『ズートピア』 ユートピアかディストピアか?
【ネタバレ注意】
残念に思ったのが、このイラストだ。

都内の各家庭に配られた「広報けいしちょう」第74号(2016年3月6日発行)の表面に掲載されたものだ。
警視庁がテロ対策を講じるのはとうぜんだから、「情報提供・110番通報のお願い」という記事に異論はない。だが、添えられたイラストが気になった。
イラストには、防犯カメラの位置を確認するいかにも怪しい目つきをした男や、大量の薬ビンを捨てる目つきがおかしい派手な髪型の男が描かれている。その横には男を目撃した可憐な女性や、110番に通報する女性がいる。絵は文章よりも強い印象を残すものだ。この絵は見た者に次のイメージを刷り込みかねない。
・悪事を働くのは男性である。
・女性は悪くない。
・悪い考えは目つきや服装に表れるから、悪人は外見で判断できる。
凶悪なテロ組織「日本赤軍」の最高幹部・重信房子をはじめ、過去、テロ組織には少なからぬ女性が参加していたし、テロリストを指名手配してもなかなか発見できないことを思えば、このようなイメージを広めるのは適切ではないはずだ。
さらに云えば、あたかも女性は陰謀を企むことができないかのように扱うのは女性差別だし、腹黒いのは男性ばかりであるかのように扱うのは男性差別だ。
広報誌を各戸に配布するまでには、おそらく警視庁内で多くの人の意見を反映させ、記載内容を慎重にチェックしたに違いない。警視庁が配るものだけに、一般市民の思い込みを打ち破り、盲点を突くような、ハッとさせるものであってほしい。そう考えていた私は、この広報誌を残念に思ったのである。
以前、あるテレビ番組で、米国の警察官の私生活が紹介された。彼は幼い娘と犯人当てゲームをしていた。娘に何人もの顔写真を見せて、本物の犯罪者を当てさせるのだ。
幼い娘は、凶悪そうな面構えで正面を睨んでいる男を指差した。けれどもそれは不正解。犯罪者は、優しげで温厚そうな人物だった。
警察官は「見た目で判断しないように、幼いうちから学ばせるんだ」と語っていた。
なるほど。何ごとも訓練が必要なのだ。日頃からステレオタイプな思い込みを抱かないように注意しなければ、大人でも幼い子供と同じように間違いを犯すだろう。
とはいえ、すべての人が幼い頃から犯人当てゲームをするわけではない。現実には、私たちがステレオタイプ、偏見、思い込みから逃れるのは至難の業だ。
その難しさを作品の中心に据えたのが、『ズートピア』だ。
■スプラッシュ・マウンテンは政治的に正しくない?
まず驚くのは、『ズートピア』が『ベイマックス』に続く第55作目のディズニー長編アニメーション映画であることだ。
『ベイマックス』の記事で紹介したように、ウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオのチーフ・クリエイティブ・オフィサーを務めるジョン・ラセターには二つの使命がある。「伝統的なディズニー映画の新作を作ること」と「別のタイプの映画を探求すること」だ。
その言葉どおり、彼は「伝統的なディズニー映画」として懐かしいプーさんが登場する第51作『くまのプーさん』や、プリンセスストーリーの第53作『アナと雪の女王』を発表する一方、「別のタイプの探求」としてゲーム機を多元宇宙に見立てた第52作『シュガー・ラッシュ』やディズニー初のスーパーヒーロー物の第54作『ベイマックス』を発表してきた。
もちろん、『アナと雪の女王』が古風なプリンセスストーリーに留まらなかったように、一作ごとに工夫が凝らされている。だが俯瞰してみれば、見事に二つの流れから交互に作品が発表されてきた。
となると、『ベイマックス』の次の第55作目は「伝統的なディズニー映画」の系統になるはずだ。そのつもりで映画館に足を運んだ私は驚愕した。『ズートピア』はとても伝統的な、もうディズニーでさえ決別したと思っていた古い古いタイプの映画だった。しかも、ディズニー初の試みにも挑戦している。ジョン・ラセターの二つの使命が一つに凝縮したような、とんでもない野心作だったのだ。
『ズートピア』の舞台は、動物たちが進化して二本足で歩き、服を着て、言葉を喋るようになった世界だ。ウサギのジュディ・ホップスは、生まれ育った農村バニーバロウを出て大都会ズートピアにやってきた新米警察官。キツネの詐欺師ニック・ワイルドやアフリカスイギュウのボゴ署長に翻弄されながら、世界を良くしようと頑張っている。
草食動物と肉食動物が共存するズートピアだが、ジュディはウサギというだけで警察官に向かないと決めつけられ、ニックはキツネだからと嘘つき呼ばわりされる。誰も彼もが外見や出自で判断され、ステレオタイプなレッテル貼りに悩まされている。ズートピアの「共存」とは、実はうわべだけの脆くはかないものだった……。
この設定に私はド肝を抜かれた。動物が二本足で歩き、服を着て、言葉を喋るからだ。
ミッキーマウスやグーフィーたちも動物なのに二本足で歩いて服を着て言葉を喋っている。でも、彼らの映画が人気を博し、多くの観客を動員したのは、アニメーションが珍しかった20世紀前半の話だ。もはやそんな映画に観客は集まらないし、久しく作られてもいない。
石ノ森章太郎がマンガ『昨日はもうこない だが明日もまた…』を発表して、そんな作品が時代に合わないことを悲しんだのは1961年のことだ。『ジェニイの肖像』を下敷きにしたこの作品の主人公は、絵描きではなくマンガ家志望の貧しい青年。彼が描くのは、動物が服を着て、二本足で歩き、言葉を喋る童話的なマンガだった。戦前のディズニーアニメのようなマンガを描く彼は、世間から相手にされずに食い詰めている。当時、現実にはアクションマンガ『快傑ハリマオ』を週刊少年マガジンに連載していた石ノ森章太郎にしてみれば、「動物が服を着て、二本足で歩き、言葉を喋るような作品」は、クリエイターが世間に相手にされない象徴として相応しいと感じたのだろう。
単に動物たちが活躍する映画であれば、近年も作られないわけではない。たとえばサカナたちの活躍を描いた2003年の『ファインディング・ニモ』は全世界で9億ドル以上を稼ぎだした。しかし、この中の動物たちは二本足で歩いたり服を着たりはしない。人間の知らないところで彼らなりに生きているだけだ。
人気キャラクターのミッキーマウスやグーフィーたちも長編映画の主人公としては時代遅れだ。そんなことは、当のディズニーも判っているはずだ。
それだけに、服を着て二本足で歩く動物たちの映画『ズートピア』には驚かされた。いくら「伝統的なディズニー映画」といっても、これは古すぎる。
本作の企画は、『塔の上のラプンツェル』を終えたバイロン・ハワード監督が、1973年のディズニー長編アニメーション映画第21作『ロビン・フッド』のように服を着た動物たちの映画を作りたいと云い出したことからはじまった。この提案に本気で取り組んでしまうのだから恐れ入る。
昔のディズニー映画を再現したい思いは映画の端々に表れている。本作の詐欺師ニックは1973年のロビン・フッドと同じくキツネだし、映画後半のジュディとニックの服装は1946年のディズニー映画『南部の唄』のブレア・ラビットとブレア・フォックス(東京ディズニーランドのスプラッシュ・マウンテンでお馴染みの善良な「うさぎどん」と意地悪な「きつねどん」)に準じている。
だから本作は、外見や出自で判断されたり、レッテル貼りに悩まされる人間社会を描くため、その比喩として動物たちが共存する世界を創造したのではないのだ。まずいろいろな動物が服を着て言葉を交わす映画を作りたいという思いがあり、そんな動物の世界がどうであるかを突き詰める中で、私たちが現実に直面するような差別や偏見の問題が浮上したのだ。
本作の作り手たちは安易な嘘をつかず、生態の異なる動物たちが同じ場所で一緒に暮らす難しさを正直に取り上げた。それが古臭いはずのアニメーション映画に現代ならではの社会性をまとわせたのだ。
もちろん、見た目や出自、人種や民族、性別で差別するのがいけないことは、ここ数十年繰り返し説かれてきた。それでも本作が描き出す数々の差別や偏見――バカにされるウサギ、疑われるキツネ、肩身の狭い小動物や怖がられる肉食動物――は、今なお現実的な問題だ。移民・難民を排除する動きや民族間・宗派間の対立は、イデオロギーの対立だった冷戦の終結以降、かえって目につくようになっている。いくら強調してもしたりない問題といえよう。
それどころか本作は、ごく最近の差別、いや、これから大きくなるかもしれない未来の差別をも予感させる。犯罪行為の裏にDNAが影響しているのではないかと疑うセリフがあるのだ。
2016年4月2日の毎日新聞は、明治安田生命保険が保険サービスに人の遺伝情報を活用する検討に入ることを報じた。遺伝子検査によって病気のリスクが予測できるようになれば、病気の予防や早期治療に役立つだろう。しかし同時に、「病気になりそうな人」が保険加入を拒まれたり、不利益を被ることがあるかもしれない。米国では2008年に遺伝情報差別禁止法が制定されたが、現に遺伝情報差別が起きているといわれる。他国も遺伝情報差別を禁じる方向で動いているが、日本のように法規制もそのための議論も進んでない国もある。
本作では、DNAが動物を凶暴な行為に駆り立てるかのように発言したことから差別が強まり、表面上は調和を保っていた社会が壊れはじめてしまう。本作のテーマは極めて今日的だ。
かつて、差別や偏見を助長していると批判されたのは他ならぬディズニー映画だった。単純化された物語とキャラクターはステレオタイプそのものだった。
近年のディズニー映画は、ようやく偏見を排除した公平な描写が行き届いてきたように思う。さらに踏み込んで、本作では偏見を含まず公平であることを娯楽の域にまで高めてきた。観客も思い当たるだろう差別や偏見の害悪を描くから本作は胸に迫るし、それらの問題に立ち向かう描写が真摯だから共感を覚える。
巨大なシロクマにかしずかれて暗黒街を支配するミスター・ビッグの正体がちっぽけなトガリネズミだなんて、実に皮肉な展開だ。
ミスター・ビッグは1972年の名作『ゴッドファーザー』に登場するマフィアのドン、ヴィトー・コルレオーネをもじったキャラクターだが、本作の作り手が『ゴッドファーザー』をネタにしたのは、それが米国を代表する「移民の映画」だからだろう。イタリアから来た移民とその子供たちの物語を、自身もイタリア系のフランシス・フォード・コッポラ監督がやはりイタリア系のアル・パチーノを起用して撮った『ゴッドファーザー』は、米映画史に燦然と輝く"移民もの"だ。様々な地域の動物が集まるズートピアが、表も裏も移民で構成されていることを示すのにうってつけのモチーフだ。
『ズートピア』を観た子供たちがいつか『ゴッドファーザー』に触れたとき、作り手の胸のうちに思い当たることだろう。
バイロン・ハワード、リッチ・ムーア両監督は、公式サイトにこんなメッセージを寄せている。
---
ズートピアの住人たちは、私たち人間のようなもの。
どちらも同じように、性別、年齢、学歴、出身地、見た目…そんな“違い”から生まれる様々な偏見の中で生きています。
もし、その“違い”を個性として認め合うことが出来たら、私たちの人生はもっと豊かになることでしょう。
『ズートピア』の中には、あなたに似ているキャラクターがきっといます。
ぜひ、自分自身を探してみてください。
---
主人公ジュディは、キツネを警戒し、ウサギは被害に遭うほうだと思い込んでいた自分を省みる。「そうね。いいウサギもいれば悪いウサギもいるわ。」
世の中には悪事を働く男性もいれば、悪事を働かない男性もいる。
いい女性もいれば、悪い女性もいる。
凶悪そうな善人もいれば、温厚そうな悪人もいるのだ。
■ Zootopia の「Z」は Zombie の「Z」
映画『ズートピア』で重要なのは、民族、文化、習俗、出身そして外見等の異なる人々が仲良く共存する社会なんて虚構でしかないという認識だ。
ジュディ・ホップスの故郷バニーバロウなら、そんなことを考える必要はなかったろう。同じような人々が同じように暮らしていた。そこにもイジメや力関係はあったけれど、均質な仲間が大勢いたから、そこに埋没すれば平和に暮らしていけた。
しかし大都会ズートピアにはいろんな人たちがいて、いろんな暮らし方をしている。そこかしこで摩擦を起こしながら、かろうじて均衡を保っている。
ズートピアが示唆しているのは、移民が集まるアメリカ合衆国そのものであり、さらには国際社会の姿であろう。
その危うい均衡は、何が保っているのだろうか。
それを考えさせるのが、ズートピア警察署をてんてこ舞いさせる大事件だ。良識ある市民だったはずの肉食動物が、突如狂暴になって他者を襲い出したのだ。狂暴化した肉食動物に咬まれた者も狂暴になってしまう。
この展開はディズニーの長編アニメーション映画ではじめてのものだろう。これはまさしくゾンビ映画のフォーマットだ。「生きている死体」であるゾンビこそ出ないものの、ゾンビ映画の本質を突いている。
ゾンビとは何か。
以前、私は人間とゾンビを隔てるのは理性の有無であると述べた(「『ワールド・ウォーZ』 ラストはもう一つあった」参照)。理性を失うとゾンビになってしまうゾンビ映画の構図は、本作における動物の狂暴化にそっくり当てはまる。狂暴化し、閉じ込められた動物たちは、あたかもウイルスの蔓延を防ぐために隔離された患者のようだ。
ゾンビ映画の真の恐怖は、西洋文明が築き上げた社会秩序の崩壊にある。
人間は放っておいたら無秩序に殺し合いをしてしまうから、社会契約という「抑制する機構」をがっちり作ることでどうにか秩序を維持している、というのが、長きにわたる宗教戦争の末にたどり着いた西洋の考え方だ。それは、人々が理性を喪失すれば、世界が殺し合いに戻ることを意味する。
ゾンビ映画は、西洋の人々が長い歴史を通して懸命に抑え込もうとしてきた悪夢が現出したものなのだ。ダニエル・カーネマンが提唱する人間の認知システムにたとえれば、「抑制する機構」は推論を担うシステム2だ。
他方、東洋では、人間が持つ素直なまごころに従えば自然に秩序が成り立つはずだと考える。人間がもともと備えているもの(認知システムにたとえれば、直感を担うシステム1)への信頼を基礎に置くから、社会を「抑制する機構」を必要としない。社会のあり方が異なるから、日本では米国ほどゾンビ映画が盛んにならない。
先の記事では、池田信夫・與那覇潤共著『「日本史」の終わり 変わる世界、変われない日本人』を引用しながら、ゾンビ映画についてこのように整理した。
『ズートピア』もこの西洋的な世界観に基づいている。
肉食動物の狂暴化に接した住民たちは、社会秩序の崩壊を予感する。ズートピアではすべての動物が進化して共存できるようになっていたが、実は「共存」できるというお約束を「抑制する機構」にすることで、殺し合いと混乱を抑え込んだ世界なのだ。
共存なんか無理じゃないか、と住民たちが思いはじめた途端に「抑制する機構」は消えてしまい、本当に共存できなくなってしまう。
多様な人々が共存できる社会の構築に努めるズートピアが、現実の米国や国際社会の比喩であるなら、均質な人々が同じように生活すれば良いとするバニーバロウのような地域も現実だろう。必ずしも同じような人々だけが住んでいることを意味しないのだが。実は多様な人々が共存できる社会の構築に後れを取っているだけかもしれないのだが。
合意形成学を専門にする哲学者・桑子敏雄氏によれば、社会的な合意形成に必要なのは建前をぶつけ合う議論であるという。
「ダムができる上流部の人たちが、ダム建設に反対する。ところが、下流部の人たちは、ダムができないと洪水の恐れが増大するし、渇水も怖いから、ダム建設に賛成する――。」
このように利害が異なる者の意見の対立を解消し、合意に至る道を探るのが「社会的合意形成」だ。「本音をぶつけ合う」という言葉はしばしば耳にするが、「建前をぶつけ合う」のを重視するのは実際に合意形成を成し遂げてきた桑子氏ならではの知見だろう。桑子氏によれば、本音とは個人的な、自己中心的なことであり、社会的な合意形成には不向きだという。だから徹底的に建前で議論する。
すると面白いことに、ちゃんとした建前を何度も繰り返し口にしていると、その建前が個々人の本音に変化していくそうだ。発言によって人が変わり、別人のように成長する。反対意見や同意意見をぶつけて議論を深めていくことが、合意形成に繋がるという。
ここで本音をシステム1、建前をシステム2としてみれば、本作をより理解しやすいだろう。
ダムができる上流部の人たちだけ、あるいは下流部の人たちだけが集まるなら、建前で議論する必要はないかもしれない。本音(システム1)で話して暮らせばいい。ちっぽけなバニーバロウのように。しかし、上流部の人も下流部の人も含むより大きな社会に秩序を確立しようとすれば、本音ばかりを云ってはいられない。建前(システム2)を積み重ねなければ社会を構築できない。
本作の主人公ジュディ・ホップスは、「すべての動物が共存するズートピア」なんて建前に過ぎないことに気づいてしまった。その建前は、まだ個々人の本音に変化してはいない。
だが、社会とは建前を積み重ねたフィクションだからこそ、構築するにはみんなが注意深く努力しなければならない。ちゃんとした建前は、何度も繰り返せば個々人の本音に変化するのだから。
そう、繰り返しが大切なのだ。訓練とは同じことの繰り返しだ。
本作がグッと来るのは、その覚悟を決めたジュディの心意気に打たれるからだ。
ディズニーがこれからも繰り返しこのテーマに挑むことを期待したい。
『ズートピア』 [さ行]
監督/バイロン・ハワード、リッチ・ムーア 共同監督/ジャレド・ブッシュ
制作総指揮/ジョン・ラセター
出演/ジニファー・グッドウィン ジェイソン・ベイトマン イドリス・エルバ ネイト・トレンス J・K・シモンズ ジェニー・スレイト オクタヴィア・スペンサー ボニー・ハント
日本語吹替版の出演/上戸彩 森川智之 三宅健太 高橋茂雄 玄田哲章 竹内順子 Ami 芋洗坂係長
日本公開/2016年4月23日
ジャンル/[アドベンチャー] [ファンタジー] [ミステリー] [ファミリー]
残念に思ったのが、このイラストだ。

都内の各家庭に配られた「広報けいしちょう」第74号(2016年3月6日発行)の表面に掲載されたものだ。
警視庁がテロ対策を講じるのはとうぜんだから、「情報提供・110番通報のお願い」という記事に異論はない。だが、添えられたイラストが気になった。
イラストには、防犯カメラの位置を確認するいかにも怪しい目つきをした男や、大量の薬ビンを捨てる目つきがおかしい派手な髪型の男が描かれている。その横には男を目撃した可憐な女性や、110番に通報する女性がいる。絵は文章よりも強い印象を残すものだ。この絵は見た者に次のイメージを刷り込みかねない。
・悪事を働くのは男性である。
・女性は悪くない。
・悪い考えは目つきや服装に表れるから、悪人は外見で判断できる。
凶悪なテロ組織「日本赤軍」の最高幹部・重信房子をはじめ、過去、テロ組織には少なからぬ女性が参加していたし、テロリストを指名手配してもなかなか発見できないことを思えば、このようなイメージを広めるのは適切ではないはずだ。
さらに云えば、あたかも女性は陰謀を企むことができないかのように扱うのは女性差別だし、腹黒いのは男性ばかりであるかのように扱うのは男性差別だ。
広報誌を各戸に配布するまでには、おそらく警視庁内で多くの人の意見を反映させ、記載内容を慎重にチェックしたに違いない。警視庁が配るものだけに、一般市民の思い込みを打ち破り、盲点を突くような、ハッとさせるものであってほしい。そう考えていた私は、この広報誌を残念に思ったのである。
以前、あるテレビ番組で、米国の警察官の私生活が紹介された。彼は幼い娘と犯人当てゲームをしていた。娘に何人もの顔写真を見せて、本物の犯罪者を当てさせるのだ。
幼い娘は、凶悪そうな面構えで正面を睨んでいる男を指差した。けれどもそれは不正解。犯罪者は、優しげで温厚そうな人物だった。
警察官は「見た目で判断しないように、幼いうちから学ばせるんだ」と語っていた。
なるほど。何ごとも訓練が必要なのだ。日頃からステレオタイプな思い込みを抱かないように注意しなければ、大人でも幼い子供と同じように間違いを犯すだろう。
とはいえ、すべての人が幼い頃から犯人当てゲームをするわけではない。現実には、私たちがステレオタイプ、偏見、思い込みから逃れるのは至難の業だ。
その難しさを作品の中心に据えたのが、『ズートピア』だ。
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まず驚くのは、『ズートピア』が『ベイマックス』に続く第55作目のディズニー長編アニメーション映画であることだ。
『ベイマックス』の記事で紹介したように、ウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオのチーフ・クリエイティブ・オフィサーを務めるジョン・ラセターには二つの使命がある。「伝統的なディズニー映画の新作を作ること」と「別のタイプの映画を探求すること」だ。
その言葉どおり、彼は「伝統的なディズニー映画」として懐かしいプーさんが登場する第51作『くまのプーさん』や、プリンセスストーリーの第53作『アナと雪の女王』を発表する一方、「別のタイプの探求」としてゲーム機を多元宇宙に見立てた第52作『シュガー・ラッシュ』やディズニー初のスーパーヒーロー物の第54作『ベイマックス』を発表してきた。
もちろん、『アナと雪の女王』が古風なプリンセスストーリーに留まらなかったように、一作ごとに工夫が凝らされている。だが俯瞰してみれば、見事に二つの流れから交互に作品が発表されてきた。
となると、『ベイマックス』の次の第55作目は「伝統的なディズニー映画」の系統になるはずだ。そのつもりで映画館に足を運んだ私は驚愕した。『ズートピア』はとても伝統的な、もうディズニーでさえ決別したと思っていた古い古いタイプの映画だった。しかも、ディズニー初の試みにも挑戦している。ジョン・ラセターの二つの使命が一つに凝縮したような、とんでもない野心作だったのだ。
『ズートピア』の舞台は、動物たちが進化して二本足で歩き、服を着て、言葉を喋るようになった世界だ。ウサギのジュディ・ホップスは、生まれ育った農村バニーバロウを出て大都会ズートピアにやってきた新米警察官。キツネの詐欺師ニック・ワイルドやアフリカスイギュウのボゴ署長に翻弄されながら、世界を良くしようと頑張っている。
草食動物と肉食動物が共存するズートピアだが、ジュディはウサギというだけで警察官に向かないと決めつけられ、ニックはキツネだからと嘘つき呼ばわりされる。誰も彼もが外見や出自で判断され、ステレオタイプなレッテル貼りに悩まされている。ズートピアの「共存」とは、実はうわべだけの脆くはかないものだった……。

ミッキーマウスやグーフィーたちも動物なのに二本足で歩いて服を着て言葉を喋っている。でも、彼らの映画が人気を博し、多くの観客を動員したのは、アニメーションが珍しかった20世紀前半の話だ。もはやそんな映画に観客は集まらないし、久しく作られてもいない。
石ノ森章太郎がマンガ『昨日はもうこない だが明日もまた…』を発表して、そんな作品が時代に合わないことを悲しんだのは1961年のことだ。『ジェニイの肖像』を下敷きにしたこの作品の主人公は、絵描きではなくマンガ家志望の貧しい青年。彼が描くのは、動物が服を着て、二本足で歩き、言葉を喋る童話的なマンガだった。戦前のディズニーアニメのようなマンガを描く彼は、世間から相手にされずに食い詰めている。当時、現実にはアクションマンガ『快傑ハリマオ』を週刊少年マガジンに連載していた石ノ森章太郎にしてみれば、「動物が服を着て、二本足で歩き、言葉を喋るような作品」は、クリエイターが世間に相手にされない象徴として相応しいと感じたのだろう。
単に動物たちが活躍する映画であれば、近年も作られないわけではない。たとえばサカナたちの活躍を描いた2003年の『ファインディング・ニモ』は全世界で9億ドル以上を稼ぎだした。しかし、この中の動物たちは二本足で歩いたり服を着たりはしない。人間の知らないところで彼らなりに生きているだけだ。
人気キャラクターのミッキーマウスやグーフィーたちも長編映画の主人公としては時代遅れだ。そんなことは、当のディズニーも判っているはずだ。
それだけに、服を着て二本足で歩く動物たちの映画『ズートピア』には驚かされた。いくら「伝統的なディズニー映画」といっても、これは古すぎる。

昔のディズニー映画を再現したい思いは映画の端々に表れている。本作の詐欺師ニックは1973年のロビン・フッドと同じくキツネだし、映画後半のジュディとニックの服装は1946年のディズニー映画『南部の唄』のブレア・ラビットとブレア・フォックス(東京ディズニーランドのスプラッシュ・マウンテンでお馴染みの善良な「うさぎどん」と意地悪な「きつねどん」)に準じている。
だから本作は、外見や出自で判断されたり、レッテル貼りに悩まされる人間社会を描くため、その比喩として動物たちが共存する世界を創造したのではないのだ。まずいろいろな動物が服を着て言葉を交わす映画を作りたいという思いがあり、そんな動物の世界がどうであるかを突き詰める中で、私たちが現実に直面するような差別や偏見の問題が浮上したのだ。
本作の作り手たちは安易な嘘をつかず、生態の異なる動物たちが同じ場所で一緒に暮らす難しさを正直に取り上げた。それが古臭いはずのアニメーション映画に現代ならではの社会性をまとわせたのだ。
もちろん、見た目や出自、人種や民族、性別で差別するのがいけないことは、ここ数十年繰り返し説かれてきた。それでも本作が描き出す数々の差別や偏見――バカにされるウサギ、疑われるキツネ、肩身の狭い小動物や怖がられる肉食動物――は、今なお現実的な問題だ。移民・難民を排除する動きや民族間・宗派間の対立は、イデオロギーの対立だった冷戦の終結以降、かえって目につくようになっている。いくら強調してもしたりない問題といえよう。
それどころか本作は、ごく最近の差別、いや、これから大きくなるかもしれない未来の差別をも予感させる。犯罪行為の裏にDNAが影響しているのではないかと疑うセリフがあるのだ。
2016年4月2日の毎日新聞は、明治安田生命保険が保険サービスに人の遺伝情報を活用する検討に入ることを報じた。遺伝子検査によって病気のリスクが予測できるようになれば、病気の予防や早期治療に役立つだろう。しかし同時に、「病気になりそうな人」が保険加入を拒まれたり、不利益を被ることがあるかもしれない。米国では2008年に遺伝情報差別禁止法が制定されたが、現に遺伝情報差別が起きているといわれる。他国も遺伝情報差別を禁じる方向で動いているが、日本のように法規制もそのための議論も進んでない国もある。
本作では、DNAが動物を凶暴な行為に駆り立てるかのように発言したことから差別が強まり、表面上は調和を保っていた社会が壊れはじめてしまう。本作のテーマは極めて今日的だ。

近年のディズニー映画は、ようやく偏見を排除した公平な描写が行き届いてきたように思う。さらに踏み込んで、本作では偏見を含まず公平であることを娯楽の域にまで高めてきた。観客も思い当たるだろう差別や偏見の害悪を描くから本作は胸に迫るし、それらの問題に立ち向かう描写が真摯だから共感を覚える。
巨大なシロクマにかしずかれて暗黒街を支配するミスター・ビッグの正体がちっぽけなトガリネズミだなんて、実に皮肉な展開だ。
ミスター・ビッグは1972年の名作『ゴッドファーザー』に登場するマフィアのドン、ヴィトー・コルレオーネをもじったキャラクターだが、本作の作り手が『ゴッドファーザー』をネタにしたのは、それが米国を代表する「移民の映画」だからだろう。イタリアから来た移民とその子供たちの物語を、自身もイタリア系のフランシス・フォード・コッポラ監督がやはりイタリア系のアル・パチーノを起用して撮った『ゴッドファーザー』は、米映画史に燦然と輝く"移民もの"だ。様々な地域の動物が集まるズートピアが、表も裏も移民で構成されていることを示すのにうってつけのモチーフだ。
『ズートピア』を観た子供たちがいつか『ゴッドファーザー』に触れたとき、作り手の胸のうちに思い当たることだろう。
バイロン・ハワード、リッチ・ムーア両監督は、公式サイトにこんなメッセージを寄せている。
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ズートピアの住人たちは、私たち人間のようなもの。
どちらも同じように、性別、年齢、学歴、出身地、見た目…そんな“違い”から生まれる様々な偏見の中で生きています。
もし、その“違い”を個性として認め合うことが出来たら、私たちの人生はもっと豊かになることでしょう。
『ズートピア』の中には、あなたに似ているキャラクターがきっといます。
ぜひ、自分自身を探してみてください。
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主人公ジュディは、キツネを警戒し、ウサギは被害に遭うほうだと思い込んでいた自分を省みる。「そうね。いいウサギもいれば悪いウサギもいるわ。」
世の中には悪事を働く男性もいれば、悪事を働かない男性もいる。
いい女性もいれば、悪い女性もいる。
凶悪そうな善人もいれば、温厚そうな悪人もいるのだ。

映画『ズートピア』で重要なのは、民族、文化、習俗、出身そして外見等の異なる人々が仲良く共存する社会なんて虚構でしかないという認識だ。
ジュディ・ホップスの故郷バニーバロウなら、そんなことを考える必要はなかったろう。同じような人々が同じように暮らしていた。そこにもイジメや力関係はあったけれど、均質な仲間が大勢いたから、そこに埋没すれば平和に暮らしていけた。
しかし大都会ズートピアにはいろんな人たちがいて、いろんな暮らし方をしている。そこかしこで摩擦を起こしながら、かろうじて均衡を保っている。
ズートピアが示唆しているのは、移民が集まるアメリカ合衆国そのものであり、さらには国際社会の姿であろう。
その危うい均衡は、何が保っているのだろうか。
それを考えさせるのが、ズートピア警察署をてんてこ舞いさせる大事件だ。良識ある市民だったはずの肉食動物が、突如狂暴になって他者を襲い出したのだ。狂暴化した肉食動物に咬まれた者も狂暴になってしまう。
この展開はディズニーの長編アニメーション映画ではじめてのものだろう。これはまさしくゾンビ映画のフォーマットだ。「生きている死体」であるゾンビこそ出ないものの、ゾンビ映画の本質を突いている。
ゾンビとは何か。
以前、私は人間とゾンビを隔てるのは理性の有無であると述べた(「『ワールド・ウォーZ』 ラストはもう一つあった」参照)。理性を失うとゾンビになってしまうゾンビ映画の構図は、本作における動物の狂暴化にそっくり当てはまる。狂暴化し、閉じ込められた動物たちは、あたかもウイルスの蔓延を防ぐために隔離された患者のようだ。
ゾンビ映画の真の恐怖は、西洋文明が築き上げた社会秩序の崩壊にある。
人間は放っておいたら無秩序に殺し合いをしてしまうから、社会契約という「抑制する機構」をがっちり作ることでどうにか秩序を維持している、というのが、長きにわたる宗教戦争の末にたどり着いた西洋の考え方だ。それは、人々が理性を喪失すれば、世界が殺し合いに戻ることを意味する。
ゾンビ映画は、西洋の人々が長い歴史を通して懸命に抑え込もうとしてきた悪夢が現出したものなのだ。ダニエル・カーネマンが提唱する人間の認知システムにたとえれば、「抑制する機構」は推論を担うシステム2だ。
他方、東洋では、人間が持つ素直なまごころに従えば自然に秩序が成り立つはずだと考える。人間がもともと備えているもの(認知システムにたとえれば、直感を担うシステム1)への信頼を基礎に置くから、社会を「抑制する機構」を必要としない。社会のあり方が異なるから、日本では米国ほどゾンビ映画が盛んにならない。
先の記事では、池田信夫・與那覇潤共著『「日本史」の終わり 変わる世界、変われない日本人』を引用しながら、ゾンビ映画についてこのように整理した。

肉食動物の狂暴化に接した住民たちは、社会秩序の崩壊を予感する。ズートピアではすべての動物が進化して共存できるようになっていたが、実は「共存」できるというお約束を「抑制する機構」にすることで、殺し合いと混乱を抑え込んだ世界なのだ。
共存なんか無理じゃないか、と住民たちが思いはじめた途端に「抑制する機構」は消えてしまい、本当に共存できなくなってしまう。
多様な人々が共存できる社会の構築に努めるズートピアが、現実の米国や国際社会の比喩であるなら、均質な人々が同じように生活すれば良いとするバニーバロウのような地域も現実だろう。必ずしも同じような人々だけが住んでいることを意味しないのだが。実は多様な人々が共存できる社会の構築に後れを取っているだけかもしれないのだが。
合意形成学を専門にする哲学者・桑子敏雄氏によれば、社会的な合意形成に必要なのは建前をぶつけ合う議論であるという。
「ダムができる上流部の人たちが、ダム建設に反対する。ところが、下流部の人たちは、ダムができないと洪水の恐れが増大するし、渇水も怖いから、ダム建設に賛成する――。」
このように利害が異なる者の意見の対立を解消し、合意に至る道を探るのが「社会的合意形成」だ。「本音をぶつけ合う」という言葉はしばしば耳にするが、「建前をぶつけ合う」のを重視するのは実際に合意形成を成し遂げてきた桑子氏ならではの知見だろう。桑子氏によれば、本音とは個人的な、自己中心的なことであり、社会的な合意形成には不向きだという。だから徹底的に建前で議論する。
すると面白いことに、ちゃんとした建前を何度も繰り返し口にしていると、その建前が個々人の本音に変化していくそうだ。発言によって人が変わり、別人のように成長する。反対意見や同意意見をぶつけて議論を深めていくことが、合意形成に繋がるという。
ここで本音をシステム1、建前をシステム2としてみれば、本作をより理解しやすいだろう。
ダムができる上流部の人たちだけ、あるいは下流部の人たちだけが集まるなら、建前で議論する必要はないかもしれない。本音(システム1)で話して暮らせばいい。ちっぽけなバニーバロウのように。しかし、上流部の人も下流部の人も含むより大きな社会に秩序を確立しようとすれば、本音ばかりを云ってはいられない。建前(システム2)を積み重ねなければ社会を構築できない。
本作の主人公ジュディ・ホップスは、「すべての動物が共存するズートピア」なんて建前に過ぎないことに気づいてしまった。その建前は、まだ個々人の本音に変化してはいない。
だが、社会とは建前を積み重ねたフィクションだからこそ、構築するにはみんなが注意深く努力しなければならない。ちゃんとした建前は、何度も繰り返せば個々人の本音に変化するのだから。
そう、繰り返しが大切なのだ。訓練とは同じことの繰り返しだ。
本作がグッと来るのは、その覚悟を決めたジュディの心意気に打たれるからだ。
ディズニーがこれからも繰り返しこのテーマに挑むことを期待したい。
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監督/バイロン・ハワード、リッチ・ムーア 共同監督/ジャレド・ブッシュ
制作総指揮/ジョン・ラセター
出演/ジニファー・グッドウィン ジェイソン・ベイトマン イドリス・エルバ ネイト・トレンス J・K・シモンズ ジェニー・スレイト オクタヴィア・スペンサー ボニー・ハント
日本語吹替版の出演/上戸彩 森川智之 三宅健太 高橋茂雄 玄田哲章 竹内順子 Ami 芋洗坂係長
日本公開/2016年4月23日
ジャンル/[アドベンチャー] [ファンタジー] [ミステリー] [ファミリー]

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