『プチ・ニコラ』 何曜日に見るべきか?

 『プチ・ニコラ』の公式サイトや映画情報のサイトを見ると、本作のストーリーが紹介されている。しかし、それらにはあまり意味がない。実のところ、本作にストーリーらしきものは、ない。
 いや、それでは未見の人に誤解を与えるだろうから、「物語性を楽しむ映画ではない」と云い換えよう。

 『プチ・ニコラ』、日本語に訳せば、ズバリ『ちびニコラちゃん』でしょう!
 日曜日の夕方になると、ブルーマンデーの憂鬱から逃れるために、テレビのチャンネルをアニメに合わせてしまう人は多いだろう。

 そこには古き良き昭和の匂いが漂い、一戸建てで3世代同居という今では珍しい生活が映し出される。直系3世代が暮らす世帯は、2005年の時点ですでに一般世帯の6.9%しかないのだから、大多数の視聴者にとってそんな暮らしは伝説の世界である。
 日曜日の夕方のアニメでは、衝撃の事実が明かされることもないし、激動の時代が描かれるわけでもない。そんなことははなから誰も期待していない。テレビの前の視聴者は、ゆったりとした安心感を得たいだけなのだ。

 そうこうしているうちに、まるちゃんと呼ばれた少女はいつのまにやらワカメになり、お爺さんのハゲ頭には毛が1本生えてくるのだが、視聴者にとってはさして気にすることではない。
 この話には覚えがあるなぁ、なんてデジャビュ満々でも構わない。覚えがある方が、ノスタルジーに浸りやすいというものである。


 ローラン・ティラール監督は、『ちびまる子ちゃん』について、もとい『サザエさん』について、もとい『プチ・ニコラ』について、次のように語っている。
---
実際によく読むと、失業、犯罪、離婚は全く存在せず、社会は安定し、全てが丸く収まっています。理想的な社会です。本当は50年代にも、そして現在においてもそんな理想社会は」実在しないのですから、「プチ・ニコラ」がおとぎ話であるという原則に基づき、物語の舞台を過去の存在しない世界に設定しなくてはならなかったのです。
(略)
私たちは物語の設定を、(略)「プチ・ニコラ」が生まれた1958年前後にすることにしたのです。
---
(原文ママ)


 『プチ・ニコラ』の世界は、カウンターカルチャーの勃興前であり、まだ性の解放も叫ばれておらず、ティラール監督が云うところの「理想的な社会」である。
 それが本当に理想的な社会かどうかは判らないが、少なくともニコラ少年の目にはそう見える。

 時代は少々異なるが、『ちびまる子ちゃん』も同様だろう。
 『ちびまる子ちゃん』は、作者であるさくらももこ氏が、小学校3年生のころを回想した作品である(少なくとも連載当初は、少女時代を回想したエッセイだった)。まる子は1965年生まれだから、作品は1974~1975年ごろの設定だ。
 60年代の変革の波を経験した後とはいえ、まだ映画『結婚しない女』は公開されておらず、まる子の母はニコラの母と同様に運転免許を持たない専業主婦である。

 もちろん、ローラン・ティラール監督自身が認めるように、50~60年代のフランスにも、70年代の日本にも、理想社会なんて実在しない。
 まる子がヒデキに夢中だったころ、日本はテロリスト輩出国家であり、日本赤軍が世界各地で事件を起こしていた。隣の韓国では、親に捨てられた子供が養子として他国に引き取られていた
 現代でも、カウンターカルチャーを禁止し、性の解放とはほど遠い国があるが、それで理想的な社会を維持できてるかは判らない。


 しかし、世の中の動きはともかくとして、ニコラやまるちゃんのこじんまりとした世界は平和だった。
 教室でいつも立たされてる子が、珍しく先生に褒められようものなら大事件だった。
 友だちとの悪だくみは、ちっともうまくいかないが、気にすることはない。次の作戦を企む時間はたっぷりあった。

 これがまさか月曜日の前のいっときだなんて、あのころは想像もしなかった。
 多くの人も同じだろう。

 もちろん時代が変われば遊び方も変わる。いまでは住宅街の近くに空き地なんてないけれど、その代わりにみんなでDSを持ち寄れば、仮想世界の平原に集うことができる。それは空き地で遊ぶのと変わらない。

 ただし、いずれ日曜日の夕方は終わる。気がつくと、そこは月曜日だ。

 だからこそ、こうして日曜日の夕方を思い出すと、ほのかな郷愁とともに楽しさがよみがえるのだ。
 それは、おとぎ話なのかもしれないが。


プチ・ニコラ [DVD]プチ・ニコラ』  [は行]
監督・脚本・台詞/ローラン・ティラール  脚本/グレゴワール・ヴィニュロン
台詞/グレゴワール・ヴィニュロン、アラン・シャバ  原作/ルネ・ゴシニ、ジャン=ジャック・サンペ
出演/マキシム・ゴダール ヴァレリー・ルメルシェ カド・メラッド サンドリーヌ・キベルラン フランソワ=グザヴィエ・ドゥメゾン ミシェル・デュショーソワ 
日本公開/2010年10月9日
ジャンル/[コメディ] [ファミリー]
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【theme : ヨーロッパ映画
【genre : 映画

tag : ローラン・ティラール マキシム・ゴダール ヴァレリー・ルメルシェ カド・メラッド

『冬の小鳥』 少女の鳥はハトより小さい

 【ネタバレ注意】

 「『冬の小鳥』は、私が過ごしたカトリック系の児童養護施設での体験に着想しています。」
 監督・脚本のウニー・ルコントは、こう述べている。彼女は本作の主人公と同様に、1966年に韓国に生まれ、9歳の時に養父母に引き取られた。
 公式サイトのウニー・ルコントの言葉によれば、ほとんどの部分は創作だそうだが、やはり監督の実人生と重ね合わせずにはいられない。幼いウニー・ルコントを引き取ったのは、フランスの牧師の家庭だったそうだ。

 韓国では、朝鮮戦争で多くの子供が孤児になった歴史もあり、海外の家庭と養子縁組される子供が少なくない。
 だから『冬の小鳥』のように、少女が児童養護施設で暮らし、やがて欧米の家庭に引き取られる物語は、必ずしもウニー・ルコントだけのものではないのだろう。


 本作の主人公ジニは、親に捨てられ、児童養護施設で暮らすことにたいへんなショックを受ける。彼女は、この現実をなかなか受け入れることができない。とうぜんのことだ。

 その彼女が、自分の立場を思い知るのは、教会で神父の話を聞いたときだろう。
 彼女が暮らす施設はカトリック系なので、子供たちは礼拝に出席する。そこで神父が、十字架に磔にされたイエスが「父はなぜ私を見捨てられたのか」と叫んだと語るのである。
 ジニは、「父に見捨てられた私」ということに、イエスと自分の共通点を見出す。


 この作品は、韓国がアジア屈指のキリスト教国であることが前提となろう。
 韓国は、社会全体としては儒教の影響が強いものの、人口の20%をプロテスタント、7.4%をカトリックが占め、仏教徒を抜いてキリスト教徒が最も多い。
 そのため、『渇き』の主人公が神父だったように、キリスト教の要素が映画にも反映される。

 『冬の小鳥』は、ジニの気持ちの変遷を綴っていくのだが、それはイエスの生涯に重ね合わされる。
 この映画のクライマックスは、友人スッキの裏切りでも、イェシン姉さんの悲劇でもない。
 ジニの死と復活である。

 十字架に磔にされたイエスは、「父はなぜ私を見捨てられたのか」と叫んだ。
 やがてイエスは死ぬが、三日でよみがえり、天にむかって昇っていく。
 一方、ジニは小鳥の墓の十字架のあった場所に横たわり、土に埋もれる。これがジニの死だ。彼女はここで一度死ぬのだ。

 そして土を払いのけ、身を起こす。これがジニの復活だ。
 死と復活を経て、はじめてジニは笑顔を取り戻す。
 そしてジニは、飛行機でフランスの牧師の家庭に向かうが、これはイエスの昇天である。
 ジニはイエスと同じ生涯をたどったのだ。

 韓国の観客だけでなく、キリスト教徒が圧倒的に多いフランスの観客も、そしてもちろん牧師一家だったウニー・ルコントの家族も、この映画がいかに感謝のメッセージに満ちているかを感じとるだろう。


 人はときに信仰に救われるのだ。


冬の小鳥 [DVD]冬の小鳥』  [は行]
監督・脚本/ウニー・ルコント
出演/キム・セロン パク・ドヨン コ・アソン パク・ミョンシン ソル・ギョング ムン・ソングン
日本公開/2010年10月9日
ジャンル/[ドラマ]
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【theme : 洋画
【genre : 映画

tag : ウニー・ルコント キム・セロン パク・ドヨン コ・アソン ソル・ギョング

『樺太1945年夏 氷雪の門』の圧力とは?

 『樺太1945年夏 氷雪の門』という作品そのものについては、先日の記事で取り上げた。
 ここでは、1974年3月に予定していた公開が中止された事情について触れておきたい。

 1974年、東宝は幾つかの作品の公開を止めている。

 ソ連からは、3本の映画について抗議があった。
 『キネマ旬報』1974年4月下旬号に掲載の座談会「映画■トピック・ジャーナル」によれば、それは次の作品である。

  『イワン・デニーソヴィチの一日』 NCC配給
  『モスクワわが愛』 東宝配給
  『樺太1945年夏 氷雪の門』 JMP配給


 『イワン・デニーソヴィチの一日』は、1970年にノーベル文学賞を受賞したアレクサンドル・ソルジェニーツィンの処女作の映画化である。
 その作家活動が国家反逆罪に当たるとされたソルジェニーツィンは、1974年2月にソ連を追放された。

 もちろんこの映画は、ソ連の制作ではない。
 イギリスとノルウェーの合作による『イワン・デニーソヴィチの一日』の日本での公開は、原作者の国外追放が世界中で話題になっていた時期だから、ソ連にとって面白いはずがない。
 東宝は配給会社のNCCから興行を打診されていたが、ソ連からの日本で上映しないでくれという申し入れを受けて、こんな話題性が満点の作品なのに興行を断ってしまう。
 『キネマ旬報』によれば、「モスフィルムが製作した『モスクワわが愛』が東宝配給ということがからんでいるから」だそうだ。
 本作は、ソ連とのしがらみがない松竹系の劇場で公開されている。


 『イワン・デニーソヴィチの一日』を犠牲にしてでも東宝が尊重しようとした東宝映画(東宝の制作子会社)とモス・フィルム合作の『モスクワわが愛』については、ソ連側が作品の一部をカットすると云いだした。
 『キネマ旬報』は、「ソビエト側は、三角関係がオモシロくない、という。」「カットされたら話がつながらなくなる。日本側は頭を抱えている」と報じている。


 そして『樺太1945年夏 氷雪の門』に関するソ連からの抗議については、「要するに第二次大戦の恥部には触れてくれるな、ということだと思う。」「契約としては単なる興行契約だけだったから、東宝はすぐにハズしたわけだ。反共映画だ、みたいな形で参院選などがからんだら、やっかいなことになるのを避けたのだろうね。」と報じている。
 折りしも、1974年7月7日の第10回参議院議員通常選挙を控えた頃のことである。

 『キネマ旬報』の同号の「日本映画紹介」コーナーには、公開作品として本作のあらすじが掲載されており、興行中止がいかに急な決定だったかが判る。
 なお、『キネマ旬報』における本作の紹介記事は、このあらすじ紹介のみであり、興行中止がなければ座談会に取り上げられることもなかったはずだ。
 独立プロの自主配給では、話題性に乏しかったのであろう。


 この座談会では、東宝の姿勢に対し、「『モスクワわが愛』はちょっと違うけれども、後の二本はつっぱねたって、国交断絶になるわけでなし、妙に弱腰になると後で困るんじゃないかな」という意見もあるものの、「金持ちケンカせず、というところですよ」と結ばれている。

 これだけでは、結びの発言の意味が不明だが、それは『キネマ旬報』1974年9月上旬号の座談会を読むと判る。
 ここでは、東宝の関係会社である東京映画が制作した『太陽への挑戦』の公開見送り問題を取り上げている。
 『太陽への挑戦』は、第10回参議院議員通常選挙で初当選した糸山英太郎氏をモデルにした映画だが、選挙違反事件を受けて東宝は公開を止めてしまった。
 座談会の出席者からは、選挙違反事件の話題性を考えれば公開しない手はないとの声が強かったが、東宝の判断は次の事情によるのだろうとしている。

・このころ東宝は、『人間革命』『日本沈没』『華麗なる一族』のヒットに恵まれており、攻撃材料になるような映画を公開するくらいなら、多少の損には眼をつむっても波風を立てるべきではないと考えるだけの余裕があった。

・何よりも世論の袋叩きを恐れている会社である。よくいえば良心的、悪くいえば勇気がない。

・当時は社長が静養中で、森、馬渕両氏が社長代行をしている状況であった。

 座談会では、「東映や日活だったら何の躊躇もなくやっちゃうんだろうが」として、8月に『樺太1945年夏 氷雪の門』を公開した東映の岡田茂社長の次の言葉を紹介している。
 「『氷雪の門』はソビエト映画じゃない、日本映画なんだ。東宝や東映がやらなくても誰かが上映して、当然反ソ的な意味合いというものが出てくる。しかし大手にまかしておけば最初から喧嘩するようなことをやるはずがないじゃないか」
 この言葉を受けて、座談会の出席者は、「東宝と東映の体質というのはすごい違いだ」と述べている。


 以上の『キネマ旬報』の記事の他、当時は当たり前すぎて取り上げられていない世情を勘案すると、『樺太1945年夏 氷雪の門』の公開中止の背景として次のことが挙げられよう。

(1) 1973年10月からの第一次オイルショックにより、日本経済は大混乱。そんな中、1974年7月には参院選を控えていた(この参院選で、与党は大敗を喫することになる)。

(2) 1960年の日米安保条約の改定以来冷え込んでいた日ソ関係を打開すべく、1973年10月に17年ぶりの日ソ首脳会談が開かれた。ソ連は、二島返還の提案を撤回したままだったが、この会談でようやく北方四島の問題が未解決であることを日ソで確認したところである。

(3) 東宝には、スキャンダラスな興行になって、世間や圧力団体から叩かれることを恐れる体質があった。

(4) 当時の東宝は、ヒット作に恵まれており、関連会社が制作してみずからが配給する予定だった作品をお蔵入りさせてもこたえないだけの余裕があった。
 ましてや、制作・配給は他社が行い、東宝としては興行契約を結んだだけの作品を外したところでダメージではなかった。

(5) ソ連から3本の映画について抗議を受けたが、東宝の子会社が制作し、みずから配給する予定の『モスクワわが愛』に比べれば、他の2本は東宝にとって重要ではなかった。


 ところで、2010年の『樺太1945年夏 氷雪の門』リバイバル時のパンフレットの表紙には、こう書かれている。

  36年前
  ソ連の圧力によって
  封印された幻の名作

 そして、イントロダクションには次の記述がある。
---
当時の新聞資料等は、ソ連大使館から外務、文部両省に「反ソ映画の上映は困る」との抗議により、配給会社が自粛に至ったと報道している。
---

 しかし上に紹介したように、自粛したのは配給会社ではなく、興行会社としての東宝である。
 また、私が参照した『キネマ旬報』1974年4月下旬号には、このパンフレット同様に「ソ連大使館から抗議」と書かれているが、ウィキペディアによれば「パーティーの席上、モスフィルム所長が苦言を口にした」のだという。
 「ソ連の圧力」という文句から想像されるものと、パーティーの席で苦言を口にされたのとでは、ずいぶんイメージが異なる。

 そもそも、当時のソ連にとっては、国外追放にしたソルジェニーツィン原作の『イワン・デニーソヴィチの一日』の方がよほど刺激的だったのではないか。
 それを公開した松竹には、何か不利益が生じただろうか。

 せっかくリバイバルするのだから、1974年当時に何があったのか具体的に記しておければ、なお良かったろう。
 ソ連という国はもう存在しない。したがって、「ソ連の…」「ソ連が…」と書いたところで、もう抗議してくる者はいない。
 だからこそ、よりいっそう正確な記述が求められると思うのだが、いかがだろうか。


『樺太1945年夏 氷雪の門』  [か行]
監督/村山三男  脚本/国弘威雄  原作/金子俊男  助監督/山野辺勝太郎、新城卓
出演/二木てるみ 鳥居恵子 岡田可愛 藤田弓子 栗田ひろみ 木内みどり 北原早苗 若林豪 黒沢年男 南田洋子 千秋実 赤木春恵 丹波哲郎 田村高廣 島田正吾
日本公開/1974年8月17日 109分バージョン (153分バージョンもあり)
リバイバル/2010年7月17日 119分バージョン
ジャンル/[ドラマ] [戦争]
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【theme : 邦画
【genre : 映画

『おまえうまそうだな』 さぁ残さずに食べなさい

 かつて辻真先氏が、みずから脚本を手がけたテレビアニメ『ジャングル大帝』はおかしな話だったと述懐していた。
 制作に当たって米国への輸出を想定していたため、米国の放送コードに引っかからないようにさまざまな制約があった。黒人を出さないようにしたので、アフリカなのに白人ばかりが登場することになった。
 そして、残酷な描写を避けるため、肉食獣のライオンが主人公なのに、動物を食べてはいけない。それどころか、みんなで畑を作って草食獣も肉食獣も野菜を食べるという話になってしまった。

 テレビを見ていた私は、さすがに子供ながらもウソだと思った。
 生き物には、食べられる物と食べられない物がある。それを無視して、みんなが野菜を食べれば解決とのたまうのは、子供だって受け入れない。


 生きるために食べる。
 食べるために殺す。
 人は誰しも、どこかでこの問題を考えることがあるだろう。

 イルカ作詞・作曲の歌『いつか冷たい雨が』には、次のような一節がある。

  牛や鳥やおさかなも 人間の為にあるのよ
  サァ残さずに食べなさい
  そんな風に言うおかあさんにはなりたくありません
  でも私だって 食べて育ってきたのだし
  虫だって 殺した事もあります

 この歌を聴いて、深く考えた人も多いはずだ。
 もちろん、生活習慣や信仰等によって、問題の捉え方は異なる。
 間違いないのは、私たちも食物連鎖の中にいるということだ。
 結局のところ、人はどこかで折り合いを付けねばならない。
 小鳥を可愛がる人が、焼き鳥を食べたりするのだ。

 その点『おまえうまそうだな』は、世の中には草食恐竜と肉食恐竜がいることを、包み隠さず描いている。そこにウソはない。

 同様の問題を取り上げた映画といえば、2008年公開の『ブタがいた教室』がある。小学生たちが食べるために子豚を育てるこの映画も、なかなか見応えのある作品だった。
 しかし『おまえうまそうだな』は、『ブタがいた教室』ほど大上段には振りかぶらない。あくまでかわいいキャラクターたちと、楽しいストーリーと、冒険と感動のうちに、いつしか腑に落ちるのである。


 私はこの作品の試写会の案内状を手に入れていた。
 だが、予告編を観ただけで感動していたので、多目的ホールでの試写ではなくきちんとした映画館で観たいと思い、封切りまで我慢していた。
 ようやく目にした本編は、予想をはるかに上回る作品だった。

 劇場を訪れた子供たちも、きっと何かを掴んで帰っていくことだろう。


おまえうまそうだな [Blu-ray]おまえうまそうだな』  [あ行]
監督・絵コンテ/藤森雅也  原作/宮西達也
出演/原田知世 加藤清史郎 山口勝平 別所哲也
日本公開/2010年10月16日
ジャンル/[ファミリー] [ドラマ]
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【theme : アニメ
【genre : 映画

tag : 藤森雅也 原田知世 加藤清史郎 山口勝平 別所哲也

『パレード』 『悪人』 ラストの秘密

 『悪人』の記事に関連して、質問をいただいた。
 コメント欄で回答するにはあまりにも長くなったので別の記事としたが、回答に当たっては『悪人』と『パレード』の核心的な部分に触れざるを得ない。
 両作品について未見の方は、ここから先を読むのはご遠慮願いたい。


tiffaさんからの質問
---
ラストで深津絵里さんが「あの人は悪人なんですよね」と言ったのはそのままの感情だと思いますか?
私は違うと思うのですが、そうすると、深津さんの表情に違和感を感じてしまいます。そこを追い求める映画ではないと思いますが、いい映画だっただけにそこだけ違和感を感じたままです。
よければ、ナドレックさんなりの考えを教えてください。
---

 tiffaさん、こんにちは。

 ラストで深津絵里さん演じる光代が口にした「あの人は悪人なんですよね」というセリフについて述べるのは難しいですね。
 そのためには、「悪人」とは何なのかについて考える必要があると思います。
 そしてそれを語るのに、李相日(リ・サンイル)監督は139分の映画を要し、原作者の吉田修一氏は一つの長編小説を要したわけです。
 『悪人』という作品は、まさにこのセリフにたどりつくためにあったとも云えるでしょう。


 以下に、あくまで私なりに想うところを書いてみます。

 まず、光代がこのセリフを述べた場には、4人の人間がいました。

 1人は、柄本明さんが演じた犠牲者の父です。被害者側の関係者です。
 光代は、彼が大学生を付け狙ったことは知りませんが、娘を殺されたのですから、犯人を憎んでも憎み切れないのは理解するところでしょう。
 祐一は彼に対して、「悪いこと」をしたのです。

 もう1人は、タクシーの運転手です。被害者側にも加害者側にも属さない傍観者です。
 彼は、報道によって事件を知るのみです。事件の当事者のことは、直接的には何も知りません。
 にもかかわらず、「常識」にしたがって、人を殺したヤツは悪人だと考えています。
 彼は、世間一般を代表しています。

 そして光代がいます。加害者側の関係者です。
 光代は、祐一がどんなに淋しい魂の持主だったかを知っています。祐一には、他人への優しさがあり、自己を犠牲にする思いやりがあることも知っています。
 同時に彼女は、世間一般が殺人者をどう見るか、被害者側の人間が殺人者をどう見るかを理解し、推し量ることができます。

 最後の1人は、祐一です。
 物理的には、そこにはいません。しかし、結わえ付けられたスカーフを通して、私たちは祐一の影を見ます。
 吉田修一氏が「自分は祐一そのものを書かなかった」と述べたように、もともとの原作小説は、祐一の周囲の人を描くことで祐一を浮かび上がらせる手法をとっていました。
 それでは映画にならないので、李相日監督は祐一を描くようにしたのですが、この場面だけは、役者が祐一を演じるという映画的手法を捨てて、原作同様に周囲の人から祐一を浮かび上がらせています(私は原作を未読ですので、吉田修一氏のインタビュー記事に基づいて述べています)。


 そしてこれは、同じく吉田修一氏が原作の『パレード』でも見られることです。

 『パレード』では数人の若者たちが登場します。一緒に暮らしているにもかかわらず、お互いを全人的に理解しているわけではありません。
 お互いが見ている/見せているのは、その人のほんの一面だけで、他の面があるのかどうか、あったらそれがどのような面なのかは、お互いにまったく知らないのです。
 そして、見ている/見せているほんの一面から、その人間のイメージを作り上げ、イメージを壊さないように各人が役割を演じています。本人はイメージから逸脱しないように努力を強いられ、周囲の者は本人のイメージから外れるところには踏み込まないように心がけなくてはなりません。

 実際に『パレード』では、打ち明け話をされているのに寝たフリして聞かなかったり、その人のイメージに合わない物は周囲の者が壊してしまう、といったシークエンスがあります。
 こうして各人のイメージを維持することで、社会を保っているのです。 


 『悪人』の祐一は、この社会にある「悪人のイメージ」を付与されてしまいました。
 本当は優しいとか、犠牲的な精神の持ち主だとか、そんなことはイメージから外れるので世間が許しません。
 犠牲者の父には、怒りの矛先が必要です。
 世間一般の人たちは、人を殺したヤツは悪人だという常識を維持しなければなりません。


 しばしば、現実の凶悪犯罪が報道されます。
 被害者の遺族や関係者が報道機関をとおして、悲しみや怒りや憎しみの言葉を発することがあります。
 マスコミに登場する人々も、犯人を糾弾するコメントを口にします。
 私も世間一般の一人として、常識にしたがって、犯罪は許されないと思うし、犯人は罪を償うべきだと思います。
 ただ、これらの報道を目にしたときに、引っかかるものはありませんか。

 怒りや憎しみの言葉を投げつけている相手は誰なんだろう?
 遺族は、犯人と長い付き合いがあるわけでも、その人となりを熟知した上で発言しているわけでもないでしょう。どこの誰とも知らない者に大事な家族を殺されてしまった、というケースが少なくありません。
 しかし遺族は、犯人をよく知らなくても、怒りや憎しみの言葉を発することがあります。それらの言葉を投げつける相手は、犯人その人ではなく、「犯人としてイメージされるもの」ではないでしょうか。

 ましてや、その発言の模様を眺めている私たちは、言葉を発した人のことも、言葉を投げつけられた人のことも、まったく知りません。
 私たちにとって、その人たちは何なのでしょうか。

 たとえ実体を知らなくても、人は虚像に向かって怒りをぶつけることができる。
 人は、虚像に対する非難に同調することができる。

 『悪人』においては、犯人の祖母がマスコミの攻撃を受け、悪徳業者はのうのうとしています。
 祖母は、法的には何の罪も犯していません。しかし世間は彼女に、悪人と同類のイメージを背負わせました。
 悪徳業者は、その実態を誰も知らないので、悪人としては扱われません。
 私たちの社会では、人を非難をするのに、悪の実態はあってもなくても構わないのです。


 光代はこれらを理解しています。
 彼女も世間の常識を身に付けた一人だったからです。
 そして、祐一が生涯「悪人」と呼ばれ続けなければならないことを考え、その絶望的な重荷を痛感したときに、つい口をついて出たのでしょう。
 「あの人は悪人なんですよね」と。


パレード [Blu-ray]パレード』  [は行]
監督・脚本/行定勲  原作/吉田修一
出演/藤原竜也 香里奈 貫地谷しほり 林遣都 小出恵介 竹財輝之助 野波麻帆 中村ゆり 正名僕蔵
日本公開/2010年2月20日
ジャンル/[ドラマ] [青春] [ミステリー]
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【theme : 邦画
【genre : 映画

tag : 行定勲 藤原竜也 香里奈 貫地谷しほり 林遣都 小出恵介 竹財輝之助 野波麻帆 中村ゆり 正名僕蔵

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