『SUPER 8/スーパーエイト』 その意味するものは?
1966年生まれのJ・J・エイブラムスにとって、1977年公開の『未知との遭遇』や1980年の『未知との遭遇 特別編』、そして1982年の『E.T.』を観ることは、胸躍る体験だったろう。
そんな彼が、それらの作品の監督であるスティーヴン・スピルバーグの制作で、他ならぬスピルバーグへのトリビュート作品を撮るのだから、たまらなく嬉しいに違いない。
『SUPER 8/スーパーエイト』の監督・脚本を務めるのはJ・J・エイブラムスだが、ストーリー作りはエイブラムスとスピルバーグの共同作業である。本作は、まさしく『未知との遭遇』や『E.T.』のエッセンスをスピルバーグ本人と一緒に甦らせた作品と云えるだろう。
タイトルにもなったSuper-8(スーパーエイト)は、コダック社が開発した8ミリフィルムの規格である。
1979年、ザ・ナックの『マイ・シャローナ』が大ヒットしていた頃を舞台に、8ミリカメラを駆使して映画作りにいそしむ少年たちは、あたかも映画小僧だったスピルバーグやエイブラムス自身を投影した姿である。
彼らが出くわす事件は極めてスリリングで、極めて恐ろしく、極めて容赦がない。そこには、エイブラムス監督が少年時代に味わったであろう映画的興奮のありったけが込められているのだろう。
物語の核となるのは少年たちであり、客層もティーンエイジャーを中心に幅広い層を狙っていると思われるが、エイブラムス監督は子供向けだからと手加減することは一切なく、この優れたジュブナイルを作り上げている。
これまでにも、少年少女向けの映画は数多く作られてきた。しかしその割には、エンターテインメントとして成功している作品は意外に少ないのではないか。
たとえば、本作よりもやや年下の客層に向けた作品ではあるが、先ごろ公開された『少年マイロの火星冒険記3D』は一つの例になるかもしれない。制作に1億5千万ドルも費やしながら、全世界での興行収入が3899万ドルにしかならなかったのだから、成功作とは云えないだろう。
その原因は幾つかあろうが、この作品に観客を興醒めさせる要素があったのは確かである。なかなか面白い冒険譚なのに、全編に一貫するのは子供向けの教訓なのだ。ママに反抗してはいけないこと、ママの云いつけを守らなくてはいけないこと……ありがたい話ではあるが、子供たちにとっては映画館に来てまで聞かされたい話ではない。
『少年マイロの火星冒険記3D』に限らない。少年少女向けの映画は、愛を説いたり、勇気を教えたり、無軌道を戒めたり――説教を垂れることが多いのだ。
たぶん企画書には愛や勇気や倫理について書いてあるのだろう。そして企画書に基づいて出資している投資家が納得するように、それらを判りやすい形で見せなければならないのかもしれない。
だが、振り返ってみれば、少年たちを主人公にした大ヒット作『E.T.』には、説教臭さはまったくなかった。もちろん、観客がさまざまな教訓を読み取ることは可能だが、登場人物の誰一人として説教臭いセリフを口にしなかった。
だからこそヒットしたのだ。映画はしつけの道具ではないということだ。
また、たとえ「お説教」はほどほどでも、子供に観せるという意識が作品を温くすることもある。過激な描写を避けようとするあまり、いきおい尖ったところがなくなって、全般的に温くなってしまいがちだ。
しかし子供は辛辣だ。子供こそ辛辣なのだ。半端なシロモノは相手にされない。
思えばスピルバーグこそ、子供を主要な登場人物に据えながら、教訓も垂れず、教育的配慮もせずに、エンターテインメントに徹したフィルムメーカーであった。その作品において、子供たちは大人の云うことを聞いたりしない。どうせ大人は、あれがダメ、これがダメというばかりだ。そんな大人たちを出し抜いてこそ、本当に大事なことに迫れるのだ。
J・J・エイブラムスが目指すところは明らかである。そこには、教訓も教育的配慮もない。気取った思想も、高尚な文化もいらない。人間心理に深く切り込むこともない。
子供を夢中にさせるには、本気で怖がらせ、本気でワクワクさせ、本気で楽しませなければならないのだ。そうでなければ、子供たちは本気で好きにはならない。
そして、本気で怖がらせ、本気でワクワクさせ、本気で楽しませる作品は、もちろん大人が観ても本気で面白いのだ。
『SUPER 8/スーパーエイト』 [さ行]
監督・脚本・制作/J・J・エイブラムス 制作/スティーヴン・スピルバーグ
出演/ジョエル・コートニー エル・ファニング カイル・チャンドラー ライリー・グリフィス ライアン・リー ガブリエル・バッソ ザック・ミルズ ロン・エルダード
日本公開/2011年6月24日
ジャンル/[SF] [アドベンチャー] [サスペンス]
http://bookmarks.yahoo.co.jp/bookmarklet/showpopup?t='+encodeURIComponent(document.title)+'&u='+encodeURIComponent(location.href)+'&ei=UTF-8','_blank','width=550,height=480,left=100,top=50,scrollbars=1,resizable=1',0);">
そんな彼が、それらの作品の監督であるスティーヴン・スピルバーグの制作で、他ならぬスピルバーグへのトリビュート作品を撮るのだから、たまらなく嬉しいに違いない。
『SUPER 8/スーパーエイト』の監督・脚本を務めるのはJ・J・エイブラムスだが、ストーリー作りはエイブラムスとスピルバーグの共同作業である。本作は、まさしく『未知との遭遇』や『E.T.』のエッセンスをスピルバーグ本人と一緒に甦らせた作品と云えるだろう。
タイトルにもなったSuper-8(スーパーエイト)は、コダック社が開発した8ミリフィルムの規格である。
1979年、ザ・ナックの『マイ・シャローナ』が大ヒットしていた頃を舞台に、8ミリカメラを駆使して映画作りにいそしむ少年たちは、あたかも映画小僧だったスピルバーグやエイブラムス自身を投影した姿である。
彼らが出くわす事件は極めてスリリングで、極めて恐ろしく、極めて容赦がない。そこには、エイブラムス監督が少年時代に味わったであろう映画的興奮のありったけが込められているのだろう。
物語の核となるのは少年たちであり、客層もティーンエイジャーを中心に幅広い層を狙っていると思われるが、エイブラムス監督は子供向けだからと手加減することは一切なく、この優れたジュブナイルを作り上げている。
これまでにも、少年少女向けの映画は数多く作られてきた。しかしその割には、エンターテインメントとして成功している作品は意外に少ないのではないか。
たとえば、本作よりもやや年下の客層に向けた作品ではあるが、先ごろ公開された『少年マイロの火星冒険記3D』は一つの例になるかもしれない。制作に1億5千万ドルも費やしながら、全世界での興行収入が3899万ドルにしかならなかったのだから、成功作とは云えないだろう。
その原因は幾つかあろうが、この作品に観客を興醒めさせる要素があったのは確かである。なかなか面白い冒険譚なのに、全編に一貫するのは子供向けの教訓なのだ。ママに反抗してはいけないこと、ママの云いつけを守らなくてはいけないこと……ありがたい話ではあるが、子供たちにとっては映画館に来てまで聞かされたい話ではない。
『少年マイロの火星冒険記3D』に限らない。少年少女向けの映画は、愛を説いたり、勇気を教えたり、無軌道を戒めたり――説教を垂れることが多いのだ。
たぶん企画書には愛や勇気や倫理について書いてあるのだろう。そして企画書に基づいて出資している投資家が納得するように、それらを判りやすい形で見せなければならないのかもしれない。
だが、振り返ってみれば、少年たちを主人公にした大ヒット作『E.T.』には、説教臭さはまったくなかった。もちろん、観客がさまざまな教訓を読み取ることは可能だが、登場人物の誰一人として説教臭いセリフを口にしなかった。
だからこそヒットしたのだ。映画はしつけの道具ではないということだ。
また、たとえ「お説教」はほどほどでも、子供に観せるという意識が作品を温くすることもある。過激な描写を避けようとするあまり、いきおい尖ったところがなくなって、全般的に温くなってしまいがちだ。
しかし子供は辛辣だ。子供こそ辛辣なのだ。半端なシロモノは相手にされない。
思えばスピルバーグこそ、子供を主要な登場人物に据えながら、教訓も垂れず、教育的配慮もせずに、エンターテインメントに徹したフィルムメーカーであった。その作品において、子供たちは大人の云うことを聞いたりしない。どうせ大人は、あれがダメ、これがダメというばかりだ。そんな大人たちを出し抜いてこそ、本当に大事なことに迫れるのだ。
J・J・エイブラムスが目指すところは明らかである。そこには、教訓も教育的配慮もない。気取った思想も、高尚な文化もいらない。人間心理に深く切り込むこともない。
子供を夢中にさせるには、本気で怖がらせ、本気でワクワクさせ、本気で楽しませなければならないのだ。そうでなければ、子供たちは本気で好きにはならない。
そして、本気で怖がらせ、本気でワクワクさせ、本気で楽しませる作品は、もちろん大人が観ても本気で面白いのだ。
![SUPER 8/スーパーエイト [DVD]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/513d41wNCUL._SL160_.jpg)
監督・脚本・制作/J・J・エイブラムス 制作/スティーヴン・スピルバーグ
出演/ジョエル・コートニー エル・ファニング カイル・チャンドラー ライリー・グリフィス ライアン・リー ガブリエル・バッソ ザック・ミルズ ロン・エルダード
日本公開/2011年6月24日
ジャンル/[SF] [アドベンチャー] [サスペンス]


【theme : 特撮・SF・ファンタジー映画】
【genre : 映画】
tag : J・J・エイブラムススティーヴン・スピルバーグジョエル・コートニーエル・ファニングカイル・チャンドラーライリー・グリフィスライアン・リーガブリエル・バッソザック・ミルズロン・エルダード
『スカイライン-征服-』 1000万 対 50万!
『奇跡』の中で、一本気な菓子職人を妻がたしなめる場面がある。
「どこの世界に好きなものを作って売ってる人がいるんですか。」
監督、脚本、編集と何役もこなし、プロデューサーとして他の監督に映画作りの場を提供してもいる是枝裕和監督が書いたセリフだけに、その言葉は切なく重い。
漫画の神様と称された手塚治虫氏でさえ、好きなものばかり描くわけにはいかなかった。
マンガの多さでギネス世界記録に認定されているほどの石ノ森章太郎氏でさえ、『サイボーグ009 神々との戦い』では読者の理解が得られず、打ち切らざるを得なかった。
にもかかわらず、ここに好きなことを映画にした男たちがいる。コリン・ストラウスとグレッグ・ストラウスの兄弟である。
彼らは自身が設立したスタジオHydraulxで『2012』『アバター』『アイアンマン2』等の視覚効果を手掛けており、遂にみずから制作に乗り出したのが『スカイライン-征服-』だ。
監督・制作のストラウス兄弟だけではなく、脚本のジョシュア・コーズとリアム・オドネルもこれまでは視覚効果を担当してきた。両名とも劇映画の脚本家としては本作がデビュー作である。
つまり本作は、特撮好きの男たちが特撮仲間と作った映画なのだ。
自主映画にはありがちだが、自主映画を作る人は映画を作りたいからやっているのだが、特撮映画を自主制作する人は特撮をやりたいのだ。ストラウス兄弟はその延長上で『スカイライン-征服-』を作ってしまった。
なにしろ制作費1050万ドルのうち、デジタル効果に1000万ドルを注ぎ込んでしまい、本編撮影には50万ドルしかかけていないのだ。あっぱれな徹底ぶりである。
本作の惹句は、この作品の狙いをよく表している。
「そこには、愛も英雄も存在しない」
そのとおり、50万ドルしかかけていない本編部分には、愛も英雄も感動も悲しみも何にもない。セレブのパーティーシーンを織り交ぜたりしてリッチな感じを出そうとしているが、実のところ自宅マンションを撮影場所にして、数人の男女が逃げ惑う姿を収めただけだ。
でも、視覚効果は凄い。米国で1000万ドルといったらかなり低予算だと思うが、それでここまでできるのかと驚くほどである。
『インデペンデンス・デイ』のような迫り来る宇宙船や、戦闘機とのドッグファイト、『宇宙戦争』のような不気味に伸びてくる触手、『ゴジラ』シリーズのような大暴れする怪獣たち等々、嬉しい映像のオンパレードだ。
怪獣のデザインが水陸両用モビルスーツのアッガイを彷彿とさせるのも、なんだか楽しい。
これらをもってして、本作にオリジナリティがないとか、見たことのある映像だと云うのは筋違いだろう。
自主制作で特撮映画を作る人は、目指す作品が念頭にある。『ゴジラ』シリーズが好きだから怪獣を撮るとか、『スター・ウォーズ』が好きだから宇宙戦を撮るとか、その作品と同じようなことをするのが目標なのだ。したがって、「『スター・ウォーズ』を思わせるね」というのは最高の褒め言葉である。
本作も同様で、よくぞ1000万ドルで『インデペンデンス・デイ』や『宇宙戦争』のようなシーンを作れたものだと感心する(『インデペンデンス・デイ』の制作費は7500万ドル、『宇宙戦争』(2005年)の制作費は1億3200万ドル)。
そもそも、創作活動は先人をフォローすることから始まるものである。誰もフォローしなかったら、そのジャンルは死に絶えてしまう。「タイムトラベルはH・G・ウェルズの独創だから他人が手を出すのは止めよう」なんて云ったら、すべての時間テーマのSFがなくなってしまう。
『インデペンデンス・デイ』が面白かったなら(8億1740万ドルもの興行成績を残したのだから、世界中の人が面白いと感じたはずだ)、『インデペンデンス・デイ』をフォローした映画をドンドン作ればいいのだ。
『ゴジラ』のヒットがあればこそ『ガメラ』が誕生したのだから、怪獣好きは『ゴジラ』や『ガメラ』をフォローした映画をドンドン作ればいいのだ。
たくさんの追随者がいてこそ、ジャンルとして発展し、原点となった作品を上回る傑作が生まれようというものだ。
『スカイライン-征服-』は、過去の傑作群の美味しいところを寄せ集めて再現した映画である。
ショーケースに飾られた怪獣のフィギュアを鑑賞するように、視覚効果の出来を愛でる映画だ。
特撮好きの男たちの愛が詰まったこの映画を、楽しもうではないか。
『スカイライン-征服-』 [さ行]
監督・制作/ザ・ブラザーズ・ストラウス(コリン・ストラウス、グレッグ・ストラウス)
脚本/ジョシュア・コーズ 脚本・制作/リアム・オドネル
出演/エリック・バルフォー スコッティー・トンプソン ブリタニー・ダニエル デヴィッド・ザヤス ドナルド・フェイソン
日本公開/2011年6月18日
ジャンル/[SF] [アクション] [パニック]
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「どこの世界に好きなものを作って売ってる人がいるんですか。」
監督、脚本、編集と何役もこなし、プロデューサーとして他の監督に映画作りの場を提供してもいる是枝裕和監督が書いたセリフだけに、その言葉は切なく重い。
漫画の神様と称された手塚治虫氏でさえ、好きなものばかり描くわけにはいかなかった。
マンガの多さでギネス世界記録に認定されているほどの石ノ森章太郎氏でさえ、『サイボーグ009 神々との戦い』では読者の理解が得られず、打ち切らざるを得なかった。
にもかかわらず、ここに好きなことを映画にした男たちがいる。コリン・ストラウスとグレッグ・ストラウスの兄弟である。
彼らは自身が設立したスタジオHydraulxで『2012』『アバター』『アイアンマン2』等の視覚効果を手掛けており、遂にみずから制作に乗り出したのが『スカイライン-征服-』だ。
監督・制作のストラウス兄弟だけではなく、脚本のジョシュア・コーズとリアム・オドネルもこれまでは視覚効果を担当してきた。両名とも劇映画の脚本家としては本作がデビュー作である。
つまり本作は、特撮好きの男たちが特撮仲間と作った映画なのだ。
自主映画にはありがちだが、自主映画を作る人は映画を作りたいからやっているのだが、特撮映画を自主制作する人は特撮をやりたいのだ。ストラウス兄弟はその延長上で『スカイライン-征服-』を作ってしまった。
なにしろ制作費1050万ドルのうち、デジタル効果に1000万ドルを注ぎ込んでしまい、本編撮影には50万ドルしかかけていないのだ。あっぱれな徹底ぶりである。
本作の惹句は、この作品の狙いをよく表している。
「そこには、愛も英雄も存在しない」
そのとおり、50万ドルしかかけていない本編部分には、愛も英雄も感動も悲しみも何にもない。セレブのパーティーシーンを織り交ぜたりしてリッチな感じを出そうとしているが、実のところ自宅マンションを撮影場所にして、数人の男女が逃げ惑う姿を収めただけだ。
でも、視覚効果は凄い。米国で1000万ドルといったらかなり低予算だと思うが、それでここまでできるのかと驚くほどである。
『インデペンデンス・デイ』のような迫り来る宇宙船や、戦闘機とのドッグファイト、『宇宙戦争』のような不気味に伸びてくる触手、『ゴジラ』シリーズのような大暴れする怪獣たち等々、嬉しい映像のオンパレードだ。
怪獣のデザインが水陸両用モビルスーツのアッガイを彷彿とさせるのも、なんだか楽しい。
これらをもってして、本作にオリジナリティがないとか、見たことのある映像だと云うのは筋違いだろう。
自主制作で特撮映画を作る人は、目指す作品が念頭にある。『ゴジラ』シリーズが好きだから怪獣を撮るとか、『スター・ウォーズ』が好きだから宇宙戦を撮るとか、その作品と同じようなことをするのが目標なのだ。したがって、「『スター・ウォーズ』を思わせるね」というのは最高の褒め言葉である。
本作も同様で、よくぞ1000万ドルで『インデペンデンス・デイ』や『宇宙戦争』のようなシーンを作れたものだと感心する(『インデペンデンス・デイ』の制作費は7500万ドル、『宇宙戦争』(2005年)の制作費は1億3200万ドル)。
そもそも、創作活動は先人をフォローすることから始まるものである。誰もフォローしなかったら、そのジャンルは死に絶えてしまう。「タイムトラベルはH・G・ウェルズの独創だから他人が手を出すのは止めよう」なんて云ったら、すべての時間テーマのSFがなくなってしまう。
『インデペンデンス・デイ』が面白かったなら(8億1740万ドルもの興行成績を残したのだから、世界中の人が面白いと感じたはずだ)、『インデペンデンス・デイ』をフォローした映画をドンドン作ればいいのだ。
『ゴジラ』のヒットがあればこそ『ガメラ』が誕生したのだから、怪獣好きは『ゴジラ』や『ガメラ』をフォローした映画をドンドン作ればいいのだ。
たくさんの追随者がいてこそ、ジャンルとして発展し、原点となった作品を上回る傑作が生まれようというものだ。
『スカイライン-征服-』は、過去の傑作群の美味しいところを寄せ集めて再現した映画である。
ショーケースに飾られた怪獣のフィギュアを鑑賞するように、視覚効果の出来を愛でる映画だ。
特撮好きの男たちの愛が詰まったこの映画を、楽しもうではないか。

監督・制作/ザ・ブラザーズ・ストラウス(コリン・ストラウス、グレッグ・ストラウス)
脚本/ジョシュア・コーズ 脚本・制作/リアム・オドネル
出演/エリック・バルフォー スコッティー・トンプソン ブリタニー・ダニエル デヴィッド・ザヤス ドナルド・フェイソン
日本公開/2011年6月18日
ジャンル/[SF] [アクション] [パニック]


【theme : 特撮・SF・ファンタジー映画】
【genre : 映画】
tag : ザ・ブラザーズ・ストラウスコリン・ストラウスグレッグ・ストラウスエリック・バルフォースコッティー・トンプソンブリタニー・ダニエルデヴィッド・ザヤスドナルド・フェイソン
『犬を飼うということ ~スカイと我が家の180日~』 あなたの家の求心力は?
2007年10月4日放映の日本テレビ『スッキリ!!』に愕然とした人も多いだろう。この日の「ペット処分場の実態」と題された映像は、それほど衝撃的だった。
とりわけ私がショックを受けたのは、子猫の処分を依頼しにきた家族である。子猫を育て始めて2ヶ月、一家で海外旅行へ行くことになったのだという。旅行中は世話できないから、処分してくれと子猫を持ってきたのだ。
子供たちはワンワン泣いている。しかし、父親が「じゃあ、旅行は止めるのか?猫がいたら旅行できないよ。旅行、行きたいだろ?」と尋ねると、子供たちは泣きながらも「行く」と答えた。母親は「この2ヶ月でいい勉強ができました」と云い、一家は子猫を置いて去ったのである。
ドキュメンタリー『犬と猫と人間と』に登場したマルコ・ブルーノ氏が「地獄だ」と呟いたのは、この国のことである。
だからこそ、『犬を飼うということ ~スカイと我が家の180日~』の第8話のセリフは印象深かった。
病気の飼い犬スカイの面倒を看るという兄妹に、獣医が釘を刺す。
「そのかわり、夏休みとか、どっこも遊びに行けないぞ。」
兄「え~。」
妹「はい!」
兄「…はい!」
獣医はスカイを撫でてやる。「お前は幸せ者だ。」
脚本家の寺田敏雄氏が、くだんの『スッキリ!!』を見たかどうかは知らない。
しかし、このセリフには、ペットと暮らす人間のあるべき姿が込められていた。
思えば母・幸子は、当初は犬を飼うことに反対していた。生活が苦しいこともあって、犬を見たときには「こんなのにやる食べ物があったら、もっと子供たちに食べさせたいわよ!」と怒鳴っていた。その幸子が、番組後半では、どんなに経済的に苦しくてもスカイを手放そうとはしなかった。
父は家の貯金箱から金をちょろまかしたりしていた。子供も同様にコソコソ悪さをしていた。別に、取り立てて変わった家庭ではない。ごく普通の、意思の疎通が希薄な家庭であった。
ところが、スカイの病状が進行する頃には、スカイの腹水を抜いてやるために、家族みんなで協力するようになっていた。母が注射器を手にして、子供たちがスカイを押さえ、父が消毒してやる。みんなスカイのためにかかりきりになっていた。
これこそ、ごく普通の一家が、スカイを中心に結束したことを示す場面であった。
かつて日本では、子供も親と一緒に働くことが多かった。畑仕事にしろ漁にしろ、親から学ぶことが多かった。そこでは、親は仕事の師であり、職場のリーダーでもある。生活のすべてが親を中心に回っていた。
ところがサラリーマンの時代になると、親は勤め先へ行ってしまい、子供にとっては何をしている人なのか判らなくなった。子供は子供で、学校で先生から学ぶようになり、親から教えてもらうことは少なくなった。
こうしたことも、家庭から求心力が失われた一因かもしれない。
池田信夫氏は次のように述べている。
---
サラリーマンは子供に仕事を継承せず、子供は親とまったく別の学校というコミュニティで生活する。家で親と一緒にテレビを見たり電話したりするより、ケータイで友人と会話している。このノマド的なコミュニケーションを「世帯」単位でみることは無意味だ。社会のサラリーマン化によって、家庭という究極の中間集団も崩壊しつつあるのだ。
---
ところが、ペットには職場なんてない。学校もない。帰宅の途中で立ち寄る飲み屋もない。ただひたすらに家族の帰りを待ち、家族と一緒に過ごしたいと思うだけだ。
現代において、空前のペットブームを迎えたのは偶然ではあるまい。
家庭という集団が崩壊しつつありながら、ペットにとっては家庭だけが全世界である。そして家庭という集団を信じ続けるペットの存在が、家庭にとっても求心力として働くのかもしれない。
番組サイトの作品紹介には、「壊れかけた家族に一匹の子犬が加わったことから始まる物語」と綴られている。
まさしくこれは現代日本に顕著に見られる中間集団の崩壊に、抗う家族の物語だ。父はサラリーマンを辞め、子供にも判りやすい職業に就いた。家族はみんな小犬のために何ができるかを考えた。
私たちが家庭に求心力を持たせたいと思うなら、そのための努力が必要なのだ。
『犬を飼うということ ~スカイと我が家の180日~』全9話を見てつくづく思うのは、タイトルに偽りなしということだ。ペットと暮らすということ、ペットを失うということ、そのすべてが描かれていた。
多くの家庭が直面することなのに、ペットロスの問題を正面から取り上げたのもテレビドラマとしては珍しいだろう。
ペットと過ごすことが、いかに私たちにとって大切か、それを改めて感じさせるドラマであった。
『犬を飼うということ ~スカイと我が家の180日~』 [テレビ]
監督/本木克英、遠藤光貴、橋伸之、木内麻由美 脚本/寺田敏雄
出演/錦戸亮 水川あさみ 田口淳之介 武田航平 吹越満 杉本哲太 泉谷しげる 久家心 山崎竜太郎 鹿沼憂妃 森脇英理子
放映日/2011年4月15日~6月10日
ジャンル/[ドラマ] [犬]
映画ブログ
とりわけ私がショックを受けたのは、子猫の処分を依頼しにきた家族である。子猫を育て始めて2ヶ月、一家で海外旅行へ行くことになったのだという。旅行中は世話できないから、処分してくれと子猫を持ってきたのだ。
子供たちはワンワン泣いている。しかし、父親が「じゃあ、旅行は止めるのか?猫がいたら旅行できないよ。旅行、行きたいだろ?」と尋ねると、子供たちは泣きながらも「行く」と答えた。母親は「この2ヶ月でいい勉強ができました」と云い、一家は子猫を置いて去ったのである。
ドキュメンタリー『犬と猫と人間と』に登場したマルコ・ブルーノ氏が「地獄だ」と呟いたのは、この国のことである。
だからこそ、『犬を飼うということ ~スカイと我が家の180日~』の第8話のセリフは印象深かった。
病気の飼い犬スカイの面倒を看るという兄妹に、獣医が釘を刺す。
「そのかわり、夏休みとか、どっこも遊びに行けないぞ。」
兄「え~。」
妹「はい!」
兄「…はい!」
獣医はスカイを撫でてやる。「お前は幸せ者だ。」
脚本家の寺田敏雄氏が、くだんの『スッキリ!!』を見たかどうかは知らない。
しかし、このセリフには、ペットと暮らす人間のあるべき姿が込められていた。
思えば母・幸子は、当初は犬を飼うことに反対していた。生活が苦しいこともあって、犬を見たときには「こんなのにやる食べ物があったら、もっと子供たちに食べさせたいわよ!」と怒鳴っていた。その幸子が、番組後半では、どんなに経済的に苦しくてもスカイを手放そうとはしなかった。
父は家の貯金箱から金をちょろまかしたりしていた。子供も同様にコソコソ悪さをしていた。別に、取り立てて変わった家庭ではない。ごく普通の、意思の疎通が希薄な家庭であった。
ところが、スカイの病状が進行する頃には、スカイの腹水を抜いてやるために、家族みんなで協力するようになっていた。母が注射器を手にして、子供たちがスカイを押さえ、父が消毒してやる。みんなスカイのためにかかりきりになっていた。
これこそ、ごく普通の一家が、スカイを中心に結束したことを示す場面であった。
かつて日本では、子供も親と一緒に働くことが多かった。畑仕事にしろ漁にしろ、親から学ぶことが多かった。そこでは、親は仕事の師であり、職場のリーダーでもある。生活のすべてが親を中心に回っていた。
ところがサラリーマンの時代になると、親は勤め先へ行ってしまい、子供にとっては何をしている人なのか判らなくなった。子供は子供で、学校で先生から学ぶようになり、親から教えてもらうことは少なくなった。
こうしたことも、家庭から求心力が失われた一因かもしれない。
池田信夫氏は次のように述べている。
---
サラリーマンは子供に仕事を継承せず、子供は親とまったく別の学校というコミュニティで生活する。家で親と一緒にテレビを見たり電話したりするより、ケータイで友人と会話している。このノマド的なコミュニケーションを「世帯」単位でみることは無意味だ。社会のサラリーマン化によって、家庭という究極の中間集団も崩壊しつつあるのだ。
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ところが、ペットには職場なんてない。学校もない。帰宅の途中で立ち寄る飲み屋もない。ただひたすらに家族の帰りを待ち、家族と一緒に過ごしたいと思うだけだ。
現代において、空前のペットブームを迎えたのは偶然ではあるまい。
家庭という集団が崩壊しつつありながら、ペットにとっては家庭だけが全世界である。そして家庭という集団を信じ続けるペットの存在が、家庭にとっても求心力として働くのかもしれない。
番組サイトの作品紹介には、「壊れかけた家族に一匹の子犬が加わったことから始まる物語」と綴られている。
まさしくこれは現代日本に顕著に見られる中間集団の崩壊に、抗う家族の物語だ。父はサラリーマンを辞め、子供にも判りやすい職業に就いた。家族はみんな小犬のために何ができるかを考えた。
私たちが家庭に求心力を持たせたいと思うなら、そのための努力が必要なのだ。
『犬を飼うということ ~スカイと我が家の180日~』全9話を見てつくづく思うのは、タイトルに偽りなしということだ。ペットと暮らすということ、ペットを失うということ、そのすべてが描かれていた。
多くの家庭が直面することなのに、ペットロスの問題を正面から取り上げたのもテレビドラマとしては珍しいだろう。
ペットと過ごすことが、いかに私たちにとって大切か、それを改めて感じさせるドラマであった。

監督/本木克英、遠藤光貴、橋伸之、木内麻由美 脚本/寺田敏雄
出演/錦戸亮 水川あさみ 田口淳之介 武田航平 吹越満 杉本哲太 泉谷しげる 久家心 山崎竜太郎 鹿沼憂妃 森脇英理子
放映日/2011年4月15日~6月10日
ジャンル/[ドラマ] [犬]
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『奇跡』は世界に溢れてる
人形が意思を持って動き出す、という奇跡の物語『空気人形』を世に送り出した是枝裕和監督が、またもや奇跡に満ちた映画を撮り上げた。
タイトルはそのものズバリ『奇跡』なのだが、劇中で語られる"奇跡"は、陳腐で子供だましでトンデモだ。九州新感線の一番列車がすれ違うとき、大きなパワーが生じて願いが叶うというのだ。
その噂を信じた福岡と鹿児島の少年たちが、中間である熊本を目指す。
ここに、子供を主人公にする必然があろう。願いを叶えるために仲間たちで行動する姿は、大人では描きづらい。
『空気人形』では、大人たちを通して、この世界に奇跡があることを伝えたが、今回は子供を中心にすることで、よりストレートに、より現実的に、たくさんの奇跡を伝えている。
自転車のベルをなくした女性教師には、一人の生徒が、なぜか拾ったベルが彼女のものだと判って届けてくれる。
子供に去られて淋しく暮らしていた老夫婦の許へは、ある日、孫のようなたくさんの子供たちが訪ねてくる。
何年も前に菓子屋を廃業した老人が久しぶりに作ったかるかんを、孫はどうやら気に入ってくれたらしい。
私たちが見落としがちなささいな出来事の数々が、一つ違えば起こらなかったかもしれない奇跡であることを、この映画は伝えている。
本作は、少年たちの小旅行を描いた『スタンド・バイ・ミー』よりも、もっと地味な話である。
それなのに、私たちがこの映画に惹かれるのは、是枝作品ならではの完成度の高さによろう。
とりわけ多くの是枝作品を手がけてきた撮影の山崎裕氏は、本作でも変幻自在なショットで観客を魅了する。
少年が庭で育ったトマトを食べるショットでは、低い位置から少年の顔を見上げる構図で、熟したトマトの丸々とした曲線と、少年の嬉しそうな表情を収め、トマトがなるという奇跡を示している。
そうかと思えば、駅前を走る少年たちを、遥かな高みから俯瞰するショットで捉え、少年たちの表情を見せない。そこでは、もしかしたらとてつもない奇跡が起きているのかもしれないことを予感させる。
九州新感線に願いをかけた少年たちは、きっと確信するだろう。
願いは必ず叶うと。
自分の努力や、ほんの偶然や、誰かの配慮や、いろんなものが混ざりながら、少年の願いが叶ってこの世界は形作られているのだと。
花が咲いたり、カツどんが温かかったり、音楽を聴いてもらえたり、火山が噴火したり、かるかんがほんのり甘かったり、母ちゃんがフラダンスで楽しそうにするのも、どこかで少年が願ったからかもしれない。
それは奇跡なのかもしれない。
『奇跡』 [か行]
監督・脚本・編集/是枝裕和 撮影/山崎裕
出演/前田航基 前田旺志郎 大塚寧々 オダギリジョー 夏川結衣 阿部寛 樹木希林 橋爪功 長澤まさみ 原田芳雄 林凌雅 永吉星之介 内田伽羅 橋本環奈 磯邊蓮登
日本公開/2011年6月11日
ジャンル/[ドラマ]
http://bookmarks.yahoo.co.jp/bookmarklet/showpopup?t='+encodeURIComponent(document.title)+'&u='+encodeURIComponent(location.href)+'&ei=UTF-8','_blank','width=550,height=480,left=100,top=50,scrollbars=1,resizable=1',0);">
タイトルはそのものズバリ『奇跡』なのだが、劇中で語られる"奇跡"は、陳腐で子供だましでトンデモだ。九州新感線の一番列車がすれ違うとき、大きなパワーが生じて願いが叶うというのだ。
その噂を信じた福岡と鹿児島の少年たちが、中間である熊本を目指す。
ここに、子供を主人公にする必然があろう。願いを叶えるために仲間たちで行動する姿は、大人では描きづらい。
『空気人形』では、大人たちを通して、この世界に奇跡があることを伝えたが、今回は子供を中心にすることで、よりストレートに、より現実的に、たくさんの奇跡を伝えている。
自転車のベルをなくした女性教師には、一人の生徒が、なぜか拾ったベルが彼女のものだと判って届けてくれる。
子供に去られて淋しく暮らしていた老夫婦の許へは、ある日、孫のようなたくさんの子供たちが訪ねてくる。
何年も前に菓子屋を廃業した老人が久しぶりに作ったかるかんを、孫はどうやら気に入ってくれたらしい。
私たちが見落としがちなささいな出来事の数々が、一つ違えば起こらなかったかもしれない奇跡であることを、この映画は伝えている。
本作は、少年たちの小旅行を描いた『スタンド・バイ・ミー』よりも、もっと地味な話である。
それなのに、私たちがこの映画に惹かれるのは、是枝作品ならではの完成度の高さによろう。
とりわけ多くの是枝作品を手がけてきた撮影の山崎裕氏は、本作でも変幻自在なショットで観客を魅了する。
少年が庭で育ったトマトを食べるショットでは、低い位置から少年の顔を見上げる構図で、熟したトマトの丸々とした曲線と、少年の嬉しそうな表情を収め、トマトがなるという奇跡を示している。
そうかと思えば、駅前を走る少年たちを、遥かな高みから俯瞰するショットで捉え、少年たちの表情を見せない。そこでは、もしかしたらとてつもない奇跡が起きているのかもしれないことを予感させる。
九州新感線に願いをかけた少年たちは、きっと確信するだろう。
願いは必ず叶うと。
自分の努力や、ほんの偶然や、誰かの配慮や、いろんなものが混ざりながら、少年の願いが叶ってこの世界は形作られているのだと。
花が咲いたり、カツどんが温かかったり、音楽を聴いてもらえたり、火山が噴火したり、かるかんがほんのり甘かったり、母ちゃんがフラダンスで楽しそうにするのも、どこかで少年が願ったからかもしれない。
それは奇跡なのかもしれない。
![奇跡 [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/516riGUodDL._SL160_.jpg)
監督・脚本・編集/是枝裕和 撮影/山崎裕
出演/前田航基 前田旺志郎 大塚寧々 オダギリジョー 夏川結衣 阿部寛 樹木希林 橋爪功 長澤まさみ 原田芳雄 林凌雅 永吉星之介 内田伽羅 橋本環奈 磯邊蓮登
日本公開/2011年6月11日
ジャンル/[ドラマ]


『X-MEN:ファースト・ジェネレーション』 1962年に何があったのか?
世界で最も売れているマンガ、それが『X-メン』シリーズである。[*]
だからそのファンは全世界におり、なまなかな映像化では納得しないだろう。
だが、『X-MEN:ファースト・ジェネレーション』なら、原作マンガのファンも大満足するのではないだろうか。
さすがは『キック・アス』のマシュー・ヴォーン監督である。アメコミファンの気持ちが判っている。
2000年公開の映画『X-メン』に始まるシリーズには、いささか不満があった。
サイクロップスの活躍が少ないとか、スコットの扱いがひどいとか、スコット役のジェームズ・マースデンのクレジットが後ろすぎるとか……。映画制作時のキャラクター人気を反映してのこともあろうが、サイクロップス(スコット・サマーズ)こそX-MENの初代メンバーであり、リーダーであったことを思えば、主役扱いのウルヴァリンとの差が大きすぎると感じたのは、私一人ではないだろう。
しかし、『X-MEN:ファースト・ジェネレーション』では、そんなことは気にならない。なにしろ、サイクロップスがX-MENに参画する前の物語なのだ。
本作は、原作のエッセンスを上手く抽出して、実に見事にまとめ上げている。
それは必ずしも原作に忠実というわけではない。『X-メン』(2000年)よりも『ウルヴァリン: X-MEN ZERO』(2009年)よりも前の時代を描いているのに、本来サイクロップスの弟であるハヴォック(アレックス)がすでに活躍していたりと、映画ならではの改変はある。
だが、X-MENたちのコスチュームが原作マンガの開始当初のものに沿ったデザインになるなど、原作の魅力を活かそうとしているのは確かだろう。
マシュー・ヴォーン監督によれば、本作は、ブライアン・シンガーが監督した『X-メン』(2000年)及び『X-MEN2』(2003年)と、『スター・トレック』(2009年)、そして60年代の007映画から大きな影響を受けているそうだ。
ブライアン・シンガーの『X-メン』を意識するのは、それがX-MEN映画の原点だから当然だし、J・J・エイブラムス監督の『スター・トレック』は名高いシリーズを若く新鮮なキャストで新たに方向付けたという点で良い手本なのも判る。
したがって、マシュー・ヴォーン監督が上げた作品で注目すべきは、60年代の007映画だろう。
本作は1962年を舞台としている。
原作マンガが始まったのは1963年だから、本作がX-MENの前日譚を描く上では最適な時代設定である。
そして1962年といえば『007は殺しの番号』(リバイバル時の邦題は『007/ドクター・ノオ』)の公開年でもある。
マシュー・ヴォーン監督は、これらを踏まえて、超能力を持ったミュータントたちの活躍を、米ソの対立が高まる冷戦時代を背景にした昔懐かしのスパイアクションに仕立てている。これがもう、『007は二度死ぬ』のような法螺の大きさや、むやみに溢れるお色気や、世界を股にかけた活躍や、幾何学模様がうごめくアニメーションのエンドクレジットまで、60年代らしさに満ちていて楽しい。
もちろん、30年以上前の007シリーズと同じことをするだけではない。これは超能力戦争であり、最新のVFXを活かした映像は大迫力だ。
たとえば、飛行機に乗ったマグニートーが超能力を使って海中の物体を引き上げるシーンは、ゴジラシリーズ屈指の傑作『怪獣大戦争』(1965年)において明神湖からゴジラを引き上げるシーンにも似て、観客の目をみはらせることだろう。
また、クライマックスに次ぐクライマックスの波状攻撃も嬉しいところだ。
米国の冒険小説や映画・アニメでは、クライマックスが一つの大きな山ではなく、連峰のように山が続くことがある。たとえば、敵との激闘を潜り抜けてもミサイルが発射されてしまったり、都市へ向かうミサイルの軌道を外してもダムに落ちて濁流が街を襲ったりと、クライマックスが終わらないのだ。
本作も、そんな息もつかせぬ危機また危機の連続であり、容易に観客をクールダウンさせてくれない。
さて、『X-MEN』におけるミュータントの悲しみは、公民権運動を模したものだと云われる。
人類との融和を唱えるプロフェッサーX(チャールズ・エグゼビア)がマーティン・ルーサー・キング・ジュニアに、人類に攻撃的なマグニートー(エリック・レーンシャー)がマルコムXに喩えられるように、本作が背景とする1962年は公民権運動が盛り上がっていた時期でもある。
だが、それ以上に『X-MEN』が世界中で共感を呼ぶのは、既存社会に馴染めない人々すべてを代弁しているからであろう。1940年に新人類スランと現人類の相克を描いた『スラン』が発表されると、たちまちSFファンの人気を博し、読者は口々に「ファンはスランだ」と述べたという。
『X-MEN』には、社会や周りの人と馴染めないと感じる者が、いかにして世の中と折り合いをつけるか、あるいは対峙するかという普遍的なテーマがあり、それは『スラン』から70年を経た現代でも色褪せることがない。
とりわけ、『X-MEN:ファースト・ジェネレーション』は、チャールズとエリックを対比させることによって、長年語り継がれてきたこのテーマがより一層鮮明になっている。
その意味でも、本作はもっともX-MENらしい映画と云えるだろう。
[*] ウィキペディアの「漫画のベストセラー一覧」によれば、1位は10億冊を販売した『クラシックス・イラストレイテッド』、2位が4億冊の『X-メン』だが、『クラシックス・イラストレイテッド』は古典の数々を漫画化した企画シリーズであり、「立川文庫」のように作品群の総称と捉えた方がいいだろう。
『X-MEN:ファースト・ジェネレーション』 [あ行]
監督・脚本/マシュー・ヴォーン 脚本/ジェーン・ゴールドマン
原案・制作/ブライアン・シンガー
出演/ジェームズ・マカヴォイ マイケル・ファスベンダー ケヴィン・ベーコン ローズ・バーン ジャニュアリー・ジョーンズ オリヴァー・プラット ジェニファー・ローレンス ニコラス・ホルト
日本公開/2011年6月11日
ジャンル/[SF] [アクション] [アドベンチャー]
http://bookmarks.yahoo.co.jp/bookmarklet/showpopup?t='+encodeURIComponent(document.title)+'&u='+encodeURIComponent(location.href)+'&ei=UTF-8','_blank','width=550,height=480,left=100,top=50,scrollbars=1,resizable=1',0);">
だからそのファンは全世界におり、なまなかな映像化では納得しないだろう。
だが、『X-MEN:ファースト・ジェネレーション』なら、原作マンガのファンも大満足するのではないだろうか。
さすがは『キック・アス』のマシュー・ヴォーン監督である。アメコミファンの気持ちが判っている。
2000年公開の映画『X-メン』に始まるシリーズには、いささか不満があった。
サイクロップスの活躍が少ないとか、スコットの扱いがひどいとか、スコット役のジェームズ・マースデンのクレジットが後ろすぎるとか……。映画制作時のキャラクター人気を反映してのこともあろうが、サイクロップス(スコット・サマーズ)こそX-MENの初代メンバーであり、リーダーであったことを思えば、主役扱いのウルヴァリンとの差が大きすぎると感じたのは、私一人ではないだろう。
しかし、『X-MEN:ファースト・ジェネレーション』では、そんなことは気にならない。なにしろ、サイクロップスがX-MENに参画する前の物語なのだ。
本作は、原作のエッセンスを上手く抽出して、実に見事にまとめ上げている。
それは必ずしも原作に忠実というわけではない。『X-メン』(2000年)よりも『ウルヴァリン: X-MEN ZERO』(2009年)よりも前の時代を描いているのに、本来サイクロップスの弟であるハヴォック(アレックス)がすでに活躍していたりと、映画ならではの改変はある。
だが、X-MENたちのコスチュームが原作マンガの開始当初のものに沿ったデザインになるなど、原作の魅力を活かそうとしているのは確かだろう。
マシュー・ヴォーン監督によれば、本作は、ブライアン・シンガーが監督した『X-メン』(2000年)及び『X-MEN2』(2003年)と、『スター・トレック』(2009年)、そして60年代の007映画から大きな影響を受けているそうだ。
ブライアン・シンガーの『X-メン』を意識するのは、それがX-MEN映画の原点だから当然だし、J・J・エイブラムス監督の『スター・トレック』は名高いシリーズを若く新鮮なキャストで新たに方向付けたという点で良い手本なのも判る。
したがって、マシュー・ヴォーン監督が上げた作品で注目すべきは、60年代の007映画だろう。
本作は1962年を舞台としている。
原作マンガが始まったのは1963年だから、本作がX-MENの前日譚を描く上では最適な時代設定である。
そして1962年といえば『007は殺しの番号』(リバイバル時の邦題は『007/ドクター・ノオ』)の公開年でもある。
マシュー・ヴォーン監督は、これらを踏まえて、超能力を持ったミュータントたちの活躍を、米ソの対立が高まる冷戦時代を背景にした昔懐かしのスパイアクションに仕立てている。これがもう、『007は二度死ぬ』のような法螺の大きさや、むやみに溢れるお色気や、世界を股にかけた活躍や、幾何学模様がうごめくアニメーションのエンドクレジットまで、60年代らしさに満ちていて楽しい。
もちろん、30年以上前の007シリーズと同じことをするだけではない。これは超能力戦争であり、最新のVFXを活かした映像は大迫力だ。
たとえば、飛行機に乗ったマグニートーが超能力を使って海中の物体を引き上げるシーンは、ゴジラシリーズ屈指の傑作『怪獣大戦争』(1965年)において明神湖からゴジラを引き上げるシーンにも似て、観客の目をみはらせることだろう。
また、クライマックスに次ぐクライマックスの波状攻撃も嬉しいところだ。
米国の冒険小説や映画・アニメでは、クライマックスが一つの大きな山ではなく、連峰のように山が続くことがある。たとえば、敵との激闘を潜り抜けてもミサイルが発射されてしまったり、都市へ向かうミサイルの軌道を外してもダムに落ちて濁流が街を襲ったりと、クライマックスが終わらないのだ。
本作も、そんな息もつかせぬ危機また危機の連続であり、容易に観客をクールダウンさせてくれない。
さて、『X-MEN』におけるミュータントの悲しみは、公民権運動を模したものだと云われる。
人類との融和を唱えるプロフェッサーX(チャールズ・エグゼビア)がマーティン・ルーサー・キング・ジュニアに、人類に攻撃的なマグニートー(エリック・レーンシャー)がマルコムXに喩えられるように、本作が背景とする1962年は公民権運動が盛り上がっていた時期でもある。
だが、それ以上に『X-MEN』が世界中で共感を呼ぶのは、既存社会に馴染めない人々すべてを代弁しているからであろう。1940年に新人類スランと現人類の相克を描いた『スラン』が発表されると、たちまちSFファンの人気を博し、読者は口々に「ファンはスランだ」と述べたという。
『X-MEN』には、社会や周りの人と馴染めないと感じる者が、いかにして世の中と折り合いをつけるか、あるいは対峙するかという普遍的なテーマがあり、それは『スラン』から70年を経た現代でも色褪せることがない。
とりわけ、『X-MEN:ファースト・ジェネレーション』は、チャールズとエリックを対比させることによって、長年語り継がれてきたこのテーマがより一層鮮明になっている。
その意味でも、本作はもっともX-MENらしい映画と云えるだろう。
[*] ウィキペディアの「漫画のベストセラー一覧」によれば、1位は10億冊を販売した『クラシックス・イラストレイテッド』、2位が4億冊の『X-メン』だが、『クラシックス・イラストレイテッド』は古典の数々を漫画化した企画シリーズであり、「立川文庫」のように作品群の総称と捉えた方がいいだろう。
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監督・脚本/マシュー・ヴォーン 脚本/ジェーン・ゴールドマン
原案・制作/ブライアン・シンガー
出演/ジェームズ・マカヴォイ マイケル・ファスベンダー ケヴィン・ベーコン ローズ・バーン ジャニュアリー・ジョーンズ オリヴァー・プラット ジェニファー・ローレンス ニコラス・ホルト
日本公開/2011年6月11日
ジャンル/[SF] [アクション] [アドベンチャー]


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【theme : X-MENシリーズ】
【genre : 映画】
tag : マシュー・ヴォーンブライアン・シンガージェームズ・マカヴォイマイケル・ファスベンダーケヴィン・ベーコンローズ・バーンジャニュアリー・ジョーンズオリヴァー・プラットジェニファー・ローレンスニコラス・ホルト