『ギャラクティカ』と『クローン・ウォーズ』の葛藤に引き裂かれる人
【ネタバレ注意】
望ましい政治家は「葛藤に引き裂かれている人」だ。
内田樹氏の意見である。
---
政治家といえども人間である。個人的信念があり、価値観があり、審美的好悪がある。これはその人の「私」の部分である。
それに対して、政治家には「民意を代表して、国益を最大化する」という義務がある。
「民意」のうちには政治家個人の信念や価値観や嗜好とあきらかに異質なものが含まれている。
自分自身の政治的信念と背馳するような政治的信念をもっている人間であれ、その人が法制上の「国民」である限り、政治家はそのような人の意向をも代表せねばならない。
この仕事は決して愉快なものではない。
だから、私は統治者というのは「苦虫を噛み潰したような顔」になり、言うことはもごもごと口ごもり、さっぱりクリアーカットにならない、というのが「ふつう」だと思っている。
---
木村拓哉演じる内閣総理大臣・朝倉啓太の活躍を描いた『CHANGE』は、民放ドラマでは珍しく政界を取り上げた意欲作だったが、葛藤については物足りなかった。
視聴者としては、「小児科医が足りなくて死にかけている目の前の子供」と「生活のために公共事業投資を求めている見知らぬ人たち」のどちらに配慮するか、その葛藤を見たかったのだが、朝倉総理はためらわずに小児科医対策の予算を増やそうとする。
これは、池田信夫氏が「古い脳」と呼んだ思考だろう。
---
みのもんたが代表しているのは、感情をつかさどる「古い脳」である。同情は、人類の歴史の99%以上を占める小集団による狩猟社会においては、集団を維持する上できわめて重要なメカニズムだ。感情は小集団に適応しているので、「高金利をとられる人はかわいそうだ」といった少数の個人に対する同情は強いが、規制強化で市場から弾き出される数百万人の被害を感じることはできない。
---
ドラマの朝倉総理も、「新しい脳」(論理や言語などをつかさどる新皮質)ではなく、進化の早い段階でできた「古い脳」(感情や意欲などをつかさどる辺縁系)で行動してしまう。
『CHANGE』の脚本家福田靖氏が、同じく脚本を担当した映画『海猿』では、遭難者を救うために、教官が規則を破って潜水士でもない人間を救助に向かわせる。
これでは救助側も二次遭難するおそれがあるので、本来は遭難者を見捨てるという辛い選択をしなければならない。しかし教官は、遭難者を助けたいという感情に流されてしまうのだ。
映画は、みんな助かって、めでたしめでたし。教官はおとがめなしだ。
面白い映画だが、福田靖氏の脚本は、「新しい脳」を無視して「古い脳」だけを刺激する(論理的思考を停止させ、感情だけを揺さぶる)のが特徴と云える。
福田靖氏の作品に限らず、日本のドラマや映画は、観客の感情に訴えることを重視するものが多い。
というより、感情に働きかけてこそ評価が高まるようだ。
この点、米国のドラマ『バトルスター・ギャラクティカ』は違う。
メアリー・マクドネル演じるローラ・ロズリン大統領は、5万人を救うために、親しい少女が乗っている宇宙船を見捨てる。そういう決断を迫られる場面がしばしば出てくる。
「大の虫を生かして小の虫を殺す」ということわざがある。
嫌な権力者がこういうセリフを口にして、でも熱血主人公が"小の虫"を助けに行って無事救出……なんて展開が、日本では歓迎されそうだ。
しかし『バトルスター・ギャラクティカ』では、決して、あっちもこっちも救えるなんて虫がいい展開にはならない。
もちろん大統領は苦悩する。苦悩を抱え込んだまま、大統領はまた次の決断を下さねばならない。
私は『バトルスター・ギャラクティカ』を見て、日米の違いに愕然とした。
『バトルスター・ギャラクティカ』には、喜怒哀楽といった感情を揺さぶられることがほとんどない。
泣かせたり笑わせたりではなく、引き裂かれるような葛藤で「新しい脳」を直撃するドラマなのだ。
その素晴らしさは、もちろんドラマの作り手の功績だが、このドラマに数々の賞を与え、葛藤に付き合い続ける視聴者もたいしたものだ。
大人向けの『バトルスター・ギャラクティカ』ばかりではない。
アニメ映画『スター・ウォーズ/クローン・ウォーズ』では、主人公アナキンが任務達成のために部下を見殺しにする。
アナキンはなんとしてでも目の前の部下を救いたいのだが、部下を救っていたら任務を達成できない。任務を達成しなければ、共和国に重大な脅威が生じる。部下の窮地を目にしつつも、同時に将来の脅威の大きさを推論できるから、アナキンは歯を食いしばって「すまない、助けにいけない。」と部下に伝える。
その葛藤を描くから、アナキンの逞しさが強調される。
『スター・ウォーズ/クローン・ウォーズ』は、激しいアクションや愉快な会話で「古い脳」を楽しませつつ、「新しい脳」にもしっかり刺激を与えているのだ。
「大の虫を生かして小の虫を殺す」という言葉には、一方を殺しても他方は痛みを感じないかのようなニュアンスがある。そこには、なんだか大小二種類の虫のどちらを生かすか選択の自由があるかのように思える。さらに、頑張れば両方救えるという甘さが忍び込みかねない。
しかし該当する英語のことわざは、"Lose a leg rather than a life."
"命が惜しくば足を切れ"
選択の余地なんかないのである。
『ギャラクティカ』 [か行][テレビ]
制作総指揮・企画・脚本/ロナルド・D・ムーア 制作総指揮/デヴィッド・エイック
監督/マイケル・ライマー 撮影/ジョエル・ランサム 音楽/リチャード・ギブス、ベア・マクレアリー
出演/エドワード・ジェームズ・オルモス メアリー・マクドネル ジェイミー・バンバー ジェームズ・キャリス ケイティー・サッコフ グレイス・パーク マイケル・ホーガン
日本公開/2008年1月9日
ジャンル/[SF] [アドベンチャー]
『スター・ウォーズ/クローン・ウォーズ』 [さ行]
監督/デイヴ・フィローニ 制作総指揮・原案/ジョージ・ルーカス
出演/マット・ランター ジェームズ・アーノルド・テイラー アンソニー・ダニエルズ クリストファー・リー
日本公開/2008年8月23日
ジャンル/[SF] [アクション] [アドベンチャー]
http://bookmarks.yahoo.co.jp/bookmarklet/showpopup?t='+encodeURIComponent(document.title)+'&u='+encodeURIComponent(location.href)+'&ei=UTF-8','_blank','width=550,height=480,left=100,top=50,scrollbars=1,resizable=1',0);">
望ましい政治家は「葛藤に引き裂かれている人」だ。
内田樹氏の意見である。
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政治家といえども人間である。個人的信念があり、価値観があり、審美的好悪がある。これはその人の「私」の部分である。
それに対して、政治家には「民意を代表して、国益を最大化する」という義務がある。
「民意」のうちには政治家個人の信念や価値観や嗜好とあきらかに異質なものが含まれている。
自分自身の政治的信念と背馳するような政治的信念をもっている人間であれ、その人が法制上の「国民」である限り、政治家はそのような人の意向をも代表せねばならない。
この仕事は決して愉快なものではない。
だから、私は統治者というのは「苦虫を噛み潰したような顔」になり、言うことはもごもごと口ごもり、さっぱりクリアーカットにならない、というのが「ふつう」だと思っている。
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木村拓哉演じる内閣総理大臣・朝倉啓太の活躍を描いた『CHANGE』は、民放ドラマでは珍しく政界を取り上げた意欲作だったが、葛藤については物足りなかった。
視聴者としては、「小児科医が足りなくて死にかけている目の前の子供」と「生活のために公共事業投資を求めている見知らぬ人たち」のどちらに配慮するか、その葛藤を見たかったのだが、朝倉総理はためらわずに小児科医対策の予算を増やそうとする。
これは、池田信夫氏が「古い脳」と呼んだ思考だろう。
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みのもんたが代表しているのは、感情をつかさどる「古い脳」である。同情は、人類の歴史の99%以上を占める小集団による狩猟社会においては、集団を維持する上できわめて重要なメカニズムだ。感情は小集団に適応しているので、「高金利をとられる人はかわいそうだ」といった少数の個人に対する同情は強いが、規制強化で市場から弾き出される数百万人の被害を感じることはできない。
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ドラマの朝倉総理も、「新しい脳」(論理や言語などをつかさどる新皮質)ではなく、進化の早い段階でできた「古い脳」(感情や意欲などをつかさどる辺縁系)で行動してしまう。
『CHANGE』の脚本家福田靖氏が、同じく脚本を担当した映画『海猿』では、遭難者を救うために、教官が規則を破って潜水士でもない人間を救助に向かわせる。
これでは救助側も二次遭難するおそれがあるので、本来は遭難者を見捨てるという辛い選択をしなければならない。しかし教官は、遭難者を助けたいという感情に流されてしまうのだ。
映画は、みんな助かって、めでたしめでたし。教官はおとがめなしだ。
面白い映画だが、福田靖氏の脚本は、「新しい脳」を無視して「古い脳」だけを刺激する(論理的思考を停止させ、感情だけを揺さぶる)のが特徴と云える。
福田靖氏の作品に限らず、日本のドラマや映画は、観客の感情に訴えることを重視するものが多い。
というより、感情に働きかけてこそ評価が高まるようだ。
この点、米国のドラマ『バトルスター・ギャラクティカ』は違う。
メアリー・マクドネル演じるローラ・ロズリン大統領は、5万人を救うために、親しい少女が乗っている宇宙船を見捨てる。そういう決断を迫られる場面がしばしば出てくる。
「大の虫を生かして小の虫を殺す」ということわざがある。
嫌な権力者がこういうセリフを口にして、でも熱血主人公が"小の虫"を助けに行って無事救出……なんて展開が、日本では歓迎されそうだ。
しかし『バトルスター・ギャラクティカ』では、決して、あっちもこっちも救えるなんて虫がいい展開にはならない。
もちろん大統領は苦悩する。苦悩を抱え込んだまま、大統領はまた次の決断を下さねばならない。
私は『バトルスター・ギャラクティカ』を見て、日米の違いに愕然とした。
『バトルスター・ギャラクティカ』には、喜怒哀楽といった感情を揺さぶられることがほとんどない。
泣かせたり笑わせたりではなく、引き裂かれるような葛藤で「新しい脳」を直撃するドラマなのだ。
その素晴らしさは、もちろんドラマの作り手の功績だが、このドラマに数々の賞を与え、葛藤に付き合い続ける視聴者もたいしたものだ。
![スター・ウォーズ/クローン・ウォーズ [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/91-T5idtVyL._SL160_.jpg)
アニメ映画『スター・ウォーズ/クローン・ウォーズ』では、主人公アナキンが任務達成のために部下を見殺しにする。
アナキンはなんとしてでも目の前の部下を救いたいのだが、部下を救っていたら任務を達成できない。任務を達成しなければ、共和国に重大な脅威が生じる。部下の窮地を目にしつつも、同時に将来の脅威の大きさを推論できるから、アナキンは歯を食いしばって「すまない、助けにいけない。」と部下に伝える。
その葛藤を描くから、アナキンの逞しさが強調される。
『スター・ウォーズ/クローン・ウォーズ』は、激しいアクションや愉快な会話で「古い脳」を楽しませつつ、「新しい脳」にもしっかり刺激を与えているのだ。
「大の虫を生かして小の虫を殺す」という言葉には、一方を殺しても他方は痛みを感じないかのようなニュアンスがある。そこには、なんだか大小二種類の虫のどちらを生かすか選択の自由があるかのように思える。さらに、頑張れば両方救えるという甘さが忍び込みかねない。
しかし該当する英語のことわざは、"Lose a leg rather than a life."
"命が惜しくば足を切れ"
選択の余地なんかないのである。
![GALACTICA/ギャラクティカ シーズン1 ブルーレイBOX [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/516Sz%2BtAcbL._SL160_.jpg)
制作総指揮・企画・脚本/ロナルド・D・ムーア 制作総指揮/デヴィッド・エイック
監督/マイケル・ライマー 撮影/ジョエル・ランサム 音楽/リチャード・ギブス、ベア・マクレアリー
出演/エドワード・ジェームズ・オルモス メアリー・マクドネル ジェイミー・バンバー ジェームズ・キャリス ケイティー・サッコフ グレイス・パーク マイケル・ホーガン
日本公開/2008年1月9日
ジャンル/[SF] [アドベンチャー]
『スター・ウォーズ/クローン・ウォーズ』 [さ行]
監督/デイヴ・フィローニ 制作総指揮・原案/ジョージ・ルーカス
出演/マット・ランター ジェームズ・アーノルド・テイラー アンソニー・ダニエルズ クリストファー・リー
日本公開/2008年8月23日
ジャンル/[SF] [アクション] [アドベンチャー]


【theme : 海外ドラマ】
【genre : テレビ・ラジオ】
tag : ロナルド・D・ムーアエドワード・ジェームズ・オルモスメアリー・マクドネルジョージ・ルーカスデイヴ・フィローニクリストファー・リー
『孤高のメス』 腹の中まで見てください
医療を扱った映画で、手術シーンは珍しくない。
『白い巨塔』の冒頭でも手術シーンがあり、スクリーンに臓器が映し出された。
私は小心物なので、傷口や血を見ると、震え上がってしまう。
『孤高のメス』は地方の病院に務める外科医を主人公にしており、冒頭から手術シーンが続き、画面を見るのが辛かった。
何しろ痛そうだし、うごめく臓器は見ていて気持の良いものではない。
『孤高のメス』が他の映画と異なるのは、手術シーンの多さだ。
カメラは切り開いた腹の中まで克明に捉え、クーパー(ハサミ)の先にある臓器を大写しにする。頻繁に登場する手術シーンは、臓器のアップと医師の扱う手術器具のアップの連続だ。
いくら医療を扱った映画とはいえ、これほど手術シーンが多く、臓器のカットが多い映画は珍しいだろう。
本来、ストーリーの進行を追うだけなら、臓器を大写しにしなくても済むはずだからだ。
しかしこの映画は違う。
この映画では、医師や看護師の苦悩と決断を観客に判らせる必要がある。
観客が、劇中の医師や看護師と、共に悩み、共に苦しみ、同じ気持ちを体験してこそ、その決断に至る心情を共有することができる。
そのために、成島出監督は、医師や看護師が目にしているすべてのものを、観客にも見せることにしたのだ。観客に手術を追体験させることにしたのだ。
手術を克明に描くからこそ、主人公・当麻鉄彦のやったこと、やろうとしていることに観客も納得する。
不思議なことに、当初は見たくなかった臓器のアップも、医師と同じ目線を共有するうちに、真剣に見つめるようになる。
そして、病んで黒ずんだ臓器には痛ましさを感じ、まだピンク色で健康な臓器には美しさを感じようになる。
小心者の私ですら、精緻な臓器に魅せられるようになっていく。
本作は『孤高のメス』と題しているが、孤高とは決して孤独のことではない。
本作で描かれるのは、患者のため、命のため、それを第一に考える当麻医師の気高さと、その気高さが人々に伝播する様子だ。そして伝播した人々によって、今度は孤高のメスが支えられていくのだ。
とはいえ、こんなスーパードクターはフィクションの中だけだと思っていたが、公式サイトにある原作者・大鐘稔彦氏のプロフィールを読んで驚いた。
---
早くより癌の告知問題に取り組み「癌患者のゆりかごから墓場まで」をモットーに、ホスピスを備えた病院を創設、患者の家族に対して手術内容を公開するなど、先駆的医療を心がけている。「エホバの証人」の無輸血手術をはじめ、手がけた手術は約6000件という膨大な手術経験を持つ。現在は淡路島の診療所で僻地医療に従事している。
---
いやはや頭が下がります。
腹を裂いて中の臓器をいじくり回す。
初めは目を背けたい光景だったが、それを実践する人がいて、私たちは命を救われているのだ。
いま改めてそれを思う。
『孤高のメス』 [か行]
監督/成島出 原作/大鐘稔彦
出演/堤真一 夏川結衣 吉沢悠 中越典子 松重豊 成宮寛貴 余貴美子 生瀬勝久 柄本明
日本公開/2010年6月5日
ジャンル/[ドラマ]
http://bookmarks.yahoo.co.jp/bookmarklet/showpopup?t='+encodeURIComponent(document.title)+'&u='+encodeURIComponent(location.href)+'&ei=UTF-8','_blank','width=550,height=480,left=100,top=50,scrollbars=1,resizable=1',0);">
『白い巨塔』の冒頭でも手術シーンがあり、スクリーンに臓器が映し出された。
私は小心物なので、傷口や血を見ると、震え上がってしまう。
『孤高のメス』は地方の病院に務める外科医を主人公にしており、冒頭から手術シーンが続き、画面を見るのが辛かった。
何しろ痛そうだし、うごめく臓器は見ていて気持の良いものではない。
『孤高のメス』が他の映画と異なるのは、手術シーンの多さだ。
カメラは切り開いた腹の中まで克明に捉え、クーパー(ハサミ)の先にある臓器を大写しにする。頻繁に登場する手術シーンは、臓器のアップと医師の扱う手術器具のアップの連続だ。
いくら医療を扱った映画とはいえ、これほど手術シーンが多く、臓器のカットが多い映画は珍しいだろう。
本来、ストーリーの進行を追うだけなら、臓器を大写しにしなくても済むはずだからだ。
しかしこの映画は違う。
この映画では、医師や看護師の苦悩と決断を観客に判らせる必要がある。
観客が、劇中の医師や看護師と、共に悩み、共に苦しみ、同じ気持ちを体験してこそ、その決断に至る心情を共有することができる。
そのために、成島出監督は、医師や看護師が目にしているすべてのものを、観客にも見せることにしたのだ。観客に手術を追体験させることにしたのだ。
手術を克明に描くからこそ、主人公・当麻鉄彦のやったこと、やろうとしていることに観客も納得する。
不思議なことに、当初は見たくなかった臓器のアップも、医師と同じ目線を共有するうちに、真剣に見つめるようになる。
そして、病んで黒ずんだ臓器には痛ましさを感じ、まだピンク色で健康な臓器には美しさを感じようになる。
小心者の私ですら、精緻な臓器に魅せられるようになっていく。
本作は『孤高のメス』と題しているが、孤高とは決して孤独のことではない。
本作で描かれるのは、患者のため、命のため、それを第一に考える当麻医師の気高さと、その気高さが人々に伝播する様子だ。そして伝播した人々によって、今度は孤高のメスが支えられていくのだ。
とはいえ、こんなスーパードクターはフィクションの中だけだと思っていたが、公式サイトにある原作者・大鐘稔彦氏のプロフィールを読んで驚いた。
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早くより癌の告知問題に取り組み「癌患者のゆりかごから墓場まで」をモットーに、ホスピスを備えた病院を創設、患者の家族に対して手術内容を公開するなど、先駆的医療を心がけている。「エホバの証人」の無輸血手術をはじめ、手がけた手術は約6000件という膨大な手術経験を持つ。現在は淡路島の診療所で僻地医療に従事している。
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いやはや頭が下がります。
腹を裂いて中の臓器をいじくり回す。
初めは目を背けたい光景だったが、それを実践する人がいて、私たちは命を救われているのだ。
いま改めてそれを思う。
![孤高のメス [DVD]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/41CWnWjnvtL._SL160_.jpg)
監督/成島出 原作/大鐘稔彦
出演/堤真一 夏川結衣 吉沢悠 中越典子 松重豊 成宮寛貴 余貴美子 生瀬勝久 柄本明
日本公開/2010年6月5日
ジャンル/[ドラマ]


『春との旅』 手帳の住所は正しいか?
【ネタバレ注意】
観客の年齢層は高かった。
老人が自分の居場所を探す『春との旅』について、読売新聞では「頑固老人と家族の絆」と題して、「現代の姨捨(おばすて)物語、小林政広監督版「楢山節考」」と評している。
孫娘・春と祖父・忠男の旅を綴ったこのロードムービーは、たしかに幾人もの老人が登場する。観客に高齢者が多いのも、本作が高齢化社会を取り上げた作品だと目されたからかも知れない。
しかし本作は、老人や家族を話の中心に置きながら、何よりも人生を描いている。
年老いた祖父が兄弟を訪ねて回る様子は、『東京物語』を彷彿とさせる。
『東京物語』では、老いた父母が、今は独立している子供たちを訪ねて回る。子供たちは一応父母を受け入れるものの、内心は迷惑している。
しかし『春との旅』では内心どころか最初から受け付けない。兄弟たちはみな、忠男にとっとと帰ってもらいたいのだ。
この点で、本作は『東京物語』から更に進んだ状況を描いている。
血の繋がった家族といえども、大人の甘えは許されない。みんな自己責任でどうにかこうにか暮らしているのであり、忠男が兄弟を頼らざるを得ない境遇に陥ったのも、自己責任であると喝破される。
兄弟たちが歓迎してくれるとは期待していなかった忠男だが、ここまで邪険にされるとも思わなかったろう。
そして兄弟に逢うたびに、彼らが精神的・金銭的な余裕を持ち合わせない姿を見て、自分も彼らのことを何も判っていなかったことを知る。
「過ちって、一生償えないのかな…。」
春が泣きながら漏らす言葉である。
忠男が、住所を書いた手帳を頼りに訪ね歩く様は、あたかもジュリアン・デュヴィヴィエ監督の『舞踏会の手帖』である。
『舞踏会の手帖』では、踊りの相手を20年ぶりに訪ね歩いた女性が、男性たちの意外なその後に打ちのめされる。
『春との旅』でも、はじめこそ観客の関心は忠男に向けられているものの、やがて兄弟たちの知られざる人生模様に固唾を呑むことになる。
「ひとんちのことに口を出さないでくれ。」
自殺した娘を責める兄に対して、忠男は云い返す。
だが忠男が反論するのと同じ様に、どの家にも当事者にしか判らないことがあるのだ。
何年も会っておらず、他人も同然に疎遠になっていた者が、それぞれの家の事情を垣間見るのは辛い。
そして、自分の居場所を探していた忠男は、いつしか遠くを探したって居場所なんか見つからないことを悟る。
さながら、青い鳥が、本当は近くにいたように。
だが、方々を探し歩いたからこそ、青い鳥が近くにいることに気づけるのだ。
人はしばしば、青い鳥を見つけることなく、人生を終えてしまうのかもしれないが。
『春との旅』 [は行]
監督・原作・脚本・アソシエイトプロデューサー/小林政広 撮影/高間賢治
出演/仲代達矢 徳永えり 大滝秀治 菅井きん 小林薫 田中裕子 淡島千景 柄本明 美保純 戸田菜穂 香川照之
日本公開/2010年5月22日
ジャンル/[ドラマ]
http://bookmarks.yahoo.co.jp/bookmarklet/showpopup?t='+encodeURIComponent(document.title)+'&u='+encodeURIComponent(location.href)+'&ei=UTF-8','_blank','width=550,height=480,left=100,top=50,scrollbars=1,resizable=1',0);">
観客の年齢層は高かった。
老人が自分の居場所を探す『春との旅』について、読売新聞では「頑固老人と家族の絆」と題して、「現代の姨捨(おばすて)物語、小林政広監督版「楢山節考」」と評している。
孫娘・春と祖父・忠男の旅を綴ったこのロードムービーは、たしかに幾人もの老人が登場する。観客に高齢者が多いのも、本作が高齢化社会を取り上げた作品だと目されたからかも知れない。
しかし本作は、老人や家族を話の中心に置きながら、何よりも人生を描いている。
年老いた祖父が兄弟を訪ねて回る様子は、『東京物語』を彷彿とさせる。
『東京物語』では、老いた父母が、今は独立している子供たちを訪ねて回る。子供たちは一応父母を受け入れるものの、内心は迷惑している。
しかし『春との旅』では内心どころか最初から受け付けない。兄弟たちはみな、忠男にとっとと帰ってもらいたいのだ。
この点で、本作は『東京物語』から更に進んだ状況を描いている。
血の繋がった家族といえども、大人の甘えは許されない。みんな自己責任でどうにかこうにか暮らしているのであり、忠男が兄弟を頼らざるを得ない境遇に陥ったのも、自己責任であると喝破される。
兄弟たちが歓迎してくれるとは期待していなかった忠男だが、ここまで邪険にされるとも思わなかったろう。
そして兄弟に逢うたびに、彼らが精神的・金銭的な余裕を持ち合わせない姿を見て、自分も彼らのことを何も判っていなかったことを知る。
「過ちって、一生償えないのかな…。」
春が泣きながら漏らす言葉である。
忠男が、住所を書いた手帳を頼りに訪ね歩く様は、あたかもジュリアン・デュヴィヴィエ監督の『舞踏会の手帖』である。
『舞踏会の手帖』では、踊りの相手を20年ぶりに訪ね歩いた女性が、男性たちの意外なその後に打ちのめされる。
『春との旅』でも、はじめこそ観客の関心は忠男に向けられているものの、やがて兄弟たちの知られざる人生模様に固唾を呑むことになる。
「ひとんちのことに口を出さないでくれ。」
自殺した娘を責める兄に対して、忠男は云い返す。
だが忠男が反論するのと同じ様に、どの家にも当事者にしか判らないことがあるのだ。
何年も会っておらず、他人も同然に疎遠になっていた者が、それぞれの家の事情を垣間見るのは辛い。
そして、自分の居場所を探していた忠男は、いつしか遠くを探したって居場所なんか見つからないことを悟る。
さながら、青い鳥が、本当は近くにいたように。
だが、方々を探し歩いたからこそ、青い鳥が近くにいることに気づけるのだ。
人はしばしば、青い鳥を見つけることなく、人生を終えてしまうのかもしれないが。

監督・原作・脚本・アソシエイトプロデューサー/小林政広 撮影/高間賢治
出演/仲代達矢 徳永えり 大滝秀治 菅井きん 小林薫 田中裕子 淡島千景 柄本明 美保純 戸田菜穂 香川照之
日本公開/2010年5月22日
ジャンル/[ドラマ]


『アイアンマン2』 世界は何を待っている?
実力たっぷりの俳優たちによるノリノリの演技合戦。
それが『アイアンマン2』だ。
ミッキー・ロークはうらぶれた親父がすっかり板についているし、かつて主人公トニー・スターク役の候補だったサム・ロックウェルは仇敵ジャスティン・ハマーをエキセントリックに演じて楽しませてくれる。
グウィネス・パルトローの生真面目な秘書も前作同様魅力的だし、スカーレット・ヨハンソンは法務部のインテリと黒装束のスパイの両面をトボけた顔で演じ分けてみせる。
ジョン・ファヴロー監督も、前作に引き続き運転手のハッピー・ホーガンを演じ、今回はチョイとした見せ場もある。
各俳優のファンはもとより、そうでない人もそれぞれのキャラクターに魅了されることだろう。
そして何といっても見ものなのはトニー・スタークを熱演するロバート・ダウニー・Jrだ。
先端技術を売りにする企業のCEOにして大富豪、みずからも技術者であり、トレードマークのヒゲを欠かさず、スピーチでは雄弁に語るその姿は、劇中でも紹介されるオラクルのラリー・エリソンそのものだ。両手でVサインを繰り返すロバート・ダウニー・Jrは、オーバーアクションのギリギリ手前の楽しい演技で、まるで『フラッシュ・ゴードン』におけるマックス・フォン・シドーの名演技を髣髴とさせる。
このロバート・ダウニー・Jrの演技と相まって、映画全体がトニー・スタークを持ち上げる作りになっている。
トニー・スタークが主人公だから当然といえば当然だが、近年これほどマッチョな主人公も珍しいのではないだろうか。
ここでいうマッチョとは、筋肉隆々の体を指すのではなく、「男らしさ」とか「男性優位主義」のことである。
とりあえずトニー・スタークにも悩みがある。しかしそれは主に健康に関するものであり、スパイダーマンのように生き方に悩んだり、ハルクのように自分の二面性に悩んだりはしない。トニー・スタークは内省的な人物ではないのである。
そして興味深いのは、グウィネス・パルトロー演じるペッパー・ポッツの扱いだ。
トニー・スタークからスターク・インダストリーズの社長の座を譲られた彼女は、意外な昇進に大喜び。
しかし彼女に社長業は重荷すぎて、すぐにキリキリ舞いしてしまう。
『アイアンマン』一作目のペッパー・ポッツは、有能な秘書としていい加減なトニー・スタークを責め立てたが、本作では経営者としてのストレスに耐えきれないことを露呈するのだ。
これはすなわち、長年にわたって社長を務めてきたトニー・スタークが、マッチョで優れていることの証左である。
それにしても、いまどき女性が無能さをあらわにする映画は珍しい。
SF映画における男女の関係に変化が訪れたのは、『スター・ウォーズ』(1977)からだろう。
それまでは、戦うヒーローと助けられるヒロインという図式が一般的だったと思う。
しかし、古典的な冒険活劇や、世界の神話に影響されたというこの作品は、男女の描き方に関しては新鮮だった。世間知らずの田舎の青年と、おきゃんでしっかり者の女性の物語は、ジョージ・ルーカス監督の青春群像劇『アメリカン・グラフィティ』の延長であり、それまでのSF映画にはないものだった。
そして決定的なのが『エイリアン』(1979)である。定石どおりなら悲鳴を上げて逃げ惑うはずのヒロインが、この作品では頼りにならない男たちを尻目に、黙々とモンスターと戦った[*]。
それに続く『エイリアン2』で、ジェームズ・キャメロン監督は最初から戦うヒロインに主眼を置いた。そしてその後もジェームズ・キャメロン監督は、女も男も同じように戦う姿を描き続けた。
こうしてフェミニズムの進展と呼応して映画の中の女性は強くなり、時には主人公として、時にはパートナーとして、男とともに戦った。
マッチョな男性の代表格とも云える007シリーズにおいてすら、007の上司は女性になり、花を添えてた美人秘書のマネーペニーは姿を消した。
それが『アイアンマン2』では、ペッパー・ポッツは社長業をこなしきれなかった。社長なんて、トニー・スタークが抱える幾つかの面の1つでしかないにもかかわらず。
結果として、トニー・スタークこそが、スターク・インダストリーズの社長もスーパーヒーロー・アイアンマンもこなせるマッチョの星であることを強調することになる。
本作の主要登場人物、すなちわ大企業の社長たる主人公、同じく大企業の社長たる仇敵、秘密組織の長官たる支援者がいずれも男性なのは注目だ。
ミッキー・ローク演じるウィップラッシュも、誰の命令を聞くでもなく自分の意思で行動する男だ。
一方で、ペッパー・ポッツとバランスを取るように大活躍する女性が、スカーレット・ヨハンソン演じるブラック・ウィドーである。劇中ではその名で呼ばれることはないが、「黒衣の未亡人」の名のとおり黒装束に身を包み、アクションを一手に引き受ける。
その活躍は痛快だが、しょせん彼女は一兵卒にすぎない。
自由に行動するウィップラッシュと違って、S.H.I.E.L.D.の一員としてニック・フューリー長官の意を受けて動くだけである。
フェミニズムは数十年かけてハリウッド映画に浸透してきた。
内田樹氏は先ごろ公開された『プレシャス』をして、「男性中心主義の終焉」とまで云っている。
しかし本作は、その流れに反しているのである。
世界情勢の捉え方も特徴的だ。
本作では北朝鮮とイランが敵対的な国家として実名を挙げられる。
これには、ジョージ・W・ブッシュ大統領が「悪の枢軸」と発言していた頃を思い出してしまった。
いやはや、こんなところもマッチョである。
『アイアンマン2』は、米国はもとより世界中で大ヒットしている。
日本では「草食男子」なんて言葉が流行ったが、世界はマッチョを待っているのか?
[*] 女性が主人公のSF映画としては、すでに『バーバレラ』(1967)や『スタークラッシュ』(1978)があったが、これらは戦う女性というよりもセックスシンボルである。
『アイアンマン2』 [あ行]
監督/ジョン・ファヴロー
出演/ロバート・ダウニー・Jr グウィネス・パルトロー ドン・チードル スカーレット・ヨハンソン サム・ロックウェル ミッキー・ローク サミュエル・L・ジャクソン ジョン・ファヴロー
日本公開/2010年6月11日
ジャンル/[SF] [アクション] [ドラマ]
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それが『アイアンマン2』だ。
ミッキー・ロークはうらぶれた親父がすっかり板についているし、かつて主人公トニー・スターク役の候補だったサム・ロックウェルは仇敵ジャスティン・ハマーをエキセントリックに演じて楽しませてくれる。
グウィネス・パルトローの生真面目な秘書も前作同様魅力的だし、スカーレット・ヨハンソンは法務部のインテリと黒装束のスパイの両面をトボけた顔で演じ分けてみせる。
ジョン・ファヴロー監督も、前作に引き続き運転手のハッピー・ホーガンを演じ、今回はチョイとした見せ場もある。
各俳優のファンはもとより、そうでない人もそれぞれのキャラクターに魅了されることだろう。
そして何といっても見ものなのはトニー・スタークを熱演するロバート・ダウニー・Jrだ。
先端技術を売りにする企業のCEOにして大富豪、みずからも技術者であり、トレードマークのヒゲを欠かさず、スピーチでは雄弁に語るその姿は、劇中でも紹介されるオラクルのラリー・エリソンそのものだ。両手でVサインを繰り返すロバート・ダウニー・Jrは、オーバーアクションのギリギリ手前の楽しい演技で、まるで『フラッシュ・ゴードン』におけるマックス・フォン・シドーの名演技を髣髴とさせる。
このロバート・ダウニー・Jrの演技と相まって、映画全体がトニー・スタークを持ち上げる作りになっている。
トニー・スタークが主人公だから当然といえば当然だが、近年これほどマッチョな主人公も珍しいのではないだろうか。
ここでいうマッチョとは、筋肉隆々の体を指すのではなく、「男らしさ」とか「男性優位主義」のことである。
とりあえずトニー・スタークにも悩みがある。しかしそれは主に健康に関するものであり、スパイダーマンのように生き方に悩んだり、ハルクのように自分の二面性に悩んだりはしない。トニー・スタークは内省的な人物ではないのである。
そして興味深いのは、グウィネス・パルトロー演じるペッパー・ポッツの扱いだ。
トニー・スタークからスターク・インダストリーズの社長の座を譲られた彼女は、意外な昇進に大喜び。
しかし彼女に社長業は重荷すぎて、すぐにキリキリ舞いしてしまう。
『アイアンマン』一作目のペッパー・ポッツは、有能な秘書としていい加減なトニー・スタークを責め立てたが、本作では経営者としてのストレスに耐えきれないことを露呈するのだ。
これはすなわち、長年にわたって社長を務めてきたトニー・スタークが、マッチョで優れていることの証左である。
それにしても、いまどき女性が無能さをあらわにする映画は珍しい。
SF映画における男女の関係に変化が訪れたのは、『スター・ウォーズ』(1977)からだろう。
それまでは、戦うヒーローと助けられるヒロインという図式が一般的だったと思う。
しかし、古典的な冒険活劇や、世界の神話に影響されたというこの作品は、男女の描き方に関しては新鮮だった。世間知らずの田舎の青年と、おきゃんでしっかり者の女性の物語は、ジョージ・ルーカス監督の青春群像劇『アメリカン・グラフィティ』の延長であり、それまでのSF映画にはないものだった。
そして決定的なのが『エイリアン』(1979)である。定石どおりなら悲鳴を上げて逃げ惑うはずのヒロインが、この作品では頼りにならない男たちを尻目に、黙々とモンスターと戦った[*]。
それに続く『エイリアン2』で、ジェームズ・キャメロン監督は最初から戦うヒロインに主眼を置いた。そしてその後もジェームズ・キャメロン監督は、女も男も同じように戦う姿を描き続けた。
こうしてフェミニズムの進展と呼応して映画の中の女性は強くなり、時には主人公として、時にはパートナーとして、男とともに戦った。
マッチョな男性の代表格とも云える007シリーズにおいてすら、007の上司は女性になり、花を添えてた美人秘書のマネーペニーは姿を消した。
それが『アイアンマン2』では、ペッパー・ポッツは社長業をこなしきれなかった。社長なんて、トニー・スタークが抱える幾つかの面の1つでしかないにもかかわらず。
結果として、トニー・スタークこそが、スターク・インダストリーズの社長もスーパーヒーロー・アイアンマンもこなせるマッチョの星であることを強調することになる。
本作の主要登場人物、すなちわ大企業の社長たる主人公、同じく大企業の社長たる仇敵、秘密組織の長官たる支援者がいずれも男性なのは注目だ。
ミッキー・ローク演じるウィップラッシュも、誰の命令を聞くでもなく自分の意思で行動する男だ。
一方で、ペッパー・ポッツとバランスを取るように大活躍する女性が、スカーレット・ヨハンソン演じるブラック・ウィドーである。劇中ではその名で呼ばれることはないが、「黒衣の未亡人」の名のとおり黒装束に身を包み、アクションを一手に引き受ける。
その活躍は痛快だが、しょせん彼女は一兵卒にすぎない。
自由に行動するウィップラッシュと違って、S.H.I.E.L.D.の一員としてニック・フューリー長官の意を受けて動くだけである。
フェミニズムは数十年かけてハリウッド映画に浸透してきた。
内田樹氏は先ごろ公開された『プレシャス』をして、「男性中心主義の終焉」とまで云っている。
しかし本作は、その流れに反しているのである。
世界情勢の捉え方も特徴的だ。
本作では北朝鮮とイランが敵対的な国家として実名を挙げられる。
これには、ジョージ・W・ブッシュ大統領が「悪の枢軸」と発言していた頃を思い出してしまった。
いやはや、こんなところもマッチョである。
『アイアンマン2』は、米国はもとより世界中で大ヒットしている。
日本では「草食男子」なんて言葉が流行ったが、世界はマッチョを待っているのか?
[*] 女性が主人公のSF映画としては、すでに『バーバレラ』(1967)や『スタークラッシュ』(1978)があったが、これらは戦う女性というよりもセックスシンボルである。

監督/ジョン・ファヴロー
出演/ロバート・ダウニー・Jr グウィネス・パルトロー ドン・チードル スカーレット・ヨハンソン サム・ロックウェル ミッキー・ローク サミュエル・L・ジャクソン ジョン・ファヴロー
日本公開/2010年6月11日
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【theme : 特撮・SF・ファンタジー映画】
【genre : 映画】
tag : ロバート・ダウニー・Jrグウィネス・パルトロードン・チードルスカーレット・ヨハンソンサム・ロックウェルミッキー・ロークサミュエル・L・ジャクソンジョン・ファヴロー
『告白』 はじけたのは何か?
「私には判っている。」
『告白』の登場人物たちが、何度か口にするセリフだ。
「私には判っている。」
そう云いながら、判っているはずの相手とのコミュニケーションは、実のところ断絶している。
中学を舞台とした本作には、2人の教師が登場する。
生徒の名前を呼び捨てにして友達のように振る舞おうとする熱血教師・寺田良輝と、生徒を呼び捨てにしないことを心がけている森口悠子。
いずれも生徒たちとのコミュニケーションは断絶している。
そもそも、人と人は本当にコミュニケーションなどできるのだろうか。
原作者の湊かなえ氏は、教師の経験もあるという。
教壇に立ったとき、目の前に広がるのはどんな情景だったのだろう。
パチン。
希望が、期待が、大切なものが、弾けたときに、耳元で音がする。
パチン。パチン。
コミュニケーションを取ろうとしても、聞こえてくるのはそんな音だけかも知れない。
優れたミステリーである本作は、13~14歳の子供たちの惨劇が描かれる。
中学は、誰もが通ったことのある場所であり、そこで起こることは誰しも多かれ少なかれ身に覚えがあるはずだ。
私がこの作品を観に行ったとき、遅れて入ってきたカップルが前列に陣取り、マクドナルドの袋を広げた。
ガサ、ガサガサと紙袋の音が響き、飲み物のキャップにストローを突っ込むキキキという音が加わった。充満するポテトの匂い。
困ったな、と私は思ったのだが、心配するには及ばなかった。
上映が始まると、画面から一瞬たりとも目が離せず、セリフは一言たりとも聞き逃せず、場内は静まりかえったままだった。
前列のカップルは、エンドクレジットが流れるまで、ついに飲み食いできずに終わった。
場内が明るくなると、隣のカップルは笑いだした。妙にはしゃいだ声で話し始める。
それはそうだ。
人ごととは思えないこの映画の重い空気を跳ねのけるには、無理に笑ってみるしかない。
だが、その笑顔にちからはない。
できるのは、劇場から逃げ出すことだけだ。
『告白』は、13~14歳の子供たちをとおして命の重さに焦点を当てた傑作だ。
ある人にとって重い命も、別の人にとっては軽い。軽いと思った命も、別の人には重い。その連鎖が生む悲劇。
悪いヤツは懲らしめて良いという考え方、罪を犯した者には罰を与えて良いという考えの恐ろしさ。
そして、人々を孤立させるコミュニケーションの断絶。
本作の寒々しい映像が、打ちつける雨が、わずかばかりの赤い炎が、普遍的な問題をえぐり出している。
ただ、幸いと云うべきか、現実にはティーンエイジャーによる犯罪は減少している。窃盗にしろ殺人(未遂含む)にしろ、団塊の世代がティーンエイジャーの頃に比べればずいぶん少なくなっている。
しばしば、親が子を、子が親を殺す家庭内殺人が報道されるが、これも昔に比べて増加しているわけではない。
それよりも増えつつあるのは高齢者の犯罪だ。
年齢層別検挙者数、すなわち各年齢層の人口に占める検挙者の割合を見ると、60歳以上の検挙者が増えている。
法務省の「犯罪白書」は、わざわざ「高齢者による犯罪」という章を設けて、65歳以上の犯罪について述べている。
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一般刑法犯検挙人員の人口比は、(略)元年との比較で,20~29歳が約1.3倍,30~49歳が約1.3倍,50~64歳が約2.0倍に上昇しているにすぎないのに対し,高齢者では,約3.7倍にまで上昇しており,高齢犯罪者の人口比の上昇は著しい。このように,最近の高齢犯罪者の増加の勢いは,高齢人口の増加をはるかに上回っている。
---
パチン。
高齢者の耳元でも、何かが弾ける音がしている。

監督・脚本/中島哲也 原作/湊かなえ
出演/松たか子 岡田将生 木村佳乃 37人の生徒たち
日本公開/2010年6月5日
ジャンル/[サスペンス] [ドラマ] [学園]
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