『ライアーゲーム』の違法な結論
本作の主人公・神崎直(かんざき なお)は、ライアーゲームの参加者たちに、社会的には違法と思われることをそそのかす。
シーズン2を放映中の『LIAR GAME』は、その神崎直と、適法な行為を貫こうとする者たちのせめぎ合いを描いたドラマである。
正直者の神崎直は、誰の云うこともすぐに信じる。
彼女がライアーゲーム(嘘つきのゲーム)に巻き込まれることから物語は始まる。
ゲームのプレイヤーたちは、勝者となって事務局の用意した賞金を獲得するために、騙し合い抜け駆けしようとする。
それに対して神崎直は、みんなで協力するよう呼び掛ける。事務局の術中に陥らず、誰も敗者とならないように、手を組むことを勧めるのだ。
この図式を単純化してみよう。
金を持っている者A、Aの呼び掛けに応じて集まったB、Cら多数の者。集まった中で金を手にするのはただ1人。B、Cらは金のために知恵を絞り、競争相手に手の内を知られないように策を練る…。
お判りだろう、Aは発注者、B、Cらは入札者、勝者とは落札者と同じである。
では、協力を呼び掛ける神崎直は?
こういう者を、世間では談合の仲介役と呼び、刑罰の対象とする。
神崎直のやっていることは、世の中では許されないのだ。
神崎直は、ゲームの事務局を闘う相手と見据え、金をプレイヤー同士で分け合うように、事務局の手元に残る金が少なくなるように努力する。
入札において安い応札額を競うのではなく、談合して順番に落札者となり、発注者の持ち金をきっちりいただくのと同じことだ。
では、それは悪いことだろうか?
かつて東京地検特捜部等で活躍した郷原信郎氏は、制度が不合理だから談合が生まれるのだと説く。
---
工事発注先の業者選定において価格だけではなく品質・技術の要素もバランス良く評価すること、発注官庁側が算定した価格は絶対的なものではなく、入札の結果によってはそれを上回る金額での落札も認めること、これらは国際的には常識だ。
しかし、日本では長らく、入札価格が最低だった業者が自動的に落札し、予定価格を1円でも上回る落札は認めないという制度で公共調達が行われてきた。それは、もともと工事の発注にはなじまない制度であるうえに、工事が複雑化、多様化するにつれて、発注実態とのギャップが一層大きくなっていった。その中でも公共工事の発注を行わなければならないとすると、制度外の「非公式な行為」が、そのギャップを埋める機能を果たすことになる。それが、業者間の話し合いで受注者を決める受注調整、つまり談合の恒常化だった。それによって品質・技術の面での評価が行われ、受注業者の信頼性が担保されることで、入札における価格だけの競争という制度の不合理性がカバーされてきた。
---
談合は、過当競争によって品質や技術が犠牲になるほど消耗することを避けるためには必要だったというわけだ。
同様に神崎直は、ゲームのルールさえ守れば何を犠牲にしても構わないというライアーゲームに抵抗し、話し合うことを繰り返し説く。
『LIAR GAME』のプレイヤーのひとり葛城リョウは、次のように説明した。
人間とは、助け合うことをDNAレベルで備えた生き物であると。
そして葛城リョウは、それを見返りを求める偽善であるとした。
しかし「偽善」と呼ぶのは適切ではない。
人が、自分に多少の損があっても誰かを助けるのは、助ける行為そのものが喜びだからだということが、脳科学の研究で判ってきた。
人間はお互いに助け合ったからこそ、猛獣よりも弱く、馬などより遅いのに生き残れた。猛獣が生まれついて牙を持ち、馬が生まれついて俊敏なように、人間は生まれついて助け合う生き物なのだ。
だから助け合うことを「悪」とはいえない。人間はそうせずにはいられないのだから。
目の前に入札という試練があったら、話し合って参加者みんなが利益を得るように努める。
これは人間として自然なことなのである。
もちろん、談合を禁止するにはわけがある。
高田直芳氏の記事を引用しよう。
---

問題は,カルテルや談合です。
(略)
これによって生まれるマーケット全体の機会損失(三角形FHK)は,到底容認されるものではありません。そのために,独占禁止法で処罰の対象となるわけです。なお,カルテルの主犯格企業への課徴金を重くし,違法行為を自主申告した企業の課徴金を軽減するのは,ゲーム理論で有名な「囚人のジレンマ」の効果を狙ったものです。
---
話し合いの参加者だけを考えたら、談合という手段もアリかも知れない。
しかし世の中の直接間接の関係者がすべて話し合いに参加するのは不可能だから、どこかに損する人が出てくる。
たとえ参加できたとしても、話し合いで全員が必ず得するように結論を出すのは不可能だ。
だから、参加者だけで話し合う談合は違法とせざるを得ない。
神崎直が見落としているのは、事務局とてプレイヤーの1人だということだ。事務局だけ損させれば良いわけではない。
視聴者が神崎直の行動にいくら共感しようとも、実社会で同様のことをしたら違法行為になってしまう。
ましてや実社会では発注者も話し合いにかかわると、官製談合としてますます非難を浴びる。
高田直芳氏が、ゲーム理論の「囚人のジレンマ」の効果を狙っていると紹介した課徴金減免制度は、話し合いの仲間を裏切って、自分だけ得することをそそのかす制度だ。
まさにライアーゲームの事務局が仕掛けているのと同じこと。
神崎直を裏切る福永は、ドラマでは油断ならない人物だが、実社会なら法令遵守に努める者と評価されるのである。
それでも人間は、自然の摂理に従ったら、話し合わずには、談合せずにはいられないのだ。
合法・非合法の判断と、生き物としての在り方に由来する善悪とが食い違うとき、いずれの行動をとるべきなのか。
我々は固唾をのんで神崎直の行動を見つめている。
『LIAR GAME』 [テレビ]
演出/松山博昭、大木綾子、佐々木詳太 植田泰史 長瀬国博
出演/戸田恵梨香 松田翔太 鈴木浩介 吉瀬美智子 渡辺いっけい 菊地凛子
日本公開/Season1 2007年 4月14日~2007年6月23日
Season2 2009年11月10日~2010年1月19日
ジャンル/[サスペンス] [ミステリー]
http://bookmarks.yahoo.co.jp/bookmarklet/showpopup?t='+encodeURIComponent(document.title)+'&u='+encodeURIComponent(location.href)+'&ei=UTF-8','_blank','width=550,height=480,left=100,top=50,scrollbars=1,resizable=1',0);">
シーズン2を放映中の『LIAR GAME』は、その神崎直と、適法な行為を貫こうとする者たちのせめぎ合いを描いたドラマである。
正直者の神崎直は、誰の云うこともすぐに信じる。
彼女がライアーゲーム(嘘つきのゲーム)に巻き込まれることから物語は始まる。
ゲームのプレイヤーたちは、勝者となって事務局の用意した賞金を獲得するために、騙し合い抜け駆けしようとする。
それに対して神崎直は、みんなで協力するよう呼び掛ける。事務局の術中に陥らず、誰も敗者とならないように、手を組むことを勧めるのだ。
この図式を単純化してみよう。
金を持っている者A、Aの呼び掛けに応じて集まったB、Cら多数の者。集まった中で金を手にするのはただ1人。B、Cらは金のために知恵を絞り、競争相手に手の内を知られないように策を練る…。
お判りだろう、Aは発注者、B、Cらは入札者、勝者とは落札者と同じである。
では、協力を呼び掛ける神崎直は?
こういう者を、世間では談合の仲介役と呼び、刑罰の対象とする。
神崎直のやっていることは、世の中では許されないのだ。
神崎直は、ゲームの事務局を闘う相手と見据え、金をプレイヤー同士で分け合うように、事務局の手元に残る金が少なくなるように努力する。
入札において安い応札額を競うのではなく、談合して順番に落札者となり、発注者の持ち金をきっちりいただくのと同じことだ。
では、それは悪いことだろうか?
かつて東京地検特捜部等で活躍した郷原信郎氏は、制度が不合理だから談合が生まれるのだと説く。
---
工事発注先の業者選定において価格だけではなく品質・技術の要素もバランス良く評価すること、発注官庁側が算定した価格は絶対的なものではなく、入札の結果によってはそれを上回る金額での落札も認めること、これらは国際的には常識だ。
しかし、日本では長らく、入札価格が最低だった業者が自動的に落札し、予定価格を1円でも上回る落札は認めないという制度で公共調達が行われてきた。それは、もともと工事の発注にはなじまない制度であるうえに、工事が複雑化、多様化するにつれて、発注実態とのギャップが一層大きくなっていった。その中でも公共工事の発注を行わなければならないとすると、制度外の「非公式な行為」が、そのギャップを埋める機能を果たすことになる。それが、業者間の話し合いで受注者を決める受注調整、つまり談合の恒常化だった。それによって品質・技術の面での評価が行われ、受注業者の信頼性が担保されることで、入札における価格だけの競争という制度の不合理性がカバーされてきた。
---
談合は、過当競争によって品質や技術が犠牲になるほど消耗することを避けるためには必要だったというわけだ。
同様に神崎直は、ゲームのルールさえ守れば何を犠牲にしても構わないというライアーゲームに抵抗し、話し合うことを繰り返し説く。
『LIAR GAME』のプレイヤーのひとり葛城リョウは、次のように説明した。
人間とは、助け合うことをDNAレベルで備えた生き物であると。
そして葛城リョウは、それを見返りを求める偽善であるとした。
しかし「偽善」と呼ぶのは適切ではない。
人が、自分に多少の損があっても誰かを助けるのは、助ける行為そのものが喜びだからだということが、脳科学の研究で判ってきた。
人間はお互いに助け合ったからこそ、猛獣よりも弱く、馬などより遅いのに生き残れた。猛獣が生まれついて牙を持ち、馬が生まれついて俊敏なように、人間は生まれついて助け合う生き物なのだ。
だから助け合うことを「悪」とはいえない。人間はそうせずにはいられないのだから。
目の前に入札という試練があったら、話し合って参加者みんなが利益を得るように努める。
これは人間として自然なことなのである。
もちろん、談合を禁止するにはわけがある。
高田直芳氏の記事を引用しよう。
---

問題は,カルテルや談合です。
(略)
これによって生まれるマーケット全体の機会損失(三角形FHK)は,到底容認されるものではありません。そのために,独占禁止法で処罰の対象となるわけです。なお,カルテルの主犯格企業への課徴金を重くし,違法行為を自主申告した企業の課徴金を軽減するのは,ゲーム理論で有名な「囚人のジレンマ」の効果を狙ったものです。
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話し合いの参加者だけを考えたら、談合という手段もアリかも知れない。
しかし世の中の直接間接の関係者がすべて話し合いに参加するのは不可能だから、どこかに損する人が出てくる。
たとえ参加できたとしても、話し合いで全員が必ず得するように結論を出すのは不可能だ。
だから、参加者だけで話し合う談合は違法とせざるを得ない。
神崎直が見落としているのは、事務局とてプレイヤーの1人だということだ。事務局だけ損させれば良いわけではない。
視聴者が神崎直の行動にいくら共感しようとも、実社会で同様のことをしたら違法行為になってしまう。
ましてや実社会では発注者も話し合いにかかわると、官製談合としてますます非難を浴びる。
高田直芳氏が、ゲーム理論の「囚人のジレンマ」の効果を狙っていると紹介した課徴金減免制度は、話し合いの仲間を裏切って、自分だけ得することをそそのかす制度だ。
まさにライアーゲームの事務局が仕掛けているのと同じこと。
神崎直を裏切る福永は、ドラマでは油断ならない人物だが、実社会なら法令遵守に努める者と評価されるのである。
それでも人間は、自然の摂理に従ったら、話し合わずには、談合せずにはいられないのだ。
合法・非合法の判断と、生き物としての在り方に由来する善悪とが食い違うとき、いずれの行動をとるべきなのか。
我々は固唾をのんで神崎直の行動を見つめている。

演出/松山博昭、大木綾子、佐々木詳太 植田泰史 長瀬国博
出演/戸田恵梨香 松田翔太 鈴木浩介 吉瀬美智子 渡辺いっけい 菊地凛子
日本公開/Season1 2007年 4月14日~2007年6月23日
Season2 2009年11月10日~2010年1月19日
ジャンル/[サスペンス] [ミステリー]


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『ビッグ・バグズ・パニック』 B級か中庸か?
映画が終わるとしばしの暗闇。
そしてかすかに、ほんのかすかに点る灯り。
映画の余韻を壊さぬように、ゆっくりと明るくなる場内。
銀座シネパトスという映画館は、その気遣いがうれしい。
立地も設備もサイコーってわけじゃないけれど、『ビッグ・バグズ・パニック』は他ならぬ銀座シネパトスで観たから面白かった。
ピカピカで豪勢なシネコンでは、かえって居心地悪かったろう。
そしてこの映画を観て、いまさらながら疑問に感じたことがあった。
「B級」ってなんだろう。
B級の定義が曖昧なので、私はこの言葉を滅多に使わない。
少なくとも、それはA級じゃなくてC級でもないということだろう。
でも1本の映画にはさまざまな魅力があるから、見方次第では、どこかしら突出していたり、どこかしらへこんでいたりする。
どこをとってもA級じゃなくてC級でもない映画なんて、そうそうお目にかからない。
ところが『ビッグ・バグズ・パニック』は、突出して優れたところがない。
脚本、演出、役者、特撮、どこをとってもすごーく感心することはない。
なのに、取り立ててダメなところもない。
脚本も演出も役者も特撮も、まぁそこそこイケている。観て損したとは思わない。
あぁ、これがB級というものだな、と私は思った。
世の中に、もっと面白い映画はある。
でも、もっとつまらない映画もある。
どこもかしこも、まんべんなく「そこそこ」に楽しませる。こういう作品をB級と呼べば良いのだろう。
『ビッグ・バグズ・パニック』の最大の魅力は主人公だ。
クリス・マークエットが不真面目でさえない主人公クーパーを好演している。
クーパーの武器は茶化すこと。
未曾有の危機にあって、誰もが極度の緊張に襲われるなか、茶化して受け流せるクーパーが結果的に1番モテる。
おそらくこの世界には、もっと真剣に怪物と戦っている人や、打開策を研究している人がいるだろう。
多くの作品はそういう人を主人公にする。
しかし本作は、敢えてまったりしたクーパーに焦点を当てることで、映画を中庸に保っているのだ。
『ビッグ・バグズ・パニック』 [は行]
監督・脚本/カイル・ランキン
出演/クリス・マークエット ブルック・ネヴィン レイ・ワイズ
日本公開/2009年11月28日
ジャンル/[コメディ] [パニック]
映画ブログ
そしてかすかに、ほんのかすかに点る灯り。
映画の余韻を壊さぬように、ゆっくりと明るくなる場内。
銀座シネパトスという映画館は、その気遣いがうれしい。
立地も設備もサイコーってわけじゃないけれど、『ビッグ・バグズ・パニック』は他ならぬ銀座シネパトスで観たから面白かった。
ピカピカで豪勢なシネコンでは、かえって居心地悪かったろう。
そしてこの映画を観て、いまさらながら疑問に感じたことがあった。
「B級」ってなんだろう。
B級の定義が曖昧なので、私はこの言葉を滅多に使わない。
少なくとも、それはA級じゃなくてC級でもないということだろう。
でも1本の映画にはさまざまな魅力があるから、見方次第では、どこかしら突出していたり、どこかしらへこんでいたりする。
どこをとってもA級じゃなくてC級でもない映画なんて、そうそうお目にかからない。
ところが『ビッグ・バグズ・パニック』は、突出して優れたところがない。
脚本、演出、役者、特撮、どこをとってもすごーく感心することはない。
なのに、取り立ててダメなところもない。
脚本も演出も役者も特撮も、まぁそこそこイケている。観て損したとは思わない。
あぁ、これがB級というものだな、と私は思った。
世の中に、もっと面白い映画はある。
でも、もっとつまらない映画もある。
どこもかしこも、まんべんなく「そこそこ」に楽しませる。こういう作品をB級と呼べば良いのだろう。
『ビッグ・バグズ・パニック』の最大の魅力は主人公だ。
クリス・マークエットが不真面目でさえない主人公クーパーを好演している。
クーパーの武器は茶化すこと。
未曾有の危機にあって、誰もが極度の緊張に襲われるなか、茶化して受け流せるクーパーが結果的に1番モテる。
おそらくこの世界には、もっと真剣に怪物と戦っている人や、打開策を研究している人がいるだろう。
多くの作品はそういう人を主人公にする。
しかし本作は、敢えてまったりしたクーパーに焦点を当てることで、映画を中庸に保っているのだ。
『ビッグ・バグズ・パニック』 [は行]
監督・脚本/カイル・ランキン
出演/クリス・マークエット ブルック・ネヴィン レイ・ワイズ
日本公開/2009年11月28日
ジャンル/[コメディ] [パニック]
映画ブログ
【theme : 特撮・SF・ファンタジー映画】
【genre : 映画】
『パイレーツ・ロック』 ゴキゲンなもの、それは…
こいつはゴキゲンな映画だ。
楽しいし、笑えるし、ハッピーになれて、ロックンロールに合わせて踊りたくなる。
ロックとポップス専門の海賊ラジオ局を描いた『パイレーツ・ロック』には、面白い映画の要素がテンコ盛りだ。
この映画はコメディだ。『Mr.ビーン』の脚本家であるリチャード・カーティス監督は、笑いのセンスも抜群である。
この映画は青春物だ。高校を退学になったカールの成長を描くだけでなく、羽目を外しまくりのオジサンたちもまだまだ若い。
この映画はミュージカルだ。ラジオのDJがロックを流すだけではない。歌に合わせて物語が進み、登場人物も歌っている。
この映画は犯罪物だ。当局に睨まれながらも、法の抜け穴を利用して海賊ラジオを続ける確信犯たちのしたたかさ。
この映画はスパイ物だ。さすが007の国、女王陛下のためなら潜入捜査もお手のもの。
この映画はダンス物だ。インド映画のような群舞はもちろん、ラジオのリスナーもDJも、いつも誰かが踊ってる。
この映画は感動ドラマだ。そうなのだ、ラジオのDJは人と人との"つながり"の結節点なのだ。
そしてもちろん、これは音楽映画だ。上映時間135分、活きのいいロックとポップスに身をゆだねよう!
舞台は1966年のイギリス。
なのにバックに流れるデヴィッド・ボウイの『レッツ・ダンス』は1983年の発売だ、なんて堅いことはいいっこなし。
楽しくてお洒落でカッコいい曲なら、何でもアリだ。
ひとつ確実に云えるのは、『パイレーツ・ロック』のサウンドトラックを買わなきゃいけないってこと。
サントラ収録のロック、ポップスには、すでに持ってる曲も多いんだけど、この映画のノリに合った選曲、いやこの映画のノリを生み出した選曲を味わいたい。
『パイレーツ・ロック』 [は行]
監督・脚本・製作総指揮/リチャード・カーティス
出演/フィリップ・シーモア・ホフマン トム・スターリッジ ビル・ナイ ウィル・アダムズデイル トム・ブルック リス・ダービー ニック・フロスト クリス・オダウド アイク・ハミルトン ケネス・ブラナー ジャック・ダヴェンポート リス・エヴァンス
日本公開/2009年10月24日
ジャンル/[ドラマ] [青春] [音楽]
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楽しいし、笑えるし、ハッピーになれて、ロックンロールに合わせて踊りたくなる。
ロックとポップス専門の海賊ラジオ局を描いた『パイレーツ・ロック』には、面白い映画の要素がテンコ盛りだ。
この映画はコメディだ。『Mr.ビーン』の脚本家であるリチャード・カーティス監督は、笑いのセンスも抜群である。
この映画は青春物だ。高校を退学になったカールの成長を描くだけでなく、羽目を外しまくりのオジサンたちもまだまだ若い。
この映画はミュージカルだ。ラジオのDJがロックを流すだけではない。歌に合わせて物語が進み、登場人物も歌っている。
この映画は犯罪物だ。当局に睨まれながらも、法の抜け穴を利用して海賊ラジオを続ける確信犯たちのしたたかさ。
この映画はスパイ物だ。さすが007の国、女王陛下のためなら潜入捜査もお手のもの。
この映画はダンス物だ。インド映画のような群舞はもちろん、ラジオのリスナーもDJも、いつも誰かが踊ってる。
この映画は感動ドラマだ。そうなのだ、ラジオのDJは人と人との"つながり"の結節点なのだ。
そしてもちろん、これは音楽映画だ。上映時間135分、活きのいいロックとポップスに身をゆだねよう!
舞台は1966年のイギリス。
なのにバックに流れるデヴィッド・ボウイの『レッツ・ダンス』は1983年の発売だ、なんて堅いことはいいっこなし。
楽しくてお洒落でカッコいい曲なら、何でもアリだ。
ひとつ確実に云えるのは、『パイレーツ・ロック』のサウンドトラックを買わなきゃいけないってこと。
サントラ収録のロック、ポップスには、すでに持ってる曲も多いんだけど、この映画のノリに合った選曲、いやこの映画のノリを生み出した選曲を味わいたい。
![パイレーツ・ロック [DVD]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/61rW0jL5LqL._SL160_.jpg)
監督・脚本・製作総指揮/リチャード・カーティス
出演/フィリップ・シーモア・ホフマン トム・スターリッジ ビル・ナイ ウィル・アダムズデイル トム・ブルック リス・ダービー ニック・フロスト クリス・オダウド アイク・ハミルトン ケネス・ブラナー ジャック・ダヴェンポート リス・エヴァンス
日本公開/2009年10月24日
ジャンル/[ドラマ] [青春] [音楽]


『宇宙戦艦ヤマト 復活篇』 5年の遅れを取り戻せるか?
![宇宙戦艦ヤマト 復活篇 [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/51JdVwpfkJL._SL160_.jpg)
『宇宙戦艦ヤマト 復活篇』の最初の制作発表は1994年だから、もう15年になる。
この間、長引く裁判をはじめ数々の障害があり、『YAMATO2520』も中絶したままとなり、もう復活篇を観ることは叶わないと諦めていた。
だから、本作の予告編を目にしたときは感激した。
しかし、本当はせめて5年前に公開するべきだったのだ。
2009年はガンダム30周年として、お台場での実物大モデルの展示をはじめ、ガンダムが大いに盛り上がった。
30年の歳月は、少年が成長して企業等でそれなりの権限を持てるほどの時間だ。
だから実物大ガンダムを制作できたのは、30周年というきりの良い数字もさることながら、ガンダムに熱狂した世代が自分たちの好きなことを企画・実現できるだけの権限を持つに至ったからだ。
1980年代に吉永小百合さん(1957年デビュー)の主演作が立て続けに作られ、CM等での起用が増えたときも、サユリストが決裁権を握ったからだと云われた。
出光興産とタイアップした『ウルトラマンゼアス』(1996)が、初代『ウルトラマン』(1966年7月17日~1967年4月9日)から30年目に制作されたのも、企業側をウルトラマン世代が占めるようになってGOサインが出やすかったのだろう。
テレビアニメ『赤毛のアン』のシリーズ作品が、30年後に制作されたのも偶然ではない。
したがって1974年10月6日から1975年3月30日まで放映された『宇宙戦艦ヤマト』は、2004~2005年がブームを仕掛けるのに最適だったのだ。
5年前であれば、ガンダム30周年とぶつかることもなく、企業とのタイアップも有利に運んだことだろう。
だから、2004年に再度『宇宙戦艦ヤマト 復活篇』の制作発表をしたのは、まことに適切なタイミングであった。
このときすみやかに公開できていれば、盛り上がり方も違ったはずだ。
しかし、いまさら云っても詮無いことだ。
驚くのは、15年を経ても当初の構想からそれほど変わっていないことだ。
原案の石原慎太郎氏は、かつてインタビューにおいて、ABCD包囲網に苦しむ日本の姿を投影すると語っていたが、本作で星間国家連合に移民を阻まれる地球は、石原慎太郎氏の言葉のままである。
さらに、米国だけが超大国だった20世紀が終わり、世界は多極化しつつあるにもかかわらず、湾岸戦争(1991)時代の様子をそのままアマール星に当てはめているのもビックリだ。
そして、本国から遠く離れているのをいいことに、文民統制なにするものぞと暴走し始める軍人たち。満州事変から300年近く経っても日本人は進歩しない。
なにしろ勝手に宣戦布告しちゃうのだから、のけぞらずにはいられない!
ところで、ヤマト30周年の節目こそ逃したものの、2009年は何を隠そう『宇宙空母ブルーノア』本放映から30年目である。
嬉しいことに、『宇宙戦艦ヤマト 復活篇』にはブルーノアも登場する。
ここはひとつ、ヤマトファンだけでなく、ブルーノアファンの力も結集して盛り上げよう。
そして、2010年12月に公開予定の木村拓哉主演『SPACE BATTLESHIP ヤマト』に繋げるのだ。
この作品に対して、映画的な興奮を味わいたいとか、面白さを堪能したいとか、感動したいなどと小さいことを考えてはいけない。
ヤマトの復活を見届けるのは、(年季の入った)アニメファンの義務なのだ。
![宇宙戦艦ヤマト 復活篇 [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/51JdVwpfkJL._SL160_.jpg)
監督・企画・原作・脚本・製作総指揮/西崎義展 総監修/舛田利雄
副監督・メカニックデザイン/小林誠 総作画監督・キャラクターデザイン/湖川友謙
原案/石原慎太郎 脚本/石原武龍、冨岡淳広 音楽監督/大友直人
出演/山寺宏一 伊武雅刀 飯塚昭三 井上和彦
日本公開/2009年12月12日
ジャンル/[SF] [アドベンチャー]


『カールじいさんの空飛ぶ家』 終わりから始まる物語
末期ガンに侵された10歳の少女のために、ピクサーが『カールじいさんの空飛ぶ家』を特別に上映した、という記事を読んでから、本作の日本公開を待ち焦がれていた。
本作の宣伝では、宮崎駿監督の次の言葉が紹介されている。
実はボクは、「追憶のシーン」だけで満足してしまいました。
まさしく、最初の10分間だけで、映画代2,000円の価値があった。
ピクサーが初めて人間を主人公にした『カールじいさんの空飛ぶ家』は、一般的なアニメーション映画の客層とは対極にある老人の物語だ。
カールじいさんはすっかり年老いて、亡き妻を偲ぶだけの淋しい生活を送っている。
夫婦で冒険に出ることも叶わず、大事に手入れする愛車もない。
最初の10分で映画1本分の満足を味わえたので、さぁこれからどんな物語が紡ぎ出されるのか楽しみだった。
その旅は意外にリアルだ。
目指すのは、パラダイスの滝。
幻想的な風景だが、公式サイトによれば、そのモデルはベネズエラのギアナ高地にあるエンジェルの滝(スペイン語読みでアンヘル滝)だそうだ。
落差979メートルという世界最大の滝である。
そして犬好きには、愛嬌たっぷりのダグの言動がたまらない。
特にエリザベスカラーを付けられたときのションボリした様子には、さもありなんと思うはずだ。
それにしても、作品にタイトルをつけるのはつくづく難しい。
『カールじいさんの空飛ぶ家』という邦題は素晴らしい。
「空飛ぶ家」なんて聞いただけでワクワクする。
『ハウルの動く城』のような不思議なものなのか、はたまた『天空の城ラピュタ』のように冒険が詰まったものなのか、期待を抱かせるに充分だ。
それにひきかえ、原題の『Up』は具体性がなくて面白くない…。
そう考えていたのだが、本作を観終わって、原題こそ相応しいと実感した。
カールじいさんは、家で空を飛ぶのではなく、家から空へ飛ぶのである。
『カールじいさんの空飛ぶ家』 [か行]
監督・原案・脚本/ピート・ドクター 共同監督・原案・脚本/ボブ・ピーターソン
原案/トーマス・マッカーシー 製作総指揮/アンドリュー・スタントン
出演/ジョーダン・ナガイ ボブ・ピーターソン クリストファー・プラマー
日本語吹替版の出演/飯塚昭三
日本公開/2009年12月5日
ジャンル/[アドベンチャー] [ファミリー] [コメディ] [犬]
http://bookmarks.yahoo.co.jp/bookmarklet/showpopup?t='+encodeURIComponent(document.title)+'&u='+encodeURIComponent(location.href)+'&ei=UTF-8','_blank','width=550,height=480,left=100,top=50,scrollbars=1,resizable=1',0);">
本作の宣伝では、宮崎駿監督の次の言葉が紹介されている。
実はボクは、「追憶のシーン」だけで満足してしまいました。
まさしく、最初の10分間だけで、映画代2,000円の価値があった。
ピクサーが初めて人間を主人公にした『カールじいさんの空飛ぶ家』は、一般的なアニメーション映画の客層とは対極にある老人の物語だ。
カールじいさんはすっかり年老いて、亡き妻を偲ぶだけの淋しい生活を送っている。
夫婦で冒険に出ることも叶わず、大事に手入れする愛車もない。
最初の10分で映画1本分の満足を味わえたので、さぁこれからどんな物語が紡ぎ出されるのか楽しみだった。
その旅は意外にリアルだ。
目指すのは、パラダイスの滝。
幻想的な風景だが、公式サイトによれば、そのモデルはベネズエラのギアナ高地にあるエンジェルの滝(スペイン語読みでアンヘル滝)だそうだ。
落差979メートルという世界最大の滝である。
そして犬好きには、愛嬌たっぷりのダグの言動がたまらない。
特にエリザベスカラーを付けられたときのションボリした様子には、さもありなんと思うはずだ。
それにしても、作品にタイトルをつけるのはつくづく難しい。
『カールじいさんの空飛ぶ家』という邦題は素晴らしい。
「空飛ぶ家」なんて聞いただけでワクワクする。
『ハウルの動く城』のような不思議なものなのか、はたまた『天空の城ラピュタ』のように冒険が詰まったものなのか、期待を抱かせるに充分だ。
それにひきかえ、原題の『Up』は具体性がなくて面白くない…。
そう考えていたのだが、本作を観終わって、原題こそ相応しいと実感した。
カールじいさんは、家で空を飛ぶのではなく、家から空へ飛ぶのである。
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監督・原案・脚本/ピート・ドクター 共同監督・原案・脚本/ボブ・ピーターソン
原案/トーマス・マッカーシー 製作総指揮/アンドリュー・スタントン
出演/ジョーダン・ナガイ ボブ・ピーターソン クリストファー・プラマー
日本語吹替版の出演/飯塚昭三
日本公開/2009年12月5日
ジャンル/[アドベンチャー] [ファミリー] [コメディ] [犬]

