『おにいちゃんのハナビ』 もっとも違うのは何か?
![おにいちゃんのハナビ [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/51P%2BQrT3G4L._SL160_.jpg)
だが、本当に似ているだろうか。
その映画とは、『君が踊る、夏』と『おにいちゃんのハナビ』だ。
類似点はたくさんある。
・実話に基づく物語
・舞台は地方都市
・難病の少女
・仲間とうまくいかない「おにいちゃん」
・祭りに向けて頑張る
・父とは距離がある
・母親役は宮崎美子さん

劇場を押さえられなかったのか、公開時期が映画で取り上げた祭りが終わってからになったのも、同様である。
昨今の日本映画を見ていると、題材がバンドと難病ばかりだが、とりわけこの二作はよく似ている。
しかし、『君が踊る、夏』と『おにいちゃんのハナビ』が似ているのは、表面的なことだけだ。
この二作には決定的に違うところがあり、そのためにずいぶんと味わいが異なる。
それは主人公たる「おにいちゃん」の立脚点だ。
『君が踊る、夏』の主人公・新平は、舞台となる高知市の出身だ。今でこそ東京で生活しているが、郷里の高知には一緒によさこい踊りを踊る友人・知人がたくさんおり、そこが彼の帰る場所だ。
一方、『おにいちゃんのハナビ』の主人公・太郎は、中学生のときに家族と一緒に東京から新潟県の片貝町(かたかいまち)に引っ越してきた。片貝町に暮らして何年も経つが、友人は一人もいない。
片貝町の他に帰るところなんてない太郎は、自室に引きこもったまま家族とも顔を合わせなくなってしまう。
誰からも相手にされず、孤独な中学時代を過ごした太郎は、『カラフル』の主人公にも重なる。
片貝町には、人生の節目々々に昔からの仲間が集まり、みんなで花火を打ち上げる伝統がある。成人になっても、中学時代、いやもっと前からの思い出を共有する仲間たちが集まるのは、たしかに素晴らしい。
しかし、その結束が強ければ強いほど、その思い出が大切であればあるほど、途中からやってきた太郎は入り込む余地がない。
『君が踊る、夏』では、新平がカメラマンとしての夢を選ぶか踊りを選ぶかで逡巡するシークエンスがあるが、どちらを選んでも彼にはよさこい踊りの仲間や、スタジオの良き先輩たちがいる。新平が、どんなに苦労しようとも、挫折を味わおうとも、仲間がいることの喜びを噛みしめるのに対して、『おにいちゃんのハナビ』の太郎は、どこにも居場所がない苦しみを抱え続けるしかない。
社会学では、個人と国家のあいだにある集団を中間集団と呼ぶ。
それは会社組織や学校のクラスであったり、町内会のような地域的な集まりだったり、家族や親戚だったりする。よさこい踊りのチームや、花火を打ち上げる片貝町の同級会も、中間集団といえるだろう。
人はこれらの集団に帰属することで、居場所を確保し、安心する。
しかし今や、会社は一生を捧げて帰属する集団ではなくなり、繰り返される組織再編と人の出入りにより隣の人が何をしているかも判らなくなっている。
父祖代々の土地に住み続けるわけにもいかず、地縁も断ち切られている。
家族でさえ、一緒に食卓を囲むことすらできなくなっている。
人々は既存の中間集団に帰属することができず、それでいて人とのつながりを欲し、孤独に吹きさらされているのだ。
その点で、『おにいちゃんのハナビ』は極めて今日的である。
他人に対して積極的に話しかけることができず、花火作りの仲間入りもできないまま、自室にこもる太郎こそ、現代の、そしてこれからの私たちの姿を端的に表している。
このことは、ややもすると太郎個人の性格の問題にされかねない。
しかし映画は、太郎だけでなく、彼の父親もまた同様であることを示唆する。
個人タクシーの運転手である父親に、帰属する組織などあろうはずがない。彼は、娘の治療代を稼がなくてはならず、子供たちを連れて地域の集まりに参加してやることもできない。朝から晩まで働きづめで、家族と一緒に食卓を囲むこともない。
自室に引きこもる太郎と、タクシーの運転席に座り続ける父とは、相似した存在なのだ。
『おにいちゃんのハナビ』では、ここにスーパーマンが登場する。
誰彼なしに話しかける妹である。それは『カラフル』の早乙女君に相当する。
妹の存在がすべての転機となるので、彼女をどう描くかが本作のカナメなのだが、その重要な役どころを谷村美月さんが見事に演じている。彼女の笑顔が、スーパーマンに存在感を与えている。
妹を中心に、兄と父が変わっていく姿が本作の見どころだ。
彼らは、地域に残る中間集団、すなわち花火仲間の同級会への参画を図るのだが、最後の詰めは兄でも妹でもなく父によってなされる。それが、本作を単なる変わり者のおにいちゃんの成長物語にとどめず、重層的にしている。
幸いにも、この町にはまだ中間集団が息づいており、よそ者を受け入れる懐の深さもあった。
しかし、いつでもどこでもそうとは限らない。
私たちは花火を見上げるとき、誰かと一緒にいられるだろうか。
![おにいちゃんのハナビ [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/51P%2BQrT3G4L._SL160_.jpg)
監督/国本雅広 脚本/西田征史
出演/高良健吾 谷村美月 宮崎美子 大杉漣 早織 尾上寛之 岡本玲 佐藤隆太 佐々木蔵之介 塩見三省
日本公開/2010年9月25日
ジャンル/[ドラマ]


『十三人の刺客』は世界を目指す!
ドドーン!と迫るぶっとい毛筆のタイトル。黒澤映画もかくやと思わせる迫力に、三池崇史監督の覚悟と意気込みのほどが知れよう。
これぞ、快哉を叫びたくなるほどの堂々たる娯楽作である。
やはり、時代劇は剣戟があってこそ面白い。
それも一人や二人ではない。数百人のサムライたちが、切った張ったの大立回りだ。
久方ぶりに、痛快時代劇を堪能させてもらった。
『十三人の刺客』は、しょっぱなから見応えがある。
ロウソクの灯りを模した夜のシーン。炎が揺らめく中での密談ほど、背筋がぞくぞくするものはない。
馬を駆るシーンはとうぜん土砂降りで、ヒヅメが激しく泥を蹴散らす。
やっぱり三池監督という人は、迫力ある画の作り方に長けている。
そしてまた脚本も上手い。
たとえば、伊勢谷友介さん演じる山の民の木賀小弥太を観客に紹介するところ。
山道を歩く中、小弥太が突然立ち止まり、ウサギを捕らえる。
大事な戦いに急ぐサムライたちと、ウサギ狩りに気を取られる山の民との違いを描きつつ、小弥太がウサギの足音も聞き分ける耳と、百発百中の石つぶての腕を持つことを印象付ける。
このシーンがあるからこそ、小弥太が凄腕の刺客の一員となることに不自然さがない。
若手男優たちが披露するセミヌードを含めて、サービス精神も旺盛だ。
ところで、こんにち世界で知られる日本発のブランドといえば何か?
答えはユニクロである。
ユニクロは世界中での広告展開で知名度を上げ、世界三大広告祭で賞を取りまくっている。
そのユニクロでクリエイティブ・マネジメントディレクターを務める勝部健太郎氏は、こんなことを語っている。
---
外国人から見たら、日本そのものがグローバルコンテンツなんです。世界からすれば、日本のカルチャーや風景は非常に関心が高い。
---
これは、マンガ好きも納得する言葉だろう。
米国を代表するコミック・アーティストのフランク・ミラーは、『子連れ狼』の大ファンなのだ。
そして日本映画が世界にウケるには、やはり日本ならではの題材が良い。
まったくの私見ながら、それはサムライ、ニンジャ、ヤクザだと思う。
他国でもよく知られており、日本が発信地だと判るのはその三つだろう。
だから世界を相手にする北野武監督が、ヤクザ映画を好んで撮るのは、まことに理にかなっている。
しかしニンジャは、残念ながら『G.I.ジョー』をはじめ他国の映画にお株を奪われつつある。
だからこそ、アレハンドロ・ホドロフスキーも注目する三池崇史監督が、『戦場のメリークリスマス』のジェレミー・トーマスのプロデュースで放つ『十三人の刺客』は、世界を席巻するサムライ映画として期待が高まる。
今に伝わる明石藩主の冷酷な行いを題材に、大胆なサムライ・アクションを展開した本作は、リアリズムと娯楽性を両立させて、世界中の観客を満足させることだろう。
『十三人の刺客』 [さ行]
監督/三池崇史 脚本/天願大介 原作(オリジナル脚本)/池宮彰一郎
エグゼクティブプロデューサー/ジェレミー・トーマス
出演/役所広司 山田孝之 伊勢谷友介 沢村一樹 古田新太 高岡蒼甫 六角精児 波岡一喜 石垣佑磨 近藤公園 窪田正孝 伊原剛志 松方弘樹 吹石一恵 谷村美月 斎藤工 内野聖陽 光石研 平幹二朗 松本幸四郎 稲垣吾郎 市村正親
日本公開/2010年9月25日
ジャンル/[時代劇] [アクション] [サスペンス]
http://bookmarks.yahoo.co.jp/bookmarklet/showpopup?t='+encodeURIComponent(document.title)+'&u='+encodeURIComponent(location.href)+'&ei=UTF-8','_blank','width=550,height=480,left=100,top=50,scrollbars=1,resizable=1',0);">
これぞ、快哉を叫びたくなるほどの堂々たる娯楽作である。
やはり、時代劇は剣戟があってこそ面白い。
それも一人や二人ではない。数百人のサムライたちが、切った張ったの大立回りだ。
久方ぶりに、痛快時代劇を堪能させてもらった。
『十三人の刺客』は、しょっぱなから見応えがある。
ロウソクの灯りを模した夜のシーン。炎が揺らめく中での密談ほど、背筋がぞくぞくするものはない。
馬を駆るシーンはとうぜん土砂降りで、ヒヅメが激しく泥を蹴散らす。
やっぱり三池監督という人は、迫力ある画の作り方に長けている。
そしてまた脚本も上手い。
たとえば、伊勢谷友介さん演じる山の民の木賀小弥太を観客に紹介するところ。
山道を歩く中、小弥太が突然立ち止まり、ウサギを捕らえる。
大事な戦いに急ぐサムライたちと、ウサギ狩りに気を取られる山の民との違いを描きつつ、小弥太がウサギの足音も聞き分ける耳と、百発百中の石つぶての腕を持つことを印象付ける。
このシーンがあるからこそ、小弥太が凄腕の刺客の一員となることに不自然さがない。
若手男優たちが披露するセミヌードを含めて、サービス精神も旺盛だ。
ところで、こんにち世界で知られる日本発のブランドといえば何か?
答えはユニクロである。
ユニクロは世界中での広告展開で知名度を上げ、世界三大広告祭で賞を取りまくっている。
そのユニクロでクリエイティブ・マネジメントディレクターを務める勝部健太郎氏は、こんなことを語っている。
---
外国人から見たら、日本そのものがグローバルコンテンツなんです。世界からすれば、日本のカルチャーや風景は非常に関心が高い。
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これは、マンガ好きも納得する言葉だろう。
米国を代表するコミック・アーティストのフランク・ミラーは、『子連れ狼』の大ファンなのだ。
そして日本映画が世界にウケるには、やはり日本ならではの題材が良い。
まったくの私見ながら、それはサムライ、ニンジャ、ヤクザだと思う。
他国でもよく知られており、日本が発信地だと判るのはその三つだろう。
だから世界を相手にする北野武監督が、ヤクザ映画を好んで撮るのは、まことに理にかなっている。
しかしニンジャは、残念ながら『G.I.ジョー』をはじめ他国の映画にお株を奪われつつある。
だからこそ、アレハンドロ・ホドロフスキーも注目する三池崇史監督が、『戦場のメリークリスマス』のジェレミー・トーマスのプロデュースで放つ『十三人の刺客』は、世界を席巻するサムライ映画として期待が高まる。
今に伝わる明石藩主の冷酷な行いを題材に、大胆なサムライ・アクションを展開した本作は、リアリズムと娯楽性を両立させて、世界中の観客を満足させることだろう。

監督/三池崇史 脚本/天願大介 原作(オリジナル脚本)/池宮彰一郎
エグゼクティブプロデューサー/ジェレミー・トーマス
出演/役所広司 山田孝之 伊勢谷友介 沢村一樹 古田新太 高岡蒼甫 六角精児 波岡一喜 石垣佑磨 近藤公園 窪田正孝 伊原剛志 松方弘樹 吹石一恵 谷村美月 斎藤工 内野聖陽 光石研 平幹二朗 松本幸四郎 稲垣吾郎 市村正親
日本公開/2010年9月25日
ジャンル/[時代劇] [アクション] [サスペンス]


『ミックマック』は特攻野郎の一家だ!
傑作『さんかく』の中に、「『アメリ』みたいでしょ」というセリフがあった。
『アメリ』みたい……すなわち、不法侵入や物品への干渉等の犯罪を、秘密裏に行うことだ。
その『アメリ』のジャン=ピエール・ジュネ監督が、犯罪行為をスケールアップさせたのが『ミックマック』である。
公式サイトによれば、ミックマックとはイタズラという意味だそうで、まさしく本作は仮想ファミリーを結成した一団が、違法なイタズラを実行する物語だ。
ジュネ監督は本作について、「『白雪姫と七人のこびと』、復讐、武器商人。長い間、頭の中にあった三つのテーマが、一つになった(略)二つの武器製造会社に、互いにつぶし合いをさせるというのは、黒沢明監督『用心棒』へのオマージュ」と語る。
私は当初この作品を、社会のはみ出し者たちが、営利目的の非道な組織に立ち向かう話なのかと思っていた。
しかし、そういう構造ではあるものの、主人公たちは「はみ出し者」という言葉から感じるようなうらぶれた雰囲気とはかけ離れていた。
一人ひとりが、他者には真似のできない特殊能力を持っており、一団となって戦ったら、強いのなんの。
それはたとえば、『少年探偵団』(BD7)が、体当たりの名人や物真似の名人の子供たちで構成されているのと同様である。
そして『ミックマック』では、彼らはお母さん役とか娘役を分担して、仮想的な家族を結成する。ノリとしては、『あばしり一家』に近いのだ。
基本はギャグで、くだらないイタズラを仕掛けるだけなんだけど、それがことごとく成功するものだから、なんだか彼らが最強の戦闘集団に見えてくる。
ここまで考えて、最近よく似た映画を観たことを思い出した。
『特攻野郎Aチーム THE MOVIE』である。
軍隊では、はみ出し気味の連中だが、それぞれが変装の名人とか、女たらしのエキスパートとか(^^;、ちょっと普通じゃない特殊能力を持っており、彼らが一団となってくだらない作戦を仕掛ける映画だった。
そのくだらなさといったら抜群で、向かい側のビルから銃撃されても絶対に当たらないことを前提にビルの壁を駆け下りたり、3D映画で車両が飛び出して見えるシーンに合わせて車両を突っ込んだりと、作戦意図や成功確率を考え出したら脳がとろけそうなほどであった。
しかも、通常のアクション映画なら、まず作戦計画を説明するシーンがあり、次に作戦の実行を描くことで、計画どおりにことが運ぶか観客に固唾を飲ませるのが常套手段だろうが、この作品では計画を説明するシーンと実行するシーンとがフラッシュバックで同時に進行する。
同時ということは、作戦を実行するシーンに説明が付いているようなものである。観客は何も考える必要がない。
すべての作戦は計画どおりに進み、観客が固唾を飲むこともない。
テレビシリーズの『特攻野郎Aチーム』のファンによれば、この映画は、AチームファンがAチームファンに向けて作ったものだそうだが、テレビシリーズを見てない私にはそこのところは判らなかった。
ただ、これは脳みそカラッポにして、バカバカしい作戦を楽しむ映画だな、と思った。
小梶勝男氏も、「この作品がすごいのは、見ているうちに、自然に頭が空っぽになっていくことだ。」と評している。
ところが、『ミックマック』を観て、考えを改めた。
『ミックマック』も、作戦の説明はない。
そのイタズラのバカバカしさが魅力なので、事前に言葉で説明しては無粋なだけだ。
そして、常識的に考えれば失敗して当然の作戦が、成功してしまうからこそ爽快感を得る。
『ミックマック』を観ることで、『特攻野郎Aチーム THE MOVIE』もイタズラを描いていたのだと思い当たった。
並ぶ者のない特殊能力を持っていると思い込んでいる男の子たちが、それぞれの役割を決めて、大人にはバカバカしいとしか思えない作戦を一生懸命に楽しんでいる。
『特攻野郎Aチーム THE MOVIE』が、くだらなくも楽しいのは、そんな子供ごころを刺激するからなのだ。
『ミックマック』も同様だ。
残念ながら、同じくイタズラを描いていても、『アメリ』のようにロマンチックでもなければ、成長物語でもないのだが、『ミックマック』の主人公たちのアジトが、空き地に作った秘密基地に見えてくれば、この映画は成功だ。
自称○○の名人たちが、威張りくさった大人をギャフンと云わせる。
決して、ギャフンと云わせる以上のことはしない。
それがミックマック(イタズラ)なのである。
『ミックマック』 [ま行]
監督・制作・脚本/ジャン=ピエール・ジュネ 脚本/ギョーム・ローラン
出演/ダニー・ブーン アンドレ・デュソリエ オマール・シー ドミニク・ピノン ジュリー・フェリエ ニコラ・マリエ ヨランド・モロー ジャン=ピエール・マリエール ミシェル・クレマデ マリー=ジュリー・ボー
日本公開/2010年9月4日
ジャンル/[コメディ] [犯罪]
『アメリ』みたい……すなわち、不法侵入や物品への干渉等の犯罪を、秘密裏に行うことだ。
その『アメリ』のジャン=ピエール・ジュネ監督が、犯罪行為をスケールアップさせたのが『ミックマック』である。
公式サイトによれば、ミックマックとはイタズラという意味だそうで、まさしく本作は仮想ファミリーを結成した一団が、違法なイタズラを実行する物語だ。
ジュネ監督は本作について、「『白雪姫と七人のこびと』、復讐、武器商人。長い間、頭の中にあった三つのテーマが、一つになった(略)二つの武器製造会社に、互いにつぶし合いをさせるというのは、黒沢明監督『用心棒』へのオマージュ」と語る。
私は当初この作品を、社会のはみ出し者たちが、営利目的の非道な組織に立ち向かう話なのかと思っていた。
しかし、そういう構造ではあるものの、主人公たちは「はみ出し者」という言葉から感じるようなうらぶれた雰囲気とはかけ離れていた。
一人ひとりが、他者には真似のできない特殊能力を持っており、一団となって戦ったら、強いのなんの。
それはたとえば、『少年探偵団』(BD7)が、体当たりの名人や物真似の名人の子供たちで構成されているのと同様である。
そして『ミックマック』では、彼らはお母さん役とか娘役を分担して、仮想的な家族を結成する。ノリとしては、『あばしり一家』に近いのだ。
基本はギャグで、くだらないイタズラを仕掛けるだけなんだけど、それがことごとく成功するものだから、なんだか彼らが最強の戦闘集団に見えてくる。
ここまで考えて、最近よく似た映画を観たことを思い出した。
『特攻野郎Aチーム THE MOVIE』である。
軍隊では、はみ出し気味の連中だが、それぞれが変装の名人とか、女たらしのエキスパートとか(^^;、ちょっと普通じゃない特殊能力を持っており、彼らが一団となってくだらない作戦を仕掛ける映画だった。
そのくだらなさといったら抜群で、向かい側のビルから銃撃されても絶対に当たらないことを前提にビルの壁を駆け下りたり、3D映画で車両が飛び出して見えるシーンに合わせて車両を突っ込んだりと、作戦意図や成功確率を考え出したら脳がとろけそうなほどであった。
しかも、通常のアクション映画なら、まず作戦計画を説明するシーンがあり、次に作戦の実行を描くことで、計画どおりにことが運ぶか観客に固唾を飲ませるのが常套手段だろうが、この作品では計画を説明するシーンと実行するシーンとがフラッシュバックで同時に進行する。
同時ということは、作戦を実行するシーンに説明が付いているようなものである。観客は何も考える必要がない。
すべての作戦は計画どおりに進み、観客が固唾を飲むこともない。
テレビシリーズの『特攻野郎Aチーム』のファンによれば、この映画は、AチームファンがAチームファンに向けて作ったものだそうだが、テレビシリーズを見てない私にはそこのところは判らなかった。
ただ、これは脳みそカラッポにして、バカバカしい作戦を楽しむ映画だな、と思った。
小梶勝男氏も、「この作品がすごいのは、見ているうちに、自然に頭が空っぽになっていくことだ。」と評している。
ところが、『ミックマック』を観て、考えを改めた。
『ミックマック』も、作戦の説明はない。
そのイタズラのバカバカしさが魅力なので、事前に言葉で説明しては無粋なだけだ。
そして、常識的に考えれば失敗して当然の作戦が、成功してしまうからこそ爽快感を得る。
『ミックマック』を観ることで、『特攻野郎Aチーム THE MOVIE』もイタズラを描いていたのだと思い当たった。
並ぶ者のない特殊能力を持っていると思い込んでいる男の子たちが、それぞれの役割を決めて、大人にはバカバカしいとしか思えない作戦を一生懸命に楽しんでいる。
『特攻野郎Aチーム THE MOVIE』が、くだらなくも楽しいのは、そんな子供ごころを刺激するからなのだ。
『ミックマック』も同様だ。
残念ながら、同じくイタズラを描いていても、『アメリ』のようにロマンチックでもなければ、成長物語でもないのだが、『ミックマック』の主人公たちのアジトが、空き地に作った秘密基地に見えてくれば、この映画は成功だ。
自称○○の名人たちが、威張りくさった大人をギャフンと云わせる。
決して、ギャフンと云わせる以上のことはしない。
それがミックマック(イタズラ)なのである。
![ミックマック [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/51pAPhFWaSL._SL160_.jpg)
監督・制作・脚本/ジャン=ピエール・ジュネ 脚本/ギョーム・ローラン
出演/ダニー・ブーン アンドレ・デュソリエ オマール・シー ドミニク・ピノン ジュリー・フェリエ ニコラ・マリエ ヨランド・モロー ジャン=ピエール・マリエール ミシェル・クレマデ マリー=ジュリー・ボー
日本公開/2010年9月4日
ジャンル/[コメディ] [犯罪]

【theme : ヨーロッパ映画】
【genre : 映画】
tag : ジャン=ピエール・ジュネ
『THE LAST MESSAGE 海猿』 エンディングの秘密
脚本家の福田靖氏は、他人を信じていないのではないか、と思うことがある。
映画やテレビドラマにおいて、脚本は重要ではあるものの、あくまで構成要素の一つでしかない。だから脚本をいくら書いたところで、完成した映像作品への貢献は一部にとどまる。
はたして脚本とは、監督への素材提供なのか、それとも脚本といえども一個の完成品を目指すべきなのか。
たとえば、『おと・な・り』では、セリフの少なさに驚いた。
セリフに書かなくても映像で語ってくれるだろうという、脚本家から監督と役者への信頼感が、そこにはあった。
『悪人』では、原作者と監督が共同で脚本に取り組んだ。
登場人物の心情を、セリフで伝えるのか演技で伝えるのか、それとも映像で伝えるのか、一緒になって考え抜いた結果があった。
福田靖氏の脚本は、それらとは対照的だ。
登場人物の気持ちをセリフでハッキリ書く。
監督がどう演出しようと、役者がどんな演技をしようと、登場人物の気持ちが脚本家の意図どおり間違いなく伝わるように、すべてをセリフに書いておく。
作品のクライマックスも、映像や音楽での盛り上がりには任せず、セリフで盛り上げる。
だからクライマックスは、査問会での抗弁や、携帯電話での告白や、廃船式の演説等々、脚本に書き込んだセリフを語るシーンになる。
それは一つの面白いスタイルだが、監督・演出家への信頼は感じない。
同時に観客・視聴者への信頼も感じない。
ハッキリと口で説明しないと観客・視聴者には伝わらない。おそらく氏はそう考えている。
受け手に、読み取る力や考察する力があるなんて期待していない。
だから、氏が脚本を書いた作品には誤解の余地がない。解釈の分かれることもない。
セリフで繰り返し説明されるおかげで、受け手は全員同じことを理解する。
つまり、受け手は思考力を駆使しなくても良いのだ。
完全に受身になっていれば良い。
知識や経験もいらないから、大人も子供も同じように感動できる。
これこそ、ヒットを生み出す上で大事なことだ。
皮肉でも何でもなく、福田靖氏の「考えるのは自分、受け手には考えさせない」という姿勢が、ヒットを連打できる理由の一つだろう。
ただ、このような脚本を映像化するには、ある種の困難が付きまとう。
上手く処理しないと、セリフが饒舌に感じられ、くどい作品だと思われてしまうからだ。
その点、羽住英一郎監督は手際が良い。
思考が停止している観客を、テンポの良い映像と音響で、作品世界へ連れ去ってしまう。
特に、『LIMIT OF LOVE 海猿』に続く『THE LAST MESSAGE 海猿』は、前作同様に火や水が襲いかかるので、観客の目と耳に刺激的なシーンでいっぱいだ。光の明滅や、素早い動きや、激しい音響に観客の脳は刺激を受け続け、そこに妻への愛やバディへの熱い想いを語る言葉を繰り返し聞かされることにより、観客の気持ちは高ぶり、涙腺が決壊する。
本作は典型的な「古い脳を刺激する作品」である。
人間の脳には、論理をつかさどる新しい部分と、感情や意欲をつかさどる古い部分がある。いずれを刺激するかで、観客の受け止め方は異なってくる。
理性に訴える作品と、感情に訴える作品と呼んでも良い。
『THE LAST MESSAGE 海猿』は、もちろん後者である。観客の論理的思考を停止させ、感情を揺さぶる作品だ。
「火急の際にしゃべってる場合か」なんて考えても意味はない。理屈がどうこうではなく、単純に「泣いた!」「感動した!」と反応すれば良いのだ。
だから、本作が3Dで公開されるのは必然だ。
感情を揺さぶるために、観客の脳への刺激を少しでも多く、少しでも強烈にする必要があるのだから。
臼井裕詞プロデューサーも3D化の狙いを「より臨場感のある感動的な映像にするため」と述べている。
もちろん2Dでも鑑賞には差し支えないが、脳への働きかけが異なるだろう。
もっとも、どんな刺激やセリフに感情が揺さぶられるかは、個人差がある。
文化が違えばなおさらである。
興行収入71億円という大ヒットを記録した映画2作目『LIMIT OF LOVE 海猿』も、米国での反応は違ったそうだ。
主人公が携帯電話を使ってプロポーズする感傷的なシーンに、日本中は大号泣だったが、ニューヨーク・アジア映画祭では「こんな状況下でケータイを4、5分も使いプロポーズまでする」彼に爆笑だったという。
どうやら、日本人向けの刺激では、米国人の論理的思考を停止させることはできないらしい。
彼我の差は、このシーンに限るまい。
テレビシリーズの最終回では、要救助者を目の前にした主人公が、「一か八かやりましょう!」と無茶な方策を進言する。「一か八か」とは、サイコロ賭博の丁か半かのことであり、結果がどう出るか判らない状態を指す。
それでも実行してしまうのは、70年前、日本に勝ち目がなくても意外裡な事が勝利に繋がると云って米国に戦争を仕掛けたことを思い出させる。
また、『THE LAST MESSAGE 海猿』では、任務遂行のために、結婚記念のお祝いをすっぽかし、妻に黙って頑張る姿が描かれる。
第二次世界大戦当時、日本人が「欲しがりません勝つまでは」と云って何ごとも我慢していたのに、米国人は戦場に娯楽設備を持ち込み、戦闘が終われば映画を楽しんでいたのを髣髴とさせる。
しかし、福田靖氏の脚本と羽住英一郎監督の演出は、少なくとも日本人への効果は絶大だ。
『THE LAST MESSAGE 海猿』でも、これまでの『海猿』シリーズと同様に、多くの観客が号泣していた。
ここで一つの謎がある。
羽住英一郎監督は、作品のエンドクレジットにメイキング映像を流すのだ。
なぜこんなことをするのだろう?
俳優たちがカチンコを持ってオチャラケているところなんて、観たい観客がいるだろうか。
たった今、大きな感動をもたらしてくれた人々が、舌を出したり、ふざけたり、手を振ったりしているなんて、まったくの興醒めだ。白けることこの上ない。
そんなものは、DVDの特典映像に収めてくれればよい。まだ感動の涙が乾かぬ観客にとっては、余計なオマケでしかない。そんなことを考えてしまう人もいるのではないか。
実は、これこそ羽住英一郎監督の狙いである。
映画の終わらせ方について、岡田斗司夫氏が『東大オタキングゼミ』で述べている。
クライマックスの後に、後日談やら、淡々としたモノローグやら、空撮でだだっ広い風景が見えることやらを紹介して、こう語っている。
---
なんでそれが必要かというと、最高潮に引き上げた観客の感情を、クールダウンするためなんです。余韻を持たせるためにやってるようなフリをしますけど、本当に、お客さんが席を立つきっかけを与えるためなんです。これがないと帰れない。
---
羽住英一郎監督は、映像と音響と熱いセリフの波状攻撃で、観客の感情を頂点まで高める。その高みは、並の映画よりはるかに高い。
だから観客は感動し、号泣する。
そして羽住監督は映画を感動的に結んでしまうので、観客の感情は行き場がなくなる。
あまりにも感情を高ぶらせるために、ラストシーンだけではクールダウンできないのだ。
だから、泣きはらしている観客に伊藤英明さんが手を振ったりして、興醒めさせる必要がある。
観客が落ち着いて帰れるように、途中で事故など起こさぬように、白けさせる必要がある。
そうでもしないとクールダウンできないほど、観客の感情を高ぶらせる自信が羽住監督にはあるのだ。
感動のために席を立てない観客が、羽住監督の目には見えるのだ。
事実、そこまでしても場内には席を立たずに余韻に浸っている人がいた。
映画館側は、すぐに清掃して入れ替えを済ませないといけないのだから、席を立てないほど感動されては困るのに。
羽住英一郎監督は、映画館のことも配慮しているのだ。
『THE LAST MESSAGE 海猿』 [さ行]
監督/羽住英一郎 脚本/福田靖
出演/伊藤英明 加藤あい 佐藤隆太 加藤雅也 吹石一恵 三浦翔平 濱田岳 時任三郎 香里奈
日本公開/2010年9月18日
ジャンル/[アクション] [サスペンス] [ドラマ]
http://bookmarks.yahoo.co.jp/bookmarklet/showpopup?t='+encodeURIComponent(document.title)+'&u='+encodeURIComponent(location.href)+'&ei=UTF-8','_blank','width=550,height=480,left=100,top=50,scrollbars=1,resizable=1',0);">
映画やテレビドラマにおいて、脚本は重要ではあるものの、あくまで構成要素の一つでしかない。だから脚本をいくら書いたところで、完成した映像作品への貢献は一部にとどまる。
はたして脚本とは、監督への素材提供なのか、それとも脚本といえども一個の完成品を目指すべきなのか。
たとえば、『おと・な・り』では、セリフの少なさに驚いた。
セリフに書かなくても映像で語ってくれるだろうという、脚本家から監督と役者への信頼感が、そこにはあった。
『悪人』では、原作者と監督が共同で脚本に取り組んだ。
登場人物の心情を、セリフで伝えるのか演技で伝えるのか、それとも映像で伝えるのか、一緒になって考え抜いた結果があった。
福田靖氏の脚本は、それらとは対照的だ。
登場人物の気持ちをセリフでハッキリ書く。
監督がどう演出しようと、役者がどんな演技をしようと、登場人物の気持ちが脚本家の意図どおり間違いなく伝わるように、すべてをセリフに書いておく。
作品のクライマックスも、映像や音楽での盛り上がりには任せず、セリフで盛り上げる。
だからクライマックスは、査問会での抗弁や、携帯電話での告白や、廃船式の演説等々、脚本に書き込んだセリフを語るシーンになる。
それは一つの面白いスタイルだが、監督・演出家への信頼は感じない。
同時に観客・視聴者への信頼も感じない。
ハッキリと口で説明しないと観客・視聴者には伝わらない。おそらく氏はそう考えている。
受け手に、読み取る力や考察する力があるなんて期待していない。
だから、氏が脚本を書いた作品には誤解の余地がない。解釈の分かれることもない。
セリフで繰り返し説明されるおかげで、受け手は全員同じことを理解する。
つまり、受け手は思考力を駆使しなくても良いのだ。
完全に受身になっていれば良い。
知識や経験もいらないから、大人も子供も同じように感動できる。
これこそ、ヒットを生み出す上で大事なことだ。
皮肉でも何でもなく、福田靖氏の「考えるのは自分、受け手には考えさせない」という姿勢が、ヒットを連打できる理由の一つだろう。
ただ、このような脚本を映像化するには、ある種の困難が付きまとう。
上手く処理しないと、セリフが饒舌に感じられ、くどい作品だと思われてしまうからだ。
その点、羽住英一郎監督は手際が良い。
思考が停止している観客を、テンポの良い映像と音響で、作品世界へ連れ去ってしまう。
特に、『LIMIT OF LOVE 海猿』に続く『THE LAST MESSAGE 海猿』は、前作同様に火や水が襲いかかるので、観客の目と耳に刺激的なシーンでいっぱいだ。光の明滅や、素早い動きや、激しい音響に観客の脳は刺激を受け続け、そこに妻への愛やバディへの熱い想いを語る言葉を繰り返し聞かされることにより、観客の気持ちは高ぶり、涙腺が決壊する。
本作は典型的な「古い脳を刺激する作品」である。
人間の脳には、論理をつかさどる新しい部分と、感情や意欲をつかさどる古い部分がある。いずれを刺激するかで、観客の受け止め方は異なってくる。
理性に訴える作品と、感情に訴える作品と呼んでも良い。
『THE LAST MESSAGE 海猿』は、もちろん後者である。観客の論理的思考を停止させ、感情を揺さぶる作品だ。
「火急の際にしゃべってる場合か」なんて考えても意味はない。理屈がどうこうではなく、単純に「泣いた!」「感動した!」と反応すれば良いのだ。
だから、本作が3Dで公開されるのは必然だ。
感情を揺さぶるために、観客の脳への刺激を少しでも多く、少しでも強烈にする必要があるのだから。
臼井裕詞プロデューサーも3D化の狙いを「より臨場感のある感動的な映像にするため」と述べている。
もちろん2Dでも鑑賞には差し支えないが、脳への働きかけが異なるだろう。
もっとも、どんな刺激やセリフに感情が揺さぶられるかは、個人差がある。
文化が違えばなおさらである。
興行収入71億円という大ヒットを記録した映画2作目『LIMIT OF LOVE 海猿』も、米国での反応は違ったそうだ。
主人公が携帯電話を使ってプロポーズする感傷的なシーンに、日本中は大号泣だったが、ニューヨーク・アジア映画祭では「こんな状況下でケータイを4、5分も使いプロポーズまでする」彼に爆笑だったという。
どうやら、日本人向けの刺激では、米国人の論理的思考を停止させることはできないらしい。
彼我の差は、このシーンに限るまい。
テレビシリーズの最終回では、要救助者を目の前にした主人公が、「一か八かやりましょう!」と無茶な方策を進言する。「一か八か」とは、サイコロ賭博の丁か半かのことであり、結果がどう出るか判らない状態を指す。
それでも実行してしまうのは、70年前、日本に勝ち目がなくても意外裡な事が勝利に繋がると云って米国に戦争を仕掛けたことを思い出させる。
また、『THE LAST MESSAGE 海猿』では、任務遂行のために、結婚記念のお祝いをすっぽかし、妻に黙って頑張る姿が描かれる。
第二次世界大戦当時、日本人が「欲しがりません勝つまでは」と云って何ごとも我慢していたのに、米国人は戦場に娯楽設備を持ち込み、戦闘が終われば映画を楽しんでいたのを髣髴とさせる。
しかし、福田靖氏の脚本と羽住英一郎監督の演出は、少なくとも日本人への効果は絶大だ。
『THE LAST MESSAGE 海猿』でも、これまでの『海猿』シリーズと同様に、多くの観客が号泣していた。
ここで一つの謎がある。
羽住英一郎監督は、作品のエンドクレジットにメイキング映像を流すのだ。
なぜこんなことをするのだろう?
俳優たちがカチンコを持ってオチャラケているところなんて、観たい観客がいるだろうか。
たった今、大きな感動をもたらしてくれた人々が、舌を出したり、ふざけたり、手を振ったりしているなんて、まったくの興醒めだ。白けることこの上ない。
そんなものは、DVDの特典映像に収めてくれればよい。まだ感動の涙が乾かぬ観客にとっては、余計なオマケでしかない。そんなことを考えてしまう人もいるのではないか。
実は、これこそ羽住英一郎監督の狙いである。
映画の終わらせ方について、岡田斗司夫氏が『東大オタキングゼミ』で述べている。
クライマックスの後に、後日談やら、淡々としたモノローグやら、空撮でだだっ広い風景が見えることやらを紹介して、こう語っている。
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なんでそれが必要かというと、最高潮に引き上げた観客の感情を、クールダウンするためなんです。余韻を持たせるためにやってるようなフリをしますけど、本当に、お客さんが席を立つきっかけを与えるためなんです。これがないと帰れない。
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羽住英一郎監督は、映像と音響と熱いセリフの波状攻撃で、観客の感情を頂点まで高める。その高みは、並の映画よりはるかに高い。
だから観客は感動し、号泣する。
そして羽住監督は映画を感動的に結んでしまうので、観客の感情は行き場がなくなる。
あまりにも感情を高ぶらせるために、ラストシーンだけではクールダウンできないのだ。
だから、泣きはらしている観客に伊藤英明さんが手を振ったりして、興醒めさせる必要がある。
観客が落ち着いて帰れるように、途中で事故など起こさぬように、白けさせる必要がある。
そうでもしないとクールダウンできないほど、観客の感情を高ぶらせる自信が羽住監督にはあるのだ。
感動のために席を立てない観客が、羽住監督の目には見えるのだ。
事実、そこまでしても場内には席を立たずに余韻に浸っている人がいた。
映画館側は、すぐに清掃して入れ替えを済ませないといけないのだから、席を立てないほど感動されては困るのに。
羽住英一郎監督は、映画館のことも配慮しているのだ。
![THE LAST MESSAGE 海猿 スタンダード・エディション [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/51SobNLI7PL._SL160_.jpg)
監督/羽住英一郎 脚本/福田靖
出演/伊藤英明 加藤あい 佐藤隆太 加藤雅也 吹石一恵 三浦翔平 濱田岳 時任三郎 香里奈
日本公開/2010年9月18日
ジャンル/[アクション] [サスペンス] [ドラマ]


『樺太1945年夏 氷雪の門』 生と死を分かつのは?

「原爆は是か非か、戦争は是か非か、軍事力は是か非か──。白か黒かの二分法の論理だけに議論が支配されている。」
竹中正治氏は、日経ビジネス オンラインの記事で、このような日本的二分法の危うさについて述べている。
「興味深いことに、旧日本軍では戦争の展開までも、勝利か玉砕かの二分法に支配され、「投降」という選択肢が最初から否定されていた。「撤退」という言葉すら否定されて「転進」と言われた。これはけっこう根の深い問題かもしれない。」
このような二分法は、日本人の考え方の端々に見受けられる。「けっこう」どころか、たいへん根の深い問題である。
ただ、これは必ずしも日本人特有の考え方とは云えないかもしれない。
この二分法の問題については、いずれ稿を改めて述べたいと思う。
今回注目したいのは、竹中正治氏の記事に寄せられた次のコメントだ。
「一度降伏したら、煮て殺されるか焼いて殺されるかもわからないのにおいそれと降伏できるはずもなく、少しでも有利な条件を付けようと必死の覚悟で抗戦するのは当たり前です。」
記事には、同様のコメントがいくつも付いている。
映画『樺太1945年夏 氷雪の門』でも、「日本は無条件降伏したっていうじゃない!」と人々がショックを隠せない場面がある。
『樺太1945年夏 氷雪の門』は、樺太の戦いの過酷な状況を題材としている。
1945年6月に沖縄が戦火にさらされたことは日本人なら誰もが知るところだが、日本国内で戦場になった地として樺太もあることは、あまり認識されていないかもしれない。
その理由は、沖縄と異なり今では日本の領土ではなく、住民たちが散り散りになっており、戦場の跡を自由に訪れるのも叶わないためだろうか。
1945年8月9日に参戦したソビエト連邦は、南樺太に進撃した。当時、樺太には、戦火を避けて疎開している人も多かった。日本政府がソ連からの宣戦布告を受領したのは、翌日のことである。[*5]
その攻撃は、日本がポツダム宣言を受諾してもなお止むことはなかった。日本から停戦のための軍使を何度送っても殺され、日本人と朝鮮人の婦女子を乗せた避難船は撃沈された。[*1][*2][*5]
この映画は、ソ連軍が迫る中、樺太の電話網の維持に務めた電話交換手たちとその家族を描いた物語だ。
電話交換手たちはみな若い女性であり、実際に舞台となった真岡郵便電信局では8月20日に9名が命を落としている。
ただ、『樺太1945年夏 氷雪の門』は、樺太の戦いを描いた唯一の映画でありながら、あまり知名度が高いとはいえない。
なにしろ、企画・制作に9年もかけて完成しながら、公開10日前になって上映が中止されてしまったのだ。ソ連が莫大な予算で東宝から映画の興行権を買い取ったのだという。その5ヶ月後、東映系にて劇場公開されるものの、それは北海道・九州での2週間のみの上映にとどまった。
沖縄戦が『ひめゆりの塔』の大ヒットによって世間に認識された[*4]ことを考えると、本作が限定公開にとどまったために、映画のみならず樺太の戦いの存在を知らしめる貴重な機会が損なわれたといえる。

本作を語る上では、いくつもの論点がある。
たとえば次の点である。
1. 1945年の樺太の戦いとはどのようなものだったのか。
2. 1974年当時の映画の作り手(および日本人)は、戦争をどのように考えていたのか。
3. なぜ、映画の公開を中止しなければならなかったのか。それで何を守れたのか、何を捨てたのか。
1点目と3点目については、幾つもの文献や報道が存在する。
一観客である私としては、2点目について考えてみたい(3点目については別記事参照)。
ちなみに、1点目と2点目、すなわち樺太の戦いから映画公開までには、29年の歳月が流れている。
2点目から現在までは、36年もの歳月だ。
時が経てば、当時は判らなかったことも知り得るし、冷静に振り返ることができる……はずである。
しかるに竹中正治氏の記事に寄せられた「一度降伏したら、煮て殺されるか焼いて殺されるかもわからない」というコメントは、2010年に書き込まれたものである。
「日本は無条件降伏したっていうじゃない!」というセリフは、1974年に書かれたものである。
そして、1945年の状況については、ひめゆり学徒の生存者が次のように証言している。
---
米軍の船からは「穴にいる者は出てこい。泳げる者は泳いできなさい。傷ついた者は助けてやる。食べ物いっぱいあります」とマイクの呼びかけが続いていますが、捕虜になれば女の子は裸にされ、戦車でひき殺されると教えられていた女生徒たちには、それが悪魔の声に聞こえた
――島袋淑子さん・照屋菊子さんの証言[*4] 強調は引用者
---
竹中正治氏は記事へのコメントについて、「無条件降伏という厳し過ぎる条件を要求した連合国が悪いという反論であろうが、悲しむべき無知である。」と述べている。
そして、日本が受諾したポツダム宣言を引用して、こう述べている。
---
当時の軍国主義イデオロギーに比べると、なんと民主的で人権に配慮した宣言だろうか。
---
竹中氏が無知と形容するのは、直接的には2010年のコメントを書き込んだ者に対してである。
しかし、ポツダム宣言の内容については、1945年当時の人々も無知だったろう。
1945年から2010年に至るまで、どれだけの人が正確に理解していたか。
それは1974年の映画制作者とて同じだろう。
なぜなら、本作を観るに、映画の作り手は歴史家として過去を冷静に振り返るよりも、死んだ電話交換手たちに同情し、その心情に共感しているからだ。
もちろん、大衆向けの映画において、観客が共感できるように作るのは一般的なアプローチだ。
とくに、本作の結末が悲劇的なものである以上、観客が9名の電話交換手に対して「かわいそう」という当たり前の感情を、抱けるようにする必要があったろう。
しかし、真岡郵便電信局事件から29年を経たときに、そのような取り上げ方でいいのだろうか。

9名の乙女はなぜ死んだのか?
実は、彼女たちはソ連兵に撃たれたわけでも、砲撃の被害に遭ったわけでもない。
悲しむべきことに、「捕虜になれば女の子は裸にされ」ると考えた彼女たちは、貞操を守るために服毒自殺したのである。
「もうみんな死んでいます。私も乙女のまま潔く死にます。みなさん、さようなら……」
9人目の自殺者は、真岡局から泊居局への電話回線を開き、このような言葉を残している。[*3]
ちなみに、稚内公園に建てられた彼女たちの慰霊碑には、当初「日本軍の命ずるまま青酸苛里をのみ」と書かれていたそうだ。
碑文を刻む際に、なぜ日本軍が命令したことにしたのかは判らない。軍部を悪者に仕立ててこと足れりと考える者がいたのかもしれない。
いまでは、「今はこれまでと死の交換台に向かい(略)静かに青酸苛里をのみ」と書き換えられている。[*3]
このような死は、真岡郵便電信局だけではない。
樺太の大平炭鉱病院では23名もの看護師たちが自殺を図り、6名が亡くなった。
真岡中学の軍事教練助教官は、みずからの妻子4人と隣家の体育教官の妻子2人の首をはねた後、みずから割腹自殺しており、英語教諭は妻子4人を殺害後にカミソリで自刃している。[*3]
米兵が上陸した沖縄でも、多くの人々が自殺した。
まさに人々は、陸軍省の戦陣訓の本訓其の二 第八のとおりに行動したのだ。
---
「『生きて虜囚の辱めを受けず』――死んでも捕虜になってはいけないという、この戦陣訓の言葉が沖縄県民全体に大きな犠牲を強いました。とくに女子学生たちはそれを守りきりましたからね。」
――宮良ルリさんの証言[*4]
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『樺太1945年夏 氷雪の門』は、電話交換手たちの死で終わる。
次々と服毒した彼女たちは床に倒れ、その美しい死に顔が、映画のクライマックスとなる。
しかし、これだけでは「9名の乙女はなぜ死んだのか?」という問いに答えていない。
映画では、重要なことが描かれていないのだ。
なんと、同じとき、同じ場所にいたにもかかわらず、生き延びた人もいたのである。
彼らの生死を分けたものはなにか?
映画はそのことに触れない。
村山三男監督は、1974年公開時のパンフレットで次のように述べている。[*3]
---
私は、この映画でソ連が悪い、日本が悪いなどと問題にするつもりはありません。互いに相手があっての戦争ですからね。むしろ戦争そのものの悲惨さの真実を描きたい。だから関係者という関係者には全部お会いしたといっても過言じゃない。お陰でノイローゼになりかけた
---
関係者という関係者には全部お会いしたのなら、9名の乙女が死んだときに電話交換室にいた人の話も聞いたのではないだろうか。
生存者がいたことは知らなかったのだろうか。
1989年に出版された川嶋康男著『「九人の乙女」はなぜ死んだか』によれば、真岡郵便電信局から生還した職員は11名いる。彼らはソ連兵の捕虜となった。
このうち5名が女性であり、さらに3名は電話交換手である。
1945年8月20日、電話交換室には12名が勤務しており、9名だけが自殺したのだ。
生き延びた電話交換手がいたことは、川嶋康男氏がその著書によって知らしめたことであり、1974年当時、村山三男監督らは知らなかったのかもしれない。
あるいは、生き延びた3名の立場を考慮して、あえて映画では描かなかったのかもしれない(詳しくはコメント欄を参照)。
いずれにしろ重要なのは、映画の作り手の思いが、服毒自殺した女性たちに重なっていることである。
劇中、ソ連兵が来たら女性は何をされるか判らない、ということが繰り返し語られる。
それは、戦時中から現代に至るまで蔓延する「捕虜になれば女の子は裸にされ、戦車でひき殺される」「煮て殺されるか焼いて殺されるかもわからない」という恐れだ。
いまもむかしも、我々日本人は戦争をこのように捉えているのだ。
だから、追い詰められた彼女たちが死を選ぶのは仕方がない。映画はそう云っているように思える。
同じ境遇にありながら電話交換手の生死を分けたもの、映画はそこには踏み込まず、避難民に「戦争は嫌だ」と叫ばせることで、すべては戦争のせいだと結論付ける。
しかし、電話交換手の生死を分けたものはたった一つしかないのだ。
それは毒を飲んだか飲まないかの違いである。
生き延びた3名とて、積極的に毒を飲まないことを選んだわけではない。激しい砲撃と迫るソ連兵の恐怖に、身動きできなかったというべきかもしれない。
確実なのは、服毒しなかった女性はソ連兵に凌辱されることもなく、戦後も存命であったことだ。

日本人は、「捕虜になれば女の子は裸にされ、戦車でひき殺される」「煮て殺されるか焼いて殺されるかもわからない」と考えていたが、これは同時に、立場が逆転すれば「捕虜にした女の子は裸にして、戦車でひき殺す」「煮て殺しても焼いて殺しても構わない」ということでもある。
日本兵の行動を律するために公表された戦陣訓は、そもそも日本兵の放火、略奪、婦女暴行を止めさせるためのものであったという。
若松孝二監督の『キャタピラー』でも、山村から中国に出征した男が、現地の女性を凌辱し惨殺する場面が何度も映し出される。
このように、攻め入ったら放火、略奪、婦女暴行でも何でもする、攻め込まれたら放火、略奪、婦女暴行でも何でもされる、という考えが、竹中正治氏の云う二分法の背景にはあるのではないか。
もっとも、停戦のための軍使を射殺したソ連軍とて、民主的で人権に配慮したポツダム宣言を理解していたのかは疑問である。
ただ、9名の電話交換手に関していえば、角田房子氏の「酷な言い方だが、九人の交換手の自決はあまりに早かった」という意見[*2]に同感だ。
当時の支配的な考え方からすれば、死を選ぶのは自然なことかもしれないが。
いや、当時だけではない。
先日の記事でも述べたとおり、現代日本は世界有数の自殺大国である。
日本に自殺が多い理由について、WHO精神保健部ホセ・ベルトロテ博士は次のように語ったという。
「日本では、自殺が文化の一部になっているように見える。(略)自殺によって自身の名誉を守る、責任を取る、といった倫理規範として自殺がとらえられている。」
同じように、英エコノミスト誌は次のように論評したという。
「日本社会は失敗や破産の恥をさらすことから立ち直ることをめったに許容しない。自殺は運命に直面して逃げない行為として承認されることさえある。」
「生き恥をさらす」という言葉がある。
私たち日本人には、生き長らえることを恥ずかしいと思う文化がある。
対語として「死に恥をさらす」という言葉もあるが、これが使われる例はあまり見ない。
川嶋康男氏はその著書で、生き延びた電話交換手のその後について触れている。[*3]
---
生き残ったことが、それほど恥なのか――。
(略)
あるマスコミ人は、取材だといって真顔で「なぜ死ななかったのか」と、生き残ったことを逆なでするような質問を浴びせてきたという。
(略)
集団自決した「九人の乙女」の「死」と、その場で死ねなかった交換手の「生」とを対比させ、一方を「死の美学」を持って称え、他方を「敵前逃亡」のごとく蔑視するという旧体制の論理を賛美することにならないか。
---
『樺太1945年夏 氷雪の門』のラスト、電話交換手たちの死に顔は美しい。
しかし、いかに猛毒の青酸カリとて、1秒もたたずに即死するわけではない。死ぬまでに数分は要することから、映画とは違って、もがき苦しみ、断末魔の凄まじい形相となる。[*3]
私は常々、日本映画が死を美しく描きすぎると思っている。
本作は、電話交換手たちの死を美化せず、もっと苦しいものとして見せても良かったのではないか。
遺族の感情を配慮したのかもしれないが、死は美しくなんてないことを示すのが、「戦争そのものの悲惨さの真実」を描くことではないかと思う。
そして、交換手たちの死で終わる『樺太1945年夏 氷雪の門』は史実の一つの面に過ぎず、みずからの手で命を絶ったりしなければ生きながらえることもできるのだと、語り継ぐ必要がある。
[*1] 毎日新聞 1992年10月1日「ソ連軍の攻撃だった 終戦七日後サハリンからの避難船撃沈 潜水艦魚雷で 司令部報告に明記」[*2]
[*2] 角田房子 (1994) 『悲しみの島サハリン――戦後責任の背景』 新潮社
[*3] 川嶋康男 (1989) 『「九人の乙女」はなぜ死んだか』 恒友出版
[*4] 香川京子 (1992) 『ひめゆりたちの祈り―沖縄のメッセージ』 朝日新聞社
[*5] 2010年公開時のパンフレット 監修:藤村建雄
『樺太1945年夏 氷雪の門』 [か行]
監督/村山三男 脚本/国弘威雄 原作/金子俊男 助監督/山野辺勝太郎、新城卓
出演/二木てるみ 鳥居恵子 岡田可愛 藤田弓子 栗田ひろみ 木内みどり 北原早苗 若林豪 黒沢年男 南田洋子 千秋実 赤木春恵 丹波哲郎 田村高廣 島田正吾
日本公開/1974年8月17日 109分バージョン (153分バージョンもあり)
リバイバル/2010年7月17日 119分バージョン
ジャンル/[ドラマ] [戦争]


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