『マダム・フローレンス! 夢見るふたり』 嘘八百のラブストーリー

なんてチャーミングな映画なのだろう。
スティーヴン・フリアーズ監督の伝記映画『マダム・フローレンス! 夢見るふたり』は、裕福なマダムを演じるメリル・ストリープと、事実婚の夫を演じるヒュー・グラントのユーモアたっぷりな演技が楽しめるコメディであると同時に、歌の上手さには定評のあるメリル・ストリープの歌声を堪能できる音楽映画でもある。――劇中では、極めて下手に歌うのだが!
■メリル・ストリープが絶賛する演技
メリル・ストリープは10代の頃オペラのレッスンを受けており、女優としてデビューしてからもミュージカル映画『マンマ・ミーア!』等で抜群の歌声を披露している。その彼女が"絶世の音痴"といわれる歌手フローレンス・フォスター・ジェンキンス役に挑むるのだから、面白いったらありゃしない。
登場人物にも目をみはる。本作はマダム・フローレンスの音楽活動を描くだけでなく、1944年当時に活躍した音楽家や芸術家たち――偉大な指揮者アルトゥーロ・トスカニーニや作曲家コール・ポーターら――が続々登場して賑やかしてくれる。
圧巻なのが、マダム・フローレンスのピアノ伴奏者コズメ・マクムーンを演じたサイモン・ヘルバーグだ。フローレンスの下手な歌に目を白黒させながら、なんとか平静を保って演奏しようとする彼の演技は笑いを誘う。そんな演技をしながら、本当にピアノを奏でているのだから驚きだ。公式サイトに、メリル・ストリープの称賛の言葉が紹介されている。
「彼のことはほとんど知らなかったけど、すぐに意気投合したわ。本当に面白くて、頭が良い人なの。サイモンが登場すると、映画がイキイキするわ。彼はコミカルな演技も素晴らしいのに、難しいピアノ曲も弾きこなすのよ。スティーヴンの言う通り、ピアノが弾ける俳優がいなければこの映画は完成しなかったと思うわ。演奏しながら、部屋の中で起こっていることに反応しなくてはならないのだから、サイモンは天才ね。」
■歌唱力がないのに人気がある「アメリカ最初のアイドル」
本作は、"絶世の音痴"でありながらそのことに気づかないまま歌手として活動するマダム・フローレンスと、彼女を傷つけまいと涙ぐましい努力をする夫シンクレア・ベイフィールドの物語だ。
フローレンスの持つ莫大な財産を背景に、シンクレアは評論家を買収し、メトロポリタン・オペラの指揮者にフローレンスの歌を絶賛させ、絶対にフローレンスが自分の下手さに気づかないようにありとあらゆる手を尽くす。その献身ぶりがおかしくも哀しく、本作を上品なコメディにしている。
本作の登場実物は嘘つきばかりだ。
フローレンスの歌が下手なことは公然の秘密だし、シンクレアは彼女の夫のように振る舞いながら結婚はせず、別宅で密かに愛人と暮らしている。フローレンス自身、病気治療のために禿げた頭をカツラで隠している。
しかし、フローレンスは幸せそうだ。好きな歌に打ち込んで、みんなから称賛され、愛する夫と過ごす日々に彼女は満足している。スクリーンから溢れるのは、彼女を取り巻く人々の気遣いと優しさだ。彼女は愛すべき人物なのだ。他人への援助は惜しまないし、パッとしない役者のシンクレアが傷つかないように否定的な劇評が載った新聞を彼から隠したりしている(シンクレアが、フローレンスが傷つかないように否定的な音楽評を彼女から隠しているように)。
中には打算から大富豪のフローレンスに近づく者もいるだろうが、劇中の彼女があまりに幸せそうなので、映画全体からハッピーな雰囲気が伝わってくる。
しかも、本作には観客が「真実」に打たれる瞬間がある。
愛人キャサリンとバーに入ったシンクレアが、フローレンスの歌をバカにする客たちの会話を耳にしたときだ。彼は猛然と腹を立て、キャサリンをテーブルに残して抗議に行こうとする。それをキャサリンが制止する。「いま行ったら、私はいないわよ」。それでも抗議に飛び出すシンクレアだが、彼がテーブルに戻るとキャサリンはいなくなっていた。――シンクレアとキャサリンの別れのシーンだ。
このシーンまでは、シンクレアの真意がよく判らなかった。フローレンスに極めて優しいシンクレアだが、キャサリンとも愛し合っている。彼がフローレンスのそばにいるのは、彼女が大富豪だからではないか。彼はキャサリンのほうをより深く愛しているのではないか。私はそんな風に思ったし、劇中のキャサリンもそう思っていたはずだ。
ところが、見知らぬ客がフローレンスを侮辱するのを聞いて居ても立ってもいられなくなり、思わず怒鳴り込んでしまうシンクレアを見て、私は――劇中のキャサリンも――シンクレアのフローレンスへの思いが本物であることを知る。だからキャサリンは、彼女の制止に耳を貸さないシンクレアから去ってしまうのだ。嘘ばかりを描いてきた本作が、真実に輝く瞬間だ。
それからというもの、音楽の殿堂カーネギーホールで歌いたいと云い出したフローレンスの願いを叶えるために奔走するシンクレアを――そんな無謀なことは止めさせるべきなのに――私は応援しながら観てしまった。怖いもの知らずのフローレンスと、彼女の味方に徹するシンクレアの愛情に、深い感動を覚えたのだった。
映画で描かれるのは1944年のほんの数ヶ月だ。音楽を愛するフローレンスが歌をうたおうと思い立ち、歌の指導を受け、伴奏者としてピアニストを雇い、ホテルでリサイタルを開き、レコーディングを行い、そのレコードをラジオ局に持ち込んで放送してもらい、遂にはカーネギーホールで3000人の聴衆を前に熱唱する。怒涛のごとき展開だ。
『マダム・フローレンス! 夢見るふたり』は波乱に富んだ物語と、メリル・ストリープとヒュー・グラントとサイモン・ヘルバーグの名演技に酔いしれて、たっぷり2時間楽しめる映画である。
――公式サイトの宣伝文句「感動の実話!」の文字は白々しいけれど。
なぜなら映画の内容は嘘ばっかりだからだ。

公式サイトにフローレンス・フォスター・ジェンキンスの年譜が載っている。これを見れば、映画とは違う、現実の彼女の人生が判る。
1868年 0歳
ペンシルヴェニアで裕福な家庭に生まれる
1912年 43歳
歌のレッスンを受け、初めて公の場で歌手としてデビュー
1930年 61歳
コズメ・マクムーンを伴奏者として雇い、ホテルのスイートルームで毎週音楽の夕べを始める
1938年 69歳
NYのラジオ局で毎週日曜午後リサイタル番組を開始(5ヶ月続く)
1944年 76歳
10月25日 76歳にして、カーネギーホールの舞台に立つ
1944年の数ヶ月どころではない。彼女は歌手として32年もの活動歴があり、コズメ・マクムーンを伴奏者としてからでも14年が経っていた。ラジオのレギュラー番組まで持っている。大富豪が自分の実力を自覚せずに暴走した、という程度の話ではない。堂々たるキャリアの持ち主だ。
しかも彼女の伴奏者を務めるのは、コズメ・マクムーンがはじめてではない。最初の伴奏者は、演奏中にわけ知り顔で聴衆にニヤニヤしたため首になっている。(映画と違い)彼女は賢くて、自分の歌が嘲笑されていることを知っていたといわれる。
シンクレアが愛人キャサリンと別れることもなかった。彼らの関係はずっと続き、フローレンスが亡くなった翌年には結婚している。
そんなシンクレアをフローレンスはどう思っていたのか、彼への遺産はたったの1万ドルだった。
■「ポスト真実」時代のラブストーリー
オックスフォード辞書は、2016年の「今年の言葉」に「ポスト真実(post-truth)」を選出した。
これは「客観的な事実よりも、感情や個人的信条に訴えるほうが世論の形成に影響する状況」を意味する形容詞だという。政党や政治家が事実からかけ離れた主張で人気を集めたこと等を受けて、2016年に急激に使われるようになった言葉だ。
『マダム・フローレンス! 夢見るふたり』は政治的な映画ではないが、劇中で描かれるのはまさに客観的な事実よりも感情や個人の思いを重視する姿勢だ。しかも、映画そのものが、実在の人物に材を取りながら事実とは異なるストーリーで観客を感動させ、心地好くさせるものだった。
劇中でただ一人、ニューヨーク・ポストのコラムニスト、アール・ウィルソンが、フローレンスのリサイタルを辛辣にこき下ろすが、観客の目には彼が無粋で危険な人物に映っただろう。
そう、事実は無粋なのだ。事実はせっかく盛り上がった熱狂に水を差し、興醒めさせてしまいかねない。
客観的な事実を示すよりも感情や個人的信条に訴えるほうがウケがいいのは、今にはじまったことではない。津田正太郎氏は「『ポスト真実』という言葉からは、それ以前には真実が人びとにきちんと伝達されていたという含みが感じられる。だが(略)以前には真実がみなに共有されていたと想定するのは難しい。何が真実かをめぐっては、ずっと以前から様々な対立が存在していたからだ。」と指摘する。
本作では、とうとう自分への辛辣な評を目にしたフローレンスが、ショックのあまり倒れてしまう。それが真実の破壊力というものか。
これは映画だから、感動したり心地好く観られたりすればそれでいい。実在の人物や現実の出来事を扱っていても、それはあくまで作り手の思いを具現化するための材料に過ぎない。
ただ、本作のベースには誰にも否定できない事実がある。1944年10月25日、フローレンスがカーネギーホールを満席にして、3000人の聴衆の前で歌ったことだ。
フローレンスは劇中で(現実にも)、こんな言葉を残している。
"People may say I couldn't sing, but no one can ever say I didn't sing."
(人々は私が歌えてなかったと云うかもしれない。でも歌わなかったとは云えないわ。)
最後の最後によりどころとなるのは、厳然たる事実なのだろう。

監督/スティーヴン・フリアーズ
出演/メリル・ストリープ ヒュー・グラント サイモン・ヘルバーグ レベッカ・ファーガソン ニナ・アリアンダ
日本公開/2016年9月24日
ジャンル/[ドラマ]

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