然科学を踏まえている。キリスト教原理主義者が見たら、いきり立つのではないか。
 米国はキリスト教色の強い国であり、学校で進化論を教えるのはけしからんと考える人も多い。
 2009年の世論調査では、進化論を信じる米国人はわずか39%しかいない。過去10年間に行われた調査においても、44~47%の米国人が、神が過去1万年ほどの間に、人間を現在のような形で創造したと信じていると答えている。
 本作は、さすがに人と猿が共通の祖先から枝分かれしたことを示唆するのは避けたものの、一見キリスト教を重視しているようでありながら科学的な描写を多々挿入して、一部のキリスト教徒の神経を逆なでしかねない。


 ここで改めて気になるのが、本作の題名『ツリー・オブ・ライフ(The Tree of Life)』である。
 樹木を生命神秘の中心とする考え方は『創世記』に限らない。ゲルマン神話の世界樹ユグドラシル等、いくつもの神話・伝承に見られるものだ。
 しかし、本作が地球の歴史や進化の過程を描くことから判るように、ここでのツリー・オブ・ライフとはエデンの園にあるような生命の樹ではない。それは生物の進化や分岐を図示した系統樹のことなのである。
 系統樹は、生物が進化の過程で枝分かれし多様な種になっていくさまを、あたかも大樹の幹から枝が分かれ、さらに小枝が繁るかのように表現した図である。あくまで進化のさまを図示したものなので、科学的な厳密さはないけれど、進化論を視覚的に判りやすく伝えるには優れた表現方法だ。
 そして映画『ツリー・オブ・ライフ』は、この進化の系統樹を映像で表現しているのだ。

 いまここにいる自分は、間違いなく両親がいたから存在する。父から受け継いだものも、母から受け継いだものもあり、人生で出会った多くの人から様々なものを受け継いでいる。それらの人々も、その両親や出会った人から何かを受け継いでいる。人の世はその繰り返しである。
 信仰に篤かった母も、信仰を軽んじた父も、系統樹の枝の一つであり、自分も一本の小枝、一葉の葉なのだ。

 いや、人だけではない。
 普段は用心深く森の中に身を潜めているパラサウロロフスの子供が、あるとき傷ついて川辺に横たわっている。それを見つけた肉食恐竜のトロオドンは、鋭い鉤爪をパラサウロロフスに向ける。しかし、トロオドンは幼い恐竜のさまを見て、襲うのをやめる。それはジャックの父のような厳しさなのか、母のような愛情なのか。
 いずれにしろ恐竜に信仰心などあるはずがない。そこにあるのは、彼らもまた進化の系統樹の一員であるという事実だけだ。


 面白いのは、本作での「戸」の扱いである。
 冒頭で引用された『ヨブ記』38章4~7節の直後、8~11節では、神の偉大さを示すためにこんな記述がある。

  海がふき出て、胎内から流れ出たとき、だれが戸でこれを閉じ込めたか。
  (略)
  わたしは(略)言った。「ここまでは来てもよい。しかし、これ以上はいけない。あなたの高ぶる波はここでとどまれ。」と。

 海を創造した神は、海が陸を飲み込まないように戸を閉てた。戸は、世界を分け隔てるものなのである。
 ところが本作では、戸をくぐり抜けることで新たな境地に至る。戸は、異なる世界を結ぶ入り口なのだ。死した弟と母への思いが、ジャックに戸をくぐらせた。そして彼は系統樹の一員たるすべての人に出会うことができた。

 信仰を持つ者も、持たざる者も、人間であろうと他の生物であろうと、悠久の歴史に連綿と続く系統樹の一員であることに変わりはない。
 人はエデンの園の生命の樹の実こそ食べなかったが、系統樹の一員たることで、永続する生命の流れの内にいる。
 そして肉親の死に打ちひしがれていたジャックは、生も死も大いなる系統樹を構成するものであることを悟るのだ。

[付記]
 本作に登場する恐竜については、田代剛大氏にご教授いただいた。お礼申し上げる。


ツリー・オブ・ライフ ブルーレイ+DVDセット [Blu-ray]ツリー・オブ・ライフ』  [た行]
監督・脚本/テレンス・マリック
special photographic effects supervisor/ダグラス・トランブル
出演/ブラッド・ピット ショーン・ペン ジェシカ・チャステイン フィオナ・ショウ ハンター・マクラケン ララミー・エップラー タイ・シェリダン
日本公開/2011年8月12日
ジャンル/[ドラマ]
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【theme : アメリカ映画
【genre : 映画

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『LIFE IN A DAY 地球上のある一日の物語』 歴史に残らない特別な日

 (連載のはじめから読む。)

 日本国憲法第9条第1項は、パリで締結された「戦争抛棄ニ関スル条約」すなわち不戦条約の第1条をモデルに作成されたという。
 その第1条の現代語訳は、次のとおりである。

 「締約国は、国際紛争解決のため、戦争に訴えないこととし、かつ、その相互関係において、国家の政策の手段としての戦争を放棄することを、その各自の人民の名において厳粛に宣言する。」

 不戦条約が発効したのは、1929年7月24日のことだ。
 この条約に60ヶ国以上が署名し、戦争の放棄を約したにもかかわらず、残念ながら1929年以降も戦争が絶えることはない。
 そも、この条約が実効を伴っていれば、日本が自国の憲法にわざわざ戦争放棄の条文を入れる必要はなかったろう。また、多数の国が批准しながら不戦条約に実効性がないのなら、日本一国が憲法でその条文をなぞったところで他国から見れば意味がない。
 とはいえ、多国間で戦争の放棄を取り決めて条約の形にしたことは、戦争を違法行為とする流れを作るのに貢献したという。


 そして、その81年後の2010年7月24日、世界にとって特別なことが起こった。
 世界192ヶ国の人々が、一斉に自分たちの暮らしを動画に収めたのだ。
 2011年8月現在、国際連合の加盟国は193であり、未加盟の国を加えても204とされているから、192ヶ国とはほぼ全世界に近い。
 『LIFE IN A DAY』プロジェクトによるYouTubeを通した呼びかけに応じて192ヶ国から寄せられた動画は約8万件、4,500時間に及ぶ膨大な量だという。
 そこから7ヶ月かけて332組342人の映像を選び出し、95分の映画にまとめたのが『LIFE IN A DAY 地球上のある一日の物語』である。

 この映画は幾つもの点で画期的だ。
 これまでも複数人で共同監督した作品や、異なる監督の作品を束ねたオムニバスはあったものの、300人以上が共同監督した映画なんてなかった。
 従来、世界の奇習を収めたモンド映画にしろ真面目なドキュメンタリーにしろ、撮影隊が機材を担いで各地に分け入り、現地住民に密着して"事件"を待ったりインタビューを実施する必要があった。機材の小型化、高性能化により、今では監督一人がいればドキュメンタリーを撮ることは可能になったが、それでも長い撮影期間を要することには変わりがない。
 ところが本作は、そんな映画作りのスタイルを完全に過去のものにした。
 なにしろ、現地の住民がみずから撮影した映像が、各地から自発的に寄せられるのだ。もう取材旅行なんてものは不要である。

 しかも、撮影日を7月24日に限定したことで、人々は事件性の有無にかかわらずこの日の様子を収めざるを得なかった。もっと対象期間に幅があれば、人々は何かの記念日や特別な行事を収録したかもしれないが、たった一日ではその日の出来事を素直に取り入れるしかない。
 それが功を奏して、本作は世界中の人々のごく自然な営みを伝える作品になっている。

 映画はまず夜明け前から活動している人々の姿を映し出す。
 そして太陽が昇ると、多くの人々が目覚め、朝食を取る。数え切れないほどの人々が卵を割る。割り方や手の色は様々だが、世界中の人々が卵を割って調理している。
 同時にみんながコーヒーを飲む。色も形もまちまちのカップにコーヒーが注がれる。何気ない日常でありながら、全世界で同じことをしているかと思うとたまらなく愉快である。

 私は前回、「私たちが対峙する相手も単なる人間だ」と書いたが、まさしく世界のどこでも同じような朝を迎えて、同じような行動を取っていることが良く判る。寝坊した子供が母親に起こされるところなど、日本の家庭と何の違いがあろう。

 そんな中で印象的なのは、自転車で世界を旅する韓国人男性だ。
 世界中を見てきた彼は、世界の多様性を知っている。同時に各国が多くの共通点を持つことも知っている。
 彼によれば蝿の大きさは国によって違うそうだ。ところが彼は、中国と朝鮮と日本の蝿の大きさが同じであることを知って感動したという。


 『LIFE IN A DAY 地球上のある一日の物語』は、素人が撮影した動画を繋ぎ合わせただけだから、一貫したストーリーがあるわけではない。
 しかし、何の変哲もない一日でありながら、無数のドラマが生まれている。
 ある男は女にプロポーズし、ある夫婦は金婚式を祝う。結ばれるカップルもいれば、別れる男女もいる。この日に生まれた子もいれば、この日に死んだ人もいる。
 人間が一生のうちに接するだろうありとあらゆる出来事が、この一日に起こっているのである。
 その事実をこうして映像で突きつけられると、改めて驚きを禁じえない。

 そして1番の驚きは、これほどまでに多くの国がインターネットで結ばれ、YouTubeへアクセスできることだろう。
 映像の中には電気が通っていない家も登場するが、少なくともそこにはビデオカメラなりスマートフォンなりを充電して撮影している人がいる。ジャングルだろうが山奥だろうが、どこの景色でもカメラに収め、YouTubeにアップロードできるのだ。
 たとえ世帯年収が50万円でも、壁掛けの液晶テレビを持ち、インターネットを利用するのが今の世の中なのである。
 試写会で配布されたリーフレットには、ケヴィン・マクドナルド監督の言葉が紹介されている。
 「何千人、何万人、もしかしたら何十万人という人がプロジェクトに参加して、コミュニケートし、同じ時にそれについて考えるというアイデアは、われわれが生きている今の時代ならではのものだ。『LIFE IN A DAY』は、100年前では存在しなかったし、20年前でも、6年前ですら不可能だった。」


 思えば、人間はこれまで何度も絶滅の危機に瀕してきた
 7万年前にはスマトラ島のトバ火山が大噴火した影響で、人類は1万人ほどに激減したという。1万人なんて、東京ドームの客席の5分の1も埋められない。
 そのたった1万人が、その後の7万年で69億人まで繁殖し、2050年には91.5億人になる見込みである。
 しかしどんなに増えようとも、私たちはたかだか1万人から再出発した同胞なのだ。祖先を遡れば、同じ女性同じ男性にたどり着く間柄である。
 69億人になったとしても、その生活、喜怒哀楽に、親しみを覚えるのは不思議ではない。

 この映画で取り上げられた2010年7月24日は、歴史に残る日ではない。2011年7月24日だって、2012年7月24日だって、人類にとって歴史的な日というわけではないだろう。
 けれどもそこには、無数のドラマが生まれているのだ。


 ひとつ残念なのは、この映画にはYouTubeが遮断されている国や地域の映像がない。
 今回のプロジェクトを告知する文面には、対象外となる国が挙げられている。

  イラン、シリア、キューバ、スーダン、北朝鮮、ミャンマー

 いつか、これらの国を含めた作品も観られる日が来ることを願ってやまない。


LIFE IN A DAY 地球上のある一日の物語』  [ら行]
監督/ケヴィン・マクドナルドと332組342人
制作総指揮/リドリー・スコット、トニー・スコット
日本公開/2011年8月27日
ジャンル/[ドキュメンタリー]
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『大いなる西部』 本当に大きいものは?

 ここには映画のすべてがある。
 雄大な景色、張り詰めた空気、工夫されたアクションと起伏に富んだ物語、孤高の勇気と固い信念、ロマンチシズムと魅力的な役者たち。さらには、忘れられない印象的なテーマ曲
 1958年に公開された『大いなる西部』は、西部劇の傑作である。ところが、あまり西部劇らしくない。派手な銃撃戦はないし、主人公はヒーローとして称賛を浴びるわけでもない。そもそも、グレゴリー・ペックが演じる主人公ジム・マッケイは、西部劇なのに映画のほとんどにおいて丸腰である。
 だから観客には、これが西部劇らしくアレンジしているだけで、もっと別のものの暗喩であることがすぐに判る。

 物語は、東部の船乗りジム・マッケイが、西部を訪れるところから始まる。原題"The Big Country"の名のとおり、この地の人々は広大な西部を自慢に思っており、東部の優男なんかこの土地を見ただけで圧倒されるはずだと考えている。
 そこでは二つの勢力が争っていた。それぞれ大牧場を有するテリル家とヘネシー家である。両家は、牧場の生命線たる水源地を巡って長年にわたり対立してきた。
 実はジム・マッケイはテリル家の一人娘パトリシアと結婚するために来たのだが、敵対する相手には暴力も辞さない両家を見て、なんとか争いを止めさせようとする。

 166分という長丁場のこの映画には、主人公を暴力に引き込む数々の誘惑がある。
 ジム・マッケイはテリル家の一員になるためにはるばるやってきたのだから、常識的にはテリル家らしく振舞うべきだろう。テリル家に敵対するのがヘネシー家ならば、彼にとってもヘネシー家は敵のはずだ。実際、彼はヘネシー家から手荒な歓迎を受けてしまう。
 そしてフィアンセであるパトリシアは、荒っぽい西部男に囲まれて育ったので、彼にも同じような行動を期待する。そのためパトリシアは、彼がヘネシー家にバカにされても、牧童頭に嘘つき呼ばわりされても、喧嘩を避けて腰抜け扱いされても、平気な顔をしているのが許せない。
 彼が並みの男だったら、フィアンセたる女性に軽蔑されるよりも、喧嘩に応じて逃げない姿を見せることを選びそうなものである。

 しかしジム・マッケイは手を上げない。周りの誰もが自分を弱虫だと思い、舐めてかかり、軽蔑しきっても、唯一信頼して欲しいフィアンセにすら嫌われても、彼は暴力で得られる名声なんぞ求めない。
 拳を振るえば、たとえ喧嘩には勝てなくても、勇ましいと認められただろうに。


 前々回前回と書いてきたように、私たちは暴力には暴力で対抗しがちだ。
 ジム・マッケイがそんな行動を取らずにいられたのは、一つには彼が他の人間とは違う視点を持っていたからだろう。
 西部の人々は、彼らの住む広大な地を誇りとし、土地の奪い合いに余念がない。しかし船乗りだったジム・マッケイは、海がもっと広いことを知っている。
 テリル家の人々はヘネシー家こそ野蛮な悪党だと考え、ヘネシー家の人々はテリル家こそ卑劣な偽善者だと考え、相手に襲われたらやり返すつもりでいる。やり返さなければ舐められてしまい、立場が悪くなると思っている。しかしジム・マッケイは、どこの寄港地にも喧嘩っ早い荒くれはおり、そんな奴らの相手をしたって無益であることを知っている。
 そして忘れてならないのは、実はジム・マッケイは腕っぷしが強いということだ。腕っぷしのみならず、船乗りとして学んだ技術――とりわけ未知の土地でも迷わずに遠い目的地までたどり着く技術により、自分の身は自分で守ることができる。だからこそ挑発に乗らず、冷静に対処できるのだろう。

 ドナルド・ハミルトンが原作小説を発表した1957年、そしてウィリアム・ワイラー監督が映画化した1958年の時代背景を考えれば、本作の意味するものは明らかだ。
 それは東西陣営が対立する冷戦状況である。相手が核兵器を開発すればこちらも核兵器を開発し、相手が宇宙開発を進めればこちらも宇宙開発を進めるといった具合で、当時、世界中の人々はテリル家かヘネシー家のどちらかに属していたのだ。グレゴリー・ペックによれば、ウィリアム・ワイラー監督は本作を冷戦下の寓話として意図したという。
 両家が狙う水源地は、今なら差し詰め油田地帯かレアアースの鉱床だろう。
 その意味で、本作の寓意性は今も損なわれてはいない。それどころか、二大勢力の対立ではなく、多数のプレイヤーがしのぎを削る現代になって、本作の意義はますます大きくなったといえよう。

 私たちは今こそジム・マッケイに学ばなければならない。その気高さを、冷静さを、見習わなければならない。

 もちろん、テリル家ともヘネシー家とも渡り合うためには、共通の言語と文化がなければならない。コンテクストを共有できていなければ、両者の相違点と共通点を見極めることすら難しいだろう。
 しかしそれは決してできないことではない。
 なぜなら私たちが対峙する相手は、SFやファンタジーに登場する絶対悪ではなく、単なる人間なのだから。

 本作に登場するテリル家もヘネシー家も、それを知らなかった。海の広さを知らなかったごとく。
 現代の私たちには、海の広がりが見えているだろうか。荒波を受けても遠い目的地にたどり着く技術を持っているだろうか。


[追記]
 公開当時の米大統領ドワイト・D・アイゼンハワーはこの映画が大好きで、ホワイトハウスで4夜連続の上映会を開催したという。
 彼は大統領に就任すると、3年続いた朝鮮戦争を停戦へと導いている。

(つづく)


大いなる西部 [Blu-ray]大いなる西部』  [あ行]
監督・制作/ウィリアム・ワイラー  制作/グレゴリー・ペック
作曲/ジェローム・モロス
出演/グレゴリー・ペック チャールトン・ヘストン ジーン・シモンズ キャロル・ベイカー バール・アイヴス チャールズ・ビックフォード チャック・コナーズ アルフォンソ・ベドヤ
日本公開/1958年12月25日
ジャンル/[ドラマ] [西部劇]
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『未来を生きる君たちへ』 デンマークが生んだあの人のことを考えよう

 世の中には、大小様々な暴力が溢れている。
 私は前回の記事(『スーパー!』 私たちが好きなものの正体)で、人間は暴力を振るう生き物なのだと書いた。
 では私たちは、暴力を振るい振るわれ生きていくしかないのだろうか。

 『未来を生きる君たちへ』は、そんな問いに深く考える作品である。
 ここでは多くの暴力が描かれる。
 エリアス少年は学校でみんなからいじめられる。
 エリアスの父アントンは、子供の喧嘩を止めようとして相手の父親に殴られる。
 アフリカでは武装集団が人々を虐殺している。
 この映画には、とても身近な、小突かれたり鼻血を出す程度の暴力から、他国で大勢が死亡する暴力まで、様々な種類の暴力が登場する。
 その中で、登場人物たちはそれぞれが遭遇した暴力にどのように対峙するのだろうか。

 エリアスの父アントンは、殴られても殴り返さない。そして子供たちに、暴力で仕返しするなど愚かなことだと教えようとする。

 しかし一方、エリアスのクラスに転校してきたクリスチャンは、エリアスをいじめる少年に鉄拳を下す。多くの国を転々としてきたクリスチャンは、相手を殴り倒し脅してこそ、舐められずに済むことを経験から学んでいるのだ。
 いじめに対して無抵抗だったエリアスが、際限なくいじめ続けられるのとは大違いである。

 では、やはり暴力を振るう相手には、こちらも暴力で抵抗するべきなのだろうか。
 本作は、安易に結論に飛びつくことはしない。
 118分の上映時間をとおして、暴力に暴力で対抗することや、丸腰で無抵抗でいることの是非をじっくり描いていく。
 それは個人にとっても、集団にとっても、そして国にとっても、大きな問いだ。
 殴られたら殴り返すのが良いのだろうか?
 領土・領海を侵されたなら、武力を行使するのが良いのだろうか?

 私たちは、理性においてはエリアスの父アントンが正しいことを知っている。我が子に、暴力で仕返ししろと教える親はいないだろう。暴力に暴力で対抗するなんて、愚かな行為だ。
 とはいえ、やられたらやり返すことをモットーにしているクリスチャンは、いじめられることはない。エリアスと違って、いじめっ子ともよろしくやっていける。こういったエピソードを配置するところが、スサンネ・ビア監督の考え深いところだ。


 原題”Hævnen”とは、デンマーク語で「復讐」を意味する。
 傷つけられたから傷つける。暴力を振るわれたから暴力を振るう。そんな復讐の繰り返しを、誰がどこで断ち切るのか、断ち切れるのか、観客はビア監督とともに思い巡らすことだろう。

 その答えのヒントを、ビア監督は開巻早々に示している。
 クリスチャンが母の葬儀で朗読する物語、それはデンマークが生んだ著名な童話作家アンデルセンの『小夜啼鳥(ナイチンゲール)』だ。
 ナイチンゲールはとても美しい声で鳴く鳥だった。その歌声の素晴らしさに、皇帝が涙を流すほどであった。
 皇帝はナイチンゲールの歌声をこよなく愛したが、あるとき機械仕掛けのナイチンゲールもどきを手に入れると、機械の歌声に満足した。そして本物のナイチンゲールがいなくなっても気にしなかった。
 ところが機械はいずれ壊れる。数年経って皇帝が病の床に伏したとき、機械の小鳥は何の役にも立たなかった。死神に魅入られて余命いくばくもない皇帝がせめて音楽を聴きたいと欲したとき、皇帝を慰めたのは、森に住むあのナイチンゲールだった。機械仕掛けにうつつを抜かし、ナイチンゲールを追いやってしまった皇帝を、小鳥は元気づけるために舞い戻ってくれたのだ。
 悲劇的な結末が多いアンデルセン童話にあって、『小夜啼鳥(ナイチンゲール)』は珍しくしみじみと心温まる話である。
 たとえ邪険にされても追い払われても、美しい歌声で慰め続けるナイチンゲール。
 スサンネ・ビア監督がこの話を冒頭で紹介する意味が判るだろう。

 私たちは暴力を振るわれると、決して屈するものかと思う。屈するどころか、目に物見せてやろうと思う。
 しかし「暴力に屈しない」とは、暴力を振るう者に屈しないだけではなく、暴力を振るう誘惑に屈しないことでもあるのではないか。


 本作で、私が最も心惹かれたのは邦題である。
 『未来を生きる君たちへ』――なんと素晴らしい邦題だろう。
 本作は少年たちを中心に据えながら、決して子供が観て楽しい映画ではない。けれども、ここで描かれることは、多くの人に、とりわけこれからの未来を生きる人に、じっくりと考えて欲しいものだ。

(つづく)


未来を生きる君たちへ [Blu-ray]未来を生きる君たちへ』  [ま行]
監督・原案/スサンネ・ビア  原案・脚本/アナス・トマス・イェンセン
出演/ミカエル・パーシュブラント トリーヌ・ディルホム ウルリク・トムセン ウィリアム・ヨンク・ユエルス・ニルセン マルクス・リゴード
日本公開/2011年8月13日
ジャンル/[ドラマ]
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【genre : 映画

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『スーパー!』 私たちが好きなものの正体

 あなたは『キック・アス』の映画とマンガのどちらが好きだろうか?
 ストーリーラインは概ね同じでも、その印象は大きく異なる。
 映画の方はちょっとブラックなコメディーで、そのくせポップで痛快で、見終わった後なんだか楽しい気分になれる。
 それにひきかえ原作マンガは、陰鬱でシニカルで、読後に落ち込むような作品だ。たしかにこの内容じゃ映画にできない。毒が効きすぎて、観客にウケないだろう。

 と思ったら、まさしく『キック・アス』の原作マンガのテイストそのままの映画が登場した。それが『スーパー!』である。

 主人公は妻に捨てられた中年男フランク・ダルボ。容姿も頭脳も性格も、いいところはまったくない。そんな彼がテレビのスーパーヒーローに触発されて、お手製のみっともないスーツで「クリムゾンボルト(深紅のボルト)」に扮し、街の平和のために戦うのだ。
 その戦い方は、彼の主観で悪党だと思った人間に殴りかかること。たしかに標的は麻薬の売人だったり児童虐待者だったり物取りだったりする。悪い奴らには違いない。だからといって、血まみれになるまでレンチで滅多打ちにして良いのか、それが本当に正義なのかは、はなはだ疑問である。

 しかし、私たちはフランクのダメ男ぶりに同情し、彼が信心深く悪意はないことを知っているから、その過剰な暴力を非難できない。
 それどころか、映画の列に割り込んできて、注意されてもまったく反省しない男女など、ぶん殴られて当然と思わないでもない。

 そして私たちはあることに気づく。
 あぁ、暴力って楽しい。悪党をぶん殴るのは爽快だ。覆面することが免罪符になるのなら、こんな風に暴力を振るってみたい。
 必殺シリーズが根強い人気を保つのも、権力がなくても暴力で悪党を排除するからだろう。


 そして映画は、クリムゾンボルトの相棒ボルティーの登場で最高潮となる。
 エレン・ペイジ演じるボルティーは、信心深いフランクとは大違いだ。暴力を振るうのが楽しくて仕方ない。フランク同様、手製のコスチュームに身を包んだ彼女は、見知らぬ男に大怪我させて、あわや殺す寸前までいく。
 そのときの彼女のセリフがふるっている。
 「殺しちゃいけないって知らなかったのよ!」
 彼女にとってスーパーヒーローとは、悪党を殺しちゃってもいい特権階級なのだ。たとえその悪が、友人のクルマにキズをつけただけであっても、それが男の犯行なのか証拠がなくても、ヒーローなら殺していい。

 はじめは彼女の暴走を諌めていたフランクも、徐々にやることがエスカレートしていく。二人はともに凶器を持って、狙い定めた相手を滅茶苦茶に襲いまくる。
 フランク役のレイン・ウィルソンのトボけた演技と、エレン・ペイジの弾けっぷりが面白くて、その暴力シーンは愉快痛快だ。

 そもそも私たちは暴力を振るうことに免疫があるはずだ。
 ライオンが獲物を追うのをためらっていたら飢え死にしてしまう。人間も他の動物を殺したり、植物の実をもいだりしないと、生きることができない。
 もちろん私たちの遺伝子には暴力を抑制する働きもあるはずだが、いざとなれば暴力を振るえるのだ。そういう生き物なのだ。


 映画のクライマックスで、暴力の限りを尽くすフランクは問われる。
 「それで世界が変わると思うか?」
 フランクは答える。
 「僕にも判らない。試してみないと。」

 さすがに、そんな彼らが型どおりのハッピーエンドを迎えることは許されない。映画版『キック・アス』のラストが温く感じた方も、本作の結末には納得だろう。
 しかし、私たちはすでに気づいている。
 私たちの中には暴力を肯定するものがあり、意図して抑制しなければ、たやすく噴出することを。


 残念なのは、本作の上映中に携帯電話をいじっている客がいたことだ。
 そんな不届き者は、やっぱりレンチでぶん殴るべきだろうか。

(つづく)


スーパー! スペシャル・エディション [Blu-ray]スーパー!』  [さ行]
監督・脚本/ジェームズ・ガン
出演/レイン・ウィルソン エレン・ペイジ リヴ・タイラー ケヴィン・ベーコン ネイサン・フィリオン グレッグ・ヘンリー マイケル・ルーカー
日本公開/2011年7月30日
ジャンル/[コメディ] [ドラマ] [アクション]
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