『犬を飼うということ ~スカイと我が家の180日~』 ガンダムを思わせる必見作!
当ブログでは珍しいことなのだが、第2話を放映したばかりのテレビドラマ『犬を飼うということ ~スカイと我が家の180日~』を取り上げよう。
これは、犬を飼っている人のみならず、犬を飼おうとしている人や、犬は絶対に飼わない・飼わせないという人にも、きっと気付きや学ぶものがある、必見のドラマである。
当ブログでテレビシリーズを取り上げるのは、すでに完結しているか、シリーズがかなり進行して作り手のメッセージが明確になってからにしている。そうしなければ、作品について語れないと思うからだ。
しかし、『犬を飼うということ ~スカイと我が家の180日~』には、第1話を見た時点で感服していた。そして第2話を見た今、あまりにも良質なので、この作品を取り上げずにはいられなくなった。
世は空前のペットブームと云われて久しい。子供(15歳未満)の数を犬猫の数が大きく上回っている現代では、各家庭に犬や猫がいるのは何ら珍しいことではない。集合住宅でもペットの飼育を許可するのは当たり前、認めなければ資産価値が落ちてしまう世の中である。
それもあってか、犬や猫を題材にした映画やテレビドラマは多い。
本作の本木克英監督も2008年に『犬と私の10の約束』を撮っているし、脚本の寺田敏雄氏はテレビドラマ『盲導犬クイールの一生』(2003年)や『ディロン 運命の犬』(2006年)とその続編(2006年)、続々編(2008年)を書いている。
しかし、私は思っていた。
盲導犬やセラピー犬の物語もいいけれど、そもそも一般家庭にとっては犬がいるだけで大事件のはずだと。
何しろ、食事をしたり、排泄したり、遊んだり暴れたりする存在が、ある日もう一人(一頭)増えるのだ。
人間用の家具や雑貨、人間に便利な間取りは、犬にとってはまったく違う意味を持つ。人間にとってスリッパは足に履くものだが、犬にとっては振り回して遊ぶ物かもしれない。人間にとって木製の椅子は座るためのものだろうが、犬にとっては歯が痒いときにかじるためのものかもしれない。仔犬がいたら、床にスリッパは置けないし、家具の配置替えだって必要だろう。
外出が長引いたら、人間は外食して済ませることもできるが、家に犬が待っているなら帰って食事させなければならない。
だから、犬が家にやってきたら、生活の仕方も、家のあり様も、犬中心に変えなければならない。
人間とは違う生き物を家族に迎えるのは、そういうことだ。
したがって、『まほろ駅前多田便利軒』のように、何の準備もなくチワワを預かったり、アパートで飼い始めたりするのは困難だ。本来、犬を飼うには「犬の飼い主検定試験」に合格するくらいの知識が必要なはずなのだから。
いや、現実には衝動買いや成り行きで飼い始めることもあるかもしれない。
そして、やっぱり面倒見切れないとなると、『犬と猫と人間と』で描かれるような悲しい事態が起こるのだろう。
現代の日本では、犬や猫(イエネコ)はほぼ完全に人間がコントロールしている生き物である。その善し悪しはともかく、人間の関知しないところで、野生の状態で生きるということはまずない。そのため、その生死も人間の行動の結果である。
2009年度に殺処分された犬猫の数は、犬65,956匹、猫173,300匹、計239,256匹にも上るが、彼らは野生の状態で捕獲されたわけではない。この膨大な数は、人間が持ち込んだり、手放したりした結果なのだ。
『犬を飼うということ ~スカイと我が家の180日~』が素晴らしいのは、「ペットと暮らす」という平凡でありながら当事者には大事件であることを、可愛さでごまかしたりせずに、等身大に描いている点だ。
「犬の排泄はどうしたらいいの?」
「保険に入っていない犬を病院で診てもらったらどういうことになるの?」
そんな基本的な部分から、犬のことを何も知らない家族の目を通して、きちんと描いている。
ファンタジー風味のドラマ『マルモのおきて』では、見知らぬ犬を部屋に1日中いさせながら何の苦労も生じていないが、多くの家庭にペットがいてその苦労を知っている現在、苦労のないことがファンタジーである。
食事や排泄等に気を使わなければ犬を飼えないことを示した『犬を飼うということ ~』は、たとえて云えば、ロボットアニメの歴史の中で『機動戦士ガンダム』がロボットに整備が必要なことを示した衝撃に似ている[*]。
そしてまた気付かされるのは、人間が犬や猫をほぼ完全にコントロールしている以上、犬や猫に関連して発生するトラブルは人間が原因だということだ。人間の配慮不足や躾不足が、近隣住民との軋轢の元となる。その点について、本作はかなり手厳しい。
主人公一家が面倒を見る犬・スカイツリーちゃんは、完璧に躾けられた子だ。決して無駄吠えしないし、そそうもしない。
犬を飼うことに反対する人は、しばしば「うるさいから」「汚れるから」といったことを理由に挙げるが、このドラマは、それらは犬のせいではなくて、静かにさせない、きれいにさせない人間が悪いことを示唆している。
もちろん、そんなに完璧には躾けられなくて悩んでいる飼い主も多いだろうけど、いずれにしろ諸々の問題は犬のトラブルではなく人間のトラブルなのである。
このように、本作は「犬を飼うということ」の細部まで目が配られていて、犬猫が子供よりも多い時代に即した作品だ。
そして本作が巧いのは、犬にまつわる問題を人間社会に投影し、犬への興味の有無に関係なく、誰もが共感したり、問題意識を抱けるエピソードに昇華させていることだ。
殺処分されそうな犬を助けようとする話では、会社を辞めさせられるロートルの問題に重ね合わせ、登場人物に「彼だけ助ければいいのか!?」という一番痛いセリフを叫ばせている。
ペット禁止の団地で犬を飼おうとする話では、子供の盗みに重ね合わせて、ルールとは何かを考えさせる。
それを、教条的にならず、テンポの良いホームドラマとして見せているので、犬に興味のない人でも、この家族の今後に目が離せないだろう。
本作の主人公の行きつけのバーの名は「CrossRoad」。主人公はここでいつも物想いに耽っている。
なかなか意味深長なネーミングである。
また、本作の楽しさの一つは、配役の妙だ。
錦戸亮さんと水川あさみさんは、小学生の両親を演じるには若すぎるのではないかと思ったが、不器用な夫と口うるさい妻がなかなか似合っている。
芸達者な吹越満さん、杉本哲太さん、泉谷しげるさんらも要所々々を押さえて流石である。
そして何より、スカイツリー役のポメラニアンがかわいい!
あぁ、やっぱり結論はそこか!
[*]主要キャラクターとして整備士が登場するロボットアニメとしては、『惑星ロボ ダンガードA』の先例がある。
『犬を飼うということ ~スカイと我が家の180日~』 [テレビ]
監督/本木克英、遠藤光貴、橋伸之、木内麻由美 脚本/寺田敏雄
出演/錦戸亮 水川あさみ 田口淳之介 吹越満 杉本哲太 泉谷しげる 久家心 山崎竜太郎 武田航平 鹿沼憂妃 森脇英理子
放映日/2011年4月15日~6月10日
ジャンル/[ドラマ] [犬]
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これは、犬を飼っている人のみならず、犬を飼おうとしている人や、犬は絶対に飼わない・飼わせないという人にも、きっと気付きや学ぶものがある、必見のドラマである。
当ブログでテレビシリーズを取り上げるのは、すでに完結しているか、シリーズがかなり進行して作り手のメッセージが明確になってからにしている。そうしなければ、作品について語れないと思うからだ。
しかし、『犬を飼うということ ~スカイと我が家の180日~』には、第1話を見た時点で感服していた。そして第2話を見た今、あまりにも良質なので、この作品を取り上げずにはいられなくなった。
世は空前のペットブームと云われて久しい。子供(15歳未満)の数を犬猫の数が大きく上回っている現代では、各家庭に犬や猫がいるのは何ら珍しいことではない。集合住宅でもペットの飼育を許可するのは当たり前、認めなければ資産価値が落ちてしまう世の中である。
それもあってか、犬や猫を題材にした映画やテレビドラマは多い。
本作の本木克英監督も2008年に『犬と私の10の約束』を撮っているし、脚本の寺田敏雄氏はテレビドラマ『盲導犬クイールの一生』(2003年)や『ディロン 運命の犬』(2006年)とその続編(2006年)、続々編(2008年)を書いている。
しかし、私は思っていた。
盲導犬やセラピー犬の物語もいいけれど、そもそも一般家庭にとっては犬がいるだけで大事件のはずだと。
何しろ、食事をしたり、排泄したり、遊んだり暴れたりする存在が、ある日もう一人(一頭)増えるのだ。
人間用の家具や雑貨、人間に便利な間取りは、犬にとってはまったく違う意味を持つ。人間にとってスリッパは足に履くものだが、犬にとっては振り回して遊ぶ物かもしれない。人間にとって木製の椅子は座るためのものだろうが、犬にとっては歯が痒いときにかじるためのものかもしれない。仔犬がいたら、床にスリッパは置けないし、家具の配置替えだって必要だろう。
外出が長引いたら、人間は外食して済ませることもできるが、家に犬が待っているなら帰って食事させなければならない。
だから、犬が家にやってきたら、生活の仕方も、家のあり様も、犬中心に変えなければならない。
人間とは違う生き物を家族に迎えるのは、そういうことだ。
したがって、『まほろ駅前多田便利軒』のように、何の準備もなくチワワを預かったり、アパートで飼い始めたりするのは困難だ。本来、犬を飼うには「犬の飼い主検定試験」に合格するくらいの知識が必要なはずなのだから。
いや、現実には衝動買いや成り行きで飼い始めることもあるかもしれない。
そして、やっぱり面倒見切れないとなると、『犬と猫と人間と』で描かれるような悲しい事態が起こるのだろう。
現代の日本では、犬や猫(イエネコ)はほぼ完全に人間がコントロールしている生き物である。その善し悪しはともかく、人間の関知しないところで、野生の状態で生きるということはまずない。そのため、その生死も人間の行動の結果である。
2009年度に殺処分された犬猫の数は、犬65,956匹、猫173,300匹、計239,256匹にも上るが、彼らは野生の状態で捕獲されたわけではない。この膨大な数は、人間が持ち込んだり、手放したりした結果なのだ。
『犬を飼うということ ~スカイと我が家の180日~』が素晴らしいのは、「ペットと暮らす」という平凡でありながら当事者には大事件であることを、可愛さでごまかしたりせずに、等身大に描いている点だ。
「犬の排泄はどうしたらいいの?」
「保険に入っていない犬を病院で診てもらったらどういうことになるの?」
そんな基本的な部分から、犬のことを何も知らない家族の目を通して、きちんと描いている。
ファンタジー風味のドラマ『マルモのおきて』では、見知らぬ犬を部屋に1日中いさせながら何の苦労も生じていないが、多くの家庭にペットがいてその苦労を知っている現在、苦労のないことがファンタジーである。
食事や排泄等に気を使わなければ犬を飼えないことを示した『犬を飼うということ ~』は、たとえて云えば、ロボットアニメの歴史の中で『機動戦士ガンダム』がロボットに整備が必要なことを示した衝撃に似ている[*]。
そしてまた気付かされるのは、人間が犬や猫をほぼ完全にコントロールしている以上、犬や猫に関連して発生するトラブルは人間が原因だということだ。人間の配慮不足や躾不足が、近隣住民との軋轢の元となる。その点について、本作はかなり手厳しい。
主人公一家が面倒を見る犬・スカイツリーちゃんは、完璧に躾けられた子だ。決して無駄吠えしないし、そそうもしない。
犬を飼うことに反対する人は、しばしば「うるさいから」「汚れるから」といったことを理由に挙げるが、このドラマは、それらは犬のせいではなくて、静かにさせない、きれいにさせない人間が悪いことを示唆している。
もちろん、そんなに完璧には躾けられなくて悩んでいる飼い主も多いだろうけど、いずれにしろ諸々の問題は犬のトラブルではなく人間のトラブルなのである。
このように、本作は「犬を飼うということ」の細部まで目が配られていて、犬猫が子供よりも多い時代に即した作品だ。
そして本作が巧いのは、犬にまつわる問題を人間社会に投影し、犬への興味の有無に関係なく、誰もが共感したり、問題意識を抱けるエピソードに昇華させていることだ。
殺処分されそうな犬を助けようとする話では、会社を辞めさせられるロートルの問題に重ね合わせ、登場人物に「彼だけ助ければいいのか!?」という一番痛いセリフを叫ばせている。
ペット禁止の団地で犬を飼おうとする話では、子供の盗みに重ね合わせて、ルールとは何かを考えさせる。
それを、教条的にならず、テンポの良いホームドラマとして見せているので、犬に興味のない人でも、この家族の今後に目が離せないだろう。
本作の主人公の行きつけのバーの名は「CrossRoad」。主人公はここでいつも物想いに耽っている。
なかなか意味深長なネーミングである。
また、本作の楽しさの一つは、配役の妙だ。
錦戸亮さんと水川あさみさんは、小学生の両親を演じるには若すぎるのではないかと思ったが、不器用な夫と口うるさい妻がなかなか似合っている。
芸達者な吹越満さん、杉本哲太さん、泉谷しげるさんらも要所々々を押さえて流石である。
そして何より、スカイツリー役のポメラニアンがかわいい!
あぁ、やっぱり結論はそこか!
[*]主要キャラクターとして整備士が登場するロボットアニメとしては、『惑星ロボ ダンガードA』の先例がある。

監督/本木克英、遠藤光貴、橋伸之、木内麻由美 脚本/寺田敏雄
出演/錦戸亮 水川あさみ 田口淳之介 吹越満 杉本哲太 泉谷しげる 久家心 山崎竜太郎 武田航平 鹿沼憂妃 森脇英理子
放映日/2011年4月15日~6月10日
ジャンル/[ドラマ] [犬]


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『アメイジング・グレイス』 議会制でも暗し
【ネタバレ注意】
映画『アメイジング・グレイス』は、18世紀末から19世紀頭のイギリスを舞台に、ウィリアム・ウィルバーフォース議員が奴隷売買の廃止に尽力する物語である。
いや、「イギリスを舞台に」ではなく、ここは「イギリス議会を舞台に」と書きたい。本作の登場人物の多くは議員であり、主戦場は議会だ。「法廷物」の映画があるように、これは「議会物」とでも呼ぶべき作品である。
議会とは国の命運を決する重要な場だ。ここで真剣な戦いが繰り広げられなくて、どこで国の在り方を決めるというのか。なればこそ、議会を中心に据えた本作が面白くないはずがない。
本作は、奴隷の廃止に尽力する物語ではあるが、感動するようなヒューマンドラマではない。もちろん素晴らしいドラマであるし、感動する要素もあるのだが、観客の感情を揺さぶって泣かせようとはしていない。それよりも、映画の作り手が大事にしていることがあるのだ。
それは、正義への取り組みと、正義の実現を阻むものを明らかにすることだ。
奴隷制は忌むべき制度だ。とりわけ近世の奴隷貿易は、人類史において最もむごく、残酷なことの一つだろう。
アフリカで人間を買い付けて、遠く離れたアメリカ大陸へ運び、奴隷としてこき使う。約3世紀のあいだに1,000万人もの人々が、貿易の商品として輸出されたという。
そのため、アフリカの国々は衰え、運ばれた人々は苦難にあえぐことになった。それは今になっても解決していない。
本作の主人公ウィルバーフォース議員は、この恥ずべき行為を禁止しようとするのだが、彼が味わうのは挫折ばかりである。
この頃のイギリスは、 『ロビン・フッド』のように暗愚な王に振り回された時代ではない。国民の代表が法に則って選出され、議会において話し合う、議会制民主主義が確立していた。だからウィルバーフォースは、奴隷貿易のむごさを語る証拠を提示し、議会で弁舌を振るう。
にもかかわらず、奴隷制のような唾棄すべきものを、止めることができない。
なぜか?
各議員が、国民の代表だからだ。
議員とて人間だ。奴隷の悲惨さには眉をひそめるし、不衛生な奴隷船に近づけばハンカチで鼻を覆いたくなる。奴隷への仕打ちが人道的でないことは判る。
しかし、議員が議員たり得ているのは、彼らに投票した民衆がいるからだ。民衆の意に反したら、彼らは議席を失ってしまう。一個人として奴隷制のむごさを理解しても、有権者の利益にならないことはできないのだ。
そして、奴隷制が確立したのは、そこから生み出される利益があるからであり、その恩恵に浴する人々がいるからである。その人々が有権者である以上、制度を変えることはできない。
これが議会制民主主義の国ではなく、専制君主の治める国であったなら、君主が止めろと云えば奴隷制を廃止できただろう。君主一人を情にほだせば、問題は解決したかもしれない。
しかしかの国では、一人の君主の気まぐれで制度を改廃することは許されなかった。長い年月をかけて、そういう国を作ってきたのだ。
これが民主主義の限界だろう。
デモクラシーは、多くの場合「民主主義」と訳されるが、同時に「衆愚制」という意味もある。多くの人々の意見を集約したとき、そこに英知があるとは限らない。かえって、『アレクサンドリア』で描かれたように愚かな方向に暴走してしまうかもしれない。あるいは、雑多な意見の混交が国の進路を惑わせ、意思決定を遅らせるかもしれない。
本作の作り手は、そのことがよく判っているのだろう。奴隷解放に向けてのウィルバーフォースの貢献は大きいが、本作では必ずしも彼の演説が他党議員の心を動かすわけではない。元凶は、奴隷貿易の恩恵に浴する有権者たちであり、結局彼らを動かすのは経済的な事情だった。
本作がもしもハリウッド映画なら、主人公が議会で弁舌さわやかに演説し、傍聴人たちを感動させたことだろう。対立する議員は失脚し、退場しただろう。
しかし、これはイギリス映画だ。マイケル・アプテッド監督は、この作品をカタルシスを覚えるような娯楽作にはしなかった。安易に泣かせる映画にもしなかった。そんな風に扱う題材ではないからだ。
マイケル・アプテッド監督のこだわりがよく判る一つの例が、出演者を英国人で固めたことだ。
アプテッド監督は次のように語っている。
「私は英国人で、脚本家も英国人で、映画も英国史における偉大な瞬間を描いている。だから、キャストもイギリス人にすべきだと思った。」
イギリス人俳優たちは、自国がかつて行った奴隷貿易という歴史を背負いながら、デモクラシーの限界と、それでもデモクラシーの下でことを進めなければならない苦渋とを、表現している。
その様を見て、観客はイギリスの首相ウィンストン・チャーチルが述べた有名な言葉を思い出すだろう。
「これまでも多くの政治体制が試みられてきたし、またこれからも過ちと悲哀にみちたこの世界中で試みられていくだろう。民主主義が完全で賢明であると見せかけることは誰にも出来ない。実際のところ、民主主義は最悪の政治形態と言うことが出来る。これまでに試みられてきた民主主義以外のあらゆる政治形態を除けば、だが。」

映画の題名にもなっている『Amazing Grace』は、日本でも賛美歌第二編167番『われをもすくいし』あるいは聖歌229番『おどろくばかりの』として知られている。曲名だけではピンと来なくても、そのメロディーにはきっと聴き覚えがあるはずだ。
とはいえ、この歌を作詞したジョン・ニュートン牧師のことを、私はまった知らなかった。多くの国を流転し、奴隷船の船長を経て牧師となった彼の波乱に富んだ人生は、映画の中でも触れられるが、ウィリアム・ウィルバーフォースに劣らず興味深い物語である。
ジョン・ニュートン牧師の残した『Amazing Grace』は、賛美歌として歌い継がれるだけでなく、多くの歌手がカバーしている。
ここでは、私がいつも聴いているジュディ・コリンズの歌にリンクを張っておこう。
『アメイジング・グレイス』 [あ行]
監督/マイケル・アプテッド
出演/ヨアン・グリフィズ ロモーラ・ガライ ベネディクト・カンバーバッチ アルバート・フィニー ルーファス・シーウェル ユッスー・ンドゥール マイケル・ガンボン
日本公開/2011年3月5日
ジャンル/[ドラマ] [歴史劇]
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映画『アメイジング・グレイス』は、18世紀末から19世紀頭のイギリスを舞台に、ウィリアム・ウィルバーフォース議員が奴隷売買の廃止に尽力する物語である。
いや、「イギリスを舞台に」ではなく、ここは「イギリス議会を舞台に」と書きたい。本作の登場人物の多くは議員であり、主戦場は議会だ。「法廷物」の映画があるように、これは「議会物」とでも呼ぶべき作品である。
議会とは国の命運を決する重要な場だ。ここで真剣な戦いが繰り広げられなくて、どこで国の在り方を決めるというのか。なればこそ、議会を中心に据えた本作が面白くないはずがない。
本作は、奴隷の廃止に尽力する物語ではあるが、感動するようなヒューマンドラマではない。もちろん素晴らしいドラマであるし、感動する要素もあるのだが、観客の感情を揺さぶって泣かせようとはしていない。それよりも、映画の作り手が大事にしていることがあるのだ。
それは、正義への取り組みと、正義の実現を阻むものを明らかにすることだ。
奴隷制は忌むべき制度だ。とりわけ近世の奴隷貿易は、人類史において最もむごく、残酷なことの一つだろう。
アフリカで人間を買い付けて、遠く離れたアメリカ大陸へ運び、奴隷としてこき使う。約3世紀のあいだに1,000万人もの人々が、貿易の商品として輸出されたという。
そのため、アフリカの国々は衰え、運ばれた人々は苦難にあえぐことになった。それは今になっても解決していない。
本作の主人公ウィルバーフォース議員は、この恥ずべき行為を禁止しようとするのだが、彼が味わうのは挫折ばかりである。
この頃のイギリスは、 『ロビン・フッド』のように暗愚な王に振り回された時代ではない。国民の代表が法に則って選出され、議会において話し合う、議会制民主主義が確立していた。だからウィルバーフォースは、奴隷貿易のむごさを語る証拠を提示し、議会で弁舌を振るう。
にもかかわらず、奴隷制のような唾棄すべきものを、止めることができない。
なぜか?
各議員が、国民の代表だからだ。
議員とて人間だ。奴隷の悲惨さには眉をひそめるし、不衛生な奴隷船に近づけばハンカチで鼻を覆いたくなる。奴隷への仕打ちが人道的でないことは判る。
しかし、議員が議員たり得ているのは、彼らに投票した民衆がいるからだ。民衆の意に反したら、彼らは議席を失ってしまう。一個人として奴隷制のむごさを理解しても、有権者の利益にならないことはできないのだ。
そして、奴隷制が確立したのは、そこから生み出される利益があるからであり、その恩恵に浴する人々がいるからである。その人々が有権者である以上、制度を変えることはできない。
これが議会制民主主義の国ではなく、専制君主の治める国であったなら、君主が止めろと云えば奴隷制を廃止できただろう。君主一人を情にほだせば、問題は解決したかもしれない。
しかしかの国では、一人の君主の気まぐれで制度を改廃することは許されなかった。長い年月をかけて、そういう国を作ってきたのだ。
これが民主主義の限界だろう。
デモクラシーは、多くの場合「民主主義」と訳されるが、同時に「衆愚制」という意味もある。多くの人々の意見を集約したとき、そこに英知があるとは限らない。かえって、『アレクサンドリア』で描かれたように愚かな方向に暴走してしまうかもしれない。あるいは、雑多な意見の混交が国の進路を惑わせ、意思決定を遅らせるかもしれない。
本作の作り手は、そのことがよく判っているのだろう。奴隷解放に向けてのウィルバーフォースの貢献は大きいが、本作では必ずしも彼の演説が他党議員の心を動かすわけではない。元凶は、奴隷貿易の恩恵に浴する有権者たちであり、結局彼らを動かすのは経済的な事情だった。
本作がもしもハリウッド映画なら、主人公が議会で弁舌さわやかに演説し、傍聴人たちを感動させたことだろう。対立する議員は失脚し、退場しただろう。
しかし、これはイギリス映画だ。マイケル・アプテッド監督は、この作品をカタルシスを覚えるような娯楽作にはしなかった。安易に泣かせる映画にもしなかった。そんな風に扱う題材ではないからだ。
マイケル・アプテッド監督のこだわりがよく判る一つの例が、出演者を英国人で固めたことだ。
アプテッド監督は次のように語っている。
「私は英国人で、脚本家も英国人で、映画も英国史における偉大な瞬間を描いている。だから、キャストもイギリス人にすべきだと思った。」
イギリス人俳優たちは、自国がかつて行った奴隷貿易という歴史を背負いながら、デモクラシーの限界と、それでもデモクラシーの下でことを進めなければならない苦渋とを、表現している。
その様を見て、観客はイギリスの首相ウィンストン・チャーチルが述べた有名な言葉を思い出すだろう。
「これまでも多くの政治体制が試みられてきたし、またこれからも過ちと悲哀にみちたこの世界中で試みられていくだろう。民主主義が完全で賢明であると見せかけることは誰にも出来ない。実際のところ、民主主義は最悪の政治形態と言うことが出来る。これまでに試みられてきた民主主義以外のあらゆる政治形態を除けば、だが。」

映画の題名にもなっている『Amazing Grace』は、日本でも賛美歌第二編167番『われをもすくいし』あるいは聖歌229番『おどろくばかりの』として知られている。曲名だけではピンと来なくても、そのメロディーにはきっと聴き覚えがあるはずだ。
とはいえ、この歌を作詞したジョン・ニュートン牧師のことを、私はまった知らなかった。多くの国を流転し、奴隷船の船長を経て牧師となった彼の波乱に富んだ人生は、映画の中でも触れられるが、ウィリアム・ウィルバーフォースに劣らず興味深い物語である。
ジョン・ニュートン牧師の残した『Amazing Grace』は、賛美歌として歌い継がれるだけでなく、多くの歌手がカバーしている。
ここでは、私がいつも聴いているジュディ・コリンズの歌にリンクを張っておこう。
![アメイジング・グレイス [DVD]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/51G%2BpZ5sCoL._SL160_.jpg)
監督/マイケル・アプテッド
出演/ヨアン・グリフィズ ロモーラ・ガライ ベネディクト・カンバーバッチ アルバート・フィニー ルーファス・シーウェル ユッスー・ンドゥール マイケル・ガンボン
日本公開/2011年3月5日
ジャンル/[ドラマ] [歴史劇]


【theme : ヨーロッパ映画】
【genre : 映画】
tag : マイケル・アプテッドヨアン・グリフィズロモーラ・ガライベネディクト・カンバーバッチアルバート・フィニールーファス・シーウェルユッスー・ンドゥールマイケル・ガンボン
『孫文の義士団』 孫文は日比谷でカレーを食べる?
日比谷公園の中には、数軒のレストランが樹木の陰に隠れるように建っている。それぞれ木々や池に馴染んでおり、風情のある趣きである。
そのひとつ松本楼は、100年以上にわたってこの地にあり、2008年には福田康夫総理と胡錦濤国家主席の夕食会が開かれたことでも知られる。1階はハイカラビーフカレーが美味くて、昼時などいつも賑わっている。2階はフレンチレストランで、落ち着いた雰囲気の中、手頃な価格で料理を楽しめる。
この松本楼が日中首脳の夕食会の場に選ばれたのは、そこがかつて孫文も訪れた店だからだ。松本楼の創業者・小坂梅吉と姻戚関係にあった梅屋庄吉(うめや しょうきち)は、孫文の革命運動を援助し、また孫文の結婚にも尽力した。
映画『孫文の義士団』のエピソードに写真館の娘とのロマンスがあるが、奇しくも梅屋庄吉が孫文と知り合ったのも、庄吉が香港で写真館を営んでいるときだった。1895年のことである。
やがて帰国した庄吉は活動写真を事業とし、後に日本活動写真株式会社すなわち日活を設立している。そして映画事業等の収益を孫文らの革命運動の援助に注ぎ込み、その額は現在の貨幣価値で1兆円にも及んだという。
こんないきさつを知るならば、日本の映画ファンにとっても孫文は身近な存在となるだろう。
その孫文の名を織り込んだ『孫文の義士団』とは、なかなか巧い邦題である。
孫文は日本人にも馴染みがあるし、この邦題からは辛亥革命のころの激動の時代を背景としていることが判る。さらに、「義士団」は「義和団の乱」を連想させて、これまた動乱と戦いを予感させる。
そして、『イップ・マン 葉問』でも凄まじいアクションを披露したドニー・イェンがキャスティングされているのだ。否が応にも期待は高まる。
『孫文の義士団』の舞台は1906年、日本で革命勢力を統合した孫文は密かに香港に潜入し、武装蜂起の作戦会議に臨もうとする。これを清朝が見過ごすはずはなく、かくて清朝の暗殺団と孫文を守る義士たちの激しいが繰り広げられる(英題は「Bodyguards And Assassins」)。
このプロットを聞いただけでも、ワクワクしてくることだろう。
ところが、本作は全編アクションに次ぐアクション…ではない。待っても待ってもアクションシーンに突入せず、せっかく登場したドニー・イェンも木登りなんかしている。
けれでも、アクションを抑えた前半がまたいいのである。ワン・シュエチー演じる親父さんが、革命運動に共感しながらも、息子を運動に巻き込みたくない親心を演じて泣かせるのだ。本作は群像劇であるが、前半はアクションしないこの親父さんが完全に主人公といえよう。
そしてもちろん、後半は怒涛のアクションだ。香港の街を走る孫文たちを、暗殺者の群れが襲いかかる。
たった二人を町中が襲った『3時10分、決断のとき』の方が凄い、なんて云ってはいけない。こちらは銃の撃ち合いじゃなくて肉体を駆使したアクションなのだから。
このように『孫文の義士団』は緩急を付けながら飽きさせない映画だが、冒頭にいささか気になるセリフがある。革命運動家が民主主義について語る場面で、少数は多数に従うのが民主主義だと説くのだ。
これは当時の状勢を考えれば、運動家として当然の発言である。折しも世は西太后の時代、自分の国が他国に食い荒らされているのに、一部の階級が権力を握ったまま有効な手立てを打てずにいるのだ。映画の文脈としては、おかしな発言ではない。
しかし、この発言は同時に、多数を占める漢民族が少数民族を従わせれば良い、と聞こえなくもない。辛亥革命は必ずしも民族紛争とは云えないかもしれないが、漢民族の孫文たちが満州族の打ち立てた清朝を倒すという面があったのは事実である。
権力者が変われば前の王朝や政権を罵るのは世の常であり、そのうえ清朝は漢民族の王朝ではないだけに、映画などでは悪者扱いされるのかもしれない。本作の清朝の扱いのみならず、たとえば歴史アクションドラマの傑作『香港カンフー ドラゴン少林寺』も、明の流れを汲む人々が清朝と戦う物語であり、反清復明運動の肯定が前提であった。
とはいえ、本作が通り一遍の勧善懲悪に陥っていないのは、清朝側の暗殺者ヤン・シャオグオにも相応の信念があり、彼なりに礼儀をわきまえて行動するからだ。
そのヤン・シャオグオが、捕虜となった革命家チェン・シャオバイと交わす会話は興味深い。彼らの立場は異なるが、それは現体制か新体制か、帝政か共和制かを巡る違いではない。アジアに西洋文明を持ち込むか否かで彼らは対立するのだ。
たしかに、ここ数世紀は西洋文明が世界を席巻した。しかし、数十世紀にわたって大国であり続けた中国が、たかが数世紀のあいだリードしただけの西洋文明に組するのか。
本作の作り手は、ヤン・シャオグオとチェン・シャオバイの会話に明確な結論は与えていない。ただ、『イップ・マン 葉問』ほどには反西洋を強調しないものの、革命の遂行と西洋化が同義であると観客が受け取らないように、反西洋の視点もあることを提示するための会話だったように思える。そこに現代中国の国情を見るのはうがちすぎか。
文明の衝突について、金美徳氏は次のように述べている。
---
20世紀は西洋文明の時代であったとするならば、21世紀はアジア太平洋文明の時代だと考えている。西洋文明とアジア太平洋文明という2つの文明が激しくぶつかり合う一方、収斂されながら22世紀にはより普遍的な文明を生み出すであろう。
---
さて、松本楼では毎年9月25日にカレーを10円で振る舞ってくれる。長蛇の列は必至だが、嬉しいサービスである。
そこでは、孫文の夫人であり、中華人民共和国名誉主席でもある宋慶齢にゆかりのピアノ(国産第1号!)も見ることができる。
『孫文の義士団』 [さ行]
監督/テディ・チャン 制作/ピーター・チャン
アクション監督/トン・ワイ スタントコーディネーター/谷垣健治
出演/ドニー・イェン レオン・ライ ニコラス・ツェー ファン・ビンビン ワン・シュエチー レオン・カーフェイ フー・ジュン エリック・ツァン クリス・リー サイモン・ヤム
日本公開/2011年4月16日
ジャンル/[アクション] [サスペンス]
http://bookmarks.yahoo.co.jp/bookmarklet/showpopup?t='+encodeURIComponent(document.title)+'&u='+encodeURIComponent(location.href)+'&ei=UTF-8','_blank','width=550,height=480,left=100,top=50,scrollbars=1,resizable=1',0);">
そのひとつ松本楼は、100年以上にわたってこの地にあり、2008年には福田康夫総理と胡錦濤国家主席の夕食会が開かれたことでも知られる。1階はハイカラビーフカレーが美味くて、昼時などいつも賑わっている。2階はフレンチレストランで、落ち着いた雰囲気の中、手頃な価格で料理を楽しめる。
この松本楼が日中首脳の夕食会の場に選ばれたのは、そこがかつて孫文も訪れた店だからだ。松本楼の創業者・小坂梅吉と姻戚関係にあった梅屋庄吉(うめや しょうきち)は、孫文の革命運動を援助し、また孫文の結婚にも尽力した。
映画『孫文の義士団』のエピソードに写真館の娘とのロマンスがあるが、奇しくも梅屋庄吉が孫文と知り合ったのも、庄吉が香港で写真館を営んでいるときだった。1895年のことである。
やがて帰国した庄吉は活動写真を事業とし、後に日本活動写真株式会社すなわち日活を設立している。そして映画事業等の収益を孫文らの革命運動の援助に注ぎ込み、その額は現在の貨幣価値で1兆円にも及んだという。
こんないきさつを知るならば、日本の映画ファンにとっても孫文は身近な存在となるだろう。
その孫文の名を織り込んだ『孫文の義士団』とは、なかなか巧い邦題である。
孫文は日本人にも馴染みがあるし、この邦題からは辛亥革命のころの激動の時代を背景としていることが判る。さらに、「義士団」は「義和団の乱」を連想させて、これまた動乱と戦いを予感させる。
そして、『イップ・マン 葉問』でも凄まじいアクションを披露したドニー・イェンがキャスティングされているのだ。否が応にも期待は高まる。
『孫文の義士団』の舞台は1906年、日本で革命勢力を統合した孫文は密かに香港に潜入し、武装蜂起の作戦会議に臨もうとする。これを清朝が見過ごすはずはなく、かくて清朝の暗殺団と孫文を守る義士たちの激しいが繰り広げられる(英題は「Bodyguards And Assassins」)。
このプロットを聞いただけでも、ワクワクしてくることだろう。
ところが、本作は全編アクションに次ぐアクション…ではない。待っても待ってもアクションシーンに突入せず、せっかく登場したドニー・イェンも木登りなんかしている。
けれでも、アクションを抑えた前半がまたいいのである。ワン・シュエチー演じる親父さんが、革命運動に共感しながらも、息子を運動に巻き込みたくない親心を演じて泣かせるのだ。本作は群像劇であるが、前半はアクションしないこの親父さんが完全に主人公といえよう。
そしてもちろん、後半は怒涛のアクションだ。香港の街を走る孫文たちを、暗殺者の群れが襲いかかる。
たった二人を町中が襲った『3時10分、決断のとき』の方が凄い、なんて云ってはいけない。こちらは銃の撃ち合いじゃなくて肉体を駆使したアクションなのだから。
このように『孫文の義士団』は緩急を付けながら飽きさせない映画だが、冒頭にいささか気になるセリフがある。革命運動家が民主主義について語る場面で、少数は多数に従うのが民主主義だと説くのだ。
これは当時の状勢を考えれば、運動家として当然の発言である。折しも世は西太后の時代、自分の国が他国に食い荒らされているのに、一部の階級が権力を握ったまま有効な手立てを打てずにいるのだ。映画の文脈としては、おかしな発言ではない。
しかし、この発言は同時に、多数を占める漢民族が少数民族を従わせれば良い、と聞こえなくもない。辛亥革命は必ずしも民族紛争とは云えないかもしれないが、漢民族の孫文たちが満州族の打ち立てた清朝を倒すという面があったのは事実である。
権力者が変われば前の王朝や政権を罵るのは世の常であり、そのうえ清朝は漢民族の王朝ではないだけに、映画などでは悪者扱いされるのかもしれない。本作の清朝の扱いのみならず、たとえば歴史アクションドラマの傑作『香港カンフー ドラゴン少林寺』も、明の流れを汲む人々が清朝と戦う物語であり、反清復明運動の肯定が前提であった。
とはいえ、本作が通り一遍の勧善懲悪に陥っていないのは、清朝側の暗殺者ヤン・シャオグオにも相応の信念があり、彼なりに礼儀をわきまえて行動するからだ。
そのヤン・シャオグオが、捕虜となった革命家チェン・シャオバイと交わす会話は興味深い。彼らの立場は異なるが、それは現体制か新体制か、帝政か共和制かを巡る違いではない。アジアに西洋文明を持ち込むか否かで彼らは対立するのだ。
たしかに、ここ数世紀は西洋文明が世界を席巻した。しかし、数十世紀にわたって大国であり続けた中国が、たかが数世紀のあいだリードしただけの西洋文明に組するのか。
本作の作り手は、ヤン・シャオグオとチェン・シャオバイの会話に明確な結論は与えていない。ただ、『イップ・マン 葉問』ほどには反西洋を強調しないものの、革命の遂行と西洋化が同義であると観客が受け取らないように、反西洋の視点もあることを提示するための会話だったように思える。そこに現代中国の国情を見るのはうがちすぎか。
文明の衝突について、金美徳氏は次のように述べている。
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20世紀は西洋文明の時代であったとするならば、21世紀はアジア太平洋文明の時代だと考えている。西洋文明とアジア太平洋文明という2つの文明が激しくぶつかり合う一方、収斂されながら22世紀にはより普遍的な文明を生み出すであろう。
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さて、松本楼では毎年9月25日にカレーを10円で振る舞ってくれる。長蛇の列は必至だが、嬉しいサービスである。
そこでは、孫文の夫人であり、中華人民共和国名誉主席でもある宋慶齢にゆかりのピアノ(国産第1号!)も見ることができる。
![孫文の義士団 -ボディガード&アサシンズ- スペシャル・エディション [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/51%2BXBIQ1tiL._SL160_.jpg)
監督/テディ・チャン 制作/ピーター・チャン
アクション監督/トン・ワイ スタントコーディネーター/谷垣健治
出演/ドニー・イェン レオン・ライ ニコラス・ツェー ファン・ビンビン ワン・シュエチー レオン・カーフェイ フー・ジュン エリック・ツァン クリス・リー サイモン・ヤム
日本公開/2011年4月16日
ジャンル/[アクション] [サスペンス]


【theme : アクション映画】
【genre : 映画】
tag : テディ・チャンピーター・チャンドニー・イェンレオン・ライニコラス・ツェーファン・ビンビンワン・シュエチーレオン・カーフェイフー・ジュンエリック・ツァン
『エンジェル ウォーズ』 それは金田伊功からはじまった
【ネタバレ注意】
『エンジェル ウォーズ』なんて可愛げな邦題が付いているが、原題は「Sucker Punch」。「不意打ちの一発」といった意味だろうか。
ザック・スナイダー監督は、この題名には二つの意味があると述べている。
一つは、映画の構造に関して。まぁ、観客は意表を衝かれるというよりも、スナイダー監督の云う「マシンガンを持った『不思議の国のアリス』」の現実離れした展開に唖然とするかもしれない。
とはいえ、たしかに冒頭のモノローグを誰がどのような意図で語っているのか、その時点では判らないから、複雑な構造であるとは云えよう。
もう一つは、まだ幼げなベイビードールが、可愛い顔立ちに似合わず派手なアクションをすることだ。
これは欧米の観客には新鮮さがあるかもしれない。カートゥーンのキャラクターはともかくとして、一般的に戦うヒロインは『エイリアン』シリーズのシガーニー・ウィーヴァーや、『ソルト』のアンジェリーナ・ジョリーのように、男勝りのごつい姐御だ。
しかし、少なくとも日本の観客にとって、ベイビードールのようなキャラクターはさして珍しくもない。「kawaii」という語の発祥の地である日本では、まだあどけない少女が活躍するアクション物はいくらでもある。
『エンジェル ウォーズ』には、日本の観客には見なれた要素が詰まっているのだ。
日本でそのパターンが確立されたのは、『うる星やつら』あたりからだろうか。
男性主人公の添え物ではなく、さりとて魔女っ子でもない少女たちが、スーパーパワーを発揮して物語の中核になっていった。電撃娘のラムちゃんや、怪力女のしのぶが人気を博し、『プロジェクトA子』(1986年)等を経て、この路線はすっかり定着した。今にして思えば、これが萌えキャラの黎明期だったのだろう。
一方、米国ではフェミニズムの影響もあって、女性が戦う映画が登場していた。『グロリア』(1980年)の頃はまだ珍しかったように思うが、ダイバーシティーに積極的に取り組むジェームズ・キャメロン監督が『エイリアン2』(1986年)や『ターミネーター2』(1991年)等を大ヒットさせて、戦う女性をエンターテインメントの本流に持っていった。
こうして日米で戦うヒロインが大量生産されたわけだが、米国のヒロインには「萌え」の要素がなかった。タフな成人女性が男に伍して戦うことが多かった。
逆にこども店長のような幼いキャラクターが受けてしまう日本の現状を指して、日本人の幼稚化と見る人もいる。
しかし、日本のカワイイものは世界を席巻し、とうとう萌えキャラがハリウッド映画のヒロインになった。
『エンジェル ウォーズ』はセーラー服にミニスカートの少女が戦う物語であり、その仲間たちの武器にはハートマークやウサギのプリントが施してある。
『キック・アス』において幼いヒット・ガールが悪党を倒すことには、まだ風刺的な意味もあったが、本作は風刺するつもりなんてさらさらない。
『プロジェクトA子』の公開当時、宮崎駿氏は「セーラー服が機関銃撃って走り回っているアニメーションを作っていちゃダメなんです。」と発言したそうだが、今ではそんな映画をハリウッドが8,200万ドルかけて作るようになった。ことの良し悪しはさておき、日本の子供っぽさ、幼児性が世界に広まりつつあるのだ。
もっとも、公式サイトによれば、ザック・スナイダー監督のインスピレーションの元は幻想美術や「HEAVY METAL」誌だそうで、日本のマンガやアニメは挙げられていない。
それでも同じことである。村上隆氏のアニメ的な作品がベルサイユ宮殿に展示され、米国のマンガが日本のマンガ・アニメの影響を濃厚に受けている現代では、直接日本の作品に触れなくたって、その影響からは逃れられない。
本作の衣装を担当したマイケル・ウィルキンソンは、様々な資料を参考にしたそうだが、そこにも日本のマンガやアニメの影響はあったことだろう。
特に私が注目するのは、萌え的な要素ではなくアクションだ。
『マトリックス』の成功以来、アクションシーンは変わった。現実にはあり得ない静止状態からの急な動作や、実写では撮影できない角度からのポーズ等が、CGIの力を借りて多用された。
昨年公開された『バイオハザードIV アフターライフ』もそんな一作だ。『マトリックス』と同じようなアクションを3Dで見せた点において、『バイオハザードIV アフターライフ』は興味深かった。しかし、いくら『マトリックス』のアクションに近づけたところで、はじめて『マトリックス』を観たときの面白さや興奮にはかなわない。『マトリックス』を目標に置く限り、『マトリックス』を超えられるはずがない。
では、その『マトリックス』は何を目標に作られたのか。
他国の映画ファンならいざ知らず、日本の観客は『マトリックス』を観て、こう叫んだはずだ。
「金田アクションが実写になった!」
『マトリックス』の凄いところは、不世出のアニメーター金田伊功(かなだ よしのり)氏のアクションを忠実に実写化したことだろう。現実にはあり得ない静止状態からの急な動作や、パースのついた独特のポーズ等、金田伊功氏の描くアニメは時代を画すものだった。
その素晴らしさは、私がここで繰り返すまでもなかろう。金田氏は数多の追随者を生みだし、多くの作品に足跡を残した。
『マトリックス』と『バイオハザードIV アフターライフ』の違いは、『マトリックス』のウォシャウスキー兄弟が間違いなく金田アクションを目指して映像を作ったのに対し、『バイオハザードIV アフターライフ』のポール・W・S・アンダーソン監督の念頭には『マトリックス』を超える映像がなかったということだ。
そして、制約なきアクションを目指したザック・スナイダー監督は、『マトリックス』以上に金田アクションに迫った。
『マトリックス』にはなかった萌え的な要素も取り入れ、これまで以上に日本のアニメに迫るのがザック・スナイダー監督の魂胆だろう。
アニメーションならではの動きを実写で再現するには、観客に向けた何らかの云いわけが必要になる。そうしなければ、実写としては不自然に感じられるからだ。それが、『マトリックス』では仮想世界を舞台にすることだった。『エンジェル ウォーズ』は、空想の世界を舞台にしている。
これにより、少しぐらい物理法則を無視したり、時間の流れを歪めても、文句を付けられることはなくなった。思う存分、タメからの急な動作や、パースのついた独特のポーズを描けるのだ。
ザック・スナイダー監督は楽しくて仕方ないだろう。ドラゴンの鼻先で少女がゆっくり宙を舞ったり、日本刀のアップを舐めるように映してから全景に転じたり、日本のアニメ独特の誇張された動きを、見事に再現している。
金田伊功氏は惜しくも2009年に亡くなられたが、氏の編み出した流儀は世界に広まり、今も多くのクリエイターを刺激しているのだ。
『エンジェル ウォーズ』 [あ行]
監督・原案・制作・脚本/ザック・スナイダー 脚本/スティーヴ・シブヤ
出演/エミリー・ブラウニング アビー・コーニッシュ ジェナ・マローン ヴァネッサ・ハジェンズ ジェイミー・チャン オスカー・アイザック カーラ・グギーノ ジョン・ハム スコット・グレン
日本公開/2011年4月15日
ジャンル/[アクション] [ファンタジー]
『エンジェル ウォーズ』なんて可愛げな邦題が付いているが、原題は「Sucker Punch」。「不意打ちの一発」といった意味だろうか。
ザック・スナイダー監督は、この題名には二つの意味があると述べている。
一つは、映画の構造に関して。まぁ、観客は意表を衝かれるというよりも、スナイダー監督の云う「マシンガンを持った『不思議の国のアリス』」の現実離れした展開に唖然とするかもしれない。
とはいえ、たしかに冒頭のモノローグを誰がどのような意図で語っているのか、その時点では判らないから、複雑な構造であるとは云えよう。
もう一つは、まだ幼げなベイビードールが、可愛い顔立ちに似合わず派手なアクションをすることだ。
これは欧米の観客には新鮮さがあるかもしれない。カートゥーンのキャラクターはともかくとして、一般的に戦うヒロインは『エイリアン』シリーズのシガーニー・ウィーヴァーや、『ソルト』のアンジェリーナ・ジョリーのように、男勝りのごつい姐御だ。
しかし、少なくとも日本の観客にとって、ベイビードールのようなキャラクターはさして珍しくもない。「kawaii」という語の発祥の地である日本では、まだあどけない少女が活躍するアクション物はいくらでもある。
『エンジェル ウォーズ』には、日本の観客には見なれた要素が詰まっているのだ。
日本でそのパターンが確立されたのは、『うる星やつら』あたりからだろうか。
男性主人公の添え物ではなく、さりとて魔女っ子でもない少女たちが、スーパーパワーを発揮して物語の中核になっていった。電撃娘のラムちゃんや、怪力女のしのぶが人気を博し、『プロジェクトA子』(1986年)等を経て、この路線はすっかり定着した。今にして思えば、これが萌えキャラの黎明期だったのだろう。
一方、米国ではフェミニズムの影響もあって、女性が戦う映画が登場していた。『グロリア』(1980年)の頃はまだ珍しかったように思うが、ダイバーシティーに積極的に取り組むジェームズ・キャメロン監督が『エイリアン2』(1986年)や『ターミネーター2』(1991年)等を大ヒットさせて、戦う女性をエンターテインメントの本流に持っていった。
こうして日米で戦うヒロインが大量生産されたわけだが、米国のヒロインには「萌え」の要素がなかった。タフな成人女性が男に伍して戦うことが多かった。
逆にこども店長のような幼いキャラクターが受けてしまう日本の現状を指して、日本人の幼稚化と見る人もいる。
しかし、日本のカワイイものは世界を席巻し、とうとう萌えキャラがハリウッド映画のヒロインになった。
『エンジェル ウォーズ』はセーラー服にミニスカートの少女が戦う物語であり、その仲間たちの武器にはハートマークやウサギのプリントが施してある。
『キック・アス』において幼いヒット・ガールが悪党を倒すことには、まだ風刺的な意味もあったが、本作は風刺するつもりなんてさらさらない。
『プロジェクトA子』の公開当時、宮崎駿氏は「セーラー服が機関銃撃って走り回っているアニメーションを作っていちゃダメなんです。」と発言したそうだが、今ではそんな映画をハリウッドが8,200万ドルかけて作るようになった。ことの良し悪しはさておき、日本の子供っぽさ、幼児性が世界に広まりつつあるのだ。
もっとも、公式サイトによれば、ザック・スナイダー監督のインスピレーションの元は幻想美術や「HEAVY METAL」誌だそうで、日本のマンガやアニメは挙げられていない。
それでも同じことである。村上隆氏のアニメ的な作品がベルサイユ宮殿に展示され、米国のマンガが日本のマンガ・アニメの影響を濃厚に受けている現代では、直接日本の作品に触れなくたって、その影響からは逃れられない。
本作の衣装を担当したマイケル・ウィルキンソンは、様々な資料を参考にしたそうだが、そこにも日本のマンガやアニメの影響はあったことだろう。
特に私が注目するのは、萌え的な要素ではなくアクションだ。
『マトリックス』の成功以来、アクションシーンは変わった。現実にはあり得ない静止状態からの急な動作や、実写では撮影できない角度からのポーズ等が、CGIの力を借りて多用された。
昨年公開された『バイオハザードIV アフターライフ』もそんな一作だ。『マトリックス』と同じようなアクションを3Dで見せた点において、『バイオハザードIV アフターライフ』は興味深かった。しかし、いくら『マトリックス』のアクションに近づけたところで、はじめて『マトリックス』を観たときの面白さや興奮にはかなわない。『マトリックス』を目標に置く限り、『マトリックス』を超えられるはずがない。
では、その『マトリックス』は何を目標に作られたのか。
他国の映画ファンならいざ知らず、日本の観客は『マトリックス』を観て、こう叫んだはずだ。
「金田アクションが実写になった!」
『マトリックス』の凄いところは、不世出のアニメーター金田伊功(かなだ よしのり)氏のアクションを忠実に実写化したことだろう。現実にはあり得ない静止状態からの急な動作や、パースのついた独特のポーズ等、金田伊功氏の描くアニメは時代を画すものだった。
その素晴らしさは、私がここで繰り返すまでもなかろう。金田氏は数多の追随者を生みだし、多くの作品に足跡を残した。
『マトリックス』と『バイオハザードIV アフターライフ』の違いは、『マトリックス』のウォシャウスキー兄弟が間違いなく金田アクションを目指して映像を作ったのに対し、『バイオハザードIV アフターライフ』のポール・W・S・アンダーソン監督の念頭には『マトリックス』を超える映像がなかったということだ。
そして、制約なきアクションを目指したザック・スナイダー監督は、『マトリックス』以上に金田アクションに迫った。
『マトリックス』にはなかった萌え的な要素も取り入れ、これまで以上に日本のアニメに迫るのがザック・スナイダー監督の魂胆だろう。
アニメーションならではの動きを実写で再現するには、観客に向けた何らかの云いわけが必要になる。そうしなければ、実写としては不自然に感じられるからだ。それが、『マトリックス』では仮想世界を舞台にすることだった。『エンジェル ウォーズ』は、空想の世界を舞台にしている。
これにより、少しぐらい物理法則を無視したり、時間の流れを歪めても、文句を付けられることはなくなった。思う存分、タメからの急な動作や、パースのついた独特のポーズを描けるのだ。
ザック・スナイダー監督は楽しくて仕方ないだろう。ドラゴンの鼻先で少女がゆっくり宙を舞ったり、日本刀のアップを舐めるように映してから全景に転じたり、日本のアニメ独特の誇張された動きを、見事に再現している。
金田伊功氏は惜しくも2009年に亡くなられたが、氏の編み出した流儀は世界に広まり、今も多くのクリエイターを刺激しているのだ。
![エンジェル・ウォーズ (原題: SUCKER PUNCH) [DVD]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/51G%2Bm8yZSqL._SL160_.jpg)
監督・原案・制作・脚本/ザック・スナイダー 脚本/スティーヴ・シブヤ
出演/エミリー・ブラウニング アビー・コーニッシュ ジェナ・マローン ヴァネッサ・ハジェンズ ジェイミー・チャン オスカー・アイザック カーラ・グギーノ ジョン・ハム スコット・グレン
日本公開/2011年4月15日
ジャンル/[アクション] [ファンタジー]

【theme : 特撮・SF・ファンタジー映画】
【genre : 映画】
tag : ザック・スナイダーエミリー・ブラウニングアビー・コーニッシュジェナ・マローンヴァネッサ・ハジェンズジェイミー・チャンオスカー・アイザックカーラ・グギーノジョン・ハムスコット・グレン
『オーズ・電王・オールライダー レッツゴー仮面ライダー』 私たちが忘れがちなこと
【ネタバレ注意】
歴代の仮面ライダーが集結したくらいじゃ驚かないぞ。『オーズ・電王・オールライダー レッツゴー仮面ライダー』を観るまでそう思っていた。
しかし、何の予備知識もなしに映画館へ足を運んだ私は、ものの見事に驚かされてしまった。
私は昔からアメコミのクロスオーバーの企画を羨ましく思っていた。
スパイダーマンとハルクが共演したり、X-メンの物語が複数の誌面にわたって展開されたりするのが、実に楽しそうだったからだ。マーベル・コミックスのヒーローたちや、DCコミックスのヒーローたちがそれぞれチームを結成するのも、ヒーローの抱き合わせ販売に見えなくもないものの、それでスケールの大きな物語を楽しめるなら喜ぶべきことだと思う。
さらにはマーベルのヒーローたちとDCのヒーローたちが共演するに至っては、鼻血が出そうなほど興奮した。
それもこれも、著作権を書き手個人が持つのではなく、出版社が有するというアメコミ事情によるわけだが、私は常々日本でも同じような共演ができないものかと思っていた。
そのような例がないわけではない。永井豪氏や松本零士氏らは自作マンガでクロスオーバーに近いことをしてきたし、ゲームではマンガやアニメのヒーローが共演するものもあった。
しかし、マーベルやDCは出版社ぐるみで取り組むのでスケールが違う。
もしも、ある月の少年ジャンプとヤングジャンプの連載マンガすべてが一つの大事件に取り組んだり、その解決編が月刊少年ジャンプまるまる一冊使って描かれたりしたら、やっぱり鼻血が出そうになると思うんだな。
長年そんなことを考えていたので、円谷プロや東映の取り組みにはワクワクした。
特に、先ごろ公開された『ウルトラマンゼロ THE MOVIE』が、遂にウルトラシリーズの枠を越えて、円谷プロのヒーロー集合への足がかりを作ったのは注目に値しよう。
東映も、これまでスーパー戦隊のクロスオーバーや仮面ライダーシリーズのクロスオーバーは何度も描いてきた。
しかし、『オーズ・電王・オールライダー レッツゴー仮面ライダー』は、東映創立60周年記念作品の第1弾だ。これまでと同程度のクロスオーバーでは、作り手も受け手も納得しないだろう。
だから、歴代ライダーが続々登場するばかりではなく、キカイダーと01とイナズマンと快傑ズバットまで現れたのは嬉しかった。『人造人間ハカイダー』なんて映画はあったものの、キカイダーやイナズマンたちが昔の姿のままスクリーンに登場するのは30年以上なかったことである。残念ながら、ライダーと共闘するアクションシーンはなかったけれど、その雄姿を見られただけで感涙ものである。
国連での会議もふるっている。
ショッカーやデルザー軍団やクライシス帝国等の悪の組織の集まりが国連とは、最高である。
クライマックスも、またぞろキングダークとの闘いかと見せかけて、それがフェイントと判ったときにはニヤリとした。そうそう、キングダークなんかまだまだ小物なんである。
そのクライマックスは、まるで成井紀郎氏のマンガ『7大巨獣をたおせ! 決死戦7大ライダー』で、阿蘇山のエネルギーを使って地の底から大魔人が復活したときのような迫力である。
なんだか、部分的なシークエンスばかり取り上げて恐縮だが、東映創立60周年記念と仮面ライダー生誕40周年記念のお祭り映画なんだから、枝葉が賑わっていればいいのである。
本作の根幹となる点に着目すれば、クロスオーバーを実現する手法のユニークさだろう。
『仮面ライダーディケイド』が各ライダーの宇宙を横断する物語だったように、あるいは『ウルトラマンゼロ THE MOVIE』がウルトラマンとは異なるヒーローが存在する別の宇宙へ旅したように、複数のヒーローの世界を並存させるためには、多元宇宙(マルチバース)の考え方を採用することが多い。我々の宇宙(ユニバース)にすべてのヒーローが同時に存在すると考えると、数々の矛盾が生じるためである。これは、アメコミの手法に倣ったものだろう。
ところが本作では、新旧の仮面ライダーを登場させるために、時間旅行を仲立ちとした。
1971年に『仮面ライダー』第1作の放映が開始されたわけだが、この仮面ライダーの活躍を1971年の歴史的事実として位置付け、タイムマシンであるデンライナーを介してNEW電王やオーズたちが2011年から時間旅行する。旅した先は1971年11月11日、ドクダリアンやアルマジロングが暴れていた頃である。
こうすることで、『仮面ライダー』の世界と『仮面ライダーオーズ/OOO』の世界の双方を描いているのだ。
もっとも、時間旅行によって噴出するタイムパラドックスを、作り手は回避するつもりがない。
それどころか、V3以降のライダーがなぜ存在するのか、キカイダーやイナズマンたちがどこから来たのか、まともな説明はなされない。
しかし、それでもいいのだ。本作はストーリーテリングの巧みさを楽しむ作品でない。
そこにあるのは、1971年から始まった『仮面ライダー』への強烈なリスペクトであり、『仮面ライダー』に熱中したかつての子供たち(今のお父さんたち)と『仮面ライダーオーズ/OOO』を楽しむ現代の子供たちの懸け橋になろうとする意欲である。
だからこそ、本作は少年仮面ライダー隊のナオキとミツルの後日談をも兼ねるのだ。
そして、最後に見せる仮面ライダーの大爆走は、ややもすれば忘れがちなこと、彼らは「ライダー=バイク乗り」であることを再認識させてくれる。
『オーズ・電王・オールライダー レッツゴー仮面ライダー』 [あ行]
監督/金田治
出演/渡部秀 桜田通 三浦涼介 高田里穂 桐山漣 菅田将暉 秋山莉奈 石丸謙二郎 福本清三 ささきいさお
声の出演/藤岡弘 佐々木剛 宮内洋 納谷悟朗 柴田秀勝 加藤精三 飯塚昭三
日本公開/2011年4月1日
ジャンル/[特撮] [アクション] [ヒーロー]
映画ブログ
歴代の仮面ライダーが集結したくらいじゃ驚かないぞ。『オーズ・電王・オールライダー レッツゴー仮面ライダー』を観るまでそう思っていた。
しかし、何の予備知識もなしに映画館へ足を運んだ私は、ものの見事に驚かされてしまった。
私は昔からアメコミのクロスオーバーの企画を羨ましく思っていた。
スパイダーマンとハルクが共演したり、X-メンの物語が複数の誌面にわたって展開されたりするのが、実に楽しそうだったからだ。マーベル・コミックスのヒーローたちや、DCコミックスのヒーローたちがそれぞれチームを結成するのも、ヒーローの抱き合わせ販売に見えなくもないものの、それでスケールの大きな物語を楽しめるなら喜ぶべきことだと思う。
さらにはマーベルのヒーローたちとDCのヒーローたちが共演するに至っては、鼻血が出そうなほど興奮した。
それもこれも、著作権を書き手個人が持つのではなく、出版社が有するというアメコミ事情によるわけだが、私は常々日本でも同じような共演ができないものかと思っていた。
そのような例がないわけではない。永井豪氏や松本零士氏らは自作マンガでクロスオーバーに近いことをしてきたし、ゲームではマンガやアニメのヒーローが共演するものもあった。
しかし、マーベルやDCは出版社ぐるみで取り組むのでスケールが違う。
もしも、ある月の少年ジャンプとヤングジャンプの連載マンガすべてが一つの大事件に取り組んだり、その解決編が月刊少年ジャンプまるまる一冊使って描かれたりしたら、やっぱり鼻血が出そうになると思うんだな。
長年そんなことを考えていたので、円谷プロや東映の取り組みにはワクワクした。
特に、先ごろ公開された『ウルトラマンゼロ THE MOVIE』が、遂にウルトラシリーズの枠を越えて、円谷プロのヒーロー集合への足がかりを作ったのは注目に値しよう。
東映も、これまでスーパー戦隊のクロスオーバーや仮面ライダーシリーズのクロスオーバーは何度も描いてきた。
しかし、『オーズ・電王・オールライダー レッツゴー仮面ライダー』は、東映創立60周年記念作品の第1弾だ。これまでと同程度のクロスオーバーでは、作り手も受け手も納得しないだろう。
だから、歴代ライダーが続々登場するばかりではなく、キカイダーと01とイナズマンと快傑ズバットまで現れたのは嬉しかった。『人造人間ハカイダー』なんて映画はあったものの、キカイダーやイナズマンたちが昔の姿のままスクリーンに登場するのは30年以上なかったことである。残念ながら、ライダーと共闘するアクションシーンはなかったけれど、その雄姿を見られただけで感涙ものである。
国連での会議もふるっている。
ショッカーやデルザー軍団やクライシス帝国等の悪の組織の集まりが国連とは、最高である。
クライマックスも、またぞろキングダークとの闘いかと見せかけて、それがフェイントと判ったときにはニヤリとした。そうそう、キングダークなんかまだまだ小物なんである。
そのクライマックスは、まるで成井紀郎氏のマンガ『7大巨獣をたおせ! 決死戦7大ライダー』で、阿蘇山のエネルギーを使って地の底から大魔人が復活したときのような迫力である。
なんだか、部分的なシークエンスばかり取り上げて恐縮だが、東映創立60周年記念と仮面ライダー生誕40周年記念のお祭り映画なんだから、枝葉が賑わっていればいいのである。
本作の根幹となる点に着目すれば、クロスオーバーを実現する手法のユニークさだろう。
『仮面ライダーディケイド』が各ライダーの宇宙を横断する物語だったように、あるいは『ウルトラマンゼロ THE MOVIE』がウルトラマンとは異なるヒーローが存在する別の宇宙へ旅したように、複数のヒーローの世界を並存させるためには、多元宇宙(マルチバース)の考え方を採用することが多い。我々の宇宙(ユニバース)にすべてのヒーローが同時に存在すると考えると、数々の矛盾が生じるためである。これは、アメコミの手法に倣ったものだろう。
ところが本作では、新旧の仮面ライダーを登場させるために、時間旅行を仲立ちとした。
1971年に『仮面ライダー』第1作の放映が開始されたわけだが、この仮面ライダーの活躍を1971年の歴史的事実として位置付け、タイムマシンであるデンライナーを介してNEW電王やオーズたちが2011年から時間旅行する。旅した先は1971年11月11日、ドクダリアンやアルマジロングが暴れていた頃である。
こうすることで、『仮面ライダー』の世界と『仮面ライダーオーズ/OOO』の世界の双方を描いているのだ。
もっとも、時間旅行によって噴出するタイムパラドックスを、作り手は回避するつもりがない。
それどころか、V3以降のライダーがなぜ存在するのか、キカイダーやイナズマンたちがどこから来たのか、まともな説明はなされない。
しかし、それでもいいのだ。本作はストーリーテリングの巧みさを楽しむ作品でない。
そこにあるのは、1971年から始まった『仮面ライダー』への強烈なリスペクトであり、『仮面ライダー』に熱中したかつての子供たち(今のお父さんたち)と『仮面ライダーオーズ/OOO』を楽しむ現代の子供たちの懸け橋になろうとする意欲である。
だからこそ、本作は少年仮面ライダー隊のナオキとミツルの後日談をも兼ねるのだ。
そして、最後に見せる仮面ライダーの大爆走は、ややもすれば忘れがちなこと、彼らは「ライダー=バイク乗り」であることを再認識させてくれる。

監督/金田治
出演/渡部秀 桜田通 三浦涼介 高田里穂 桐山漣 菅田将暉 秋山莉奈 石丸謙二郎 福本清三 ささきいさお
声の出演/藤岡弘 佐々木剛 宮内洋 納谷悟朗 柴田秀勝 加藤精三 飯塚昭三
日本公開/2011年4月1日
ジャンル/[特撮] [アクション] [ヒーロー]
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【theme : オーズ・電王・オールライダー レッツゴー仮面ライダー】
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