『ダーリンは外国人』の後味は?

 「ぶん殴る」の「ぶん」て何だろう?

 アメリカから来たダーリンの質問には、日本に生まれ育った人でもタジタジである。
 しかし、言葉やカルチャーギャップからくる笑いを楽しみたければ、『日本人の知らない日本語』を読んだ方がいい。
 『ダーリンは外国人』は、漫画家になる夢と、愛するダーリンとの生活の双方を追い求め、思い悩む女性を描いた作品だ。

 本作において、ダーリンが外国人なのはあまり重要ではない。
 映画の中のダーリンは、家事については経験不足であるものの、日本に暮らすのに特に問題があるわけではない。
 冒頭の問いのように、しばしば日本人なら気にも留めないことを質問するのは、彼が多言語に堪能な語学オタクだからにすぎない。

 もっぱらこの作品で描かれるのは、アカの他人である2人が、誤解や行き違いを乗り越えながら一緒に暮らそうとする姿である。
 親が結婚に賛成したり反対したりも、実はダーリンが外国人であることにはあまり関係がない。母親はダーリンが誠実だから気に入るのであり、父親はきちんと挨拶に来ないから拒絶するのである。
 その意味で、この映画で描かれることは、どこの国のどのカップルにも、多かれ少なかれ起こり得るのかも知れない。


 ただ一つ、ダーリンが外国人であることを意識するのは、主人公さおりである。
 「やっぱり、外国人だからさ…」
 ダーリンとの仲がうまくいかないとき、さおりはダーリンが外国人であることを云い訳にする。
 そんなことは関係ないはずなのに。関係ないと思っていたのは、さおり本人なのに。
 1つ1つのセリフを大切にした脚本は、さおりが、みずから作った逃げ道とどう向き合うかをクライマックスに持ってくる。


 『ダーリンは外国人』は、大笑いする映画でも、大泣きする映画でも、ましてやハラハラドキドキする映画でもない。
 しかし、さおりとダーリンを見守る観客は、爽やかな結末に度胆を抜かれることだろう。

 私が敬愛する小津安二郎監督は、こんな言葉を残している。
 「一口でいえば、見終わったときの後味だね。いくらいい話でも、後味の悪いものは御免だ。我慢して見ても、後味のいいものはいい。」(55.6「シナリオ」)


 ところで、大辞泉によれば、「ぶん殴る」の「ぶん」は、動作・作用を強める接頭語。「ぶつ(打つ)」の連用形である「ぶち(打ち)」が変化し、「ぶん」になったそうだ。


ダーリンは外国人 [DVD]ダーリンは外国人』  [た行]
監督/宇恵和昭  脚本/大島里美  原作/小栗左多里
出演/井上真央 ジョナサン・シェア 国仲涼子 戸田菜穂 國村隼 大竹しのぶ
日本公開/2010年4月10日
ジャンル/[ロマンス] [コメディ]
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『ポチの告白』 ポチと呼ばれるのは誰か?

 2010年4月22日、阪本順治監督と高橋玄監督のトークショー付きで、『ポチの告白』が上映された。
 映画館大賞2010の特別部門「あの人の1本」で、阪本順治監督が高橋玄監督の『ポチの告白』を選んだのである。
 『KT』や『闇の子供たち』を世に送り出した阪本監督らしい選定だ。

 カジュアルな格好の阪本監督に比べて、高橋監督は黒のスーツ、黒のシャツに、ネクタイと靴下だけが真っ赤な、インパクトのある服装で登場した。
 eiga.com のニュースでも報じられているが、ここではニュース記事から漏れていることを記憶を頼りに紹介しよう。


 『ポチの告白』は、「日本最大の暴力団」である(と劇中で語られる)警察と、その身内である裁判官及び検察の腐敗と悪行をさらけ出した作品である。
 制作したグランカフェ・ピクチャーズのサイトでは次のように紹介している。
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本作に登場する警察犯罪事件の数々は、日本を代表するジャーナリスト・寺澤有氏が綿密に調査した事件資料を元に描かれている。本物のジャーナリストが、日本の警察問題を正面から斬り込む本作に全面協力をしたことで、迫真のリアリティが実現した。
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 そこで描かれるのは、警察という"家族"の中での馴れ合い・庇い合い、外の人間に対する嘘と暴力と搾取だ。
 そしてまた、記者クラブという囲いの中で飼いならされたメディアが、警察の実態を覆い隠すさまもしっかり描く。

 その酷さは、いくら劇映画とはいえ、あまりにも現実離れして見える。

 ところが高橋監督はこう語る。
 「上映後に一番聞かれるのが、いくらなんでもこれはないでしょう、ということ。でも、ある上映では愛媛県警の元警察官の仙波敏郎さん-この人は、一人だけ裏金用の架空の領収書を書かなかったために35年間出世できず、巡査部長のままだった人で、いま本がベストセラーになってますが-その人が来て、『高橋さんはまだ上品に撮ってますね』と云うと、実際に警官だった人がそう云うので、みんな黙っちゃいますね。」

 阪本監督も、タイを舞台に子供の売春と臓器売買を描いた『闇の子供たち』について語った。
 「『闇の子供たち』は、タイ側の云うことは判っているので、それに従ってタイバージョンも作ってあるんですが、いまはああいう状況なので公開できないんです。でも公開すると、こんなことはないという人が出てくるでしょうね。」


 eiga.com の記事にあるように、阪本監督は『闇の子供たち』に関して「ドキュメンタリーで撮った方が良かったのでは」と云われるそうだ。
 しかし両監督とも、劇映画だから語れることがあると強調する。
 ここで阪本監督は、『闇の子供たち』に登場する、ゴミ袋に入れて捨てられた女の子のことを語った。「(重い性病のため売り物にならなくて)女の子が捨てられて、自力でゴミ袋から出て、故郷に這って帰るシーンがあるけれど、そんな女の人の一生にかかわることを、ドキュメンタリーとしては撮れないですよ。」

 高橋監督も『ポチの告白』について念を押す。
 「映画なので演出はありますが、ここに出てくるのは全部本当のことです。高知白バイ事件とか検索してみてください。」


 進行役の方からは、上映に当たっての圧力について質問があった。
 eiga.com には「上映には圧力がつきもの」と書かれているが、高橋監督によれば、『ポチの告白』に関して監督への圧力はなかったそうだ。
 「劇場には警察の方から『まさかアレを上映するんじゃないでしょうね』という電話があったそうです。その劇場は、そんなのこっちの勝手だと上映しちゃいましたが、劇場側が自主的に上映を取りやめることはありましたね。」

 阪本監督は、金大中事件を描いた『KT』の撮影中、弁当を買いに行くにも尾行されたそうである。
 また、『闇の子供たち』の撮影のためにタイへ行ったときは、身辺に気をつけたという。
 「その前にドイツの監督が脅されたという記事を読んでいたので。まず現地の会社と組んで、一緒にやるようにして。俳優さんも、本当ならちょっといいホテルに泊まるんでしょうけど、スタッフと同じところに泊まるようにしました。向こうは、警官が非番のときは雇えるので、撮影中もガードしてもらいました。」


 ちなみに、阪本監督も高橋監督も、これらの映画を撮ったことにより、NGO等から講演を依頼されるようになったそうである。
 しかし阪本監督は、長年その問題に係わっている活動家ではないし、映画のオファーを受けてにわか勉強して作品に取り組んだ自分でもいいのかと尋ねるようにしているそうだ。
 また、両監督が一致して語っていたのは、講演依頼等は東京よりも地方で多いということ。
 高橋監督は、「自分なんか東京では埋もれてしまう」とおっしゃっていたが…。


 ところで、奇しくも高橋監督は、警官と映画監督の孫だそうである。
 父方の祖父が警官、母方の祖父が『白蛇伝』『少年猿飛佐助』等で名高い藪下泰次監督だそうだ。 
 そんな高橋監督が『ポチの告白』を撮るのも何かの縁なのだろうか。


 「せっかく雨の中をお出でくださったのだから」と、高橋監督は他にも面白い話を披露してくださったが、ここでは割愛する。
 お二人の話はたいへん興味深いものばかりだった。

 そしてトークショーの後に上映された『ポチの告白』は、日本国民必見の1本であった。
 たいへん失礼ながら、当初、題名からはどんな映画か見当もつかなかった。
 しかし映画を観た後は、『ポチの告白』という題の重みをズッシリと感じている。

 私は、両監督とスタッフの方々への感謝を胸に、劇場を後にした。


ポチの告白』  [は行]
制作・脚本・監督・編集/高橋玄  原案協力/寺澤有
出演/菅田俊 野村宏伸 川本淳市 井上晴美 井田國彦 出光元
日本公開/2009年1月24日
ジャンル/[ドラマ] [犯罪]

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『のだめカンタービレ 最終楽章 後編』の正しい見方

 「特別版」というだけのことはある。
 『のだめカンタービレ 最終楽章 後編』の公開初日にテレビ放映された前編のことだ。
 劇場公開した前編のままではなく、テレビ放映用に再編集(カットとも云う)されたものだが、新たに追加されたシーンもある。
 『20世紀少年』でも見られた、テレビ放映用の特別版だ。

 この中で、劇場版の前編では明かされなかった、ルー・マルレ・オーケストラの定期公演の演目に込めたミルヒー(フランツ・フォン・シュトレーゼマン)の深謀遠慮が明らかになる。

 1曲目、チャイコフスキーの序曲「1812年」は、ナポレオン率いるフランス軍の侵攻に対して、ロシア軍が反撃し、遂にフランス軍を敗退させたことを喜ぶ曲だ。だから曲の途中でフランス国歌「ラ・マルセイエーズ」が何度も登場し、やがて引いていく。
 すなわちこの曲は、フランスの負け戦を描いている。
 ミルヒーは、この曲をパリの聴衆に向けて演奏させようというのだ。
 ミルヒー曰く「この曲を演奏するのは、フランス人にケンカを売っているようなもの。パリでは滅多に演奏されない。この演奏を成功させれば本物です。」

 2曲目、バッハのピアノ協奏曲第1番ニ短調について、ミルヒーは独りごちる。
 「のだめ、この曲で最後の魔法をかけます。」
 そして、ミルヒーは千秋にピアノ協奏曲を弾かせるべく特訓を施すのだ。


 千秋の指揮するオーケストラで、のだめは序曲「1812年」の素晴らしさに酔いしれる。
 原作で千秋が指揮するのは、序曲「1812年」ではなく「ウィリアム・テル」序曲である。サントラのライナーノートによれば、序曲「1812年」の方が重厚かつ壮大だから映画用に演目を変更したそうだが、特別版でのミルヒーの独白により、選曲の妥当性を高めることができた。

 しかし、のだめは2曲目に衝撃を受ける。
 自分はコンクールへの出場も許可してもらえないのに、一緒に協奏曲を演奏したいと思っていた当の千秋が目の前でピアノ協奏曲を弾き振りしているのだ。
 このときののだめの想いが、後編へ続くことになる。

 劇場版の前編では、選曲についての説明はなかったが、テレビ放映された前編特別版により、のだめと彼女を取り巻く人々の思惑がいっそう明確になった。

               

 そして、待ちに待った後編になるわけだが、本作は単に前後編の後半というだけではなく、テレビシリーズから連綿と続いてきた『のだめカンタービレ』の有終の美を飾る作品である。
 そこでは、これまで巧妙に避けられてきたことが遂に取り上げられる。

 実写の『のだめカンタービレ』は、4年半のあいだに次のような変遷をたどってきた。
 ・テレビシリーズ全11話 2006年10月16日~2006年12月25日
 ・2夜連続スペシャルドラマ 2008年1月4日~2008年1月5日
 ・劇場用映画 前編 2009年12月19日公開
 ・劇場用映画 後編 2010年4月17日公開 (本作)

 テレビシリーズ11話で物語はいったん終結をみている。とはいえ、私はテレビの最終回に少々引っかかりを感じていた。
 これでは足りない。
 その引っかかりはスペシャルドラマでもきちんと描かれることがなく、今回の『最終楽章 後編』まで持ち越してしまった。

 それは予告編でも流れた千秋のセリフに集約されている。
 「本当は何度も思ったことがある。あいつは日本で好きにピアノを弾いてたときの方が幸せだったんじゃないかって。いつまでも無理して辛い道を行かせなくても、あいつが本当に好きな道を選んで、俺はそれを受け入れて、普通の恋人同士のように…。」

 この問いはテレビの最終回近くでも提起されたのだが、のだめは生来の明るさと図太さから、深く掘り下げることなく前向きになってしまった。
 しかし私は、このことがずっと気になっていた。
 上を目指すのが良いことなのか?幸せとは桧舞台に立つことなのか?
 のだめは、いつかこの問題に向き合う必要があるのだろうと感じていた。

 『最終楽章 後編』は、『のだめカンタービレ』全編を貫くこの問いに真摯に向き合ったドラマである。
 だから、前編のオーケストラ再建ばなしのような起承転結はない。遂に迎えた結末を、じっくり味わう作品だ。
 これが最後だから、主人公2人の23歳という年齢に相応しく、大人の描写も慎重に織り込まれている。

 『最終楽章 後編』は、これまで『のだめカンタービレ』を見てきた人には納得の結末だろう。
 観客は皆、結論を出した主人公2人にエールを送らずにはいられない。

               

 本作に限らず、テレビドラマと連動した映画や、シリーズ化を前提とした映画の企画は少なくない。
 近年、テレビドラマの成功を受けて作られた作品としては『相棒 -劇場版-』や『トリック 劇場版』等があるし、映画化を前提としてテレビ番組を作る例としては『ライアーゲーム』(テレビドラマのSeason2劇場版)や『東のエデン』等がある。
 また、当初からシリーズ物として作られた劇場用映画には、『DEATH NOTE デスノート』前後編や『20世紀少年』3部作などがある。
 こうした中、『のだめカンタービレ 最終楽章』はテレビドラマの成功を受けて映画が作られるパターンであり、また初めからシリーズ物の映画にするパターンだ。

 こうした企画の歴史は古い。

 すでにテレビが登場した最初期に、ヒットしたテレビドラマ『私は貝になりたい』(1958年)の映画化(1959年)が行われているし、テレビがない頃はラジオドラマのヒット作『君の名は』(1952年)が映画(1953年)になった。
 メディアミックスに小説や芝居の映画化も含めれば、映画の誕生まもないころから行われている。また、テレビ作品が映画に進出する例は、テレビの歴史と同じだけある。
 子どものころ、テレビでヒットしたマジンガーZとデビルマンが共演する『マジンガーZ対デビルマン』に胸躍らせた人も多いだろうし、ドラえもんの映画に至ってはテレビシリーズと並行しながら30年も続いている。


 同様に、映画のシリーズ化の歴史も古い。映画ファンならシリアル(連続活劇)を思い浮かべる人も多いだろう。
 シリアルは、15本程度で完結する物語を毎週1本ずつ公開する方式で、現代の1クール分のテレビドラマを映画館で見ているようなものだった。
 1910年代~1920年代に流行したそうで、ジョージ・ルーカスが映画化を熱望した『フラッシュ・ゴードン』もシリアルである。

 シリアルは「連続活劇」という訳語のとおりアクション映画が主だが、人間ドラマの連続物もある。
 上原謙さんの美形ぶりが際立つ『愛染かつら』は、前編、後編、続編、完結編が立て続けに公開されている。
 『君の名は』も3部作だ。

 テレビの登場により、連続ドラマの発表の場はテレビに移っていったが、もともと連続物を劇場で上映するのは確固たる映画の一形態だったのである。


 こうして考えたとき、『のだめカンタービレ』のようにテレビドラマが映画に進出することも、単発の作品とせずに前後編とすることも、映画誕生のころまで遡れる伝統的手法であると云える。
 とくに、映画用に1からリメイクするのではなく、テレビドラマの続きを映画で描くのは、テレビと映画にまたがってシリアルを見るようでたいへん愉快だ。

 11話のドラマをいきなり映画で公開するのはハードルが高い。すべての映画が『ハリー・ポッター』や『ロード・オブ・ザ・リング』のようにシリーズ化できるわけではないのだから。
 とすれば、作り手にとって、まずテレビシリーズで多くの視聴者にリーチして、それから続きを映画化するというのは、映画館へ多くの人の足を運ばせるのに有効だろうし、受け手にとっても、テレビで面白さを実感した上で映画を見に行けるので安心感がある。
 しかも劇場作品が連続物なら、1度だけではなく何度も映画を楽しみに行ける。
 双方にとってこんな幸せなことはないだろう。

 一時期、テレビではシリアル(連続物)が作られるにもかかわらず、映画では(続編はあっても)連続物はほとんどない期間が続いた。
 だがテレビと映画が連動することで、シリアルの楽しさが映画館に戻ってきた。

 『のだめカンタービレ 最終楽章』は1本ずつ、あるいは前後編だけで評価すべきものではない。
 かつては映画でもたくさんあった「連続物」の最終回なのだから。
 『のだめカンタービレ 最終楽章』がたった2本で終わるのは残念だが、連続物の楽しさを堪能させてくれたのは間違いない。


のだめカンタービレ 最終楽章 後編 [Blu-ray]のだめカンタービレ 最終楽章 後編』  [な行]
総監督/武内英樹  監督/川村泰祐  脚本/衛藤凛  原作/二ノ宮知子
出演/上野樹里 玉木宏 瑛太 水川あさみ 小出恵介 ウエンツ瑛士 ベッキー 山口紗弥加 山田優 谷原章介 なだぎ武 福士誠治 吉瀬美智子 伊武雅刀 竹中直人 蒼井優
日本公開/2010年4月10日
ジャンル/[ドラマ] [音楽] [コメディ]
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『東のエデン』 私たちは何と戦っているのか?

 いやはや脱帽である。

 作品の作り手は、1人でも多くの人に見てもらうために、受け手を引っかけるフックをたくさん用意する。
 「ハチミツとクローバー」で人気の羽海野チカ氏によるキャラクター、Oasisschool food punishment の主題歌、精緻に再現された実在の場所と建物ポール・ニコルソン氏によるロゴデザイン、ノブレス携帯に代表されるギミックの数々。
 どのようなフックにするかが、作り手の個性であり、作品のカラーなのだが、『東のエデン』のフックはあまりにも鋭く、受け手も無傷ではいられない。

 たとえば、物語後半で登場する、未来を予測する「世間コンピューター」。
 「世間」なんてしょぼい名前は一見ギャグのようだが、日本世間学会が掲げる「日本には世間は存在しても『社会』は存在しない。」という言葉を思い起こすとき、「世間」を見据えることこそが、ハリ・セルダンの心理歴史学をも凌駕する我が国独自の方法論であることが判る。
 こんなことを作中では説明せずにサラリと流してしまうので、受け手はドギマギしてしまう。

 さらには、テレビシリーズ第7話のサブタイトル『ブラックスワン舞う』。
 『ブラック・スワン―不確実性とリスクの本質』の訳本が出版されたのは2009年6月。第7話の放映は5月であり、とうぜん制作はもっと前だ。原著の出版は2007年だが、翻訳時期もはっきりしないうちに「白鳥・ダイアナ・黒羽」なんて名のキャラクターを創造し、作中にブラックスワンというキーワードを取り入れるとは驚きだ。

 また、2011年を舞台にした劇場版に登場する相続税の増税問題。
 鳩山政権が「税制改正大綱」で2011年に相続税を増税する方向を打ち出したのは、2009年12月22日である。
 にもかかわらず、2009年11月28日公開の劇場版Iですでにこの問題に触れているとは、『東のエデン』の作り手の問題意識の高さと読みの鋭さが判ろう。


 テレビシリーズ11話と劇場映画2本からなる『東のエデン』は、その名のとおり、東の果てにあるニッポンが、楽園たるかを問う作品だ。

 そこに用意されたフックのうち、まず目につくのは、10代、20代の若者向けのものだ。
 際限ない就活内定者に対する嫌がらせ、ひきこもり、ニート、起業しようともがく青年たち。
 そして、日本が破綻する前に逃げ切れると思っているオッサンたちを敵とみなすことで、現在進行中の世代間戦争を真っ向から取り上げる。

 そこで主人公・滝沢朗がぶち上げる戦略は愉快だ。
 すなわち、何もしないこと。
 ニートになって、ひきこもることで、この国の経済・社会を停滞させ、オッサンたちが逃げ切れない状況に追い込むというのだ。

 神山健治監督は本作について語る。
---
新しい世界を享受している若者(ニート)たちと、新しい文化や価値観の登場を脅威に感じながらも、社会的なアドバンテージを生かしてそれらを阻害している存在(オッサン)の戦いです。

具体的には、ニートたちはオッサンたちには見えない透明な存在になって、オッサンたちの作ったインフラはフルに使うけれど金を落とさないという戦いを始めたわけです。
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 そして本作は、テレビアニメの主要な客層である若者だけではなく、ロスジェネ世代の非正社員や、勝ち組を驀進中の官僚に資産家等、あらゆる世代・階層の代表を登場させ、誰もがフックに引っかかるように計算してある。
 同時に、2年もひきこもっているヤツは親が裕福だからひきこもっていられることが示されたり、職場の若者たちが遅刻はするは夜勤は嫌がるは給与には不満を垂れるはの困り者であることが示されたりと、どの世代にも一方的な肩入れはしない。

 現代日本の問題をすくい取りつつ、適切な距離感も堅持しているのは、さすがである。


 石井朋彦プロデューサーによれば、本作のきっかけは神山監督との「今、この時代に何と戦う映画を作るべきなんだろうか」という会話だそうだ。
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その中で神山監督が口にした、「今、戦うべきは日本をおおっている、漠然とした空気なのではないか」という発言が作品のきっかけになりました。
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 『東のエデン』のオフィシャルブログには、次のように書かれている。

 「この国の“空気”に戦いを挑んだ、ひとりの男の子と、彼を見守った女の子の、たった11日間の物語。」

 この曖昧な、何と戦っているのか見当もつかないコピーが、まさしくこんにちの日本に生きる我々を表現している。


 原作、脚本、監督を務めた神山健治氏は、1966年3月生まれ。
 世代的には、逃げ切れないオッサンである。
 学生時代こそバブルに向かって調子が良かったものの、社会に出たとたんにバブルは崩壊。はしごを外された世代とも云える。
 しかし、神山健治監督は自分たちは恵まれていたと語る。
---
僕らの世代は、この日本という国に生きてきて、間違いなく恵まれていたと思うんですよ。日本という国の歴史だけではなく、世界的に見ても、こんなに恵まれている状況が形成されたことはないんじゃないかなと思うぐらい、恵まれていたと思います。しかし、次の世代は、日本の本当に厳しい時代を生きなければならないかもしれない。
---

 上がりを決め込んだオッサンたちと、ニートたちのあいだで、両方に目配りできるからだろう、神山監督は、全共闘時代の遺産を目にしたニートの板津に「こういうものを受け継いでいかなきゃいけなかったんじゃないか」と語らせている。
 それは何もいまさら全共闘のような運動をしようということではない。
 前の世代が何らかの形で世の中にかかわろうとしたことを学び、自分たちも世の中にかかわらなければならない、ということである。


 だから神山監督は、老若男女の分け隔てなく12人を救世主として選び、この国を正しき方向へ導く義務を課した。
 作品中では「この国を正しき方向へ導くゲームに巻き込まれた」という描き方だが、本来この義務はこの国に住む全員が負っている。つい失念しがちだが。

 救世主のうち若者の代表が、本作の主人公・滝沢朗である。
 救世主に選ばれるだけあって、国を良くする意思を持った者である。
 では、滝沢朗のような人物は、どのように育ってきたのだろう?
 作中、滝沢朗の生い立ちについて詳しい描写はないが、キーになるのは「お金」である。

 そこでヒントになるのは、堀江貴文氏の「お金の教育」という記事だ。
 日本人が子どもに教えるのは、無駄遣いしないことや、ちゃんと貯金することだが、ガイジンはお金を稼ぐことを学ばせるそうだ。そうすることで「お金」に関するきちんとしたリテラシーを身に付けさせるという。

 日本でこそ滝沢朗は主人公として際立ったキャラクターだが、世界に目を向ければ、もしかしたら普通の若者なのではないか。
 普通の若者が際立ってしまう日本とは何なのか。


 本作に散りばめられた多くのフックは、同時に多くのヒントでもある。
 「ブラックスワン」や「世間」等のキーワードからでも、丁寧に紐解けば学べることがたくさんある。
 アニメーションが青少年に及ぼす影響の大きさを考えるとき、かつて『宇宙戦艦ヤマト』や『機動戦士ガンダム』に熱中した少年たちが科学技術への興味を募らせたように、『東のエデン』の観客が世の中や経済への関心を強め、かかわるようになれば、本作は成功なのだろう。


 神山健治監督は、本作でニートとオッサンの戦いを描きながらこう語る。
---
ニートたちはオッサンたちには見えない透明な存在になって、オッサンたちの作ったインフラはフルに使うけれど金を落とさないという戦いを始めたわけです。でも、それだけでは勝利にはならない。結局、その対立を解決する方法は何か、その答えを見付けていこうというところで映画は終わっていると思います。
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 だから滝沢朗は、Mr.OUTSIDEと同様の手段に出る。

 ノブレス・オブリージュ。この国に住むすべての人が、この国の救世主たらんことを。


【Amazon.co.jp限定】『東のエデン』 Blu-ray 東のエデン』  [は行][テレビ]
東のエデン 劇場版 I The King of Eden
東のエデン 劇場版 II Paradise Lost
原作・脚本・監督/神山健治  キャラクター原案/羽海野チカ
出演/木村良平 早見沙織 五十嵐麗 玉川紗己子
日本公開/テレビシリーズ 2009年4月9日~2009年6月18日
     劇場版 I:2009年11月28日
     劇場版II:2010年 3月13日
ジャンル/[SF] [サスペンス] [アドベンチャー] [ミステリー]
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tag : 神山健治

『息もできない』 ただ吐き出したかった

 これが長編映画の監督デビュー作だというのだから恐れ入る。
 『息もできない』の素晴らしさは、制作・監督・脚本・編集・主演のヤン・イクチュンに尽きる。
 彼はインタビューでこう語っている。
 「自分は家族との間に問題を抱えていて、自分の中のもどかしさを、ただ吐き出したかったんです。」

 32歳だったヤン・イクチュンが己の内に溜めていたもの、どろどろした熱いものが、この映画に噴き出している。それは火山から流れる溶岩のように、切り刻んだ体から流れる血のように。


 何といっても脚本が良く練れている。
 伏線の張り方、その焦らし方、そして全体の構成に、無理がなく無駄がない。
 そして役者たちの演技は生々しく、怒り、哀しみが観る者に容赦なく迫ってくる。
 全編を通して描かれる家族への暴力、他人への暴力、暴力に対する暴力は、残念ながらいつの時代、どこの国でも普遍的な問題だろう。


 ただ、映画を覆う暴力は圧倒的だ。
 とりわけ興味深いのは、ヤン・イクチュン監督の次の言葉だ。
 「(主人公サンフンが)ことあるごとにヨンジェを殴っていたのはまた別の意味があって、あのように暴力的に接することで、彼はもうひとりの自分、よく似たもう一匹の狼に対して、悪の道に入らないよう諭していたんだと思います」

 たしかに、ヤン・イクチュン演じるサンフンは、手際良く仕事することを教えようとしているのかもしれない。目的を達するために過不足の無い暴力を、知らしめようとしているのかもしれない。いかに暴力を振るうサンフンといえども、人殺しまでは考えていないので、自分と同じようにすれば過剰な暴力に走ることを防げるという意図があったのかもしれない。

 しかし、結局は暴力を振るっているだけだ。
 観客には、サンフンの行為が諭しているようには見えない。
 少なくとも、殴られるヨンジェはそうは受け取らない。
 所詮そこにあるのは、暴力を振るう者と暴力を振るわれた者の関係だけなのだ。


 『息もできない』は、暴力からは暴力しか生まれないということを徹底して描いている。
 それを描くために全編を覆う執拗な暴力シーンは、何を生み出すのだろうか。


息もできない [DVD]息もできない』  [あ行]
制作・監督・脚本・編集/ヤン・イクチュン
出演/ヤン・イクチュン キム・コッピ イ・ファン チョン・マンシク
日本公開/2010年3月20日
ジャンル/[ドラマ] [ロマンス]

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