『ソーシャル・ネットワーク』 友達いる?

 『ソーシャル・ネットワーク』というタイトルは、とうぜんFacebookそのものが代表するSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)のことだと思った。
 しかし、それでは映画の題材にならないだろう。デヴィッド・フィンチャー監督が描いたのはもう一つの意味、社会的な繋がりということだった。

 この映画は、Facebookを創設したマーク・ザッカーバーグと親友エドゥアルド・サベリンの、学生時代からの短期間を取り上げている。もっとも、その短期間でマークは冴えない一学生から裕福な経営者になるのだから、タイムスパンとしては充分だ。

 物語は、すでにマークとエドゥアルドが友達であるところから始まる。テンポを重視した本作は、二人が仲良くなるキッカケを描かないが、単にルームメイトだから仲良くなりました…では済まないほど対照的な人物に設定されている。
 なぜなら二人は、異なる時代の代表者だからだ。
 エドゥアルドは、保守的とも云われるハーバードと、古い時代を体現している。いつでもビジネスマン風のいでたちで、大学の伝統あるクラブへも入会を許可される人物だ。友達も多い。
 対するマークは、いつもカジュアルな格好で、クラブに入りたいと思っても実現しない変人だ。友達はたったの3人。

 Facebookを立ち上げた後のビジネスの進め方もまったく異なる。経済学専攻のエドゥアルドは、早く利益を出すことを考え、スポンサーを求めて足を棒にする。
 コンピュータ科学専攻のマークは、収益なんか後回しで良いと考えている。まずはこのクールなサイトを成長させて、利用者を拡大したいのだ。

 観客は、いまやマーク・ザッカーバーグが40億ドルの資産を持ち、フォーブス誌が発表した「世界で最も若い10人の億万長者」の第1位に最年少で選ばれたことを知っている。
 だからこそ、この映画は良識あるカッコいいエドゥアルドと変人マークを対比させて、マーク・ザッカーバーグの成功の秘密に観客の関心を惹きつける。


 ここで私は、1983年の映画『ライトスタッフ』を思い出していた。
 世界初の有人宇宙飛行を目指す男たちを描いたこの作品では、冒頭で空軍のテストパイロット、チャック・イェーガーの雄姿を描く。
 ところがイェーガーの活躍とは別に、パイロットの中に宇宙飛行士を目指す者が現れる。飛行機のパイロットであることを誇りにしているイェーガーにとっては、猿でもできる宇宙飛行を目指すヤツなんてパイロットの風上にも置けない。イェーガーの活躍を見ていた観客は、みんな彼に同感だ。
 だが、時代は宇宙開発競争に注目していた。今だって宇宙飛行士の名前は国中が知っているけれど、飛行機のパイロットで宇宙飛行士に匹敵するほど名を知られる人はいないだろう。
 『ライトスタッフ』では、空軍パイロットの雄姿に目を配りつつも、「宇宙飛行」という新分野を切り開いた男たちが栄光に包まれる。

 『ソーシャル・ネットワーク』でも同様である。
 たしかに、エドゥアルドはいいヤツだ。ハーバードの伝統的な校風にも合うだろう。マークなんて、現実に高飛車で尊大な人物という定評を確立している
 しかし、新しい分野で成功していくのが、いいヤツとは限らない。マークはもとより、マークに輪をかけて無茶苦茶なショーン・パーカーらの進め方が、現実のビジネスでは有効だったのだ。
 本作の基になったノンフィクション『facebook』では、シリコンバレーの起業家ショーン・パーカーの想いが紹介されている。
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シリコンバレーではビジネスではなく、戦争が起きている。そこで生き残るには、大学の教室でビジネスについて教えてくれるようなことをやっていてはダメだ。
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 数多くの企業を調査した三品和広氏も、事業の寿命を乗り切って永続する企業への道を開くのは、「異端児」と言うべき人物だと主張する。
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生徒会長や運動部の主将に選ばれる人は、正論を貫く優等生的な人物が多い。そうした典型的なリーダーは、どうしても常識にとらわれがちだ。世の中を斜めに見て、人とは異なる物の見方をするのは難しい。
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 ハーバードの秀才であるエドゥアルドが、ソーシャル・ネットワーキング・サービスのようなネットワーク外部性の高いビジネスにおいて重要なのは、ちまちま利益を出そうとすることではなく、赤字でも利用者数を増大させることだと気づかないはずはない。2004年当時なら、赤字の克服よりも事業拡大を優先したAmazon等の事例を良く知っていたはずだ。
 しかし、オフィシャルサイトによれば、脚本家アーロン・ソーキンは、本作を「アンチヒーローであるマークが、途中で代償を払うことによって、最後に悲劇的なヒーローになる」物語だと考えていたという。
 この映画でのエドゥアルドは、マークとは違うもの、あるいは失うものの象徴なのだ。

 そんなエドゥアルドが、そもそもなぜマークと友人になったのか。単なるルームメイトを越えて、事業の共同設立者になったのはなぜか。
 映画はそこに深入りしない。本当にエドゥアルドとマークにルームメイトであることの他に共通点がなければ、親友になりはしまい。冒頭に二人が親交を結ぶシーンでもあれば、私たちは「最後に悲劇的なヒーローに」なったマークに、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』のような感慨を覚えたことだろう。
 代わりにこの映画の作り手が冒頭に用意したのは、マークの変人ぶりを印象付ける会話劇である。以降、映画はマークの行動の理由や背景の説明を省略してしまうが(何しろマーク本人には取材できていない)、マークを変人だと思っている観客は取り立てて疑問に感じない。効果的なオープニングである。

 そして映画は、変人に栄誉を与えない。「悲劇的なヒーロー」に見えるように演出している。
 なぜなら、私たち観客の多くは、残念ながら新しいビジネスを切り開けるほど変人ではないからだ。変人が富も名声も手にして幸せになりました、では、共感できないのである。
 それが現実なのだとしても。


 もっともマーク・ザッカーバーグ本人は、現在の恋人とはFacebook開設以前から交際していると述べ、人付き合いもできることを示そうとしているが。


ソーシャル・ネットワーク (デビッド・フィンチャー 監督) [DVD]ソーシャル・ネットワーク』  [さ行]
監督/デヴィッド・フィンチャー
出演/ジェシー・アイゼンバーグ アンドリュー・ガーフィールド ジャスティン・ティンバーレイク アーミー・ハマー マックス・ミンゲラ ブレンダ・ソング ルーニー・マーラ
日本公開/2011年1月15日
ジャンル/[ドラマ] [青春] [伝記]
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『アンストッパブル』 45年前の日本人は正しかった!


 『アンストッパブル』の冒頭のカットに、ピンと来た人も多いだろう。

 朝の操車場。
 仕分線に並んだ多くの列車。
 ガタタン、ガタタンと、貨車の触れ合う音が響く。

 これは、黒澤明監督が撮ろうとしていた『暴走機関車』の出だしと同じである。
 ヒューマンドラマの集大成たる『赤ひげ』を発表するも、大幅な予算超過のために東宝から専属契約を解除された黒澤明は、1966年、活躍の場をハリウッドに求めた。その第一弾として、1963年に起きた事件をヒントに、久しぶりのアクション映画に取り組んだのが『暴走機関車』である。

 機関士が不在のまま暴走を始める機関車。
 そこには、二人の脱獄囚が隠れ潜んでいた。その二人――まだ30代のピーター・フォークと、60を超えたヘンリー・フォンダが演じる脱獄囚は、もちろん機関車のことなんてまったく知らない。
 どんどん速度を増してしまう暴走列車。鉄道会社のコントロールタワーでは、列車同士の衝突を避けるために、他の列車に移動指示を出しつつ、何とか暴走列車を止めようとしていた。しかし、行く手には古い橋や急カーブがあり、猛烈な速度で突っ込んだら大惨事は免れない。はたして脱獄囚たちは助かるのか。
 世が世なら、黒澤明の迫力ある演出で、こんなスピード感あふれるアクション映画が撮られるはずだった。

 『暴走機関車』の企画が流れてしまった理由はいくつかあろうが、最大の原因は米国の脚本家が、黒澤明、菊島隆三、小国英雄の書いた脚本をがたがたにしてしまったことだという。
 黒澤明監督は、米国の脚本家にセリフの英訳を依頼するつもりだったが、アメリカのシステムでは作品にシナリオライターのクレジットがつくためにはその脚本の根本的な改革をやらねばならないことから、米国側脚本家シドニー・キャロルは構成を大幅に変えだした。そしてエンバシー社も、シドニー・キャロルの脚本をもとにするといってきたのだ。[*1]

 黒澤明は、機関車が走り出してしまうところから映画を始めて、とにかく機関車の暴走だけを中心にしたノンストップ・アクションを撮りたかった。しかし、米国側は二人の脱獄囚の背景や機関車が暴走に至る経緯等を書き込むべきだと主張した。
 結局この企画は流れてしまい、以降、世界の映画ファンは黒澤明のアクション映画を観ることができなくなる。


 その後この企画は、1985年にアンドレイ・コンチャロフスキー監督によって映画化されるものの、これが全然面白くない。
 とにかく列車が暴走するまでが長い。主人公二人の刑務所暮らしがあり、脱獄する過程があり、列車の中に身を潜めるまでがありで、観客が観たい暴走機関車がなかなか登場しない。「脱獄囚の背景や機関車が暴走に至る経緯等」を書き込んだ結果がこれである。
 コンチャロフスキー版の脚本は、シドニー・キャロルとは別に、新たにジョルジェ・ミリチェヴィク、ポール・ジンデル、エドワード・バンカーの3名が手がけているのだが、ハリウッドにはくどくど背景説明をしないといけないという掟でもあったのだろうか。

 映画が始まりしばらくしてから、列車はようやく暴走し出す。
 観客としては列車暴走のスピード感と緊迫感を味わい、脱獄囚たちが生還できるかどうかを固唾を呑んで見守りたいのに、ここでなぜか刑務所長が追跡してきて、映画は暴走列車などそっちのけで刑務所長と囚人との対決になってしまう。これでは、ノンストップ・アクションなんだか、追跡劇なんだか判らない。

 黒澤版のことを何も知らずにコンチャロフスキー版を観れば、それはそれで別の感想があったかもしれない。
 とにかく、黒澤明、菊島隆三、小国英雄が書いた当初の脚本は、機関車の暴走に的を絞ったシンプルな作りで、これを黒澤明が監督していたら、どんなにか面白かったろうと悔やまれる。
 そして、登場人物の背景やら機関車が暴走に至る経緯やらが必要だと考えた米国側は、なんて愚かなんだろうと思う。


 ただ一つ、2011年になって云えることは、黒澤明は正しかったということだ。
 だって、『アンストッパブル』が面白いんだから。
 トニー・スコット監督の『アンストッパブル』では、朝の操車場で機関士たちが作業しているうちに何となく列車が暴走し始める。これまでのアメリカ映画なら、まずは機関士や車掌の朝の風景とか、家族との会話とか、出勤する姿とか、そんなことを描きそうなものだが、『アンストッパブル』はそんなことを端折って、速やかに暴走シーンに取り掛かる。

 暴走の始まりも黒澤流だ。
 黒澤監督は、次のように述べていた。
---
僕は、何が原因かはっきりわからなくても、とにかく機関車が突然、暴走をはじめてしまった。その突発的な出来事に対して、関係者たちは、とにかく何かをしなければならない。いったい、どうしたらいいのか、というスリルでスタートさせるべきだと考えるわけです。

阪上仁志氏が掲載した「キネマ旬報」1967年1月下旬号インタビューから ―
---

 『アンストッパブル』も同様で、なぜポイント切り替えが違っていたのか、なぜ列車が減速しなかったのかなんて説明は省略し、とにかく列車が予定外のコースをグングン走り出す。
 そして、黒澤版『暴走機関車』でやるはずだったことを、次々に観せてくれるのだ。

 もちろん、米国映画お約束の、家族の絆とか親子の問題も出てくるが、これはもう盛り込まざるを得ないのだろう。マーク・ボンバックの脚本は、背景説明を暴走中の会話等にとどめており、トニー・スコット監督も家族の描写をハリウッド映画で許される限り手短に切り上げ、とにかく列車の暴走ぶりに専念している。
 何もトニー・スコット監督が黒澤版『暴走機関車』を意識したと云いたいわけではない。『アンストッパブル』には、黒澤明ならやらないだろうと思われる描写もある。そもそも『アンストッパブル』は、2001年5月15日にオハイオ州で起こった実話に基づく映画であり、『暴走機関車』とは元ネタが異なる。
 ただ、列車の暴走を題材に、本当に面白い映画を作ろうとしたら、到達する結論は似てくるのだろう。

 黒澤版『暴走機関車』の企画が流れて45年が経ってしまったが、『アンストッパブル』の手に汗握る迫力に接すると、やっぱり黒澤明の考えは正しかったと思わずにはいられない。


[*1] 白井佳夫「『トラ・トラ・トラ!』と黒澤明問題ルポ」(『黒澤明集成III』 キネマ旬報社 収録)

[*2] 黒澤版『暴走機関車』については、次のサイトが手際良くまとめておられる。

 「黒澤 明監督 幻のノンストップ・サスペンスアクション - 暴走機関車-」

 黒澤明版シナリオ『暴走機関車』(1966)挫折した、男だけが登場する武骨な作品。
 (ここでは、『暴走機関車』と『新幹線大爆破』(1975年)との類似も指摘してらっしゃる。)

[*3] 他の参考文献
 『異説・黒澤明』 文藝春秋編 (1994) 文春文庫ビジュアル版

 『全集 黒澤明』第5巻 (1988) 岩波書店


アンストッパブル ブルーレイ&DVDセット〔初回生産限定〕 [Blu-ray]アンストッパブル』  [あ行]
監督・制作/トニー・スコット  脚本/マーク・ボンバック
出演/デンゼル・ワシントン クリス・パイン ロザリオ・ドーソン
日本公開/2011年1月7日
ジャンル/[アクション] [サスペンス] [パニック]
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『キック・アス』 あなたが戦わない理由は?

 Wikipediaに "Japan is the only country that nears the US in output of superheroes." と解説されているように、おそらく世界でもスーパーヒーローを輩出している大国は日米2ヶ国である。
 しかしながら、私が以前の記事(『SPACE BATTLESHIP ヤマト』を惑わせる3つの「原作」)の注釈で「ウルトラマンとスーパーマンの誕生には、文化的・歴史的・宗教的な違いがある。」と書いたように、その出自は大きく異なるだろう。

 端的に示そう。
 日米のスーパーヒーローは、戦う理由が違う。

 たとえば、東 京一(あずま きょういち)作詞の『ウルトラマンの歌』で「光の国から 地球のために」と歌っているように、石森章太郎作詞の『レッツゴー!!ライダーキック』で「世界の平和を 守るため」と歌っているように、ウルトラマンや仮面ライダーは地球のため、世界の平和のために戦っている。まことに壮大な戦いである。

 それに対して、米国のスーパーヒーローはどうか。
 スーパーマンはメトロポリスを守っている。バットマンはゴッサムシティ、ザ・スピリットはセントラル・シティを守るために戦っている。もちろん、各ヒーローは1都市にとどまらない戦いに参画することもあるが、基本的にはホームグラウンドを持ち、街を悪漢から守っている。

 最近の例で判りやすいのは『キック・アス』だ。
 映画の『キック・アス』は原作に比べればずいぶんマイルドで(ぬるくて)コメディタッチ(万人向け)だが、それでも日本公開時のレイティングはR15+(15歳未満の入場禁止)だった。
 この過激な映画のヒーローは、一介のオタク少年である。スーパーヒーローになろうと決意した彼の行動は、次の二つに集約される。

 ・一般人とは違う扮装をする。
 ・街を歩いて悪漢をやっつける。

 すなわち、街の自警団の兄さんと変わらない。
 街で出くわす悪事に見てみぬ振りをしないこと、悪漢は自分の手で片づけること、これが米国のスーパーヒーローの根幹である。
 その源流は、米国の歴史と文化に求められるだろう。開拓時代、組織立った警察機構がないなかで、街を守るのは保安官だった。さらに云えば、自分の牧場を守るのは自分自身だった。往年の西部劇を見れば、牧場主や農場主は一様に銃を持ち、牛泥棒たちを追い払っている。
 武装してでも自分の身/家族/街は自分で守るのがスーパーヒーローの流儀であり、アメリカ合衆国憲法修正第2条に「人民が武器を保有しまた携帯する権利は、これを侵してはならない。」と規定するゆえんでもある。

 『キック・アス』は、他のスーパーヒーローのような超能力や超兵器は持っていないため、一風変わったヒーロー物のように見えるが、とんでもない。超能力や超兵器なんてなくたって、街の悪漢は自分の手で懲らしめる点で、ヒーローの原点を追求した作品である。
 同じく、ちょっと変わったヒーロー物として人気を博したのが、1981年からテレビ放映された『UFO時代のときめき飛行 アメリカン・ヒーロー』だった。『キック・アス』とは正反対に、悪漢退治をするつもりなんてまったくなかったのに、超能力や超兵器を持ってしまった高校教師の物語である。最初はしぶしぶだったものの、やはりアメリカのヒーローらしく、彼も犯罪者を追うために奮闘した。

 映画『キック・アス』は、2008年から始まったマンガの映画化だが、原作とは大きな違いがある。
 その一つは、キック・アスに近づくヒーローチームのビッグダディとヒット・ガールの扱いだ。原作のビッグダディは、顔を隠しただけの大男である。ヒーローらしい扮装をしているわけではない。10歳の少女ヒット・ガールもマントを付けてはいるものの、取り立てて変わったコスチュームではない。原作の追求するヒーロー像は、悪事を見逃さずに立ちあがるという一点に集約しており、見てくれは抑え気味だからだ。
 しかし、映画版のビッグダディは明らかにバットマンを模した扮装をしており、ドミノマスクを付けたヒット・ガールはロビンそのものである。これは映画が見た目を重視するからでもあろうが、他ならぬバットマンとロビンのダイナミック・デュオを真似ることで、他の作品へのオマージュにもなっているのだ。
 それがアメコミ史のエポックメイキングたる『ダークナイト・リターンズ』だ。
 この作品で、バットマンを引退していたブルース・ウェインは、街に溢れる悪を許せず、遂にバットマンに復帰する。周囲の反対を押し切って、少女にロビンの格好をさせ、狙い定めた相手をぶちのめして回る。そんな行為を国家体制は許さないのだが、老バットマンは聞く耳を持たない。そこには、自警行為に取りつかれた男の狂気があった。政府はついに、スーパーマンにバットマン討伐を命じることになる。

 1986年に発表された『ダークナイト・リターンズ』の影響は甚大だった。
 『ダークナイト・リターンズ』により、みんなのヒーロー・バットマンは、暗い怨念に狂える男になった。この作品の衝撃を受けて、ティム・バートン監督は映画『バットマン』(1989年)を作り、クリストファー・ノーラン監督はタイトルもそのまま『ダークナイト』(2008年)を作るわけだが、ヒットすることを義務付けられた大作映画には、マンガ『ダークナイト・リターンズ』の狂気に迫ることができなかった。
 その点で映画『キック・アス』は、原作を離れてビッグダディとヒット・ガールを『ダークナイト・リターンズ』の老バットマンと少女ロビンに近づけることで、バットマン映画ができなかった狂える自警団を再現してみせた。この映画は、原作よりもぬるくて万人向けにせざるを得なかった代わりに、アメコミファンならみんな知ってる『ダークナイト・リターンズ』を匂わせるという手に出たのである。
 そして、西部開拓時代でもないのに、スーパーヒーローが街をうろつき暴力を辞さない狂気を、オタク少年キック・アスの目を通して突き付けた。

 米国のスーパーヒーローが西部のガンマンの延長である以上、その敵役は牛泥棒たちの延長である。スーパーマンの宿敵レックス・ルーサーも、バットマンの宿敵ジョーカーも、X-メンの宿敵マグニートーも、悪事を働きはするものの、自分の生活と自分の人生がある一人の人間だ。
 開拓時代のガンマンが、実際のところ人を殺めたかどうかはともかく、少なくとも子供やティーンエイジャーが読むアメコミでは、彼ら悪漢とて命を尊重される。有無を言わさず殺すのではなく、警察に突き出すなり、力を奪うなりで事件は解決を見る。
 だから、ビッグダディとヒット・ガールが有無を言わさず殺す場面に風刺が効いてくるのである。
 『キック・アス』は、街の悪事に頬かむりする人々と、行き過ぎた自警行為に走るヒーローの双方に眼差しを向け、正義とは何かをあなたに問い質す。

               

 一方、日本のスーパーヒーローはどのような出自によるのだろうか。
 ウルトラマンは地球のため、仮面ライダーは世界の平和ために戦っているそうだ。本当だろうか。

 私は先の記事において「日本のヒーロー物の悪役は消耗品だ。」と書いた。事実、彼らは毎週殺されている。
 この記事に対して、次のような質問をいただいた。

> スーパーマンの敵とウルトラマンや仮面ライダーでの「悪役」の扱いの差はそもそもスーパーマンの敵は「人間」なのにウルトラマンや仮面ライダーの敵は「人間じゃない存在」という違いのせいではないでしょうか?

 この質問は、更に二つの要素に分解することができる。

 (1) ウルトラマンや仮面ライダーの敵は「人間じゃない存在」なのか?
 (2) 「人間じゃない存在」なら殺して良いのか?

 (1)については、幾つもの反例が存在する。たとえ、ウルトラマンが戦う宇宙*人*や、仮面ライダーが戦う怪*人*は「人間じゃない」としても、アイアンキングの敵である不知火族や、忍者キャプターの敵である風魔忍群は人間である。奇抜な扮装をし、怪しい術を使うとはいえ、彼らは人間なのに殺されている。
 それに、仮面ライダーが戦う怪人は、ライダーと同じ改造人間であり、元をただせば一般市民だ。ウルトラマンが戦う宇宙人も、宇宙航行できるほどの知的生命体であるはずだ。にもかかわらず、彼らは怪獣とひと括りにされ、その人間性は無視されている。
 初の国産テレビヒーロー『月光仮面』は、「憎むな、殺すな、赦(ゆる)しましょう」をモットーにしていたし、同時期の『まぼろし探偵』も人を殺めることはなかった。しかし、これら温厚なヒーローたちは、ウルトラマンや仮面ライダーによって駆逐されてしまう。

 ここで面白い話がある。
 『月光仮面』が現代版『鞍馬天狗』として企画されたように、日本のヒーロー物のルーツの一つが時代劇であることは論をまたないであろう。米国のヒーローが西部のガンマンをルーツとするのと同様である。その嵐寛壽郎主演の映画『鞍馬天狗』を、原作者の大仏次郎氏は「人を斬りすぎる」と非難したそうだ。そこでみずから映画を作り、人を殺さずに大儀を唱える鞍馬天狗を描いたのだが、さっぱり客が入らなかったという。人々は、バッサバッサと敵を切り倒す場面がなければ納得しなかったのである。
 まさしく、八手三郎作詞『仮面ライダーのうた』で「ぶちのめせ」「ぶちかませ!」と歌うがごとく、ヒーローには容赦ない態度が求められた。
 こうしてスーパーヒーローたちは、怪獣・怪人という消耗品たちを、際限なく殺し続けることになった。


 ここでひとまず、ヒーローの敵が、サタンの爪のような悪党たちから、怪獣や怪人という異形の者に変化したことについて触れておきたい。
 その契機となったのは『ウルトラマン』だろう。それは先行する『ゴジラ』(1954年)の成功をテレビに移植し、おびただしいゴジラの亜流を登場させた。
 ゴジラとは得体の知れない化け物、人間をはるかに凌駕する存在である。この恐怖の象徴が暴威を振るうから『ゴジラ』は怖い。したがって、ゴジラを倒すのは魔物を退治することに他ならない。その源流をたどれば、ヤマタノオロチ等の神話に行きつくことだろう。
 だから、魔物を退治するウルトラマンは、神様や神話の英雄に相当する。私たち民衆よりも高い次元の存在だ。初代『ウルトラマン』(1966年)第7話では、バラージの街にウルトラマンの神像が奉られていたし、『ウルトラ6兄弟VS怪獣軍団』ではアジアの神様ハヌマーンと共演した。

 しかし、米国には『ゴジラ』に相当する作品として『キング・コング』(1933年)や『原子怪獣現わる』(1953年)がありながら、それらとスーパーヒーローにほとんど何の関係もないように、日本のスーパーヒーローも今や『ゴジラ』とは関係がない。
 当のウルトラシリーズにおいても、怪獣を「人間をはるかに凌駕する存在」への「恐怖の象徴」とみなしていた作品がどれだけあるだろうか。怪獣たちはあっという間に単なる猛獣となり、宇宙人の攻撃兵器の一つになり下がった。同時に、神性を帯びていたウルトラマンも、暴漢を殴りつけるプロレスラーに近づいていった。家族構成が明らかにされ、タロウ少年の成長が物語られ、彼らは民衆と同じレベルになっていった。
 そしてウルトラシリーズは、親しみやすい民衆化と、神性を取り戻そうとする試みとのどっちつかずでいるうちに、存在感をなくしてしまった。
 たとえば、株式会社バンダイナムコホールディングスの2011年3月期における第2四半期決算補足資料から、キャラクター別売上げを見てみよう。

バンダイナムコ

 ウルトラマンは、バンダイナムコグループ全体の報告対象に挙がりすらしない。のみならず、トイホビー事業に関してみれば、2010年度の通期見込は28億円しかなく、これは仮面ライダーのおよそ7分の1、機動戦士ガンダムの5分の1以下、スーパー戦隊やアンパンマンの3分の1以下でしかない。この数字には驚かれる方も多いだろう。大きな企業なら、営業担当者1~2名でもこれくらいの売上を持っていよう。
 しかも、円谷プロダクションの売上高そのものが約35.8億円だという(株式会社ティ・ワイ・オーの2009年7月期有価証券報告書)。
 産業としてのウルトラシリーズはこういう規模なのである。

 とどのつまり、『ゴジラ』とその流れを汲んだ『ウルトラマン』は、怪獣物をジャンルとして定着させるには至らなかった。せいぜい覆面を被った悪漢を敵とはせず、一見すると人間らしくない者を敵にすることで、殺しへの抵抗感を弱めただけなのかもしれない。

               

 ここで改めて、「(2)『人間じゃない存在』なら殺して良いのか?」という点を考えてみよう。

 これまで述べたように彼らは人間である。奇怪な格好をさせられ、醜い容姿であったとしても、あくまで人間の延長上にいる。
 私もさすがにゴジラが人間だというつもりはないが、スーパーヒーローの敵はゴジラからほど遠い。ウルトラシリーズの最新作『ウルトラマンゼロ THE MOVIE』の敵ですら、皇帝や将軍や参謀という役職を持ち、人語を解し、コミュニケーションが成立する(脅しや悪態だが)。
 では、彼らを殺してもいいのか?
 確かに彼らは作中では人間扱いされていないが、では「人間じゃない」とは何なのか。殺していいほど「人間じゃない」とは?
 そして「人間」とは何なのか?

 論を進めるには、日本のスーパーヒーローの原点たる『仮面ライダー』(1971年)に立ち返るのが良いだろう。株式会社バンダイナムコホールディングスのキャラクター別売上からも判るように、今やスーパーヒーローとは仮面ライダーとその系譜のことだ。
 『仮面ライダー』『変身忍者嵐』『人造人間キカイダー』『ロボット刑事』『イナズマン』、これら石森章太郎氏が考案・関与したヒーローたちにはある共通点がある。特撮ファンならご存知だろう。彼らは裏切り者である。
 仮面ライダーはショッカーに作られた改造人間である。裏切らなければ、バッタ男として人々を襲っていただろう。嵐も血車党の一員である。キカイダーはダークロボットと同じく光明寺博士が作った、いわばダークの兄弟ロボットである。ロボット刑事Kは霧島家の姉弟ゲンカの産物だ。イナズマンは母の属する新人類帝国に刃向っている。
 『仮面ライダー』を企画するに当たって、東映では先行する『タイガーマスク』の人気要因を分析したとのことで、梶原一騎原作の『タイガーマスク』(1968年)もやはり「虎の穴」の裏切り者だった。さらにそれより前には石森章太郎氏がブラックゴースト団を裏切った『サイボーグ009』(1964年)を書いている。石森作品について云えば、もっと後年の『アクマイザー3』や『大鉄人17』も同様に裏切り者である。

 『サイボーグ009』や『仮面ライダー』に見られる特徴、すなわち、
 ・敵味方一人ひとりが異なる特殊な技を持つこと
 ・主人公は集団からの離反者であること
 ・離反しつつも元いた集団の特異性(改造人間であること等)を引きずり、孤独感を抱えていること
などを鑑みれば、石森章太郎氏の発想のべースとなったものが判る。
 先に私は、ヒーロー物のルーツが時代劇であると述べたが、これらの特徴を備えているのは時代劇の中でも忍者物、抜け忍の姿である。
 彼らは忍者集団の一員として育ちながら、集団の規律を乱し、追われる破目になった者の現代の姿なのだ。竹熊健太郎氏と相原コージ氏は『サルでも描けるまんが教室』において、かつての忍者マンガが姿を変えたのが後のエスパーマンガであると述べたが、その端緒を開いたのが石森章太郎氏であろう。

 はたして、集団から離反した忍者は死ぬまで追われるものであったのか、その事実のほどは詳しい研究に譲るが、集団から離反することの悲哀を私たちは知っている。
 私たちは日々集団の一員たる努力をしている。仲間内の空気を読み、逸脱しないことに懸命だ。多くの場合、会社を辞めたら会社には戻れないし、公園の主婦たちに入り込めなかったら公園に居場所はない。地域的なムラ社会は崩れつつあっても、村八分を恐れる気持ちは変わらない。
 私たちが住んでいるのは、一番最初の憲法の一番最初の条項に「和をもって貴しとなす」と定める国だ。規律を乱さず集団の一員たることが最も重視されるのだ。

 ただし、『仮面ライダー』等を考えるときにポイントとなるのは、ヒーローが離反した「あの集団」は彼らの集団であって、「私たちの集団」ではないということだ。
 私たちの与り知らない掟を定めた「あの集団」は、私たちとは関係ない。ショッカーも血車党も、私たちとは別の集団である。では、「あの集団」から離反した者は、「私たちの集団」の一員たり得るのか?

 違う。
 私たちの会社が別の会社の受け皿ではないように、人々がよそ者を歓迎しないように、「私たちの集団」はあくまで「私たちの集団」であり、「あの集団」に離反者がいようがどうしようが関係ない。
 私たちは、旧知の人間だけで集まって安心社会を形作っているのだ。
 以前引用した池田信夫氏の記事をご記憶の方もいよう。
---
伝統的な小集団では、「村八分」のような繰り返しゲーム型のメカニズムが機能するが、こうした安心社会では異分子を排除するので、未知の人は疑うことがデフォルト値になっている。これに対して、契約ベースの信頼社会では基本的な約束は守ることが共通のルールになっている。

したがって囚人のジレンマの実験を行なうと、「集団主義」と思われている日本人のほうが、猜疑心が強いためナッシュ均衡(互いに裏切る)に落ち込みやすく、アメリカ人のほうがパレート最善解(互いに協力する)に到達しやすい。これは著者が『信頼の構造』で初めて明らかにした実験経済学の業績だが、今の日本はムラ型から契約型への過渡期にあるという。
---

 ムラ社会では、近づく者が泥棒か正直者かは関係ない。よそ者がいたら安心できないのだ。ムラの住人じゃない者、ムラの掟に従わない者は、排除しなければならない。
 だから、「人間じゃない存在」という表現は充分ではない。「我々のムラの人間じゃない存在」をやっつけるのだ。人間扱いするのは、我々のムラの住人だけで良いのだから。そして、大江健三郎氏が『同時代ゲーム』(1979年)において集団を「村=国家=小宇宙」と表現したように、「私たちの集団」を守ることこそが、世界の平和である。

 ヒーロー物を見ていて、疑問に感じないだろうか。
 たった1人、せいぜい数人で戦うだけなのに、どうしてこうも軽々しく「世界の平和を守る」などと口にできるのだろうか。
 それは「私たちの集団」が決めた"平和"でしかないのに。そこには、別の集団の存在を認め、共存する、あるいは多様性を受容するという観点があるだろうか。


 さて、ヒーローはどうすれば良い?
 「あの集団」を離反してしまい、さりとて「私たちの集団」の一員でもない者は、どうすればいいのだ?

 証明するしかない。
 「あの集団」の者ではないことを、「私たちの集団」のために役立つことを、証明してみせるのだ。
 もしも「あの集団」が近づいたら、お前が防波堤になるのだ。「私たちの集団」とは違う連中は排除しなければならない。それをお前がやってみせろ。そうすれば「私たちの集団」に居させてやろう。

 だから、ヒーローは戦い続けなければならない。
 自分の居場所を見つけるために。

               

 対して私たち――すでに集団の一員である私たちは、その戦いを応援をするばかりであった。
 『キック・アス』では、主人公に刺激されて、みんながヒーローとして振る舞い始めのだが。

 池田信夫氏は次のように続ける。
---
Zuckerによれば、アメリカでも19世紀初めまではムラ型の集団が主流だったが、社会の流動性が高いため、全国的な鉄道網などができるにつれて契約ベースの社会に移行したという。
---

 先に私は、武装してでも自分の身/家族/街は自分で守るのが米国のスーパーヒーローの流儀だと書いた。
 しかし2009年、遂に仮面ライダーも自分たちの住む街「風都(ふうと)」を守って戦った。

 会社や地域や家庭などの有縁ネットワークが弱まる中で、私たちがよって立つ「私たちの集団」は崩壊しつつあるのかもしれない。
 日本でもこれからは、みんながヒーローとして振る舞うのだろうか。


[*]本稿を執筆するに当たっては、こちらの論考に刺激されるところがあった。
 この場を借りて御礼申し上げます。


キック・アス Blu-ray(特典DVD付2枚組)キック・アス』  [か行]
監督・制作・脚本/マシュー・ヴォーン 脚本/ジェーン・ゴールドマン
原作/マーク・ミラー、ジョン・S・ロミタ・Jr
出演/アーロン・ジョンソン クリストファー・ミンツ=プラッセ マーク・ストロング クロエ・グレース・モレッツ ニコラス・ケイジ リンジー・フォンセカ
日本公開/2010年12月18日
ジャンル/[アクション] [コメディ] [青春]
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『ウルトラマンゼロ THE MOVIE 超決戦!ベリアル銀河帝国』はスペースオペラの鑑だ!

 前作を観て、心配なことがあった。
 前作『大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説 THE MOVIE』は、ファンが観たいと思っていたもの、これまでは観られなかったものを、キッチリ観せてくれてサービス満点であった。名のみ知られた謎の世界"光の国"、続々と現れるウルトラマンの大軍団、まさしく夢のオールスターゲームだった。

 しかし、それは円谷プロが40年以上にわたって蓄積してきたウルトラシリーズの大放出を意味する。これをやったら、もう後が続かないのではないか。
 前作は、そんな心配をしてしまうほどの大盤振る舞いだったのである。


 しかし、その心配は杞憂であった。
 それどころか、シリーズの続け方としては、まことに憎い作りであった。

 『ウルトラマンゼロ THE MOVIE 超決戦!ベリアル銀河帝国』では、まず前作でデビューした新ヒーロー・ウルトラマンゼロが、たった一人で別の宇宙に旅立つ。
 こうして、ウルトラマンたちに取り囲まれた環境から出て、歴代のウルトラ戦士と同様に、ゼロも異星で孤独に戦うヒーローとなる。
 このように、いったんはウルトラシリーズの原点に立ち返るのだが、もちろんそれだけでは前作よりスケールダウンして見えてしまう。さりとて、またウルトラマンの揃い踏みをやるわけにもいかない。

 そこで本作では、なんとウルトラシリーズ以外のヒーローが登場する。
 それが、ジャンボーグA、ファイヤーマン、ミラーマンの大集合である。
 もちろん、これらのヒーロー作品はまったく異なる設定に基づいてるので、その設定を引きずったままでは一同に会せない。そこで、ベリアル銀河帝国と戦うそれぞれの星の戦士ということにして、デザイン等をリニューアルした。
 これが実に上手い!
 ファイヤーマンはグレンファイヤー、ジャンボーグAはジャンボット、ミラーマンはミラーナイトとして登場するのだが、それぞれのオリジナルの特徴を活かした改変となっている。

 オリジナルのファイヤーマンは、色が赤いだけで炎らしい造形ではなかったが、グレンファイヤーはたてがみを炎に見立てて、いかにも炎の戦士に相応しい造形になっている。
 ジャンボットは、ジャンボーグA以上にロボットらしいデザインになり、円谷プロ作品の中でも珍しく人間が搭乗する巨大メカという点を強調している。
 そして快哉を上げたいのはミラーナイトだ。そのデザインは、テレビ放映されたミラーマンではなく、まだテレビ化が決定する前に雑誌展開されていたころのデザインが元になっている。当時の子供たちの中には、テレビ版よりも雑誌版ミラーマンの方がカッコイイと思う者も多かったのではないだろうか。その不満が、40年を経て遂に解消されたのである。

 そして各ヒーローが活躍する場面では、ぞれぞれの主題歌をアレンジした音楽を流すという気の使いよう。
 旧作に思い入れのあるオールドファンも、大喜びすること間違いなしである。


 もちろん『ウルトラマンゼロ THE MOVIE 超決戦!ベリアル銀河帝国』は、オールドファンが往年のヒーローを懐かしむための作品ではない。
 新ヒーロー・ウルトラマンゼロの独り立ち、懐かしのヒーローの復活といった要素をちりばめながら、本作は一本筋の通ったスペースオペラである。

 そもそも、ウルトラ戦士が宇宙警備隊を結成し、凶悪な宇宙人と戦うというウルトラシリーズのコンセプトは、スペースオペラに近いものがある。実際、居村眞二氏らのマンガ版も、スペースオペラらしさを兼ね備えていた。
 本作は、それをとことん追求した作品であるといえる。
 映画史における代表的なスペースオペラであるスター・ウォーズ・シリーズを思い浮かべてもらっても良い。平和な星々を侵略する銀河帝国、魔の手から逃れるお姫様、粋な宇宙海賊ども、星をも砕く超兵器、宇宙戦艦の大群による宇宙戦。ここには、スペースオペラに必要なものが揃っている。
 各惑星の宇宙艦隊が集結して、戦艦が宇宙を埋め尽くすところなど、エドモンド・ハミルトンの星間パトロールシリーズ『銀河大戦』あたりを思い出して興奮した人も多いのではないか。
 『スター・ウォーズ』以降の宇宙戦がドッグファイトに重きを置いていたのに対し、本作が艦隊戦を重視しているのもスペオペファンとしては嬉しいところだ。やはりスペースオペラには、巨大戦艦同士の戦いが不可欠だ。

 宇宙物の映画としては、同時期に『SPACE BATTLESHIP ヤマト』が公開されているが、あちらにはスペースオペラの軽快さがない。派手な戦闘シーンを楽しみたい人は、ぜひとも本作へ足を運ぶべきだろう。


 一点、本作で残念なのは、ミラーマンが鏡や水面などの光を反射する物のあいだを移動できるという設定を知っていないと、どこから登場したのかよく判らないシーンがあることだ。
 この些細な点を除けば、過去の作品を知らなくても充分に楽しむことができるだろう。

 さて、本作はウルトラマンシリーズ45周年記念作品の第1作であり、冬には第2作が予定されている。本作がウルトラシリーズ以外のヒーローにも手を広げたとなると、次はいよいよトリプルファイターの復活だろうか。


ウルトラマンゼロ THE MOVIE 超決戦! ベリアル銀河帝国 メモリアルボックス(初回限定生産) [Blu-ray]ウルトラマンゼロ THE MOVIE 超決戦!ベリアル銀河帝国』  [あ行]
監督・脚本/アベ ユーイチ
出演/小柳友 濱田龍臣 土屋太鳳 石橋保 さとうやすえ ベンガル きたろう 平泉成 長谷川初範 萩原佐代子 石田信之
ナレーション/石坂浩二
日本公開/2010年12月23日
ジャンル/[SF] [特撮] [アドベンチャー]
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『ROCK&RULE/ロックン・ルール』 ベスト・オブ・ベスト アワード2010

 ムービープラスユナイテッド・シネマシネマカフェが共同で実施しているベスト・オブ・ベスト アワード2010
 その4部門に投票したので、内容を紹介する。

 投票に当たっては、当ブログで未紹介の作品であることを心掛けた。すなわち、ブログ記事としてまとめるには至らなかったが、機会があれば取り上げておきたかった作品である。


ベスト・ムービー(作品)

 『ROCK&RULE/ロックン・ルール』

 これが2010年のベスト・ムービーなのかというと、もっと優れた作品はあるだろうが、とにかく映画館で観ることはすっかり諦めていた本作が、制作から27年を経て公開された、その偉業を称えて投票した。
 独特のセレクトで知られるシアターN渋谷さんが、開館5周年の記念作品に選んでくれた。

 本作はこんな内容である――

 人類は死に絶え、犬や猫やネズミが文明を築いている未来世界。
 伝説のロックスター・ミックもといモックは、人気の低下に悩んでいた。アルバムの売れ行きも下がり気味である。
 そこでミックもといモックは、起死回生の策として、異次元の悪魔を甦らせようとする。悪魔の力を使って、再びスーパースターとして君臨するのだ。
 しかし、悪魔を甦らせるには、ある旋律をある"声"で歌う必要がある。その"声"の持ち主を探すミックもといモックが見つけたのは、無名のインディーズバンドのボーカル猫・エンジェルだった…。

 ――というわけで、本作は、エンジェルを誘拐し悪魔降臨ライブを行おうとするミックもといモックと、彼女を奪還せんとするバンド仲間たちのロック合戦を描いたアニメーションである。BGMにロックを多用した映画はたくさんあるし、ロックバンドを描いた映画も多いが、本作ほどロックとストーリーが絡み合い、ロックの高鳴りとストーリーの盛り上がりが融合した作品は珍しいのではないか。

 カナダのアニメなので、日本のアニメやディズニー作品に慣れている人には取っ付きづらい面もあるし、1983年の制作当時は実験的であったろう描写も今となってはいささか陳腐に感じられるかもしれないが、本作が奏でるロックと愛のメッセージは色褪せていない。
 無名バンドの曲はチープ・トリック、モックの曲はイギー・ポップ、エンジェルが歌う曲はデボラ・ハリーが提供し、その他ルー・リードやアース・ウィンド&ファイアーのイカした曲が全編を彩っている。


 『ROCK&RULE/ロックン・ルール』は日本未公開であり、DVD化もされていないため、この作品を知っているのは、昔レンタルビデオ屋をうろついて得体の知れないビデオを片っ端から見たような人くらいだろう。
 それでも見ている人は見てるもんだな、と実感できたのが嬉しい。

『ROCK&RULE/ロックン・ルール』 [ら行]
監督/クライブ・A・スミス
出演/ドン・フランクス スーザン・ロマン ポール・ル・マット
日本公開/2010年12月3日
ジャンル/[音楽] [SF]


ベスト・ディレクター(監督)

サヨナライツカ [Blu-ray] イ・ジェハン (『サヨナライツカ』)

 辻仁成氏の原作を日本人キャストで描いた韓国映画『サヨナライツカ』。
 映画には韓国も韓国人も登場しないので、日本映画だと思っている観客も多いのではないだろうか。日本市場にターゲットを定めた韓国映画界のしたたかさが窺われる作品である。

 しかし、私は何よりも本作のカメラワークに心酔した。
 主人公の歩みに合わせて前に進むカメラ。扉を開けると見知らぬ空間が飛び込んでくるフレームの広がり。バンコクの暑さと男女の情熱をカメラは見事に表現している。
 一方、日本のシーンでは、カメラがほとんど動かず息苦しい。

 色合いも、バンコクのシークェンスは暖色系、日本のシークェンスは寒色系に分けている。
 ヤノット・シュワルツ監督は『ある日どこかで』を撮るときに、現在のシークェンスはコダックのフィルム、過去のシークェンスではフジのフィルムを使ったそうだ。私は技術的なことは判らないけれども、イ・ジェハン監督も『サヨナライツカ』を取るに当たって、バンコクと日本を対比するために工夫を凝らしたことだろう。

 もっとも、私は韓国映画のカメラワークにはいつも惹かれてしまう。
 韓国映画と私との相性がいいのかもしれない。

サヨナライツカ』 [さ行]
監督・脚本/イ・ジェハン  脚本/イ・シンホ、イ・マニ
出演/中山美穂 西島秀俊 石田ゆり子 加藤雅也 マギー
日本公開/2010年1月23日
ジャンル/[ロマンス]


ベスト・アクター(男優)

ギルティ 悪魔と契約した女 DVD-BOX 唐沢寿明 (『ギルティ 悪魔と契約した女』)

 2010年公開の映画では目立った活躍が見られなかった唐沢寿明さんだが、テレビドラマ『ギルティ』での演技が突出していたので、ベスト・アクターに挙げた。

 『ギルティ』という作品そのものの評価は置いておくが、唐沢寿明さんが演じたジャーナリスト堂島基一のキャラクターには度肝を抜かれた。
 こんな変な人物にはなかなかお目にかかれない。電話での「もしもしマリリン? ミジンコです。」という挨拶や、動画での「しっかり捻挫してる?」というメッセージには唖然とした。ミジンコも捻挫も、作品にはまったく関係ないのだ。どこからこんな言葉が出てくるんだ?
 このような脈絡のないアドリブ(あんなセリフが脚本に書かれているはずがない)や、奇怪なしぐさ(玉木宏さんの後ろにピッタリ密着して歩く等)により、堂島基一は単なるジャーナリストを超えた特異な人物になった。唐沢寿明さんのおかげで、一般社会からはみ出してしまった男の、不気味でもあり滑稽でもあるおかしさが浮かび上がっている。
 共演者を置いてきぼりにしかねないほどの弾けっぷりだが、私は唐沢寿明さんの演技が楽しみでこのドラマを見ていた。

 この人、変態や変質者の役に徹したら凄いと思う。


ベスト・アクトレス(女優)

さんかく 特別版(2枚組) [DVD] 田畑智子 (『さんかく』)

 いつも田畑智子さんに投票しているのだが、2010年も『さんかく』の演技が素晴らしかったので。
 『さんかく』という作品そのものも、たいそう面白くて、観終わって大満足だった。
 しかし、エンドクレジットを見て驚いた。田畑智子さんの名が先頭じゃないのである。劇場のポスターでも田畑智子さんの名は、高岡蒼甫さん、小野恵令奈さんに続いて三番目。

 えッ!?この映画、田畑智子さんが主演じゃないの?

 三人だけが出ずっぱりの映画なので、ストーリー上は誰がメインというわけでもないのだが、私はてっきり田畑智子主演映画だと思っていた。
 ともかく、三角関係を描いたこの作品が、恋愛映画としてばかりではなくホラー映画としても面白いのは、監督の手腕や他の出演者の力ももちろんのこと、田畑智子さんの存在が大きいだろう。

 というわけで、私は今回も田畑智子さんに1票。

さんかく』 [さ行]
監督・脚本・照明/吉田恵輔
出演/高岡蒼甫 小野恵令奈 田畑智子 矢沢心 大島優子 太賀 赤堀雅秋
日本公開/2010年1月23日
ジャンル/[ロマンス]


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