『ヒア アフター』 ボーナスはないものと思え!
私は世事にうといので、小田嶋隆氏のコラムではじめて「パワースポット」なるものがはやっていたことを知った。2010年のことである。
パワースポット――敢えて訳せば「力のある観光地」となるだろうか。パワーユーザーが一般ユーザーよりも高い権限を持っているように、パワースポットは一般の観光地よりも多くの特典に恵まれていそうなものだが、パワースポットとして具体的に挙げられるのは神社仏閣や霊場、聖地のたぐいである。
平たく云えば、昔ながらの観光地を改めて売り込むために、カタカナ語で化粧し直したものらしい。ここでいう「パワー」とは、「霊能力」とでも捉えれば良いだろうか。
小田嶋隆氏はコラムの中で商売上手なパワースポットを批判した挙句、こんなものにマジで反応するのは大人げないのだろうか、と自問自答している。
---
違うぞ。われわれのような大人が全力をあげて大マジメに否定しないから、詐欺的な霊能商法を展開するヤカラが湧いて出て来る、と、そういうふうに考えなければならない。
---
霊能商法を大マジメに否定している人もいる。
堤幸彦監督は『20世紀少年』や『トリック』で霊能商法をけちょんけちょんにやっつけている。だが、それらのヒットにもかかわらず、霊能商法は一向に絶えないのだから、なかなかしぶといものである。
『ヒア アフター』も、大人が大マジメに霊能商法を取り上げた作品だ。
本作で愉快なのは、ぞろぞろと登場する霊能力者たちである。
ある者は虚空を見つめながら聴衆に向かって「Jで始まる名に心当たりはありますか」と問いかける。英語圏で「Jで始まる名前」といえば、ヤコブ(Jacob)にちなんだジェームズやジャック等、極めて一般的である。聴衆が何人かいれば、必ず誰かが手を挙げるに決まっている。
またある者はトランス状態を装って喋り出し、ある者はあの世と交信する機械を操る。
映画のスクリーンを通して客観的に様子を眺める我々には、劇中の子供がバカバカしくなって立ち去る気持ちもよく判る。
1999年の『シックス・センス』の大ヒット以来、霊やあの世を題材に、映画やテレビドラマが続々と作られてきた。
しかし『ヒア アフター』は、霊能力で事件を解決したりはしない。それどころか、もしも霊能力があっても人は幸せになりはしないと訴える。
本作の主人公ジョージは、本物の霊能力者という設定だ。
ここが本作の巧いところだ。
『20世紀少年』や『トリック』のように頭から霊能力を否定してかかっては、もともと否定的な見解を持つ人には受けるものの、霊能力を信じている人には避けられてしまう。
『ヒア アフター』は霊能力そのものを否定するようなことはしない。霊能力や死後の世界があると考える人の側に立ち、そういう考えもあることをまずは肯定する。
その上で、もしも本当に霊能力を持つ人がいたら、その人は霊能力で商売をしたりメディアに登場したりしないで、ひっそり暮らすことを望むはずだと語りかける。
キャスティングも洒落が効いている。
主人公ジョージの兄を演じるジェイ・モーアは、テレビドラマ『ゴースト ~天国からのささやき』の出演者だ。そこでは、霊能力者に協力し、霊が絡んだ事件の解決にあたる学者役だった。
そのジェイ・モーアが、本作ではジョージを霊能力者として売り出して食い物にしようと企む兄貴を演じるのだから、なかなかユーモアのあるキャスティングだ。
本作に関して、クリント・イーストウッド監督は次のように述べている。
--
「人は与えられた人生を精一杯生きるべき。そのあとに、もし死後の世界というものがあるとすれば、それはいわばボーナスみたいなものさ」
――月刊シネコンウォーカー No.062/2011年2月12日発行
---
ボーナスというと、日本のサラリーマンはきちんきちんと年に2回貰えるものだと思いかねないが、本来ボーナスとは 特別手当、思いもかけぬ贈り物のことである。はなからそんなものを期待して生活することはできない。
『ヒア アフター』で描かれるのは、目には見えない世界や、目に見えない力ではなく、いま目の前にいる人と手を取り合う大切さだ。
それに勝るものはない。
ヒア アフター(Hereafter)とは、「来世」「あの世」を意味するとともに、「今後」「将来」のことでもある。
『ヒア アフター』 [は行]
監督・制作/クリント・イーストウッド
脚本・制作総指揮/ピーター・モーガン
出演/マット・デイモン セシル・ドゥ・フランス フランキー・マクラレン ジョージ・マクラレン ブライス・ダラス・ハワード ジェイ・モーア ティエリー・ヌーヴィック
日本公開/2011年2月19日
ジャンル/[ドラマ] [ファンタジー] [ロマンス]
http://bookmarks.yahoo.co.jp/bookmarklet/showpopup?t='+encodeURIComponent(document.title)+'&u='+encodeURIComponent(location.href)+'&ei=UTF-8','_blank','width=550,height=480,left=100,top=50,scrollbars=1,resizable=1',0);">
パワースポット――敢えて訳せば「力のある観光地」となるだろうか。パワーユーザーが一般ユーザーよりも高い権限を持っているように、パワースポットは一般の観光地よりも多くの特典に恵まれていそうなものだが、パワースポットとして具体的に挙げられるのは神社仏閣や霊場、聖地のたぐいである。
平たく云えば、昔ながらの観光地を改めて売り込むために、カタカナ語で化粧し直したものらしい。ここでいう「パワー」とは、「霊能力」とでも捉えれば良いだろうか。
小田嶋隆氏はコラムの中で商売上手なパワースポットを批判した挙句、こんなものにマジで反応するのは大人げないのだろうか、と自問自答している。
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違うぞ。われわれのような大人が全力をあげて大マジメに否定しないから、詐欺的な霊能商法を展開するヤカラが湧いて出て来る、と、そういうふうに考えなければならない。
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霊能商法を大マジメに否定している人もいる。
堤幸彦監督は『20世紀少年』や『トリック』で霊能商法をけちょんけちょんにやっつけている。だが、それらのヒットにもかかわらず、霊能商法は一向に絶えないのだから、なかなかしぶといものである。
『ヒア アフター』も、大人が大マジメに霊能商法を取り上げた作品だ。
本作で愉快なのは、ぞろぞろと登場する霊能力者たちである。
ある者は虚空を見つめながら聴衆に向かって「Jで始まる名に心当たりはありますか」と問いかける。英語圏で「Jで始まる名前」といえば、ヤコブ(Jacob)にちなんだジェームズやジャック等、極めて一般的である。聴衆が何人かいれば、必ず誰かが手を挙げるに決まっている。
またある者はトランス状態を装って喋り出し、ある者はあの世と交信する機械を操る。
映画のスクリーンを通して客観的に様子を眺める我々には、劇中の子供がバカバカしくなって立ち去る気持ちもよく判る。
1999年の『シックス・センス』の大ヒット以来、霊やあの世を題材に、映画やテレビドラマが続々と作られてきた。
しかし『ヒア アフター』は、霊能力で事件を解決したりはしない。それどころか、もしも霊能力があっても人は幸せになりはしないと訴える。
本作の主人公ジョージは、本物の霊能力者という設定だ。
ここが本作の巧いところだ。
『20世紀少年』や『トリック』のように頭から霊能力を否定してかかっては、もともと否定的な見解を持つ人には受けるものの、霊能力を信じている人には避けられてしまう。
『ヒア アフター』は霊能力そのものを否定するようなことはしない。霊能力や死後の世界があると考える人の側に立ち、そういう考えもあることをまずは肯定する。
その上で、もしも本当に霊能力を持つ人がいたら、その人は霊能力で商売をしたりメディアに登場したりしないで、ひっそり暮らすことを望むはずだと語りかける。
キャスティングも洒落が効いている。
主人公ジョージの兄を演じるジェイ・モーアは、テレビドラマ『ゴースト ~天国からのささやき』の出演者だ。そこでは、霊能力者に協力し、霊が絡んだ事件の解決にあたる学者役だった。
そのジェイ・モーアが、本作ではジョージを霊能力者として売り出して食い物にしようと企む兄貴を演じるのだから、なかなかユーモアのあるキャスティングだ。
本作に関して、クリント・イーストウッド監督は次のように述べている。
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「人は与えられた人生を精一杯生きるべき。そのあとに、もし死後の世界というものがあるとすれば、それはいわばボーナスみたいなものさ」
――月刊シネコンウォーカー No.062/2011年2月12日発行
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ボーナスというと、日本のサラリーマンはきちんきちんと年に2回貰えるものだと思いかねないが、本来ボーナスとは 特別手当、思いもかけぬ贈り物のことである。はなからそんなものを期待して生活することはできない。
『ヒア アフター』で描かれるのは、目には見えない世界や、目に見えない力ではなく、いま目の前にいる人と手を取り合う大切さだ。
それに勝るものはない。
ヒア アフター(Hereafter)とは、「来世」「あの世」を意味するとともに、「今後」「将来」のことでもある。
![ヒア アフター [DVD]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/517%2BzwPkCwL._SL160_.jpg)
監督・制作/クリント・イーストウッド
脚本・制作総指揮/ピーター・モーガン
出演/マット・デイモン セシル・ドゥ・フランス フランキー・マクラレン ジョージ・マクラレン ブライス・ダラス・ハワード ジェイ・モーア ティエリー・ヌーヴィック
日本公開/2011年2月19日
ジャンル/[ドラマ] [ファンタジー] [ロマンス]


tag : クリント・イーストウッドマット・デイモンセシル・ドゥ・フランスフランキー・マクラレンジョージ・マクラレンブライス・ダラス・ハワードジェイ・モーアティエリー・ヌーヴィック
『人生万歳!』 なぜ今この作品なのか?
ウディ・アレンは、なぜ今になってこの作品を世に送り出そうと考えたのか?
『人生万歳!』に感じた疑問はそれだった。
本作の脚本は、元々70年代にゼロ・モステルを主演に迎える予定で書かれたものだ。ところが1977年の彼の死により、この脚本はお蔵入りしてしまう。2008年、全米俳優組合のストライキが噂されると、急いで映画を撮り上げる必要を感じたウディ・アレンは、この脚本を引っ張り出して完成させたのだという。
映画の制作は2008~2009年、熾烈な大統領選において、民主党のバラク・オバマが「Change」を訴えていたころである。いくらストライキ回避のためとはいえ、30年以上前の脚本を今になって世に問うからには、ウディ・アレンなりの「時代の要請」を感じたに違いない。
それはいったい何なのか?
米国在住の高濱賛(たかはま たとう)氏による近年の米国に関する記事を読んで、腑に落ちるものがあった。
オバマ政権下で深まる「国内分裂」と「狂気の銃弾」
アリゾナの「政治テロ」の背景に淀む「空気」
高濱賛氏は、記事の中で、立て続けに起こった政治テロ及び未遂事件を取り上げている。
一つは、2011年1月8日、米西部アリゾナ州ツーソンで、民主党のガブリエル・ギフォーズ下院議員が銃撃されたこと。
もう一つは、1968年に暗殺された公民権運動指導者マーティン・ルーサー・キング牧師の誕生日を祝う1月17日に、西部ワシントン州のパレード・ルートに時限爆弾が仕掛けられていたこと。
高濱賛氏はそれらの事件に触れながら、いま米国では保守派とリベラル派との意見対立が深化し、先鋭化し、暴力的になっていると述べる。
---
意見対立を煽りたて、「銃の文化」の存続の旗振りをしているのは、なにをか言わん、アメリカの一部メディアである。
保守系の一部メディアは、分裂の溝をさらに押し広げるべく、無教養で品のないアジを繰り返してきた。主な旗振り役を演じてきたのは、ビル・オーライリー、ラッシュ・リンボー、グレン・ベックといったテレビやラジオのコメンティターだ。
(略)
厄介なことに、これら保守反動ラジオやテレビが他の局を上回る視聴率を誇っている。特に「中西部や南部の教育程度の低いプアホワイトには馬鹿受けしている」(中道良識派のスティーブ・クレモンズ「ニューアメリカ財団」副理事長)のが実情だ。
---
60~70年代にカウンターカルチャーが勃興し、性の解放が叫ばれ、米国は変化した。
にも関わらず、いまや保守反動が吹き荒れて、人々の間に対決と憎悪が強まっている。
ニューヨークでの制作費高騰を避けて、2005年以降はヨーロッパで映画を撮ってきたウディ・アレンが、敢えてニューヨークを舞台にした『人生万歳!』を発表したのは、このような米国の状況に危機感を抱いたためではないだろうか。
高濱賛氏の記事は続く。
---
なぜ、こんなことになってしまったのだろうか。
1つには、アメリカ全体が内向きになり、意見対立の対象が、自分の身の周りの「食うこと」、「住むこと」に絞られてきたからではないだろうか。
冷戦構造が崩壊し、アメリカ人が一致団結して戦う敵はいなくなった。2001年9月11日の米東部同時多発テロに直面し、イスラム教過激派という共通の敵を見つけたはずだった。しかし、あれから9年もたち、「報復」で始まったアフガニスタン戦争もイラク侵攻も今では遠い彼方の出来事になってしまった。
大統領がクリントン→ブッシュ→オバマと継承されるなかで、アメリカ人は急速に内向き傾向を深めた。
---
ウディ・アレンによれば、30年前の脚本を引っ張り出すに際しては、社会的・政治的なネタは見直したものの、スクリプトは同じだという。
『人生万歳!』の登場人物たちは、まるで60~70年代をなぞるかのようにカウンターカルチャーに触れ、性の解放を体験し、その変化を歓迎する。そこでは中西部や南部の教育程度の低い白人、絵に描いたような共和党支持者を茶化す一方、高等教育を受けた東部の白人の嫌味ったらしさもネタにする。
この映画が公開される数ヶ月前、米国の大統領は、8年務めた共和党のジョージ・W・ブッシュから民主党のバラク・オバマに変わった。興味深いことに、かつてウディ・アレンが脚本を用意していた1977年も、共和党のジェラルド・フォードから民主党のジミー・カーターに変わる年だった。
本作は保守反動へのカウンターであるとともに、対決と憎悪に染まりつつある人々を笑いで解きほぐす。
そして世界は LOVE & PEACE に溢れていることを思い出させるのだ。
『人生万歳!』 [さ行]
監督・脚本/ウディ・アレン
出演/ラリー・デヴィッド エヴァン・レイチェル・ウッド パトリシア・クラークソン ヘンリー・カヴィル エド・ベグリー・Jr
日本公開/2010年12月11日
ジャンル/[コメディ]
http://bookmarks.yahoo.co.jp/bookmarklet/showpopup?t='+encodeURIComponent(document.title)+'&u='+encodeURIComponent(location.href)+'&ei=UTF-8','_blank','width=550,height=480,left=100,top=50,scrollbars=1,resizable=1',0);">
『人生万歳!』に感じた疑問はそれだった。
本作の脚本は、元々70年代にゼロ・モステルを主演に迎える予定で書かれたものだ。ところが1977年の彼の死により、この脚本はお蔵入りしてしまう。2008年、全米俳優組合のストライキが噂されると、急いで映画を撮り上げる必要を感じたウディ・アレンは、この脚本を引っ張り出して完成させたのだという。
映画の制作は2008~2009年、熾烈な大統領選において、民主党のバラク・オバマが「Change」を訴えていたころである。いくらストライキ回避のためとはいえ、30年以上前の脚本を今になって世に問うからには、ウディ・アレンなりの「時代の要請」を感じたに違いない。
それはいったい何なのか?
米国在住の高濱賛(たかはま たとう)氏による近年の米国に関する記事を読んで、腑に落ちるものがあった。
オバマ政権下で深まる「国内分裂」と「狂気の銃弾」
アリゾナの「政治テロ」の背景に淀む「空気」
高濱賛氏は、記事の中で、立て続けに起こった政治テロ及び未遂事件を取り上げている。
一つは、2011年1月8日、米西部アリゾナ州ツーソンで、民主党のガブリエル・ギフォーズ下院議員が銃撃されたこと。
もう一つは、1968年に暗殺された公民権運動指導者マーティン・ルーサー・キング牧師の誕生日を祝う1月17日に、西部ワシントン州のパレード・ルートに時限爆弾が仕掛けられていたこと。
高濱賛氏はそれらの事件に触れながら、いま米国では保守派とリベラル派との意見対立が深化し、先鋭化し、暴力的になっていると述べる。
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意見対立を煽りたて、「銃の文化」の存続の旗振りをしているのは、なにをか言わん、アメリカの一部メディアである。
保守系の一部メディアは、分裂の溝をさらに押し広げるべく、無教養で品のないアジを繰り返してきた。主な旗振り役を演じてきたのは、ビル・オーライリー、ラッシュ・リンボー、グレン・ベックといったテレビやラジオのコメンティターだ。
(略)
厄介なことに、これら保守反動ラジオやテレビが他の局を上回る視聴率を誇っている。特に「中西部や南部の教育程度の低いプアホワイトには馬鹿受けしている」(中道良識派のスティーブ・クレモンズ「ニューアメリカ財団」副理事長)のが実情だ。
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60~70年代にカウンターカルチャーが勃興し、性の解放が叫ばれ、米国は変化した。
にも関わらず、いまや保守反動が吹き荒れて、人々の間に対決と憎悪が強まっている。
ニューヨークでの制作費高騰を避けて、2005年以降はヨーロッパで映画を撮ってきたウディ・アレンが、敢えてニューヨークを舞台にした『人生万歳!』を発表したのは、このような米国の状況に危機感を抱いたためではないだろうか。
高濱賛氏の記事は続く。
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なぜ、こんなことになってしまったのだろうか。
1つには、アメリカ全体が内向きになり、意見対立の対象が、自分の身の周りの「食うこと」、「住むこと」に絞られてきたからではないだろうか。
冷戦構造が崩壊し、アメリカ人が一致団結して戦う敵はいなくなった。2001年9月11日の米東部同時多発テロに直面し、イスラム教過激派という共通の敵を見つけたはずだった。しかし、あれから9年もたち、「報復」で始まったアフガニスタン戦争もイラク侵攻も今では遠い彼方の出来事になってしまった。
大統領がクリントン→ブッシュ→オバマと継承されるなかで、アメリカ人は急速に内向き傾向を深めた。
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ウディ・アレンによれば、30年前の脚本を引っ張り出すに際しては、社会的・政治的なネタは見直したものの、スクリプトは同じだという。
『人生万歳!』の登場人物たちは、まるで60~70年代をなぞるかのようにカウンターカルチャーに触れ、性の解放を体験し、その変化を歓迎する。そこでは中西部や南部の教育程度の低い白人、絵に描いたような共和党支持者を茶化す一方、高等教育を受けた東部の白人の嫌味ったらしさもネタにする。
この映画が公開される数ヶ月前、米国の大統領は、8年務めた共和党のジョージ・W・ブッシュから民主党のバラク・オバマに変わった。興味深いことに、かつてウディ・アレンが脚本を用意していた1977年も、共和党のジェラルド・フォードから民主党のジミー・カーターに変わる年だった。
本作は保守反動へのカウンターであるとともに、対決と憎悪に染まりつつある人々を笑いで解きほぐす。
そして世界は LOVE & PEACE に溢れていることを思い出させるのだ。
![人生万歳! [DVD]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/51SzNeGumFL._SL160_.jpg)
監督・脚本/ウディ・アレン
出演/ラリー・デヴィッド エヴァン・レイチェル・ウッド パトリシア・クラークソン ヘンリー・カヴィル エド・ベグリー・Jr
日本公開/2010年12月11日
ジャンル/[コメディ]


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【theme : 恋愛映画・ロマンティックコメディ】
【genre : 映画】
tag : ウディ・アレンラリー・デヴィッドエヴァン・レイチェル・ウッドパトリシア・クラークソンヘンリー・カヴィルエド・ベグリー・Jr
『酔いがさめたら、うちに帰ろう。』 毎日かあさん、時々とうさん
自分が、恋人が、肉親が、難病に侵されて余命いくばくもないことが判ってしまったら、あなたはどうする?
そんなテーマの作品が毎年続々と作られている。園子温監督が余命モノと名付けたこのジャンルは、昔から存在したものの、『世界の中心で愛を叫んだけもの』もとい『世界の中心で、愛をさけぶ』(2004年)のヒットあたりから激増したように思う。
テーマがテーマなだけに、個々の作品は真摯で感動するものが多い。
とはいえ、こう続けて観ていると、不謹慎かもしれないが飽きが来るのは否めない。
ところが、題材は難病なのに、ジャンルとしては余命モノなのに、他の作品から一線を画しているのが、『酔いがさめたら、うちに帰ろう。』である。
それは、劇中の医師のセリフが象徴している。
「この病気だけは、誰も本気では心配してくれないんです。」
たしかに、アルコール依存症の主人公には、心配というより呆れるばかりである。劇中の妻も母も、呆れ果てている。小さな子供たちもだ。
もう酒は飲みません、と云ったその日から飲んでいる。少しだけのつもりが何本も空けている。そのあまりのダメさ加減に、映画館の観客だって心配も同情もしないだろう。
にもかかわらず、悲しいかな他人事と突き放せない。
主人公を演じる浅野忠信さんの顔を見ながら、自分も何度こんな空約束をしただろうと考えてしまう。少しだけのつもりで、何度まわりに迷惑をかけたことか。約束するときは本気なのだ。少しだから大丈夫だと思っているのだ。
アルコールに限らず、そんな振る舞いに、誰しも思い当たるのではないだろうか。
何ごとも、常習性を帯びてしまうと、なかなか止められるものではない。あるいは、普段やらなかったこと(たとえば禁酒)を、やり続けるのはたいへんだ。そんな人を、意思が弱いと嗤うのは簡単だが、どれだけの人に嗤う資格があるだろう。
そんな風に思わせるのは、毎度のことながら浅野忠信さんの名演技による。
『ヴィヨンの妻 ~桜桃とタンポポ~』(2009年)での自殺を図るダメ作家も実にいいダメっぷりだったが、今回の酒が手放せない男も、どうしようもなくいい男である。浅野忠信さんが演じたればこそ、観客は自分を重ね合わてしまうだろう。
ときどき現実と幻覚の境目がなくなり、心の声がいつの間にか漏れ出てしまう怖い演出と相まって、目が離せない118分である。
ただ、本作のトーンを決定付けているのは、主人公が孤独ではないという点だ。彼を取り巻く家族たちの眼差しは暖かい。
その一点で、本作は観客に救いを示す。
それは、本作の原作が、夫であり父であり、アルコール依存症患者であった鴨志田穣氏の筆によるからだろう。彼の目に映る妻は慈愛に満ちており、子供たちは賢く聞き分けが良い。
逆に、妻であり母である西原理恵子氏が原作の『毎日かあさん』では、もう少し複雑だ。
彼女は、夫の暴力に悩み、子供たちを心配する。本作ほど、笑顔ばかりで彼を受け止めているわけではない。
そのギャップこそが、彼にとって妻がいかに愛しい存在だったかを表している。
映画は、この家族が、離婚という別れと、死別という第2の別れを迎える中での、ある断面を切り取ってみせる。それはときにコミカルであり、ときに陰鬱であり、私たちの人生がそうであるように決して単純な色合いではない。
本作の主人公は、一度は手に入れた「家族」を手放すはめになってしまった。酒をやめられなかったからだ。
そんな男にとって、「酔いがさめたら」という仮定は悲しく、「うちに帰ろう」という言葉は重い。家族と別れてから、ずっとそう思っていたのだろう。もちろん、ここでの「うち」は建屋としての家ではなく、家族が待っているところ、彼が安堵できるところである。
皮肉なことに、その「うち」は、彼がいなくなることで平和になる。妻は夫の暴力から逃れ、子供たちは父の罵声を聞かずに済む。
しかし、家族はそんな平和では喜べない。
いまや会社も地域社会も、人々が所属する中間集団は解体しつつある。単身世帯は増加の一途をたどり、人は家族という集団からも自由になろうとしている。
とはいえ、人は群れを作る動物である。集団の一員であることによる安堵は手放せない。
やっぱり帰るところが恋しいのだ。自分にとって「うち」と呼べるところが。
もしもそれを見つけたなら、酔っぱらう前に、うちに帰ろう。
『酔いがさめたら、うちに帰ろう。』 [や行]
監督・脚本/東陽一
出演/浅野忠信 永作博美 市川実日子 利重剛 高田聖子 螢雪次朗 光石研 香山美子 柊瑠美
日本公開/2010年12月4日
ジャンル/[ドラマ]
http://bookmarks.yahoo.co.jp/bookmarklet/showpopup?t='+encodeURIComponent(document.title)+'&u='+encodeURIComponent(location.href)+'&ei=UTF-8','_blank','width=550,height=480,left=100,top=50,scrollbars=1,resizable=1',0);">
そんなテーマの作品が毎年続々と作られている。園子温監督が余命モノと名付けたこのジャンルは、昔から存在したものの、『世界の中心で愛を叫んだけもの』もとい『世界の中心で、愛をさけぶ』(2004年)のヒットあたりから激増したように思う。
テーマがテーマなだけに、個々の作品は真摯で感動するものが多い。
とはいえ、こう続けて観ていると、不謹慎かもしれないが飽きが来るのは否めない。
ところが、題材は難病なのに、ジャンルとしては余命モノなのに、他の作品から一線を画しているのが、『酔いがさめたら、うちに帰ろう。』である。
それは、劇中の医師のセリフが象徴している。
「この病気だけは、誰も本気では心配してくれないんです。」
たしかに、アルコール依存症の主人公には、心配というより呆れるばかりである。劇中の妻も母も、呆れ果てている。小さな子供たちもだ。
もう酒は飲みません、と云ったその日から飲んでいる。少しだけのつもりが何本も空けている。そのあまりのダメさ加減に、映画館の観客だって心配も同情もしないだろう。
にもかかわらず、悲しいかな他人事と突き放せない。
主人公を演じる浅野忠信さんの顔を見ながら、自分も何度こんな空約束をしただろうと考えてしまう。少しだけのつもりで、何度まわりに迷惑をかけたことか。約束するときは本気なのだ。少しだから大丈夫だと思っているのだ。
アルコールに限らず、そんな振る舞いに、誰しも思い当たるのではないだろうか。
何ごとも、常習性を帯びてしまうと、なかなか止められるものではない。あるいは、普段やらなかったこと(たとえば禁酒)を、やり続けるのはたいへんだ。そんな人を、意思が弱いと嗤うのは簡単だが、どれだけの人に嗤う資格があるだろう。
そんな風に思わせるのは、毎度のことながら浅野忠信さんの名演技による。
『ヴィヨンの妻 ~桜桃とタンポポ~』(2009年)での自殺を図るダメ作家も実にいいダメっぷりだったが、今回の酒が手放せない男も、どうしようもなくいい男である。浅野忠信さんが演じたればこそ、観客は自分を重ね合わてしまうだろう。
ときどき現実と幻覚の境目がなくなり、心の声がいつの間にか漏れ出てしまう怖い演出と相まって、目が離せない118分である。
ただ、本作のトーンを決定付けているのは、主人公が孤独ではないという点だ。彼を取り巻く家族たちの眼差しは暖かい。
その一点で、本作は観客に救いを示す。
それは、本作の原作が、夫であり父であり、アルコール依存症患者であった鴨志田穣氏の筆によるからだろう。彼の目に映る妻は慈愛に満ちており、子供たちは賢く聞き分けが良い。
逆に、妻であり母である西原理恵子氏が原作の『毎日かあさん』では、もう少し複雑だ。
彼女は、夫の暴力に悩み、子供たちを心配する。本作ほど、笑顔ばかりで彼を受け止めているわけではない。
そのギャップこそが、彼にとって妻がいかに愛しい存在だったかを表している。
映画は、この家族が、離婚という別れと、死別という第2の別れを迎える中での、ある断面を切り取ってみせる。それはときにコミカルであり、ときに陰鬱であり、私たちの人生がそうであるように決して単純な色合いではない。
本作の主人公は、一度は手に入れた「家族」を手放すはめになってしまった。酒をやめられなかったからだ。
そんな男にとって、「酔いがさめたら」という仮定は悲しく、「うちに帰ろう」という言葉は重い。家族と別れてから、ずっとそう思っていたのだろう。もちろん、ここでの「うち」は建屋としての家ではなく、家族が待っているところ、彼が安堵できるところである。
皮肉なことに、その「うち」は、彼がいなくなることで平和になる。妻は夫の暴力から逃れ、子供たちは父の罵声を聞かずに済む。
しかし、家族はそんな平和では喜べない。
いまや会社も地域社会も、人々が所属する中間集団は解体しつつある。単身世帯は増加の一途をたどり、人は家族という集団からも自由になろうとしている。
とはいえ、人は群れを作る動物である。集団の一員であることによる安堵は手放せない。
やっぱり帰るところが恋しいのだ。自分にとって「うち」と呼べるところが。
もしもそれを見つけたなら、酔っぱらう前に、うちに帰ろう。
![酔いがさめたら、うちに帰ろう。 [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/51A6LRgUa0L._SL160_.jpg)
監督・脚本/東陽一
出演/浅野忠信 永作博美 市川実日子 利重剛 高田聖子 螢雪次朗 光石研 香山美子 柊瑠美
日本公開/2010年12月4日
ジャンル/[ドラマ]


『洋菓子店コアンドル』 その配役は逆だろう!
「今さぁ、あんな子がホントにいたら絶対嫌われるよね。」
ずいぶん前のことだが、数人の女性がアニメについて話していたときに、『アタックNo.1』が話題に上った。彼女たちは口々に、『アタックNo.1』の主人公・鮎原こずえは嫌な子だと云う。彼女たちによれば、どうやら昔のアニメの主人公は誰も彼も嫌な人間らしく、その代表がバレー部のキャプテン鮎原こずえなのだという。
一体、鮎原こずえのどこが嫌なのかというと、次の点だそうだ。
1. 空気を読まない。
2. 思い込みが激しい。
3. 自己主張が強い。
4. 云うことがきつい。
まぁ、そう云われればそうかもしれない。
周囲の人間に対して、「あなたはここが悪いのよ」てな言葉をズケズケと浴びせるのだから、身近にいたら嫌かもしれない。
とはいえ、昔のアニメやテレビドラマの主人公は、多かれ少なかれそんな感じだった。主人公らしさとは、他の人間よりも目立つ言動を取ることだった。
それがいつしか、厳しいキャプテンよりも、ちょっと落ちこぼれ気味の方が、主人公に相応しいとみなされるようになった、気がする。
少なくとも、上の4点を備えた、鮎原こずえに匹敵するような人間は、影を潜めたように思う。
ところが久しぶりに、空気を読まなくて、思い込みが激しくて、自己主張が強くて、云うことがきつい主人公に出会った。『洋菓子店コアンドル』の臼場なつめである。
演じるのは蒼井優さんだ。とても可愛らしく演じている。
ところが、可愛い顔して、これがけっこう嫌なヤツなんである。
周りからケーキ作りは下手だと云われているのに、なぜか絶大なる自信を持ち、勝手なことをしまくり、陰口を本人の目の前で云う(それは陰口じゃない!)。
そのため、先輩のマリコとぶつかってばかりいる。
マリコを演じる江口のりこさんは、例によって仏頂面で嫌なヤツっぽさ全開である。ところが二人の言動に注意して見ると、理に適ったことを云っているのはマリコであり、なつめは笑顔が可愛いだけで云ってることは無茶苦茶だ。
内面と外見が逆なのだ。なつめのきついセリフを口にするのが蒼井優さんで、その相手が仏頂面の江口のりこさんだから、印象が逆転してしまう。
たとえば、なつめが男に振られたのは誰の目にも明らかなので、マリコは敢えて男の話はしないのだが、それを知ったなつめは、「黙ってた!」と怒り出す。なつめの自己中心ぶりの最たるシーンだが、まるで黙っていたマリコが悪いように見えてしまうから面白い。
江口洋介さんが演じる伝説のパティシエも、なかなか一筋縄ではいかない人物だ。
なつめは彼からケーキ作りを学ぶのだから、彼は鮎原こずえを鍛えた鬼監督の猪野熊に相当する。
ところが彼は、もうケーキ作りができなくなっていて、なつめに理由を問いただされると家に逃げ帰ってメソメソしてしまう。ただの引き篭もりである。一応、外出しているから、引き篭もりとは云わないか。
でも、自分をもっとも活かせるはずのケーキ作りを避けて、他人のケーキを論評するだけの彼は、ブログに映画の感想を書いてるだけのヤツと変わらない(^^ゞ
公式サイトによれば、江口洋介さんはオファーを受けたときに「正直自分じゃないのでは?」と思ったそうだ。たしかに江口洋介さんのこれまでの役に比べると、ずいぶんと線が細い。結局彼はなつめに振り回されっぱなしなのだ。
ただ、それを敢えて江口洋介さんが演じるから様になる。
彼が再びケーキを作るようになる心理をくどくど説明しなくても、厨房に立つだけで説得力がある。観客は、彼がメソメソして終わるはずがないと信じているからだ。
空気を読まないなつめは、徐々にケーキ作りの腕を上げ、やがて世界を視野に入れる。『アタックNo.1』のような典型的なスポ根物の展開であり、そのためには主人公が鮎原こずえ並みにアクが強いのももっともである。
だが、それを蒼井優さんがチャーミングに演じた上に、意地悪そうな江口のりこさんが際立たせ、さらに指導者たるパティシエをメソメソした人物にすることで主人公の押しの強さを正当化する。
「あんな子がホントにいたら絶対嫌われるよね」と云われてしまうスポ根路線でありながら、配役の妙により口当たりを良くすることで、積極的な女の子を応援する映画になっているのだ。
さらに、全編を飾るのは、美味しそうなスイーツの数々だ。
バレンタインデーに相応しい1本だが、素敵な彼氏をゲットするより仕事を大切にするのが現代風である。
『洋菓子店コアンドル』 [や行]
監督・脚本/深川栄洋
脚本/いながききよたか、前田こうこ
出演/江口洋介 蒼井優 戸田恵子 江口のりこ 尾上寛之 粟田麗 ネイサン・バーグ 加賀まりこ 鈴木瑞穂 佐々木すみ江 嶋田久作
日本公開/2011年2月11日
ジャンル/[ドラマ]
映画ブログ
ずいぶん前のことだが、数人の女性がアニメについて話していたときに、『アタックNo.1』が話題に上った。彼女たちは口々に、『アタックNo.1』の主人公・鮎原こずえは嫌な子だと云う。彼女たちによれば、どうやら昔のアニメの主人公は誰も彼も嫌な人間らしく、その代表がバレー部のキャプテン鮎原こずえなのだという。
一体、鮎原こずえのどこが嫌なのかというと、次の点だそうだ。
1. 空気を読まない。
2. 思い込みが激しい。
3. 自己主張が強い。
4. 云うことがきつい。
まぁ、そう云われればそうかもしれない。
周囲の人間に対して、「あなたはここが悪いのよ」てな言葉をズケズケと浴びせるのだから、身近にいたら嫌かもしれない。
とはいえ、昔のアニメやテレビドラマの主人公は、多かれ少なかれそんな感じだった。主人公らしさとは、他の人間よりも目立つ言動を取ることだった。
それがいつしか、厳しいキャプテンよりも、ちょっと落ちこぼれ気味の方が、主人公に相応しいとみなされるようになった、気がする。
少なくとも、上の4点を備えた、鮎原こずえに匹敵するような人間は、影を潜めたように思う。
ところが久しぶりに、空気を読まなくて、思い込みが激しくて、自己主張が強くて、云うことがきつい主人公に出会った。『洋菓子店コアンドル』の臼場なつめである。
演じるのは蒼井優さんだ。とても可愛らしく演じている。
ところが、可愛い顔して、これがけっこう嫌なヤツなんである。
周りからケーキ作りは下手だと云われているのに、なぜか絶大なる自信を持ち、勝手なことをしまくり、陰口を本人の目の前で云う(それは陰口じゃない!)。
そのため、先輩のマリコとぶつかってばかりいる。
マリコを演じる江口のりこさんは、例によって仏頂面で嫌なヤツっぽさ全開である。ところが二人の言動に注意して見ると、理に適ったことを云っているのはマリコであり、なつめは笑顔が可愛いだけで云ってることは無茶苦茶だ。
内面と外見が逆なのだ。なつめのきついセリフを口にするのが蒼井優さんで、その相手が仏頂面の江口のりこさんだから、印象が逆転してしまう。
たとえば、なつめが男に振られたのは誰の目にも明らかなので、マリコは敢えて男の話はしないのだが、それを知ったなつめは、「黙ってた!」と怒り出す。なつめの自己中心ぶりの最たるシーンだが、まるで黙っていたマリコが悪いように見えてしまうから面白い。
江口洋介さんが演じる伝説のパティシエも、なかなか一筋縄ではいかない人物だ。
なつめは彼からケーキ作りを学ぶのだから、彼は鮎原こずえを鍛えた鬼監督の猪野熊に相当する。
ところが彼は、もうケーキ作りができなくなっていて、なつめに理由を問いただされると家に逃げ帰ってメソメソしてしまう。ただの引き篭もりである。一応、外出しているから、引き篭もりとは云わないか。
でも、自分をもっとも活かせるはずのケーキ作りを避けて、他人のケーキを論評するだけの彼は、ブログに映画の感想を書いてるだけのヤツと変わらない(^^ゞ
公式サイトによれば、江口洋介さんはオファーを受けたときに「正直自分じゃないのでは?」と思ったそうだ。たしかに江口洋介さんのこれまでの役に比べると、ずいぶんと線が細い。結局彼はなつめに振り回されっぱなしなのだ。
ただ、それを敢えて江口洋介さんが演じるから様になる。
彼が再びケーキを作るようになる心理をくどくど説明しなくても、厨房に立つだけで説得力がある。観客は、彼がメソメソして終わるはずがないと信じているからだ。
空気を読まないなつめは、徐々にケーキ作りの腕を上げ、やがて世界を視野に入れる。『アタックNo.1』のような典型的なスポ根物の展開であり、そのためには主人公が鮎原こずえ並みにアクが強いのももっともである。
だが、それを蒼井優さんがチャーミングに演じた上に、意地悪そうな江口のりこさんが際立たせ、さらに指導者たるパティシエをメソメソした人物にすることで主人公の押しの強さを正当化する。
「あんな子がホントにいたら絶対嫌われるよね」と云われてしまうスポ根路線でありながら、配役の妙により口当たりを良くすることで、積極的な女の子を応援する映画になっているのだ。
さらに、全編を飾るのは、美味しそうなスイーツの数々だ。
バレンタインデーに相応しい1本だが、素敵な彼氏をゲットするより仕事を大切にするのが現代風である。
![洋菓子店コアンドル [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/51jROKmMNUL._SL160_.jpg)
監督・脚本/深川栄洋
脚本/いながききよたか、前田こうこ
出演/江口洋介 蒼井優 戸田恵子 江口のりこ 尾上寛之 粟田麗 ネイサン・バーグ 加賀まりこ 鈴木瑞穂 佐々木すみ江 嶋田久作
日本公開/2011年2月11日
ジャンル/[ドラマ]
映画ブログ
『太平洋の奇跡 フォックスと呼ばれた男』 開戦から70年だから描けることは?
『椰子の実』の歌を聴きながら、私は涙した。
この歌を作詞した島崎藤村は、忌み嫌われる戦陣訓の作成にも参画した人物である。にもかかわらず、日本の戦争映画では、しばしば平和を希求する曲として歌われる。
このことに象徴されるように、単純には捉え切れない日本人の心情を描いたのが、『太平洋の奇跡 フォックスと呼ばれた男』である。
とりわけ私は、冒頭の将棋の駒の説明にガツンとやられた。この簡潔で鋭い日本人論は、本作のスタンスを見事に表している。
本作では、第二次世界大戦末期の出来事を、65年前の歴史として冷静に見る視点と、娯楽映画として物語性豊かに描く視点とが両立しており、見応え充分であった。
「日本人はなぜ自殺するのか。」
本作で、米軍の司令官がいきなり発するのが、この問いである。
世界有数の自殺大国たる現代日本においては、聞き捨てならない設問だ。
この問いに対して、日本に留学経験のある米軍士官が説明するのが、将棋の話である。
曰く、チェスの駒は白黒に塗り分けられ、敵味方が混同することはない。しかし、将棋の駒は敵も味方も同じ形をしており、ただその向きだけで区別する。たとえ敵の駒であっても、向きを転じれば味方の駒と変わらない。実際、将棋のルールでは、敵から取った駒を、自分の駒として使うことができる。
日本人もこれと同じだ。日本人は主君に忠誠を誓うので、たとえ昨日までの敵でも、ひとたび降伏したら新たな主君として忠誠を誓わねばならない。
しかしそれでは元の主君に刃向かうことになるので、降伏する前に自殺するのだ。
このような言説を淡々と述べることは、過去の日本映画では難しかったろう。戦争の記憶を風化させてはならない、とは云うものの、歳月を経たからこそ冷静に語れることもある。大手配給会社による大作映画で、このような日本人論を展開できるのは、戦後65年を経た今だからだろう。
もちろん、この米軍士官が語ることは、新説でもなければ珍説でもない。
すでに1946年に、ルース・ベネディクトが『菊と刀』において、日本兵捕虜の協力ぶりについて書いている。
---
永年軍隊のめしを食い、長い間極端な国家主義者であった彼らは、弾薬集積所の位置を教え、日本軍の兵力配備を綿密に説明し、わが軍の宣伝文を書き、わが軍の爆撃機に同乗して軍事目標に誘導した。それはあたかも、新しい頁(ページ)をめくるかのようであった。新しい頁に書いてあることと、古い頁に書いてあることとは正反対であったが、彼らはここに書いてあることを、同じ忠実さで実践した。
---
このような、新たな主君に忠誠を誓う態度は、軍人だけのものではない。
敗戦と同時にやってきたマッカーサーを、日本人は神の来臨のごとく歓迎した。敵軍の総司令官だった彼に、人々は銅像を作りたいとか「あなたの子供をうみたい」と申し出た。
この日本国民の性格を、内田樹氏は『日本辺境論』において「おのれの思想と行動の一貫性よりも、場の親密性を優先させる態度、とりあえず「長いものに巻かれ」てみせ、その受動的なありようを恭順と親しみのメッセージとして差し出す態度」と表現している。
---
つねにその場における支配的な権力との親疎(しんそ)を最優先に配慮すること。それが軍国主義イデオロギーが日本人に繰り返し叩き込んだ教訓だったからです。そして、そのイデオロギーが私たちの国民性格に深く親和していなければ、そもそもこのような戦争は始まりはしなかった。
(略)
私たちの時代でも、官僚や政治家や知識人たちの行為はそのつどの「絶対的価値体」との近接度によって制約されています。「何が正しいのか」を論理的に判断することよりも、「誰と親しくすればいいのか」を見きわめることに専(もっぱ)ら知的資源が供給されるということです。自分自身が正しい判断を下すことよりも、「正しい判断を下すはずの人」を探り当て、その「身近」にあることを優先するということです。
---
劇中、米軍司令官は、決戦を前にして日本軍の将校が指揮も執らずに自決してしまったことに驚き呆れるが、日本軍将校にすれば当然のことだ。これまで天皇に忠誠を誓ってきたことと、米軍の捕虜となったら米軍に協力してしまうこととの矛盾から逃れるには、決戦前に死んでしまうしかなかったのである。
また本作は、民間人・軍人を問わず1万人もの人々がマッピ岬(いわゆるバンザイクリフ)から身投げしたことにも触れている。
身投げした人々は、敵国人は人食い人種であり、捕らわれたら必ず殺されると考えていた。
そのような考えが、沖縄でも樺太でも多くの悲劇を生むことになる。
本作では、この日本人の考え方を米兵の口を通して淡々と説明するとともに、日本兵に熱く語らせる。
「殺されると判っているのに、民間人を収容所に送るのですか!」
山田孝之さんが演じる木谷曹長は、上官である大場大尉にそう食ってかかる。
後に愛知県蒲郡市の市議会議員を務めることになる大場大尉は、医薬品が底をついたからには、民間人を米軍の収容所に送るしかないと考える。それに対し木谷曹長は、民間人が米軍の手に落ちたら殺されると主張する。
かように、本作では何ごとにも意見の異なる者を配置したり、同一人物に相反することを語らせたりして、事物を複眼的に捉えようと心掛けている。
このバランス感覚が、本作の大きな特徴である。
戦後しばらくの日本では、軍部を悪者にすればこと足れりとする風潮があった。
樺太での集団自決の慰霊碑に、民間人は日本軍の命令により青酸カリを飲んだと、事実に反する碑文が刻まれたのは端的な例である。
また、戦争を描いた作品では、東京大空襲や原爆投下による被害を取り上げ、民間人を被害者としてアプローチするものが多かった。従軍体験のある作家は、非道な上官といじめられる一兵卒を描いた。
しかし、当時は国民の側から戦争を望んだのも事実である。
東京裁判で戦犯として裁かれた日本の指導者たちは、戦争を推進したことを問われると、みな口々に「私の個人的意見は反対でありました」と述べている。
そのような事実を反映してのことだろう、本作には軍人以上に米兵を殺したいと願う民間人が登場する。
また、米軍に協力する民間人や、米軍収容所の警備はザルなのに逃げようとしない民間人が描かれる。さらに、一人の民間人が、あるときは日本兵に「私たちを守ってくれないのか」と詰め寄りながら、米軍に引き渡される段になると「正直、ホッとしました」と告白する。
そして、戦いの終わらせ方を模索する士官に対しては、徹底抗戦を主張する部下が登場する。
別の日本兵は、玉砕しないのはけしからんと怒鳴り散らしながら、自分自身は自決できなかったりする。
米軍の描き方も単純ではない。
日本人の案に相違して、米軍の収容所では怪我した日本人が手厚く看護され、衣食住も保障されるのだが、一方で米兵が死んだ日本兵のふところを探る場面もある。米兵は金品を狙っているわけではない。角隠しを被った花嫁の写真を見つけて、エキゾチックな戦利品に喜ぶのだ。
米軍の司令室に日の丸が飾られているのも、それが戦利品だからだ。
戦利品をせしめて喜ぶ姿は、アメリカ映画でも描かれている。1946年にアカデミー賞をはじめ各賞を総なめにしたウィリアム・ワイラー監督の『我等の生涯の最良の年』では、太平洋戦争からの帰還兵が、日の丸や日本刀を子供たちに見せて自慢する場面がある。それらは沖縄等から奪ってきたものだ。
本作に登場する日本人少女は、日本人の持ち物を奪う米兵と、心優しい米軍看護師の双方に接することになる。
このように本作は、日本軍の多面性、民間人の多面性、米軍の多面性をまんべんなく描くことで、一面だけでは語り得ない戦争というもの、人間というものをあぶり出す。
本作以降、日本だけ、民間人だけ、あるいは軍人だけを描いた戦争映画は、一方的であるとか、リアリティ軽視であるとのそしりを免れないだろう。
そして、サイパンの局地戦では米軍に抗していながら、日本国としては敗れてしまう事実を通して、兵士が優秀でも将校は無能な、今に通じる日本の特徴が見えてくる。
『太平洋の奇跡 フォックスと呼ばれた男』 [た行]
監督/平山秀幸 US班監督・脚本/チェリン・グラック 第2班監督/尾上克郎
脚本/西岡琢也 グレゴリー・マルケット
原作/ドン・ジョーンズ
出演/竹野内豊 ショーン・マッゴーワン 唐沢寿明 阿部サダヲ 井上真央 山田孝之 中嶋朋子 岡田義徳 板尾創路 光石研 柄本時生 近藤芳正 酒井敏也 ベンガル トリート・ウィリアムズ ダニエル・ボールドウィン
日本公開/2011年2月11日
ジャンル/[ドラマ] [戦争]
この歌を作詞した島崎藤村は、忌み嫌われる戦陣訓の作成にも参画した人物である。にもかかわらず、日本の戦争映画では、しばしば平和を希求する曲として歌われる。
このことに象徴されるように、単純には捉え切れない日本人の心情を描いたのが、『太平洋の奇跡 フォックスと呼ばれた男』である。
とりわけ私は、冒頭の将棋の駒の説明にガツンとやられた。この簡潔で鋭い日本人論は、本作のスタンスを見事に表している。
本作では、第二次世界大戦末期の出来事を、65年前の歴史として冷静に見る視点と、娯楽映画として物語性豊かに描く視点とが両立しており、見応え充分であった。
「日本人はなぜ自殺するのか。」
本作で、米軍の司令官がいきなり発するのが、この問いである。
世界有数の自殺大国たる現代日本においては、聞き捨てならない設問だ。
この問いに対して、日本に留学経験のある米軍士官が説明するのが、将棋の話である。
曰く、チェスの駒は白黒に塗り分けられ、敵味方が混同することはない。しかし、将棋の駒は敵も味方も同じ形をしており、ただその向きだけで区別する。たとえ敵の駒であっても、向きを転じれば味方の駒と変わらない。実際、将棋のルールでは、敵から取った駒を、自分の駒として使うことができる。
日本人もこれと同じだ。日本人は主君に忠誠を誓うので、たとえ昨日までの敵でも、ひとたび降伏したら新たな主君として忠誠を誓わねばならない。
しかしそれでは元の主君に刃向かうことになるので、降伏する前に自殺するのだ。
このような言説を淡々と述べることは、過去の日本映画では難しかったろう。戦争の記憶を風化させてはならない、とは云うものの、歳月を経たからこそ冷静に語れることもある。大手配給会社による大作映画で、このような日本人論を展開できるのは、戦後65年を経た今だからだろう。
もちろん、この米軍士官が語ることは、新説でもなければ珍説でもない。
すでに1946年に、ルース・ベネディクトが『菊と刀』において、日本兵捕虜の協力ぶりについて書いている。
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永年軍隊のめしを食い、長い間極端な国家主義者であった彼らは、弾薬集積所の位置を教え、日本軍の兵力配備を綿密に説明し、わが軍の宣伝文を書き、わが軍の爆撃機に同乗して軍事目標に誘導した。それはあたかも、新しい頁(ページ)をめくるかのようであった。新しい頁に書いてあることと、古い頁に書いてあることとは正反対であったが、彼らはここに書いてあることを、同じ忠実さで実践した。
---
このような、新たな主君に忠誠を誓う態度は、軍人だけのものではない。
敗戦と同時にやってきたマッカーサーを、日本人は神の来臨のごとく歓迎した。敵軍の総司令官だった彼に、人々は銅像を作りたいとか「あなたの子供をうみたい」と申し出た。
この日本国民の性格を、内田樹氏は『日本辺境論』において「おのれの思想と行動の一貫性よりも、場の親密性を優先させる態度、とりあえず「長いものに巻かれ」てみせ、その受動的なありようを恭順と親しみのメッセージとして差し出す態度」と表現している。
---
つねにその場における支配的な権力との親疎(しんそ)を最優先に配慮すること。それが軍国主義イデオロギーが日本人に繰り返し叩き込んだ教訓だったからです。そして、そのイデオロギーが私たちの国民性格に深く親和していなければ、そもそもこのような戦争は始まりはしなかった。
(略)
私たちの時代でも、官僚や政治家や知識人たちの行為はそのつどの「絶対的価値体」との近接度によって制約されています。「何が正しいのか」を論理的に判断することよりも、「誰と親しくすればいいのか」を見きわめることに専(もっぱ)ら知的資源が供給されるということです。自分自身が正しい判断を下すことよりも、「正しい判断を下すはずの人」を探り当て、その「身近」にあることを優先するということです。
---
劇中、米軍司令官は、決戦を前にして日本軍の将校が指揮も執らずに自決してしまったことに驚き呆れるが、日本軍将校にすれば当然のことだ。これまで天皇に忠誠を誓ってきたことと、米軍の捕虜となったら米軍に協力してしまうこととの矛盾から逃れるには、決戦前に死んでしまうしかなかったのである。
また本作は、民間人・軍人を問わず1万人もの人々がマッピ岬(いわゆるバンザイクリフ)から身投げしたことにも触れている。
身投げした人々は、敵国人は人食い人種であり、捕らわれたら必ず殺されると考えていた。
そのような考えが、沖縄でも樺太でも多くの悲劇を生むことになる。
本作では、この日本人の考え方を米兵の口を通して淡々と説明するとともに、日本兵に熱く語らせる。
「殺されると判っているのに、民間人を収容所に送るのですか!」
山田孝之さんが演じる木谷曹長は、上官である大場大尉にそう食ってかかる。
後に愛知県蒲郡市の市議会議員を務めることになる大場大尉は、医薬品が底をついたからには、民間人を米軍の収容所に送るしかないと考える。それに対し木谷曹長は、民間人が米軍の手に落ちたら殺されると主張する。
かように、本作では何ごとにも意見の異なる者を配置したり、同一人物に相反することを語らせたりして、事物を複眼的に捉えようと心掛けている。
このバランス感覚が、本作の大きな特徴である。
戦後しばらくの日本では、軍部を悪者にすればこと足れりとする風潮があった。
樺太での集団自決の慰霊碑に、民間人は日本軍の命令により青酸カリを飲んだと、事実に反する碑文が刻まれたのは端的な例である。
また、戦争を描いた作品では、東京大空襲や原爆投下による被害を取り上げ、民間人を被害者としてアプローチするものが多かった。従軍体験のある作家は、非道な上官といじめられる一兵卒を描いた。
しかし、当時は国民の側から戦争を望んだのも事実である。
東京裁判で戦犯として裁かれた日本の指導者たちは、戦争を推進したことを問われると、みな口々に「私の個人的意見は反対でありました」と述べている。
そのような事実を反映してのことだろう、本作には軍人以上に米兵を殺したいと願う民間人が登場する。
また、米軍に協力する民間人や、米軍収容所の警備はザルなのに逃げようとしない民間人が描かれる。さらに、一人の民間人が、あるときは日本兵に「私たちを守ってくれないのか」と詰め寄りながら、米軍に引き渡される段になると「正直、ホッとしました」と告白する。
そして、戦いの終わらせ方を模索する士官に対しては、徹底抗戦を主張する部下が登場する。
別の日本兵は、玉砕しないのはけしからんと怒鳴り散らしながら、自分自身は自決できなかったりする。
米軍の描き方も単純ではない。
日本人の案に相違して、米軍の収容所では怪我した日本人が手厚く看護され、衣食住も保障されるのだが、一方で米兵が死んだ日本兵のふところを探る場面もある。米兵は金品を狙っているわけではない。角隠しを被った花嫁の写真を見つけて、エキゾチックな戦利品に喜ぶのだ。
米軍の司令室に日の丸が飾られているのも、それが戦利品だからだ。
戦利品をせしめて喜ぶ姿は、アメリカ映画でも描かれている。1946年にアカデミー賞をはじめ各賞を総なめにしたウィリアム・ワイラー監督の『我等の生涯の最良の年』では、太平洋戦争からの帰還兵が、日の丸や日本刀を子供たちに見せて自慢する場面がある。それらは沖縄等から奪ってきたものだ。
本作に登場する日本人少女は、日本人の持ち物を奪う米兵と、心優しい米軍看護師の双方に接することになる。
このように本作は、日本軍の多面性、民間人の多面性、米軍の多面性をまんべんなく描くことで、一面だけでは語り得ない戦争というもの、人間というものをあぶり出す。
本作以降、日本だけ、民間人だけ、あるいは軍人だけを描いた戦争映画は、一方的であるとか、リアリティ軽視であるとのそしりを免れないだろう。
そして、サイパンの局地戦では米軍に抗していながら、日本国としては敗れてしまう事実を通して、兵士が優秀でも将校は無能な、今に通じる日本の特徴が見えてくる。

監督/平山秀幸 US班監督・脚本/チェリン・グラック 第2班監督/尾上克郎
脚本/西岡琢也 グレゴリー・マルケット
原作/ドン・ジョーンズ
出演/竹野内豊 ショーン・マッゴーワン 唐沢寿明 阿部サダヲ 井上真央 山田孝之 中嶋朋子 岡田義徳 板尾創路 光石研 柄本時生 近藤芳正 酒井敏也 ベンガル トリート・ウィリアムズ ダニエル・ボールドウィン
日本公開/2011年2月11日
ジャンル/[ドラマ] [戦争]