『武士の家計簿』 世代会計の映画化という偉業
マスメディアが黙殺する問題、それを取り上げたのが『東のエデン』の画期的な点の一つだろう。
その問題――世代間格差の問題をマスメディアが取り上げることは滅多にないが、『東のエデン』はそれを堂々と取り上げ、他ならぬフジテレビで放映した。フジテレビといえば、視聴率三冠王を維持し続けているマスメディア中のマスメディアである。深夜枠での放映だから、訴求できる層は限られるものの、それでも、上がりを決め込んだオッサンたちを若者が弾劾するなんて番組を、老人のためのメディアとなりつつあるテレビで放映したのは驚きだった。
2009年4月のことである。
そして2010年12月、現代日本の縮図ともいえる『武士の家計簿』が公開された。
武士の一家が家計を工夫する物語は、ユーモラスで楽しい。しかもそこには、こんにちの日本が抱える問題がものの見事に凝縮されている。
父母は生活のために借金を重ねている。悪い人たちではないのだが、どう見ても自分の代で借金を返済し切るつもりはなさそうだ。
その上、父は過去の成功体験が忘れられず、口を開けば仕事が上手くいった時代の思い出話ばかり。借金漬けの家が将来どうなるか、未来のためには何をなすべきか、そんな話題は出てこない。
ここで、奮起するのが主人公・猪山直之である。
直之は、何ごとも数字に基づいて議論する。途中のプロセスをうやむやにした帳尻合わせを嫌い、データが示す真実を直視する。
そして直之は、このままでは猪山家の破綻は免れないことを明らかにする。
それでも年老いた父母は、真実から目を逸らしたがる。今の生活が安穏としているのだから、それを持続させたいと願うのだ。
そのとき直之が口にするのが次のセリフだ。
「私は子供の顔を真っ直ぐ見られるようにしたいのです。」
借金生活を続けていても、父母の代はどうにか取り繕えるかもしれない。しかし、その後はどうなるのか。これから生まれてくる子は、生まれたときから重い負担をさせられることになる。
老人が若者を食い物にする「若肉老食」とはこのことだ。
今の日本も同じである。60代以上とゼロ歳児では生涯収入が1億円も違うという。もちろん、それがゼロ歳児の責任のはずがない。まだ生まれていない将来世代の負担はさらに大きい。未来の子供たちにこんなに負担させて、私たちは自分の社会保障はしっかり受け取っている。
また、2005年ごろは、65歳以上の高齢者1人を支える20~64歳世代は3.3人いたが、2030年には1.8人、2055年には1.3人で支えねばならない。こうなると自分の生活どころではない。『武士の家計簿』では、ズバリ、子が父を背負う場面まである。
借金を重ねるような状況だったら、出費を抑えるのが当たり前。それが猪山家の結論だ。
かくして売れる物は売り払い、食事も衣服も切り詰めて、家族全員の協力の下、家計の再建に邁進する。
本作から判るのは、子が父を背負うのは、背負えるように父の世代が賢く配慮してやればこそということだ。身を立てられるだけの教育を施し、借金は残さない。そうしてはじめて子は背負うことができる。
いやはや、すべての大人は耳が痛いとこだろう。
たぶんみんな心の内では判っているはずだ。
今の日本のやりくりは長くは続かないということを。
しかし、政治家やマスコミは世論を曲解してしまい、みんなの真の心配ごとには応えない。
日本国民は全員、襟を正してこの映画を鑑賞し、直之の言葉に耳を傾ける必要がある。
そしてまた本作は、普段は日の当たりにくいスタッフ部門をクローズアップした作品でもある。
時代劇といえば、刀を振り回す人間がスーパーヒーローとして描かれてきたが、実際の組織はそんな人間で回っているわではない。
決算・財務報告プロセスにおける経理担当者なんてたいへんな激務なのに、世間には、いや組織内にもその奮闘ぶりはなかなか伝わらない。それを残念に思っていた人は、この映画を観て「我が意を得たり」と膝を打つであろう。
また、経理部門や金融機関で、計算結果が10円合わないだけで大騒ぎする理由も、本作を観れば判るはずだ。10円の損失にガタガタ云っているのではない。10円合わないということは、書類のどこかに重大な誤謬や不正が隠れているかもしれないのだ。たかが10円と見逃さず、10円の差異が生じた真因を追究する、その大切さも本作は教えてくれる。
経理部門のみならず、監査法人等で数字をチェックする立場の人も、本作には大いに頷くだろう。
そしてもちろん、家庭で家計簿をつけている人は、家人に本作を見せて、家計簿の重要さと苦労を知らしめるといい。
刀を振り回す人間ばかりが時代を動かすのではない。
日夜、書類を前に計算している、そんな努力の積み重ねが、組織を社会を維持するのである。
そんな当たり前のことを、『武士の家計簿』は改めて気付かせてくれる。
『武士の家計簿』 [は行]
監督/森田芳光
出演/堺雅人 仲間由紀恵 松坂慶子 中村雅俊 西村雅彦 草笛光子 伊藤祐輝
日本公開/2010年12月4日
ジャンル/[時代劇] [ドラマ]
http://bookmarks.yahoo.co.jp/bookmarklet/showpopup?t='+encodeURIComponent(document.title)+'&u='+encodeURIComponent(location.href)+'&ei=UTF-8','_blank','width=550,height=480,left=100,top=50,scrollbars=1,resizable=1',0);">
その問題――世代間格差の問題をマスメディアが取り上げることは滅多にないが、『東のエデン』はそれを堂々と取り上げ、他ならぬフジテレビで放映した。フジテレビといえば、視聴率三冠王を維持し続けているマスメディア中のマスメディアである。深夜枠での放映だから、訴求できる層は限られるものの、それでも、上がりを決め込んだオッサンたちを若者が弾劾するなんて番組を、老人のためのメディアとなりつつあるテレビで放映したのは驚きだった。
2009年4月のことである。
そして2010年12月、現代日本の縮図ともいえる『武士の家計簿』が公開された。
武士の一家が家計を工夫する物語は、ユーモラスで楽しい。しかもそこには、こんにちの日本が抱える問題がものの見事に凝縮されている。
父母は生活のために借金を重ねている。悪い人たちではないのだが、どう見ても自分の代で借金を返済し切るつもりはなさそうだ。
その上、父は過去の成功体験が忘れられず、口を開けば仕事が上手くいった時代の思い出話ばかり。借金漬けの家が将来どうなるか、未来のためには何をなすべきか、そんな話題は出てこない。
ここで、奮起するのが主人公・猪山直之である。
直之は、何ごとも数字に基づいて議論する。途中のプロセスをうやむやにした帳尻合わせを嫌い、データが示す真実を直視する。
そして直之は、このままでは猪山家の破綻は免れないことを明らかにする。
それでも年老いた父母は、真実から目を逸らしたがる。今の生活が安穏としているのだから、それを持続させたいと願うのだ。
そのとき直之が口にするのが次のセリフだ。
「私は子供の顔を真っ直ぐ見られるようにしたいのです。」
借金生活を続けていても、父母の代はどうにか取り繕えるかもしれない。しかし、その後はどうなるのか。これから生まれてくる子は、生まれたときから重い負担をさせられることになる。
老人が若者を食い物にする「若肉老食」とはこのことだ。
今の日本も同じである。60代以上とゼロ歳児では生涯収入が1億円も違うという。もちろん、それがゼロ歳児の責任のはずがない。まだ生まれていない将来世代の負担はさらに大きい。未来の子供たちにこんなに負担させて、私たちは自分の社会保障はしっかり受け取っている。
また、2005年ごろは、65歳以上の高齢者1人を支える20~64歳世代は3.3人いたが、2030年には1.8人、2055年には1.3人で支えねばならない。こうなると自分の生活どころではない。『武士の家計簿』では、ズバリ、子が父を背負う場面まである。
借金を重ねるような状況だったら、出費を抑えるのが当たり前。それが猪山家の結論だ。
かくして売れる物は売り払い、食事も衣服も切り詰めて、家族全員の協力の下、家計の再建に邁進する。
本作から判るのは、子が父を背負うのは、背負えるように父の世代が賢く配慮してやればこそということだ。身を立てられるだけの教育を施し、借金は残さない。そうしてはじめて子は背負うことができる。
いやはや、すべての大人は耳が痛いとこだろう。
たぶんみんな心の内では判っているはずだ。
今の日本のやりくりは長くは続かないということを。
しかし、政治家やマスコミは世論を曲解してしまい、みんなの真の心配ごとには応えない。
日本国民は全員、襟を正してこの映画を鑑賞し、直之の言葉に耳を傾ける必要がある。
そしてまた本作は、普段は日の当たりにくいスタッフ部門をクローズアップした作品でもある。
時代劇といえば、刀を振り回す人間がスーパーヒーローとして描かれてきたが、実際の組織はそんな人間で回っているわではない。
決算・財務報告プロセスにおける経理担当者なんてたいへんな激務なのに、世間には、いや組織内にもその奮闘ぶりはなかなか伝わらない。それを残念に思っていた人は、この映画を観て「我が意を得たり」と膝を打つであろう。
また、経理部門や金融機関で、計算結果が10円合わないだけで大騒ぎする理由も、本作を観れば判るはずだ。10円の損失にガタガタ云っているのではない。10円合わないということは、書類のどこかに重大な誤謬や不正が隠れているかもしれないのだ。たかが10円と見逃さず、10円の差異が生じた真因を追究する、その大切さも本作は教えてくれる。
経理部門のみならず、監査法人等で数字をチェックする立場の人も、本作には大いに頷くだろう。
そしてもちろん、家庭で家計簿をつけている人は、家人に本作を見せて、家計簿の重要さと苦労を知らしめるといい。
刀を振り回す人間ばかりが時代を動かすのではない。
日夜、書類を前に計算している、そんな努力の積み重ねが、組織を社会を維持するのである。
そんな当たり前のことを、『武士の家計簿』は改めて気付かせてくれる。
![武士の家計簿(初回限定生産2枚組) [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/5181Q5gd%2BSL._SL160_.jpg)
監督/森田芳光
出演/堺雅人 仲間由紀恵 松坂慶子 中村雅俊 西村雅彦 草笛光子 伊藤祐輝
日本公開/2010年12月4日
ジャンル/[時代劇] [ドラマ]


『442 日系部隊・アメリカ史上最強の陸軍』 祖国は一つ
この高揚感はどうしたことだろう。映画からは、とても前向きな、力強さが伝わってくる。この映画を「楽しい」とか「面白い」と評したら、不謹慎だろうか。
戦争の記憶をたどる映画は、往々にして悲しくむごい。『442 日系部隊・アメリカ史上最強の陸軍』も、例外に漏れず辛い告白と、悲惨な映像が多い。
しかしそれ以上に、442連隊の活躍に今も感謝するヨーロッパ各国の人々や、何よりも「アメリカは一番いい国だ」「アメリカは素晴らしい」と語る元連隊員自身の言葉は明るい。
ここで描かれるのは、祖国アメリカのために誰よりも尽くし、勝ち得た平和を噛みしめて、年老いてなお戦争の辛さや戦友の死の悲しみを胸に、おごることなく暮らしている、幾人かの元兵士たちだ。
彼らの一人は云う、アメリカはチャンスの国だと。努力していれば、必ず報われると。
その希望に満ちた言葉を、日本人と同じ顔立ち、同じ性の人から聞くと、なにやら日本で閉塞した空気を感じている私たちにまぶしい光が差し込んだように思う。
私たちは、あんなにアッサリと「日本は一番いい国だ」「日本は素晴らしい」と語れるだろうか。
しかも彼らは、単純なナショナリストではない。日系人であるがゆえに、真珠湾攻撃以降、自国から敵性国民とみなされ、強制収容所に入れられた人々なのだ。その彼らがアメリカを「一番いい国」「素晴らしい」と云えるのは、たまたま生まれ育った国がいいところだったなんてことではない。自分たちがいい国にした、素晴らしい国にしたから、少なくともそれに命がけで貢献したからこそ口にできるのだろう。
彼らはまごうかたなきアメリカ人であり、星条旗をあしらったキャップを被って敬礼する姿は凛々しい。
私はこの映画が、もっと悲しく、辛い内容だとばかり思っていた。もちろん、そういう面もある。当事者が語る戦場の体験は、フィクションの戦争映画で表現し切れるものではない。戦争の傷は今も彼らの心に残り、「私はただの人殺しだ」と述懐する言葉は重い。それでも今を生きる彼らの姿は、それだけで輝かしい。
映画には、辛さや悲しみ以上に、感動と素晴らしさが詰まっている。
「アメリカは素晴らしい」と語る彼らの健全な愛国心が、私たち他国の人間をも高揚させるのだ。
だから、彼らのことを「日本とアメリカという二つの祖国の間で揺れ動き」なんて表現するのは正しくない。
彼らに祖国は二つもない。アメリカこそが祖国なのだ。彼らの一人は、日米開戦を耳にして、すぐに軍に入隊するために駆けつけたという。異郷の地で苦労する日本人なんて捉え方をしては、祖国防衛のために活躍した人々に失礼だろう。
そのことをよく判っていたのが東条英機だ。
当時学生だった元兵士は、校長が持ってきた手紙のことを語る。
東条英機は、日系人学生が通う学校に手紙を出していたのだ。その中で彼は、学生たちを激励している。「君たちはアメリカ人なのだから、アメリカのために頑張りなさい」と。
元兵士は、その内容に驚いたという。てっきり「アメリカにいても君たちは日本人なんだから、日本のために戦え」と書いてあると思ったからだ。
「なぜそんなことを書いたのだろう」と元兵士は考えた。そして一つの結論に達する。「サムライだからです。サムライは主君に忠義を尽くすものなのです。」
戦争中、日本の人々は「お国の為」に我慢をしたり命を落としたが、日系アメリカ人も「国の為」に行動したという話は興味深い。
すずきじゅんいち監督は、本作について次のように述べている。
---
「442連隊は日本の良さを表しています。日本に住む人に日本人の良さを再発見してもらいたい。わたしはアメリカに住むようになってから、かえって客観的に日本の良さがわかるようになったんです。それが本作のモチベーションの一つでした」
---
死んだ戦友のために線香を上げる彼らは、一世である親から受けたしつけや、諭されたことをよく守り、良き国民であろうとした。
そして、彼らが21個もの名誉勲章を得て、その勲功によりトルーマン大統領がじきじきに出迎えたということを、さらには米国のみならずヨーロッパの国々にも彼らに感謝し尊敬する人が今もなおいることを、同じ伝統を受け継いでいるはずの日本人も、もっと知って良いはずだ。
『442 日系部隊・アメリカ史上最強の陸軍』 [や行]
監督・企画・脚本/すずきじゅんいち 音楽/喜多郎
日本公開/2010/11/13
ジャンル/[ドキュメンタリー] [戦争]
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戦争の記憶をたどる映画は、往々にして悲しくむごい。『442 日系部隊・アメリカ史上最強の陸軍』も、例外に漏れず辛い告白と、悲惨な映像が多い。
しかしそれ以上に、442連隊の活躍に今も感謝するヨーロッパ各国の人々や、何よりも「アメリカは一番いい国だ」「アメリカは素晴らしい」と語る元連隊員自身の言葉は明るい。
ここで描かれるのは、祖国アメリカのために誰よりも尽くし、勝ち得た平和を噛みしめて、年老いてなお戦争の辛さや戦友の死の悲しみを胸に、おごることなく暮らしている、幾人かの元兵士たちだ。
彼らの一人は云う、アメリカはチャンスの国だと。努力していれば、必ず報われると。
その希望に満ちた言葉を、日本人と同じ顔立ち、同じ性の人から聞くと、なにやら日本で閉塞した空気を感じている私たちにまぶしい光が差し込んだように思う。
私たちは、あんなにアッサリと「日本は一番いい国だ」「日本は素晴らしい」と語れるだろうか。
しかも彼らは、単純なナショナリストではない。日系人であるがゆえに、真珠湾攻撃以降、自国から敵性国民とみなされ、強制収容所に入れられた人々なのだ。その彼らがアメリカを「一番いい国」「素晴らしい」と云えるのは、たまたま生まれ育った国がいいところだったなんてことではない。自分たちがいい国にした、素晴らしい国にしたから、少なくともそれに命がけで貢献したからこそ口にできるのだろう。
彼らはまごうかたなきアメリカ人であり、星条旗をあしらったキャップを被って敬礼する姿は凛々しい。
私はこの映画が、もっと悲しく、辛い内容だとばかり思っていた。もちろん、そういう面もある。当事者が語る戦場の体験は、フィクションの戦争映画で表現し切れるものではない。戦争の傷は今も彼らの心に残り、「私はただの人殺しだ」と述懐する言葉は重い。それでも今を生きる彼らの姿は、それだけで輝かしい。
映画には、辛さや悲しみ以上に、感動と素晴らしさが詰まっている。
「アメリカは素晴らしい」と語る彼らの健全な愛国心が、私たち他国の人間をも高揚させるのだ。
だから、彼らのことを「日本とアメリカという二つの祖国の間で揺れ動き」なんて表現するのは正しくない。
彼らに祖国は二つもない。アメリカこそが祖国なのだ。彼らの一人は、日米開戦を耳にして、すぐに軍に入隊するために駆けつけたという。異郷の地で苦労する日本人なんて捉え方をしては、祖国防衛のために活躍した人々に失礼だろう。
そのことをよく判っていたのが東条英機だ。
当時学生だった元兵士は、校長が持ってきた手紙のことを語る。
東条英機は、日系人学生が通う学校に手紙を出していたのだ。その中で彼は、学生たちを激励している。「君たちはアメリカ人なのだから、アメリカのために頑張りなさい」と。
元兵士は、その内容に驚いたという。てっきり「アメリカにいても君たちは日本人なんだから、日本のために戦え」と書いてあると思ったからだ。
「なぜそんなことを書いたのだろう」と元兵士は考えた。そして一つの結論に達する。「サムライだからです。サムライは主君に忠義を尽くすものなのです。」
戦争中、日本の人々は「お国の為」に我慢をしたり命を落としたが、日系アメリカ人も「国の為」に行動したという話は興味深い。
すずきじゅんいち監督は、本作について次のように述べている。
---
「442連隊は日本の良さを表しています。日本に住む人に日本人の良さを再発見してもらいたい。わたしはアメリカに住むようになってから、かえって客観的に日本の良さがわかるようになったんです。それが本作のモチベーションの一つでした」
---
死んだ戦友のために線香を上げる彼らは、一世である親から受けたしつけや、諭されたことをよく守り、良き国民であろうとした。
そして、彼らが21個もの名誉勲章を得て、その勲功によりトルーマン大統領がじきじきに出迎えたということを、さらには米国のみならずヨーロッパの国々にも彼らに感謝し尊敬する人が今もなおいることを、同じ伝統を受け継いでいるはずの日本人も、もっと知って良いはずだ。
![442日系部隊 アメリカ史上最強の陸軍 WAC-D632[DVD]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/610Ee4kANoL._SL160_.jpg)
監督・企画・脚本/すずきじゅんいち 音楽/喜多郎
日本公開/2010/11/13
ジャンル/[ドキュメンタリー] [戦争]


【theme : ドキュメンタリー映画】
【genre : 映画】
『うつせみ』の主語は「あなた」だ
『うつせみ』は風変わりな映画である。
映画はどれもそれぞれに風変わりだが、この映画はひときわ変わっている。
主人公は、留守宅を狙って侵入を繰り返す青年だ。彼は他人の家で食事し、シャワーを浴び、眠りに就く。翌日には、次の留守宅を探しにいく。食材や光熱費を勝手に使っているから、泥棒といえば泥棒だが、金品には手をつけない。去る前にはきれいに片づけるので、家の主は被害に遭ったと思わない。それどころか侵入されたことすら気付かない。
あなたにも思い当たることがあるはずだ。帰宅したら物の位置が微妙に異なっているように感じたことはないだろうか。冷蔵庫の中の食材が、記憶のものと違うことはないか。
それは借りぐらしの小人のせいばかりではない。留守中に勝手に寝泊りしている青年がいるのだ。
本作の設定とそこから紡ぎ出される物語が確かにユニークだが、風変わりなのはそれだけではない。
主人公が一切喋らないのだ。
口が利けないわけではない。ただ、主人公にセリフがない。会話は、相手のリアクションによって成立する。相手が主人公に質問したり罵倒したりすると、主人公はそれに沈黙で応じるのだ。相手は、沈黙を一つの回答と受け取って、会話を続けていく。
そして、主人公が喋らないというストーリーテリング上は致命的とも思える制約を守りつつ、展開される豊かな物語は、観客を飽きさせない。
それどころか、観客はこの風変わりな主人公に感情移入し、一体となっていく。本来、不法侵入者である青年は、まっとうに暮らしている観客からは程遠い存在なのだが、観客は不法侵入をなじる警察官たちよりも、青年の側に立ってものを見る。
このように主人公が喋らない映画は、過去に例がないわけではないが、やはり珍しい部類に入るだろう。
しかし、実のところこれは受け手を作品世界に引き込むために確立された手法である。
この手法を使った作品で、私たちがよく知っているのがドラクエだ。
ドラゴンクエストシリーズでも、主人公は喋らない。あなたは主人公を操作して、ゲームの世界の住人らを見つけると、彼らから会話を引きだす。あなたが言葉を発するわけではない。
これは、ドラクエと双璧をなす人気タイトルのファイナルファンタジーシリーズとは対照的だ。
ファイナルファンタジーシリーズでは、主人公も喋る。ゲームのプレイヤーは、あたかも映画のワンシーンを見るかのごとく、キャラクターたちの会話を見つめる。
両シリーズをプレイしたことのある方なら、その違いが何をもたらすかよくご存知だろう。
ファイナルファンタジーシリーズのプレイヤーは、映画や舞台の観客に近い。主人公や他のキャラクターの言動を客観的に見て楽しむのだ。
ところがドラゴンクエストシリーズは、プレイヤーが主人公と一体化している。他のキャラクターが主人公に話しかけるとき、それはすなわちあなたに話しかけているのだ。そして、あなたはゲームの世界の住人に自分から話すことなどないから、黙って聞き役に回っている。
かつてゲームブックというものがあった。ロール・プレイング・ゲームを小説仕立てにしたもので、文中の選択肢を選びながら、物語を進行させる形式だった。
それらのゲームブックでは、主語は「あなた」だ。「あなたはしました…」「あなたは聞きました…」、主人公はあなただから、地の文もすべて「あなた」で書かれていたのだ。
『うつせみ』も同じである。
青年の思いをセリフで聞くことはない。あなたが主人公だから、あなたの心の中に思いはある。
他の登場人物が話しかけても、青年は喋らない。それはそうだ、映画館でお喋りは厳禁だ。あなたが黙っている以上、スクリーン上の青年も黙っている。
こうして、留守宅に勝手に侵入するとんでもない主人公に、いつしかあなたは感情移入し、一体と化している。
この映画を見ていて感じたはずだ。劇中で予定を切り上げて帰宅する住人に対して、なんて邪魔なヤツなんだろうと。
もう、あなたは主人公になりきっている。
技法について語るなら、観客を主人公と一体化させるには視点の共有が効果的だ。
佐瀬喜市郎氏は『「主人公の見た目」という一人称』(『映画テレビ技術』2010年9月号)にて、この例として『視線のエロス』(1997年)を挙げている。
主人公の視界とカメラを通して写るものを一致させることで、スクリーンに映っているものはすべて主人公の目で見たものとする。主人公が自分の手を見れば、スクリーンには手のアップが映り、主人公自身の顔は主人公が鏡を見たときにだけ映し出される。
ゲームでいえば、『ウィザードリィ』の手法である。画面に映るのは洞窟とモンスターのみで、剣を持ったあなた自身は映らない。
しかし、『ウィザードリィ』はダンジョンを探索するのが中心だからそれでも良いが、ドラゴンクエストシリーズのような物語性の高いゲームをすべてその手法で描くのは困難だ。
すなわち、各ゲームには次のような特徴がある。
ウィザードリィ方式: 主人公とプレイヤーが完全に一体化。ストーリーテリングに制約が多い。
ドラゴンクエスト方式: 主人公とプレイヤーは一体化。ストーリーテリングにも自由度がある。
ファイナルファンタジー方式: プレイヤーは主人公を客観視。ストーリーテリングに長ける。
『うつせみ』のキム・ギドク監督は、主人公への一体化と物語の芳醇さを両立するために、ドラクエ方式を選んだのだろう。
そして本作では、物語が進行するにつれて、主人公がますますゲームの住人のようになっていく。現実世界での存在感が希薄になり、見たい人には見えるけれども、見たくない人には見えない。そんな振る舞いをするようになっていくのだ。
これは私たち観客の願望でもある。
私たちはいつでも注目を集めたいわけではない。私の存在に気付いてほしい人と、気付いてほしくない人がいる。
夢の住人かうつつの住人か判然としない主人公は、まさにゲームの世界に没頭するあなたなのだ。
『うつせみ』 [あ行]
監督・制作・脚本/キム・ギドク
出演/イ・スンヨン ジェヒ クォン・ヒョコ チュ・ジンモ チェ・ジョンホ
日本公開/2006年3月4日
ジャンル/[ドラマ] [ロマンス]
映画ブログ
映画はどれもそれぞれに風変わりだが、この映画はひときわ変わっている。
主人公は、留守宅を狙って侵入を繰り返す青年だ。彼は他人の家で食事し、シャワーを浴び、眠りに就く。翌日には、次の留守宅を探しにいく。食材や光熱費を勝手に使っているから、泥棒といえば泥棒だが、金品には手をつけない。去る前にはきれいに片づけるので、家の主は被害に遭ったと思わない。それどころか侵入されたことすら気付かない。
あなたにも思い当たることがあるはずだ。帰宅したら物の位置が微妙に異なっているように感じたことはないだろうか。冷蔵庫の中の食材が、記憶のものと違うことはないか。
それは借りぐらしの小人のせいばかりではない。留守中に勝手に寝泊りしている青年がいるのだ。
本作の設定とそこから紡ぎ出される物語が確かにユニークだが、風変わりなのはそれだけではない。
主人公が一切喋らないのだ。
口が利けないわけではない。ただ、主人公にセリフがない。会話は、相手のリアクションによって成立する。相手が主人公に質問したり罵倒したりすると、主人公はそれに沈黙で応じるのだ。相手は、沈黙を一つの回答と受け取って、会話を続けていく。
そして、主人公が喋らないというストーリーテリング上は致命的とも思える制約を守りつつ、展開される豊かな物語は、観客を飽きさせない。
それどころか、観客はこの風変わりな主人公に感情移入し、一体となっていく。本来、不法侵入者である青年は、まっとうに暮らしている観客からは程遠い存在なのだが、観客は不法侵入をなじる警察官たちよりも、青年の側に立ってものを見る。
このように主人公が喋らない映画は、過去に例がないわけではないが、やはり珍しい部類に入るだろう。
しかし、実のところこれは受け手を作品世界に引き込むために確立された手法である。
この手法を使った作品で、私たちがよく知っているのがドラクエだ。
ドラゴンクエストシリーズでも、主人公は喋らない。あなたは主人公を操作して、ゲームの世界の住人らを見つけると、彼らから会話を引きだす。あなたが言葉を発するわけではない。
これは、ドラクエと双璧をなす人気タイトルのファイナルファンタジーシリーズとは対照的だ。
ファイナルファンタジーシリーズでは、主人公も喋る。ゲームのプレイヤーは、あたかも映画のワンシーンを見るかのごとく、キャラクターたちの会話を見つめる。
両シリーズをプレイしたことのある方なら、その違いが何をもたらすかよくご存知だろう。
ファイナルファンタジーシリーズのプレイヤーは、映画や舞台の観客に近い。主人公や他のキャラクターの言動を客観的に見て楽しむのだ。
ところがドラゴンクエストシリーズは、プレイヤーが主人公と一体化している。他のキャラクターが主人公に話しかけるとき、それはすなわちあなたに話しかけているのだ。そして、あなたはゲームの世界の住人に自分から話すことなどないから、黙って聞き役に回っている。
かつてゲームブックというものがあった。ロール・プレイング・ゲームを小説仕立てにしたもので、文中の選択肢を選びながら、物語を進行させる形式だった。
それらのゲームブックでは、主語は「あなた」だ。「あなたはしました…」「あなたは聞きました…」、主人公はあなただから、地の文もすべて「あなた」で書かれていたのだ。
『うつせみ』も同じである。
青年の思いをセリフで聞くことはない。あなたが主人公だから、あなたの心の中に思いはある。
他の登場人物が話しかけても、青年は喋らない。それはそうだ、映画館でお喋りは厳禁だ。あなたが黙っている以上、スクリーン上の青年も黙っている。
こうして、留守宅に勝手に侵入するとんでもない主人公に、いつしかあなたは感情移入し、一体と化している。
この映画を見ていて感じたはずだ。劇中で予定を切り上げて帰宅する住人に対して、なんて邪魔なヤツなんだろうと。
もう、あなたは主人公になりきっている。
技法について語るなら、観客を主人公と一体化させるには視点の共有が効果的だ。
佐瀬喜市郎氏は『「主人公の見た目」という一人称』(『映画テレビ技術』2010年9月号)にて、この例として『視線のエロス』(1997年)を挙げている。
主人公の視界とカメラを通して写るものを一致させることで、スクリーンに映っているものはすべて主人公の目で見たものとする。主人公が自分の手を見れば、スクリーンには手のアップが映り、主人公自身の顔は主人公が鏡を見たときにだけ映し出される。
ゲームでいえば、『ウィザードリィ』の手法である。画面に映るのは洞窟とモンスターのみで、剣を持ったあなた自身は映らない。
しかし、『ウィザードリィ』はダンジョンを探索するのが中心だからそれでも良いが、ドラゴンクエストシリーズのような物語性の高いゲームをすべてその手法で描くのは困難だ。
すなわち、各ゲームには次のような特徴がある。
ウィザードリィ方式: 主人公とプレイヤーが完全に一体化。ストーリーテリングに制約が多い。
ドラゴンクエスト方式: 主人公とプレイヤーは一体化。ストーリーテリングにも自由度がある。
ファイナルファンタジー方式: プレイヤーは主人公を客観視。ストーリーテリングに長ける。
『うつせみ』のキム・ギドク監督は、主人公への一体化と物語の芳醇さを両立するために、ドラクエ方式を選んだのだろう。
そして本作では、物語が進行するにつれて、主人公がますますゲームの住人のようになっていく。現実世界での存在感が希薄になり、見たい人には見えるけれども、見たくない人には見えない。そんな振る舞いをするようになっていくのだ。
これは私たち観客の願望でもある。
私たちはいつでも注目を集めたいわけではない。私の存在に気付いてほしい人と、気付いてほしくない人がいる。
夢の住人かうつつの住人か判然としない主人公は、まさにゲームの世界に没頭するあなたなのだ。
![うつせみ [DVD]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/515HGASQSPL._SL160_.jpg)
監督・制作・脚本/キム・ギドク
出演/イ・スンヨン ジェヒ クォン・ヒョコ チュ・ジンモ チェ・ジョンホ
日本公開/2006年3月4日
ジャンル/[ドラマ] [ロマンス]
映画ブログ
『SPACE BATTLESHIP ヤマト』を惑わせる3つの「原作」

その惹句を目にしたとき、作り手の並々ならぬ想いを感じた。
それは、どこまでをヤマトと考えるのか、という大問題だ。
「必ず、生きて還る。」
それが、『SPACE BATTLESHIP ヤマト』の宣伝に採用された惹句である。
この文言に接して、ヤマトファンは2つのことを連想するだろう。
1つは、『宇宙戦艦ヤマト』第1テレビシリーズ(1974年)の主題歌における次の一節だ。
必ずここへ 帰って来ると
手をふる人に 笑顔で答え
そうだ、第1テレビシリーズは、帰ってくるためにはどんな困難をも乗り越える物語だった。
そして2つ目は、続編『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』(1978年)の宣伝で流れた言葉。
「君は愛する人のために死ねるか」
この映画は、帰れない覚悟を迫る物語だった。
方向性がまったく異なるこの2作を、私は同じシリーズだとは思っていない。設定や登場人物に共通点はあるものの、意図するところ、目指すところが相容れないからだ。
このあとも『宇宙戦艦ヤマト』の設定を引き継いだアニメは続々と作られ、2009年の『宇宙戦艦ヤマト 復活篇』に至るのだが、それらは『宇宙戦艦ヤマト』ではなく『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』に連なる作品である。物語の直接的な連続性はともかく、後に続くシリーズ作品のいずれも、難局を解決するために、誰かが死ぬ。描かれているのは、愛する人のため、大義のために死んでいく者であり、帰ってくるためにはどんな困難をも乗り越える物語とは一線を画しているのだ。
なぜ一作目とそれ以降とが違うものになってしまったのか。
それは、日本人に抜きがたく存在する思想・文化的な背景による。
二作目以降が変節してしまったのではない。一作目が稀に見る特異な作品であり、二作目以降は普通の日本らしい作品に戻ったにすぎない。
日本に存在する思想・文化的なもの、それは『宇宙戦艦ヤマト』と同じ1974年に公開された映画『樺太1945年夏 氷雪の門』の記事でも触れた二分法だ。
ここで、日米の代表的な作品を比較してみよう。
みなさんは、『ウルトラマン』と『スーパーマン』の違いを考えたことがあるだろうか?『仮面ライダー』と『X-MEN』に置き換えても良い。
これらヒーローは誕生から数十年を経ても人気を保ち、今も何らかの形で新作を発表している、それぞれの国を代表するヒーローである。そして『ウルトラマン』の敵といえばレッドキングやバルタン星人等の怪獣・宇宙人たちであり、『スーパーマン』の敵は悪の天才レックス・ルーサーたちである。『仮面ライダー』シリーズの敵には、数々の怪人や地獄大使らの幹部たちがおり、『X-MEN』の敵にはマグニートーやストライカーがいる。
この違い、お気づきだろうか。
『ウルトラマン』の敵にはベムラーという怪獣がいたが、それはテレビシリーズの第1話でのことである。バルタン星人はシリーズを通じて何度も襲ってくるが、各回の攻撃担当者は毎回始末されている。
つまり日本の悪役は、その回にしか登場しないのだ。なぜならヒーローに殺されてしまうから。悪の組織の幹部も、そのテレビ番組が最終回を迎えるまでに殺される。
さすがに『ウルトラマン』や『仮面ライダー』は子供向けの作品だから、血なまぐさい殺し方はしない。派手に爆発したり、光って消滅したりと、映像は工夫されているが、命を奪っていることに変わりはない。
それに対して、スーパーマンの宿敵レックス・ルーサーは、数十年にわたって宿敵であり続ける。マグニートーやストライカーも、その陰謀はX-MENに叩きつぶされ、ときには監獄に入れられるが、いつまでも悪事を働き続ける。
アメコミの悪役が、悪事を働きながらも個人としての人生を過ごしているのに対し、日本のヒーロー物の悪役は消耗品だ。『仮面ライダー』の悪役に至っては、組織のために死ぬまでこき使われる(そして必ず死ぬ)。
すなわち、米国の作品は悪人を懲らしめつつ人命は尊重し、矯正の機会を残すのに、日本の作品は敵を抹殺するまで戦いは終わらないのだ。ときには『星雲仮面マシンマン』のように悪人を改心させる作品もあるものの、この路線はさっぱり定着しない。
もちろん、日本の作り手が過度に残酷なわけではないだろう。ただ、作り手と受け手双方に、こういう展開でないと納得しない文化・思想があるのだ。米国は昔から暴力表現には厳しい制約を課していたが、それは安易な暴力表現を許さない文化・思想があるからだ。[*1]
敵を抹殺しないと納得しないということは、自分たちも負ければ抹殺されるしかないと考えているわけだ。
それに対して、敵でも命までは奪わないということは、自分たちも負ければ投降して生き延びるという考えに通じている。
以前紹介した竹中正治氏の記事に、こんな記述がある。
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(略)旧日本軍と米軍の対照的なカルチャーの違いを感じずにはいられない。米軍は様々な逸脱があっても、原則的には可能な限り兵隊を生きて祖国に帰還させることを前提に作戦を進める。負けとなれば撤退し、戦闘不能になれば降伏、投降することは恥ではない。
一方、日本軍は最初から滅私奉公主義で、命を捨てることが前提とされている。出兵する兵士に「無事に生きて戻って来ておくれ」という家族の本音を人前で語ることさえタブーだった。日本軍の軍律では、銃弾が尽きて戦闘不能になっても降伏は厳禁であり、投降すれば非国民扱いとなる。だから万策尽きると、日本軍は「自決」するか「玉砕」するしかない。
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日本軍が投降できないことについては、沖縄戦におけるひめゆり学徒の目撃談もある。
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六月二十一日正午ごろ、投降しようとして海岸の米軍艦船に近づいた一人の日本兵を、別の日本兵が後ろから射殺したのがきっかけで、米軍の自動小銃の乱射が始まりました。
――宮城喜久子さんの証言[*2]
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日本兵を日本兵が後ろから射殺する!
日本における、負ければ抹殺されるしかないという考えは、すなわち勝利しない限り死を選ばなければならないということでもある。そこから生じる悲劇と、死を美しく捉える文化については、『樺太1945年夏 氷雪の門』の記事で述べたのでここでは繰り返さない。
ただ、戦争における日米両軍の行動と、フィクションにおける日米のヒーローの行動は、時代を超えて共通していると云えるだろう。
竹中氏は次のようにも書く。
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原爆は是か非か、戦争は是か非か、軍事力は是か非か──。白か黒かの二分法の論理だけに議論が支配されている。興味深いことに、旧日本軍では戦争の展開までも、勝利か玉砕かの二分法に支配され、「投降」という選択肢が最初から否定されていた。「撤退」という言葉すら否定されて「転進」と言われた。これはけっこう根の深い問題かもしれない。
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たしかに根は深い。我々はフィクションにおいてさえ、ショッカー怪人の投降を許さないのだから。
しかし、ここで竹中氏は日米を比較して日本的二分法について述べているが、はたしてこの二分法は日本に特有のものだろうか。
あながちそうとは云えないかもしれない。
「日本軍は最初から滅私奉公主義」だったが、滅私奉公という言葉は、中国の戦国時代の書物をまとめた『戦国策』に由来する。 二千年以上かけて東アジアに広まったものだ。
清末四大奇案の一つといわれる怪事件に基づいた中国映画『ウォーロード/男たちの誓い』では、敵の拠点に攻め込み勝利するエピソードがある。主人公たちは、多くの敵兵を武装解除して閉じ込める。そのあと、自軍は何をするか?なんと、捕えた敵兵全員を射殺してしまうのだ。
もちろん、現代の映画の作り手は、登場人物の一人にそれは酷いと語らせるのだが。
しかし、戦争を殲滅戦と捉え、生き残りなんてあり得ないとする考え方は、一つ日本に閉じたものとは云えないだろう。
それが証拠に、ウルトラシリーズはアジア各国でも人気である。海外では、タイのチャイヨー・プロダクションがウルトラシリーズを展開していることは、ご存知の方も多いだろう。
したがって、日米の比較にとどまらず、洋の東西、少なくとも東アジア周辺と欧米とで比較すべきかもしれない。
ヨーロッパの歴史、それは戦争の歴史である。国はすなわち軍事国家であり、長年殺し合いを続けてきた。
数千年にわたり中国という超大国が睨みを利かせた東アジアや、ましてや19世紀まで対外戦争をほとんど経験しなかった日本とは大違いである。
西洋の国々が戦争を勝利と玉砕の二分法だけで考えず、「投降」等のオプションを用意しているのも、それだけ戦争馴れしているからだろう。対外戦争が常態化していた西洋諸国だから、戦争のルールを編み出せた。国際法の元祖たるヴェストファーレン条約も、ヨーロッパでの三十年戦争がもたらしたものである。


日本のアニメの歴史を変え、映画興行のあり方にさえ大きな影響を与えたこの作品でも、描かれるのは過酷な殲滅戦だ。
主人公たちは、『宇宙戦艦ヤマト』ではガミラス帝国を滅ぼし、続く『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』では白色彗星帝国を滅ぼしといった具合に、敵の国家を根こそぎ全滅させてきた。それらの国々はあたかも国民皆兵であるかのように描かれ、配慮すべき民間人はいないことになっている。国民皆兵で、地球人を絶滅させに来るのだから、自衛のためには敵国を全滅させるのもやむを得ないということである。
指導者層を捕えて停戦させたり、降伏させたりというオプションはない。我々は戦争馴れしていないために、全滅の手前の着地点を想像できないのだ。
まことに日本らしい展開ではないか。
事実、第二次世界大戦中の日本は国民皆兵も同然になっていた。
樺太の戦いのころ、まだ15歳だった孫君鉉(ソン・グムヒョン)さんは、ソ連軍から逃げたときの出来事をこう語る。[*3]
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やがて一つの山を越えて逢坂という村落にたどり着き、そこで日本軍と合流した。
「軍手と手榴弾二個をもらいました」と孫君鉉は語る。「一つは敵を殺すため、もう一つは自決用と言って…」
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また、ひめゆり学徒の生存者は次のように語っている。
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一人の将校に率いられた兵隊や住民の一隊に会い、「これで米兵を刺せ」と銃剣を渡されました。
――島袋淑子さん・照屋菊子さんの証言[*2]
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このように、軍人ではない少年少女たちも、敵兵を殺すために武器を帯びていたのである。
映画『キャタピラー』では、主婦たちが竹槍で敵兵を刺し殺す訓練をしている。
今となっては滑稽な場面だが、戦争当時、彼女たちは本気で敵兵を突き刺すつもりでいただろう。
これらを考えれば、軍人と民間人の区別などない宇宙戦艦ヤマトシリーズは、戦争とは殲滅戦と考える日本らしい作品なのだ。
ところが、ヤマトの乗組員はシリーズを通じて情け容赦なく敵を全滅させているのに、ただ1つ最初のテレビシリーズ『宇宙戦艦ヤマト』には、全滅させたことを後悔するシーンがあった。全滅させてから何を云っても手遅れだが、少なくともこのときには殲滅戦に対する疑問を抱いていたのである。
とはいえ、企画段階の案を基にした石津嵐氏の小説版『宇宙戦艦ヤマト』では、乗組員のほとんどが死んでしまう悲惨な物語であった。
第1テレビシリーズを日本的な殲滅戦に陥ることから救ったのは、企画途中から参画した松本零士監督によるところが大きいだろう。マンガ家として、逆境でもしぶとく生き抜く人物を描いてきた松本零士氏は、『宇宙戦艦ヤマト』でも「必ずここへ帰って来る」者たちを描こうとした。
『宇宙戦艦ヤマト』では、後のシリーズと異なり、主要な乗組員が戦闘で命を落とすことはない。唯一、沖田十三艦長が死亡するが、これは病魔に蝕まれて命脈尽きるのである。使命を全うした上での世代交代といえよう。
沖田十三という人物は開巻当初から象徴的な存在だった。何しろ『宇宙戦艦ヤマト』は沖田艦長が撤退するところから始まるのだ。第二次世界大戦中の日本軍にはできなかった「撤退」を、敢えて決断できる人物を核に物語は進行する。しかも「勝利か玉砕かの二分法」を叫ぶ(いかにも日本の軍人らしい)古代守と激論するシーンまである。
ここに、『宇宙戦艦ヤマト』という作品の戦争への姿勢が打ち出されている。
松本零士氏は多くの戦争マンガを書いているが、他のマンガ家が颯爽たるゼロ戦の活躍を描いたりしている中で、ヨーロッパの戦場を舞台にした作品を発表するなど、かねてより戦争の取り上げ方は独特だった。このような松本零士氏の意向もあって、『宇宙戦艦ヤマト』第1テレビシリーズは「勝利か玉砕かの二分法」を脱し得たのではないか。
しかし、第1テレビシリーズの続編である『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』になると、容赦なく敵を殲滅するのはもとより、味方も次々に戦場に散っていく。石津嵐氏の小説版もかくやと思わせるむごたらしさだ。それはまさしく「勝利か玉砕かの二分法」の典型であり、登場人物の大半が美しい自己犠牲により敵の砲火に身をさらしていく。
このとき、松本零士氏は共同監督としてクレジットされてはいるものの、すでに第1テレビシリーズの映画化のころからパブリシティーの前面に立つようになっていた西崎義展プロデューサーが、テーマは愛だと語っていた。それが「君は愛する人のために死ねるか」という宣伝文句に繋がるのである。
松本零士氏は、この結末が特攻を美化するとして良しとしなかった。
だから、『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』をテレビ化した『宇宙戦艦ヤマト2』を監督した際には、登場人物の多くは死なない結末を用意した。
これ以降、松本零士氏の関与が減っていき、プロデューサーの西崎義展氏が総監督も兼ねるようになると、『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』に見られる「勝利か玉砕かの二分法」が欠かさず描かれるようになる。さすがに、続編の余地を残すためか、登場人物の大半が死ぬような展開は避けているが、主要な人物がここぞというときに犠牲になるのはお約束と化した。
私が、以降のシリーズを『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』に連なる作品と呼ぶゆえんである。
かように、36年もの長きにわたって連綿と続いた宇宙戦艦ヤマトシリーズは、「勝利か玉砕かの二分法」を否定し生きて帰ることを重視した第1テレビシリーズと、「勝利か玉砕かの二分法」を念頭に死ぬことを尊ぶ『さらば――』以降とに分裂しているのだ。


はたして、この新作が、『宇宙戦艦ヤマト』第1テレビシリーズを受け継ぐ作品なのか、『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』に連なる作品なのか、私が興味津々でいたところに目についたのが、「必ず、生きて還る。」という惹句である。
これは、「君は愛する人のために死ねるか」よりも「必ずここへ帰って来る」に近いようだ。
私は思った。
今回の実写版は、私と意を同じくするヤマトファンが作る映画かもしれない。自己犠牲を美しく描くのではなく、戦いの勝敗にかかわらず生きて帰ることを重視したヤマトが、久しぶりに観られるのかもしれない。
ただ、『ALWAYS 三丁目の夕日』で日本中を号泣させた山崎貴氏が監督であると知ったとき、この実写版が『宇宙戦艦ヤマト』を追求した作品にはならないかもしれないと思った。
山崎貴監督の起用は、人間ドラマを中心にするためだともいわれる。[*4]
そうであれば思い出されるのは、山崎監督が熱心な『バトルスター・ギャラクティカ』ファンであることだ。『ギャラクティカ』は、宇宙船団を舞台にしたシリアスな人間模様を描いて高い評価を受けている。彼が、宇宙戦艦の中での人間ドラマを描くとすれば、『SPACE BATTLESHIP ヤマト』は日本版『ギャラクティカ』になるのではないか、私はそう思った。
しかし、以前の記事でも書いたように、『バトルスター・ギャラクティカ』は日本人にとっては異質の作品である。
日本でヒットするのは、喜怒哀楽を存分に刺激し、スカッとしたり感動したりする作品だ。だが、『ギャラクティカ』は感情に訴えることを極力排し、論理的思考が行き着く先にある苦さを噛みしめる作品である。前者が、感情をつかさどる古い脳を刺激する作品だとすれば、後者は論理をつかさどる新しい脳を刺激する作品だ。
映画館を出るときに、まったくカタルシスを感じることなく、どんよりとした重さを背負うような作品が、日本でヒットするだろうか。
興味深いことに、『宇宙戦艦ヤマト』を米国で放映するに当たっては、日本よりも論理的な味付けがなされている。
先に触れた撤退命令を出した沖田十三とそれを拒む古代守との会話を、名ゼリフとしてご記憶の方も多いだろう。
沖田「ここで今全滅してしまっては、地球を守る為に戦う者が居なくなってしまうんだ。明日の為に今日の屈辱に耐えるんだ。それが男だ。」
古代「男だったら、戦って戦って戦い抜いて、一つでも多くの敵をやっつけて、死ぬべきじゃないんですか!」
ところが、Norihiko Nakajima氏によれば、『宇宙戦艦ヤマト』を米国で放映した『Star Blazers』では、古代守のセリフが次のように変えられているという。
「単なる数字の問題です。あなたの旗艦には470名の乗組員がいる。私の船は20名。あなたたちが必ず帰還できるよう守ります。」
日本では両者の信条を観念的にぶつけ合っているのだが、米国では論理的な交渉になっている。
これにより、日本での古代守が上官の命令を無視して暴走したように見えるのに対し、米国の古代守は上官と話し合って全体最適を導き出したように見える。古代守も、その上官である沖田十三についても、日米では評価が変わってくるだろう。
このように日米の文化的差異がある中で、感情重視の日本映画が『ギャラクティカ』のような論理性を目指すことができるだろうか。
とはいえ、案の定できあがった『SPACE BATTLESHIP ヤマト』は、『ギャラクティカ』の影響が濃厚だった。
飲んで喧嘩にあけくれる女性パイロット、夢のようなビジョンを提示して人々を引っ張っていく艦長、自軍の兵に連行されて営倉に放り込まれる主人公、大の虫を生かして小の虫を殺さざるを得ない苦渋の決断等々、2時間強の映画の中に『ギャラクティカ』のリメイクかと見紛うエピソードがいっぱいだ。[*5]
また、注目の沖田十三と古代守の会話は、『宇宙戦艦ヤマト』よりも『Star Blazers』に近くなり、『宇宙戦艦ヤマト』で無謀な攻撃をしていた古代守は、『SPACE BATTLESHIP ヤマト』では沖田艦の守りに回る。既存のエピソードも米国流のアレンジがなされたわけだ。
もちろん、『SPACE BATTLESHIP ヤマト』は『宇宙戦艦ヤマト』の実写版であるから、『宇宙戦艦ヤマト』らしさもたっぷりある。
ストーリーだけではない。生きて還ることを執拗に説く沖田艦長は、まさしく第1テレビシリーズの松本零士氏が生み出した人物そのものだった。「必ず、生きて還る。」という惹句は伊達じゃない。
私は、山崎貴監督が『宇宙戦艦ヤマト』の器に『ギャラクティカ』を盛り込んで、どのように締めくくるのか、興味を持って観ていた。
だが、そのとき、物語は『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』へと大きく舵を切りはじめた。登場人物が自己犠牲に邁進し、次々に死に出したのである。
それは、『ギャラクティカ』とは相容れないものだ。
そもそも『さらば――』は、感情を刺激する典型的な作品だ。特攻の是非を論理的に見据えるよりも、特攻する崇高さに涙させる作品だ。
しかし、論理をそっちのけに感情に流されることこそ、『ギャラクティカ』の脚本家ロナルド・D・ムーアが排除してきたものではなかったろうか。
なのに『SPACE BATTLESHIP ヤマト』は、「必ず、生きて還る。」というメッセージを雲散霧消させてしまった。
とまれ、山崎貴監督はかつて『ギャラクティカ』に関するインタビューで、「あなたならどのような結末にするか?」と問われて次のように答えている。
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僕ならハッピーエンドにしますね。ただし、かなりの苦味を持ったハッピーエンド。ビター・ハッピーエンド。「さまざまな人が犠牲になったことによって、私たちはここにたどり着けました。だから自分の人生を大切にしなければいけないし、この地面に立てたことを大切にしなければいけない」っていう感じのハッピーエンド。だから、もしかしたらメインの登場人物はほぼ全員死ぬかもしれない。いろんなことがあって、でも最後には数人、ほんの“種子”だけでもいいと思うんですよね。(略)希望の種子は残しつつ、メインのキャラクターはみんな死んでくような気がする。すごく苦いけど、それは絶対にハッピーエンドなんです。ロールプレイング(・ゲーム)と一緒で、最後にはキャラクターへの思い入れが強くなっているから、きっともう、号泣に次ぐ、号泣でしょうね。
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それは、まさしく『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』のことではないか?
『SPACE BATTLESHIP ヤマト』でやろうとしたのは、それか?
こうして『SPACE BATTLESHIP ヤマト』は、『宇宙戦艦ヤマト』と『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』と『ギャラクティカ』の要素を盛り込んで船出した。
しかし『宇宙戦艦ヤマト』と『さらば――』は方向性の違う作品である。『さらば――』と『ギャラクティカ』も相容れない。
だから、『SPACE BATTLESHIP ヤマト』の航跡は蛇行している。
とはいえ、本作の作り手が『宇宙戦艦ヤマト』と『さらば――』の名場面、名ゼリフを忠実に再現しようと腐心しているのは確かである。
アニメ版とは異なる部分もあるものの、アニメ版が内包していた不自然な点を解消しつつ、2時間強の尺に収めようとしたら、このような形になるのは理解できるところだ。[*6]
最も大きな改変はガミラスの設定だろうが、『ギャラクティカ』の敵サイロン(個体として行動しつつ、記憶を共有する)の設定を彷彿とさせつつ、石津嵐版の小説での設定を知っているファンには納得できるところだろう。
しかし、『SPACE BATTLESHIP ヤマト』の作り手が、先行する3作品をじっくり分析していたら、そしてその特徴と差異を理解していたら、それらの要素を一つの映画に押し込もうとはしなかったはずだ。
いくら名場面を再現しようと、まったく方向性の違う作品を繋げるのは無理がある。
だが、それを作り手だけに云うのは酷だ。
『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』を『宇宙戦艦ヤマト』の正統な続編として認めるファンも多い。そのメッセージは異なるにもかかわらず、ファンの胸のうちではひと繋がりの作品になっている。
作り手としては、ヤマトファンが喜びそうなものをすべて盛り込み、さらには『ギャラクティカ』のような現代的な味付けもしたかったのだろう。
かつて書いたように、日本には自殺を一つの選択肢として許容する文化がある。
日本の自殺者数は『さらば――』の公開された30年前よりはるかに増えて、年間3万人を突破して久しい。日本は世界に冠たる自殺大国なのだ。
だからこそ、いま「必ず、生きて還る。」というメッセージを発信することに意味がある。
私は『SPACE BATTLESHIP ヤマト』の公開を前にそう期待していた。
しかし、私が目の当たりにしたのは、2010年の今も30年前と同じように、いや第二次世界大戦中と同じように、勝利か玉砕かの二分法に支配され、我が身を犠牲にすることを尊ぶ日本人の精神だった。
[*1] ウルトラマンとスーパーマンの誕生には、文化的・歴史的・宗教的な違いがある。これについては稿を改めて触れたいと思う。
[*2] 香川京子 (1992) 『ひめゆりたちの祈り―沖縄のメッセージ』 朝日新聞社
[*3] 角田房子 (1994) 『悲しみの島サハリン――戦後責任の背景』 新潮社
[*4] 2009年、クランクイン前に発売された東京スポーツや週刊大衆では、最初は監督として樋口真嗣氏が予定されていたこと、乗組員の人間ドラマを中心にしたいとの意見があり、人間ドラマに定評のある山崎貴監督に変更になったことを報じているそうだ。
[*5] 『ギャラクティカ』のエピソードをうまく移植できなかったところもある。敵機を艦内に収容したのは安易だったろう。
『ギャラクティカ』でも敵の戦闘機を艦内に収容するエピソードがあるが、それは敵であるサイロンが人間に開発されたロボットだという前提があるからだ。基本的にサイロンも地球環境を想定して作られており、機体の材料や機内の空気が人間に害を与える可能性は低い。
ところがガミラスは人類には未知の存在である。劇中の説明からすれば、ガミラスは高濃度の放射性物質を好むと考えられ、機体に近づくことは命取りになる恐れがある。映画を見ている限りは、そのリスクをどのように回避するのか説明がない。
[*6] たとえば、森雪の設定変更は妥当であろう。オリジナルの『宇宙戦艦ヤマト』では、生活班の班長として乗組員の生活全般にかかわるとともに、ナースとして怪我の手当ても行い、艦橋で三次元レーダーの監視も行う。さらには調査活動にも同行するという、ひらたく云えば、どの場面にも登場する何でも屋だった。
さすがにそれではリアリティがないので、『SPACE BATTLESHIP ヤマト』では戦闘機のパイロットとなっている。古代進が戦闘班長であることを考えれば、2時間強の映画の中で効率的に古代との接触を増やすためには戦闘班に所属させるのが妥当だろう。また、松本零士氏の原案では古代進の部下でパイロットとされていたそうだから、原点回帰とも云える。
前述のガミラスの設定といい、『SPACE BATTLESHIP ヤマト』は明らかに『宇宙戦艦ヤマト』の企画段階の案を意識しており、ファンならニヤリとするところである。
もちろん、森雪がパイロットという設定には、『ギャラクティカ』の女性パイロット・スターバックの影響もあろう。

監督・VFX/山崎貴 脚本/佐藤嗣麻子 原作/西崎義展
出演/木村拓哉 黒木メイサ 柳葉敏郎 緒形直人 西田敏行 高島礼子 堤真一 橋爪功 池内博之 マイコ 斎藤工 山崎努
日本公開/2010年12月1日
ジャンル/[SF] [アドベンチャー] [戦争]


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【theme : SPACE BATTLESHIP ヤマト】
【genre : 映画】