『ジュリー&ジュリア』 2人の対立は解消できるか?
【ネタバレ注意】
映画化に当たって、原作と原作者を批判的に取り上げるとは、ノーラ・エフロン監督も難題に挑んだものである。
しかしそのために、二つの原作を用意して相殺させるのは、なかなか巧い手だ。
『ジュリー&ジュリア』は、20世紀にフランス料理の本を書いたジュリア・チャイルドと、21世紀にブログを書いて作家になったジュリー・パウエルの、2人の足跡をたどった映画である。
ジュリア・チャイルドは、夫の仕事の関係でヨーロッパに暮らしたことから、フランス料理を身に付ける。そして仲間とレシピを考案し、料理本を出版しようとする。
ジュリー・パウエルは、ジュリアの本の読者である。本に書かれた524ものレシピにしたがって料理を作り、それをブログに綴っている。
2人の人生が直接交叉することはない。
映画は、50年の時を越えて、ジュリーとジュリアの暮らしを交互に映し出していく。あたかも2本の映画を同時に観ているような、ちょっと不思議な構成である。
おそらくこの映画の企画は、ジュリー・パウエルのブロガーとしての成功を描こうとするところから始まったのだろう。
『ユー・ガット・メール』で、Eメールのやりとりを題材にしたノーラ・エフロン監督だ。Eメールの次がブログとは、なんとタイムリーで判りやすい企画だろうか。
しかし、映画の作り手は、ジュリー・パウエルの実話の映画化権を手に入れたものの、これだけでは映画にしにくい、というよりも、これだけで映画にすべきではないと考えたのだ。
そのため、ジュリー・パウエルが敬愛した料理研究家ジュリア・チャイルドの人生も原作にすることで、時代を隔てた2つのストーリーが並行する形にした。
そして、ノーラ・エフロン監督が感じた原作と原作者の問題点をオブラートにくるむため、料理のシーンやパーティーのシーンをたくさん挿入して、食が主題であるかのように見せかけた。
ここはノーラ・エフロン監督の腕の見せどころである。
ジュリア・チャイルドが料理学校で苦労したり、ジュリー・パウエルが狭いキッチン(といっても日本に比べれば特別な狭さではないが)で料理に苦労したり、それぞれの夫と苦悩する姿を取り上げて、観客がジュリアのこともジュリーのことも応援したくなるように描いている。
こうして、2人の対立軸は、隠し味としてそっと仕込むにとどまる。
隠し味とはいえ、ノーラ・エフロン監督にとって、その対立軸は見過ごせないものだったろう。
ジュリーとジュリアの最大の違い、それは創作に対する取り組みである。
ジュリア・チャイルドは、料理本を出版するまでに苦心惨憺している。
数多くのレシピを考案し、それをフランス料理なんて知らない一般の米国人にも受け入れられるように、文章にしなくてはならなかった。彼女は、考案したレシピと執筆した原稿に自信と誇りを持ち、他人に剽窃されることを警戒していた。それは、原稿にわざわざ「TOP SECRET」と朱書きするほどだ。
にもかかわらず、彼女の原稿は採用されず、長い年月のあいだ出版社をたらい回しにされた。ときには、せっかく膨大なレシピを考案したのに、「百科事典を出すつもりはない」と冷たく拒絶されてしまう。
もしも映画が料理を主題とするのなら、レシピを考案する苦労を描けば良かったろうが、映画の中心をなすのは、せっかく考案して作り上げても、世の中の理解を得て発表するにはたいへんな困難が伴うという事実だ。
ノーラ・エフロン監督も、創作者の一人として、ジュリアの並々ならぬ苦労に共感したことだろう。
一方、現代のジュリー・パウエルは、ジュリアの本を読んだ結果をブログに綴るだけである。独自のレシピを考案したわけでもなければ、ジュリアのレシピを現代風に進歩させたわけでもない。
ジュリアからすれば、ジュリーのやっていることには独創性もなく付加価値もないと見えるだろう。
しかもジュリーは、何年も出版社を回ったり、発行人と丁々発止の駆け引きをするでもなく、たまたまブログのブームに乗って、出版社からオファーをもらってしまうのだ。
作中では、なぜジュリアがジュリーを不快に思うのか詳しい説明はなされないが、ジュリアの立場からすれば当然のことだろう。
もちろん、ブログを書けば誰でも人気者になれるわけではない。ジュリーには、毎日書き続ける根気や、人を魅了する文才があったはずだ。もしもジュリーが、本のレシピを書き写してブログに掲載したなら、権利侵害で揉めただろうが、さすがにジュリーもそんなことはしていない。
しかしジュリーはジュリアから不快感を示されたまま、映画の中ではフォローしてもらえない。
映画の作り手の態度も明らかだ。
一見すると、映画はジュリーとジュリアを均等に扱っているように見える。
しかし、クライマックスは?
観客は、2人がどれほど苦労しようとも、それぞれ本を刊行したことを知っている。では、劇中で本を刊行して祝福されるのはジュリーかジュリアか、その両方か。
誰が映画の中心かは、映画の構造からも判るだろう。
最初のシーン、とくに誰を最初に登場させるかについて、映画の作り手は熟慮したはずだ。この映画はジュリアにはじまりジュリアに終わる。ジュリーのエピソードは、あいだに挿入されるだけだ。
もちろん、現代のジュリーの方が観客にとっては身近な存在だし、共感しやすいのだから、逆の構造にもできたはずだ。現代のジュリーが料理本を手に取り、それから場面がジュリアの時代に飛んでいく……そんなオープニングにすることも可能だった。しかし映画は決してジュリアを「過去の人」とは扱わない。
そしてジュリアがいなければ、今のジュリーはないことを強調している。
この映画は、料理に関する本を出した2人の女性を対比しながら、創作とは何か、真にリスペクトされるべきは誰なのかを問うているのだ。
実のところ、私はこの映画をブログで取り上げるつもりはなかった。
ジュリアの本をネタにブログを書いて、作家になれたジュリー。しかし映画は(ジュリアは)、ジュリーを諸手を挙げて祝福してはいない。そんな映画をネタにブログを書くなど、あまりにも自爆行為であると思ったからだ。
しかし、ブログに限らず、今後さまざまな方法で誰もが手軽に情報発信していく世の中で、これはきちんと向かい合わねばならない問題だ。
独創性や付加価値や、リスペクトされるべきは誰かということについて、心したいと思う。
『ジュリー&ジュリア』 [さ行]
監督・制作・脚本/ノーラ・エフロン 原作/ジュリー・パウエル、ジュリア・チャイルド
出演/メリル・ストリープ エイミー・アダムス スタンリー・トゥッチ クリス・メッシーナ
日本公開/2009年12月12日
ジャンル/[ドラマ]
http://bookmarks.yahoo.co.jp/bookmarklet/showpopup?t='+encodeURIComponent(document.title)+'&u='+encodeURIComponent(location.href)+'&ei=UTF-8','_blank','width=550,height=480,left=100,top=50,scrollbars=1,resizable=1',0);">
映画化に当たって、原作と原作者を批判的に取り上げるとは、ノーラ・エフロン監督も難題に挑んだものである。
しかしそのために、二つの原作を用意して相殺させるのは、なかなか巧い手だ。
『ジュリー&ジュリア』は、20世紀にフランス料理の本を書いたジュリア・チャイルドと、21世紀にブログを書いて作家になったジュリー・パウエルの、2人の足跡をたどった映画である。
ジュリア・チャイルドは、夫の仕事の関係でヨーロッパに暮らしたことから、フランス料理を身に付ける。そして仲間とレシピを考案し、料理本を出版しようとする。
ジュリー・パウエルは、ジュリアの本の読者である。本に書かれた524ものレシピにしたがって料理を作り、それをブログに綴っている。
2人の人生が直接交叉することはない。
映画は、50年の時を越えて、ジュリーとジュリアの暮らしを交互に映し出していく。あたかも2本の映画を同時に観ているような、ちょっと不思議な構成である。
おそらくこの映画の企画は、ジュリー・パウエルのブロガーとしての成功を描こうとするところから始まったのだろう。
『ユー・ガット・メール』で、Eメールのやりとりを題材にしたノーラ・エフロン監督だ。Eメールの次がブログとは、なんとタイムリーで判りやすい企画だろうか。
しかし、映画の作り手は、ジュリー・パウエルの実話の映画化権を手に入れたものの、これだけでは映画にしにくい、というよりも、これだけで映画にすべきではないと考えたのだ。
そのため、ジュリー・パウエルが敬愛した料理研究家ジュリア・チャイルドの人生も原作にすることで、時代を隔てた2つのストーリーが並行する形にした。
そして、ノーラ・エフロン監督が感じた原作と原作者の問題点をオブラートにくるむため、料理のシーンやパーティーのシーンをたくさん挿入して、食が主題であるかのように見せかけた。
ここはノーラ・エフロン監督の腕の見せどころである。
ジュリア・チャイルドが料理学校で苦労したり、ジュリー・パウエルが狭いキッチン(といっても日本に比べれば特別な狭さではないが)で料理に苦労したり、それぞれの夫と苦悩する姿を取り上げて、観客がジュリアのこともジュリーのことも応援したくなるように描いている。
こうして、2人の対立軸は、隠し味としてそっと仕込むにとどまる。
隠し味とはいえ、ノーラ・エフロン監督にとって、その対立軸は見過ごせないものだったろう。
ジュリーとジュリアの最大の違い、それは創作に対する取り組みである。
ジュリア・チャイルドは、料理本を出版するまでに苦心惨憺している。
数多くのレシピを考案し、それをフランス料理なんて知らない一般の米国人にも受け入れられるように、文章にしなくてはならなかった。彼女は、考案したレシピと執筆した原稿に自信と誇りを持ち、他人に剽窃されることを警戒していた。それは、原稿にわざわざ「TOP SECRET」と朱書きするほどだ。
にもかかわらず、彼女の原稿は採用されず、長い年月のあいだ出版社をたらい回しにされた。ときには、せっかく膨大なレシピを考案したのに、「百科事典を出すつもりはない」と冷たく拒絶されてしまう。
もしも映画が料理を主題とするのなら、レシピを考案する苦労を描けば良かったろうが、映画の中心をなすのは、せっかく考案して作り上げても、世の中の理解を得て発表するにはたいへんな困難が伴うという事実だ。
ノーラ・エフロン監督も、創作者の一人として、ジュリアの並々ならぬ苦労に共感したことだろう。
一方、現代のジュリー・パウエルは、ジュリアの本を読んだ結果をブログに綴るだけである。独自のレシピを考案したわけでもなければ、ジュリアのレシピを現代風に進歩させたわけでもない。
ジュリアからすれば、ジュリーのやっていることには独創性もなく付加価値もないと見えるだろう。
しかもジュリーは、何年も出版社を回ったり、発行人と丁々発止の駆け引きをするでもなく、たまたまブログのブームに乗って、出版社からオファーをもらってしまうのだ。
作中では、なぜジュリアがジュリーを不快に思うのか詳しい説明はなされないが、ジュリアの立場からすれば当然のことだろう。
もちろん、ブログを書けば誰でも人気者になれるわけではない。ジュリーには、毎日書き続ける根気や、人を魅了する文才があったはずだ。もしもジュリーが、本のレシピを書き写してブログに掲載したなら、権利侵害で揉めただろうが、さすがにジュリーもそんなことはしていない。
しかしジュリーはジュリアから不快感を示されたまま、映画の中ではフォローしてもらえない。
映画の作り手の態度も明らかだ。
一見すると、映画はジュリーとジュリアを均等に扱っているように見える。
しかし、クライマックスは?
観客は、2人がどれほど苦労しようとも、それぞれ本を刊行したことを知っている。では、劇中で本を刊行して祝福されるのはジュリーかジュリアか、その両方か。
誰が映画の中心かは、映画の構造からも判るだろう。
最初のシーン、とくに誰を最初に登場させるかについて、映画の作り手は熟慮したはずだ。この映画はジュリアにはじまりジュリアに終わる。ジュリーのエピソードは、あいだに挿入されるだけだ。
もちろん、現代のジュリーの方が観客にとっては身近な存在だし、共感しやすいのだから、逆の構造にもできたはずだ。現代のジュリーが料理本を手に取り、それから場面がジュリアの時代に飛んでいく……そんなオープニングにすることも可能だった。しかし映画は決してジュリアを「過去の人」とは扱わない。
そしてジュリアがいなければ、今のジュリーはないことを強調している。
この映画は、料理に関する本を出した2人の女性を対比しながら、創作とは何か、真にリスペクトされるべきは誰なのかを問うているのだ。
実のところ、私はこの映画をブログで取り上げるつもりはなかった。
ジュリアの本をネタにブログを書いて、作家になれたジュリー。しかし映画は(ジュリアは)、ジュリーを諸手を挙げて祝福してはいない。そんな映画をネタにブログを書くなど、あまりにも自爆行為であると思ったからだ。
しかし、ブログに限らず、今後さまざまな方法で誰もが手軽に情報発信していく世の中で、これはきちんと向かい合わねばならない問題だ。
独創性や付加価値や、リスペクトされるべきは誰かということについて、心したいと思う。
![ジュリー&ジュリア [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/515BPX1TdLL._SL160_.jpg)
監督・制作・脚本/ノーラ・エフロン 原作/ジュリー・パウエル、ジュリア・チャイルド
出演/メリル・ストリープ エイミー・アダムス スタンリー・トゥッチ クリス・メッシーナ
日本公開/2009年12月12日
ジャンル/[ドラマ]


『REDLINE』 アニメーションのシズル感とは?

いるならば、その作品の中でも飛びっ切りな絵を思い浮かべてみて欲しい。
もしもその絵に命が宿り、息づいて、動き始めたなら、なんと楽しく、愉快だろう。
animationという言葉は、生気を与えることを意味する。動くはずのない絵が、生きもののように動き出すのがアニメーションである。
いま改めてその意味を実感する。
映画『REDLINE』は、絵が動いているのだ、凄まじい勢いで。誇張に誇張を重ねて、リアリズムを無視した絵画ならではのタッチで。
日本のアニメ界が、遂にこれほどの作品を放ったことは驚きだ。
これを作れるクリエイターが存在することにとどまらず、このようにアクの強い作品に膨大な資金と時間を投じ、102分もの劇場用作品として完成させ、数十館のスクリーンを押さえて全国公開にこぎつける。そんなことのできる日が来るとは思わなかった。
なにしろ日本では、カナダの傑作アニメ『ロックン・ルール』[*]や、未曾有のスケールを誇るSFアニメ『トランスフォーマー ザ・ムービー』(オーソン・ウェルズの遺作!)ですら劇場公開はできなかったのだ。
そんな日本で、きちんと個性を確立した作品が生まれたことは感慨深い。
『REDLINE』は純和風の絵柄なのに、「日本人がイメージするアメコミ」のタッチを重ね、さらに「外国人がイメージするカワイイ」要素を加えることで、ワールドワイドな雰囲気を漂わせている。良い意味で、見事なフェイクである。
その題材は、カーレースだ。
タイトルとなったREDLINEとは、スピードを最高速度まで出すことを意味している。
たとえば、40年にわたって続くアニメ『ルパン三世』も、その第1シリーズの第1話がカーレースで始まったように、レースの疾走感や躍動感はアニメ向け、映像向けである。
唸るマシンと、戦うレーサーたちを描くだけで、男の子の魂が震えてくる。『REDLINE』の中に、『ルパン三世』をもじったカットが挿入されるのも洒落が効いてる。
そして小池健監督にとっては、またもや走り続ける男の物語でもある。
同監督の『アニマトリックス』の第6話『ワールド・レコード』も、ドーピング疑惑にさらされながら、体が壊れるまで走り続ける短距離ランナーの話であった。
今回の『REDLINE』は、八百長問題で逮捕されても、レースをあきらめないカーレーサーの物語だ。
その舞台は『TRAVA FIST PLANET』(2002年)の15~16年前に当たると石井克人氏はいう。
公式サイトによれば、小池健監督はアニメーションでシズル感を表現することに努めたという。シズル感とは、食べ物の映像が映れば食べたくなり、飲み物が映れば飲みたくなるような感覚のことである。
本作では、それをスピード感を出すときの煙の描写やメカの光沢で表現したという。
本作で描いた絵は10万枚に及ぶそうだが、この作品にかかわったアニメーター諸氏は大満足だろう。
やっぱり描いていて面白い絵と退屈な絵がある。
アニメーターを志す人なら、驀進するメカや、目ヂカラをこめた表情や、華麗なアクションを描きたいことだろう。
本作は、全編がそんなアニメーターが喜びそうな絵ばかりなのだ。喜んで気合を入れて描いた絵は、観る者にも迫力が伝わってくる。
だからこそ、「絵が動いてる!」と実感する。
テーマを語ったり、ストーリーを展開させたりではなく、アニメーションとはまず絵を動かしてみせる芸術なのだと、改めて感じるのだ。
ちょっと真面目な振りしてテーマを語ってみるならば、それは「何のために走ってるの?」という問いかけに尽きるだろう。
主人公の名はJP、すなわち日本。
武装を辞さない熾烈な軍拡レースの中で、唯一武器を放棄して走る男だ。
彼は「スゴク優しい武器なし王子」と呼ばれるが、同時に腰抜けとみなされている。
果たして、武装するのが当たり前と考えて競争している世界各国の連中と、非武装ながら最高の技術を投入したマシンを駆るJPの、しのぎを削る先に見えるのは愛か平和か。
…なんてことを気にしてもしょうがない。
『REDLINE』は、映画館の大スクリーンで、瞬きもできないほど目まぐるしい映像を目撃し、低音がビリビリ響く大音量に身をゆだねれば、もうそれだけで充分なのだ。
[*]『ROCK&RULE/ロックン・ルール』は、制作から27年を経て、2010年12月3日にシアターN渋谷開館5周年記念作品としてモーニング&レイトショー公開された。喜ばしいことである。

監督/小池健 原作・脚本・音響監督/石井克人
脚本/榎戸洋司、櫻井圭記 音響監督/清水洋史
出演/木村拓哉 蒼井優 浅野忠信 我修院達也 津田寛治 AKEMI 岡田義徳 森下能幸 青野武
日本公開/2010年10月9日
ジャンル/[アクション] [SF]


『鋼鉄番長』 これを見せてもいいのか!?
「東京はバカに飢えている。」
劇団☆新感線を主宰するいのうえひでのり氏が、東京進出第二弾の『宇宙防衛軍ヒデマロ3 KILLFER RISING』公演後に語った言葉である[*]。
なるほど、当時の東京の小劇場でも笑いを重視した作品は多かったが、大阪から殴りこんできた彼らのバカさはハンパではなかった。
1988年の秋、たった5日間の東京公演につめかけた観客は、座布団を敷いた狭い客席で、膝を抱えてすし詰めになりながら、バカな芝居に死ぬほど笑った。
火事場で下着泥棒をするヒデマロ(いのうえひでのり)の姿に笑うたび、隣や後ろの人にぶつかりまくった。
そして東京の観客たちは、大阪のバカ集団の再来を熱望した。
それから長いこと、劇団☆新感線の芝居を楽しませてもらってきた。ときどき見逃してしまったこともあるけれど、時間の許す限り観るようにしてきた。
他の劇団が解散したり、方向性が変わっても、劇団☆新感線はバカ集団であり続けた。
やがて私は、あまり足繁く芝居にいけなくなったこともあり、いつしか劇団☆新感線の芝居しか見なくなっていた。
しかし正直に告白すると、ここ数年はあまり楽しめなかった。
これは、慣れによるところが大きいと思う。
たとえば「笑い」について、ウィキペディアでは「笑いは構図のずれである」との分析を記載している。受け手が抱いている構図(既成概念といっても良かろう)からずれたことが起こると、受け手は笑う。受け手が、起こった出来事を「意外ではない」「目新しくない」と感じる場合は、構図のずれが発生しないために笑いは起きない。
20年以上も、同じようなテンポ、同じようなツッコミ、同じようなオチを見続けてきたのだから、笑えなくなるのも致し方ない。
それは笑いに限らない。
笑いよりもストーリー性の豊かさを前面に打ち出した『仮名絵本西遊記』(1989年)を観たときは衝撃だったが、それも『アテルイ』(2002年)で極めた感がある。
作り手が毎回工夫を凝らしているのは承知している。作者が交代したり、新たな客演を招いたり、今までにない劇場に挑戦したりと趣向を変えているのだが、それもなんだか想定の範囲内であった。
ところが、久しぶりに別の劇団の芝居を観に行って、考えを改めた。
その劇団もこれまで何度か観ているのだが、笑いの要素がなく、私には格調高すぎるので、足が遠のいていた。
だが、久しぶりに観た芝居で、改めて歌と踊りの巧さに舌を巻いた。ロングランを重ねるのも、もっともである。
しかし、私には物足りなかった。
主人公のセリフに対して、ツッコミがない。
退場する者が捨てゼリフを吐かない。
群舞は見事なのに、殺陣がない。
いやいや、ツッコミとか捨てゼリフとか殺陣とかを期待する劇団ではない。それは判っているのに、「ここで一言ツッコミが欲しい」なんて思ってしまい、堪能できなかった。
そして私は悟った。
長年にわたり劇団☆新感線の芝居を見続けたために、新感線のノリでないと満足できなくなっているのだと。
同じようなテンポ、同じようなツッコミ、同じようなオチがないと、なんだか味気ないのだと。
それを自覚した私は、同じようなツッコミ、同じようなオチを思う存分楽しもうと、池袋のサンシャイン劇場へ向かった。
2010年劇団☆新感線30周年興行《秋》豊年漫作チャンピオンまつり『鋼鉄番長』を観るためである。
本作は、過去の轟天シリーズと何が違うのかを問われても困るような作品だ。
いつものノリのオンパレードである。
衣裳デザインは、ここしばらく優美な衣裳を見せてくれた小峰リリー氏に代わり、久しぶりに竹田団吾氏が担当。衣裳デザイン協力に出渕裕氏を迎え、ギミックいっぱいのガッツのある衣裳を見せてくれた。
一つ残念だったのは、洗智樹氏が絵を描いたポスターには、「いいんじゃない!」の決まり文句が踊っていたのに、主人公・兜鋼鉄(かぶと ごうてつ)の口からこの言葉を聞けなかったこと。
これが剣轟天(つるぎ ごうてん)との違いだろうか。
しかし、私が気になったのは、小学生くらいの子供を連れていたお母さんだ。
2010年10月9日土曜日のマチネに、子連れで来ていたお母さん!
子供にアンケート用紙を渡して「また観たいです」と書かせていたが、それでいいのか?
坂井真紀さんが、兜鋼鉄の股間の風車に息を吹きかけるところなど、子供が真似したらどうするんだ。
もしや英才教育か、劇団員の座を狙う?!
[*]当ブログでは、読者が情報の確かさを検証できるように、出典を明記(もしくはリンク)することを心掛けているが、残念ながらこの発言の出典についてはあまりにも昔のことで記憶が定かでない。
ご存知の方がいらしたら、ご一報いただけるとありがたい。
『鋼鉄番長』 [演劇]
作・演出/いのうえひでのり 衣装/竹田団吾
出演/橋本じゅん 坂井真紀 池田成志 高田聖子 粟根まこと 右近健一 田辺誠一 古田新太
公演初日/2010年10月4日
劇場/サンシャイン劇場
ジャンル/[コメディ] [アクション]
映画ブログ
劇団☆新感線を主宰するいのうえひでのり氏が、東京進出第二弾の『宇宙防衛軍ヒデマロ3 KILLFER RISING』公演後に語った言葉である[*]。
なるほど、当時の東京の小劇場でも笑いを重視した作品は多かったが、大阪から殴りこんできた彼らのバカさはハンパではなかった。
1988年の秋、たった5日間の東京公演につめかけた観客は、座布団を敷いた狭い客席で、膝を抱えてすし詰めになりながら、バカな芝居に死ぬほど笑った。
火事場で下着泥棒をするヒデマロ(いのうえひでのり)の姿に笑うたび、隣や後ろの人にぶつかりまくった。
そして東京の観客たちは、大阪のバカ集団の再来を熱望した。
それから長いこと、劇団☆新感線の芝居を楽しませてもらってきた。ときどき見逃してしまったこともあるけれど、時間の許す限り観るようにしてきた。
他の劇団が解散したり、方向性が変わっても、劇団☆新感線はバカ集団であり続けた。
やがて私は、あまり足繁く芝居にいけなくなったこともあり、いつしか劇団☆新感線の芝居しか見なくなっていた。
しかし正直に告白すると、ここ数年はあまり楽しめなかった。
これは、慣れによるところが大きいと思う。
たとえば「笑い」について、ウィキペディアでは「笑いは構図のずれである」との分析を記載している。受け手が抱いている構図(既成概念といっても良かろう)からずれたことが起こると、受け手は笑う。受け手が、起こった出来事を「意外ではない」「目新しくない」と感じる場合は、構図のずれが発生しないために笑いは起きない。
20年以上も、同じようなテンポ、同じようなツッコミ、同じようなオチを見続けてきたのだから、笑えなくなるのも致し方ない。
それは笑いに限らない。
笑いよりもストーリー性の豊かさを前面に打ち出した『仮名絵本西遊記』(1989年)を観たときは衝撃だったが、それも『アテルイ』(2002年)で極めた感がある。
作り手が毎回工夫を凝らしているのは承知している。作者が交代したり、新たな客演を招いたり、今までにない劇場に挑戦したりと趣向を変えているのだが、それもなんだか想定の範囲内であった。
ところが、久しぶりに別の劇団の芝居を観に行って、考えを改めた。
その劇団もこれまで何度か観ているのだが、笑いの要素がなく、私には格調高すぎるので、足が遠のいていた。
だが、久しぶりに観た芝居で、改めて歌と踊りの巧さに舌を巻いた。ロングランを重ねるのも、もっともである。
しかし、私には物足りなかった。
主人公のセリフに対して、ツッコミがない。
退場する者が捨てゼリフを吐かない。
群舞は見事なのに、殺陣がない。
いやいや、ツッコミとか捨てゼリフとか殺陣とかを期待する劇団ではない。それは判っているのに、「ここで一言ツッコミが欲しい」なんて思ってしまい、堪能できなかった。
そして私は悟った。
長年にわたり劇団☆新感線の芝居を見続けたために、新感線のノリでないと満足できなくなっているのだと。
同じようなテンポ、同じようなツッコミ、同じようなオチがないと、なんだか味気ないのだと。
それを自覚した私は、同じようなツッコミ、同じようなオチを思う存分楽しもうと、池袋のサンシャイン劇場へ向かった。
2010年劇団☆新感線30周年興行《秋》豊年漫作チャンピオンまつり『鋼鉄番長』を観るためである。
本作は、過去の轟天シリーズと何が違うのかを問われても困るような作品だ。
いつものノリのオンパレードである。
衣裳デザインは、ここしばらく優美な衣裳を見せてくれた小峰リリー氏に代わり、久しぶりに竹田団吾氏が担当。衣裳デザイン協力に出渕裕氏を迎え、ギミックいっぱいのガッツのある衣裳を見せてくれた。
一つ残念だったのは、洗智樹氏が絵を描いたポスターには、「いいんじゃない!」の決まり文句が踊っていたのに、主人公・兜鋼鉄(かぶと ごうてつ)の口からこの言葉を聞けなかったこと。
これが剣轟天(つるぎ ごうてん)との違いだろうか。
しかし、私が気になったのは、小学生くらいの子供を連れていたお母さんだ。
2010年10月9日土曜日のマチネに、子連れで来ていたお母さん!
子供にアンケート用紙を渡して「また観たいです」と書かせていたが、それでいいのか?
坂井真紀さんが、兜鋼鉄の股間の風車に息を吹きかけるところなど、子供が真似したらどうするんだ。
もしや英才教育か、劇団員の座を狙う?!
[*]当ブログでは、読者が情報の確かさを検証できるように、出典を明記(もしくはリンク)することを心掛けているが、残念ながらこの発言の出典についてはあまりにも昔のことで記憶が定かでない。
ご存知の方がいらしたら、ご一報いただけるとありがたい。
『鋼鉄番長』 [演劇]
作・演出/いのうえひでのり 衣装/竹田団吾
出演/橋本じゅん 坂井真紀 池田成志 高田聖子 粟根まこと 右近健一 田辺誠一 古田新太
公演初日/2010年10月4日
劇場/サンシャイン劇場
ジャンル/[コメディ] [アクション]
映画ブログ
『ナイト&デイ』 スパイ映画の空白とは?
![ナイト&デイ (キャメロン・ディアス、トム・クルーズ 出演) [DVD]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/51rjgycraBL._SL160_.jpg)
それを面白いと思うかどうかは人それぞれだ。
私が残念だったのは、フィリップ・ド・ブロカ監督の『おかしなおかしな大冒険』(1973年)である。
むかしテレビ放映で見ただけだが、ジャン=ポール・ベルモンドが大好きだった私は、当然のごとく、カッコいいスパイ・アクション物だと思って見ていた。
ジャン=ポール・ベルモンドが凄腕のエージェント、ジャクリーン・ビセットが美しいヒロインで、なんて面白い冒険物だろうとワクワクしながら見たのである。
ところが、その大冒険は無残にもタイプライターの音にかき消されてしまう。
なんと、ジャン=ポール・ベルモンドは小説家で、私が見ていたスパイ・アクションは小説の中の出来事だったのだ!
……ガッカリである。
いや、この作品はそれがオチではなく、しがない小説家の物語が続くので、それはそれで面白いかもしれない。作品全体の出来をうんぬんするつもりはない。
しかし残念なことに、劇中劇のスパイ・アクションでは、まだ主人公とヒロインが敵の魔手から脱出していなかったのだ。
いったい2人はどうなるのだろう、どうやって敵を倒すのだろう。
そんな疑問を抱いたまま、長いときが流れてしまった。
しかし遂に、その不満は解消された!
数十年のときを経て、『おかしなおかしな大冒険』並みに楽しく、陽気で、息もつかせぬスパイ・アクションが誕生したのだ。
しかも今度は、主人公が作家や脚本家になったりしない。
最初から最後まで凄腕のエージェントだ。
それが『ナイト&デイ』である。
いやもう、涙が出るほど嬉しい。
こういう作品を待っていたのだ。
もちろん、『おかしなおかしな大冒険』と同時代の映画で、似たようなものを探せば良いという意見もあろう。
しかし悲しいかな、いまそれらを観て、当時と同じ感慨を抱けるとは限らない。
『電撃フリントGO!GO作戦』(1966年)と『電撃フリント・アタック作戦』(1967年)のDVD-BOXを買ってみて思ったのは、映画の技術は進歩しているということだ。
人間ドラマやミュージカルは歳月を経てもそれほど古びないが、アクション物は撮影技術、編集技術、特殊効果、音響効果等の展覧会だから、技術の進歩による陳腐化が激しい。
どうしても、最新技術を駆使した映画には見劣りしてしまう。
だから『おかしなおかしな大冒険』のスパイ・アクション部分のようなノリの『ナイト&デイ』が、いま作られたのが嬉しくてたまらない。
ジャン=ポール・ベルモンドとジャクリーン・ビセットの冒険の始末を、トム・クルーズとキャメロン・ディアスが付けてくれたのだ。
その他にも、『ナイト&デイ』は楽しいスパイ・アクションの数々を髣髴とさせる。
トム・クルーズが歯をむき出しに笑うのは、『電撃フリント』のジェームズ・コバーンそっくりである。
薬でぼんやりしながら移動するキャメロン・ディアスは、『007/危機一発(ロシアより愛をこめて)』(1963年)のタチアナのよう。
凄腕エージェントと行動を共にするうち、名コンビになってしまうのは、ちょっと時代が下って『トゥルーライズ』(1994年)か。
そもそも、かつてのスパイ・アクションは、明るく楽しくお洒落だった。冷戦下の緊張を逆手に取ったような躁状態だった。
しかし、いつまでも同じことはしてられないので、アクションは過酷にエスカレートし、代わりに明るさや楽しさが削られていった。
スパイ映画の本家007シリーズの最新作である『007/慰めの報酬』(2008年)に至っては、なんとハードでシリアスなことか。一つの復讐譚として大好きな映画だが、60年代のスパイ・アクションからは遠く隔たってしまった。
1973年に作られた『おかしなおかしな大冒険』が中年作家の悩みを主題としていたのも、60年代に『リオの男』をはじめとしたアクション・コメディを連発したフィリップ・ド・ブロカ監督自身が、もうこれまでのような作品は通用しないと知っていたからかもしれない。
ときには、思い出したように、明るく楽しくお洒落なスパイ・アクションが復活することもある。
しかし、それは『オースティン・パワーズ』(1997年)のようにパロディとしてである。
スパイ・アクションの系譜を語るなどおこがましいが、2つの『007/カジノ・ロワイヤル』がスパイ・アクションの両極端だとは云えそうだ。
ダニエル・クレイグ主演の2006年版がハードでシリアスなスパイ・アクションの代表だとすれば、デヴィッド・ニーヴンらが出演した1967年版がコメディタッチのスパイ・アクションの代表である。
スパイ・アクションの本家007シリーズは、第一作『007は殺しの番号(007/ドクター・ノオ)』(1962年)からしてシリアス寄りだったので、年々シリアス側に移動して、2006年版『007/カジノ・ロワイヤル』まで来てしまった。
『ナイト&デイ』と同じくトム・クルーズが主演した『ミッション:インポッシブル』(1996年)も、先ごろ公開された『ソルト』も、シリアス寄りのスパイ・アクションだった。
対してコメディタッチのスパイ・アクションはますますコメディ色を強め、『電撃フリント』の「ややコミカルなスパイ・アクション」を離れて、『ゲット スマート』(2008年)のような「アクションもしっかりしたコメディ」や『ジョニー・イングリッシュ』(2003年)のような「単なるコメディ」へと変遷してしまった。これらはジャンルとしてはコメディであり、「スパイ・アクションもパロディとしてやってます」とエクスキューズしている。
いずれの作品も面白いのだが、それぞれハードでシリアスな方向に突き進んだり、コメディタッチに磨きをかけたりして、残念ながら中道に位置する作品が見当たらなくなってしまった。60年代のような明るく楽しいスパイ・アクションは、空席になってしまったのである。
そんなスパイ・アクションのド真ん中が空いている状況で、フィリップ・ド・ブロカばりのアクション・コメディ『ナイト&デイ』を放ってくれたのが、他ならぬジェームズ・マンゴールド監督だ。
ジェームズ・マンゴールドといえば、近年は誰も見向きもしなかった西部劇にあって、『3時10分、決断のとき』という快作を放った監督だ。
なるほど。今度は、「もともとスパイ・アクションて、こうだったよね」というわけか。
公式サイトでジェームズ・マンゴールド監督が語るところによれば、『ナイト&デイ』を作るに当たって念頭に置いたのは、『北北西に進路を取れ』(1959年)や『シャレード』(1963年)だそうだ。どれも、スリルとサスペンスがあって、上品で洒落ていて、血で汚れたりはしない作品だ。
とすれば、トム・クルーズはさしずめケイリー・グラントである。大人で余裕があって、ユーモアを解す。
一方、キャメロン・ディアスはオードリー・ヘプバーンの役どころか。
両者とも、シリアスすぎずコメディすぎない本作を、巧く体現している。
配役の妙も貢献して、『ナイト&デイ』は60年代風スパイ・アクションを見事に受け継いだといえるだろう。
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監督/ジェームズ・マンゴールド
出演/トム・クルーズ キャメロン・ディアス ピーター・サースガード オリヴィエ・マルティネス ポール・ダノ
日本公開/2010年10月9日
ジャンル/[アクション] [コメディ]

『ヌードの夜/愛は惜しみなく奪う』 前から二列目で観よ!
濃密な時間であった。
これほどドロリとした作品を観るのは久しぶりである。
『ヌードの夜/愛は惜しみなく奪う』 で描かれるのは、一つの悲劇であり、遍歴であり、愛の物語である。
新聞の社会面に取り上げられる事件にも、もしかしたらこんな事情があるのかもしれないし、現実にはありえない夢のようにも思える。
主人公は、「なんでも代行屋」の紅(くれない)次郎。本名は村木哲郎である。
「なんでも代行屋」とは、その名のとおり、人の困ったことを肩代わりする商売だ。家の片付けから、ペットの捜索まで、なんでもする。
まず、この設定がイイ。これは男の理想だ。
誰に雇われるでもなく、誰を雇うわけでもなく、一人で生きている。
社会からドロップアウトしたようでいて、ヤクザ者ではない。ぎりぎり堅気に踏みとどまっている。
倉庫の2階を住まいとし、金があるわけではないが、食うに困っているわけでもない。
次郎の暮らしは気楽そうで、少々ストイックで、少々スタイリッシュだ。
そんな次郎が人捜しをするのだが、彼は裏社会に通じているわけでもなく、警察に顔が利くわけでもなく、ただ雨の中を、傘を差してトボトボ歩きながら人の話を聞くだけだ。
こんな捜し方なら自分にもできるかも、と観客に思わせるところが良い。
観客は、自分を取り巻くいろいろなものを吹っ切ってしまえば、次郎のように生きられるのではないかと夢想できる。
現実には、できないけれど。やっぱりこれは、夢の中の男だけれど。
やがて次郎は一人の女に出会い、凄惨な事件に巻き込まれる。
女も理想の存在である。
時に少女、時に悪女、被害者も加害者もないまぜになって、男が抱く女性のイメージのすべてを押し付けられた存在だ。
そのため女の人物像は破綻しているが、男の夢が詰まっているため、愛さずにはいられない。
計算しつくした照明は、ヒロインの肢体を美しく浮かび上がらせ、また謎めかして闇に隠す。
そして徹底したローアングルは、観客が地べたに這いつくばって映画を観ているような気分にさせる。
ごくまれに高みから見下ろす構図があっても、カメラはいきなり見下ろしたりせずに、低い位置から高みへと動いていくことで、ローアングルとの連続性を保つ。
このローアングルのカメラと、降りしきる雨と、過剰なまでに美しく差し込む光とが、哀しい男女の物語を、まるで幻想譚のように思わせる。
天を仰ぐヒロインは、あたかも蜘蛛の糸を待つカンダタである。糸を掴まない限り、地獄の混沌の中にいるしかない。
そして化け物じみた人間たちの中にあって、ひとり次郎だけが私たちと等身大のままでいるのが、かえって悲しい。
『ヌードの夜/愛は惜しみなく奪う』の上映館は決して大きくはない。
私は177席しかない銀座シネパトス1の前から二列目で鑑賞した。
ローアングルの映像は、二列目でスクリーンを見上げる角度が相応しい。
地べたを這うような視点から次郎や女を見上げるとき、彼らの哀しみが土砂降りになって降り注ぐ。
『ヌードの夜/愛は惜しみなく奪う』 [な行]
監督・制作・脚本/石井隆
出演/竹中直人 佐藤寛子 東風万智子(旧芸名 真中瞳) 井上晴美 大竹しのぶ 津田寛治
日本公開/2010年10月2日
ジャンル/[ドラマ] [犯罪] [エロティック]

これほどドロリとした作品を観るのは久しぶりである。
『ヌードの夜/愛は惜しみなく奪う』 で描かれるのは、一つの悲劇であり、遍歴であり、愛の物語である。
新聞の社会面に取り上げられる事件にも、もしかしたらこんな事情があるのかもしれないし、現実にはありえない夢のようにも思える。
主人公は、「なんでも代行屋」の紅(くれない)次郎。本名は村木哲郎である。
「なんでも代行屋」とは、その名のとおり、人の困ったことを肩代わりする商売だ。家の片付けから、ペットの捜索まで、なんでもする。
まず、この設定がイイ。これは男の理想だ。
誰に雇われるでもなく、誰を雇うわけでもなく、一人で生きている。
社会からドロップアウトしたようでいて、ヤクザ者ではない。ぎりぎり堅気に踏みとどまっている。
倉庫の2階を住まいとし、金があるわけではないが、食うに困っているわけでもない。
次郎の暮らしは気楽そうで、少々ストイックで、少々スタイリッシュだ。
そんな次郎が人捜しをするのだが、彼は裏社会に通じているわけでもなく、警察に顔が利くわけでもなく、ただ雨の中を、傘を差してトボトボ歩きながら人の話を聞くだけだ。
こんな捜し方なら自分にもできるかも、と観客に思わせるところが良い。
観客は、自分を取り巻くいろいろなものを吹っ切ってしまえば、次郎のように生きられるのではないかと夢想できる。
現実には、できないけれど。やっぱりこれは、夢の中の男だけれど。
やがて次郎は一人の女に出会い、凄惨な事件に巻き込まれる。
女も理想の存在である。
時に少女、時に悪女、被害者も加害者もないまぜになって、男が抱く女性のイメージのすべてを押し付けられた存在だ。
そのため女の人物像は破綻しているが、男の夢が詰まっているため、愛さずにはいられない。
計算しつくした照明は、ヒロインの肢体を美しく浮かび上がらせ、また謎めかして闇に隠す。
そして徹底したローアングルは、観客が地べたに這いつくばって映画を観ているような気分にさせる。
ごくまれに高みから見下ろす構図があっても、カメラはいきなり見下ろしたりせずに、低い位置から高みへと動いていくことで、ローアングルとの連続性を保つ。
このローアングルのカメラと、降りしきる雨と、過剰なまでに美しく差し込む光とが、哀しい男女の物語を、まるで幻想譚のように思わせる。
天を仰ぐヒロインは、あたかも蜘蛛の糸を待つカンダタである。糸を掴まない限り、地獄の混沌の中にいるしかない。
そして化け物じみた人間たちの中にあって、ひとり次郎だけが私たちと等身大のままでいるのが、かえって悲しい。
『ヌードの夜/愛は惜しみなく奪う』の上映館は決して大きくはない。
私は177席しかない銀座シネパトス1の前から二列目で鑑賞した。
ローアングルの映像は、二列目でスクリーンを見上げる角度が相応しい。
地べたを這うような視点から次郎や女を見上げるとき、彼らの哀しみが土砂降りになって降り注ぐ。
![ヌードの夜/愛は惜しみなく奪う [DVD]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/51QimyK9hVL._SL160_.jpg)
監督・制作・脚本/石井隆
出演/竹中直人 佐藤寛子 東風万智子(旧芸名 真中瞳) 井上晴美 大竹しのぶ 津田寛治
日本公開/2010年10月2日
ジャンル/[ドラマ] [犯罪] [エロティック]
