『許されざる者』 オリジナルとここが違う!
【ネタバレ注意】
なんと稀有なことだろう。
クリント・イーストウッドが監督・主演した1992年の映画『許されざる者』は、まごうことなき傑作だ。アカデミー賞の作品賞をはじめ、多くの賞を受賞してるが、賞の有無は関係ない。『夕陽のガンマン』等で数々のガンマン役を演じてきたクリント・イーストウッドならではの、ストイックで神々しいほどの世界がここにはある。
そんな傑作をリメイクしようなんて、身の程知らずと云われても仕方がない。他の監督であったなら。
しかし、これが『フラガール』や『悪人』の李相日(リ・サンイル)監督となれば、話は別だ。
そして目にした日本版『許されざる者』は、なんと傑作のリメイクがやはり傑作になるという、まことに稀有な作品だった。
時は1880年。クリント・イーストウッド版も李相日版も同じ年を舞台にしている。
場所をアメリカの西部から北海道に移しながら、李相日版はきわめてオリジナルに忠実であり、オリジナルへの強いリスペクトが感じられる。
国は違えど、同じ年の設定で同じ物語が成立するということに、まずは驚かされる。
とはいえ、両作には違う点も少なくない。
その違いをたどれば、李相日監督がイーストウッド版『許されざる者』のテーマをさらに深化・発展させ、オリジナル以上にくっきりした輪郭を描き出した軌跡が見えてこよう。
(1) 主人公が「悪人」ではない。
イーストウッド版の主人公ウィルは悪人だった。列車強盗や殺人の罪を重ねた無法者だ。それが今では改心し、牧畜に精を出している、と設定することで、イーストウッド版は悪人と善人の境界を曖昧にした。悪人でも善人になれる。善人ぶった人間が本当に善人とは限らない。それがイーストウッド版の人物像だ。
イーストウッド版の記事でも述べたように、これはクリント・イーストウッドが主演してこその設定だ。死体の山を築くことに何のためらいもない賞金稼ぎを演じ続けたイーストウッドだから、銃を封印して人生をやり直そうとする主人公役にグッと来る。
これに対して李相日版の主人公は、はなから悪人ではない。
本作の主人公・人斬り十兵衛は伝説の人殺しではあるものの、それは倒幕・佐幕を巡る抗争、ひいては戊辰戦争でのことであり、私利私欲に駆られた悪事ではない。
前作『悪人』で「悪人とは何か」を問いかけた李相日監督らしく、本作における善悪はイーストウッド版以上に曖昧で、そこで描かれるのは人を殺しても生きていく人間の業の深さだ。
これは李相日監督が、オリジナルの『許されざる者』を観て感じたものを増幅した結果だろう。李監督は、イーストウッド版について次のように語っている。
---
今と比べて、当時のほうが白黒はっきりさせた映画が多かったですよね。悪い奴は悪い、正義は正義。その中でこの作品は、悪人といわれる人と善人といわれる人の境目がきわめて曖昧で、それがすごく新鮮でした。悪人善人の前に、力とか暴力があって、それをどう使うかで結果がまるっきり変わってくる。力があっても使わないという選択肢もあるし、どんな形であれ、使えば自分が思ってもみなかった結果に行き着いてしまう。人間はそういう力や暴力をコントロールできるつもりでいるけれど、いったん使いだしたら制御できないのが、力であり、暴力なのだ、と。それが、あの映画の本当のテーマなんじゃないか
---
(2) 主人公を引き擦り込むのが若い賞金稼ぎではない。
イーストウッド版で主人公ウィルを人殺しに誘うのは、昔の仲間の甥っ子で賞金稼ぎを目指す若造だった。それを受けてウィルは旧友ネッドも仲間に引き込む。
他方、本作で主人公を誘いに来るのは旧友の金吾だ。オリジナルのネッドに相当する。若造の五郎は、後から二人にくっついてくる設定だ。
この改変には二つの目的があろう。
一つは、主人公の行動を自然に見せるため。オリジナルのウィルのように見ず知らずの若造の話に乗ってしまうよりも、主人公の業の深さを見透かした金吾に誘われる方が、背負った過去から逃れられない哀しさを感じさせる。
もう一つは、若い五郎をアイヌに設定するためだろう。
公式サイトによれば、アイヌはもともと李監督が描きたい題材のひとつだったという。
---
アメリカの西部開拓期と同様、日本にも先住民に対する迫害と駆逐の歴史があり、それが、オリジナルの時代設定と同じ1880年、明治新政府下の蝦夷地開拓期と重なった時点で、あらゆる要素がカチリと嵌まった。借り物ではない日本映画としての全体像がはっきりと見えた。
---
イーストウッド版の相棒ネッドは、インディアンを妻にした黒人であり、マイノリティを象徴していた。だが、本作におけるマイノリティは、もっと大きな扱いである。
先日の記事にも書いたように、日本も他国と同じく多民族・多文化国家である。この国にはアイヌ、コリアン、華人華僑等々、様々な出自・ルーツを持つ人々がひしめき合って暮らしている。
にもかかわらず、多民族・多文化であることを打ち出した邦画にはなかなかお目にかからない。これはとても奇妙なことだ。
本作には、理解できないアイヌの文化を「野蛮」の一言で切って捨てる野蛮な「和人」や、文化の多様性を認めない偏狭さが存分に描かれている。
それに加えてアイヌを主要登場人物として登場させようとしたら、出自を大きくいじれる役は若い賞金稼ぎだけだろう。
でも、五郎をアイヌにしつつ、物語をオリジナルのままにすると、アイヌの五郎が「和人」の十兵衛を探し出し、「和人」殺しをそそのかすことになってしまう。劇中に、アイヌによる「和人」殺しは反乱と見なされるとの説明があるように、登場人物をアイヌ出身とするためには相応の改変が必要だ。それが「主人公を引き擦り込むのは誰か」という問題に直結したのだろう。
本作を見ればお判りのように、この改変でオリジナルの魅力が損なわれることはない。
その一方、日本が多民族・多文化国家であることを描かないという奇妙な現象が解消し、ごく自然な日本の姿が描き出されることになった。
(3) 地獄で待つのは誰か。
イーストウッド版『許されざる者』では、ウィルに撃ち殺される保安官ダゲットが死の直前に「地獄で待ってる」と云い残す。
さんざん残虐なことをしてきた自分はどうせ地獄に堕ちるしかないが、それはお前も同じだぞ、ウィル。このセリフはそういう意味だ。
ところが李版『許されざる者』の警察署長大石一蔵は、このセリフを口にすることなく十兵衛に斬り殺される。
「地獄で待ってろ。」――本作では、なんと去り際の十兵衛が、女郎たちにこのセリフを口にする。
ここで私は李監督の容赦のなさに恐れ入った。
女郎たちは虐げられる立場であり、この物語のそもそもは、横暴な男たちに復讐する手段を持たない女郎が賞金稼ぎを雇うところからはじまっている。女郎は主人公を助け、慰める弱者であった。少なくともイーストウッド版では。
けれど李監督は、女郎たちの業をも暴き出す。
男たちに酷い目に遭わされたのはたしかだけれど、女郎たちは殺されたわけではない。男たちがまったく罰せられないわけでもないし、彼らなりの反省も見せている。
にもかかわらず、復讐のために賞金稼ぎに人殺しをさせようとする女郎たちが、単なる被害者として描かれるだけで良いのか。
李監督は、『悪人』で人間の中にある善悪と対峙したことの延長上に本作があると語っている。
「地獄で待ってろ。」
物語の最後にこのセリフを旧友金吾とその亡骸を取り囲む女郎に叩きつけることで、李監督は弱者と強者を引っくり返した。
結局人殺しに戻ってしまった十兵衛は、彼を引き込んだ金吾も、殺人を教唆した女郎も地獄堕ちだと告げるのだ。
この無残な宣告は、イーストウッド版以上に情け容赦がない。
(4) 国旗がはためかない。
イーストウッド版で印象的なのは、主人公ウィルが敵を打ち倒し、街の住民たちに「娼婦を人間らしく扱え」と諭す場面にはためく星条旗だ。
二世紀半ほど前に建国したアメリカ合衆国のこの旗は、赤が勇気、白が真実、青が正義を表すという。
たとえ汚れても、雨に濡れても、この旗が象徴する勇気、真実、正義は不滅であることを強調するように、ウィルの背後に星条旗が映し出される。
だが、李相日版にそんな旗はない。
そもそも日本は、四万年ほど前に人が渡来して住みついた土地であり、意図して建国した国家ではないから、アイヌと和人、勝った官軍と負けた幕府軍、女郎たちや男たち等、さまざまな人間が交差する中で、全員を象徴するものなんてありはしない。
十兵衛の背後には、火のついた女郎宿があたかも地獄の業火のごとく燃えるばかりだ。
(5) 十兵衛の行方
事件の片がついた後、ウィルは子供たちと堅気な暮らしを送ったらしい。
重い十字架を背負いつつも、善なるものを併せ持つウィルは、穏やかな晩年を過ごしたのだろう。
だが、李相日監督は、本作の主人公にそんな安堵を味わわせない。
十兵衛は子供たちの許に帰ることもままならず、大罪人として姿を隠すしかない。
その行く先は、どこまでも凍てつく原野だ。

クリント・イーストウッドの『許されざる者』は、無情な物語とは裏腹に、晩秋の美しい自然をスクリーンいっぱいにたたえて、ウィルの妻への愛がしみじみと感じられる作品だった。
だが李監督の『許されざる者』は、晩秋の大自然を寒々とした雪景色に置き換えて、主人公の過酷な人生を掘り下げた。
本作は、オリジナルとはテイストを異にするけれど、その真摯なつくりにオリジナルを愛する人も感嘆するに違いない。
クリント・イーストウッドは本作に対して、「作品を拝見し、素晴らしい出来で非常に満足しています」と賛辞を寄せた。
[*] コメントのご指摘を受けて、十兵衛のセリフを訂正した。
『許されざる者』 [や行]
監督・アダプテーション脚本/李相日(リ・サンイル)
オリジナル脚本/デヴィッド・ウェッブ・ピープルズ
出演/渡辺謙 佐藤浩市 柄本明 柳楽優弥 忽那汐里 小池栄子 近藤芳正 國村隼 滝藤賢一 小澤征悦 三浦貴大
日本公開/2013年9月13日
ジャンル/[時代劇] [ドラマ]
http://bookmarks.yahoo.co.jp/bookmarklet/showpopup?t='+encodeURIComponent(document.title)+'&u='+encodeURIComponent(location.href)+'&ei=UTF-8','_blank','width=550,height=480,left=100,top=50,scrollbars=1,resizable=1',0);">
なんと稀有なことだろう。
クリント・イーストウッドが監督・主演した1992年の映画『許されざる者』は、まごうことなき傑作だ。アカデミー賞の作品賞をはじめ、多くの賞を受賞してるが、賞の有無は関係ない。『夕陽のガンマン』等で数々のガンマン役を演じてきたクリント・イーストウッドならではの、ストイックで神々しいほどの世界がここにはある。
そんな傑作をリメイクしようなんて、身の程知らずと云われても仕方がない。他の監督であったなら。
しかし、これが『フラガール』や『悪人』の李相日(リ・サンイル)監督となれば、話は別だ。
そして目にした日本版『許されざる者』は、なんと傑作のリメイクがやはり傑作になるという、まことに稀有な作品だった。
時は1880年。クリント・イーストウッド版も李相日版も同じ年を舞台にしている。
場所をアメリカの西部から北海道に移しながら、李相日版はきわめてオリジナルに忠実であり、オリジナルへの強いリスペクトが感じられる。
国は違えど、同じ年の設定で同じ物語が成立するということに、まずは驚かされる。
とはいえ、両作には違う点も少なくない。
その違いをたどれば、李相日監督がイーストウッド版『許されざる者』のテーマをさらに深化・発展させ、オリジナル以上にくっきりした輪郭を描き出した軌跡が見えてこよう。
(1) 主人公が「悪人」ではない。
イーストウッド版の主人公ウィルは悪人だった。列車強盗や殺人の罪を重ねた無法者だ。それが今では改心し、牧畜に精を出している、と設定することで、イーストウッド版は悪人と善人の境界を曖昧にした。悪人でも善人になれる。善人ぶった人間が本当に善人とは限らない。それがイーストウッド版の人物像だ。
イーストウッド版の記事でも述べたように、これはクリント・イーストウッドが主演してこその設定だ。死体の山を築くことに何のためらいもない賞金稼ぎを演じ続けたイーストウッドだから、銃を封印して人生をやり直そうとする主人公役にグッと来る。
これに対して李相日版の主人公は、はなから悪人ではない。
本作の主人公・人斬り十兵衛は伝説の人殺しではあるものの、それは倒幕・佐幕を巡る抗争、ひいては戊辰戦争でのことであり、私利私欲に駆られた悪事ではない。
前作『悪人』で「悪人とは何か」を問いかけた李相日監督らしく、本作における善悪はイーストウッド版以上に曖昧で、そこで描かれるのは人を殺しても生きていく人間の業の深さだ。
これは李相日監督が、オリジナルの『許されざる者』を観て感じたものを増幅した結果だろう。李監督は、イーストウッド版について次のように語っている。
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今と比べて、当時のほうが白黒はっきりさせた映画が多かったですよね。悪い奴は悪い、正義は正義。その中でこの作品は、悪人といわれる人と善人といわれる人の境目がきわめて曖昧で、それがすごく新鮮でした。悪人善人の前に、力とか暴力があって、それをどう使うかで結果がまるっきり変わってくる。力があっても使わないという選択肢もあるし、どんな形であれ、使えば自分が思ってもみなかった結果に行き着いてしまう。人間はそういう力や暴力をコントロールできるつもりでいるけれど、いったん使いだしたら制御できないのが、力であり、暴力なのだ、と。それが、あの映画の本当のテーマなんじゃないか
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(2) 主人公を引き擦り込むのが若い賞金稼ぎではない。
イーストウッド版で主人公ウィルを人殺しに誘うのは、昔の仲間の甥っ子で賞金稼ぎを目指す若造だった。それを受けてウィルは旧友ネッドも仲間に引き込む。
他方、本作で主人公を誘いに来るのは旧友の金吾だ。オリジナルのネッドに相当する。若造の五郎は、後から二人にくっついてくる設定だ。
この改変には二つの目的があろう。
一つは、主人公の行動を自然に見せるため。オリジナルのウィルのように見ず知らずの若造の話に乗ってしまうよりも、主人公の業の深さを見透かした金吾に誘われる方が、背負った過去から逃れられない哀しさを感じさせる。
もう一つは、若い五郎をアイヌに設定するためだろう。
公式サイトによれば、アイヌはもともと李監督が描きたい題材のひとつだったという。
---
アメリカの西部開拓期と同様、日本にも先住民に対する迫害と駆逐の歴史があり、それが、オリジナルの時代設定と同じ1880年、明治新政府下の蝦夷地開拓期と重なった時点で、あらゆる要素がカチリと嵌まった。借り物ではない日本映画としての全体像がはっきりと見えた。
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イーストウッド版の相棒ネッドは、インディアンを妻にした黒人であり、マイノリティを象徴していた。だが、本作におけるマイノリティは、もっと大きな扱いである。
先日の記事にも書いたように、日本も他国と同じく多民族・多文化国家である。この国にはアイヌ、コリアン、華人華僑等々、様々な出自・ルーツを持つ人々がひしめき合って暮らしている。
にもかかわらず、多民族・多文化であることを打ち出した邦画にはなかなかお目にかからない。これはとても奇妙なことだ。
本作には、理解できないアイヌの文化を「野蛮」の一言で切って捨てる野蛮な「和人」や、文化の多様性を認めない偏狭さが存分に描かれている。
それに加えてアイヌを主要登場人物として登場させようとしたら、出自を大きくいじれる役は若い賞金稼ぎだけだろう。
でも、五郎をアイヌにしつつ、物語をオリジナルのままにすると、アイヌの五郎が「和人」の十兵衛を探し出し、「和人」殺しをそそのかすことになってしまう。劇中に、アイヌによる「和人」殺しは反乱と見なされるとの説明があるように、登場人物をアイヌ出身とするためには相応の改変が必要だ。それが「主人公を引き擦り込むのは誰か」という問題に直結したのだろう。
本作を見ればお判りのように、この改変でオリジナルの魅力が損なわれることはない。
その一方、日本が多民族・多文化国家であることを描かないという奇妙な現象が解消し、ごく自然な日本の姿が描き出されることになった。
(3) 地獄で待つのは誰か。
イーストウッド版『許されざる者』では、ウィルに撃ち殺される保安官ダゲットが死の直前に「地獄で待ってる」と云い残す。
さんざん残虐なことをしてきた自分はどうせ地獄に堕ちるしかないが、それはお前も同じだぞ、ウィル。このセリフはそういう意味だ。
ところが李版『許されざる者』の警察署長大石一蔵は、このセリフを口にすることなく十兵衛に斬り殺される。
「地獄で待ってろ。」――本作では、なんと去り際の十兵衛が、女郎たちにこのセリフを口にする。
ここで私は李監督の容赦のなさに恐れ入った。
女郎たちは虐げられる立場であり、この物語のそもそもは、横暴な男たちに復讐する手段を持たない女郎が賞金稼ぎを雇うところからはじまっている。女郎は主人公を助け、慰める弱者であった。少なくともイーストウッド版では。
けれど李監督は、女郎たちの業をも暴き出す。
男たちに酷い目に遭わされたのはたしかだけれど、女郎たちは殺されたわけではない。男たちがまったく罰せられないわけでもないし、彼らなりの反省も見せている。
にもかかわらず、復讐のために賞金稼ぎに人殺しをさせようとする女郎たちが、単なる被害者として描かれるだけで良いのか。
李監督は、『悪人』で人間の中にある善悪と対峙したことの延長上に本作があると語っている。
「地獄で待ってろ。」
物語の最後にこのセリフを旧友金吾とその亡骸を取り囲む女郎に叩きつけることで、李監督は弱者と強者を引っくり返した。
結局人殺しに戻ってしまった十兵衛は、彼を引き込んだ金吾も、殺人を教唆した女郎も地獄堕ちだと告げるのだ。
この無残な宣告は、イーストウッド版以上に情け容赦がない。
(4) 国旗がはためかない。
イーストウッド版で印象的なのは、主人公ウィルが敵を打ち倒し、街の住民たちに「娼婦を人間らしく扱え」と諭す場面にはためく星条旗だ。
二世紀半ほど前に建国したアメリカ合衆国のこの旗は、赤が勇気、白が真実、青が正義を表すという。
たとえ汚れても、雨に濡れても、この旗が象徴する勇気、真実、正義は不滅であることを強調するように、ウィルの背後に星条旗が映し出される。
だが、李相日版にそんな旗はない。
そもそも日本は、四万年ほど前に人が渡来して住みついた土地であり、意図して建国した国家ではないから、アイヌと和人、勝った官軍と負けた幕府軍、女郎たちや男たち等、さまざまな人間が交差する中で、全員を象徴するものなんてありはしない。
十兵衛の背後には、火のついた女郎宿があたかも地獄の業火のごとく燃えるばかりだ。
(5) 十兵衛の行方
事件の片がついた後、ウィルは子供たちと堅気な暮らしを送ったらしい。
重い十字架を背負いつつも、善なるものを併せ持つウィルは、穏やかな晩年を過ごしたのだろう。
だが、李相日監督は、本作の主人公にそんな安堵を味わわせない。
十兵衛は子供たちの許に帰ることもままならず、大罪人として姿を隠すしかない。
その行く先は、どこまでも凍てつく原野だ。

クリント・イーストウッドの『許されざる者』は、無情な物語とは裏腹に、晩秋の美しい自然をスクリーンいっぱいにたたえて、ウィルの妻への愛がしみじみと感じられる作品だった。
だが李監督の『許されざる者』は、晩秋の大自然を寒々とした雪景色に置き換えて、主人公の過酷な人生を掘り下げた。
本作は、オリジナルとはテイストを異にするけれど、その真摯なつくりにオリジナルを愛する人も感嘆するに違いない。
クリント・イーストウッドは本作に対して、「作品を拝見し、素晴らしい出来で非常に満足しています」と賛辞を寄せた。
[*] コメントのご指摘を受けて、十兵衛のセリフを訂正した。
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監督・アダプテーション脚本/李相日(リ・サンイル)
オリジナル脚本/デヴィッド・ウェッブ・ピープルズ
出演/渡辺謙 佐藤浩市 柄本明 柳楽優弥 忽那汐里 小池栄子 近藤芳正 國村隼 滝藤賢一 小澤征悦 三浦貴大
日本公開/2013年9月13日
ジャンル/[時代劇] [ドラマ]


『許されざる者』の苦悩は『グラン・トリノ』へ続く
私は映画に点数を付けたり順番を付けたりしないが、雑誌のランキング等はチラチラ見ることがある。
しかし、あまり映画を観ないせいか、共感よりも疑問を抱くことの方が多い。「なぜこの順番なんだろう、なぜあの作品はランク外なんだろう」と。
そんななかで、第83回キネマ旬報ベスト・テンで外国映画の第1位が『グラン・トリノ』になったのは、珍しく同感である。第2位の『母なる証明』と同点1位でも良いと思うが、とにかく上位2作品に異存はない。
ところが『グラン・トリノ』は、米国では各賞の選考から漏れている。アカデミー賞なんてノミネートすらしていない。
わずかにナショナル・ボード・オブ・レビュー賞の主演男優賞を受賞したくらいである。
なぜだろう?
『グラン・トリノ』を観てからずっと疑問だった。
しかし、遅まきながら『許されざる者』を観る機会を得て、理由の一端が判ったような気がした。
要は、同じ(ような)作品に2度も賞は与えないということなのだろう。
この年、第81回アカデミー賞の作品賞にノミネートされた5作品は、いずれもそれまでにない何かを打ち出そうとしている。この5作品の中なら、最終的に『スラムドッグ$ミリオネア』が受賞したのは順当だ。
しかしクリント・イーストウッドは、すでに『許されざる者』で第65回アカデミー賞の作品賞をはじめ多くの賞を受賞している。映画芸術科学アカデミー等の選考団体は、「こういう映画は『許されざる者』で評価済みですから」と云いたいのだろう。
だが私は、同じ(ような)作品を2度も作れることこそ偉大であると思う。
観客から「ああいう作品をもう1度見せてくれ」と熱望されてもそれがかなわない作り手が少なくない中で、同じ路線でまたも優れた作品を生み出す監督は、本当に稀有の存在だろう。
いわずもがなだが、『許されざる者』と『グラン・トリノ』の構造には、次のような類似がある。
『許されざる者』の主人公は、『荒野の用心棒』等の流れ者を髣髴とさせる人物。
かつてはそのガン捌きで相手を情け容赦なく撃ち殺した。いまでは妻に先立たれ、多くの命を奪ったことを深く後悔し、真人間として生きようとしている。だが、イーストウッドといえば賞金稼ぎと決まっているわけで、否応なく銃を手にすることになる。
『グラン・トリノ』の主人公は、『ダーティハリー』のハリー・キャラハン刑事を髣髴とさせる人物。
刑事でこそないものの、米国の基盤である自動車産業に長年従事し、朝鮮戦争では勲章ももらっている、かつてなら英雄視される人物だ。いまでは妻に先立たれ、戦争とはいえ多くの命を奪ったことに罪の意識を持ち、静かに暮らそうとしている。だが、イーストウッドといえば犯罪者と闘う一匹狼と決まっているわけで、否応なく銃を手にすることになる。
また両作とも、道を踏み外しそうな若者が登場し、業を背負った主人公が厳しく接するのも同じだ。
いずれも、クリント・イーストウッドの過去の作品を知っていればいるほど、過去の所業を後悔する主人公に感銘を受ける。『夕陽のガンマン』の賞金稼ぎの頃は、ならず者の死体を、換金のための手形のように数え上げていたのとは大違いだ。
「俺は生まれ変わった。」
『許されざる者』の主人公はつぶやく。
生まれ変わった象徴は、葉巻を吸わないことだろう。唾も吐かない。イーストウッドが唾をペッと吐かないなんて、本当に生まれ変わったのだ。
『許されざる者』と『グラン・トリノ』が大きく異なるのは、死との距離感だ。
62歳のイーストウッドと78歳のイーストウッドの、死へのスタンスの違いとも云える。
『許されざる者』の主人公は、常に死と隣り合わせでいる。大病を患って死線をさまよい、多くの者の銃の標的になっている。
しかし死ねない。
死はときとして人を美化し、英雄視させる。
だが、かつて罪を犯した彼は、生まれ変わったつもりでいても常にその罪を指摘され続ける。
胸に後悔の大きな塊を抱え続ける。
銃撃戦で生き抜いても、カタルシスはない。
罪を犯した者は、十字架を背負って生き続けるしかないのだ。
『許されざる者』 [や行]
監督・制作/クリント・イーストウッド 撮影/ジャック・N・グリーン
出演/クリント・イーストウッド ジーン・ハックマン モーガン・フリーマン リチャード・ハリス
日本公開/1993年4月24日
ジャンル/[西部劇] [ドラマ]
『グラン・トリノ』 [か行]
監督・制作/クリント・イーストウッド 撮影/トム・スターン
出演/クリント・イーストウッド ビー・ヴァン アーニー・ハー
日本公開/2009年4月25日
ジャンル/[ドラマ]
http://bookmarks.yahoo.co.jp/bookmarklet/showpopup?t='+encodeURIComponent(document.title)+'&u='+encodeURIComponent(location.href)+'&ei=UTF-8','_blank','width=550,height=480,left=100,top=50,scrollbars=1,resizable=1',0);">
しかし、あまり映画を観ないせいか、共感よりも疑問を抱くことの方が多い。「なぜこの順番なんだろう、なぜあの作品はランク外なんだろう」と。
そんななかで、第83回キネマ旬報ベスト・テンで外国映画の第1位が『グラン・トリノ』になったのは、珍しく同感である。第2位の『母なる証明』と同点1位でも良いと思うが、とにかく上位2作品に異存はない。
ところが『グラン・トリノ』は、米国では各賞の選考から漏れている。アカデミー賞なんてノミネートすらしていない。
わずかにナショナル・ボード・オブ・レビュー賞の主演男優賞を受賞したくらいである。
なぜだろう?
『グラン・トリノ』を観てからずっと疑問だった。
しかし、遅まきながら『許されざる者』を観る機会を得て、理由の一端が判ったような気がした。
要は、同じ(ような)作品に2度も賞は与えないということなのだろう。
この年、第81回アカデミー賞の作品賞にノミネートされた5作品は、いずれもそれまでにない何かを打ち出そうとしている。この5作品の中なら、最終的に『スラムドッグ$ミリオネア』が受賞したのは順当だ。
しかしクリント・イーストウッドは、すでに『許されざる者』で第65回アカデミー賞の作品賞をはじめ多くの賞を受賞している。映画芸術科学アカデミー等の選考団体は、「こういう映画は『許されざる者』で評価済みですから」と云いたいのだろう。
だが私は、同じ(ような)作品を2度も作れることこそ偉大であると思う。
観客から「ああいう作品をもう1度見せてくれ」と熱望されてもそれがかなわない作り手が少なくない中で、同じ路線でまたも優れた作品を生み出す監督は、本当に稀有の存在だろう。
いわずもがなだが、『許されざる者』と『グラン・トリノ』の構造には、次のような類似がある。
『許されざる者』の主人公は、『荒野の用心棒』等の流れ者を髣髴とさせる人物。
かつてはそのガン捌きで相手を情け容赦なく撃ち殺した。いまでは妻に先立たれ、多くの命を奪ったことを深く後悔し、真人間として生きようとしている。だが、イーストウッドといえば賞金稼ぎと決まっているわけで、否応なく銃を手にすることになる。
『グラン・トリノ』の主人公は、『ダーティハリー』のハリー・キャラハン刑事を髣髴とさせる人物。
刑事でこそないものの、米国の基盤である自動車産業に長年従事し、朝鮮戦争では勲章ももらっている、かつてなら英雄視される人物だ。いまでは妻に先立たれ、戦争とはいえ多くの命を奪ったことに罪の意識を持ち、静かに暮らそうとしている。だが、イーストウッドといえば犯罪者と闘う一匹狼と決まっているわけで、否応なく銃を手にすることになる。
また両作とも、道を踏み外しそうな若者が登場し、業を背負った主人公が厳しく接するのも同じだ。
いずれも、クリント・イーストウッドの過去の作品を知っていればいるほど、過去の所業を後悔する主人公に感銘を受ける。『夕陽のガンマン』の賞金稼ぎの頃は、ならず者の死体を、換金のための手形のように数え上げていたのとは大違いだ。
「俺は生まれ変わった。」
『許されざる者』の主人公はつぶやく。
生まれ変わった象徴は、葉巻を吸わないことだろう。唾も吐かない。イーストウッドが唾をペッと吐かないなんて、本当に生まれ変わったのだ。
『許されざる者』と『グラン・トリノ』が大きく異なるのは、死との距離感だ。
62歳のイーストウッドと78歳のイーストウッドの、死へのスタンスの違いとも云える。
『許されざる者』の主人公は、常に死と隣り合わせでいる。大病を患って死線をさまよい、多くの者の銃の標的になっている。
しかし死ねない。
死はときとして人を美化し、英雄視させる。
だが、かつて罪を犯した彼は、生まれ変わったつもりでいても常にその罪を指摘され続ける。
胸に後悔の大きな塊を抱え続ける。
銃撃戦で生き抜いても、カタルシスはない。
罪を犯した者は、十字架を背負って生き続けるしかないのだ。
![グラン・トリノ [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/51guoHdC8RL._SL160_.jpg)
監督・制作/クリント・イーストウッド 撮影/ジャック・N・グリーン
出演/クリント・イーストウッド ジーン・ハックマン モーガン・フリーマン リチャード・ハリス
日本公開/1993年4月24日
ジャンル/[西部劇] [ドラマ]
『グラン・トリノ』 [か行]
監督・制作/クリント・イーストウッド 撮影/トム・スターン
出演/クリント・イーストウッド ビー・ヴァン アーニー・ハー
日本公開/2009年4月25日
ジャンル/[ドラマ]

