『東京の女』 一番見たいものは隠せ!

 【ネタバレ注意】

 「一番見たいと客が思うものは隠せ。客に説明しようと思うな。どう解釈しようと客の勝手だ。」
 小津安二郎監督は、そう語ったそうである。

 『東京の女』でも、観客が一番見たいと思うものは隠されている。隠すから、ますます観客の興味はそこに集中する。
 しかし、一番見たいものが一番重要なものとは限らない。
 小津安二郎ほどの監督が、計算違いや心得違いを犯すとは思えないが、一番見たいものへの観客の興味を募らせるあまり、一番重要なものが観客に届かないこともあるのではないか。


 1933年に公開された『東京の女』は、都会でつましく暮らす姉弟の物語である。
 大学生の弟・良一は学業に精を出し、生活を支える姉ちか子はまじめなタイピストだ。
 そこに、一つの噂が舞い込んだことから悲劇が起こる。
 その噂は、良一の恋人の兄からもたらされた。その兄が妹に噂を伝え、妹が恋人である良一に伝える。噂によれば、ちか子は毎夜いかがわしい仕事をしているという。
 良一は姉ちか子を詰問する。なぜ二人の平和な暮らしを壊すような真似をするのかと。
 実はここまで、噂が本当かどうか観客には判らない。とはいえ、噂に懐疑心を持つのは、私が21世紀の観客だからかもしれない。1933年当時の観客は、最初に噂話が出た時点で「そうだったのか」と信じるのだろうか。

 良一の詰問に対して、ちか子は「あなたはそんなことを気にせず学業に専念して」と答えるばかりである。ちか子は夜の仕事を持つ理由を決して明かさない。
 もちろん、冒頭でちえ子が良一の月謝を心配していることや、小遣いを渡していることから、その理由が、弟に生活の心配をさせず、学業を成就させるためであろうことは想像に難くない。
 しかし、それならそれで弟に真意を伝えれば良いはずだ。ところが、ちか子は釈明すら避ける。そのため一方的に姉を責めた良一は、やがて悲劇を引き起こしてしまう。

 この映画で、観客が一番見たいと思うのは、ちか子が告白するところだろう。少なくとも真っ当な理由があるのなら、弟やその恋人の理解は得られるはずだ。そう考えて、観客はちか子が口を開くのを待つ。
 ところが、小津監督はそれを隠し続けてしまう。そのため、観客の興味はますますちか子の秘密へ向けられるのだが、実は小津監督の意図はそこにはない。
 やがて、事件を嗅ぎつけた新聞記者が訪ねてきても、やはりちか子は真実を話さない。そして映画は、特ダネを争う記者たちの軽佻な会話で終わるのである。

 観客は、いささか取り残された感じだろう。
 ちか子が秘めた真意は、とうとう明かされずじまいに終わる。しかも、ラストカットはちか子でも良一でもその恋人でもなく、最後にちょいと顔を出しただけの新聞記者の後姿だ。悲劇の余韻すら味わえない。
 いったい、この映画の目指した着地点はどこにあったのだろう。


 小津安二郎監督は、実に多様な映画を撮っている。戦前のコメディや人情ばなし、戦後のホームドラマ等々、様々な作品がある中で、『東京の女』は姉弟の情愛をベースにした悲劇である。
 それと同時に、社会を告発する作品でもある。
 小津監督にはあまり社会派のイメージはないが、戦後の復帰第一作である『長屋紳士録』も、人情話と思わせながら最後の最後に戦災孤児の救済を訴えるメッセージが出てきて驚かされる。山本薩夫監督のように社会性を前面に出したりはしないが、小津映画にも社会的なメッセージはこめられているのである。

 本作に関して云えば、姉ちか子を追い込み、また弟良一を暴走させるのは、一見するとちか子のいかがわしい行為のように思える。しかし、真のきっかけは噂話なのである。恋人の兄が聞き込んできた噂、恋人が良一の耳に入れる噂、本人のいないところで噂が伝播し、誰も噂の拡散を食い止めない。彼らはそれぞれ、心配したり、噂を否定的してみせたりはするものの、結局のところ自分一人の胸に収められなくて噂を他の人にも告げてしまう。そして、本人が知ったときには、もう肉親から糾弾されるまでになっている。

 それは新聞記者とて同じだ。
 彼らは他人の家にずかずか上がり込み、悲嘆にくれている人に無理に喋らせようとする。その描写には容赦がなく、観客に新聞記者への嫌悪感と不信感を抱かせるに充分だ。

 おそらく小津監督は、どこまでが真実か判らないような記事を無責任に書き立てるジャーナリズムと、当事者の気持ちも考えずに噂し合う世間とを、問題視していたのだろう。だからこそ、噂が巻き起こした事件の結末はむごい。なんとも苦い味わいだが、それは小津監督の問題意識の強さによるものだ。


 本作が撮られた年から17年後、黒澤明監督も無責任な噂を糾弾する映画を撮る。1950年の『醜聞<スキャンダル>』だ。黒澤監督は、ジャーナリズムの強引な取材を不愉快に思っていたことから、この映画を作ったという。
 ただ、『醜聞<スキャンダル>』は、ジャーナリズムの問題を取り上げつつ、途中から裁判を巡る展開ががぜん面白くなってきて、ジャーナリズムのことはそっちのけで終わってしまう。映画が面白いからそれはそれでいいのだが、『東京の女』も同じことで、観客の興味は、ジャーナリズムのことよりも、姉弟の葛藤や姉の隠された真意に向かってしまう。

 しかしそれとても、「客に説明しようと思うな。」という小津流なのかもしれない。

 そして『醜聞<スキャンダル>』の公開から30年後、1981年には三浦和義事件が起こる。後に最高裁で無罪となる人物を、犯人と目して日本中が追いかけ回したのである。
 この事件では、マスコミが名誉毀損で訴えられ、マスコミ各社はそのほとんどで敗訴している。これを機に、刑事事件については、警察発表もないのにマスコミが誰かを犯人に仕立て上げることは控えるようになった。

 とはいえ、2010年に公開された『悪人』でも、マスコミの強引な取材ぶりと、当事者の思いとはかけ離れた報道とが、強い印象を残す。
 残念ながら、『東京の女』から80年近くを経ても、私たちはあまり変わっていない。


小津安二郎 DVD-BOX 第四集東京の女』 [た行]
監督/小津安二郎
出演/岡田嘉子 江川宇礼雄 田中絹代 奈良真養
日本公開/1933年2月9日
ジャンル/[ドラマ]

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『シュレック フォーエバー』の効能は?

 もしも、あなたの夫が、あなたの妻が、あなたの父が、あなた母が、あなたの兄弟が、あなたの友人が、家族と過ごす時間をないがしろにしがちなら、家族と一緒にいながらも楽しそうでなかったら、家庭でのちょっとした出来事では嬉しくも楽しくもない様子だったら、毎日が単調だと感じていたら、昔を懐かしんだり後悔しているそぶりがあったら、自分がやりたいことは違うんだと苛立っていたら、たまには気分を変えて、『シュレック フォーエバー』を観に行こう!

 映画館を出るときには、少しだけ、何かが変わっているはずだ。
 きっと笑顔で歩いていることだろう。


シュレック フォーエバー アフター [DVD]シュレック フォーエバー』 [さ行]
監督/マイク・ミッチェル
出演/マイク・マイヤーズ キャメロン・ディアス エディ・マーフィ アントニオ・バンデラス ウォルト・ドーン クレイグ・ロビンソン コディ・キャメロン ジョン・クリーズ ジュリー・アンドリュース ラリー・キング
日本語吹替版の出演/濱田雅功 藤原紀香 山寺宏一 竹中直人 劇団ひとり ジョン・カビラ
日本公開/2010年12月18日
ジャンル/[コメディ] [ファンタジー] [アドベンチャー]

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『最後の忠臣蔵』の販売戦略

 【ネタバレ注意】

 12月14日は元禄赤穂事件(いわゆる忠臣蔵)の討ち入りの日として知られるが、1985年の12月14日は映画『サンタクロース』が封切られた日だ。
 サンタクロースが登場する映画は少なくないが、そのものズバリの題名のこの映画は、その年のクリスマスシーズンの目玉作品として注目されていた。公開当初の出足は上々で、正月休みの興行成績にも期待が高まった。

 ところが、興行・配給側の予想だにしないことが起こった。
 12月25日を境にパッタリ客足が途絶えてしまったのである。当時のキネマ旬報によれば、盛り上がったのはクリスマスまでで、その後はまったくダメだったらしい。
 考えてみれば当たり前である。クリスマスが終わったのに、サンタクロースじゃないだろう。
 この作品により、映画界はクリスマスにかかわる映画が興行できるのは12月25日までだと思い知ったようだ。2009年の『Disney's クリスマス・キャロル』が早くも11月14日に封切られたのは、そのときの教訓があるからだろう。


 同じように、忠臣蔵といえば12月だ。
 正確には、討ち入りが行われた元禄15年12月14日は旧暦であり、西暦1703年1月30日のことを指す。だから1月末に向けて盛り上げても良さそうなものだが、映画でもテレビでも忠臣蔵モノは秋から年末にかけて公開・放映するのが一般的だ。残念なことに、正月第一弾ロードショー(12月中旬~1月中旬)にはかからない。
 たしかに、年が明けて三が日も過ぎたら、「12月14日の討ち入り」なんて不似合いに感じるだろう。それこそ、クリスマス後の『サンタクロース』である。

 ともかく、どういうわけか日本人は忠臣蔵が大好きだ。歌舞伎や人形浄瑠璃の演目になって300年、映画やテレビドラマでも数多く作られている。300年も同じ題材を観続けて、よく飽きないものだ。
 映画界としては、こんなに人気のある題材は、稼ぎどきの正月第一弾で興行したいことだろう。


 そこにうってつけなのが、『最後の忠臣蔵』である。
 この映画は、忠臣蔵の後日談を描いている。すなわち、討ち入りの12月14日より後の物語であり、興行を12月中旬~1月中旬に行っても違和感がない。この作品なら、忠臣蔵人気と、稼ぎどきの正月第一弾ロードショーとを両立させられるのだ。
 実際、映画『最後の忠臣蔵』の封切り日は、12月14日より後の最初の週末である12月18日となった。

 そしてこの物語は、討ち入りが終わるところから始まる。
 今年もテレビでは忠臣蔵を取り上げるが、すべての忠臣蔵関係の番組は、本作のいい宣伝になるだろう。忠臣蔵関係の番組が面白ければ面白いほど、その後日談である本作も観たくなるというものだ。


 さて、ここから先は、『最後の忠臣蔵』の内容を知りたくない人はご遠慮願いたい。結末を知りつつも楽しむのが忠臣蔵なので、『最後の忠臣蔵』もその結末に触れたからといって面白さが半減するわけではないが、念のためご注意いただきたい。


 本作は、元禄赤穂事件にかかわった人物の中でも謎の多い寺坂吉右衛門(てらさか きちえもん)と瀬尾孫左衛門(せお まござえもん)を取り上げ、なぜ二人が他の赤穂浪士とは行動を別にしたのか、その謎について一つの説を提示する。忠臣蔵が好きな人には、たいへん興味深いところだろう。
 それと同時に、この作品の基底にあるのは、娘の結婚という普遍的なドラマでもある。

 娘の結婚を繰り返し取り上げた監督といえば、小津安二郎だろう。
 特に『晩春』(1949年)は、長年続いた父と娘の二人暮しに終止符を打ち、娘を送り出す父を描いて、『最後の忠臣蔵』に通じるものがある。『晩春』では、父と娘の間に性的なイメージがあるとして論争になったが、『最後の忠臣蔵』の父娘は実の親子ではないことから、男女の関係がより強調されている。

 特に『晩春』が他の小津作品に比べて印象深いのは、そのラストシーンだ。
 娘の結婚を描いた小津映画のラストでは、娘のいなくなった寂しさの漂うことが多いのだが、とりわけ『晩春』は家の中にポツンと取り残された父の孤独が印象的だ。それは寂しさを通り越して残酷ですらある。たった一人取り残された男がこれから何をするのか、観客が不安に思うほどの残酷さを感じさせて映画は終わる。

 この不安を突き詰めたのが『最後の忠臣蔵』だと云ったら、うがちすぎだろうか。
 娘を送り出した瀬尾孫左衛門が、その後にしようとすること、それはハラキリである。忠臣蔵は赤穂浪士たちの切腹で終わるのであり、『最後の忠臣蔵』もその流れを汲んでいる。

 制作のワーナー エンターテイメント ジャパンとしても、ここは外せないところだ。
 本作はワーナー エンターテイメント ジャパンが本格的に手がけたローカル・プロダクションの第一弾である。もはやハリウッド・メジャーといえども、ハリウッドで作った映画を全世界で公開すれば商売になる時代ではない。メジャー各社は、各国の事情に合わせてその国向けの映画を作るローカル・プロダクションに力を入れ始めている。
 とはいえ、本作は日本国内だけで公開するわけではない。2010年10月にハリウッドで開催されたプレミア試写会での好評を受け、米国でも公開予定だ。
 日本発の本格的サムライ映画は、グローバルコンテンツとして世界に売れる作品である。そこには、サムライ、ハラキリ、ニンジャ等が欠かせない。
 本作と同じくワーナーが配給した『ラスト サムライ』でも、サムライ、ハラキリ、ニンジャはしっかり含まれていた。明治時代にニンジャが出るのはデタラメすぎるが、このときは監督らアメリカ人スタッフが「どうしてもニンジャを撮りたい」と希望したそうである。何が米国の観客に受けるのかを考えたら、当然の配慮だろう。
 さすがに『最後の忠臣蔵』にはニンジャが登場する余地はないが、その代わりハラキリは『ラスト サムライ』以上にじっくり見せてくれる。
 もちろん、映画用に切腹シーンを付け足したわけではない。原作に沿った展開だ。

 寺坂吉右衛門と瀬尾孫左衛門は、本来であれば他の浪士たちと一緒に切腹していたはずだ。それなのに、大石内蔵助の命により生きていかざるを得なくなる。
 すなわち、使命を達した暁には死ぬることができるわけだが、それをどう見るかは人それぞれだろう。


 私は、死を目の前にした正岡子規が病の床で書いた言葉を思わずにはいられない。
 竹中正治氏のブログで教えていただいた、『病牀六尺』(びょうしょうろくしゃく)の一節である。
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悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思つて居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であつた。
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最後の忠臣蔵 Blu-ray & DVDセット豪華版【特典映像ディスク &解説ブックレット付き】 (初回限定生産)最後の忠臣蔵』  [さ行]
監督/杉田成道  脚本/田中陽造  原作/池宮彰一郎
制作総指揮/ウィリアム・アイアトン
出演/役所広司 佐藤浩市 桜庭ななみ 山本耕史 風吹ジュン 田中邦衛 伊武雅刀 笈田ヨシ 安田成美 片岡仁左衛門
日本公開/2010年12月18日
ジャンル/[時代劇] [ドラマ]
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『パッチギ!』の意味は?

 【ネタバレ注意】

 この感動をどうしたらいいのだろう。
 こんなにも高揚し、こみ上げるものを感じたのは久しぶりだ。まさに"グッと来る"映画だった。

 『パッチギ!』とは「頭突き」のことだ。劇中では、ケンカっ早い高校生が頭突きを食らわすシーンが何度もある。
 高校生たちはケンカに明け暮れているが、大学生は鉄棒を持って機動隊と衝突している。教師は熱心に毛沢東語録を教えている。
 映画『パッチギ!』は、そんな時代の物語である。


 過去のある時代を取り上げた作品で、私が重視するのは歴史を見る目だ。
 描かれた時代の渦中の人は、冷静に自分の時代を検証することなんてできない。彼らは、行動の結果が吉と出るか凶と出るかも判らずに、闇雲に生きている。
 だが、時代を下った私たちは、その行動の結果を知っている。当事者には知り得なかった史料を紐解くこともできる。それらを踏まえて過去を検証することが、作品を思い出話や郷愁に終わらせないためには大事だろう。

 その意味で、本作は見事に1968年を描いている。
 当時の文化、風俗、流行を再現するのみならず、絶妙なオチをつけていく。
 赤ヘル被って機動隊とぶつかる学生は、普段から思慮が足らず、ニュース映像に感化される高校生のなれの果てだ。毛語録を引用して理想を語った高校教師は、ストリップ小屋の呼び込みになってしまう。呼び込みという職業が賤しいわけではない。教師の教え子が機動隊とぶつかるようになったこととのギャップが絶妙なのだ。

 『パッチギ!』の原作は、松山猛氏の少年時代を織り交ぜた『少年Mのイムジン河』だが、この映画は単に過去を再現するだけではない。節々に皮肉と諧謔を効かせて、懐かしさに呑み込まれないようにしている。どんな時代であっても、ただ懐かしむだけで済ませられるはずはないのだ。一皮むけば、そこには過去から続く歴史の裏表と、現在に及ぶ因縁とがあるはずだからだ。

 そして本作が素晴らしいのは、過去を見つめる冷静な視点を持ちながらも、心は熱く、理想は高く、情熱的であることだろう。
 『パッチギ!』には「突き破る」「乗り越える」という意味もあるという。
 悲しみも喜びも、怒りも楽しさもないまぜになったクライマックスにいたっては、涙を拭うこともできない。


 この作品に出演した役者たちは、本当に誇らしい仕事をしたと思う。どの出演者にとっても、『パッチギ!』は代表作であろう。いつまでも語り継がれるだろう。

 そして『イムジン河』や『悲しくてやりきれない』『あの素晴らしい愛をもう一度』等の時代を彩る歌の数々が、まったく古びることなく私たちの胸に沁み込んでくる。
 そのメロディーを耳にするとき、私たちの脳裏には『パッチギ!』のギターを抱えて懸命に歌う少年の姿が浮かぶことだろう。


パッチギ! (特別価格版) [DVD]パッチギ!』  [は行]
監督・脚本/井筒和幸  脚本/羽原大介  音楽/加藤和彦
出演/塩谷瞬 高岡蒼佑 沢尻エリカ 楊原京子 尾上寛之 真木よう子 小出恵介 波岡一喜 オダギリジョー 光石研 加瀬亮 余貴美子 大友康平 前田吟 ケンドーコバヤシ 江口のりこ 徳井優 
日本公開/2005年1月22日
ジャンル/[ドラマ] [青春]
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『ロビン・フッド』 歴史が生み出すヒーロー像の違いとは?

 ユーラシア大陸の西端と東端に、それぞれちっぽけな島国がある。
 12世紀末、東端の島では源頼朝が征夷大将軍になり、武家政権を確立していた。
 同じころ、西端の島では十字軍と称して大陸へ侵攻していた。
 どちらも大陸の高度な文明から離れた野蛮な地であった。しかし、それぞれの島と大陸との距離には違いがあり、それが両者の歴史を大きく分けた。
 西端の島は大陸と34kmしか離れておらず、容易に海を渡れたので、土地の支配を巡って大陸の人々と頻繁に戦争した。誰がどこまで支配するかは、時代によってかなり大きく変化した。
 東端の島は大陸から200kmほど離れていたため、海を渡るのは冒険だった。海をまたいだ戦争など、何世紀も行っていなかった。これには、ユーラシア大陸の東の超大国である中国が周辺に睨みを利かせていたことも、影響していただろう。

 西端の島が戦乱に明け暮れていたのに比べると、東端の島はあまりにも平和だった。
 13世紀に大陸から攻め込まれたり、16世紀に大陸へ攻め込んだりということが大事件として残るほど、19世紀までは対外的な軍事行動がなかった。そのため、その島の問題といえば、もっぱら内政面だった。だから、お上の定めたとおりにすればそこそこ上手くいったし、困ったときにはお上に裁定を頼めばよかった。

 西端の島には緊張があった。対外戦争は、一歩間違えば国が滅びる。王の隣国へのかかわり方は、諸侯にとって自分たちの領地や命に直結する関心事だった。
 だからジョン王がフランスとの戦いに負け続け、多くの領土を失ったとき、諸侯は存亡の危機に瀕していると感じた。そこで、マグナ・カルタ(大憲章)を起草し、ジョン王に突きつけた。これ以上愚かなことをされては国が滅びかねないので、王の権限を制限しようとしたのだ。

 奇しくも同じころ、東端の島では御成敗式目を制定していた。
 これは幕府が武家に対して示したものだ。いさかいが起こらないように、トップダウンで定めたのである。

 二つの島国は大陸からの距離に違いがあったため、法の制定がトップダウンとボトムアップに分かれたように、異なる体質になったのである。


 映画『ロビン・フッド』には、ロビンの次のようなセリフがある。
 「俺は十字軍として遠征し、多くの国を見てきた。専制政治が続くことはない!」
 そう叫んでジョン王にマグナ・カルタの承認を迫る。

 しかしロビンの云うことが本当かどうかは、実はまだ判らない。
 英国においても、ジョン王の時代にマグナ・カルタを認めさせはするものの、王が変われば忘れ去られた。こんにち、私たちがマグナ・カルタを知っているのは、17世紀に改めて注目されたからである。

 それでも本作は、ロビン・フッドという伝説のヒーローに託して、人々の自由と権利を語らせる。あたかも、これが史実であるかのように緻密に描く。
 そのメッセージを強調するために、ロビン・フッドの設定も大きく変わった。
 ロビン・フッドの存在は伝承に過ぎないから、どのように設定しようと作り手の自由ではある。しかしこれまでのロビン・フッドは、下級貴族もしくはヨーマン(独立自営農民)の出身として描かれることが多かった。だが、本作では、土地を持たない傭兵とされた。こうすることで、自由と権利の主張を発したのが一般大衆であることを強調した。
 『タイタンの戦い』(2010年)で、主人公ペルセウスが神の子でありながら自分は一介の人間だと主張したのと同じように、主人公の地位を下げて一般大衆の代表とする最近の傾向が、本作からもうかがえる。


 日本にはロビン・フッドに相当するヒーローがいない。
 ロビン・フッドは悪代官(体制側)と戦うアウトロー(反体制側)のヒーロー、いわゆる義賊として何世紀も語り継がれているが、日本でこんなに愛される義賊はいないだろう。
 金太郎(坂田金時)も水戸黄門も体制側だし、清水の次郎長はアウトローかもしれないが体制側と戦ったりはしない。間違っても、水戸黄門が町人の身分になって正義を主張することはない。[*]
 珍しく石川五右衛門や鼠小僧次郎吉は義賊とされるが、彼らは大名から金品をちょろまかす盗賊であり、体制と戦ったとまではいえない。
 お上の定めたとおりにしていればそこそこ上手くいってた日本では、ヒーローは為政者と戦ったりせず、せいぜいひと泡吹かせてくれれば充分なのだ。

 日英の体質の違いは、ヒーロー像にも及んでいるのである。


 やがて20世紀になって、戦争馴れしていない東端の島は、歴戦の西端の島と関係を深めることになる。ユーラシア大陸を横断する巨大国家ロシアを東西から牽制するために、日英同盟を結ぶのである。
 東端の島は、19世紀の開国とともに、世界が戦争に満ちていることに気付いた。
 そのため急いでキャッチアップを始めるのだが、戦争馴れしていないので、暴走したり引きこもったり、手綱さばきが巧くない。

 どうも、諸外国が絡んでいると、お上の定めたとおりにしても上手くいかないようである。
 やがて日本にも、体制に挑む義賊が誕生するのだろうか。


[*]『水戸黄門』を翻案したアニメ『最強ロボ ダイオージャ』では、最終話において主人公ミト王子が身分制度の撤廃を決意する。諸国を旅して、身分制度こそ改められるべきであると喝破するのだ。
 元祖たる水戸光圀公は、諸国漫遊から何を学んでいるのだろうか。


ロビン・フッド (リドリー・スコット 監督、ラッセル・クロウ 主演) [DVD]ロビン・フッド』  [ら行]
監督・制作/リドリー・スコット  脚本/ブライアン・ヘルゲランド
制作/ブライアン・グレイザー、ラッセル・クロウ
出演/ラッセル・クロウ ケイト・ブランシェット マーク・ストロング ウィリアム・ハート オスカー・アイザック マックス・フォン・シドー
日本公開/2010年12月10日
ジャンル/[アクション] [アドベンチャー]
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