『20世紀少年』の科学と学習
1995年3月20日、安否を確かめるために私は電話をかけていた。
この日の朝、地下鉄千代田線、丸ノ内線、日比谷線に、神経ガスのサリンが撒かれたのである。
原作者の浦沢直樹氏は1960年1月生まれ、『20世紀少年』の主人公・遠藤ケンヂと同学年である。
原作マンガのプロット共同制作者であり映画でも企画・脚本を担当した長崎尚志氏は1956年生まれ、堤幸彦監督は1955年生まれである。
地下鉄サリン事件の実行犯や当時のオウム真理教幹部も50~60年代の生まれであり、ケンヂたちと同世代である。
タイトルに「本格科学冒険映画」(原作では「本格科学冒険漫画」)と書き添えられているように、20世紀後半、ケンヂが育ったのは、まさしく科学と冒険への憧れを掻き立てた時代だった。
『20世紀少年』では大阪万博を大きく取り上げているが、日本の少年たちを刺激した出来事は万博だけにとどまらない。
主なものを列挙してみよう。
1963年 テレビアニメ『鉄人28号』放映。軍事兵器として開発されたロボットと少年が活躍する。
1965年 朝永振一郎博士がノーベル物理学賞を受賞。
1969年 人類初の月面着陸。
1970年 大阪万博が開催される。
1971年 ソビエト連邦が世界初の宇宙ステーション、サリュート1号を打ち上げる。
1973年 米国も宇宙ステーション、スカイラブ1号を打ち上げる。
1973年 江崎玲於奈博士がノーベル物理学賞を受賞。
1974年 『宇宙戦艦ヤマト』放映。ワープ航法や波動エンジン等の(架空の)理論及び技術の説明に時間を割くという珍しい番組だった。
1975年 米国のアポロ宇宙船とソ連のソユーズ宇宙船がドッキングに成功。
1979年 『機動戦士ガンダム』放映。ミノフスキー粒子による電磁波障害効果が、モビルスーツ開発の要因であると説明される。
1981年 初のスペースシャトル有人宇宙飛行。
1985年 筑波で科学万博が開催される。
1965年生まれの音楽家・伊東乾氏は、このような時代に育つ中で、「一番のサイエンスとテクノロジーは『宇宙開発』であり『素粒子物理学』」と信じ、「素粒子物理こそが一番の物理で、そこで業績を上げることが物理の価値」であるという考え方に凝り固まっていた、と述べている。
たしかに物理学(特に素粒子物理)には、宇宙の真理を探究し、創生の秘密を解き明かす学問というイメージがある。
伊東乾氏は、東京大学理学部物理学科さらに同大学院物理学専攻に進み、その同級生には地下鉄サリン事件の実行犯となる豊田亨被告がいる。
彼らが物理学を学んでいたころ、冷戦による科学競争は終結しつつあり、物理学徒の思いに反して素粒子物理学も宇宙開発も急速に後退していく。
そして「『素粒子こそ究極最高の物理学』という信仰」に破れ、「目標を失った科学少年たち」は、伊東乾氏のように音楽の道へ進んだり、科学とは別の真理を求めて出家し、地下鉄サリン事件の実行犯になったりするのである。
オウム真理教では、開発した空気清浄機にコスモクリーナーと名付けたり、販売するパソコンのブランドをオリハルコンと名付けたりしていた。
云うまでもなく、コスモクリーナーは『宇宙戦艦ヤマト』に登場する放射能除去装置、オリハルコンは『海のトリトン』(1972年)が持つスーパーパワーを秘めた短剣のことである(オリハルコンという金属は古代ギリシア・ローマの文献に登場するが、50~60年代生まれの少年たちに、オリハルコンが超絶したパワーを有する物質であると刷り込んだのはテレビアニメ『海のトリトン』である)。
これらは、オウム真理教に集まった"ともだち"が、どのような嗜好を共有していたかを端的に表している。
原作のプロット共同制作者である長崎尚志氏は、映画の公式サイトで次のように語っている。
---
『20世紀少年』で浦沢さんと僕は「ともだちが誰なのか?」ではなく、「ともだちは何だったのか?」、「20世紀とは何だったのか?」を問いかけています。そこさえブレなければ、後は原作と違うことがあっても良かった。
---
目標を失ったのは、50~60年代生まれの科学少年だけではない。
21世紀の現代、子供たちの理科離れ、工学部離れが叫ばれている。
一方スピリチュアル(spiritual)な世界は、地上波テレビのゴールデンタイムを占拠するほどの興隆を見せた。
ゲーテは、『ファウスト』(1808~1833年)で次のように述べている。
すべて移ろい行くものは、
永遠なるものの比喩に過ぎず、
かつて満たされざりしもの、
今ここに満たさる。
我々を取り巻く万物は流転する。だからこそスピリチュアルな「永遠なるもの」に思いを馳せる。そして「永遠なるもの」を夢想することで満たされる。
『20世紀少年』では、お茶の水工科大学の学生であった田村マサオが"ともだち"に絡めとられていき、「これが宇宙との一体だ!」と叫ぶに至ることで、カルト団体に走る青年と、スピリチュアルな方向に流される世間を象徴させている。
堤幸彦監督は、テレビドラマ及び映画の『トリック』で、宗教団体の言説や超常現象がトリックでしかないことを繰り返し描いてきた。
そのスタンスは『20世紀少年』でも変わらない。
いや、『トリック』以上に「永遠なるもの」に惑わされる危険を訴えている。
それを我々は学習しただろうか。
ゲーテの『ファウスト』に対して、ニーチェ(1844-1900)は次の言葉を返している。
過ぎ行かざるもの、
これは汝の比喩に過ぎぬ!
神、このいかがわしきものは、
詩人が不正にも拵え上げたもの…
ゲーテは、移ろい行くもの(流転する万物)は真の姿ではなく、「永遠なるもの」が別にあると述べたが、ニーチェは「永遠なるもの」こそ想像力が生み出した例え話に過ぎないと主張したのである。
そしてニーチェは、肉体を超越した魂などの「永遠なるもの」に惑わされるから、不安や恐れが生じるのだと説く。
---
「わたしは誓って言う、友よ」とツァラトゥストラは言った。「あなたが言っているようなものは何もかも存在しない。悪魔もなければ、地獄もない。肉体よりもあなたの魂の方が、はやく死ぬだろう。もう何も恐れることはない!」
---
-ニーチェ『ツァラトゥストラはこう言った』-
19世紀、ニーチェはこれらの言葉を残したが、我々はいまだ比喩でしかない「永遠なるもの」を夢想している。
それは何もカルト教団に入信することに限らない。
多くの人が毎日のようにテレビ・雑誌の星占いや血液型占いを目にしている。
人々は星座や血液型で運勢が判るかのような言説にさしたる抵抗も示さないので、占う側はトリックをろうするまでもない。
そして新年になれば、みんないっせいに神社仏閣に足を運ぶ(これを初詣という)。
ある時期に全人口の78%が宗教施設に集まるとは、たいへんな信仰心である。
しかし習慣化した初詣はあまりにも馴染んでしまい、人々は宗教的儀式を行っている自覚すらない。
"ともだち"が手玉に取るのはたやすいのである。
『20世紀少年』 (ソフト化に際して『20世紀少年 -第1章- 終わりの始まり』と改題) [な行]
『20世紀少年<第2章> 最後の希望』
『20世紀少年<最終章> ぼくらの旗』
監督/堤幸彦
脚本/長崎尚志 福田靖(1作目のみ) 浦沢直樹(1作目、3作目のみ) 渡辺雄介(1作目、2作目のみ)
出演/唐沢寿明 豊川悦司 常盤貴子 香川照之 石塚英彦 宇梶剛士 宮迫博之 生瀬勝久 小日向文世 佐々木蔵之介 平愛梨 神木隆之介 ARATA 藤木直人
日本公開/1作目:2008年8月30日 2作目:2009年1月31日 3作目:2009年8月29日
ジャンル/[SF] [サスペンス]
映画ブログ
この日の朝、地下鉄千代田線、丸ノ内線、日比谷線に、神経ガスのサリンが撒かれたのである。
原作者の浦沢直樹氏は1960年1月生まれ、『20世紀少年』の主人公・遠藤ケンヂと同学年である。
原作マンガのプロット共同制作者であり映画でも企画・脚本を担当した長崎尚志氏は1956年生まれ、堤幸彦監督は1955年生まれである。
地下鉄サリン事件の実行犯や当時のオウム真理教幹部も50~60年代の生まれであり、ケンヂたちと同世代である。
タイトルに「本格科学冒険映画」(原作では「本格科学冒険漫画」)と書き添えられているように、20世紀後半、ケンヂが育ったのは、まさしく科学と冒険への憧れを掻き立てた時代だった。
『20世紀少年』では大阪万博を大きく取り上げているが、日本の少年たちを刺激した出来事は万博だけにとどまらない。
主なものを列挙してみよう。
1963年 テレビアニメ『鉄人28号』放映。軍事兵器として開発されたロボットと少年が活躍する。
1965年 朝永振一郎博士がノーベル物理学賞を受賞。
1969年 人類初の月面着陸。
1970年 大阪万博が開催される。
1971年 ソビエト連邦が世界初の宇宙ステーション、サリュート1号を打ち上げる。
1973年 米国も宇宙ステーション、スカイラブ1号を打ち上げる。
1973年 江崎玲於奈博士がノーベル物理学賞を受賞。
1974年 『宇宙戦艦ヤマト』放映。ワープ航法や波動エンジン等の(架空の)理論及び技術の説明に時間を割くという珍しい番組だった。
1975年 米国のアポロ宇宙船とソ連のソユーズ宇宙船がドッキングに成功。
1979年 『機動戦士ガンダム』放映。ミノフスキー粒子による電磁波障害効果が、モビルスーツ開発の要因であると説明される。
1981年 初のスペースシャトル有人宇宙飛行。
1985年 筑波で科学万博が開催される。
1965年生まれの音楽家・伊東乾氏は、このような時代に育つ中で、「一番のサイエンスとテクノロジーは『宇宙開発』であり『素粒子物理学』」と信じ、「素粒子物理こそが一番の物理で、そこで業績を上げることが物理の価値」であるという考え方に凝り固まっていた、と述べている。
たしかに物理学(特に素粒子物理)には、宇宙の真理を探究し、創生の秘密を解き明かす学問というイメージがある。
伊東乾氏は、東京大学理学部物理学科さらに同大学院物理学専攻に進み、その同級生には地下鉄サリン事件の実行犯となる豊田亨被告がいる。
彼らが物理学を学んでいたころ、冷戦による科学競争は終結しつつあり、物理学徒の思いに反して素粒子物理学も宇宙開発も急速に後退していく。
そして「『素粒子こそ究極最高の物理学』という信仰」に破れ、「目標を失った科学少年たち」は、伊東乾氏のように音楽の道へ進んだり、科学とは別の真理を求めて出家し、地下鉄サリン事件の実行犯になったりするのである。
オウム真理教では、開発した空気清浄機にコスモクリーナーと名付けたり、販売するパソコンのブランドをオリハルコンと名付けたりしていた。
云うまでもなく、コスモクリーナーは『宇宙戦艦ヤマト』に登場する放射能除去装置、オリハルコンは『海のトリトン』(1972年)が持つスーパーパワーを秘めた短剣のことである(オリハルコンという金属は古代ギリシア・ローマの文献に登場するが、50~60年代生まれの少年たちに、オリハルコンが超絶したパワーを有する物質であると刷り込んだのはテレビアニメ『海のトリトン』である)。
これらは、オウム真理教に集まった"ともだち"が、どのような嗜好を共有していたかを端的に表している。
原作のプロット共同制作者である長崎尚志氏は、映画の公式サイトで次のように語っている。
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『20世紀少年』で浦沢さんと僕は「ともだちが誰なのか?」ではなく、「ともだちは何だったのか?」、「20世紀とは何だったのか?」を問いかけています。そこさえブレなければ、後は原作と違うことがあっても良かった。
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目標を失ったのは、50~60年代生まれの科学少年だけではない。
21世紀の現代、子供たちの理科離れ、工学部離れが叫ばれている。
一方スピリチュアル(spiritual)な世界は、地上波テレビのゴールデンタイムを占拠するほどの興隆を見せた。
ゲーテは、『ファウスト』(1808~1833年)で次のように述べている。
すべて移ろい行くものは、
永遠なるものの比喩に過ぎず、
かつて満たされざりしもの、
今ここに満たさる。
我々を取り巻く万物は流転する。だからこそスピリチュアルな「永遠なるもの」に思いを馳せる。そして「永遠なるもの」を夢想することで満たされる。
『20世紀少年』では、お茶の水工科大学の学生であった田村マサオが"ともだち"に絡めとられていき、「これが宇宙との一体だ!」と叫ぶに至ることで、カルト団体に走る青年と、スピリチュアルな方向に流される世間を象徴させている。
堤幸彦監督は、テレビドラマ及び映画の『トリック』で、宗教団体の言説や超常現象がトリックでしかないことを繰り返し描いてきた。
そのスタンスは『20世紀少年』でも変わらない。
いや、『トリック』以上に「永遠なるもの」に惑わされる危険を訴えている。
それを我々は学習しただろうか。
ゲーテの『ファウスト』に対して、ニーチェ(1844-1900)は次の言葉を返している。
過ぎ行かざるもの、
これは汝の比喩に過ぎぬ!
神、このいかがわしきものは、
詩人が不正にも拵え上げたもの…
ゲーテは、移ろい行くもの(流転する万物)は真の姿ではなく、「永遠なるもの」が別にあると述べたが、ニーチェは「永遠なるもの」こそ想像力が生み出した例え話に過ぎないと主張したのである。
そしてニーチェは、肉体を超越した魂などの「永遠なるもの」に惑わされるから、不安や恐れが生じるのだと説く。
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「わたしは誓って言う、友よ」とツァラトゥストラは言った。「あなたが言っているようなものは何もかも存在しない。悪魔もなければ、地獄もない。肉体よりもあなたの魂の方が、はやく死ぬだろう。もう何も恐れることはない!」
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-ニーチェ『ツァラトゥストラはこう言った』-
19世紀、ニーチェはこれらの言葉を残したが、我々はいまだ比喩でしかない「永遠なるもの」を夢想している。
それは何もカルト教団に入信することに限らない。
多くの人が毎日のようにテレビ・雑誌の星占いや血液型占いを目にしている。
人々は星座や血液型で運勢が判るかのような言説にさしたる抵抗も示さないので、占う側はトリックをろうするまでもない。
そして新年になれば、みんないっせいに神社仏閣に足を運ぶ(これを初詣という)。
ある時期に全人口の78%が宗教施設に集まるとは、たいへんな信仰心である。
しかし習慣化した初詣はあまりにも馴染んでしまい、人々は宗教的儀式を行っている自覚すらない。
"ともだち"が手玉に取るのはたやすいのである。
『20世紀少年』 (ソフト化に際して『20世紀少年 -第1章- 終わりの始まり』と改題) [な行]
『20世紀少年<第2章> 最後の希望』
『20世紀少年<最終章> ぼくらの旗』
監督/堤幸彦
脚本/長崎尚志 福田靖(1作目のみ) 浦沢直樹(1作目、3作目のみ) 渡辺雄介(1作目、2作目のみ)
出演/唐沢寿明 豊川悦司 常盤貴子 香川照之 石塚英彦 宇梶剛士 宮迫博之 生瀬勝久 小日向文世 佐々木蔵之介 平愛梨 神木隆之介 ARATA 藤木直人
日本公開/1作目:2008年8月30日 2作目:2009年1月31日 3作目:2009年8月29日
ジャンル/[SF] [サスペンス]
映画ブログ
【theme : 特撮・SF・ファンタジー映画】
【genre : 映画】
『赤毛のアン』30周年

ところで、1987年に『ハチ公物語』を監督したのは神山征二郎氏。その神山氏が脚本を書いたテレビアニメ『赤毛のアン』(1979年)が、本放映から30年を経てANIMAXで放映中である。
はじめて『赤毛のアン』を目にしたとき、その新しさは衝撃的であった。
第1話、アンを迎えに来たマシュウが、駅の階段で靴の泥をぬぐう。
ちょっとした仕草だが、こんな仕草をわざわざ作画してテレビアニメの枠で放映するのは、たいへん珍しいことだった。
マシュウのちょいと驚いた表情、少しばかり困った表情、アンがおしゃべりの最中に視線をそらせるところ。こんなこまごました表情はストーリー展開に必ずしも必要ではない。だからそれまでのアニメではきちんと描いていなかった。
さらに、青い絵の具に白い絵の具を滲ませたような雲、そして雲だけのカット(画面にキャラクターが映っていない)も珍しかった。
そして主人公アンを演じる山田栄子の朗読のような長ゼリフ。感情を抑えた羽佐間道夫のナレーション。
これらもテレビアニメでは聞いたことがないものだった。
驚きのうちに、ストーリーを全然進めることなく第1話は終わってしまう。
表情や仕草や景色を丁寧に描いていくと、ストーリーを進める余地などないんだという、これまた衝撃。
アンが喜ぶと花びらが降り注ぎ、妖精たちが踊りだす。
とても「クサく」なりそうな演出なのに、画面は美しく展開する。
改めて『赤毛のアン』のクレジットを見ると感嘆する。
監督は高畑勲氏、場面設定・画面構成に『未来少年コナン』を終えたばかりの宮崎駿氏、絵コンテは『機動戦士ガンダム』を制作するとみの喜幸(現・富野由悠季)氏、キャラクターデザイン・作画監督は後に『耳をすませば』を監督する近藤喜文氏。
『赤毛のアン』の完璧さに突っ込みどころがないのも、もっともである。
これほど素晴らしい『赤毛のアン』だが、実はしばしばこの作品を好きではないという人がいる。
作品の質にケチを付けるわけではない。ただ、好きになれないという。
その理由は、現在BSフジで放映中の前日譚『こんにちは アン ~Before Green Gables』と比べてみれば判りやすいのではないか。
アンがグリーン・ゲイブルズ(緑の切妻屋根の家)に引き取られる前を描いた『こんにちは アン』で、アンは明らかに不幸な境遇にあり、アンが少々風変わりでも視聴者はアンに同情を寄せる。
それに対して、『赤毛のアン』でのアンは、マリラの厳格なしつけを受けつつも決して不幸なわけではなく、どちらかといえば激情家で夢見がちなアンに周囲が振り回されている。
周囲を振り回す主人公は多くの作品に登場するが(オバケのQ太郎とか)、彼らが好かれるのは愛嬌やユーモアがあるからだ。アン・シャーリーには、愛嬌もユーモアも乏しい。
どうもこのあたりが好き嫌いの分かれるところなのだろう。
だが、ここはひとつアンの成長につきあってもらいたい。
いつしかアンに変化が訪れ、我々はそれを寂しく思うのだ。マリラと一緒に。
さて、衝撃的な『赤毛のアン』において、その音楽もアニメファンには驚きだった。
主題歌・挿入歌は三善晃氏、挿入歌と劇音楽は弟子筋である毛利蔵人氏が作っているのだが、無知な私はお二人とも知らなかった。
二人とも『赤毛のアン』の前にも後にもアニメにはかかわっていないので、アニメファンにとっては突然超新星が輝いてすぐに消え去ってしまったようなものである。
後に、合唱をやっている友人が三善晃氏の曲を練習していたことから、私はそのフィールドを知った次第である。
お二人の音楽について私ごときが書き綴るのは大それたことだが、あえて表現させていただけば、『赤毛のアン』の音楽の特徴は上品さである。
アンや友人ダイアナら"小さな貴婦人"たちの、つつましやかでありながら伸び伸びとした世界を、音楽が形作っている。
テレビアニメ『赤毛のアン』を好きな人も、そうでない人も、まったく知らないという人も、この音楽にはぜひ耳を傾けてもらいたい。
ところでANIMAXの放映でひとついただけないのは、第1話の放映から「厚生省児童福祉文化賞受賞」というクレジットを付けていることだ。
受賞したのは本放映開始からしばらくしてのことであり、とうぜん第1話にこのクレジットはなかった。
アニメ専門チャンネルとして、こだわってほしいところである。

監督/高畑勲
出演/山田栄子 北原文枝 槐柳二 高島雅羅 井上和彦
日本公開/1979年1月7日~1979年12月30日
ジャンル/[ドラマ] [ファミリー]


『南極料理人』を観るつらさ
テアトル新宿は全席指定なのに、『南極料理人』は立ち見が出る盛況だった。
同じくテアトル新宿で観た『インスタント沼』も混んでいた。
映画ファンの嗅覚はたいしたものだ。
『南極料理人』は、8人の隊員の1年半にわたる南極での暮らしを描いたものである。
それだけ。
長いあいだ8人だけで生活していれば、さまざまな問題が出てくる。
ルールを守らないヤツ、奇行に走るヤツ、家族から見放されるヤツ。
でも本作はそれぞれの問題を深く掘り下げたりしない。
規律の見直しをしたり、メンタルヘルスの問題として取り組んだり、人事的な配慮をしたり、という展開にはならない。
ちょっと注意することや、軽く謝ったりはする。
それだけ。
なぜか。
大人だからだ。
人間だれしも、ちょっとくらい変なところやルーズなところや悩みを抱えている。
でも正面きって取り上げたり、大騒ぎはしないのだ。
我々は日々そうしている。
それで何となく平穏にやり過ごしている。
南極という厳しい環境では、日々平穏に過ごすことこそ大事だ。
日本での日常も同じこと。
『南極料理人』では、日々の問題について掘り下げずにやり過ごす姿が描かれており、我々はそこに共感と安心を覚える。
『インスタント沼』が豪快に笑わせながらも最後はちょいと説教っぽくなってしまうのに対して、本作は淡々と日常生活が続く。
私は『インスタント沼』を観て「すべて笑いのネタにして終われば良かったのに」と思っていたので、『南極料理人』にいたく共感した。
興味深いのは、たった8人の隊なのに、日々の作業がきっちりある人と、これといって目先の作業がない人がいること。
車両担当なんて、車両を出さない日はやることがない。
でも、1年半の生活のどこかでは必要になるかも知れない。
だから、いる。
作業の軽重は関係なく、8人の歯車がそれぞれきちんと回ってはじめて共同体が成立するのだ。
作中で明示的には語られていないが、8人には重要なルールがある。
みんな揃って、一緒に食事すること。
食事の席にいない人間が問題を起こす展開には、うなずく人も多いだろう。
調理担当の西村は、父親が単身赴任で母の元気がないという娘に、こう助言する。
「今度は、キミがお母さんにご飯を作ってあげたらどうかな。」
「…なんで?」
「だって、おいしいものを食べると元気になるでしょ。」
娘のつくる料理がおいしいかどうかは判らない。
しかし母にとっては、娘がつくってくれた料理を一緒に食べるのは何よりもおいしいことだろう。
一緒に食べることが大切だとこの映画は云っている。
とはいえ、南極越冬隊のみならず、極寒の網走で撮影に臨んだスタッフ、キャストもたいへんだったろう。
医師を演じた豊原功補さんは語る。
---
どんなに離れていても、夫婦や親子の間には断ちがたい愛情があり、自分を奮い立たせる力にもなります。
僕自身、映画などの撮影が始まると、小学生の息子とは、なかなか一緒に過ごせませんが、絆(きずな)を信じているので、不安はありません。
---
-讀賣新聞 2009年8月18日夕刊-
ところで、私が観たのは18時55分開始の回。
映画は全編、食事しているシーンと食事を作っているシーンと食事について話し合っているシーンばかり。
空きっ腹にはつらすぎる。
早く帰って家族と一緒にご飯を食べよう!
『南極料理人』 [な行]
監督・脚本/沖田修一 音楽/阿部義晴
出演/堺雅人(調理担当) 生瀬勝久(雪氷学者) きたろう(気象学者) 高良健吾(雪氷サポート) 豊原功補(医療担当) 古舘寛治(車両担当) 小浜正寛(大気学者) 黒田大輔(通信担当)
日本公開/2009年8月8日
ジャンル/[ドラマ] [コメディ]
http://bookmarks.yahoo.co.jp/bookmarklet/showpopup?t='+encodeURIComponent(document.title)+'&u='+encodeURIComponent(location.href)+'&ei=UTF-8','_blank','width=550,height=480,left=100,top=50,scrollbars=1,resizable=1',0);">
同じくテアトル新宿で観た『インスタント沼』も混んでいた。
映画ファンの嗅覚はたいしたものだ。
『南極料理人』は、8人の隊員の1年半にわたる南極での暮らしを描いたものである。
それだけ。
長いあいだ8人だけで生活していれば、さまざまな問題が出てくる。
ルールを守らないヤツ、奇行に走るヤツ、家族から見放されるヤツ。
でも本作はそれぞれの問題を深く掘り下げたりしない。
規律の見直しをしたり、メンタルヘルスの問題として取り組んだり、人事的な配慮をしたり、という展開にはならない。
ちょっと注意することや、軽く謝ったりはする。
それだけ。
なぜか。
大人だからだ。
人間だれしも、ちょっとくらい変なところやルーズなところや悩みを抱えている。
でも正面きって取り上げたり、大騒ぎはしないのだ。
我々は日々そうしている。
それで何となく平穏にやり過ごしている。
南極という厳しい環境では、日々平穏に過ごすことこそ大事だ。
日本での日常も同じこと。
『南極料理人』では、日々の問題について掘り下げずにやり過ごす姿が描かれており、我々はそこに共感と安心を覚える。
『インスタント沼』が豪快に笑わせながらも最後はちょいと説教っぽくなってしまうのに対して、本作は淡々と日常生活が続く。
私は『インスタント沼』を観て「すべて笑いのネタにして終われば良かったのに」と思っていたので、『南極料理人』にいたく共感した。
興味深いのは、たった8人の隊なのに、日々の作業がきっちりある人と、これといって目先の作業がない人がいること。
車両担当なんて、車両を出さない日はやることがない。
でも、1年半の生活のどこかでは必要になるかも知れない。
だから、いる。
作業の軽重は関係なく、8人の歯車がそれぞれきちんと回ってはじめて共同体が成立するのだ。
作中で明示的には語られていないが、8人には重要なルールがある。
みんな揃って、一緒に食事すること。
食事の席にいない人間が問題を起こす展開には、うなずく人も多いだろう。
調理担当の西村は、父親が単身赴任で母の元気がないという娘に、こう助言する。
「今度は、キミがお母さんにご飯を作ってあげたらどうかな。」
「…なんで?」
「だって、おいしいものを食べると元気になるでしょ。」
娘のつくる料理がおいしいかどうかは判らない。
しかし母にとっては、娘がつくってくれた料理を一緒に食べるのは何よりもおいしいことだろう。
一緒に食べることが大切だとこの映画は云っている。
とはいえ、南極越冬隊のみならず、極寒の網走で撮影に臨んだスタッフ、キャストもたいへんだったろう。
医師を演じた豊原功補さんは語る。
---
どんなに離れていても、夫婦や親子の間には断ちがたい愛情があり、自分を奮い立たせる力にもなります。
僕自身、映画などの撮影が始まると、小学生の息子とは、なかなか一緒に過ごせませんが、絆(きずな)を信じているので、不安はありません。
---
-讀賣新聞 2009年8月18日夕刊-
ところで、私が観たのは18時55分開始の回。
映画は全編、食事しているシーンと食事を作っているシーンと食事について話し合っているシーンばかり。
空きっ腹にはつらすぎる。
早く帰って家族と一緒にご飯を食べよう!
![南極料理人 [DVD]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/51WIGvtoxUL._SL160_.jpg)
監督・脚本/沖田修一 音楽/阿部義晴
出演/堺雅人(調理担当) 生瀬勝久(雪氷学者) きたろう(気象学者) 高良健吾(雪氷サポート) 豊原功補(医療担当) 古舘寛治(車両担当) 小浜正寛(大気学者) 黒田大輔(通信担当)
日本公開/2009年8月8日
ジャンル/[ドラマ] [コメディ]


『チョコレート・ファイター』に悲鳴!!
「ぎゃッ!」「ひいッ!!」、劇場内で悲鳴が上がる。
スクリーンの中ではない、観客があまりのことに悲鳴を上げているのだ。
これまで、客席から笑いが起こったり、すすり泣きが漏れたりする映画は経験したが、悲鳴を聞くのは初めてだ。
それほど『チョコレート・ファイター』は容赦がない。
何がって、アクションがだ。
「ノー・ワイヤー! ノー・CG! ノー・スタント!」
予告編に踊るこの文字は、ダテじゃない。
役者がビルから落ちて路面に叩きつけられると客席が「ぎゃッ!」、役者が突き出た杭の上に背中から倒れ、背骨が折れんばかりの打撃を受けると客席でも「ひいッ!!」、思わず観客も悲鳴を上げる。
殴り合い、蹴り合い、落とし落とされる役者たちに息を呑む。
「これ、映画的なトリックがなければ大怪我してるぞ。」
ハラハラしながら観ていると、とどめはエンディングのメイキング映像。
メイキングといっても「セリフをトチッてすみません、アハハ」なんて楽屋落ちではない。
役者がビルから落ちるシーン、客席から悲鳴が上がったあのシーン。本編では落ちたところで別のカットに変わるが、メイキング映像では路面に叩きつけられてピクリとも動かない役者にスタッフが駆け寄っている。
「やっぱり無事じゃなかった…。」
ざっくり切れた傷を手当するシーン、介抱されるシーン、けが人が運ばれるシーン、病室で横たわるシーン。
「映画的なトリックはなかった…。」
腰が抜けたように、観客は誰も席を立てない。
『マッハ!』の激しいアクションで映画ファンの度肝を抜いたプラッチャヤー・ピンゲーオ監督が、可憐なヒロイン、ジージャーことヤーニン・ウィサミタナンを得て作ったのが『チョコレート・ファイター』だ。
少女のような華奢な体と怒涛のごとき格闘技はあまりにもアンバランスで、観客はみんなジージャーに魅了される。
しかし映画が終わるころには、傷だらけのジージャーはもとより、すべての出演者、スタッフに感服している。
おそるべき映画である。
![チョコレート・ファイター [DVD]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/51K-U3xQUNL._SL160_.jpg)
監督/プラッチャヤー・ピンゲーオ アクション監修/パンナー・リットグライ
出演/ヤーニン・ウィサミタナン(ジージャー) 阿部寛
日本公開/2009年5月23日
ジャンル/[アクション] [格闘技]


『HACHI 約束の犬』の約束は?
パーカー・ウィルソン教授を演じたリチャード・ギアは、「忠犬ハチ公」に違和感を覚えたという。
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日本人にはなじみ深い忠犬の物語だが、ギアは「教授とハチの関係は、忠義心という尺度だけでは測りきれない関係」と語る。
来日中、インタビューに答えるたびに違和感を感じたのも、ハチ公が「主人を待っている犬」と考えられていることだった。
「私たちアメリカ人は、人間が犬の主人であるという意識がない。心から信じ合っている友人どうしという関係で、主人と従者という階級的なとらえかたを決してしないんだ」
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2009年7月17日 読売新聞夕刊
本作の原題は『Hachiko: A Dog's Story』。
松竹としてはタイトルに"約束"の文字を入れることで、前年に興行収入15.2億円を稼いだ『犬と私の10の約束』にあやかりたかったのだろう(2008年に松竹が配給した映画では、『おくりびと』『母べえ』に次いで第3位だった)。
しかしハチは約束などしていない。
約束したからではなく、大好きな教授に会いたいというただそれだけで、毎日駅で待ち続けるのだ。
その無償の愛に、観客は涙する。
ギアは続けて語る。
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シナリオを手にしたのは3年前。「読み返すたびに、涙が出た」と振り返る一方で、「俳優中心の映画でなく、あくまで犬中心の映画にしなければと思った」。だから「俳優としてかかわるだけでなく、プロデューサーの役目も果たすべき」と大役を買って出た。
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『八月の狂詩曲』等で日本でもお馴染みのリチャード・ギアも、愛犬家同士であるラッセ・ハルストレム監督も、犬中心の映画のなんたるかが判っている。
映画はしばしば犬の目線で進行する。
観客が感情移入するのは、教授でも妻でもなく、犬のハチである。
世の中には犬小屋をあてがわれ庭で飼われる犬がいる。
家族みんなが家の中にいるのに、自分だけ家に入れてもらえない。その不安と寂しさを描いた映画が、これまでにあっただろうか。
ハチの目線で見上げる窓の明かりが、教授ですら窺い知れないハチの心根を伝えて、観客は胸をしめつけられる。
オフィシャルサイトによれば、『HACHI 約束の犬』を企画したプロデューサー、ヴィッキー・シゲクニ・ウォンの会社は、ハチドッグ・プロダクションズという名だそうだ。
プロデューサーをはじめ、リチャード・ギア、ラッセ・ハルストレム監督ら、作り手みんなが犬を愛していることが伝わってくる。
教授の死後、妻ケイト(ジョーン・アレン)は、孫にハチと教授との出会いを訊かれて答える。
「ハチが、おじいちゃんを見つけたのよ。」
そうだ。
出会いに際して、我々はこちらをじっと見つめる仔犬に気がつく。
我々は仔犬に気づいたつもりでいる。しかし、仔犬が我々を見つけたのである。
『HACHI 約束の犬』 [は行]
監督/ラッセ・ハルストレム
出演/リチャード・ギア ジョーン・アレン ケイリー=ヒロユキ・タガワ エリック・アヴァリ
日本公開/2009年8月8日
ジャンル/[ドラマ] [犬]
映画ブログ
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日本人にはなじみ深い忠犬の物語だが、ギアは「教授とハチの関係は、忠義心という尺度だけでは測りきれない関係」と語る。
来日中、インタビューに答えるたびに違和感を感じたのも、ハチ公が「主人を待っている犬」と考えられていることだった。
「私たちアメリカ人は、人間が犬の主人であるという意識がない。心から信じ合っている友人どうしという関係で、主人と従者という階級的なとらえかたを決してしないんだ」
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2009年7月17日 読売新聞夕刊
本作の原題は『Hachiko: A Dog's Story』。
松竹としてはタイトルに"約束"の文字を入れることで、前年に興行収入15.2億円を稼いだ『犬と私の10の約束』にあやかりたかったのだろう(2008年に松竹が配給した映画では、『おくりびと』『母べえ』に次いで第3位だった)。
しかしハチは約束などしていない。
約束したからではなく、大好きな教授に会いたいというただそれだけで、毎日駅で待ち続けるのだ。
その無償の愛に、観客は涙する。
ギアは続けて語る。
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シナリオを手にしたのは3年前。「読み返すたびに、涙が出た」と振り返る一方で、「俳優中心の映画でなく、あくまで犬中心の映画にしなければと思った」。だから「俳優としてかかわるだけでなく、プロデューサーの役目も果たすべき」と大役を買って出た。
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『八月の狂詩曲』等で日本でもお馴染みのリチャード・ギアも、愛犬家同士であるラッセ・ハルストレム監督も、犬中心の映画のなんたるかが判っている。
映画はしばしば犬の目線で進行する。
観客が感情移入するのは、教授でも妻でもなく、犬のハチである。
世の中には犬小屋をあてがわれ庭で飼われる犬がいる。
家族みんなが家の中にいるのに、自分だけ家に入れてもらえない。その不安と寂しさを描いた映画が、これまでにあっただろうか。
ハチの目線で見上げる窓の明かりが、教授ですら窺い知れないハチの心根を伝えて、観客は胸をしめつけられる。
オフィシャルサイトによれば、『HACHI 約束の犬』を企画したプロデューサー、ヴィッキー・シゲクニ・ウォンの会社は、ハチドッグ・プロダクションズという名だそうだ。
プロデューサーをはじめ、リチャード・ギア、ラッセ・ハルストレム監督ら、作り手みんなが犬を愛していることが伝わってくる。
教授の死後、妻ケイト(ジョーン・アレン)は、孫にハチと教授との出会いを訊かれて答える。
「ハチが、おじいちゃんを見つけたのよ。」
そうだ。
出会いに際して、我々はこちらをじっと見つめる仔犬に気がつく。
我々は仔犬に気づいたつもりでいる。しかし、仔犬が我々を見つけたのである。
『HACHI 約束の犬』 [は行]
監督/ラッセ・ハルストレム
出演/リチャード・ギア ジョーン・アレン ケイリー=ヒロユキ・タガワ エリック・アヴァリ
日本公開/2009年8月8日
ジャンル/[ドラマ] [犬]
映画ブログ
tag : ラッセ・ハルストレムリチャード・ギア