『渇き』 破ったり離れたり
【ネタバレ注意】
守・破・離(しゅはり)という言葉がある。
18世紀の茶人、川上不白が『不白筆記』(1794年)に書いたものである(しばしば世阿弥の言葉として紹介されるが、それは誤り)。
技芸の上達について表しており、ウィキペディアに判りやすい説明がある。
守=まずは決められた通りの動き、つまり形を忠実に守り、
破=守で学んだ基本に自分なりの応用を加え、
離=形に囚われない自由な境地に至る
というものである。
すなわち守破離とは、形(かた)をしっかりと身に付けることではじめて高度な応用や個性の発揮が可能になるということで、茶道に限らずどんな分野にも当てはまるだろう。
パク・チャヌク監督の『渇き』を観れば、「守」すなわち形を身に付けていることが判る。
医学ではなく信仰を選んだものの、無力感に囚われる神父サンヒョンは『エクソシスト』のように。
スーパーパワーを身に付ける様は『スパイダーマン』のように。
バンパイアと人間との愛は『トワイライト』のように。
真っ白い舞台は『東京流れ者』のように。
もちろん、パク・チャヌク監督がこれらの影響を受けたとか真似をしたというわけではない。
形が身に付いているから、先行する作品と同様に押さえるべき点を押さえているのだ。
そもそも、イエスの血に見立てたブドウ酒を口にする神父が人の血を飲んだら、というおぞましい発想から出発しつつも、物語は意外にエミール・ゾラの『テレーズ・ラカン』を忠実になぞっている。
パク・チャヌク監督によれば、ヴァンパイア物と『テレーズ・ラカン』を結合させたのはプロデューサーの提案によるそうだ。これはプロデューサー氏のお手柄である。
そしてパク・チャヌク監督は、原作を破壊しまくる。
ヴァンパイアになったテジュの元気ハツラツぶりには、テレーズも真っ青だ。
またこれは破戒の物語でもある。
アジアでは珍しく宗教人口の最大多数派をキリスト教徒が占める韓国において、テジュの「私は信仰してないから地獄には堕ちない」というセリフは挑戦的だ。
観客の多くがキリスト教徒である中、ヴァンパイアの神父が信仰の対象となるのも痛烈である。
もちろん、偶像は破壊されなければならない。
パク・チャヌク監督は云う。
---
神父は、実際には強姦しておらず、しようとした振りをしただけなんです。
自分を崇拝している熱心な信者たちに、それは間違っていると教えたかったんです。
---
結局、サンヒョン神父は無力感から脱することはできず、何をしても誰も救えないのだ。
自分も含めて、誰一人。
---
人体実験を受けたサンヒョン(ソン・ガンホ)の肉体には大きな異変が起こり始める。しかし中身に変化はないと監督はいう。「サンヒョンはジレンマの中にいる人物。見た目には劇的に変化しているように思うかもしれない。しかし実は中身の部分はほとんど変わっていないんだ。普通、いい映画、いい演劇といわれるものは、主人公が成長していくものだ。しかし今回の映画では、主人公がまったく成長しない。そこが特徴だね」。
-ハリウッドチャンネル 2010年2月3日-
--
やがて『渇き』は『テレーズ・ラカン』を離れ、笑いや躍動感をたたえつつ、終局に向けて疾走する。
もう盛り上がりが多すぎて、どこが山場なのか迷うほどだ。
そしてこの凄惨な物語は、急転直下、明るく終わる。
いや、この結末を明るいと感じるかどうかは、あなた次第なのだが。
『渇き』 [か行]
監督・制作・脚本/パク・チャヌク 脚本/チョン・ソギョン 原作/エミール・ゾラ
出演/ソン・ガンホ キム・オクビン シン・ハギュン キム・ヘスク オ・ダルス パク・イナン ソン・ヨンチャン
日本公開/2010年2月27日
ジャンル/[ホラー] [ドラマ] [ロマンス]
映画ブログ
守・破・離(しゅはり)という言葉がある。
18世紀の茶人、川上不白が『不白筆記』(1794年)に書いたものである(しばしば世阿弥の言葉として紹介されるが、それは誤り)。
技芸の上達について表しており、ウィキペディアに判りやすい説明がある。
守=まずは決められた通りの動き、つまり形を忠実に守り、
破=守で学んだ基本に自分なりの応用を加え、
離=形に囚われない自由な境地に至る
というものである。
すなわち守破離とは、形(かた)をしっかりと身に付けることではじめて高度な応用や個性の発揮が可能になるということで、茶道に限らずどんな分野にも当てはまるだろう。
パク・チャヌク監督の『渇き』を観れば、「守」すなわち形を身に付けていることが判る。
医学ではなく信仰を選んだものの、無力感に囚われる神父サンヒョンは『エクソシスト』のように。
スーパーパワーを身に付ける様は『スパイダーマン』のように。
バンパイアと人間との愛は『トワイライト』のように。
真っ白い舞台は『東京流れ者』のように。
もちろん、パク・チャヌク監督がこれらの影響を受けたとか真似をしたというわけではない。
形が身に付いているから、先行する作品と同様に押さえるべき点を押さえているのだ。
そもそも、イエスの血に見立てたブドウ酒を口にする神父が人の血を飲んだら、というおぞましい発想から出発しつつも、物語は意外にエミール・ゾラの『テレーズ・ラカン』を忠実になぞっている。
パク・チャヌク監督によれば、ヴァンパイア物と『テレーズ・ラカン』を結合させたのはプロデューサーの提案によるそうだ。これはプロデューサー氏のお手柄である。
そしてパク・チャヌク監督は、原作を破壊しまくる。
ヴァンパイアになったテジュの元気ハツラツぶりには、テレーズも真っ青だ。
またこれは破戒の物語でもある。
アジアでは珍しく宗教人口の最大多数派をキリスト教徒が占める韓国において、テジュの「私は信仰してないから地獄には堕ちない」というセリフは挑戦的だ。
観客の多くがキリスト教徒である中、ヴァンパイアの神父が信仰の対象となるのも痛烈である。
もちろん、偶像は破壊されなければならない。
パク・チャヌク監督は云う。
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神父は、実際には強姦しておらず、しようとした振りをしただけなんです。
自分を崇拝している熱心な信者たちに、それは間違っていると教えたかったんです。
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結局、サンヒョン神父は無力感から脱することはできず、何をしても誰も救えないのだ。
自分も含めて、誰一人。
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人体実験を受けたサンヒョン(ソン・ガンホ)の肉体には大きな異変が起こり始める。しかし中身に変化はないと監督はいう。「サンヒョンはジレンマの中にいる人物。見た目には劇的に変化しているように思うかもしれない。しかし実は中身の部分はほとんど変わっていないんだ。普通、いい映画、いい演劇といわれるものは、主人公が成長していくものだ。しかし今回の映画では、主人公がまったく成長しない。そこが特徴だね」。
-ハリウッドチャンネル 2010年2月3日-
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やがて『渇き』は『テレーズ・ラカン』を離れ、笑いや躍動感をたたえつつ、終局に向けて疾走する。
もう盛り上がりが多すぎて、どこが山場なのか迷うほどだ。
そしてこの凄惨な物語は、急転直下、明るく終わる。
いや、この結末を明るいと感じるかどうかは、あなた次第なのだが。
『渇き』 [か行]
監督・制作・脚本/パク・チャヌク 脚本/チョン・ソギョン 原作/エミール・ゾラ
出演/ソン・ガンホ キム・オクビン シン・ハギュン キム・ヘスク オ・ダルス パク・イナン ソン・ヨンチャン
日本公開/2010年2月27日
ジャンル/[ホラー] [ドラマ] [ロマンス]
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