『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』 それは新しい考えか?

ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー MovieNEX(初回限定版) [ブルーレイ+DVD+デジタルコピー(クラウド対応)+MovieNEXワールド] [Blu-ray] 【ネタバレ注意】

 善と悪、正と邪、古より戦い続ける二つの勢力。その争いを背景に共和制を掲げる側と帝政を進める側が銀河系を二分して戦う時代。帝国側が開発した新技術により戦況は一変、帝国の勝利が濃厚になった。
 帝国の新技術の秘密を手に入れるため、志願した者たちの一隊が帝国側に乗り込んでいく。生きては戻れないかもしれない危険な任務だ。
 激しい戦闘を切り抜けて、遂に共和制側は新技術の秘密を手に入れる。だが、通信が遮られ、絶体絶命の大ピンチ。
 ――ひと波乱の後、新技術の情報を奪還すべく帝国の戦艦が迫る。それを尻目に、救命艇で脱出した「二人」は辺境の星に到達する。見知らぬ星に降り立った「二人」は、その星の生物に襲われて捕らわれてしまうが、幸いにも彼らを救う者が現れる。
 行動を共にすることになった彼らは、新技術の情報を本部に送り届けるべく逃避行を続ける。しかし、帝国もやすやすと本部に帰らせてはくれない。追っ手と戦いながら、本部のある星を目指す主人公たち……。

 こうしてあらすじを書いていると、スター・ウォーズ・シリーズの外伝『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』と本伝の『スター・ウォーズ』(エピソード4『新たなる希望』)のストーリーを追いかけているような錯覚にとらわれる。


■大河の源流はたくさんある

銀河パトロール隊―レンズマン・シリーズ〈1〉 (創元SF文庫)  だが、冒頭に記したのは、E・E・スミスの名著レンズマンシリーズ第一巻『銀河パトロール隊』のあらすじだ。フォース、シールド、トラクタービーム、通貨単位のクレジット……スター・ウォーズ・シリーズでよく聞く用語も、「スペースオペラの父」として名高いE・E・スミスの作品に飛び交うものだ。スター・ウォーズ・シリーズをはじめとしたスペースオペラで使われる設定やガジェットの多くを考案し、確立したのがE・E・スミスである。

 E・E・スミスの処女作『宇宙のスカイラーク』は、1920年(1921年とも)には執筆を終えていたのに、当時の読者にはあまりにも壮大すぎるという理由でどの出版社からも拒絶され、1928年まで発表できなかった。銀河を股にかけた大冒険、繰り出される新発明・超兵器、続々と現れる奇怪な宇宙生物、宇宙艦隊の大戦争。こんにち私たちがスター・ウォーズ・シリーズ等でお馴染みのこれらの要素は、E・E・スミスが風穴を開けるまで、出版できないほど突拍子もないと思われていたのだ。

 したがって、ほとんどすべてのスペースオペラがE・E・スミスの影響下にあるといっても過言ではない。
 それでも私があえて本稿を書こうと思ったのは、スター・ウォーズ・シリーズへのE・E・スミスの影響、とりわけレンズマンシリーズからの影響に関する言及が少な過ぎると感じたからだ。
 2016年12月24日現在、Wikipediaの『スター・ウォーズ』のページには、スター・ウォーズが影響を受けた小説としてフランク・ハーバートのデューンシリーズが挙げられている。スター・ウォーズの元ネタと類似を解説したページには、デューンシリーズに加えてJ・R・R・トールキンの『指輪物語』等からの影響の記載もある。
 ところがレンズマンシリーズに関しては、まったく触れられていない。

 ジョージ・ルーカスのことだから、デューンシリーズも『指輪物語』も読んでいるに違いない。それらの影響も皆無ではないだろう。たしかに砂漠の惑星タトゥイーンはデューンシリーズの舞台となる砂漠の惑星アラキスがモデルかもしれないし、スター・ウォーズ・シリーズでしばしば言及されるケッセルのスパイス鉱山はアラキスのスパイス産業が元ネタかもしれない。

 しかし、デューンシリーズや『指輪物語』をいくら読んだところで、超兵器がわんさか登場する銀河大戦は発想できまい。
 Wikipediaには、デューンシリーズのベネゲセリットが他者を操る力(ボイス)とジェダイのフォースとの類似や、スター・ウォーズ・シリーズの三作目の題が『ジェダイの帰還(Return of the Jedi)』であることと『指輪物語』の第三巻が『王の帰還(The Return of the King)』であることまで類似として挙げられているが、他者を操るのはレンズマンにもできるし(しかもレンズマンシリーズの発表はデューンシリーズより30年近く先行している)、シリーズ最終巻(として構想された作品)の題が『~の帰還(The Return of ~)』と付けられるのは珍しいことではない。たとえば、トールキンが『王の帰還』を発表する40年も前に、E・R・バローズは『The Return of Tarzan(ターザンの帰還)』や『The Return of the Mucker(邦題は「風雲のメキシコ」だけど)』を発表している。

 こういった類似点を考察したり指摘したりするのは楽しいから、探せばいくらでも見つかるだろう。しかし、私としては、重厚な政治劇のデューンシリーズやSFではない『指輪物語』に源流を求めながら、肝心の痛快スペースオペラ、レンズマンシリーズに触れないのは合点がいかない。

 デューンシリーズや『指輪物語』のファンがスター・ウォーズとの類似を主張してせっせと書き込む一方で、奥床しいレンズマンシリーズのファンはそんな主張を控えているのだろうか。
 私もスター・ウォーズとレンズマンシリーズの類似なんていわずもがなだと思ってきたが、誰かが少しは書いておかないと、デューンシリーズよりも『指輪物語』よりも先行する偉大な作品の存在が忘れられないとも限らない。
 せめて私は、ここに書いておこうと思う。


 レンズマンシリーズは、手に汗握る痛快無比なスペースオペラであると同時に、幾世代にもおよぶ銀河の歴史を描く壮大な叙事詩である。人知を超えた能力を持ち、銀河の守護者たるレンズマン。その中でもひときわ秀でた若者キムボール・キニスン(『地球へ…』の主人公キース・アニアンのネーミングの元ネタといわれる)を主人公にした三部作を中心に、双子を含むキニスンの子供たちを描いた後日譚と、キニスンの祖先たちを描いた前日譚や外伝から構成される。
 その第一巻、24章からなる『銀河パトロール隊』のうちの4章から13章が、まさにエピソード4『スター・ウォーズ』に相当する。新技術の秘密を手に入れた主人公たちが、敵の猛攻をかいくぐって本部に貴重な情報を届け、その情報に基づいて共和制側が反撃するまで、文庫本にしてざっと160ページほどだ。

隠し砦の三悪人 ジョージ・ルーカスが上手いのは、大まかな設定と構成はレンズマンシリーズそっくりでありながら、そこに『隠し砦の三悪人』をはじめとする黒澤映画の要素を詰め込んだことだ。
 『銀河パトロール隊』で主人公たちを追撃するのは敵の大艦隊であり、宇宙空間がまばゆくなるほどの派手な戦闘が連続する。こんな描写は小説だから可能だが、『スター・ウォーズ』制作当時は予算的にも技術的にも映像化できなかっただろう。物語のスケールも大きすぎて手に余ったはずだ。ロン・ハワード監督が2008年にレンズマンシリーズの映画化に挑んだが、膨大な制作費を要するために撤退している。
 一大宇宙叙事詩を念頭に置きながらも、単発の映画として完成されている『隠し砦の三悪人』をなぞるのは、現実解を探るうえでこれ以上ないやり方だ。
 (スター・ウォーズ・シリーズと黒澤映画の関係については、拙稿「スター・ウォーズに見る黒澤明」を参照されたい。)

 もちろん、ジョージ・ルーカスの発想の原点は『フラッシュ・ゴードン』にあるのだが、『フラッシュ・ゴードン』は銀河を股にかけたスペースオペラではなく、ジャンルとしては惑星冒険ものになる。それは、異国情緒に溢れた一つの星で繰り広げられる冒険物語だ。ルーカスが『フラッシュ・ゴードン』っぽさにこだわっていたら、銀河大戦の物語は生まれなかったに違いない。
 他方、レンズマンシリーズは敵も味方も複数の種族から構成される連合体だが、スター・ウォーズ・シリーズでは反乱同盟軍が多様な種族で構成される一方で、帝国軍の将校は人間(地球人型)ばかりで占められている。この非対称性は、複数の種族が同盟して圧制者と戦う『フラッシュ・ゴードン』に由来するだろう。


■エピソード4の直前までの物語はすでにあった

 こんな風に『スター・ウォーズ』を見ていた私にとって、実は気になることがあった。

 『スター・ウォーズ』は『銀河パトロール隊』の4章から13章に符合しているように思える。14章以降では、共和制側の反撃が手詰まりになり、主人公は己の能力を高めるために導師の許を訪れて修行に励む。これはスター・ウォーズ・シリーズではエピソード5『帝国の逆襲』に当たるだろう。敵の要塞惑星に大艦隊で攻撃を仕掛ける一方、主人公が単身乗り込んで(未開種族に助けられながら)敵のボスと対決する23章から24章は、エピソード6『ジェダイの復讐』(後に『ジェダイの帰還』に改題)に符合する。
 こうして物語が進んでいくのは良いのだが、置き去りにされたのが『銀河パトロール隊』の1章から3章だ。銀河パトロール隊から精鋭部隊が選抜され、敵の技術情報を手に入れる波乱万丈の話なのに、その部分がスター・ウォーズ・シリーズで顧みられることはなかった。

 それが気になったのは、レンズマンシリーズ初の映像化である長編アニメーション映画『SF新世紀レンズマン』(1984年)を観たからでもある。
 『銀河パトロール隊』と『スター・ウォーズ』がそっくりなことに気づいた広川和之監督は、大長編のレンズマンシリーズを映画化する方策として、『スター・ウォーズ』を手本に、というよりほとんど『スター・ウォーズ』のアニメ化といっていい内容にしてしまった。そのため、ストーリーも『銀河パトロール隊』の1章から3章を削った形になってしまったのだ。
 ジョージ・ルーカスが『銀河パトロール隊』の4章以降を切り出す手際は鮮やかだったし、その語り口の上手さから『スター・ウォーズ』は充分に楽しめたが、『SF新世紀レンズマン』が原作の冒頭部分を省略したことは、なまじ原作を知っているだけにひどく違和感を覚えさせた。かえって1章から3章が重要であることを再認識させたのである。

ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー オリジナル・サウンドトラック だから、『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』が、敵の技術情報を手に入れるまでを描いたことで、心の中のモヤモヤがようやく晴れた気がする。『銀河パトロール隊』の1~3章は、短いながらも映画一本分に匹敵する魅力があったからだ。『銀河パトロール隊』の志願者がエリート揃いの精鋭部隊なのに対して、『ローグ・ワン』がならず者(rogue)部隊になっているのが興味深い。


 その『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』について、テーマを問われたギャレス・エドワーズ監督はこう答えている。
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一言で言うと、"希望"だね。"ローグ・ワン"のメンバーには、いろいろな文化や惑星から、いろいろな意見を持った人間が集まって、不可能に思えることに挑戦する。過去の作品は善VS悪の構図がハッキリしていたけれど、インターネットが発達した現代では、いろいろな意見や視点が人間にはあることを、我々は知っている。そこには完全なる善VS悪などはなく、皆少しずつグレーな感じで、人間ってそういうものだってわかり始めた。そして、それは新しい考えだと思う。だから今回の作品では、それぞれ皆に問題があって、過去には悪事を働いた悪い奴もいるけれども、選ばれし者、超人的な能力がなくても決断して実行すれば物事はうまくいく――そういうメッセージがあると思う。
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 これは奇妙な発言だ。
 エドワーズ監督は、「新しい考え」の結果として「問題があって、過去には悪事を働いた悪い奴」もいる作品になったと述べているが、スター・ウォーズ・シリーズの主要登場人物の一人ハン・ソロが、悪事にまみれた密輸業者だったことを忘れてしまったのだろうか。

 そもそも、「完全なる善VS悪などはなく、皆少しずつグレーな感じで、人間ってそういうものだってわかり始めた」ことが「新しい考え」なのだろうか。1975年生まれで、物心ついたときにはスター・ウォーズがあったエドワーズ監督には、世界がそんな風に見えるのだろうか。
 エドワーズ監督はこうも云う。「スター・ウォーズの映画を撮るのが4歳からの夢だった…スター・ウォーズと共に育ったんだ…この世界に親しみを感じるよ…フィギュアで遊んでた…スームトルーパーが大爆発!ってね…こんなに楽しい仕事はないよ」
 そんなエドワーズ監督にとって、世界はスター・ウォーズありきであり、スター・ウォーズが世界のすべてなのかもしれない。


■ジョージ・ルーカスの大発明

スター・ウォーズ エピソードIV/新たなる希望 スチールブック仕様 [Blu-ray] だが、1977年公開の『スター・ウォーズ』が大ヒットしたのは、1977年まで世界に『スター・ウォーズ』がなかったからに他ならない。
 何を当たり前な、と思われるかもしれないが、『スター・ウォーズ』公開前の世界にはポッカリとうつろな穴があいていたのだ。ところが、そこに空虚があることを認識している人はほとんどいなかったようだ。空虚の存在に気がついて、それを『スター・ウォーズ』で埋めたのがジョージ・ルーカスの凄さ、偉大さだと思う。

 2016年現在、米国の歴代興行収入の第一位は2015年公開の『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』だ。しかし、物価変動を加味してランキングし直すと、いまだ一位は1939年の『風と共に去りぬ』で、二位が1977年の『スター・ウォーズ』となる。『フォースの覚醒』は10位以内にも入らない。『スター・ウォーズ』が、いかにとてつもないヒットであったか判るというものだ。それは世間を揺るがす大ブームだった。
 これほどの盛り上がりを見せたのは、単に良くできた映画だったからではない。『スター・ウォーズ』の登場が世界を変えたのだ。うつろな穴があいている世界と、その空虚が『スター・ウォーズ』で埋まった世界。『スター・ウォーズ』前と『スター・ウォーズ』後で、世界の景色は変わっている。

 かつてあいていたうつろな穴は『スター・ウォーズ』の登場で埋まってしまったから、スター・ウォーズ・シリーズをつぶさに見ても、『スター・ウォーズ』後の世界を見回しても、そこに空虚があったことに気づかないかもしれない。まして空虚がどれほど大きかったか実感するのは無理かもしれない。
 物心ついたときにすでにスター・ウォーズがあり、スター・ウォーズありきで世界を見ていたら、スター・ウォーズのなかった世界を思い描くのは至難の業だろう。

 これから書くことの中には、『スター・ウォーズ』公開時に云われたこともあるし、その後の人が指摘したこともある。だから、私ごときがいまさら述べるまでもないはずだが、『スター・ウォーズ』の公開から40年が経過した今、人々が『スター・ウォーズ』前の世界に思いを馳せることも減っただろうから、あえて記しておくのもまんざら無意味ではあるまい。


 善VS悪の構図がハッキリしていた過去の作品とは何だろうか。
 ギャレス・エドワーズ監督は、明らかにインターネットが発達していなかった時代の、スター・ウォーズ・シリーズのエピソード4~6のことを指して話している。
 OK、インターネットの発達どころか、インターネットの萌芽すら存在しない1930~1940年代に書かれたレンズマンシリーズでは善VS悪の構図がハッキリしていた。その時代、ドイツ第三帝国や大日本帝国と戦う米国を、悪と戦う善であると考えた人もいたかもしれない。銀幕には、凶悪なインディアンの襲撃に正義の騎兵隊が立ち向かうような、胸のすく娯楽映画が溢れていた。

 けれども米国は1950~1960年代の公民権運動や、これに続くレッド・パワー運動を経験し、また1960~1970年代にはベトナム戦争を経験した。ベトナム戦争は――強大な米国軍がベトナムの小さな村を焼き払う戦いは――善が悪を懲らしめる戦争ではなかった。米国では多くの人が反戦運動に参加した。
 人々はインディアンが悪でもなければ、騎兵隊が正義でもないことに気がついた。そこには完全なる善VS悪などはなく、みんな少しずつグレーな感じで、人間とはそういうものだと判ってきた。アメリカン・ニューシネマと呼ばれる作品が生まれ、以前であれば「悪」として退治されたはずの犯罪者たちが主人公になり、ただ自由に振る舞おうとしただけなのに迫害され殺される者が描かれた。多くの作品が、人間にはいろいろな意見や視点があることを訴えた。

 それは素晴らしい訴えだったが、残念なことにこの時代、胸のすくような娯楽映画は作りにくくなっていた。かつてのインディアンのように退治していい(とみんなが思える)「悪」はいなかったし、「善」を見失った人間は心に闇を抱え、傷ついていた。そういうことから目を逸らすわけにはいかなかったが、誠実に見つめれば見つめるほど人物像は複雑になり、映画は娯楽性を失っていった。映画は社会を映す鏡だから、世の中に問題意識が広がれば広がるほど、映画も問題意識を抱え込まざるを得なかった。

 そこにジョージ・ルーカスが放ったのが『スター・ウォーズ』だ。まるで善と悪が戦っているようなシンプルな構図、判りやすい人物像。『スター・ウォーズ』は映画が――社会が――失っていた楽しさを、思い出させてくれたのだった。

 単に昔のような映画を作っただけでは支持されなかっただろう。騎兵隊がインディアンを撃ち殺す映画を、人々はもう楽しめない。インディアンに限らず、どんな人種でもどこの国の人でも同じことだ。人間同士の殺し合いを見て爽快感を得るなんてできるはずもなかった。

スター・ウォーズ ストームトルーパー 1/6スケール プラモデル そこでルーカスが考えたのが、帝国軍兵士をクローンにすることだった。敵が人間ではないことにしたのだ(ただし、1977年当時はクローンのことがあまり理解されていなかったのだろう。クローンといっても非人間的な複製物ではなく、人間のクローンもあくまで人間であることが判ってきたからか、後に帝国軍兵士は自我を消された特殊なクローンであるという設定が追加された)。
 そして帝国軍兵士の顔をヘルメットで隠し、同じ形の装甲服で全身を覆わせた。これには、クローンの兵士たちが全員同じ外見になるとともに、観客が帝国軍兵士の素顔を見て人間らしさを感じることがないようにする効果があった。ルーカスは、ストームトルーパーが素顔をさらす描写を注意深く排除した。『スター・ウォーズ』にはルークとハン・ソロがストームトルーパーの装甲服を脱がすところがあるけれど、装甲服の中の人間は決して見せなかった。
 この工夫のおかげで、観客は銃撃戦でやられる帝国軍兵士を見ても胸の痛みを覚えなくて済んだ。帝国軍の上級将校は顔を見せているが、彼らも無表情で没個性的に振る舞い、人間味を感じさせなかった。

 人間ではない、覆面のやられ役の兵士といえば、日本では『仮面ライダー』(1971年~)のショッカー戦闘員や『マジンガーZ』(1972年~)の鉄仮面軍団等がお馴染みだ。しかし、それまでのハリウッド映画では珍しかったのだと思う。スター・ウォーズ・シリーズの元となった『フラッシュ・ゴードン』(1936年)でも、主人公が戦う相手はもっぱら変な格好のおじさんたちだった。

 『エピソード1/ファントム・メナス』からはじまる前日譚三部作では、この考えをさらに推し進めて、敵の兵士はロボットになった。遠隔操作されるロボット兵は、撃たれようが斬られようが何も感じない。おかげで観客はますます胸が痛まずに済むようになった。

S.H.フィギュアーツ スター・ウォーズ バトル・ドロイド 約155mm ABS&PVC製 塗装済み可動フィギュア 私は、『エピソード1/ファントム・メナス』のやられ役がバトル・ドロイドになったことにとても感心した。クローンであっても自我がなくても、ストームトルーパーが赤い血を流す肉体を持つことに違いはない。そのため、いくらはるか昔の銀河の彼方の出来事だと断りを入れても、帝国軍兵士をやっつけることにインディアン退治と同じ非道な臭いをかぎ取る観客がいないとも限らない。そんな観客でも心置きなく戦闘シーンを楽しめるように考え抜いた末の設定が、バトル・ドロイドだったに違いない。
 長編デビュー作『THX 1138』からも判るように、ジョージ・ルーカスは人間性について深く考察する作家だ。そんな彼だからこそ、娯楽に徹するとはどういうことなのかを突き詰めることができたのだろう。

 これこそが、『スター・ウォーズ』のもっとも重要な点だった。倒されるのを見ても観客が胸を痛めなくて済む兵士。その虚構が土台にあるから、スター・ウォーズ・シリーズは成立するのだ。インディアンだからといって殺すのは許されない、犯罪者だからといって問答無用に殺していいのか、そう思っていた観客も、『スター・ウォーズ』なら受け入れることができたのだ。
 人間同士の殺し合いを目にしても、フィクションと割り切って楽しめる観客も中にはいるだろう。だが、心優しいルーカスは、そうではない観客に重点を置いた。

 それゆえ、ストームトルーパーがヘルメットを脱いで素顔を見せたり、個性的に振る舞ったりしてはならなかった。そんなことをしたら、スリルを楽しむはずの戦闘シーンが血なまぐさい殺し合いに堕してしまう。それはスター・ウォーズ・シリーズの作品世界を破壊することになる。


■ルーカスが作った世界

 一見すると善悪に分かれて戦っているようなシンプルな構図も、慎重に考えられたものだ。

姿三四郎 フォースのライトサイド(光明面)とダークサイド(暗黒面)が、柔道と柔術を模したものであることは以前の記事で説明した。
 柔道の修行をした姿三四郎は、柔術家・檜垣源之助と決闘する。いわばルーク・スカイウォーカーとダース・ベイダーの対決だ。三四郎は檜垣源之助を倒すが、それは必ずしも善が悪を成敗したのではない。三四郎とて一時は乱暴な柔術に転びかけたことのある身だ。檜垣源之助は後に三四郎と和解し、『續姿三四郎』では三四郎の味方になってくれる。

 ライトサイドとダークサイドも同じことだ。それは明確に分かれたものではなく、ライトサイドからダークサイドに堕ちそうになることもあれば、ルークに救われたアナキンのようにダークサイドから還ってくる者もいる。共和国末期のジェダイ評議会のように、ダークサイドに陥らなくても、思考が硬直して結果的にダークサイドの勃興を許すこともある。
 ルーカスがシリーズを通して諭すのは、不断の努力と修行で己を鍛え続けなければ、人は簡単に堕落してしまうということだ。善VS悪のハッキリした構図なんてものはここにはない。
 にもかかわらず、作品はとてもシンプルで、観客はこの世界にすんなり入り込んで楽しめる。その絶妙なバランスに恐れ入る。

 正義の味方の騎兵隊が凶悪なインディアンを退治する、そんな映画は作れない/作るべきではない世の中で、その娯楽性だけをすくい取って復活させる。それがいかに難事業だったか、できあがった作品をいつでも手軽に味わえる現在では思いを馳せるのが難しいかもしれない。しかし、そこには知的な作業の積み重ねがあり、作品は微妙なバランスの上に成立しているのだ。

               

 ギャレス・エドワーズ監督は「今回の作品では」と強調して「選ばれし者、超人的な能力がなくても決断して実行すれば物事はうまくいく――そういうメッセージがあると思う」と述べている。
 けれども、これは過去、スター・ウォーズ六部作が一貫して主張してきたことでもある。
 ルークはオビ=ワンとヨーダの下で修行してフォースを身につけるが、裏を返せば、たとえ才能に恵まれても厳しい修行を続けなければ才能は開花しないということだ。シリーズを通じて「選ばれし者」と呼ばれたのは唯一アナキンだが、彼こそは才能があっても物事がうまくいくわけではないことを体現していた。

 ギャレス・エドワーズ監督は『スター・ウォーズ』後の世界で新しさを見出そうとしたのかもしれないが、よくよく見ればジョージ・ルーカスが切り開いた道をたどっているようだ。


 『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』のキャストには、多様な人種が起用されているという。たしかに、中国出身のドニー・イェンやチアン・ウェン、メキシコ出身のディエゴ・ルナ等、その人種・出身国は多岐にわたる。
 エドワーズ監督は「私はイギリス出身でイギリス人の俳優が出演する『スター・ウォーズ』を観て育ちましたが、世界の人々は他の地域の人も登場する作品を待ちわびていたのではないでしょうか」と説明する。
 これは大切な点だし、(『スター・ウォーズ』の主人公三人が米国人であることは指摘したいが)エドワーズ監督の意見はもっともだ。
 けれど、それもジョージ・ルーカスが先鞭をつけたものだ。エピソード5『帝国の逆襲』から登場するランド・カルリシアンは、黒人のビリー・ディー・ウィリアムズが演じている。ルーカスからのオファーを三船敏郎さんが断らなければ、シリーズ第一作からアジア人が出演したはずだった。

108ピース ジグソーパズル STAR WARS スター・ウォーズ エピソード5~帝国の逆襲~(18.2x25.7cm) エピソード6『ジェダイの復讐』に文句を云うファンもいた。クライマックスでミレニアム・ファルコンを駆って大活躍するのは、ランド・カルリシアンではなくハン・ソロがやるべきだったのではないのかと。
 ファンの気持ちも判らないではないが、ここはやはりルーカスの決断を称えたい。三部作の最後で帝国にとどめを刺す、最大の見せ場の一番の大手柄を黒人キャラクターに上げさせることに、ルーカスなりの強い思いがあったはずだ(それに、ハン・ソロがミレニアム・ファルコンを駆ったら、第一作のクライマックスと同じ絵面になってしまう)。

 『帝国の逆襲』の公開は1980年、『ジェダイの復讐』は1983年だ。
 2016年公開の『ズートピア』は差別や偏見を取り上げた傑作だが、その原型ともいえる『48時間』が公開されたのが、まさに同時期の1982年だった。肉食動物の詐欺師ニックと草食動物の警察官ジュディがコンビを組んで、48時間以内に事件を解決しようとする『ズートピア』は、明らかにニック(・ノルティ)とエディ(・マーフィ)が演じる白人の警察官と黒人のチンピラがコンビを組んで48時間以内に事件を解決しようとする『48時間』の焼き直しだ。白人と黒人がコンビを組むことが、たいそう異色だったのだ。黒人がチンピラではなく警察官を務め、白人の警察官とコンビを組む『リーサル・ウェポン』が誕生するのはもっと後、1987年のことだ。

 もともとハン・ソロは黒人の設定で、ビリー・ディー・ウィリアムズはハン・ソロ役のオーディションに来た俳優だった。
 ルーカスは、大手映画会社が嫌がったオール黒人キャストの映画『レッド・テイルズ』を四半世紀かけて自腹で制作するような人物だ。『スター・ウォーズ』の続編を作れることになって、さっそく黒人キャラクターを登場させたのも、ルーカスの強い希望だったに違いない。


 『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』の主人公は女性であり、1年前に公開された『フォースの覚醒』も女性が主人公だった。男性が主人公を務めた六部作とは毛色が違うように見えるが、これもまたジョージ・ルーカスが地平を開いた世界の一部である。
 "戦うお姫様"――それはルーカスが『スター・ウォーズ』で提示した新しいヒロイン像だった。それまでの映画のお姫様は、たくましいヒーローに助けてもらう受け身の存在ばかりだったが、レイア姫は勝ち気で口が達者で、敵に対して平気で銃をぶっ放す女性だった。しかも元老院議員という政治家としての顔と、反乱同盟軍の中心メンバーとしての顔も持っていた。
 『ジェダイの復讐』には反乱同盟軍の最高指導者として女性のモン・モスマが登場するし、『エピソード1/ファントム・メナス』では惑星ナブーの国家元首を女性のパドメ・アミダラが務めている。総じてスター・ウォーズ・シリーズでは、男性が権力を握るとろくなことがなく、女性が高い地位についたほうがものごとが上手くいくようだ。
 『フォースの覚醒』の主人公レイも『ローグ・ワン』の主人公ジンも、レイア姫(や『エイリアン』(1979年)のリプリー)らが切り拓いた道の延長を歩んでいるに過ぎないのだ。


 『スター・ウォーズ』後の世界で「新しい考え」に見えるものも、実のところジョージ・ルーカスが生み出したものの延長だったりする。
 これからもルーカスの生み出したものが深く掘り下げられたり、広められたりしていくだろうが、ルーカスが埋めるまでは大きな穴があいていたことに気を配らないと、知らず知らずまた穴をあけて、足をすくわれてしまうかもしれない。
 いま改めて、ルーカスがしてくれたことの大きさを噛みしめたい。


ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー MovieNEX(初回限定版) [ブルーレイ+DVD+デジタルコピー(クラウド対応)+MovieNEXワールド] [Blu-ray]ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』  [ら行]
監督/ギャレス・エドワーズ
出演/フェリシティ・ジョーンズ ディエゴ・ルナ ベン・メンデルソーン ドニー・イェン マッツ・ミケルセン フォレスト・ウィテカー アラン・テュディック チアン・ウェン リズ・アーメッド ジミー・スミッツ ジュネヴィーヴ・オライリー ヴァリーン・ケイン アンソニー・ダニエルズ ジェームズ・アール・ジョーンズ
日本公開/2016年12月16日
ジャンル/[SF] [アドベンチャー]
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【theme : スター・ウォーズ
【genre : 映画

tag : ギャレス・エドワーズ フェリシティ・ジョーンズ ディエゴ・ルナ ベン・メンデルソーン ドニー・イェン マッツ・ミケルセン フォレスト・ウィテカー アラン・テュディック チアン・ウェン リズ・アーメッド

スター・ウォーズに見る黒澤明6: 物語の終りと後日譚

(前回「ダース・ベイダーとは何者なのか?」から読む)

スター・ウォーズ エピソードIII/シスの復讐 スチールブック仕様 [Blu-ray] 前回見たようにスター・ウォーズ・シリーズのオリジナル三部作と前日譚三部作は表裏の関係にある。そこには黒澤映画の表裏も見て取れる。
 ジョージ・ルーカスが『スター・ウォーズ』を発表した1977年は、まだ認識されていなかったかもしれないが。


■三船敏郎 vs. 仲代達矢

 ルーカスが何度も出演を望んだように、黒澤映画の顔といえば『隠し砦の三悪人』『椿三十郎』等々その半分以上の作品で主演を務めた三船敏郎さんだ。三船敏郎さんは、あるときは志村喬さん演じる師の下で、あるときは加山雄三さん演じる若者の師として力強い男性を演じ、黒澤映画のヒューマニズムを象徴する存在だった。

 ところが、黒澤監督が三船敏郎さんを起用したのは、黒澤ヒューマニズムの集大成にして師弟物語の頂点ともいうべき1965年の『赤ひげ』が最後だった。
 このあと、複数の黒澤映画に主演したのは仲代達矢さんしかいない。三船敏郎さんと決別した黒澤明監督は、『椿三十郎』の強烈な悪役・室戸半兵衛(=ダース・ベイダー)で三船敏郎さんと表裏を成した仲代達矢さんを創作の中心に据えた。

 ルーカスが『帝国の逆襲』(1980年)、『ジェダイの復讐』(1983年)でオリジナル三部作を完成させつつあるのと並行して、黒澤明監督は『影武者』(1980年)、『乱』(1985年)で仲代達矢さんが主演の悲劇を撮り続けた。そこで黒澤監督が描いたのは、周囲の反対にもかかわらず分不相応な立場に就かせてもらいながら、一瞬にしてすべてを失う哀れな男の物語、身近な者に裏切られ、誰も信じられない中で正気を失ってしまう男の物語だ。
 スター・ウォーズ・シリーズを通して黒澤映画をなぞってきたルーカスの前で、師と仰ぐ黒澤明が狂気と絶望に満ちた悲劇の世界を見せはじめたのだ。

 それを目にしたルーカスが発表した、『ファントム・メナス』の少年アナキン(『七人の侍』の勝四郎)が『スター・ウォーズ』のダース・ベイダー(『椿三十郎』の室戸半兵衛)に変貌する物語――『スター・ウォーズ エピソード2/クローンの攻撃』と『スター・ウォーズ エピソード3/シスの復讐』――は、まさにヨーダの反対にもかかわらずジェダイの騎士に就かせてもらいながら、師であり親友であるオビ=ワン・ケノービも愛する妻パドメも信じられなくなって、正気を失い、すべてを失う男の物語だった。
 オリジナル三部作が三船敏郎さんに象徴される1960年代までの黒澤映画であるとすれば、前日譚三部作は仲代達矢さんに象徴される1980年代の黒澤映画といえよう。転換点に位置する『ファントム・メナス』は、1960年代までの黒澤映画の総決算であると同時に、1980年代の黒澤映画の導入部となっている。


Kagemusha - The Criterion Collection (影武者 クライテリオン版 Blu-ray 北米版) 先の記事で、騎馬武者たちが鉄砲隊に圧倒される映画として『乱』を挙げたが、黒澤明には他にも同様のシチュエーションの映画がある。無敵を誇った武田軍が織田・徳川の連合軍と激突し、鉄砲隊の前に無残な敗北を喫する『影武者』だ。『乱』で描かれた草原の合戦(=ナブーの戦い)とは異なり、荒れ果てた土地で騎馬武者や歩兵が討ち取られていく『影武者』の合戦は、『クローンの攻撃』の惑星ジオノーシスの戦いでジェダイの騎士たちがドロイド軍の銃火を浴びて倒れていく様に似ている。『影武者』の合戦が武田家の終りを印象づけたように、ジオノーシスの戦いはジェダイに守られた共和国の終りを予感させるものだった。

 数々のアクション映画を撮った黒澤監督だが、大規模な合戦を描いたのは『影武者』と『乱』だけだ。『クローンの攻撃』、そして『シスの復讐』も、オリジナル三部作には見られない規模の大戦争を展開する。
 物語に『ジェダイの復讐』のような子供向けの要素はかけらもない、沈鬱な悲劇の映画なだけに、観客を惹きつけるには激しい戦闘とアクションのてんこ盛りが必要と考えたのだろう。

 しかし、『クローンの攻撃』『シスの復讐』と『影武者』『乱』を重ねてみれば、もうひと工夫あったのではないかと察せられる。


■悲劇の中の道化師

 『』はシェイクスピアの悲劇『リア王』を下敷きにして、戦国の武将・一文字秀虎と息子たちの愛憎を描いた作品だ。
 銀河共和国の要職にありながら奸計を巡らして共和国を滅ぼすパルパティーンは、一文字家の長男の正室でありながら奸計を巡らして一文字家を滅亡に追いやる楓の方を思い出させる(楓の方は『リア王』の野心家エドマンドに当たろうが、悪党としてのスケールや悪事を後悔しない点で、パルパティーンはエドマンドより楓の方に近い)。
 パルパティーンの仲間でありながら捨て駒にされたドゥークー伯爵は、楓の方に踊らされた挙句に命を落とす一文字太郎であろうか。

 アナキンを愛し続けたパドメが『シスの復讐』の最後で唐突に死んでしまうのも、一文字家でただ一人秀虎を愛し続けた三郎の唐突な死を模したと考えられる。その源流は、ただ一人リア王を愛し続けたコーデリアの突然の死だ。オリジナル三部作のときはレイアに実母の記憶がある(レイアが幼い頃はパドメが生きていた)と設定されていたのに(だからレイアは『ジェダイの復讐』で「本当のお母さん」について語っている)、その設定を撤回してまで『シスの復讐』でパドメを死なせたのは、このタイミングでの死が悲劇の完成に欠かせないからだろう。
 アナキン最大の悲劇は、一文字秀虎やリア王が自分を愛してくれた者(三郎、コーデリア)の死に接してみずからも息絶えるのに対して、彼の場合は瀕死の重傷を負ったのにパルパティーンの手で生かされてしまうことにある。ダース・ベイダーの黒いマスクの下には、三郎の死に接しても死ねなかった一文字秀虎、コーデリアの死に接しても死ねなかったリア王がいるのだ。何たる苦痛!何たる悲劇!
 ここにスター・ウォーズ・シリーズは、シェイクスピア悲劇を上回る悲劇として完成された。


乱 4K Master Blu-ray BOX 『乱』の中盤、主人公一文字秀虎は、身近な者に裏切られた衝撃と悲嘆から狂気に蝕まれてさまよい歩く。とうぜんのことながら、狂気に取りつかれた男の姿を追いかけるだけでは映画にならない。男が正気を失ったなら、その思いを言葉にしたり、降りかかる不幸や気持ちのすれ違いを説明してくれる人間が必要だ。
 『乱』では、ピーター演じる道化の狂阿弥がその役を果たしていた。『リア王』の道化師に当たるキャラクターだ。狂阿弥は芸を見せたりお喋りするだけで戦いの役には立たないが、いつも秀虎のそばにいて不満をぶちまけたり世をはかなんだりすることで、秀虎の状況を観客に知らしめる。

 狂阿弥を見ていると気づくのだ。前日譚三部作にも、戦いの役に立たなくてベラベラ喋っているだけの道化のようなキャラクターがいたことに。あまりの不人気に出番がなくなったジャー・ジャー・ビンクスだ。

 パドメから妊娠を告げられ、困ったような、無理して笑顔を作ったようなアナキン。親友と妻の不義を疑うアナキン。――実験精神に富むルーカスは、『シスの復讐』でスペースオペラに大人の愛憎劇を織り交ぜることに挑戦している。大人向けの恋愛映画だったら何ということもない三角関係も、子供も観に来るスター・ウォーズ・シリーズで取り上げるのは、とりわけ男女関係の描写が得意とは思えないルーカスには苦労があったはずだ。わずかにC-3POのまぬけぶりが場を和ませるが、そこにジャー・ジャー・ビンクスの破壊的なおしゃべりがあれば、もしかしたら狂阿弥に匹敵するポテンシャルでこの一大悲劇をまとめてくれたのではないか。

 道化師のいない悲劇は語りにくい。
 ジャー・ジャー・ビンクスを退場させることになったのは、ルーカスにとって大きな誤算だったかもしれない。


■スター・ウォーズが描いたもの

 黒澤明は「過去の人」になっていた。
 監督デビュー以来、1965年の『赤ひげ』まで毎年のように新作を発表してきた黒澤監督だったが、古巣東宝と対立し、海外進出に失敗し、身近な者に裏切られ、気違い扱いされた挙句、自殺未遂に至る。60年代後半から70年代にかけて発表した映画はわずかに二本。小品『どですかでん』とソ連映画の『デルス・ウザーラ』だ。もはや日本国内で映画を作ることはできなくなっていた。

 『赤ひげ』が三船敏郎さんの出演する最後の黒澤映画になったが、三船さんはその後も黒澤監督と仕事をしたがったといわれる。
 おそらく黒澤監督はかつてのような力強いヒューマニズムに満ちた映画を撮れなくなっていたのだろう。黒澤ヒューマニズムの象徴である三船敏郎さんとは、もう仕事ができなかったのではないだろうか。

 『どですかでん』から10年ぶりの日本映画、時代劇としては『赤ひげ』から15年ぶりに発表された『影武者』は、人々から尊敬され畏怖された武田信玄が実はただの替玉でしかなかったことを描いて、まるで世界の映画祭で賞を取まくった大監督の素顔が無力な老人であることをさらけ出したような映画だった。
 その五年後、1985年にようやく公開できた『乱』は、黒澤監督が製作発表の席で「天の視点から、人間のやっていることを俯瞰の目で描きたい。」と語った作品だ。「天の視点から」ということは、黒澤明はもう地上にはいないのだ。かつて小さな命を救うために市井の人に交じっていくヒューマニストを描いた黒澤明は、今やはるかな高みから愚かで醜い人間界をただ見下ろしている。黒澤監督は、『乱』の主人公秀虎は自分だと漏らしたそうだが、たしかに名声を轟かせた老人が身近な者に裏切られ、発狂し、死んでいく様は、ここ20年の黒澤自身の人生を振り返るようだった。
 ここには、人間の力強さを高らかに謳った黒澤明のヒューマニズムは微塵もない。


 黒澤明を師と仰ぎ、その映画を徹底的になぞることでみずからの作品を生み出してきたジョージ・ルーカスは、師黒澤の変わりようをどう思ったのだろう。「人間の道」を説き、勇気と希望に溢れた映画で世界の映画人に影響を与え、自分の映画人生を変えた人物が、今は厭世観でいっぱいになっている。なぜ人間はこうも変わってしまうのか。

スター・ウォーズ エピソードIII/シスの復讐 スチールブック仕様 [Blu-ray] そしてルーカスは前日譚三部作を作りはじめた。オリジナル三部作を三船敏郎さん主演の力強い黒澤映画とすれば、仲代達矢さん主演の悲劇の黒澤映画にあたる前日譚三部作を。表と裏、陽と陰、対照的な物語。"選ばれし者"アナキンが変貌していく物語だ。
 以前、私は『ジェダイの復讐』までのオリジナル三部作を「黒澤映画の集大成」だと書いた。しかし、前日譚三部作までを含めてみれば、これは単に黒澤映画の影響とか再現ではない。師弟物語スター・ウォーズ・シリーズは、ルーカスが師黒澤明その人を描いたものなのだ。


■スター・ウォーズの後日譚

 「過去の人」になっていた黒澤明。
 その窮地を救ったのはジョージ・ルーカスだった。
 白井佳夫氏、早川光氏との座談会で、尾形俊朗氏はこう語っている。[*]
---
『どですかでん』から『デルス・ウザーラ』当時には、"過去の人"的なニュアンスで語られる気分が世間にあったと思う。ところが『影武者』になると、今をときめくルーカスやコッポラがこぞって黒澤さんを訪ね、手をさしのべた。そこから黒澤明という神話が復権して、今日に至っているわけです
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 1977年に『スター・ウォーズ』が公開され、世界的な大ヒットを記録した。
 一躍時の人になったルーカスが口にしたのは、黒澤明へのリスペクトであった。これは世間の目を黒澤明に向けさせるのに大きな効果があっただろう。
 ルーカスはフランシス・フォード・コッポラとともに『影武者』の制作に協力し、久しぶりの黒澤映画を実現させた。『乱』ではフランスのプロデューサー、セルジュ・シルベルマンが協力した。次の『夢』の実現には、スティーヴン・スピルバーグが尽力した。黒澤監督は世界の映画人に助けられた。

 黒澤明は1993年に30本目の監督作品『まあだだよ』を発表した。随筆家内田百間を題材に、多くのものを失い、経済的にも困窮した師が、弟子たちのおかげで心安らかな日々を取り戻す様子を描いた作品だ。主人公は黒澤明本人だといわれる。この映画が、黒澤明の遺作となった。
 師弟物語『姿三四郎』でデビューした黒澤明は、師弟物語『まあだだよ』で監督人生を終えた。しかし、弟子を導く力強い師を描いた『姿三四郎』とはうって変わり、『まあだだよ』の師は慕ってくれる弟子たちの力添えでようやく日々を過ごしている。師弟の関係はすっかり変わってしまった。

 スター・ウォーズ・シリーズを通して黒澤明を追いかけたルーカスが最後に直面したのは、老い衰えていく師だったのだ。
 ルーカスはスター・ウォーズ・シリーズの後日譚を作らなかった。作れなかったに違いない。師弟物語を作ってきたルーカスにとって、師の衰えはあまりにも酷なテーマだ。
 1998年9月、黒澤明は88歳で没した。
 翌1999年1月、かつてシリーズは全九作と話していたルーカスは、前日譚三部作の公開に当たって全六作と云い直した。このあとはないと断言した。そして『スター・ウォーズ エピソード1/ファントム・メナス』の公開がはじまった。


 実は、ルーカスはスター・ウォーズの後日譚を作ろうとしたことがある。「最近の数作品には非常にコストがかかってしまい、従業員にも会社にも申し訳ないと思い、スター・ウォーズの新作に取り掛かろうと考えた。」と2015年末のインタビューで回想している。公開までに四半世紀を費やした戦争映画『レッド・テイルズ』(2012年)が興行面でも評価の面でも惨敗だった頃だろう。
 結局、『レッド・テイルズ』の公開から九ヶ月後にルーカスは自分の会社とスター・ウォーズ関連の諸権利をウォルト・ディズニー社に売り渡した。それでもルーカスは新作に関与し続けるつもりだったが、ディズニーにストーリーの案を拒絶され、手を引かざるを得なくなった。

 実験映画出身のルーカスのことだから、過去スター・ウォーズ・シリーズが世界に衝撃を与えたように、新作もまた見たこともない映像と見たこともない表現で新しい世界を切り開いたかもしれない。それを観られないのは残念だが、会社のために、申し訳なさから無理に後日譚を作ることもないだろう。

 「何であれ、『ジェダイの復讐』の先に語りたい物語はない。語るべきものは本当に何もないんだ。」
 『スター・ウォーズ/クローン・ウォーズ』公開の2008年の時点で、ルーカスはきっぱり云い切っている。
 「スター・ウォーズはアナキン・スカイウォーカーとルーク・スカイウォーカーの物語だ。ルークが銀河を守り、アナキンを救ったときが、この物語の終りなんだ。」

 ルーカスはアキラ・クロサワを悲劇から救い、1990年にはスピルバーグとともにアカデミー名誉賞のオスカーを手渡した。
 これ以上、何を語ることがあるだろう。スター・ウォーズ・シリーズは完全無欠の六部作なのだ。


[*] 『異説・黒澤明』 文藝春秋編 (1994) 文春文庫ビジュアル版

スター・ウォーズ コンプリート・サーガ ブルーレイコレクションスター・ウォーズ エピソード3/シスの復讐』  [さ行]
監督・制作総指揮・脚本/ジョージ・ルーカス
出演/ユアン・マクレガー ナタリー・ポートマン ヘイデン・クリステンセン サミュエル・L・ジャクソン イアン・マクディアミッド クリストファー・リー アンソニー・ダニエルズ ケニー・ベイカー ジミー・スミッツ フランク・オズ テムエラ・モリソン ピーター・メイヒュー ジェームズ・アール・ジョーンズ オリヴァー・フォード・デイヴィス アーメッド・ベスト
日本公開/2005年7月9日
ジャンル/[SF] [ファンタジー] [アドベンチャー]
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【theme : スター・ウォーズ
【genre : 映画

tag : ジョージ・ルーカス ユアン・マクレガー ナタリー・ポートマン ヘイデン・クリステンセン サミュエル・L・ジャクソン イアン・マクディアミッド クリストファー・リー アンソニー・ダニエルズ ケニー・ベイカー ジミー・スミッツ

スター・ウォーズに見る黒澤明5: ダース・ベイダーとは何者なのか?

(前回「『ファントム・メナス』の主人公は誰?」から読む)

スター・ウォーズ コンプリート・サーガ ブルーレイコレクション これまで見てきたように、スター・ウォーズ・シリーズの主要な登場人物は黒澤映画の中にモデルを求めることができる。にもかかわらず、シリーズ随一の悪役で人気の高いダース・ベイダーについては、黒澤映画の誰に当たるのか敢えて考察してこなかった。考察するまでもないからだ。

 アクション映画やサスペンス映画の傑作をものにしてきた黒澤明監督は、多くの悪役も創造してきた。腹黒いヤツ、ずるいヤツ、臆病なヤツ等々、様々な悪役が登場したが、総じて人間的には薄っぺらで存在感に乏しかった。ヒューマニストの黒澤監督は、あまり悪役の描写に注力する気がなかったのだろう。そんな時間があるなら、優しさや勇気や哀しみを描くほうが大事だったのだ。
 その中で唯一、武芸に秀でて頭脳明晰、行動力もあって主人公に勝るとも劣らぬインパクトを与えるのが、『椿三十郎』の室戸半兵衛だ。

 室戸半兵衛の立場はダース・ベイダーとほぼ同じである。部下を率いて追跡や攻撃の前面に出て活躍するが、黒幕は別にいて、今は黒幕の一人の懐刀に収まっている。主人公の腕を見込んで、黒幕を倒してすべてを自分たちで牛耳ろうと持ちかける。

 『スター・ウォーズ』を観ただけだと、皇帝とデス・スターの司令官グランド・モフ・ターキンとダース・ベイダーの主従関係、指揮命令系統がいま一つ判りにくい。
 けれども、室戸半兵衛が大目付の菊井の懐刀であり、菊井には共謀する次席家老の黒藤らがいることを思えば、帝国側の複雑な構成にも合点がいく。日本の時代劇の観客は、いちいち説明されなくても城主とか次席家老とか大目付の位置付けが、例えば企業の代表取締役、取締役、監査役のようなものだと判る。本来なら命令系統から離れたところで家老たちを牽制すべき大目付(監査役)までが悪事に加担しているから『椿三十郎』の陰謀は根が深いのだが、『スター・ウォーズ』ではこの人間関係を何の説明もなく再現しようとして判りにくいのだ。
 幸いにもシリーズ化できたから帝国側の複雑な設定を活かせたが、『宇宙の7人』が悪のキャラクターを独裁者セイドアに集約したように、単発の映画はシンプルに作るのが一般的だろう。

Yojimbo & Sanjuro - The Criterion Collection (用心棒 & 椿三十郎 クライテリオン版 Blu-ray 北米版) 『椿三十郎』のファンなら、『スター・ウォーズ』のデス・スターにおけるオビ=ワン・ケノービとダース・ベイダーの一騎打ちを観てニヤリとするに違いない。
 これもよく考えると不思議な場面だ。剣を持っているのはオビ=ワン・ケノービとダース・ベイダーの二人だけ。他の人物は銃を撃ったりするものの、実際には一騎打ちの傍観者と化している。銃を撃ち合う相手はストーム・トルーパーであり、ルークもハン・ソロもベイダーを狙って一騎打ちに割り込んだりしない。『スター・ウォーズ』は息もつかせぬストーリー展開で、並行して幾つもの事件が起きながら次から次へと場面が変わっていくのに、ここだけストーリーの流れが止まったようにみんなが一騎打ちの終りを待っている。そもそも、ジョージ・ルーカスがオビ=ワン・ケノービを単独行に出させたのも、ダース・ベイダーとの一騎打ちに持ち込みたかったからだろう。それほどルーカスが重視した、描きたい場面だったのだ。
 これは明らかに『椿三十郎』の一騎打ちの再現だ。若侍たちが見守る中、椿三十郎と室戸半兵衛が対決する、あの有名なシーンである。ルーカスの希望どおりオビ=ワン・ケノービ役のオファーを三船敏郎さんが受けていれば、三船敏郎さんが演じた椿三十郎と仲代達矢さんが演じた室戸半兵衛の一騎打ちの完璧な再現になるはずだった。


 黒澤映画には珍しく、弱みも愚かさも見せない悪役、室戸半兵衛。彼は主人公椿三十郎の個性を浮き彫りにするための、三十郎の対になる存在だから、三十郎と同じく生い立ち等は一切明かされていない。そんなものは明かさなくても、三十郎と半兵衛がいれば映画を進行する両輪になる。

 だが、ヒーロータイプの人物ばかりの黒澤映画にあって、半兵衛は異色のキャラクターだ。いったいどうしてこれほど悪に染まった人間ができあがったのか、知りたくなるのは人情だ。

 残念ながら、そのヒントはどこにもない。
 ――と私は思っていた。多くの人がそう思ったに違いない。
 しかし、ルーカスの目のつけどころは違った。


七人の侍 クライテリオン版 Blu-ray 北米版■『ファントム・メナス』の分岐点

 1954年の発表から半世紀以上を経て、今なお高く評価される黒澤監督の『七人の侍』。それは世界の映画人を魅了してきた。1960年の『荒野の七人』をはじめ、リメイクや亜流は数知れない。
 それほど愛される作品だから、続編を見てみたい人も多いはずだ。あの侍たちのその後を映画にしたら、どんなに面白いだろう。黒澤監督は続編を作らなかったが、リメイク作『荒野の七人』は次々に続編が作られ、第四弾『荒野の七人/真昼の決闘』まで発表された。いずれも、『七人の侍』のリーダー島田勘兵衛に相当するガンマンのクリスが、新たな七人を集めて戦う話だ。

 そうなのだ。『七人の侍』でかっこいいのは島田勘兵衛なんだから、彼のさらなる活躍を見たい。そう発想するのが普通だ。
 七人の中で一番の若輩者、戦いの場では感情に任せて取り乱し、恋の試練におたおたする岡本勝四郎のその後を描こうなんて考える映画人は、世界中でジョージ・ルーカスただ一人だろう。

 『スター・ウォーズ エピソード1/ファントム・メナス』で『七人の侍』に再挑戦したもう一つの理由。それは新たな三部作の主人公として、岡本勝四郎を引っ張り出すことだったに違いない。
 前回の記事で、『ファントム・メナス』と『七人の侍』の登場人物が一対一に対応すること、中でも岡本勝四郎はアナキン・スカイウォーカーに相当することを述べた。であるならば、岡本勝四郎こそダース・ベイダーに、室戸半兵衛のような悪の剣士になるはずだ。ルーカスにはそういう発想があったはずだ。

 私は『七人の侍』を何度も観たが、前日譚三部作を通してルーカスに指摘されるまで、そのことに思い至らなかった。岡本勝四郎がダース・ベイダーのようになるほどひどいヤツには見えなかったからだ。
 たしかに勝四郎は未熟者だ。感情に任せて取り乱すことがある。恋をするのもはじめてなのだろう。あとさき考えず突っ走りがちだ。だが、勘兵衛を尊敬する勝四郎は、勘兵衛の指導を受ければ立派な侍になりそうだった。勘兵衛という重しがあるから、勝四郎は心配なさそうだった。

 勘兵衛さえいてくれたら。
 勘兵衛――クワイ=ガン・ジンは死んでしまった。ジョージ・ルーカスは『ファントム・メナス』で島田勘兵衛に当たるクワイ=ガン・ジンを殺してしまった。感情的になって突っ走りやすい若者を、一人で放り出してしまった!

 『ファントム・メナス』でクワイ=ガン・ジンを死なせた意図はそこにあったのか、と私は得心した。
 「ファントム・メナス(The Phantom Menace)」、訳して「見えざる脅威」とは、密かに陰謀を巡らせるダース・シディアスを指しているといわれる。たしかにそれはそうなのだが、ダース・シディアスの計画はアナキンがダークサイドに堕ちることにかなり依存している(メイス・ウィンドゥがダース・シディアスを追い詰めたとき、アナキンがメイス・ウィンドゥ側についていればダース・シディアスの命運は尽きていたかもしれない)。アナキンを見守り、その重しとなり、ライトサイドに導く者がいれば、アナキンも共和国も違う運命をたどったかもしれない。『スター・ウォーズ エピソード2/クローンの攻撃』と『スター・ウォーズ エピソード3/シスの復讐』を観たあとなら判る。『ファントム・メナス』のクワイ=ガン・ジンの死が、大きな岐路だったのだ。アナキンのマスターを務めるはずだったクワイ=ガン・ジンの死によって、アナキンを抑える者はいなくなってしまった。それこそが「見えない脅威」だったのだ。

 クワイ=ガン・ジンの遺志を継いでアナキンの師になったのはオビ=ワン・ケノービである。オビ=ワンは『七人の侍』の七郎次に当たる。優れた侍だし、勘兵衛の思いにもっとも忠実な男だが、勘兵衛ほどの器ではない。七郎次に勝四郎を御せるとは思えない。

 三部作を通してのオビ=ワン・ケノービの変化は、よく計算されていると思う。エピソード1の頃はようやくパダワン(弟子)を卒業する若者。エピソード2ではアナキンの師たろうとするも、アナキンとの衝突が目立った。エピソード3でようやく包容力のある人格者になっている。エピソード3での成熟を観れば、オビ=ワン・ケノービといえどもエピソード2では成長過程にあったのだと感じるし、ましてエピソード1でアナキンの教育を引き受けた頃はさぞや未熟だったのだろうと察せられる。成熟したあとのオビ=ワン・ケノービに師事できたルークは幸せだ。
 もちろんアナキンを御しきれなかったのはオビ=ワン・ケノービだけが悪いのではない。ダース・シディアスが一枚も二枚も上手だったのだ。

 ここで、黒澤明の監督デビュー作『姿三四郎』の命題が思い出される。
 誤った者に師事すれば、誤った道に堕ちてしまう。
 オリジナル三部作で姿三四郎の師・矢野正五郎の教えを再現したルーカスは、前日譚三部作を通して正五郎に出会う前の三四郎を、すなわち柔道(ライトサイド)ではなく柔術(ダークサイド)の弟子のままだった場合を突き詰めていく。強いことに慢心し街で大暴れした三四郎に、矢野正五郎が「人間の道」を説かなかったら、この青年はどうなっていたのか。『姿三四郎』冒頭の命題が、スター・ウォーズ・シリーズ全編を覆っている。


スター・ウォーズ エピソードII/クローンの攻撃 スチールブック仕様 [Blu-ray]■二重らせん構造のスター・ウォーズ

 『ファントム・メナス』の少年アナキン(『七人の侍』の勝四郎)がどのようにして『スター・ウォーズ』のダース・ベイダー(『椿三十郎』の室戸半兵衛)に変貌したのか。それを描くために、ジョージ・ルーカスは前日譚三部作とオリジナル三部作を対照的なものにした。

 師の違いばかりではない。ルークが成人になるまで家族の許で暮らせたのに対し、アナキンは幼くして母から引き離されてしまう。そして二人は正反対の環境で育つ。

 環境の違いで目に付くのがコルサントだ。オリジナル三部作では頑として登場させなかった銀河の中央、首都惑星コルサントを、前日譚三部作では主な舞台としている。ルーカスが描くコルサントは、多くの場合、緊張を強いる夜だったり、没落を予感させるたそがれだったりする。
 そこは故郷を後にした若者が夢に向けて邁進するところではない。腐敗と怠慢に覆われ、権謀術数が渦巻く世界だ。都会のねじれた生活を強調するため、ルーカスはエピソード1に飛び切り美しい惑星ナブーと賑やかで活気のある惑星タトゥイーンを登場させた。それら辺境の星にいるときのパドメやアナキンは(重責や自由の制限はあるものの)健全だった。エピソード1の明るい二人を見ているだけに、エピソード2や3の都会暮らしがいかにも辛そうに感じられる。

 都会が人間性を歪め、不健康な社会を作るという考えは、多くの創作物に見られる。
 高畑勲氏が演出を務めたテレビアニメ『アルプスの少女ハイジ』では、自然豊かな地方でのびのび育った少女が、都会に行って精神を病んでいく様子が描かれた。『アルプスの少女ハイジ』に場面設定・画面構成とクレジットされた宮崎駿氏は、自身の監督作『未来少年コナン』において、人間性を奪う都市インダストリアと農漁業で大らかに暮らす村ハイハーバーを対比した。高畑勲、宮崎駿両氏の作品では、「都会」と「反都会的な理想の共同体」の対比が重要なモチーフだった。
 故郷を出たがっていた田舎の青年ルークが、遂に都会に行かなまま辺境で過ごすうちにハッピーエンドを迎えるオリジナル三部作。対して、幼いうちに都会に出る機会に恵まれたアナキンが、最悪の悲劇を迎える前日譚三部作。スター・ウォーズ・シリーズでは、二つの三部作が揃うことでルーカスの文明観が明確になる。

 とはいえ、「反都会的な理想の共同体」を夢見た高畑勲氏が、そんなものはない現実に気づいて『かぐや姫の物語』を作ったように、都会の歪みを描いたルーカスも単純に辺境を称賛するわけではない。そこは原始的なパワーがあるかもしれないが、同時にタスケン・レイダー等が跋扈する危険な場所でもある。ルーカスはどちらがいいとは主張せず、六作を通して都会と辺境の性質の違いをあぶり出している。


 両三部作は恋愛においても対照的だ。
 恋愛映画を盛り上げるのは何といっても三角関係だが、ルークとレイアとハン・ソロの三角関係が、ルークとレイアが兄妹だったことで都合よく解消されてしまうオリジナル三部作に対し、前日譚三部作ではオビ=ワン・ケノービとパドメの不義を疑ったアナキンが(現実には不義密通がないにもかかわらず)自分たちを破滅に追い込んでしまう。アナキンの悲劇を観たあとでは、兄妹話で三角関係を解消するオリジナル三部作はいかにも喜劇である。

 恋愛については、ジェダイの掟も障害となる。ジェダイの掟が恋愛を禁じていることが、アナキンとパドメを悩ませるのだ(もちろん障害があればかえって恋は燃え上がる)。
 面倒なジェダイの掟が『クローンの攻撃』で突然出てきたように感じられるが、この設定も『七人の侍』の影響だろう。『七人の侍』では良家の武士岡本勝四郎と農村の娘志乃との、身分・立場が違う中での密かな恋が描かれた。これをスター・ウォーズの世界に反映させるために、ルーカスは恋の邪魔になるジェダイの掟を考案したのだろう。


スター・ウォーズ エピソードIII/シスの復讐 スチールブック仕様 [Blu-ray]■「これで自由は死んだわ。万雷の拍手の中でね。」

 対照的な二つの三部作だが、ジョージ・ルーカスの考えは一貫している。それどころかルーカスは、学生時代の1967年に撮った短編映画『電子的迷宮/THX 1138 4EB』から、それを長編化したデビュー作『THX 1138』、そして2005年の『シスの復讐』まで、その訴えるところは変わらない。管理社会の拒絶と人間性の解放だ。

 『THX 1138』は未来の超管理社会で主人公が人間性に目覚める話だった。
 『スター・ウォーズ』と二つの続編の根底にあるのは、画一的な支配を強要する<帝国>からの人々の解放だ。

 一方で前日譚三部作は、徐々に自由を失っていく恐怖を描いている。この三部作で特に重要なセリフは、元老院の採決を目にしたパドメのつぶやきだ。

 So this is how liberty dies, with thunderous applause.
 (これで自由は死んだわ。万雷の拍手の中でね。)

 圧政で人々を苦しめるパルパティーンは、暴力で権力を奪ったのではない。策は弄したが、あくまで多くの人に望まれ歓迎されて、正規の投票を経て銀河帝国皇帝に就任したのだ。人々がみずから自分の自由を奪い、戦禍を招いてしまう。これは過去、そして現在の、現実の世界で起きていることだ。
 このひと言を聞くためにも、前日譚三部作を世界中の人に繰り返し観て欲しいと思う。


 ルーカスはスター・ウォーズ・シリーズ全編を通じて、他者を管理し、自由を奪う者には冷たく、他者を愛しむ者は丁重に扱っている。
 一作目『スター・ウォーズ』で、ルークのおじさん、おばさんが本シリーズには珍しくむごい死に方をするけれど、おじさんはルークの自由を奪い管理する、ルークにとっての最初のハードルだった。

 前回、『七人の侍』の島田勘兵衛がクワイ=ガン・ジンとメイス・ウィンドゥに投影されていると書いたが、劇中での両者の扱いは正反対だ。
 勘兵衛の人格面を反映させたクワイ=ガン・ジンは、その死をみんなに惜しまれ、手厚く葬られる。他方、勘兵衛の指導的な立場や外形的な面を反映させたメイス・ウィンドゥは、アナキンの意志を抑えつけて命令する存在だったから、劇中で極めて冷淡に扱われる。ダース・シディアスとの戦いに敗れた彼は窓の外に吹き飛ばされ、ただ小さく消えるだけなのだ。ジェダイ評議会の長という重要な人物でありながら、その死は誰にも顧みられない。

 ルーカスの一貫性を考えるとき、オリジナル三部作と前日譚三部作はどこも欠かせない大きな物語の一部なのだと痛感する。

(次回「物語の終りと後日譚」につづく)


スター・ウォーズ エピソードII/クローンの攻撃 スチールブック仕様 [Blu-ray]スター・ウォーズ エピソード2/クローンの攻撃』  [さ行]
監督・制作総指揮・脚本/ジョージ・ルーカス  脚本/ジョナサン・ヘイルズ
出演/ユアン・マクレガー ナタリー・ポートマン ヘイデン・クリステンセン サミュエル・L・ジャクソン イアン・マクディアミッド ペルニラ・アウグスト クリストファー・リー アンソニー・ダニエルズ ケニー・ベイカー ジミー・スミッツ フランク・オズ テムエラ・モリソン ダニエル・ローガン ジャック・トンプソン オリヴァー・フォード・デイヴィス アーメッド・ベスト
日本公開/2002年7月13日
ジャンル/[SF] [ファンタジー] [アドベンチャー]
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【theme : スター・ウォーズ
【genre : 映画

tag : ジョージ・ルーカス ユアン・マクレガー ナタリー・ポートマン ヘイデン・クリステンセン サミュエル・L・ジャクソン イアン・マクディアミッド ペルニラ・アウグスト クリストファー・リー アンソニー・ダニエルズ ケニー・ベイカー

スター・ウォーズに見る黒澤明4: 『ファントム・メナス』の主人公は誰?

(前回「『ジェダイの復讐』の終りはあれでいいの?」から読む)

スター・ウォーズ エピソード1/ファントム・メナス 『スター・ウォーズ/ジェダイの復讐』を公開したのち、ジョージ・ルーカスには思うところがあったのだろう。
 『七人の侍』をベースに三部作をつくることで、黒澤明をリスペクトしつつ、自己のテーマを前面に打ち出した、はずだった。しかし時間が経てば、やり残したこと、足りなかったことが気になるものだ。そして以前は見通せていなかったものも見えてくる。

 九部作構想を打ち上げたにもかかわらず、スター・ウォーズ・シリーズに関しては休眠同然になってしまったルーカスが、再びこのシリーズに向き合うことにしたのは、相応の問題意識があったからに違いない。その問題を解消することが、『スター・ウォーズ エピソード1/ファントム・メナス』を作る意義の一つだったはずだ。

 すなわち、『ファントム・メナス』にはじまる前日譚の三部作を観れば、先行するオリジナルの三部作に欠けていたものが浮き彫りになるはずだ。ルーカスをして、オリジナル三部作だけで終わらせるのは片手落ちだと危惧させたもの。オリジナル三部作に加えて前日譚三部作を作れば、(たとえ後日譚三部作がなくても)シリーズは完成だと考えさせたもの。それらがルーカスを突き動かして、新たな三部作を、全六部作を作らせたはずだ。

 単にスター・ウォーズ・シリーズを観るだけでは判りにくいが、これまで述べたようにこのシリーズが黒澤映画をベースにするなら、特に『七人の侍』の再現を目指したならば、『七人の侍』とオリジナル三部作の違いを知ることで、ルーカスのやり残したこと、足りなかったことが見えてくるだろう。

 そう考えて改めて眺めると、オリジナル三部作の問題点に気づく。


■ルークはそこにいなかった

 ジョージ・ルーカスは(米国の他の映画人同様)とても思慮深く、世の中の政治的・社会的側面への関心も強い人だと思う。それは何も政治活動をしているとか、実生活がどうだということではなく、映画の題材の選び方や、作品に込められたメッセージから感じるのだ。そんな人でなければ、人間性と管理社会の問題を取り上げた『THX 1138』のような映画は作らないだろう。興行面での憂いがなければ、ルーカスはこのデビュー作のような映画をずっと作り続けたのではないか。
 そんなルーカスだから、娯楽作のスター・ウォーズ・シリーズといえど政治的にも社会的にもきちんとさせたかったはずだ。手本にした『七人の侍』が、切れのいいアクション映画でありながら、人間性の掘り下げにおいても社会の洞察においても優れた映画であったように。

 それだけに、『ジェダイの復讐』にはいささか気になるところがある。イウォーク族の扱いが、未開種族を見下しているようなのだ。イウォークがC-3POを神様と思い込んだのを利用するのは相手の無知と愚かさにつけ込むようだし、レイアが食べ物を与えて仲良くなるのは動物の餌付けのようだ。そんなつもりではないのだろうが、原始的なパワーを強調しようとしてイウォーク族を未開に描き過ぎている。

七人の侍 クライテリオン版 Blu-ray 北米版 『七人の侍』の農民と侍の関係はまるで違う。もちろん立場や技能の違いはあるが、農民と侍それぞれの至らないところや浅はかなところを描いた上で、両者の溝を埋める過程が丁寧に描写されていた。だから侍の「勝ったのはあの百姓たちだ、わしたちではない」という言葉に重みがある。

 ルーカスもはじめは判っていたはずだ。ルークがウーキーの部族長と決闘し、相手に勝って種族の信頼と支持を勝ち取るという初期構想は、未開種族の無知につけ込んで焚き付けるのではなく、相手の文化を異質だが対等のものとして尊重することだったに違いない。
 背景にベトナム戦争があるというなら、最後は二つの社会の融和を描かなければならなかったのに、『ジェダイの復讐』はそこまで踏み込めなかった。


 ルークの扱いも上手くない。
 初期構想ではルークがウーキーの信頼と支持を勝ち取り、帝国攻撃を率いるはずだった。けれども『ジェダイの復讐』ではルークとイウォーク族にほとんど交流がない。複数の事件が並行して進む緊迫感を好むルーカスは、『ジェダイの復讐』でもエンドア上のシールド発生機破壊作戦と第2デス・スター内のルークとダース・ベイダーの対決を並行して描いたからだ。このためルークは、イウォーク族がシールド発生機を襲撃する場からいなくなってしまった。

 ルークを農夫出身にしたことが活かされていない。『七人の侍』では、菊千代が侍と農民のあいだを取り持ち、彼の農民出身という設定が欠かせないものになっていた。『七人の侍』に照らして考えれば、お姫様育ちのレイアは未開種族との接し方が判らず、裏街道で生きてきたハン・ソロも勝手が判らず、辺境の諸種族とやりとりして暮らしていたルークだけがイウォーク族と交流できる……という展開が期待されるところだった。


 『七人の侍』の三部構成、すなわち仲間が集まり敵との戦いに盛り上がる第一パート、旅を経てキャラクターの心情や悩みを掘り下げた第二パート、戦いの中で人々の命運が決まる第三パートを、そのまま当てはめて三部作にしてみたものの、総じて『七人の侍』の緻密で完璧な構成には及ばなかった感がある。
 ルーカスほどの人が、これらの問題に気づかないはずはない。

 そこでルーカスは『七人の侍』に再挑戦した。
 『ファントム・メナス』で。


スター・ウォーズ エピソード1/ファントム・メナス■メイス・ウィンドゥがハゲてる理由

 ジョージ・ルーカスが前日譚三部作の脚本執筆に取りかかったのは1994年である。『ジェダイの復讐』の特別篇が公開された1997年には『ファントム・メナス』を撮影しているから、特別篇の改変は『ファントム・メナス』の内容を固めた上で行われたのだ。
 『ジェダイの復讐』の特別篇でいったん『七人の侍』らしさを薄めたのは、この後でルーカスなりの『七人の侍』を提示する目途が立っていたからだろう。

 『ファントム・メナス』はとても丁寧に『七人の侍』をなぞっている。
 『ファントム・メナス』と『七人の侍』のストーリーを簡単に追ってみよう。

『七人の侍』『ファントム・メナス』
野武士集団に狙われた農村。村人たちは相談の上、侍を雇うため町に向かう。通商連合の攻撃対象にされた辺境の惑星ナブー。アミダラ女王らはナブーの窮状を訴えるために銀河共和国の首都コルサントに向かう。
村人は、町で雇った侍を村に連れて帰る。旅の途中で加わった者も入れて、侍は七人だった。アミダラ女王らは、護衛の名目のジェダイの騎士クワイ=ガン・ジンとオビ=ワン・ケノービをナブーに連れて帰る。旅の途中で加わったアナキンらも一緒だった。
七人の侍は、侍を警戒する農民たちの理解を得て、ともに戦う準備をする。一行は、ナブーの水棲人グンガンの理解を得て、ともに戦う準備をする。
野武士集団に比べれば貧弱な装備ではあるが、農民たちは善戦し、雇った侍とともに勝利する。バトル・ドロイド軍団に比べれば貧弱な装備ではあるが、グンガンたちは善戦し、ジェダイの騎士や地上人とともに勝利する。
戦いの犠牲になった者を弔い、村人たちは賑やかに田植え唄をうたう。戦いの犠牲になった者を弔い、グンガンの賑やかな音楽に乗せて水棲人と地上人の平和共存を宣言する。


 こうして俯瞰してみると、『ファントム・メナス』の奇妙な構成にも得心する。
 クワイ=ガン・ジンとオビ=ワン・ケノービは『ファントム・メナス』の冒頭で惑星ナブーに到着しているのに、いったん首都コルサントに戻り、また惑星ナブーに赴く。なんだか銀河を行ったり来たりしてるように感じるのは、本来は首都コルサント(町)で登場すればよいジェダイの騎士(侍)を最初に出してしまったからだ。
 『新たなる希望』では映画開始から20分も主人公を出さないという斬新な手法に踏み切ったルーカスも、さすがに映画開始からアミダラ一行が帰途につくまでの一時間半もクワイ=ガン・ジンとオビ=ワン・ケノービを出さないわけにはいかなかったのだろう。

 しかもオリジナル三部作でオビ=ワンが「アナキンと出会ったとき、彼はすでに名パイロットだった」と口にしてしまっているから、九歳なのに名パイロットという不合理を説明するためにポッド・レースのシークエンスを必要とした(オビ=ワンは「戦闘機の名パイロット」とは云ってないから、ポッド・レースでもOK)。となると、映画の前半が盛り沢山になるので、ますますクワイ=ガン・ジンとオビ=ワン・ケノービを早く出しておかねばならない。
 スター・ウォーズの世界と『七人の侍』を融合させようとするルーカスの苦労がしのばれる。


スター・ウォーズ エピソード1/ファントム・メナス 登場人物も『七人の侍』にならっており、両作での行動やラストの立ち位置を見れば、登場人物がほぼ一対一で対応していることが判る。
  • 優れた知恵者で武術も一流、リーダー格の島田勘兵衛は、ジェダイ・マスターのクワイ=ガン・ジン。
  • 島田勘兵衛と付き合いが長く、その片腕となって活躍する七郎次は、クワイ=ガン・ジンのパダワン(弟子)であるオビ=ワン・ケノービ。
  • 一行の中の最年少、まだ未熟者で員数外として扱われもしたが、戦いではちゃんと役に立つ岡本勝四郎は、ジェダイになることを反対されたアナキン・スカイウォーカー。村に逗留した勝四郎が、村の娘と恋仲になるところも、アナキンとアミダラの恋に反映されている。
  • 寡黙ながら腕が立ち、いつもそばにいて敵を倒してくれる久蔵は、ナブー王室警備隊のパナカ隊長であろう。
  • アミダラは勝四郎と恋仲になる現地の娘でもあるが、道中や戦いにおいては、思慮深く人望の厚い片山五郎兵衛。
  • 戦いの腕はいま一つだが、ムードメーカーとして存在感のある林田平八はR2-D2。

 面白いのは、私がもっとも好きなキャラクター島田勘兵衛が、『ファントム・メナス』では二人の人物に投影されていることだ。知恵が回り、包容力もあり、誰からも信頼される人格面はクワイ=ガン・ジンに、侍たちのリーダーとしての立場や剃髪、服装等の外形的な面はメイス・ウィンドゥに託されている。
 おそらくルーカスも島田勘兵衛に思い入れがあり、勘兵衛に相当する人物を是非とも出したかったのだろう。だが、勘兵衛ほどの人格者がジェダイの騎士たちの中心にいれば、アナキンがダークサイドに堕ちるはずがない。そこでルーカスは、勘兵衛の人格面と外形的な面を分離し、人格面のキャラクターは存分に活躍させた上で重要な伏線として丁重に葬り(この伏線については次回述べる)、外形的な面のキャラクターを勝四郎(アナキン)に厳しく当たる存在として残したのではないか。

 時代劇を見渡しても、出家せずに剃髪している武士のヒーローは島田勘兵衛くらいだろう。武士は髷が結えないほどハゲてきたら隠居するのが慣わしだったそうだから、ハゲ頭のまま活躍したらおかしいのだ。それなのに躊躇なく剃髪するところに勘兵衛の凄さがある(勘兵衛がなぜ剃髪したかは『七人の侍』の序盤で明らかになる)。
 スター・ウォーズ・シリーズには無毛のエイリアンもいるから判りにくいが、人間(地球人型)のジェダイでハゲているのはメイス・ウィンドゥだけだ。『ファントム・メナス』の撮影時は毛があったサミュエル・L・ジャクソンに、わざわざ頭を剃らせたところに、勘兵衛の影響が見て取れる。

 さて、前回説明したように、『七人の侍』の主人公は三船敏郎さんが演じた菊千代だ。
 登場人物の対応を見ていくと、もう彼しかいないだろう。
 『ファントム・メナス』の真の主人公はジャー・ジャー・ビンクスなのだ。


■ジャー・ジャー・ビンクスは三船敏郎!?

 もちろん前日譚三部作を通しての主人公はアナキン・スカイウォーカーだ。
 しかし、九歳の彼にもそれなりの見せ場はあるものの、こと『ファントム・メナス』に限れば、物語を引っ張るのはクワイ=ガン・ジンやアミダラだ。そしてルーカスが重要なテーマという「発展途上の社会が先進社会に立ち向かう様子」を体現しているのがジャー・ジャー・ビンクスだ。

ブロマイド写真★『スター・ウォーズ/EP1』ジャー・ジャー・ビンクス/驚く 『ファントム・メナス』におけるジャー・ジャー・ビンクスの位置づけは、『七人の侍』における菊千代にそっくりだ。
 菊千代は侍ではない。だから勘兵衛は菊千代を仲間にするつもりではなかったのだが、なりゆきから行動をともにすることになる。へらず口をたたいてばかりの菊千代は、とんだ邪魔者だ。
 勘兵衛たちは農村に到着するが、農民にすれば勘兵衛たちも野武士と同じ侍。容易に打ち解けるものではない。そこで両者のあいだを取り持ったのが菊千代だ。農民と侍の接点となる菊千代がいたおかげで、生き方も考え方も違う両者が共闘することになる。
 この内容は、勘兵衛をクワイ=ガン・ジンに、農民をグンガンに、菊千代をジャー・ジャー・ビンクスに置き換えれば、そのまま『ファントム・メナス』になるだろう。

 『ジェダイの復讐』と『ファントム・メナス』との違いは、同じように原住民の力を借りて戦いながら『ファントム・メナス』が相手の文化を尊重し、二つの社会の融和を強調していることだ。『ファントム・メナス』がグンガンの族長ボス・ナスの「Peace!」という言葉で締めくくられることからも、ルーカスがこれを重視しているのが判る。
 その大事なテーマの体現者であり、かつて出演を熱望した三船敏郎さんに相当するキャラクターが、主人公でなくてなんだろう。


 しかし、ジャー・ジャー・ビンクスは大失敗だった。架空のキャラクターなのに第20回ゴールデンラズベリー賞の最低助演男優賞を受賞した上、2006年のアンケートでは映画史上もっとも不愉快なキャラクターの1位に選ばれてしまった。これほど嫌われるキャラクターも珍しい。
 『七人の侍』の菊千代は嫌われるどころか人気者なのに、いったいこれはどうしたことか。

 失敗の理由は、ジャー・ジャー・ビンクスがブロンだったからだ。
 ブロンといっても、エスエス製薬のクスリでもフランスの地名でもない。ここでいうブロンは、星新一氏の小説『リオン』に出てくる果物のことだ。植物学者がブドウとメロンを掛け合わせて、メロンのように大きな実がブドウのようにたくさんなる果物を作ろうとしたが、できたのはブドウのように小さな実がメロンのように少ししかできない果物だった、という切ない話だ。與那覇潤氏が「二つのもののいいとこ取りをしようとして、悪いところの組合せになってしまう」ことの例えとして、しばしば持ち出す話である。

 ジャー・ジャー・ビンクスが何からできているかというと、一つはもちろん『七人の侍』の菊千代だ。もう一つはルーカスがDVDの音声解説で明かしている。喜劇王バスター・キートンだ。
 なるほど、ジャー・ジャー・ビンクスの滑稽な動きは、バスター・キートンそのものだ。特にクライマックスの戦いで、斜面を転がる大きな玉に追いかけられるシーンは、『キートンのセブン・チャンス(キートンの栃麺棒)』の再現だ。キートンが斜面を逃げ回るところは抱腹絶倒の名場面。高畑勲・宮崎駿コンビも『ルパン三世』第20話「ニセルパンを捕えろ!」でそっくりそのまま再現している。

 ルーカスとしては、三船敏郎さんが演じて強烈な印象を残した菊千代と、喜劇王と呼ばれたバスター・キートンを混ぜることで、最強の人気者を誕生させようとしたのだろう。
 しかし、へらず口をたたきながらも戦いではしっかり活躍する菊千代と、普段は寡黙で目立たないが失敗続きで笑わせるバスター・キートンを混ぜた結果、お喋りがうるさい上に失敗ばかりで役に立たない最悪のキャラクターができてしまった。これほどひどいブロンの例はまたとあるまい。

 エピソード2以降になると、ジャー・ジャー・ビンクスの出番は哀れなほど減ってしまう。
 不人気ゆえの処置だろうが、少々擁護しておくと、二つの社会の架け橋となる彼の(菊千代としての)役割は『ファントム・メナス』をもって終わっていたから、もとより出番は削減可能だったのだ。


隠し砦の三悪人■さらなる黒澤映画への傾倒

 『ファントム・メナス』の下敷きになった黒澤映画は、『七人の侍』だけではない。

 アミダラ一行の脱出行では、一作目『スター・ウォーズ』と同じく『隠し砦の三悪人』を取り入れている。
 『隠し砦の三悪人』の雪姫は正体を隠して村娘に扮し、身代わりを立てて行動したが、『スター・ウォーズ』のときはこの要素だけ取り入れていなかった。『ファントム・メナス』のアミダラは雪姫を真似て侍女に扮し、影武者を立てて行動する。

 『スター・ウォーズ』の初期の草稿では、雪姫が村娘から姫らしい格好に戻ったように、見違えるようにきれいになったレイア姫が登場するラストが考えられていたようだが、完成した『スター・ウォーズ』では少々着飾っただけだった。身分を隠さないレイア姫に、雪姫のような劇的な変化は難しかったのだろう。
 『ファントム・メナス』ではこの構想も復活して、映画の最後に美しく着飾ったアミダラが登場する。

Kagemusha - The Criterion Collection (影武者 クライテリオン版 Blu-ray 北米版) 1977年公開の一作目のときは影武者の設定を使わなかったルーカスが、1999年の『ファントム・メナス』から積極的に使うようになったのは、プロデューサーとして関わった1980年の『影武者』の影響も考えられる。黒澤監督にカンヌ国際映画祭グランプリ(現パルム・ドール)をもたらした『影武者』によって、ルーカスは影武者というモチーフの重要性、すなわち身代わりを立ててでも我が身の保全を考えなければならない権力者の責務と、権力者のように振る舞っても実際には何の力もなく使い捨てになる影武者の悲哀を認識したのではないか。『スター・ウォーズ』のレイア姫は銃をぶっ放して活躍するだけだから影武者なんていらないが、アミダラの政治家としての側面を強調するには効果的なモチーフだ。


 また、起伏の激しい草原におけるグンガンの騎馬武者たちと通商連合のドロイド軍の戦いも、時代劇映画の合戦シーンの再現だろう。のぼりや羽をつけた騎馬武者たちが鉄砲隊と対峙する時代劇は幾つもあるが、合戦の場が草原であることや、ロケ地になかった丘をわざわざ合成して丘に囲まれた合戦場を演出していることから、これは1985年の黒澤映画『』を意識したに違いない。槍や投石で戦うグンガンたちが、大小の火器で武装したドロイド軍に圧倒されていく様は、騎馬武者たちが鉄砲隊に圧倒される『乱』を見事になぞっている。

乱 4K Master Blu-ray BOX 『七人の侍』のストーリーを追いながら、クライマックスの戦いを大軍が激突する『乱』に差し替えるなんて、ルーカスの発想には恐れ入る。
 『七人の侍』は、題名のとおり七人の侍が農民と協力して四十人の野武士集団と戦う話だ。四十という数は、手強いけれど、もしかしたら七人で食い止められそうな気がして絶妙だ。ただし、『七人の侍』の内容ならこれでいいが、七人対四十人ではスケールの広げようがない。そこをわきまえずにリメイク作『宇宙の7人』(1980年)のようにわずか七人のおかげで悪の帝国を倒せたりすると、不自然さが目立ってしまう(それなりに面白い映画だったが)。
 その点、ルーカスのバランス感覚はさすがである。

 VFXスーパーバイザーのデニス・ミューレンは、丘の上にドロイド軍が出現するシーンの音声解説で「ジョン・フォードの映画が元だ」と述べている。同じような映像は黒澤明監督の『七人の侍』や『乱』にも見て取れる。優れた着想は時代を超えて受け継がれているということだろう。


 『ファントム・メナス』は『七人の侍』に再挑戦した上に、『隠し砦の三悪人』や『乱』や、おそらく『影武者』をも織り交ぜて、黒澤映画のエッセンスを凝縮した作品だ。エピソード4~6の三本でやったことを一本にぎゅう詰めにした、実に面白い映画なのだ。

 ところが、『ファントム・メナス』で『七人の侍』をおさらいしたことには別の意味もあった。
 「ファントム・メナス(The Phantom Menace)」、訳せば「見えざる脅威」とは、密かに陰謀を巡らせるダース・シディアスを指しているといわれるが、おそらく題名の意味するところはそれだけではない。

(次回「ダース・ベイダーとは何者なのか?」につづく)


スター・ウォーズ エピソード1/ファントム・メナス』  [さ行]
監督・制作総指揮・脚本/ジョージ・ルーカス
出演/リーアム・ニーソン ユアン・マクレガー ナタリー・ポートマン ジェイク・ロイド サミュエル・L・ジャクソン イアン・マクディアミッド ペルニラ・アウグスト ヒュー・クァーシー ブライアン・ブレッスド アーメッド・ベスト アンソニー・ダニエルズ ケニー・ベイカー テレンス・スタンプ レイ・パーク フランク・オズ キーラ・ナイトレイ オリヴァー・フォード・デイヴィス ワーウィック・デイヴィス
日本公開/1999年7月10日
ジャンル/[SF] [ファンタジー] [アドベンチャー]
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スター・ウォーズに見る黒澤明3: 『ジェダイの復讐』の終りはあれでいいの?

(前回「『帝国の逆襲』の沼地の意味」から読む)

スター・ウォーズ エピソードVI/ジェダイの帰還 スチールブック仕様 [Blu-ray]■銀河大戦が森の村祭で終り!?

 シリーズ化できるかどうか判らない中でつくった一作目『スター・ウォーズ』(エピソード4『新たなる希望』)が、単体の映画としてはもっとも面白くて完成度が高いと私は思う。だが、シリーズ中で一番好きな作品はどれかと問われれば、エピソード6『スター・ウォーズ/ジェダイの復讐』を挙げたい(DVD-BOXの発売以降、『Return of the Jedi』の邦題は『ジェダイの帰還』に改められているが、当ブログでは初公開時の題名にならって『ジェダイの復讐』と表記する)。

 なにしろここには私が好きなSFの要素がたっぷり入っているのだ。惑星タトゥイーンの砂漠をセール・バージが飛ぶ様は、飛行艇が飛び交うE・R・バローズの火星シリーズそのものだし、森の星エンドアの巨木の世界は同じくE・R・バローズの金星シリーズを彷彿とさせる。
 もちろん『フラッシュ・ゴードン』ファンのジョージ・ルーカスのことだから、巨木の世界は『フラッシュ・ゴードン』のアーボリアにならったものだろう(ついでにいえば、『帝国の逆襲』のクラウド・シティは『フラッシュ・ゴードン』の空中都市、氷の惑星ホスは同じく『フラッシュ・ゴードン』のフリージアであろう)。
 しかし、『フラッシュ・ゴードン』の作者アレックス・レイモンドはE・R・バローズの作品をなぞっており、そこからルーカスは影響を受けたのだから、ルーカスの作るものがバローズファンの私の好みに合うのはとうぜんだ。
 その上『ジェダイの復讐』は、ルークが主人公のオリジナル三部作の完結編だけあって、派手な宇宙戦にもこと欠かない。E・E・スミスやエドモンド・ハミルトンのスペースオペラが好きな私には、これまた嬉しい内容だ。

 宇宙軍大元帥こと野田昌宏氏も『ジェダイの復讐』がよほど気に入ったのだろう、月刊スターログの誌上座談会だったと思うが、それはもう大はしゃぎで絶賛していた。
 ところが、だ。座談会の席上、別の出席者から「トランターが出ないのはおかしい」と文句を付けられてしまう。トランターとはアイザック・アシモフのSF小説ファウンデーションシリーズ(銀河帝国興亡史)に登場する銀河帝国の首都のことで、SFファンには「銀河帝国の首都」を指す普通名詞として通じるくらいよく知られたものだ。さすがの野田大元帥も「なぜトランターを出さないのか」という指摘に答えられず、『ジェダイの復讐』は「面白いけど玉に瑕」みたいな結論で座談会が終っていた記憶がある。

 たしかにそれは疑問だった。
 というより、スター・ウォーズ・シリーズの構成にはおかしいところがあり、『ジェダイの復讐』にはそのおかしさが端的な形で噴出していた。
 『ジェダイの復讐』はタトゥイーンの荒地で幕を開ける。いつも三つの星を舞台にして観客を飽きさせないこのシリーズは、『ジェダイの復讐』でも先例にならった。
 
『新たなる希望』砂漠の惑星タトゥイーンデス・スター秘密基地ヤヴィン
『帝国の逆襲』氷の惑星ホス沼の惑星ダゴバ雲の惑星ベスピンのクラウド・シティ
『ジェダイの復讐』砂漠の惑星タトゥイーン森の月エンドア第2デス・スター

 『新たなる希望』が辺境のタトゥイーンではじまるのは判る。映画の舞台を生まれ故郷から戦いの中心であるデス・スターやヤヴィンに移していくことで、青年ルークの成長を演出したのだ。
 『帝国の逆襲』では登場人物の気持ちの揺れを表すように、いろんな星をふらふら巡った。極寒のホス、泥沼のダゴバ、形の定かでないべスピンと、どの星も登場人物の心情と立場を表現する上で効果的に配置されていた。

 だから、完結編となる『ジェダイの復讐』では首都惑星コルサントをはじめ帝国の中心部を舞台にして、物語を華々しく締めくくって欲しかった。銀河文明の粋を極めた映像を見せて欲しかった。いつまでも辺境を舞台にしていては帝国に決定的なダメージを与えられないだろうし、物語としても不自然だ。
 観客の多くがそう思いながら『ジェダイの復讐』に臨んだはずだ。
 ところが、あろうことか舞台は物語の起点である辺境の地タトゥイーンに戻ってしまう。そしてタトゥイーンよりもっと辺鄙な、銀河文明から隔絶された密林のエンドアに突き進み、ここで大団円を迎えてしまう。

スター・ウォーズ エピソードVI/ジェダイの帰還 スチールブック仕様 [Blu-ray] あれ? 帝国の首都は、中心部はどうなってるの? と疑問に思った人も多いはずだ。1997年の特別篇以降はほんの一瞬首都の様子が挿入されたが、本来オリジナル三部作にコルサントはまったく出ていなかった。

 これではまるで、富と名声を夢見てテキサスを出たのにニューヨークに行かなかった『真夜中のカーボーイ』、歌手になりたくてアイオワを出たのにロサンゼルスに行かなかった『バーレスク』だ。『スター・ウォーズ』は青春映画だと先に述べたが、あんなに出たがっていた故郷に舞い戻り、都会で夢に挑戦しないなんて、ちっともハリウッドの青春映画らしくない。
 銀河帝国と反乱同盟軍との銀河大戦を描いた一大叙事詩としても、その掉尾を飾るのがクマの縫いぐるみのような連中の村祭でいいのだろうか。
 座談会の出席者が野田氏のはしゃぎっぷりに水を差したのも、そう感じたからだろう。私も当時、辺境だけで終ることに首をひねった。

 もっといえば、スター・ウォーズ・シリーズはバランスがおかしくて、タトゥイーンを取り上げすぎている。タトゥイーンは『新たなる希望』、『ジェダイの復讐』、そしてエピソード1『ファントム・メナス』の主要な舞台であり、エピソード2『クローンの攻撃』でも重要な位置づけで登場する。エピソード3『シスの復讐』のシーンも印象的だ。要は、全六部作のうち『帝国の逆襲』を除くすべてで重要な舞台になっている。
 いくら主人公の故郷でも、銀河大戦の行く末に(そしてクローン戦争にも)関係のなさそうな辺境の星がなぜ星間戦争の物語"スター・ウォーズ"でこれほどクローズアップされるのか。


■ルークと他のSFヒーローとの違い

 もちろん、こうなったのはジョージ・ルーカスに構成力がないからではない。物語作りが下手なのでもない。
 設問の立て方が間違っているのだ。
 「首都が出ないのはおかしい。」誌上座談会で話題になったこの疑問には、こう切り返すべきだった。「首都が重要なのだろうか?」

 ここで、ルーク・スカイウォーカーの出自の特徴を思い返してみたい。
 父がジェダイの騎士だったとか、強力なフォースの持ち主だとか、そんなことはどうでもいい。レンズマンシリーズのキムボール・キニスンも、デューンシリーズのポール・アトレイデスも、スター・ウォーズ・シリーズに影響を与えたといわれるSFのヒーローはたいていルークと同じような特徴を持っている。

 ルーク・スカイウォーカーが際立っているのは、彼が農夫だったことだ。物語の都合上、ルークは機械いじりが得意で優秀なパイロットということになっているが、彼は家の農業を手伝って暮らしていたのだ。
 農夫のSFヒーローとは珍しい。キムボール・キニスンは(おそらくレンズマン一家の出身で)レンズマン養成校の首席卒業生だし、ポール・アトレイデスは大公家の世継ぎだった。火星シリーズのジョン・カーターは軍人で、金星シリーズのカースン・ネイピアは大富豪だ。冴えないサラリーマンが実は……という作品もあるものの、SFは科学技術の発展を背景としたジャンルだから、田舎の農家の青年を主人公に立てる発想はあまりなかったのだと思う。

 では、ジョージ・ルーカスはどこから農夫をヒーローにする着想を得たのか。
 先例があるのだ。農村から旅立って、激しい戦いの末に農村で大団円を迎える物語が。史上最高の映画を選べば必ず上位に入る名作中の名作、黒澤明監督の『七人の侍』である。


■三部作全体で一本の映画をなぞったルーカス

七人の侍 クライテリオン版 Blu-ray 北米版 武者修行中の武士はどうやって食べていたのだろう。そんな疑問から文献を調べ、武士が農村の警護のようなことをして食べさせてもらう例があることを知った黒澤明監督と脚本家陣が、トルストイの『戦争と平和』を根底に、ファジェーエフの『壊滅』のエピソードを織り込んで構想したのが『七人の侍』だ。その素晴らしさはどれほど言葉を尽くしても語り足りない。1954年の公開から半世紀以上を経ても、この作品を超えるアクション映画があろうとは思えない。

 話は田舎の農村からはじまる。凶暴な野武士集団が略奪に来ると知った村人たちは、侍を雇い、村を守ってもらおうとする。町に出て侍を探すが、遠い農村まで行って野武士と戦う者はいない。ようやく集まったのは、わずか七人。農村にやってきた七人の侍と農民たちは、力を合わせて野武士集団との戦いに臨む。

 主人公はもちろん七人の侍たちだ。いずれも個性的で、映画を観たあとは全員のファンになってしまう。私が一番好きなのは志村喬さんが演じたリーダー格の島田勘兵衛だが、あえて主人公を一人に特定するなら三船敏郎さん演じる菊千代だろう。クレジット上の扱いも、三船敏郎さんが一番だ。
 そしてスター・ウォーズ・シリーズとの関連で注目すべきは、菊千代が侍ではない点だ。『七人の侍』という題に反するようだが、農民出身の菊千代は侍に憧れて侍になりたくて仕方がない男なのだ。侍に交じって一緒に戦うことが嬉しい彼は、勘兵衛の指示の下で大活躍する。
 この位置づけは、農家の手伝いよりも戦闘機のパイロットになりたがっていたルークと同じだ。そしてルークはオビ=ワン・ケノービの指導によって、戦闘機乗りどころか伝説のジェダイとして活躍する。

 『七人の侍』は、決して侍だけが活躍する物語ではない。他からやってきた腕っこきの侍たちの協力を得つつ、武器や罠を工夫して重装備の野武士軍団と戦うのは地元の農民だ。百戦錬磨の侍たちに比べれば、農民の戦いぶりは素朴であり、滑稽ですらある。けれども彼らの必死さこそが最後には野武士を撃退し、勝利をもたらすのだ。
 このシチュエーションは、そっくりそのままハン・ソロやレイアたち反乱同盟軍の兵士たちと、エンドアの原住民イウォーク族に投影されている。第2デス・スターを破壊するには強力なシールドを止めねばならないし、シールドを止めるにはエンドアのシールド発生機を破壊しなければならない。そしてエンドアの帝国軍兵士に勝てたのはハン・ソロやレイアだけの力ではなく、帝国軍が未開の原住民として歯牙にもかけなかったイウォーク族の奮闘があったからだ。帝国に勝ったのはイウォークなのだ。

 『七人の侍』の野武士集団も、農民なんて略奪し放題だと思っていた。まさか彼らが歯向かうとは、侍を連れてきてまで自分たちを負かすとは思いもしなかった。民衆を蔑み、己の力を過信する者は、民衆に打ち負かされるのだ。
 しょせんは切った張ったばかりの侍と違い、戦いが終れば農民たちは田畑に戻る。彼らには戦いよりも大切なことがあるのだ。総出で田植えにいそしむ村人たちを前に、生き残った侍は「勝ったのはあの百姓たちだ、わしたちではない」とつぶやく。ここには、大地に根差して生きていく民衆への畏敬の念がある。
 『七人の侍』のこの強烈なメッセージを、ジョージ・ルーカスは三部作の最後で見事に再現した。死したジェダイたちに見守られて祭ばやしを奏でるイウォークたちは、農村を見守るように建てられた墓の前で田植え唄をうたいながら田んぼに入る『七人の侍』の村人たちに他ならない。

スター・ウォーズ・クロニクル 大型本 このアイデアは『ジェダイの復讐』を作る段になって思いついたものではない。『スター・ウォーズ・クロニクル』からイウォークのコンセプトについての解説を抜粋しよう。[*]
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原始的なパワーが近代テクノロジーを打ち負かすという図式は、ルーカスのいわば根本理念とでも言うべきものであった。『ジェダイの復讐』を構成する基本プロットの一つは、すでに1作目の企画当初に検討されていたものである。1作目の原案では、ルークはチューバッカの星でウーキーの部族長と決闘し、相手に勝って種族の信頼と支持を勝ち取る。ルークはウーキー族に宇宙戦闘機の操縦法を伝授し、一斉に帝国の要塞に総攻撃をかけることになっていた。
ウーキー族はチューバッカに代表される知的な種族に昇格してしまったため、この基本プロットは手直しされ、イウォークという未開種族の新設定と共に『ジェダイの復讐』で復活を遂げたのである。
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 「部族長と決闘し、相手に勝って種族の信頼と支持を勝ち取る」というくだりは火星シリーズや『フラッシュ・ゴードン』にも見られるお馴染みのパターンだが、これらの作品がどちらかというと高度なテクノロジーを持っていながら分裂している勢力を糾合して帝国に立ち向かう(=反乱同盟軍)のに対して、「操縦法を伝授し、…総攻撃をかける」のは七人の侍が農民に戦い方を教える展開に近い。

 『ジェダイの復讐』に――それどころかオリジナル三部作全体を通して銀河帝国の首都が出てこない理由はもうお判りだろう。スター・ウォーズ・シリーズのオリジナル三部作のベースには、黒澤映画『七人の侍』があるのだ。『七人の侍』の舞台は辺境に終始し、都は出てこない。戦いの場は農村とその周辺だけだ。戦いに勝った侍たちは都に凱旋したりもしない。農民の力強さを描くのに都は関係ないのだ。
 だから、オリジナル三部作も最後まで銀河の中心部は描かなかったし、ラストは村祭でなければならなかった。『七人の侍』という偉大な映画の中に『隠し砦の三悪人』や『姿三四郎』を包含し、みずからの手で黒澤映画の集大成を作り上げる。それがスター・ウォーズ・シリーズだったのだ。


■『スター・ウォーズ』を構想したのはベトナム戦争中だった

 ここにはジョージ・ルーカスが見てきた現実の世界も影響している。
 日本や米国の戦争観には似通ったところがある。対戦国の首都を陥落させたり元首を降伏させれば戦争は終ると考えがちなのだ。大日本帝国は中華民国の首都南京を陥落させれば日中戦争が終ると考えたし、米国はイラクの首都バグダードを占拠し現地政権を倒せばイラク戦争は終ると考えた。ところがそう考える国ばかりではない。南京が陥落しても中華民国の蒋介石政権は首都を武漢や重慶に移して戦争を続けたし、バグダードを占拠してもフセイン大統領を捕まえてもイラクでの戦闘は収まらなかった。

 60年代から70年代にかけて泥沼化したベトナム戦争も同様だ。世界最強の軍事大国アメリカが長年にわたり最新鋭の装備と軍隊を投入したにもかかわらず、ジャングルでゲリラ戦を展開するベトナム人たちに勝利することができなかった。エピソード1『ファントム・メナス』のDVDに収録された音声解説で、ジョージ・ルーカスは述懐している。
 「ベトナム戦争中に育ったので、発展途上の社会が先進社会に立ち向かう様子が印象に残っている。大学生の頃はそういう時代だった。人間の強い信念と精神力は優勢な軍隊に打ち勝つ力がある。人間としてとても感動するよ。一連の作品の中での重要なテーマの一つでもある。」
 『ジェダイの復讐』の音声解説でもルーカスは同様のことを繰り返している。

 ベトナム戦争では米国の首都ワシントンも商都ニューヨークも戦場にはならなかった。戦闘が行われたのは米国から遠く離れたジャングルだ。にもかかわらず超大国アメリカは敗れた。それがルーカスの知る戦争だった。
 この現実と『七人の侍』を前にしたとき、三部作がエンドアの森で締めくくられるのは必然だろう。


 加えて、舌を巻くのがジョージ・ルーカスの原住民の描き方の巧さだ。
 『七人の侍』は3時間27分の大作だ。映画は農村ではじまり、農民の苦悩や決断、麦の刈入れや侍との交流を描いて、農民たちの存在を観客に感じさせた。
 しかしイウォーク族は前二作に登場しておらず、あまりに唐突に出現した。その彼らがクライマックスの戦いで主役になるのを観客は受け入れてくれるだろうか。作り手なら誰しも案じるところだろう。

 そこでルーカスが採用したのが、「可愛い」という要素だ。縫いぐるみのクマのようなイウォークの愛くるしさったらない。イウォークの暮らしぶりとか苦悩とか理念とかは知らなくても、観客はイウォークに親しみを覚え、イウォークを応援するだろう。イウォークを差し置いて帝国軍に肩入れするはずがない。イウォークを可愛らしくしたことにより、ルーカスは黒澤明が3時間27分かけて観客に感じさせたことの大半を省略し、2時間13分の『ジェダイの復讐』にまとめ上げた。凄いぞルーカス。


スター・ウォーズ エピソードVI/ジェダイの帰還 Soundtrack■残念な終り方

 『ジェダイの復讐』のラストはシリーズ随一の名シーンだと思う。
 イウォーク族の原始的なパワーと村の活気を表現した名曲「イウォーク・セレブレイション」はリズミカルでノリがよく、ラストを締めくくるに相応しい。『七人の侍』のために早坂文雄が作曲した田植え唄の「ドッコイコラコラ、サーッサッ」という土俗的で力強いはやしことばに対抗できる曲を作るため、ジョン・ウィリアムズは苦労したことだろう。
 この曲をバックに、反乱同盟軍もイウォーク族も、先進国も発展途上国も、侍も農民も関係なく、祭を極限まで盛り上げたところで軽快なエンドタイトルに切り替える。この編集は実に素晴らしかった。

 ところが1997年、オリジナル三部作は化粧直しの上で特別篇として公開された。映像、音響の質が向上し、技術的予算的な制約で実現を見送られていたシーンが新たに加えられた。
 それで良くなった点も多々あるのだが、残念なのは『ジェダイの復讐』の終り方だ。

 ここまで述べたように、三部作の結末では、
 ・原住民の力強い村祭で締めくくる
 ・首都をはじめとする帝国の様子は敢えて見せない
ということが重要だ。ここを踏み外したら『七人の侍』にならないし、ルーカスの理念にも反するだろう

 ところが『ジェダイの復讐』の特別篇では、「トランターが出ないのはおかしい」という声に応えるように、帝国の首都をはじめ他の星々で皇帝の死と帝国の崩壊を祝う様子が映し出される。映像に合わせて音楽も、宇宙全体の祝祭のように包容力のある曲「勝利のセレブレーション」に替えられてしまった。DVDやBlu-ray Disc、テレビ放映等は改変後のバージョンを基にしている。

 1983年に『ジェダイの復讐』が初公開された頃は、ルーカスの胸にシリーズを全九作とする気持ちが――オリジナル三部作のあとにいずれは後日譚三部作をつくる気持ちがあったのだろう。エンドア以外の帝国の様子はそこで描けばよい、という考えもあったはずだ。だが、特別篇を公開した1997年には、その気持ちはなくなっていた。だから銀河系をあげての祝祭を描いて、長い長いシリーズの終幕であることを印象づけたに違いない。

 これはこれで一つの終り方だと思うけれど、当初の『ジェダイの復讐』とはまるで印象が異なっている。
 これではイウォーク族の祭ではない。「ドッコイコラコラ、サーッサッ」という田植え唄の力強さが失われている。
 『七人の侍』らしさを薄めてしまったジョージ・ルーカスは、変節したのだろうか。

 そうではない。
 このときすでにルーカスには、新たなプランがあったのだ。

(次回「『ファントム・メナス』の主人公は誰?」につづく)


[*] 『スター・ウォーズ・クロニクル』 (1995) 竹書房

スター・ウォーズ エピソードVI/ジェダイの帰還 スチールブック仕様 [Blu-ray]スター・ウォーズ/ジェダイの復讐』 (DVD-BOX発売時に『スター・ウォーズ/ジェダイの帰還』に改題)  [さ行]
監督/リチャード・マーカンド  制作総指揮・原案/ジョージ・ルーカス
脚本/ジョージ・ルーカス、ローレンス・カスダン
出演/マーク・ハミル キャリー・フィッシャー ハリソン・フォード ビリー・ディー・ウィリアムズ アレック・ギネス アンソニー・ダニエルズ ケニー・ベイカー ピーター・メイヒュー フランク・オズ デヴィッド・プラウズ ジェームズ・アール・ジョーンズ セバスチャン・ショウ イアン・マクディアミッド
日本公開/1983年7月2日
ジャンル/[SF] [ファンタジー] [アドベンチャー]
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【genre : 映画

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