『東京裁判』 恥ずかしい私
東京裁判が、昭和天皇の誕生日である4月29日の起訴に始まり、その判決にしたがって平成天皇(当時皇太子)の誕生日である12月23日に絞首刑が執行されたとは知らなかった。
もちろんこれが偶然であろうはずがない。
昭和天皇の誕生日(現昭和の日)になると11ヶ国の検察官から起訴されたことを思い出し、皇太子(当時)の誕生日(現天皇誕生日)には被告人28名のうちの7名が絞首刑に処されたことを思い起こすように、とのGHQの思惑であろう。
恥ずかしながら、私は映画『東京裁判』を観るまで、このような符合をまったく知らなかった。
『東京裁判』が「日本人なら観なければ」と云われるのももっともである。
本作については、すでに多くの人が多くのことを語っている。
それでもあえて強調したいのは、この映画が実に面白いということだ。
たぶん本作を観た人なら、戦争や日本や各国について思うところを語るだろう。それは大事なことである。
しかし私はまず第一に、本作がとても面白くて、長大な上映時間でありながらまったく飽きさせないことに感心する。
本作は、広範な記録映像を編集した作品である。
中心になるのは、米国防総省が保管していた東京裁判に関する記録だが、そこに日米欧中のニュースフィルムや写真等を織り交ぜることで、様々な視点を提供する。
ここでは、大きく3つのストーリーが並行して語られる。
・東京裁判とは何なのか、そして2年半にわたる裁判がどのように推移したのかを描く。
・東京裁判が対象とする1931年(昭和6年)の満州事変からの日本の歩みをたどり、戦争に彩られた世界史をあぶり出す。
・東京裁判が行われていた1946年から1948年における世相と、戦争後の日本人の姿を描く。
膨大な記録映像を、ただ繋ぎ合せても退屈なだけだろうが、そこはさすがに小林正樹監督である。
多くの素晴らしい劇映画を作ってきた監督は、277分という4時間半を超える上映時間にもかかわらず、観客の目を捉えて離さない。
この映画の題材の重さや、その映像が現実であることを考えるとき、「面白い」という表現は不謹慎に聞こえるかもしれない。
しかし私はここがポイントだと思う。
いくら大事なことが映っていても、面白くない記録を何時間も見続けるのは、何らかの必要に迫られた研究者でもない限り難しいことだ。
小林正樹という一流の監督が編集し、様々なシークエンスを挿入し、カットバックを多用して、みずから書いたナレーションを佐藤慶さんに語らせることによって、私のように歴史を学校教育以上には知らない人間でも、すんなりと理解できる映画になった。
驚くべきことに、小林監督が構図を決めて撮影したシーンはないはずなのに、出来上がった映画は確かに小林正樹監督の作品である。過去の劇映画と比べても、まったく遜色のない面白さだ。
277分は、長いどころか、昭和の歴史を収めるには短すぎるほどだ。それほど充実した時間である。
映画『東京裁判』に興味は尽きない。
そもそも東京裁判を行うことに根拠はあるのかという疑問は、多くの人が呈してきたが、まさに東京裁判の開始に当たって弁護団が論じたのもその点であった。
かと思えば、GHQに要請されて日本人の戦犯を受け持つことになった米国人弁護士たちが、いかに熱心に、鋭く弁護したか。
そして、裁判を通じて日本の統治を完成させようとするGHQと、その意図を知らず、みずからの思いを主張する被告人たち。
それらの様子が、その表情、口調、立ち居振る舞いを通して伝わってくる。
文章を読んだだけでは、なかなか実感し得ないことである。
もちろん、小林正樹監督の「作品」である以上、これはあくまで小林監督が捉えた東京裁判である。
どの映像を採用するか、どの順番で見せるか、ナレーションに何を語らせるか、どの場面を音楽で盛り上げるか、音声を付けるか消すか、すべては小林監督の考えに基づいている。
それを承知してもなお、スクリーンに映し出される映像に、私たちは衝撃を禁じえない。
『東京裁判』 [た行]
監督・脚本/小林正樹 脚本/小笠原清 原案/稲垣俊
ナレーター/佐藤慶
日本公開/1983年6月4日
ジャンル/[ドキュメンタリー] [戦争]
映画ブログ
もちろんこれが偶然であろうはずがない。
昭和天皇の誕生日(現昭和の日)になると11ヶ国の検察官から起訴されたことを思い出し、皇太子(当時)の誕生日(現天皇誕生日)には被告人28名のうちの7名が絞首刑に処されたことを思い起こすように、とのGHQの思惑であろう。
恥ずかしながら、私は映画『東京裁判』を観るまで、このような符合をまったく知らなかった。
『東京裁判』が「日本人なら観なければ」と云われるのももっともである。
本作については、すでに多くの人が多くのことを語っている。
それでもあえて強調したいのは、この映画が実に面白いということだ。
たぶん本作を観た人なら、戦争や日本や各国について思うところを語るだろう。それは大事なことである。
しかし私はまず第一に、本作がとても面白くて、長大な上映時間でありながらまったく飽きさせないことに感心する。
本作は、広範な記録映像を編集した作品である。
中心になるのは、米国防総省が保管していた東京裁判に関する記録だが、そこに日米欧中のニュースフィルムや写真等を織り交ぜることで、様々な視点を提供する。
ここでは、大きく3つのストーリーが並行して語られる。
・東京裁判とは何なのか、そして2年半にわたる裁判がどのように推移したのかを描く。
・東京裁判が対象とする1931年(昭和6年)の満州事変からの日本の歩みをたどり、戦争に彩られた世界史をあぶり出す。
・東京裁判が行われていた1946年から1948年における世相と、戦争後の日本人の姿を描く。
膨大な記録映像を、ただ繋ぎ合せても退屈なだけだろうが、そこはさすがに小林正樹監督である。
多くの素晴らしい劇映画を作ってきた監督は、277分という4時間半を超える上映時間にもかかわらず、観客の目を捉えて離さない。
この映画の題材の重さや、その映像が現実であることを考えるとき、「面白い」という表現は不謹慎に聞こえるかもしれない。
しかし私はここがポイントだと思う。
いくら大事なことが映っていても、面白くない記録を何時間も見続けるのは、何らかの必要に迫られた研究者でもない限り難しいことだ。
小林正樹という一流の監督が編集し、様々なシークエンスを挿入し、カットバックを多用して、みずから書いたナレーションを佐藤慶さんに語らせることによって、私のように歴史を学校教育以上には知らない人間でも、すんなりと理解できる映画になった。
驚くべきことに、小林監督が構図を決めて撮影したシーンはないはずなのに、出来上がった映画は確かに小林正樹監督の作品である。過去の劇映画と比べても、まったく遜色のない面白さだ。
277分は、長いどころか、昭和の歴史を収めるには短すぎるほどだ。それほど充実した時間である。
映画『東京裁判』に興味は尽きない。
そもそも東京裁判を行うことに根拠はあるのかという疑問は、多くの人が呈してきたが、まさに東京裁判の開始に当たって弁護団が論じたのもその点であった。
かと思えば、GHQに要請されて日本人の戦犯を受け持つことになった米国人弁護士たちが、いかに熱心に、鋭く弁護したか。
そして、裁判を通じて日本の統治を完成させようとするGHQと、その意図を知らず、みずからの思いを主張する被告人たち。
それらの様子が、その表情、口調、立ち居振る舞いを通して伝わってくる。
文章を読んだだけでは、なかなか実感し得ないことである。
もちろん、小林正樹監督の「作品」である以上、これはあくまで小林監督が捉えた東京裁判である。
どの映像を採用するか、どの順番で見せるか、ナレーションに何を語らせるか、どの場面を音楽で盛り上げるか、音声を付けるか消すか、すべては小林監督の考えに基づいている。
それを承知してもなお、スクリーンに映し出される映像に、私たちは衝撃を禁じえない。
『東京裁判』 [た行]
監督・脚本/小林正樹 脚本/小笠原清 原案/稲垣俊
ナレーター/佐藤慶
日本公開/1983年6月4日
ジャンル/[ドキュメンタリー] [戦争]
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【theme : ドキュメンタリー映画DVD】
【genre : 映画】
『フェアウェル さらば、哀しみのスパイ』 キャスティングの謎
【ネタバレ注意】
『フェアウェル さらば、哀しみのスパイ』のキーパーソンは、ウィレム・デフォーだ。
なのに、出番はとても少ない。顔を出すのは数カット。
もちろん主人公はエミール・クストリッツァ演じるKGBの大佐だし、彼と一緒に出ずっぱりなのはギョーム・カネ演じるフランス人技師だ。
1981年を舞台にしたこの映画は、二人のスリリングにして人間臭い行動を克明に描写する。
主人公セルゲイ・グリゴリエフ大佐は、ソビエト連邦の諜報機関の要職にありながら、多数の極秘資料を持ち出し、フランス人技師ピエール・フロマンに渡す。
諜報活動とは関係のないピエールは、嫌がりながらも次第に協力していく。
この展開は、通常のスパイ物とは正反対だ。
普通は、外国人やその代理人が、要職にある者に近づいて、嫌がる彼を説得/懐柔して資料を出させる。
なのに本作の主人公は、みずから資料の持ち出しを始め、外国勢を協力させるのだ。
したがって、反対勢力も通常とは逆だ。
通常、資料を持ち出す主人公が恐れるのは、自国の防諜組織である。見つかれば死を覚悟しなければならない。
もちろん本作でも自国の諜報機関は脅威であり、その手の内を知っている主人公だからこそ慎重に行動する。
だが本作では、本来なら情報を入手して喜ぶはずの外国側に、主人公に対して懐疑的な者がいる。
ここでウィレム・デフォーの出番である。
このフランス映画には欧米各国の役者が集まっているが、その中でもウィレム・デフォーは最も知名度の高い俳優だろう。
しかも彼は、傑作『ストリート・オブ・ファイヤー』のレイヴンをはじめとして、悪役・敵役を演じることが多い。
だから彼がCIA長官として顔を出すのは意外だった。主人公がソ連から情報を持ち出すのを歓迎する立場だと思ったからだ。
しかも、物語はあくまでソ連国内のセルゲイとピエールが中心だ。彼らの家族や同僚たちも物語に係るものの、遠く離れた米国のオフィスにいるCIA長官なんて、はっきり云ってチョイ役でしかない。
そこになぜウィレム・デフォーを配するのか、少々不思議なくらいだった。
しかし、やはりCIA長官は重要な役だった。ウィレム・デフォーならではの役どころだった。
CIA長官のフィニーは、KGBのセルゲイとの対比のためにいたのだ。
そもそもセルゲイが極秘資料を持ち出すのは、なぜか?
それは彼が理想を持っているからだ。息子たちに受け継がせる国の姿を思い描いていたからだ。
ところが、彼の考える国家像と、現状の自国とは、あまりにも乖離していた。
そのため、彼は国を崩壊させようと考えた。極秘情報を他国に流して、自国を立ち行かないように追い込んだのだ。
だからセルゲイは、自分が持ってるものを失うことを恐れなかった。
彼の職場や社会は、崩壊した方がいいのだから。
対してフィニーは、ソ連と敵対する国の諜報機関のトップだが、自分の持っているものを壊したいなんて、これっぽっちも思っちゃいない。
せっかくCIA長官の座に就いたのだし、今後もこの座を去るつもりはない。
ソ連の情報を収集し、分析するという勤めを、これからもきちんと果たすつもりだ。
そんなフィニーからすれば、体制の崩壊を願うセルゲイは、正反対の存在だ。
とても奇妙なことに、ソ連の情報を流すセルゲイと情報を集めるフィニーは利害が一致するはずなのに、片や現状打破を目指し、片や現状維持を目指す。方向が180度異なっている。
フィニーがこれからもソ連の情報を収集し分析するためには、とうぜんながら「ソ連」が必要なのだ。「米国に敵対するソ連」がいないと、諜報機関の存在意義は霞んでしまう。ソ連があるとないとでは、予算の付き方も違うだろうし、彼の発言力も変わるだろう。
この映画のフィニーは、既得権を持つすべての人の象徴なのだ。
現状を維持しないと自分の居場所がなくなってしまう、そんな彼が肝だからウィレム・デフォーがキャスティングされたのだろう。
いつの世の、どこの国でも同じことだ。
他人には、無駄な仕事、不要な業務に見えることでも、その仕事に従事している当人にとっては大事なことだ。それが飯のタネだし、自分の居場所なのだから。
自分から、「こうすれば私の仕事はなくせます」なんて主張する人はいない。
企業を改革しようとするとき、もっとも抵抗するのは部長クラスだという。
改革しても「社長」や「従業員」はなくならないが、改革によって部をなくしたら「部長」はいらなくなってしまう。だから部長クラスが組織防衛に走るので、実効性のある改革にならないのだ。
『フェアウェル さらば、哀しみのスパイ』で興味深いのは、主人公が重要機関の高い地位にいるエリートだということだ。
収入も役職も不足はないだろうし、それを維持すれば快適な暮らしが送れるはずだ。
にもかかわらず、彼は自分の職場を、社会を、周囲の人々を、裏切ることを選んだ。
他のスパイのように、金を要求することも、亡命して新しい暮らしを求めることもなかった。
この「フェアウェル事件」が実話であることに驚くばかりである。
1989年、冷戦が終結し、続いて1991年にソビエト連邦は解体した。
しかし、このときを境に自殺率が急増する。
先の記事で、日本の自殺率が世界第5位であると述べたが、2009年の時点で1~4位はすべて旧ソ連の国々である。6位以降の上位にも、旧ソ連は顔を出す。
何かを崩壊させたら、新しいものを築かなければならない。
その道もまた険しい。
『フェアウェル さらば、哀しみのスパイ』 [は行]
監督・脚本/クリスチャン・カリオン 脚本/エリック・レイノー
出演/エミール・クストリッツァ ギョーム・カネ アレクサンドラ・マリア・ララ インゲボルガ・ダプコウナイテ ウィレム・デフォー
日本公開/2010年7月31日
ジャンル/[サスペンス] [ドラマ]
http://bookmarks.yahoo.co.jp/bookmarklet/showpopup?t='+encodeURIComponent(document.title)+'&u='+encodeURIComponent(location.href)+'&ei=UTF-8','_blank','width=550,height=480,left=100,top=50,scrollbars=1,resizable=1',0);">
『フェアウェル さらば、哀しみのスパイ』のキーパーソンは、ウィレム・デフォーだ。
なのに、出番はとても少ない。顔を出すのは数カット。
もちろん主人公はエミール・クストリッツァ演じるKGBの大佐だし、彼と一緒に出ずっぱりなのはギョーム・カネ演じるフランス人技師だ。
1981年を舞台にしたこの映画は、二人のスリリングにして人間臭い行動を克明に描写する。
主人公セルゲイ・グリゴリエフ大佐は、ソビエト連邦の諜報機関の要職にありながら、多数の極秘資料を持ち出し、フランス人技師ピエール・フロマンに渡す。
諜報活動とは関係のないピエールは、嫌がりながらも次第に協力していく。
この展開は、通常のスパイ物とは正反対だ。
普通は、外国人やその代理人が、要職にある者に近づいて、嫌がる彼を説得/懐柔して資料を出させる。
なのに本作の主人公は、みずから資料の持ち出しを始め、外国勢を協力させるのだ。
したがって、反対勢力も通常とは逆だ。
通常、資料を持ち出す主人公が恐れるのは、自国の防諜組織である。見つかれば死を覚悟しなければならない。
もちろん本作でも自国の諜報機関は脅威であり、その手の内を知っている主人公だからこそ慎重に行動する。
だが本作では、本来なら情報を入手して喜ぶはずの外国側に、主人公に対して懐疑的な者がいる。
ここでウィレム・デフォーの出番である。
このフランス映画には欧米各国の役者が集まっているが、その中でもウィレム・デフォーは最も知名度の高い俳優だろう。
しかも彼は、傑作『ストリート・オブ・ファイヤー』のレイヴンをはじめとして、悪役・敵役を演じることが多い。
だから彼がCIA長官として顔を出すのは意外だった。主人公がソ連から情報を持ち出すのを歓迎する立場だと思ったからだ。
しかも、物語はあくまでソ連国内のセルゲイとピエールが中心だ。彼らの家族や同僚たちも物語に係るものの、遠く離れた米国のオフィスにいるCIA長官なんて、はっきり云ってチョイ役でしかない。
そこになぜウィレム・デフォーを配するのか、少々不思議なくらいだった。
しかし、やはりCIA長官は重要な役だった。ウィレム・デフォーならではの役どころだった。
CIA長官のフィニーは、KGBのセルゲイとの対比のためにいたのだ。
そもそもセルゲイが極秘資料を持ち出すのは、なぜか?
それは彼が理想を持っているからだ。息子たちに受け継がせる国の姿を思い描いていたからだ。
ところが、彼の考える国家像と、現状の自国とは、あまりにも乖離していた。
そのため、彼は国を崩壊させようと考えた。極秘情報を他国に流して、自国を立ち行かないように追い込んだのだ。
だからセルゲイは、自分が持ってるものを失うことを恐れなかった。
彼の職場や社会は、崩壊した方がいいのだから。
対してフィニーは、ソ連と敵対する国の諜報機関のトップだが、自分の持っているものを壊したいなんて、これっぽっちも思っちゃいない。
せっかくCIA長官の座に就いたのだし、今後もこの座を去るつもりはない。
ソ連の情報を収集し、分析するという勤めを、これからもきちんと果たすつもりだ。
そんなフィニーからすれば、体制の崩壊を願うセルゲイは、正反対の存在だ。
とても奇妙なことに、ソ連の情報を流すセルゲイと情報を集めるフィニーは利害が一致するはずなのに、片や現状打破を目指し、片や現状維持を目指す。方向が180度異なっている。
フィニーがこれからもソ連の情報を収集し分析するためには、とうぜんながら「ソ連」が必要なのだ。「米国に敵対するソ連」がいないと、諜報機関の存在意義は霞んでしまう。ソ連があるとないとでは、予算の付き方も違うだろうし、彼の発言力も変わるだろう。
この映画のフィニーは、既得権を持つすべての人の象徴なのだ。
現状を維持しないと自分の居場所がなくなってしまう、そんな彼が肝だからウィレム・デフォーがキャスティングされたのだろう。
いつの世の、どこの国でも同じことだ。
他人には、無駄な仕事、不要な業務に見えることでも、その仕事に従事している当人にとっては大事なことだ。それが飯のタネだし、自分の居場所なのだから。
自分から、「こうすれば私の仕事はなくせます」なんて主張する人はいない。
企業を改革しようとするとき、もっとも抵抗するのは部長クラスだという。
改革しても「社長」や「従業員」はなくならないが、改革によって部をなくしたら「部長」はいらなくなってしまう。だから部長クラスが組織防衛に走るので、実効性のある改革にならないのだ。
『フェアウェル さらば、哀しみのスパイ』で興味深いのは、主人公が重要機関の高い地位にいるエリートだということだ。
収入も役職も不足はないだろうし、それを維持すれば快適な暮らしが送れるはずだ。
にもかかわらず、彼は自分の職場を、社会を、周囲の人々を、裏切ることを選んだ。
他のスパイのように、金を要求することも、亡命して新しい暮らしを求めることもなかった。
この「フェアウェル事件」が実話であることに驚くばかりである。
1989年、冷戦が終結し、続いて1991年にソビエト連邦は解体した。
しかし、このときを境に自殺率が急増する。
先の記事で、日本の自殺率が世界第5位であると述べたが、2009年の時点で1~4位はすべて旧ソ連の国々である。6位以降の上位にも、旧ソ連は顔を出す。
何かを崩壊させたら、新しいものを築かなければならない。
その道もまた険しい。
![フェアウェル さらば、 哀しみのスパイ [DVD]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/51r3RkRpHUL._SL160_.jpg)
監督・脚本/クリスチャン・カリオン 脚本/エリック・レイノー
出演/エミール・クストリッツァ ギョーム・カネ アレクサンドラ・マリア・ララ インゲボルガ・ダプコウナイテ ウィレム・デフォー
日本公開/2010年7月31日
ジャンル/[サスペンス] [ドラマ]


【theme : ヨーロッパ映画】
【genre : 映画】
tag : クリスチャン・カリオンウィレム・デフォー
『ペルシャ猫を誰も知らない』 何が相克しているのか?
驚いたことに、イランでは犬も猫も外に連れ出すことはできないそうだ。家の中だけで可愛がらねばならない。
『ペルシャ猫を誰も知らない』の公式サイトのインタビュー記事で、バフマン・ゴバディ監督はそう語っている。
同じく公式サイトによれば、『ペルシャ猫を誰も知らない』というタイトルの「ペルシャ猫」とは、ペルシャすなわち現在のイラン・イスラーム共和国の若者たちを指すそうだ。
おっしゃるとおり、私はイランの実情を知らない。
だから、クルマに犬を乗せて走っていたら警察官に止められてしまうシーンにビックリした。
バンドを組もうにも、女性が1人でボーカルをしてはいけなくて、複数人で(コーラスで)唄わなければならない[*]とか、驚きの連続である。
そして、本作に登場するミュージシャンたちが、曲の演奏や発売を制限され、逮捕の危険と背中合わせに活動していることにも驚いた。
我々が驚くのは、我々が住む国ではロックやポップスを聴いたり演奏したために逮捕されることなどないからだ。現に我々は毎日ロックやポップスを聴いており、人によっては演奏もしている。
我々が住む国・日本は、ここ一世紀半ほど近代化を図ってきた。
他の多くの国も近代化を進めている。
この「近代化」は、実質的には「西洋化」だ。
そしてロックやポップスは、西洋文化の代表選手だ。
一口に西洋文化といっても様々だが、青少年への影響の大きさではロックやポップスが飛びぬけていることに、多くの人が同意するだろう。
ここ数百年、西洋文化は世界を席巻しており、とくに産業革命以降の二百年は圧倒的である。
ロックやポップスはその最先端に位置する。
日本の人々は、ロックをはじめとする西洋文化にどっぷり浸っている。
イランもかつては、近代化=西洋化を推し進め、脱イスラーム化を図っていた。
ところが、その歩みを民衆がみずから止めたのが、1979年のイラン革命である。
そのときを境に、シャリーア(イスラーム法)に反することは厳しく制限されるようになった。
映画に登場するミュージシャンたちは、イランを脱出し、ヨーロッパで演奏しようとする。
彼らは、ふたたびイスラーム化した故郷にあって、近代化=西洋化を体現する者だ。
ここで注意すべきは、進行しつつあった「西洋化」の「西洋」とは、キリスト教社会だということだ。
キリスト教は世界で最大の信者数を誇り、その特徴は云うまでもなく一神教であることだ。
イスラーム(イスラム教)だって一神教だが、キリスト教とはずいぶん異なる。
キリスト教の特徴について、松下博宣氏はこう述べている。
---
大航海時代の歴史に接すると,「なぜ善良なキリスト教徒が残忍の限りをつくして原住民の大虐殺にいそしんだのか」と誰しもが疑問に思う。だが,神の命令だから虐殺するのである。それ以上でもそれ以下でもない。
(略)
異教徒に接した航海者や宣教師は,確認のため,ローマ教皇あてに「異教徒は人間か否か」との問い合わせを頻繁に送った。その回答は,「人間ではないので,殺すも奴隷にするも自由である」ということが中心だった。よって神の命令の確証を得たキリスト教徒が現地を征服すると,原住民をいともたやすく滅ぼしてしまう。
---
キリスト教では「隣人を愛せ」と教えるが、人のうちに入らない異教徒に愛は適用されないのだ。
さすがに今日では、大航海時代と同じことが表立って行われているわけではない。
しかし西洋文化に浸った者が、西洋文化に背を向ける者を見るときに、異教徒に接した航海者や宣教師と同じ視線になってはいないだろうか。
ロックを聴いたり演奏したりは当たり前のことだから、ロックを制限するなんて「けしからん」、と。
『ペルシャ猫を誰も知らない』を注意深く見ると、イランでもコンサートができないとかCDを販売できないわけではないらしい。登場人物たちは、許可が必要だと何度も口にしている。
音楽活動をするには、イスラム文化指導省による歌詞等のチェックを受けねばならないのだ。
イランは西洋化を阻み、イスラーム化を徹底するため、西洋文化の代表選手たるロックに神経を尖らせるのだろう。
日本で活動するアマチュア・ミュージシャンにも、周囲の無理解に苦労した人は多かろう。
本作では、どこの国でも味わう苦労(騒音問題や練習場所のなさ)と、イスラーム化と西洋化の相克を、渾然一体となったまま映し出す。
ちなみに、同じ一神教でも、イスラーム(イスラム教)はキリスト教と事情が違う。
ふたたび松下博宣氏の文を引用しよう。
---
イスラームには「聖典の民」「啓典の民」を尊重するという制度,気風がある。すなわち,イスラームを信仰しないユダヤ教,キリスト教の信者でも,租税(人頭税)を払えば,従属的ながらも被保護者(ジンミー)というイスラーム共同体の一員として地位が保障される。イスラーム共同体維持のための貴重な財源として,ジンミーの役割は大きかった。
(略)イスラームへの改宗者があまりにも多く出てしまうと人頭税を徴収することができなくなってしまい,拡大したイスラーム共同体の台所,財政が枯渇してしまう。サラセン帝国の財政を健全化するために,むしろ,イスラームへの改宗を抑制する方策がとられたくらいだ。
---
映画の中で、クルマに犬を乗せて走っていたら警察官に止められてしまうシーンにはビックリしたが、よく考えれば日本でも都市部では犬や猫を外に連れ出すことはあまりない。
特に猫は外に出さない方が多いだろうし、犬だって室内で飼っている場合はごく短い散歩を除けばほとんど外に出さない。
犬や猫を連れて移動するときも、キャリアやカートに入れることが多いだろう。
イランにおいて、警察官にわざわざ犬連れを止めさせるような法律をなぜ制定したのか、映画では語られない。
止められたあと、どうなったのかも説明はない。
この映画では、主人公たちが何かを制限されるシーンを(背景説明なしに)積み重ねることで、彼らの不満や不安を浮かび上がらせる。
たいへん効果的ではあるものの、危険な手法でもある。
無許可の撮影を断行し、『ペルシャ猫を誰も知らない』を作り上げたことは称賛に値するが、一方の当事者の言い分だけでは、イランを知ることにはならない。

そしてまた忘れてはならないのは、日本だって表現は制限され、作品を自由には発表できないということだ。
日本でも発禁や放送禁止、あるいは一部が差し替えられた作品がある。
映像作品では、『相棒』Season3の第7話や、『ウルトラセブン』の第12話が有名だ。
最近も、映画『ぼくのエリ 200歳の少女』という素晴らしい作品が、日本公開にあたって無残な改変を受けた。
我々は、日々音楽や映画を楽しんでいるが、接しているのは公表できたものだけであることを肝に銘じるべきだろう。
戦前は、イランのイスラム文化指導省に負けず、日本にも検閲を行う情報局があった。
いまではそんな機関はないものの、抗議の電話をする人々や、立ちふさがる団体や、プロデューサーの心配や、いろいろなものが作り上げた空気が、日本の表現を制限している。

結局、『ペルシャ猫を誰も知らない』に出演したミュージシャンや監督は、国を出る道を選んだ。
しかしゴバディ監督は、祖国に帰れる日は近いと信じている。
たしかに、いずれイランも西洋化するだろう。
人口の60%以上を24歳以下の若年世代が占めるイランにおいて、衛星放送やインターネットから流れ込む西洋文化を排除し続けるのは不可能だ。
なぜなら、イスラーム社会よりもキリスト教社会の方が優位な点があるからだ。
松下博宣氏は語っている。
---
イスラーム社会を比較宗教学など社会科学の立場から分析する際に,「イスラームでは宗教的な戒律,社会規範,国家の法律が一致している」としばしば指摘される。キリスト教の場合は,「神のものは神へ,カエサルのものはカエサルへ」という理念が進展して,アウグスティヌスの「神の国」「地の国」という二王国論へと継承され,「聖」と「俗」が分離されていった。
(略)
ここで誰もが大きな疑問に直面する。一神教としての完成度の高さを誇るイスラームがなぜ近代国家を樹立できず,一方,多くの矛盾をはらんだキリスト教がなぜ近代国家を成立させることができたのであろうか。
その理由の1つは立法権のあり方にある。最後の預言者ムハンマドが登場してしまった以上,これ以上預言者は現れない。すると「契約」の更改もありえない。近代の重要な社会システムである立法という機能とその展開において,イスラームは宗教的な戒律,社会規範,国家の法律が一致するため,伝統主義の足かせから自らを脱却させる自明の論理を容易には導き得なかったのである。
---
他方、日本はイランに先駆けて近代化=西洋化を推し進めた。
その日本は現在、人口10万人あたりの自殺者数が25.8人もいて、自殺率では世界第5位とトップグループに位置する(2009年のデータによる)。
対してイランは、近年自殺が増加しているものの、まだ0.6人(2005年3月-2006年3月)とはるかに少ない。
イランの自殺予防委員会のハサンザーデ委員長は「イランの自殺者の75%は報告されていない」と云うが、たとえそうだとしても日本より桁違いの少なさにとどまる。
イランでは禁止されている女性ボーカルも日本ならできるけれど、日本人が幸福かは判らない。
[*]桜井啓子氏によれば、かつては女性コーラスも禁止だったそうだ。
『ペルシャ猫を誰も知らない』 [は行]
監督・脚本/バフマン・ゴバディ 脚本/ロクサナ・サベリ、ホセイン・M・アプケナール
出演/ネガル・シャガギ アシュカン・クーシャンネジャード ハメッド・ベーダード
日本公開/2010年8月7日
ジャンル/[青春] [ドラマ] [音楽]
映画ブログ
『ペルシャ猫を誰も知らない』の公式サイトのインタビュー記事で、バフマン・ゴバディ監督はそう語っている。
同じく公式サイトによれば、『ペルシャ猫を誰も知らない』というタイトルの「ペルシャ猫」とは、ペルシャすなわち現在のイラン・イスラーム共和国の若者たちを指すそうだ。
おっしゃるとおり、私はイランの実情を知らない。
だから、クルマに犬を乗せて走っていたら警察官に止められてしまうシーンにビックリした。
バンドを組もうにも、女性が1人でボーカルをしてはいけなくて、複数人で(コーラスで)唄わなければならない[*]とか、驚きの連続である。
そして、本作に登場するミュージシャンたちが、曲の演奏や発売を制限され、逮捕の危険と背中合わせに活動していることにも驚いた。
我々が驚くのは、我々が住む国ではロックやポップスを聴いたり演奏したために逮捕されることなどないからだ。現に我々は毎日ロックやポップスを聴いており、人によっては演奏もしている。
我々が住む国・日本は、ここ一世紀半ほど近代化を図ってきた。
他の多くの国も近代化を進めている。
この「近代化」は、実質的には「西洋化」だ。
そしてロックやポップスは、西洋文化の代表選手だ。
一口に西洋文化といっても様々だが、青少年への影響の大きさではロックやポップスが飛びぬけていることに、多くの人が同意するだろう。
ここ数百年、西洋文化は世界を席巻しており、とくに産業革命以降の二百年は圧倒的である。
ロックやポップスはその最先端に位置する。
日本の人々は、ロックをはじめとする西洋文化にどっぷり浸っている。
イランもかつては、近代化=西洋化を推し進め、脱イスラーム化を図っていた。
ところが、その歩みを民衆がみずから止めたのが、1979年のイラン革命である。
そのときを境に、シャリーア(イスラーム法)に反することは厳しく制限されるようになった。
映画に登場するミュージシャンたちは、イランを脱出し、ヨーロッパで演奏しようとする。
彼らは、ふたたびイスラーム化した故郷にあって、近代化=西洋化を体現する者だ。
ここで注意すべきは、進行しつつあった「西洋化」の「西洋」とは、キリスト教社会だということだ。
キリスト教は世界で最大の信者数を誇り、その特徴は云うまでもなく一神教であることだ。
イスラーム(イスラム教)だって一神教だが、キリスト教とはずいぶん異なる。
キリスト教の特徴について、松下博宣氏はこう述べている。
---
大航海時代の歴史に接すると,「なぜ善良なキリスト教徒が残忍の限りをつくして原住民の大虐殺にいそしんだのか」と誰しもが疑問に思う。だが,神の命令だから虐殺するのである。それ以上でもそれ以下でもない。
(略)
異教徒に接した航海者や宣教師は,確認のため,ローマ教皇あてに「異教徒は人間か否か」との問い合わせを頻繁に送った。その回答は,「人間ではないので,殺すも奴隷にするも自由である」ということが中心だった。よって神の命令の確証を得たキリスト教徒が現地を征服すると,原住民をいともたやすく滅ぼしてしまう。
---
キリスト教では「隣人を愛せ」と教えるが、人のうちに入らない異教徒に愛は適用されないのだ。
さすがに今日では、大航海時代と同じことが表立って行われているわけではない。
しかし西洋文化に浸った者が、西洋文化に背を向ける者を見るときに、異教徒に接した航海者や宣教師と同じ視線になってはいないだろうか。
ロックを聴いたり演奏したりは当たり前のことだから、ロックを制限するなんて「けしからん」、と。
『ペルシャ猫を誰も知らない』を注意深く見ると、イランでもコンサートができないとかCDを販売できないわけではないらしい。登場人物たちは、許可が必要だと何度も口にしている。
音楽活動をするには、イスラム文化指導省による歌詞等のチェックを受けねばならないのだ。
イランは西洋化を阻み、イスラーム化を徹底するため、西洋文化の代表選手たるロックに神経を尖らせるのだろう。
日本で活動するアマチュア・ミュージシャンにも、周囲の無理解に苦労した人は多かろう。
本作では、どこの国でも味わう苦労(騒音問題や練習場所のなさ)と、イスラーム化と西洋化の相克を、渾然一体となったまま映し出す。
ちなみに、同じ一神教でも、イスラーム(イスラム教)はキリスト教と事情が違う。
ふたたび松下博宣氏の文を引用しよう。
---
イスラームには「聖典の民」「啓典の民」を尊重するという制度,気風がある。すなわち,イスラームを信仰しないユダヤ教,キリスト教の信者でも,租税(人頭税)を払えば,従属的ながらも被保護者(ジンミー)というイスラーム共同体の一員として地位が保障される。イスラーム共同体維持のための貴重な財源として,ジンミーの役割は大きかった。
(略)イスラームへの改宗者があまりにも多く出てしまうと人頭税を徴収することができなくなってしまい,拡大したイスラーム共同体の台所,財政が枯渇してしまう。サラセン帝国の財政を健全化するために,むしろ,イスラームへの改宗を抑制する方策がとられたくらいだ。
---
映画の中で、クルマに犬を乗せて走っていたら警察官に止められてしまうシーンにはビックリしたが、よく考えれば日本でも都市部では犬や猫を外に連れ出すことはあまりない。
特に猫は外に出さない方が多いだろうし、犬だって室内で飼っている場合はごく短い散歩を除けばほとんど外に出さない。
犬や猫を連れて移動するときも、キャリアやカートに入れることが多いだろう。
イランにおいて、警察官にわざわざ犬連れを止めさせるような法律をなぜ制定したのか、映画では語られない。
止められたあと、どうなったのかも説明はない。
この映画では、主人公たちが何かを制限されるシーンを(背景説明なしに)積み重ねることで、彼らの不満や不安を浮かび上がらせる。
たいへん効果的ではあるものの、危険な手法でもある。
無許可の撮影を断行し、『ペルシャ猫を誰も知らない』を作り上げたことは称賛に値するが、一方の当事者の言い分だけでは、イランを知ることにはならない。

そしてまた忘れてはならないのは、日本だって表現は制限され、作品を自由には発表できないということだ。
日本でも発禁や放送禁止、あるいは一部が差し替えられた作品がある。
映像作品では、『相棒』Season3の第7話や、『ウルトラセブン』の第12話が有名だ。
最近も、映画『ぼくのエリ 200歳の少女』という素晴らしい作品が、日本公開にあたって無残な改変を受けた。
我々は、日々音楽や映画を楽しんでいるが、接しているのは公表できたものだけであることを肝に銘じるべきだろう。
戦前は、イランのイスラム文化指導省に負けず、日本にも検閲を行う情報局があった。
いまではそんな機関はないものの、抗議の電話をする人々や、立ちふさがる団体や、プロデューサーの心配や、いろいろなものが作り上げた空気が、日本の表現を制限している。

結局、『ペルシャ猫を誰も知らない』に出演したミュージシャンや監督は、国を出る道を選んだ。
しかしゴバディ監督は、祖国に帰れる日は近いと信じている。
たしかに、いずれイランも西洋化するだろう。
人口の60%以上を24歳以下の若年世代が占めるイランにおいて、衛星放送やインターネットから流れ込む西洋文化を排除し続けるのは不可能だ。
なぜなら、イスラーム社会よりもキリスト教社会の方が優位な点があるからだ。
松下博宣氏は語っている。
---
イスラーム社会を比較宗教学など社会科学の立場から分析する際に,「イスラームでは宗教的な戒律,社会規範,国家の法律が一致している」としばしば指摘される。キリスト教の場合は,「神のものは神へ,カエサルのものはカエサルへ」という理念が進展して,アウグスティヌスの「神の国」「地の国」という二王国論へと継承され,「聖」と「俗」が分離されていった。
(略)
ここで誰もが大きな疑問に直面する。一神教としての完成度の高さを誇るイスラームがなぜ近代国家を樹立できず,一方,多くの矛盾をはらんだキリスト教がなぜ近代国家を成立させることができたのであろうか。
その理由の1つは立法権のあり方にある。最後の預言者ムハンマドが登場してしまった以上,これ以上預言者は現れない。すると「契約」の更改もありえない。近代の重要な社会システムである立法という機能とその展開において,イスラームは宗教的な戒律,社会規範,国家の法律が一致するため,伝統主義の足かせから自らを脱却させる自明の論理を容易には導き得なかったのである。
---
他方、日本はイランに先駆けて近代化=西洋化を推し進めた。
その日本は現在、人口10万人あたりの自殺者数が25.8人もいて、自殺率では世界第5位とトップグループに位置する(2009年のデータによる)。
対してイランは、近年自殺が増加しているものの、まだ0.6人(2005年3月-2006年3月)とはるかに少ない。
イランの自殺予防委員会のハサンザーデ委員長は「イランの自殺者の75%は報告されていない」と云うが、たとえそうだとしても日本より桁違いの少なさにとどまる。
イランでは禁止されている女性ボーカルも日本ならできるけれど、日本人が幸福かは判らない。
[*]桜井啓子氏によれば、かつては女性コーラスも禁止だったそうだ。
![ペルシャ猫を誰も知らない [DVD]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/51CeWldjIzL._SL160_.jpg)
監督・脚本/バフマン・ゴバディ 脚本/ロクサナ・サベリ、ホセイン・M・アプケナール
出演/ネガル・シャガギ アシュカン・クーシャンネジャード ハメッド・ベーダード
日本公開/2010年8月7日
ジャンル/[青春] [ドラマ] [音楽]
映画ブログ
tag : バフマン・ゴバディ
『カラフル』 行き先はどこでもいいのか?
【ネタバレ注意】
『カラフル』のエンディングで、THE BLUE HEARTS の名曲『青空』のカバーが流れる。
その歌詞には、こんな一節がある。
運転手さん そのバスに
僕も乗っけて くれないか
行き先なら どこでもいい
エンディングを聴きながら、映画のシーンの数々が思い出された。
特にこの一節は、『青空』という曲と映画『カラフル』がもっともシンクロするところだろう。
劇中でコバヤシマコトである「ぼく」が、クラスメートと玉川電鉄の跡をたどるシークエンスがある。
マコトは、玉川電鉄には興味ないし、砧線の跡を歩くつもりもなかったが、そのときのマコトには行き先なんかどこでもよかった。
一緒に歩くことが大事だった。
将来の進路だって、マコトとしてはどこでもいいのだ。
どこに行くかではなく、誰かが乗っているバスに、マコトも一緒に乗りたいのだ。
それだけなのだ。
それが叶うだけで、生きていける。
『青空』は、アパルトヘイト(人種隔離政策)を取り上げた曲だという。
アパルトヘイト下では、黒人は白人とバスに同乗できなかったのだ。
しかし人間は、白いだけでも黒いだけでもない。
外見も内面もカラフルなのだ。
『青空』は、映画『カラフル』のエンディングを飾るのに相応しい曲である。
本作は、サンライズ社長の内田健二氏が仕掛けたそうだ。
原作者・森絵都氏の本が好きで全部読んでいる内田健二氏は、原恵一監督なら小説『カラフル』を優れたアニメ映画にできると確信したのだろう。
その原恵一監督がシナリオを依頼したのは、ベテランの丸尾みほ氏である。
実は私が『カラフル』を観に行ったのは、シナリオが丸尾みほ氏だからだ。
『カラフル』は、タイトルに相反して地味なエピソードが続くのに、丸尾みほ氏はそこから緊張感あるドラマを紡ぎ出す。
徹頭徹尾、地味なエピソードは、ハッピーエンドのハードルが低い。
何を食べたとか、何を着たとか、私たちの日常ではそんなことがハッピーなのだ。
ところが、その低いハードルを越えるのが、いかに難しいかを、この作品は丹念に描き出す。
原恵一監督は語る。
---
昔自分が観て感動した映画は、きれいな答えなんか出てない映画だったような気がするんです。いつの間にか、白黒つけるとか、善悪ハッキリとか、そういう方向に作品のつくり方が流れてきたような気がするんですよね。
(略)
だから、みんながハッピーで終わるような映画って、結局どっか無理があるつくりをしてるんじゃないかなって思うんですよね。嘘くさいというかね。それを僕はあんまり真剣につくれないな。
「それだけじゃないでしょう」っていう思いはありますよね。
---
物語の行き先も、カラフルということか。
それは、必ずしも華やかなわけではないが、それが私たちの物語なのだ。
『カラフル』 [か行]
監督/原恵一 脚本/丸尾みほ 原作/森絵都
出演/冨澤風斗 宮崎あおい 南明奈 まいける 入江甚儀 中尾明慶 麻生久美子 高橋克実
日本公開/2010年8月21日
ジャンル/[ドラマ] [ファンタジー]
映画ブログ
『カラフル』のエンディングで、THE BLUE HEARTS の名曲『青空』のカバーが流れる。
その歌詞には、こんな一節がある。
運転手さん そのバスに
僕も乗っけて くれないか
行き先なら どこでもいい
エンディングを聴きながら、映画のシーンの数々が思い出された。
特にこの一節は、『青空』という曲と映画『カラフル』がもっともシンクロするところだろう。
劇中でコバヤシマコトである「ぼく」が、クラスメートと玉川電鉄の跡をたどるシークエンスがある。
マコトは、玉川電鉄には興味ないし、砧線の跡を歩くつもりもなかったが、そのときのマコトには行き先なんかどこでもよかった。
一緒に歩くことが大事だった。
将来の進路だって、マコトとしてはどこでもいいのだ。
どこに行くかではなく、誰かが乗っているバスに、マコトも一緒に乗りたいのだ。
それだけなのだ。
それが叶うだけで、生きていける。
『青空』は、アパルトヘイト(人種隔離政策)を取り上げた曲だという。
アパルトヘイト下では、黒人は白人とバスに同乗できなかったのだ。
しかし人間は、白いだけでも黒いだけでもない。
外見も内面もカラフルなのだ。
『青空』は、映画『カラフル』のエンディングを飾るのに相応しい曲である。
本作は、サンライズ社長の内田健二氏が仕掛けたそうだ。
原作者・森絵都氏の本が好きで全部読んでいる内田健二氏は、原恵一監督なら小説『カラフル』を優れたアニメ映画にできると確信したのだろう。
その原恵一監督がシナリオを依頼したのは、ベテランの丸尾みほ氏である。
実は私が『カラフル』を観に行ったのは、シナリオが丸尾みほ氏だからだ。
『カラフル』は、タイトルに相反して地味なエピソードが続くのに、丸尾みほ氏はそこから緊張感あるドラマを紡ぎ出す。
徹頭徹尾、地味なエピソードは、ハッピーエンドのハードルが低い。
何を食べたとか、何を着たとか、私たちの日常ではそんなことがハッピーなのだ。
ところが、その低いハードルを越えるのが、いかに難しいかを、この作品は丹念に描き出す。
原恵一監督は語る。
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昔自分が観て感動した映画は、きれいな答えなんか出てない映画だったような気がするんです。いつの間にか、白黒つけるとか、善悪ハッキリとか、そういう方向に作品のつくり方が流れてきたような気がするんですよね。
(略)
だから、みんながハッピーで終わるような映画って、結局どっか無理があるつくりをしてるんじゃないかなって思うんですよね。嘘くさいというかね。それを僕はあんまり真剣につくれないな。
「それだけじゃないでしょう」っていう思いはありますよね。
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物語の行き先も、カラフルということか。
それは、必ずしも華やかなわけではないが、それが私たちの物語なのだ。
![カラフル 【通常版】 [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/51RmkFwWUkL._SL160_.jpg)
監督/原恵一 脚本/丸尾みほ 原作/森絵都
出演/冨澤風斗 宮崎あおい 南明奈 まいける 入江甚儀 中尾明慶 麻生久美子 高橋克実
日本公開/2010年8月21日
ジャンル/[ドラマ] [ファンタジー]
映画ブログ
『キャタピラー』 私たちが拝むのは?
【ネタバレ注意】
江戸川乱歩の『芋虫』とドルトン・トランボの『ジョニーは戦場へ行った』をモチーフにしたという『キャタピラー』には、戦争をやりたい人、戦争に熱心だった人たちがたくさん出てくる。
なかでも滑稽なのが、「大日本国防婦人会」と書いたタスキを付けた主婦たちだ。
藤井忠俊著『国防婦人会―日の丸とカッポウ着』のタイトルどおり、カッポウ着姿の主婦たちが、槍で敵兵を突き刺す訓練や、バケツリレーで消火する練習を繰り返している。
しかし相手は爆撃機や戦闘機なのだから、それは滑稽で、バカバカしい。
けれども本人たちは大真面目である。
他にも、出征する村人を称える老人たちや、傷痍軍人に敬意を表する少年たち等、みんなが戦争遂行のために惜しみなく協力している様子が描かれる。
山岡淳一郎氏は、加藤陽子著『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』に関連してこう述べている。
---
無謀な指導者が国民を誤った方向に導いたから戦争が起きた、とよく説明されるのですが、当時の史料を丹念に当たると、国民の側から「戦争」を望むことが多くあったことが見えてくる。もちろん、軍部による世論誘導などもあるわけですが、徴兵制と軍事予算という形で、自らの「参加」意識」が高かった当時の国民が、当然の権利として戦争の対価を求めるという構図もある。戦争をひとにぎりの他人のせいにしていては、同じ罠にはまりますよ、という加藤先生の声が聞こえてくるようです。
---
『キャタピラー』では、国民が戦争をする気満々である理由の一端が垣間見える。
それは、戦場から戻った久蔵への、村人の接し方を見れば明らかだろう。
戦争のために四肢を失い、話すことも聞くこともできない久蔵は、軍神さまと祭り上げられる。旧知の村人も、軍神さまになった久蔵に手を合わせて拝む。
ついこの前まで同じ村人だった者を拝むなんておかしなことだが、日本ではそれほど奇妙ではない。
なにしろ、日本では普通の人間が神様になれるのだ。
たとえば徳川家康は東照大権現として日光東照宮に祀られているし、菅原道真は天満天神として大宰府等に祀られている。徳川家康にしろ菅原道真にしろ、卵から生まれたわけでも処女懐胎により生まれたわけでもなく、ただの人間のはずなのだが、毎年多くの参拝客を集めている。
そもそも日本では死ねば「仏」と呼んでもらえる。仏とはすなわち仏陀(ゴータマ・シッダッタ)を指すはずなのに、日本では死ねば誰でも成仏してしまう。
だから、勲章を3つも貰った久蔵は、山村の人々からすれば充分に神様の資格がある。
そして村人から拝まれる久蔵にも、崇拝するものがある。
芋虫のように転がるだけの彼が毎日見つめているのは、自分の武勲を称える新聞記事と、3つの勲章と、天皇・皇后の写真である。
それは彼にとって聖書であり十字架でありイコン(icon)である。
日本軍の勝利の知らせは、耳に心地よい聖歌である。
彼や村人にとって戦争は聖戦であり、イスラームのジハードにも等しい。
すなわち、先の大戦において日本人を駆り立てたのは、宗教的熱狂と云えるのではないか。
今も日本人は信心深い。
たとえば日本では、宗教的儀式として全人口の78%が宗教施設にいっせいに集まる。誰に強制されたわけでもなく、罰則があるわけでもないのに、神社仏閣を目指さずにはいられない。たいへん信心深いことだが、生活の中にすっかり根を下ろしているため、人々は宗教的儀式を行っている自覚すらない。
日本特有のこの儀式を、初詣という。
久蔵は、日本の敗戦とともに、みずからの命を絶つ。
戦争によって神になった彼には、戦争が必要なのだ。日本が勝利し続ける戦争が。
日本が敗戦したとき、自害した人々がいたようである。『私は貝になりたい』でも、主人公の上官が自害する。
彼らはなぜ死んだのか?
戦争を遂行した責任を感じて?
自分だけ生き残るのは、死んだ者に申し訳ないから?
いや、宗教的な熱狂により戦争していた者たちが、最後に選ぶのは殉教ではないだろうか。
映画『キャタピラー』が描くのは、神の誕生と没落だ。
軍神さまとして村人から拝まれた久蔵の内実は、食べて寝て、女の体を求めるだけの存在だった。
彼があがめた聖書も十字架もイコンも、同じように中身がなかったのかも知れない。
本作に登場する人物の中で、唯一空気を読まずに、自由に振る舞うのが篠原勝之さん演じる村人だ。
軍神さまの武勲を称える集会でも、軍神さまの帽子を取り上げて、その場の滑稽さを茶化してみせる。
戦争が終われば素直に喜び、駆け回る。
村人たちは彼をバカだと思って相手にしないが。
若松孝二監督は、彼のような人が実際にいたと語る。
---
クマさんこと、篠原勝之も本作に出演。篠原が演じるのは、ちょっと脳に障害があるような役。若松監督は「終戦時に小学生だったが、その頃、近所にああいう人がいて、障害があるので兵隊に召集されないが、終戦になった途端、普通の人になっていた」と語ると、「たまたま新宿でよく行く飲み屋にいたらクマが入ってきて、顔を見た瞬間、そのことを思い出した。そこで台本にはなかったが、ちょうどいい(笑)」と出演までの経緯を振り返った。
---
『キャタピラー』 [か行]
監督/若松孝二 脚本/黒沢久子、出口出
出演/寺島しのぶ 大西信満 吉澤健 粕谷佳五 増田恵美 地曵豪 ARATA 篠原勝之
日本公開/2010年8月14日
ジャンル/[ドラマ] [戦争]
http://bookmarks.yahoo.co.jp/bookmarklet/showpopup?t='+encodeURIComponent(document.title)+'&u='+encodeURIComponent(location.href)+'&ei=UTF-8','_blank','width=550,height=480,left=100,top=50,scrollbars=1,resizable=1',0);">
江戸川乱歩の『芋虫』とドルトン・トランボの『ジョニーは戦場へ行った』をモチーフにしたという『キャタピラー』には、戦争をやりたい人、戦争に熱心だった人たちがたくさん出てくる。
なかでも滑稽なのが、「大日本国防婦人会」と書いたタスキを付けた主婦たちだ。
藤井忠俊著『国防婦人会―日の丸とカッポウ着』のタイトルどおり、カッポウ着姿の主婦たちが、槍で敵兵を突き刺す訓練や、バケツリレーで消火する練習を繰り返している。
しかし相手は爆撃機や戦闘機なのだから、それは滑稽で、バカバカしい。
けれども本人たちは大真面目である。
他にも、出征する村人を称える老人たちや、傷痍軍人に敬意を表する少年たち等、みんなが戦争遂行のために惜しみなく協力している様子が描かれる。
山岡淳一郎氏は、加藤陽子著『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』に関連してこう述べている。
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無謀な指導者が国民を誤った方向に導いたから戦争が起きた、とよく説明されるのですが、当時の史料を丹念に当たると、国民の側から「戦争」を望むことが多くあったことが見えてくる。もちろん、軍部による世論誘導などもあるわけですが、徴兵制と軍事予算という形で、自らの「参加」意識」が高かった当時の国民が、当然の権利として戦争の対価を求めるという構図もある。戦争をひとにぎりの他人のせいにしていては、同じ罠にはまりますよ、という加藤先生の声が聞こえてくるようです。
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『キャタピラー』では、国民が戦争をする気満々である理由の一端が垣間見える。
それは、戦場から戻った久蔵への、村人の接し方を見れば明らかだろう。
戦争のために四肢を失い、話すことも聞くこともできない久蔵は、軍神さまと祭り上げられる。旧知の村人も、軍神さまになった久蔵に手を合わせて拝む。
ついこの前まで同じ村人だった者を拝むなんておかしなことだが、日本ではそれほど奇妙ではない。
なにしろ、日本では普通の人間が神様になれるのだ。
たとえば徳川家康は東照大権現として日光東照宮に祀られているし、菅原道真は天満天神として大宰府等に祀られている。徳川家康にしろ菅原道真にしろ、卵から生まれたわけでも処女懐胎により生まれたわけでもなく、ただの人間のはずなのだが、毎年多くの参拝客を集めている。
そもそも日本では死ねば「仏」と呼んでもらえる。仏とはすなわち仏陀(ゴータマ・シッダッタ)を指すはずなのに、日本では死ねば誰でも成仏してしまう。
だから、勲章を3つも貰った久蔵は、山村の人々からすれば充分に神様の資格がある。
そして村人から拝まれる久蔵にも、崇拝するものがある。
芋虫のように転がるだけの彼が毎日見つめているのは、自分の武勲を称える新聞記事と、3つの勲章と、天皇・皇后の写真である。
それは彼にとって聖書であり十字架でありイコン(icon)である。
日本軍の勝利の知らせは、耳に心地よい聖歌である。
彼や村人にとって戦争は聖戦であり、イスラームのジハードにも等しい。
すなわち、先の大戦において日本人を駆り立てたのは、宗教的熱狂と云えるのではないか。
今も日本人は信心深い。
たとえば日本では、宗教的儀式として全人口の78%が宗教施設にいっせいに集まる。誰に強制されたわけでもなく、罰則があるわけでもないのに、神社仏閣を目指さずにはいられない。たいへん信心深いことだが、生活の中にすっかり根を下ろしているため、人々は宗教的儀式を行っている自覚すらない。
日本特有のこの儀式を、初詣という。
久蔵は、日本の敗戦とともに、みずからの命を絶つ。
戦争によって神になった彼には、戦争が必要なのだ。日本が勝利し続ける戦争が。
日本が敗戦したとき、自害した人々がいたようである。『私は貝になりたい』でも、主人公の上官が自害する。
彼らはなぜ死んだのか?
戦争を遂行した責任を感じて?
自分だけ生き残るのは、死んだ者に申し訳ないから?
いや、宗教的な熱狂により戦争していた者たちが、最後に選ぶのは殉教ではないだろうか。
映画『キャタピラー』が描くのは、神の誕生と没落だ。
軍神さまとして村人から拝まれた久蔵の内実は、食べて寝て、女の体を求めるだけの存在だった。
彼があがめた聖書も十字架もイコンも、同じように中身がなかったのかも知れない。
本作に登場する人物の中で、唯一空気を読まずに、自由に振る舞うのが篠原勝之さん演じる村人だ。
軍神さまの武勲を称える集会でも、軍神さまの帽子を取り上げて、その場の滑稽さを茶化してみせる。
戦争が終われば素直に喜び、駆け回る。
村人たちは彼をバカだと思って相手にしないが。
若松孝二監督は、彼のような人が実際にいたと語る。
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クマさんこと、篠原勝之も本作に出演。篠原が演じるのは、ちょっと脳に障害があるような役。若松監督は「終戦時に小学生だったが、その頃、近所にああいう人がいて、障害があるので兵隊に召集されないが、終戦になった途端、普通の人になっていた」と語ると、「たまたま新宿でよく行く飲み屋にいたらクマが入ってきて、顔を見た瞬間、そのことを思い出した。そこで台本にはなかったが、ちょうどいい(笑)」と出演までの経緯を振り返った。
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![キャタピラー [DVD]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/51A6Dx5fDxL._SL160_.jpg)
監督/若松孝二 脚本/黒沢久子、出口出
出演/寺島しのぶ 大西信満 吉澤健 粕谷佳五 増田恵美 地曵豪 ARATA 篠原勝之
日本公開/2010年8月14日
ジャンル/[ドラマ] [戦争]

