『カーズ2』 無責任ではない問題提起

 2008年、短編映画『メーターの東京レース』と同時上映された『ボルト』には、一つ残念なところがあった。
 映画は、ミラクルボイスならぬスーパーボイスを放つスーパーヒーロー犬・ボルトの活躍から始まるのだが、このアクションシーンは単に映画の撮影という設定で、映画はすぐにスタジオで飼われている小犬の話になってしまうのだ。
 もちろんそれが物語の中心なのだが、3D画面いっぱいのアクションシーンは、それだけで終わるのがもったいないほど魅力的だった。
 『トイ・ストーリー3』も同様だ。冒頭の手に汗握るアクションは『男はつらいよ』シリーズの夢のシーンのようなもので、本来のストーリーとは関係なくかき消されてしまう。

 それを残念に思っていた人には、『カーズ2』は痛快だろう。
 颯爽たるスパイアクションで幕を開ける本作は、最後の最後までスパイアクションで通すのだ。
 しかも、英国スパイとして陰謀と戦うフィン・マックミサイルは、ボンドカーの中でも特に有名なアストンマーチン・DB5。その声を当てるのが、英国諜報部員ハリー・パーマーシリーズで知られるマイケル・ケイン。やっぱりこうでなくちゃいけない。

 そして世界各国を舞台とするワールド・グランプリと、007シリーズばりに世界中を股に掛けたスパイアクションとが楽しめる本作は、往年の傑作アニメ『マッハGoGoGo』(1967年)をも髣髴とさせる。
 とりわけ、フィン・マックミサイルがベルトタイヤ(マッハ号のBボタン機能)を装着するシーンなど、心躍る人も多いだろう。
 なんといっても、クルマはアニメーションの格好の題材だ。
 最近もカーレース物の『REDLINE』(2010年)が評判になったし、ディズニーには2006年の『カーズ』一作目に先駆けて1952年に『青い自動車』(『小型クーペのスージー』)という作品がある。
 クルマが登場すると気分が高まるのは、昔も今も変わらないのだろう。


 とはいえ、本作は楽しく痛快なばかりではない。
 『ウォーリー』で環境問題を取り上げ、『カールじいさんの空飛ぶ家』ではアメリカ同時多発テロ事件の後遺症を取り上げてきたピクサー・アニメーション・スタジオが、『カーズ2』で描くのはエネルギー問題である。

 クルマ好きには残念なことに、クルマはガソリンを食いまくる代物だ。日本自動車工業会によれば、日本のガソリン乗用車の1リットル当たり平均燃費は1996年の12.4kmから2009年の18.1kmへと大きく改善してはいる。ハイブリッドカーの普及を考えれば、さらなる改善が見込めよう。
 しかし、コンパクトシティ構想にも見られるように、近年はそもそもクルマを必要とする場所に離れて暮らすことの必然性が問われている。クルマの使用は物流業者のトラック輸送等に任せ、各家庭は徒歩や自転車や、せめて公共交通機関で用事を済ませられるところに移り住めば、自家用車を持つ必要はない。燃費向上や低公害車(エコカー)も良いが、クルマを使わないことに勝るものはない。

 まして、カーレースには生活上の必要性がまったくない。ガソリンを食いまくり、大気汚染物質を排出するカーレースは、究極の娯楽であり贅沢である。
 並みのクリエイターならそんなことは気にしないだろうが、思慮深いピクサーの制作陣は、環境保全の対極にあるレーシングカーを、手放しで楽しく描くことができなかったに違いない。
 そのため本作の通奏低音として流れるのは、従来の化石燃料と夢の代替エネルギーとの相克だ。
 本作のキーとなるのは、大気を汚染しない再生可能の新燃料アリノールだ。アリノールを世に広めるため、アリノールを燃料としたマシンによるワールド・グランプリが開催される。本作の主人公ライトニング・マックィーンもアリノールを搭載して参戦するが、アリノールを快く思わない連中がレースを妨害し……というのが本作のストーリーである。


 本作が公開された2011年は、これまで以上にエネルギー問題が注目された年であった。3月11日に東日本を襲った地震と津波は、広範囲な停電や電力不足をもたらし、多くの人がエネルギーについて考えざるを得なかった。
 『カーズ2』の制作は地震の前から進められていたが、奇しくもたいへんタイムリーな問題提起になったのである。
 そこで示されるのは、すぐに飛びつける夢の代替エネルギーなんてないということだ。いささかシニカルかもしれないが、現実に私たちが直面している問題に対して、夢を振りまくことでお茶を濁すほどピクサーは無責任ではないのだ。

 私たちは、これまで利用してきたエネルギー源をまだまだ活用せざるを得ない。
 幸いにして、石油は過去に人類が消費してしまった量の10~15倍はまだ存在するというし、シェールガスも莫大な埋蔵量がある。そして私たちはこれら化石燃料が持つエネルギー量の35%程度しか利用しておらず、残りの65%を無駄に捨てている。その35%の中で節電に励んだり、あらぬ代替エネルギーを探す前に、まず65%も捨てるのを止めるべきなのだろう。
 もちろん本作は、代替エネルギーの可能性を否定しているわけではない。たとえば最近注目されているトリウムなど、研究に取り組むべきものもあろう。


 さて、日本の観客が本作に興味を引かれる点として、主要舞台の一つが東京であることが挙げられる。『メーターの東京レース』がスケールアップしたのだ。
 ワールド・グランプリの開催地として描かれる日本の姿は、いまさらながら外から見た日本の魅力に気づかせてくれる。とりわけ強調されるのは、劇中で実況担当者が紹介するように「古い伝統とテクノロジーの国」という点だ。
 聞くところによれば、日本を訪れた外国人観光客がカメラに収めたがるのが吉野家の看板だそうだ。なるほど、橙色の地に黒い漢字が並ぶところは、歌舞伎座の垂れ幕を思わせなくもない。
 本作でも「古い伝統」の代表として歌舞伎や相撲が登場し、さらには鳥居や提灯のデザイン性にも目が向けられる。いささか誇張はあるものの、どれも日本を特徴づけるものだ。

 一方、「テクノロジー」の代表はコンピューター制御のトイレや電気街のきらびやかな看板だろう。主人公たちが巡る世界のレース場の中で、日本だけが夜のレースなのは、その魅力が夜景にあるからだ。
 七色にライトアップされたレインボーブリッジを、マックィーンたちレースカーが激走する場面は、楽しく美しい。

 ところが実際のレインボーブリッジは、3月11日の東日本大震災から5ヶ月を経ても節電のためにライトを消したままである。
 本作を観た世界中の青少年が、日本に興味を持って訪れたときに、彼らを迎えるのが暗闇に沈んだ街並みだったら、あまりにも寂しい。


カーズ2 [DVD]カーズ2』  [か行]
監督・原案/ジョン・ラセター、ブラッド・ルイス
出演/ラリー・ザ・ケイブル・ガイ オーウェン・ウィルソン ボニー・ハント トニー・シャルーブ グイド・クアローニ マイケル・ケイン エミリー・モーティマー ジェイソン・アイザックス エディ・イザード ジョン・タートゥーロ フランコ・ネロ ヴァネッサ・レッドグレーヴ
日本語吹替版の出演/山口智充 土田大 戸田恵子
日本公開/2011年7月30日
ジャンル/[アドベンチャー]
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【theme : ☆ディズニー映画「カーズ」☆
【genre : 映画

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『シリアスマン』 映画化されなかった続き

A Serious Man 【ネタバレ注意】

 『シリアスマン』の主人公ラリー・ゴプニック教授の劇中での講義が、「シュレーディンガーの猫」と不確定性原理なのが面白い。作品のテーマと密接に結びついており、ニヤリとさせられる。
 もちろん、どちらも前世紀の初めに唱えられた基礎的な考えであり、大学で講義されるのは当然だが、あえてこの二つを説明するシーンを挿入するのがコーエン兄弟らしい。

 主人公ラリーは、わざわざ可愛い猫の絵を描いて学生たちに「シュレーディンガーの猫」の説明をしている。
 「シュレーディンガーの猫」とは、箱の中の猫の生死が外部からは判らないという物理学上の例え話である。判らないどころか、箱の中では猫が生きた状態と死んだ状態が重なり合っており、生か死か白黒つけることができない。この摩訶不思議な現象については、『ミスター・ノーバディ』の記事を参照していただきたい(あまり詳しく解説していないが)。

 もう一つ、主人公ラリーが黒板に延々と計算式を書きながら説明した不確定性原理は、1927年にドイツの理論物理学者ヴェルナー・ハイゼンベルクが提唱した。それは煎じ詰めれば、「物質を正確に観測することはできない」という理論だ。
 たとえば、物質の位置を正確に測ろうとするとその運動量が不確かになってしまう。逆に物質の運動量を正確に測ろうとすると位置が不確かになってしまう。結局、物質の位置と運動量を同時に知り、物質の状態を正確に捉えることはできない。位置と運動量ばかりでなく、時間とエネルギー、位相と個数等も同時に知ることはできないのだ。

 物理学とは物質の何たるかを知り、宇宙の真理を解き明かす学問のように思われがちだが、実のところそこで解明されたのは人間がいかに世界を知りえないかということである。
 少なくとも、物理学の教授であるラリー・ゴプニックが劇中で講義しているのは、人間が世界の実態を知ることはできないという話ばかりだ。
 まことに、本作の監督・脚本・制作・編集を手がけたコーエン兄弟らしいシーンである。


 不確定性原理は20世紀になって提唱されたものだが、世界が人知を超えているということは二千数百年前から云われていた。
 それが本作のベースとなった旧約聖書の『ヨブ記』である。それはこんな物語だ。

 『ヨブ記』の主人公ヨブは、正しい人だった。『シリアスマン』の主人公ラリーと同様に真面目な男(serious man)なのである。
 あるときまで、ヨブは子宝に恵まれ、経済的にも満ち足りて、幸せな生活を送っていた。
 しかし、彼の正しい行いと信仰心にもかかわらず、彼は財産を奪われ、愛する家族も失い、次から次へと災難に見舞われた。
 それでも彼は真面目であり続けた。
 にもかかわらず、さらに災難に襲われた彼は、三人の友人と三回議論した。なぜ彼が災難に遭うかを三人と話しても、彼は納得できない。
 そして、さすがの彼も真面目で従順なだけではいられないと意を決したとき、彼の前に嵐が巻き起こる……。

 繰り返すが、これは映画『シリアスマン』のあらすじではなく、『ヨブ記』のあらすじである。いや、これだけ似ていれば、どちらのあらすじと云っても構わないだろう。
 『シリアスマン』は、真面目人間のラリーが無理難題に耐え続けながら、遂に不正の誘惑に傾きそうになったときに大竜巻が発生して終わる。映画の舞台となる1967年に、ミネソタ州では実際に大竜巻が発生したそうだが、いったい大竜巻がラリーとどう関係するのか劇中で示されることはない。
 しかし、コーエン兄弟を初めとして、本作で描かれたユダヤ人のコミュニティで育った者なら、いや少なくとも旧約聖書に接したことがある者には、この竜巻が意味するものは明らかだろう。『ヨブ記』は42章からなるのだが、コーエン兄弟は嵐が発生した38章以降を映画にしなかったのだ。

 たしかに映画の完成度を考えると、ここで打ち切るのは一つの解である。
 なにしろ、このあと『ヨブ記』にはゲームのファイナルファンタジーシリーズでおなじみの怪物ベヒーモス(バハムート)やリヴァイアサンが登場し、コーエン兄弟の映画とは趣が変わってくるからだ。
 それにしても、ここで止めては『ヨブ記』の起承転結のうち起承しか映画にしていないわけで、まるで解決編のない『名探偵コナン』のようなものである。
 しかし、それで映画を完成させてしまうのが、いかにもコーエン兄弟らしい。コーエン兄弟からしてみれば、『ヨブ記』の見所は前半のヨブがいじめ抜かれるところであり、後半のヨブが説明を聞いて納得するくだりなんて、蛇足にしか思えないのだろう。

 いま私は「ヨブがいじめ抜かれる」と書いた。
 そう、ヨブが災難に見舞われるのは、そう仕向けた者がいるからなのだ。それがヨブの前に発生した嵐である。嵐――人間の力を超えた恐るべき現象。それを起こせるのは、すなわち神である。
 『ヨブ記』では、嵐の中から神が登場してヨブに説明してくれるのである。

 正確にはヨブの受難についての説明ではなく、人知を超越した神の力と人間の矮小さが語られる。そしてヨブは、この世界での出来事は到底人間には理解できないことを知り、ものごとに理由を求める無意味さに気づいて満足するのだ。
 ヨブの受難は、直接的にはサタンの仕業だが、それとて神がサタンに認めたのだから、ヨブが不平不満を云う筋合いではない。ヨブがひどい目に遭った理由なんて、ヨブが関知することではないのだ。

 『シリアスマン』に登場する人々は、本来とても賢いはずだ。
 人は困難に直面したり問題の解決を図りたいときに、ラビ(聖職者)や学者や弁護士に相談する。
 ところが本作では、ラビの答えはズレてるし、弁護士は口先ばかりで頼りにならず、困っている当の本人が学者である。真実を探求したり、人生の諸問題を解決するはずの人たちが、何の役にも立っていない。
 しかし、それでいいのだ。ラビが核心を突いたことをペラペラ喋ったりしたら、聖書の教えに反するのではないか。この世界のことなど人間には知る由もないというのが『ヨブ記』の教えなのだから。


Serious Man (Score) また、『ヨブ記』の重要なテーマは、因果応報という考え方の破壊である。
 人間は悪いことが起こると過去の所業の報いだと考えがちだ。はたまた、善いことをすれば報われると期待しがちだ。しかしそんなことはない。ついてない人は行いの善し悪しにかかわらずついてないし、性格が悪いのにラッキーが続く人もいる。因果応報なんて、人間の心の中の虚しい願望にすぎない。
 真面目な正しい人ヨブの物語が教えるのは、どんなに真面目にしていても不幸は降りかかるし、人間にはそんな世界を理解できないという残酷な事実である。
 かように紀元前4~5世紀頃に書かれたという『ヨブ記』は、その残酷な結論において、20世紀の不確定性原理に通じるのではないだろうか。

 だから、『シリアスマン』に挿入される小話にも判りやすい説明はない。悪霊かもしれない訪問者にしても、歯に刻まれたメッセージにしても、結局その真相は語られず、納得のいくオチもない。面白い話だけに尻切れトンボが気になるが、真相なんて判らないし、因果応報なんて期待できないというのがコーエン兄弟のメッセージだ。
 これまでのコーエン兄弟の作品も同様だろう。たとえば『バーン・アフター・リーディング』でも行為の善し悪しと結果の善し悪しは関係ない。

 ところが、『ヨブ記』では作者の筆が滑ったのか、物語の最後にヨブが再び財産や家族に恵まれる描写がある。苦難に耐えて正しい人であり続けたヨブは、絵に描いたようなハッピーエンドを迎えるのだ。
 長年にわたって伝えられていくためには、やっぱりハッピーエンドが必要だったのかもしれない。しかし、それでは『ヨブ記』の真意に反するのではないか。人間が因果応報を期待するのは筋違い、というのが『ヨブ記』の主張なら、最後までヨブは不幸なままで終わるべきだ。それどころか、これからもっともっと不幸になりそうな予感を残して終わるべきだ。
 コーエン兄弟は、それを徹底している。
 ハッピーエンドになる『ヨブ記』の42章を切り落とし、それどころかヨブが神と会話して満足感を得る38章以降も捨て去った。そして映画は、主人公が医者から重大な告知をされるところで終わる。
 あぁ、なんて情け容赦のないことか!


 では、因果応報を期待できない私たちは、人生をどう歩んだら良いのだろう。
 コーエン兄弟は、その疑問にもちゃんと答えている。
 映画に登場するラビたちは、なんだかトボけた、妙な人々だが、一つ大事なことを語っているのだ。
 『ヨブ記』では三人の友人と議論した後に、エリフなる人物が登場する。『シリアスマン』では三人のラビが登場するだけだが、三人目のラビは二度登場する。だから章題も「一人目のラビ」「二人目のラビ」と続きながら、その後は「三人目のラビ」ではなくラビの名前「マーシャク」になっている。マーシャク師は、『ヨブ記』における三人目の友人とエリフとを兼ねているのだ。

 このエリフという名は「彼は神である」という意味だそうだ。そして三人の友人たちが因果応報の考えに基づいて「ヨブの受難はヨブが罪深いことをしたからに違いない」と主張するのに対し、エリフは「ヨブに罪があるかどうかは神が判断することだ」と述べる。「彼は神である」と呼ばれるだけあって、エリフの言葉はいい線を突いている。
 しかしエリフの言葉にもかかわらず、ヨブが神と直接対話するまで納得しなかったように、私たち観客もマーシャク師が二度目に登場したときの言葉を重視しないで聞き流しているのではないだろうか。

 公式サイトによれば、もともと本作は、マーシャク師と少年の会話を中心とした短編映画として構想されていたそうだ。いろいろな要素が付け加わって長編映画になったものの、マーシャク師が少年に語る場面こそ本作の肝であることに変わりはない。
 そこでマーシャク師が口にするのは、1967年のヒット曲"Somebody to Love"(邦題『あなただけを』)の歌詞である。ジェファーソン・エアプレインのこの曲は、映画の冒頭にも終わりにも繰り返し流れており、とても重要なものであることが判る。
 そのメッセージは、要約すればこんな意味である。

 「真実が偽りとわかり、すべての喜びが消えたときであっても、心を尽くして人を愛しなさい」

 本作の主人公ラリーは、うまくいっていると思っていた夫婦関係がすでに崩壊していたことを知り、子供たちからは邪険にされ、兄弟の真の姿も知ってしまい、すべての喜びが消えてしまう。
 そんなとき「あなたには愛する人が必要じゃないか」と歌うのが"Somebody to Love"だ。
 こんなメチャクチャな家族でも、長男のバル・ミツバー(13歳の成人式)のためにユダヤ人コミュニティのみんなは集まってくれる。妻も子供たちも、もちろんラリーも微笑みを交わす。そしてマーシャク師は成人式のクライマックスで"Somebody to Love"の詞を繰り返す。
 コーエン兄弟のメッセージは明確だろう。

 そしてまた、映画の冒頭には次の一文が掲げられている。
 「あなたに起きることすべてをあるがままに受け入れなさい」


 もっとも、ユダヤ教のラビをおちょくったような描き方がユダヤ人の観客の心証を害するかもしれないとの配慮だろうか、エンドクレジットの最後にはこうも記している。

 "No Jews were harmed in the making of this motion picture."
 「この映画の制作に際して、危害を受けたユダヤ人はおりません。」

 本来ここは「危害を受けた動物はおりません」と表記するところだ。
 真実を知り得ず、因果応報も期待できないこの世界で私たちが生き抜く手段は、ユーモアなのである。


A Serious Manシリアスマン』  [さ行]
監督・脚本・制作・編集/ジョエル・コーエン、イーサン・コーエン
出演/マイケル・スタールバーグ リチャード・カインド リチャード・カインド サリ・レニック アーロン・ウルフ ジェシカ・マクマナス アダム・アーキン
日本公開/2011年2月26日
ジャンル/[コメディ] [ドラマ]
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【theme : 洋画
【genre : 映画

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『ダンシング・チャップリン』 映画という窮屈な芸術

 乱立するシネコンのコンテンツ不足解消や差別化のためだろう、近年では映画ではないものもシネコンで上映されている。いわゆる「非映画デジタルコンテンツ」、ODS(Other Digital Stuff)というものだ。

 たとえば、劇団☆新感線の演劇はデジタルシネマとして収録されて、ゲキ×シネのブランド名でスクリーンにかけられている。
 そこには幾つものメリットがあろう。観客にとって一番大きいのは、地理的・時期的な理由から観られなかった公演を鑑賞できることだ。そもそも劇団☆新感線のチケットは人気が高くて入手しにくい。しかし、ゲキ×シネなら公演チケットの5分の1以下の価格で確実に鑑賞できる。
 上映する側にとっては、開催地や公演回数の制約から劇を観てもらえない人々に、鑑賞機会を提供し、新たなファンを開拓する意義があろうし、デジタルシネマとして収録することで演劇を後々に残すこともできる。

 両者にとって様々なメリットがあるわけだが、私はゲキ×シネを観に行ったことがない。
 なぜなら、役者と空間を共有できないからだ。笑い声や拍手で、観客の想いを伝えることができない。スタンディングオベーションで満足感を伝えることもできない。役者と観客で作り上げる閉鎖空間を味わうことができない。演劇なら当たり前のようにできることが制限されてしまうので、足を運ぶ気が起こらないのだ。

 大好きな劇団☆新感線の芝居ですらスクリーンで観る気にならないのだから、ましてやあまり馴染みのないバレエを収録した『ダンシング・チャップリン』を観に行くのはためらわれた。
 それでも映画館に向かったのは、他ならぬ周防正行監督の作品だからだ。周防監督がバレエという舞台芸術にどう迫るのか、そこに興味を引かれた。


 『ダンシング・チャップリン』は二幕からなっている。バレエを作り上げる過程を追ったドキュメンタリーの第一幕と、バレエそのものを上映する第二幕である。
 第一幕では、部外者にはなかなか窺い知れない舞台裏が見られて面白い。バレエを知らない私でも興味が持続したのは、元々の題材が映画だからだろう。チャップリンの映画の数々をモチーフにしたバレエ『Charlot Danse avec Nous(チャップリンと踊ろう)』を、再構成して映画にする試みが『ダンシング・チャップリン』なのだ。だから練習風景で語られるのは『モダン・タイムス』や『街の灯』等のチャップリン映画をどう表現するかであり、映画ファンとしての興味は尽きない。

 また、チャップリンの遺族へのインタビューや、チャップリンの映画を挿入することで、チャップリンその人の魅力に迫る内容にもなっている。
 本作は、『ブロードウェイ♪ブロードウェイ コーラスラインにかける夢』にも似たメタ構造を持っており、次の構成要素を内包するのだ。
 (1) チャップリンと彼の映画の魅力
 (2) 映画を題材にしたバレエを完成させようとするダンサーたちの物語
 (3) バレエを映画として再構成しようとする周防正行監督の物語
 (4) バレエを再構成した映画『ダンシング・チャップリン』

 お気づきのように、本作は単にバレエを扱った映画なのではなく、映画をいったんバレエ化して、それをさらに映画化することによって、映画とバレエという二つの異なる芸術の両方に迫る作品なのである。
 映画ファンであれば、愛すべきチャップリンの映画にバレエ界の人たちがどう切り込むかに興味を抱くだろうし、舞台で見せることを前提に完成されたバレエに対する周防監督のアプローチにも注目だ。

 バレエファンにとっては、当代一流のダンサーが作品を完成させていく過程が面白いだろう。
 バレエを扱った映画としては、本作封切りの1ヶ月後に『ブラック・スワン』が公開され、舞台裏のダンサーたちを描いて大ヒットしたが、本作は現実の舞台裏であり、演技ではない本物のダンサーたちの姿を映し出しているところが大きく違う。『ブラック・スワン』の主人公は、役を他人に取られることを恐れて錯乱するが、本作では懸命に練習しているにもかかわらず共演者からダメ出しされたダンサーが、ためらいもなく役から外される。周防監督は残酷にも、外されたダンサーの目線で、彼抜きで続けられる練習風景を追い続ける。そこには泣き叫ぶ隙もない。

 にもかかわらず、本作から感じられるのは周防監督の愛である。
 チャップリンに代表される映画への愛、ルイジ・ボニーノという優れたダンサーがいるうちに彼の代表作『Charlot Danse avec Nous(チャップリンと踊ろう)』を記録しておきたいというバレエへの愛、そして草刈民代さんの出演作としてこの作品を選んだ妻への愛。
 第一幕を鑑賞しながら、私たちは周防監督の想いを追体験することになる。

               

 一転して、第二幕ではバレエと映画の相克が感じられる。

 周防監督は本作を撮るに当たって、『Charlot Danse avec Nous(チャップリンと踊ろう)』を作った振付家のローラン・プティと話し合っている。その中で、周防監督の提案が拒絶されることがあった。
 プティは、ダンサーの魅力を最大限に活かすべきだと考えていた。そのため、舞台美術はできるだけシンプルにして、ダンサーの他には見るものもない状態が望ましいと考えている。一方、周防監督は警官たちを公園で踊らせたかった。チャップリンは「警官と女と公園があれば映画になる」と話したという。そこで警官のダンスシーンは舞台から飛び出して現実の公園で撮影したいと考えたのだ。
 しかし、この案にプティは猛反対した。観客の目をダンサーに集中させるには、何も置かない舞台が一番である。だから公園のセットを作るのすら好ましくないのに、本物の公園にダンサーを連れ出すなんてもってのほかだ。プティは「そんなことなら、この話はなかったことにしよう」とまで云った。
 私も彼に賛成だった。優れた踊りに勝るものはない。公園の風景など、踊りを見る上では何の役にも立たない。

 ところが、である。
 第二幕に私は強い違和感を覚えた。
 たしかに、ダンサーたちの踊りは素晴らしい。カメラはその踊りを収めるために最適な構図を選んで、ダンサーの身体と表情を捉えている。
 しかし、私はとても窮屈に感じた。カメラがルイジ・ボニーノの踊りを捉える、そのとき他のダンサーのしていることが見えない。カメラが草刈民代さんの表情を捉える、そのとき手足がどのように延びているのか見えない。

 客席に身を置いて舞台を眺めているのなら、舞台上のどこを観るのも客の自由である。主役の踊りを横目で見つつ、バックのダンサーにも目を向けられる。ダンサーの手でも足でも好きなところを見つめられる。
 だが、スクリーンの中のダンサーを見る客には、そんな自由がないのだった。
 もちろん、客席からでは見られない構図、見えない細部というものもある。カメラはダンサーを俯瞰したり、顔にアップで迫ったりして、映画ならではの威力をいかんなく発揮していた。それでも、視線の自由を奪われることとのトレードオフが成り立っていたとは云いがたい。


 不思議なことに、例外なのが公園のシーンであった。
 警官たちが木立の中で踊るシーン、これはちっとも窮屈に感じないのである。
 私は振付家ローラン・プティと同様に、公園での撮影なんてもってのほかだと考えていたのに、いざ見てみると、その演目が最もしっくりくるのだ。

 理由は察しがついた。
 公園には客席がない。四角い舞台もない。視座が自由すぎるために、どこからどう見るべきなのか判らないのだ。そのため、周防監督の提示する構図を信頼して身を任せるしかない。そしてその構図そのものを楽しむことになる。
 舞台を撮影した場合は、「客席からはこう見えるはず」「客席にいればここまでは視界に収まるはず」という見当がつく。その見当が裏切られるから違和感を覚えるのだ。見当どおりに見られないから窮屈なのだ。

 奇しくも、本作は一つの舞台作品を舞台上と舞台外とで再現することで、映画の特徴と限界を浮き彫りにしてみせた。この特性を認識させたことこそ、映画としての『ダンシング・チャップリン』のユニークな点ではないか。

 ゲキ×シネも屋外でロケして撮ったなら、舞台を収録するのとは違う魅力を得るかもしれない。
 しかしそれは――もはや、一つの映画である。


ダンシング・チャップリン(Blu-ray)ダンシング・チャップリン』  [た行]
監督/周防正行  振付/ローラン・プティ
出演/ルイジ・ボニーノ 草刈民代
日本公開/2011年4月16日
ジャンル/[ドキュメンタリー]
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【theme : 日本映画
【genre : 映画

tag : 周防正行ローラン・プティルイジ・ボニーノ草刈民代

『コクリコ坂から』 忘れ去られたモデルとなった事件

コクリコ坂から 横浜特別版 (初回限定) [Blu-ray] 【ネタバレ注意】

 なぜ1963年なのだろう?
 マンガ『コクリコ坂から』が少女マンガ誌『なかよし』に連載されたのは、1980年である。もちろん、その時代を背景に、その時代の少女たちを対象に描かれたマンガだから、映画のように高度経済成長期を舞台としたわけではない。

 にもかかわらず、映画『コクリコ坂から』の時代は1963年と設定されている。
 1963年――1941年1月生まれの宮崎駿氏は22歳、学習院大学を卒業し、アニメーターとして東映動画に入社した年である。すなわち、この映画は宮崎駿氏のアニメーター人生のはじまりとなった時代を描いているのだ。

 また、主役二人の年齢から逆算すれば、その出生の秘密は18年前に遡る。1963年の18年前と云えば1945年、第二次世界大戦の末期であり、風間俊が戦災孤児であることが判る。
 名匠小津安二郎監督が、戦後の復帰第一弾として制作した『長屋紳士録』(1947年)では、上野公園にたむろする多数の戦災孤児を引き取って育てようと呼びかけている。そんなことが珍しくない時代だったのである。

 一方、劇中では主人公・松崎海の父が朝鮮戦争で死亡したことも語られており、海もまた戦災の遺族であることが判る。
 朝鮮戦争に日本が参加していたことはあまり知られていないかもしれないが、それでも北朝鮮の機雷を排除するために日本の海上保安庁が出動していたことはご存知の方もいるだろう。しかし、海の父が従事していたのは、ほとんど知られていない海上輸送である。
 宮崎駿氏は、映画『コクリコ坂から』の企画・脚本を進める中で、多大な犠牲者を出しながら日本でも忘れ去られているLSTの海上輸送にスポットライトを当てている。

 この朝鮮戦争での海上輸送について、石丸安蔵氏は戦史研究の論考で次のように書いている。
---
差し迫った問題が1つあった。それは開戦に伴い日本に駐留していた占領軍を、迅速に朝鮮半島に輸送する必要があったにもかかわらず、アメリカ軍にはこれらの兵員、物資を輸送するのに十分な船舶がなかったことである。この問題を解決するためにアメリカ軍が採った方策は、第二次世界大戦の終戦処理として日本政府に貸与していたLST(Landing Ship Tank:戦車揚陸艦)や日本の商船を利用することであった。これらのLSTは日本人が乗組んで運航していた。
(略)
海上輸送に日本人が関わったという事実を追求しようとしても、海上輸送は「会社とGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)との契約に基づく行為であり、政府は全く関与していない」というかつての政府答弁に見られるとおり、全容解明には大きな壁が横たわり積極的に論議されることもなかった。
---

 本作で海の父が乗り込んでいたのが、このLST(戦車揚陸艦)である。
 そして朝鮮戦争では、日本人犠牲者も少なくない。再び石丸安蔵氏の論考から引用しよう。

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ここに朝鮮戦争が勃発してから半年という期間のデータではあるが、特別調達庁が実施した集計が残されている。特殊港湾荷役者の業務上死亡が1名、業務上疾病が79名、その他21名(うち死亡者3名を含む)であり、計101名。特殊船員の業務上死亡が22名、業務上疾病が20名、私傷死が4名、私傷病が208名であり、計254名。その他朝鮮海域等において特殊輸送業務に従事中死亡した者が26名(港湾荷役が4名、船員が22名)となっている。朝鮮戦争勃発から半年間での日本人死亡者が56名となる。
これらの死亡者のうち、1950(昭和25)年11月15日元山沖を航行中のLT(大型曳船)636号が触雷し沈没した海難事故では、乗組んでいた日本人LR船員27人のうち22名が死亡するという悲惨な事故が発生している。また、日本特別掃海隊は、10月17日元山沖において掃海活動中のMS14号艇が触雷し、死者1名、負傷者18名の損害を出している。
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 おそらく海の父のエピソードは、1950年11月15日の海難事故等を念頭に設定されたのだろう。
 朝鮮戦争は今でも終わっていないが、そこに日本も「参戦」していたことは、こんにち日本人ですら忘れているのではないだろうか。

 宮崎駿氏は軍オタである。
 その反戦的な思想にかかわらず、戦史・軍事に造詣が深く、戦車や戦闘機が大好きである。いや、戦車や戦闘機が大好きで戦史・軍事に造詣があるからこそ、戦争の悲惨さを深く考察し、反戦的な思想を抱くのだろう。同族経営の軍需産業の家に生まれ、戦時中の家業が軍用機の部品作りだったことも影響していよう。

 そんな宮崎駿氏は、これまで架空の国の架空の戦争を描くことはあっても、史実としての戦争を描くことは避けてきた。盟友・高畑勲監督が『火垂るの墓』で戦争に切り込んでいるのに、である。
 本作は、そんな宮崎駿氏がはじめて日本の戦争を取り上げた作品であり、とりわけ朝鮮戦争での日本人"参戦"問題は戦史・軍事マニアの氏だからこそ掘り起こせた題材である。

 宮崎駿氏は、映画『コクリコ坂から』で1963年を舞台に高校生たちの青春群像を描くことで自身の青春時代を振り返るとともに、朝鮮戦争そして第二次世界大戦と、自分の幼少期を取り巻いた「戦争」にも迫ったのである。
 だからこそ、映画には終始、朝鮮戦争が影を落とし、物語のキーとなるのは特攻隊の戦友との記念写真だ。特攻に使われた軍用機には宮崎航空興学で製作した部品が組み込まれていたことを思い出すように、特攻隊の生き残りとの出会いが本作のクライマックスとなっている。

 すなわち、映画『コクリコ坂から』は、宮崎駿氏が自分自身と向かい合う作品なのだ。
 あたかも黒澤明監督が『まあだだよ』で自分を振り返ったように。
 『まあだだよ』は内田百間の随筆を原案とし、内田百間の人生を追った映画でありながら、そこで描かれるのが黒澤明自身であることは多くの論者が指摘している。それはたとえば、内田百間が大学教授を辞して作家生活に専念した年を実際の1934年ではなく黒澤明が監督としてデビューした1943年に変更するなど、原作の設定年を監督自身の人生で意味深い年に変更して映画を作ったこと等からも検証されている。[*1]
 宮崎駿氏が、『コクリコ坂から』の劇中時間を自分にとって意味深い1963年に変更したのと同じである。[*2]


スタジオジブリ・プロデュース「コクリコ坂から歌集」 それにしても、なぜ宮崎駿氏は自分自身と向かい合うに当たり、『コクリコ坂から』という少女マンガを媒介に選んだのか。
 そこにはいくつかの理由があろう。

 一つは距離感である。
 戦史や兵器にずば抜けた知識を持つ軍事マニアでありながら、これまで日本の戦争を扱うことを避けてきた氏にとって、少女マンガの恋愛模様は正反対の世界である。そのフィルター越しであればこれまで避けてきたことを見つめられる、氏はそう考えたのかもしれない。
 いや、そういうフィルターを置いて距離を取らなければ、自作で戦争を扱うことはできなかったというべきか。

 もう一つの理由は原作者への共感だ。
 宮崎駿氏といえば、戦史・軍事マニアとしての面に加えて、組合活動の闘士だったことでも知られる。東映動画入社後に労働組合の書記長へ就任し、激しい組合活動を行ったことは有名だ。
 一方、『コクリコ坂から』の原作を書いたのは、1948年生まれの佐山哲郎氏である(絵は高橋千鶴氏が担当)。
 宮崎駿氏は『企画のための覚書』に、この原作マンガについて次のように記している。
---
明らかに70年の経験を引きずる原作者(男性である)の存在を感じさせ、学園紛争と大衆蔑視が敷き込まれている。少女マンガの制約を知りつつ挑戦したともいえるだろう。
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 1948年生まれの佐山哲郎氏にとって、70年安保闘争は同時代のリアルな体験だったはずだ。
 だが、すでに1969年に東大安田講堂が陥落神田カルチェ・ラタン闘争も終結しており、70年安保から10年を経ての『コクリコ坂から』における少女マンガには場違いとも思える制服廃止運動やその敗北は、佐山哲郎氏自身が青春時代に見てきたことの投影だろう。
 『企画のための覚書』によれば宮崎駿氏はこのマンガを「不発に終った作品」と見ているが、それだけに「少女マンガの制約を知りつつ」学園紛争という題材に「挑戦した」原作者に、かつての組合活動の闘士として共感するところが大きかったはずだ。
 だからこそ、今度は自分の手で、少女マンガを通して学園紛争を描くことを考えたのだろう。そしてまた、組合活動の闘士だった自分に向き合おうと考えたのだろう。

 『企画のための覚書』には、原作ファンを裏切るような言葉が並んでいる。
  「原作は(略)話を現代っぽくしようとしているが、そんな無理は映画ですることはない」
  「筋は変更可能である」
  「いかにもマンネリな安直なモチーフ」
  「マンガ的に展開する必要はない」
  「コミック風のオチも切りすてる」
 この言葉どおり、映画は原作をすっかり改変している。原作に思い入れがあるファンは怒るかもしれない。
 だが、宮崎駿氏の目指すものが、原作のストーリーをなぞることでも、キャラクターを大切にすることでもなく、原作者の「挑戦」を受け継ぐことであったなら、原作の設定にこだわる必要があるだろうか。

 こうして、映画『コクリコ坂から』では、これまで『太陽の王子 ホルスの大冒険』や『未来少年コナン』で片鱗を見せていた労働運動的な要素が、主要な題材として前面に登場したのだ。


 さて、このような思いで宮崎駿氏が出した企画に対して、監督を希望したのが息子の宮崎吾朗氏である。1967年1月生まれの吾朗氏にとっては、1963年はおろか70年前後の学園紛争すら知らない世界だ。
 その彼が、なぜ本作の監督を希望したのか。
 それは、この作品が単なるマンガの映画化ではなく、父・宮崎駿が自分に向かい合う作品だからだろう。
 これまで、息子に向けてアニメーションを作ってきた宮崎駿氏が、よわい70にして自分を見つめた作品に取り組もうというときに、その息子が手を貸すのは自然なことではないだろうか。吾朗氏は、それを他人任せにはできなかったのだ。

 その想いは、吾朗監督が絵コンテの段階で追加したセリフに表れている。
 「古いものを壊すことは過去の記憶を捨てることと同じじゃないのか!?」
 「人が生きて死んでいった記憶をないがしろにするということじゃないのか!?」
 「新しいものばかりに飛びついて歴史を顧みない君たちに未来などあるか!!」

 討論会のシーンでの風間俊のこのセリフは、いかにも生硬であり、宮崎駿氏が書いたものとは思えなかったが、あとから吾朗監督が追加したと知って納得した。

 映画『コクリコ坂から』は、ジブリ作品の例に漏れず、綿密な取材により1963年の日本を見事に再現している。公式サイトによれば、宮崎吾朗監督は1963年公開の日活の青春映画の数々を参考にしたという。
 彼にとって、『コクリコ坂から』を制作することは、父・宮崎駿の生きた時代を知ることだったのだ。
 人が生きて死んでいった記憶を、ないがしろにはしないのだ。


[*1] 「「巨人と少年」<追章>・『まあだだよ』論 巨人の再生」尾形俊朗 『異説・黒澤明』所収

[*2] 理事長である徳丸社長のモデルは、もちろん株式会社スタジオジブリの初代社長・徳間康快氏である。
 『ルパン三世 カリオストロの城』の興行的不振から何年ものあいだ映画を作れない状況だった宮崎駿氏に、徳間氏が『風の谷のナウシカ』制作のチャンスを与えたことで、今日の宮崎氏もジブリもある。本作のカルチェラタン問題が理事長の登場により好転することと良く似ている。
 なお、徳間氏自身は逗子開成学園の理事長を務めている。
 徳丸社長のクルマのナンバーが「と 1090(とくまる)」なのが洒落ている。


コクリコ坂から 横浜特別版 (初回限定) [Blu-ray]コクリコ坂から』  [か行]
監督/宮崎吾朗  企画・脚本/宮崎駿  脚本/丹羽圭子
出演/長澤まさみ 岡田准一 竹下景子 石田ゆり子 風吹ジュン 内藤剛志 風間俊介 大森南朋 香川照之
日本公開/2011年7月16日
ジャンル/[青春] [ロマンス] [戦争]
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【genre : 映画

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『ハリー・ポッターと死の秘宝 PART2』で様相一変!

 【ネタバレ注意】

 今度は戦争だった。
 2001年公開の『ハリー・ポッターと賢者の石』から数えて10年、ハリーの宿敵として作品世界に影を落としていたヴォルデモート卿との待ちに待った最終決戦、それはヴォルデモート率いる大軍団とホグワーツ魔法魔術学校との総力戦であった。まさに全8本からなるシリーズの有終の美を飾り、10年待った甲斐のある盛り上がりである。

 『ハリー・ポッターと死の秘宝 PART2』のオープニングの不気味な静けさは、これまでの作品とは異なる格調に満ちて、遂に最終作であるという事実を私たちに突きつける。
 そして前作『ハリー・ポッターと死の秘宝 PART1』における荒野の彷徨と、友人同士の忠誠への試練の物語から一転、溜めにためたものを吐き出すように危機また危機の連続で、迫力ある映像が襲いかかる。3D上映を念頭に、手前に飛び出す動きを意識した画面作りは、いささかくどいくらいだが、最終作で何を遠慮することがあろう。大空を飛ぶドラゴンも、何度も濡れ鼠になるハーマイオニーも、何もかもが見所である。
 これまでハリー・ポッターシリーズは、役者の演技に唸らされるタイプの作品ではなかったが、魔女べラトリックス役のヘレナ・ボナム=カーターが、べラトリックスに化けたハーマイオニーを演じる場面など、べラトリックスに慣れないハーマイオニーらしさが醸し出され、観客はニヤリとするに違いない。

 もちろん、最終決戦の盛り上がりは、原作者J・K・ローリングのストーリーテリングによろうが、それをビジュアルにしてみせたデヴィッド・イェーツ監督の功績は大きい。
 誰しも納得の完結編だと云えるだろう。


 とりわけ本作で注目すべきは、シリーズの原点への回帰と共に、シリーズの印象を一変させる仕掛けである。

 思えば、ハリー・ポッターシリーズはいじめられっ子の物語であった。ハリーは、幼少の頃より叔母一家に冷たく扱われ、体格の良い従兄からはいじめられていた。
 そんな彼が唯一いじめっ子と離れていられる夢の世界がホグワーツ魔法魔術学校であり、そこは現実逃避の場であった。同時にそれは、ハリー・ポッターシリーズを待ち望む読者や観客、すなわち現実の世界で辛い思いをしている少年少女と大人たちに、いっときの夢を見させる作品世界であった。
 そしてハリーはホグワーツで友達に囲まれるだけでなく、幾多の冒険を経ることでヒーロー然としてくる。
 やがて物語上、魔法界の比率が高まり、マグル界(人間界)がほとんど描かれなくなると、魔法界は逃避先としての夢の世界ではなくなり、いじめられっ子としてのハリーの描写も減っていった。

 ところが、いじめの要素がすっかり消えたかと思われた頃、新たないじめられっ子が登場する。セブルス・スネイプ先生である。
 第6作『ハリー・ポッターと謎のプリンス』(2008年)では、陰気で孤独な生徒だったセブルスと陽気で高慢なジェームズ・ポッターとの因縁話が披露され、ハリーは亡き父ジェームズがいじめっ子であったことを知る。
 いじめられっ子セブルスの物語は、『ハリー・ポッターと死の秘宝 PART2』の主要なモチーフでもある。誰からも愛されず、誰からも理解されない、そんな人生を送ってきたセブルスは、ホグワーツという逃避先がなければハリーがたどっていた姿かもしれない。
 こうして、セブルスの過去が明かされることで、ハリー・ポッターシリーズの原点でもあるいじめられっ子の人生に改めてスポットライトが当てられたのである。


 それはシリーズの様相を一変させることでもあった。
 スター・ウォーズ・サーガがルーク・スカイウォーカーの颯爽たる活躍から幕を開けながら、最後に発表された『スター・ウォーズ エピソード3/シスの復讐』によってアナキン・スカイウォーカーの悲劇として完成されたように、本作によってハリー・ポッターシリーズは、夢の世界でのハリーの冒険物語から、セブルス・スネイプという男の愛憎劇として完成した。

 セブルスを演じるアラン・リックマンは、セブルス役となったかなり早い段階で、セブルスの秘密をJ・K・ローリングから明かされていたという。J・K・ローリングは、アラン・リックマンが本シリーズの最重要人物であるセブルスを演じるに当たって、その想いを完全に理解している必要があると考えたのだ。
 したがって私たちは過去の映画に遡り、アラン・リックマンがどのようなプランに基づいてセブルス・スネイプを演じたかを見つめ直さなければならない。セブルスのハリーに対する口調、眼差し、それらの意味を、私たちは今こそ知ったのだから。

 そして、現実の世界で辛い思いをしている少年少女と大人たちは、眼鏡の少年と共にファンタジーの世界に逃避するのではなく、孤独な男が苦難と向き合った勇気と覚悟を知るのだ。


ハリー・ポッターと死の秘宝 PART 2 [DVD]ハリー・ポッターと死の秘宝 PART2』  [は行]
監督/デヴィッド・イェーツ  撮影/エドゥアルド・セラ
出演/ダニエル・ラドクリフ ルパート・グリント エマ・ワトソン ヘレナ・ボナム=カーター アラン・リックマン ロビー・コルトレーン レイフ・ファインズ マイケル・ガンボン ワーウィック・デイヴィス ジェイソン・アイザックス ジョン・ハート マギー・スミス ジュリー・ウォルターズ マーク・ウィリアムズ トム・フェルトン ボニー・ライト ゲイリー・オールドマン
日本公開/2011年7月15日
ジャンル/[ファンタジー] [アドベンチャー] [アクション]
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